太陽だけが持つ『本当』は、どんなに立派なこしらえの宝箱にも隠せない。
窓をさえぎるガラス一枚の隔てから空をふいと見上げることは誰にもできるが、その光をいっぱいに飲み込むことは、フランドールには決してできない。光というものをもし浴びられたなら、それは背中で受けているのか、額に浴びているのか、眼で見ているのか、口から食べているのだろうか。それから、光をぎゅっと固めれば、いつかは指でつまめるようにもなるだろうか。そうして、宝物をしまっておくための小箱に、うんと溜め込むこともできるのだろうか。
銀色のふち飾りで包まれた、その蓋の端をツいと指でなぞってみると、何の熱も知らなかったとばかりに冷たさが伝わってくる。
ぜんたい四角い形をしていながら、端々によく眼を走らせると、卵みたいな丸みを帯びている。周りとふたの前面にはちょっとした浮き彫りが幾つかしてあった。それは樹木から別れたたくさんの枝葉にも見えたけれど、フランドールはつるぎを模したように鋭い影だと見る方が、格好が良くてずっと好きだった。男の子みたいと笑われそうな気がするから、誰にも言ったことはなかったけれど。
足りないと言えるのなら太陽の色だけが、その宇宙には欠けている。それはフランドールが握り潰すまでもなく、自ら燃え盛って、死の真似ごとを永遠に続けているのだ。太陽は自ら夢を見、そこで駆ける死を誇示している。亀裂のような光から漏れだした熱が、空想の一端が現実として現れているということを示していた。吸血鬼はそれを見ることができない。姿も見えない何ものかに、憎悪を送ることだけが許されている。
事物の明瞭な死を、夢想の中の死にまで貶めることを、彼女は未だ知らなかった。
壊れた太陽のかけらを銀の小箱に隠してしまうと、いつか考える吸血鬼の少女。
――――――
あるときに咲夜は言う。
朝、寝る前のフランドールの髪の毛をブラシで梳きながら、
「妹さまの髪の毛は、日の光のように金色です」
しかしすぐに、その手の動きがほんのわずかにこわばって、彼女が何かまずい失敗でもしてしまったと感じているらしいのが伝わってきた。
この真面目なメイド長は、いかにも申しわけなさそうな声で謝って来たけれど、むしろその手つきが鈍ったせいで髪の毛が引っ張られて痛かったことの方が嫌だった。それにそんなことを叱るくらいなら、椅子に座っても未だ床に足先が届かないほどに低い、自分自身の背の方が、よっぽどかなしいことなのだとフランドールは考えていたのに。
眼の前の鏡に映り込む自分の姿は、とてもじゃないが、これから眠ろうとしているようには見えなかった。そういうときは、子供でさえも老人のようにしわくちゃに見える。フランドール・スカーレットは眠らない。子供である限り、彼女は眠らないのだ。
鏡が取りつけられてある鏡台の上には、未だ何も置かれてはいなかった。
埃でさえもすべて取り除かれているその場所は、何かもかも死んでいるみたいにきれいだった。“ただ一点を除いて”。
フランドールの眼前で、たったひとつの『否』が存在を許されるならば、あの銀の飾りの小箱だけだった。しかし、これはいつもこの場所に置いてある物でもあったから、とくべつ何があると言うには値しないのである。強いてつけ加えるのであれば、それは決して切り取ることのできない風景の一部であり、この小箱を取り除いたとき、ここはフランドールの部屋ではなくなってしまうということだ。
宇宙の模造がここに息をしている。
いまフランドールが太陽の代わりであり、彼女の髪を梳く咲夜は十六夜の月である。
