「うーん、今日も絶好の驚かし日和ね」
穏やかな陽の光を全身に浴びながら、少女は手にした傘ごと腕を広げ、大きく伸びをした。
両の手と同時に天を仰ぐ少女の瞳には、どこまでも澄み渡った雲一つない大空が飛び込んでくる。
まるで水色の絵の具を溶かし込んだような晴れ空は、飛び込めば泳げてしまえそうな水面を思わせ、
見上げる少女の心を弾ませるには充分な様相を呈していた。
三月も半ばに差し掛かり、あれほど肌を刺した冬の寒気が嘘のように、暖かな春の気候が幻想郷を包んでいる。
遥か上空に浮かぶお天道様も、最近になってようやく職務に熱を入れたのか、文字通り日差しも随分と暖かい。
春の柔らかな日差しに眠気を誘われることを除けば、今日は外で活動するにあたって、絶好の日和であった。
「さぁて……、獲物はどこかな……」
舌なめずりをしながら少女は目を凝らす。ぎらぎらと妖しい光を宿す両の眼は、しかしあまりにも常軌を逸していた。
人の瞳の色は左右対称。それは普遍的な認識。
しかし、彼女は違う。
右の眼には寒々とした雨のような青を、左の眼には鋳った鉄のような赤を、それぞれの瞳に宿していた。
虹彩異色症。別名オッドアイと呼ばれる、左右の瞳の色が非対称の状態で生まれてくる先天的症状である。
多くは犬や猫に現れるものだが、極稀に人間にも発現する。
ならば彼女のそれも、その稀有なケースなのかと問われれば、果たして、無条件に肯定することは憚れた。
それと言うのも、少女は人間ではなかったからである。その証拠に、異形は瞳の色だけに留まらない。
少女がずっと手に握り締めている大きな傘。無機質であるはずの傘からは、しかし異様な気配が漂っていた。
おどろおどろしいとでも言うべきか。ぎょろりと見開かれた大きな目に、生々しい質感を呈した長い舌。
奇を衒った意匠と言えばそれまでだが、残念なことにあまりにもリアルなそれらは装飾などではありえなかった。
もはや生きている傘としか形容できない異形の傘は、まさしくその通り、少女の身体の一部として生きている。
人の姿をしていながら、人ではありえない気質を持つもの、人はそれらを、妖怪と呼んだ。
人を脅かし、時には生命さえ危ぶめる存在、人類の敵。それが妖怪に対する一般的な人間の認識である。
妖怪であるからには、彼女もまた然り。快晴の空を思わせる明るい青色の髪を左右に小さく揺らしながら、
番傘を握った妖怪少女は虎視眈々と獲物を探す。人を脅かしてこそ、少女はその生を謳歌できるのだから。
街道を歩くこと数分、ようやく少女の眼に一人の男の背中が映った。出掛けか帰路か、それは定かではないが、
風呂敷に物を包んで肩に担いでいる様子を見るところ、行商人か何かだろうか。何れにしてもチャンスだ。
唇の端を僅かに釣り上げたその可愛らしい顔には、しかし似つかわしくない捕食者の笑みが浮かんでいる。
ざくり、と下駄の歯が砂利道を踏み締める音を鳴らしながら、ゆっくりと、着実に、妖怪は人間に這い寄った。
少女は人が恐怖、不安、憂慮、畏怖、懸念などの感情を抱いた際に発せられる負の概念を喰らう妖怪である。
その妖怪のぎらついた目が言っていた。背筋が芯まで凍りつかんばかりの驚駭を味わわせてやる、と。
やがて、双方の距離は詰まりに詰まり、妖怪と人間の間合いは、一足の下に飛びかかれるまでに至る。
無警戒極まりない背中を晒し、背後に毒牙を忍ばされた人間に、もはや余命は幾許もなし。
人間を慄然へと誘うが為、妖怪少女は呪言を伴い、哀れな獲物目掛けてその身を迫り出した。
「うらめしやー!」
その呪いの言霊は、言葉の意味合いと語調が余りにも不釣り合いな、あるまじきコラボレーションを奏でていた。
発言自体は異色だが、明るく元気な語調はむしろ、少女の可愛らしい容姿に寸分の違和感も与えない。
恨めしや、などと口では嘯く少女は、言葉の調子だけでなく表情までも晴れやかな笑顔を浮かべていた。
それにしたってこれでは、もはや驚けとなどと言われても、無茶振りだと蹴り返すより他にない。
晴れ空を思わせる澄んだ明るい声は、もはや恨み言の意味など持とうはずもなく、まるで、そう、
道行く人に、顔見知りの隣人に、一つ屋根の下にともに暮らす家族に、普段から交わす挨拶にさえ聞こえた。
その声に、男も気付いて振り返る。当然のことだが、その表情には恐怖の感情など欠片も見えはしない。
最初こそ不思議そうな顔をしていた彼は、しかし少女の姿を確認すると、すぐに破顔して応えた。
「誰かと思えば小傘ちゃんじゃないか。こんにちは、いい天気だね」
「あ、八百屋のおじさん。こんにちは」
顔を合わせて初めて気付く男性の正体。彼とは既知の間柄で、人里で八百屋を営んでいる男性であった。
なるほど、行商用の商品入れかと思っていた風呂敷には、野菜やら果物なんかを入れているのだろう。
何故この時間帯に店におらず、こうして大きな風呂敷を背に街道を歩いているのかはとんと見当がつかないが、
特に詮索するようなことでもないし、それよりなにより、結局驚かせられなかったと言う事実の方が問題だった。
が、小傘と呼ばれた少女は、もはや驚かせようとしていたことさえ記憶から抜け落ちてしまったのだろう。
気付けば八百屋の主人と立ち話に花を咲かせていた。
そもそも二人はどうした経緯で互いを知ったのか。それは二週間ほど前の今日のような晴れの日のことだった。
同じく街道で人間を待ち伏せて驚かせてやろうと目論んでいたものの、成果はなし。
ほとほと疲れ果てた様子でその日最後に目標に定めたのが、目の前の彼だった。
結局この八百屋の店主も驚かせるには至らなかったが、しょぼくれた様子で立ち去ろうとする小傘に声をかけ、
持っていたりんごを与えてくれたのである。去り際に小傘の腹の虫が癇癪を起したのを耳にしたのだろう。
物理的な食事で、彼女の存在意義と言う空腹を満たすことは出来ないが、それでも、小傘は嬉しかった。
驚かそうと試みた人間たちは、その全てが小傘に訝しげな表情しか見せずにすぐに立ち去ってしまった。
まるで自分の存在さえ吐き捨てられたような気さえした。驚かれない妖怪になんの価値があると言うのか。
そんな折に、彼は初めて小傘の存在に触れてくれたのだ。驚かれはしなかったけれど、当時の小傘はそれだけで十分だった。
元々この男性は、妖怪だろうと人間だろうと、意思の疎通が出来れば分け隔てなく接し、商売に応じると、
人里の住人や、知能が高く理性的な妖怪の間でも評判の一風変わった八百屋の店主だったのである。
出会って二週間足らず。それでも、二人は十年来の知人のような朗らかな雰囲気で談笑を続けた。
「この先にある、命蓮寺って言うお寺に参拝に行った帰りでね。色々と為になる説法を拝聴賜ったものだよ」
「へー、ちょっと前までそんなところにお寺なんてなかったのに」
「ああ、つい最近出来たみたいだよ」
歩いてきた道を振り返りながら、小傘に視線を促す。八百屋の店主に倣って小傘も目を凝らすと、
確かに視線の遥か先の小山の麓には、寺と思しき大きな建造物と、それを取り囲む境内が見えた。
しかし、小傘は首を傾げる。特定の場所に居を構えることなくふらふらと飛び回る根無し草の彼女は、
幻想郷の空をあてもなく飛び回っているおかげで、必然的に幻想郷の地理にもそれとなく精通していた。
小傘の記憶が正しければ、ここ最近まで、あの場所には寺など存在せず、更地にも近しかったはずだ。
八百屋の店主はつい最近出来たようだ、と言っているが、張りぼてではあるまいし、あんな大きな施設、
多く見積もってもたった数日程度で完成するとは到底思えない。しかし、現に寺はそこにあった。
存在するものは存在しているのだから、不可能だの何だのと言ったところで、結局は不毛でしかない。
腑に落ちない小傘ではあったが、考えたところで真実が判るわけでもなし、今は談話に興じることにした。
「人里のみんなも結構参拝に行ってるようだし、小傘ちゃんも行ってみたらどうだい」
「んー……、おじさんがそう言うなら」
よっぽど件の命蓮寺とやらがお気に召したのか、終始笑顔の八百屋の店主は、小傘にも参拝を勧めた。
まさかの提案に、当然小傘は困ってしまう。参拝なんてものは、人間が寄る辺を求めて赴くものだ。
一介の妖怪である小傘に、これ以上不釣り合いな行儀もそうはあるまい。しかし、その一方で小傘は思う。
でも、八百屋のおじさんが折角言ってくれているわけだし、無碍にするのも申し訳ないなぁ……。
そんな小傘の葛藤に気付いたのだろうか。どこかばつが悪そうに笑って誤魔化し、八百屋の店主は取り繕った。
「ははは、そう言えば小傘ちゃんは妖怪だったね。お寺や神社は苦手かな? 勿論、無理強いはしないさ」
「苦手、ってことはないかなぁ。意識したこともないかも」
「お! そうかいそうかい。それなら、気が向いたら行ってみると良い」
「うん、そうする」
あくまで行って欲しい姿勢は崩さないか。尤も、自分の嗜好をむやみやたらに押し付けているわけではなく、
小傘にとっても有益なことと、つまりは小傘の為を想って言ってくれているだろうことは安易に理解できる。
実際、小傘本人も言うように、神社や寺院に対する抵抗感もほとんどない彼女に、これと言って断る理由はない。
ただ、快諾を渋ったのは、単に参拝と言う行儀自体に大した魅力も、興味の欠片も感じられなかったからである。
最初は難色を示されはしたものの、結果的には色よい返事を貰って、八百屋の店主は随分と嬉しそうだった。
無理強いはしない、とは言っても、やはり参拝して欲しい気持ちは揺るがないわけで、
さてもここまで人を魅了してしまう命蓮寺とやらに、小傘も僅かな興味が沸かないわけでもない。
人を魅了すると言うことは、人の心を捉えると言うこと。それは小傘のレーゾンデートルに繋がることである。
人を驚かせると言うことは、人の心を揺さぶると言うこと。
どちらも、人の心理を読み取り、いかにしてそこに働きかけるか、そこに共通点があった。
ひょっとすると、そこに行けば人を驚かせるための何かしらのヒントを得られるかもしれない。
根拠などどこにもありはしないが、ぼんやりと考える小傘の脳裏には僅かな期待が見え隠れする。
それに、里の人間も多くが参拝していると言うし、探さずとも獲物が選り取り見取りなのは間違いあるまい。
気付けば、小傘は命蓮寺に対してそれとない興味を抱いていた。行ってみるのも悪くはない。
しかし、それはあくまで単なる好奇心からであって、参拝が目的ではないことは言うまでもないだろう。
小傘は意を決すると、僅かに俯いていた顔をあげた。それとほぼ同時に、八百屋の店主も口を開く。
