人里の外れには空き地があった。
建築の折の廃材やら壊れた家具やらが打ち捨てられている。明確ではないものの、暗黙の秩序に従ってそこそこに整然と放置されたそれらは、傾きかけた陽に照らされて濃い影を落としている。どこか、寂しげな光景であった。
空き地の四辺は杭とその間に張られた縄によって区切られており、ところどころに「立入禁止」の紙が吊られている。風雨に晒されて文字の判読出来ない物も多い。かえってそれがうらぶれた雰囲気を助長し、「『立入禁止』っぽさ」を醸し出していた。
おざなりかつなおざりではあったが、紛れも無い結界であった。
良識ある者の侵入を拒む結界。
裏返せば、悪意を持って侵入しようとする輩に対して、その結界は全く無力という事だ。
大量に廃棄されうずたかく積み上がった里長のブロンズ像の山の裏手に、たむろする影が一、二、三、四、――九。
一党が殊更に無頼を気取って上げる野卑な笑い声は、どこか幼さの残る若い男のものであった。
皆おしなべて年の頃は十七、八。鼻の頭にニキビをこさえた者の姿も見える。長椅子だの犬小屋だの里長のブロンズ像だのに思い思いに腰を下ろした一党の中心には、安物の酒の瓶がいくつか据えられており、なるほど道理で揃いも揃って赤ら顔の胴間声である。
まだ陽も沈まぬ内から仕事もせずに空き地でたむろし酒宴に興じる彼らは、悪く言えば里のごろつきであり、良く言ってもやはり里のごろつきであった。
しかも未だ少年と青年の境界をふらつく彼らは、同年代の仲間達が家業を継いだり働きに出たりして大人になっていく中、なんとなく取り残されてしまっただけの半端者の集まりで、一人前のごろつきになろうにも度胸も覚悟も足りなかった。
したがって、立入禁止の空き地で昼間から酒をかっ食らう程度の悪事とすら呼べぬような悪事に、内心では自分自身と正対出来ぬ恥ずかしさを覚えている彼らは、必要以上にげらげらと下品な笑い声を上げて虚勢を張るのだ。
話のネタが尽きて解散する段には、何とも言えぬ侘しさを抱えて家路につかねばならぬ。下らぬ話題であろうと枯渇すればあの耐え難い沈黙が待っている。彼らはどこか必死な形相で喋り、頷き、賛成し反対し、賞賛し罵倒し、馬鹿笑いを繰り返す。
今もまさに、何も産み出しはしない議論を白熱させている面々。その内の一人――リジンは手の中の杯をぐい、とあおると挑みかかるかのように言い放った。
「てか、ゆかりんが最強に決まってんだろ?」
皆の杯を傾ける手が止まる。空気がざわり、と動いたのが目に見えるようだった。
バリンは首を大きく傾げてこきり、と骨を鳴らした後、明らかな侮蔑の色を目に含ませてリジンをねめつけた。
「救い難いうっかりさんだな、お前は。『う』が抜けてるぜ、『ゆ』と『か』の間によ」
「何だと? 誰が寅丸だ、こら」
杯を地に置いて立ち上がりかけるリジンとバリンを、ロイシンがなだめる。
「おいおい、熱くなるなよ。別にゆかりんでもゆうかりんでもいいじゃねえか。どうせ真の最強はレミリアお嬢様なんだからよ」
場は一気に騒然となった。後ろの方でヒスチジンが「紫は藍に頭が上がらず、藍は橙に首ったけ。よって橙最強。ちぇえええええええええん!」と主張したが一顧だにされなかった。
「うーうー唸るだけのへたれみりあが最強? 笑わせんなよ。どう考えても妹様の方が強いだろ。フランちゃん最強でFA」
スレオニンがロイシンに食ってかかると、
「スレオニン、てめーもヤキが回ったな。フランドールはレーヴァテイン振り回すだけの火力馬鹿だろうが。火力ならお空が完全上位互換だし」
メチオニンが即座に言下に切り捨てる。
「うにゅほとか正気か? カリスマの欠片も無えだろがよ。最強はゆゆ様。相手は死ぬ。異論は認めねえ」
イソロイシンは頭の上でくるくると指を回しながら嘲笑した。
「お前らちょっと落ち着け。結局、こういう事だろ。えーき様こそ最強。紫も幽々子も恐れるお方だしな」
トリプトファンはこれで話は終わりだ、と言わんばかりに肩をすくめて見せた。
「待てや、それならえーりん最強だろ。まず死なないし、さらに死なないから閻魔に裁かれることも無いし、厨スペック満載だし」
「同じ蓬莱人だったらてるよだろ。時間操作系は反則の強さ。そうなると咲夜さんが最強だな。瀟洒だし」
「ニートと幼女愛好家は引っ込んでろよ。やっぱ強さの象徴と言えば鬼だろ。萃香か勇儀」
「いや神を忘れんな。神奈子様と諏訪子様だったらやっぱり神奈子様の方が強ぇかな」
「ガンキャ○ン(笑)ケロたん(笑)まだ本気出したアリスの方が強そうだわ」
喧々諤々。後ろの方でヒスチジンが「あたいったらさいきょーね!」と連呼していたが一顧だにされなかった。
「つうかよ、いい加減てめえら気づけよ。 霊 夢 さ ん 最 強 」
罵り合いに発展しつつあった議論にメチオニンが突如投じた一石は、大きな波紋を皆に広げた。
(あ、確かにそうかもしんない)と思わせるだけの説得力がその言葉にはあった。
急激に収束に向かいつつある強力な場の流れに、しかし抗ったのはリジンだった。
「霊夢は私が育てた by八雲紫…ッ!」
『!!』
(リジンの野郎、強引に荒業で来やがった…!)
一同に広がる戸惑いと釈然としない思い。後ろの方でヒスチジンが「玄爺最強!玄爺最強!」と声を枯らしていたが一顧だにされなかった。
「賽銭入らない貧乏巫女とか最強どころか底辺だし。はい全員スキマ行きー。八雲紫の勝ちー」
「効かねーし。レミリア運命操るから効かねーし」
「効かねーとかねーし。効くし」
「意味わかんねーし。ずりーし」
最早ガキの喧嘩となった。このままでは取っ組み合いが始まるのも時間の問題と思われた。
その時である。
「まあ、そんくらいにしておけよ」
低いが、よく通る声が皆を制した。
声の主は、今まで沈黙を保っていた、一番奥に座っている男だった。あごひげを撫でながら宙に視線をさまよわせるその男は、周囲の者と比べると些かごろつきらしいふてぶてしさを備えていた。彼らのリーダー格なのだろう。
『グリチルリチン酸ジカリウム!!』
ぴたりと議論を止め、皆一斉に彼の方を向いた。「ここまで来といてフェニルアラニンじゃねーのかよ!」というヒスチジンの渾身のツッコミは、やはり一顧だにされなかった。
「ほんとにおめえら、くっだらねえ事でよくもまあそんなにピーチクパーチク喚けるもんだ」
妙に貫禄のある仕草で自分の杯に酒を注ぎながら、グリチルリチン酸ジカリウムはドスの聞いた声で他の八人を詰った。
八人は言い返すことも出来ず、所在無げに手元の杯を舐めるのみ。
グリチルリチン酸ジカリウムはゆっくりと杯を干すと、机代わりにひっくり返して置いていた本棚の上にがん、と音を立ててそれを下ろした。幾人かの肩がびくり、と震えた。
「いいか」
グリチルリチン酸ジカリウムは身を乗り出して、凄みのある目つきで一同をぐるりと見回した。
「喘息が治ったパチェが最強だ。わかったな」
『……』
一同は大いに困惑した。
グリチルリチン酸ジカリウムの張り出した喉仏と骨太な顎、分厚い唇から紡ぎ出された「パチェ」という音は、夢幻の如く空虚に響いた。あまりに現実と乖離したそれを各々の脳が処理し切るには、相応の時間が必要だったのである。
その逡巡がグリチルリチン酸ジカリウムには気に入らなかった。
「わかったな」
一音一音をゆっくりと区切って発せられた再度の確認に、皆が思考を放棄して首の上下動を行った。
ただ一人を除いては。
「いや、実際喘息治ってみないとわかんねーんじゃね?」
ヒスチジンの発した言葉が初めて市民権を得た。うつむいた七人はチラチラとグリチルリチン酸ジカリウムとヒスチジンを交互に見やる。
グリチルリチン酸ジカリウムは三白眼でぎろりとヒスチジンを睨みつけた後、――ニヤリと不敵に笑った。
「その通りだ。実は、俺に考えがある」
* * *
「たのもう」
永遠亭。
木陰と葉擦れに包まれた静謐な空間は、ここまでの道程のわずかばかりの疲労を瞬く間に和らげていく様だった。
返答を待つ間、慧音は改めて玄関を仔細に観察する。
館の大きさに比して小じんまりとした玄関だが、精緻に組まれた桧からは積もる年月のみがもたらす何とも言えぬ味が滲み出ている。それでいて訪問者を威迫するような重厚さは意図的に排除されているように見え、慧音には好もしかった。上品に歳を取った老婆のようだ、と思った。
「はい」
小さな声が戸の向こうから聞こえた。
ごとと、と戸が少し動いて、ひょこりと子兎が顔を出した。子兎は不躾に慧音をじろじろと見上げる眼に不審の色を隠そうともしなかったが、やがて慧音の頭の上辺りでぴたりと視線を止めた。一転、好奇心にくるくると輝く瞳。
慧音は余りの愛らしさにくすりと笑みをもらしつつ、しゃがみ込んで子兎に話しかける。
「こんにちは。薬師様にご用事があって来たのだけれど、永琳先生はいらっしゃるかな?」
子兎はこくりと頷くと、がた、がたた、と必死に戸を開こうとするが、戸が重いのか引き方が悪いのか、悪戦苦闘している。慧音は手を貸そうかどうか迷ったが、子兎の自主性を尊重して大人しく待つことにする。
結局、戸は開かない。わずかばかりの隙間から子兎は「ご、ごめんなさい」と言い残し、顔を引っ込めた。てててて、と廊下を走っていく音と、「れーせんさまー」と大声で呼ぶ声が奥から聞こえてきた。ますます慧音の頬の緩みは止まらない。
やがて足音は別の足音を伴って戻って来た。ぐぎぎ、等と穏やかでない音を立ててようやく戸は開いた。
「あれ、慧音さん。お待たせしちゃってすみません。…扉が歪んじゃったのかしら」
「やあ、鈴仙殿。随分ご無沙汰だったが、元気そうで何よりだ」
「あ、ありがとうございます」
