ある日、とある道具屋が死んだ。
彼のその人生について語るのは、これとは違うまた別の物語。その為、ここでは多くを記す事はしない。
しかし彼の名誉の為に一言だけ記しておくとすれば、彼の訃報を知ったものは皆彼の死を悼み、涙を流したという。
この場では彼という存在の最期、彼の魂が如何にして安らぎへと向かったのかを記したいと思う。
◆ ◆ ◆
大小様々な石が足下に転がる河原。河原の所々にはその石が積まれた塚のようなものがあり、時々吹く風に煽られては積まれた石が転がり落ちている。
川にはもやのようなものが掛かり、遠い向こうにある対岸の様子は杳として知れない。凄まじいまでのその濃さに、向こう側があるのかさえも怪しく思えてしまうほどだ。
まともな人間がここに立って川を眺めたならば、余りに茫漠たる風景と響き渡る胸を打つような落石の音に、これはなんと心寂しいものだという感想を抱くかもしれない。
しかし、そんな感想を抱く人物は存在し得ない。何故ならばここは此岸と彼岸を繋ぐ川。『まともな人間』がその身を以てここを訪れる事はないからだ。
そして今、その川を此岸に向けて進んでくる小さな船が一つ。川に掛かるもやを切り裂きながら進むその船を漕いでいる船頭は、一見して普通の人間のようにも思える。
しかし先程言ったように、『まともな人間』がここを訪れることはない。今まさに此岸へと船を着けた彼女こそ、まともな人間であった者達の最期の姿である魂を運ぶ『死神』に他ならないのだから。
此岸から彼岸へ、かつては肉を持った人間だったものを運ぶ船頭。それが彼女、小野塚小町だ。
「さて、今日はどのくらいのお客様が来てるのかねぇ。一客十来くらいだと助かるんだが」
船を川縁へと泊めた小町が、客定めをするかのように目線を河原へと向ける。その視線の先にあったのは、ふわふわと中空に佇む半透明の塊が一つ。この白い物体が、生前の肉を失った死者の姿、すなわち人魂と呼ばれるものである。
「お、今日は一人しか来てないみたいだね。現世は皆元気なようで結構結構。さ、乗っとくれ。お代は乗ってのお楽しみってね。乗り心地に関しちゃ保証はできないが、なあに、座ってればすぐに向こう側に着くさね」
仮にも死を司る神とは思えない気楽な言葉と大仰な手招きとで、たった一人の客へと乗るように促す小町。しかし人魂は所在なさげに漂うばかりで、一向に船に乗り込もうとはしない。
その魂の不安定な挙動を見て何か思い至る事があったのか、小町が思わずその眼を細める。
「おや、あんたは……そうか、とうとう年貢を納めちまったかい。ま、短い間だが歓迎するよ。死神から歓迎なんてあんたは喜ばないかもしれないけどね」
通常、人魂にもなってしまえば大抵は現世への様々な未練も肉体と一緒に消えてしまう。そしてそれからは前に向かって新たな道へと踏み出すのみなのだが、どうやらこの魂は余程の振り向きたくなる未練があるらしい。
彼がここまで心を引かれる、執着とも言っていい程の未練を見せるものは一体何なのか、小町は彼の魂に少しばかり興味を抱いた。
「ほら、ここまできたら進むほか道はないんだ。あんたもいい大人だったんだから、いいかげん年貢を納めな。それくらいの蓄えは十分出来ただろうさ」
死神の有無を言わさぬこの言葉で進む覚悟を決めたのか、はたまた逆らっても得は無しと諦めて観念したのか、人魂が船の上へゆっくりと移動する。
「はい、ご乗船ありがとうございますってね。それじゃ、行こうかい」
改めて歓迎の言葉を客人へと送ると、小町は対岸へと船を進め始める。
