※ 最初の方だけ知り合いAレベルのオリキャラが登場します
『神徳ファンタスティカ』
昔、私と同じ背ぐらいの女の子とよく遊んだ気がする。名前は覚えていない。
その子とどんなことを話し合ったかも覚えていない。でも遊んだということだけははっきり覚えている。
何か大切にしていたと思われるものをもらった気がする。それが何だったか思い出せない。悔しい程に。
一緒にご飯を食べたり、おはじきで遊んだ。神社の本殿でお昼寝だってした。それなのに彼女の顔や声、姿が思い出せない。
その後も家の近くで見かけた気がするが、いつしか彼女の姿は見えなくなった。
※ ※ ※
「ただいまー」
「おかえり、遅かったねぇ」
「友達と本屋行ってまして……すみません」
「良いって、良いって」
「すぐにお風呂炊いて、夕食の用意しますね」
「はいはい」
私は東風谷早苗。とある古ぼけた神社の巫女。お世辞にも大きな神社とは言えない、くたびれたところ。
私は子供の頃から何かと不思議なことが出来てしまっていた。私は特別な素質を持っている人間らしい。
特別な修行とやらをお母さんに強要させられた。一子相伝の秘術だとかいう、凄そうなものを教え込まれた。
その修行というものは暗くて狭い、締め切った納屋みたいなところでやらされたものだ。
よく肌で風を感じながらやりなさい、と注意されたものだ。
締め切った状態で風を感じるというのも難しい気がするのだが、その中で体を動かして風の流れを自分で作れって感じ取れということらしい。
また、ややこしいことにその秘術というものが本に書いているわけではなく、見よう見真似や口でしかやり方を説明できないものであった。
わざと本に纏めたりせず、口伝のみにしてよそ者に漏れてしまうのを防いでいるとか。
そして私がお母さんに認められる程秘術、奇跡を起こす術を使いこなせるようになったと認められると半ば強制的に巫女をやらされることになった。
それが決まったのは確か、小学校も出ていないときだったと思う。
その後もまた色々と辛い時期であった。私に神社を任せると、両親は私を置いてどこかへ消えてしまったのだ。
ただ、それは前々からよく言われていることだった。
子に秘術を全て教えきったら、昔から決められた山奥のとある集落で暮らすことになっているらしい。
その集落で暮らしている人は皆うちの神社に関係する人ばかりだそうだ。
手紙でのみ両親と連絡を取り合うことは許されているのだが、会いに行くことだけは許されなかった。
正月にのみうちで奉っている神様、八坂神奈子様へご挨拶するという名目で帰ってくるだけ。
一週間に一度だけミヨコさんという、小さいころからよくお世話になっているお手伝いさんみたいなおばさんが家事や買出しを手伝ってくれるのだが、それ以外の掃除や神事を全て私一人でしなければならなかった。
最初のうちは一人っきりというものが本当に怖かった。巫女なんて今すぐ辞めたいと何度も呟いた。
別に泥棒に入られたら怖いとかではなく、私なんかで良いのだろうかという不安で一杯だったせいだ。
その不安はすぐに無くなった。むしろ奇跡を起こし、信仰を得られたことで逆に自信がついたほど。
奇跡の秘術を用いて災害から人々を守ると地元の人からまるでヒーローの様な扱いを受けたのだから。
いつしか私は地元の人から「あらひとがみさん」と呼ばれるようになった。神様みたいな力を使える人間のことを言うそうだ。
本当は神奈子様の力をお借りしたり、神奈子様にお願いして風に関する奇跡を起こしているだけなのだが、どうも町の人は私がやったと思い込んでいる。
私は今中学生。最初の頃は神社の娘ということで変な目を向けられたし、いじめられたりもした。
だがあるときを境にそういうのが無くなり、クラスメートから話しかけられることも増えた。
一度いじめのことを神奈子様に相談してみたことがあったが、何かされたのだろうか。
ただそれでも友達を作るのには苦労した。なんたって私は倶楽部に入っていないからだ。
家に帰ってやらなければならないことが結構あるので、そんな暇は無かったり。
今の巫女家業を続けられたら良いやと、将来の夢なんて特になかったりする。
だからといって学校の勉強を疎かにするつもりはないが、大学のことは考えていなかった。
正直なことを言えば神奈子様みたいな不思議が一杯の世界に飛び込んでみたいと妄想したりした。
神奈子様がよく話してくれる、昔の日本みたいなところ。
人間と動物だけでなく妖怪だとか妖精みたいな、化物の居る世界。
実際行ってみないとどんなところかわからないだろう。おそらく想像しきれない世界が広がっている。
「あ、神奈子様。お風呂が沸きましたよ。お先にどうぞ、お洗濯と夕食の用意してきますから」
「じゃあお先に」
神奈子様は神様といえども、人間と同じものを口にすることが出来る。というか、お腹を空かせたりする。
ただ人間と違って飢え死ぬことはないとか。信仰さえ得られていれば永遠に生きながらえられる。
いわば信仰そのものが食事みたいなものなのだろう。
その割にはよくお酒を呑まれる。私が小さい頃は地元の熱心な信者達からお酒のお供えがたくさん来た。
その度に神奈子様は大喜びで毎晩酒を呑まれていた。
だが最近はその信者さんが高齢化していったり、亡くなられたせいかお酒をお供えしていかれる人が殆ど居なくなった。
神社の運営費から捻出してお酒を買ってくることは出来たが、神奈子様はそこまでしなくて良いと仰られた。
正直に言えば、この神社はもう先が無さそうに見えた。つまり、お金がないのだ。お酒を買ってあげたいが、買えないのだ。
私の教育費と生活費は両親の仕送りで成り立っていると言っても良い。
神事で頂戴するお布施は結局お祭りの準備やお守り、絵馬などの準備で殆ど消える。
神社でこういう言い方をするのは気が引けるが、つまり儲けが少ないのだ。
年々参拝客が減って行っているから、儲けは減る一方である。
悲しいことに科学と文明が発達していく中で、神奈子様みたいな存在を忘れていく人ばかりが増えていく。
それはクラスメートらにも言えることで、初詣こそ行くものの最近はお祭りに来てくれる人がどんどん減って行った。
私ぐらいの若い人だけでない。大人の人でも、来てくれる人は減って行ってる。単純に参拝客が来ないのだ。
祭りに人が来てくれないとなると、露天を出したいと場所代を払っていく人が減る。露店が減ればそれを目当てに来る人も減る。
悪循環だった。人が減っていく度神奈子様は目に見えて元気が無くなっていかれた。
さっきも言ったように信仰そのものが神様の源。信仰、つまり神徳が減ればそれだけ神様は力を失う。
神奈子様専属の巫女だから肌でわかる。今の神奈子様は私が小さかった頃より弱い。
何らかの方法で信仰を増やすことが出来れば神奈子様に元気が戻り、前の強さを取り戻されるだろう。
今でも台風を逸らしたりする奇跡は起こせるが、このまま弱っていけばどうなるかわからない。
最近両親へ送る手紙の内容はそういう話ばかりしてしまっている。ただ相談してみたところで、両親の方でもどうしていいかわからないらしい。
今定期的に行っている神事は毎月一度の祭りと夏の大きな祭り。そして初詣。お母さんの代からは葬式も執り行なうようにしてきた。
私はまだ学校があるからお葬式まで手が回らないのでしていないが、中学を出たら高校には行かず神社のために全力を尽くすつもりである。
神奈子様は高校とか大学とか行きたければ行っても良いと申されるが、とても頷けるような空気じゃない。
いつも気丈に振舞う神奈子様だが、小さい頃に感じていた威厳というか、オーラが薄れた今の神奈子様を見ていてとても放っておけなくなる。
おや? 視界がグラついた。突然頭痛と吐き気に襲われた。
落としてしまった洗濯物を拾ったが、どうも気分が悪いらしい。今日は早く寝るようにすべきか。
かといって寝る前に本殿の掃除をしておきたいし、明日燃えるゴミの日なのでゴミをまとめたい。
やっておいた方が良い宿題もあるし、お守りの在庫が久しぶりに減ってきたからそろそろ用意しておきたい。
やることが一杯あるから、休んでいられる暇なんてないのに。
「早苗!」
「あれ……神奈子様」
「大丈夫かい? 庭で洗濯物抱えて座ったまま動かないからどうしたものかと」
「べ、別になんでもないですよ。もうお風呂は済んだのだのですか?」
「顔色悪いよ! ちょっと休んでなさい!」
神奈子様に抱えて頂き、居間まで運んで頂いた。私を横にさせると、神奈子様が洗濯物を片付けようとされる。
「そんな、家事なんて私に……」
「良いから! 夕食も後は私がやっておくからね」
「ちょ、ちょっと待ってください。巫女が横になって、神様が家事をするなんて」
「良いから休んでなさい!」
語気を強めて、そう仰った。怒られているように感じたが、どこかもどかしさも感じられた。
結局ご飯が出来上がるまで私は半ば強制的に休まされた。
そのときにはかなり気分が良くなっていたが、神奈子様はたいそう私を心配してくださった。
「ごめんね」
いただきますをしようと、手を合わせようとしたとき神奈子様がそう呟かれた。
「え?」
「早苗にばっかり辛い思いさせて」
「そ、そんな! 突然どうしたんです?」
「あんただって気付いているだろう。もうこの神社は長くないって」
「そんなことないです! 中学を卒業したら、もっと神社のために働きます! だから何とかなりますよ!」
「前の、いやもう一個前の代ね。その頃からここ神社に足を運んでくる信者の数が目に見えて減っている、てのがわかったのは。それとも何百年も前からかもしれないね」
「……」
「あんたのお母さんも色々がんばってくれたさ。法事もするようになって、神社のためを思って尽くしてくれたよ。それでも信仰は減るばっかりで、もうどうしようも無いと思う」
「そんな、そんなこと言わないでください」
ここまで弱そうに見えた神奈子様は初めてだった。いつもどっしりと構え、頼らせて頂きたくなる存在の神奈子様がとても小さく見える。
「最後まで聞いて欲しいんだ、早苗。あんたが生まれた頃からずっと悩んでいたことなんだ。幻想郷というところにこの神社を移そうと思う」
「じ、神社ごと? そんなことが出来るんですか? っていうか、幻想郷ってどこですか!?」
「あー、今説明するから、最後まで聞いてくれって」
「すみません」
「こほん。幻想郷というのは今の社会から忘れられていった者達が辿り着く場所さ。そこには大昔実際に居た妖怪、妖獣、八百万の神々、様々な幽霊、妖精、魔法使いなんかが居るって話」
「ま、まほーつかいですか」
「早苗が神社を続かせるためにがんばってるのも、この先がんばってくれるのもわかってる。でももう駄目なんだ。言い訳みたいに聞こえるかもしれないが、現代の人間達が私を信仰してくれないんだ」
「幻想郷に行けば神奈子様は助かるんですね?」
「ああ、きっと助かる。でもそこへ行くには、あんたにこの世界を捨て去る覚悟を持ってもらわないといけない」
「幻想郷って遠いんですか?」
「遠いも何も、別世界へ行くと考えなさい」
「でも、それで神奈子様が助かるのなら!」
「そうかい? あんたがいつも持ち歩いてる携帯電話が使いものにならなくなるよ。テレビだって一生観られなくなるよ。たまに買って帰って食べてる、ハンバーガーだって食べられなくなるねえ。ドーナツだとかいう美味しいものも向こうにはきっと売ってないよ。コンビニだって、スーパーも無いだろうね」
「……」
「いじわるするつもりは無いんだけどさ、よく考えて欲しいんだ」
「そんな、ここでは神奈子様の方が偉いんですよ。私の意見なんて無視しちゃってくださいよ」
「うん? あんまりこっちの世界に未練がないのかい? 学校の友達と一生会えなくなるよ。この前話してた彼氏クンともね」
「あの人なら振りました。あと……そんな不思議が一杯の世界に行ってみたいです。もう戻れなくっても良いです」
「じゃあこうしよう。一ヶ月待とう。一ヶ月後返事を聞かせてくれないかな? 一生を別世界で過ごすことになるから、絶対に後悔して欲しくないんだ。そりゃあ普通は神の意思優先で、仕えてる巫女の意見なんて無視するものかもしれないけどね、私はそういうのが嫌いなんだよ。だから早苗にも納得してもらって、幻想郷へ旅立てる様にしたいんだ」