慧音が微笑みかけると、鈴仙は薄く頬を染めたようだった。奥の方の廊下の角から先程の子兎がまたひょこりと顔を出しているのが見えた。くつくつと笑いながら小さく手を振ってやると、子兎は頭を引っ込めて逃げてしまった。それがまた可笑しくて慧音は破顔する。そんな慧音を見つめる鈴仙の視線には、憧憬の熱がこもっていた。「いや失礼」と言って慧音が鈴仙に向き直ると、鈴仙もまたにっこりと満面の笑みを返した。
「今日はどうされたんですか? 妹紅なら今日は来てないですよ」
「いや、今日は永琳殿に用事があって来たのだが。お手空きだろうか?」
「えええ、お加減でも悪くされました?」
心配そうな鈴仙に「いやいや」と笑って慧音は手を振る。
「具合が悪いのは私ではないんだ。少し永琳殿と相談したい事もあってね」
「そうでしたか。すぐ呼んで参りますのでお上がり下さい」
里の人間達にとっては永遠亭までの道のりはかなりの危険を伴う。慧音が里の病人のために薬を取りに来る事もままあったので、なるほどと鈴仙は合点する。
玄関から客間へと慧音を案内する間、鈴仙は慧音の一挙手一投足を注意深く観察した。折り目正しく優雅な所作は凛、とか楚々、とかいう形容がふさわしく、鈴仙は内心でほうと感嘆の吐息を漏らした。
(かっこいいなぁ…)
初めて出会った時から、長らく鈴仙にとって慧音は憧れの的であった。
もちろん輝夜や永琳の事は敬愛している。しかし、彼女達のようになりたいと願う事は無かった。無駄だとわかっていたから。
X軸に真面目度、Y軸に天才度をとって分類するならば、輝夜は不真面目系天才型、永琳は真面目系天才型であるのに対して、鈴仙は真面目系努力型である。主人達と自分とではカテゴリが異なる、と鈴仙は分析していた。
そんな彼女と同じカテゴリにおいて、理想形と思われる存在が慧音であった。「慧音さんのようになりたい」「慧音さんだったらこんな時どうするだろう」が、鈴仙の暮らしの中でふとした時に支えになる魔法の合言葉だったのである。
「そんなに見られると恥ずかしいのだが。私の様子はどこかおかしいかな?」
客間に通され、座に着いた慧音の言葉は鈴仙を赤面させたが、きょろきょろと自らの体を見回す慧音の様子は少女の面影を残す外見相応の愛らしさがあり、なおいっそう鈴仙の胸は甘くときめいた。
「いえ、慧音さんが余りに綺麗なものだから、見とれてしまって」
冗談めかして好意をほのめかせる程度には鈴仙もしたたかであったが、
「ああ、鈴仙殿もか。私もよく鏡の前で自分に見とれるくらいだ」
そう言っていたずらっぽく口角を上げる慧音にはやはり敵わず。
「そう言う鈴仙殿こそ最近随分と美しくなった。恋は女を磨くというが?」
などとやられては、真っ赤な顔を気取られぬよう「師匠を呼んできます」と退散せざるを得なかった。口元に手をやり、くつくつやりつつ鈴仙の後姿を見送る慧音の視線は、妹を見やる姉、あるいは生徒を見守る教師のそれであった。
しばしの静寂。慧音は床の間の掛け軸を見つめる。力強く豪放な筆致はそれでいて調和を乱す事無く、かなり高名な書家の手によるものと見える。記号としては判読しにくいその文字を、やや体を前傾させて読み取る。
『引きこもったっていいじゃない 宇宙人だもの かぐや』
なるほど、と慧音は深い感銘を受けた。こんなモノを書し客間に掛けるという発想自体、宇宙人の理解不能な思考回路を端的に示しており、そんな存在は確かに引きこもっていてくれた方が世の為である。この客間という空間自体が自己言及的に一つの作品として連結しているわけだ。流石に音に聞こえた永遠亭の風雅、侘び寂びたるや奥が深い。
「おまたせ」
間もなく永琳が客間に現れ慧音の前に座した。妙に澄ました鈴仙が茶托から湯飲みと菓子を二人の間に静かに下ろし、一礼した後に障子を閉めて辞した。幻想郷きっての知性派として知られる二人は、茶請けの金つばが奇数個しかない事を瞬時に見て取った。かつ、お互いに相手がそれに気付いている事にも気付いていた。しかし、それを外に表さないのが知性派の嗜みというもの。
「しばらくぶりだな、永琳殿。貴女も姫も変わりはないか?」
「こちらが蓬莱人と分かっててそういう台詞を吐くとは相変わらずね。おかげ様で全く変わりは無いわ」
「はは、他意は無い。平穏ならば何よりだ」
「その平穏を乱さないでくれる?あまりウチの弟子をからかわないでやってちょうだい」
「真面目でいい子だな。ああいう教え子を持てるというのは教育者冥利に尽きる。土産に持って帰ってもいいか?」
突然障子の向こうでぼんっ、と何かが爆発したような音がした。慧音は動じる事無く茶をすする。永琳はちらりと障子の方へ目をやった後、そんな慧音の様子を見てため息をついた。
「もう少し穏やかに人払いを頼んでほしいわ」
「多少の茶目があった方が人生は豊かになる。そうは思わないか?」
貴女の場合ただの茶目で済まないのよこのナチュラルボーンジゴロ、と永琳は思った。何となく可笑しくなり、目に笑みを含ませて慧音を見ると、慧音も似たような表情で永琳を見ている。一瞬後、同時に吹き出す。
言葉面とは裏腹に、二人の間には気心の知れたもの同士特有の和やかな空気が漂っていた。
「…で、何の用なの」
「永琳殿に頼む事と言えば、一つしかなかろう。病人がいて、薬が欲しい」
「どんな病気?」
慧音が1つ目の金つばを嚥下する間、永琳は答を待った。
「…喘息だ」
「ふうん、喘息ねえ」
永琳は興味なさそうに呟きつつ、ひょいと金つばを手に取った。どんな難病の依頼かと思ったわ、と言いたげな表情である。
「どうだ、出来そうか?」
「誰に向かって言ってるの。早く患者を連れて来なさいよ」
唇に押し当てられる永琳の指元を眺めながら、慧音はむう、と唸った。
「やはり、診察しないと薬は処方出来ないか?」
「当たり前でしょう? いくら何でも只の感冒じゃないんだから」
「ありとあらゆる薬を作る、月の天才殿でも出来ないことはあるんだな」
「安い挑発をしても無駄よ。綿密な診察に基づく完璧な治療こそが医療従事者としての私の矜持。診察無しで薬を処方するなんて考えられないわ」
涼しげな顔で続けて金つばを頬張る永琳。慧音の眉間の皺は深くなった。
「やはり、そうか。まあ、そうだろうな」
「別に、往診してあげてもいいけどね。ちょうど里で揃えたい物もあるし」
「いや、患者は里の人間ではないんだ」
ほう?という顔で先を促す永琳。
「…紅魔館に住む魔女、パチュリー・ノーレッジの喘息を治したい」
慧音は手に取った金つばをためつすがめつしながら、永琳の反応をうかがう。
「それはまた、どういった酔狂?」
永琳は片眉を持ち上げた。頬に当てられた人差し指がとんとん、とリズミカルに肌を叩いている。
「昔の教え子に会ってな。落ちこぼれのどうしようもない奴だったが、突然目にいっぱいに涙を溜めて訪ねて来た。『パッチェさんの喘息を治してあげて下さい! もう、俺、パッチェさんが可哀想で可哀想で…。先生、お願いします! 紅魔館も永遠亭もとても俺なんかが行ける場所じゃねえ。先生しか頼れないんです!』、と言うんだ。あいつもあれでなかなか可愛いところがある」
永琳はふん、と鼻を鳴らした後、さらにふん、と鼻を鳴らし、も一つおまけにふん、と鼻を鳴らした。金つばの包装紙がかさりと畳の上を滑った。
「貴女のお人好しも大概ね」
「まあな、と言いたいところだが、流石の私とてそればかりでは動かないさ」
指先をちょいと舐めた慧音は、唐突に永琳に問う。
「永琳殿は、歴史とは何であると思うか?」
「傑物の残した偉業の足跡、もしくは愚者の残した蛮行の爪痕」
前触れ無く投げかけられた質問に、顔色一つ変えず永琳は即答した。
慧音は顎を撫でながらふうむ、と頷いた。
「なるほど。それも一つの真理だな」
「不満気ね。では、正解は何かしら、ハクタクの先生?」
皿に残された最後の一つの金つばに手を伸ばす慧音を見つめる永琳の瞳が、鋭くちかりと光った。
「私は、歴史とは誰かと誰かの出会い、それが寄せ集まって出来たものだと思う」
「陳腐でセンチメンタルな答ね。…貴女らしいわ」
そう言った永琳は、しかし柔らかく笑っていた。
「新しい歴史を創りに行くのね」
「まあ、私の趣味みたいなものだ。新しい出会いのきっかけを逃す手は無い」
慧音のしなやかな指が金つばの包みをゆっくりと開ける。
「じゃあ、私も医療に携わる者として一家言あるのだけれど。病を治す為に、一番必要なものは何だと思う?」
「む。十分な静養かな」
「はずれ」
永琳は心持ち身を乗り出して、慧音の顔を覗き込むようにして言った。
「患者本人の、治りたいという意志よ」
「……」
「パチュリー・ノーレッジを永遠亭まで連れて来なさい。それが条件。彼女自身に喘息を治したいという意志があれば容易い条件ね」
動かない大図書館と称されるかの魔女の密室少女っぷりは幻想郷でも名高い。むむむ、と唸りながら慧音は金つばを二つに割り、
「なかなかどうして、難題かも知れんな」
と苦笑いしつつ、「そら半分こだ」と片方を永琳に差し出した。永琳は目を丸くして金つばと慧音を交互に見た後、笑い出した。
「私の負けだわ」
そうして永琳が受け取ろうとした金つばは、突如として闖入した黒い影に奪われた。
「むぐむぐ。これ、んまいわね」
「ちょ、姫様! どこにいたんですか何てはしたない事をそれ私の金つばしかも慧音からもらった奴ー!」
「なーに慧音と少しいい雰囲気になってるのよ。だいたい、難題を出すのは私の役目でしょ」
「はははは、輝夜殿も相変わらず元気そうだな」
仁王立ちした輝夜は唇の周りを指でぞんざいに拭うと、黒髪をしゃらりと揺らして慧音の傍にすり寄るように座った。
「また面白そうな事を始めるのね?」
「ああ。しばらく妹紅を構ってやれなくなるし、寂しい思いをさせるかも知れん。また妹紅と遊んでやってくれるか?」
「はあい」
「あまり過激な遊びは駄目だからな。仲良く頼むぞ、輝夜殿」
