ずっと隣で見ていてね――おかーさん。
* * *
「母の日?」
燐と空はそろって声を上げた。同時に目を見合わせる。母の日。二匹とも聞き覚えのない単語だった。
そんな二匹の様子に、早苗がテーブルを挟んだ向こう側から微笑みながら言った。
「ええ、母の日です。名前の通り、自分の母親に感謝して、プレゼントを贈ったりする日なんですよ。それが、一週間後にあるんですけど」
ご存じないですか? と早苗が小さく首を傾げてみせる。
二匹は、お互いの顔から視線を外すと、早苗の方を向いてこくこくと頷いた。
「そりゃそうだろ」
早苗の隣から、諏訪子が口を挟む。
「結構最近の行事だし。日本で始まったのは昭和だっけか。その上、ただでさえ地底はそういう情報には疎いしね」
お茶受けの餅菓子をひょいと摘みながら言う。食べ過ぎですよ、と早苗がそれを諫める。諏訪子が、また始まった、とばかりに顔をしかめた。
「それじゃ、私も神奈子のところに行かなきゃ」
ぴょんと立ち上がると、早苗の糾弾から逃げるようにして部屋を出ていく。おどけたその姿は神様というイメージからかけ離れていて、燐は笑った。
しかし、それはすぐに苦笑に変わる。
「んぐんぐ」
すぐその隣には、神様に負けじと餅菓子を頬張る空がいたのだった。
燐は肘で空のわき腹をつつく。ちったあ、遠慮したらどうだい、という気持ちを込めて。
それが伝わらないらしい空は、燐を見て不思議そうに首を傾げた。
「うにゅ?」
燐は、もう一度苦笑した。全く、仕方のない友人だ。
皐月に入って、最初の日のこと。
燐は、空を連れて守矢神社まではるばる足を運んでいた。
その前の日、空が「制御棒の調子がおかしい」と訴えたためである。
空の言葉に燐は、こりゃいかん、と慌てた。燐と空の住む地霊殿は、こないだの例の怨霊騒ぎの時に、巫女やスキマの妖怪にペットの監督不行き届きを指摘され、厳重注意を受けたばかりである。燐は主であるさとりから「今後は何かあったら速やかに私に言うように」と言いつけられていたため、この空の不調について即座に報告した。そして言いつけられたのは「明日の仕事はいいから、二人で山の神様に見てもらってきなさい」というものだった。
会話が一段落すると、部屋は自然な静けさに満ちた。
さきほど退室した諏訪子は、神奈子と別の部屋で制御棒を検査しているらしい。部屋にいるのは燐と空と早苗の三人だけだ。三人は、しばし午後の緩やかな時間の流れを楽しんだ。
「でもさ」
思いついたように言ったのは燐だった。
「いいと思うな。母の日」
ずずっとお茶を飲んで、息を吐く。
母の日のことが話題に上った後、それ以外にもいくつか外の世界の祝日や記念日のことについて教えてもらった。でも、燐の印象に残っていたのは、母の日だった。変な話だが、何というか、一番燐の中でしっくりきたのだった。文化の日や海の日という、燐にとってつかみ所のないぼやけた単語の中で、母の日だけがすっと燐の心に入ってきた。あるべくしてある記念日、という心持ちがした。
「私もいいと思う、うん」
同意するように、空がうんうん頷いた。
普通、生物は親なしで産まれてこないし、生きていけない。それは当たり前のことのように思えるけれど、実際にはそうではなかったりする。魑魅魍魎が跋扈するのが、幻想郷。突然なにもないところから生まれる妖怪もいれば、例え親を持っていても、最初から成熟した容姿のまま産まれてきて、親の手を必要としない妖怪もいる。そんな妖怪がありふれた存在として根付く場所だった。