進めるとは言っても客は一人、それも遅れることに対して文句の一つも叫べぬ魂しか乗せていない為、彼女が船を進めるその足はごくごく遅いものとなっているのだが。牛と競争すれば負けるのではないかというほどの遅さだ。
進む先さえ良く見通せぬ薄もやが掛かった川を、舟は前へと進む。舟の見た目はボロでも死者の魂という厳かなものを運ぶものとだけあって、その光景はどことなく荘重にも感じられる。霞という死を連想する白い布に包まれた舟は、その静寂と相まって傍目からはまるで時が止まっているかのような印象すら抱かせる。
「いや結局、あんたの道具屋にはついぞ世話になることはなかったねぇ。良い酒でも置いてあったなら足繁く通ったかもしれないけどね」
ゆっくりと船を進めるだけでは退屈なのか、櫂を漕ぐ手はそのままに小町が乗客へと振り向き、話しかける。それに答えようにも、普通の人間ならいざ知らず、今の人魂の状態では発声する事も出来ない筈なのだが。
しかし、小町ほどの魂と接し続けた死神ともなると、人魂の微妙な動きだけで何を訴えているのかが理解出来るのだという。もっともこれは本人の談なので、実際の所は不明だ。
そんな訳で自らの訴えを伝えるべく、人魂はふるふると自らを震わせた。
「酒なら大人しく酒屋に行け、と言うか酒を置いていたら余計にサボるだけだろうって? いやいや、サボるとは心外な」
彼が何が言いたいのかを見事に察して見せた小町。しかし自らの仕事振りを叱責されるのは流石に予想外だったらしく、目が泳いでしまっている。その彼女の動揺に連動し、舟の挙動さえもぶれ始めた。
サボりを指摘された事は彼女としてもばつが悪かったのか、急ぎ話題を変えるべく小町は別の言葉を呟く。
「さて。あんたがこんなになっちまうと、残されたあの子はどうなるのかね。何だかんだ鼻っ柱の強い娘っ子だから、案外ケロッと生きてくかねぇ」
その話の転換が今度は彼にとって予想外だったのか、魂が動きを止めて彫像のように固まってしまった。
会話の片方が動きを止めたことで、必然的に舟には静寂が訪れる。辺りに響き渡るのは静かな大河の水音だけ。息の根が止まっているはずの人魂の呼吸さえも、不思議と聞き取れそうなほどの沈黙が二人を取り囲んだ。
その隙に小町は、先程ずれた船の針路を取り直す。彼に動揺を気取られないようにそっと。運ぶ相手に説教されて動揺する船頭なんているはずがないと、ここにはいない誰かに誇示するかのように。
人魂がその動きを止めていたのものも束の間、舟の揺れが安定すると同時に、今度は彼の方が激しく左右にぶれ始めた。まるで小町の言葉に耳を塞ぐふりをするかのように。
その動きを見ると小町は櫂を漕ぐ手を止め、身体ごと彼の方へと向き直る。そして先程までの船頭としての柔和な顔つきから一転、死神としての鋭く、冷たい目線を彼へと突きつけた。
「あいつの事なんて知った事じゃない、か。本当にそう思ってるのかい? どうせ死んだ身、あんたはもう戻れないんだ。だったらあたいは本当の、魂の奥底からのあんたの想いってやつを聞きたいね。それにもう、あれこれ取り繕う必要も無いじゃないか。いくら取り繕ったって、今のそんな姿じゃ締まらないしねぇ」
魂が否定の動きを取った事を理解しつつも、それは芯から発せられたものではない筈と小町が言う。こんな引き返せない所まで来てしまったのだから、いいかげん観念して今まで秘めていたその芯のままに言葉を綴ってみたらどうだとも。
そして彼もこの三途の川にまで至って漸く観念したのか、あるいは彼女の迫力に根負けしたのか、静かにその身体を上下へと震わせた。
「フムン。やっぱり本音としちゃ白黒のことが心配で堪らない、これからのあいつの事を考えると気が気でない、と」