「神奈子様……」
神奈子様は随分と私の気持ちを尊重してくださったが、私はもう幻想郷という新天地への憧れで胸が一杯だった。
妖怪だって? そんなもの漫画や、小学校の図書館に置いていた図鑑でしか見たことが無い。
そんなものが生きて、世間を闊歩しているんだろう。妖怪は人を食ったりすると本で知った。
私でも襲われたらひとたまりも無いだろう。でも私には奇跡の秘術がある。きっと妖怪なんてイチコロよ。
「早苗?」
「なんでしょう!」
「随分と嬉しそうな顔をしているね。幻想郷はね、早苗が思っているよりずうっと過酷な環境かもしれないのに」
「何を仰います、別に嬉しくなんてないですよ」
一ヶ月? 一ヶ月も待ってもらう必要はない。今すぐにでも今居る世界とオサラバしたい。
だってこの世界から出たら宿題だってする必要ないし、不思議が一杯の世界だというのなら神奈子様の信仰だってすぐに集まるはず。
そうなれば神社は潤って、神奈子様は毎日お酒を呑めるようになる。神奈子様が幸せになるのなら、それでいい。
母はこの仕事を熱心にやっていたと思うが、母自身巫女家業は好きではなかったらしい。
でも私は違った。小さい頃から巫女という職業に憧れたし、今でもその気持ちは変わらない。
当然苦しいことだってあったし、巫女を辞めたいと思ったことだって何度もある。でも本当に投げ出したことは一度もない。
いつだって困難を乗り越えてきた。それは一重に神奈子様の巫女という仕事が大好きだからだ。
神奈子様は格好良い。本当に素敵な人、いや神様だ。もっと単純な話をすれば私は神奈子様を愛しているのだろう。
そりゃあもう母親みたいなものだと感じている。巫女ごときが神様を母親だと思うのは失礼に当たるのかもしれないが、私にとっては大切な家族みたいなもの。
そんな神奈子様に仕えさせて頂けるのであれば、私は火の中水の中、地獄の果てであろうともついていく覚悟が出来ている。
それなのに神奈子様と来たら、妙な脅しをかけて私をのけ者にしようとしている。わけがわからない。
今まで一緒にがんばってきたのに。ご奉仕してきたのに。まるで私を仲間外れにしようとされているみたいだ。
「ご馳走様。遅くまで起きてちゃ駄目よ、もっと体を大事になさい」
「ご馳走様でした。私はお守りの仕込みがありますので……お先にお休みください」
確かに私は無理をしているのかもしれない。でもそんなもの神奈子様に比べれば何とでもないと思う。
神奈子様はいわば衰弱して行っているようなもの。私とは比べ物にならないぐらい、深刻な事態に陥っているのだろう。
私はもう宿題なんてものに縛られる気はない。気持ちは完全に幻想郷へ出向いている。
明日の朝になれば心は決まっている、と神奈子様を押して私の返事を聞いてもらおう。
そうと決まれば明日にでも幻想郷へ行きたい。今の内にこの世界で食べられるお菓子を堪能しておこう。
私は買い溜めしておいたお菓子を片っ端からつまんで行った。
何が彼氏クンと会えなくなる、だ。あの人は私に「巫女さんって格好良いね」なんて言っておきながら三つ股もしていた最低な人だった。
クラスの皆とは少しずつ打ち解けてきたが、やっぱり皆どこか余所余所しい。
結局何が言いたいかというと、私は寂しいのだと思う。
学校に行っているよりも、家に帰って神奈子様との時間を過ごしたい。
今の友達に未練なんてない。強いて言えば、小さい頃に出会った、あの、名前と顔の出てこない子。あの子ともう一度会いたいとは思う。
でももう会える可能性は無いだろう。きっとあの子もどこかへ行ってわからなくなっている。
だから今いる世界に思い残すことなんて無い。むしろ新しい世界で、新しい早苗として生きてみたいと思う程。
新しい世界に旅立つのなら、向こうの世界で信者を作るためにも丹精したお守りを用意しておかなければ。
地元の手芸用品店に特注で作ってもらった生地を切り、守矢神社のお守りを手縫いで作っていく。お願い事を書いた紙を包み、紐を結んで完成。
大きな神社や人気のお寺なら機械で袋だけ作り、後で願い事の紙を入れたりすると聞いたことがあるのだが、うちではそんなお金がないから代々巫女がそれを用意してきた。
だから今私もこうして慣れない手で一生懸命こしらえているのである。
ちなみに一週間に一度だけ来てくれるミヨコさんは、私なんかよりもずっとお守りを作るのが上手だったりする。
そうか、旅立つとなるとミヨコさんも来なくなるのか。
そうなるとここの神社は私のよれよれなお守りばかり売ることになるのだが。
「……?」
後ろから誰かの気配を感じた。神奈子様かと思ったのだが、誰も居ない。
気のせいだろうか、部屋の襖が少しだけ開いている。きちんと閉めたはずなのに。
もうすぐで日付が変わる。私は宿題もせずお守り作りに勤しんだ。学校にだってもう行くつもりはない。
そういえば明日はミヨコさんが来てくれる日だ。ついでにご挨拶しておこう。
きっと驚くだろう。でもここにおわす神様がピンチだということを話せばきっとわかってくれる。
両親にも手紙を出しておこう。幻想へと旅立ちます、と。
幻想かぁ。何を寝ぼけたことを、とバカにされるような気もしてきた。字面で見れば胡散臭いかもしれない。
でもお母さんの代よりもっと前から神奈子様の信仰が危ないとなれば、お母さんは他所へ行くかもしれないということを予想しているのかもしれない。
手紙を出してみれば「あ、やっぱり」と返ってきたりして。
もうそろそろ眠ろう。考え事がまとまらないぐらい眠くなってきた。
寝る直前に戸締りだけ確認してから、布団に潜り込んだ。
※ ※ ※
「早苗」
「……」
「早苗ってば」
「んー」
「学校に行く時間だよ」
「あ! おはようございます! 布団の中からのご挨拶、失礼します!」
「おはよう。学校だよ」
「何言ってるんですか、私はもう幻想郷に旅立つ気まんまんです。学校なんて行く気ありません」
「あんたねぇ……」
朝らしい。学校をサボるつもりだと思っていたから、寝坊してしまった。
「あ、朝食ですか神奈子様! 今起きてご用意致しますね!」
「あのねぇ早苗。あんたが決意してくれたのは嬉しいけど、だからって今すぐ行けるわけじゃないのよ。こっちとしても準備ってものが……」
「私に何か手伝えることはありませんか?」
「ないね。といっても、急げば明日には飛び発てるけどね」
「じゃあそうしましょう! 朝ごはん食べたら家事済ませて、ミヨコさんが来たら明日から神社ごと引っ越しますって話して、買い込んでおけるもの買っておきます!」
「そうね、そうして頂戴」
昨日はしつこく「本当にそれで良いの?」とか嫌味っぽい言い方をされていた神奈子様だが、今日は素直に信じてもらえた。
学校には電話で熱が出たと嘘をついて、休ませてもらった。
急いで着替えを済ませて朝食作り。学校の制服ではなく、私服に着替え。
朝食が終わった後携帯電話にメールが届いていたことに気付く。
クラスメートからのものだった。「今日どうしたの?」と。私は携帯の電源を切り、自分の机の奥にでも突っ込んでおいた。
境内の掃除をしているとミヨコさんが到着。
いつもは私が学校へ言っている間にやって欲しいことを書いたメモを置いておき、それをミヨコさんが見て片付けるものをやってもらってる。
今日は私が学校をサボっているため、朝からミヨコさんを拝むことが出来た。
ちなみにミヨコさんは近所に住んでいる、昔から付き合いの長い信者さん。歳は五十前半。
ご主人がずっと前に病気で亡くなってから、一人で暮らしているとか。子供が居たそうだが、今は他府県へ行ってしまわれた。
毎週木曜日の朝に来て私が帰ってくる夕方までの間、雑用なんかをやってもらっている。
ミヨコさんはこの神社に対して強い信仰を持ってくださっているようで、普通の人では神様の姿なんて見ることすら出来ないのだが、この人は「そこに居られる」という気配ならわかるそうだ。
「おはようございます!」
「あら? 早苗ちゃん学校じゃ?」
「あ、ちょっとそのことでお話が」
ミヨコさんを居間までお連れした。居間では神奈子様がテレビの観光番組を観ていらっしゃる最中。
神奈子様にミヨコさんを連れてきましたと報告すると、テレビを消して嬉しそうな顔でこちらを振り向かれた。
ミヨコさんはというと額を床に擦りつけんばかりに、頭を下げている。
神奈子様が「良いから、入ってもらって」と申されると私が誘うまでもなく食卓へついた。
「八坂様、ミヨコです。お邪魔します」
「ええ、お元気そうで何よりね」
台所へ戻ってお茶を淹れ、食卓へ戻る。ミヨコさんも神奈子様もにこやかな表情をされていた。
「それで早苗ちゃん、話って?」
「あ、はい。神奈子様の存在が危ういということで、神社ごと別世界へ旅立つことになりました」
「あれまあ!」
ミヨコさんは心底驚かれた様子。それもそうか。神社ごと他所へ移すなんて普通思いもしない。
「存在が危ういって……この神社は代々修行した、奇跡の起こせる巫女が神様にお仕えしている、由緒正しい神社じゃないの!」
「ミヨコさん、お気持ちはわかります。私も昨日神奈子様に聞かされたばかりで、今でも信じられません」
「どうにもならないの?」
「ならないんです。信仰が足りず、このままではうちの神様が居なくなってしまうんです」
「そんな! 私なんか毎日拝みに来ているのに……それだけでは駄目ってことなのね」
「……」
「主人に先逝かれて寂しかったけど、そのとき早苗ちゃんのお母さんから声をかけてもらってすごく嬉しかった。それから今日まで守矢神社に参拝させて頂いて、毎日の支えになっていたというのに」
「すみません。本当に急な話で申し訳ないのですが、神奈子様の意向ですので」
神奈子様が面食らった顔でこちらを振り向かれた。嘘は言っていないつもりだ。
「八坂様が……それなら、もうそうするしかないんですねぇ」
「私の力が足らないばかりに、こんなことになって申し訳ありません」
「その、信仰が足らないっていうのはいつから?」
「ずっと前からだそうですよ」
「それなら早苗ちゃんのせいじゃない。悪いのはたぶん、私らの信心が足らないせいだよ」
「ミヨコさん……」
ミヨコさんはまた頭を下げた。ミヨコさんは悪くないのに。あえて言うならこの町の人皆。現代人が神奈子様のことを信じなくなったことだろう。
「ミヨコさん、私はこれから買い溜めしておけるようなものを買いに行こうと思ってるんです。手伝ってもらえませんか?」
「何言ってるんだい、今更改まってお願いされるようなことじゃないでしょ。車出してくるから、神社の前で待ってて!」
「ありがとうございます!」
「八坂様、あなた様の早苗ちゃんを借りていきます。お邪魔しました」
「ええ、お買い物お願いね」
神奈子様の言葉はミヨコさんには届いていないのだろう。でもミヨコさんに気持ちは伝わっていると思う。
ミヨコさんは少し悲しそうな顔をして出て行った。
「早苗、私が急かしてるみたいな言い方を装ったわね」
「間違ってはないと思いますよ?」
「私の名前を利用するなんて、良い度胸してるじゃないか」
「あ、いえ、その、ごめんなさい」
「わかればよろしい。まあ、買い物お願いね。私は本殿に篭もって神社移転の準備をするわ」
「はい! 行って来ます! あ、あの……」
「うん?」
「その、幻想郷でお金って使えるんでしょうか?」
「さあね。まあそんなものは向こうに着いてから考えれば良いのよ。全部使いきるつもりで良いんじゃない。ああ、酒はたんまり買ってきてね。向こうに着いてから宴会を開くだろうからね」
「はーい」
買い溜めしておきたいものは日用品とか、タオル、下着、お菓子。ああ、あとお酒。食料は日持ちしないだろうから、買っても意味がないだろう。
インスタント食品や冷凍食品もだ。神奈子様の話では電気が通っていないらしいし。
あと神奈子様曰く、商品を包装しているビニール袋なんかは捨てておいた方がいいらしい。
というのも、ゴミ処理場がないからだそうだ。なる程、そういう施設がないのなら確かに現代のゴミは持ち込まない様にすべきだ。
ホームセンターで必要そうなものを買い漁った。買い溜めると言っても正直どれぐらい買えば良いかわからなかったりする。
だからとりあえず車の後部座席が埋まるぐらい買い溜めておいた。