世界に産まれても――いや、そんな世界に産まれたからこそ、燐は自分を育ててくれた存在の有り難みというのを、身にしみて理解しているつもりだった。ただの野良猫からの成り上がりの妖怪である燐は、生まれた頃から妖怪だった者たちのように誰の手も借りずに生きることなど出来ない存在だった。
それは、空も同じ。だから彼女も燐の言葉に頷いてくれたのだ。
燐は、思い浮かべる。自分を、ここまで育ててくれたひとを。感謝すべきひとの顔を。
「お二方のご両親は、どんな方なんですか? やっぱり猫と烏の妖怪で?」
早苗が問いかける。燐は、知らず見つめていた空中から視線を外し、早苗を見た。それから、困ったように頬を掻く。
「いや、あたいは知らないんだ。自分の親のこと。多分、普通の猫だったと思うんだけど、生まれてすぐ捨てられてさ」
「私もー」
「あ……」早苗は、ショックを受けたように口に手を当てた。「済みません、私ったら」
「いやいや、お姉さんが気にすることじゃあないさ。あたいたちもそんなこと気にしたことないし」
おどけたように、燐が肩をすくめながら言った。
「そうそう、もともと顔も覚えてないから悲しいとも感じないし」
空も、笑顔で続けた。
気にしていないのは本当だった。というよりも、気にしようにも、空の言うように顔も覚えてないものだから、気にする方法が解らなかった。本当は、産んでくれた親にもっと感謝すべきなんだろう、しかし――。
燐はそれ以上に感謝すべき存在を知っている。
「それに、私たちにはさとり様がいるから」
空が、はにかんだように微笑んで言った。
そうだ。燐が、今の今まで生きていられた理由。それは、野良猫だった自分にさとりが救いの手を差し伸べてくれたからに他ならなかった。
子猫だった燐は、さとりに拾われ、その側で大きくなった。空も、雛だった頃に拾われてペットとして育てられてきた。
さとりを育ての親と言わず、なんと言おう。
気が付けば燐も、空と同じように笑顔を浮かべていた。内から溢れてくる、もどかしいような恥ずかしいような何ともいえない感情。それが自然と燐を笑顔にした。
早苗も、申し訳なさそうにしていた顔を、緩ませる。
「ふふ、じゃあさとりさんがお二人のお母さんなんですね」
「そういうこと。だから、さとり様にはうんと感謝しなきゃね」
うんうん、と空が首を縦に振った。それから、ひょいと餅菓子に手を伸ばす。燐はその手の先、菓子の乗った皿を見やる。お茶受けにしては多めに盛られていたはずの菓子も、今や半分くらいに減っていた。
燐は、嬉しそうに咀嚼する空のわき腹を軽くつねった。
「ちょっとちょっと」
「んぐ……なに?」
「食べ過ぎ。もうちっとは遠慮したらどうだい」
「そんなことないよ」
早苗が、やりとりを見てくすくす笑う。
「いいんですよ、たくさん食べてください。五月の節句に合わせて神奈子様が作りすぎたんです。全く、私はもう子供じゃないのに」
困ったように眉根を寄せる。燐は、微笑んで言う。
「じゃあ、お姉さんにとっては神様たちが親みたいなもんなんだ」
燐たちの母親が、さとりであるように。
「ええ。神奈子様も諏訪子様も、本当の両親みたいに思ってます」
早苗は、ちょっと恥ずかしそうに小さくはにかんだ。それは、さっきの燐や空の見せた表情と似ていた。そうか、ここにも自分たちとは違う家族の形があるんだ。燐は、そんなことを考えた。
ふと燐の視界の端で、空の手が伸びるのが見えた。その手を、燐はぴしゃりと叩く。