「はあい。でも、私の事も妹紅みたいに輝夜、って呼び捨てにしてくれなきゃヤ」
「姫様ー! キャラ違う! キャラ違ってますよ!」
仔猫のような瞳で慧音を見上げる輝夜を必死で引き剥がそうとする永琳。慧音は自分の手に残った金つばのもう半分を、さらにちぎって輝夜に与えている。「どうだ、うまいか?」「にゃんにゃん♪」「てめぇ輝夜ーっ!」
障子のわずかな隙間からは、中の様子を恨めしげに見つめる月兎の赤い瞳。その下から潜り込んだ子兎が慧音に飛びつく。「あっ! ずるい! 私も!」
阿鼻叫喚。
客間の傍を通りがかった因幡の素兎が、一瞥をくれた後、「はん」と冷笑してさっさと過ぎた。
* * *
「では、早速行って来るとするよ」
永遠亭を後にする慧音を、玄関先まで永琳と子兎が見送りに出た。客間には半死体が二つほど転がっている。片方は間も無く蘇生するだろうが、もう片方は…永遠亭の医療技術と気合で何とかなるはずだ。
「じゃあ、またな」
永琳の脚にしがみついている子兎にしゃがみ込んで挨拶をすると、恥ずかしげに小さく手を振った。慧音は満足して、永遠亭に背を向けてふわりと宙に浮かび上がった。
「すこぅしだけ、期待してるわ」
そう言った永琳に、慧音は振り返らずにひらひらと手を振って応えた。見る間に小さくなってゆく影を見送った後、軽く伸びをしてから「さて、」と永琳は踵を返した。
「蓬と黄水枝はあったかしらね」
きょとん、と足元から見上げる子兎の頭をぐりぐりと撫でてやってから、永琳は永遠亭の中へと姿を消した。
* * *
天気は良くも悪くもなかった。風はわずかで、空を緩く流れて行く雲に陽が遮られたりまた顔を出したりしている。
心地良い空の旅だった。慧音は自らの内に浮き立つような高揚と開放感をみとめる。里の穏やかな日常を愛してはいるが、たまのイベントは生活に潤いをもたらす。知らず、鼻歌など漏れる。
ほどなく、湖と紅い館が見えてきた。宵闇の中ではさぞかし映えるであろう威容も、昼の豊かな明るさの中では、どこかおもちゃのようなキッチュを呈していた。
門前に降り立つと、門の脇で腕組みをしてうつむいていた門番が顔を上げた。凛々しい顔立ちと、武術を修めた者特有の身のこなしが印象的だ。惜しむらくは、口角より伝う涎の跡。
「お休みのところ申し訳ありません。私、上白沢慧音と申す者ですが、パチュリー・ノーレッジ様に用向きがあり面会したく参りました。お取次ぎ願えますか」
美鈴は戸惑った。このように礼儀正しく訪問して来る輩の応対をした事が無かったのである。害の無さそうな様子であるが、そのように装っているだけかも知れぬ。そう思って見ればあの頭の上の不自然な形の帽子などいかにも怪しげである。爆発物や劇物の類を仕込んでいる可能性がある。
「あ、あの、どういったご用件ですか?」
美鈴の問いに、軽く思案した後慧音は「喘息の治療のご提案で参りました」と答えた。回りくどいやり方は好まなかった。
返答を聞いて美鈴は「お医者様ですか」と呟きながら慧音をしげしげと観察し、なるほど頭の上のアレは薬箱か、と納得した。実に珍妙な運搬方法ではあるが、珍妙な輩には事欠かない幻想郷の事、美鈴はあまり深くは考えなかった。
「かしこまりました。只今パチュリー様に申し伝えますね」
ぴゅいと指笛をやって門番隊の妖精を呼び寄せると、美鈴は一言二言言い含めて館の中へとやった。巨大な門の上をばたばたと飛び越えていく妖精を二人で見送る。
「…実に、門番とは難儀なものと見えますな」
おおよそ、幻想郷において門とはくぐるモノではなく飛び越えていくモノであった。ここ紅魔館しかり、また白玉楼しかり。美鈴は頭を掻きながらあはは、と苦笑するしかなかった。
ほどなく、やはり門の上より妖精は戻って来た。
「えー、パチュリー様よりの言伝を申し上げます。『別にいらない』」
「――左様か」
慧音はさしてショックを受けた様子も無い。むしろ美鈴がおろおろと慌てる。懐こい彼女は害を為す相手でないと判ればたちまち親切になるので、この礼儀正しい医者を門前払いしたくはなかったのである。
「是非も無いな」
「あうー、なんかすいませんね」
「気にしないで下さい。急に押しかけたこちらが悪い」
ぺこぺこと頭を下げる美鈴の肩に手を置いた後、慧音は少し悪戯っぽく微笑んだ。
「しからば、流儀に従うとしましょうか」
「流儀?」
慧音はおもむろに帽子を持ち上げた。すると、中からごろりと掌に丁度収まる位の物体が転げ出た。こちらに向けて差し出された妙に見覚えのある八角形のフォルムを見ながら、美鈴は呟いた。
「…はっけろ?」
お約束の極太レーザーは至近距離で放たれた。
懐かしささえ感じる怒涛の光の奔流に包まれながら、爽やかに笑う慧音の白い歯を網膜に焼き付けて美鈴の意識は途絶えた。
「ふむ、なかなか良く出来た花火だ」
大破した門をくぐり抜け、門番隊の詰め所のくずかごに「霧雨道具店特製!インスタントスパーク」の残骸を放り込みつつ、慧音は館内を目指す。
回りくどいやり方は好まなかった。
* * *
悪魔の館の巨大な玄関扉は苔むし、何十年も開いた事が無いといった風情で慧音を迎えた。実際、館の住人も来訪者ももっぱら空中より窓を使って出入りするので、正面玄関の扉が開け放たれる事は通常全く無い。
扉の横のノッカーを二度、三度と叩く。錆び付いた金具がきいきいと苦しげに鳴いた。
やがて、酷く軋んだ音を立てながら、ゆっくりと扉が開き始めた。玄関ホールはかなり暗く、日光が白く縦に切り裂いた部分の他は全く様子がうかがえない。白一文字を辿って行くと、ただホールの奥行きと天井高が途方も無いものである事だけがわかった。
慧音が館内へと足を踏み入れると、今度は背後で扉が閉まり始めた。靴越しの柔らかな感触は上質な絨毯によるもの。強烈な明暗のコントラストに色彩が判別し難かったが、真紅の絨毯が敷かれていたのであった。
扉が完全に閉まると、巨大な玄関ホールは再びすっかり暗くなった。壁に等間隔に並んだ蝋燭の明かりは見えるのだが、何しろ空間が巨大すぎてどうにも心許無かった。極端な明暗の差に未だ慣れない目をこらすと、正面奥の螺旋階段の前に人影があった。
「ごめんください」
「紅魔館へようこそ」
咲夜は非常に剣呑な表情で丁寧に腰を折った。もとより眼光は鋭い方だが、殊更に顔をしかめているのは眩しかった為であると思いたい。
「突然の訪問と貴館の門番殿へのご無礼についてはお詫び申し上げよう」
「それで? パチュリー様は面会をお断りしたはずよ」
さてどうしたものか、と慧音は咲夜の手に一瞬の内に現れた数本のナイフを見ながら考えた。知性派ではあるが同時に直情型でもある慧音は、特段プランを準備しているわけではなかった。あまり事を荒立てても今後に差し障りが出る、一度退散しようか、と門番を吹っ飛ばしておきながら自重案を検討する慧音。
「咲夜」
そんな折に館の当主が目をこすりながら階段を下りて来たのは結果的には慧音にとって僥倖であった。
「お嬢様」
レミリアは一段一段ゆっくりと階段を下り、咲夜に並んだ。まだ日も高く、かなり早く起き出してきた主人を咲夜はうやうやしく迎えた。
「おはようございます」
「おはよう。そこの半獣は私が客として迎えるよう許可するわ。ようこそ、先生」
「よろしいのですか?」
「私が許したと言うならパチェも無下には拒めまいよ」
「まあ、お嬢様がそうおっしゃるのならば」
咲夜がナイフを引っ込めるのを見ながら、慧音は「かたじけない」と頭を下げた。レミリアは「いいっていいって」と手をひらひらさせた後、うーんと背伸びをした。
「面白い事になりそうだからね」
「何かご覧になったのですか?」
「うんにゃ。ただの勘」
咲夜の問いは無論、運命を、との意である。レミリアは指をぱきぱきと鳴らせた後、ニヤリと慧音に笑いかけた。
「それともお前が今ここで私を楽しませてくれるのかい?」
「私がお前達に敵わない事は二回の逢瀬で証明済みだろう」
穏やかに答える慧音を見て、レミリアは面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「それは弾幕ごっこの話だろう? 私は純粋なお前の強さに興味があるんだが」
「それならばなおさら私ごときがお前に敵うわけはなかろうに」
「ではどうやって里を守る? まさか、私が結んだ契約にあぐらをかいて安穏としているわけではあるまいな?」
「契約を頼みにしているつもりは無い。お前を縛っているのは契約ではなく、吸血鬼としての誇りこそがお前を律しているのだろう? 私が信頼しているのは、その誇りだ」
「優等生的な答だな。つまらん。六十点」
「では、こうしよう」
慧音が帽子を脱いだので咲夜は反射的に身構えたが、慧音はそのまま帽子を小脇に抱えると、深々と頭を下げた。
「どうか、今後も里を襲わないで頂きたい。改めて、私よりお願いする」
それから、頭を上げた慧音が帽子を再びのせつつ、妙にしれっと「今のは何点だ?」と尋ねたのでレミリアは吹き出した。
「パチェとの用事が済んだら一緒に食事でもしよう。いい葡萄酒がある」
「悪くない提案だな。検討しておこう」
「ふん、可愛げの無い奴」
咲夜行くわよ、とレミリアはスカートの裾をふわりと翻して奥の方へと歩き出した。咲夜がぱちりと指を鳴らすとすぐさま妖精メイドが現れた。咲夜は慧音に軽く会釈をしてからレミリアを追って消えた。
図書館までご案内いたします、と言う妖精メイドに従って、背後の靴音の残響を聞きながら慧音も玄関ホールを後にした。
* * *
「パチュリー様。お客様ですよ」
意外にも、パチュリーの機嫌は悪くはなかった。が、決して良くもなかった。椅子に深く身を沈めて黙々と本を読んでいた。マホガニー製の大きなテーブルには書物が山積みになっており、その隙間から見える彼女の顔を観察する限り、そもそも書物の外の世界に対する何の感情も見出せなかった。パチュリーは読書を中断する事無く、頁をめくりながら「んー」と答えた。