お昼前には神社に戻り、本殿で準備なさっている神奈子様に声をかけて昼食を取って頂いた。
本来は偉い神様が先に食事を取られる。ミヨコさんが来ているときや、神事のときにはいつもそうしてきた。
神奈子様曰く「堅苦しいのが嫌」だそうで、普段私はご一緒に食事させて頂いているが。
両親とも会えなくなる。だが悲しいという気持ちよりも、新しいものへの関心が強かった。
車の荷物を全て降ろし、今度はお酒を仕入れる仕事。酒屋に電話して車に積めるだけの日本酒を注文した。
何十万とお金がかかったが、神奈子様の仰る通り有り金をはたいた。
「それにしても、別世界だって? 疑っているわけじゃないけど、信じられないわぁ」
帰りの車の中。信号待ちのとき話を振られた。
「まあ、戸惑うのもわかります。正直私も信じ切れていません。でも、神奈子様のためです。私は神奈子様についていきます」
「早苗ちゃん、偉い! 昔と随分変わったね、強くなったよ」
「そうですか? よくわかりません」
「いやいや、守矢神社の巫女らしい立派な目してるよ。向こうに行っても胸張ってやりなさい!」
「あ、ありがとうございます。私はまだお母さんより全然立派じゃないと思いますけど、がんばります!」
「うん、うん!」
ミヨコさんは笑顔だった。笑顔で私を送り出そうとしてくれているのだろうか。
神社に戻ったとき、時間はもう夜。ミヨコさんとはとうとうお別れ。ミヨコさんはぺこぺこ頭を下げて何度もありがとう、と言った。
見送りのとき神奈子様が傍に居られたのだが、ミヨコさんは私の横を見て深くお辞儀し、ここを後にする。
「神奈子様、まだ時間はありますか? 両親に手紙を出しておくのをすっかり忘れてしまいまして……」
「ああ、大丈夫よ。出してくるだけならね。移転が出来るのはたぶん日付が変わって数時間した、真夜中になりそうだねぇ」
「あー……今から書くのですが」
時計が示す時間は七時半過ぎ。まあポストに投函さえ出来れば良いと思っているので、間に合うだろう。
「良いわ、書いてきなさい。夕食は手紙書き終わってからでいいから」
「すみません、急ぎますから」
「何言ってんだい、あんたの両親に出す最後の手紙になるんだよ。じっくり考えて書きなさい」
神奈子様の言葉に甘えた私が手紙を出して、また神社に戻ってきたときには十時を過ぎていた。
慌ててお風呂と夕食を用意し、神奈子様のお背中をお流しした。
今日の晩御飯は残りものの食材を適当に使ったありあわせのもので、質素なものになった。
どうせならハンバーガーやピザでも食べようかと思ってはいたが、時間が遅いのでどうしようもない。
食事を終えて食器を洗う。神奈子様はテレビを眺めておられる。
テレビの見納めでもしようか。でも木曜は正直おもしろいと感じる番組がなかったりする。
神奈子様は録画していた観光番組を観ていた。今やっているのは信貴山にあるという、朝護孫子寺というお寺の話。
「早苗、歯磨いたの?」
「いえ、まだこれからですが」
「そう」
神奈子様はテレビを消すと立ち上がり、本殿の方を向かれた。
「私は最後の締めくくりに入るけど、あんたはいつも通り寝てなさい。良いわね」
「あの、私に手伝えることはありませんか?」
「ないね。あんたの使う秘術とは全然別の方向の術だし」
「で、でも巫女の私が暖かい布団で寝て、神奈子様だけでお勤めをするというのも悪い気が……」
「良いから、良いから」
「わかりました。では神奈子様、後お願いします。お先に休ませて頂きます」
「ええ、おやすみ。朝になれば幻想郷に着いてるだろうさ」
本殿へ向かう神奈子様の背中に深く頭を下げた。頭を上げたときにはもう見えなくなっていたので、自室へ戻った。
この世に生まれてからのことを思い返し、感傷に浸ってみる。
神社の子として生まれてきたこと。お母さんのこと、お父さんのこと。小さい頃よく一緒に遊んだあの子。
小学校のときの友達。中学に上がってからは正直楽しくなかった。小学校のときはそんなこと無かったのに。
私は生まれたときから素質を持って生まれたらしかったから、神奈子様のお姿が見えなかったことはない。
お母さんから「神様は本当にいるのよ」と教わってるし、神様の存在を疑ったことなど一度もない。
だっていつも私の傍にいらっしゃるのだから。
お母さんから何も教わっていないのに、風を起こす術が使えたときは驚いたのだが、そのそき神奈子様は大笑いしていらした。
お母さんから「お仕えさせて頂いている神様を怒らせるようなことはしないように」と教わってから食事をご一緒させて頂いたとき、私は誤ってお茶を零して神奈子様にかけてしまったときがあった。そのときのお母さんときたらそれはもう鬼子母神の如き怖い形相で私を叱った。でも神奈子様は「良い、良い」と笑って見過ごしてくださった。
中学のとき虐められ、逃げるように神社へ帰ったとき神奈子様は何も言わず私を抱いてくださった。
神奈子様は本当に素晴らしい神様だ。真に尊いお方だ。この神社で生まれて良かったと、心の奥底から思う。
一緒に過ごして頂いた時間が両親よりも多いせいか、両親よりも神奈子様の方が自分の親に相応しい気がするときがある。
そんな神奈子様と新世界へ旅に出る。不安などあるはずがない。
あのお方の傍に居させて頂ければ私はそれだけで良い。他には何もいらない。
そのはずなのに、やはり胸にひっかかるものがある。いや、あの子のことは忘れなければいけない。
蛇の飾りと蛙の髪飾りを机に置いて電気を消し、布団に入ろう。枕元の目覚まし時計にスイッチを入れる必要はない。
神奈子様は今神社を移転するための術を使っていらっしゃるときだと思う。
だが何の音も振動も感じない。暗闇に薄っすらと見える天井にも何の変化も無かった。
自然と目蓋が重たくなっている。色々な記憶、目で見てきたものがぐちゃぐちゃに混ざって脳に飛び込んできた。
もう寝よう。さようなら、今居る世界。こんにちは、新世界。幻想郷というところに期待を抱いて眠ろう。
※ ※ ※
朝。天井が明るい。カーテンの隙間から陽の光が差し込んでいた。
目覚まし時計が示す時間は八時過ぎ。一応機械が動いてはくれる世界らしい。
少しずつ頭が冴えてくるのだが、まず気付いたことがある。音だ。
普段なら車やバイクの音が遠くから聞こえたりするのだが、全くそんな気配を感じない。
逆に聞こえてくるのは鳥の鳴き声。聞いたことのない、綺麗な声のする鳥のさえずりがすごく心地良い。
本当に幻想郷へ着いたのだろうか。もう興奮で胸が一杯。
カーテンを開けた。目に飛び込んできたのは、溢れんばかりの大自然。
どうやらここは高い所にあるらしい。下の方は木で一杯。遠くに集落の様なものが見える。
そのまた遠くには紅い鳥居が見えた。もしかしてここには別の神社があるのだろうか。
今、妙に速いものが動いた気がした。と思ったとき、肩に手が置かれた。気配でわかる。神奈子様だ。
「着いたよ、ここが幻想郷だ」
「神奈子様! おはようございます!」
「ああ、おはよう。随分と元気そうだね。あの飛んでるのが見えるかい?」
「な、何となく……」
「見えるのかい! さすが風祝の巫女だね! あれは天狗だよ!」
「て、天狗!? あの、鼻の長い奴ですか?」
「そうさ、本物だよ。すごいだろう? 昔の日本のことを考えれば当たり前の光景だけどね」
「もしかして……本当に神社ごと飛んできたんですか!?」
「まさか、私の腕前を知らないわけないだろう? こんなもの、朝飯前さ」
「そうでした! とりあえず朝食にしましょう!」
勢いでそう言ってはみたものの、何を作ればいいのか。
冷蔵庫は動いていなかった。というのも、電気が来ていないからだろう。本当に別世界へ来てしまったんだ。
私はとりあえずスティック状の乾パンみたいな栄養食品をテーブルにお出しした。
「……他には何もないのかい?」
「昨日食べたので最後です。カップ麺は買っていませんし、冷蔵庫使えなくなるのならお野菜も腐ると思って買っていません」
「良いけどさ。あんたがいつも食べてるのを見てるから、食べられるものなんだろうね。でもね、出来れば野菜や肉、魚が良いんだ」
「そうなんですか?」
「何だって良いってものじゃないのよ。神は自然と生きている。だから自然にあるものを取り入れるのが一番良いんだ」
「なるほど。でも今食べられるものってこれとお菓子、おつまみぐらいしかありませんよ」
「食べないとは言ってない」
今ここでようやく気付いたことがある。お茶をどうやって焚けばいいのか。
しまったな、ホームセンターで焚き火のセットなんかを買っておけば良かった。
電気が来ていないところなんだから、ガスも無いってすぐにわかることじゃないか。
冷蔵庫で冷やしておいた麦茶が残っているのでとりあえずそれをお出ししたが、これが無くなったときのことを考えなければ。
言うまでもなく、お茶はぬるくなっていた。
「そこのキッチン、完全に役立たずだね」
「そ、そうですね」
「大工でも呼んで改造してもらうしかないね。それは私が考えとくよ」
栄養調整食品をお茶で流し込んで食欲を誤魔化した。
「ああ、そうだ。井戸もいるねぇ」
「い、井戸ですか?」
「当たり前だろう? 蛇口を捻って水が出るわけない」
「……あ! そ、そうですね」
不便だ。でもここで生活していれば、慣れてくるに違いない。
それに早速収穫があったんだ。天狗が居るという事実。
「着替えてきなさい。挨拶しに行くわよ」
「あ、挨拶? ああ、下に見えた町みたいな所へですか?」
「何言ってんだい、ここに住まう神様達へだよ」
「え? 神奈子様以外の神様が幻想郷に居るのですか?」
「感じないのかい? そりゃあもう、山ほど居るのが感じられるよ」
そういえば私は神奈子様以外の神様を知らない。神奈子様以外の神様って、どんな感じなのだろう。
言われてみれば高貴な気配をたくさん感じるが、それが神様達の気配なのだろうか。
とりあえず外に出よう。そうすればきっとわかるはず。神奈子様がついているからきっと大丈夫。
「何やってるんだい? そんな服、捨てちゃいなよ」
「え?」
「巫女衣装にしときなさい。前居た世界じゃ変な目で見られるかもしれないけど、たぶんこっちの世界じゃ皆そう思わないよ。むしろ私の巫女であることを主張しなさい」
「は、はい!」
蛇と蛙の髪飾りをつける。袴を締めて上を羽織る。お払い等に使う御幣を持っていけと言われた。
どうやらこれからはこれを媒体に術を使うと良いらしい。
よくわからないが、武器のようなものを持って行った方が信仰を広めるのに都合が良いそうだ。
ちなみに今着ている巫女衣装は儀式をするときにしか着てこなかった。
これからは極力これで活動した方が良いそうなので、この服に慣れておかなければ。
外に出る。木々の葉は緑の原色。照りつける日差しが少し暑く感じる。今の季節は夏手前なのだろうか。
神奈子様も外に。草履を履かれて、準備運動のようなものをされている。
「どうしたんですか?」
「どうやらこの土地の者達は神様への信仰が強いみたいでね。私の力が少しだけ戻ったような気がするのよ」
「もうですか! 私、神奈子様が元気になるよう、頑張ります!」
「そのためにも他の神様達へ挨拶しないとね」
神奈子様はちょっとお待ち、と仰って境内に立てていた御柱を一本引き抜かれた。
引き抜く? あれは深く掘り、土を押し固めて根っこを埋めたものだと聞いたのだが、あんなもの引き抜けるのか?
「全盛期の私ならこんなもの、何十本でも担げるさ。でも力がまだまだ戻っていないね、一本しか持てなさそうだ」
「……」
「行くよ、早苗。ついてきなさい」
「は、はい!」
御柱なんてもの、一体なぜ持っていかれるのだろう。平然とした感じで肩に担いでおられる。
「あの、そんなもの何に使うんですか?」
「何って、妖怪退治に決まってるじゃないか。何か得物がないといざというとき困るからねぇ」
「は、はぁ」
そういえば妖怪は人を食うとかって聞いたか。本物の妖怪が居るのなら、確かに自衛する手段として武器は必要かもしれない。
あんな重たそうな、かつ長くて頑丈なもので殴られれば一たまりもなさそうだ。
と、その前に神奈子様が特訓をしようと仰った。
なんでも空を飛ぶ術とやらの特訓だそうだ。そんなことが出来るのだろうか?
