なにかが焦げているにおいがしている。
なんだろ? 鶏肉かな? 鶏肉だったらいいな。
「残念ながら鶏肉ではありませんよ」
見あげると我が主人がおかしそうに笑っていた。
なーんだ、違うのか。じゃあ、なんだろ?
「それは知らないほうがいいと思います」
そういって、胸に抱きかかえられていた私は床におろされてしまった。ひんやりとした冷たさが肉球に伝わる。この感覚は嫌いじゃない。
私はうーんと伸びをしてから、ゆったりと歩きだした。爪とタイルがぶつかるたんびに鳴るこつんという音、はじめて聞くが嫌いじゃない。
ここのご主人に拾われたのはついさっきのこと。地底のお店通りを闊歩していたとき、「うちにきませんか?」と誘われたのだ
彼女は変わった風貌だった。顔にちゃんとふたつの目があるというのに、胸元にもひとつのおおきな瞳があったのだ。びっくりしてしまい、彼女の三つ目の瞳に負けないぐらい私も目を見開いてしまった。
誘いは受けたかったのだけど、私はいかんせん猫だから迷惑をかけてしまう可能性がある、と逡巡した。
すると「猫だからいいんです」といってくれた。とってもうれしかった。どれくらいかっていうと喉仏を延々となでてくれるぐらい。
ふつつか者ですがよろしくお願いします、という気持ちをあらわすために尻尾をぶんぶんと振ったら「こちらこそ」と笑顔でいわれてしまった。
そして抱っこされて目的地にむかっているあいだ、いくつかのことを教えてもらったのだった。
まず、ご主人は人間ではないらしい。『覚り妖怪』といって、胸元にある目玉で相手の心を読めるらしい。どうりで会話ができるわけだ。てっきり私が人間の言葉を話しているのかと思っていた。
つぎに、彼女は『地霊殿』というところに住んでいるとのこと。実際に見たからわかるけど、すっごくおおきい。
でもご主人は俗にいう『ひとり暮らし』というやつらしい。寂しくないの? て訊いたら「たくさんのペットがいるから大丈夫です」といっていた。
そういうものだろうか? 私は人間の心にはうといからよくわからなかった。「やっぱりね」と自信ありげに笑み、よくわかったふりはしておいたけど。
きょろきょろしながら玄関を歩いていたら猫に出会った。全身まっ黒で目つきが悪いやつ。ひげをぴんと立てて身構えたら、鏡に映った自分だと気づいた。
私はこの鏡というやつが好きになれない。どうして人間というのは自分の姿を見たがるのだろう。ある者はうれしそうに、またある者は悲しそうに。
ためしにパンチを放ってみた。目のまえの自分もやり返してくる。やっぱり好きになれない。
「じゃあ、簡単な説明をしますね」
背後からご主人の声。どっちがおおく瞬きができるか、という勝負をやめてうしろを顧みる。
「ここをまっすぐいったところにペット部屋があります。あなたのほかにもたくさんの動物がいるので仲良くしてくださいね。食事は、朝の八時、昼の十二時、夜の九時にもっていきます。夕方の四時にはおやつもあるので覚えておいてください」
蝋燭の薄ぼんやりとした光を受けながら朗々と語る。なんだかちぐはぐな映像を見ている気分だった。
「食事の時間以外は屋敷を探索してもかまいません。ただ黄色いテープが床に貼ってあったらそのさきはいってはダメです。危ないので」
いい慣れているのだろう、彼女はつっかえることなく話しつづける。
私は遅れながらに頭のなかの白紙にご主人のいったことをメモし始めた。ええと、食事は朝の八時と十二時で、おやつはたしか……
「それと、トイレはちゃんと指定の場所ですること。廊下でしたらおやつ抜きですよ?」
情報の整理が終わらないうちにまた新しい情報が追加されてしまった。これは困ったぞ。ええと、黄色いテープは……なんだっけ?
「安心してください。ほかの仲間たちに訊けば教えてくれます」
あ、それもそうか。仲間たちがどこにいるかは覚えている。ここをまっすぐいけばよいのだ。
「正解です。――では私はそろそろ部屋にもどるので。失礼します」
そういうと、私のいくさきとは違う方向に歩きだした。ちいさな背中に蝋燭の光があたっている。ちぐはぐな印象は感じなかった。
ふわーとあくびをする。友達はできるかな、という不安はなかった。ずっとひとりで生きてきたのだ。孤独には慣れている。
そういえば今何時なんだろ? なんてことを考えながら私は部屋にむかったのだった。
◆ ◆ ◆
「よろしくね」
まっ黒な女の子の猫が快活にいった。私と違って目つきがやさしそうである。
初対面のやつにこんな親しげに話しかけるわけがない。私は背後を見た。彼女は誰にいっているのだろう?
