皆が宝船と勘違いした聖輦船は地に降り立ち、寺社へとその姿を変えた。
その寺社には郵便受けが存在している。
勿論、通常の手紙のやり取りでも使われるが、口頭等で伝えにくい用件を投函する目安箱の様な役目も果たしていたりする。
近頃は、匿名の手紙も増えてきた。
内容はおおむね寺の運営に関する物だが、時折おかしな物も存在する。
この寺は、聖輦船が変化してできた物だが、聖が飛倉で再現して復元したとは言えど、村紗の船なので、土地はともかく建物の管理をするのは誰か、と言うのは、当然村紗水蜜こと、キャプテン・ムラサと言う事になる。
そんな訳で、郵便受けを最初に検分するのは、寺社宛、つまり聖蓮船宛なのだから、家主の村紗が適当だ、と言う事で仲間の意見は一致を見た。
中には『聖白蓮様のおしりペロペロしたい』等と言う破廉恥極まり無い恋文(?)も存在するが、そう言った手紙は当然塵となって消え行く運命にある。
それを確認してから、ナズーリンが購読していると言う新聞を回収し、聖輦船をざっと見回り、命蓮寺の全員で朝食を摂る。
ムラサの一日は、そうやって始まるのだった。
しかし今回の手紙は様相が違う。
桜の花をあしらった装飾の上品な便箋に収められており、また恋文か、とムラサは嘆息しながら読み進めたのだが、文章はその可愛らしい便箋に反し、力強い毛筆で、おどろおどろしい内容が記されていた。
~~~~~~~~~~
お初にお目にかかる、卒爾(そつじ)がお文(ふみ)無礼申す。
それがし、冥界が「白玉楼」にて庭師をば務めておるでござる、魂魄妖夢であると申しんす。
此が度は、そちらに現世にて迷った念縛霊、滞在致し候であると風が噂をば聞きつけ、筆をばとった次第でござる。
つきましては、そちらが棟梁者しからばび、当が幽霊殿に面會をば願おりきく存じ候。
難儀無礼にてかたじけないでござるが、こちらよりは、出向けぬ事の由、候うがにて、冥界まにて一両日中にご脚労頂け候。
聞き入れられぬ時は、そちらに飛びこみて一切合財をば斬り捨てる所存でござる。
宜しくお願い致す。
~~~~~~~~~~
内容はほとんど斬奸状である。
要は、
「私は冥界の白玉楼の庭師です。そちらに念縛霊いますよね? その幽霊さんに用があります。代表者と一緒に冥界まで来てください。ダメな場合はそちらに出向いて全部斬ります」
と言う事なのだが、何故いきなりこの様な脅迫文染みた手紙を受け取らねばならないのだろうか、と村紗は震え上がった。
何しろこの手紙の主題は自分自身だ。これが紅白の巫女が言っていた『異変』と言う奴か。
平穏な日常が突如様変わりするという意味ではそうではある。
太陽の光で透かしてヒラヒラさせてみる。しかしやはり内容は同じだった。
自分、何かしたっけ? 等と思いつつ文面を眺めるが、心当たりは無い。
とりあえず『全部斬る』と明言されている以上、仲間に相談せぬわけにも行くまい。
朝一で暗澹とした気分になると、自然その一日全てが何だか億劫になる物だ。
ただでさえ、最近のムラサは精彩を欠いていた。不調と言う奴だ。
普段よりも陰鬱になり、無闇に怒りっぽくなったり、酷い時には、何の関係も無い人間に対して恨みの念が湧いて来る事もある。
原因は不明だ。
村紗は一気に重くなったような気がする体を引きずって、命蓮寺の家屋部分へ足を運ぶのだった。
仲間の反応は想像がつく。皆口を揃えてこう言うだろう。
「なんなんですかこれ」
「お手紙。文なんてしたためるのは何年ぶりかしら」
朝食時に、白玉楼の主、西行寺幽々子が差し出した手紙を見て、庭師、魂魄妖夢は眩暈がした。
曰く、寺社に送りつけた物を友人にコピーしてもらった物だと言う事だ。
何故か自分の筆跡で書かれた手紙が存在し、何故か自分が人里近くの寺へ怪文書を送りつけた事になっているらしい。
オマケに何故か文面はサムライ調で、文の結びには何故か殺人鬼の様な文言が記されている。
これは結界の番人をしている妖怪にも言えるのだが、普段ぐーたらに過ごしている主人が能動的に行動した際、それは大抵が厄介な事情で、それを従者が知った時、事態は既に抜き差しならない状況に陥っていると言うのが定説である。
職務柄、幽々子の友人の隙間妖怪、その式である八雲藍と言う天狐とは交流が深いのだが、その点について大いに同意し、お互いに涙したものだ。
幽々子がこうして手ずから文をしたため、話して聞かせたと言う事は、妖夢にこれを実行しろと言う事なのだろう。
妖夢は命蓮寺とやらに、ヤギの妖怪がいる事を祈った。
読まずに食べてもらえばこの件は全てにおいて丸く収まるとでも考えたのだろう。
この手紙の一番眼を引く点は、相手が手紙を無視した場合、或いは要求を突っぱねた場合の殺害予告にある。
人里の寺社へ乗り込んで一切合財斬り捨てるなんてマネをやらかしたら、良くて当分人里への出入り禁止、悪ければ博麗の巫女にタレコミが行き退治、或いは彼岸で閻魔より説教、乃至裁きを受ける事になる。
その後は里で噂になり、危険度極高の辻斬り妖怪(幽霊)として、第二の人生を歩み始める事になるだろう。
第二の人生と言うのは祝福されて然るべきだと妖夢は思っているから、これには抗議せざるを得なかった。
祖父は今どこで何をしているのだろうか、等と考えながら。
「どうするんですかこれ。これじゃ私が辻斬りみたいじゃないですか」
「そうねぇ」
幽々子は全く悪びれる様子を見せず、笑顔でそれを肯定した。
この主と来たら、何も考えていない様で実に良く回る頭と口を持っており、強弁、反論が通用しないのは勿論、普段の会話ですら主導権を妖夢に与える事が全く無い。
彼女が妖夢にとっての敵や、気に食わない連中をやりこめるのを見るのは、非常に胸がすっとするが、それが自分に向けられるとなると、気苦労が倍々方式で増えていく。
八雲紫の友人と言うのは普通ではやっていられない。むしろ類友である。
「修行の一環だと思えば楽ちんよ。それなら少々辛くても何て事ないでしょ? うふふ」
「うふふって。そもそもどう言う目的なんですかこれ」
「あなたの修行よ?」
「それはわかっておりますが、何故お寺なんです? 念縛霊がいるとの事ですけれど、その霊が何かしたんですか? 呼び出してどうするおつもりで?」
「一遍に言われると、混乱して記憶から抜けちゃうわ」
「トコロテンじゃあるまいし」
「あ、良いわね、心太。今日の昼食に出して頂戴」
妖夢は感じた。経験から言ってこれは、はぐらかす気満々だと。
いつもの事だ。いつもの事ではあるのだが――やはり妖夢としては、真意が掴めないと、不安になる。
とりあえずは、待つしかない。それもいつもの事だ。
あと一日二日を過ごせば、事の全貌はイヤでも見えてくるはず。
後はなるようになれ、と半ばヤケクソ気味で妖夢は通常業務に戻るのだ。
「食後のオヤツはまだかしら?」
デザートは既に里で仕入れた、南瓜のプディングを用意してある。
妖夢は「只今」と言って台所へ向かう。
廊下はいつも通り綺麗に掃除されており、雑巾がけでもしたばかりなのか、年季の為せる技か、艶々としている。自分の顔まで映りこむ程だ。
ふとその廊下に眼をやると、沈痛な表情が映し出された。
庭から見える空も彼女の心を象徴したが如くの曇天であった。
長い廊下を常の足で進みながら、妖夢は嘆息し、その口からは本人も知れずに憂鬱な呟きが漏れた。
「困るなあ」
それが朝食後、手紙の事を仲間に話した後、ナズーリンが開口一番で口にした台詞である。
困るのはわかるが、一番困っているのは、手紙を送りつけられた私なんだけどなあ、とムラサはお茶を飲みながら思った。
「今は人手が圧倒的に足りないんだ。何とか今の材料だけで、この寺院の運営を安定させなくちゃならないから、人材を遊ばせておく余裕等無い。聖には布教及び新人の相手、ご主人は寺で門徒のご利益を何とかしなくてはならないし、一輪と雲山は人材の確保、船長には物資の調達及び――」
「わかった、わかりましたよ。余計な事に時間を割く余裕はウチに無いって言うんでしょ。でも――」
ナズーリンの言葉に横槍を入れて、ムラサは手紙の一部分を指で指し示した。
「これ」
全員の眼がその文章に落ちる。
『一切合財をば斬り捨てる所存でござる』
つまり、この命蓮寺に押し入って全員を叩き斬ると言う事なのだろうか。
「物騒な手紙ねぇ。時代錯誤も甚だしい――武士か、こいつは?」
一輪が端的な感想を漏らすと、寝転がってケツをかいていた鵺が劇的な反応を見せる。
勢い良く立ち上がり、辺りを見回すと、部屋の隅に陣取り、膝を抱えてガタガタ震えだしたので、ナズーリンは訝しげな視線をそちらにやって声をかけた。
「どうしたね?」
「怖い」
鵺はそれだけを、一言呟いた。
それだけで何がわかると言う訳でもなかろうが、ナズーリンは意を得たりと言った風に頷いた。
「ああ、そう言えば君を討ったと言う人間も武士だったか。特に屋根まで追いすがって矢を射ったのは、源――何と言ったかな」
「やめてよ、思い出したくもない」
「正体不明だ何だと居丈高の割にそのザマか。いくら源某が猛者だったとは言え、既に過去の人物だろうに」
「言い過ぎですよ、ナズーリン」
別にナズーリンとしては、嫌味を言っている訳では無いのだが、生来の気質か、どうも相手の心を抉る様な喋りになってしまう。
余り働かぬ鵺に対し思う所があるのも事実。しかし最初から員数外だと思っておけば、なんて事は無い。
ネチネチ続くと思われたナズーリンの台詞に待ったをかけたのはその主だ。
「あの時代の人間には『妖魅を滅する』と言う執念とか怨念染みた意思があった。ああ言うのがまた出てこないとも限りませんし、恐れるのも仕方ありません」
「畏れを与える側の妖怪がそんな体たらくで良い物なのか疑問は残るが……まあそうだ。すまんね」
「別に良いけどさあ。一日二日くらい留守にしたって良いんじゃないの? そんなのが乗り込んでくる可能性があるんなら、聖とあんたのご主人様の二人で、事情を聞くか、叩きのめした方が良いよ。少し位忙しくなっても、そっちの方がマシ」
ほとんど働かぬ癖に、日ごろナズーリンが必死こいて考えている予定を「前倒しでも後回しでも何とかなるよー」と言った感じで鵺が口を挟んで来た。
尚且つ、現状ではそれが正しいと思える。
辻斬りの様な存在がチラチラと見えているのに、今後の予定を心配している余裕などあるはずが無いのだ。
悪戯と言う事にして、記憶の彼方に忘却してしまおうかとも思ったが、もし本当だったら洒落にならない。
相手はここが妖怪寺だと理解していてこの手紙をしたためた様だ。
モノホンの毘沙門天が本尊とされている以上、まさに神をも恐れぬ所行だが、相応の腕前と自信があるのだろう、と考える。
実際の所は冥界のお嬢の、目的すら不明な企みの一環なのだが、そんな事が命蓮寺の面々に理解できるはずも無い。
「むむむ」
ナズーリンは腕組みをして考え込んだ。
はっきり言って怪文書に付き合っているヒマ等無い。
大体今日明日は、仏門に帰依する、と言っていた新人(妖)がやってくる日だ。
ニュービー、特に妖怪ともなれば、相手をするのは当然、代表者だ。
朝の勤行でいきなり『三帰礼文(さんきらいもん)』乃至『三帰依文(さんきえもん)』を唱えろと言ってもムリだろうし、『五体投地』をやれと言ってもできないだろう。知らないのだから。
そう言ったモノを説いたり教えたりするのが白蓮の役目である。
帰依そのものだっていつ終わるとも知れないし、生活の仕方をや作法を教えるだけで、一日二日は軽く時間を取られると思われる。
しかも、妖怪が帰依するともなれば、『帰敬式(ききょうしき)』やら他の事やらで面倒を起こすかもしれない。
そこまで考えて、思索が脇にそれてしまっている事に気づいてナズーリンは苦笑した。
「ナズーリン、悩む事はありませんよ。私とムラサで、話を伺ってきますから」
「む」