少なくともお母さんは空なんて飛べなかったのに。
「さっき天狗が飛んでるのを見ただろう? それに空でも飛べないと、移動に時間がかかって仕方がない」
「神奈子様は飛べるんですか?」
「飛べるに決まってるさ」
そう仰って、ふわりと浮かんだ。ついさっきまでやっていたみたいに、あっさりと。
「ほら、早苗も飛んでみなよ」
神奈子様に促されるがまま特訓が始まる。が、特訓というほどのものにならずにものの数分で宙に浮かぶことには成功した。
「すごいじゃないか! もう大丈夫だね!」
そうは仰るが、いきなり空へ浮かび上がったところでどうしていいかわからないに決まっている。
「あ、これ、やっ、た、助けてください!」
「落ち着いて! 自分がどうやって飛び、どこへ行くかを強く想像するのよ! そうするだけで良いから!」
案の定私は墜落した。と思ったのだが、神奈子様が間一髪で私を受け止めてくださった。
その後試行錯誤し、ようやくコツを掴んだ。速く飛ぶのは怖くて出来ないのだが、飛行するということは出来るようになった。
こんなにもあっさりと飛べるようになって良いのだろうか。だって人間が空を飛べるはずないのだから。
そう考えると浮力を失って落ちそうになった。慌てて空を飛べる、空を飛べると思い込むと浮力が戻ってきた。
なるほど、見えない浮き輪をつけて風を操る秘術で自分を動かしていると思えば自由自在に飛べるようである。
ここで一つ問題がある様に思う。それは飛んでいる間袴の中が丸見えになっているのでは、ということだ。
神奈子様はというとドロワーズという、ふわふわ膨らんだ下着を着用されている。
そっちだと普通のショーツよりかは恥ずかしくないそうだ。私もかぼちゃパンツに切り替えようか。
飛べるようになったところで山を降りようと促され、神奈子様の後をついて行った。
「早苗、ちょっと降りよう」
「は、はい!」
神奈子様にならって地面に降り立つ。
着地するときは焦らずゆっくり降りないと、足に予想外の負担がかかって最悪足が折れたりすることもあるらしい。
「ほら」
「え?」
「あそこに居るのが神様だ」
神奈子様が示されたところには女性が居た。緑の髪をしていて、大きなリボンをつけている。
祠の周りを大木が囲んでいる場所で、その傍に彼女が居る。
ぱっと見ただけでは神様と言われてもわからなかった。
というのも、神奈子様同様人間と同じ姿だから全くわからない。
向こうがこちらに気付いた様子。神奈子様は彼女の方へ走り出した。
「やあ!」
「あら」
神奈子様が大きな声で挨拶しに行かれた。向こうの人、いや神様も応じられた。
「始めまして! 昨日の夜、そこの山の上に引越しさせてもらった者なんだけど」
「ああ、あれあなた方のだったの? すごい音がして、天狗達が騒いでたわよ」
「ああ、うちに来たよ。なんか偉そうな感じの天狗がね」
少し離れたところから二柱の様子を見ていた。世間話でも始めたような、和気藹々とした空気を醸し出している。
私も自己紹介すべきだと思っているのだが、邪魔をしない方が良いかなと言い出せないでいた。
「そちらの人間は?」
向こうの神様が私に気付いてくださった。待ってましたと、一歩前へ。
「ああ、私の巫女だよ。ほら、挨拶」
「あ、あの! は、始めまして、東風谷早苗と言います! 巫女です!」
「ええ、始めまして。私は鍵山雛よ。厄神をやっているの」
すぐ近くでお顔を拝見させて頂くとなる程、神様というだけある。お顔がとっても綺麗な方。
「や、厄神と言いますと厄の神様ですか?」
「ええ、そうよ。えんがちょのこと。だからそれ以上近づかない方が良いわよ」
雛様にそう念を押されたのでこれ以上動かないことにした。だが神奈子様は気にも留めずに雛様の傍。
「あなた方はどうして幻想郷へ?」
「信仰が全く得られなくなってしまってね。逃げてきたってところさ」
「なんとまあ! 外の日本はそんなことになっているの!?」
「神を信じている人間なんて、これっぽっちしか居ないわ。とても外の日本ではやっていけそうにないね」
「その話自体がとても信じられないわ。まあ、ここじゃあそんなことはきっとないわ。これからもよろしくね、神奈子、早苗」
「よろしくね、雛。今度宴会でも開こうと思うから、お酒呑みに来てよ」
「あら、もう行くの?」
「他の神様達に挨拶して回ろうと思ってるんでね、忙しいんだ。すまないねぇ」
どうやらもう行くそうだ。雛様、本当に綺麗。
そう思っていると雛様がスカートの中から黒いモヤを出された。モヤはどこかへ飛んでいき、雛様が私の傍へ寄られた。
「あ、あの」
「大丈夫、厄は他所へ流したわ。今ならあなたに厄を移してしまうことはない」
雛様がそう仰ると、私の肩に手を置かれた。その拍子なのか、今始めて他の神様の気配を感じ取ることが出来た。
暖かいというか、何か安心できるものがそこに居られるという感触。
「早苗ちゃんって可愛いわね」
「え? え!?」
雛様が私を抱き寄せた。体が密着している。幻想郷ではこれが普通の挨拶なのだろうか。
少々過激すぎると思う。私の心臓は破裂しそうなぐらい、うるさくなっていた。
「顔、赤くなってる」
「いや、あの、だって、その」
「もうその辺で勘弁してやってくれよ。この子、私以外の神様を見るのは始めてで緊張してるみたいんだし」
「こういう巫女さんだったら、私も欲しいなあ」
「譲る気はないねぇ。本当に良い子だから」
「あ、そうなんです! 私は神奈子様の巫女です! ごめんなさい!」
「あらそう? 残念。まあいいわ、また今度山の上の神社に行けば良いのね?」
「ええ、いつでも遊びに来て頂戴」
神奈子様の助け船で雛様とお別れ。雛様の急接近で私は疲れるぐらい緊張した。
「大丈夫かい早苗。ちょっと刺激が強かった?」
「ちょっとどころじゃないですよ! 男の子相手でもあそこまで体くっつけたことないのに……」
「私も驚いたよ。でもまあ良かったわね早苗、気に入ってもらえて」
「複雑な気分ですよう」
どんどん山を降りていく。その最中、また祠を見つけたらしい。神奈子様がこっちと、私を引っ張った。
祠が二つくっついている。そこだけ土が盛られた、丘のような場所になっていた。
そこには姉妹で神様をやってらっしゃる方々が居られるらしい。こちらに気付かれた二柱に早速自己紹介。
「あの、山の上の神社から来ました。風祝の巫女、東風谷早苗と言います。どうぞ、よろしくお願いします」
今度は落ち着いて言えた。さっきは随分と焦った言い方になったが、今回は大丈夫。
「あら、もしかして山の上に神社ごと降りてきた方々?」
「あ、はいそうです。こちらが仕えさせて頂いている、八坂神奈子様です」
「はじめまして、よろしくね」
「こちらこそよろしく。私は秋穣子で、こっちがお姉ちゃんの静葉」
「静葉よ、よろしく」
穣子様は元気一杯、やんちゃな女の子な感じの神様に思った。それとは逆に静葉様は凄く落ち着いた印象。
神奈子様は静葉様に興味をお持ちなのか、これまた接近して話し込まれている。
顔と顔の距離がすごく近い。あれではまるでキスしようとしているみたいだ。
「私達も負けていられないわね!」
「え?」
穣子様が私を抱き寄せた。さっき雛様がなさったときと同じ感じ。
慣れなれしいスキンシップに私は混乱させられっぱなしで、どうにかなりそうだった。
神様に認めていただくとか、褒めて頂けるのは嬉しいのだがもうちょっとこう、ソフトに出来ないのだろうが。
「早苗ちゃんって呼んでも良い?」
「え、あ、はい」
「んー! 早苗ちゃん可愛い! あの巫女もこんな風に素直な良い子だったら良いのになぁ」
「え? 他にも巫女をやっている人が居るのですか?」
「ええ、居るわよ。向こうの方の神社に居るわ、紅白のね」
「早苗、そろそろ行こうか」
「も、もうちょっと待ってください!」
静葉様にも何か挨拶しないと。たまには私からしても良いだろう。そう思い、静葉様に思い切り飛びついた。
「この幻想郷では、こうやって挨拶すれば良いのですね!」
「わっ!」
幻想郷の住民としてこちらからも激しいスキンシップをしようと思ったのである。
ただ、勢いが強かったらしく私は静葉様に接吻をしてしまった。
静葉様はというと言葉にならない何かを口走り、顔を赤くしておいでだった。
まさかファーストキスをこんな形で経験するとは思ってもみなかった。
「いやー、早苗があんなにも過激だなんて思いもしなかったよ」
「ちちちち違うんですって! そんなつもりは無かったんですよー!」
「いやあ、穣子の驚いた顔と静葉の真っ赤な顔おもしろかったなー!」
神奈子様は腹を抱えて笑っておられた。神様に唇を奪われるのなら、まあ良いかなと思ってきた。
いや、そう思わないと何か勿体無い気がしてきた。
とはいうものの、静葉様からすればキスを迫られたと思われたかもしれない。
紆余曲折あったが、ようやく町に到着。
道行く人を一人捕まえて色々話を聞いてみると、どうやらここは「人里」と呼ばれているらしい。
規模や人口はよくわからないが、地元の人の感覚では人は少ないらしい。
私から見れば少なく感じないこともないが、そもそもこの人里自体が狭く見えるのだ。
元居た地元と同じような感覚。大都会と比べれば雲泥の差だが、近くにスーパーでもありそうな規模。
ちょくちょくお店を運営しているところもあるのを見れば、お金が流通しているのだろう。
この辺はまた人里の偉い人にでも詳しく話を聞くことにすればいいと神奈子様が仰った。
数あるお店の中でも、特に居酒屋らしき店が繁盛していた。赤提灯の看板を出している店もあった。
神奈子様が早速入ろうとするのだが、もっと里のことをよく知ってからにしましょうと引き止めた。
山奥みたいな場所にあるだけあって、野菜や果物がたくさん並べられている。
道を行く男の人たちは皆着物を着やすくアレンジしたみたいなものを着ていた。何かの本で見た、甚平というものに似ている。
それに対して女の人は中華っぽいというか、アジアンテイストな服を着ている人なども居る。
ブラウスやスカートを着用した、学生みたいな格好した人もいる。
中にはゴスロリチックな人、魔法使いみたいな人、メイドさんみたいな人等色々見かけた。
人里は狭いのかもしれないが、里どころか一つの町としての機能は持っていそうなぐらい人々の営みがされていると思う。
神奈子様が里の長に挨拶しようと仰ったので、人に場所を訊いてその人の家へ。
そうして里長の家に到着。さすが長というだけあって大きな家。
塀は高く、白くて綺麗。門のところには笠を被った人が一人立っていた。
神奈子様がその人と話をし、里の長さんに会いたいと頼まれた。番人らしき人は笑顔で招き入れてくれた。
神奈子様は担いでこられた御柱を番人さんに預けた。預けると言っても普通の人では持ち上げることすら出来ない様子だったが。
家の中へ入ると、立派な中庭が目に飛び込んできた。
靴を脱ぎ、お邪魔する。ここの奥さんらしき人に案内され、長さんのところへ。
「失礼します、昨夜あそこの山の上に引っ越して来た者です。こちらは私が仕えさせて頂いている、八坂神奈子様です」
「始めまして、どうぞお座りください」
里の長さんは四十、五十ぐらいの男性。髭が白い。頭が薄かった。でも格好良く見える。さすが長だ、オーラが違う。
神奈子様はというと、自己紹介──これこれこうこう、何を司ってきた神様なのかを長さんに説明し始めた。
早速布教活動開始である。とはいえ私はややこしい話なんてよくわかってないので、神奈子様と長さんとの話は半分聞き流し。
部屋を見渡してみると刀と弓が飾られている。長さん曰く、昔は妖怪退治をしていたこともあるとのこと。
道理で歳のいった人の割りには肩が大きく、腕が太い。筋トレでもされているのだろうか?
奥さんらしき人からお茶とお菓子も用意して頂けた。お茶はほうじ茶だそうだ。
「それにしても、妖怪の山へ降りたと?」
「妖怪の山?」
「そうです。あそこは妖怪の巣窟となっている山なんです。まあ巣窟と言っても、神様も混じっていたりする場所なんですが」
どうやら想像以上に厄介なところへ降りた様である。
「何はともあれ、これからうちの信仰を広めようと思っているのです」
「なるほど。何はともあれわざわざ挨拶しに来られたとは、大変恐縮です」
「良いのよ、そんなに硬くなくてね」
「それはまた随分と変わった神様で」
「畏れで信仰を得る神も居るけどね、私はもうちょっとフランクな感じでやりたいのよ」
「それはそれは、私もこれから信仰させて頂きたく思います。とはいえ、妖怪の山となると……普通の人間では辿りつけませんね」
「その辺は心配いらないよ。この里にうちの神社の分社を建てさせてもらうわ。良いかしら?」
「どうぞ、ご自由にして頂いて構いません」
「そうですか、よろしくおねがいします」
挨拶はこれぐらいで良いらしく、ここを出ることに。私はもう退屈で仕方がなかった。
表に出たところで番人さんに預けていた、もとい屋敷内に置いていた御柱をよっこいせ、と抱えられた神奈子様。
長さんに手を振って別れたが、長さんは開いた口が塞がらない状態になっていた。
長さんの家の向かい側にある服屋の店主さんらしき人もこちらを見て唖然としていた。
「早苗、暇だったろう。甘いものでも食べようじゃないか」
「は、はい」
番人さんにお茶屋の場所を訊き、そこへ。店の前に御柱を突き刺し、店の中でお茶を飲む。
通りかかる人達は皆御柱を見て、何かあったのかと足を止めていた。さらに店内の他のお客さんは神奈子様に釘付け。
「どうやらこの世界の住民は皆私のことが見えるみたいだねぇ。おまけに皆私のことを注目してくれてる」
「は、恥ずかしいですよう」
「だから恥ずかしがることはないんだって。ま、これから慣れていけばいいのよ」
「は、はぁ……」
「これからどうしようか。大工とか呼ぶのは当てがあるから後で話しに行くつもりだけど、物知りに会いたいんだよねえ」
「あー……そういえば結局お金とかどうするんですか?」
今おまんじゅうとお茶をご馳走になっているのだが、私達はお金を持って居ない。
