[Prologue]
ガサガサと、藪をかき分けてくる足音が聞こえる。
近づいてくる。
私は身を縮める。
どうか・・・・・・どうかこのまま気づかずに通りすぎて・・・・・・。
しかし私の祈りは届かない。
「いたぞ! さあ、捕まえた」
捕まったのは末の妹。
耳をつかんで持ち上げられて、人一倍臆病な彼女は声をあげることも出来ずにいた。
私はそのすぐ脇の茂みの下で2番目の妹と肩を寄せながら、ただただ見つかるまいと必死で。
地面に映る妹の影は震えている。
眼前に迫る死の恐怖に抗うことも出来ずにいる。
――ぽたっ
震える彼女の流した涙が雫になって地面に落ちた。
私は怖くて息も出来ない。
影が一本伸びてきて、彼女の首に手をかけた。
妹の影はほんの少しの間足をじたばたと動かした。
私にとっては何時間にも思えるほんの数秒。
彼女にとってはきっと永久にも近いほんの数秒。
やがて妹の影は動かなくなる。
足音と共に影も遠くへ行ってしまった。
後に残ったのは彼女の零した涙のあとだけ……。
大切な家族の危機に何も出来ず、ただただ震えながら身を隠すばかりだった。
ふがいなさに、情けなさに、歯噛みする。
いつか・・・・・・いつか必ず・・・・・・
頬をぬらす涙を拭いもせずに、私は心の中で唱え続けた。
***************
鼻歌を歌いながら屈伸をする。
朝の澄んだ空気の中に、唇から漏れた音が流れるように伝わっていく。
早朝の永遠亭の庭先は春の日差しを竹林にさえぎられ、初秋のようにひんやりとしている。
竹林にろ過されたさわやかな風が私のくせっ毛をさわさわ揺らす。
竹と髪の揺れる音を心地よく感じながらも、Tシャツにショートパンツではまだ少し肌寒いとも思う。
健康のために毎朝行っているジョギングでも、それで風邪でも引いたら元も子もない。
やはり部屋に戻ってジャージを出して来よう。
ジャージを上に羽織って庭に戻り、地べたに座って入念に体をほぐす。
体をうまくほぐすために深い息をゆっくり静かに吐く。
この時間の庭先は誰も来ないせいでやけに静かで、吐いたブレスの音までよく響く気がする。
長座体前屈をしていると、背後から玄関の戸を開く音がした。
「あら、イナバ。早いのね」
振り向くと館の主が竹細工の編み籠を持って出てきた。
「あ、姫様。おはようございます」
「おはよう。こんな時間にそんな格好で外に出て、ラジオ体操でもするのかしら?」
いくら健康マニアを自認している私でもそんなじじむさいことはしない。
「ジョギングですよー 」
頬を少し膨らませて心外だと抗議すると、姫様はくすくすと笑った。
「あら、それはいいわね。私も見習おうかしら 」
体が自動的に最善の状態に保たれる蓬莱人にジョギングの必要があるのかは少々疑問に思う。
いちいち口に出しはしないが。
「姫様こそ、こんな時間にそんなもの持ってどうしたんです? 」
別に朝寝坊の常習犯なわけでもないが、姫様がこんな時間に外出するのは少し珍しい。
しかも得体の知れない籠などを持っているのだから気にもなる。
「あら、気になるんならイナバも一緒に来る? 」
姫様はいたずらっぽく微笑みながら、手に持っていた籠を軽く持ち上げて見せた。
風が姫様の長い黒髪をさらさらと優しく揺らした。
私の脚と姫様の脚には長さという点でそれなりに開きがある。
並んで歩くとその差は更に鮮明になる。
その絶望的なコンパスの差にもかかわらず、相手のペースに合わせてゆっくり歩いているのは私の方だ。
私の普段の歩行速度が割と速いのもあるが、姫様も相当歩くのが遅い。
それでも、目に映る景色を飽かず愛で続ける姫様の視線の先を目で追いながらゆっくり歩くのは嫌いじゃない。
毎日代わり映えのしない竹林が、姫様と一緒に眺めていると違う景色に変わる。
普段は緑色の廊下程度にしか見えない竹林に、時の流れと生命の息吹が感じられる。
さわさわと竹を揺らす風の静寂の中に二人分の足音が溶け込んで、その風はきっとどこかに咲いた竹の花をやさしく揺らすのだろう。
ついそんな詩人めいた想像もしてしまう。
お師匠様は研究を続け自分の知識欲をどこまでも満たしていくことで、姫様はこうやって日々の生活の中のどんなに小さなものにも楽しみを見出すことで、蓬莱人としての永遠の命とうまく付き合って来たのだろう。
「あはれなるもの」がこの世に存在するだけで永遠に続く命に退屈を感じなくて済むというのだから、本当の出自はどうあれ、この人は根っからの平安貴族なのかもしれない。
私もそれなりに長く生きているけど、何が私を退屈させずにこんなに長生きさせたのだったか。
「で、結局なんなんですか? まだ聞かせてもらってないですけど……」
このままだとただの竹林散歩になってしまいそうなので聞いておく。
何か目的があって出てきたのに、美しいものを目で追い続けていくうちに散歩が外出の目的になっていることなど、この永遠の姫には珍しいことじゃない。
ウチの姫様は気まぐれなのだ。
「そう、まだ言ってなかったわね。と言ってもなにかと聡いイナバならなんとなく想像はついてきたんじゃないの?」
結局答えることなく微笑あそばれている。
まあ、確かに私にも大体目星はついている。
この季節にこの場所にしかもこの籠だ。
「……たけのこ? 」
「そう。そろそろそんな季節でしょう? 昨日ふと思い立ってね」
「でもたけのこ食べたいんなら、わざわざ姫様自ら出かけなくても。言ってくれればウチのうさぎ達で掘って来るのに 」
まあ、正直どんな答えが返ってくるかはわかってはいたが。
「あら、自分で探して掘ったのをみんなで食べるからいいんじゃない。季節の変わり目は自分から楽しみにいかなきゃね 」
「まあそう言うだろうとは思いましたけど。でも、どの辺にたけのこ生えてるか把握できてるんですか? 」
姫様はいつも通りの笑顔でのたまった。
「それも、これから探すのよ 」
やれやれ、長丁場になりそうだ。
やはり上だけじゃなく下もジャージをはいてくるべきだった。
楽しそうな姫様に気づかれないようこっそりとため息をつく。
……まあいいか。
日課のジョギングをサボってたまには姫様の気まぐれに付き合うのも悪くないかな。
なんとなく親孝行でもするような気分で、姫様と一緒にゆったり竹林を散歩した。
***************
やってみると、たけのこ掘りは思った以上に楽しかった。
探せば思った以上にたけのこが生えていて、二人で調子に乗って掘りすぎてしまった。
千年以上生きた二人が服と手が汚れるのも気にせずたけのこ掘りに興じた。
たけのこを満載したやたらと重い籠を背負ったのは当然私だったが、「今夜はたけのこご飯ね」と嬉しそうにしている姫様を見ていると籠の重さも気にならなかった。
まあ、もともと腕力には結構自信あるけど。
みんなの朝食の時間を過ぎてしまったので、戦利品を今日食事当番の鈴仙に任せて服を着替え、姫様と二人で遅めの朝食をとった。
鈴仙もたけのこに喜んでいたので、今日の夕飯はさぞおいしいたけのこ料理になるだろう。
食事を終えると、私は仕事があったので、誘ってくれたお礼を言って姫様と別れた。
我ながら珍しいお礼の言葉に、鈴仙辺りなら驚いて変な勘繰りをしてきそうなところだが、姫様は相変わらずにこにこしていた。
なんとなく物足りない反応な気もしたが、思えば姫がこうなのは昔から。
変わったお人だ。
去り際に一度振り返ってみると、まだこちらをにこにこしながらこちらを眺めていた。
さて、それはともかく仕事である。
永遠亭は私や鈴仙をはじめとするうさぎを入れるとかなりの大所帯だ。
屋敷の広さも手伝い膨大な量になる家事は、主にうさぎたちで分担して当番制で行っている。
家事の内容は掃除・洗濯・料理・家庭菜園の管理など平凡なものだが、お師匠様の術で一里超の距離に伸長され、弱肉強食の雑巾がけ耐久レース(姫の思いつきにより最下位の者はその日のおやつを優勝者に献上することになっている)が日夜開催されている廊下掃除や、うっかり不注意を起こそうものなら永遠亭発のサイエンス・カタストロフィが起こりかねないお師匠様の薬の保管庫の整理手伝い、あまたの犠牲者の怨霊(主に鈴仙の生霊)が跋扈すると噂されるお師匠様の実験室など、月一ほどのペースでスリリングなミッションが回ってくるので油断は出来ない。
……しかし、こうして書くと危険地帯にはほとんどあの月の頭脳が関わってるじゃないか、まったく。
ちなみに対当番用嫌がらせトラップを随所に仕掛けてある私の自室も危険地帯リストに赤字で名を連ねているのだが、私にとっては危険でないから関係ない。
閑話休題。
今日の私の仕事は洗濯係一斑。
洗濯物を洗って干すだけの普通の仕事だ。
永遠亭にいる人妖の数を考えれば二人という割り当て人数は少ないくらいだが、今日の私にとっては都合がいい。
そしてツーマンセルの相方は最近妖兎化したばかりの若いうさぎ。
明るい上に素直でまじめ、みんなから愛されているとってもいい子だ。
しかも永遠亭のうさぎの中で最古参にあたる私のことを、何故かとても慕ってくれている。
実に都合がいい。
「あ、てゐお姉さま! 」
私が洗濯板とたらいを持って水場に到着すると、満載の洗濯籠を抱えた彼女はとても嬉しそうに顔を上げた。
私はとっておきのやさしい笑顔を振りまきながら彼女と一緒に仕事を始める。
3月の家事当番表が鈴仙によって公開されたときから、この日を狙っていた。
最高のシチュエーションだ。
慎重に、慎重にことを運ぶことにする。
***************
うららかな春の日差しの暖かい永遠亭の中庭。
物干し場の片隅に咲いたたんぽぽも心なしか嬉しそうな気持ちのいい春の午前。
パンパンと洗濯物のしわを伸ばしながら、世間話に花が咲く。
「それで私、てゐお姉さまに憧れて妖怪になったんですよ」