「あんただよ」
まえをむくとそういわれた。ひげが力なくたれている。あきれている証拠だ。
自分のことだと気づくと、少々緊張してしまった。返事に窮していると、「あわてなくていいよ」といってくれた。
目つきだけでなく、性格もやさしいようだ。
落ち着いてきたので、こちらこそ、といって頭をさげた。人間の世界では、挨拶をするときはこうするらしい。
私の所作を認めて、相手は目をまん丸にした。
「別に人間の真似しなくっていいのに」
なるほど、それもそうだな。いやはや、お恥ずかしいところを見せてしまった。
部屋はとにかくおおきかった。さっきまでいた玄関もおおきいが、ここのほうがすごい。
地上からも頭上からも話し声が聞こえる。高めの山がいくつか散布していて、ほかの猫がそこに登っているのだ。
猫だけじゃない。カラスもそこらを飛んでいる。ご主人がいったとおり、ここにはたくさんの動物がいた。
何匹ぐらいいるのだろうか。気になって数え始めたのだが、十をこえたのでやめた。億劫になったからじゃない。そのさきの数字を知らなかったからだ。
だから、ここにはどれくらいの動物がいるの? と目のまえにいる猫に訊ねてみると、「二百ぐらい」といわれた。
失敗した。十までしか知らない私が、その数字のおおきさを理解できるわけがない。
「やっぱりね」とよくわかったふりはしておいたけど。
いくつかの簡単な質問をされたあと、
「じゃあ、いっしょにここを見まわろうか」
と提案して相手は私のさきを歩きだした。
彼女もここにきたばかりなのだろうかと訝ったけど、よくよく考えてみれば私のために案内役を務めてくれているだけであろう。
「ほら、はやくいくよ」
あわててあとを追いかける。隣に並ぶと、スピードを相手にあわせた。
「あら、新入りちゃん?」
でっぷりと太った黒いおばちゃん猫がこちらにいってきた。横になっているせいで、ゴムマリのようなお腹が嫌でも目に入る。
「これからよろしくねぇ」
反応に困っていると、横の彼女が耳元でささやいた。
「あのおばちゃんには気をつけたほうがいいよ。自己中心的だし、すぐに癇癪を起こす。かかわらないほうがいい」
いわれてみれば、目があっただけで鬱陶しそうに私をよく追い払った肉屋の店主に顔が似ている。敵とはどこにいるかわからないものだ。
だけどせっかく声をかけてくれたのだから、無視するのも申しわけない。それに、もしかしたら悪いやつじゃないかもしれない。
私は精いっぱいの愛想笑いを浮かべて、さりげなく友達になろうと試みた。
「よろしくね。それと、眠るときはまくら代わりにそのゴムマリみたいなお腹かしてね」
おばちゃんがひげを待ち針みたいに逆立てて、
「もう話しかけないで!」
とヒステリックな声で叫んだ。
なにが気に食わなかったのだろう? 隣の彼女は笑いをかみ殺しているっていうのに。
「あんた、やるね」
ふたたび耳元でささやかれる。そういわれた理由はわからなかったけど、褒められたのだから悪い気はしなかった。
「――ねえ、さっきさ、ここには二百匹ぐらい動物がいるっていったでしょ?」
かき氷みたいにそびえた高い山を見あげてたら、横から話しかけられた。「私はいってないよ」と返したら、「あんたじゃなくて私が、だよ」といわれた。
「そうだね。それがどうしたの?」
視線を相手にむける。彼女は私じゃなく、そこらにいる猫を見まわしていた。
「でも、変なんだよ」
「変? どこが?」
ひげが風に吹かれる気の枝みたいにせわしなく揺れている。ちょっと戸惑っているようだ。
「気づかなかった? ここにはさ、黒猫とカラスしかいないんだよね」
私もあたりを見まわす。
本当だ。たしかに数はたくさんいるが、種類は黒猫とカラスしかいない。犬や鳩もいるんじゃないかと探したが、どこにもいなかった。
「おお……、これは変だね」
「でしょ?」
お尻をぺたんとつけて座ったから、私もならって座る。
「しかもね、ここにいるのはみんなメスなんだよ」
「そうなの? じゃあ子孫残せないね」
彼女が顔をくしゃりとゆがませた。嫌悪感が自分のひげをとおしてひしひしと伝わってくる。
よくわかんないから、私も顔にしわを寄せて真似してみた。