「おっと、そろそろ戻らないとな。名残惜しいけど、かかあにどやされるのは勘弁だ」
「へえ、奥さん怖いんだ?」
「そりゃあもう。その怖さたるや例え妖怪だって裸足で逃げ出すほどさ」
「ひええ……」
思わず身震いする小傘。少々大袈裟なリアクションにも思えるし、八百屋の店主もそう思って笑ってはいるが、
どっこい、小傘は本気で戦慄していた。素直と評価するべきか、それとも純粋と言うべきか、さては天然なのかか。
何れにせよ人間を驚かせようとする妖怪が、その人間の誇大表現に驚かされているようでは、お話にもなりゃしない。
そんな小傘だからこそ、命蓮寺で何かを得られれば、と考えたのかもしれない。自己啓発と言うやつだろうか。
「それじゃあ、また―――と、そうだ、これをあげよう」
「え?」
別れを告げようとした八百屋の店主は、ふと何かを思い出したように言葉を飲み込み、背負っていた風呂敷を開いた。
中から何かを掴んで取り出すと、それを小傘に向けて差し出す。反射的に手を出した小傘の掌の上には、
真っ赤なりんごが一つ、まるで向かい合うように置かれていた。思わず顔を上げる小傘の双眸に、笑顔の店主が映った。
「え、これ……、いいの?」
「ああ、勿論。と言っても奉納品の余りで申し訳ないけどね」
「ううん、どうもありがとう!」
「喜んで貰えて嬉しいよ。それじゃあ、今度こそ、またどこかで」
「うん、またね!」
八百屋の店主は風呂敷を背負いなおすと、小さく手を掲げて別れを告げ、人里へ向けて踵を返した。
その背中が見えなくなるまで小傘は大きく手を振って見送り、やがて静かに掲げた手を降ろす。
さっきまで賑やかだったこの場所も、一人ともなれば随分と静かで寂しい。
ほんの僅かな時間佇んでいた小傘は、その後すぐに踵を返し、去って行った八百屋の店主と逆方向に歩き出した。
歩きながら、手に握られていたりんごを一瞥する。甘くて美味しそうなりんごの表皮を袖で拭い、しゃくり、と一口齧った。
口内に広がる爽やかな果汁。りんごの甘酸っぱさが舌を通じて脳を刺激する。小気味良い歯応えも美味しさの秘訣だ。
物理的な食事で腹が満たされることはない。でも、この胸の内が、なんだかとても満足しているのは、どうしてだろう。
しゃくしゃくと、命蓮寺へ向かう道を歩きながら、小傘はぼんやりと疑問を脳裏に、ただただりんごを齧り続けた。
「ふあー……、でっかい」
遠目から見てもその大きさはかなりのものだと予想はしていたが、実際目の前までやってくるとその大きさは特に顕著に映った。
命蓮寺の正門を少し離れた場所から見上げながら、小傘は間の抜けた声で思ったままの感想を口にする。
驚くのも無理はない。これは小傘でなくとも同じことだ。命蓮寺の正門は、長い階段を昇った先に存在する。
つまり、小傘が立っている場所と境内の高さは大きく差が開いており、本堂ともなれば、その所在はさらに奥になるだろう。
それらを踏まえた上で、驚くべきことが、見上げる小傘の双眸に映っていた。通常、これだけ高低差があれば、
どんなに高かろうとも、見上げたところで正門と境内を取り囲んでいる外壁以外死角になって見えるよしもないが、
こと命蓮寺に至っては、そんな常識になど囚われることもなく、見上げた先には巨大な本堂がその姿を拝させ、
下界の全てを見通す御仏のように、厳粛な様相を呈していた。
「あ……、と……、んー、どっから入ろう」
たっぷり十数分は外から命蓮寺を見上げてその存在感に圧倒されていた小傘は、ようやく我に返ると、
見上げていた視線を今度は右に左に振り動かしながら、境内に侵入すべき経路を模索し始めた。
正規の入り口は先程まで見上げていた視界の端に映っていた正門なのだろうが、そこを通ることは憚れた。
そこは何も、閉門されているわけでもなければ、入場するにあたって、特に許可が要るわけでもない。
今現在も、幾人かが出入りしている現状を鑑みれば、小傘も当然理解できることであろうが、
しかし小傘はどこから入ろうかと思案するばかりで、正門をくぐるつもりはやはり毛頭ないようであった。
それも当然のことかもしれない。小傘はヒントを見出しに訪れたのであって、参拝が目的ではないのだから。
そもそも、妖怪が寺院に堂々と正門から訪ねようなんて、滑稽と言うより他にない。小傘はそう思って譲らなかった。
一見すると屈託のない天真爛漫な彼女だが、その実、自尊心が高く、非常に負けず嫌いの直情型でもあった。
今回の一件は、そのプライドが邪魔をして変に意地になっているだけなのだが、おそらく当人は自覚してさえいないだろう。
何故なら、小傘の尤もたるが、天然気質であるからだ。無自覚な意固地ほど厄介なものも、そうはあるまい。
周囲を見回すだけでは視界に入るだけの情報しか得られないと、小傘は正門から遠ざかるように歩き出した。
外壁に沿って見て回れば、どこかに裏口のようなものが見つかるかもしれない。最悪外壁を飛んで越えてもいいだろう。
尤も、さすがにお行儀が悪いのでそればかりは最終手段だ。特に急ぐ必要性があるわけでもなし、
小傘は散歩の延長線のような暢気な足取りで、命蓮寺の周りを徘徊することにした。
どこで覚えたやも定かではない鼻歌を奏でながら、実に暢気な足取りで歩くこと数分、
外壁の角、つまりは正門のある一面の端にあたる場所に、幅の狭い階段を見つけた。
階段の右側は壁に沿っており、左側は開けっ広げの小山の傾斜が見える。言い表すならば非常階段と言ったところか。
外壁に沿って備えられている階段は、境内を高所に築くために利用した小山の傾斜に沿って上へと伸びていた。
十中八九、勝手口か何かだろう。一も二もなく、小傘は即座にここから忍び込もう、と心に決めた。
日の当たる場所で堂々と構えた正門よりも、いかにも裏口と言わんばかりのそここそが、日陰者の妖怪に相応しい入り口だ。
「せっかくだから、私はこの狭い入り口を選ぶぜ」
なにがどうせっかくなのか。
それは定かではないが、どこか悪戯っぽい笑顔とおどけた口調から察するに、冗談に近い独り言なのだろう。
左右をきょろきょろ、周囲には誰もいない。状況は良好。こっそり侵入するなら今の内、だ。
小傘は立っていた場所から素早く身を隠すように、ひょいと二段飛ばしで階段に飛び移る。
しかし、それがいけなかった。飛び乗るに際して、傘を広げたまま両手に握っていたものだから、
小傘の身体よりも随分と左右に幅の広い傘が、すぐ隣に面している壁にぶつかってしまったのだ。
「さでずむッ!?」
セルフ的な意味で。
傘が壁を小っ突いた衝撃でバランスを崩した小傘は、履いていた下駄の歯を角から着地させてしまい、
当然のように踏ん張りが効かず、左足首を内側に向かって思いっきり折り曲げてしまった。
そのまま崩れ落ちるように階段から転がり落ちた小傘は、声にならない悲鳴を挙げながら、しばらくの間地面をのた打ち回る。
人間よりひたすら丈夫な妖怪でも、意図せぬ足首の捻挫はやっぱり痛いらしい。
一頻り悶絶した小傘は、痛む足に鞭打って立ち上がると、目に涙を溜めながら自らに言い聞かせるよう呟いた。
「ま、負けないもん……!」
階段一つ昇ろうとするだけでたっぷり数分間もがき苦しめるあたり、もはや一種の才能なのかもしれない。
涙目になりながらも、小傘は歯を食いしばって立ち上がる。足は折れても、心は折れない。尤も、ただの捻挫である。
でもやっぱり二の轍は踏みたくないのだろう。今度は慎重に第一歩を踏み進めた。
勿論、傘も小突けないように横に逸らして持ち直している。閉じればよさそうなものだが、唐傘妖怪である手前、
常に傘を差していることが、アイデンティティのようなものなのかも知れない。
正門に続く階段も随分と長かっただけあって、当然この階段も非常に長く高かった。しかも幅が狭い上に手摺もないときた。
後ろを振り返ってみると、崖にも等しい急勾配に、思わずくらりと身体が吸い込まれそうになる。
小傘も当然空を飛ぶことも出来るが、浮け、と思えばそれで簡単に身体が浮き上がってくれるわけでもなく、
飛ぶことに意識を集中しなければならない手前、一度転がり落ちてしまえば、飛び上がって難を逃れることも難しい。
いくら妖怪でも、高い所から転がり落ちれば、ただでは済まないことを本能に刻み込まれているのだろう。
背後を凝視しながら、小傘は華奢な身体を小さく震わせると、今度は脇目も振らずに足早に階段を昇り進めた。
小走りでこれだけの距離を昇り切れば、常人ならば息を切らしてもおかしくはない運動量だが、
流石に小傘も妖怪の端くれ、呼吸一つ乱した様子もなく、踊り場のように柵で囲われた終着点で、目の前をじっと凝視していた。
頂上には人一人が通れる程度の小さな木製の戸が、外壁を穿って立て付けられており、
取っ手を見たところ閂で閉じられているようであった。小傘はしばしの思考の後、取っ手を掴むと、それを左に滑らせる。
するとどうだろう。思いのほか呆気なく閂が外れ、壁に固定されていた戸が小傘の腕に引かれるままに開いた。
どうやら鍵はかかっていなかったらしい。不用心だな、と思いつつも、しかしこの戸など比べ物にならないほど大きな正門が、
常日頃から開放されているあたり、錠掛けしていようがいまいが大差はないのかも知れない。
小傘は後ろ手で戸を閉めると、恐る恐る、などと縮こまった姿勢は一切見せることなく、ずかずかと境内に足を踏み入れた。
確かに開放的ではある命蓮寺だが、こっそり裏口から侵入している手前、もう少し慎重に事を進めるべきではなかろうか。
行動力はあるものの、行き当たりばったりで結果が伴わないことが多い小傘であればなおのこと。
考えるよりもまず行動。そのスタンス自体は結構なことだが、しかし必ずしもいい結果が生まれるとは限らない。
浅慮な行動であれば尚更だ。そのあたりがどこか無防備な印象を抱かせる所以であるのかも知れない。
いくつか並んでいる倉のような建物の間を縫うように通り抜けると、その先には開けた境内が広がり、小傘を出迎えた。
巨大な本殿の前に鎮座する拝殿だろう建物に、参道を挟んでいくつかの僧房が寄り添うように配置されている。
周囲は丁寧に剪定された背の低い植木と白い玉砂利が敷き詰められ、石畳の参道を淡く彩っていた。
全体的に感じられる無駄のない質素なイメージの中に、心がすとんと落ち着くような、厳かな雰囲気が漂っている。
俗世の喧騒から離れ、しんと静まり返ったこの場所は、どこか時間の流れが緩やかになったようにさえ思えた。
一見するととても寂しく思える質素で枯れた空間に、しかし確かな味わいと趣を肌で感じる。