「へぇ。そうだったんだ 」
自他共に認める腹黒うさぎの私でも、こういう言葉は素直に嬉しくて、自然笑顔がこぼれる。
でも笑顔の裏で、身を守るため泥水をすすってでも生きながらえて妖怪化しなければいけない時代ではなくなったのだな、なんてこともぼんやり思った。
まあそれ自体はとても喜ばしいことではあるのだけど。
そうこうしている内に最後の洗濯物を干し終わった。
それにしても――
「それにしてもふざけたデザインだよねえ……」
私は自分で先程干したものを示しながら話題を振る。
「ああ、これが噂の……」
私たち二人の視線の先には洗濯紐にぶら下がる一枚の縞パン。
お師匠様から鈴仙へプレゼントされた品である。
しかしその実態は暇を持て余した月の天才による歪んだ師弟愛の結晶であり、綿100%の手縫いという工業用機械以上の裁縫速度と精度を誇るお師匠様にしか成し得ない奇跡の一品は、着用者に完璧な穿き心地を提供する。
そして青と白の横じまの上から更に赤と黄色で刺繍されたでっかい「うどんげ」の文字。
噂によると特殊な蛍光素材による刺繍である為夜道で穿くと「うどんげ」の文字がスカートの中で光るという。
そのあまりの自己主張の激しい下着に、3日に一度の着用を義務付けられた鈴仙が泣いて許しを請い、三日三晩に及ぶ交渉の末7日に一度に改定されたらしい。
しかも繊維とともに編みこまれた術式によって、鈴仙とお師匠様本人にしか脱がせないという貞操帯いらずなふざけた仕様である。
もし命知らずの下着泥棒が軽い気持ちで盗んで頭にでも被ろうものなら、自首してお師匠様のモルモットになるか、夜道で光るファンクなパンツを一生被って余生を過ごすかの究極の二択を迫られるというわけだ。
そんな呪いのアイテムの着用義務を課せられた上にそれを怠れば破門と言いつけられた鈴仙ではあるが、こんなもの穿いてるところを見られるくらいなら死んだ方がマシだとばかりにこれを穿く日には絶対空を飛ばないし、外出も極力控えている。
そのせいで着用しているところを目撃した者は一人としていない。
私のスカートめくりすら本気でガードされたのだから間違いない。
特に外部の者には噂のみが伝わり、幻の装備品として都市伝説的に語られているらしい。
それでもなお師に対する尊敬と敬慕の念を絶やさない鈴仙は真の忠義者だといえるだろう。
我が友ながらいたわしや……。
月の煩悩の渾身の一作に二人でひとしきり生温かい目を向けてから、この場はお開きになった。
まあとりあえず、今日家から割り当てられた仕事は終わりだ。
洗濯物を取り込んだり畳んで持ち主の部屋に運んだりするのは洗濯係二班の仕事だ。
「それじゃ、私は出かけるよ。鈴仙には夕飯までには戻るって言っといて 」
そう言って中庭から直接飛び立つ。
「はい、お姉さま。行ってらっしゃい 」
笑顔で手を振る彼女に軽く手を振り返して、私はその場を後にした。
***************
一人で歩く竹林はいつも通りそっけない。
姫様と一緒になって風雅を楽しむのも嫌いじゃないが、やはり私には風景の一つ一つに一喜一憂するよりもさっさと歩き去る方が性にあっている。
何より、詩的な詐欺師など胡散臭いことこの上なくて仕事にならない。
「……ん?」
益体もないことを考えつつ歩いていたら、どこかから生き物の気配がした。
妖気は……弱いな、人間か。
数は……一人。
何かの理由で竹林に入った人間が迷ってしまったってところかな。
竹林内の迷い人の案内は一応私の仕事ということになっている。
実際竹林には危険な妖怪や動物もいるにはいるが、基本的には私たちうさぎがほとんどなので迷い続けてもそこまで危ないうわけではないけど。
まあ面倒でも仕事は仕事だし、夕飯時まで時間をつぶすにはちょうどいいか。
色とつやが自慢の白い耳を頼りに、気配のする方へ向うことにした。
「……なるほどね 」
気配のもとにたどり着くと、特徴的な格好をした大柄な男が一人道に迷っていた。
肩から背中にかけてはカモシカの一枚皮、頭には防寒用の笠をかぶり背中には狩猟銃を背負っている。
こんな季節はずれの重装備をして医者を呼びに来たわけでもないだろう。
それにこの格好、知っている。
マタギだ。
「ねぇ 」
気配を殺して後ろから声をかけると、マタギは鋭い動作で熊槍を構えてこちらを振り向いた。
予想通りの反応にまずは満足。
見立てどおり相当長い間彷徨っていたらしく、かなり神経質になっている。
「道に迷ったんでしょ? 案内してあげる。人間の里まで。着いてきなよ 」
それだけ言って背を向けて私は歩き始めた。
まだ警戒しているようだが、ずいぶんと距離を空けてついてきたのが気配でわかる。
そう、それでいい。
人間の方向感覚じゃ、一生かけてもここから抜け出せやしない。
どうしてこんな場所で迷っているのかとか、何しに竹林に入ったのかとか、普段なら案内の道すがらするような世間話はしない。
黙って歩いた。
あの格好はどう考えても狩猟者のそれで、竹林には他の妖怪や動物もいるにはいるが、基本的には私たちうさぎがほとんどで。
つまりはそういうことだろう。
透明な竹林の空気に、背後から漂う生臭いにおいが絡み付いている。
さっさとこんな仕事終わらせよう。
しばらく黙々と歩を進めた。
竹林の静寂にマタギの履いている特殊な草鞋の足音が水を差している。
さて……そろそろだな。
人間の里までもう少しあるが、ここから先は案内の必要もない。
私は振り返る。
「ここからは道なりに行けば里に着けるよ。それじゃ、道中気をつけてねー 」
最後ににっこり微笑んでやって、一足飛びでさっさとその場を後にした。
このくらいのスピードなら人間の目ではまず捉えきれないだろう。
立ち去ったように見せかけて近くの密生した竹の陰から見ていると、マタギは突然姿を消した私に少しとまどっている様子で呆けていたが、すぐに気を取り直して私の示した方向に向けて歩き出す。
よし、それでいい。
コースもぴったりだ。
私は心の中で秒読みを開始する。
3……2……1……
次の瞬間――
――ズボッ。
何度聞いても小気味のいい鈍い音と共に私の視界からマタギの姿が消えた。
彼が先程足を踏み出した地面には直径1メートルほどの穴がぽっかりと口を開けている。
「なんだ! いったいどういうことだ! 」
マタギの叫び声が聞こえる。
気に食わない迷い人をコケにするために私が掘っておいた落とし穴、それにみごとに引っかかって混乱している様子だ。
うん、実に愉快。
完璧な誘導で見事にトラップを発動させた手腕に我ながら惚れ惚れする。
「あははははは。ひっかかったひっかかったー! 」
その様子を私は腹を抱えて笑いながら、思いきりはやし立ててやった。
穴を覗き込むと、大の大人が落とし穴なんていう子供じみた罠に引っかかって顔を真っ赤にしているのが見えた。
激怒しているマタギの罵声を気持ちよく身に受けながら、にこやかに伝える。
「さっき言ったとおり、ここからは道なりにあっちに進めば里に帰れるよ。ま、生きてさえいればね。それじゃ、今度こそ道中気をつけて 」
最後に最高に意地の悪い笑顔で優雅に手を振って、私はゆうゆうと歩いてその場を後にした。
相当気合を入れて掘った上に毎日点検も欠かさなかった渾身の落とし穴だ。
あの穴から出るのには装備を整えたマタギでもそれなりに時間がかかるだろう。
その間に凶暴な妖怪にでも襲われてはひとたまりもないだろうが、幸運の白兎たる私に会えた時点で、何をどうしたところであの迷い人は無事に帰れることは決まっているのだ。
たとえば私が彼を殺そうとしたとしても。
こんないたずらをしていたら、また閻魔から長い説教をされるだろうか。
それとも、慧音に懲りない奴だと頭突きをされるだろうか。
なんだって構わない。
誰に何を言われたとも、私が懲りることはない。
竹林を一人歩きながら、私は知らず物思いに耽っていた。
***************
うんさりするほどの数の同胞を見殺しにしてきた。
数え切れないほどの家族や仲間を目の前で失った。
時に腹をすかせた猛禽の羽ばたきに草葉の陰で震え、時に二足の獣に面白半分に追い立てられて必死で逃げ惑った。
罠にかかった親友の迂闊をなじり、変わり果てた恋人の姿を前に唇を噛み、捕らえられた妹のことはただ見送ることしか出来なかった。
その度にどれだけ涙を流したか、もうとっくに枯れてしまった。
その度にどれだけ己の生まれたうさぎという種を呪ったか、私達には希望などなかった。
もしもこの身に翼があったならば、誰の手も届かぬところへと逃げおおせたのに。
もしもこの身に角でも牙でも爪でもいい、何か武器があったならば、一矢報いることが出来たのに。
この運命を変えたい。
奴らに復讐してやりたい。
せめて平和に生きていたい。
私はただただ妖になることだけを夢見て生き続けた。
地面に這いつくばって泥を啜り、悔しさと惨めさをかみ締めながら無様に生き伸びた。
幾度となく死を覚悟し、同じ数だけの運と生き意地の汚さでなんとか永らえた。
そしてその果てに化生した私に与えられた力――
それはあれほど憎んでいた人間共を幸せにする能力……。
これはいったいなんの冗談だ。
死に物狂いで生にしがみついてきた私を、この惨めな一羽のうさぎを見守る神などどこにも存在しないのか。
復讐心に支えられて生きてきた私が文字通り命懸け勝ち取ったと思ったのは、忌々しいくそったれな冒涜者への慈愛の具現だった。
妖怪となって初めて殺してやろうとした人間の、無様な命乞いの声。
今でも覚えている。
――や、やめてくれ。し、し、死にたくない……。
涙でぐしゃぐしゃの顔で失禁しながら許しを乞うその言葉は、えらく私をしらけさせた。
見逃してやった後で思った。