今の今まで押し込めていた心からの本音が聞けた為か、したり顔で頷く小町。
その満足げな小町とは対照的に、何もかもさらけ出した羞恥の為か、人魂は仄かに桜色へと染まっている。そして我慢が出来なくなったのか、薄桜色の人魂が飛び掛かるように小町へと詰め寄った。
「ん、恥ずかしいからこの事は誰にも言うなって? 心配ないよ、閻魔様の下で働く死神は口が堅いからね。ま、地獄まで持ってく秘密、ってやつさね。判ったら大人しく座ってておくれ。もうすぐ彼岸だからね」
魂の相手は慣れたものとでも言わんばかりに、小町が詰め寄ってきた人魂を言葉で優しく宥める。しかしそれと同時に片手で彼の魂を摘み上げているので、とても優しいとは言い表せそうにない風景が出来上がっているのだが。
しかしそうやって摘み上げられて、彼の方もとてもではないが今の自分の身体では何も出来ぬのだと悟った。そして少しは落ち着いたのか元の白色へと戻り、大人しく元の定位置に無くしてしまった腰を落ち着かせた。
落ち着いた人魂を尻目に船を進める事暫く。先程もうすぐ到着と言った彼女の言葉はどうやら嘘ではなかったらしく、視界の先には薄ぼんやりとだが彼岸が見え始めた。ともあれば長話をしている暇はないのか、無言のまま小町は船を進めていく。
「さてお客さん、名残惜しいがそろそろ終点だ」
ようやく辿り着いた彼岸。こちらの景色も此岸や川とは殆ど変わることなく、殺風景極まりないと断言できるものだ。小町はその死と静寂が支配する岸に船を泊めると、客人へと次の旅路への道を指し示す。
「さようなら、旅路に気を付けて」
人魂は真っ直ぐ小町が指差す先へと進み始めた。船上にて自らの魂全てをさらけ出した為か、未練がましかった此岸の時と比べ、その動きに迷いは見られない。
彼は進む、その先にある新しい未来に向けて。
「しかしあれだけ想われてるとは、白黒も罪作りな奴だよ。まさに『親の心子知らず』ってやつだねぇ」
彼に別れを告げて折り返し再び此岸へと向かう船の上、独りごちた小町の言葉。その言葉は誰にも届くことなく、白い闇の中に消えていった。
◆ ◆ ◆
魔法の森の入り口、香霖堂。主人のいないはずのこの店の中から、何者かの自分の感情を押し殺すかのような啜り声が響いていた。
番台に突っ伏したままその啜り声を上げる正体。それは白黒の魔法使い、霧雨魔理沙だった。
その小さな肩を振るわせる想いを、彼女は必死に押しとどめようとしている。しかし、押し寄せる感情の波を押し止めるることなどまだ幼さの残る彼女には到底出来ることではなく、止めどない涙が感情と共に彼女のつぶらな瞳より溢れ出していた。
震える声のまま、魔理沙はぽつぽつとこぼれ出す想いを吐露していく。
「本当、突然だよ。おかげでこの気持ちのぶつけ所が判らない」
魔理沙が伏せていた顔を上げる。どうやら既に長い間泣いていたようで、その目の周りは赤く腫れている。
「私は一人で大丈夫だと自分に言い聞かせてきた。なのにいざこうして取り残されると、どうして良いかが判らないんだ。大丈夫だと決意して生きてきたはずなのに!」
魔理沙のあふれ出す感情が心を突き破り、吐露した感情と共に拳が机へと叩き付けられる。
その振り下ろした拳が奏でた音と同時に、何者かがカウベルを鳴らし店内へと入り込んできた。
「なんだ、整理を頼んでおいたというのにまだ終わっていないのかい」
「うるさい! ……もうちょっとで終わるぜ。私の方はな」
入り口より覗かせるその姿。特徴的な銀髪に和風とも中華風ともつかない独特な服装、そして何より偏屈そうなその顔つき。まごう事なきこの香霖堂の店主。森近霖之助の姿である。