そして小箱の冷たさは、何光年もの道筋をひと足も外れることなくやって来る、星のような何かとしてたたずんでいる。
戯れに、自分の手が鏡台の上の件の箱に届くか――と、手を伸ばしてみた。人指し指の腹ですうとなでてみたが、冷たさが伝わってくることはない。硬い、硬い、突き放すようなものだけがある。しかし、同時に心に兆すのは、暗く湿った安心だった。さっき「しまった」と身体をこわばらせた咲夜が、今度はそんなフランドールの様子を知って、愉しげな含み笑いを洩らしたところを、銀色の鏡は確かにとらえていた。
ブラシの歯の一本が、後ろ髪の生え際をなでていく感触がくすぐったかった。その直ぐ後にたびたび触れる咲夜の指の冷たさが、反対にくすぐったさを打ち消していこうとしていた。
笑い声を上げる代わりに、「なあに」と、フランドール。
「おかしな咲夜」
「妹さまは吸血鬼ですから弱点が多い。こと、日光を浴びることはお命に関わりますから」
「知ってるよ。そんなことは――でも、特に問題は“ありませんわ”」
と、咲夜の口ぶりを真似てやると、ふうとメイドは息を吐いた。
やれやれという顔をするでも、嬉しそうにするでもなく。
「太陽はお嫌いかと思いまして」
「そんなこと。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないけど」
「それは厄介なことで……」
「いっそこの手でさ、太陽の光をつかむことができるなら、好きにも嫌いにもなれるのにね」
咲夜が、小さく小さく息を飲んだような気配を見せた。吐いたり飲んだり忙しいやつだ。ブラシが、金色の髪の毛の先をするすると通り抜けていくと、それはとうとう最後のひと梳きらしかった。
咲夜の片手がフランドールの肩に触れる。
その向こうの鏡台に腕を差し伸べて、メイドはブラシをコトと置いた。
ゆっくりと、深い傷をいたわるような手つき。そうやって、フランドールの背中から生える翼の根元に、一瞬、触れた。悪魔の妹の“その部分”は、木の根によく似た影をつくる。しかし、樹木には成り得ない幾色もの尖りがたくさん垂れ下がってもいる。『これからいくさに向かうつるぎのすべてに、輝く色で細工したような』。そんな、勇ましい喩えを思いついて、ひとり、得意になっていたのは、半年も前のベッドの中でのことだった。それは彼女が発見した、自分だけが知っている幾つかの秘密のひとつでもあった。
「太陽をだよ、ねえ咲夜。指で小さく丸められれば、この……」
と、人差し指の先で箱をトントンと突っつく。
「箱の中にも、しまい込めるんだ」
ぎゅっとして、ドカン!
太陽の真ん中にあるかもしれない“目”を手のひらに握り、ひと思いに爆ぜさせる自分の姿を考えた。日の光の下、その重みに屈しそうな膝を大地から伸ばし、地下室暮らしですっかり蒼白い肌が焼けていくのも厭わずに、ただ欲しい物のために手を差し伸ばす。そこに何の躊躇もなく、誰に非難されるいわれもない。
「ずいぶんと、その箱を大事にしていらっしゃるようですけれど……」
と、咲夜は言って、
「いったい、中には何が?」
直ぐに、怪訝な顔をした。
鏡の世界で、左右の逆転した銀色の女が微笑する。咲夜の右の目尻にごく小さなほくろがあることに、フランドールは気がついていた。目蓋を細めて眠たげな顔を装いながら、ちらと、鏡に映ったその部分を見た。自分が爪の先で強く押しこんだら、彼女の顔は弾けてなくなってしまうだろうか。夢想の中の太陽みたいに?
