1、
ぷつり、と。
変に粘質な、快活とは程遠い音がした。何かの千切れる音がした。
ふと穴に落ちてしまうような錯覚がして、ビクリと、足が跳ねた。
心臓の拍動をイヤに感じながら、天上の模様を眺める。
いつも通りの、博麗神社の、自分の部屋のそれだった。
寝るたびに見つめるその模様には、何一つと違和感の紛れ込む余地が無い。
障子越しに暖かな光が差し込む。
あまりに透き通った光のせいで、埃の一つ一つを見てとれる。
宙を漂う微細な塵。そこに注視してしまって、一瞬だけ、生活感を忘れる。
博麗霊夢がそこにいるのか、夢の中にいるのか分からなくなる。
「…………ふあぁ」
欠伸を漏らし頭を掻いて、布団の上に胡坐を掻く。
右足には、木の綱飾りが結ばれている。
と、自分の身につけている物を他人事のよう眺めてみて、ちょっとおかしくなってしまう。
長い鉋屑を結って、そこに色糸を編み込んだ物だ。
なんでも早苗が外の世界にいた時は、こういう飾りを作って遊んだりしていたらしい。
ぷろみすりんぐ? だとか、みさんが? だとか言うみたいだ。
早苗に作って貰って以来、ずっと身につけている。
というか、結んであるから、取れないのだ。
守矢神社は先日まで、以前の強風の際に手水舎の屋根が飛ばされてしまい、その補修をしていた。
――鬼達が大工仕事をした後に残った大量の鉋屑をなんの気なしに結っていたら、それで早苗が作ってくれたのだ。
ただの手慰みがこう言う風に形になるのも、なんだか少し恥ずかしい。
足首を掻いて、それがしっかりと結ばれている事を確認して、寝室を後にした。
唯春の夜の夢の如し。
別段深い意味は無い。
しかしとにかく、春は夜に限らず、昼にも夢を見てしまう。
白昼夢。
そう言えば聞こえはいいけど、要するに眠い。
どうしてこれほど眠いのだろう。
縁側から境内を眺めると、緑の深くなった桜の木ばかりだ。
絢爛な花々が葉桜に移ろい、その終いがどうしてこれほど単調なのだろう。
桜の花ほどの儚さも、葉桜ほどの刹那性もなく、夏への身支度を整えているだけで――
春の終わりに眠くなるのは、刺激があまりに少ないからだと思う。
けれども、わたしがこんな身勝手を言っている間にも、新芽は土を持ち上げ、弱々しい双葉を露わにする。
そこに健気でささやかな力強さを見るに、つまりわたしが詰まらない人間なだけなのだ。
大方の家事を終えてしまうと、とりわけする事も無い。
普段なら来客があるようなものだけど、わたしの友人ともなれば、わたしと大差無い感性を持っているんだろう。
魔理沙も紫もどうせ寝ている。
早苗が惰眠をむさぼっている様子は想像出来ないけれど、逆に、いそいそと働き回っている様子は想像に難しくない。
ため息を吐いて、ばたりと横に倒れる。
あらかじめ座布団をみっちりと重ねておいたので痛くは無い。
下手をすれば、布団よりも感触が柔らかでイヤになる。
なんとなく。
視界の緑が網膜にこびり付いていたから。
目が覚めたら、花屋にでも行こうかな。
2、
頭が痛い。
春の陽気に逆らうつもりは毛頭無いのに、けれど眠気が到来しない。
『さなえー、少し休んだら?』
神奈子さまにそう促されるまま、昼間っから私は部屋でごろごろとしていた。
依然、眠くならない。昼間ならさておき、それは夜もだった。
当然、夢を見る事も久しい。
しかしふと、一日の終始を夢うつつで過ごしているような錯覚に陥る。
穏やかと不快の中間に位置するような室温。
空けた筈の窓から、風が舞い込まない。
停滞した熱気と、濁った思考を入れ替えるように、窓際に近寄る。
身体を乗り出して外を眺めると、真新しくなった手水舎が見えた。
日差しを浴びて、真新しい白さの残る屋根が眩しい。
手水舎というと、私は真っ先に博麗神社のそれを思い浮かべる。