「予定が崩れると言うならば、私がその分まで働きます。聖、新しい娘の『帰敬式』も私達が戻るまで待っては頂けませんか?」
それを聞いて、白蓮が心配そうに口を開いた。
「それは構いませんが、星。そちらは二人だけで平気ですか?」
「なに、代理の身ではありますが、命蓮寺の代表となれば私が適当でしょう。聖は他の皆を守ってやって下さい。新しい門徒に仏の道を説いて差し上げて下さい」
大事な場面でうっかりをやらかした星も、元々は優秀だからと白蓮に推挙された妖怪である。
その星が強く主張するものだから、白蓮以下一同も、その話に乗るしか無いだろう。
ナズーリンはそれを聞いて、苦笑しながら呟いた。
「頼りになるのだかならんのだか……全く、ここ一番でも、その位の威厳を保っていて欲しかったものですな、ご主人」
「ちょっ、ナズーリン、それは皆にはナイショで……アワワ」
星の狼狽にナズーリン以外の面々は、しばらく首を傾げていたが、外から聞こえた大音量の挨拶に、ある者は興味を奪われ、ある者は度肝を抜かれた。
「おはよーございます!」
手紙の事を知らされた魂魄妖夢は、とりあえず日課となっている白玉楼前にそびえる石の階段掃除を始めたのだが、その大声で作業は中断された。
中断されたと言うか、その大声に驚いた妖夢は、モノの見事にすっ転び、石段を転がり落ちてしまったのだった。
無論、無事である。人間だったらこの何段あるかもわからない、長い階段で転んで落ちたとなれば死ぬか大怪我だが、さすがは半分、人でないだけの事はあった。
来訪者の前に妖夢は石段を飛び越えて来たが、見るからに機嫌を損ねた様子だ。
「白玉楼の方ですか!!!?」
「やかましい!」
妖夢は思わず苛立ち紛れに怒鳴ってしまった。
いくら無事でも痛い物は痛かったのと、無様な姿を見られたと言う羞恥からである。
転がる勢いでまくれ上がるスカート、ドロワ丸出しで階段を落ちていく様は筆舌に尽くし難い。
相手が大声でがなり立てた為、本当にうるさかったのもある。
「ちょっと星、あの新人(妖)さんの大声、感染ってますよ」
「本当ですか!!!? ……と、失敬」
大声のついでに飛んできた唾をハンカチで拭いながら、ムラサは星を嗜めた。
寺にやってきた新米の妖怪は、妙に大きな声で話す癖があるようだった。
元気の良い娘がやって来たわね、と白蓮は喜んでいたが、ナズーリンや鵺はこっそり耳を塞いでいたし、妖気がその声にでも篭っていたのか、挨拶の直後に音が空気を伝わり雲山は爆散してしまった。
一輪が慌てて雲山をかき集めて事なきを得たが、人里で暮らす以上その癖は矯正していかなければなるまい、と新米の妖怪はナズーリンに諌められていた。
そんな元気一杯の妖怪が、世俗に虚しさを覚え帰依しようと言うのだから、世の中ままならぬ物だ、と星は思う。
それに当てられたのか、自分でも気づかぬ内に、『大声で話す』と言うのが伝染していたらしい。
妖夢は雲海を突き抜け、冥界までやって来た二人組を、改めて良く見た。
片方は姿だけなら妖獣に見えるが、同時に神々しさを持ち合わせている。
仏とか神に近い所にいる、格の高い存在かと考え、妖夢は埃や砂をパパッと払って軽く服装を整えた。
もう片方は気配だけで理解できた。幽霊だ。
ベトつく風の様な、陰気且つ物寂しい気配。
幻想郷に海があれば、妖夢は彼女の気配を潮風の様な、と評しただろう。
ここでようやく、妖夢は相手の素性を問い質した。
「どちら様です?」
「あ、失礼しました。私、命蓮寺の本尊を務めております、寅丸星と言う者です。こちらから手紙で招待を受けまして、やって来た次第なのですが」
「はぁ。と言う事はあなた方が最近人里に降りてきた、と言う宝船の」
ムラサはそれを聞いて複雑な表情になった。
噂か、それとも別の何かの仕業かは不明だが、未だに聖輦船は何故か『里に下りてきた宝船』と言う認識で通っている。
それを逆に利用して、『宝船で遊覧飛行』等と言う商売、乃至信仰集めが始まったのだが、自分の船が未だに『宝船』と称されるのは、何だか納得が行かない。
確かに星がいた事から考えると宝船と言うのはある意味ではそうなのかもしれないが、それでも1/7しか宝船の人員がおらず、しかも星は代理人なのだから、やはり宝船の体を為していない。
船名と言うのは、何らかの祈願が込められている物だから、それを蔑ろにしたくないと、ムラサは考えている。
彼女も船乗りのはしくれで、且つ船長ともなれば正しい呼称をして欲しいのは当然だ。
それを知る由も無い妖夢は、そのムラサの微妙な表情を気疲れか何かとでも思ったのか、気分をほぐしてあげようと微笑みかける努力をした。
結果、ムラサの表情は、益々複雑になった。
最初に見た時から気になっていたのだが、彼女が背負っている物は紛う事無き刀剣の類ではないか。
凍りつきそうな冷たい空気をそのまま形にした様な強烈な存在感は、見ているだけで魂まで斬り刻まれそうな錯覚すら覚える。それが二振りも。
チラホラと咲き始めている桜の木の下には、彼女に斬られた者が埋まっているのではないか。
そんな夢想をしてしまう程に、その刀剣は迫力と冷徹さ、不気味さを兼ね備えている。
あれはヤバい、とムラサの勘は警鐘を鳴らしていた。
鞘に収められていて尚それなのだから、抜き放たれ、殺傷にベクトルを向けたら何が起こる物か。
そんな刀剣を背負って微笑みかけてくる姿は、彼女が今まで出会ったどんな魑魅魍魎よりも恐ろしく感じられた。
星もそれは気づいている様で、些か硬い表情で妖夢に話しかけている。
「今朝、この様な文が届けられたのですが心当たりは?」
今度は妖夢の顔が複雑になった。
無い、と言いたい所だが、手紙が存在するのも事実。届いたのも事実。
悪戯と言う事で相手にスルーして貰えればそれが一番良かったのだが、やはりあの文面ではさすがに無視する事は難しいだろう。
事実、命蓮寺ではその様なやり取りが為されていた。
「伺っております。直ちに御案内致します」
「よろしくお願いします。……一つだけ良いですか?」
「はぁ」
「深刻な話なんですか? 決死隊みたいな表情ですが」
「はは」
主の無茶振りがあるだろうと思うと憂鬱なんです、等とは言えるはずも無い。
オバケ(ムラサ)がちょっぴり怖いんです、等とも、とても言えない。
妖夢は星の言葉に力無く笑ってお茶を濁したが、その様子を心配した星はさらに声をかけた。
「いやいや、笑い事ではなく」
手紙の事を尋ね、それに「うふふ」と返答を受け、ムラサは困り顔で言った。
妖夢に招かれた和室には既に幽々子が座して待ち受けていた。
通常は上座、下座と座る場所が決定するのだろうが、ここは幻想郷、冥界だ。
古式ゆかしい細長いちゃぶ台の北側とその付近に、死人である幽々子、ムラサが位置し、それに向かい合う形で星は席についている。
死んだ人を寝かせる時、頭を北側に向けるように、北とは死人が好む方角なのだろう。
「白玉楼の主が冥界の管理人であるとの話は聞き及んでいましたが、その冥界からこの様な手紙が届いたのは何故なんです?」
今度は星が憤然やる方ない、と言った調子で尋ねた。
おちょくられているとでも思ったのだろう。
幽々子は、扇子で口元を隠してはいるが、それが笑みの形になっているのは間違い無い。
そして妖夢が淹れたお茶を一口だけ啜ると、星に扇子をさっと突き付けた。
「『何故』? あなた、武神で仏の代理人でしょう? そんな事で良いと思って?」
「何の事かわかりかねますが」
「こちらの、水蜜さん、だったかしら? 美味しそうな名前ねえ」
「は?」
会話に捉え所がまるで無い。
ムラサは居心地悪そうに身をよじらせた。
幽々子の後ろに控えている妖夢も、主の口からどの様な爆弾が飛び出すのかと戦々恐々である。
「でもね、水蜜さんね、この世の理からちょっと外れちゃってるからね」
「わ、私ですか」
「妖夢に斬って貰おうかと思うんだけど、いかが?」
「え?」
妖夢は、この件が済んだら、鈴仙に頼んで胃薬を処方してもらう事に決めた。
礼儀も正しいし身元もハッキリしているし、そう悪い妖怪達には見えない。
それをいきなり斬れと言うのは、いくら妖夢と言えども躊躇せざるを得なかった。
心理的には、だが。
意思に反して、妖夢の左手、親指は腰に差された白楼剣のつばを押し上げている。
きん、とつば鳴りの音がした事で妖夢は己の行為を認識した。
条件反射であろうか。だとすれば、幽々子が「斬れ」と命じていたら、妖夢は即座に刀を抜き放っていたに違いない。
「お待ちなさい」
底冷えのする声で制止をかけたのは星であった。
姿勢も表情も声色すらも変わってはいないが、聞いた者全てに畏怖の感情を植え付けられそうな、そんな声だった。
「ムラサ船長は我々の仲間で、個人的な友人(霊)でもあります。彼女に狼藉を働くと言うのなら、私がまず相手になりますよ」
妖夢の顔色は最初から良くは無かったが、ますます青くなっている。
胃薬で済めば良いな、と思っているが、最悪の場合、永遠亭送りも覚悟するべきだろう。
ムラサも同様の心境である。
いざとなれば力ずくでここを脱出したい。しかし、ここ白玉楼に逗留する霊にとっては、幽々子が絶対者なのだ。客人と言えども同じ事だろう。
それを考えると、どれだけ不利な話かは想像がつく。
二人が期せずして視線を交わすと、妙な連帯感が生まれた。
――大変ですね。
――そちらも。
――世の中ままなりませんね。
――全く。
「何故彼女が凶刃を受けなければならないのか、納得できる理由を」
「納得できれば斬られて頂けるのかしら?」
「単刀直入に行きます。――イヤだと言ったらどうする、亡霊の娘?」
「私達がやらなくても、いずれは同じ運命よ? 彼岸から閻魔――あなた方の言うヤマがやって来て、説教の後、彼女を連れて行くでしょう。私達はあなた方を困らせる為に呼んだ訳じゃないわ。むしろ、協力できるのではと話し合いの場を設けてあげたの」
「フッ、刀を携えて話し合いですか」
幽々子の台詞を、星は鼻で笑った後お茶を一口飲んでから言った。
「言ってみなさい。聞いてやる」
自分らの進退がかかった話を、主や友人がどんどん進めている。
妖夢とムラサは星の物言いが、幽々子の勘気を買うのでは無いかと気が気では無かったが、口を差し挟んで何とかなるものか。
むしろ事態を悪化させかねないと思うと、固唾を呑んで見守るしか無かった。
幸いにして、幽々子は微塵も揺らぐ様子を見せない。
彼女を除く三人は笑顔を見せたとしても眼だけは笑っていなかったが、幽々子は変わらぬ優しい笑みで、そこに座している。
最も、それが逆に恐ろしさを感じさせる部分でもあるのだが。
「本気で言っているのなら仏失格ねえ。仏教に限らず、神道でも基督教でもそうなのだけど……冥界以外には普通、幽霊がうろついてちゃいけないのよ」
「そうなんですか?」
妖夢は思わず発言して、しまった、と言う顔をしている。
それを少々呆れた顔で眺めながら、幽々子は話を続けた。
「はぁ、あなたもわかってなかったのね。冥界に属する西行寺の庭師ともあろう者が」
「も、申し訳御座いません」
「続けるわね。60年に一度、霊があちこちに大量発生する事はあるけど、それは例外中の例外。魂が多すぎて、冥界からはみ出ちゃったのね。普通、生き物は死んだらどうなるかしら?」
「裁きを受けて、生まれ変わりを待ちます」
「そうね。それは共通の事よ。つまり、死んだものは、すみやかにあの世に向かい、天使やら閻魔やらの裁きとか何かを受け、転生を待つ。それが輪廻、世界の理よ。即ち、死人はこの世で『迷っている暇』等無い。宗教者なら尚更それには逆らえないでしょう」
「はぁ、つまり浮遊霊はあの世に向かっている途中だし、地や念に縛られた霊とかはこの世に留まっていてはならない者だと」
「例外もあるわねぇ。元々死人としてこの世に放り出された存在とか。吸血鬼とか、ゾンビとか、後は私とか? でも私は閻魔様から直々に冥界に逗留する事を許されてる訳だし、吸血鬼やゾンビは『死人としてこの世に生を受けた』。あなた達は『生者として生を受けた』。生を受けた者が死んだなら、理には逆らえない」