何となく得意な気分になって、再び小箱の蓋に触れる。
力を込めれば直ぐにでも開け放ってしまえる。しかし、それをする気には未だなれない。ここは宇宙だ。フランドールだけの。咲夜に月の役目を課したことすら打ち明けられない、小さな小さな宇宙なのだ。ふたりで共有する秘密の甘やかさよりも、ひとりで隠す秘密の、その壊れやすい愉しさの方が好きだ。
「秘密だよ」
唇の端を吊り上げて、そう告げた。
べろりと舌を出してからかう代わり、わずかにのぞいた牙が光った。
「誰にも教えてあげるもんか。この箱に触れているときだけ、わたしは神さまにだってなれるんだから」
言葉の裏側では、毛布にくるまって箱を開けるときのことを思い返す。
ぱかりと、蓋を開いてみると、中には見慣れた宝物がたくさん、たくさん。
たとえば、それは蟻の隊列から奪った、まだら模様の蝶の翅である。
また、先の曲がって使い物にならなくなったフォークである。
そして、金の破片を埋め込んだみたいにきらきらと光る、鳥のくちばしである。
さらには、吸血鬼を殺し損ねたあわれな男が使っていた、きれいな銀の銃弾である。
ちぎれないように爪の先でていねいに翅をなで、フォークの先端が元の形に戻りはしないかと押し曲げたり、手のひらの中のくちばしへ唇を押しつけてキスの練習をしたりする。それから、銃弾を額にこんこん当てて、銀で肌の焼ける痛みをこらえながら、いつか訪れるすべての滅亡というものについて、寝物語の代わりに考えてみたりする。
フランドールの宝箱には死のようなうつくしさが詰まっている。彼女が手折った、あらゆる断片が納まっているのだ。再び動き出す余地さえあるのなら、それは停滞と呼ぶこともできたのだろうけれど。フランドールの手の中でだけ息をすることを許された宝物たちは、彼女が殺し、彼女が生を与えたものだ。
そうして生きている中でも、いっとう大事なのは、小さなガラスの飴玉だった。
美鈴からもらったそれは、彼女のいちばんのお気に入り。
園丁の真似ごとをして庭をいじっているのが美鈴の得意で、そんなときの彼女は、実は屋敷の門に身をもたれさせて昼寝をしているときよりも、ずっとずっとしあわせそうな顔をしている。誰かの落としものでしょうか、土の中から出てきたんですよ、と、美鈴がやっぱりしあわせそうな顔をして、その“飴玉”をフランドールの手に握らせたのは、久しぶりに雨の上がった六月の十七日。
何ということはない、ただのガラス球だ。
小さな子供の手であっても握ってしまえばすっかり姿の隠れてしまう、ごく小さなかたまりだ。球体から土汚れを洗い落としたときの、冷たい水の滴が、そのとき手のひらを滑った。その日はやけに暑い日だったから、その感覚を嬉しく思った。しかしそれ以上に明瞭な思い出は、ガラス球を握り込んだフランドールの小さな手を、すっぽりと覆い隠してしまったほどに大きな美鈴の両手。水で洗い流したはずの土が、においだけは未だ少し肌に残っていた。
「手、大きいね」
「あはは……あんまりはっきり仰らないでくださいな。これでも気にしてるんですから」
「ばかにしてるわけじゃない。何だか、こっそり秘密を託されたみたいだったから」
「秘密?」
「うん。美鈴の手は大きいからね。誰かに渡すまで、秘密を隠しておくにはぴったりだよ」
「面白い発想をされますね」
そんなこと、初めて言われました――と、美鈴は笑う。
「おかげで気が触れてるなんて言われるけどね」
悲観するふりをしながら、フランドールは答えた。
少し意地悪い言葉を返してしまったかな、と、悔いて眼を細めたけれど、美鈴は両手でフランドールの手を握ったまま、ずっと黙っていた。微笑を、さらにいっそう形あるものに組み替えて、彼女の両手はそのあたたかさをどんどん増していた。夏に少し近づきつつあったその日でも、フランドールは、美鈴の体温を不快には思わなかった。顔の横で編んでいる彼女の赤毛が揺れて――ああ、美鈴が自分の顔をのぞき込んでいるのだと、ようやく気がつく。
「じゃあ、美鈴もおかしな秘密をお話しいたしましょう」
握りしめられていた両手が開かれた。