「だから、食べ過ぎだって」
「えー、だってたくさん食べてもいいって」
「それでもそろそろやめときな。夕飯が食べられなくなるよ」
空が、不満そうに口を尖らせた。烏のくちばしのようなその口元に、先ほど食べた餅の餡がついている。
ああもう、と眉をひそめながら、燐はそれを布巾でぬぐってやった。
「うにゅ」
「じっとしてなさいって」
丁寧に拭いてやる。全くもう、こいつは手が掛かるんだから、と心の中で愚痴を言った。
それを、早苗は微笑ましそうに見ている。
「ふふ……さとりさんがお母さんなら、お二人は仲のいい姉妹ですね」
「そうかい?」燐は、ちょっと照れくさくなって頬を掻いた。「ま、確かにこいつは、あたいにとっての妹みたいなものかな。いつまで経っても手の掛かる奴だから」
「む。そんなに手なんて掛かってないもん」
「いいや、掛かってるね。今日だって、あたいが居なかったら守矢神社に辿り着けなかっただろ」
「そんなことないもん」
「あるね。どうせ、二つある神社の区別が付かなくて、迷った末に博麗のお姉さんのところへ行くんだろ」
「そんなこと……」
ないもん、と言おうとして、空の目が泳いだ。図星らしかった。燐はため息を吐く。本当に、手の掛かる妹だこと。
早苗は、そんなやり取りを微笑ましそうに見ていた。
「本当に仲のいい姉妹みたいです」
燐は、少し気恥ずかしくなって頬を掻いた。姉妹か。そう言われるのも、悪くない。
結局、諏訪子たちによれば、制御棒の不調の原因は単なる酷使しすぎとのことだった。考えてみれば空は、仕事での使用に加え、弾幕ごっこでも使いっきりだったのだから、こうなったのも宜なるかな。
過度の使用を控えること、念のため近い内に河童にも見せること、などの二柱のいくつかの注意を受けた後、お世話になりました、と頭を下げて守矢神社を後にした。
「もう少しゆっくりしていっても構いませんのに」
帰りがけ、そう言った早苗に、燐は頭を掻きながら、
「あんまり遅くなると、さとり様が心配するから」
と返した。すると、早苗の残念そうな表情が、みるみる嬉しそうになった。
「お母さんの言いつけなら仕方ないですね」
そう、仕方ない。さとりを怒らせると怖いのだ。
その帰路。
幻想郷の空を横切りながら、燐は、隣を飛ぶ空に話しかける。
「ねえ、おくう。母の日のことだけど」
「うん」
「やっぱりさ、あたいたちもプレゼントとか考えようよ。ほら、あたいたち、今までお世話になってきたし」
「うん。私もそう思ってた」
二匹は、顔を突き合わせる。その顔が、じょじょににやけ面に変わった。
母親を驚かすいたずらを思いついた、子供の顔だ。
「じゃあ、そうしよう」
感謝の気持ちを、あの人へ。
二匹はそれぞれ、大切な人の顔を思い浮かべた。
* * *
燐は、紙袋を抱えて地霊殿の廊下を歩いていた。
抱えているのは、燐がわざわざ地上の人里まで足を運んで入手した品だった。結構探し回る羽目になったが、その甲斐もあって目当ての品を見つけることが出来た。
燐は軽い足取りで、ほくほく顔だ。尻尾も振ってご機嫌である。
母の日は明日に迫っていた。
あの日、空と相談して、お互い別々のものをそれぞれプレゼントすることにした。
燐は、どうしようか迷った末に、地上の珍しいお酒を贈ることにした。
早苗が言うには、母の日にはカーネーションを贈るのが一般的らしい。しかし、燐はそれを早々に選択肢から外していた。そんな安直なもの、空が選ぶに決まっている。単純な彼女のことだ、カーネーションをいっぱい束ねた花束を笑顔で渡す、そうに決まってる。