取り次いでくれた小悪魔は「いつもこんな感じですから」と苦笑しつつ、パチュリーの正面の椅子を慧音に勧めた。
「今お飲み物をお持ちいたしますね」
「ああ、お構いなくどうぞ」
歩み去る小悪魔の背中を見送ってから、慧音はパチュリーに話しかけた。
「はじめまして、七曜の魔女殿。上白沢慧音と申します」
「…パチュリー・ノーレッジ。貴女の名前は知ってたわ」
相変わらず本から視線を上げぬまま、パチュリーはぼそぼそとした早口で答えた。ひとまず、普通に意思の疎通が図れる事に安堵する。
「私の名前をご存知でしたか」
「人里で教師をしているのでしょう。貴女の知識には興味があるわ」
「私の知識など、パチュリー殿とはとても比較になりませんよ」
「殿って呼ばれるのは好かないわ。パチュリーでいい」
「わかりました」
小悪魔が紅茶を運んで来ると、丁度本を読み切ったのか、パチュリーは本をぱたんと閉じて慧音から見て左の山の上に置いた。慧音が小悪魔に礼を言ってからカップに口を付けると、パチュリーもソーサーごとカップを持ち上げた。猫舌らしくしきりにふうふうやっている。
「それにしても膨大な量の本ですな」
奥に広がる書架の森を見ながら慧音は呟いた。まず一つの棚の高さが尋常でなく、段にしてゆうに二十段はある。それが横に数十列。奥行きは、遥か向こうへ霞んで端が全く見えない。整然と本達が並ぶ空間は薄暗く、静けさが質量となって圧しかかって来るかと錯覚するほどだが、自身もまたこよなく読書を愛する慧音にとっては、どちらかと言えば心の浮き立つような光景であった。そんな慧音を目を細めて観察しつつ、パチュリーは紅茶を一口飲み込んだ。
「この大図書館は礼儀正しくて本を愛する人物なら誰でも歓迎するわ」
そう言ってパチュリーは目をしばたいた。噂に聞いていたよりは大分話の出来る人物であるようだ、と慧音は思った。
「幻想郷きっての博識と言葉を交わす事もまた、この図書館の代え難い楽しみであると言えましょう。今後もまた、こうしてお邪魔しても?」
「…落ち着いて知的な会話を楽しめる相手が極端に少ないのよ。――貴女なら、合格ね」
再び目をしばたくパチュリー。それが、彼女なりに笑いかけているつもりなのだと慧音が気付くまでには、そう時間はかからなかった。
「竹林にも月の頭脳と呼ばれる天才薬師がいますよ。機会があれば、是非お話してみるといい」
慧音がそう水を向けると、興味無さそうにそうね、とだけパチュリーは答えた。まあそう上手く事が運ぶはずも無い。
「さて、私がこうして訪ねて参った目的ですが、先程お聞き及びかとは思いますが」
「喘息の事? それなら必要無いわ」
すぅ、と水が凍るようにパチュリーの表情が能面の如く固まった。慧音は何故そこまで依怙地になるのか訝しく思った。
「どうして必要無いと?」
「喘息といってもそんなに重篤なわけでもないし、本を読んで暮らすのには支障が無いわ」
本さえ読めればそれで生活の全ては事足りる、と偽り無く心から思っている事は、パチュリーのへの字口から容易に読み取れた。
「まあ、確かに貴女にとっては治療は必ずしも必要では無いのかも知れない。しかし、治療をどうしても拒む理由も無いでしょう? 喘息が治ったら読書が出来なくなるわけでもないのだし」
「そうよ。そして、どちらでもいいのならば、何もしないでおくわ。そんな暇があれば、本を一冊余分に読めるもの」
些か得意気にすら感じられる調子で魔女がそう言うものだから、慧音は嘆息した。難題だとは思っていたが、どうやら相当に骨を折らねばならぬようだ。
「どうしてそこまで本を読む事に執着するのです? 知識を得たいが為であれば、本の外で得られるものもまたあるかと思うのですが」
「現実に起こる事は全て書に記す事が出来るわ。そして、現実に起こらない事も書に記す事が出来る。本の内包する世界は現実を完全に凌駕するのだから、本には全ての知が宿るのよ」
「しかし、その本が存在するのはこの現実であり、そしてその本を執筆した誰かが存在するからです。その誰かの創作のきっかけは、現実に起きた何がしかの事象がもたらした心の動きかも知れないでしょう」
「じゃあ、貴女の言う現実というものが、一冊の本に記されたものではないとどうして言い切れるのかしら? 今、こうしておしゃべりをしている私達は、もしかしたら誰かの手による創作物の一部なのかも知れないわ」
「例えそうだとして、この現実の価値が減ずるものとは一向に思わないのです。私達が魅力的に踊って、その創作物が素晴らしい物になるのならば、それを読んだメタパチュリーは面白いと思ってくれるでしょう?」
そう言って慧音が笑いかけると、パチュリーも目をしばたいた。
「自身が創作物の一部であるならば、なおさら創作物内の創作物に没入するのは滑稽だと思います。階層を一つ下げた所に引きこもってどうするのです? 貴女の理論でいくならば、私達のいるこの世界にこそ、全ての知が宿っているのですから」
「負けたわ。私の失策ね」
パチュリーが紅茶を飲み干すのに合わせて、慧音もぬるくなった紅茶を流し込んだ。
「どうですか。喘息が治れば新しい世界がきっと見えると思うのですが」
「…やっぱり、遠慮しておくわ。そもそも生まれつきの体質の弱さに起因する喘息だから、治らないと思うし。もう百年以上も付き合ってきた相手だから気心も知れてるしね。お別れするのが少し寂しいのかも知れないわ」
パチュリーの長い睫毛を眺めながら、意外と本音はこっちにあるのではないか、と慧音は思った。
「わかりました。無理強いする事でもないですから、今日のところは断念します」
「今日のところは、って」
初めて声を上げてパチュリーが笑ったが、間もなく笑いは咳混じりとなった。慌てて慧音は席を立って、咳が収まるまでパチュリーの背中を撫でた。
「…どうして、私の喘息を治そうだなんて思ったの」
目尻に涙を浮かべたまま苦しげに尋ねるパチュリーに、慧音は答えた。
「歴史を創る為に。私も、新しい世界が生まれるところを見たいのです」
慧音の微笑みは、『新しい世界』という言葉の響きと相まって、パチュリーには酷く眩しいものに映った。
「本を一冊、お借りしてもよろしいか?」
「もちろん構わないわ。場所は、小悪魔に聞いて」
答えて、パチュリーは読書に戻る。黙々と頁を繰っていると、やがて慧音は一冊の本を抱えて戻って来た。そのまま借りて帰るのかと思ったが、慧音は再び椅子を引いてパチュリーの正面に腰掛け、本を読み始めた。普段ならば気にも留めずに自分の読書に夢中になれるのだが、今日ばかりは慧音の本の内容が気になって仕方が無い。
「…何の本を読んでいるの」
「――『頑固な相手を落とすネゴシエーション・テクニック ~実践編~』」
パチュリーは吹き出した。本の山の向こうで慧音も笑っていた。
ぱたん、と本を閉じる音にパチュリーが目を上げると、慧音が伸びをしているところであった。
「この図書館は時間の感覚が無くなってまずいな。随分長居をしてしまった」
「帰るのなら、本はそのままにしておいて。後で私の分とまとめて小悪魔が片付けるから」
「そうですか。では、お言葉に甘えさせてもらおう」
立ち上がった慧音は、軽く二、三度腰を拳でとんとんと叩いてから、パチュリーに向かってニヤリと笑った。
「また、来ます」
「待ってるわ」
パチュリーも魔女らしいじとりとした笑いを浮かべて答えた。
「ああ、それから」
見送りに出て来た小悪魔に挨拶をして数歩歩きかけた慧音は、くるりと振り返って右手の人差し指を立てた。
「新しい世界を創るとは、こういう事さ」
慧音の指先から、しゅごっ、と音を立てて炎が噴き出た。
あっけにとられるパチュリーを尻目に、くるりと身を翻して慧音は悠々と扉を閉めて図書館から去った。
机の上に残された書物は、『頑固な相手を落とすネゴシエーション・テクニック ~実践編~』ではなく、『初級属性魔法入門』であった。
* * *
それから毎日慧音は図書館を訪れた。門は顔パスとなり、爽やかに美鈴と挨拶を交わして図書館へと向かう慧音の姿は新しい紅魔館の風物詩となった。時にはレミリアや咲夜と共にテラスでお茶をしている姿も見られたし、フランドールと手を繋いで中庭を散歩しているのを目撃した、との話もあった。メイド達の間ではけーね先生ファンクラブが結成され、メイドの総数の約十一割が加入している模様である。十割をオーバーしている分については、どうやら紅魔館周辺の妖精がメイドの中に紛れ込んで加入しているらしかった。
パチュリーは、よく笑うようになった。これは、紅魔館の誰もが認める事実である。そして、それが慧音の影響によるものだと信じない者は一人も無かった。
そんなある日、慧音がいつものように図書館へやって来ると、常に明るい小悪魔が沈んだ顔で出迎えた。聞くと、パチュリーが喘息の症状が酷く寝込んでいるのだと言う。
「お見舞いしたいのだが、差し支え無いだろうか?」
「いえ、パチュリー様も喜ぶと思います。是非お顔を見せてあげてください」
小悪魔と共にパチュリーの自室へと赴く。扉の前までやって来ると、中から痛々しい咳が聞こえて来た。
「パチュリー様、慧音先生が来てくれましたよ。入りますね」
扉越しに小悪魔が呼びかけると、数回の咳払いの後、「どうぞ」と細い声が答えた。
室内に入ると、まず空気がしっとりと潤っているのを感じた。道具なり魔法なりで加湿しているのだろう。大きなベッドに半ば埋もれるようにしてパチュリーは伏せっており、呆れた事に枕の横には数冊の分厚い本が転がっていた。
「調子はどうだ?」
「…すこぶる悪いわ」
「まあ、そうだろうな」
