夏は。
嫌い。嫌い、だった。
太陽が近い。いつもは距離を感じるのに。
じりじりする。朝でも昼でも。
だから夏の夕暮れから仲良くなった。
ちょっとだけ優しくなってくれて、嬉しかった。
暗くなり始める時間。橙色。蝉時雨と。
打ち水。
涼しい。裸足で歩いて…たのしかった。
そんな時間になると思い出す。きっと旧い記憶。
夕焼けを背中にして影と遊んだあの時の私。
小学生くらいの、私の夏休み。ほとんどの宿題は終わらせていたと思うから8月以降なのかな。
暦の上なら立派な秋。立秋後。
でも一つだけ終わらない宿題はすぐにメドを付けられなくて。
教科は…理科? そう、理科だった。
自由研究で私が選んだのは植物観察。朝顔の観察記録を毎日毎日ノートに描き続けていた。
蔦が伸びる姿は見ていて楽しい。日に日に変わっていく。
日光を浴びて。私が水をあげて。おはようって挨拶した。きょうも暑いねって。
朝一番に帽子を被った私はそうやって朝顔と毎日を共にした。時折強い風が吹く。私は帽子を押さえて笑っていた。朝顔の蔦が揺れる。蕾には色。朝方の空と似たような色が綺麗。
私はかがんで、ノートに朝顔の姿をスケッチしていく。使うのは色鉛筆だけ。緑色はそのまま使った。蕾の青色だけが上手く表現できなくて少し色を重ねてみたりしていた。
こうかな? ちょっと、こくなっちゃった。
蕾が開く日を心待ちにして。待ち焦がれていた。
私は神社の子。周りの子とあまり馴染みが深くなれない。そんな自覚を小さな頃から感じていた。
友達とは学校で遊ぶ。そうすれば寂しくなんて、ない。毎日会えるから。
夏が嫌いになった理由はそこにもあるのかもしれない。一番、友達と遊べない時期が長いシーズン。一日の大半を一人で…、小さな神社の境内で過ごしていた。
綺麗な朝顔が花開いた時、私は嬉しかった。何輪も咲く花びらの大きさ。日差しに向かってゆっくりと這う蔦の姿ををしっかりとスケッチして、太陽の真下で心に焼き付けた。思っていたよりも柔らかい淡い青色。図鑑で見た色とは違う。それが世の中と繋がっているなんてその時には知らなかった。
Tシャツに汗が滲む。履き古したサンダルは次の夏を迎えられそうにない。七部丈まで捲くり上げたジーンズの色は擦れたインディゴ。
朝顔の花が陽の目を見た翌日に雨が降った。
私はてるてる坊主を用意して窓際でお願いする。
「神さま…。どうか、花がおちませんように」
雨は続いた。二日、三日。纏まった量の雨が私の住む街に降り注いだ。
恵みの雨という言葉をニュースで見た。降雨量が少ない夏だったんだなって、いまは思う。
文字は読めないし、意味も解らない。雨が降っているって事だけが私の全て。
水ならだいじょうぶ。そう考えていた私の安堵感はある日一変する。
火曜日の朝に。
雨は水。水は植物の命。私は図鑑を見直して学習する。でも、水をあげすぎちゃダメ。
私は神社の…、丁度お賽銭箱の奥に位置を変えた。水分を含んだ土の重みが小さな女の子だった私には辛い。傘は持てない。雨に濡れても。小さな身体を目一杯使って駆け抜けた。
雨音が境内に響く。それだけがその日一日の音楽。耳で捉えられる五感の一つは常に雲が消える事を願っていた。
水曜日。
ずっと眠れずに過ごした火曜日の夜を越えて。朝が来た。
雨音は聴こえない。朝陽は雲で隠れていたけど、鳥達が飛んでいる。
私はお賽銭箱へと急ぐ。朝顔は居た。花は少しだけ落ちている。残った花の淡い青色が眩しい。
蔦は太陽を待っている。まだ解らないのに…、陽の向く方に少しだけ傾いて。
私はスケッチした。雨に濡れた朝顔のありのままを。新しい小さな蕾を一つ見つけた。
生きてる。
この子はずっとずっと。
記憶。もう少し先の夏と繋がっている。
朝顔は花開いている。それ以降の記憶…、思い出。
はっきりとしていない。ぼやけて、夢のような気もする。
誰だろう? 大人の背中が見える。顔が…、目も鼻も耳も、口も。消えている。だから音がしない。声がしない。日差しの強さと蝉の声だけが夏の記憶だという印象だけ。
私は車に乗って何処かに出かけている。
長い時間。だったと思う。同じような道を走り続けて。緑色の看板とか、車のテールランプとか。それぐらいしか思い出せない。風景は後ろに過ぎ去っていく。全部過去に置き去りにするみたいに。
ラジオの音がする。多分その時のPOPSが慣れない車内を少しだけ気楽になれる空間を演出している。
運転手は誰なんだろう?
私は話しかけない。通り過ぎる車をただ眺めていた。
半周ぐらいぐるぐると車は回る。そこまでは憶えている。
そこで一度記憶が途絶える。追っても追っても逃げてしまう記憶。幻みたい。
次に憶えているのは長い階段。その裾に湧き水が湧いている。足湯みたいにそこに浸かって気持ちがいい。サンダルはあの日の記憶と違って、真新しい。あの日より未来の記憶なのかな。
階段を上って。知らない神社…、のような建物。でも、どうしてだろう。
懐かしい。
そう思った。
木漏れ日の光。
夏が過去になりそうな気温。
私を連れて行った誰かと一緒にお参りをする。神社の子の私は物真似じゃなくてもっとしっかりとした礼拝をした、と思う。
それから。
街を横切って。広い水溜り。
私は海だなって感じた。見た事もない奥行きと浮いているボート。
違う。違うの。それは海じゃないの。
湖。
そこは山に囲まれていて。潮の匂いがしなかった。
海鳥が飛んでいない。小波は小さい。
目的地に着いた。また、神社。お祭りの出店があった。
通り過ぎて。歩いて歩いて。神社の境内。歴史の重さがそのまま形を残している。
ぼぅっと眺めていた。強い向かい風が涼しい。そこでもう一度お参りをした。
帰り道。私は紙風船を買ってもらった。顔も鼻も耳も口も無い、彼なのか彼女なのか解らない誰かに。
緑色の紙風船が風に揺れて。私はその紙風船を大切に胸に抱えた。
紙風船がどこにいったのか憶えていない。
私の部屋を探しても見つからない。
でも、記憶だけが残っている。
だから…、夏の終わりの。夕暮れには。緑色の紙風船を私の神社に祭っている。
後、朝顔は植木鉢ですよね? なぜ三日目まで早苗が朝顔をそのままにしておいたのかよくわかりませんでした。自分の家の玄関にでも避難させられたんじゃなかろうか。まあ子供のやることだからと言われればそれまでですが。
でも情景は全体的に綺麗でした。大事なことだから二回言った。
つもり。
でも自分は話にオチを求めるタイプなので物足りなさがある。