そして春を思い浮かべる。
春とも、夏とも言えない時期。春を過去の物にしてしまうのが惜しい、今はそんな季節だった。
せめて梅雨が来るまでは――この熱気も、春特有の胡乱な肌触りをしていると思うのだ。
話を戻し。
真新しくなった手水舎。
足に結んだ、鉋屑で結ったミサンガを指先で引っ張る。
刺しゅう糸ですら簡単に切れないのだから、これが切れるのは当分先の事だろう。
果たして、
私はミサンガが切れたからと言って願い事が叶ったという話を聞いた事が無い。
にも関わらず、
そんなジンクスは糸を編み込むよりも明らかに、皆の周知の事実だった。
なんだったんだろう、あれ。
「…………少し期待しちゃおうかな」
でも、これだけ頑丈な木の綱が切れるのなら、その時は何かが起こりそうな気がするのだ。
「ま、そんなのを待たなくても、願い事は叶っちゃうんですけどね」
誰にともなく呟いてから、私は家を発つ事にした。
3、
口には出せないけれど、時折、早苗を妹のように思う事がある。
どうして口に出せないかと言えば、それは恥ずかしいからでもあり、自分でも『どちらかと言えば逆だろう』と思うからだ。
でも姉はいらない。
そんなこんなで、最近の夢には一回りほど小さくなった早苗をあやすような状況がよくよく現れる。
というか、その夢を見たいが為に惰眠にかぶりついているようなものである。
――今も膝の上に早苗の頭を乗せて、その寝顔をじーっと見つめている。
――髪を撫でる。摩擦など微塵も感じさせない軽やかで艶やかな肌触り。
――頬を突く。指先が吸い込まれる程の柔らかさ。そして少し遅れて張りのある弾力に押し戻される。
――僅か肌蹴た胸元に手をのばしかけて……止まる。
――代わりに、隙間から、そおっと覗き込んでみる。
――サラシじゃない、下着。たわんだその緩やかな谷間の、更に横。少しだけ浮いた下着の隙間から、綺麗な桜色をした先っぽまで見えそうにな、
……って、
……。
…………。
「――うわっ!」
途端、あのイヤな『ぷつり』という響きを耳にして、飛び起きた。
……いや、飛び起きるほどの勢いはあったけれど、実際には飛び起きる事が出来なかった。
起きたら起きたで、目の前に早苗の胸が迫っていたから――!
ワケが分からない。
手を伸ばして、足首に結んだ木の綱を確かめる。
良かった、切れていない……。
「……チッ。夢の中はもっと慎ましやかなのに」
なんの役にも立たない悪態を吐いてから、今、自分の頭が早苗の膝の上にあったと気が付く。
膝枕に赤面するほどの初々しさを無くしてしまった自分が憎い。
「……寝てるの?」
うつらうつらと首を揺らす早苗に、言葉を投げかける。答える事は無く、けれど早苗が頷くように首を揺らした。
わたしの二の腕に添えられた早苗の掌に、自分の手を重ねる。
手の甲の感触は、少し固かった。
手を重ねたまま、視界をなぞる。
相変わらずの面白みのなさに落胆して、目を閉じた。
視覚が閉ざされて、嗅覚が、聴覚が敏感になる。
どこからともなく流れてくる、花の香り。草の香り。土の香り。
どこからともなく揺れてくる、鳥の声、虫の声、葉の擦れる音。
ああ。
彩りを欠いた晩春は、こんな風になるんだろう――、
うつろに思う。
と。
ふと。
頬に水滴が落ちたのを感じて、目を見開く。
頬を撫でる。
濡れていた。
「……って、よだれ、じゃん」
早苗の口元から糸が引いているのを目にして、頬が僅かに引きつった。
けれど、大して取り乱さないあたり、わたしもわたしだと思った。
……一人だと、よくやるし。まくら代わりの座布団に小さな地図を書くのは得意なのだ。
そう思うと気になって、早苗の膝元と、太もも。
そして、自分の口元をなぞってみる。
「良かった、大丈夫か」
良かった良か……った?
――?
――!