これと言った教養のない小傘にも感じられる侘寂の世界が、そこにはあった。
「なうい……」
意味は判らないが、おそらくは無意識に零れた賞賛の言葉だったのだろう。小傘の目の前に広がる光景はそれだけ魅力があった。
しばらくの間、ぼうっと境内に見惚れていた小傘は、ふと我に返ると頭の中を切り替えるべく何度か左右に首を振る。
いつまでもこうしているわけにはいかない。感慨ごと振り払うように頭を振った小傘は、足早にその場から移動した。
命蓮寺の厳かな空気に気圧されたからだろうか、先程までの堂々たる歩調はどこへやら、今になってなりを潜めるように、
小傘は建物の陰に隠れながら移動していた。まばらに歩く参拝者たちの姿を遠くに眺めることが出来るのは、
ここが正門からだいぶ離れているからだろう。これだけ離れていれば、奇妙な居出立ちの小傘の存在にも、
そうそう気付かれることはあるまい。それでも姿を見られれば遠目からでも一発なので、遮蔽物に身を隠すのが賢い選択だ。
尤も、小傘は上手く隠れているつもりだろうが、実際に隠れているのは少女体の方だけで、
傘体は物陰からばっちり顔を出してはいるのだが、もはやツッコミを入れることさえ野暮と言うものだろう。
侵入してみたはいいものの、これと言って何か明確な目的があったわけでもなく、小傘は気の向くままに歩を進めた。
ここが寺院だからだろうか。随分と安心しきった無防備な姿を晒して往来している人間たちが嫌でも視界の端に映る。
まさか、妖怪が忍び込んでいようなど、露にも思ってはいまい。尤も、多少妖怪の質に問題があることは割愛しておく。
その度に、小傘の脳裏に、ここぞとばかりに驚かせてやろう、なんて考えがよぎるが、相手はまばらとはいえ多数。
さすがの小傘でも、多人数を相手にすることが無謀だと言うことは、重々承知していた。
一人一人では脆弱な人間も、結託した際の爆発力は、妖怪には理解できない不可思議な力を秘めている。
参拝者たちが往来する参道のど真ん中で誰か一人を驚かせようものなら、次の瞬間には憂き目に遭うことは明白だった。
ゆえに、狙うべくは一人のときだ。しかし、この幻想郷。安全が約束された場所は意外なほど少なく、
それ以外は数多の野良妖怪が跋扈しているのが現状である。基本的に人間たちはそれらに対抗すべく徒党を組み、
安全圏外においては、おいそれと一人になるようなことはない。また、一人で野山を行く人間がいたとして、
それらの多くは対妖怪戦闘のエキスパートであることが多く、迂闊に手を出そうものなら、必ず痛い目を見てしまう。
ある日を境にそれを知った小傘は、人間を驚かせるに際しては入念な観察を行うようにしていた。
だから、最初は常に相手の出方を伺っているのはその為であって、決してびびっているからではない。
しばらく様子を見てみたが、この調子では正門から続く参道で驚かせる好機に恵まれることはないだろう。
端から人間を驚かせる目的でここにやってきたわけではないのでそれ自体に問題があるわけではないのだが、
しかし、せっかく目の前に多くの獲物がいると言うのに、手を拱いてしまう現状がなんとも歯痒い。
尤も、仮に好機が巡ってきたところで、確実に驚かせることの出来る保証など、雀の涙程度もありはしないのだが。
「それにしても、広いなぁ……、っと?」
なんとはなしで漫然と歩いていれば、独り言の一つや二つ、否が応にも口からこぼれ出てしまう。
拝殿だろうか、比較的大きな建物の裏を歩きながら、今日何度目かも知れない独り言を呟いたその瞬間、
小傘は前方に人影を見つけて、すぐさま近くの遮蔽物に身を潜めた。そっと物陰の端から顔を覗かせる小傘と、
八割方身体を露出させた傘が前方の人影を見やる。ちなみに残り二割は柄の部分である。
小傘の視線の先にいたのは、白い服を着た小柄な少女だった。肩口まで伸びた緩やかなウェーブを描く黒い髪の上に、
変わった形の白い帽子を乗せている。見えているのは後姿だけだが、なんだかその背中からは、妙に生気を感じられない。
今まで対面した人間、即ち小傘が驚かせられなかった人間たちは、基本的に生き生きとした者たちが多かった。
活力に溢れていれば肝が据わっている、などと簡単には断言出来ないが、少なくとも気弱なびびりではないだろう。
つまり、逆に言えば生気を感じられない目の前の少女なら、もしかすると驚いてくれるんじゃあないか。
根拠こそなかったが、小傘はそう考えた。きっと気が弱いから感じられる生気がおぼろげなんだ、と。
そうと決まれば話は早い。ここは建物の裏。表参道からは死角になって見えないし、何より少女と小傘は二人きり。
邪魔者なんてどこにもいない。逃げ場だって与えるものか。気付かれていない今こそが最大の好機。
にたり、と唇の端が自然と吊り上がる。両目に宿す光も燦爛と輝く。ああ、判る。今、私はひどく昂ぶっている。
何をしているかは知らないし、関係もない。小傘は一切の慈悲も感じさせぬ躊躇いを持たない着実な足取りで、
無防備な背中を向けたまま屈みこんでいる少女に忍び寄る。少女との距離は十間程度も離れてはいない。
一歩、二歩、三歩……、やがては気付かれることなく、一足で飛び掛かれる距離まで詰め寄った。
何かしらの作業でもしているのだろう。随分と集中しているようで、こちらの接近に僅かも気付いた様子がない。
このまま背中を思いっきり両手でどついてやろうか。それとも耳元でうらめしやと声を張り上げてくれようか。
何れにしたって、どんな人間も不意を突かれりゃ吃驚仰天阿鼻叫喚。びびりにびびった口から飛び出た心臓を拝めるレベルだろう。
どっちかなんて選べない。どうせなら、うらめしやと叫びながら背中をどついてやるとしよう。まさかのダブルパンチ。
これは驚きすぎてショック死してしまうかもしれない。我ながら、なんて恐ろしい妖怪なのだろう、多々良小傘。
接近に至るまでそんな思考を巡らせていた小傘は、機は熟したとばかりに、飛び掛かる前動作のため重心を低く構えた。
その瞬間、小傘よりも早く目前の少女が動いた。まさか気付かれたのだろうか。いや、普通気付けば振り返る。
しかし、少女は振り返ることなく、ただ立ち上がろうとしている様子を見る限り、気付かれた可能性は低いだろう。
かと言って、このまま立ち上がり、移動されるなり踵を返されるなりすれば、ただちに小傘の存在に気付かれるのは必至。
早急に手を打たなければ。一刻の猶予もない。小傘は意を決して、大きく一歩、両手を突出しながら前へ向かって迫り出した。
「うらめし――――ぎゃッ!?」
「えっ!?」
一瞬の出来事であった。
重心を低く構えていた身体を起こすように前に迫出た小傘は、少女が何かを担ぐようにして立ち上がった直後、
頭部に痛烈な衝撃が迸り、脅し文句よりもさらに大きな、悲鳴にも似た声を上げて顔面から地面に叩き付けられた。
いや、実際それは悲鳴だったのだろう。地面と強制的にキスを交わさせられた小傘は、地に臥してそのままぴくりとも動かない。
頑丈な妖怪であるはずの小傘が、完璧に失神している。それだけで、頭部へ貰った不可解な衝撃の威力を物語っていた。
そして、小傘の悲鳴によってようやくその存在に気付いた少女は、後ろを振り返って目を丸くした。
いきなり悲鳴が聞こえたかと思ったら、今度は足元に見覚えのない女の子が顔面から地面に突き刺さって倒れているのだ。
驚かないほうがどうかしている。小傘は勿論、少女にとっても、一体何が起こったのか、皆目見当がつかなかった。
しかし小傘だけは、一つ確信めいたことがあった。
それは、小傘が背後で悲鳴を挙げたことによって、少女が少なからず驚いた、と言うことである。
既に意識のない小傘ではあったが、もしかすると夢現の世界でそのことに気付いているのだろうか。
地面に臥して見えないはずの小傘の表情が、どこかしら僅かに、満足気に緩んでいるように思えた。
「うう……、さでずむ……」
最初に反応したのが聴覚。聞き慣れた自分の声が耳から脳を刺激して意識の覚醒を促す。
続いて、気怠げに開かれた目に、今度は見慣れない天井が映った。天井を見上げていると言うことは、
自分が今、屋内で仰向けに寝ていることを意味する。そう言えば、この状況、なんだか妙に心地いいことに気付いた。
おぼろげだった意識が次第に冴えてくる。それと同時に、心地よさの正体がはっきりとしてきた。
背面に伝わる、ふわふわとやわらかく、暖かな感覚。目で見て確かめるまでもない。
自分は、小傘は、どうした経緯か、今、布団の上に寝かせられていたのである。
上半身を起こすと、まだぼんやりとする視覚を出来るだけ凝らして周囲を観察する。
最初に目に入った壁には、どこを示しているのか定かではない大きな地図が張り付けてあり、
近くの柱には、円状の文字盤から八本の棒が飛び出た、所謂船の舵のような形をした時計が掛けられていた。
他にも、所々に飾ってある透明な瓶の中には、木と布で組み上げられた様々な形状をした船の模型が入っており、
さても小傘がどう思ったかは定かではないが、どこかしら船乗りの部屋、と言ったイメージを抱く様相を呈している。
それ以外は木製の質素なデスクセットとクローゼット、そして小傘が寝ていたベッドがある程度で、
全体的な雰囲気は実にプレーンな様相を呈していた。ただ、小傘の周り、つまりはベッドの上には、
様々な形、大きさのぬいぐるみが同伴しており、それだけで、どことなく女の子の部屋、と言うイメージもある。
果たして、ここはどこなのだろうか。周囲の様子を確認した後、考えをまとめるために視線を手元に落とす。
そこで、小傘はようやく自分が分身、つまり茄子傘を持っていないことに気が付いた。
慌てて再度周囲を見回すと、存在を忘れかけられていた傘は、ベッドの脇に立てかけられたまま目を回していた。
柄を掴み、傘を持ち直した小傘は、まるで意識のない人にそうするように、二、三度傘を側面から軽く叩く。
するとどうだろう。漫画チックに目の部分を渦巻いていた茄子傘の目に、いつものぎょろりとした目が再び宿った。
今の気付けで意識を取り戻したのだろう。大事ない、と小傘も安堵の溜め息とともに小さく笑みを浮かべた。
さて、傘も手元に戻って状態が万全となったはいいが、しかし、ここがどこなのかは、依然として判然としない。
このままベッドに腰を下ろしていれば、勝手に解決するわけでもなし。小傘は現状を究明するために、
とりあえず部屋の外に出ようと、ベッドから腰を浮かした瞬間――
「あ、気が付いた?」
「!」
――目指していた部屋の扉が独りでに開いたかと思えば、続いて小柄な少女が入ってきた。