確かにそれをもらったら嬉しいだろう。しかし。
燐は、一人笑みを浮かべた。
ぎゅっと紙袋を抱きしめると、中の酒瓶の硬質な感触が返ってくる。燐には、カーネーションなどと言うありきたりなプレゼントよりも、自分の選んだプレゼントの方が喜んでもらえる自信があった。
ああ見えてさとりは、酒豪の多い幻想郷の面々に負けず劣らずのお酒好きだ。しかし、地上にめったに出ることはない彼女は、地上のお酒は飲みたくても飲めない。そこで、すかさず燐がこの珍しい地上のお酒を贈るのだ。
まあ嬉しい、ありがとうお燐。
きっとそう誉めてくれる。完璧だ、この勝負は頂いた。
別に競っているわけではないのに、意味もなく勝ち誇った気分になった。
機嫌よく尻尾を振って歩きながら、燐は主の喜ぶ顔を思い浮かべる。その心を読む能力の所為で、サプライズ企画として成り立たないのが残念だが、それでも喜んでくれるに違いない。
「お」
ダイニングの入り口を通りすぎようとした燐は、そこで足を止めた。
扉が少しだけ開いて、光が漏れている。中に動くひとの気配があった。
気づかれないように、中をそっと覗き込む。
そこには、テーブルに向かって作業をする、誰かの背中があった。
こちらからは後ろ姿しか見えないが、それが誰だかすぐに解った。長い黒髪に、緑のリボン、大きな濡れ羽色の黒々とした羽。
空だった。
傍らには、カーネーションの花束が置かれていた。真っ赤なカーネーションの、大きな花束だ。
なるほど、あれがプレゼントか。
読み通りだ。やっぱおくうは単純だな、と燐はほくそ笑む。
いつの間にか、燐の頭の中では、どちらの方がさとりに喜んでもらえるかの勝負になりつつあった。
母の日にカーネーションだなんて芸がない、と燐は思う。
ただ、その大きさは目を見張るものがあった。どこで見繕ってもらったのか、普通のものよりも一回りも二回りも大きく見える。まるで、花束が二つ合わさったかのような大きさ。
「大きければいいというわけではないけどね」
燐は苦笑する。彼女らしい、分かりやすいくらいの直球勝負である。
花束ばかりに目が行っていた燐だったが、やがて空の姿に目を戻す。
空は、花束を傍らに置きながら、テーブルに向かって何かをしているようだった。
ここからではよくわからないが、懸命に何かを書きつけているように見える。文字か、あるいは絵か、それを書き殴っているように燐の目には映った。
メッセージカード、だろうか。
これも早苗の受け売りだが、自分の感謝の気持ちを、カードに書いて花束などに挟んで贈ることもあるらしい。
なるほど、おくうはおくうなりに考えているんだな。燐は感心したように頷いた。
しばらくその後ろ姿を眺め続けていると、やがて空は作業の手を止めた。
書き上がったカードを手に持って掲げると、それを光に透かすようにしてじっと眺める。
しばらくそうした後、何が気に入らないのか、それをぐちゃぐちゃに丸めて放り投げてしまった。それからすぐに、新しいカードに書き込み始める。
なかなか納得の行く物が出来ないのだろうか。
燐はぼんやりとその様子を観察していた。
何故だか、いつの間にかその背中から、目が離せなくなっていた。
その背中には、見覚えがある。ずっと昔に、その背中を燐はずっと見ていた気がした。
いつだったっけ。
思いだそうとして、燐は目をつむる。
(出来たっ!)