「あんたのあだ名、極楽トンボでいい?」
「なにいってるの。私はトンボじゃなくて猫だよ」
彼女は微苦笑した。
この子もいい間違えることがあるんだなぁ、と思って私も苦笑する。
「――でも、ここのご主人が黒色が好きなだけかもしれないよ?」
「それなら、たくさんの種類の黒色をした動物を飼えばいいじゃない。なにもカラスと猫に絞ることないでしょ。あまつさえ、メス限定で」
どうりである。それに思いだしてみればご主人の服の色は明るかったし、黒色が好きというわけでもなさそうだ。
「――じつは、この話には代々いわれてきている噂があるんだ」
彼女が口元をつりあげしかつめらしい顔をする。
「なんでもここの主人は昔、人に変身できるメスのカラスと黒猫を飼っていたらしいんだよ」
人に変身――私は目のまえの黒猫が主人と同じぐらいのおおきさになって、二足歩行をしている姿を想像してみる。
ちょっと怖いかも。
「だから、その二種類に限定して飼うことで過去を偲ぼうとしている、っていう説さ」
山にとまっているカラスに目をやる。あれも人に――ダメだ、やっぱり怖い。
「それだけじゃないよ。ご主人には妹がいた、っていう噂もあるんだ」
姉がいた、という説もあるんだけどね――とつけ加えた。
「ここには不思議がおおいんだよ」
「おおいねー」
適当に相づちを打つ。すると相手の表情がいつもどおりにもどった。
「まあ、うそぶいたところで噂は噂。教えておいてこういうのもなんだけど、鵜呑みにしないようにね」
また相づちを打つ。だけど彼女の言葉が魚の骨のように喉に引っかかり、ついつい意識が別のほうに飛んでいた。
妹か姉か……。
それが本当なら、ご主人はうらやましいな。
私はずっと孤独に生きてきた。家族なんていなかった。
だけどあの人は――
見知らぬ女性と和気あいあいと語りあうご主人をかってに夢想して、すこし嫉妬した。
鐘の音が響く。
びっくりしていると、扉からご飯をもったご主人が入ってきた。周りの動物たちが一気にむらがる。
時計を見やる。十二時。もうお昼ご飯だ。
直接訊ねてみようかな、と思ったらとてもいいにおいが鼻をかすめた。
――鶏肉だ!
さっきまでの気持ちぜんぶを頭のすみに追いやって、私もほかと同じようにご飯へ駆けていった。
◆ ◆ ◆
玄関だけじゃない。この屋敷は廊下も薄暗いのだ。
なんせ光源は等間隔におかれたちいさな蝋燭のみ。五十メートルさきはもう暗くて見ることはできない。
なんとか遠くを見ようとまえだけをむいていたら、足元に変な感触があった。
視線をおとす。黄色いテープが貼ってあった。いそいで今きた道を引き返す。
ご飯を食べ終わったあと、ずっといっしょにいた友達(と呼んでいいものかわからないけど)に訊ねてみた。
廊下の黄色いテープのさきはどうなってるの? と。そしたら、
「人間の死体を燃やしてるんだ」
と渋面でいった。どうやら最初に嗅いだにおいは人間の焼かれてでたそれだったようだ。
なんでも死体燃やしがこの屋敷の仕事らしい。詳しい内容も話してくれたのだけど、頭のなかの白紙にメモしそこねて、覚えていない。
人間ておいしいの? と訊いたら、相手の顔中のしわがいっそう深くなったのは覚えているけど。
扉がすこし開いていて、光がもれている。そのおかげで扉付近はとりわけ明るかった。
地面に黄色いテープが貼ってないことをたしかめると、そこへ近づいていく。
なかにはご主人がいた。
眼鏡をかけて机にむかっている。ペンをもっているので、きっとお絵描きにいそしんでいるのだろう。
「デスクワークですよ」
顔をあげ私のほうを見た。なぜばれたのだ。
「能力範囲圏内に入れば、相手の考えが自動的に頭のなかに伝わってくるんです」
どうぞ、なかへ――微笑みながらいった。お言葉に甘えて失礼することにする。
彼女の部屋には赤いカーペットが敷いてあった。爪とカーペットがぶつかるたんびに鳴るぽすんという音、嫌いではない。
ベットにクローゼット、机に椅子――結構たくさんものがおいてある。それでも部屋にはスペースが存分に残っているから、ひとりと一匹が同室していても窮屈に感じることはない。
