何を置き去りにするのか。
否。何を遺すのか。
遺された物は、遺されるべき物なのだろうか?
自問する。自答を導く為に。
己? どうだろう。慧眼と賞される私の双眸は開かず、閉じている。
閉じたままだ。夜の濁り。余韻だけが何度もリフレインする。
空中の空気。もしくは空間の歪み。あるいは人々の歴史。それは記憶であり、歴史。
そして妄想だ。空虚として有る。史実の実態は常に表を向き背中を見せない。
瞼の裏側に光を感じる。視覚、それが僅かながら私に月光を知らせている。
雨のようだ。しかし一筋には感じられない。幾重にも降り注ぐ光が私には茫然とした灯火のようにしか見えない。
篝火であれば、往き先を示す。どうだろうか?
それは一つの球を成している。
新月から生まれ徐々に満ちて往く繰り返される輪廻、そして無常。
時が満ちている。
進む時間の、一つの基準点。
彼(もしくは彼女)は今満ち足りている。
満月。因幡の兎はいづこへやら?
此処に潮の因果は関係しない。
この世界は、球を成しているのだろうか?
帆先が残る水平線を眺める事はできない。
軽度の頭痛。徐々に始まる肉体の変化。
五感を超える新たな六感がつま先の感覚までを尖らせる。
四肢に血液が滾る。そう、血液だ。
ヒトと同じ赫色のエネルギーが心音、脈動と共に生命を希求する。
「我ハ我カ?」
これは自答ではない。自問した内容と異なる内なる言葉だ。
その声は無視する。ああ、とひとりごちる事も無しに。
月光の角度、言葉は影。
対面しなくてはならない。しかしそれは…、私が負ったカルマだ。
業。ヒトとケモノを成し、歴史を喰うケダモノの私が。
けものがれ。月の満ちた今、私はあえて他との対話を試みている。
それが自問だ。私は私に。上白沢慧音に。
ケモノとの会話は意識的に避けている。問いかけられようとも、答えるつもりは毛頭無い。
黙れ、黙れ。
しかしながら。
私は変貌している。姿を変え、全身に妖気が充足している。純然なケモノには成りきれぬ半人半妖の存在として。
吠える。私がではない。
ケモノが、だ。
月を祝福する。「歴史ヲ喰ラエ」と賛美し喉を振動させる。
竹林の残響音となった声は竹の葉を揺らす。ざわざわと落ちた葉は養分となり土を経て…輪廻するのだろうか。
自我は保っている。ここで折れては『ヒト』の負けだ。縋るように私は耐え忍ぶ。
動悸が焦燥感を伴う。喉元まで滾る温度は熱をもって放出される。それは竹林の眠りを醒ます怒号だ。
羽ばたく鳥達の群れ。夜目の鳥は何を目指して進む?
意識が一瞬、飛ぶ。刹那の間なのか一寸の間なのか判断できない。いづれも短い間だとは思う。
「慧音」
私とケモノ以外の第三者が私を名で呼ぶ。
ハクタクの文字を擁さない向かって右寄りの名詞で。
「また…、貴女ですか閻魔様」
四季映姫。職位はヤマザナドゥ。次期冥界での最高ポストを与えられると噂される閻魔の一人だ。
「四季で結構。映姫と呼んでいただいても構いません」
「それ…、は。ぐっ…、ありがたい、お言葉ですね」
心の臓が強く脈打つ。獣臭の溢れた濃密な血液が循環器を通し体内で傍若無人の限りを尽くす。
躍るな、ケモノ。
「ハクタク、と呼んだ方がいまの貴女には相応しいでしょうか?」
鋭い眼光が変容した私の身体を突き刺す。まるで告発されるかのようだ。
「いえ…。それには及びません。私は…、上白沢慧音。ヒトです。ケモノでもありますが」
「良い気概をお持ちですね」
「それほどでも。また、例の件ですか?」
「慧眼は伊達ではない。話が早い」
彼女は満月に…、あるタイミングで私の元にやってくる。それがいまだ。
「稗田を喰らうわけにはいきません。映姫様、どうかお引取り願いたい」
「頑なですね。稗田家が転生の儀を行っている現在。慧音、貴女は稗田家の歴史を喰らう事ができる」
事実だ。本来は稗田の歴史とハクタクの歴史は平行線を辿り交わる事は無い。
故にお互いが干渉する事は不可能。彼女はただ遺し、私は…。喰らう。そして創る。
だが…。
「稗田家の歴史を喰う事は私の主義に反する」
「理由は?」
四季映姫は即座に鸚鵡返しで私に反問する。
「答える義務が?」
私も反問で返す。ここで喰い下がるわけにはいかない。
「ある程度は私も貴女が稗田家に拘る理由は掴んでいます。だからこそ…」
だからこそ?