さっきの長さんの話では単位は円らしいのだが、私達は外の日本のお金を殆ど持ち出していなかった。
「私に任せときなさい」
「だ、大丈夫なんですか?」
「大丈夫、大丈夫」
私を置いて一人神奈子様は店の主人と何か話をしだした。かと思うと店の主人は神奈子様に頭を深ゝと頭を下げた。
「もう大丈夫だよ。好きなだけ頼めば良い」
「え? お代は?」
「ツケにしてもらったんだよ」
どうやって信頼を得たのかはわからないが、何となく想像できた。
おそらく外に立てた御柱を証拠に自分は神様である、と言ったのだろう。
ここの人達は神様というものを抽象的なものではなく、そこに居られると認識しているだろうし信じてくれるだろう。
そういえばこの世界において巫女という職業には何かしら特権みたいなものがあったりするのだろうか。
私は偉い神様直属の巫女なんだぞ、えっへん! みたいな。
前居たところでは「あらひとがみ」さんと呼んでくれていたし。
とはいえ私にはそんな威張る度胸があるはずもなく、お茶のお替りをお願いするぐらいしか出来なかった。
店を出るとき、神奈子様が店の主人に里で物知りそうな人が居るのかどうかと尋ねられた。
主人はヒエダという人の家を紹介してくれたので、次はそこを目指した。
道行く人々が皆神奈子様に一度は目をやっている。手を合わせたり、頭を下げる人も居た。見ただけで神様だとわかるのだろう。
酒屋で呼びかけをしている人や、金物屋の店員さんから声をかけられて挨拶を返したり。
そうしているうちにヒエダという人の家に着く。
長さんの家ほどではないが、ここの家もすごく大きかった。表札には「稗田」と書かれていた。
番人こそ居ないものの、戸締りはしっかりされている。
神奈子様が大きな声を出すと、家の人が慌てて飛んできた。
こちらが何者か自己紹介した上で物知りな人に会いたいとお願いすると、家の人に少し待たされた後「どうぞ」と招いてくれた。
例によって御柱は家の前の地面に突き刺し、安置しておいただけ。まあ泥棒に盗まれることなんてないだろう。
あんな重たそうなものを盗もうなんて、相撲してる人でも難しいと思った。
客間で少し待って欲しいと言われ、よく掃除されているであろう和室で待たされる。
「なんでも知っているとは、おもしろいねえ。きっとおじいさんやおばあさんが来るんだろうね」
神奈子様がそう仰ったが、いざ来た人はとても背の低い女性、いや少女だった。
中学生、いやもっと小さい。小学生ぐらいの女の子。
「お待たせしました」
「……あんたが稗田って人だね?」
「いかにも。私が稗田家九代目阿礼乙女にして、現当主である阿求です。なんでもあなた方は妖怪の山に神社ごと降りてきたそうですね」
阿求という少女が反対外の座布団に座った。着物を着ていて、髪は長い。
「へぇ? もう噂になってるのかい。それは嬉しいねぇ」
なんでも由緒正しき家系だそうで、代々幻想郷の歴史を記録している家らしい。
さっきの家の人がお茶を持って来てくれたのだが、さっきお茶屋に行ったばかりなので喉は渇いていなかった。
阿求という少女は幻想郷がどういう土地なのか色々と事細かに説明してくれる。
とても少女とは思えないオーラと話し方。おまけにぽんぽんと話が出てくる。
私はというと話を聞くのも面倒臭くって殆ど聞いていない。
興味が無いわけではないが、日当たりの良いところと悪いところの話なんかされたって洗濯物を干す場所を考えるのにしか使えそうにない情報じゃないか。
家系による信仰の差という話になると少し私も興味が出るが、神様の名前を交えた話になるともうついていけない。
それなのに神奈子様は頷きながら阿求の話を熱心に聞いている。
全くついていけない私は後で神奈子様にまとめて教えてもらうことにしよう。
「なるほどね。ここじゃスペルカードってもんで美しさを競う決闘を用いたりするわけだね」
「そういうことです」
「え? カード? カードで遊ぶんですか?」
「そうですよ。すごいですよ、弾幕遊びは」
「え? だんま……え?」
「それだけわかれば十分さ。邪魔したね、行くよ早苗」
「え、あ、はい」
「……」
私と神奈子様を送りにきたであろう阿求に別れの挨拶をし、里の通りへ出た。
家の人は御柱を引き抜く神奈子様を見て大層驚いている様子。さすがに私もこれには慣れてきた。
阿求と家の人に手を振って稗田家を後にする。
太陽の光が赤い。陽が沈みかかっている。もう夕方らしい。
そういえば持ち歩く時計なんてなかったな、と思う。
「それじゃあ早苗、今日はもう帰ろうか。途中ちょっと寄るところがあるんだけどね」
「はい」
空を飛んで山を登っていく。袴の中が見えてしまうんじゃないか、と心配しながら上を目指す。
里の服屋で下着を見てくれば良かったか、と今更悩む。
また視界の中を高速で動くものが出てきた。烏だろう。あんなに急いで、何をして生きているのか。
神奈子様が川を指差し、降りていった。途中寄るところがある、と仰っていたのはこのことか。
「神奈子様、どこへ行かれるのですか?」
「なぁに、すぐ済むって」
そう言って神奈子様は御柱を置き、川へ入っていかれた。腰の辺りまで浸かっている。
川の水なんて冷たいだろうに。一度だけ修行の一環で入ったことがあるからわかる。
するとどうだろう、川の中から帽子を被った何者かが三人現れた。
「こいつ、誰?」
「知らない」
「でも光学迷彩つけた私達を察知してたよ。すごい奴なんじゃない?」
三人のうち二人は大きな鞄を背負っていた。何が入っているのかは想像もつかない。
三人は私と神奈子様に対して警戒心を抱いている様子。キョロキョロと、こちらと神奈子様を見比べている
「あ、あの、神奈子様。この人たちは?」
「こいつらは人じゃないよ。河童さ」
「ええ!?」
「お、そっちは人間臭いぞ」
「攫っちゃおうか」
「おいおい、盟友を攫うわけにはいかないだろう。それに攫うのは今は亡き鬼の役目だね」
河童という割りには随分と人間チックである。
私の知っている河童っていうのは頭に皿があって、キュウリを貪っているイメージなのに。
「あの、神奈子様。この、河童らしい人らに何の用が……」
「決まってるじゃないか。うちの台所とか風呂場をこいつらに作ってもらうんだよ」
「え?」
「それじゃあ行ってくるから、ちょっとこの辺で待ってくれないか」
「え? 行くって、どちらへ?」
「河童の本拠地さ」
神奈子様はそう言うと川へ潜っていかれた。どこへ消えたのか、姿は見えない。
河童もいつの間にか居ない。私一人だけが残された。
暇になったんだし、と思ってここから見える景色を見てみる。本当に綺麗で感動を覚えた。
テレビ番組でたまに流れる日本の景色、みたいなコーナーでないと観ることの出来ない様なものが今目の前に広がっているのだ。
びゅんびゅん飛んでいるものが邪魔で仕方ないが、そのうち慣れるのだろう。
むしろそういったものが見えている方がここ、幻想郷らしい景色なんだと思う。
少し離れたところには小さな羽根の生えた少女らが遊んでいる様子。
あれは確か神奈子様が言っていた、妖精というものだろう。
別の方向にも妖精らしきものが居た。こちらを見ている。少しずつこちらに近づいていた。
手招きし、挨拶をしてみると驚かれながらも挨拶が返ってきた。
恐る恐る手を伸ばし、妖精らしき子の頭を撫でさせてもらった。体温がある。暖かい。生きているんだ。
今目の前に居る彼女は、本当にそこに居るのだ。空想、幻想のものかもしれないけど、今は私も幻想のものになったんだ。
そのうち神奈子様は帰ってきた。いつの間にか妖精はどこかへ消えていった。
そういえば妖精は自然発生したりする、とか神奈子様が仰っていたっけ。よくわからない生き物である。
「あ、お帰りなさいませ。どうなりましたか?」
「ああ、色々と手を貸してくれるってさ。ま、その分外から持ち込んできた酒を振舞ってやらないといけなくなったけどね」
「川の水で濡れてます。どこかお風呂を貸してもらえるところを探しに行った方が」
「それには及ばないさ。さあ行こう」
神奈子様が神社に帰ろうと促す。一体河童達とどういう話をしてきたのか。
帰り道に雛様と静葉様が一緒に居るのが見えた。こちらに気付き、手を振ってきたのでこちらも返した。
神社に到着。するとどうだろう、社務所兼住居としている建物に煙突が出来ていた。
家の中に上がってみると若干生臭い。
風呂場に行ってみると給湯器のスイッチが無くなっており、金属製の釜が外についていた。
「す、すごい! もう出来てるじゃないですか!」
神奈子様曰く金属製の釜に水が流れてくるので、そこを火で暖めて使うそうだ。
薪も一緒に置いてくれている。この釜に水を入れて火を点ければいいらしい。
驚いたことに山の湧き水を家の水道に引いてくれたらしい。恐ろしい程に仕事が速い。
倉庫の方に行ってみるとお酒がいくらか無くなっており、河童の置手紙があった。あの働きなら、全く文句はない。
「ほら早苗、火を点けておくれ。風呂に入りたいんだ」
「は、はい!」
火を点けて欲しいと頼まれるが、正直なところどうしていいのかわからなかった。
神事のときに使った着火剤と先の長いライターがあったのを思い出し、何とかそれを使って薪に火を点けた。
「火の点け方わかるかい?」
風呂場の中から神奈子様の声が聞こえた。
「今つきましたよ! でもこれ、どれぐらい薪をくべたら良いのかわからないんですが……」
「そうだねぇ、あと二本ぐらい入れといてくれれば良いよ」
「はい!」
本当にこれで良いのか非常に不安である。
キャンプみたいなものだと思えば楽しいのかもしれないが、文明の利器に頼って生きてきただけにわからないことだらけだ。
「良い感じだよ、ありがとう」
とりあえず私は外に居て、湯加減を調節する係りとして釜から離れずに居た。
そのうち神奈子様から交代の声をかけて頂いたので、私もお風呂に入ることにする。
巫女服を脱ぎ、裸になって風呂場へ。お湯に手を入れてみると、私には少し熱く感じた。
水を足してぬるくし、お風呂に浸かる。幻想郷に来てから初めて入ての入浴タイム。
一人になったところで、今日あったことを振り返ってみる。
見たことのない神様達とお会い出来た。
里というところが思った以上にしっかりとした町並みに驚かされた。
長さんの逞しい体つきにちょっとドキドキした。
阿求という少女が子供とは思えないぐらい、大人びていて不思議だった。
そこら辺の川に行くと河童が出てきたのには驚かされた。河童の国は水の中にでもあるのだろうか。
ものすごいスピードで飛び回っているという烏も不思議だ。
明日も布教活動をするのだろう。少しでも早くこの幻想郷に慣れ、神奈子様の巫女としての勤めを果たさないと。
風呂場を出たところで着替えのところを見ると、神奈子様のものらしきかぼちゃパンツが置かれていた。
「出たんだね、早苗。それ私のだけど、履いて良いよ」
「え、あの」
「いつものだと空飛んでるとき恥ずかしいだろう? 明日は下着とか服でも見に行こう」
「え、でも」
「良いから、良いから。私とあんたじゃサイズ違うかもしれないけど、たぶんいけるって」
腰のところは紐になっているので、縛れば履けるだろう。
神奈子様の心遣いをそのままありがたがることにした。いつものショーツで空を飛ぶのは正直勘弁して欲しいからだ。
これからはこのドロワーズを履くことにしよう。どうせジャージや普段の服を着ることは少なくなるだろう。
そういえば今日の晩御飯のことを考えていなかった、と思い出した。
八百屋と米屋を探しておけば良かっただろうか。
「すみません、今日の晩御飯どうしましょう」
「ああ、天狗のお偉いさんとこでご馳走してもらうつもりだよ」
「え? 約束か何かされていたんですか?」
「してないよ。お酒を振舞って、その代わりにしてもらうのさ」
「明日はどうするんです?」
「明日には台所も出来てるよ。耕作している農家を一軒一軒回ってうちの神社の宣伝して、農作物の一部を頂戴していけば良いのよ」
「あ、なるほど」
「あんたにもうんと仕事してもらないといけなくなるからね。がんばりなさいよ!」
「は、はい!」
「まあ、その前に天狗のところへ行かないとね」
外に出た。今の空は真っ暗。外灯なんてないから、本当に真っ暗。
正確に言うと真っ暗ではなく月と星が見えているのだが、この程度の光は私には暗すぎる。
山の下、里の方では看板がぼんやりとした明かりを灯す程度。
そこら中から蟲の声が聞こえてくる。聞いたこともない、不思議な鳴き声のものもいる。
「早苗、手繋いでいこうか? 暗くて見えないだろう」
「あ、じゃあお願いします」
「ゆっくり行ってあげるからね、怖がらなくて良いよ」
「はい!」
神社の戸締りを確認し、利き手で御幣を握り締めてもう片方の手で神奈子様の手を握る。
神奈子様がお酒の入った包みを抱えている。ふわりと、体が浮く。後はもう神奈子様に引っ張られるがまま。
暗闇をあちら、こちらへと飛び回っている。山のどの辺を飛んでいるのかは想像もつかない。何も見えないから。
目が夜に慣れるまでもう少し時間がかかりそうだ。周りでは何かの風切り音らしきものが聞こえる。
そう思っていると、神奈子様が止まられた。前には白い服を着た者が二人居た。顔は見えない。
「ここから先は天狗の住処だぞ」
「来客があるという知らせは聞いていないわ。殺されたくなければ引き返せ」
声からして、男と女が一人ずつ。
「私はあんたらの上司に用があるんでねぇ、通らせてもらうわ! 早苗、急ぐよ!」
「は、はい!」
私の顔の近くを何かが高速ですれ違った。鉄砲でも撃たれたのだろうか。発射音は無かった。
とにかく神奈子様の後を出来るだけスピードを出してついていくしかない。
警備の仕事をしているであろう二人が私達を追いかけながら、何やら飛び道具を撃ってきている様だ。
暗くて何が飛んできているのか詳しくわからないが、すごく危ないというのはわかる。
どうやって避ければいいのかわからないが、とにかく必死についていくしかなかった。
そのうち私達を追いかけている何者かがどんどん増えていき、撃ってきている何かは弾幕と呼べそうなぐらいの量になっていた。