「ちょっと待っててください」
ご主人が眼鏡をはずしながら席を立った。紅茶のカンが並んでいるところから朱色の液体が入ったビンをもちあげた。下の棚から小皿をとりだして、そこに注ぎ入れる。
「どうぞ」
そして私の目のまえにことりとおいた。
覗いていてみると、朱色の水面に自分の顔が映った。
鏡みたいだったので、目をそらしながら飲む。鶏肉味じゃないけど、おいしい。
「気に入っていただいてなによりです」
椅子に座りながらご主人がいう。もっていたティーカップをテーブルの上におきながら。
ふわりとただよった香りから判断するに、あの中身は紅茶だ。
「よく私の部屋がわかりましたね」
たまたまであった。ただ廊下を散歩していただけである。
「そうですか」
いきなり鉄の味がした。まえをむくとお皿の底が目下にある。どうやら飲みきってしまったらしい。
おかわりありますよ、といわれたけど断っておいた。お昼のご飯が消化しきれていないからこれ以上飲んだらもどしてしまう。
――そういえば、どうしてご主人はいつも丁寧口調なんだろう?
ふと疑問に思った。肉屋の店主なんかは「この猫ふぜいめ。二度と姿を見せるな!」などとずいぶん粗暴ないいぐさだったのに。
でも彼女は違う。自分のほうが立場が有利だというのに、いつもやさしい口調である。
なんでだろう? 私は人間の心にはうといからよくわからなかった。
「簡単なことですよ」
私の心を読んだご主人がいった。相手を見やる。いつものにこにことした顔だ。
「私もここの主になってから知ったのですが、丁寧口調のほうがペットにも、仕事の上司にも心証がいいんです。だから誰かがそばにいるときは、よっぽどのことがないかぎりこの口調です」
たしかにそのとおりだ。肉屋の口調よりこっちのほうが断然いい。
ご主人は根っからの丁寧口調。
では、彼女の妹はどんな口調だったのだろう……。
「妹?」
目をビー玉みたいに丸くしながら首をかしげる。
が、すぐに合点したらしくすっと目を細めた。「ああ、動物内でささやかれている噂ですね」
ふうっと息をついてから彼女がテーブルにひじをついた。そして紅茶をすする。
私はそのさまを地面から見あげていた。ただ頭では違うことを考えている。
――たしか記憶が正しいと、もうひとつあったな。ええと……
「人に変身する黒猫とカラス、ってやつではありませんか?」
おお、正解である。なぜ知っているのだろう。
「食事を与えるとき、みんなの心を嫌でも読んでいますからね。それに、昔からみんないってましたから」
ひじをついたままのご主人は、私に視線をむけながらも焦点をぼけさせた――と思う。
なんとなく、瞳に私が映っていない気がした。自信のほどはない。
噂の真贋を問うてみようかな、と思ったけど興味があるわけじゃないからやめておいた。
しかしなにもしないとなると、手もちぶたさになってしまうので毎日の日課である毛づくろいを始める。
ぼさぼさの毛並みが整っていくのを見届けるこのひとときが、私はたまらなく好きである。
肩が終わったからお腹に移ろうと顔を動かしたとき――
ご主人のぷっくりとしたほおを一滴のしずくが伝ったのが見えた。
紅茶でもこぼしたのかと訝る。しかしご主人がそんな粗忽なことをしでかすとは思えない。
それに、しずくは両眼からあふれているので紅茶の線は完璧に消えた。
彼女を見すえる。
目を閉じているのにそれはこぼれる。時間にたつにつれて量も増えていく。
あごに到着すると、まるで用事がすんだかのようにそっけなくテーブルにおちてしまった。ほんのり寂しい。
なのにほかのやつらはこのあと自分がどうなるかも知らないで、ほおを滑っていくのだ。それがよけいに寂しい。
――そうか、あれが『涙』ってやつなんだ。
とつぜん、思いだした。
昔、誰かから聞いた。人は悲しくなると目から涙と呼ばれる液体をたらすのだと。
目からでる原理などてんで覚えていないが、理由はおぼろげに覚えていた。
ではご主人は今、悲しんでいるのか……
私は人間の心にはうといからなにが悲しいのかがわからない。なにをすればいいのかもわからない。
体がむずむずする。
私はどうしたらいいの?