妖夢は成る程とコクコク頷いている。
思い当たる所があるのだろう。かつて祖父からも、亡霊に出会った際は即座に斬り捨てろと指南された事がある。
本来なら死体を探し出して供養し、輪廻の中に戻してやるのが良いのだが、それが不可能な時は、白楼剣が非常に重要な意味を持つ。
「お友達のおかげで恨みや呪詛の念は解消されたと言うけど、それも一時的な物でしょうよ。元が地縛霊だから、いくら無念を解消しても、恨みは募っていく。きっとあなたはその内、生きとし生けるものを憎むようになり、その一念で無辜の民に手を出すでしょう」
「聖と私達が何とかします」
「その前に紫――私の友達に始末されなければ良いわね? 彼女はこの幻想郷を乱す者を絶対に許さない。いの一番ににあなたの異変を感じ取り、殺しに来るわ。紫にはそれができるし、そうなったらもう輪廻の輪には戻れない。霊魂は私達の管轄だし、できれば今ここで決断して欲しいけどね」
星は苦虫を噛み潰した様な表情になり、ムラサに至っては顔面蒼白であった。
元々死人の顔色をしている霊が蒼白になると言うのも不思議な話だが、普段より青ざめて見える彼女を何と評するべきかと言われれば、やはりそう言うしか無いだろう。
実際、ムラサの残念無念による地への縛りは聖白蓮のおかげで解消され、今度は白蓮の力になりたい、一緒にいたいと言う一念で、何とか正気でこの世に留まっている。
彼女が念縛霊と呼ばれる所以だ。驚異的な精神力と言えるが、元々の性質自体はそう簡単に変化する物では無い。
命名決闘法の為に作り出した弾幕にも呪詛を含んだ水を飛ばす技があるのがその証拠だ。
最近の情緒不安定にも説明がつく。
しかし、いきなりそれが異端だ、と弾劾されては、どうして良いのか彼女にはわからない。
「説明は以上。ね、どうかしら?」
「どう、とは?」
「今のを聞いても、水蜜ちゃんが斬られるのはおイヤ? 毘沙門天代理さん」
いつの間にか『ちゃん』付けになっている。
「おイヤですね。先程も言いましたが、彼女は私の友人です。現界に留まらせたいと考えています」
「閻魔様が来たら?」
「話し合ってお帰り願います」
「妖夢」
「はっ」
妖夢は立ち上がって、腰に差していた白楼剣と、背負っている楼観剣を淀みなくズラリと抜き放った。
楼観剣を室内のどこも傷つけずに抜き放った事が、彼女の技量を伺わせる。
特に少女並、と言って差し支えない体格で、あの長物をどうやって抜いたのかは、本人以外には理解の外であった。
少し膝が笑っているのは、毘沙門天(代理)等と言う大物と相対するのが久方振りだからであろう。
素性の知れない相手や不審者なら、どんなに力の差があろうと魂魄の名にかけて尻込みなどしないが、相手が神格を持った者ともなると、状況は違うらしい。
閻魔の時などは、決闘中も説教中も恐縮のし通しで、実力の半分も発揮できなかった上、しばらくの間、胃炎を患う羽目になった。
「この子の刀は普通じゃないし、妖夢自身もそれなりに強いわよ?」
それを聞いて、妖夢の胃の痛みは少々緩和されたが、「半人前だけどねぇ」と幽々子がつけ足すと、再び彼女は沈痛な表情になった。
「噂に名高い楼観剣と白楼剣、ですか。聞いた事はありますが、冥界に持ち主がいたとは驚きです。ですが、気遣いは無用。私にもこう言う物があります」
星はそう言って、傍らにある槍を手に取った。
この槍、如意宝棒と言い、悪鬼悪霊を叩きのめす為の物で、宝塔に並ぶ神具でもある。
いくら妖夢が悪霊の類では無いとしても、攻撃を受け続ければタダでは済むまい。
「あなた方が管理する場所は、戦場になっても良いのですか?」
「ご心配無く。妖夢、静かにお斬りしてあげて」
「では、私も静かにムラサを連れ帰ります」
痛い、胃が痛いと思う者がいた。当然、妖夢である。
胃酸が多く分泌されたのか、妖夢は胃の膨満感と焼けるような痛みに苦しんだ。
毘沙門天相手に、冥界の静謐を保ち、その友人を斬らねばならない。
無茶だ。平穏な日常だった昨日までが、ヤケに遠く感じた。
そう思っているのと同時に、頭の中でもう一人の妖夢が、『斬ればわかる』と告げている。
魂魄妖忌の教えは、斬り結んだ時の相手の意思、必死さ、闘志、斬られた後の様子等から相手の事を類推する『洞察』に近い物だったのであろうが、生真面目な妖夢は言葉の譜面通りに解釈しているフシがあった。
「連れては行けないわよ。あなたも帰れない。白玉楼へやって来て転生や成仏ができなかった幽霊はいませんが、狼藉を働いた生者は、何故か行方不明になる事があります」
それを聞くなり、星は右手を突き出した。
本来ならこれで相手を怯ませた後、ムラサと二人で逃走、と行きたい所ではあったのだが、大事な物がその右手から消失していたのである。
「え?」
「うそお!?」
ムラサの疑念の声と星の悲痛な叫びが響いた。
しかし無い物は無いのだからどうしようも無い。
星の右手に本来収まっているはずの宝塔が、影も形も無かった。
今度は無くさないようにと、私室の箪笥に、後生大事にしまいこんでおいたのだが、それが裏目に出た。
無くす事は回避できた物の、大事な場面で使用する事ができないとは。
そして、二人の眼の前には紫色の蝶がいつの間にか姿を見せている。これは――。
「ヤバい、星!」
ムラサは星の襟首を引っ掴んで、部屋を飛び出した。
幽々子の出現させた弾である。死を操る能力を利用した弾かどうかは不明だが、どちらにしても危険な代物であった事は確かだ。
先の天人の起こした騒動における闘いでも、能力は使用していなかったのに、優美可憐な姿に似合わず、彼女は実に強力な攻撃力を誇っていたのだった。
ムラサは、同じ幽霊だからこそ、その脅威に気づいたのだ。
そしてその蝶に気をやったからこそ、忍び寄る脅威には気づけなかった。
必殺の弾をかわされたはずの幽々子が、立ち居振る舞いも笑みも崩さず、ぽつりと呟いた。
「美味しいハムになると良いわね」
そう星には聞こえた。
ムラサは自分を引きずっており、それに気づいていない。
戦慄と共にムラサを振り払い、宝棒を360度水平に振り回すと、鋭い音ともにそれが受け止められる。
いつの間にか接近していた妖夢が、両の刀で挟み込む様に自分達を両断しようとしていたのであった。
行動が数瞬遅れれば、文字通り輪切りになっていただろう。
妖夢は星がなぎ払った宝棒を二刀でガッチリ受け止め、微塵も引く様子を見せなかった。
様々な懸念を抱いていた妖夢だが、いざ戦闘が始まってしまえば、思考は剣士としてのそれに塗り替えられた。
相手は毘沙門天、代理とは言え財宝を守り悪鬼を踏み潰す武神だ。
萎縮してもおかしくは無かったが、幽々子が近くにいると言うのが、妖夢に精神の安定をもたらし、同時に闘志を生んだ。
ムラサも勿論黙って見ていた訳では無い。
星と妖夢を膠着状態と見てとると、ケッジアンカーと言う小型の錨の弾を複数精製し、横手から妖夢に向かって、力の限り撃ち出す。
回避不可能なタイミングであった。
「けぇえい!」
どよもすばかりの気迫と共に星を押しのけ、その勢いで刀を振りかざして錨の弾丸を悉く叩き落とし、妖夢は胸を撫で下ろした。
星との鍔迫り合いの直後に、いかに小型とは言え、重さでは比類が無いと思われる錨の弾丸を刀だけで叩き落とすとは、何という豪腕であろうか。
しかしその瞬間、彼女の脳裏に浮かんだ言葉は『油断大敵』であった。
「頂きます!」
弾丸の背後から、ムラサが間近に迫っていた。
どこから持ち出したのか、はたまた自力で精製したか、巨大なストックアンカーを手にしている。
こんな物で殴られれば、例え妖怪でも無事では済みそうに無い。
二振りの刀を自在に振り回す妖夢の力も大した物だが、ムラサもそれにも劣らぬ怪力の持ち主であった。
刀を振ったばかりで体勢を崩している妖夢に、防ぐ手立ては無いと思われた。
後は大上段からアンカーを振り下ろすだけで妖夢は戦闘不能に陥るはずだったが、何かがムラサと妖夢の間に割り込んだ。
妖夢の半霊であった。ここぞと言う時に裏技的に使用するのだが、それだけに効果はてきめんだ。
ムラサは一瞬戸惑ったが、それなら妖夢もろとも叩き潰してしまえば良いと言うだけの話。
しかし、間の悪い事に、その一瞬が剣士に必要な刻をもたらした。
妖夢は刀を振った惰性に思い切り逆らい、表情を歪ませ、呻きを上げつつ楼観剣を引き戻す。
その瞬間妖夢の右腕にかかった荷重は300貫(約1トン)をも超えるだろう。
眼前に存在する全てを、空間ごと斬り刻まんと刀が荒れ狂った。
魂魄家に伝わる技の一つ、『桜花閃々』。
ぎん、と鋭い音がして刀がストックアンカーに食い込むや、ムラサは焦りすら滲ませてアンカーを放棄し、後方へ退避した。
その刹那の内に、巨大なアンカーは『なます』にされていたのである。
本来は高速で踏み込みつつ放つ技だが、妖夢はその腕力のみで、不足した突進の威力をカバーし、軌道上全てを斬り捨てる代わりに、前方の物を全て斬り払ったのである。
剣圧で庭園の桜が散り、花びらが刀を構える妖夢を美しく飾り立てた。
「バカな……」
ムラサは戦意こそ失いはしなかったが、憮然とした表情で呟いた。
刀自体の恐ろしさはともかく、この技量と凄絶な刀の冴えは予想外の事であったらしい。
「妖怪が鍛えたこの楼観剣に斬れぬものなど、あんまり無い!」
窮地を切り抜けた妖夢の声が音吐朗朗と響き渡る。
ややもすれば頼り無い台詞ともとれるが、実の所、これ程恐ろしい事も無い。
『余り無い』と言う事は、『ほとんどの物は斬れる』と言う宣言に等しいのだから。
事実、ストックアンカー等と並の刀で打ち合えば、数合持たずに刀の方が折れる事は間違い無い。
一撃で損傷してしまう事もあるだろうが、そもそもアンカーと打ち合う状況など、この世に存在するものか。
それをぶっつけ本番で試し、破壊した妖夢の技は絶技としか言い様が無いであろう。
幽々子や本人は未熟だと評しているが、これで未熟なら、彼女が剣の道を極めたとしたら、どれ程の使い手になると言うのか。
星もさすがに声が無い。たかが半人半霊と侮っていたが、認識を改めた、と言う所か。
白蓮が封印されてからこっち、まともな闘争は実に数百年振りになる。
スペルカードルールなる物を利用した戦いも経験したが、あれは弾幕ごっこと言う遊戯に過ぎない。
以前ナズーリンが竹林で戦闘を経験し、今後そう言う事が無いとも限らないからカンは取り戻しておいた方が良い、と忠言を受けてはいたが、その機会がこれ程早くやってくるとは想像の埒外であった。
幽々子はいつの間にか縁側に腰掛けているが、傍らにはお茶とお菓子。
どうやら、妖夢に全てを任せるつもりであるらしく、その優雅な姿は良家のお嬢その物だ。
星としても闘いに積極的な姿勢と言うわけでも無いので、逃げるならば今が機と言う事になる。
もし星が全力で闘えば、冥界や現界にどんな影響があるかわからないし、私闘に毘沙門天としての力を振るったとすれば、代理失格であるからだ。
「ムラサ、私が彼女を抑えておきますからその間に逃げましょう」
しかし、ムラサは動かない。
俯いたまま、何事かを呟いている。
「ムラサ?」
そこにいたのはムラサであって、ムラサでは無い別人の様だった。
星の言葉を耳に入れる様子も見せずに再びストックアンカーを精製し、もう片方の手には底の抜けた柄杓を手にしている。
「私に出会ってしまったな」
ムラサと同じ声をした別人が妖夢に語りかける。
ぞわり、と悪寒が湧いた。イヤな予感と言う奴だ。
これは、海の上で行き交う船を闇雲に沈めていた頃のムラサの声だ。
幽々子の言った通り、地縛霊として存在し続けた、妖怪としての本来のムラサが顔を出したと言う事だろう。
わずかずつでも恨みつらみが蓄積し、昔のムラサに戻ったというのか。
何故、今このタイミングで?