「って! 早苗のよだれをなぞった指先で自分の口元をなぞってるって!?」
今度こそ飛び起きる。早苗がひと際大きく、がくりと船を漕いだ。
「うわあ! 間接キスには違いないけどちょっとエロい類の間接キスだうわあ! トキメキよりも卑猥な感じのする間接キッスだ!!」
うわあ!
「ん……んぁ。ふあーあ。……あ、霊夢さん、こんにちは」
「お、おおお、おっはー!」
「ご、ごめんなさい。寝ていたみたいですね」
「い、いやいやいや、良いってことよぉー!」
「――あ」
早苗が口元を拭って、頬を赤らめる。
「もしかして、よだれ……」
早苗が顔を伏せて、上目遣いにこちらを窺っている。
火でも噴き出しそうなほどに、耳まで真っ赤だった。
返事に困った。
その早苗の顔があまりに可愛かったものだからか、春の終わりの熱気が鬱陶しくわたしにつきまとったからか。
わたしの頭の中はショートしていたらしい。
目尻と頬が緩む。
口元が軽くなる。
そしてわたしは、
「美味でした」
などと口にしていた。
緩んでいたのは、頭の螺子だろう。
4、
唾液の味に、美味いも不味いもあるだろうか。
頭が一度に冷めて、ほんの少し、口元が引きつる。
自分がよだれを垂らしておいてこう言うのも変な気がしたけど、被害者は私の方な気がした。
さておき。
霊夢さんの提案で、私たちは里の外れにある花屋に向かう事にした。
気まずさとは違ったゴロゴロとした異物感を抱えたま、部屋の中に閉じこもっていてもしょうがない。
……それに、歩いていれば会話が無くても間が持つだろう。
口を利きたくないとか、そういうつもりがあるわけじゃないけど、自然と言葉が出てこなかった。
梅雨の一歩手前。
なぜ夏の前に、わざわざ熱くなる必要があるのだろう。
風が吹かなければ初夏と大して感触の変わらない外気と日差しを浴びながら、私たちは人通りもまばら(というか皆無)の道を歩いていた。
踏み固められた土には蟻を、生い茂った草花に蜂をよく見かける。
心なしか、皆疲れているようだった。忙しいのかも。
ふと、欠伸が口から零れた。
霊夢さんに触れたら、途端に眠くなってしまった。
彼女の睡眠欲が移ったのだろうか。
これからは、眠れなかったら彼女と一緒に寝れば良いのかもしれない。
……余計に眠れない気もした。
頭痛も消えてしまって、残ったのは気だるい眠気と、はっきりしない寝ぼけがちな思考。
暫く歩いていると、ふわふわと、シャボン玉が漂ってきた。
懐かしい気持ちが胸にあふれて、口元から興奮のため息になって漏れ出る。
途端――霊夢さんがサッ、と叩き落してしまって少し切ない気分になった。
出所を辿ってみる。小さな佇まいの花屋が、ポツリと建っていた。
店先で花に鋏を入れながら、屋根まで飛ぼうとするシャボン玉を剣呑な目つきで突き割っているのは、風見幽香だ。
麦わら帽子を被っている。麦わら帽子自体は夏を連想させるのに、こうして見ると涼しげな印象を伴うから不思議だ。
風見幽香――、一見怖いけれど、ゆうかりんと呼ぶと地味に喜ぶ気の良いお姉さん(女王様)。
よく分からないけれど、私は、
『髪の毛が光合成しそう』
と、目をつけられているらしい。
で。
傍らでシャボン玉を飛ばしているショートパンツのショタっ子……じゃなくて、触角っ子は 確かリグルと言ったと思う。
ゆうかりんと家族同様の生活をしていると風の噂、もとい文さんから聞いた覚えがある。
リグルくんがぴょんぴょん跳ねながら、幽香さんの魔の手をかいくぐるようにシャボン玉を吹いている。