だからこそ、何だというのだ?
稗田家は八代続いた。稗田阿弥は次の世代へとバトンを渡したのだ。
転生の儀を執り行う側のヤマザナドゥである彼女が私の元にやってきた事実は可逆的にそれが成功した事を意味する。
「伝えにきました。お解かりでしょう?」
「何の事だ?」
鼓動が一つ。二つ…、三つ。強く鳴った。
「稗田阿弥は仕事をこなした。そして次の世代の命名が決定しました」
「……何という名だ?」
「稗田阿求。阿吽の『阿』に、『求』めると書き現します」
「そうか…」
私の双眸に熱さを感じる。
それは雨と異なり塩分を含んでいるだろう。
四季映姫の言葉はケモノから逃れらぬ私を射抜いた。
八代目の稗田阿弥。
私は彼女に干渉を試みなかった。
挨拶の下りも、私は両の手で数える程度しか交わした記憶が無い。
阿弥の姿を最後に見たのはいつだ?
その時、別れの言葉を交わしたか?
曖昧な記憶が奥底で沈殿している。
混濁し、時系列は順序と言う秩序を雲散している。
彼女なら、憶えているだろうか?
求聞持の力という異能を持つ彼女ならば。
私は忘れられる。忘れられるのだ。
稗田家はその運命から…、記憶を忘れる事ができない。
それが…。
ついに。
「求められるのだな? 『阿』として始まり、彼女が…。彼女の歴史を」
「貴女がそれを求めるなど筋違いというもの。あくまで彼女が決める事でしょう。ただ…、そういった可能性も少なからずあるのかもしれません」
どこか柔和な面持ちで四季映姫は言う。閻魔がぎこちなく笑っている。
「私の元へ映姫様、貴女が来るのもこれが最後という事だな」
「ええ。稗田家の歴史を喰らう必要はありません。幻想郷自身がその理由を失ったのです」
四季映姫が含みを残している理由が私には容易に想像できる。
しかし。それで良い。
たとえそれが悲運であったとしても嘆く必要は無い。
スペルカードルールが幻想郷にターニングポイントを与えたのだ。
時代は変わり。巡り、進む。
「稗田阿求」
私は口にする。まるでそれが言霊であるかのように。
「御阿礼の神事を盛大に。恐らく…」
「言うな。それ以上を伝える為此処へ来たわけではないのでしょう?」
「頭が下がりますね。上白沢慧音」
唇だけで笑いながら四季映姫は言う。
「慧眼というのは良い言葉ではないのかもしれませんね。後学のために憶えておきます。またいつかお会いしましょう」
四季映姫は月へと飛翔する。小柄なその身体は閻魔というお役目を背負うには重過ぎるようにも思えた。徐々に離れていく彼女。月へ近づく毎に小さく小さくなっていく。解脱、という言葉が思い浮かぶ。
「さようなら、映姫様」
声が届いたのか、四季映姫は一度だけ振り返った。後光のように差し込む月明かりがシルエットだけを映す。全く、可愛らしい閻魔様だこと。貴女は警句をも伝えに来たのでしょう?
別れの挨拶は淡白に。私はこの言葉を書き留めておく。
紙にではなく胸と記憶に。ケモノよ、お前は我が身だ。契は果たした。