腕を掠める。袖に穴が開いていた。冗談じゃない、こんなところで死ねない。当たってたまるものですか。
「うるさいのが増えちゃったねぇ、ちょっと黙らせようか!」
神奈子様が何か技名みたいなものを叫ばれた。今だけ手を離すよ、と呟かれる。
神奈子様の手から弾幕が飛んで行き、私達を追っていた何者かが次々と悲鳴を上げて落ちていった。
「見えたかい? 今のがスペルカードって奴さ」
「え? あの阿求って子が言ってた奴ですか? スペルカードって一体何なのです?」
「一連の模様を描く弾幕に名前をつけるんだよ。スペルカードバトルっていうのもあって、元来それは弾幕の美しさを競う神遊びさ」
「へー」
「いずれ早苗もするようになるよ」
「え!? そんなの無理ですよ! 無理無理! 大体、弾なんて出せませんよ!」
「大丈夫、大丈夫。外の世界じゃ気付かなかっただけさ。あんたも出せるのよ」
「……」
「ほら、そろそろ終点だよ」
山のどこか、岩場に降ろされた。岩場の奥には広い洞窟が出来ており、明かりがあった。
そこには赤い下駄を履いた男女が何人か居た。鼻の高い者も居る。
修験者の格好をした人も居る。おそらくここに居る者達は天狗なのだろう。
殆どの者が腰に扇子を差している。メモ帳の様なものを持って何か走り書きしている者も居た。
「私は山の上の神、八坂神奈子だ。あんたらの頭領である、天魔に会いたい。案内してもらおうか」
神奈子様がそう仰ると天狗達は道を開けた。さすが神奈子様、すごいオーラを発して天狗達を動かしてしまった。
でも天狗達は緊張しているような表情ではなく、むしろ好奇心旺盛な感じで私と神奈子様をおもしろそうなものの様に見ている。
洞窟の中へ入ってみると、そこには大勢の天狗達が居た。さっき見かけた白い服の者も居る。
木で作った家も幾つか見られる。ここは天狗達の住処なのだろう。
何かしらの機械が動いているような音が反響している。
広さはというと、ドーム球場ぐらいありそうな感じ。天狗達の社会はここで形成されているのだろうか。
神奈子様はその中でも奥の、高い所に作られた屋敷みたいな場所を目指してどんどん歩いて行かれた。
慌ててついて行く。すれ違う天狗と思わしき老若男女が皆こちらを見ていた。
屋敷みたいな建物の前には番人らしき天狗も居た。この天狗は絵に描いたような天狗で、鼻が高かった。
背が高い。腕が太い。脚も太い。すごく力がありそうだ。
そんな天狗を相手にずんずん前に出て神奈子様は「どけ」と迫力の篭もった声を出された。
番人らしき天狗は刀を抜いて神奈子様の前に立ちはだかったが、暫く睨み合いが続いた末に向こうが引いた。
門の開いた先には、これまた大きな天狗が居た。睨まれるだけで小水を漏らしてしまいそうなぐらい怖そうな顔をしている。
まるで巨人みたい。当然の様に鼻も高い。おそらく一番偉い天狗なのだろう。
その大きな天狗の周りには刀を持った天狗達が四人居る。
警備を担当している天狗なのだろうか。それともこの偉そうな天狗らしき者の護衛なのか。
「お前が勝手に神社を置いて行ったという神か」
大きな天狗らしき彼の声はすごく低く、かつ気迫の篭もった声だった。
「ああ、そうだよ。挨拶にきた」
神奈子様だって迫力は負けていない。だが私はというともう神奈子様の後ろで隠れているので精一杯だった。
脚が震えてる。しがみ付いていないと立っていられない。口がカチカチうるさい。
いかにも怖そうな者に会いに行くなんて、私聞いてない。
神奈子様が何か仰った気がするのだが、とても返事が出来る状態じゃなかった。
いやいや早苗、私は八坂神奈子様の巫女なのよ。こんなことでへばっていては駄目。
こんなことでは幻想郷で生きていくことなんてきっと出来ない。
少しずつ気分が落ち着いてきた。下ばかり見ているのも悪い。相手の目を見てやるんだ。
胸を張れ、早苗。私は風祝の巫女なのだから。
「早苗、大丈夫かい?」
「も、もう大丈夫です」
「しっかりしなよ、後で働いてもらうつもりだからね」
「はい!」
御幣を握り締める。自分に何が出来るかはわからない。
でも私には神奈子様がついてくださっている。神奈子様の言うとおりにすればきっと何でも上手くいく。
気がつくと、私の目の前に天魔さんがいらした。一瞬目を反らそうと思ったが、勇気を振り絞って睨み返した。
「儂は天狗の頭領、天魔である。お前らは何者か」
「私はかの諏訪大戦の覇者、八坂神奈子である」
「今まで外に居た神が今更この幻想郷に来て、何をするつもりだ?」
「何もないよ。私はただ、あんたらと仲良くしたいだけさ。あんたらの輪の中に入れて欲しいだけよ」
「して、その手土産が酒か? それだけで仲間に入れて欲しいなどと、ふざけたことを」
今度は神奈子様の目の前へ。今すぐにでも殴り合いを始めるんじゃないかと怖くなってきた。
二人とも握りこぶしを作っていた。周りに居た天狗達が騒ぎ始める。私は逃げた方が良いのかもしれない。
だって神奈子様はすごく重たそうな御柱を平然と振り回してしまうお方。その神奈子様を前に喧嘩する気満々な相手。
巻き添えを食らえば命は無いかもしれない。かと思うと、二人とも笑いだした。
「お前、弾幕遊びは?」
「知ってるよ。挨拶代わりにやるかい?」
「いや、儂とお前でやればここら一帯が荒れて大変なことになるだろう。それは困る」
「だろうね、こっちも神社の方まで被害が出るのは勘弁してもらいたい」
「お前の巫女と、儂の部下とを闘わせるのはどうかね?」
「良いよ! 乗った!」
また天狗達が騒ぎ出した。私の頭の中はそれどころではなかった。まさか本当に弾幕勝負へと駆りだされるとは。
向こうは誰がやるか、で皆ざわついている。こちらとしては出来れば弱い人をお願いしたい。
だって神遊びなんてしたことないのに。そもそもそんな人間離れしたこと出来ないに決まっている。
「出来るよ、早苗なら絶対出来る」
私の心を見透かしたかのように神奈子様が私を元気付けてくださった。
もうこうなったら信じるしかない。出来る、と思って当たって砕けるしかない。
「さぁ、風祝の巫女と勝負してくれるのは誰!?」
お腹の底から声を絞り出し、天狗達を挑発した。怯んでくれる天狗は誰も居なかった。
「色々考えた結果、こっちからは文という烏天狗を出すことにした。おい文、相手をしてやれ」
「わかりました」
そう言って天魔さんの後ろからひょっこり現れたのは、私と背が同じぐらいの女の子だった。
女の子と言っても下駄の様な靴底をした赤い靴を履いて扇子を持っている。彼女も天狗に違いない。
ここに来て妖怪の気配、というものがわかってきた気がする。
昼間人里に行ったときは何も感じなかったのに、今こうして天狗達に囲まれていると人間とは全然違う気配がすることに気付けたのだ。
「私は文。射命丸文よ。新聞記者をやっているわ」
「……あ、私は東風谷早苗です。巫女です!」
「紅白以外の巫女ですか、これは興味深いですねぇ! わくわくしてきましたよ、良い新聞記事が書ける様がんばりますか」
天魔さんが外を指差す。さすがにこの洞窟内で神遊びとやらをやるわけにはいかないらしい。
私もそう思う。飛び道具をぽんぽん出すような闘いを閉鎖的な空間でやればきっと大惨事だ。
洞窟から外へ出たところで心臓がバクバク言い出した。文さんの方は涼しそうな顔で何かメモを取っている。
そういえば新聞記者だとか言ってたか。幻想郷では天狗が新聞を発行しているのか。
「早苗、最初は何も言わないでおくからちょっと自分なりにやってみなさい」
「えぇー! あんまりですよ、神奈子様!」
「いける、いける。どうしようもないってときになったら声かけてあげるから」
「……」
神奈子様だけが頼りだというのに、自分でやれと言われたところで要領もわかっていないから困ったものである。
何かしら準備をしているのか、始まるまで少し時間があった。
周りには天狗達が山ほど居る。皆見物客といったところ。
ござを敷いて宴会でも開こうとしている者もいる。賭け事をしている者まで出てきた。
皆文さんに賭けていた。私に賭けた人は数えるほど。
御幣を持つ手に力が入っていることを確認し、怖いのを隠そうと努力した。
洞窟の中から天魔さんが現れる。文は手帳を仕舞った。
「それじゃあ二人とも初めてもらおう。勝負は一本勝負だ」
天魔さんがそう言うと、文さんはふわりと宙に浮かんだ。ああ、空を飛んだ状態から始めるのか。
飛ぶぐらい私にだって出来る。ただ正確に、かつ速度を上げて飛ぶのにはまだ慣れていない。
さっきまでやっていたんだ、傍に神奈子様が居なくたって飛べる。浮き輪をイメージして、宙に浮くんだ。
天高くに散りばめられた星の海。その中で三日月が浮かんでいる。山の上の空にいるせいか、風が少しあった。
風。それは小さい頃から慣れ親しんだものの一つ。
「早苗、もし飛ぶのが苦しくなったら、風を起こす術のことを思い出してご覧」
「は、はい!」
神奈子様の助言だ。これだけで私の心は奮える。鼓動が落ち着いてきた。視界がはっきりとしてくる。
今からしのぎを削りあう相手が見えてくる。御幣を相手に突きつけた。向こうは余裕そうに扇子で扇いでいる。
カードなんて私はよくわかっていない。さっき神奈子様が説明してくださったが、神奈子様はカードなんて持っていなかったし。
そういえば技名がどうとか仰った気がする。カードとは言うが、もっと抽象的なものを指しているのでは?
「はじめ!」
天魔さんの迫力ある声が夜空に響いた。その瞬間、目の前から文さんの姿が消え去った。
「え!?」
「早苗! 前を見なさい! 前から来るよ!」
前? 前には何も見えないというのに。いや、違う。文さんはすごく遠いところに移動したんだ!
大きく風が動いたのが感じられる。刹那、皮膚の上を気持ち悪い物が走った。息苦しい。
本能的に体を横に振ると、今居たところを高速で動く何かが通っていった。たぶん文さんだ。
そうだ、今朝から私は天狗を見ていたじゃないか。思い出した。彼らは物凄く速い速度で空を縦横無尽に飛び回れるんだ。
かと思うと、彼女の通ったところからそこら中に光る球体が飛び散った。
そうか、これが「弾」だ。この勝負はこれに当たった方が負けなのだろう。
今日空を飛べるようになったところで、いきなりこんなハードなことをさせられるなんて難しすぎると思う。
「早苗! 相手から目を逸らすんじゃないよ!」
「は、はい!」
あっち行ったり、こっち行ったりしている文さん。
相手目掛けて突撃し、自分の軌道上に弾を置いていく。そういう戦法らしい。
これにも何か名前をつけているのだろう。でも私にはそんな必殺技みたいなもの無いのに、どうやって攻撃しろというのだ。
必死に体を振って避けているのも疲れてくる。相手の攻撃に当たってしまうのは時間の問題かもしれない。
「弱気になるんじゃないよ! あんたは生まれたときから風を肌に感じて育ってきた、風祝じゃないのかい!?」
そうだ。辛いときは術のことを思い出せとアドバイスを頂いていた。
お母さんに色々教えられたことを思い出していく。
巫女の私が神様へ祈り、願えば神様は神風の力を貸してくださる。
今文さんはどうしている? 超高速の突撃を繰り返し、弾を置いていく。そういう攻撃をしている。
じゃあ私はどうすれば良い? どうすれば突撃をやり過ごしつつ、弾幕を回避し続けられる?
文さんの突撃で生まれる、風の動きを感じ取れば突撃に当たることはなくなるだろう。
それと同様に相手の弾幕も肌で感じ取ることは出来ないのだろうか。
出来る。私になら出来る。伊達に辛い修行をしてきたわけじゃない。
お母さんに叱られながら術の練習を繰り返してきたじゃないか。
より視界がすっきりしてきた。目に見える範囲だけじゃない。
いわゆる第六感的なもので後ろから迫ってくる弾まで見えてきた。
体を左に振った。そっちは今安全な場所だと確信を持てる。事実体を振った後の今、私は無傷である。
早苗、風を感じろ。神奈子様の言葉を思い出せ。お母さんがいつも言っていたことを思い出せ。
私はあのお方の巫女だ。あのお方を信じていれば良い。あの神様を信じていれば全て上手くいく。
自分でも驚いたことに、頬が吊り上がっていた。楽しい。神遊びってすごい。
こんなに楽しいスポーツがあるなんて。今なら高速で動き回っている文さんに微笑みかけることだって出来る。
もう浮き輪をつけるイメージなんて必要ない。水を得た魚よりも自由に飛びまわれる。
御幣を振り上げた。目を瞑り、神奈子様への願いを呟く。
あなたの力をお貸しください。今この瞬間だけお貸しください。神風を起こす奇跡の力をお貸しください。
小さいころから何度も繰り返し練習し、何度か実践もしたことのある術。
体が覚えている。文さんの突撃と弾幕をやり過ごしながらでも術を続けていられる。目を開ける必要なんてない。
奇跡、神の風。術は完成した。私の周りに神様の力によって生みだれた風が巻き起こる。
目を開けてみると驚いたことに、私の周囲を大量の弾を囲んでいた。
文さんのものではない。私の術によって生み出された、私の弾幕だ。私にも出来たのだ。
神の風に突っ込んできた文さんは直撃したのだろう。あらぬ方向へ弾き返され、凄い勢いで落下して行った。
風が静まる。術は終了した。辺りが静かになる。下の方で騒ぐ者達が居た。
「やったね、早苗! やっぱり私が見込んだだけはあるよ!」
あのお方が喜んでいらっしゃる。良かった。あの方のために巫女らしいことが出来たのだ。涙が止まらなくなっていた。
ゆっくりと着地。私は神奈子様に飛びついた。
「神奈子様、私出来ました!」
「うん、うん! 偉いよ早苗!」
神奈子様が私の肩を抱いてくださった。それだけで満足だった。もう何も要らないぐらい嬉しかった。
だが勝利の余韻に浸っている最中、私達は大勢の天狗達にとり囲まれたのだった。
「弾幕決闘の勝利、おめでとうございます! 東風谷さん、今のお気持ちを教えてください!」
手帳を持った女性の天狗にそう訊かれた。いきなりそんなことを言われても答えられるわけがない。