慧音がベッドの脇まで行くと、パチュリーはベッドの中から手を出して慧音の方へ差し出した。
「…メロン」
「メロン?」
「お見舞い。まさか手ぶらで来たんじゃないでしょう?」
「パチュリーが具合が悪いというのを、ついさっきそこで知ったばかりだ」
慧音は苦笑しながら帽子を脱いだ。すると、帽子の中からマスクメロンが転がり出て来た。
「あんのかよ! …げほっ、げほっ」
「私の帽子の中は異次元だからな。咳き込みながらのツッコミありがとう」
慧音はメロンを小悪魔に手渡し、剥いて来るように頼んだ。
再び咳き込み始めたパチュリーの背中をさすり続けると、しばらくしてようやく咳は収まった。咳というものも随分と体力を使うようで、パチュリーの顔には朱が差し、額には汗が浮いていた。サイドテーブルの洗面器のタオルを絞り、額をぬぐってやるとパチュリーはふう、と長く息をついた。
「…やはり、喘息を治さないか?」
「…こんな時に言うのは、かなり卑怯な気がするけど」
「こんな時だから言うんだろう。隙あらばつけ込むのみ」
「汚いわさすが教師きたない…けほ」
「…こっちが辛くて見てられん。いらぬ苦労をすることも無いだろう?」
「……」
慧音が顔にかかった髪の毛を手の甲でそっと除けてやると、パチュリーはぽつりと呟いた。
「怖いの」
「怖い? 医者が怖いのか?」
パチュリーはゆっくりとかぶりを振った。
「喘息が治ったら、私は私でいられないかも知れない」
「…どうしてそう思う?」
「ずーっと本を読んでいると、本の世界と現実の区別が段々つかなくなって来るの。自分自身の境目も曖昧になって来て、自分が誰かわからなくなって」
「まさか。そんな事があるはずがない。本の読み過ぎだな」
慧音のくだらない冗談に、パチュリーは少し笑った。
「そんな時に喘息の発作が起きると、苦しいんだけど、すごく、生きてる、って感じがするの。ああ、私はやっぱり私だったんだなあ、って」
「わからんでもないが、多分、喘息を治して、読書の合間に散歩に出たりする方がよっぽど生きてる、って感じがすると思うが」
「確かにそうなんでしょうね。でも、今の私にとって、喘息はアイデンティティの一部になってしまっているから、失うのが怖いんだと思う」
「……」
「慧音、貴女、何度か『新しい世界』って言葉を使った。きっと、喘息が治ったら、新しい世界が私を待っているんだと思う。そう思うと、わくわくするわ。でも、新しい世界にいる新しい私は、今の私と違う私。今の私は、どこへ消えてしまうのかしら」
「パチュリーは頭が良過ぎて馬鹿なんだなあ」
慧音は声を上げて笑った。
「今ここにいるパチュリーは、どこにも消えてしまったりはしないよ」
「…どうして、そう言い切れるの」
「私が、歴史を司るハクタクの獣人だからさ。パチュリーが今この瞬間まで紡いで来た歴史は、この私が保証する」
パチュリーは目を見開いてじっと慧音を見つめた。
「そして、これから紡いで行く歴史も、私が保証し続けてあげよう」
どれ程の恐怖をパチュリーが抱いていたのかも、またその言葉がどれ程の救いをパチュリーに与えたのかも、慧音に推し量ることは出来なかったが、ただ、見開いたパチュリーの目から一粒、二粒とこぼれる大粒の涙を、繰り返し繰り返し慧音はぬぐってやったのであった。
それから三日後、慧音とパチュリーは連れ立って紅魔館を発った。もちろん、行き先は竹林の永遠亭である。
レミリアは、テラスの日傘の下で咲夜の淹れた紅茶を嗜みながらそれを見送った。
「ご親友、すっかり取られてしまいましたわねえ」
からかうように言う咲夜に、レミリアは笑って答えた。
「自分に与えられない物があるのならば、誰かに頼んだって与えてあげたいじゃないか。親友なんだから」
「流石、お嬢様は器が大きいですわ。では、ご自身で与えられる物であれば与えて下さるわけですね」
そう言って、咲夜はいつの間にか手に持っていた、ふりふりのフリルたっぷりな少女趣味満載のピンクのドレスをレミリアへと差し出した。首から下げた一眼レフのレンズが日光を反射してぎらりと光った。
レミリアは呆れて言った。
「お前は親友じゃないだろう」
* * *
相変わらず建て付けの悪い永遠亭の玄関をがたぴしとくぐると、永琳は一言「遅かったわね」と言った。
「しかし、私の勝ちに変わりはない。こちらが、大図書館の賢者にして七曜を操る魔女、パチュリー・ノーレッジだ」
慧音の傍らでパチュリーがぺこり、と頭を下げた。手には、やはり本を抱えていた。
「ここで薬師をやっている八意永琳よ。貴女とは、また後で色んな話をしてみたいわね。ささ、上がって」
早速パチュリーは診察室に通された。
慧音が外で待つ事おおよそ四半刻、再び扉が開いて二人が現れた。
「今から診察の結果を元に薬の調合をするわ。夜には出来るから、それまで適当にくつろいでてくれるかしら」
そう言うと、パチュリーを残して永琳は診察室の中へ戻って行った。
「はい、じゃあお客様用のお部屋へごあんな~い」
慧音の横で待合用の長椅子にちょこんと座っていたてゐは、ぴょんと飛び降りると先に立って廊下を歩き出した。
パチュリーは純和風の建築がもの珍しい様で、しきりにきょろきょろと周りを見回しながら歩いている。
「しかし、この期に及んでまだ本を手放さないとは見上げた根性だ。何の本を持って来たんだ?」
「『古事記』よ。少し、古代の日本の文化について勉強しようかと思って」
「げっ!!」
前を行くてゐが凄い勢いで振り返った。パチュリーはまだその手の中の本を読み込んでいないらしく、何故てゐが振り返ったのかわからずにきょとんとしている。一人大笑いしている慧音の脛をてゐが思い切り蹴飛ばした。
部屋は入院患者の寝室を兼ねているようで、質素だが清潔感があった。入って来た廊下の反対側が庭に面しており、障子を開け放つと爽やかな風が室内に入って来た。慧音とパチュリーは庭で遊ぶ小兎達を眺めながら、とりとめもない話をあれやこれやした。鈴仙がやって来たり、輝夜がやって来たり、わいわいしている間にすぐに陽は落ちた。
「目が悪くなるぞ」
燭台に灯を入れながら、慧音は柱に寄り掛かって本を読んでいるパチュリーに声をかけた。
「そうしたらそれもここで治してもらうわ」
「お生憎様。レーシック手術は現在の幻想郷の技術レベルじゃ機材が足りなくて出来ないのよ」
そう言いながら永琳が部屋へ入って来た。左手に持った小袋を掲げて振ってみせる。パチュリーは頷いて本を閉じると静かに傍らに置いた。
「薬が完成したのか」
「ええ。ただ、服用するとかなり眠くなる薬だから、寝具を準備してくれるかしら」
慧音は襖を開いて、布団を取り出すと部屋の中心に敷いた。つい最近干されたらしく、微かに太陽の香りがした。
「ベッド以外で寝るのって初めてだわ」
布団の上に座ったパチュリーはどこか落ち着かない様子でぱたぱたと掛け布団を叩いた。
薬は粉状だったので、慧音は水差しから湯呑みに水を注いでパチュリーに手渡した。永琳は二人の様を目を細めて窺っていたが、「ごゆっくり」と言い残して立ち去っていった。
「どうだ、怖いか?」
慧音が尋ねると、やや逡巡した後パチュリーは「怖くない」と答えた。すっかり外は真っ暗になり、ひいやりとした夜気が畳に這い登ってきたので、月は綺麗だったが障子を閉めた。
暫しの沈黙。パチュリーは膝の上に置かれた薬の小包をじっと見つめているようであり、慧音はそんなパチュリーの瞳に映った蝋燭の灯が、幽かに揺れるのをやはりじっと見ていた。
やがて、おもむろにパチュリーは薬を取り上げると、「飲むわ」と言った。慧音は頷いた。
「きっと良くなる。永琳の腕は確かだ」
パチュリーは粉薬を口に流し込み、酷く顔を顰めた後、湯呑みの水を一気に飲み干した。細い喉が数度、動くのを慧音は見守った。
「…不味い」
「良薬口に苦し、だな」
布団に潜り込んだパチュリーの不平に笑いながら、慧音は首元までかかるよう掛け布団を整えてやった。パチュリーは顎を少し掛け布団に擦り付ける様にしてから、静かに目を閉じた。
「眠くなって来たわ」
「効き目が早いな」
「…慧音、やっぱり少し怖いかも」
あまりに急激に眠気が押し寄せて意識が朦朧としてきたので、パチュリーは急に不安を覚えた。意識と共に自我も渦を巻いてどこか遠くへと吸い込まれてしまう、そんな錯覚に動悸がした。――怖い、怖い!
ふいに、右手に暖かい感触を感じた。ぎゅっと、手を握り締めてくる、暖かく、滑らかな手。慧音の手。パチュリーの恐怖はたちまち溶け去った。ああ、あったかいなあ。慧音、慧音…。
パチュリーが安らかな寝息を立て始めても、慧音はその手を握り締めたまま、動こうとはしなかった。
それから、パチュリーは丸二日間眠り続けた。
* * *
夢うつつ、一瞬だけ意識が覚醒しかけた。
どれくらい眠ったのだろう?
ふと気付けば、右手のぬくもりは変わらずに私を抱き締めていた。
安心して、再び眠りの世界へと戻って行ける。
私は漂う意識を手放した。
* * *
小鳥のさえずりが聞こえる。ゆっくりと目蓋を持ち上げると妙に部屋が明るく不思議に思ったが、柔らかな光を通す障子が目に入って思い出した。ここは永遠亭だ。
傍に慧音はいなかった。しかし、まだ右手にはそのぬくもりが残っているような気がした。
妙に思考が明晰になっているのを感じる。低血圧なパチュリーにとって、起き抜けに意識がこれだけクリアだった事はかつて無かった。
上体を起こしてみる。体が異様に軽い。それに、気分が高揚しているのを感じる。
唐突に理解が湧き上がった。
世界は、新しくなったのだ。
布団を跳ね除けて立ち上がると、障子を開けた。爽やかな朝の空気を胸いっぱいに吸い込む。無論、咳は出ない。二度、三度と肺全体で新鮮な酸素を堪能する。こんなに空気が美味しいものだなんて知らなかった!