私が今しらけて殺す気を失ったことすら、この忌々しい能力があいつに与えた幸福なのだろうか。
やってられない。
一人でも多くの人間を騙して陰で嗤って馬鹿にしてでもいないと、とてもじゃないがやってられない。
これはあてつけだ。
神なきわが身のなせる小さな復讐だ。
目的を一つ失った私はそうして自分を騙すしかなかった。
そしてせめて、残ったもうひとつの目的――力なき仲間を守っていくことを誓った。
……その頃だったろうか。
私の竹林にあの不死人二人が現れたのは。
***************
ムクドリの群れのギャーギャーとうるさいのを聞いて、もうずいぶんと日も暮れてしまったことに気づいた。
ずいぶんと長い間、昔のことを思いながらぼんやりしていたらしい。
「我ながららしくない。姫のぼんやり病が移ったかなぁ 」
なんとなく気恥ずかしくて苦笑混じりの独り言が飛び出した。
汗も出てないのに左のポッケからハンカチを出して顔を拭ったりしてみる。
決して涙がにじんでいたわけではない。
今日はおいしいおいしいたけのこご飯のはず。
今頃は洗濯物もしまわれて夕餉の支度も済んだ頃だろう。
帰って春の味覚を楽しむとしよう。
私は気を取り直して、濃紺の空を永遠亭へと向かって飛んだ。
薄水色と茜色の融け合う西空の端を見ながら明日も晴れかな、なんてぼんやり思った。
***************
結論を先に言うと、夕飯はとてもおいしかった。
春の香りを感じさせるすっきりした風味と歯ごたえに、最近料理の腕を上げつつある鈴仙の絶妙な味付けも相俟って、お師匠様も姫も大満足の素敵なご馳走だった。
我ながらいい仕事をしたと鼻高々な姫様の勅命により、後日うさぎによる大規模なたけのこ掘りが行われることになった。
人選と指揮は鈴仙に一任されたので、私もそのメンバーに入れてもらえるよう頼んでおこう。
さて、食後の世間話もほどほどに、楽しい晩餐の余韻に浸りながら永遠亭の廊下を歩くも、周囲への警戒は怠らない。
私にはまだやらなければいけない仕事が残っている。
油断なく歩を進めながら、一度ポケットに右手を突っ込む。
指先に触れる上質な手触りは今回の計画のターゲット。
昼に若うさぎとの話題に上った鈴仙の特注縞パンである。
発端はブン屋から聞いた噂話だった。
半ば都市伝説と化している幻のうどんげパンツを求める好事家が、アンダーグラウンドの有力者の中に複数いるらしい……。
それを聞いた時から私は計画を練り始めた。
ただでさえ人里にファンの多い鈴仙の名前入り愛用(?)特注下着だ。
恐らく地下の闇競売にかければ相当な額までつりあがるはず。
だが私が直接出品したのでは足がつきかねないし、何より私にはアンダーグラウンドへの直接のパイプがない。
それなら地下世界への人脈を持った部外者を経由すればいい。
魔法の森の古道具屋の店主は表面上では一趣味人を装いながら、裏では地下競売の常連として相当に顔の利く裏世界の窓口のような男だ。
奴を経由しての出品を頼むか、もしくは直接高値で奴に売りつけよう。
その折には、森近霖之助に間違っても自分で着用したりしないように言っておかないと。
高確率でふんどし店主から縞パン店主への最悪のクラスチェンジが起ることになる。
忘れず伝えよう。
あの朴念仁を装った偏執狂なら滅多なことでは疑いを向けられることもないだろうし、足がつくようなヘマも踏まない。
さらにあの下着の術式に紛失時の為の座標特定機能が織り込まれていないことは、以前姫とふざけて行った「イナバのパンツ解析ごっこ」で調査済みだ。
痕跡さえ残さねばお師匠様の追跡も届かないはずだ。
しかし問題は如何にしてモノを手に入れるかだった。
自慢じゃないが日ごろの行いの悪さは折り紙つき、何か家で問題が起きれば私が真っ先に第一容疑者として疑われることになっている。
紛失時の確かなアリバイを形成する必要があった。
そこでまず、私の外出中に下着がなくなったことの証人として、あの若うさぎに目をつけた。
私が何を言っても疑われるが、他でもないあの子が証言すれば信憑性は高い。
なにせ嘘をつけば百発百中で見破られるくらい私と正反対な素直でいい子だ。
あの若うさぎと二人での洗濯当番と、その前日に七日に一度のうどんげパンツの日が重なるのを私は辛抱強く待った。
そして、半年待って遂に望んでいた日がやってきた。
あとは素直で騙されやすいよい子の目を少し欺いてやるだけの簡単な仕事だ。
香霖堂で手に入れた「長時間日光に当たると消える絵の具」で真っ白なパンツに細工して、本物そっくりなダミーのうどんげパンツをあらかじめ作成、洗濯作業中に相方の目を盗んでダミーを本物とすり替える。
その上で洗濯終了時点で趣味の悪いパンツが確かにそこにあったのだとこれ見よがしに記憶に植えつけて、あとは洗濯物の取り込まれる時間帯まで外で時間をつぶしていればいい。
洗濯物を干し終わってから数時間で物干し場からクレイジーな縞パンが一枚消え、代わりに何の変哲もない白パンが残る。
その間私は館にいないのだから私が盗むのは不可能、というわけだ。
外にいる間の行動を証言してくれる者も用意すべきかと考えもしたが、完璧すぎるアリバイは逆に疑念を生む。
私の場合特に。
あくまで自然にいつも通り竹林をぶらついていればいい。
これで私には相当な額の金が入り、鈴仙はしばらくの間悪趣味な下着を履かなくても済むようになる。
着用義務を履行しなければ破門ということになっているが、お師匠様だって本気で真心込めてあんなもの送るほどの変人じゃない。
いつも熱心な鈴仙への労いの品をあげたくて、そのついでにかわいい弟子のちょっと困る顔を見たかっただけなのだ。
きっとしばらく探して見つからなければ、ちょっとため息ついて「仕方ないわねぇ」くらいで諦める。
何の過失もない鈴仙が咎められることもないだろう。
そして翌朝には新・うどんげパンツを完成させているに違いないのだ。
私には多額の売却金が入り、鈴仙はしばらく呪いのパンツから解放され、お師匠様はため息一つ分くらいの迷惑がかかるだけで済む、というかむしろ喜んで新しいパンツのデザインを考え始める。
ほぼ誰にも損のない理想的なビジネスだ。
別によい行ないをしたなどとはかけらも思わないが、一介の詐欺うさぎとしてはここまで完璧な仕事ができて満足に思う。
というわけで、計画はここまでは順調に推移している。
あとはこのポケットの中の危険物を誰にも見つからないように自室の衣装箪笥の底にでも隠して、ほとぼりが冷めるの待てばいい。
だが油断は禁物だ。
一流の詐欺師は被害者からの連絡手段を全て断つその瞬間まで対等なビジネスを装う。
目の前のカモの馬鹿面を指差し嗤いたくて引きつる頬を無理やり柔和な笑顔に薄めて隠し、相手の手の届かないところに逃げてからしこたま嗤うのだ。
つまり一言で言えば、遠足は帰るまでが遠足。
今回の計画もモノを安全な場所に保管するまでは気を抜くわけには行かない。
あくまで自然を装ったまま、床板の軋む音の一つにまで注意を払って歩を進める。
次の角を曲がれば私の部屋に着く。
セーフティゾーンまであと少しだ。
と、廊下の向こうからどたばたと騒がしい足音が近づいてくる。
大方鈴仙が下着のなくなったのに気づいて、とりあえず第一容疑者の私を問い詰める為に目を三角にして走ってきているのだろう。
オーケー、思ったより早かったが予想の範囲内だ。
日夜月の頭脳と腹の探りあい(主に研究室へのいたずらをしらばっくれる為)を行っている私にとってあんな世間知らずなうさぎの一羽や二羽謀るくらい造作もないこと。
何を聞かれても驚いたり本気で心配してやったりすればころっとごまかせる。
何の問題もない。
「てゐ~ 」
しかし予想に反して角の向こうから私の名を呼ぶ声に怒気はなく、むしろ弱々しい。
おかしい。
別件か?
……いや、それともまさか――
私が一つの可能性に思い至るとほぼ同時に、角を曲がってきた鈴仙の潤んだ瞳と目が合った。
「どうしよう。師匠からもらった下着……なくなっちゃった…… 」
張っていた気が私に会って抜けたのか、鈴仙は言うなりぺたんと廊下にへたり込み、すんでのところで留まっていたらしい水滴が両の眼からほろりとあふれ出した。
……やはりそうか。
いやな予感の当たったことを確信する。
考えてみれば、見た目はアレでも鈴仙にとっては定期的に穿かなければ破門という、いわば師弟の絆をつなぐ大切なもの。
それがなくなったのだから、確かに鈴仙の性格から考えれば冷静に犯人探しをするよりも慌てふためきそうなものだ。
普段は落ち着いてお姉さんぶっているのに、仲間を失うことを異常に恐れる性格だからなぁ。
落ち着いて考えれば、鈴仙に何の落ち度もないのだからお師匠様だって破門になんかしやしないのに。
まあいい、適当になだめつつ一緒になって見当違いな場所を探してやろう。
予想外の出来事ではあったがまだまだ修正の効く範囲だ。
「ねえ、ちょっと落ち着きなよ鈴仙。大丈夫だからさ 」
「どうしよう……。私、破門になっちゃう……」
私の声が聞こえているのかいないのか、鈴仙はうつむいて泣き続けていた。
――ぽたっ。
頬を伝った涙が、雫になって床に落ちる。
――嫌な記憶が蘇った。
じたばたともがく妹の影を、私は息を殺して泣きながら見ていた。
滴り落ちた涙の雫は音を立てたはずもないのに、私の耳には地に落ちた水滴の弾ける悲しい音が、確かに聞こえた気がした。
……もう、あんな思いはしたくない。
考えたわけではない。
ただ零れ落ちる涙を見ていたくなかった。
それだけ。
「え……? 」
鈴仙の戸惑った声。
気づいたら私は右手を伸ばして、泣きじゃくる親友の涙を拭おうとしていた。
――鈴仙の縞パンで。
……瞬間、私の中で確かに時間が止まった。
ま ち が え た!
