冬も終わり、春が来て、桜が散って。新緑の季節。昼は暖かく、夜は涼しい、そんな日が続いている。
橙は、今日も紫の屋敷に訪れていた。このところ続いている藍による勉学の時間。たまたまいつもより早く来て、時間があるからということで縁側でのんびりと日向ぼっこをしていた。冬の間はいろんなところで炬燵の中で包まっていたがやはり太陽には勝てない。優しく降り注ぐこの時季のひと時を橙は愛していた。
それだけではない。橙は幻想郷を愛している。晴れの日も、雨の日も。嵐が来ても、雪が降っても。時には赤い霧に覆われたこともあった。春が来るのが遅い年もあった。夜が長くて、涼しくてよく眠ったのも覚えている。他にも主達がずっと宴会をやっていたときもあったし、いつのまにか温泉とか新しい神社とか寺も出来ていたり。次々に新しいことが出来、変化が止まらない。その中で変わらないものもある。そんなバランスが絶妙に保たれていて、退屈することがなかった。好きな人もいるし、尊敬する人もいる。そんな世界に生まれ、日々を過ごすことが出来ることに感謝していた。
――ああ、気持ちいいなあ、一年中ずっとこんな季節だったら幸せなのになあ。でも藍さまが夏に作ってくれるあいすくりむとか冬に作ってくれるお鍋とかおでんとかも美味しいんだよね。最近はつくってないなあ、それにあの尻尾、もふもふしてて、冬はずっとあの中にいたいな、頼んだらいいよ、って言ってくれるかなぁ。やっぱり藍さまがいてくれたらいいな、紫様も優しいし、膝に乗せてもらっていっぱいお話してくれて楽しいんだよね。2人に名前呼ばれると嬉しいけど、なんでなのかな?
心地よい日光を浴びてゆるゆるな笑顔を浮かべながらふわふわ、ゆらゆら、と思考があちこちへと散歩をしている、とりあえず思い浮かんだ疑問を解決するために、自分で自分の名前を呼んでみることにした。
「橙、橙、ちぇん。」
――うーん、なんだか少し高くて、ふにゃっとした声だなぁ。子供っぽいし。藍さま私よりもずっと落ち着いた声で、優しく、透き通るような声をしている、かな?紫様は、えっと、柔らかくて、おとなっぽい声っていうのかなぁ?
「橙、ちぇん~、ちぇん!」
繰り返しているうちに楽しくなってくる。何度も自分の名前を呼び、調子を変えてはその響き、口の中から出てくる音に変化をつける。
「ちぇん、ちぇんーちぇんちぇん、ちぇん♪ふふっ」
同じ音が出てきては、同じ音が飛んで、跳ねて、駆け回って、踊る。時折クスクスと笑いながら何度も自分の名前を呼んでは楽しんでいたところ、ある考えが浮かんできた。
――そうだ、藍さまと紫様の名前を呼んでみたらどうなるのかな?「様」を抜いて呼んでみようかな…今は2人ともいないし…ちょっとだけ…
猫である以上、好奇心には勝てない。思い切りの良い橙は一度思いついた考えを消すことは出来なかった。
――よし、言ってみよう、せーのっ・・・!
「藍、藍…らん!」
普段言わない、自らの主の呼び捨て。若干緊張すると共に、何故かその小さな頬がうっすらと紅く染まっていく。
――わ、わ。何だか顔が暑くなってきた。胸がどきどきする。なんでかな。「様」を抜くだけでこんなに違うものなんだなあ。紫様はいっつも呼び捨てだし、やっぱり大人だなぁ、まだまだ私は子供なのかな…
少し自分自身の未熟さを感じながらもすぐに考えを切り替える。
――ずっと暗い気持ちで居ちゃだめって藍さまも言ってたしね!でも「らん」かあ、ずるいなあ。すごく美人だし胸もおっきくて尻尾はもふもふで、お料理もお掃除も完璧だもん。その上名前もかっこよくって、可愛くて。いいなあ。私もあんな風になれる様、頑張らなくちゃ!
「あ、そうだ!」
ぴこん、と耳が立ち、端から見れば頭の上に豆電球が見えただろう。まだ名前を呼んでいない、主の主がいるじゃないか、と。
――紫様、かあ。さすがに畏れ多いよね。藍さまがいっつも迷惑かけちゃいけないって言ってるし。でも紫様は藍さまと一緒ですごく優しいのになあ。ちょっとだけ…言ってみようかな?