「フムン、出来るだけ時間を掛けて仕入れ品を吟味していたつもりだったが……もう少し出ていた方が良いかい?」
事の起こりは小一時間前。
かつて世話になった主人の葬儀より帰ってきた霖之助が店の前で見たものは、帽子で顔を伏せたまま一人所在無さげに佇む魔理沙だった。その姿は様々な未練に身体を縛られて、そこから一歩も動けなくなってしまっているようにも見えた。
「どうしたんだい魔理沙。葬儀では君の姿が見当たらなかったのだが」
「……うるさい。赤の他人の葬儀に出る趣味はないぜ」
「赤の他人の葬儀だって言うのに、そんな今にも泣きそうな顔をしていれば世話無いな」
俯いたまま精一杯の虚勢を張る魔理沙に、霖之助が冷静に言葉を掛ける。
霖之助が思うに、昔魔理沙が飛び出す際に張った意地が、生家に帰る足を阻んだのだろう。せめて親の死に目くらい、と割り切れない辺りが彼女の幼さと言う事か。
まぁ、それで迷った足が僕の所に向かうと言う事は、なんだかんだ頼りにされていると言う事だろうか? 魔理沙のその不器用な生き方に、霖之助が思わず苦笑した。
「君が良いというなら良いさ。……さて、それじゃあ僕は仕事に戻るとするかな。差し当たっては商品の仕入れだ。あぁ、魔理沙。手が空いているようなら僕が仕入れに言っている間、店番を頼んでも構わないかい? そのうちに整理でもしておいてくれると助かる」
「……全くお前は、商売人としては口車が下手だな。けど、まぁ、しょうがないから店番をしておいてやるよ。しょうがないからな」
「あぁ、頼むよ。暫く掛かりそうだから、よろしく」
そうして霖之助は魔理沙に店内を明け渡し、一人商品の仕入れと称して場所を離れたのだった。
その際に手ぶらで無縁塚へと向かった辺りから、彼が魔理沙を気遣って店を離れたのがありありと見て取れ、仕入れというのがその場の思い付きだと察する事が出来る。この余りに不器用な気配りが、彼が商売人失格と揶揄される所以だろうか。
そして今、仕入れより香霖堂に戻った霖之助。もっとも、何も仕入れたものは無く、空手での帰還になったようだが。
「で、どうだい。葬儀にはもう間に合わないが、故人を偲ぶのに遅いは無い。あとで、墓参りの一つにでもいけばいいだろう。きっと親父さんも喜んでくれる」
ようやく止まった魔理沙の涙を横目に、霖之助が彼女へと優しく諭すような声を掛ける。一度身体を失った魂に再び会う事は通常叶わない。しかし、その魂の安らぎを祈る事は可能だろうと。
「あぁ、お陰様で整理が付いたぜ。別にあんな奴はもう、私にはなんにも関係ないってな!」
しかし幼くして親元との決別を計った魔理沙の覚悟は並大抵では揺らぐものではなかったらしく、事ここに至っても不干渉を貫こうとしている。その姿はまるでだだっ子のようでもあり、ともすれば父親の死を受け入れられていないようにも霖之助には思えた。
魔理沙は帽子で顔を隠して立ち上がると、傍らに立てかけていた箒を手に取り、霖之助を突き飛ばすほどの勢いのまま外へと駆け出す。すれ違うその一瞬、霖之助は魔理沙のその瞳に未だ整理のつかない涙が湛えられているのを確かに見た。どうやら、彼女が気持ちの片付けを終えるにはもう暫く時がかかりそうだ。
霖之助は、魔理沙が飛び立った後の誰も居ない番台を見詰める。そこにあったのは、涙の跡。魔理沙が流した感情の残骸。思えば、昔は親父さんもこうやって感情を押し殺して、後で一人後悔を飲み干していたっけ。
「全く、そうやって意固地になって本心をさらけ出せない所は親父さんにそっくりだよ。まさに『蛙の子は蛙』ってやつだね」
彼のその人生について語るのは、これとは違うまた別の物語。その為、ここでは多くを記す事はしない。