今日はハンカチは左のポケットに入れてるんだった……!
しまった……。
何も考えずにハンカチを出そうとしたから、本来の定位置である右ポケットに手が勝手に動いたんだ。
事態を把握出来ずにいる鈴仙の潤んだ瞳がこちらを見ている。
いかん、どうしよう……
なんとかしてごまかさないと……
静止した上に何故か白黒な世界の中で私は頭をフル稼働させる。
動揺した状態のまま私は口を開いた。
「い、いや、私の洗濯物にまぎれてたからさ。今鈴仙とこ行こうと思ったところだったのに、いきなり泣き出すんだもん。びっくりしちゃったよ 」
脳みそフル回転ででまかせを口にしていたら何とか平常心が戻ってきた。
さらに、軽く目を逸らして頬を膨らませながらつけたす。
「……本当は知らん振りしてちょっとからかってやろうかなって思ってたところだったのにな…… 」
やさしげなため息なんかつきながら今度こそ左ポケットから出したハンカチで鈴仙の頬をやさしく拭ってやる。
よし。
ここ一番で我ながら最高の演技が出た。
土壇場で頼りになるのは日夜積み重ねてきた努力だけだ。
やっぱりうそは日ごろからついておくもんだな。
そんな私の思考をよそに、鈴仙が未だに現実味のなさそうな表情でつぶやいた。
「よかった。……よかった。私、もう永遠亭にいられないのかなって……もうみんなと一緒に、暮らせないのかなって……」
かみ締めるように出した後半の声は涙でかすれている。
安心したらさらに涙があふれてきたみたいだ。
やれやれ。
今度は演技でなく自然と、やさしいため息が漏れた。
へたり込んだままの親友の頭をやさしく抱いて撫でてやる。
こうするのも久しぶりだな。
「大丈夫だよ、鈴仙。私たちは家族だもん。ずぅっと一緒にいられるよ。だから大丈夫。ね? 」
静かに嗚咽を続ける鈴仙の涙が胸にあたたかくしみこむ。
やれやれ。
まあ……いいかな、これで。
下着の件からは手を引こう。
楽して儲ける手段なんて、ほかにいくらでもあるんだし。
この胸のあたたかみはそんなものよりずっと価値あるもののはずだ。
詐欺師としては三流な行為だったけど、とっさに動いた私の右手は存外にいい仕事をしたのかもしれない。
鈴仙のさらさらな髪をなでてやりながらそんなことを思った。
***************
しばらくして落ち着いた鈴仙を部屋に送った後、なんとなく廊下をぶらついて縁側に来ていた。
縁側に腰掛けて足をぶらぶらさせながら、見るとはなしに裏庭を眺めた。
淡い月明かりに照らされたにんじん畑が見える。
永遠亭の家庭菜園は私が積極的に指揮をとって進めてきた。
最初こそ難儀したものの、永琳様と相談しながら品種改良や環境管理を行って、今では味も栄養価も最高のものがたくさん取れるようになった。
もうウチだけでは消費できないほどで、外訪の手土産なんかにひと籠持って行けば大抵喜ばれるし、わざわざ冥界から買い付けに来るものまでいるほどだ。
数え切れないほどいる仲間たちが飢えに困らず済むように、おいしいものを食べて長生き出来るように――商業目的を謳って立案したその裏の真意は確実に達成されている。
「隣、いいかしら 」
ぼんやりしていたら背中につやのあるアルトボイスが降ってきた。
「ん、どうぞ 」
応えながら振り向くと、そこにいたのは思ったとおり月の賢者だった。
お師匠様は鈴仙の耳一本分くらいの間をとって腰を下ろして、その溝に静かにお盆を置いた。
半月形のお盆の上には首に二つお猪口を引っさげた徳利が一本。
「あなたもどう? 」
「じゃあ少しだけ 」
就寝前の微量のアルコールは、まあ体にも悪くない。
わざわざ私のお猪口まで用意してここへ来たのに、お師匠様は話しかけてくることもなく、雲の薄くかかった月を眺めて静かに杯を口元へ運んでいる。
しばらくは二人とも黙ったまま、春風に髪が揺れるに任せていた。
「あの子がああやって泣き出すのも、ずいぶん久しぶりね 」
「……なんだ。やっぱり見てたんだ 」
この分だときっと私の計画もお見通しだったのだろう。
まあ、怒ってないようだからいいけど。
「あなたの面倒見いいところを見るのも久しぶり 」
くすくすと上機嫌に笑う。
なんだ、からかいに来たのか。
「久しぶりも何も、私は面倒見よくなんかないですし 」
「あら、会ってすぐの頃はうさぎ達のリーダーらしくすごく面倒見よかったじゃない 」
出会ってすぐの頃……
あの頃は内心必死だった。
竹林で唯一の妖怪うさぎとして何とかして他の仲間を守らなきゃと思った。
逆立ちしても敵わない月人二人を何とかして敵にだけは回さないように小賢しい取引なんか持ち出した。
仲間に危険が及ばないよう、戦い、騙し、過保護なほどにうさぎ達の世話を焼いた。
「でもやっぱり、私はリーダーなんて柄じゃありませんよ 」
ふらふらしながら他人を騙して回ってる方が性に合ってる。
「あなたがそう思っている以上はそうなのかもしれないわね。それでもウチのうさぎたちが誰よりあなたの言うことを一番に聞くのは、いたずらやうそに隠れたあなたの思いが少なからず伝わっている証拠よ 」
「……なんのことやら。私もずいぶんと買いかぶられたもんですね 」
月の賢者のやけに楽しそうな笑顔が癪だったのでため息ついてそっぽを向く。
やれやれ。
やけに昔のことを思い出させられる一日だ。
まったくもって調子が狂う。
こんなことだから、酒の勢いに任せてついどうでもいいことを聞いてしまうんだ。
「ねぇ、えーりん 」
自然体で話す。
これは私と永琳の間では本音で話すときの礼儀のようなものだ。
「えーりんは何を目的にして生きてる? やっぱり、姫様を守ること? それとも研究活動を続けること? 」
あれほど憎んでいた人間達への復讐は結局成せなかった。
私以外にも妖兎が増えた上に姫もお師匠様も鈴仙もいるから、私がうさぎを守る必要もない。
目的の為に生きていた私はどこかへ消えて、今の私は日々をしょうもないいたずらや詐欺の為に費やしている。
「もちろん、この身を賭して姫様を守り続けることよ。……なんて少し前の私ならそう言ったでしょうね 」
普段あまり見せない寂しそうな苦笑いを浮かべる横顔を黙って見つめた。
「多分、今の私には生きる理由なんてものはないわね――あ、もちろん輝夜のことは生涯をかけて守っていくつもりではあるけれど 」
そうねぇ、永琳は月を見上げて呟く。
「強いて言えばこの永遠亭の家族を大切にすることかしら。永夜の日以降隠れる必要もなくなって、必死になって姫を守る必要もなくて。肩の力を抜いてみたらこの日常が愛おしくなった。私も地上の穢れってやつに毒されたのかもしれないわね 」
私に向けられた永琳の瞳には、私に対する家族愛も灯っているのだろうか。
あたたかい目をしている。
「いえ、きっと気づいたんでしょうね。生きるのに目的なんて必要なくて、傍らに共に歩めるひとがいることが大事なんだって。だから皆そんなひとを守る為に命を懸けるのね 」
母のような優しい笑顔。
「今の私にとってはこの永遠亭の者達皆が共に歩む家族よ 」
家族か……。
うん。
やっぱり、我ながらつまらない質問をした。
わかってる。
どんなにひねくれて見せたって、私にとっても永遠亭のみんなは大切な家族だ。
一緒にいて心地いいからここにいる。
それでいい。
血眼になって目的を追っていたときには気づけなかった家族のあたたかみが、今の私のもとにはある。
家族を大切にしろと言ってきたのは確か閻魔だったか。
言われるまでもない。
私は私のやり方で家族を愛している。
傍目に少し珍奇でも、私達はしっかり支えあっている。
ただ一方的に守ろうと思っていた頃の私や永琳にはわからなかったしあわせだ。
「どうかしら。参考になった? 」
お師匠様がにっこりと微笑みながら私を見てくる。
ある程度付き合いの長い私は、これがお師匠様流のニヤニヤであると知っている。
いや、単に似たもの同士だからわかるだけか。
「別に? 会話に困ったからなんとなく聞いてみただけだよ 」
「そう? それならよかったわ 」
ふふふ。
お互い含み笑いをしながら杯を交わす。
黙して交わせどささげる先はきっと同じ。
――私たちの大切な家族に。
しずかな月明かりの下で乾した杯は、私の胸にやさしくしみ込んだ。
少し酔ったお師匠様がどさくさで頭をわしわしと撫でてくるが、今日くらいは大目に見よう。
こんなにも気分がよいのだから。
今宵も竹林に吹く風は涼しく、月明りはあたたかく私達を見守っている。
目元が酒気で火照るのが心地よい。
明日はどんないたずらをしようかな。
ガサガサと、藪をかき分けてくる足音が聞こえる。
近づいてくる。
私は身を縮める。
どうか・・・・・・どうかこのまま気づかずに通りすぎて・・・・・・。
しかし私の祈りは届かない。
「いたぞ! さあ、捕まえた」
捕まったのは末の妹。
耳をつかんで持ち上げられて、人一倍臆病な彼女は声をあげることも出来ずにいた。
私はそのすぐ脇の茂みの下で2番目の妹と肩を寄せながら、ただただ見つかるまいと必死で。
地面に映る妹の影は震えている。
眼前に迫る死の恐怖に抗うことも出来ずにいる。
――ぽたっ
震える彼女の流した涙が雫になって地面に落ちた。
私は怖くて息も出来ない。
影が一本伸びてきて、彼女の首に手をかけた。
妹の影はほんの少しの間足をじたばたと動かした。
私にとっては何時間にも思えるほんの数秒。
彼女にとってはきっと永久にも近いほんの数秒。
やがて妹の影は動かなくなる。