気になって周りを見渡してみる。これから呼ばれる者が近くにいないか。神出鬼没で、どこから出てくるのか分からない主の主。どこから出てくるのかわからない、ということは探してもさほど意味はない。もしかしたらすでに見られていた可能性もあって、振り向くと同時に気配を消すことだって出来るのだから。
――うん、誰もいないし、見てないよね。小さい声なら、大丈夫…なはず、よし、せーの…!
「ゆか…ゆかりぃ。」 「あら橙、呼んだかしらん?」 「ふぎゃあ!?」
橙の首の後ろからゆっくりと両手が流れるように巻きつく。そのまま抱きつかれて腕の持ち主の膝の上へと落とされる。紫だった。案の定、彼女は最初から見ていたのだ。平和そうに、とても妖獣とは思えないほど無害な笑顔を浮かべながらくすくすと笑ったり、尻尾を落ち着きなくゆらゆらさせたり。暇つぶしには申し分なかった。最初はすぐに声を掛けようかと思ったのだが、なんとなく観察していたくて、様子を見ていたのだが、次に行うことをを予想して、お望みどおり、自分の名前を呼ばれたときに出てきた、というわけだ。
ぱたぱた、と膝の上でもがいていた橙も、声の主が紫だと気づき、くりくりとした大きな眼をさらに丸くする。
「ゆっ紫様!?」
「どうしたの、橙?わたくしの呼んだでしょう?」
「あ、あの…えっと…うう」
遊びでも呼び捨てにしてしまったことを怒られると思っているのか、小柄な身体をさらに縮こませる。まさに借りてきた猫、とも言うべきか。耳は垂れてぷるぷると震えている。少し真面目なところは藍に似たのだろうか。
「私は決して怒ったりしませんわ。貴女は何も悪いことはしてないでしょう?それにこんなに可愛い子をそうそう簡単に怒ったりは出来ません。」
「本当ですか?」
「本当です」
返事をしながらも帽子を外して頭を撫でると、次第に身体の力を抜いて、こちらに体重を預けてくる。前に藍が「もう橙が可愛くて叱るのが辛いんですよね」と親バカ振りを披露していたが、もしかしたら私も同じなのかもしれない。もっとも、こんなことで怒ることもないが。むしろ「様」付けをしないで呼ぶ者の方が圧倒的に多いのがこの幻想郷だ。氷精にさえ呼び捨てにされているのだから。
「ところで、さっきから名前をずっと呼んで遊んでみたみたいだけど、何をしていたのかしら?」
「えっと、みんなの名前を声に出してみたらどんな風に聞こえるか、試してみてたんです。私の名前って何だか跳ね回ってるみたいな名前じゃないですか、藍さまと紫様はどうなのかなって…」
――成程。普段私達は自身の名前を文字や言葉自体に意味合いをこめて名づけることが多い。私や藍もそうだし、他に分かりやすいのは紅魔の主、竹林の不死人、地霊殿の主もそうかしら。この子みたいに「文字」では無く「音」で感じるというのはあまり無かった考え方かもしれないわね。元々「文字」というものを必要としていない動物であったからこその発想なのかしら。音にすると「ちぇん」か…ふふ、普段のイメージもあってっ確かに飛んで遊び回るっていうのはぴったりかもしれないわね。
「それで、藍と私はどうだったのかしら?」
「はい、藍さまはキリっとしてて、透き通るような感じがするけど、…可愛いなって思いました!それで何だか胸がどきどきするんです。紫様、どうしてですか?」
「あらあら、不思議ね。でも私が言っちゃうと良くないから自分で考えてみなさい。貴女に必要なことなのだから。」
「うー…」
――ふうん、確かに意識して発音してみるとそういう風になるのかもしれないわね。藍がかわいい、か…橙にそう思われてるって知ったらどんな顔をするのかしら。今度言ってみましょう。それにしてもこの子もおませね。まだ自分自身の本当の気持ちには気づいていないみたいだけれど、これからが楽しみだわ。
「…それで紫様は…えーっと、不思議な気持ちになります。掴みどころが無くてふわっとしてような…なんて言ったらいいか分かんないです…」