「お、起きたのか。もうすぐ目が覚めそうだったから白湯を持ってきたのだが――」
「慧音っ!!」
振り返ったパチュリーは軽やかに畳を蹴ると、慧音に飛びついた。派手な音を立てて盆と茶碗がひっくり返った。
「おいおい…その様子だとすっかり良くなったみたいだな」
「うんっ! 治った! 治ったのよっ!!」
パチュリーは慧音の手を取るとぶんぶんと上下に振り回した。そして、そのまま手を引いて部屋を出ると、廊下を走り出した。
「あははっ! あはははっ!!」
「お、おい、ちょっと待て」
廊下を爆走する二人。朝っぱらから何事かとほうぼうから兎達が顔を出す。
「あれっ、慧音さんにパチュリーさん、お目覚めになったんですねぶべらっ」
鈴仙らしき物体を跳ね飛ばしたような気がするが、それどころではない。
「こらパチュリー、止まれっ」
「あはははははっ!!」
玄関に辿り着いたパチュリーは、あれだけ重かったはずの玄関の戸を慧音と繋いでいない左手のみですぱーんと開いた。そして外に飛び出すと、慧音の両手を取ってくるくると回り始めた。
「慧音っ! 凄いわ、治ったわ! 新しい世界って、こういう事なのね!!」
この密室少女は、こんなにも朗らかに笑う事が出来たのか。鮮やかな驚きに慧音の胸も弾んだ。
「…ははっ、ははははっ!」
「あははははっ! あはははははははっ!!」
二人は何度も何度もぐるぐると回った。どんどんスピードを上げて。
「あはははははははははははっ!!」
「ははははははははははははっ!!」
やがて、慧音の足が地面から浮き始めた。
「あははははははははははははははははっ!!!」
「はははっ…ははっ…」
今や完全に慧音の体は地面と平行となり、ごうごうと風を切りながら高速回転している。
「ち ょ っ … パ ッ チ ェ さ ん … ? ス ト ッ プ … !」
「あははははははははははははははははははははははははははははははははははははは」
ついに手がすっぽ抜け、慧音の体は永遠亭の玄関を突き破って廊下を疾走し、永遠亭の最深部、輝夜の寝室に突き刺さった。
「いいいいいいいいいやっっっっっっほおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉううぅぅ!!!」
クラウチングスタートから素晴らしい加速を見せたパチュリーは、百メートル八秒台の俊足で竹林の中をいずこかへと駆け抜けていった。
「ちょっと慧音ったら、朝からなんて情熱的なアプローチなの!」
「……ボケはいいから、抜いてくれないか」
布団から半身を起こして上体をくねらせる輝夜の横で、慧音は望月をあしらった衝立の、丁度月のど真ん中に頭から刺さっていた。
「ぬ、抜いてくれないか、だなんて! かぐや、は、恥ずかしいっ」
「…もういい、お前には頼まん」
衝立に刺さったまま腰のバネで立ち上がると、衝立ごと慧音はどすどすと歩き始めた。
「永琳~! 永琳はいねぇが~っ!!」
「お、鬼じゃ! 鬼が来なすった!!」
逃げ惑う兎達。衝立に引っかかり次々と薙ぎ倒される襖、障子。
「永琳の野郎ならあそこにいますぜ」
研究室でうたた寝していた永琳はものの五秒でてゐに売られた。慧音は研究室の扉を蹴破った。
「永琳! 貴様ぁっ! パチュリーに何の薬を飲ませやがった!!」
「んひっ! 何!? 何なの!?」
幸せなまどろみから一転、破壊音と共に現れた奇怪な風体の半獣。永琳はパニックに陥った。
「明らかに普通の薬じゃねーだろうが! 副作用ってレベルじゃねぇぞ!!」
「はいぃっ! すんません! 何かよくわかんないけどすんません!!」
一同ようやく落ち着き、情報を整理する。
「おかしいわね、そんなに変な副作用が出るはずは無いんだけど…」
「しかし実際問題、パチュリーの様子は尋常では無かったぞ」
「うーん。まあ喘息の主な原因の一つが虚弱体質で、発作は心因性の部分も見られたから、滋養強壮成分と抗鬱成分は確かに加えたんだけど」
「明らかにそれが原因だろ…」
皆に睨まれて、永琳は冷や汗をかいた。
「で、でもそんなに強力な効き目が出るようなものではないのよね。どちらかというと、自己暗示じゃないかしら」
「自己暗示?」
「ええ。生まれて初めての爽快な朝を迎えて、強烈なインスピレーションを感じたとしても不思議ではないわ。例えば、自分が生まれ変わったとか、世界が新しくなったとか」
「……」
今度は慧音が内心冷や汗をかく番であった。
「し、しかし、自己暗示とやらであそこまでの変化が生じるか? 間違いなく身体能力そのものが強化されていたぞ?」
「ここは幻想郷で、妖怪は観念的な存在よ。彼女が絶対的な全能感を確信していたとするなら、まさしく彼女は全能な存在たり得るという事」
「マジか…」
「どうするよ…」
一同は頭を抱えた。最早事態は手に負えないものとなったようだ。
「誰だよ、パチュリーの喘息治そうとか言い出した奴…」
「わ、私じゃないぞ! 私の教え子だぞ!」
「あっ、今の発言教師としてサイテー!」
阿鼻叫喚。
一同を見回した因幡の素兎が、「はぁ」と嘆息した。
* * *
永遠亭よりスタートしたパチュリーは、42.195kmを約一時間で走破して紅魔館の門前へと突進した。
砂埃を巻き上げて超高速で近付いて来る不審な存在にぴりぴりと気を張り詰めていた美鈴は、それが目視可能な距離まで到達したところ、自分とこの引きこもり魔女だと判明した為、驚愕の余り目が飛び出した。慌てて眼球を拾いつつ、伝令を飛ばす。とりあえず、あのパッチェさんはやべえ。
「どけえええええええぇぇぇぇちゅうごくううううううううううぅぅぅぅぅ!!」
「中国じゃねえええええええええええええええええええええぇぇぇぇぇぇぇ!!」
大地を揺るがす程の衝撃音が轟いた。紅魔館の窓だの什器だのの硝子は激震に残らず砕けた。
美鈴は全身全霊をかけてパチュリーの突進を食い止め切った。何だ、これに比べればマスタースパークなんて屁でもなかったな…、と美鈴は遠のきかける意識の中で思った。
「どういうつもり? 私を通さないだなんて」
「貴女は私の知っているパチュリー様じゃありません。お通しする事は出来ません」
「ならば押し通るまで」
パチュリーの繰り出した鋭い貫手をとっさの反応でいなす美鈴。その勢いを利用して上段に回し蹴りを放つ。パチュリーはバック転してこれをかわした。パチュリーの足が地面に到達するのを見計らって美鈴は足払いをかけるが、パチュリーは空中で開脚し、払いに来た美鈴の右足を両手で掴んだ。
――投げが来る!
反射的に受身の態勢をとる美鈴をあざ笑うかのように、パチュリーは美鈴の足を突き放すと、そのまま前方へ宙返りして美鈴の頭頂部へ踵を落とした。
「…かはっ!」
かろうじて両手を交差して頭上で踵を受けたもののその威力は凄まじく、大きく体勢を崩された美鈴。その目には、自らの腹部に叩き込まれる寸前のパチュリーの掌底が映った。
気を練り込んだ打撃特有の、金属を打ち合わせたような硬質な衝撃音が響き、美鈴は門に叩きつけられた。
「ぐ… つ、強い…」
信じられない、という目で見上げる美鈴。服の埃を落としているパチュリーは涼しげな顔で、汗一つかいていなかった。
「以前から格闘技術に関する造詣はあったのよ。実践出来る肉体が無かっただけ」
「…無念」
弾幕ごっこで敗れる事はあっても、近接戦闘では誰にも引けを取らないとの自負があった美鈴に、この敗戦は堪えた。まして、相手はあの紫もやし。唇を噛み締めたまま、美鈴は気絶した。
門を弾き飛ばし、扉を叩き壊してパチュリーは玄関ホールに至った。
「おかえりなさいませ」
澄ました笑顔と共に出迎えたメイド長の手には、ずらりと並んだナイフが光っていた。
「貴女も私の邪魔をするの」
「さあどうでしょう。これからパチュリー様がなさるおつもりの事次第ですわ」
パチュリーはいかにも邪悪な魔女、といった感じの高笑いを響かせた。
「私はね、新世界の神になるの」
「神」
咲夜は片眉を吊り上げた。
「今の私には自らの知識を全て現実のものにするだけの力がある。この世の全てを知る事が出来れば、即ち私は全知全能の神となるのよ。まずは手始めに図書館の結界を敷き直して、幻想郷の外の世界も含めこの世に存在する全ての書物を集めるわ」
パチュリーの言葉に、咲夜は無表情のまま小首を傾げた。
「これ以上図書館が広くなったら困りますわ。それに、ここは悪魔の館」
すう、と咲夜は両手を胸の前で交差させる。
「神はお呼びじゃありませんわ!」
一瞬にして数十本のナイフがパチュリーに向かって殺到した。パチュリーは不敵な笑みを浮かべたまま、目にも止まらぬ速さで両手を動かす。全てのナイフは標的を傷つける事無く、そして床に落ちる事も無く、パチュリーの両手の指と指の間に収まった。咲夜は数度まばたきをした。
「奇術の本も読んだ事があるのよ」
パチュリーがそう言って手首をくるりと返すと、ナイフはタロットカードに姿を変えた。そして、再びスナップを効かせて手首を返すと、数十枚のカードは回転しながら、咲夜目がけて唸りを上げて空気を切り裂いた。すかさず咲夜もナイフで応戦し、空中でカードを叩き落す。パチュリーも咲夜も次々とどこからかカードとナイフを取り出しては投擲し、しばらくは互角の攻防が続いた。しかし、曲線軌道を描くカードはやがて一枚、二枚と弾幕の嵐を越えて咲夜の元へ到達し始めた。サイドステップで回避しながらの迎撃を余儀無くされた咲夜は、次第に防戦一方となった。
(まずいわね…! こんな事なら最初から時間を停めて一気に片を付けるべきだったわ…!)