足音と共に影も遠くへ行ってしまった。
後に残ったのは彼女の零した涙のあとだけ……。
大切な家族の危機に何も出来ず、ただただ震えながら身を隠すばかりだった。
ふがいなさに、情けなさに、歯噛みする。
いつか・・・・・・いつか必ず・・・・・・
頬をぬらす涙を拭いもせずに、私は心の中で唱え続けた。
***************
鼻歌を歌いながら屈伸をする。
朝の澄んだ空気の中に、唇から漏れた音が流れるように伝わっていく。
早朝の永遠亭の庭先は春の日差しを竹林にさえぎられ、初秋のようにひんやりとしている。
竹林にろ過されたさわやかな風が私のくせっ毛をさわさわ揺らす。
竹と髪の揺れる音を心地よく感じながらも、Tシャツにショートパンツではまだ少し肌寒いとも思う。
健康のために毎朝行っているジョギングでも、それで風邪でも引いたら元も子もない。
やはり部屋に戻ってジャージを出して来よう。
ジャージを上に羽織って庭に戻り、地べたに座って入念に体をほぐす。
体をうまくほぐすために深い息をゆっくり静かに吐く。
この時間の庭先は誰も来ないせいでやけに静かで、吐いたブレスの音までよく響く気がする。
長座体前屈をしていると、背後から玄関の戸を開く音がした。
「あら、イナバ。早いのね」
振り向くと館の主が竹細工の編み籠を持って出てきた。
「あ、姫様。おはようございます」
「おはよう。こんな時間にそんな格好で外に出て、ラジオ体操でもするのかしら?」
いくら健康マニアを自認している私でもそんなじじむさいことはしない。
「ジョギングですよー 」
頬を少し膨らませて心外だと抗議すると、姫様はくすくすと笑った。
「あら、それはいいわね。私も見習おうかしら 」
体が自動的に最善の状態に保たれる蓬莱人にジョギングの必要があるのかは少々疑問に思う。
いちいち口に出しはしないが。
「姫様こそ、こんな時間にそんなもの持ってどうしたんです? 」
別に朝寝坊の常習犯なわけでもないが、姫様がこんな時間に外出するのは少し珍しい。
しかも得体の知れない籠などを持っているのだから気にもなる。
「あら、気になるんならイナバも一緒に来る? 」
姫様はいたずらっぽく微笑みながら、手に持っていた籠を軽く持ち上げて見せた。
風が姫様の長い黒髪をさらさらと優しく揺らした。
私の脚と姫様の脚には長さという点でそれなりに開きがある。
並んで歩くとその差は更に鮮明になる。
その絶望的なコンパスの差にもかかわらず、相手のペースに合わせてゆっくり歩いているのは私の方だ。
私の普段の歩行速度が割と速いのもあるが、姫様も相当歩くのが遅い。
それでも、目に映る景色を飽かず愛で続ける姫様の視線の先を目で追いながらゆっくり歩くのは嫌いじゃない。
毎日代わり映えのしない竹林が、姫様と一緒に眺めていると違う景色に変わる。
普段は緑色の廊下程度にしか見えない竹林に、時の流れと生命の息吹が感じられる。
さわさわと竹を揺らす風の静寂の中に二人分の足音が溶け込んで、その風はきっとどこかに咲いた竹の花をやさしく揺らすのだろう。
ついそんな詩人めいた想像もしてしまう。
お師匠様は研究を続け自分の知識欲をどこまでも満たしていくことで、姫様はこうやって日々の生活の中のどんなに小さなものにも楽しみを見出すことで、蓬莱人としての永遠の命とうまく付き合って来たのだろう。
「あはれなるもの」がこの世に存在するだけで永遠に続く命に退屈を感じなくて済むというのだから、本当の出自はどうあれ、この人は根っからの平安貴族なのかもしれない。
私もそれなりに長く生きているけど、何が私を退屈させずにこんなに長生きさせたのだったか。
「で、結局なんなんですか? まだ聞かせてもらってないですけど……」
このままだとただの竹林散歩になってしまいそうなので聞いておく。
何か目的があって出てきたのに、美しいものを目で追い続けていくうちに散歩が外出の目的になっていることなど、この永遠の姫には珍しいことじゃない。
ウチの姫様は気まぐれなのだ。
「そう、まだ言ってなかったわね。と言ってもなにかと聡いイナバならなんとなく想像はついてきたんじゃないの?」
結局答えることなく微笑あそばれている。
まあ、確かに私にも大体目星はついている。
この季節にこの場所にしかもこの籠だ。
「……たけのこ? 」
「そう。そろそろそんな季節でしょう? 昨日ふと思い立ってね」
「でもたけのこ食べたいんなら、わざわざ姫様自ら出かけなくても。言ってくれればウチのうさぎ達で掘って来るのに 」
まあ、正直どんな答えが返ってくるかはわかってはいたが。
「あら、自分で探して掘ったのをみんなで食べるからいいんじゃない。季節の変わり目は自分から楽しみにいかなきゃね 」
「まあそう言うだろうとは思いましたけど。でも、どの辺にたけのこ生えてるか把握できてるんですか? 」
姫様はいつも通りの笑顔でのたまった。
「それも、これから探すのよ 」
やれやれ、長丁場になりそうだ。
やはり上だけじゃなく下もジャージをはいてくるべきだった。
楽しそうな姫様に気づかれないようこっそりとため息をつく。
……まあいいか。
日課のジョギングをサボってたまには姫様の気まぐれに付き合うのも悪くないかな。
なんとなく親孝行でもするような気分で、姫様と一緒にゆったり竹林を散歩した。
***************
やってみると、たけのこ掘りは思った以上に楽しかった。
探せば思った以上にたけのこが生えていて、二人で調子に乗って掘りすぎてしまった。
千年以上生きた二人が服と手が汚れるのも気にせずたけのこ掘りに興じた。
たけのこを満載したやたらと重い籠を背負ったのは当然私だったが、「今夜はたけのこご飯ね」と嬉しそうにしている姫様を見ていると籠の重さも気にならなかった。
まあ、もともと腕力には結構自信あるけど。
みんなの朝食の時間を過ぎてしまったので、戦利品を今日食事当番の鈴仙に任せて服を着替え、姫様と二人で遅めの朝食をとった。
鈴仙もたけのこに喜んでいたので、今日の夕飯はさぞおいしいたけのこ料理になるだろう。
食事を終えると、私は仕事があったので、誘ってくれたお礼を言って姫様と別れた。
我ながら珍しいお礼の言葉に、鈴仙辺りなら驚いて変な勘繰りをしてきそうなところだが、姫様は相変わらずにこにこしていた。
なんとなく物足りない反応な気もしたが、思えば姫がこうなのは昔から。
変わったお人だ。
去り際に一度振り返ってみると、まだこちらをにこにこしながらこちらを眺めていた。
さて、それはともかく仕事である。
永遠亭は私や鈴仙をはじめとするうさぎを入れるとかなりの大所帯だ。
屋敷の広さも手伝い膨大な量になる家事は、主にうさぎたちで分担して当番制で行っている。
家事の内容は掃除・洗濯・料理・家庭菜園の管理など平凡なものだが、お師匠様の術で一里超の距離に伸長され、弱肉強食の雑巾がけ耐久レース(姫の思いつきにより最下位の者はその日のおやつを優勝者に献上することになっている)が日夜開催されている廊下掃除や、うっかり不注意を起こそうものなら永遠亭発のサイエンス・カタストロフィが起こりかねないお師匠様の薬の保管庫の整理手伝い、あまたの犠牲者の怨霊(主に鈴仙の生霊)が跋扈すると噂されるお師匠様の実験室など、月一ほどのペースでスリリングなミッションが回ってくるので油断は出来ない。
……しかし、こうして書くと危険地帯にはほとんどあの月の頭脳が関わってるじゃないか、まったく。
ちなみに対当番用嫌がらせトラップを随所に仕掛けてある私の自室も危険地帯リストに赤字で名を連ねているのだが、私にとっては危険でないから関係ない。
閑話休題。
今日の私の仕事は洗濯係一斑。
洗濯物を洗って干すだけの普通の仕事だ。
永遠亭にいる人妖の数を考えれば二人という割り当て人数は少ないくらいだが、今日の私にとっては都合がいい。
そしてツーマンセルの相方は最近妖兎化したばかりの若いうさぎ。
明るい上に素直でまじめ、みんなから愛されているとってもいい子だ。
しかも永遠亭のうさぎの中で最古参にあたる私のことを、何故かとても慕ってくれている。
実に都合がいい。
「あ、てゐお姉さま! 」
私が洗濯板とたらいを持って水場に到着すると、満載の洗濯籠を抱えた彼女はとても嬉しそうに顔を上げた。
私はとっておきのやさしい笑顔を振りまきながら彼女と一緒に仕事を始める。
3月の家事当番表が鈴仙によって公開されたときから、この日を狙っていた。
最高のシチュエーションだ。
慎重に、慎重にことを運ぶことにする。
***************
うららかな春の日差しの暖かい永遠亭の中庭。
物干し場の片隅に咲いたたんぽぽも心なしか嬉しそうな気持ちのいい春の午前。
パンパンと洗濯物のしわを伸ばしながら、世間話に花が咲く。
「それで私、てゐお姉さまに憧れて妖怪になったんですよ」
「へぇ。そうだったんだ 」
自他共に認める腹黒うさぎの私でも、こういう言葉は素直に嬉しくて、自然笑顔がこぼれる。
でも笑顔の裏で、身を守るため泥水をすすってでも生きながらえて妖怪化しなければいけない時代ではなくなったのだな、なんてこともぼんやり思った。
まあそれ自体はとても喜ばしいことではあるのだけど。
そうこうしている内に最後の洗濯物を干し終わった。
それにしても――
「それにしてもふざけたデザインだよねえ……」
私は自分で先程干したものを示しながら話題を振る。
「ああ、これが噂の……」
私たち二人の視線の先には洗濯紐にぶら下がる一枚の縞パン。