幽香さんはと言えば、片手で店先の花の手入れをしながら、ノールックで的確にシャボン玉を突き割っていた。
「何をやってるんですか……?」
恐る恐る尋ねると、幽香さんとリグルくんの二人が動きを止めて、こちらを振り向いた。
「あら、お客さん? 冷やかしだけならごめんよ」
「さっき、冷やかしでもいいから誰か来てくれないかしら、って言ってたくせに……」
リグルくんがボソリと呟く。
「リグル、何か言った?」
「いえ何も」
「そうよね。気のせいよね」
妙に威圧感のある物言いだった。
「懐かしいわねー。って言っても子供の頃あんまりやった記憶ないけど。シャボン玉」
霊夢さんがリグルくんの手元を見つめながら、感慨深そうに漏らす。
私もそんなにやった記憶は無いけれど、でもシャボン玉というと童心、と連想してしまうのはなんでだろう。
「そうねえ……。ちょっと、リグル。貸して。
――――こうやって、
シャボン玉を飛ばすでしょ?」
幽香さんはストロー代わりの植物の茎を奪い取ると、それを一吹きする。
上向きに飛びだしたシャボン玉は、風に乗ってすぐに手の届かない所へ飛んで行ってしまった。
その最後尾、勢いの微弱な小さなシャボン玉を、幽香さんが優しげに叩き落とした。
「そうすると、シャボン玉って割りたくなるじゃない?」
霊夢さんが『うんうん』と、しつこいくらい頷いていた。
「でも案外、手の届かないところに行っちゃうのよね。子供なら、特にそうじゃないかしら。で、そのシャボン玉って、何処までいくんだろうか、って考えたの。逆に言うと、何処から来たんだろう、って」
――シャボン玉飛んだ、と、唄を思い出した。
……どこまで行くんだろう。
屋根まで飛んで、壊れて消えちゃう?
それとも、産まれてすぐに、壊れて消えちゃう――?
何処から、と言えば、
手元である筈なのに。
「――ま、なんでシャボン玉遊びなんてしていたかって言うと。昔飛ばしたシャボン玉を、今なら割ってみる事が出来るんじゃないかと思って」
「シャボン玉なんて儚い物に、子供遊びに対しても存分に嗜虐的な思考を絡めるあたり、アンタって筋金入りよね……」
「割りたくなる、って頷いてた貴女に言われたくないわよ。っていうかそういうのじゃないの。まったく分かってないわねえ。これだから情緒の分からないガキんちょは……」
『昔飛ばしたシャボン玉を、今目の前に漂うシャボン玉に照らし合わせて。
そこに映る景色の移ろいが違う事を確認して、
――けれど飛ばし続けていたら、いつか『あの時』の景色がシャボン玉の表面に映し出されるかもしれないから』
少しロマンチックな、彼女なりの懐古の術だったのかもしれない。
……ノ―ルックで突いてたのに、っていうのは指摘しない方が良い?
けれど私も、久しぶりにシャボン玉を飛ばしてみたくなった。
「こんな話しをしていたら、私もシャボン玉を吹きたくなってしまいました。ストローは、一本しかないんですか?」
何の気なしに、そう尋ねた。
すると。
なぜか幽香さんが、みるみるうちに頬を赤くする。
手元のストローと、リグルくんの顔とを、交互に見ている。
「ストローっていうか、これはタンポポの茎だから、そこらへんのを使えば代わりになるよ」
「へー。花が終わってからも意外と役立つのね。幽香がリグルのわざわざ使うから、てっきり何か特別なものなのかと思った」
霊夢さんが感心したように言うのを聞いて、リグルくんも目を見開いた。
ふるふると口元が震えている。
……気づいて無かったの?