「――すみません」
廊下におかれた蝋燭の火よりもはかなげな、それでいて震えた声でご主人がいった。
袖で目元をぬぐい、しめった瞳で私の目を見てくる。下手くそな笑顔をつくりながら。
「ちょっと、ひとりにしてもらっていいですか?」
断る理由もない。
私は短く返事をしてからすぐさま出口へむかう。
うしろからご主人の声とは思えないほど幼い声が聞こえている。なにをいってるかはわからない。わかりたくもない。いや、やっぱりわかりたい。
廊下にでた。引き返してしまおうか。やっぱりこのまま逃げようか。
はじめて見た涙は私の心のなかをぐるぐるとかきまわして、同時に頭のなかもぐちゃぐちゃにした。
◆ ◆ ◆
なんでここにいるのだろう?
涙を見たときから上の空。夕飯をもって部屋に入ってきたご主人に目をあてることができなかった。
なのになんでここにいるのだろう。
無意識、というやつかな。かってに誰かが自分の体を操作したのかな。
ご主人の部屋の扉を見つめながら考えをめぐらす。もう夜の十時すぎだが光がついているところを見ると、どうやら彼女はまだ起きているらしい。
ダメだ。やっぱり頭がぼんやりする。
引き返してしまおうかな、と思う。いや、しかし……
ああ、もう!
らしくない自分が焦れったくなり、私は半ばやけを起こして入室する。幸運にもすき間がまた開いていた。
私の予想はちょっぴりはずれていた。
ご主人が机に突っ伏して眠っていたのだ。きっと、デスクなんとかをやっていた途中なのだろう。
まだ涙をたらしているのかが気になって、とことこと足音をできるだけ立てないように彼女へ近づく。
怒られるかな、と思いながら椅子を伝ってテーブルの上にのった。
クレヨンで塗ったようにほっぺたは赤くなっている。だけど涙はどこにも見あたらなかった。
ちょっぴり安心する。すーすーとお腹をやさしくなでるような寝息を聞きつつ、私はぺたりと座った。
紙がある。
なにとなしにそれを見やると、絵であることがわかった。しかしずいぶんとリアルである。
たとえるなら鏡に映った像を丸きり切りとって、絵にしたような感じ。
その紙には四人の女性が書かれていた。
右側に赤い髪と黒い髪をした少女がふたり。肩を抱きあって、笑いながら片目をつぶっている。なぜ片目を閉じているのかはわからない。
中央にご主人もいた。彼女も笑っていて、片手で英語のブイの形をつくっている。
もうひとりは――
驚いた。ご主人の左にいる少女の胸元にも、目があった。どうやら彼女も『覚り妖怪』というやつらしい。
その女性の三つ目の瞳もこちらを見ていた。
うっすらと笑いながらこの人もご主人と同じように片手をブイの形にしている。
なんだろう、これ。誰が書いたんだ?