そのうち女性天狗は押し出され、代わりに男性天狗が目の前に出てきた。
「見事なスペルカードでした! あれは何という名前なんですか?」
「え」
どう返そうかと悩んでいるうちに男性天狗は弾き出され、大柄な男性天狗に入れ替わる。
「相手の、射命丸のスペルカードを受けてどんな印象を持ちましたか?」
「そ、その」
言おうとしたところで今度は後ろから引っ張られ、眼鏡をかけた女性天狗に捕まる形となった。
「開始前から随分と緊張されていた様でしたが、途中から楽しそうな表情でやっていましたね。それはあの神様の助言のお陰ですか?」
「あ、はい……」
女性天狗がメモを取り始めた。すると周りに居た天狗達も一斉に筆を走らせた。
そうか、この天狗達は皆新聞記者なんだ。文さんみたいな。
文さん? そういえば彼女はどうなったのだろう。
墜落していったのだが、まさか死んでしまったのか? 私は人殺しをしたのでは……。
神奈子様に訊いてみようと思ったところで、満身創痍の彼女がゆっくり飛んで帰ってきた。
「あややややや……本気ではなかったとはいえ、まさかコテンパンにされるとは」
「あ、あの! 大丈夫ですか!」
「ん? ああ、私は人間じゃないからね。死にはしませんよ。痛いですけどね」
私と神奈子様を囲んでいた天狗達が一斉に動き出し、今度は文さんを取り囲み始めた。
「射命丸! そこの巫女の弾幕どうだったんだ?」
「え?」
「新参者に負けて、今どんな気持ち?」
「ちょ、ちょっと!」
「屈辱を晴らすために、再戦する予定とかは?」
「待って待って! 取材されたことなんて殆どないのに!」
ここの天狗達ときたら、何ていう者達だ。変わったことがあればこうやって首を突っ込む連中なのだろうか。
記者の天狗達が一斉にこっちを向いた。また質問されるのは勘弁して欲しい。
今はやりきった感動と疲労が一緒になって、頭の整理が追いつかない状態なのに。
「今この子はいっぱいいっぱいなんだ、もう質問は無しだよ」
神奈子様が記者天狗達を静かにしてくださった。大きな力の気配を感じる。さあっと、天狗達が二つに分かれた。
天魔さんが苛立った表情でこちらに向かってきたのだ。
「新参者なんぞに負けおって!」
「ひい! ご、ごめんなさい!」
天魔さんが文さんを叱り付けた。神奈子様は笑い出した。
「もっと強いのを出してくれば良かったねぇ」
「黙っておれ。こやつが手を抜きおってからに」
「ひいー! お、お許しを! その巫女、思った以上に強くて……」
「言い訳をするか、見苦しいぞ!」
文さんはそのうち洞窟の方へと逃げるように帰って行ってしまった。悪いことをしてしまっただろうか。
「さて。神奈子、早苗」
天魔さんの表情が柔らかいものになっていた。
こんなにも優しそうな顔をする者なのか、と勘違いしてしまいそうになる。
「儂はおもしろいものを見せてもらって、大変満足している。お前らが良いのなら、儂はこの山に住むのを許してやっても良いと思っている」
「本当かい!? いやー、さすが頭領! 大きな器してるね!」
「そこの巫女に免じてお前たちを認めてやろう。お前たち、そこの神様と巫女を歓迎してやれ。蔵にある酒を持って来い」
どうやら神奈子様の目的は果たされた様である。洞窟の方へ誘われた。
天狗達は大急ぎで宴会の用意をし始めた。提灯をぶら下げ、ござを敷いて酒を配っている。
神奈子様が持って来られたお酒も一緒に振舞われ、神奈子様と天魔さんが乾杯をしたところで皆一斉に大騒ぎ。
私にまでお酒は回ってきた。私まだお酒呑んで良い年齢じゃないのに。
「早苗、あんたも呑みなさい! 騒がなきゃ損だよ!」
神奈子様はすでに顔を赤くしていた。満面の笑み。天魔さんと肩を組み、ゲラ笑いを響かせながら呑んでいた。
そうだ、私は始めての弾幕勝負に勝ったんだ。その祝杯として一杯ぐらいは呑まないと逆に失礼に当たると思ってきた。
小さな杯に注がれた、透明な水みたいな液体を一気に飲み干してやる。
意識が無くなった。
※ ※ ※
「ああ……頭が痛い」
目が覚めると自分の部屋らしきところで横になっていた。頭痛がする。気分が悪い。
何がどうなって、今寝ていたのか全く覚えていない。
今は何時ぐらいなのか。時計は三時過ぎを指したところで止まっていた。電池が切れていたらしい。
起き上がるのも辛かった。かといって寝ているわけにはいかない。
私は巫女らしい私に生まれ変わり、立派に勤めを果たすと決意したのだから。
蛙と蛇の髪飾りをつけ、身支度を整える。昨日は確かお酒を呑んだところで……。
とにかく、私は今寝間着だった。誰かに着替えてもらったのだろう。恐らく、神奈子様だ。
台所へ行き、蛇口を捻って水を飲んだ。冷たい。美味い。まるで水道水じゃないみたいだ。
あれ? そういえば水道って使えてたっけ? ああ、河童が使えるように工事してくれたのか。ありがたい。
神奈子様を探して家の中を歩き回っていると、誰かの足音が聞こえてきた。
その方向へ追いかけると納戸へぶつかったのだが、誰も居なかった。おかしい、とことこ歩く音が聞こえたのに。
「どうしたんだい、早苗」
「あ、おはようございます」
「うん、おはよう。狐にでもつままれたかい?」
「確かに誰か居たと思ったんですが」
「そう……。とにかく、お腹を膨らませたら里の農家へ挨拶に行こうと思うんだが、どうする? 気分悪いならまた今度にするよ」
「いえ、大丈夫です。買い置きの頭痛薬飲めば平気です。行きましょう!」
「まあ、無理はしないようにね」
居間へ行くとテーブルの上には大きなジャガイモが六つほど置かれていた。
「これ、どうしたんですか?」
「麓の方の穣子と静葉のところへ行って恵んでもらったのさ。穣子の方が豊穣神だったんでね、食う物がないって言ったら分けてくれたんだよ」
「そうなんですか、またお礼言いにいかないといけませんね! でもこれ、どうやって食べましょう」
「茹でてくれれば良いよ。んで塩でも振って食えばお腹は膨れるよ」
「わかりました!」
とは言ったものの、どうやって火をつければ良いのだろうか。
台所の方を向いてみると、新しく置かれたであろう釜があった。
「そこに火をつけてやれば良いのよ。昨日お風呂入れるときにやっただろう?」
「あ、なるほど」
釜の周りだけ床が石張りになっていた。ここまで工事してくれていたとは。もう河童に足を向けて寝ることは出来ない。
神奈子様の言うとおりに調理し、茹でたジャガイモを頂いた朝食。
これから毎日の様に巫女服を着ることになるだろうから、替えがたくさん必要かもしれない。
里の服屋に特注で作ってもらう必要があるだろう。
今日の予定は農家を回っていくこと。その前にまた妖怪らと話をすると仰っているが。
それが終わったら暇になるから、また里をうろうろしてみたい。
「そうそう早苗、今朝玄関に新聞が来ていたよ。そこに置いてある奴さ」
新聞なんて取ったつもりはないのだが、どうも天狗が書いた新聞の様である。勝手に投函されるのか。
新聞と言っても一つ一つは大して大きくないし、ページ数も無い。個人で出したものらしいから、そんなものか。
でも数が多い。ざっと見て二十部ぐらいある。全部違うものだ。
どれもこれも、昨日私が文さんと弾幕ごっこしたことが大きく取り上げられている。
「新参巫女、烏天狗を華麗に打倒」「風祝の東風谷、美麗な弾幕を披露」「新参者に負けた烏天狗 本気じゃなかった等と言い訳」などなど。
文さんが書いたと思われる新聞は無かった。
「早苗に負けたあの天狗の新聞はないね。どんなことを書くのか楽しみだったんだけど」
新聞記事では私のことをえらく派手に書いていた。百年に一度の逸材だとか、疾風怒涛の強さを見せ付けたとか。
私はそんなつもりないのに。はっきり言って恥ずかしい。
そして気付いたことがある。どの記事も「博麗の巫女」という単語を絡めた文章でまとめているのだ。
「あの、神奈子様。博麗の巫女って何なんですかね?」
「ああ、それね。今朝飛んでるのをチラっと見たよ。昔から幻想郷に居てる奴みたいでね」
「ふーん」
「それで巫女の後を追ってみたんだけどね、随分と寂れた神社に住んでるのよ。あそこに居る神はきっと辛い思いをしているんじゃないかしら。信仰なんてこれっぽっちしか得られてないと思うわ」
「神奈子様?」
「私はあの神社を乗っ取ってみたいねぇ」
「え!? そんなことして、大丈夫なんですか?」
「消えそうな神を助けることになるんだ。向こうにとっても、悪い話じゃないと思うんだよねえ」
「でもそれって、どうやるんですか?」
「向こうの神社を止めてもらうんだよ。後はこっちでやるわ。何なら今すぐ挨拶がてら行ってきてくれない? 博麗神社ってところに行って来てくれれば良いから」
「そうですか、わかりました」
「一人でいけるかい?」
「大丈夫です! やれます!」
「まあ、そんな気張るようなお使いにならないと思うけどね。私はちょっと妖怪らと話つける用事があるから、終わったらまた帰ってきてくれるかい? 私もすぐに帰ってくるだろうけど。それが終わったら服屋とか、農家回りに行こう」
「はい」
幻想郷に来てから初めて一人での外出。神奈子様が妖怪に気をつけろと仰った。
昨日みたいな感じでやっつけられたら一番だが、正直言ってまだ不安である。
無理せず逃げても良いと言っていただけたので、もし襲われたらそうしよう。
早速出発。山を降りる最中に河童や雛様を見かけたので挨拶をしていった。
博麗とつく神社の場所は里の人らに訊いて行った。
道中蟲の妖怪とすれ違ったのだが、神奈子様のアドバイス通りスルーすることにした。
昨日闘った文さんの弾幕と比べると随分とお粗末だったので、逃げるのは簡単だった。
博麗神社に到着。石畳の階段の隙間から草が一杯生えている。
よっぽど手入れされていないのだろう。境内の中はそれほどでもないが、ちょっと酷いと思った。
本殿前、賽銭箱の上にある鈴を鳴らすときに引っ張る鈴の緒が殆ど千切れかかっている。
とりあえず参拝させて頂いたが、この神社から感じる神様の気配はすごく微弱なものだった。
確かにこれは神奈子様の言うとおり、ここにおわす神様が可哀想だ。
「おはよう、よく来……あれ? 巫女?」
どうやら博麗の巫女さん登場らしい。なるほど、紅白だ。
うちの特注の巫女服とは違って、普通の巫女服みたいな配色。
神社はかなりオンボロではあるが、ここで働いているだろう巫女さん自体は凛々しい表情をしている。
「おはようございます、博麗の巫女さん。この神社を止めてもらいたくて来ました」
「はぁ!? 止めるって、どういうことよ!」
あからさまに不機嫌そうな顔。それもそうか。見ず知らずの人からいきなり辞めろと言われれば誰だって困惑する。
「はっきり言ってこの神社におわす神様が可哀想です」
「……」
博麗さんは黙ってしまった。真面目にやっていない、という自覚はあるらしい。
「つきましてはこの神社を無くしてしまうか、うちの神社に乗っ取らせて頂きます!」
「なっ! うちのって、どこよ!」
「山の上に新しく出来た、守矢神社です!」
「……ちょっと待ってよ。私聞いてない」
「今すぐに決めろ、とは言いません。ですが、考えておいてください」
「……」
振り返り、相手の次の言葉を待たずに飛び立った。たぶんこれで良いのだろう。
帰り道、さっき会った蟲の妖怪にまた喧嘩を売られた。さっきよりかは密度の濃い弾幕を放たれる。
無視されたのが気に入らなかったのだろう。それでも今の私には敵じゃなかった。
昨日の感覚を思い出しながらすり抜け、一気に山を目指した。薬が効いていたのか、もう頭痛は消えていた。
神社に戻ると神奈子様は戻られていた。本殿の前で私を待っていらした様子。
手には小さな祠を持っていらっしゃる。昨日言っていた、分社を里に置いておく件で使うのだろう。
「神奈子様! ただいま戻りました!」
「おかえり。向こうは何て言ってきた?」
「驚きの余り言葉を失っていました」
「ほう? まあ、そりゃそうだろうね。どういう返事が来るのか楽しみにしておこう。もう出られるかい?」
「はい。頭痛も引いてきましたし、大丈夫です」
神奈子様の後をついて行き、山の麓から所々に見える農家を一軒ずつ訪問。
その途中穣子様と静葉様の祠へ参拝しに行く人を見かけた。
畑を見に行くと、丁度収穫の時期だったらしい。皆稲刈りに忙しそうだった。
今挨拶周りするのは彼らの仕事の邪魔をすることになるだろうから、と先に里をぶらついても良いことになった。
私は予定通り服屋へ行き、服の特注をお願いした。とりあえず三、四着は欲しい。
だが向こうは十着を勧めてきた。というのも、弾幕ごっこすると服がボロボロになるよ、と教えてくれたのだ。
神奈子様はその間に分社の設置をされに行かれた。
服の型紙を作りたいので服を貸して欲しいと言われ、代わりの服を貸してもらった。
白いブラウスと紺のプリーツスカート。学校の制服を思い出し、懐かしい感じに浸る。
まだこちらに来てからそんなに時間も経っていないのに。
そして女性用のドロワーズも売られていたので購入。お代金はツケである。
神奈子様はすぐに戻ってきた。昼食は里の酒屋が並ぶ通りの端にあった、大衆食堂。
私も神奈子様も山菜ご飯定食を頼んだ。
コロッケやトンカツ等揚げ物の惣菜を思い出しながら、塩分の効いた漬物を美味しく頂いた。
その後本屋へ行き、ここにはどんな本が売られているのか見に行った。
新書コーナーには人間と妖怪の禁断の愛を物語った本や、ある妖怪退治屋のシリーズものの小説が置かれていたり。
幻想郷の地図というのも売られていた。人里にある酒屋をまとめた本もあった。
私は恋愛小説の棚にあった、人間と神様が愛を誓い合う話の小説を神奈子様にねだった。
夕方。服屋を訪ねると型紙は出来上がっていたので、服は返してもらえた。
十着作って欲しいと言うと三週間は待って欲しいと言われた。
ただ出来上がった分だけでもその都度取りに来てくれれば渡してくれるとのこと。
届けに行くこともしたいとは言ってくれたが、こっちの神社は山の上。