お師匠様から鈴仙へプレゼントされた品である。
しかしその実態は暇を持て余した月の天才による歪んだ師弟愛の結晶であり、綿100%の手縫いという工業用機械以上の裁縫速度と精度を誇るお師匠様にしか成し得ない奇跡の一品は、着用者に完璧な穿き心地を提供する。
そして青と白の横じまの上から更に赤と黄色で刺繍されたでっかい「うどんげ」の文字。
噂によると特殊な蛍光素材による刺繍である為夜道で穿くと「うどんげ」の文字がスカートの中で光るという。
そのあまりの自己主張の激しい下着に、3日に一度の着用を義務付けられた鈴仙が泣いて許しを請い、三日三晩に及ぶ交渉の末7日に一度に改定されたらしい。
しかも繊維とともに編みこまれた術式によって、鈴仙とお師匠様本人にしか脱がせないという貞操帯いらずなふざけた仕様である。
もし命知らずの下着泥棒が軽い気持ちで盗んで頭にでも被ろうものなら、自首してお師匠様のモルモットになるか、夜道で光るファンクなパンツを一生被って余生を過ごすかの究極の二択を迫られるというわけだ。
そんな呪いのアイテムの着用義務を課せられた上にそれを怠れば破門と言いつけられた鈴仙ではあるが、こんなもの穿いてるところを見られるくらいなら死んだ方がマシだとばかりにこれを穿く日には絶対空を飛ばないし、外出も極力控えている。
そのせいで着用しているところを目撃した者は一人としていない。
私のスカートめくりすら本気でガードされたのだから間違いない。
特に外部の者には噂のみが伝わり、幻の装備品として都市伝説的に語られているらしい。
それでもなお師に対する尊敬と敬慕の念を絶やさない鈴仙は真の忠義者だといえるだろう。
我が友ながらいたわしや……。
月の煩悩の渾身の一作に二人でひとしきり生温かい目を向けてから、この場はお開きになった。
まあとりあえず、今日家から割り当てられた仕事は終わりだ。
洗濯物を取り込んだり畳んで持ち主の部屋に運んだりするのは洗濯係二班の仕事だ。
「それじゃ、私は出かけるよ。鈴仙には夕飯までには戻るって言っといて 」
そう言って中庭から直接飛び立つ。
「はい、お姉さま。行ってらっしゃい 」
笑顔で手を振る彼女に軽く手を振り返して、私はその場を後にした。
***************
一人で歩く竹林はいつも通りそっけない。
姫様と一緒になって風雅を楽しむのも嫌いじゃないが、やはり私には風景の一つ一つに一喜一憂するよりもさっさと歩き去る方が性にあっている。
何より、詩的な詐欺師など胡散臭いことこの上なくて仕事にならない。
「……ん?」
益体もないことを考えつつ歩いていたら、どこかから生き物の気配がした。
妖気は……弱いな、人間か。
数は……一人。
何かの理由で竹林に入った人間が迷ってしまったってところかな。
竹林内の迷い人の案内は一応私の仕事ということになっている。
実際竹林には危険な妖怪や動物もいるにはいるが、基本的には私たちうさぎがほとんどなので迷い続けてもそこまで危ないうわけではないけど。
まあ面倒でも仕事は仕事だし、夕飯時まで時間をつぶすにはちょうどいいか。
色とつやが自慢の白い耳を頼りに、気配のする方へ向うことにした。
「……なるほどね 」
気配のもとにたどり着くと、特徴的な格好をした大柄な男が一人道に迷っていた。
肩から背中にかけてはカモシカの一枚皮、頭には防寒用の笠をかぶり背中には狩猟銃を背負っている。
こんな季節はずれの重装備をして医者を呼びに来たわけでもないだろう。
それにこの格好、知っている。
マタギだ。
「ねぇ 」
気配を殺して後ろから声をかけると、マタギは鋭い動作で熊槍を構えてこちらを振り向いた。
予想通りの反応にまずは満足。
見立てどおり相当長い間彷徨っていたらしく、かなり神経質になっている。
「道に迷ったんでしょ? 案内してあげる。人間の里まで。着いてきなよ 」
それだけ言って背を向けて私は歩き始めた。
まだ警戒しているようだが、ずいぶんと距離を空けてついてきたのが気配でわかる。
そう、それでいい。
人間の方向感覚じゃ、一生かけてもここから抜け出せやしない。
どうしてこんな場所で迷っているのかとか、何しに竹林に入ったのかとか、普段なら案内の道すがらするような世間話はしない。
黙って歩いた。
あの格好はどう考えても狩猟者のそれで、竹林には他の妖怪や動物もいるにはいるが、基本的には私たちうさぎがほとんどで。
つまりはそういうことだろう。
透明な竹林の空気に、背後から漂う生臭いにおいが絡み付いている。
さっさとこんな仕事終わらせよう。
しばらく黙々と歩を進めた。
竹林の静寂にマタギの履いている特殊な草鞋の足音が水を差している。
さて……そろそろだな。
人間の里までもう少しあるが、ここから先は案内の必要もない。
私は振り返る。
「ここからは道なりに行けば里に着けるよ。それじゃ、道中気をつけてねー 」
最後ににっこり微笑んでやって、一足飛びでさっさとその場を後にした。
このくらいのスピードなら人間の目ではまず捉えきれないだろう。
立ち去ったように見せかけて近くの密生した竹の陰から見ていると、マタギは突然姿を消した私に少しとまどっている様子で呆けていたが、すぐに気を取り直して私の示した方向に向けて歩き出す。
よし、それでいい。
コースもぴったりだ。
私は心の中で秒読みを開始する。
3……2……1……
次の瞬間――
――ズボッ。
何度聞いても小気味のいい鈍い音と共に私の視界からマタギの姿が消えた。
彼が先程足を踏み出した地面には直径1メートルほどの穴がぽっかりと口を開けている。
「なんだ! いったいどういうことだ! 」
マタギの叫び声が聞こえる。
気に食わない迷い人をコケにするために私が掘っておいた落とし穴、それにみごとに引っかかって混乱している様子だ。
うん、実に愉快。
完璧な誘導で見事にトラップを発動させた手腕に我ながら惚れ惚れする。
「あははははは。ひっかかったひっかかったー! 」
その様子を私は腹を抱えて笑いながら、思いきりはやし立ててやった。
穴を覗き込むと、大の大人が落とし穴なんていう子供じみた罠に引っかかって顔を真っ赤にしているのが見えた。
激怒しているマタギの罵声を気持ちよく身に受けながら、にこやかに伝える。
「さっき言ったとおり、ここからは道なりにあっちに進めば里に帰れるよ。ま、生きてさえいればね。それじゃ、今度こそ道中気をつけて 」
最後に最高に意地の悪い笑顔で優雅に手を振って、私はゆうゆうと歩いてその場を後にした。
相当気合を入れて掘った上に毎日点検も欠かさなかった渾身の落とし穴だ。
あの穴から出るのには装備を整えたマタギでもそれなりに時間がかかるだろう。
その間に凶暴な妖怪にでも襲われてはひとたまりもないだろうが、幸運の白兎たる私に会えた時点で、何をどうしたところであの迷い人は無事に帰れることは決まっているのだ。
たとえば私が彼を殺そうとしたとしても。
こんないたずらをしていたら、また閻魔から長い説教をされるだろうか。
それとも、慧音に懲りない奴だと頭突きをされるだろうか。
なんだって構わない。
誰に何を言われたとも、私が懲りることはない。
竹林を一人歩きながら、私は知らず物思いに耽っていた。
***************
うんさりするほどの数の同胞を見殺しにしてきた。
数え切れないほどの家族や仲間を目の前で失った。
時に腹をすかせた猛禽の羽ばたきに草葉の陰で震え、時に二足の獣に面白半分に追い立てられて必死で逃げ惑った。
罠にかかった親友の迂闊をなじり、変わり果てた恋人の姿を前に唇を噛み、捕らえられた妹のことはただ見送ることしか出来なかった。
その度にどれだけ涙を流したか、もうとっくに枯れてしまった。
その度にどれだけ己の生まれたうさぎという種を呪ったか、私達には希望などなかった。
もしもこの身に翼があったならば、誰の手も届かぬところへと逃げおおせたのに。
もしもこの身に角でも牙でも爪でもいい、何か武器があったならば、一矢報いることが出来たのに。
この運命を変えたい。
奴らに復讐してやりたい。
せめて平和に生きていたい。
私はただただ妖になることだけを夢見て生き続けた。
地面に這いつくばって泥を啜り、悔しさと惨めさをかみ締めながら無様に生き伸びた。
幾度となく死を覚悟し、同じ数だけの運と生き意地の汚さでなんとか永らえた。
そしてその果てに化生した私に与えられた力――
それはあれほど憎んでいた人間共を幸せにする能力……。
これはいったいなんの冗談だ。
死に物狂いで生にしがみついてきた私を、この惨めな一羽のうさぎを見守る神などどこにも存在しないのか。
復讐心に支えられて生きてきた私が文字通り命懸け勝ち取ったと思ったのは、忌々しいくそったれな冒涜者への慈愛の具現だった。
妖怪となって初めて殺してやろうとした人間の、無様な命乞いの声。
今でも覚えている。
――や、やめてくれ。し、し、死にたくない……。
涙でぐしゃぐしゃの顔で失禁しながら許しを乞うその言葉は、えらく私をしらけさせた。
見逃してやった後で思った。
私が今しらけて殺す気を失ったことすら、この忌々しい能力があいつに与えた幸福なのだろうか。
やってられない。
一人でも多くの人間を騙して陰で嗤って馬鹿にしてでもいないと、とてもじゃないがやってられない。
これはあてつけだ。
神なきわが身のなせる小さな復讐だ。
目的を一つ失った私はそうして自分を騙すしかなかった。