――ふうむ。私の名前は音にするとそういう風にとられているのか…なんだかいつもと同じような気がするけど、それでいいのかしらね。寂しい気はするけど。
「でも、何だか包まれてるようで優しい気持ちになるから、紫様も好きです!」
「まあ、嬉しいこと言ってくれるわね。ほらほら~」
「うにゃぁあ~ん♪」
わしゃわしゃと膝もとの橙を撫でまわす。もぞもぞと身を捩じらせながらも気持ちよさそうにしている様を見ると嬉しそうだ。こんなにストレートに喜ばせてくれる言葉を紡ぐには少しばかり勇気がいるものだ。あまり立場上そんなことを言うのも柄じゃないのもある。決して性格が悪いとか、捻くれているとか、そういうことじゃない。
「包まれているって言えば、この幻想郷も紫様の結界に包まれているんですよね!紫様が幻想郷を作ったんですよね?すごいです!!」
――私だけではないし、正確には博霊大結界なんかも絡んでくるんだけども、今説明してもちゃんと理解してくれるかしら?いえ、無理に理解させようとすることは無いわね。いずれ時が来たらちゃんと教えてあげましょう。包まれている、か…良い表現ね。
「ゆかりさまっ」
ばっ、といきなり紫の膝元から降りると、ちょこん、と紫と対面する形で正座の姿勢をとる。子供の思考というものは良く分からないもので、見ていて飽きないが、何をする気なのか、紫は少しの驚きと共に笑顔のまま、橙に先を促す。
――今思ってることを言いたい。紫様が好きだから。もう知ってるかもしれないけど、私が口に出して、分かってもらいたいから。
「紫様は、幻想郷を作ってくれました」
「ええ」
「私は、この幻想郷で生まれました」
「ええ、そうね、あなたはこの幻想郷で生まれました」
「私は、この幻想郷が大好きです」
「あら、嬉しいわ。ありがとう」
「紫様…」
「なあに、橙?いってごらんなさい?」
紫は、いつにもなく緊張しながらたどたどしく言葉を発する橙をみながらも、同じく緊張していた。そこには淡い期待が混じると共に、不安もある。目の前に座っている相手は、少しうつむいていて、次の言葉までたどり着くのに時間がかかりそうだ。
10秒なのか、1分だろうか、それとも5分ほど経ったのだろうか、紫はいつも通り笑みを湛えながらも背中に汗が流れるのが分かる。それほど長く感じた時間の後、意を決したかのように、ぐっとまっすぐな、どこまでもまっすぐな瞳をこちらに向けて、紫へと、
「幻想郷を作ってくれてありがとうございました!紫様のおかげで、私はここに生まれることが出来ました!紫様のおかげで、大切にされることの嬉しさを知りました!紫様のおかげで、わたしはこんなにも幸せです!」
拙いながらも、全身全霊の気持ちを込めた感謝の言葉。期待と不安が入り混じっていた紫の眼が、いつも余裕のある笑みを浮かべる妖怪の賢者が、瞳を大きく開く。
――幻想郷ができてどれだけの歳月が経っただろうか。どれほどの命が救われ、または犠牲になっただろうか。私の考えに賛同するものがいれば、反対するものもいた。そこには争いも生じ、多くの血が流れ、それでもなお、私は追い求める理想郷を作るために努力を惜しまなかった。誰にも気づかれず幻想郷を護り、誰にも理解されることなくひたすら結界を張り、維持し。やっていることが正しいのか、本当に正しいことなのか、分からなくなってきた。そんな私に藍はついてきてくれた。式だから、というだけでは無く、尊敬して、彼女自身の意思として、私の傍にいてくれた。それだけで十分だった。
「…紫様…?」
橙の目の前に座っている紫は、目を見開いたまま、動かない。まるで今話したことに頭が追いついていかないかのようだ。
――身近にいる者たちでさえも、宴会をしたり、普段から軽口を言い合ったりしてはいるものの、そんなことを言われたことは無かった。励ましの言葉も無く、ただ結界の綻びを見つけては、修復し、見回りをする日々がもう数えるのも億劫なくらい続いた。私が支えている、支えなくては、と思うものの、心のどこかでは投げやりな気持ちになったこともあった。報われない日々が辛く、人知れず、誰もいない空間で泣いたこともあった。