すっかりあたたかくなった手のひらの中に、未だ少し濡れた、ガラス球。
本当に秘密をくれるの。そうやって問うと「もちろん」と美鈴は言った。
「このガラス球はね、ただのガラス球じゃないんです。実はガラスでできた、透明な飴玉なんですよ。舐めてみると、雲から降り注ぐ前の雨粒みたいな味がします。頬の裏側に当てて見ると、産まれたばかりの仔犬が最初にする息と同じ味がします。歯でがりりと噛んでしまうと、簡単に割れてしまいますから気をつけなければなりませんけれど、もしも割れてしまうとその中には、長い長い物語を何年もかけて最後まで書き上げた人の悦びが、どうかして魔法のように詰まっているんですから」
それから……。美鈴は少し、口ごもる。次にどんな言葉を選び出そうかと考えているみたいだった。そんな風に頭をひねる彼女を、たぶん初めて見たものだから、フランドールは途端に可笑しくなった。笑いを噛み殺しながら、でも眼の端に浮かぶわずかな涙を指先でぬぐいながら、また訊いた。
「もしも、光に透かすと?」
「光に透かすと――そうですねえ――太陽になります。妹さまのための、小さな太陽に」
「すごいね。とてもすごい、ガラスの飴玉だよ。太陽にだってなれるんだから」
「そうですよう。何たって、土の中にあったくらいなんですから。誰かに盗られてしまわないよう、きっと隠してあったのです。こんなにすごい宝物なんですから」
美鈴はそれだけ言って――けれど、その『飴玉』をフランドールにあげるとは、ひとことも言わなかった。言わなかったけれど、返してくれとも頼まなかった。
ガラスでできた小さな太陽で照らせる世界。
小さな吸血鬼の部屋は、それだけの明かりでもこと足りる。
そうやって屋敷の中だけで語り尽くせ、完結する“お話”が、フランドール・スカーレットにとっての、だいたいすべての部分。ねずみに食まれた枕の硬さ。天井から吊り下がる、それひとつではどうにも心許ない灯火のつくる影。押しても叩いても動かない、たくさんの魔法で強化された扉。歩くとたちどころに舞い上がるほこりのにおい。朝食か夕食かも解らないスープの温かさと、深皿の底に沈んだ肉の柔らかさ。それをすくって食べるときのスプーンの感触。そういう諸々のことだけしかなかった時代よりは、今は少しだけ“まし”と言える。
彼女の、赤色の眼がとらえる世界は広がった。広がらざるを得なかった。
何か言いたげに、しかし言葉少なに自分を見つめる姉の眼や、大図書館の魔女がすっかり冷めきった紅茶をすすりながら、分厚い書物のページを繰る音が響くというのも、その大きくなった世界のひとつである。
彼女は、自分自身を、文字や挿絵がすり切れてまるで見えなくなった小説みたいなものだと思わないこともなかった。そういう本を見たことがあったからだ。大図書館からこっそり拝借した、その古くさい子供向けの小説にはとてもすばらしい、胸躍るような物語『だけ』が書き記されていたはずなのだけれど、今となっては、“そういうもの”があったという事実しか憶えていられない。お話は、あくまでお話の中にだけその足跡を留める。だからこそ、紅魔館の中で語られるちっぽけな愛や勇気は、さらにちっぽけな吸血鬼の材料なのだった。
数百年も地下にたったひとりで居たフランドールには、辛いこともかなしいこともなかったし、ひょっとしたら、世の中にそういう感情があるかもしれないという事実にすら、思い及ばなかった。たとえば孤独という感情は、誰かと関わることのない者には決して必要とされないからだ。
それでも、安っぽい憐憫や何かが、世界には存在するのだということをフランドールは薄らと知り始めていたのかもしれない。何たって“あいつ”のことは、未だ苦手。「なぜわたしは閉じ込められていたの」と訊いたとき、そうすることを命じた姉は微笑した。申しわけのなさそうな笑みだった。壊れやすくて、あやふやなものを、あやふやでない悪意のもとに晒すわけにはいかなかったと姉は言った。外の世界は、いくさや、病や、迫害で満ちているんだ。それは死よりも偉大な悪辣で、しかも太陽より明瞭な絶望なんだ!