「わ、わわ……間接キ」
「リグル?」
「は、はひ!?」
「……最後まで言ったら、二度と光る事が出来ないような尻にするわよ?」
麦わら帽子が日陰を作り、幽香さんの切れ長に微笑んだ目元をおぞおぞしく演出する。
ストロー代わりの茎を握りつぶした拳が、ぷるぷると震えてている。
けれど顔は僅かに赤らんでいて、良く分からない迫力と上ずった口上でリグルくんをねじ伏せるゆうかりんなのだった。
『二度と光る事が出来ない尻』ってどんななんだろう……底知れぬ恐怖を感じた。
「なんだ、普通の間接キスじゃない」
「普通のって何よ」
「い、いや……こっちにも色々あったんです」
幽香さんの一睨みで、霊夢さんは縮こまってしまった。
5、
建物の内部はハッキリって狭い。
けれどその店内に花が詰め込まれていて……言ってみれば、建物自体が花のバスケットのようにも思える。
通路という通路も無く、すれ違うのにも一苦労という様相だ。
雑多だけれど、決して嫌な感じはしない。
自然、早苗と肩がぶつかりあう位の距離で、店内を見回していた。
不思議なのが、色んな花の香りが混ざり合って、その一つ一つは判然としないのに、早苗の髪の毛の香りだけはよく分かってしまう事。
まぁ要するに、それだけ嗅ぎ慣れた臭い、って事か。
「薔薇なんてまさしく、見た目だけじゃなくて香りを楽しむものだと思うのよね――」
幽香と早苗の会話を流し聞きながら、その薔薇の香りも有耶無耶に、わたしは天井からつるされたバスケットに入っている小さな花を覗き込んでいた。
濃いピンク色と、深紅色の花。
一つ一つを丁寧に切り込んだような花弁をしている。
自然にこんな形になるだなんて、不思議よね。
「セキチクだね、それは。撫子とかの仲間だよ」
わたしが興味を引かれているのに気がついてか、背後からリグルの声がした。
「ふーん。あんたも伊達に幽香の傍にいないわね」
「あ、でも神経質な人には贈り物にしないほうが良いかもね」
「なにそれ」
「花言葉が結構アレだから」
――『貴方が嫌い』、なんだと。
「へえ、花からしたら、いい迷惑よねえ……」
もちろん、色ごとで違う言葉が当てられていたりと、俗説的な花言葉は幾らでもあるみたいだけど。
結局は言い出したもん勝ち、なのかもしれないわね。
「でも『花言葉なんかを気にするよりも、渡す時に自分で言葉を添えた方がよっぽど良い』と思うよ」
「リグルの癖に良い事言うじゃない。っていうか幽香が言ってたんでしょ?」
「…………はい」
「ま、幽香の癖に良い事言うじゃない、って感じかな」
「――ちょっと気になる言い方をするわね」
ニコニコ顔の幽香が、こちらを睨んでいた。思わず背筋が粟立つ。
微笑みながら睨むなんて、どうすれば出来るのか分からない……。
「どうせ言葉は消えちゃうんだから、そうやって残しておけば良いのよ」
花を見れば、思い出すでしょ?
幽香はそう付け加えた。
「かもねー」
言いながら、少し居心地が悪くなる。
幽香が時折、凄く大人に見えてしまう。……実際わたしと比べたら、そうなんだけど。
上を見上げたまま、足を踏み出した。
と。
何かが引っかかった。
「――きゃっ!!」
同時に、血の気が引く――。
足が取られて、けれど上体は進行方向に動こうとする。
スッと心臓が取り残されるような感覚の後に、三半規管への窺いもたてず、身体が急に傾いた。
つまり。
足を引っかけたまま、わたしは前のめりに、早苗の脇をすり抜けて、幽香の足元に倒れ込んだ――。
そして。
事実、耳に聞こえたわけでは無かったけれど。
『ぷつり』
という、あのイヤな感覚が、右の足首を伝って、心臓をすり抜け、頭に届いた。
どうしてだろう。
その瞬間、わたしは思わず、泣いてしまっていた。
6、
「ちょっと――大丈夫? いや、ちょっとこっち見上げないでよ! パンツ見えちゃうでしょ!」
幽香さんが優しく(?)問いかけるのも聞こえないようで、霊夢さんは蹲った後、足を少し押さえてから、泣きそうな顔で首を振った。
「へ、平気、平気……だから」
「ほ、本当に平気ですか……? だって、その、涙」
「べ、別に泣いてないよ? は、ははは」