それが今、目の前にいる、私の10分の1にも満たない程度にしか生きていない、まだまだ未熟なこの橙に、救われた。全て報われたのだ。間違いなく、やってきたことは正しかったのだと。ありがとう、と。
思わず紫の眼から涙があふれそうになる。しかし、その涙が流れるよりも前に、目の前の橙を抱きしめた。感謝するように。その存在を確かめるように、ぎゅっ、と。
「橙、橙。ありがとう。この幻想郷に生まれてきてくれて、ありがとう。こんな私と出会ってくれて。あなたのおかげで、私は今、全て救われました。ありがとう」
「ゆかりさま…私もありがとうございます。紫様に少しでも恩返しが出来て、すごく嬉しいです!」
「橙…!」
初めて紫は泣いた。悲しみの涙でも、苦しみの涙でもなく。ただただ嬉しくて、泣いた。橙から紡がれた言葉のひとつひとつをかみ締めながら。何百年とやってきたことが、初めて肯定されたのだ。本当は幻想郷に暮らす者達が感じていながらも、感謝していながらも、一度たりとも紫に言われなかった言葉、届かなかった気持ちが今、やっとのことで届いたのだから。
~~~~~~~~~~~
夜も更け、人間達が寝静まり、妖怪達が跋扈する時間。橙は人間と同じように床に入り、規則正しい寝息を立てている。その顔は幸せそうで、小さな身体いっぱいに生を享受しているかのようだ。もしかしたら、この幻想郷で一番幸せな顔をしているのかもしれない。
部屋を変えて紫の寝室。藍は紫と遅めの晩酌を楽しんでいた。宴会のときのような賑やかさは無いものの、静かに、ゆったりとお酒の味を愉しむ。この一時には紫も言葉少なく、永い時を共に重ねてきた2人だけの時間を堪能している。
気のせいだろうか、藍から見て紫は橙と3人で一緒にお昼を過ごしてからは、上機嫌に見えた。はしゃぐ訳でもないが、いつもより優しく、母性に溢れるような、そんな雰囲気を醸し出していた。
「紫様、今日はとても機嫌が良かったようですが、何か良いことがあったのでしょうか?」
藍は紫と橙とのやりとりを知らない。気づいたときには2人とも嬉しそうで、特に橙は紫にべったりとくっついて離れようとしなかった。主として、少しやきもきはしたが、問題ないようだった。
「あら、そう?…ふふっ、藍、こっちにいらっしゃい。」
「はあ」
杯を置き、こちらへ手招きする紫。悪戯をするような様子も無く、ゆっくりと紫の目の前まで移動し、座ると、突然抱きしめられ、一緒に布団の上へ寝転がる。
「わっ、紫様!?」
藍の帽子を外し、そっと床に置くと、紫は大きな耳を撫でる。藍がまだ幼い頃にして貰った時のように。その手つきは優しく、母親のように。
「ゆ、ゆかりさまぁ」
懐かしい感触にいつもの凛とした声は無く、ほとんど抵抗もしない藍。橙の言っていた通り、藍は可愛い、というのは本当だな、と紫は心の中で思う。
「ええ、今日はとてもいいことがありました。藍」
「は、はい!」
「藍。私の式になってくれてありがとう。私に付いてきてくれてありがとう。あんなにいい子を式にしてくれてありがとう。私は、あなた達のおかげで、八雲紫でいることが出来る、ということに今日気付きました。あなた達がいてくれて、本当に幸せです。」
「紫様…私もありがとうございます。私を式にしてくれて。幻想郷を護ってくれて。私には、紫様も、橙もいて、本当に幸せです」
「藍…」
紫の藍を抱きしめる力が、藍が紫を抱き返す力もまた、強くなる。橙と同じように、藍も心から紫に感謝している。近すぎたが故に言えなかった言葉。ようやく伝えることが出来て、彼女もまた救われたような気持ちになった。
幼い黒猫から生まれた言葉が、世界を幸せに導いていく。何物にも変え難い幸せで静かな時間。この平和を護り、また人知れず紫は幻想郷を管理する。もう今では後ろ向きな気持ちになることは無い。自分がやっていることが正しいと、心から想い、愛してくれる大切な家族がいるのだから。