そしてせめて、残ったもうひとつの目的――力なき仲間を守っていくことを誓った。
……その頃だったろうか。
私の竹林にあの不死人二人が現れたのは。
***************
ムクドリの群れのギャーギャーとうるさいのを聞いて、もうずいぶんと日も暮れてしまったことに気づいた。
ずいぶんと長い間、昔のことを思いながらぼんやりしていたらしい。
「我ながららしくない。姫のぼんやり病が移ったかなぁ 」
なんとなく気恥ずかしくて苦笑混じりの独り言が飛び出した。
汗も出てないのに左のポッケからハンカチを出して顔を拭ったりしてみる。
決して涙がにじんでいたわけではない。
今日はおいしいおいしいたけのこご飯のはず。
今頃は洗濯物もしまわれて夕餉の支度も済んだ頃だろう。
帰って春の味覚を楽しむとしよう。
私は気を取り直して、濃紺の空を永遠亭へと向かって飛んだ。
薄水色と茜色の融け合う西空の端を見ながら明日も晴れかな、なんてぼんやり思った。
***************
結論を先に言うと、夕飯はとてもおいしかった。
春の香りを感じさせるすっきりした風味と歯ごたえに、最近料理の腕を上げつつある鈴仙の絶妙な味付けも相俟って、お師匠様も姫も大満足の素敵なご馳走だった。
我ながらいい仕事をしたと鼻高々な姫様の勅命により、後日うさぎによる大規模なたけのこ掘りが行われることになった。
人選と指揮は鈴仙に一任されたので、私もそのメンバーに入れてもらえるよう頼んでおこう。
さて、食後の世間話もほどほどに、楽しい晩餐の余韻に浸りながら永遠亭の廊下を歩くも、周囲への警戒は怠らない。
私にはまだやらなければいけない仕事が残っている。
油断なく歩を進めながら、一度ポケットに右手を突っ込む。
指先に触れる上質な手触りは今回の計画のターゲット。
昼に若うさぎとの話題に上った鈴仙の特注縞パンである。
発端はブン屋から聞いた噂話だった。
半ば都市伝説と化している幻のうどんげパンツを求める好事家が、アンダーグラウンドの有力者の中に複数いるらしい……。
それを聞いた時から私は計画を練り始めた。
ただでさえ人里にファンの多い鈴仙の名前入り愛用(?)特注下着だ。
恐らく地下の闇競売にかければ相当な額までつりあがるはず。
だが私が直接出品したのでは足がつきかねないし、何より私にはアンダーグラウンドへの直接のパイプがない。
それなら地下世界への人脈を持った部外者を経由すればいい。
魔法の森の古道具屋の店主は表面上では一趣味人を装いながら、裏では地下競売の常連として相当に顔の利く裏世界の窓口のような男だ。
奴を経由しての出品を頼むか、もしくは直接高値で奴に売りつけよう。
その折には、森近霖之助に間違っても自分で着用したりしないように言っておかないと。
高確率でふんどし店主から縞パン店主への最悪のクラスチェンジが起ることになる。
忘れず伝えよう。
あの朴念仁を装った偏執狂なら滅多なことでは疑いを向けられることもないだろうし、足がつくようなヘマも踏まない。
さらにあの下着の術式に紛失時の為の座標特定機能が織り込まれていないことは、以前姫とふざけて行った「イナバのパンツ解析ごっこ」で調査済みだ。
痕跡さえ残さねばお師匠様の追跡も届かないはずだ。
しかし問題は如何にしてモノを手に入れるかだった。
自慢じゃないが日ごろの行いの悪さは折り紙つき、何か家で問題が起きれば私が真っ先に第一容疑者として疑われることになっている。
紛失時の確かなアリバイを形成する必要があった。
そこでまず、私の外出中に下着がなくなったことの証人として、あの若うさぎに目をつけた。
私が何を言っても疑われるが、他でもないあの子が証言すれば信憑性は高い。
なにせ嘘をつけば百発百中で見破られるくらい私と正反対な素直でいい子だ。
あの若うさぎと二人での洗濯当番と、その前日に七日に一度のうどんげパンツの日が重なるのを私は辛抱強く待った。
そして、半年待って遂に望んでいた日がやってきた。
あとは素直で騙されやすいよい子の目を少し欺いてやるだけの簡単な仕事だ。
香霖堂で手に入れた「長時間日光に当たると消える絵の具」で真っ白なパンツに細工して、本物そっくりなダミーのうどんげパンツをあらかじめ作成、洗濯作業中に相方の目を盗んでダミーを本物とすり替える。
その上で洗濯終了時点で趣味の悪いパンツが確かにそこにあったのだとこれ見よがしに記憶に植えつけて、あとは洗濯物の取り込まれる時間帯まで外で時間をつぶしていればいい。
洗濯物を干し終わってから数時間で物干し場からクレイジーな縞パンが一枚消え、代わりに何の変哲もない白パンが残る。
その間私は館にいないのだから私が盗むのは不可能、というわけだ。
外にいる間の行動を証言してくれる者も用意すべきかと考えもしたが、完璧すぎるアリバイは逆に疑念を生む。
私の場合特に。
あくまで自然にいつも通り竹林をぶらついていればいい。
これで私には相当な額の金が入り、鈴仙はしばらくの間悪趣味な下着を履かなくても済むようになる。
着用義務を履行しなければ破門ということになっているが、お師匠様だって本気で真心込めてあんなもの送るほどの変人じゃない。
いつも熱心な鈴仙への労いの品をあげたくて、そのついでにかわいい弟子のちょっと困る顔を見たかっただけなのだ。
きっとしばらく探して見つからなければ、ちょっとため息ついて「仕方ないわねぇ」くらいで諦める。
何の過失もない鈴仙が咎められることもないだろう。
そして翌朝には新・うどんげパンツを完成させているに違いないのだ。
私には多額の売却金が入り、鈴仙はしばらく呪いのパンツから解放され、お師匠様はため息一つ分くらいの迷惑がかかるだけで済む、というかむしろ喜んで新しいパンツのデザインを考え始める。
ほぼ誰にも損のない理想的なビジネスだ。
別によい行ないをしたなどとはかけらも思わないが、一介の詐欺うさぎとしてはここまで完璧な仕事ができて満足に思う。
というわけで、計画はここまでは順調に推移している。
あとはこのポケットの中の危険物を誰にも見つからないように自室の衣装箪笥の底にでも隠して、ほとぼりが冷めるの待てばいい。
だが油断は禁物だ。
一流の詐欺師は被害者からの連絡手段を全て断つその瞬間まで対等なビジネスを装う。
目の前のカモの馬鹿面を指差し嗤いたくて引きつる頬を無理やり柔和な笑顔に薄めて隠し、相手の手の届かないところに逃げてからしこたま嗤うのだ。
つまり一言で言えば、遠足は帰るまでが遠足。
今回の計画もモノを安全な場所に保管するまでは気を抜くわけには行かない。
あくまで自然を装ったまま、床板の軋む音の一つにまで注意を払って歩を進める。
次の角を曲がれば私の部屋に着く。
セーフティゾーンまであと少しだ。
と、廊下の向こうからどたばたと騒がしい足音が近づいてくる。
大方鈴仙が下着のなくなったのに気づいて、とりあえず第一容疑者の私を問い詰める為に目を三角にして走ってきているのだろう。
オーケー、思ったより早かったが予想の範囲内だ。
日夜月の頭脳と腹の探りあい(主に研究室へのいたずらをしらばっくれる為)を行っている私にとってあんな世間知らずなうさぎの一羽や二羽謀るくらい造作もないこと。
何を聞かれても驚いたり本気で心配してやったりすればころっとごまかせる。
何の問題もない。
「てゐ~ 」
しかし予想に反して角の向こうから私の名を呼ぶ声に怒気はなく、むしろ弱々しい。
おかしい。
別件か?
……いや、それともまさか――
私が一つの可能性に思い至るとほぼ同時に、角を曲がってきた鈴仙の潤んだ瞳と目が合った。
「どうしよう。師匠からもらった下着……なくなっちゃった…… 」
張っていた気が私に会って抜けたのか、鈴仙は言うなりぺたんと廊下にへたり込み、すんでのところで留まっていたらしい水滴が両の眼からほろりとあふれ出した。
……やはりそうか。
いやな予感の当たったことを確信する。
考えてみれば、見た目はアレでも鈴仙にとっては定期的に穿かなければ破門という、いわば師弟の絆をつなぐ大切なもの。
それがなくなったのだから、確かに鈴仙の性格から考えれば冷静に犯人探しをするよりも慌てふためきそうなものだ。
普段は落ち着いてお姉さんぶっているのに、仲間を失うことを異常に恐れる性格だからなぁ。
落ち着いて考えれば、鈴仙に何の落ち度もないのだからお師匠様だって破門になんかしやしないのに。
まあいい、適当になだめつつ一緒になって見当違いな場所を探してやろう。
予想外の出来事ではあったがまだまだ修正の効く範囲だ。
「ねえ、ちょっと落ち着きなよ鈴仙。大丈夫だからさ 」
「どうしよう……。私、破門になっちゃう……」
私の声が聞こえているのかいないのか、鈴仙はうつむいて泣き続けていた。
――ぽたっ。
頬を伝った涙が、雫になって床に落ちる。
――嫌な記憶が蘇った。
じたばたともがく妹の影を、私は息を殺して泣きながら見ていた。
滴り落ちた涙の雫は音を立てたはずもないのに、私の耳には地に落ちた水滴の弾ける悲しい音が、確かに聞こえた気がした。
……もう、あんな思いはしたくない。
考えたわけではない。
ただ零れ落ちる涙を見ていたくなかった。
それだけ。
「え……? 」
鈴仙の戸惑った声。
気づいたら私は右手を伸ばして、泣きじゃくる親友の涙を拭おうとしていた。
――鈴仙の縞パンで。
……瞬間、私の中で確かに時間が止まった。
ま ち が え た!
今日はハンカチは左のポケットに入れてるんだった……!