少し癖のある黒髪に小さな帽子を乗せ、白を基調とした服に身を包んだ少女。
見ない顔だが、その容姿と服装、そしてどこか生気を感じさせないおぼろげな存在感を、小傘は確かに知っていた。
あのときは後姿しか見てはいなかったが、存在感が非常に希薄なこの気配ばかりは間違えようがない。
部屋に入ってきたこの少女は、小傘の意識が吹き飛ぶ前に驚かせようとしていた、あの少女であった。
少女は手に持っていた銀色のトレイをデスクの上に置くと、硬直したままの小傘に近寄り、気さくに声をかけた。
「良かった。頭、大丈夫?」
「えっ……、あた、ま? ……ッ!?」
次の瞬間、ずきり、と鈍い痛みが脳天を襲った。
今までなんともなかったが、言われて初めて意識したからだろう。
思わず小傘は小さく呻いて頭を押さえる。その痛みが切っ掛けで、今になってようやく思い出した。
気を失った原因が、何によるものかは定かではないが、頭部に対する硬質物の強打であったことを。
当初と比べて随分と痛みも引いているだろうに、しかし残る鈍痛は強かに小傘の頭を苛めた。
たんこぶが出来ていないのが不思議なくらいだ。もしかすると、逆に引っ込んだのかも知れない。
「うぅ……」
「だ、大丈夫? やっぱりまだ痛む? どうしよう。あまりひどいようなら聖に頼んで法術を……」
「あ、いや、その……、大丈夫。大丈夫だから。ちょっとびっくりしただけだから」
小傘が頭を押さえて痛がっているのを目の当たりにし、少女は慌てて覗き込む。随分と心配そうな声だ。
見ているこちらが申し訳なるほど身を案じてくる少女を見るに見かねて、小傘は思わず強がって見せた。
勿論、頭は痛むし、ちょっとどころか気絶するほどびっくりしたわけだが、今はそれを言及するつもりもない。
小傘が大丈夫だと念を押すと、少女は次第にその表情に安堵の色を取り戻した。
「そう、良かった……。ごめんなさい、私の不注意で……」
「う、ううん、気にしないで―――えっ? 不注意?」
危うく聞き逃すところだった、謝罪とともに紡がれたその言葉に、小傘は顔を上げて反応する。
今、この少女は、私の不注意、と確かにそう言った。それは、小傘が気を失った原因が自分にある、
と、つまりはそう言っているに等しい。考えても見れば、全くの赤の他人であるはずの少女が、
当初目の前で気絶した小傘がいたとして、しかしここまで親身になって心配してくれるものだろうか。
自分が元凶だ、と負い目を感じているがゆえの介抱だったとすれば、この処遇も納得がいった。
勿論、この少女が損得勘定抜きに他者を慮れる、いわゆる御人好しの類である可能性も否めはしないが。
しかし、まだ疑問は残る。小傘の脳天を殴打せしめたのが目の前の少女であることは確定したが、
問題は、どうやってそれをやってのけたか、だ。当初、少女は小傘に対して背を向けていたし、
そもそもその存在に気付いた様子さえなかった。そんな状態では、人間よりもはるかに頑強な妖怪の意識を、
一発で吹っ飛ばすような一撃が繰り出せたとは到底思えない。少女の華奢な身体つきを見ればなおのこと不可解だ。
どうにも腑に落ちない小傘は、気付けば少女に問うていた。
「あの……」
「え?」
「私の不注意……、って、あのとき私の頭を打ったのは、貴女なの?」
「ええ、そうだけど……、もしかして、憶えてないの? まさか、記憶が……?」
「あ、いや、違う、違うの」
頭を打った衝撃で、意識どころか記憶まで吹っ飛んでしまったのでは、と目を丸くする少女に、小傘は慌てて弁明する。
正直、ありえないとも言い切れないが、自分自身でさえよく判っていない現状を、これ以上ややこしいことにはしたくない。
身体を乗り出す勢いで案じてくれる少女を宥めながら、小傘は質問するに至った事情を説明し始めた。
「私も、正直何が起こったのか判らなくて……。痛い、と思ったら、気付いたときにはここにいて、
だから、貴女が原因だ、って言われても、ピンとこないと言うか……」
「ああ、そう言う……」
一瞬、小傘の記憶障害を案じた少女だったが、それが杞憂だったと判ると、胸を撫で下ろすように安堵の溜め息を吐いた。
しかし、安心したのも束の間、まだもう一つの問題は残る。謝罪したはいいが、当の小傘が全く覚えていなかったのである。
確かに、飛んでくる危険を認識する間もなく不意を喰らって一撃でのされてしまえば、そこで何があったかを知る由もない。
それなのに、私の所為ですごめんなさい、などと謝罪されても、当人にしてみれば、何がどうして貴女の所為なの? である。
事の一部始終を把握している少女にとっては、言い訳や余計のない実にスマートな謝罪だったが、
状況の判っていない小傘にしてみれば、ただの意図の判らぬ謝辞に過ぎなかった。
小傘の言葉で己の説明不足に気付いたのだろう。少女は反省、とばかりに自分の額をぴしゃりと打つと、
一度言葉を整理するように咳払いを一つ、当時の状況を脳裏に思い浮かべながら説明を始めた。
「ええと、何から話したらいいかな。事が起こったのは倉の裏で、私はそこで拭き掃除に使った雑巾を洗ってたの」
ナズーリンとぬえにじゃんけんで負けて、と苦笑しながら、少女は続ける。
「で、洗い終わったから戻ろう、って立ち上がって、わきに置いてた錨を肩に背負ったんだけど……、
そのときに後ろにいた貴女に気付かなくて、結局そのまま飛び出た錨腕が頭にガツン、と」
「ほお……」
少女の現場証言は簡潔ではあったが、一瞬の出来事だったことを鑑みれば、それは妥当な説明であった。
小傘もとりあえずは頷いて見せたが、説明に理解を示した様子もなく、それは明らかに空返事。
まだどこか納得出来ないところがあるのだろう。それは何なのか、少女が尋ねるよりも早く、小傘は疑問を口にした。
「いかり、って何?」
「そうきやがりましたか」
船は知っていても、錨までは知らなかったらしい。考えても見れば当然だ。錨は海原を往く船が使うもの。
そして、小傘が生まれてから今に至るまで暮らしてきたこの幻想郷には、海がない。知る術は酷く乏しいものだ。
少女は再び額をぴしゃり。今度は若干のツッコミ的なものも含まれていた。
取り分け、専門用語を使ったつもりはなかったが、少女にとっての常識は、小傘にとっても常識とは限らない。
いかり、と聞いて小傘がまず思い浮かべるのが、感情の一つである「怒り」であった。
物理的な特性を持たない精神的な概念が、果たしてあれほどの衝撃力を伴って肉体に干渉してくるものだろうか。
やっと判明しかけた事の真相に、しかし、情報量が増えたことで逆にその真相から思考が遠ざかるとは、なんとも皮肉な話である。
目を覚ましてから今に至るまで、小傘の頭の中には、疑問と言う名の暗雲が立ち込め、晴れる気配がまるでない。
そろそろ、雷光を伴ってスパークを起こしそうだ。頭から煙を噴いて再び倒れられてはかなわない、と、少女は首を捻る小傘に説明する。
「錨って言うのは、停泊した船舶が波に流されないように海上で固定するため水中に沈める錘のことを言うの」
簡潔に判り易く、要点だけを掻い摘んで説明するも、それを聞いた小傘は、しかし傾いだ首が元の角度に戻ることはない。
波だの船舶だの海上だの。どれもこれもが海を知っていることを前提としている。海を知らない小傘には、想像することさえ困難を極めた。
相手が全く知らないことを、言葉のみで正確に伝えることの難しさは、それこそ文字通り筆舌に尽くし難い。
首を捻る小傘の様子を見て、少女は小傘の理解にかすりもしなかったことを察し、説明を諦めた。
「えーと、うん、実際現物見て貰った方がいいね」
百聞は一見に如かず。決して口頭説明が面倒になったわけではない。諦めはしたが、効率的ではないと判断したまでのこと。
少女は傾いだ身体を支えるためにベッドに添えていた手を放すと、背を正してふらりと歩く。
床を踏み締める音さえ聞こえないその歩みは、余りにも静かで現実味がなく、どこか人間離れしていていた。
足取り自体は特別なにが違うと言うわけでもないのだが、何故だろう、まるで存在しないかのように音も、気配もないのは。
そう言えば、彼女の後姿を初めて見たときも、その背中にまるで生気を感じられず、虚ろな存在感を訝しんだものだが、
今このとき、これだけ接近しているにも関わらず、それでも、目で見なければ少女がそこにいるように思えないのは、どうしてだろう。
相も変わらず疑問は尽きない。妖怪である自分が、むしろ何かに化かされているのでは、とさえ錯覚してしまうほどに。
小傘の積もりに積もった疑問になど気付くよしもなく、少女はベッドに沿うように歩き、小傘はそれを首の動きだけで追う。
元いた場所から反対側まで移動するものだから、首の動きだけではおっつかず、つられて捻った身体が傾ぐ。
ぽてんとそのまま布団に横たわる小傘は、しかし視線は少女を逃さず。少女もそんな小傘の様子に気付き、
僅かに目を丸くしつつも、どこか愛嬌のあるその様子になんとも言えない苦笑を零した。
おそらく、小傘自身も自分が今どんな状態にあるかを理解してはいない。それだけ小傘の頭の中は疑問で一杯だった。
不思議と愛らしささえ感じる小傘の、その視線を見つめ返しながら、少女はベッドに隠れるように置いてあった何かを拾い上げる。
少女の右手が引率して現れたそれは、今度は小傘が目を丸くするに充分な、驚くほど重厚で威圧感のある造形をしていた。
まずはその形。
ツルハシを一際巨大に、それこそ破壊的なまでに武骨に、言うなれば超弩級にごっつくした代物であり、
実際に持ったわけではないが、しかし硬質的な光沢を惜しげもなく放つ金属塊が持つ圧倒的な存在感は、
それが超重量物だと言うことを如実に物語っていた。と言うか、そんなものを片手で持ちあげている少女にこそ驚きである。
「これが錨って言うの。ほら、こうして担ぐとこの錨腕……、出っ張った部分が肩より下に降りるでしょ?」
少女は柄の部分にあたるのだろうか、棒状に伸びた部位の先端を手に持ち、その上で同じく柄の部分を肩に預けた。
そうして見れば、少女の言うように、ツルハシで言うところの刃の部分が肩よりその長さの分だけ下っているのが判る。
なるほどつまり、自分はあの鈍器と呼ぶことすら可愛く思える超重量金属塊に頭を強打されたわけか。
「あばばば……」
そう考えたら、今までなんともなかった脳天に、ずくんと抉るような鈍い痛みが走った。思わず呻く小傘。
その様子を見て、少女は先のように慌てることはなく、やっぱり、と、どこか諦観の色さえ見せながら歩み寄った。
「実物見せたらこうなるんじゃないかなぁ、ってなんとなくだけど予想してたの。案の定だったね」