橙は、今日も紫の屋敷に訪れていた。このところ続いている藍による勉学の時間。たまたまいつもより早く来て、時間があるからということで縁側でのんびりと日向ぼっこをしていた。冬の間はいろんなところで炬燵の中で包まっていたがやはり太陽には勝てない。優しく降り注ぐこの時季のひと時を橙は愛していた。
それだけではない。橙は幻想郷を愛している。晴れの日も、雨の日も。嵐が来ても、雪が降っても。時には赤い霧に覆われたこともあった。春が来るのが遅い年もあった。夜が長くて、涼しくてよく眠ったのも覚えている。他にも主達がずっと宴会をやっていたときもあったし、いつのまにか温泉とか新しい神社とか寺も出来ていたり。次々に新しいことが出来、変化が止まらない。その中で変わらないものもある。そんなバランスが絶妙に保たれていて、退屈することがなかった。好きな人もいるし、尊敬する人もいる。そんな世界に生まれ、日々を過ごすことが出来ることに感謝していた。
――ああ、気持ちいいなあ、一年中ずっとこんな季節だったら幸せなのになあ。でも藍さまが夏に作ってくれるあいすくりむとか冬に作ってくれるお鍋とかおでんとかも美味しいんだよね。最近はつくってないなあ、それにあの尻尾、もふもふしてて、冬はずっとあの中にいたいな、頼んだらいいよ、って言ってくれるかなぁ。やっぱり藍さまがいてくれたらいいな、紫様も優しいし、膝に乗せてもらっていっぱいお話してくれて楽しいんだよね。2人に名前呼ばれると嬉しいけど、なんでなのかな?
心地よい日光を浴びてゆるゆるな笑顔を浮かべながらふわふわ、ゆらゆら、と思考があちこちへと散歩をしている、とりあえず思い浮かんだ疑問を解決するために、自分で自分の名前を呼んでみることにした。
「橙、橙、ちぇん。」
――うーん、なんだか少し高くて、ふにゃっとした声だなぁ。子供っぽいし。藍さま私よりもずっと落ち着いた声で、優しく、透き通るような声をしている、かな?紫様は、えっと、柔らかくて、おとなっぽい声っていうのかなぁ?
「橙、ちぇん~、ちぇん!」
繰り返しているうちに楽しくなってくる。何度も自分の名前を呼び、調子を変えてはその響き、口の中から出てくる音に変化をつける。
「ちぇん、ちぇんーちぇんちぇん、ちぇん♪ふふっ」
同じ音が出てきては、同じ音が飛んで、跳ねて、駆け回って、踊る。時折クスクスと笑いながら何度も自分の名前を呼んでは楽しんでいたところ、ある考えが浮かんできた。
――そうだ、藍さまと紫様の名前を呼んでみたらどうなるのかな?「様」を抜いて呼んでみようかな…今は2人ともいないし…ちょっとだけ…
猫である以上、好奇心には勝てない。思い切りの良い橙は一度思いついた考えを消すことは出来なかった。
――よし、言ってみよう、せーのっ・・・!
「藍、藍…らん!」
普段言わない、自らの主の呼び捨て。若干緊張すると共に、何故かその小さな頬がうっすらと紅く染まっていく。
――わ、わ。何だか顔が暑くなってきた。胸がどきどきする。なんでかな。「様」を抜くだけでこんなに違うものなんだなあ。紫様はいっつも呼び捨てだし、やっぱり大人だなぁ、まだまだ私は子供なのかな…
少し自分自身の未熟さを感じながらもすぐに考えを切り替える。
――ずっと暗い気持ちで居ちゃだめって藍さまも言ってたしね!でも「らん」かあ、ずるいなあ。すごく美人だし胸もおっきくて尻尾はもふもふで、お料理もお掃除も完璧だもん。その上名前もかっこよくって、可愛くて。いいなあ。私もあんな風になれる様、頑張らなくちゃ!
「あ、そうだ!」
ぴこん、と耳が立ち、端から見れば頭の上に豆電球が見えただろう。まだ名前を呼んでいない、主の主がいるじゃないか、と。
――紫様、かあ。さすがに畏れ多いよね。藍さまがいっつも迷惑かけちゃいけないって言ってるし。でも紫様は藍さまと一緒ですごく優しいのになあ。ちょっとだけ…言ってみようかな?