しかし彼の名誉の為に一言だけ記しておくとすれば、彼の訃報を知ったものは皆彼の死を悼み、涙を流したという。
この場では彼という存在の最期、彼の魂が如何にして安らぎへと向かったのかを記したいと思う。
◆ ◆ ◆
大小様々な石が足下に転がる河原。河原の所々にはその石が積まれた塚のようなものがあり、時々吹く風に煽られては積まれた石が転がり落ちている。
川にはもやのようなものが掛かり、遠い向こうにある対岸の様子は杳として知れない。凄まじいまでのその濃さに、向こう側があるのかさえも怪しく思えてしまうほどだ。
まともな人間がここに立って川を眺めたならば、余りに茫漠たる風景と響き渡る胸を打つような落石の音に、これはなんと心寂しいものだという感想を抱くかもしれない。
しかし、そんな感想を抱く人物は存在し得ない。何故ならばここは此岸と彼岸を繋ぐ川。『まともな人間』がその身を以てここを訪れる事はないからだ。
そして今、その川を此岸に向けて進んでくる小さな船が一つ。川に掛かるもやを切り裂きながら進むその船を漕いでいる船頭は、一見して普通の人間のようにも思える。
しかし先程言ったように、『まともな人間』がここを訪れることはない。今まさに此岸へと船を着けた彼女こそ、まともな人間であった者達の最期の姿である魂を運ぶ『死神』に他ならないのだから。
此岸から彼岸へ、かつては肉を持った人間だったものを運ぶ船頭。それが彼女、小野塚小町だ。
「さて、今日はどのくらいのお客様が来てるのかねぇ。一客十来くらいだと助かるんだが」
船を川縁へと泊めた小町が、客定めをするかのように目線を河原へと向ける。その視線の先にあったのは、ふわふわと中空に佇む半透明の塊が一つ。この白い物体が、生前の肉を失った死者の姿、すなわち人魂と呼ばれるものである。
「お、今日は一人しか来てないみたいだね。現世は皆元気なようで結構結構。さ、乗っとくれ。お代は乗ってのお楽しみってね。乗り心地に関しちゃ保証はできないが、なあに、座ってればすぐに向こう側に着くさね」
仮にも死を司る神とは思えない気楽な言葉と大仰な手招きとで、たった一人の客へと乗るように促す小町。しかし人魂は所在なさげに漂うばかりで、一向に船に乗り込もうとはしない。
その魂の不安定な挙動を見て何か思い至る事があったのか、小町が思わずその眼を細める。
「おや、あんたは……そうか、とうとう年貢を納めちまったかい。ま、短い間だが歓迎するよ。死神から歓迎なんてあんたは喜ばないかもしれないけどね」
通常、人魂にもなってしまえば大抵は現世への様々な未練も肉体と一緒に消えてしまう。そしてそれからは前に向かって新たな道へと踏み出すのみなのだが、どうやらこの魂は余程の振り向きたくなる未練があるらしい。
彼がここまで心を引かれる、執着とも言っていい程の未練を見せるものは一体何なのか、小町は彼の魂に少しばかり興味を抱いた。
「ほら、ここまできたら進むほか道はないんだ。あんたもいい大人だったんだから、いいかげん年貢を納めな。それくらいの蓄えは十分出来ただろうさ」
死神の有無を言わさぬこの言葉で進む覚悟を決めたのか、はたまた逆らっても得は無しと諦めて観念したのか、人魂が船の上へゆっくりと移動する。
「はい、ご乗船ありがとうございますってね。それじゃ、行こうかい」
改めて歓迎の言葉を客人へと送ると、小町は対岸へと船を進め始める。
進めるとは言っても客は一人、それも遅れることに対して文句の一つも叫べぬ魂しか乗せていない為、彼女が船を進めるその足はごくごく遅いものとなっているのだが。牛と競争すれば負けるのではないかというほどの遅さだ。