冷え水で湿らせた手拭いを、小傘の頭に載せて優しく撫ぜる。ひんやりと冷たい感触が、患部の痛みを幾分か和らいだ。
少女が事の次第を説明するに際して、最初から実際に錨を用いて説き起こさなかったのはそれなりの理由がある。
今はなんともない小傘も、錨のその凶悪な実物を目にすることによって、あんなものに殴られたのか、と、
殴打された事実を意識してしまい、抑えられていた痛みが再燃するのではないか、と危惧してのことであった。
折角ひた隠しにしていたと言うのに、口頭説明だけでは小傘があまりにも要領を得ないおかげで、
こうして実物を拝ませるに至った。その結果がこのざまである。所謂、プラシーボ効果的なものだろうか。
最後まで隠しておくことも出来たろうが、積もり積もった疑問を幾分か解決してあげないと、
今度はそっちで熱暴走を起こして卒倒しそうだったので、この決断は苦渋を極めた選択だったと言える。
「再三言うようだけど、本当にごめんなさい。痛かったでしょう?」
「あ、いや……」
体温でぬるくなった手拭いを冷や水に浸しては適度に絞り、再度小傘の頭に優しく触れる。
ひやりとした感触も勿論だが、同時に、労わるような少女の優しい手つきが、患部にじわりと暖かさをにじませて心地よい。
小傘の頭を撫ぜながら紡ぐ少女の言葉は、その節々から心からの反省と謝罪の気持ちが顔を覗かせ、
むしろそれからなる視線がちくちくと小傘の良心に容赦なく突き刺さって、精神的には堪ったものではなかったが。
「こんなことでしか償えないけど、良くなるまでずっと居てくれていいから、ね」
「その……」
見つめる視線は我が子を愛しむ母親の如く。優しくて柔らかくて、それでいて力強くて、何よりも綺麗で眩しくて。
後ろめたさの残る小傘には、綺麗で眩しい少女の視線は、とてもじゃないが直視することさえ出来るものではなかった。
「あ、そうだ、リンゴ剥こうか? それともお腹空いてたらカレーもあるよ?」
「うう……」
確かに腹は減っていた。減ってはいたが、物理的な食事で小傘が満たされることはない。
気遣ってくれるその気持ちは嬉しい。お腹は満たされずとも胸は一杯だ。尤も、胸に募るのは罪悪感だが。
何から何まで、至れり尽くせり。その誠意は本物であり、それが故に、小傘にとっては踏んだり蹴ったりである。
無論、小傘の自業自得であるので、そこには一切の同情の余地もない。
「まだ痛い? そうなら聖に―――」
「ごめんなさいっ!」
「えっ!?」
突然の謝罪。そっと頭を撫ぜていた少女の手を振り払うような勢いで低頭し、小傘は悲鳴にも近しい謝辞を口にした。
勿論、これには少女もびっくりだ。意図せず妖怪の本分を完遂した小傘だったが、今それに気付けるほどの余裕はない。
いきなり何を謝ることがあるのか。少女は小傘が傷を痛がったときのように、むしろそれ以上におろおろと狼狽える。
まるで状況が判らない。これでは、先の小傘と立場が逆転してしまっている。
濡れた手拭いを握っていることも忘れて狼狽する少女に、深々と頭を下げたまま、小傘は続けた。
「驚かせようとしてごめんなさい!」
「え、ええ?」
どういうことなの、と言わんばかりの困惑した表情で少女は小傘を見遣る。未だに顔を上げる気配はない。
ただ、顔を見ずとも、その表情に忸怩たる思いが浮かんでいることは、何故だか容易に想像することが出来た。
「本当は私から近付いたの、驚かせようと思って」
「驚かせ……、って、え、どうして?」
驚かせようとしたからごめんなさい。それは理解できたが、じゃあどうして驚かせようとしたのか、それが最も疑問だ。
二人に面識があれば、ちょっと悪ふざけ気味のスキンシップとも取れるが、正真正銘、二人の間に面識はない。
小傘の謝辞を聞きながら、次第に落ち着いてきた少女は、当然その疑問を投げ掛ける。
なんと答えればいいのやら。自白したにも関わらず、ここにきてしどろもどろになる小傘は、それでもなんとか懸命に言葉を紡ぐ。
「えと……、あの……、私、本当は妖怪で、その、驚かせないとお腹が空いて……、そしたら貴女がいて、あの、ごめんなさい……」
「妖、怪?」
ぼそぼそと、聞き取るだけで精一杯の供述は、断片的すぎて要領は得なかったが、決定的な情報は得られた。
彼女が、小傘が妖怪であり、己を満たすために自分を驚かせようとしたこと。それだけで、少女の抱いていた疑問は全て解消された。
何故あの状況で背後にいたのか。何故あれだけの強打を受けて無事でいられたのか。何故急に謝り出したのか。
特に三つ目が物凄く疑問だったが、なるほど、タネが割れればどうと言うことはない。彼女は、自分を恥じている。
自分が害そうとした相手に、責任を感じられたからと言っても、善意を以って手厚く介抱されてしまったことに。
それは、どれだけ惨めなことだろうか。話が途切れても、小傘が顔を上げられない理由がひしひしと空気を介して伝わってくる。
それでも、それが判っていても、しかし少女は――
「あはははははっ! そっか、そうだったんだ! あははははははっ!」
「!?」
――笑わずにはいられなかった。
突然笑い出した少女に、今度は小傘が驚いて、伏せていた顔を上げる。なんと言うか、交互に忙しい連中だ。
それにしたってこの笑いっぷり。今の自白のどこに笑いどころがあったと言うのか。
赤と青に染まった目を白黒する小傘。そんな唐傘妖怪に気付いた少女は、なんとか笑いをこらえながら口を開く。
「ああ、いや、ごめんなさい。えっと、貴女が私を驚かせようとしたのって、私が人間だと思ったから?」
「う、うん、そうだけど……」
それ以外の理由はない。むしろ、妖怪は人間を驚かせるものであって、そもそも、そのレーゾンデートルは、
いかなる理由よりも先んじられて然るべきものである。だから、小傘は少女を驚かせようとした。それ以上でも以下でもない。
しかし、それでも少女は笑う。妖怪を目の前にしても全く動じることなく、それどころかどこか嬉しそうに。
「そっか、うん、そっか。じゃあね、私も教えるね。本当は人間じゃないの」
「………………………、えっ?」
突然の告白。さっきからどうにも突拍子もないことばかりだ。しかしやはり慣れるものではない。
目を丸くする小傘に、自らを人外だと告げた少女は愉しそうに目を細める。
とても信じられないが、しかし、普通の人間ではありえない、少女の幾つかの様子を垣間見たのも確かだ。
「そう言えば、自己紹介が遅れたね。私の名前は村紗水蜜。ムラサの名前の通り、舟幽霊なの」
「ムラ、サ……」
「みんなは船長って呼ぶけどね」
己の正体を晒し、はにかむ少女、村紗水蜜。舟幽霊。多少の違いはあれど、多くは幽霊と大差はないだろう。
ともすれば、少女改め、村紗が人間ではなく舟幽霊だったとすれば、彼女が見せた幾つかの腑に落ちない点にも合点がいく。
存在が余りにも希薄に感じられたのも、村紗が肉体を持たぬ幽霊だったから。足音が聞こえなかったのも然り。
小傘が妖怪だと知っても全く動じなかったのも、なんと言うことはない、彼女も妖の類だったからに他ならない。
そして、置けばそれだけで床が陥没しそうな超重量級の鉄塊を片手で難なく扱っていたのも……、
いや、こればかりは人間じゃなかったから可能だった、なんて安易な妥協で解決したくはない事柄である。
だって、少なくとも自分には無理だから。舟幽霊とはなんとも大力無双な種族なのだな、と小傘は一人胸中で頷いた。
「まぁ、元々は人間だったんだけど……、それも随分と久しい話だし。驚かせても貴女を満たすには至らないと思うな」
「そうだったんだ……、ごめんなさい、勘違いして……」
再び頭を垂れる小傘。村紗が人間だろうと妖怪だろうと幽霊だろうと、不逞を働いてしまったことに変わりはない。
村紗はそんな小傘の様子を一瞥すると、何かを思いついたように僅かに表情を弾ませる。
どことなく、悪戯っ子然とした表情に見えなくもない。
「んー……、謝るんだったら、是非お詫びの印が欲しいかな」
「えっ? お、お詫びの印……?」
思いも寄らない要求に、小傘は当然困り果てた。確かに自分にこそ非があるし、悪いとも思っているけれど、
しかし、その詫びとなる誠意を伝えるものを、言葉や態度以外に持ち合わせていないのだ。
お詫びの印、などと言われても、差し出せるものが何もない。持っているものと言えば、己の分身の茄子傘だけ。
これを渡すわけにはいかないし、むしろ渡したとしても、渡された相手が困ってしまうのは火を見るよりも明らか。
では、どうしよう。疑問の次は悩みを頭に抱え、小傘は悶々とその場に尽くす。そんな小傘に、村紗はこう求めた。
「名前を、教えて貰えないかな? お詫びの印に、ね?」
「…………」
悩みも、不安も、焦りも、慙愧の念も、全てがその一言で払拭された。この感覚は、以前にも覚えがあった。
自分を必要としてくれた人がいた、自分の存在をを認めてくれた人がいた、それを知ったときに胸の内に芽生えた感覚。
村紗の言葉を呼び水に、小傘は何を思うよりも先に、ただ自然と自分の名前を言葉として告げていた。
「多々良、小傘」
「そう、小傘。良い名前」
村紗は微笑む。幽霊だからだろうか、血色は決して良くはなかったが、それでも、彼女の表情は明るかった。
知らなければ、本当にただの人間にしか見えない。それは小傘にも言えることではあるが、村紗はさらに温かみに溢れていた。
元々人間から成った妖だからそうなのか。いや、おそらくは関係ない。村紗が温和なのは、彼女が彼女であるから。
ただ、それだけのこと。村紗は名を告げた若い唐傘妖怪にそっと近付き、あやすような声で言う。
「さっきは本当にごめんなさい。そして、よろしくね」
差し出されたのは彼女の右手。真っ白で、しなやかで、とても綺麗で。
誘われるように握り返したその手は、ひんやりと冷たくて、でも、とても暖かかった。
「うん、よろしく、ムラサ」
今に至るまで互いに名も知らぬ二人であったが、今、この瞬間、二人は互いの内に芽生えた絆を確かに感じた。
色気も風情もあったものじゃない、なんとも武骨なファーストコンタクトではあったものの、
それが良い結果に落ち着いたのであれば、それもまた、まだ見ぬ未来の良い肴になることだろう。
絆を結うように名を交換し、握手を交えた二人は、やがて手を放すと、もう一度、村紗から切り出した。
「隣、座るね」
「あ、はい、どうぞ」
なんで敬語なんだろう。それより、この部屋も、今腰を下ろしたベッドも、全部村紗のものなのだから、断る必要もあるまいに。