気になって周りを見渡してみる。これから呼ばれる者が近くにいないか。神出鬼没で、どこから出てくるのか分からない主の主。どこから出てくるのかわからない、ということは探してもさほど意味はない。もしかしたらすでに見られていた可能性もあって、振り向くと同時に気配を消すことだって出来るのだから。
――うん、誰もいないし、見てないよね。小さい声なら、大丈夫…なはず、よし、せーの…!
「ゆか…ゆかりぃ。」 「あら橙、呼んだかしらん?」 「ふぎゃあ!?」
橙の首の後ろからゆっくりと両手が流れるように巻きつく。そのまま抱きつかれて腕の持ち主の膝の上へと落とされる。紫だった。案の定、彼女は最初から見ていたのだ。平和そうに、とても妖獣とは思えないほど無害な笑顔を浮かべながらくすくすと笑ったり、尻尾を落ち着きなくゆらゆらさせたり。暇つぶしには申し分なかった。最初はすぐに声を掛けようかと思ったのだが、なんとなく観察していたくて、様子を見ていたのだが、次に行うことをを予想して、お望みどおり、自分の名前を呼ばれたときに出てきた、というわけだ。
ぱたぱた、と膝の上でもがいていた橙も、声の主が紫だと気づき、くりくりとした大きな眼をさらに丸くする。
「ゆっ紫様!?」
「どうしたの、橙?わたくしの呼んだでしょう?」
「あ、あの…えっと…うう」
遊びでも呼び捨てにしてしまったことを怒られると思っているのか、小柄な身体をさらに縮こませる。まさに借りてきた猫、とも言うべきか。耳は垂れてぷるぷると震えている。少し真面目なところは藍に似たのだろうか。
「私は決して怒ったりしませんわ。貴女は何も悪いことはしてないでしょう?それにこんなに可愛い子をそうそう簡単に怒ったりは出来ません。」
「本当ですか?」
「本当です」
返事をしながらも帽子を外して頭を撫でると、次第に身体の力を抜いて、こちらに体重を預けてくる。前に藍が「もう橙が可愛くて叱るのが辛いんですよね」と親バカ振りを披露していたが、もしかしたら私も同じなのかもしれない。もっとも、こんなことで怒ることもないが。むしろ「様」付けをしないで呼ぶ者の方が圧倒的に多いのがこの幻想郷だ。氷精にさえ呼び捨てにされているのだから。
「ところで、さっきから名前をずっと呼んで遊んでみたみたいだけど、何をしていたのかしら?」
「えっと、みんなの名前を声に出してみたらどんな風に聞こえるか、試してみてたんです。私の名前って何だか跳ね回ってるみたいな名前じゃないですか、藍さまと紫様はどうなのかなって…」
――成程。普段私達は自身の名前を文字や言葉自体に意味合いをこめて名づけることが多い。私や藍もそうだし、他に分かりやすいのは紅魔の主、竹林の不死人、地霊殿の主もそうかしら。この子みたいに「文字」では無く「音」で感じるというのはあまり無かった考え方かもしれないわね。元々「文字」というものを必要としていない動物であったからこその発想なのかしら。音にすると「ちぇん」か…ふふ、普段のイメージもあってっ確かに飛んで遊び回るっていうのはぴったりかもしれないわね。
「それで、藍と私はどうだったのかしら?」
「はい、藍さまはキリっとしてて、透き通るような感じがするけど、…可愛いなって思いました!それで何だか胸がどきどきするんです。紫様、どうしてですか?」
「あらあら、不思議ね。でも私が言っちゃうと良くないから自分で考えてみなさい。貴女に必要なことなのだから。」
「うー…」
――ふうん、確かに意識して発音してみるとそういう風になるのかもしれないわね。藍がかわいい、か…橙にそう思われてるって知ったらどんな顔をするのかしら。今度言ってみましょう。それにしてもこの子もおませね。まだ自分自身の本当の気持ちには気づいていないみたいだけれど、これからが楽しみだわ。
「…それで紫様は…えーっと、不思議な気持ちになります。掴みどころが無くてふわっとしてような…なんて言ったらいいか分かんないです…」
――ふうむ。私の名前は音にするとそういう風にとられているのか…なんだかいつもと同じような気がするけど、それでいいのかしらね。寂しい気はするけど。