見るからに平気そうじゃない彼女は、頬に涙を伝わせながら、小さく言った。
そして、目元を拭ってから、足早に店を出て行ってしまった……。
「……走れる、って事は怪我なんてしていない筈だけど。変な子ね。早苗ちゃん、何か心当たりとか無いの?」
「……うーん。無いですね」
「喧嘩、なんてしてないわよね」
「してないです、ね」
よだれを巡ってちょっとだけ変な雰囲気にはなったけど……。
「ふぅん。でもまぁ、気になるわよね?」
「そう、ですね」
「ちょっとリグル、散らばってる所整理しといて」
「あ、はい」
固まっていたリグル君が、ちょこちょこと片付けを始める。
私も手伝おうとしゃがむと、幽香さんがそれを制した。
「……ごめんなさい。お店の中なのに」
「いや、別に良いわよ。足元がごちゃごちゃしてるのは事実だし。ちょっと待ってて」
そう言うと幽香さんは奥の方に行ってしまう。
すぐに戻って来た彼女の手には、色とりどりの花が添えられた小ぶりのバスケットが握られていた。
「手土産にどうぞ、っと。お代は次回でも次代でも構わないわ」
「え……?」
「べ、別に、遊びに来てくれて嬉しかったとかじゃないわよ、全然違うわ!」
「なんか……いえ、なんでもないです」
「別に貴方たちが不仲だとは思ってないけど、霊夢にプレゼントとして渡してあげれば良いんじゃない? 人様のお店で急に泣き出しちゃった記念みたいな?」
――このバスケットを見るたびにさっきの屈辱が蘇る事でしょう、ククク。
と、邪悪な笑みを浮かべて付けくわえるゆうかりん。
口と顔ではそう言いながらも、別にそういうつもりは殆ど無さそう。
……いや、五割くらいはありそうだった。
見れば、先程霊夢さんが見つめていたセキチクの花も添えられている。
その花言葉がどんな意味かよりも。
これを渡す気持ちの方が、大切……なんだろう。
7、
……なんであんなに取り乱してしまったんだろう。
ちゃぶだいに突っ伏しながら、さっきの醜態を恥じる。
掌に乗せた、千切れた木の綱を眺めながら――。
「そりゃ、これは早苗に作ってもらった、大切なものだけど」
それが千切れてしまっただけで、なんで涙まで出てしまうんだ。
自分の事が良く分からなくなりながら、けれど、あれほど丈夫そうな綱がいとも簡単に千切れてしまった事がショックだった。
これは単なる言葉遊びだけど。
鉋屑で結った木の綱は、木綱は――絆と掛けてお互いに作るモノなのだ。
顔も定かでない母さんに、そんな遊びを教えてもらった。すぐに友達が出来るように、って。
それが切れてしまうなんて……縁起が悪すぎる。
丈夫そうな綱が、というから、更に気分が沈んだ。
編み込まれた緑色の毛糸に、早苗を思った。
「うっわ、それよりもとにかく、あんなに取り乱した事自体が凄く恥ずかしい! しかもあの幽香の前で!」
顔を伏せたまま首を振る。おでこがすれて痛かった。
絶対弱みを握られた……!
「なんだよう、これなら引き籠って夢を見ていた方が良かった……」
その夢すら、事あるごとに綱の切れる妄執に邪魔されていたけれど。
切れてしまえば、その邪魔も無く眠れるかと思った。
けれど。
「……全然眠気が無い。目が冴えちゃった」
眠気ですら、唯春の夜の夢の如し、かぁ……はぁ。
「――霊夢さん! 霊夢さん!」
縁側の方から聞こえる声に、ビクリと背筋が伸びる。
返事が無い事に構いもせず、早苗は縁側廊下に上がって、障子の隙間からこちらを覗いてきた。
「…………むぅ」
「急にどうしたんですか? ゆうかりんも心配してましたよ?」
「別に、なんていうか、って、ゆうかりんって呼んでんの? なんかちょっと引っかかるんだけど」
「え、いや。たまたまですよ、たまたま。霊夢さんの事もれいむりんって呼んであげましょうか?」
「なんか宮殿とかモンスターっぽくてヤ!」
レイムリン、って片仮名にすると余計に。
早苗が軽やかにわたしの横にやってくる。手には、小さなバスケットが握られていた。
「これ、幽香さんからです」
「……このバスケットを見る度に、今日の醜態を思い出せ、って?」
「……ハハ」
……なにその乾いた笑い!? 冗談で言ったんだけど!?