そんなものは、自分の力で粉々に吹き飛ばせば良いじゃないか。
もうわたしは自由なんだ。すべてを破壊するフランドール・スカーレットの力は。
「おまえはそんなやり方しか知らない。だから私はおまえを閉じ込めておきたかったのに」
“彼女の気高い無知はあらゆる知を沈黙せしめ、神学者たちを唖にする”。優しいかなしさを持った声で、姉はつぶやいた。いったい、いつ自分自身を聖職になぞらえるだけの驕慢を得たというのだろう。わけがわからない、たったひとりの、お姉さま。
優しい姉なんて、フランドールは嫌いだった。
ずっと暗闇の中で頭に思い描いてきた姉は、凶悪で、横暴だった。すべての存在を踏みにじるような独裁者だった。しかし、数百年ぶりに出会った本当の姉は想像の中よりずっとずっとちっぽけで、無理をして背伸びしているような危うさがあった。フランドールにとって、姉こそが自分にとって唯一の悪意の象徴でなければならなかったのに。本当の姉が見せる、優しさみたいな何かに嘲られているような気がした。嘲るような優しさに。
しかし、美鈴が自分についたささやかな嘘がそれに当たるとは思わなかったし、そう考えたいとも思わなかった。少なくとも、今の彼女が身を置く宇宙の矮小さは、未だたくさんの、情熱と献身と安逸と、それから愛とでできていた。姉が見せるあわれみみたいな何かまで含め、いずれにせよ世界は善に満ちて存在していると信じたかった。それが、四九五年の時間を飛び越えて、小さな自由を手に入れたフランドールの魂が、新しくつくり出した牢獄の姿に他ならなかった。
憐れみか、忠誠か、何ひとつも解らなかったけれど、美鈴がくれたガラスの飴玉は、その牢獄を、もっともっと価値ある何かに変えてくれるかも知れないものだった。
それから、寝室でこっそりと開く宇宙を模した宝箱に、ちっぽけなガラス球が加わった。
閉め切ったカーテンからわずかに漏れる光を透かし、唇をとがらせて懸命にそのあたたかさを食もうとしているうちに、彼女はいつか眠ってしまう。何度かくり返されたそのやり方こそが、彼女にとっての秘密だった。フランドールの小箱の中には、だから、秘密もまた、宝物のひとつとして収められている。
フランドール・スカーレットより他にそんなことを知っている者が、ひとりとて居るはずもない。もちろん咲夜だって例外ではない。時を止めて世界に干渉できるのなら、フランドールにとっていちばんの大敵は紛れもなしに十六夜咲夜なのだから。だから彼女にだけは、他の誰に対するより、ほんのわずかに意地の悪い言葉を投げつけてしまう。
「太陽さえもしまい込めるのなら、確かに妹さまは神さまですね」
何か気恥かしいところでもあったのだろうか、目蓋の端を指先で掻きながらうつむいて、咲夜は言葉を継ごうとしたらしかった。どこかにためらいのようなものがあったようで、薄笑いにも似た声音がシンと耳をなでていく。
「そして、詩人でいらっしゃる」
ふう、と、対抗するように嘲りに似せた溜め息を、ひとつ――――。
「おべっかは嫌いだよ、咲夜」
「そんな。本心からですわ」
「背をなでられる気持ち良さに慣れ切った犬の言うことは、どうにも信用できないなあ」
「お……お人が、悪うございます」
困り果てた様子で言葉を途切れさせる咲夜。
しかし、このうろたえる様ですら、主人に花を持たせようとする行為だったら、どうだろう。いちど疑ってみると、他愛もない事象すら返しのついた棘みたいに、心に引っかかって取れなくなる。気持ちを紛らわせるつもりで、足をぱたぱたと動かした。普段ならたしなめるだろう相手はおろおろした様子で、手も、それから眼の向く先も、中空にさまよわせているのである。