滴り始めた汗を拭く余裕すら無い今の咲夜には、なおさら時間を停める大技など望めるはずも無かった。
「そろそろマジックショーにも飽きたわ」
一瞬の空白の後、数百枚ものカードが放たれた。咲夜は敗北を覚悟した。
「スピア・ザ・グングニル!!」「レーヴァテイン!!」
突如空間を閃光が疾り抜け、大爆発が巨大な玄関ホールを揺るがした。翼を広げて降り立ったのは、もちろん吸血鬼の姉妹である。
「咲夜、ご苦労様」
フランドールに労われた咲夜は微笑み、目礼してから床にへたりこんだ。
「さあてパチェ。おしおきの時間といこうじゃないか。私と可愛い妹の安眠を妨害した罪は重いわ」
桁外れの破壊力を持つ姉妹の攻撃を受けてなおけろりとしているパチュリーは、レミリアの言葉に笑った。
「蝙蝠が麒麟に噛み付く事をおしおきとは言わないのよ」
「ああ、そうかい。でも私はキリンさんよりゾウさんの方が好きなのさ」
「それは残念ね。魔女には毒リンゴがつきものなの。象は毒リンゴを食べて死ぬものと相場は決まっているのよ」
「もう、さようなら、サンタマリア、ってわけね!」
レミリアが巨大な赤色弾を高速で連射すると同時に、フランドールが展開する魔力障壁がパチュリーの逃げ場をふさぐ。
「素敵よフラン!」
「ダメ、お姉様! 避けて!」
「――プリンセスウンディネ!」
パチュリーの掌から迸る激流は容易くレミリアの猛攻を押し流し、避けた姉妹の遥か後方の石壁に巨大な穴を穿った。
「ようやくお得意の魔法のお出ましか。そろそろネタ切れってわけ?」
「前菜が終わってメインディッシュに入ったところよ。魔力も以前とは段違いなんだから。例えば貴女達の弱点の日属性、ロイヤルフレアだってこの通り」
パチュリーが右手を広げると、五本の指それぞれに眩い光が灯った。
「指一本につき一発、計五発のロイヤルフレアを同時に放つ。名付けて五指日炎弾(フィンガー・フレア・グレネーズ)よ」
『な、なんて危険な魔法なの!』
吸血鬼姉妹は恐怖に慄いた。
「パチェ、その魔法は色んな意味で余りにも危険すぎるわ…」
「レミィ。私だって貴女達を必要以上の危険に巻き込みたくは無いわ。降参して頂戴」
「…わかった。私だけならともかく、フランや他の者を危険に晒すわけにはいかない」
「お姉様…」
こうして紅魔館はパチュリーの軍門に降った。やがて、莫大な魔力によって生み出された強力な賢者の石と、それを中心として構成された複雑な魔方陣によって、幻想郷はおろか博麗大結界すら超えて全世界から全ての書物が大図書館に集まり始めた。
事ここに至って、ついに事態は「書物消失異変」としてあまねく知られる事となった。
パチュリーは怒涛の如く増殖し続ける書物を、フォーオブアカインドばりに四人に分裂してこれまた怒涛の如く読破しているらしい。
しかし、異変認定された上、結界操作まで行っているのであるから、博麗の巫女が動き出すのは時間の問題に思われた。間もなく全ては元通りになる、と誰もが信じて疑わなかった。
まず、先んじて魔理沙とアリスの二人組が紅魔館へと向かった。魔理沙は博麗の巫女と並ぶ異変解決の第一人者であったし、また二人の魔法使いは多少なりともパチュリーとの親交があった。そして、二人とも本の蒐集癖があり、自らのコレクションを奪われるのは我慢がならなかった。このコンビが動いた事は、ある意味必然であったと言える。
結論から言えば、禁呪の詠唱チームはパチュリーに全く歯が立たなかった。幻想郷最強の威力を誇ると言われる『マリス砲』も、ダブルスパークを四人同時に放つという『オクタスパーク』の圧倒的暴力によってあえなく粉砕された。魔法使い、いや魔砲使いとしてのプライドと、本泥棒としてのプライド、さらにはスペル泥棒としてのプライドの全てをズタズタに引き裂かれた魔理沙は、ショックの余り寝込んでしまい、アリスによって手厚く看護される事となった。
そして、いよいよ満を持して幻想の結界チームが動き出した。博麗霊夢と八雲紫、さらには紫が式として使役する八雲藍という面子は、文句無しに幻想郷の誇る最強のチームと言えよう。皆がやがて流れるエンディングとスタッフロールを確信していた。
霊夢の夢想封印十六連射によって火蓋を切って落とされた決戦は熾烈を極めた。一発一発が必殺の威力を有する攻撃が雨あられと飛び交い、衝撃の余波だの流れ弾だので、辺り一面は魔力で保護された大図書館だけを綺麗に残して焦土と化した。誰が放ったものやら、地平の果てまでを真っ直ぐ貫くレーザーが博麗神社を焼いた為、霊夢は怒り狂いさらに戦闘は激化した。
個々の能力が抜きん出ており、また霊夢と紫は普段唯我独尊的な振る舞いを見せるくせに、結界組のコンビネーションは素晴らしかった。
『三十二重結界』『禅寺に棲むアルティメット玉』『魅力的な八方鬼縛プリンセス天狐』『空を飛ぶ不思議な橙八千万枚』等の怒涛の連携攻撃が息つく暇も無くパチュリーに襲いかかる。
対するパチュリーも、賢者の石で殴る、賢者の石で黒板を引っかく、賢者の石を鼻の穴にねじ込む、賢者の石をすり下ろして食事に混入し振る舞う等の凶悪な攻撃でこれに応じた。
決着のつかぬまま一昼夜に及んだ戦いは、次第にパチュリー優勢に傾いた。霊夢は空腹によって明らかに集中力とやる気を失い、紫は眠気に耐え切れずうとうとし始め、藍は橙分の欠乏から禁断症状が現れ出したのである。
最後には、パチュリーの見事なビジネススキルによって賢者の石を粗利六十五%で買わされて、ついに幻想の結界チームは敗退した。
あの博麗霊夢が、八雲紫が敗れた――。
ニュースは瞬く間に幻想郷を駆け巡った。どうせいつものように異変は解決されるだろうとどこか楽観視していた人妖達は、一転絶望に打ちのめされた。暴走する七曜の魔女は、最早誰にも止めることが出来ないだろう。
ま、でも本が無くてもそんなに支障ねーじゃん、と誰かが呟いた。
あ、そーだよね、と納得する幻想郷の住民達。だいたい日常的に本を読む妖怪なんてのはごくごく少数で、里の人間にしたって読書を好むようないわゆる高等遊民なぞ一握りであった。
ほっとけほっとけ、とばかりに皆はパチュリーに背を向けた。間もなく、幻想郷は普段ののどかさを取り戻すだろう。
そして、パチュリーは彼女の治める大図書館で、一人静かに増え続ける蔵書を貪るように読む作業に戻った。
* * *
紅魔館から焼け出された吸血鬼一家の大所帯を里の寺子屋に収容し終えた慧音は、目に涙を浮かべて手を振る彼女らに見送られながら朝焼けの空に舞い上がった。
「…パチェを頼む」
声を震わせて、それだけをぽつりとこぼしたレミリアに、慧音は深く頷いてみせた。
「そういう言葉は、嫌いじゃない」
目指すは、元紅魔館、今や書物をその内部に吐き出し続ける異空間となった空中図書館である。
宙に浮かぶ不可視の歪みを越えると、そこら中に書物が大量に散らばって浮遊する妙ちきりんな空間が広がっていた。整然と並ぶ本棚だけが、かつての図書館の面影を残している。
慧音の気配を感じて、てんでばらばらに本を読んでいた四十六人のパチュリーが一斉に顔を上げた。
「…何しに来たの」
「いたずらが過ぎた悪い子のおしりをぺんぺんしに来たのだが、こんなに沢山いたのでは先に私の手が腫れてしまうな」
「帰って。貴女を傷付けたくない」
一番慧音の近くにいたパチュリーは、そう言ってへの字口を噛み締めた。他のパチュリー達も伏し目がちに慧音を見つめている。
「こんなものが、お前の望んだ新世界なのか」
「私は魔女なのよ。飽くなき知への欲求と、ほの暗い野望こそが私の存在の本分なの。こうなるのは必然だった」
「だから、怖いと言ったのか」
「そうよ。なのに、貴女の語る甘い夢に目が眩んだ私が愚かだったの。でも、もう遅いわ。引き返す事は出来ない」
「ならば、約束を果たそう」
「約束?」
「約束を頭の中から追い出してしまうほど書物を詰め込んだのか? 案外、出来の良くない脳みそだ」
慧音は帽子を取り、下方へと投げ捨てた。空気がきりきりと軋み始める。
「何をする気?」
「うなされている子供を起こすのさ。悪夢は終わりを迎えるべきだ」
「安物の目覚まし時計じゃ、私の眠りを妨げる事は出来ない」
四十六人のパチュリーの、四十六本の指先が光ったかと思うと、幾条もの光線が疾った。慧音は動かなかった。
「威嚇ならもう少し上手にやってくれ」
「小癪。次は当てるわ」
再び閃いた光線の嵐が、慧音の服を裂き、肌を焼いたが、やはり慧音は動かなかった。
「射的は苦手か?」
「どうして貴女はっ!!」
パチュリーは悲鳴のような咆哮を上げた。四方八方から、嵐のように吹き荒れる日月火水木金土の魔法が渦を巻いて慧音に襲いかかった。しかし、慧音は僅かに体を揺らすのみで全てを避け続ける。
「当たれ! 当たれ、当たれっ!!」
「当たるわけが無い。パチュリー、お前は優し過ぎるんだ」
そう言って、慧音は一点を目指して一直線に進み始めた。
「当たれぇっ! おねがい、当たって!!」
慧音の瞳に迷いは無い。その先に、一人のパチュリーがいる。八百万の弾幕をかいくぐって突き進む慧音に、ただの一瞬の躊躇いも無い。
「なんでっ…!」
「パチェエエエエエエエエエエェェェェッッッッ!!!」
愛する人の胸に飛び込むように、微かに微笑みすら湛えて。
パチュリーの元に風を巻いて辿り着いた慧音は、その勢いのまま、思いっきり、頭突きをかました。
ごーん。
耳をつん裂く様な、異空間が砕け散る音が遠くに聞こえる気がするが、それどころではなく、目の前に散る火花。
四十五人のパチュリー達はたちまちの内に四散して消える。
強烈な痛み。涙が滲んでくる。意識が覚醒するような、遠のくような、変な感覚。
「お前の目を覚ますのは、安物の目覚まし時計なんかじゃない。愛に溢れた、鐘の音だ」
「慧音――」
「約束しただろう? 『今まで紡いで来た歴史を保証してやる』、って」
「私は――」
「悪夢はもうどこかへ行ってしまったよ。 おはよう、パチュリー」
慧音に思いっきり抱き締められたまま、おでこをさすって泣き笑いした後、パチュリーは気を失った。
* * *
<号外! 書物消失異変、寺子屋の賢者によって解決される!>
里の外れ、立入禁止の空き地の一角で、広げた文々。新聞の周りに車座になって酒を回し飲みしつつ、里のごろつきどもは口々に嘆息した。
「結局は慧音先生が最強だったって事だよな」
「まあ、そうなるわな」
「喘息治ったパチュリー、確かに強かったんだけどな」
「霊夢も紫も勝てなかったし」
「先生はそれより強かったんだもんな」
「なんだかなあ」
しかし、過去を顧みるに、考えれば考えるほど、どうもそれが正解であるような気がしてくる。
「先生、怖かったしな…」
「確かに…」
「最強かもしれん…」
皆、それぞれに慧音に叱られた記憶を辿る。思わず額に手をやる者もいた。