(どれどれ……って、また「あ」がぐちゃぐちゃになってるじゃないか。「ね」も「わ」とごっちゃになってるし)
(えーいいじゃん。そのくらい)
(だーめ。ったく、物覚えが悪い子だねあんたは)
(うにゅ。難しい)
瞼の裏に、懐かしいやりとりが映し出される。
それは、空との思い出だった。
空が、ひらがなの書き取り練習をしている。それを隣で、燐が付きっきりで教えていた。
そう言えば、そんなこともあったっけ。燐は懐かしく感じながら思い返す。
あの当時、さとりは放任主義でペット任せだった。だから、人型化出来るようになったばかりで右も左も解らない空の教育は、先輩である燐が一任していたのだった。
ずいぶんと懐かしいことを思い出してしまったものだ。空の、テーブルに向かって書き殴る姿が、燐にその思い出を想起させたらしい。不器用にも、熱心に突き進む姿が、あの日の光景と重なって見えた。
あのころは、ずっと一緒だったっけ。
燐が散歩に出ると、空も後を追いかけてきた。一緒に遊んだ。お箸の使い方も、燐が教えた。ひらがなも、カタカナも漢字も、燐が教えたのだった。
物覚えの人一倍悪い奴だった。
特に、漢字は教えるのに苦労した。
せめて自分や、さとりや燐の名前くらいは書けるようになってほしくて、めげずに繰り返し教えた。
空も熱意だけはあった。
が、そのたった数個の漢字を書けるようになるのに、どれくらいかかったことか。一つ覚えたら一つ忘れるで、なかなか先に進みやしない。
「燐」ってどう書くんだっけ、その問いを何度聞いたことか。
――全く、昔から手の掛かる奴だったなあ。
燐は、懐かしい気持ちのままカードを書く空の背中を見守った。
――どうせ、あいつは覚えてないんだろうけど。
空は、未だにテーブルにかじりついている。
背中からでも、一生懸命な様子が伝わってくる。しかし、なかなか出来上がらないのを見ると、かなり難航しているらしい。
ふっと燐は表情を和らげた。
やれやれ、ほんとしょうがないんだから。ため息を吐く。
多分、懐かしい記憶を掘り起こしてしまったからだろう。急に、空にお節介を焼いてやりたくなった。
燐は、足をダイニングへと踏みだそうとする。どれ、手の掛かる妹分に、お姉さんが手を貸してやろうじゃないか。そんな気分だった。
「出来たっ!」
空が、唐突に声を上げた。驚いて、燐は踏み込もうとした足を止めてしまう。
見れば、空が嬉しそうに書き上げたカードを掲げていた。
燐は、目を丸くした。呆然とその様子を見つめる。
「あ、お燐。居たの?」
空が、燐のことに気づいて振り返った。さっとカードを後ろに隠して、恥ずかしそうに微笑む。燐はそこでやっと我に返った。
重なって見えていたはずの過去の空の姿が、霞んで消えた。
――そうか。もうこんなに時間が経ったんだ。姉妹ごっこをしていたときから。
そんな感慨が、燐の胸に去来した。
おくうは、もうあたいの助けがなくても字が書けるんだ。そんな当たり前のことを、燐は染み入るように感じた。
それは「姉」として少し誇らしいことだった。
でも、なんとなく寂しい。
* * *
母の日、当日。
「ねえねえお燐。刷り込みって知ってる?」
「え?」
こいしの発言はいつだって唐突だ。その発言も、そんな彼女らしい話題の振り方だった。
お酒の入った彼女は、いつもの笑顔を一層濃く顔に貼り付けて、上気した顔で燐に話しかけた。
「いえ、知らないです。何ですか、急に」
燐の言葉にこいしは何が可笑しいのか、「えへへ」と笑う。
ただでさえさとりと違って饒舌なこいしだが、お酒が入るとそれに一層磨きがかかる。喋りたいことをずっと喋り続けるのだ。火が着いたら、燐に止めるすべはない。絡まれたが最後、その相手を延々としなければならない。
「うふふ……」
さとりはソファに腰掛け、それを遠目ににやにやと眺めていた。