服屋の主人が妖怪に襲われるのも困るので、届けなくても良いと言った。
服屋の用事が終わったところで農家を回ることにした。
今の時間ならもう仕事を終えて家で休んでいる頃だろうと、神奈子様が仰った。
実際行ってみると、どこの家もそんな感じ。奥さんが夕食の用意をし、旦那さんは内職をしたりゴロゴロしていた。
「ごめんください」
「はい、はい」
今来た農家は里から一番遠いところにある。山の麓に最も近いとも言える。出てきた人は四十台ぐらいの女性だった。
少し痩せている。家の中には旦那さんらしき男性が居た。その男性は逆に少し太り気味であった。
子供は居ないようである。
「わ」
女性が驚いた。奥に居た男性も驚いた。
「見たことのない巫女が来たわよ!」
「あ、ああ……」
前にも思ったが、やはり幻想郷では巫女というのが相当特殊な職業らしい。
普通の人がここまで驚くとなると、ちょっとした優越感に浸れる。
「私は東風谷早苗と言います。こちらにいらっしゃるのがお仕えさせて頂いている、八坂神奈子様です」
「どうも、山の上の神である八坂神奈子よ」
「神様でいらっしゃいましたか! おいお前、酒だ、酒を持ってこい」
「はいあなた!」
「お酒くれるのかい? ありがたいねえ!」
家の人に酒を勧められ、大喜びの神奈子様。すでに回ってきた家々でも酒を振舞われ、呑んでこられたというのに。
「私を信仰してくれるっていうなら、五穀豊穣から安産祈願まで色々ご利益あるわよ」
「それはそれは! でも、すでに秋穣子様という豊穣神様がおられるのですが……」
「大丈夫! 一緒に協力するってことになっているから!」
そんな話は聞いたことが無い。
でも穣子様、静葉様と初めてお会いしたとき神奈子様と穣子様がそういう話をされた、というのなら納得する。
日本の神教というのは基本的にどんな神様を信仰しても良い。
中には「私を信仰しないのなら呪ってやる」みたいな祟り神も居るらしいのだが、大抵は問題ない。
「他の神様に参拝するのも良いけど、こっちも構ってね」という気楽なものである。
神奈子様はご利益が被ってるけど「一緒に頑張ってるんで」ということにして、ついでに信仰してもらおうということなのかもしれない。
もちろん真意はわからない。神奈子様の考えていること、神様の考えていることなんて人間には計り知れないだろうし。
「それじゃあ、うちの神社をよろしくね。里の北の端にうちの分社を建てたから」
「それはそれは! 是非とも!」
家の人にお別れを告げ、最後の農家を後にする。
それぞれの農家から頂いた野菜類、穀物類を夕食にするつもりである。
神社に帰ったら掃除を少しだけし、お風呂を済ませて夕食の準備。
たまにはお肉が食べたい。ヘルスィーな鶏肉とか食べたい。でもそういう贅沢は言ってられないのだろう。
神奈子様は窓から幻想郷の夜の景色を眺めておられる。
釜に火をつけようと思って火付け道具に手を伸ばした瞬間、何者かに手を掴まれた。
「ひっ!」
白い、レース素材のような手袋をつけていた。顔を上げると、帽子を被った金髪の女性と目が合う。
何とも言い表せない、空間の裂け目みたいなところからするっと出てきた。
「こんばんは」
「え」
私は目の前の女性から引き剥がされた。神奈子様が私を目の前の女性から離したのだ。
息を荒げておいでだった。その顔からは焦りというか、恐怖を感じられた。
「あらー、そんなに邪険にしなくても」
「何者!」
「か、神奈子様?」
神奈子様が私を庇っている。目の前の女性は一体何者だというのだ。
何もないところから出てきて、確かに不気味な人だというのは感じられるが。
いや、他に感じられるものがある。妖怪の気配だ。目の前の女性は妖怪なのかもしれない。
気配に気付いたところで、どれだけ強い気配を発しているのかがわかってきた。
鳥肌が立った。脚が震えている。汗が止まらない。息苦しい。怖い。助けて。
この目の前にいる妖怪、ものすごく強そうだ。
「何の用で来たのよ!」
「挨拶に来ただけなのに」
「早苗に何をした!」
「何もしてないわよ。私を見て、勝手に怖がってるだけじゃないの?」
近くに置いてある御幣に飛びつき、金髪の妖怪に向けた。
「だから挨拶に来ただけって言ってるじゃない。そんなに緊張しないで」
確かに攻撃はしていない。もしかしたら私は脅かされただけなのかもしれない。
そう思って御幣を下ろしたとき、彼女の手で首を締め付けられていた。
彼女は神奈子様の向こう側に居るというのに、何故今私は彼女の手で攻撃されているのか。
彼女の右腕の先だけ消えていた。彼女は右手だけ切り離し、動かしているとでも言うのだろうか。
「早苗を離しなさい!」
神奈子様が彼女を押し倒そうとする。だが彼女はいつの間にか私の目の前に現れた。
「私は八雲紫、幻想郷の境界に潜む妖怪です」
「こんのっ……!」
神奈子様がこっちに来ているのがわかった。直後、神奈子様が私を殴ろうとしている格好になっていた。
妖怪は目の前から消えている。目を瞑った。静寂。目を開ける。
すんでのところで神奈子様の拳は止まっていた。
そして妖怪は神奈子様の後ろで扇子を開き、微笑んでいた。
首が楽になっているのに気付き、本能的に咳き込んだ。
「何が目的なの!」
「だから言ったじゃない。挨拶だって」
「げほ、げほ。一体何がどうなってるんですか……」
彼女は何も言わず、座布団のところへ座り込んだ。
いつ何をしてくるかわからない。私はまた彼女に御幣を向けた。
「幻想郷に流れ着いた者達を見に来ただけなのよ、本当に」
「黙れ!」
神奈子様がもう一度飛びつく。彼女は神奈子様の突進を受け止めた。
御柱を振り回せるほどの怪力をお持ちの神奈子様と押し合いをしして涼しい顔をしているとは、一体この妖怪は何なのだ?
「この神社は来客に対してお茶を出さないの? 博麗神社でも悪態つかせながらだけど、お茶は出るのに」
「妖怪に出す茶なんてない!」
神奈子様の激しい怒りを感じる。神奈子様、頑張れ。こんな妖怪やっつけて欲しい。
だが神奈子様はそれ以上攻撃しなかった。服を正し、妖怪の前に座り込まれた。
「……本当に挨拶しに来ただけかい?」
「ええ。あなたの巫女に手を出したことに関しては謝るわ。ごめんなさいね」
「……」
「すごく良さそうな子ね」
「ああ……自慢の巫女だよ。早苗、お茶を入れてあげな」
「え? あ、はい」
神奈子様の気が変わったご様子。神奈子様がそう仰るなら私はお茶を淹れてくるが。
淹れ立ての熱いお茶を差し出すと、すごく優しそうな笑顔でありがとうとお礼を言われた。
「私は八坂神奈子。外の世界で生きられなくなったから、こっちに来た神だ」
「そう。私は結界の境界を管理している者なの」
「結界?」
「あなた達はここへ来てまだ日が浅いから気付かなかったのかもしれないけどね、ここ幻想郷は博麗大結界という結界を用いて外の世界と隔離しているのよ」
「一体何のために?」
「幻想となり、消えゆく妖怪や神々を守るために」
神奈子様と彼女、紫さんとの話はそれで終わった。紫さんがお茶を飲み干すのを待つだけ。沈黙が続く。
彼女が帰るときも何もない所にすっと入って行き、跡形もなく消えた。
「早苗、怪我は無かったかい?」
「は、はい……たぶん。何だったんでしょうね、今の」
「さあね。でも本当に早苗を殺す気は無かったのかもしれない。あいつの言った通り、ただ挨拶しに来ただけかもね」
そういえば紫さんは「博麗大結界」というのを口にしたか。博麗神社と何か関係のあるものなのだろうか。
あの神社はどう見てもくたびれた神社としか思えないが、想像以上に重要な神社なのかもしれない。
その神社の営業を辞めろと言いに行ったから、それを取り下げろと言いに来たのだろうか?
※ ※ ※
あれから数日後、紅白の巫女と白黒の魔法使いがうちの神社に攻めてきた。
私は神奈子様の巫女として闘ったが、彼女らの強さは圧倒的だった。
「あらひとがみさん」と呼ばれたりした私よりもずっと強かった。
おまけに彼女らは私と同じ人間だという。さらに彼女らはあの神奈子様を打ち破ってしまったのだ。
私は自分の無力さに打ちひしがれた。結局博麗神社はそのままである。
ただ、神奈子様の勧めで博麗神社にうちの分社を置いておくことになった。
霊夢さんの方も神奈子様の方も「信仰が欲しい」という目的は一緒なので、協力するといった形に落ち着いた。
どうやら神奈子様は元々博麗神社を乗っ取るとまでは考えておいでではなかったらしい。
ちょっと言い方が酷かったと、後になって恥ずかしそうに仰ってきた。
神奈子様は妖怪らからの信仰を得ると同時に人間達からも信仰を得ないと大変なことになると仰った。
その辺の詳しい話は私にはちょっと理解できない。
何はともあれ、一悶着が過ぎたのだ。ちょっとは落ち着くだろうか。
落ち着かないだろう。この幻想郷では常に異変が起きたりする、と聞くから。
※ ※ ※
風邪を引いた。熱もある。鼻水が止まらない。
新天地に体が慣れていないせいだ、と神奈子様が連れてきた天狗の医者は言った。
とにかく薬を飲んで寝ているしかない。天狗の医者が処方した薬は臭いが酷く、えらく苦いものだった。
そんなときである。うちの神社に霊夢さんが遊びに来たらしいのだ。
神奈子様は彼女の気配を察知すると、何故か焦ったような表情で慌てて出て行かれた。
暫くすると外で大きな音がした。弾幕ごっこの音だろう。窓から外を見てみると神奈子様が押されているところだった。
やっぱりあの巫女はすごいのだろう。いくら「遊び」だとしても神様を倒してしまうなんて。
霊夢さんは本殿の方へ飛んでいかれた。神奈子様は霊夢さんに向かって何度も「行くな」と叫んでおられる。
気だるい体を引っ張って神奈子様の傍へ行ってみた。
「さ、早苗! 寝てないと駄目だろう!」
「神奈子様、何を必死になっているのですか?」
「いや……」
「?」
「あの巫女、もう本殿に着いてしまうか。それならもう隠し切れないね」
「隠す?」
「見ていればわかるよ」
霊夢さんが本殿の前に到着。するとどうだろう、中から小さな女の子が現れた。
違う、気配でわかる。あれは神様だ。あの方は誰? うちの神社にもう一柱の神様が居られるなんて知らない。
大きな帽子を被っておられる。幼い顔立ち。蛙っぽいところ。
頭の中に引っかかるものがある。おかしい、私はあの方と会ったことがある気がする。
ああ、思い出した。思い出してきた。私は蛙の髪飾りを手に取って見つめた。
あの神様が霊夢さんに負けかけている。あの神様──いや、あの子が押されている。がんばれ。ああ、でも負けてしまった。
霊夢さんとあの子が二、三言葉を交わすと霊夢さんは帰って行った。急いであの子に駆け寄る。
「あの!」
「ん?」
見れば見るほど思い出してくる。近くで見て確信が持てた。この子は昔一緒に遊んだあの子だ。
「あれ、早苗。私が見えるんだ」
「え? あ、はい! 見えていますよ! 諏訪子……ちゃん!」
「えへへ! そっちからすれば久しぶりなのかな? こっちはいつも見ていたんだけどね」
私は嬉しさの余り飛びついた。だって目の前に小さい頃仲良く遊んだ子が居るのだから。
「今でも私のあげた髪飾り大事にしてくれてるんだね。嬉しいよ」
でもまさか諏訪子ちゃんが神様だとは考えもしなかった。
おっと? 体の調子がおかしい。そういえば私は熱が出ていたっけ。
「そういえば風邪引いてたんだってね。無理せず休んでないと駄目だよ。私が部屋まで運んであげるからね」
猛烈なだるさから意識が落ちそうになる。折角会えたのに。もっとお喋りしたいのに。
あのときあそこで遊んだよねって話をしたいのに。
「大丈夫。もう消えたりしないから」
とうとう意識は落ちた。
※ ※ ※
あれから数日後。私の風邪は治った。
後で諏訪子……様から話を聞いたところによると、信仰が極端に薄れてしまったがために私ですら諏訪子様の姿を見られなくなってしまったということだそうだ。だから会えなくなったわけではなかった。いつも傍に居てくださって、私のことを見ていらしたのだ。
両親はどうしているのだろうか。ミヨコさんは元気でやっているのだろうか。確かめる術はない。
今の私にはこうやって時々思い出すことしか出来ない。
何より幻想郷に生きる風祝の巫女として毎日を生きるので精一杯。
机の引き出しに携帯電話の電源を切って仕舞っていたことを思い出したが、もう触る必要はない。
この先二度と諏訪子様が消えたりしないよう、神奈子様を弱らせたりすることのないよう、巫女として信仰を得るための努力を続けさせて頂きたい。
雛や秋姉妹もいい味を出しています。
この世界観のお話、もっと読んでみたいです。
楽しませて頂きました。
こういった考えられたifネタは良いものですね。
しかし、早苗さんのプログレッシブさは外に居た時から変わらないのですねぇ……。
しかし、タグの『グロくないよ!』とは?
ちょっと展開を急ぎすぎた気がする
>「新参者に負けて、今どんな気持ち?」
ねぇねぇ、人間に負けちゃったけど
今どんな気持ち?
∩___∩ ∩___∩
♪ | ノ ⌒ ⌒ヽハッ __ _,, -ー ,, ハッ / ⌒ ⌒ 丶|
/ (●) (●) ハッ (/ "つ`..,: ハッ (●) (●) 丶 今、どんな気持ち?
| ( _●_) ミ :/ :::::i:. ミ (_●_ ) | ねぇ、どんな気持ち?
___ 彡 |∪| ミ :i ─::!,, ミ、 |∪| 、彡____
ヽ___ ヽノ、`\ ヽ.....::::::::: ::::ij(_::● / ヽノ ___/
/ /ヽ < r " .r ミノ~. 〉 /\ 丶
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| /ヽ }. :.,' ::( :::} } ヘ /
し )). ::i `.-‐" J´((
ソ トントン ソ トントン
あといくら神様っていってもいきなり訪れた人里で
ツケにしたり奢らせたりと少し図々しい気がしてしまった。
その辺の違和感のせいで上手く物語に入り込めなかった。
次回作にも期待。