小傘はそう思ったが、それでは風情がないと言うことを、単に村紗は知っていた。挨拶から始まる会話もあるものだ。
「もう、頭は大丈夫?」
「あ、う、うん、大丈夫」
「そか、良かった」
当たり障りのない会話。小傘はまだ状況に追いついていないのか、どうにもギクシャクをした感が否めないが、
村紗に至っては先程以上に打ち解けようとしている。元々が明るく気さくな気質の持ち主だったのだろう。
もしかすると、さっきまでは小傘が人間だと思い込んで、必要以上に踏み込むことを自重していたのかもしれない。
「小傘は何の妖怪なの? やっぱり唐傘の?」
「う、うん」
やっぱり! と嬉しそうに村紗。落ち着いてよく見れば、小傘の持つ傘に異質な気配を感じることなど容易い。
小傘と唐傘で一つの存在。それを鑑みれば、小傘が唐傘妖怪であることは考えるまでもない明々白々たる事実。
「私は舟幽霊だし、小傘は唐傘の妖怪だし、なんだか水に縁がある者同士だね」
「そう、かな……、そうかも」
「でしょ?」
最初の質問だけに留まらず、村紗は小傘に矢継ぎ早に質問を投げ掛けた。もっと彼女のことを知りたい。
その表れだろうか。突然の展開に無理もないことだが、まだ僅かに余所余所しい小傘は、どもりながらも受け答えする。
二人の少女が織り成す会話の音色は、小さな部屋に木霊して、僅かな間も鳴り止むことを良しとしない。
これが巷で都市伝説的に語り継がれるガールズトークと言うやつだろうか。
トークと言うには随分一方通行のような気がしないでもないが。
たった一言二言の受け答え、ただそれだけで、村紗は本当に嬉しそうに笑顔を零す。
その笑顔に中てられたからだろうか、小傘もどことなく遠慮がちで難色を示していた表情を、僅かにだが緩ませ始めた。
「そっか。それで命蓮寺にやってきたんだ」
「うん。何か掴めるものがあったら、って思って」
気付けば、小傘は自分がこの命蓮寺を訪れた目的を村紗に話していた。
余所余所しかった態度も、たどたどしかった口調も今はもうない。ただそこにあるのは晴れ空のような笑顔。
元々は小傘自身も他に比べて随分と明るい気質の持ち主だった。妖同士、どこか同調する部分も多々あったのだろう。
すっかり打ち解けた二人は、あれから随分と長い時間会話に花を咲かせていた。
その間に、村紗は小傘の生い立ちや今に至るまでの経緯を、彼女の愚痴交じりに、しかし意外なほど詳らかに聞けた。
自分は捨てられた傘から成った付喪神であること。人間を驚かせることで己を保つ妖怪であること。
今日命蓮寺にやってきたのは、上手く人間を驚かせることが出来ない自分を変えるためのヒントを得るため。
ついでに村紗を驚かせようとしたのは、生気を感じられず気が弱そうだと判断したからだ、と聞いて思わず苦笑が零れた。
「私も、似たようなものかなぁ」
「え?」
思いも寄らない村紗の言葉に、小傘は間の抜けた声で尋ね返す。
村紗がここに住んでいるのも、小傘のようにこの場所にヒントを得に来たことが起因しているのだろうか。
しかし、村紗ははにかみながら首を横に振った。続けて、小傘に返答する形で説明する。
「正確には違うけど、私も、私が変われたのは、このお寺に住持する聖白蓮って言う僧侶のおかげだから」
「聖白蓮……、僧侶って、人間なの?」
「そ、私たちは聖って呼んでるけど。今の私があるのは、みんなあの人のおかげなの」
本当に嬉しそうに、村紗は恩人への想いを語る。そう言えば、村紗の話に何度かその名前を聞いた気がする。
聖の名前を出すと、村紗は決まって言葉の抑揚が普段に増して大きくなっていた。それは聖と言う人物に対する好意の現れ。
小傘は聖白蓮と言う人物のことをこれっぽっちも知らないが、村紗が信奉する彼女はとても良い人なのだろう、とそれだけは判った。
「今の時間、聖は法会に出てて会うことは出来ないけど、空いた時間なら説法を説いてくれると思うよ」
「えっ!?」
物凄い既視感。主に今日の昼前、街道あたりで感じたような。突拍子もない、いや、話の流れでは実に自然であったか、
しかし小傘にとっては不意打ちにも近しい提案に、思わず上擦った声をあげながら反応してしまった。
そうとも、命蓮寺に来るまではまだ良しとしても、それ以上のことは流石に勘弁願いたい。
馬の耳に念仏ならぬ、妖怪の耳に念仏。無用の長物どころの話ではない。問答無用で消滅出来る自信がある。
ここにやってくるに際しても、こそこそと裏口から侵入した経緯を鑑みれば判りそうなものではあるが、
人間だろうと妖怪だろうと幽霊だろうと、心の底から心酔するものは多少の差異はあれども盲目的になるようだ。
村紗の勧めも、純粋に小傘の為になると思ってのこと。そこに悪意も邪心も微塵たりともありはしない。
ゆえに厄介。余りにも始末に負えない。無碍にも出来ず、拒むだけの理由も自分の都合以外にありはしない。
早い話が断り辛い。この上なく。でも、聖人の説法なんて勘弁してほしい。ここにきて苦手意識が覚醒するとは。
村紗の性格上、おそらくは断ればそれ以上食い下がるようなことはすまいが、気まずい思いをすることは免れまい。
まだ多くを知らないが、村紗は間違いなくそんな妖だと理解できる。なんというか、真っ直ぐなのだ、裏も表もなく。
「どうかな?」
「えっと、あっと、わっ、私はムラサの話が聞きたいなっ!」
目を輝かせて詰め寄る村紗に、小傘は苦し紛れの要求を呈した。いや、本当にそれは苦し紛れだったのだろうか。
小傘は多くを知らない。村紗のことを、今話した以上のことを、接した以上のことを知らない。だから、知りたい。
村紗が最初に小傘を知りたいと、次々に彼女に問うたように。小傘もまた、村紗を知りたいと、心のどこかで思っていた。
ただ、それを素直に口にするには、彼女は無意識に意固地であったし、何より、やっぱり気恥ずかしかった。
それが、切迫する場面において、無意識の抑制と言う名の箍が外れ、意図せず口から飛び出しただけのこと。
ゆえにそれは紛れもない小傘の本心。村紗の話を聞きたい。村紗のことを知りたい。村紗ともっと話がしたい。
今日名を交わし、絆を紡ぎ、想いを抱いた相手を前にして、今まで生まれたことのなかった感情が、言葉になった。
聞かせてほしい、貴女の話を。実際に発せられた言葉こそどこか動転してはいたが、その気持ちだけは、不思議としっかり伝わった。
「だ、だめ、かな?」
クロスカウンター張りに意表を突かれ、ぽかんとする村紗に、小傘はおずおずと覗き込むように尋ねる。
はっ、と我に返った村紗は、そんな小傘に対して大仰に首を振って答えた。
「まさか、駄目だなんてとんでもない。いいよ、私の話なんかで良ければいくらだって」
「本当?」
「勿論」
「ありがとう、ムラサ」
晴れ空のような笑顔。出会った当初の余所余所しさからは想像もつかない明るい表情だ。村紗は思う。
彼女は、小傘はこうでなければいけない、と。明るく、眩しく、雨を弾く傘のように、陰鬱を跳ね除ける太陽のように。
小傘がそうあってくれるのであれば、彼女が望むことに応じよう。不思議と、小傘の笑顔はそう思わせる何かがあった。
「まぁ、私の話と言っても、何を話したらいいものか……」
「えっと、生い立ち、とか?」
それは村紗も小傘を相手に尋ねたことである。自分が聞かれたことは、やはり自分も聞いてみたい。
そんな心理が実際に働いていたかどうかは定かではないが、話の起点としては申し分ないだろう。
「そうだね。私は元々人間だったんだけど、判るのはそれだけで、自分の本当の名前も、生前何をしていたかも覚えてないの」
「え、そうなんだ」
「うん、死んだ時点で生前の記憶はなくなっちゃうみたいだね。ただ、死後舟幽霊に成ったあたり、船に携わることをしてたのかも」
村紗はそう言ってけらけら笑ったが、しかし、小傘は訝しむように、悟られない程度に眉間にしわを寄せた。
小傘の知る限り、死んで幽霊になると記憶がなくなる、などと言う例を聞いたことがなかったからである。
だが村紗が嘘をついているとは思えない。果たして、誰にそう聞いたのか、そしてなぜ記憶がないのか。
普段あまり使うことのない頭をフル稼働させる。例えば、記憶を失う場合、多くは外傷性ショックや心的外傷に寄るところが主だ。
小傘にそこまで詳らかなことを考えるだけの学や素養はないが、頭を打たれれば忘れる、辛く苦しければ失う、
と、非常にアバウトながらも、本質を辛うじて外れていない程度の知識はある。そんな彼女が、彼女なりに考えた。
生前、死ぬ間際までに、全ての記憶を犠牲にしてまでも記憶していたくない何かがあったとすれば、あるいは。
死と言う究極の外傷性ショック、何があったかは定かではないが、記憶全てを擲ってまで消し去りたい強い心的外傷。
その二つが死に直面して伴えば、記憶の一つや二つ、消滅してしまってもなんら不思議なことではない。
そして、万が一にも、彼女がその記憶を取り戻すようなことがあればことだ。幽霊は精神的なショックに非常に弱い。
だから、彼女に記憶がない理由を、死んだら記憶リセット、と思い込ませておけば、それが簡単で強固な防護機構になる。
おそらく、村紗にそう教えたのは、件の僧侶、聖白蓮だ。そうしなければ、村紗が再び死に目を見るリスクを背負うことになるから。
確証のない憶測ではあったが、しかし、何故だがそれが真実だと思えてならなかった。なんでだろう。
村紗の、あの明るい村紗が自嘲気味に、心まで乾涸びそうなほど乾いた笑いを零したときから、そう思えてならなかったのだ。
彼女は自覚さえしていまい。自覚すれば、それは破滅への水端となってしまうから。だから、彼女はそんな自分に気付きもしない。
しかし、彼女の身にそのような特異な現象を引き起こさせるに至った生前の記憶とは、一体どのような……。
そこまで考えて、小傘は胸中で大きく首を振った。どうでもいいじゃないか、そんなことは。
村紗は、舟幽霊村紗水蜜は、死後の記憶、体験、環境の上で形作られた個人だ。生前の記憶なんて、関係ない。
確かに、気にならないと言えば嘘になるが、それが村紗の身を脅かすものであるのなら、詮索は論外。
今ある彼女が彼女の全てだ。それ以上でも以下でもない。
余計な思考を挟んでしまった、と小傘は頭を切り替え、再び村紗の話の続きに耳を傾けた。
「それで、気付いたら舟幽霊になってた私は、活動領域を航行する船を沈めて回ってたの」
「舟幽霊ってそんなことをするんだ」
「ん、いや、どうだろう。考えたことなかったけど、舟幽霊になったから沈めたのか、沈めてたから舟幽霊になったのか」
鶏が先か、卵が先か。まぁ、今が舟幽霊として落ち着いてるんなら、別にそこはいいんじゃない、と不毛を回避。