白蓮を連れてくるべきだった、と後悔しても遅かった。
「ム……」
星は声をかけようとしたが、ムラサはそれより先に動き、柄杓から海水を撒き散らした。
水滴を受けると、倦怠感、やり場の無い怒り等、不快感が湧き上がり、精神をゴリゴリと削られて行く。
そして、妖怪にとってそれは致命傷となり得る。
恨みつらみ、残念無念の呪詛を含んだ水であった。
彼女がスペルカードルールの決闘で使用していた通常弾幕だ。
ただし、呪詛の威力が弾幕の時の比では無かった。
星は慌てて遠間に避難し、妖夢も右手を八双、左手を前方に突き出し、構えを取った。
「幽々子様、な、何かまずい事になってません? 助力を」
それでも幽々子は動かなかった。泰然と座したままである。
微笑みもそのままだ。此処まで来ると、暢気を通り越して大物である事は間違い無い。
「闘争に触れた事で恨みが活性化したのかしらね?」
「暢気な事言ってないで、何とかしないと」
「私は『あなたに任せる』と言ったわ」
「そんな事言われても……!」
妖夢が丹精込めて剪定した松の木や、枯山水式の庭が、呪われた海水によって滅茶苦茶になっていく。
幽々子が妖夢に何を求めているのかは不明だが、どちらにしろ、自分の仕事場を荒らされて、黙っている事など妖夢にできるはずは無かった。
「そこに直れ!」
妖夢からつっかけた。
同一人物とは思えないほど冷たい眼で妖夢を一瞥したムラサは、彼女に向かって、呪詛からなる海水の水滴を集中させた。
「貴様の『水』は雨には及ばない!」
言うなり左手の白楼剣を一閃し、水弾を切り払う。
ムラサの顔が驚愕に染まった。
海水の弾幕を斬った事ではない。水その物は切り払ってもそれには呪いが憑いてくる。
妖夢は呪詛その物を切り払ったのだ。これが冥界の庭師、その刀の本来の使い方か。
海水を斬った事で、ムラサまでの道が開けた。
その機を逃さず、妖夢は刀を思い切り振りかぶって鋭く交差させた。
間合いの遥か外からの斬撃であるはずだったが、そこから発生する剣気、『結跏趺斬』。
ムラサは動けない。完全に直撃コースであった。
「はっ!!」
気合の声と共にバチィッと耳障りな音がした。
剣気を、無理矢理叩き潰したのである。その余波でムラサは吹き飛ばされた。
攻撃を防御したのはムラサ本人では無く、眼前に立っていたのは、星であった。
「と、寅丸さん?」
「お待ちなさい。ムラサは私達が何とかすると申し上げたはずです」
「しかしですね」
ムラサの眼は未だ殺意に燃えている。
星は苦渋を滲ませつつ啖呵を切ったのだが、それもできるかどうか。
彼女を無事命蓮寺まで連れて行けるとは思えない。
幽々子の言った通り、帰参する途中で隙間妖怪がやって来るかもしれない。
冥界での戦いを察して閻魔が出張って来でもしたら、ムラサは一環の終わりだろう。
そんな事になれば、どちらが来るにしても彼女は消滅させられ、成仏もできずに無へと帰す。
今、この場で、何とかするしか無いのだ。
白楼剣で迷いを断ってやれば成仏ができる。加減を間違えれば同じく魂が消滅してしまう事になるが、先の二人がやって来た場合の事を考えれば、輪廻の輪に戻れるという救いはある。
「貴方一人で何とかなりますか?」
「何とかします」
星は豪語するが、恐らくムリであろう事は妖夢にも察する事ができた。
おそらくムラサの無念を解消したと言うのは、聖白蓮の菩薩の様な精神性もそうだが、彼女の法力の助けもあったのだろう。
そして、星が即座にムラサを助けない所を見ると、何とかしたくてもできないのだ。
幽々子はそれを見ていて、嘆息して語りかけた。
「ヒント」
「えっ?」
「ヒントをあげるわ。妖夢、さっきあなたは、何を斬ったのかしら?」
「海水です」
「それだけじゃないわよ。無意識にやっちゃったって事なのかしら」
妖夢にはピンと来なかった様だが、星は敏感に反応した。
「そうか、白楼剣。呪詛を斬ったのですか」
「正解。ウチで働く気は無い?」
「残念ながら。毘沙門天様の代理の仕事がございますので」
「無念だわねぇ」
「恐れ入ります。魂魄殿、毘沙門天代理の名においてお願いいたします。ムラサを助けてやって下さい!」
「急に言われても」
そうこうしている内に、ムラサはゆっくりとこちらに迫って来る。
「さっきのは勢いと言うか何と言いますか」
「そんな」
「成仏させる為に斬るのならまだ何とかなりますが、恨みだけを斬るとなるとちょっと」
消滅させるよりも、成仏させる様に斬る。
成仏させるよりも、呪詛だけを斬る。
難度は当然後者に行く程に高くなる。
先程戦っていた時の勢いはどこへやら、自信無さげに立ち尽くす妖夢を見かねたか、今度は星が助言を送った。
「良いですか魂魄殿、集中です。剣士としてのあなたの技量は筆舌に尽くし難い。過去の豪傑と比べても遜色ありません。一意専心、集中するのです」
妖夢の胸に、星の言葉は不思議と染み入った。
ここまで手放しに褒められた事など、余り経験が無い。
やれ、未熟者だ、半人前だのと言われていた妖夢にとって、星の台詞は感銘を受けるには充分すぎる程優しく、包容力に溢れていた。
幽々子もやたらと懐が広いが、些か捻くれている所もある。
毘沙門天代理は正道とも言うべき、綺麗な形である器の大きさを持っていた。
それだけを妖夢に伝え、星はムラサに向かって宣言する。
「ムラサ! あなたの恨みを晴らしたいと言うのなら、まずは私から受けて立ちます!」
聞くなりムラサは星に突っ込み、ストックアンカーを叩きつけた。
余裕をもって宝棒で受け止めるが、踏ん張った大地がごば、と陥没した。
「寅丸さん!」
ムラサを助けなければと言う意識があるのか、星は攻撃を躊躇している。
右、左、上、下、と縦横無尽にアンカーが襲い掛かり、それを捌くので手一杯になっていた。
一方妖夢はと言うと、先程までの戦闘で疲弊している。
脂汗をじっとりと滲ませ、荒い息を吐く。
ムラサは接近戦では埒が明かないと悟ったか、空中に舞い上がり、再び海水を撒き散らした。
「ぎゃん!」
ムラサを追いかけようとした星は、海水をモロに受けて地に転がった。
いくら宝棒があるとは言え、白楼剣の様には行かない。
徐々に追い詰められていく。妖夢に妨害無しで刀を振るってもらおうと囮を始めたのだが、ロングレンジの戦いとなるとさすがに宝棒だけでは厳しい。
倒れ付した所に、二度、三度と海水が襲い掛かり、星の精神を削って行く。
せめて宝塔があれば――。
「狙え」
声。どこからともなく響いたそれに応える様に、無数のレーザー状の弾丸がムラサに殺到した。
慌ててムラサは回避行動をとったが、それでも数発のレーザーを受けたはずだ。
それでも撃墜するには至らず、ムラサは声の方向にケッジアンカーを振りかぶり、全て砕けよと言わんばかりに投げつける。
しかしアンカーは声の主には届かず、その周囲をガードするペンデュラムによって弾き飛ばされた。
空に浮かぶその姿は、疲労している妖夢と星に苦笑しながらグチをこぼした。
「やれやれ、やはり私では力を全部引き出せないか」
「ナズーリン!」
「やあ、忘れ物だよ、ご主人」
ナズーリンはその手に持っていた物を投げて寄越した。
当然、それは宝塔であった。
訳がわからないと言った表情で妖夢が話しかける。
「何者!?」
「通りすがりの通り魔さ」
「ナズーリ……」
「細かい事は後にしようじゃないか。今は船長を何とかするのが先では無いかね?」
星は逡巡の後、力強く頷いた。
宝塔を右手で掲げ持つと、その力が溢れてくる。
美しく、明るく、雄大でな光であった。妖夢と幽々子は始めて目撃するが、これが法の光か。
「ナウマク、サンマンダボダナン」
星が何事かを呟き始めた。
それに呼応して、宝塔の光が強まって行く。
太陽の光とも、核の光とも違う、優しく、力強い輝き。
「ベイシラマンダヤ、ソワカ!」
これは真言(マントラ)だ。
毘沙門天の力を発揮、乃至力を借りる時のマントラだった。
太いレーザーが宝塔から飛び出し、ムラサの前後に走り抜けて行く。
その間でまごついていると、レーザーが弾け、無数の弾幕を形成した。
これでは、マトモに動く事はままらない。
「魂魄殿! 三つ数えたら弾を消して自由にします! そのスキに! あなたならできる!」
そう言われてはもうやるしか無い。
妖夢は眼を閉じて精神集中をした。幽々子の台詞を反芻する。
これは、自分の為に幽々子が取り計らってくれた、試練なのだと言う事を思い起こす。
「ひとつ」
寅丸星台詞を反芻する。
自分の技量は、彼女達が相対した豪傑にも劣る物では無いと、太鼓判を押された。
あんな真っ直ぐに自分を評価してくれた人は主意外には、余りいない。
「ふたつ」
ムラサの顔を思い浮かべる。
自分は半霊、彼女は念縛霊。
立場こそ違うが、誰かの役に立ちたいと言う想いは本物だ。
できる事なら、救ってやりたい。彼女の願いを叶えてやりたい。
剣を振るう事で、相手を殺傷するのでは無く、相手を救済するのだ。
「みっつ!」
妖夢はカッと眼を見開き、中空に飛び上がった。
弾幕が消えた所に寸分の狂いも無く、絶妙の間合いを確保し、気合と共に刀を振る。
「成仏得脱斬!!」
巨大な剣気を上方に向かって吹き上げる絶技。スペルカードとして採用もしている為、威力は折り紙付きだ。
それをムラサに直接叩きつけた。
威力だけで言えば、ムラサの命―ー魂その物を吹き飛ばしてしまってもおかしくない。
だが、妖夢は、彼女に憑いている恨みや呪詛のみを殺ぐ事に力を注いだ。
結果は。ムラサは無事なのであろうか。
星、ナズーリン、妖夢はほとんど忘我の境地で様子を見守った。
剣気が消えてなくなり、いつの間にか晴れ渡った蒼天からムラサが落ちてくる。
星は泡を食ってムラサを抱きかかえた。
息は……ある。亡霊なのだから息をしていると言うのは些か奇妙だが、とにかく無事であった。
妖夢は連戦に続き、慣れない事に力を使った所為で満身創痍だ。
それでも、幽々子に何とか歩み寄ると、やりました、と笑いかけ、崩れ落ちる。
「よく頑張ったわね」
星は床に伏せった妖夢を労っていた。
ムラサはその隣で恐縮しており、窮地に現れたナズーリンは、部屋の隅で腕組みをしながら突っ立っていた。
妖夢はほとんどの力を使い果たし、立つ事すらも困難な状況になってしまったのである。
それでも彼女は満足していたし、剣の道をまた一歩先んじた、と上機嫌であった。
「すみません、私の所為です」
「なんの。これも修行の一環ですよ、村紗さんが無事で良かった」
ムラサから恨みの念等はほとんど解消されていた。
彼女からは再び清浄な念が放たれており、聖の為に、と言っていたムラサに戻っていた。
星も妖夢に改めて例を言い、幽々子は相も変わらず春風駘蕩である。
一人不機嫌なのはナズーリンであった。
「しかし、西行寺殿も人が悪い。最初から事情を説明して頂ければ、聖と私達で何とかできた物を」
「そろそろ、妖夢に先へ進んで欲しくてねえ」
「それだけで私達やあなたの従者を危険に晒したと言うのか?」
剣呑な気配を放ちながらナズーリンは毒づいた。
怪文書まがいの手紙を態々送ってまでする事か? と言う事だろう。
不満が顔から滲み出ている。
「まあ、これであなた方も水蜜ちゃんの恨みを定期的に解消しないと、この世からもあの世からも弾き出されちゃうかもって理解したでしょ?」
「それはそうだが」
「それに妖夢も一歩前進した事だし、終わりよければ良いんじゃない?」
「良くない」
にべも無かった。
本人達は気にしておらず、その言葉通り、終わりよければ、と言う体であるので、益々不満が募る。
「それに、面白かったわ。宝塔だっけ? 綺麗な光だったわねぇ」
「見世物じゃない」
「まあまあ、最初に寅丸さんも拒否した事だし、お相子って事で。少しお庭が荒れちゃったけど、もし閻魔様が来たら修行に熱が入っちゃったって伝えておくわ」
「いくつも御口があるようで何よりだ」
さすがに聞き咎めたか、星が割って入った。
舌戦に耐え切れなくなった、と言うのもあるのだろうが。
「ナズーリン、今回は助かりました」
「それは構わんがご主人、宝塔を忘れていくとは何事かね?」