「……うーん…………」
力の抜けた声がする。ご主人がもぞもぞと動きだした。
腕枕をといて、首をかすかに動かし、しょぼついた目であたりを確認する。
――私と目があった。
相手が固まり、目を見開く。
怒鳴られる、と思って体に力を入れた。
「お燐!」
おおきな声。それは自分の鼓膜をつんざくようだった。
怒鳴られはしなかったけど、申しわけないことをしてしまった。どうやら彼女は待ち合わせをしていたらしい。お燐という者と。
私がいるべきじゃないな、と思って一歩さがるとご主人があわてた口調で、
「だ、大丈夫。寝ぼけていただけ……です」
といった。
そうだったのか。まあ、私も夢のなかの会話を実際に口にだしてしまうこともある。
彼女はいつもの微笑みを浮かべながら、椅子の背もたれによっかかった。
宙を見ている。まるでまだ夢から抜け切れていないようなとろんとした目つきで。
いつまで机にのっていても失礼になるだけだと思ったから、私はくるりと振り返った。
クローゼットが開いている。そのせいで、扉の内側に張りつけられた鏡が目に入った。
プイッと顔をそらす。見たくない。
「――私もですよ」
だしぬけに声。うしろから。
体ごとむくと宙を見たままのご主人がいた。
「私も鏡は好きじゃありません」
くりっとした目がやっと私をとらえる。
ならとりはずしちゃえばいいのに、と伝えると、「それもそうですね」と苦笑いをした。
「でも難儀ですから」
いいわけめいたことをいって、視線をおとした。さっきの紙を見ているようだ。
「これは紙じゃありません」
それをゆっくりと指さす。「これは写真というものです」
しゃしん? 聞き慣れない名前だ。
ご主人が両手の指で私の頭ぐらいのおおきさの丸をつくった。
「『カメラ』という機械を使うんです。おおきさはこれぐらい」
その丸から私の顔を覗いてきた。
「写したいものを決めたら、スイッチを押す。それだけでこういうものができるんです」
写真を大事そうにもちあげて私に見せる。
人間の世界にはすごいものがあるようだ。ちいさな機械で、こんなリアリティーのあるものができてしまうのか。感動してしまう。
「写真はいいものですよ……」
つぶやき、伸びをする。ひじをつくと、ふわりとあくびをもらした。目の高さが私といっしょになる。
おかしなこというものだ。彼女は鏡が嫌いといった。なのに、写真はいいもの?
自分を自分で見ることができてしまうからこそ、鏡を嫌っているのではないか?
写真だって、こうして現に自分で自分の姿を見れている。いわば、鏡と同じ役割をはたしているわけだ。
だというのに――
ご主人が私を見る。どこか超然としていて、どうやらまた心を読まれたのだな、と気づいた。
「――これは私の考えなのですが、この写真とは鏡というものはと対極のもなんじゃないでしょうか」
そういうと、視線が私をとびこえうしろへ送られる。悲しそうな笑みになった。たぶん、クローゼットの鏡を見ているのだろう。
対極……? つまり正反対ということか?
これまた話が変な方向にむかったぞ。その言葉が皆目理解できない。
「これらは『うつす』ものが違うんです」
くりっとした目が遠い目になる。
「鏡とは、映った人の『今』を見せるもの。頭をかこうが、鼻を触ろうが、ありのままの今を映します」
視線を今度は写真にむける。
「だけど写真は、それとは逆に『過去』を映す。カメラをとおして覗いた世界を切りとっていつでも、いつまでも見ることができる。だからそのふたつは映すものも違っていれば、用途も違っているんです」
写真と鏡……。対極な存在……。
意識してメモをとっていないはずなのに、いつまでも言葉が頭のなかに残っている。
ご主人にとって鏡と写真はただ自分を見るための道具なのではなく、今と過去――時系列の異なった二つの世界――を見るための道具らしい。
じゃあ、彼女の『鏡は嫌いだけど、写真は好き』という考えは極論、『今は嫌いだけど、過去は好き』ということなのか。
「……そうなりますね」
私の目を見ながら賛同の言葉をいってくれた。純粋にうれしい。
まだもやもやするところはあるけど、相手の考えは九分九厘わかった。
でも疑問はある。それがもやもやの正体だと思う。
なぜ、『今』が嫌いなのだろうか?
「――ここには、みんながいませんから」
ご主人がひじをついたまま目を閉じた。うれしさと悲しさがないまぜになったような笑い顔になる。きっと写真と鏡を同時に見たらこんな顔になるんじゃないかな、と思った。
みんなっていうのは、誰のことだろう。
「その写真に写っている三人ですよ」
ふたたび私は写真を見る。肩を組んだ女性ふたりと、『覚り妖怪』の少女。この人たちが、みんな……。
見方によれば、ご主人が三人の人たちに囲まれているようにも見える。だからこんなにも笑っているのかもしれない。
「……たしか、その写真は文さんに撮ってもらったんですよね。私がお願いして」
目をつむっているのに、まるで写真を見ながら話しているようだった。まぶたの裏に本当に写真が貼ってあるようだ。
「そのときにはもう、第三の瞳が開いてたんですね。みんなが頑張ってくれたおかげで」
誰と話しているのだろう。私に話しかけているわけじゃないのはたしかだけど。
ねえねえご主人、相手してよ。
寂しくなって、私は机の上の写真に目をやる。
右側のふたりを惚けたようにじーっと眺めていたら、あることを発見した。
赤い髪の女性には尻尾が生えているではないか!