無限ループは怖いしね、と輪廻転生を否定する村紗は流石幽霊と言ったところか。多分あまり関係ない。
「大体この辺でやってたんだけどね」
「ほお……」
壁に貼ってあった大きな地図、その中の小さな島国の真ん中より左側の海に浮かぶ小さな二つの島を指で小突きながら言う。
多分、あの国は今自分が踏み締めている地、つまり日本なのだろう。外の世界を知らない小傘は、今始めて日本の形を知った。
「どうしてムラサは船を沈めていたの?」
「え? うーん、そうだね。生前のことは判らないけど、死んでから舟幽霊になっても、私は船が好きだったんだ」
ふと思い浮かんだ疑問を投げ掛けるも、村紗の答えは意外なほど矛盾しているように思えた。
村紗が船が好き、と言うのは、ボトルシップや船の模型が犇めくこの部屋の様相を見れば誰でも判る。
でも、好きならばどうしてわざわざ使い物にならなくなるような真似をしたのか。当然の疑問を、続けて口にする。
「好きだったらどうして?」
「当時はね、そうすることで好きな船をその海域に留めておけるって思ってたんだ。沈めちゃえば、船は海底に沈下して、
もうそこから動くことはないでしょう? そうしたら、ずっと、ずっと私の手元には大好きな船が残る」
その瞬間、村紗の口元が緩やかにつり上がるのを見た。小さな笑みを浮かべる程度の変化だったが、
それを目の当たりにした小傘は、どうしてだかその笑みにぎょっと目を丸くする。
「何度も何度も、何隻も何隻も、幾度となく区別なく容赦なく、私はひたすら船を沈めまくった。
痛快だったよ。自分の領域に、大好きな船が増えていく様を見るのは。でも、私はそれでも満足しなかった」
深い緑色の綺麗な瞳が、段々と濁っていくように見えた。腹の底に蠢く邪な感情を顕現したような色だった。
次第に濁った瞳からは光さえも失われ、奈落の底のような、覗き込むだけで底冷えする眼がぎょろりと二つ。
「まだ足りない、これっぽっちじゃあ、私の心は満たされない。もっともっと、もっともっともっと、もっともっともっともっと。
滑稽だよね。そうすればするほど、胸にぽっかりと空く穴は大きくなるばかり。当然だよね。
だって、沈めたところで、本当の意味で大好きな船は、手に入る由もなかったんだから」
気付けば、小傘はその場に舟幽霊を見ていた。
ただひたすらに、ぞっとした。背筋に冷や水を垂らされたような気分だ。どこか狂気さえ滲む村紗の独白。
好きなものは、所有者の意思に関わらず、壊してでも強引に、何が何でも自分の物にしたい。
それは、子供のような我が儘であり、狂人の至る思想であり、実に人に非ざる者の凶行であった。
沈めても沈めても、満たされることのない心。まだ足りないと沈めるほどに、広がり続ける心の穴。
村紗は言った。無限ループは怖いしね。なるほど、まさしくその通りだ。
「この錨もね、いつの間にか身体の一部のように身に着けてた。さっき説明したよね。錨の在るべき姿」
錨とはなんぞや、そう尋ねた小傘に村紗が懇切丁寧に実物を用いて説明してくれたことを思い出す。
無言で頷く小傘を見遣ると、村紗もそれに応えるように頷き、続けた。
「船をその場に縛り付け、波に流されることなく、自走も出来ない。その海域に、ただひたすら留まるのみ。
この錨は、おそらく私がその場に船を縛り付けたいと想い募らせた結果、その邪念が顕現したものだと思うの」
だから、これほど重くても、私にだけは自由に扱える。村紗はそう言うと、錨をまるで棒切れか何かのようにひょいと振るう。
勿論、村紗は軽く扱おうとも、その重量と質量は本物。隣にいた小傘はその鉄塊が生み出す風圧にあてられ身を強張らせる。
なるほど、最後の疑問もこれで解決した。小傘の持つ茄子傘が、小傘の身体の一部であるように、
村紗の持つ錨も、村紗の身体の一部なのだ。それゆえに、重量に左右されず扱うことが出来るのも道理。
思いがけないところで全ての疑問が払拭されたが、しかし、小傘の頭の中は、未だに暗雲が立ち込めていた。
それは、村紗の、舟幽霊としての在り方に、少なからず思うところがあったからだ。あまりにも、哀しい。そう感じてならなかった。
村紗はそのことについてどう思っているのだろうか。船を沈めたと言うことは、おそらく、いや、間違いなく、
乗っていた人間も巻き添えにしたと言うことになる。船を奪って、その上で、多くの命を奪って……。
歪ではあったものの、人間と浅くも広く接してきた小傘は、妖怪であるにもかかわらず、人間に対して確かな情を抱いていた。
明るく気さくに接してくれた村紗と、無闇矢鱈に船を、命を奪う村紗。果たして、どちらが本当の彼女なのか。
いや、違う。どちらが、ではない。どちらも、紛れもなく村紗なのだ。過去を含めて、今の彼女を成している。
今でも、村紗は船を没したいと思っているのだろうか。欲しいものは無理矢理にでも奪ってしまいたいと考えているのだろうか。
そうだとすれば、自分はどうするべきなのか。止めるべきか、関わらずにいるべきか、受け入れるべきか、それとも。
今はどうなのか、そう尋ねることも出来ず、答えを聞くことが怖いから、ただ苦悩を募らせた頭を抱えることしか出来ない。
口を挟むことすら出来なくなった小傘。そんな小傘に気付いたのか否か、それともそうなることを予め判っていたのか、
村紗は黙りこくってしまった小傘に、静かに語りかけるように、不思議なほど穏やかな口調で続きを話し出した。
「でも、そんな私を聖が救ってくれた」
「えっ」
思わず、いつの間にか下げていた顔を上げて、語り出した村紗を見る。その口調と同じように、村紗の横顔は、
微風に水面を小さく揺らす海を思わせる、とても静かで穏やかな笑みを浮かべていた。
船を沈めていたと語ったときに滲んだ狂気を欠片も感じることのないその笑顔は、次第に小傘の苦悩を消化する。
見た目こそ変わらないものの、確実に晴れやかになっていく小傘の表情をちらりと横目で一瞥し、村紗は続けた。
「詳細は端折るけど、聖は私に船を与えてくれたの。聖輦船って言う、とても立派な船を。そして聖は言ったわ。
この船を操るのは貴女です、って。その一言で、私は私自身をそこに縛り付けていた枷を解くことが出来た」
船に対する未練が、自らを存在意義と言う名の枷でその場に縛り付けていた。
多くは彼女を恐れた人間の思念が、彼女をその場に在る妖怪として形成し、行動の自由を意図せず制限したことにあったが。
そんな彼女を、聖は解き放った。船と言う足を与えることで、新たな一歩を踏み出すための礎にしたのだ。
もはや、村紗が船を沈めることはない。彼女の心は、もうそのときに満たされてしまったから。
村紗は言った。今の自分が在るのは、聖のおかげだと。本当にそうなのだろう。
暗い海に沈んでいた、呪われた彼女を掬い上げてくれた聖は、間違いなく村紗の恩人なのだろう。
舟幽霊に与えられたのは、底の抜けた何も掬えぬ柄杓などではなく、その存在を満たす救いの手だった。
「だから、私は、私を救ってくれた聖の為に生きよう、って。今こうしてここにいるの」
「そうだったんだ……、そう、…………、良かった」
人に害を為す村紗は、もう存在しない。過去の自分は、過去に、あの海に捨ててきた、と告げた村紗に、小傘は心の底から安堵した。
折角、心を許せる相手に出会えたと思った矢先に、筆舌に尽くし難い壮絶な過去を語られては、そうなるのも無理からぬことか。
良かった良かったと、まるで嗚咽のように何度となく繰り返す。そんな大袈裟な、と村紗は気付かれぬよう苦笑を零すが、
大袈裟だろうとなんだろうと、本心から自分のことを案じて、思い詰め、安堵し、喜んでくれる小傘の存在は、素直に嬉しかった。
ただ、ちょっと気恥ずかしかったりするかな、とは思う。多分、真っ直ぐな感情を前にして、単に照れてるだけだ。
「私も貴女と似たようなものかも、って言ったけど。貴女も、私と似たようなものなのかも知れない」
「えっ、ムラサ、それ、どういう、こと」
一頻り自分の生い立ちを話し終わり、小傘も落ち着き始めただろう頃合いを見計らって、村紗はふと切り出した。
それは、小傘が命蓮寺にやってきた理由を聞いたときに零した村紗の感懐。何がどう似ているのか。
当然のように疑問に思う小傘は、顔を上げて尋ねた。
そんな小傘に、村紗は予め答えを用意していたかのように滑らかな口調で話し出す。
「今の貴女は過去の私。自分の在り方を知らずに、ただ種の存在意義に振り回されている迷い人」
「在り、方?」
在り方。そんなもの、生まれた瞬間には知っていたし、決まっていたし、信じていた。人間を驚かせること、それだけだ。
それは妖怪の本分であり本能であり本懐であった。確かに、あまり上手く驚かせることは出来ていないかもしれないが、
生まれてから今に至るまで、小傘はそれを僅かでも疑ったことはない。だのに、村紗は自分がその在り方を知らないと言う。
それどころか、信条とするその存在意義に振り回されていると言う。道に迷う可哀想な幼子のようだと言う。
そんなことはない。そう叫びたかった。そうでなければ、今までの自分を否定してしまうことになりかねないから。
しかし――
「………………」
――小傘は何一つとして、反論することは出来なかった。
心当たりはあった。
自分自身が人を驚かせようと思い立った理由が、ただ、それしかなかったから、と、それだけだったから。
生まれた瞬間に識っていたことは、自分の名前と種族、そして、本能に刷り込まれるようにただそこにあった、
人間を驚かせると言う妖怪としての本能のみ。生まれて間もない、何も知らない、何も出来ない彼女には、
ただその本能に縋る以外に道はなかった。例え、それが空回りの憂う結果に繋がるとしても。
――自分の在り方を知らずに、ただ種の存在意義に振り回されている迷い人。
なるほど、如何にもその通りだ。あまりにも的確が過ぎて、歪む口の端から擦れた笑い声すら漏れてしまう。
もはや、小傘の表情に色は見えない。ただ何かを必死に手探りで模索しているような、そんな忙しさだけが浮き出ている。
視線を交わそうとも焦点は遥か虚空を見詰める小傘から目を離すことなく、村紗は語り続けた。
「私は船が好きだから沈めたって言ったけど、終ぞ、それが私を満たすことはなかった。
何故なら、それは舟幽霊としての種の本能であって、私と言う個の本意ではなかったから」
幾ら船を沈めようとも心の穴を埋めるには至らず、それはまるで底の抜けた柄杓で水を汲み注ぐかのように。
しかし、それは当然のこと。幽霊が地縛霊や妖怪と化すのは、満たされることなく、その結果、所業を繰り返すからである。