星は、う、と呻いてから言い訳を試みたが、当然、ムダだった。
ムラサもその件に関しては直接目撃しているので、白い眼を向けるばかりだ。
「あのね、今回『は』では無いだろう。日本語は正しく運用されてこそだ。今回『も』と言うべきだな」
「今回『も』って何です?」
ムラサの疑問は当然だ。
いつぞやの宝船騒動の事であるが、星はそれを仲間に秘密にしていたのだ。
「な、ナズーリン、その話はこの辺で……」
「ダメだな、お仕置きだ。毘沙門天代理として、もっとしっかりしたまえ」
「あら、楽しそう」
「では私も」
「ちょちょ、ちょっと」
桜舞う蒼天に、星の声が響き渡った。
それと同時に、人里近く、命蓮寺の方角からも悲鳴の様な山彦が上がったが、彼女達の新たな仲間の仕業である事は言うまでも無い。
了
その寺社には郵便受けが存在している。
勿論、通常の手紙のやり取りでも使われるが、口頭等で伝えにくい用件を投函する目安箱の様な役目も果たしていたりする。
近頃は、匿名の手紙も増えてきた。
内容はおおむね寺の運営に関する物だが、時折おかしな物も存在する。
この寺は、聖輦船が変化してできた物だが、聖が飛倉で再現して復元したとは言えど、村紗の船なので、土地はともかく建物の管理をするのは誰か、と言うのは、当然村紗水蜜こと、キャプテン・ムラサと言う事になる。
そんな訳で、郵便受けを最初に検分するのは、寺社宛、つまり聖蓮船宛なのだから、家主の村紗が適当だ、と言う事で仲間の意見は一致を見た。
中には『聖白蓮様のおしりペロペロしたい』等と言う破廉恥極まり無い恋文(?)も存在するが、そう言った手紙は当然塵となって消え行く運命にある。
それを確認してから、ナズーリンが購読していると言う新聞を回収し、聖輦船をざっと見回り、命蓮寺の全員で朝食を摂る。
ムラサの一日は、そうやって始まるのだった。
しかし今回の手紙は様相が違う。
桜の花をあしらった装飾の上品な便箋に収められており、また恋文か、とムラサは嘆息しながら読み進めたのだが、文章はその可愛らしい便箋に反し、力強い毛筆で、おどろおどろしい内容が記されていた。
~~~~~~~~~~
お初にお目にかかる、卒爾(そつじ)がお文(ふみ)無礼申す。
それがし、冥界が「白玉楼」にて庭師をば務めておるでござる、魂魄妖夢であると申しんす。
此が度は、そちらに現世にて迷った念縛霊、滞在致し候であると風が噂をば聞きつけ、筆をばとった次第でござる。
つきましては、そちらが棟梁者しからばび、当が幽霊殿に面會をば願おりきく存じ候。
難儀無礼にてかたじけないでござるが、こちらよりは、出向けぬ事の由、候うがにて、冥界まにて一両日中にご脚労頂け候。
聞き入れられぬ時は、そちらに飛びこみて一切合財をば斬り捨てる所存でござる。
宜しくお願い致す。
~~~~~~~~~~
内容はほとんど斬奸状である。
要は、
「私は冥界の白玉楼の庭師です。そちらに念縛霊いますよね? その幽霊さんに用があります。代表者と一緒に冥界まで来てください。ダメな場合はそちらに出向いて全部斬ります」
と言う事なのだが、何故いきなりこの様な脅迫文染みた手紙を受け取らねばならないのだろうか、と村紗は震え上がった。
何しろこの手紙の主題は自分自身だ。これが紅白の巫女が言っていた『異変』と言う奴か。
平穏な日常が突如様変わりするという意味ではそうではある。
太陽の光で透かしてヒラヒラさせてみる。しかしやはり内容は同じだった。
自分、何かしたっけ? 等と思いつつ文面を眺めるが、心当たりは無い。
とりあえず『全部斬る』と明言されている以上、仲間に相談せぬわけにも行くまい。
朝一で暗澹とした気分になると、自然その一日全てが何だか億劫になる物だ。
ただでさえ、最近のムラサは精彩を欠いていた。不調と言う奴だ。
普段よりも陰鬱になり、無闇に怒りっぽくなったり、酷い時には、何の関係も無い人間に対して恨みの念が湧いて来る事もある。
原因は不明だ。
村紗は一気に重くなったような気がする体を引きずって、命蓮寺の家屋部分へ足を運ぶのだった。
仲間の反応は想像がつく。皆口を揃えてこう言うだろう。
「なんなんですかこれ」
「お手紙。文なんてしたためるのは何年ぶりかしら」
朝食時に、白玉楼の主、西行寺幽々子が差し出した手紙を見て、庭師、魂魄妖夢は眩暈がした。
曰く、寺社に送りつけた物を友人にコピーしてもらった物だと言う事だ。
何故か自分の筆跡で書かれた手紙が存在し、何故か自分が人里近くの寺へ怪文書を送りつけた事になっているらしい。
オマケに何故か文面はサムライ調で、文の結びには何故か殺人鬼の様な文言が記されている。
これは結界の番人をしている妖怪にも言えるのだが、普段ぐーたらに過ごしている主人が能動的に行動した際、それは大抵が厄介な事情で、それを従者が知った時、事態は既に抜き差しならない状況に陥っていると言うのが定説である。
職務柄、幽々子の友人の隙間妖怪、その式である八雲藍と言う天狐とは交流が深いのだが、その点について大いに同意し、お互いに涙したものだ。
幽々子がこうして手ずから文をしたため、話して聞かせたと言う事は、妖夢にこれを実行しろと言う事なのだろう。
妖夢は命蓮寺とやらに、ヤギの妖怪がいる事を祈った。
読まずに食べてもらえばこの件は全てにおいて丸く収まるとでも考えたのだろう。
この手紙の一番眼を引く点は、相手が手紙を無視した場合、或いは要求を突っぱねた場合の殺害予告にある。
人里の寺社へ乗り込んで一切合財斬り捨てるなんてマネをやらかしたら、良くて当分人里への出入り禁止、悪ければ博麗の巫女にタレコミが行き退治、或いは彼岸で閻魔より説教、乃至裁きを受ける事になる。
その後は里で噂になり、危険度極高の辻斬り妖怪(幽霊)として、第二の人生を歩み始める事になるだろう。
第二の人生と言うのは祝福されて然るべきだと妖夢は思っているから、これには抗議せざるを得なかった。
祖父は今どこで何をしているのだろうか、等と考えながら。
「どうするんですかこれ。これじゃ私が辻斬りみたいじゃないですか」
「そうねぇ」
幽々子は全く悪びれる様子を見せず、笑顔でそれを肯定した。
この主と来たら、何も考えていない様で実に良く回る頭と口を持っており、強弁、反論が通用しないのは勿論、普段の会話ですら主導権を妖夢に与える事が全く無い。
彼女が妖夢にとっての敵や、気に食わない連中をやりこめるのを見るのは、非常に胸がすっとするが、それが自分に向けられるとなると、気苦労が倍々方式で増えていく。
八雲紫の友人と言うのは普通ではやっていられない。むしろ類友である。
「修行の一環だと思えば楽ちんよ。それなら少々辛くても何て事ないでしょ? うふふ」
「うふふって。そもそもどう言う目的なんですかこれ」
「あなたの修行よ?」
「それはわかっておりますが、何故お寺なんです? 念縛霊がいるとの事ですけれど、その霊が何かしたんですか? 呼び出してどうするおつもりで?」
「一遍に言われると、混乱して記憶から抜けちゃうわ」
「トコロテンじゃあるまいし」
「あ、良いわね、心太。今日の昼食に出して頂戴」
妖夢は感じた。経験から言ってこれは、はぐらかす気満々だと。
いつもの事だ。いつもの事ではあるのだが――やはり妖夢としては、真意が掴めないと、不安になる。
とりあえずは、待つしかない。それもいつもの事だ。
あと一日二日を過ごせば、事の全貌はイヤでも見えてくるはず。
後はなるようになれ、と半ばヤケクソ気味で妖夢は通常業務に戻るのだ。
「食後のオヤツはまだかしら?」
デザートは既に里で仕入れた、南瓜のプディングを用意してある。
妖夢は「只今」と言って台所へ向かう。
廊下はいつも通り綺麗に掃除されており、雑巾がけでもしたばかりなのか、年季の為せる技か、艶々としている。自分の顔まで映りこむ程だ。
ふとその廊下に眼をやると、沈痛な表情が映し出された。
庭から見える空も彼女の心を象徴したが如くの曇天であった。
長い廊下を常の足で進みながら、妖夢は嘆息し、その口からは本人も知れずに憂鬱な呟きが漏れた。
「困るなあ」
それが朝食後、手紙の事を仲間に話した後、ナズーリンが開口一番で口にした台詞である。
困るのはわかるが、一番困っているのは、手紙を送りつけられた私なんだけどなあ、とムラサはお茶を飲みながら思った。
「今は人手が圧倒的に足りないんだ。何とか今の材料だけで、この寺院の運営を安定させなくちゃならないから、人材を遊ばせておく余裕等無い。聖には布教及び新人の相手、ご主人は寺で門徒のご利益を何とかしなくてはならないし、一輪と雲山は人材の確保、船長には物資の調達及び――」
「わかった、わかりましたよ。余計な事に時間を割く余裕はウチに無いって言うんでしょ。でも――」
ナズーリンの言葉に横槍を入れて、ムラサは手紙の一部分を指で指し示した。
「これ」
全員の眼がその文章に落ちる。
『一切合財をば斬り捨てる所存でござる』
つまり、この命蓮寺に押し入って全員を叩き斬ると言う事なのだろうか。
「物騒な手紙ねぇ。時代錯誤も甚だしい――武士か、こいつは?」
一輪が端的な感想を漏らすと、寝転がってケツをかいていた鵺が劇的な反応を見せる。
勢い良く立ち上がり、辺りを見回すと、部屋の隅に陣取り、膝を抱えてガタガタ震えだしたので、ナズーリンは訝しげな視線をそちらにやって声をかけた。
「どうしたね?」
「怖い」
鵺はそれだけを、一言呟いた。
それだけで何がわかると言う訳でもなかろうが、ナズーリンは意を得たりと言った風に頷いた。
「ああ、そう言えば君を討ったと言う人間も武士だったか。特に屋根まで追いすがって矢を射ったのは、源――何と言ったかな」
「やめてよ、思い出したくもない」
「正体不明だ何だと居丈高の割にそのザマか。いくら源某が猛者だったとは言え、既に過去の人物だろうに」
「言い過ぎですよ、ナズーリン」
別にナズーリンとしては、嫌味を言っている訳では無いのだが、生来の気質か、どうも相手の心を抉る様な喋りになってしまう。
余り働かぬ鵺に対し思う所があるのも事実。しかし最初から員数外だと思っておけば、なんて事は無い。
ネチネチ続くと思われたナズーリンの台詞に待ったをかけたのはその主だ。
「あの時代の人間には『妖魅を滅する』と言う執念とか怨念染みた意思があった。ああ言うのがまた出てこないとも限りませんし、恐れるのも仕方ありません」
「畏れを与える側の妖怪がそんな体たらくで良い物なのか疑問は残るが……まあそうだ。すまんね」
「別に良いけどさあ。一日二日くらい留守にしたって良いんじゃないの? そんなのが乗り込んでくる可能性があるんなら、聖とあんたのご主人様の二人で、事情を聞くか、叩きのめした方が良いよ。少し位忙しくなっても、そっちの方がマシ」
ほとんど働かぬ癖に、日ごろナズーリンが必死こいて考えている予定を「前倒しでも後回しでも何とかなるよー」と言った感じで鵺が口を挟んで来た。
尚且つ、現状ではそれが正しいと思える。
辻斬りの様な存在がチラチラと見えているのに、今後の予定を心配している余裕などあるはずが無いのだ。
悪戯と言う事にして、記憶の彼方に忘却してしまおうかとも思ったが、もし本当だったら洒落にならない。
相手はここが妖怪寺だと理解していてこの手紙をしたためた様だ。
モノホンの毘沙門天が本尊とされている以上、まさに神をも恐れぬ所行だが、相応の腕前と自信があるのだろう、と考える。
実際の所は冥界のお嬢の、目的すら不明な企みの一環なのだが、そんな事が命蓮寺の面々に理解できるはずも無い。
「むむむ」
ナズーリンは腕組みをして考え込んだ。
はっきり言って怪文書に付き合っているヒマ等無い。
大体今日明日は、仏門に帰依する、と言っていた新人(妖)がやってくる日だ。
ニュービー、特に妖怪ともなれば、相手をするのは当然、代表者だ。
朝の勤行でいきなり『三帰礼文(さんきらいもん)』乃至『三帰依文(さんきえもん)』を唱えろと言ってもムリだろうし、『五体投地』をやれと言ってもできないだろう。知らないのだから。
そう言ったモノを説いたり教えたりするのが白蓮の役目である。