そんな中、そっとグリチルリチン酸ジカリウムは席を立って、黙って空き地を後にした。
「グリちゃん」
里からやや離れた、小高い丘の木の根元で、寝そべったグリチルリチン酸ジカリウムは葉の間に見え隠れする青空を眺めていた。
「…千代か」
顔を上げて見なくても、声だけで誰かわかる。その程度には、グリチルリチン酸ジカリウムと千代は幼馴染であった。
「多分、ここにいるだろうな、って思って来たの」
「……」
梢を挟んで反対側に千代が腰掛けた気配がした。千代の家は評判の甘味を出す茶屋で、千代はすっかり看板娘として里の社会に馴染んでいる。器量の良さも評判になるほどで、嫁に欲しがる旦那連中も多いと言う。
グリチルリチン酸ジカリウムは、ここ数年まともに真っ直ぐ千代の顔を見れた事が無かった。
「結局、慧音先生が一番だったね」
「…そんな事は、わかってたさ」
さあ、と風が葉を揺らし、グリチルリチン酸ジカリウムの元へ幽かな甘い香りを運んで来た。香の艶やかな香りではなく、餡子の香りのようだった。千代はけらけらと笑っている。
「そうだよね。グリちゃんは、よーくわかってるよね、先生の事」
「うるせえな」
最もよく怒られる悪ガキであったグリチルリチン酸ジカリウムは、もちろん最も慧音の恐ろしさを知る男であった。
「…まだ、慧音先生のこと、好きなの?」
「……」
昔の事だ馬鹿、と答えれば良いとグリチルリチン酸ジカリウムは思ったが、しかし何も言わなかった。多分、正確には、言えなかった。睨む緑越しの空色は眩しかった。
「――グリちゃんも、お家の手伝いをすればいいのに。きっと、小父さんも喜ぶよ」
グリチルリチン酸ジカリウムの家は、曽祖父の代からの表具屋だった。特に腕が良いと評判だった父は、酒はやらなかったがよくグリチルリチン酸ジカリウムを殴った。殴られるような事をする自分が悪いのだが、それも初めて殴り返した日までの事で、それ以降家には帰っていなかった。
「…今更、どんな顔して帰りゃ良いのかわかんねえ」
「考え過ぎだよ。小母さんも心配してたし、小父さんも口には出さないけど」
「……」
表具屋の仕事自体は嫌いではなかった。しかし、どうやって家の敷居を跨ごうか、考えても考えてもイメージは湧かない。幼かったころにどうやって家に帰っていたのか、不思議にすら思う。
「よ、っと」
グリチルリチン酸ジカリウムは、弾みをつけて起き上がった。
「仕事を、探そうと思うんだ」
「うん」
「…手に職を付けて、一人前になったって、自分を許せるようになったら帰る」
「そっか。わかった」
当ても無かったが、歩き出そうとしたグリチルリチン酸ジカリウムの背中に、千代は言った。
「待ってる」
* * *
紅魔館には平和な日常が戻った。
嘘のように元通りになった館の威容は以前と変わるところが無い。
レミリアは我侭でフランドールは無邪気だったし、咲夜は瀟洒で美鈴は門番だった。
そして、小悪魔は司書で、パチュリーは、相変わらず本を読んでいた。
以前と変わった事と言えば、パチュリーが読書の合間に外へ散歩に出かけるようになった事位であった。
「んー…」
本を一冊読み終え、伸びをするパチュリー。椅子から立ち上がり、軽快にストレッチをする辺り、すっかり健康体である事が良く分かる。
「小悪魔。ちょっと散歩に行って来るわ」
かしこまりました、と主人を見送る小悪魔の表情は、悪魔らしからぬ慈愛と喜びに満ちていた。
一件の後、パチュリーは紅魔館の面々に謝罪をしたが、皆笑いながら楽しかったので良かった、と答えた。異変の解決の恒例に習って盛大な酒宴が催され、人妖の喧騒の中で、レミリアはパチュリーに「私には全部わかってたのさ」と囁いた。パチュリーはそれを鼻で笑って、二人はワインで改めてお互いの友情に乾杯をしたのであった。
慧音は相変わらず、頻度こそ落ちたものの紅魔館を訪れている。慧音の歓待されっぷりときたら凄まじいもので、玄関ホールには慧音のブロンズ像が鎮座している。
そして、図書館を訪れてゆるりとパチュリーと会話を楽しむ様を、館の当主はじめ一同がにまにましながら見守るのである。
今日も、紅魔館は恐ろしいほど平和であった。天気も良く、散歩日和。
パチュリーが散歩に出るようになって、レミリアは咲夜に命じてパチュリー付きのメイドを一名準備させた。
小悪魔は外出が出来ないので、館の外にいる間の身辺警護兼世話係として、との気遣いである。
「素敵な陽気ね。じゃ、行くわよ」
「かしこまりました、パチュリー様」
パチュリーは、メイド服に身を包んだグリチルリチン酸ジカリウムと共に紅魔館を後にした。
何だろうな、この……何?
とにかく、この作品には言葉に表せない"勢い"のようなものを感じるんだ。
それはまるでワシントン郊外の荒野で食べたシュガーボムのような、程よい甘さの炸裂のような、そんな摩訶不思議なものなんだよ。
何が言いたいかって? 僕にも分からないよ。
ただ分かる事は、この作品の慧音先生が男前で、義理深くて、人間味に溢れていて、完璧超人南無三で、ちょっぴりおバカで、とても可愛いって事なんだ。
未来永劫愛されればいいと思うな。
でれでれえーりん美味しいです (^q^)
ツッコミ所があり過ぎてなにがなんだか…w
ギャグだとかシリアスだとかの枠に収まらない笑いあり涙ありの疾走するストーリーと、二重オチの切れ味が異常。
とにかく面白かった。
何かもう何て表現したら良いのか分からんww
ギャグとシリアスが緩急つけて秀逸すぎるwww
そんなわけで、すごく面白かったです。
ちゃんとかわいいし、かっこいいです。
しかしこの先生はパねぇ。惚れますわ。
そんな不安を抱えたまま、それに覆い被さる様な面白さ、魅力がこの物語にはあった。
不可思議なテンションのまま読み進め、読了後の理解を超えた恍惚感……
あなたが神か!?
人類には少し早すぎたんじゃないか?
ここまで読ませる作品にするとは。
言葉使いのセンスと羽目の外し方のリズムが
秀逸。
気づいたら終わってた
でも面白かった
「起」のいきなりのカオスと、「承」の美しく細やかな描写。
「転」からの完全に意表を突くスピード感と、「結」の半端ない切れ味。
随所に散りばめられた小ネタ。簡潔にして流麗な文章。
作品としてパーフェクト。文句なしに100点です。
その勢いのまま読了していました。いやあ面白かった。
さあ、早く妹紅とキャッキャする続編を……!
良いものを読ませていただき、ありがとうございました。
だがグリチルリチン酸ジカリウム、テメーのメイド服はダメだ。
読み始めた時にはメタカオスとしか思わなかった。
しかし、途中から感動ものだと言う事に気付いたら、またカオスになってたんだ……。
そして今、読み終わって感動してる。
な、何を言ってるのか分から(ry
あなたが神だ。
この勢いを消しちゃいそうですね
とにかく面白かったです
グリ酸なにをとちくるってるんだww
久し振りに腹筋ぶっ壊れました。
空飛ぶ橙は不思議だったのかw
しかしこの慧音は最強すぎる
あなたの卓越したセンスを、小匙4分の1杯でもいいから授かりたかった……
とりあえず面白かったしすごかったです
恐ろしいストーリーですね。
なにこれ
ヤベェェェェェェェェ
すげぇぇぇぇえぇぇぇ
おもしれぇぇぇぇぇぇ
としかいえないのわ
……と、コメントしようと思っていました…… 後 半 を 読 む ま で は !!
なんですかこれ、なんですかこれはこの野郎。クレイジーだぜ、ブッ飛んでやがる。
こんな作品に送れるコメントなんて一つしか俺は知らないんだぜ!
大変面白かったです。
読んでる俺たちの世界が変わったよ!w
賢者の石に爆笑したのと慧音先生にキュンキュンしたので、続編に大期待してます。
しかしスケコマシのけーね先生が素晴らし過ぎた。
コマされる子達の反応もグッドだった。
気がついたらこの点だった。何を言っているかわからねーと思うが俺m―――
でもグリ酸のメイド服は駄目ですよねw
100点以外付けようが無いです
「転結」と言うよりはもはや「空の彼方へぶっ飛び」と言う方が近い
東方起承天
これからもその勢いでお願いします。
最後までぐいぐい読ませる力がすごかったです。
癖のある登場人物たちでしたが、とても魅力的で楽しく読ませていただきました。
お見事です。
とりあえずこの作品が面白いってことだけは理解した
魔理沙の逆襲というフラグがな(´・ω・`)
テンポのよさとか慧音先生かっこいいとか、そんなの全部吹っ飛ばされた。
なので一言。面白かったです。
パチェ完治したら怖いねw
面白かったです。
>>二人とも本の収集癖
東方的には「蒐集」がよろしいかと。ま、些事ですが。
あなたが見てる世界を見てみたい
ジャンルが定義不可能すぐる
↓
イイハナシダナ-
↓
イイハナシダッタノニナー
↓
イイハナシダッタナー
↓
慧音さいきょおおおおおおお!!
結論:出せねえよなんだこれwwww
なんていうか、いろいろ言いたいんだけど、何を言ってもこの作品から与えられた情動の1割も表現できなさそう。
ネタにツッコミをするべきなのか、テンポの良さに食い付くのか、あるいはストリー展開の上手さに感動するのか。
どれでもいいけど、どれでも足りない。
ホントコメントに困るワーw
「うそつき」と同じ人だよね?あなたの書く慧音先生が素敵すぎる!
けーね先生が漢ですね。なんというか。
あ、「無碍」は「無下」ではないかと
この正体不明な面白さはなんなんだ……神すぎる
あとけーね先生のジゴロっぷりなどもたのしかった、突っ込みどころいっぱいな作品ありがとうございました。
と、とりあえず、爆笑した。あと、楽しい時間をありがとう。
最後に、「けーねさいきょおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!!!」
先生、今度はアリスさんに本気を出させて下さい。
あえて控えめな役どころに配しつつも軽んじず描写するという姿勢には好感が持てました。
とても面白かったです。
先生が最強のオチは作者様のドヤ顔が簡単に創造できるほど秀逸でした・・・・が
最後のオチはカオスでしたww
・・・・・・カオスでしたwwww
大事なことなので二回いいました!
このすげえ密度、ありきたりだしほとんどコメ欄はこの一言だけど
面白かったです!
とりあえず慧音かっこいい
眼福です。
妹紅をあとがきに出すところわかっていらっしゃる。ありがとうございました。
前半の知的な雰囲気で100点。後半のキャラ崩壊で-100点。合計すると、なぜか80点でした。
とにかく、とても面白かったのは間違いない!
だがひとつ言われてない部分があるぜ。
冷ややかなてゐちゃんマジ年の功かわいい。
なんだこれ
ヒスチジンwww