傍目からは分かりにくいが、そのにやりと陰湿そうに口の端を吊り上げて笑うのが、彼女なりの満面の笑みなのだった。燐はそれを知っている。だから、母の日のプレゼントとしてこの酒を渡したとき、その表情をさとりが見せたのが心底嬉しかった。プレゼントして良かった、と素直に思った。
そのお酒は、さとりの手に渡るとすぐに開けられ、ささやかな宴会が始まった。
出席者は、さとりと、燐とそれと偶然なのかよくわからないがそこに居合わせたこいし。すでにグラスが人数分用意されていたから、恐らくプレゼントの計画はさとりを通してこいしにも筒抜けだったのだろう。
「刷り込みって言うのはね、動物が赤ちゃんのときに行う学習行動の一種なの」
「はあ」
こいしの曖昧に頷きながら、燐はグラスに口をつける。くいと傾けると、苦味と甘みを持った独特な風味が喉を降りていった。美味しい。さすが、時間をかけて見つけただけはある。
「普通、動物の学習っていうのは何度も反復して、長い時間をかけて行われるんだけどね」
――そうだろうなあ。
燐は、空のことを思い出しながら聞いていた。あの、空に付きっきりで字の書き方を教えていたときの記憶。
何度も書き取り練習して、時間をかけて、忘れて、もう一度覚えなおして。物覚えの悪さに、何度投げ出したくなったことか。三歩歩けば忘れる鳥頭、とはよく言ったものだ。
ああいう反復を通して、動物は学習していくのだろう。自分も動物なのに、他人事のように考えた。
それにしても、当の鳥頭ときたら。
燐は、横目で壁にかけられた時計を見た。
二人揃ってプレゼントを渡す約束をしていたはずなのに、時間になっても空は現れる気配がない。折角いいお酒もあるというのに。
まさか、忘れているのではないだろうな。燐は不安になった。
「うふふ」
さとりが何故か、一層嬉しそうに笑った。
こいしは人差し指を立てて、燐に説明を続ける。
「でも、赤ちゃんの期間には、とある特定の物事だけは一瞬にして記憶されちゃうの。無意識の中に一瞬で放り込まれちゃう感じ。有名なのは、雛鳥が動く物体を母親だと勘違いして覚えてしまう奴ね」
「ああ、それなら知ってます。アヒルとか鴨とか」
「そうそう」
ぐびりとこいしがグラスを飲み干す。
もしかしたら、ペットたちはみんなさとりを母親だと勘違いしてるのかもしれない。
そんなことをふと思った。燐や空が、こうやってさとりを慕うように。燐の感謝の気持ちも、無意識の中に深く刻まれているのかもしれない。
「子供のころの話だけど、でも案外、大人になってからもその影響が残ったりするらしいよ。ちなみに、刷り込みという名称は、動物の赤ちゃんの頭の中に、物事が一瞬で印刷されたみたいに見えるから。以上、無意識ソムリエ・古明地こいしによる刷り込み講座でしたっ!」
唐突に始められた講座は、意図もわからないまま唐突に終わった。
燐は苦笑しながら、拍手をした。かなり投げやりな手のたたき方だったが、こいしは満足そうに胸をそらした。
「だから――」
「遅れましたっ!」
こいしの言葉をさえぎるようにして、勢いよく扉が開かれた。
燐たちが目をやると、そこには真っ赤な花束が足を生やして立っていた。
いや、違う。そう錯覚してしまいそうなほど巨大な花束を両手いっぱいに抱えて、空が立っていた。
「よいしょ」
空が、ふらふらと部屋に入ってくる。前が見えているのかいないのか、その足取りは危なっかしい。それでもやっとのことでソファに座るさとりの前に立つと、その花束を半分に分けて差し出した。
あれ、半分? 燐は首を傾げる。
「はい、さとり様。ハッピー・マザーズ・デイ! です。どうぞ!」
「うふふ。ありがとう」
さとりは両手でそれを受け取る。
大きな真っ赤なカーネーションの花束の半分は、それでも小柄なさとりの手には余るくらいの大きさだった。両腕でそれをかき抱き、口の端を一層吊り上げた。彼女なりの嬉しそうな笑顔だった。
なるほど、あの巨大な花束は、二つ分の花束が合わさっていたのか。燐は納得する。
しかし、違う疑問がすぐに沸いて出た。
余った残り半分は? こいしに渡すつもりだろうか。
燐はこいしの方を見た。