帰依そのものだっていつ終わるとも知れないし、生活の仕方をや作法を教えるだけで、一日二日は軽く時間を取られると思われる。
しかも、妖怪が帰依するともなれば、『帰敬式(ききょうしき)』やら他の事やらで面倒を起こすかもしれない。
そこまで考えて、思索が脇にそれてしまっている事に気づいてナズーリンは苦笑した。
「ナズーリン、悩む事はありませんよ。私とムラサで、話を伺ってきますから」
「む」
「予定が崩れると言うならば、私がその分まで働きます。聖、新しい娘の『帰敬式』も私達が戻るまで待っては頂けませんか?」
それを聞いて、白蓮が心配そうに口を開いた。
「それは構いませんが、星。そちらは二人だけで平気ですか?」
「なに、代理の身ではありますが、命蓮寺の代表となれば私が適当でしょう。聖は他の皆を守ってやって下さい。新しい門徒に仏の道を説いて差し上げて下さい」
大事な場面でうっかりをやらかした星も、元々は優秀だからと白蓮に推挙された妖怪である。
その星が強く主張するものだから、白蓮以下一同も、その話に乗るしか無いだろう。
ナズーリンはそれを聞いて、苦笑しながら呟いた。
「頼りになるのだかならんのだか……全く、ここ一番でも、その位の威厳を保っていて欲しかったものですな、ご主人」
「ちょっ、ナズーリン、それは皆にはナイショで……アワワ」
星の狼狽にナズーリン以外の面々は、しばらく首を傾げていたが、外から聞こえた大音量の挨拶に、ある者は興味を奪われ、ある者は度肝を抜かれた。
「おはよーございます!」
手紙の事を知らされた魂魄妖夢は、とりあえず日課となっている白玉楼前にそびえる石の階段掃除を始めたのだが、その大声で作業は中断された。
中断されたと言うか、その大声に驚いた妖夢は、モノの見事にすっ転び、石段を転がり落ちてしまったのだった。
無論、無事である。人間だったらこの何段あるかもわからない、長い階段で転んで落ちたとなれば死ぬか大怪我だが、さすがは半分、人でないだけの事はあった。
来訪者の前に妖夢は石段を飛び越えて来たが、見るからに機嫌を損ねた様子だ。
「白玉楼の方ですか!!!?」
「やかましい!」
妖夢は思わず苛立ち紛れに怒鳴ってしまった。
いくら無事でも痛い物は痛かったのと、無様な姿を見られたと言う羞恥からである。
転がる勢いでまくれ上がるスカート、ドロワ丸出しで階段を落ちていく様は筆舌に尽くし難い。
相手が大声でがなり立てた為、本当にうるさかったのもある。
「ちょっと星、あの新人(妖)さんの大声、感染ってますよ」
「本当ですか!!!? ……と、失敬」
大声のついでに飛んできた唾をハンカチで拭いながら、ムラサは星を嗜めた。
寺にやってきた新米の妖怪は、妙に大きな声で話す癖があるようだった。
元気の良い娘がやって来たわね、と白蓮は喜んでいたが、ナズーリンや鵺はこっそり耳を塞いでいたし、妖気がその声にでも篭っていたのか、挨拶の直後に音が空気を伝わり雲山は爆散してしまった。
一輪が慌てて雲山をかき集めて事なきを得たが、人里で暮らす以上その癖は矯正していかなければなるまい、と新米の妖怪はナズーリンに諌められていた。
そんな元気一杯の妖怪が、世俗に虚しさを覚え帰依しようと言うのだから、世の中ままならぬ物だ、と星は思う。
それに当てられたのか、自分でも気づかぬ内に、『大声で話す』と言うのが伝染していたらしい。
妖夢は雲海を突き抜け、冥界までやって来た二人組を、改めて良く見た。
片方は姿だけなら妖獣に見えるが、同時に神々しさを持ち合わせている。
仏とか神に近い所にいる、格の高い存在かと考え、妖夢は埃や砂をパパッと払って軽く服装を整えた。
もう片方は気配だけで理解できた。幽霊だ。
ベトつく風の様な、陰気且つ物寂しい気配。
幻想郷に海があれば、妖夢は彼女の気配を潮風の様な、と評しただろう。
ここでようやく、妖夢は相手の素性を問い質した。
「どちら様です?」
「あ、失礼しました。私、命蓮寺の本尊を務めております、寅丸星と言う者です。こちらから手紙で招待を受けまして、やって来た次第なのですが」
「はぁ。と言う事はあなた方が最近人里に降りてきた、と言う宝船の」
ムラサはそれを聞いて複雑な表情になった。
噂か、それとも別の何かの仕業かは不明だが、未だに聖輦船は何故か『里に下りてきた宝船』と言う認識で通っている。
それを逆に利用して、『宝船で遊覧飛行』等と言う商売、乃至信仰集めが始まったのだが、自分の船が未だに『宝船』と称されるのは、何だか納得が行かない。
確かに星がいた事から考えると宝船と言うのはある意味ではそうなのかもしれないが、それでも1/7しか宝船の人員がおらず、しかも星は代理人なのだから、やはり宝船の体を為していない。
船名と言うのは、何らかの祈願が込められている物だから、それを蔑ろにしたくないと、ムラサは考えている。
彼女も船乗りのはしくれで、且つ船長ともなれば正しい呼称をして欲しいのは当然だ。
それを知る由も無い妖夢は、そのムラサの微妙な表情を気疲れか何かとでも思ったのか、気分をほぐしてあげようと微笑みかける努力をした。
結果、ムラサの表情は、益々複雑になった。
最初に見た時から気になっていたのだが、彼女が背負っている物は紛う事無き刀剣の類ではないか。
凍りつきそうな冷たい空気をそのまま形にした様な強烈な存在感は、見ているだけで魂まで斬り刻まれそうな錯覚すら覚える。それが二振りも。
チラホラと咲き始めている桜の木の下には、彼女に斬られた者が埋まっているのではないか。
そんな夢想をしてしまう程に、その刀剣は迫力と冷徹さ、不気味さを兼ね備えている。
あれはヤバい、とムラサの勘は警鐘を鳴らしていた。
鞘に収められていて尚それなのだから、抜き放たれ、殺傷にベクトルを向けたら何が起こる物か。
そんな刀剣を背負って微笑みかけてくる姿は、彼女が今まで出会ったどんな魑魅魍魎よりも恐ろしく感じられた。
星もそれは気づいている様で、些か硬い表情で妖夢に話しかけている。
「今朝、この様な文が届けられたのですが心当たりは?」
今度は妖夢の顔が複雑になった。
無い、と言いたい所だが、手紙が存在するのも事実。届いたのも事実。
悪戯と言う事で相手にスルーして貰えればそれが一番良かったのだが、やはりあの文面ではさすがに無視する事は難しいだろう。
事実、命蓮寺ではその様なやり取りが為されていた。
「伺っております。直ちに御案内致します」
「よろしくお願いします。……一つだけ良いですか?」
「はぁ」
「深刻な話なんですか? 決死隊みたいな表情ですが」
「はは」
主の無茶振りがあるだろうと思うと憂鬱なんです、等とは言えるはずも無い。
オバケ(ムラサ)がちょっぴり怖いんです、等とも、とても言えない。
妖夢は星の言葉に力無く笑ってお茶を濁したが、その様子を心配した星はさらに声をかけた。
「いやいや、笑い事ではなく」
手紙の事を尋ね、それに「うふふ」と返答を受け、ムラサは困り顔で言った。
妖夢に招かれた和室には既に幽々子が座して待ち受けていた。
通常は上座、下座と座る場所が決定するのだろうが、ここは幻想郷、冥界だ。
古式ゆかしい細長いちゃぶ台の北側とその付近に、死人である幽々子、ムラサが位置し、それに向かい合う形で星は席についている。
死んだ人を寝かせる時、頭を北側に向けるように、北とは死人が好む方角なのだろう。
「白玉楼の主が冥界の管理人であるとの話は聞き及んでいましたが、その冥界からこの様な手紙が届いたのは何故なんです?」
今度は星が憤然やる方ない、と言った調子で尋ねた。
おちょくられているとでも思ったのだろう。
幽々子は、扇子で口元を隠してはいるが、それが笑みの形になっているのは間違い無い。
そして妖夢が淹れたお茶を一口だけ啜ると、星に扇子をさっと突き付けた。
「『何故』? あなた、武神で仏の代理人でしょう? そんな事で良いと思って?」
「何の事かわかりかねますが」
「こちらの、水蜜さん、だったかしら? 美味しそうな名前ねえ」
「は?」
会話に捉え所がまるで無い。
ムラサは居心地悪そうに身をよじらせた。
幽々子の後ろに控えている妖夢も、主の口からどの様な爆弾が飛び出すのかと戦々恐々である。
「でもね、水蜜さんね、この世の理からちょっと外れちゃってるからね」
「わ、私ですか」
「妖夢に斬って貰おうかと思うんだけど、いかが?」
「え?」
妖夢は、この件が済んだら、鈴仙に頼んで胃薬を処方してもらう事に決めた。
礼儀も正しいし身元もハッキリしているし、そう悪い妖怪達には見えない。
それをいきなり斬れと言うのは、いくら妖夢と言えども躊躇せざるを得なかった。
心理的には、だが。
意思に反して、妖夢の左手、親指は腰に差された白楼剣のつばを押し上げている。
きん、とつば鳴りの音がした事で妖夢は己の行為を認識した。
条件反射であろうか。だとすれば、幽々子が「斬れ」と命じていたら、妖夢は即座に刀を抜き放っていたに違いない。
「お待ちなさい」
底冷えのする声で制止をかけたのは星であった。
姿勢も表情も声色すらも変わってはいないが、聞いた者全てに畏怖の感情を植え付けられそうな、そんな声だった。
「ムラサ船長は我々の仲間で、個人的な友人(霊)でもあります。彼女に狼藉を働くと言うのなら、私がまず相手になりますよ」
妖夢の顔色は最初から良くは無かったが、ますます青くなっている。
胃薬で済めば良いな、と思っているが、最悪の場合、永遠亭送りも覚悟するべきだろう。
ムラサも同様の心境である。
いざとなれば力ずくでここを脱出したい。しかし、ここ白玉楼に逗留する霊にとっては、幽々子が絶対者なのだ。客人と言えども同じ事だろう。
それを考えると、どれだけ不利な話かは想像がつく。
二人が期せずして視線を交わすと、妙な連帯感が生まれた。
――大変ですね。
――そちらも。
――世の中ままなりませんね。
――全く。
「何故彼女が凶刃を受けなければならないのか、納得できる理由を」
「納得できれば斬られて頂けるのかしら?」
「単刀直入に行きます。――イヤだと言ったらどうする、亡霊の娘?」
「私達がやらなくても、いずれは同じ運命よ? 彼岸から閻魔――あなた方の言うヤマがやって来て、説教の後、彼女を連れて行くでしょう。私達はあなた方を困らせる為に呼んだ訳じゃないわ。むしろ、協力できるのではと話し合いの場を設けてあげたの」
「フッ、刀を携えて話し合いですか」
幽々子の台詞を、星は鼻で笑った後お茶を一口飲んでから言った。
「言ってみなさい。聞いてやる」
自分らの進退がかかった話を、主や友人がどんどん進めている。
妖夢とムラサは星の物言いが、幽々子の勘気を買うのでは無いかと気が気では無かったが、口を差し挟んで何とかなるものか。
むしろ事態を悪化させかねないと思うと、固唾を呑んで見守るしか無かった。
幸いにして、幽々子は微塵も揺らぐ様子を見せない。
彼女を除く三人は笑顔を見せたとしても眼だけは笑っていなかったが、幽々子は変わらぬ優しい笑みで、そこに座している。
最も、それが逆に恐ろしさを感じさせる部分でもあるのだが。
「本気で言っているのなら仏失格ねえ。仏教に限らず、神道でも基督教でもそうなのだけど……冥界以外には普通、幽霊がうろついてちゃいけないのよ」
「そうなんですか?」
妖夢は思わず発言して、しまった、と言う顔をしている。
それを少々呆れた顔で眺めながら、幽々子は話を続けた。
「はぁ、あなたもわかってなかったのね。冥界に属する西行寺の庭師ともあろう者が」
「も、申し訳御座いません」
「続けるわね。60年に一度、霊があちこちに大量発生する事はあるけど、それは例外中の例外。魂が多すぎて、冥界からはみ出ちゃったのね。普通、生き物は死んだらどうなるかしら?」
「裁きを受けて、生まれ変わりを待ちます」
「そうね。それは共通の事よ。つまり、死んだものは、すみやかにあの世に向かい、天使やら閻魔やらの裁きとか何かを受け、転生を待つ。それが輪廻、世界の理よ。即ち、死人はこの世で『迷っている暇』等無い。宗教者なら尚更それには逆らえないでしょう」
「はぁ、つまり浮遊霊はあの世に向かっている途中だし、地や念に縛られた霊とかはこの世に留まっていてはならない者だと」