進む先さえ良く見通せぬ薄もやが掛かった川を、舟は前へと進む。舟の見た目はボロでも死者の魂という厳かなものを運ぶものとだけあって、その光景はどことなく荘重にも感じられる。霞という死を連想する白い布に包まれた舟は、その静寂と相まって傍目からはまるで時が止まっているかのような印象すら抱かせる。
「いや結局、あんたの道具屋にはついぞ世話になることはなかったねぇ。良い酒でも置いてあったなら足繁く通ったかもしれないけどね」
ゆっくりと船を進めるだけでは退屈なのか、櫂を漕ぐ手はそのままに小町が乗客へと振り向き、話しかける。それに答えようにも、普通の人間ならいざ知らず、今の人魂の状態では発声する事も出来ない筈なのだが。
しかし、小町ほどの魂と接し続けた死神ともなると、人魂の微妙な動きだけで何を訴えているのかが理解出来るのだという。もっともこれは本人の談なので、実際の所は不明だ。
そんな訳で自らの訴えを伝えるべく、人魂はふるふると自らを震わせた。
「酒なら大人しく酒屋に行け、と言うか酒を置いていたら余計にサボるだけだろうって? いやいや、サボるとは心外な」
彼が何が言いたいのかを見事に察して見せた小町。しかし自らの仕事振りを叱責されるのは流石に予想外だったらしく、目が泳いでしまっている。その彼女の動揺に連動し、舟の挙動さえもぶれ始めた。
サボりを指摘された事は彼女としてもばつが悪かったのか、急ぎ話題を変えるべく小町は別の言葉を呟く。
「さて。あんたがこんなになっちまうと、残されたあの子はどうなるのかね。何だかんだ鼻っ柱の強い娘っ子だから、案外ケロッと生きてくかねぇ」
その話の転換が今度は彼にとって予想外だったのか、魂が動きを止めて彫像のように固まってしまった。
会話の片方が動きを止めたことで、必然的に舟には静寂が訪れる。辺りに響き渡るのは静かな大河の水音だけ。息の根が止まっているはずの人魂の呼吸さえも、不思議と聞き取れそうなほどの沈黙が二人を取り囲んだ。
その隙に小町は、先程ずれた船の針路を取り直す。彼に動揺を気取られないようにそっと。運ぶ相手に説教されて動揺する船頭なんているはずがないと、ここにはいない誰かに誇示するかのように。
人魂がその動きを止めていたのものも束の間、舟の揺れが安定すると同時に、今度は彼の方が激しく左右にぶれ始めた。まるで小町の言葉に耳を塞ぐふりをするかのように。
その動きを見ると小町は櫂を漕ぐ手を止め、身体ごと彼の方へと向き直る。そして先程までの船頭としての柔和な顔つきから一転、死神としての鋭く、冷たい目線を彼へと突きつけた。
「あいつの事なんて知った事じゃない、か。本当にそう思ってるのかい? どうせ死んだ身、あんたはもう戻れないんだ。だったらあたいは本当の、魂の奥底からのあんたの想いってやつを聞きたいね。それにもう、あれこれ取り繕う必要も無いじゃないか。いくら取り繕ったって、今のそんな姿じゃ締まらないしねぇ」
魂が否定の動きを取った事を理解しつつも、それは芯から発せられたものではない筈と小町が言う。こんな引き返せない所まで来てしまったのだから、いいかげん観念して今まで秘めていたその芯のままに言葉を綴ってみたらどうだとも。
そして彼もこの三途の川にまで至って漸く観念したのか、あるいは彼女の迫力に根負けしたのか、静かにその身体を上下へと震わせた。
「フムン。やっぱり本音としちゃ白黒のことが心配で堪らない、これからのあいつの事を考えると気が気でない、と」
今の今まで押し込めていた心からの本音が聞けた為か、したり顔で頷く小町。