しまった……。
何も考えずにハンカチを出そうとしたから、本来の定位置である右ポケットに手が勝手に動いたんだ。
事態を把握出来ずにいる鈴仙の潤んだ瞳がこちらを見ている。
いかん、どうしよう……
なんとかしてごまかさないと……
静止した上に何故か白黒な世界の中で私は頭をフル稼働させる。
動揺した状態のまま私は口を開いた。
「い、いや、私の洗濯物にまぎれてたからさ。今鈴仙とこ行こうと思ったところだったのに、いきなり泣き出すんだもん。びっくりしちゃったよ 」
脳みそフル回転ででまかせを口にしていたら何とか平常心が戻ってきた。
さらに、軽く目を逸らして頬を膨らませながらつけたす。
「……本当は知らん振りしてちょっとからかってやろうかなって思ってたところだったのにな…… 」
やさしげなため息なんかつきながら今度こそ左ポケットから出したハンカチで鈴仙の頬をやさしく拭ってやる。
よし。
ここ一番で我ながら最高の演技が出た。
土壇場で頼りになるのは日夜積み重ねてきた努力だけだ。
やっぱりうそは日ごろからついておくもんだな。
そんな私の思考をよそに、鈴仙が未だに現実味のなさそうな表情でつぶやいた。
「よかった。……よかった。私、もう永遠亭にいられないのかなって……もうみんなと一緒に、暮らせないのかなって……」
かみ締めるように出した後半の声は涙でかすれている。
安心したらさらに涙があふれてきたみたいだ。
やれやれ。
今度は演技でなく自然と、やさしいため息が漏れた。
へたり込んだままの親友の頭をやさしく抱いて撫でてやる。
こうするのも久しぶりだな。
「大丈夫だよ、鈴仙。私たちは家族だもん。ずぅっと一緒にいられるよ。だから大丈夫。ね? 」
静かに嗚咽を続ける鈴仙の涙が胸にあたたかくしみこむ。
やれやれ。
まあ……いいかな、これで。
下着の件からは手を引こう。
楽して儲ける手段なんて、ほかにいくらでもあるんだし。
この胸のあたたかみはそんなものよりずっと価値あるもののはずだ。
詐欺師としては三流な行為だったけど、とっさに動いた私の右手は存外にいい仕事をしたのかもしれない。
鈴仙のさらさらな髪をなでてやりながらそんなことを思った。
***************
しばらくして落ち着いた鈴仙を部屋に送った後、なんとなく廊下をぶらついて縁側に来ていた。
縁側に腰掛けて足をぶらぶらさせながら、見るとはなしに裏庭を眺めた。
淡い月明かりに照らされたにんじん畑が見える。
永遠亭の家庭菜園は私が積極的に指揮をとって進めてきた。
最初こそ難儀したものの、永琳様と相談しながら品種改良や環境管理を行って、今では味も栄養価も最高のものがたくさん取れるようになった。
もうウチだけでは消費できないほどで、外訪の手土産なんかにひと籠持って行けば大抵喜ばれるし、わざわざ冥界から買い付けに来るものまでいるほどだ。
数え切れないほどいる仲間たちが飢えに困らず済むように、おいしいものを食べて長生き出来るように――商業目的を謳って立案したその裏の真意は確実に達成されている。
「隣、いいかしら 」
ぼんやりしていたら背中につやのあるアルトボイスが降ってきた。
「ん、どうぞ 」
応えながら振り向くと、そこにいたのは思ったとおり月の賢者だった。
お師匠様は鈴仙の耳一本分くらいの間をとって腰を下ろして、その溝に静かにお盆を置いた。
半月形のお盆の上には首に二つお猪口を引っさげた徳利が一本。
「あなたもどう? 」
「じゃあ少しだけ 」
就寝前の微量のアルコールは、まあ体にも悪くない。
わざわざ私のお猪口まで用意してここへ来たのに、お師匠様は話しかけてくることもなく、雲の薄くかかった月を眺めて静かに杯を口元へ運んでいる。
しばらくは二人とも黙ったまま、春風に髪が揺れるに任せていた。
「あの子がああやって泣き出すのも、ずいぶん久しぶりね 」
「……なんだ。やっぱり見てたんだ 」
この分だときっと私の計画もお見通しだったのだろう。
まあ、怒ってないようだからいいけど。
「あなたの面倒見いいところを見るのも久しぶり 」
くすくすと上機嫌に笑う。
なんだ、からかいに来たのか。
「久しぶりも何も、私は面倒見よくなんかないですし 」
「あら、会ってすぐの頃はうさぎ達のリーダーらしくすごく面倒見よかったじゃない 」
出会ってすぐの頃……
あの頃は内心必死だった。
竹林で唯一の妖怪うさぎとして何とかして他の仲間を守らなきゃと思った。
逆立ちしても敵わない月人二人を何とかして敵にだけは回さないように小賢しい取引なんか持ち出した。
仲間に危険が及ばないよう、戦い、騙し、過保護なほどにうさぎ達の世話を焼いた。
「でもやっぱり、私はリーダーなんて柄じゃありませんよ 」
ふらふらしながら他人を騙して回ってる方が性に合ってる。
「あなたがそう思っている以上はそうなのかもしれないわね。それでもウチのうさぎたちが誰よりあなたの言うことを一番に聞くのは、いたずらやうそに隠れたあなたの思いが少なからず伝わっている証拠よ 」
「……なんのことやら。私もずいぶんと買いかぶられたもんですね 」
月の賢者のやけに楽しそうな笑顔が癪だったのでため息ついてそっぽを向く。
やれやれ。
やけに昔のことを思い出させられる一日だ。
まったくもって調子が狂う。
こんなことだから、酒の勢いに任せてついどうでもいいことを聞いてしまうんだ。
「ねぇ、えーりん 」
自然体で話す。
これは私と永琳の間では本音で話すときの礼儀のようなものだ。
「えーりんは何を目的にして生きてる? やっぱり、姫様を守ること? それとも研究活動を続けること? 」
あれほど憎んでいた人間達への復讐は結局成せなかった。
私以外にも妖兎が増えた上に姫もお師匠様も鈴仙もいるから、私がうさぎを守る必要もない。
目的の為に生きていた私はどこかへ消えて、今の私は日々をしょうもないいたずらや詐欺の為に費やしている。
「もちろん、この身を賭して姫様を守り続けることよ。……なんて少し前の私ならそう言ったでしょうね 」
普段あまり見せない寂しそうな苦笑いを浮かべる横顔を黙って見つめた。
「多分、今の私には生きる理由なんてものはないわね――あ、もちろん輝夜のことは生涯をかけて守っていくつもりではあるけれど 」
そうねぇ、永琳は月を見上げて呟く。
「強いて言えばこの永遠亭の家族を大切にすることかしら。永夜の日以降隠れる必要もなくなって、必死になって姫を守る必要もなくて。肩の力を抜いてみたらこの日常が愛おしくなった。私も地上の穢れってやつに毒されたのかもしれないわね 」
私に向けられた永琳の瞳には、私に対する家族愛も灯っているのだろうか。
あたたかい目をしている。
「いえ、きっと気づいたんでしょうね。生きるのに目的なんて必要なくて、傍らに共に歩めるひとがいることが大事なんだって。だから皆そんなひとを守る為に命を懸けるのね 」
母のような優しい笑顔。
「今の私にとってはこの永遠亭の者達皆が共に歩む家族よ 」
家族か……。
うん。
やっぱり、我ながらつまらない質問をした。
わかってる。
どんなにひねくれて見せたって、私にとっても永遠亭のみんなは大切な家族だ。
一緒にいて心地いいからここにいる。
それでいい。
血眼になって目的を追っていたときには気づけなかった家族のあたたかみが、今の私のもとにはある。
家族を大切にしろと言ってきたのは確か閻魔だったか。
言われるまでもない。
私は私のやり方で家族を愛している。
傍目に少し珍奇でも、私達はしっかり支えあっている。
ただ一方的に守ろうと思っていた頃の私や永琳にはわからなかったしあわせだ。
「どうかしら。参考になった? 」
お師匠様がにっこりと微笑みながら私を見てくる。
ある程度付き合いの長い私は、これがお師匠様流のニヤニヤであると知っている。
いや、単に似たもの同士だからわかるだけか。
「別に? 会話に困ったからなんとなく聞いてみただけだよ 」
「そう? それならよかったわ 」
ふふふ。
お互い含み笑いをしながら杯を交わす。
黙して交わせどささげる先はきっと同じ。
――私たちの大切な家族に。
しずかな月明かりの下で乾した杯は、私の胸にやさしくしみ込んだ。
少し酔ったお師匠様がどさくさで頭をわしわしと撫でてくるが、今日くらいは大目に見よう。
こんなにも気分がよいのだから。
今宵も竹林に吹く風は涼しく、月明りはあたたかく私達を見守っている。
目元が酒気で火照るのが心地よい。
明日はどんないたずらをしようかな。
個人的には鈴仙のパンツ辺りがちょっとこの作品の雰囲気にはそぐわないような気がしましたが、一応ストーリーを引き立てるポイントとして活用されていたのは後半での驚きでしたww
ともあれ、生きることに必死だった時代を超えて、今をのんびり過ごしている幸せ兎と優雅な姫様、寂しがり屋の鈴仙にお茶目な永琳……良い永遠亭でした。
穏やかな感じで素晴らしかったです!
てゐのくらい過去って言うのはあんまり見ないけど、なるほどと思った
縞パンで涙を拭った時に死亡フラグが立ったと思ったがそんなことはなかった
おもしろかった
楽しませてもらいました
いいなあ。このてゐ、すごくいいです……!
永遠亭組の描写も魅力的ですし(特に姫様!)、風景の美しさは目に見えるよう。あとぱんつ。
忘れられない一作になりそうです。ごちそうさまでした!
とても暖かい気持ちなれました。
しかし縞パンw
過去の思い出でグッときて、間のギャグシーンで笑い、最後は良い感じにほっこり。
てゐ視点オンリーのお話を読む機会が今まであまり無かったので、その点が私は新鮮に感じました。
いい感じの永遠亭ですね
それぞれのキャラもいいです
面白かったです。
いいね
うさぎ、泣くよ。
ウチうさぎは先月結膜炎で泣き続けてた。
奥歯の伸びすぎとかで泣くこともあるとか。
本音を言わない詐欺師が心の中にこんなに熱く健全な思いを抱えているかと思うと感慨もひとしおです。
寂しがり屋の鈴仙も、無邪気な姫も慈愛に満ちた永琳も、すごく愛にあふれている永遠亭で、それがとても微笑ましいです。
ただ、それだけなのに、なぜか素敵です。