それだけじゃない。黒髪の子には羽らしきものがある。
互いの体が邪魔していてよく見えなかったが、たしかにこれは尻尾と羽で間違いないだろう。
今日聞いた噂がとつぜんよみがえる。
『人に変身できる黒猫とカラス』
もしかしてこのふたりが、そうなのか?
「――そうですよ」
ご主人がいった。まえを見る。目をつむったままの彼女。
「お燐とお空と呼ばれていまして。もとは黒猫とカラスです。長い年月をへて、人に変身できるようになったのです」
ひじをつくのをやめて笑みを深めた。
「また……遊びたいな。会って……話がしたいな……」
声が震え始める。昼、涙を流したときも声が震えていたことに気づいて、私はそそくさと相手の顔から写真に視線をそらした。
頭のなかが乱れ始める。また涙を見ることになるのか。
「……噂はすこしはずれているんです。私が黒猫とカラスばかり拾ってくるのは……彼女たちにまた会いたいから。また人の形になってくれる子を、探すためで……」
聞きたくない。だけど、言葉の端が震えているご主人の声は容赦なく耳に入ってくる。脳味噌に貼りついてしまったように、頭からその声が離れなくなる。
「……そして、ひとり、私には姉妹がいた」
写真に写っているもうひとりの『覚り妖怪』が目に入った。
――ご主人には妹がいた、っていう噂もあるんだ。
噂も思いだした。
もしかして……この人なのか。
「たまらなく好きでした。大好きでした」
なのに――とつづけた声は、もう聞きとることができない。
私はついつい顔をあげてしまった。
ご主人は、泣いている。
涙をぼろぼろと流している。目はいまだつむったままで。
私の頭のなかが、まっ白になる。
しかしそれも束の間だった。すぐに頭が冷静さをとりもどし始めたのだ。
意外にも、お昼のときみたいになることはなかった。ぼんやりとしていて言葉はなくしたものの、危惧したみたいに取り乱すことはない。
彼女の両目から涙はどんどんあふれる。きっと目を開けてしまえば、もっとたくさんのこぼれてしまうんだろうな、と思った。
「もう一度、会いたい……」
ご主人はいう。涙でしめった声で。
「どうしてなの……?」
ご主人はいう。幼い声で。
「どうして私ひとりおいて……」
リンゴのような赤いほっぺたを、涙にぬれているほっぺたを、私はただ眺めている。
彼女の瞳には私は映らない。まぶたを閉じているからじゃない。『今』をもう、見ていないからだ。
過去しか見ていない。
ご主人が顔を両手でおおった。すすり泣く声はやまない。
「お燐、お空……もう一度、遊ぼう」
私は人間の心にはうといから、どうやったら泣くのをとめられるかはわからない。
だけど、ここにいても自分はなにもできないことはわかった。
出口のほうをむく。
「……みんながいなくても、私はひとりで頑張ってる。地霊殿の主としての役目も」
耳をふさいでしまいたい。
もう、痛々しかったから。
私はテーブルからおりる。
だけど彼女は、今までの凛々しかった主人とは思えないような声でつぶやくのだ。
「だから……
私を褒めてよ、お姉ちゃん……」
鏡が目に飛びこんだ。
映っているのはまっ黒いただの猫と、ちいさな体を震わせむせび泣くただの少女。
きっと、私も彼女も鏡を好きになることはないな――そう思いながら、私は薄暗い廊下へとでていった。
でも好きな分先も予想がつく事が多いです
でもやっぱり好きな物は好きです
何だか切ないなぁ
名前が出ないな、んで容姿の描写も少ないなって時点で完全に気づいてしまう
正直この話も、誤認識させるネタじゃなくてストーリーの方をもっと細かく読みたかったかな
と、俺は思いました
なぜこいしが一人になってしまったのかを上手く掘り下げて欲しかったです。
想像しにくいですが、こいしにもペットがいるんですよね。
オリキャラになるので出しにくいでしょうけど……
期待を裏切られたと感じてしまった。
そういう小手先のSSではなく、もう少し深くこの話を
読みたいと思ってしまっていたのでそれが残念。
なんと!
いかんせん猫の心にはうといものなのでそれは知りませんでした。
ご指摘、ありがとうございます。修正させてもらいました。