人に害為す所業はやがて人々の恐怖を募り、それが形を成し、より強力な妖を生む。
満たされないようになっているのだ、決して、妄執に駆られ、本能に振り回される幽霊と言うものは。
ただ一つ、彼女を救う手立ては舟幽霊としての種ではなく、村紗水蜜としての個を満たすこと。
過去に、呪われた所業を繰り返す村紗に対して聖白蓮がやってのけたのが、それであった。
「貴女は唐傘妖怪。確かに、妖怪は恐怖を以って人間を驚かせるもの。でも、貴女は本当にそれで満たされるの?」
「それは……」
やはり、答えられなかった。口にするだけの答えを持ち合わせていなかった。そもそもが、あまり驚かせた記憶もないのだし。
しかし、これだけは言える。人間を驚かせようとするのは紛れもなく自分の意思であり、そこに種も個も関係はない。
人間を驚かせたい。恐怖で、戦慄で、畏怖で、あの手この手を尽くして、多々良小傘と言う存在に慄かせたい。
そうして驚いた顔を見てみたい。驚いた拍子に、どんな反応をするのか、それが愉しみで仕方がない。
あの人はどんな顔をするだろう。あの子はどんな反応をするだろう。あの人は、この人は、じゃあ、その人は。
人間たちが、私に対してどんな想いを抱いてくれるのか、それを知りたい、だからまずは振り向かせたい。
「……、え?」
そのとき、小傘ははたと気づいた。自分が本当に望んでいるものの正体に。
自分は、人を驚かせること、それ自体を求めているわけではない。本当に望んでいることは、その先の――
「いや、そんな、でも……、まさか」
「私ね、思うんだ」
気付いてしまった。しかし認めたくはない。さもなければ、それは今日までの自分を否定してしまうことに他ならない。
小傘がどのような答えに辿り着いたのか、概ね予想が出来ていたのだろう。独り言つ小傘を制すように、村紗が続ける。
「傘って、道具だよね。道具って、何のためにあると思う?」
「えっと……」
「人間のためにあるんだよ」
どくん。
心臓が大きく鳴る音が聞こえた。
「人間が、今の暮らしをより豊かに、便利にしようと生み出したもの、それが道具」
どくん、どくん。
心臓の音は村紗の言葉に連動するように、次第に激しさを増す。
「小傘。貴女は唐傘妖怪であると同時に、傘でもある。傘は道具。降雨から人間の身を護るとても優秀な道具」
どくん、どくん、どくん。
もはや、呼吸すらままならないほど激しい動悸が身を窶す。
「小傘。貴女は、人に求められる為に在る」
「…………ッ!?」
――どくん。
最後に言い放った村紗の言葉。それに反応した心臓の鼓動は、しかし、不思議なほど優しく跳ねたような気がした。
何故かは判らない。ただ、いつか感じたときと同じように、胸の内がじんわりと暖かく、満足しているように思える。
過去、小傘は似たような不思議な感覚を何度となく味わっていた。別に驚かせたわけでもないにも関わらず、
何故か空腹を患っていた心が潤い、満たされる感覚。それは、必ず人間と接しているときに起こっていた。
それは何を意味していたか。今になって、ようやく理解する。人と接したその瞬間、何らかの行動が自分を満たしていたのだ。
気付けば、激しかった動悸は穏やかさを取り戻し、色の見えなかった小傘の表情には、何かを探し当てた、
そんな感慨さえ抱ける明るさが宿っていた。虚空を眺めていた両眼は、しかと村紗の瞳と視線を交わす。
やっと、元の晴れ空のような明るさが灯った。それを確認すると、村紗も満足そうに小さく頷く。
「驚かせるって、何も恐怖心や不安感を煽ることばかりじゃあないと思うんだ。
初めて傘が生まれたとき、多くの人はきっとびっくりしたと思う。これがあればとても便利だ、って」
村紗は言う。確かにその通りである。傘は古くから歴史のある道具であり、ある意味では完成された道具でもある。
数百年以上も昔に生まれてから今日に至るまで、その形をほぼ変えずに伝わっていることが、その事実を物語っている。
雨具の種類は数あれど、傘以上に用いられている雨具もそうはあるまい。あまりにも大衆的に受け入れられているため、
意識しなければ気付くまいが、それだけの実績を得た傘が、事実、凄くないわけがない。
そうとも、それはもう、驚くほどに。
人間を驚かせる程度の能力。それは、傘が生まれたときと同じように、その瞬間人々に大いに驚かれた象徴。
そして、己を満たしてくれる人間の意識を、己に向けさせる手段であり、そこに、それ自体が本懐などと言うことはない。
多々良小傘を成すのは、いつだって己を求める人間の想い。驚かさんとする本能は、人間に関心を持たせるための手段。
古い道具から成った付喪神。道具とは、人とともにあるもの。人に寄り添うことが、多々良小傘の個が持つレーゾンデートル。
小傘の妖怪にはあるまじき明るさも、人懐っこさも、その顕われであるならば、なんら疑問はありはしない。
何故なら、人間が、大好きなのだ、困ったことに、この唐傘妖怪の少女は。
「確証もなく結構好き勝手言っちゃってごめん。もし意にそぐわない意見だったら勿論――」
「ありがとう、村紗」
的外れなことを言っていたらどうしよう。言うだけ言ったはいいが、今になってそんな不安に駆られ、謝辞を述べようとする村紗。
それを制するように、小傘は村紗に感謝の意を告げた。浮かべる笑顔は晴れやかで、どこまでも澄み渡るように明るく。
その笑顔を見ただけで、村紗は自分が思い切って口にしたことが間違っていなかったことを確信した。
自分は聖白蓮のように上手く説くことは出来ないかもしれない、でも、彼女が、小傘が悩んでいるのなら、
ほんの僅かでもいい、何か力になってやれることはないか。そう思い、決起した。我ながら後先考えない行動だったと思う。
こういうことは、失敗したら最悪相手に取り返しのつかない心の傷を負わせてしまうものだ。
そのリスクに今になって気付き、村紗は内心気が気でなかったのは言うまでもないだろう。
しかし、考えるより先に動くあたり、やはり実行することを第一に考える小傘と、どこか気が合うのかもしれない。
二人は互いに微笑み合う。ただそれだけ。ただそれだけで、この出会いが齎した多くのものを実感できた。
ややあって、小傘はベッドに下ろしていた腰をあげ、音もなく立ち上がると、隣の村紗を見詰め、言葉を紡ぐ。
「ここに来て良かった。村紗に会えて良かった。本当にありがとう、村紗」
「ううん、どうってことないよ。私も、小傘に会えて良かった。おしゃべり仲間が出来るのってやっぱり嬉しいから」
小傘は村紗に、村紗は小傘に、想い抱いた気持ちを素直に口に、お互いの心に向けて紡ぎ出す。
名残惜しいが、いつまでもこうしているわけにもいかない。だって、もう頭の痛みはとうにひいてしまったのだから。
良くなるまでずっといてくれていいからね、と村紗はそう言ってくれた。だから、今が別れの時だ。
小傘には小傘の、村紗には村紗の生活がある。なにも今生の別れでははないのだし。
今度、またいつか、お互いが都合の良いときに、会えるのならば、それでいい。
「またね、村紗」
「またね、小傘」
短い別れの挨拶。されど、次の機会を繋ぐ、また、を残して、二人はこの場を別れる。
村紗は変わらず腰を下ろしたまま、部屋を去る小傘の背中を見えなくなるまで見送った。
最初こそ余所余所しくたどたどしい小傘の猫背からは想像も出来ないほどしゃんと伸びた背中を見ながら、
しかし、最後に、部屋の出口に傘をひっかけて引っ繰り返りそうなったのを見て、なんだか妙に安心した村紗だった。
――私は、人を求め、人に求められる為に在る。
命蓮寺にて、いや、村紗の助言のおかげで、識ることが出来た、多々良小傘という妖怪のレーゾンデートル。
実を言うと、まだちょっと簡単には認められない部分もある。だって、認めることは今までの自分の否定だから。
でも、ひとつの指標として、そんな可能性もある、そう考える程度ならいいなか、と、今ならそう思える。
何故なら、気の合う友が啓いてくれた可能性だ。無碍にはしたくない。その村紗が言った、人に求められる為に在る。
それが何を意味し、そして何をやるべきなのか、正直、はっきりとは判らない。でも、識ることは出来た。
ならば、次は見つけることだ。そう簡単見つかるとは思わないけれど、それでも、手探りでも見つけてみせる。
まずは何からするべきか。事が原点に戻ったのだから、ならば、普段通りの自分から再開してみるとしよう。
そうすることで、今なら、以前まで見えなかった何かが、見えるかもしれないから。
命蓮寺から離れた小傘は街道に降り立つ。そうして、茄子傘を両手でしっかり握り締め、前に向かって駆け出した。
「うらめしやー!」
今日もまた、幻想郷の一角に、明るく陽気な唐傘妖怪の少女の声が、とても元気に木霊した。
終わり
とても良いこがムラでした!!
そのなかでも、かつて聖に救われたことで、村沙は聖を全身全霊をもって敬うようになったのに対し、
小傘は村沙に助けられたけれど、あくまで対等な友人としての関係に留まったことが好対照かつ好印象に思えました。
今後とも是非創想話を支えていって下さい
しっとりした雰囲気が良かったです。
おもしろかったです。
これからも、おもしろいss、楽しみにしてます。
昔のssも、もう一度読みたいなぁ~。
昔の作品消えてて寂しかったんですよ~。
また気が向いたら書いてくださいねw
村紗が生前の記憶を持っていない、と言うのに少々違和感を覚えましたが、
(聖から与えられた船を「かつての自分の船」と認識していた設定があったような)
それも気にならないくらい良いお話でした。
さすがネコ輔さんのSS、全体のレベルが半端ないですね!
もっともっと氏のSSが読みたいです~。
地の文につきまして、作風ではあるかと思いますが二人の心理を描きすぎている気がします。私個人な趣向ですが、行動なり台詞なり間なりで読者にもう少し預けても良かったと思います。
話の要であるこがむらは良かったと思いました。特にムラサが聖を真似て彼女を諭す流れは、こちらまで動悸が起きたような気さえします。また丁寧に描かれているおかげで、ぼやけることなく二人の姿が思い浮かび、短い一時の中で過ごせた時間が大切な物になっていく姿が見えました。この続きがあるとするなら読みたくなる程に。
お帰りなさいませ、を締めの言葉として。
やっぱりネコ輔さんの作品はレベルが高くて楽しく読めます。
これからも頑張ってください。
謎の文字列の意味がわかんない…orz
またネコ輔さんのssが読めてうれしいです。
次の作品も楽しみにしています。