「でも、何だか包まれてるようで優しい気持ちになるから、紫様も好きです!」
「まあ、嬉しいこと言ってくれるわね。ほらほら~」
「うにゃぁあ~ん♪」
わしゃわしゃと膝もとの橙を撫でまわす。もぞもぞと身を捩じらせながらも気持ちよさそうにしている様を見ると嬉しそうだ。こんなにストレートに喜ばせてくれる言葉を紡ぐには少しばかり勇気がいるものだ。あまり立場上そんなことを言うのも柄じゃないのもある。決して性格が悪いとか、捻くれているとか、そういうことじゃない。
「包まれているって言えば、この幻想郷も紫様の結界に包まれているんですよね!紫様が幻想郷を作ったんですよね?すごいです!!」
――私だけではないし、正確には博霊大結界なんかも絡んでくるんだけども、今説明してもちゃんと理解してくれるかしら?いえ、無理に理解させようとすることは無いわね。いずれ時が来たらちゃんと教えてあげましょう。包まれている、か…良い表現ね。
「ゆかりさまっ」
ばっ、といきなり紫の膝元から降りると、ちょこん、と紫と対面する形で正座の姿勢をとる。子供の思考というものは良く分からないもので、見ていて飽きないが、何をする気なのか、紫は少しの驚きと共に笑顔のまま、橙に先を促す。
――今思ってることを言いたい。紫様が好きだから。もう知ってるかもしれないけど、私が口に出して、分かってもらいたいから。
「紫様は、幻想郷を作ってくれました」
「ええ」
「私は、この幻想郷で生まれました」
「ええ、そうね、あなたはこの幻想郷で生まれました」
「私は、この幻想郷が大好きです」
「あら、嬉しいわ。ありがとう」
「紫様…」
「なあに、橙?いってごらんなさい?」
紫は、いつにもなく緊張しながらたどたどしく言葉を発する橙をみながらも、同じく緊張していた。そこには淡い期待が混じると共に、不安もある。目の前に座っている相手は、少しうつむいていて、次の言葉までたどり着くのに時間がかかりそうだ。
10秒なのか、1分だろうか、それとも5分ほど経ったのだろうか、紫はいつも通り笑みを湛えながらも背中に汗が流れるのが分かる。それほど長く感じた時間の後、意を決したかのように、ぐっとまっすぐな、どこまでもまっすぐな瞳をこちらに向けて、紫へと、
「幻想郷を作ってくれてありがとうございました!紫様のおかげで、私はここに生まれることが出来ました!紫様のおかげで、大切にされることの嬉しさを知りました!紫様のおかげで、わたしはこんなにも幸せです!」
拙いながらも、全身全霊の気持ちを込めた感謝の言葉。期待と不安が入り混じっていた紫の眼が、いつも余裕のある笑みを浮かべる妖怪の賢者が、瞳を大きく開く。
――幻想郷ができてどれだけの歳月が経っただろうか。どれほどの命が救われ、または犠牲になっただろうか。私の考えに賛同するものがいれば、反対するものもいた。そこには争いも生じ、多くの血が流れ、それでもなお、私は追い求める理想郷を作るために努力を惜しまなかった。誰にも気づかれず幻想郷を護り、誰にも理解されることなくひたすら結界を張り、維持し。やっていることが正しいのか、本当に正しいことなのか、分からなくなってきた。そんな私に藍はついてきてくれた。式だから、というだけでは無く、尊敬して、彼女自身の意思として、私の傍にいてくれた。それだけで十分だった。
「…紫様…?」
橙の目の前に座っている紫は、目を見開いたまま、動かない。まるで今話したことに頭が追いついていかないかのようだ。
――身近にいる者たちでさえも、宴会をしたり、普段から軽口を言い合ったりしてはいるものの、そんなことを言われたことは無かった。励ましの言葉も無く、ただ結界の綻びを見つけては、修復し、見回りをする日々がもう数えるのも億劫なくらい続いた。私が支えている、支えなくては、と思うものの、心のどこかでは投げやりな気持ちになったこともあった。報われない日々が辛く、人知れず、誰もいない空間で泣いたこともあった。
それが今、目の前にいる、私の10分の1にも満たない程度にしか生きていない、まだまだ未熟なこの橙に、救われた。全て報われたのだ。間違いなく、やってきたことは正しかったのだと。ありがとう、と。