その満足げな小町とは対照的に、何もかもさらけ出した羞恥の為か、人魂は仄かに桜色へと染まっている。そして我慢が出来なくなったのか、薄桜色の人魂が飛び掛かるように小町へと詰め寄った。
「ん、恥ずかしいからこの事は誰にも言うなって? 心配ないよ、閻魔様の下で働く死神は口が堅いからね。ま、地獄まで持ってく秘密、ってやつさね。判ったら大人しく座ってておくれ。もうすぐ彼岸だからね」
魂の相手は慣れたものとでも言わんばかりに、小町が詰め寄ってきた人魂を言葉で優しく宥める。しかしそれと同時に片手で彼の魂を摘み上げているので、とても優しいとは言い表せそうにない風景が出来上がっているのだが。
しかしそうやって摘み上げられて、彼の方もとてもではないが今の自分の身体では何も出来ぬのだと悟った。そして少しは落ち着いたのか元の白色へと戻り、大人しく元の定位置に無くしてしまった腰を落ち着かせた。
落ち着いた人魂を尻目に船を進める事暫く。先程もうすぐ到着と言った彼女の言葉はどうやら嘘ではなかったらしく、視界の先には薄ぼんやりとだが彼岸が見え始めた。ともあれば長話をしている暇はないのか、無言のまま小町は船を進めていく。
「さてお客さん、名残惜しいがそろそろ終点だ」
ようやく辿り着いた彼岸。こちらの景色も此岸や川とは殆ど変わることなく、殺風景極まりないと断言できるものだ。小町はその死と静寂が支配する岸に船を泊めると、客人へと次の旅路への道を指し示す。
「さようなら、旅路に気を付けて」
人魂は真っ直ぐ小町が指差す先へと進み始めた。船上にて自らの魂全てをさらけ出した為か、未練がましかった此岸の時と比べ、その動きに迷いは見られない。
彼は進む、その先にある新しい未来に向けて。
「しかしあれだけ想われてるとは、白黒も罪作りな奴だよ。まさに『親の心子知らず』ってやつだねぇ」
彼に別れを告げて折り返し再び此岸へと向かう船の上、独りごちた小町の言葉。その言葉は誰にも届くことなく、白い闇の中に消えていった。
◆ ◆ ◆
魔法の森の入り口、香霖堂。主人のいないはずのこの店の中から、何者かの自分の感情を押し殺すかのような啜り声が響いていた。
番台に突っ伏したままその啜り声を上げる正体。それは白黒の魔法使い、霧雨魔理沙だった。
その小さな肩を振るわせる想いを、彼女は必死に押しとどめようとしている。しかし、押し寄せる感情の波を押し止めるることなどまだ幼さの残る彼女には到底出来ることではなく、止めどない涙が感情と共に彼女のつぶらな瞳より溢れ出していた。
震える声のまま、魔理沙はぽつぽつとこぼれ出す想いを吐露していく。
「本当、突然だよ。おかげでこの気持ちのぶつけ所が判らない」
魔理沙が伏せていた顔を上げる。どうやら既に長い間泣いていたようで、その目の周りは赤く腫れている。
「私は一人で大丈夫だと自分に言い聞かせてきた。なのにいざこうして取り残されると、どうして良いかが判らないんだ。大丈夫だと決意して生きてきたはずなのに!」
魔理沙のあふれ出す感情が心を突き破り、吐露した感情と共に拳が机へと叩き付けられる。
その振り下ろした拳が奏でた音と同時に、何者かがカウベルを鳴らし店内へと入り込んできた。
「なんだ、整理を頼んでおいたというのにまだ終わっていないのかい」
「うるさい! ……もうちょっとで終わるぜ。私の方はな」
入り口より覗かせるその姿。特徴的な銀髪に和風とも中華風ともつかない独特な服装、そして何より偏屈そうなその顔つき。まごう事なきこの香霖堂の店主。森近霖之助の姿である。
「フムン、出来るだけ時間を掛けて仕入れ品を吟味していたつもりだったが……もう少し出ていた方が良いかい?」
事の起こりは小一時間前。