「こほん。いえ、そんなんじゃありません。これには私から言葉を添えます」
「……何?」
「このバスケットに添える言葉は『霊夢さんは泣き顔も可愛い』です」
「幽香と違って悪意が無さそうなだけむっちゃ反応に困る!」
けれど。
このバスケットが、外界に比べていやに殺風景なわたしの部屋を、少し彩ってくれるようだった。
早苗がバスケットを部屋の片隅、窓際の壁に打たれている杭に引っかけた。
「それで、どうしちゃったんですか?」
隣に腰掛けて、早苗が尋ねた。
わたしは「ごめん」ボソボソと口を動かしながら、木の綱を差し出す。
すると――、
どうだろう。
早苗は「あら」と、驚いた顔をした後、満面の笑みを浮かべるのだった。
「切れちゃったんですね。どうして謝るんですか?」
「……へ?」
どうしてそんなに喜びに満ちた表情なのか分からない。
まるでわたしが、ひどい勘違いをしているかのような気分になる。
「それで、霊夢さんは何か願を掛けていたんですか?」
「願……掛け…? え、だって、早苗。木綱だよ? 切れちゃダメじゃん!」
早苗がわたしの言葉に目を丸くして、首を捻った。
何やら呟いて、から――、
「キヅナ……? キズナ……。絆、ですか」
合点がいった、という風にポンと手を打つ。
「あのですね」
と、早苗が切り出す。
どうやら、『みさんが』というものは結ぶ時に願を掛けると、切れた時にそれが叶うという、逆ジンクスがあるのだそうだ。
思わず、固まってしまった。
……そりゃ、そうだよね……普通木の綱なんて使わない、って言ってたもんね……。
「……そういうの、先に言っといてよ」
チッ、と心の中で舌打ちをする。
早苗がわたしの妹になるように、っていう願を掛けておいたのに、と。
ホッとしたというか、なんというか。
わざとらしく、ため息を吐く。
幸せが逃げるというけれど、早苗が吸い込んでくれればそれで良い。
8、
聞いてみて、納得する。
木の綱、で木綱。絆。
けれど最近は、切れてしまわないようにと繋ぎとめなくっても、と思ってしまうのだ。
願掛けなんて結局、それ以上でも以下でも無い。
絆を掛けた木の綱が切れてしまっても、『貴方が嫌いです』って花言葉(らしい)セキチクの花を添えたバスケットを渡しても、私達の仲がこじれる筈も無い。
……ちなみに私も願は掛けたけれど、ミサンガが切れなくても現実になってしまっている。
『好きな人に好きな時に会えますように』
って。
霊夢さんはこういうの、結構信じるんだろうか?
「ふふっ、霊夢さんて、やっぱり可愛らしいですよね」
「……そういう風に言われると、子供扱いされてるみたいでなんかヤ」
口を尖らせる仕草も、とってもかわいかった。
「はぁ。一安心したら、なんだか眠くなってしまいました」
彼女と同じ空気を吸っていたら、つい先日までの不眠の倦怠感も消えてしまった。
「奇遇ね。わたしは全然眠くなくなっちゃった」
「どうして奇遇なんです?」
「…………わたしが膝枕してあげられるから、よ」
その言葉までは良かったのだが、ほんの少し、いやらしい口元をしていたのは気のせいだろうか……?
かといって眠気が募るのは変わらない。
霊夢さんに寄りかかりながら、ずるずると腕を辿って――太ももに辿りつく。
頭を横たえて、その柔らかな感触を後頭部に感じながら、霊夢さんの顔を見上げた。
目が合う。
同時に笑みを零す。
「あ、早苗がよだれ垂らしても、わたしは気にしないからね」
――霊夢さんが笑いながら言った。
体温が急上昇する。
霊夢さんの笑顔から視線を逸らす。
丁度その先に、彩りのバスケットが置かれていた。
セキチクの赤を見つめて、頭が熱くなった。
あれって知らないうちに切れてる気がする。
ラムネのびい玉や金魚の風鈴といっしょに、切れたミサンガを心にしまって
ゆうかりんマジドS(ド親切)。
切れることを願って作った早苗とそれを知らずに切れないことを願った霊夢。楽しいです。
それはどうでもいいとして、いいレイサナでした。ゆうかりん名脇役