思わず紫の眼から涙があふれそうになる。しかし、その涙が流れるよりも前に、目の前の橙を抱きしめた。感謝するように。その存在を確かめるように、ぎゅっ、と。
「橙、橙。ありがとう。この幻想郷に生まれてきてくれて、ありがとう。こんな私と出会ってくれて。あなたのおかげで、私は今、全て救われました。ありがとう」
「ゆかりさま…私もありがとうございます。紫様に少しでも恩返しが出来て、すごく嬉しいです!」
「橙…!」
初めて紫は泣いた。悲しみの涙でも、苦しみの涙でもなく。ただただ嬉しくて、泣いた。橙から紡がれた言葉のひとつひとつをかみ締めながら。何百年とやってきたことが、初めて肯定されたのだ。本当は幻想郷に暮らす者達が感じていながらも、感謝していながらも、一度たりとも紫に言われなかった言葉、届かなかった気持ちが今、やっとのことで届いたのだから。
~~~~~~~~~~~
夜も更け、人間達が寝静まり、妖怪達が跋扈する時間。橙は人間と同じように床に入り、規則正しい寝息を立てている。その顔は幸せそうで、小さな身体いっぱいに生を享受しているかのようだ。もしかしたら、この幻想郷で一番幸せな顔をしているのかもしれない。
部屋を変えて紫の寝室。藍は紫と遅めの晩酌を楽しんでいた。宴会のときのような賑やかさは無いものの、静かに、ゆったりとお酒の味を愉しむ。この一時には紫も言葉少なく、永い時を共に重ねてきた2人だけの時間を堪能している。
気のせいだろうか、藍から見て紫は橙と3人で一緒にお昼を過ごしてからは、上機嫌に見えた。はしゃぐ訳でもないが、いつもより優しく、母性に溢れるような、そんな雰囲気を醸し出していた。
「紫様、今日はとても機嫌が良かったようですが、何か良いことがあったのでしょうか?」
藍は紫と橙とのやりとりを知らない。気づいたときには2人とも嬉しそうで、特に橙は紫にべったりとくっついて離れようとしなかった。主として、少しやきもきはしたが、問題ないようだった。
「あら、そう?…ふふっ、藍、こっちにいらっしゃい。」
「はあ」
杯を置き、こちらへ手招きする紫。悪戯をするような様子も無く、ゆっくりと紫の目の前まで移動し、座ると、突然抱きしめられ、一緒に布団の上へ寝転がる。
「わっ、紫様!?」
藍の帽子を外し、そっと床に置くと、紫は大きな耳を撫でる。藍がまだ幼い頃にして貰った時のように。その手つきは優しく、母親のように。
「ゆ、ゆかりさまぁ」
懐かしい感触にいつもの凛とした声は無く、ほとんど抵抗もしない藍。橙の言っていた通り、藍は可愛い、というのは本当だな、と紫は心の中で思う。
「ええ、今日はとてもいいことがありました。藍」
「は、はい!」
「藍。私の式になってくれてありがとう。私に付いてきてくれてありがとう。あんなにいい子を式にしてくれてありがとう。私は、あなた達のおかげで、八雲紫でいることが出来る、ということに今日気付きました。あなた達がいてくれて、本当に幸せです。」
「紫様…私もありがとうございます。私を式にしてくれて。幻想郷を護ってくれて。私には、紫様も、橙もいて、本当に幸せです」
「藍…」
紫の藍を抱きしめる力が、藍が紫を抱き返す力もまた、強くなる。橙と同じように、藍も心から紫に感謝している。近すぎたが故に言えなかった言葉。ようやく伝えることが出来て、彼女もまた救われたような気持ちになった。
幼い黒猫から生まれた言葉が、世界を幸せに導いていく。何物にも変え難い幸せで静かな時間。この平和を護り、また人知れず紫は幻想郷を管理する。もう今では後ろ向きな気持ちになることは無い。自分がやっていることが正しいと、心から想い、愛してくれる大切な家族がいるのだから。
橙は本当に純粋で真っ直ぐで良い子やー!!
ゆかりのふと垣間見させるのが
作者さん。
暖かい話を、ありがとうございました。
幻想郷の影の大黒柱ゆかりん、報われることの少ない彼女に、このような素敵な感謝の気持ちを贈るSSに出会えて良かったです。
ゆかちぇん本当に大好き。