かつて世話になった主人の葬儀より帰ってきた霖之助が店の前で見たものは、帽子で顔を伏せたまま一人所在無さげに佇む魔理沙だった。その姿は様々な未練に身体を縛られて、そこから一歩も動けなくなってしまっているようにも見えた。
「どうしたんだい魔理沙。葬儀では君の姿が見当たらなかったのだが」
「……うるさい。赤の他人の葬儀に出る趣味はないぜ」
「赤の他人の葬儀だって言うのに、そんな今にも泣きそうな顔をしていれば世話無いな」
俯いたまま精一杯の虚勢を張る魔理沙に、霖之助が冷静に言葉を掛ける。
霖之助が思うに、昔魔理沙が飛び出す際に張った意地が、生家に帰る足を阻んだのだろう。せめて親の死に目くらい、と割り切れない辺りが彼女の幼さと言う事か。
まぁ、それで迷った足が僕の所に向かうと言う事は、なんだかんだ頼りにされていると言う事だろうか? 魔理沙のその不器用な生き方に、霖之助が思わず苦笑した。
「君が良いというなら良いさ。……さて、それじゃあ僕は仕事に戻るとするかな。差し当たっては商品の仕入れだ。あぁ、魔理沙。手が空いているようなら僕が仕入れに言っている間、店番を頼んでも構わないかい? そのうちに整理でもしておいてくれると助かる」
「……全くお前は、商売人としては口車が下手だな。けど、まぁ、しょうがないから店番をしておいてやるよ。しょうがないからな」
「あぁ、頼むよ。暫く掛かりそうだから、よろしく」
そうして霖之助は魔理沙に店内を明け渡し、一人商品の仕入れと称して場所を離れたのだった。
その際に手ぶらで無縁塚へと向かった辺りから、彼が魔理沙を気遣って店を離れたのがありありと見て取れ、仕入れというのがその場の思い付きだと察する事が出来る。この余りに不器用な気配りが、彼が商売人失格と揶揄される所以だろうか。
そして今、仕入れより香霖堂に戻った霖之助。もっとも、何も仕入れたものは無く、空手での帰還になったようだが。
「で、どうだい。葬儀にはもう間に合わないが、故人を偲ぶのに遅いは無い。あとで、墓参りの一つにでもいけばいいだろう。きっと親父さんも喜んでくれる」
ようやく止まった魔理沙の涙を横目に、霖之助が彼女へと優しく諭すような声を掛ける。一度身体を失った魂に再び会う事は通常叶わない。しかし、その魂の安らぎを祈る事は可能だろうと。
「あぁ、お陰様で整理が付いたぜ。別にあんな奴はもう、私にはなんにも関係ないってな!」
しかし幼くして親元との決別を計った魔理沙の覚悟は並大抵では揺らぐものではなかったらしく、事ここに至っても不干渉を貫こうとしている。その姿はまるでだだっ子のようでもあり、ともすれば父親の死を受け入れられていないようにも霖之助には思えた。
魔理沙は帽子で顔を隠して立ち上がると、傍らに立てかけていた箒を手に取り、霖之助を突き飛ばすほどの勢いのまま外へと駆け出す。すれ違うその一瞬、霖之助は魔理沙のその瞳に未だ整理のつかない涙が湛えられているのを確かに見た。どうやら、彼女が気持ちの片付けを終えるにはもう暫く時がかかりそうだ。
霖之助は、魔理沙が飛び立った後の誰も居ない番台を見詰める。そこにあったのは、涙の跡。魔理沙が流した感情の残骸。思えば、昔は親父さんもこうやって感情を押し殺して、後で一人後悔を飲み干していたっけ。
「全く、そうやって意固地になって本心をさらけ出せない所は親父さんにそっくりだよ。まさに『蛙の子は蛙』ってやつだね」
タイトルからして三部作なんだろうか?
「帝王の殼」「膚の下」に期待か?
まだまだ子供な魔理沙が可愛かったです。
確かに、霖之助早く死にすぎでは?と思いながら読んでいたのですが…なるほど。
言葉の裏にあるものも彼女らしい