「例外もあるわねぇ。元々死人としてこの世に放り出された存在とか。吸血鬼とか、ゾンビとか、後は私とか? でも私は閻魔様から直々に冥界に逗留する事を許されてる訳だし、吸血鬼やゾンビは『死人としてこの世に生を受けた』。あなた達は『生者として生を受けた』。生を受けた者が死んだなら、理には逆らえない」
妖夢は成る程とコクコク頷いている。
思い当たる所があるのだろう。かつて祖父からも、亡霊に出会った際は即座に斬り捨てろと指南された事がある。
本来なら死体を探し出して供養し、輪廻の中に戻してやるのが良いのだが、それが不可能な時は、白楼剣が非常に重要な意味を持つ。
「お友達のおかげで恨みや呪詛の念は解消されたと言うけど、それも一時的な物でしょうよ。元が地縛霊だから、いくら無念を解消しても、恨みは募っていく。きっとあなたはその内、生きとし生けるものを憎むようになり、その一念で無辜の民に手を出すでしょう」
「聖と私達が何とかします」
「その前に紫――私の友達に始末されなければ良いわね? 彼女はこの幻想郷を乱す者を絶対に許さない。いの一番ににあなたの異変を感じ取り、殺しに来るわ。紫にはそれができるし、そうなったらもう輪廻の輪には戻れない。霊魂は私達の管轄だし、できれば今ここで決断して欲しいけどね」
星は苦虫を噛み潰した様な表情になり、ムラサに至っては顔面蒼白であった。
元々死人の顔色をしている霊が蒼白になると言うのも不思議な話だが、普段より青ざめて見える彼女を何と評するべきかと言われれば、やはりそう言うしか無いだろう。
実際、ムラサの残念無念による地への縛りは聖白蓮のおかげで解消され、今度は白蓮の力になりたい、一緒にいたいと言う一念で、何とか正気でこの世に留まっている。
彼女が念縛霊と呼ばれる所以だ。驚異的な精神力と言えるが、元々の性質自体はそう簡単に変化する物では無い。
命名決闘法の為に作り出した弾幕にも呪詛を含んだ水を飛ばす技があるのがその証拠だ。
最近の情緒不安定にも説明がつく。
しかし、いきなりそれが異端だ、と弾劾されては、どうして良いのか彼女にはわからない。
「説明は以上。ね、どうかしら?」
「どう、とは?」
「今のを聞いても、水蜜ちゃんが斬られるのはおイヤ? 毘沙門天代理さん」
いつの間にか『ちゃん』付けになっている。
「おイヤですね。先程も言いましたが、彼女は私の友人です。現界に留まらせたいと考えています」
「閻魔様が来たら?」
「話し合ってお帰り願います」
「妖夢」
「はっ」
妖夢は立ち上がって、腰に差していた白楼剣と、背負っている楼観剣を淀みなくズラリと抜き放った。
楼観剣を室内のどこも傷つけずに抜き放った事が、彼女の技量を伺わせる。
特に少女並、と言って差し支えない体格で、あの長物をどうやって抜いたのかは、本人以外には理解の外であった。
少し膝が笑っているのは、毘沙門天(代理)等と言う大物と相対するのが久方振りだからであろう。
素性の知れない相手や不審者なら、どんなに力の差があろうと魂魄の名にかけて尻込みなどしないが、相手が神格を持った者ともなると、状況は違うらしい。
閻魔の時などは、決闘中も説教中も恐縮のし通しで、実力の半分も発揮できなかった上、しばらくの間、胃炎を患う羽目になった。
「この子の刀は普通じゃないし、妖夢自身もそれなりに強いわよ?」
それを聞いて、妖夢の胃の痛みは少々緩和されたが、「半人前だけどねぇ」と幽々子がつけ足すと、再び彼女は沈痛な表情になった。
「噂に名高い楼観剣と白楼剣、ですか。聞いた事はありますが、冥界に持ち主がいたとは驚きです。ですが、気遣いは無用。私にもこう言う物があります」
星はそう言って、傍らにある槍を手に取った。
この槍、如意宝棒と言い、悪鬼悪霊を叩きのめす為の物で、宝塔に並ぶ神具でもある。
いくら妖夢が悪霊の類では無いとしても、攻撃を受け続ければタダでは済むまい。
「あなた方が管理する場所は、戦場になっても良いのですか?」
「ご心配無く。妖夢、静かにお斬りしてあげて」
「では、私も静かにムラサを連れ帰ります」
痛い、胃が痛いと思う者がいた。当然、妖夢である。
胃酸が多く分泌されたのか、妖夢は胃の膨満感と焼けるような痛みに苦しんだ。
毘沙門天相手に、冥界の静謐を保ち、その友人を斬らねばならない。
無茶だ。平穏な日常だった昨日までが、ヤケに遠く感じた。
そう思っているのと同時に、頭の中でもう一人の妖夢が、『斬ればわかる』と告げている。
魂魄妖忌の教えは、斬り結んだ時の相手の意思、必死さ、闘志、斬られた後の様子等から相手の事を類推する『洞察』に近い物だったのであろうが、生真面目な妖夢は言葉の譜面通りに解釈しているフシがあった。
「連れては行けないわよ。あなたも帰れない。白玉楼へやって来て転生や成仏ができなかった幽霊はいませんが、狼藉を働いた生者は、何故か行方不明になる事があります」
それを聞くなり、星は右手を突き出した。
本来ならこれで相手を怯ませた後、ムラサと二人で逃走、と行きたい所ではあったのだが、大事な物がその右手から消失していたのである。
「え?」
「うそお!?」
ムラサの疑念の声と星の悲痛な叫びが響いた。
しかし無い物は無いのだからどうしようも無い。
星の右手に本来収まっているはずの宝塔が、影も形も無かった。
今度は無くさないようにと、私室の箪笥に、後生大事にしまいこんでおいたのだが、それが裏目に出た。
無くす事は回避できた物の、大事な場面で使用する事ができないとは。
そして、二人の眼の前には紫色の蝶がいつの間にか姿を見せている。これは――。
「ヤバい、星!」
ムラサは星の襟首を引っ掴んで、部屋を飛び出した。
幽々子の出現させた弾である。死を操る能力を利用した弾かどうかは不明だが、どちらにしても危険な代物であった事は確かだ。
先の天人の起こした騒動における闘いでも、能力は使用していなかったのに、優美可憐な姿に似合わず、彼女は実に強力な攻撃力を誇っていたのだった。
ムラサは、同じ幽霊だからこそ、その脅威に気づいたのだ。
そしてその蝶に気をやったからこそ、忍び寄る脅威には気づけなかった。
必殺の弾をかわされたはずの幽々子が、立ち居振る舞いも笑みも崩さず、ぽつりと呟いた。
「美味しいハムになると良いわね」
そう星には聞こえた。
ムラサは自分を引きずっており、それに気づいていない。
戦慄と共にムラサを振り払い、宝棒を360度水平に振り回すと、鋭い音ともにそれが受け止められる。
いつの間にか接近していた妖夢が、両の刀で挟み込む様に自分達を両断しようとしていたのであった。
行動が数瞬遅れれば、文字通り輪切りになっていただろう。
妖夢は星がなぎ払った宝棒を二刀でガッチリ受け止め、微塵も引く様子を見せなかった。
様々な懸念を抱いていた妖夢だが、いざ戦闘が始まってしまえば、思考は剣士としてのそれに塗り替えられた。
相手は毘沙門天、代理とは言え財宝を守り悪鬼を踏み潰す武神だ。
萎縮してもおかしくは無かったが、幽々子が近くにいると言うのが、妖夢に精神の安定をもたらし、同時に闘志を生んだ。
ムラサも勿論黙って見ていた訳では無い。
星と妖夢を膠着状態と見てとると、ケッジアンカーと言う小型の錨の弾を複数精製し、横手から妖夢に向かって、力の限り撃ち出す。
回避不可能なタイミングであった。
「けぇえい!」
どよもすばかりの気迫と共に星を押しのけ、その勢いで刀を振りかざして錨の弾丸を悉く叩き落とし、妖夢は胸を撫で下ろした。
星との鍔迫り合いの直後に、いかに小型とは言え、重さでは比類が無いと思われる錨の弾丸を刀だけで叩き落とすとは、何という豪腕であろうか。
しかしその瞬間、彼女の脳裏に浮かんだ言葉は『油断大敵』であった。
「頂きます!」
弾丸の背後から、ムラサが間近に迫っていた。
どこから持ち出したのか、はたまた自力で精製したか、巨大なストックアンカーを手にしている。
こんな物で殴られれば、例え妖怪でも無事では済みそうに無い。
二振りの刀を自在に振り回す妖夢の力も大した物だが、ムラサもそれにも劣らぬ怪力の持ち主であった。
刀を振ったばかりで体勢を崩している妖夢に、防ぐ手立ては無いと思われた。
後は大上段からアンカーを振り下ろすだけで妖夢は戦闘不能に陥るはずだったが、何かがムラサと妖夢の間に割り込んだ。
妖夢の半霊であった。ここぞと言う時に裏技的に使用するのだが、それだけに効果はてきめんだ。
ムラサは一瞬戸惑ったが、それなら妖夢もろとも叩き潰してしまえば良いと言うだけの話。
しかし、間の悪い事に、その一瞬が剣士に必要な刻をもたらした。
妖夢は刀を振った惰性に思い切り逆らい、表情を歪ませ、呻きを上げつつ楼観剣を引き戻す。
その瞬間妖夢の右腕にかかった荷重は300貫(約1トン)をも超えるだろう。
眼前に存在する全てを、空間ごと斬り刻まんと刀が荒れ狂った。
魂魄家に伝わる技の一つ、『桜花閃々』。
ぎん、と鋭い音がして刀がストックアンカーに食い込むや、ムラサは焦りすら滲ませてアンカーを放棄し、後方へ退避した。
その刹那の内に、巨大なアンカーは『なます』にされていたのである。
本来は高速で踏み込みつつ放つ技だが、妖夢はその腕力のみで、不足した突進の威力をカバーし、軌道上全てを斬り捨てる代わりに、前方の物を全て斬り払ったのである。
剣圧で庭園の桜が散り、花びらが刀を構える妖夢を美しく飾り立てた。
「バカな……」
ムラサは戦意こそ失いはしなかったが、憮然とした表情で呟いた。
刀自体の恐ろしさはともかく、この技量と凄絶な刀の冴えは予想外の事であったらしい。
「妖怪が鍛えたこの楼観剣に斬れぬものなど、あんまり無い!」
窮地を切り抜けた妖夢の声が音吐朗朗と響き渡る。
ややもすれば頼り無い台詞ともとれるが、実の所、これ程恐ろしい事も無い。
『余り無い』と言う事は、『ほとんどの物は斬れる』と言う宣言に等しいのだから。
事実、ストックアンカー等と並の刀で打ち合えば、数合持たずに刀の方が折れる事は間違い無い。
一撃で損傷してしまう事もあるだろうが、そもそもアンカーと打ち合う状況など、この世に存在するものか。
それをぶっつけ本番で試し、破壊した妖夢の技は絶技としか言い様が無いであろう。
幽々子や本人は未熟だと評しているが、これで未熟なら、彼女が剣の道を極めたとしたら、どれ程の使い手になると言うのか。
星もさすがに声が無い。たかが半人半霊と侮っていたが、認識を改めた、と言う所か。
白蓮が封印されてからこっち、まともな闘争は実に数百年振りになる。
スペルカードルールなる物を利用した戦いも経験したが、あれは弾幕ごっこと言う遊戯に過ぎない。
以前ナズーリンが竹林で戦闘を経験し、今後そう言う事が無いとも限らないからカンは取り戻しておいた方が良い、と忠言を受けてはいたが、その機会がこれ程早くやってくるとは想像の埒外であった。
幽々子はいつの間にか縁側に腰掛けているが、傍らにはお茶とお菓子。
どうやら、妖夢に全てを任せるつもりであるらしく、その優雅な姿は良家のお嬢その物だ。
星としても闘いに積極的な姿勢と言うわけでも無いので、逃げるならば今が機と言う事になる。
もし星が全力で闘えば、冥界や現界にどんな影響があるかわからないし、私闘に毘沙門天としての力を振るったとすれば、代理失格であるからだ。
「ムラサ、私が彼女を抑えておきますからその間に逃げましょう」
しかし、ムラサは動かない。
俯いたまま、何事かを呟いている。
「ムラサ?」
そこにいたのはムラサであって、ムラサでは無い別人の様だった。
星の言葉を耳に入れる様子も見せずに再びストックアンカーを精製し、もう片方の手には底の抜けた柄杓を手にしている。
「私に出会ってしまったな」
ムラサと同じ声をした別人が妖夢に語りかける。
ぞわり、と悪寒が湧いた。イヤな予感と言う奴だ。
これは、海の上で行き交う船を闇雲に沈めていた頃のムラサの声だ。
幽々子の言った通り、地縛霊として存在し続けた、妖怪としての本来のムラサが顔を出したと言う事だろう。
わずかずつでも恨みつらみが蓄積し、昔のムラサに戻ったというのか。
何故、今このタイミングで?