しかし、いつの間にかその姿は掻き消えていた。きょろきょろと部屋を見回すと、さとりの隣でちょこんと腰掛けているのが見えた。なぜかそこに座って、姉妹揃ってにやにやとこちらを眺めている。観戦モード、とそんな単語が頭を過ぎった。
「おくう、その残り半分はどうするんだい?」
燐が問いかける。空は、くるりと体の向きを変えると燐と向かい合った。
「えーとね」
とことこと燐の側まで駆け寄ってくる。手には、残った真っ赤なカーネーション。赤い花が揺れて、香りがはじける。つんと燐の鼻を刺す。
空は、燐の前まで来るとぴたりと静止した。思い出したように、後ろ手にカーネーションを隠す。「えへへ」とはにかんだ。もどかしそうに、嬉しそうに笑みを浮かべた。
燐は、見たことがあった。はにかんだような、その笑顔を。
「お燐、はい!」
花束を手に、空が手を前に突き出す。赤い花たちが、目の前に突きつけられた。燐は、目を丸くする。
視界が、赤で埋め尽くされた。その赤の中に、白いカードがちょこんと頭を出している。
メッセージカード。あのとき、空が必死に書いていたものだ。
白い飾りっけのないカードには、空が書いたらしきイラストが載っていた。
赤い髪と、黒のワンピースと、リボンと耳と尻尾と。
不器用に書かれた妖怪猫が満面の笑みを浮かべていた。
そして、その隣には下手な字で文が添えられている。
『お燐へ いつも一緒に居てくれてありがとうね』
下手糞な字だった。それでも、読めた。
「あ」だってぐちゃぐちゃじゃないし、「ね」だって「わ」と区別できた。燐の字は、縦に間延びしていて不恰好だ。だけどちゃんと、読める。
燐は思い出す。あの、昔の記憶を。
姉妹のように――母子のように付きっきりで勉強を教えてやった日々を。アヒルや鴨が親を追いかけるみたいに、燐の後を着いて回った空の姿を。
燐は頭を振る。
まさか、そんな昔のことおくうが覚えているはずないじゃないか。あの物覚えの悪いおくうが。まさか。
――とある特定の物事だけは一瞬にして記憶されちゃうの。
先ほどのこいしの言葉が、燐の頭を過ぎった。
――案外、大人になってからもその影響が残ったりするらしいよ。
だとしたら、馬鹿だ。馬鹿。
そんなこと覚えてなくても、他に覚えなくちゃいけないことがたくさんあるだろうに。あの馬鹿。
「なっ……」
何か言おうとしたが、言葉にならなかった。
どうしたらいいか解らずに、きょろきょろ周りを見る。
さとりとこいしが視界に入った。観戦モードの二人は、にやにやと意地の悪い笑みでこちらの様子を見ていた。困っている燐を酒の肴にしているのだ。性悪姉妹だ。燐は泣きそうになった。
燐は、仕方なく前へ向き直る。
真っ赤なカーネーションを抱えて、空がこちらをじっと見つめていた。目が合う。
空が笑顔を浮かべた。もどかしいような恥ずかしいような、言いがたい感情を抑えきれないような、あの内から溢れる笑顔だった。
燐は、口を開きかける。しかし、それを空の声がさえぎる。
嬉しそうな元気な声が、部屋いっぱいに木霊する。
「ハッピー・マザーズ・デイ! おかーさん!」
――ああもう、この馬鹿。
何も言えなくなって、燐は真っ赤なカーネーションよりも赤面した。
優しい雰囲気な話で良かったです。
お燐は姉妹と思っていたけど、おくうは母子と思っていたんですね。
鳥の習性を生かし方が良く、なるほどと感心しました。
おかあさとり様、これは流行るだろうか。
見事にやられました。
にやにやというか、微笑ましてもらいました
良作でした。
ほんわか気分になれました。お美事にございます。
母が二人ということは幸せも二倍、いや二乗ですね
お空の無邪気さが眩しい。お燐の面倒見の良さが微笑ましい。二人ともとても良い子。
そして二人をこんな良い子に育てたさとり様マジ母様
おりんくうに新たな可能性を見出しました。こいつあ100点でも足りないGJ!
ステキです。ありがとうございます。
おりんくうはどっちも本当にいい子でほっこりする