白蓮を連れてくるべきだった、と後悔しても遅かった。
「ム……」
星は声をかけようとしたが、ムラサはそれより先に動き、柄杓から海水を撒き散らした。
水滴を受けると、倦怠感、やり場の無い怒り等、不快感が湧き上がり、精神をゴリゴリと削られて行く。
そして、妖怪にとってそれは致命傷となり得る。
恨みつらみ、残念無念の呪詛を含んだ水であった。
彼女がスペルカードルールの決闘で使用していた通常弾幕だ。
ただし、呪詛の威力が弾幕の時の比では無かった。
星は慌てて遠間に避難し、妖夢も右手を八双、左手を前方に突き出し、構えを取った。
「幽々子様、な、何かまずい事になってません? 助力を」
それでも幽々子は動かなかった。泰然と座したままである。
微笑みもそのままだ。此処まで来ると、暢気を通り越して大物である事は間違い無い。
「闘争に触れた事で恨みが活性化したのかしらね?」
「暢気な事言ってないで、何とかしないと」
「私は『あなたに任せる』と言ったわ」
「そんな事言われても……!」
妖夢が丹精込めて剪定した松の木や、枯山水式の庭が、呪われた海水によって滅茶苦茶になっていく。
幽々子が妖夢に何を求めているのかは不明だが、どちらにしろ、自分の仕事場を荒らされて、黙っている事など妖夢にできるはずは無かった。
「そこに直れ!」
妖夢からつっかけた。
同一人物とは思えないほど冷たい眼で妖夢を一瞥したムラサは、彼女に向かって、呪詛からなる海水の水滴を集中させた。
「貴様の『水』は雨には及ばない!」
言うなり左手の白楼剣を一閃し、水弾を切り払う。
ムラサの顔が驚愕に染まった。
海水の弾幕を斬った事ではない。水その物は切り払ってもそれには呪いが憑いてくる。
妖夢は呪詛その物を切り払ったのだ。これが冥界の庭師、その刀の本来の使い方か。
海水を斬った事で、ムラサまでの道が開けた。
その機を逃さず、妖夢は刀を思い切り振りかぶって鋭く交差させた。
間合いの遥か外からの斬撃であるはずだったが、そこから発生する剣気、『結跏趺斬』。
ムラサは動けない。完全に直撃コースであった。
「はっ!!」
気合の声と共にバチィッと耳障りな音がした。
剣気を、無理矢理叩き潰したのである。その余波でムラサは吹き飛ばされた。
攻撃を防御したのはムラサ本人では無く、眼前に立っていたのは、星であった。
「と、寅丸さん?」
「お待ちなさい。ムラサは私達が何とかすると申し上げたはずです」
「しかしですね」
ムラサの眼は未だ殺意に燃えている。
星は苦渋を滲ませつつ啖呵を切ったのだが、それもできるかどうか。
彼女を無事命蓮寺まで連れて行けるとは思えない。
幽々子の言った通り、帰参する途中で隙間妖怪がやって来るかもしれない。
冥界での戦いを察して閻魔が出張って来でもしたら、ムラサは一環の終わりだろう。
そんな事になれば、どちらが来るにしても彼女は消滅させられ、成仏もできずに無へと帰す。
今、この場で、何とかするしか無いのだ。
白楼剣で迷いを断ってやれば成仏ができる。加減を間違えれば同じく魂が消滅してしまう事になるが、先の二人がやって来た場合の事を考えれば、輪廻の輪に戻れるという救いはある。
「貴方一人で何とかなりますか?」
「何とかします」
星は豪語するが、恐らくムリであろう事は妖夢にも察する事ができた。
おそらくムラサの無念を解消したと言うのは、聖白蓮の菩薩の様な精神性もそうだが、彼女の法力の助けもあったのだろう。
そして、星が即座にムラサを助けない所を見ると、何とかしたくてもできないのだ。
幽々子はそれを見ていて、嘆息して語りかけた。
「ヒント」
「えっ?」
「ヒントをあげるわ。妖夢、さっきあなたは、何を斬ったのかしら?」
「海水です」
「それだけじゃないわよ。無意識にやっちゃったって事なのかしら」
妖夢にはピンと来なかった様だが、星は敏感に反応した。
「そうか、白楼剣。呪詛を斬ったのですか」
「正解。ウチで働く気は無い?」
「残念ながら。毘沙門天様の代理の仕事がございますので」
「無念だわねぇ」
「恐れ入ります。魂魄殿、毘沙門天代理の名においてお願いいたします。ムラサを助けてやって下さい!」
「急に言われても」
そうこうしている内に、ムラサはゆっくりとこちらに迫って来る。
「さっきのは勢いと言うか何と言いますか」
「そんな」
「成仏させる為に斬るのならまだ何とかなりますが、恨みだけを斬るとなるとちょっと」
消滅させるよりも、成仏させる様に斬る。
成仏させるよりも、呪詛だけを斬る。
難度は当然後者に行く程に高くなる。
先程戦っていた時の勢いはどこへやら、自信無さげに立ち尽くす妖夢を見かねたか、今度は星が助言を送った。
「良いですか魂魄殿、集中です。剣士としてのあなたの技量は筆舌に尽くし難い。過去の豪傑と比べても遜色ありません。一意専心、集中するのです」
妖夢の胸に、星の言葉は不思議と染み入った。
ここまで手放しに褒められた事など、余り経験が無い。
やれ、未熟者だ、半人前だのと言われていた妖夢にとって、星の台詞は感銘を受けるには充分すぎる程優しく、包容力に溢れていた。
幽々子もやたらと懐が広いが、些か捻くれている所もある。
毘沙門天代理は正道とも言うべき、綺麗な形である器の大きさを持っていた。
それだけを妖夢に伝え、星はムラサに向かって宣言する。
「ムラサ! あなたの恨みを晴らしたいと言うのなら、まずは私から受けて立ちます!」
聞くなりムラサは星に突っ込み、ストックアンカーを叩きつけた。
余裕をもって宝棒で受け止めるが、踏ん張った大地がごば、と陥没した。
「寅丸さん!」
ムラサを助けなければと言う意識があるのか、星は攻撃を躊躇している。
右、左、上、下、と縦横無尽にアンカーが襲い掛かり、それを捌くので手一杯になっていた。
一方妖夢はと言うと、先程までの戦闘で疲弊している。
脂汗をじっとりと滲ませ、荒い息を吐く。
ムラサは接近戦では埒が明かないと悟ったか、空中に舞い上がり、再び海水を撒き散らした。
「ぎゃん!」
ムラサを追いかけようとした星は、海水をモロに受けて地に転がった。
いくら宝棒があるとは言え、白楼剣の様には行かない。
徐々に追い詰められていく。妖夢に妨害無しで刀を振るってもらおうと囮を始めたのだが、ロングレンジの戦いとなるとさすがに宝棒だけでは厳しい。
倒れ付した所に、二度、三度と海水が襲い掛かり、星の精神を削って行く。
せめて宝塔があれば――。
「狙え」
声。どこからともなく響いたそれに応える様に、無数のレーザー状の弾丸がムラサに殺到した。
慌ててムラサは回避行動をとったが、それでも数発のレーザーを受けたはずだ。
それでも撃墜するには至らず、ムラサは声の方向にケッジアンカーを振りかぶり、全て砕けよと言わんばかりに投げつける。
しかしアンカーは声の主には届かず、その周囲をガードするペンデュラムによって弾き飛ばされた。
空に浮かぶその姿は、疲労している妖夢と星に苦笑しながらグチをこぼした。
「やれやれ、やはり私では力を全部引き出せないか」
「ナズーリン!」
「やあ、忘れ物だよ、ご主人」
ナズーリンはその手に持っていた物を投げて寄越した。
当然、それは宝塔であった。
訳がわからないと言った表情で妖夢が話しかける。
「何者!?」
「通りすがりの通り魔さ」
「ナズーリ……」
「細かい事は後にしようじゃないか。今は船長を何とかするのが先では無いかね?」
星は逡巡の後、力強く頷いた。
宝塔を右手で掲げ持つと、その力が溢れてくる。
美しく、明るく、雄大でな光であった。妖夢と幽々子は始めて目撃するが、これが法の光か。
「ナウマク、サンマンダボダナン」
星が何事かを呟き始めた。
それに呼応して、宝塔の光が強まって行く。
太陽の光とも、核の光とも違う、優しく、力強い輝き。
「ベイシラマンダヤ、ソワカ!」
これは真言(マントラ)だ。
毘沙門天の力を発揮、乃至力を借りる時のマントラだった。
太いレーザーが宝塔から飛び出し、ムラサの前後に走り抜けて行く。
その間でまごついていると、レーザーが弾け、無数の弾幕を形成した。
これでは、マトモに動く事はままらない。
「魂魄殿! 三つ数えたら弾を消して自由にします! そのスキに! あなたならできる!」
そう言われてはもうやるしか無い。
妖夢は眼を閉じて精神集中をした。幽々子の台詞を反芻する。
これは、自分の為に幽々子が取り計らってくれた、試練なのだと言う事を思い起こす。
「ひとつ」
寅丸星台詞を反芻する。
自分の技量は、彼女達が相対した豪傑にも劣る物では無いと、太鼓判を押された。
あんな真っ直ぐに自分を評価してくれた人は主意外には、余りいない。
「ふたつ」
ムラサの顔を思い浮かべる。
自分は半霊、彼女は念縛霊。
立場こそ違うが、誰かの役に立ちたいと言う想いは本物だ。
できる事なら、救ってやりたい。彼女の願いを叶えてやりたい。
剣を振るう事で、相手を殺傷するのでは無く、相手を救済するのだ。
「みっつ!」
妖夢はカッと眼を見開き、中空に飛び上がった。
弾幕が消えた所に寸分の狂いも無く、絶妙の間合いを確保し、気合と共に刀を振る。
「成仏得脱斬!!」
巨大な剣気を上方に向かって吹き上げる絶技。スペルカードとして採用もしている為、威力は折り紙付きだ。
それをムラサに直接叩きつけた。
威力だけで言えば、ムラサの命―ー魂その物を吹き飛ばしてしまってもおかしくない。
だが、妖夢は、彼女に憑いている恨みや呪詛のみを殺ぐ事に力を注いだ。
結果は。ムラサは無事なのであろうか。
星、ナズーリン、妖夢はほとんど忘我の境地で様子を見守った。
剣気が消えてなくなり、いつの間にか晴れ渡った蒼天からムラサが落ちてくる。
星は泡を食ってムラサを抱きかかえた。
息は……ある。亡霊なのだから息をしていると言うのは些か奇妙だが、とにかく無事であった。
妖夢は連戦に続き、慣れない事に力を使った所為で満身創痍だ。
それでも、幽々子に何とか歩み寄ると、やりました、と笑いかけ、崩れ落ちる。
「よく頑張ったわね」
星は床に伏せった妖夢を労っていた。
ムラサはその隣で恐縮しており、窮地に現れたナズーリンは、部屋の隅で腕組みをしながら突っ立っていた。
妖夢はほとんどの力を使い果たし、立つ事すらも困難な状況になってしまったのである。
それでも彼女は満足していたし、剣の道をまた一歩先んじた、と上機嫌であった。
「すみません、私の所為です」
「なんの。これも修行の一環ですよ、村紗さんが無事で良かった」
ムラサから恨みの念等はほとんど解消されていた。
彼女からは再び清浄な念が放たれており、聖の為に、と言っていたムラサに戻っていた。
星も妖夢に改めて例を言い、幽々子は相も変わらず春風駘蕩である。
一人不機嫌なのはナズーリンであった。
「しかし、西行寺殿も人が悪い。最初から事情を説明して頂ければ、聖と私達で何とかできた物を」
「そろそろ、妖夢に先へ進んで欲しくてねえ」
「それだけで私達やあなたの従者を危険に晒したと言うのか?」
剣呑な気配を放ちながらナズーリンは毒づいた。
怪文書まがいの手紙を態々送ってまでする事か? と言う事だろう。
不満が顔から滲み出ている。
「まあ、これであなた方も水蜜ちゃんの恨みを定期的に解消しないと、この世からもあの世からも弾き出されちゃうかもって理解したでしょ?」
「それはそうだが」
「それに妖夢も一歩前進した事だし、終わりよければ良いんじゃない?」
「良くない」
にべも無かった。
本人達は気にしておらず、その言葉通り、終わりよければ、と言う体であるので、益々不満が募る。
「それに、面白かったわ。宝塔だっけ? 綺麗な光だったわねぇ」
「見世物じゃない」
「まあまあ、最初に寅丸さんも拒否した事だし、お相子って事で。少しお庭が荒れちゃったけど、もし閻魔様が来たら修行に熱が入っちゃったって伝えておくわ」
「いくつも御口があるようで何よりだ」
さすがに聞き咎めたか、星が割って入った。
舌戦に耐え切れなくなった、と言うのもあるのだろうが。
「ナズーリン、今回は助かりました」
「それは構わんがご主人、宝塔を忘れていくとは何事かね?」
星は、う、と呻いてから言い訳を試みたが、当然、ムダだった。
ムラサもその件に関しては直接目撃しているので、白い眼を向けるばかりだ。
「あのね、今回『は』では無いだろう。日本語は正しく運用されてこそだ。今回『も』と言うべきだな」
「今回『も』って何です?」
ムラサの疑問は当然だ。
いつぞやの宝船騒動の事であるが、星はそれを仲間に秘密にしていたのだ。
「な、ナズーリン、その話はこの辺で……」
「ダメだな、お仕置きだ。毘沙門天代理として、もっとしっかりしたまえ」
「あら、楽しそう」
「では私も」
「ちょちょ、ちょっと」
桜舞う蒼天に、星の声が響き渡った。
それと同時に、人里近く、命蓮寺の方角からも悲鳴の様な山彦が上がったが、彼女達の新たな仲間の仕業である事は言うまでも無い。
了
ムラサが助かって良かった良かった
ゆゆ様とナズが良いね
星はやっぱりうっかりキャラなのか…
しかしもうちょいやりようは無かったのかー ?
それを送ってきている白玉楼にむざむざ対象の妖怪を出向かせる命蓮寺側
必要なことだったとはいえ善意の押しつけにも見えるゆゆ様の言動
とかが気になってちょっとモヤモヤしました