「怒ってやしないよ。ただ……ねえ。咲夜。わたしが、そう思っていたら、どうするかってことだよ」
もう咲夜は何も言わなかった。
どこか安堵したようにこくりとうなずき、いつものように、麗しい冷たさの宿った表情になる。音もなく、自分の肩に置かれた彼女の手の感触は、表情とはまるで裏腹にあたたかかった。もし自分がナイフで咲夜を突き刺したとしても、流れ出たその血でこちらの寒さをあたためてくれる。彼女は、きっとそういう人間なのだと確信できる。
無言の優しさを繕うことに、ばかばかしいほどに長けた咲夜だから。
「人間は犬には成り切れません。しょせん、どこかでぼろを出す。神さまが触れた小箱でさえ、いつかは壊れてなくなってしまうみたいに。魔を退ける銀の清浄でさえ、黒く腐蝕してしまうみたいに。あるいはしまい込まれた太陽の熱に取り込まれて、灰だけが後には残されるのかも」
「どっちが詩人なのかなんて、もう解らないね。――咲夜も、いつか灰だけになる? 黒くなって、ぼろぼろになる?」
「おそらく。身体が死んで葬られるのが先か、心が死んで引きずり降ろされるのが先か」
「咲夜ならきっと前者だよ。“あいつ”のいちばんのお気に入りは、あなたなんだから。そうなるように歩いているのも、あなたなんだし」
「恐れ入ります。だけれど、」
くすくすと笑う咲夜。
「だけれど夢の中でなら、いつまでも妹さまのメイドでいられますわ」
顔立ちも声も背丈も肌の色も、すべてがまるで違うのに、その笑顔は、ガラス球をくれたときの美鈴にそっくりだと思った。否、嘘をついたときの笑みは、きっと誰しも同じなのだ。しあわせのための笑み。小さな騙りが、何か大切なものをもっと好いところへ導いてくれるだろうと考えるときの顔をしている。そう思うことにはどんな言葉も要らないから、誰しもがそっくりの、うつくしい微笑をする。たぶん、フランドール自身でさえ。
「へえ。ありがとう。そんな夢を見たら、きっと箱の中にしまっておくよ」
「あら嬉しい。ふたりだけの秘密ですわね」
鏡に映った自分の顔は、笑っていなかった。
小さく肩を叩かれて、それに応じるようにして身をよじる。
咲夜が寝る前に髪を梳いてくれるときには、お定まりとも言える“早く寝ない子のところには、悪い怪物がやって来ますよ”の合図だった。もっとも、そんな言葉は吸血鬼にとってはつまらない冗談でありすぎるけれど。
「さ、さ! もう、昼も遅い。良い子と良い吸血鬼は寝る時間ですよ、妹さま」
「ちぇッ。もうそんな時間なんだ。咲夜は未だ起きてるくせに」
「人間は吸血鬼と違って、昼型の生き物でありますからして」
咲夜の言葉を狙いすましたようにして、ごお――お、ごお――お、と響くのは、屋敷の中でいちばんに大きな柱時計の音なのだ。先だって、妖怪の山から呼びよせた河童の技師に数十年ぶりの手入れをしてもらったから、古びた音も少しだけ若返って聞こえる気がした。
腰のエプロンに指先を幾度か触れ、フランドールから半歩も離れた咲夜。
床に足の届かない椅子からゆっくりとその身を下ろし、咲夜を振り返った。すると、彼女は直ぐに頭を下げて、あいさつをしようとする。笑っているのかは解らなかった。表情を見せようとしないことが、最高の礼儀ででもあるように。でも、それじゃ、どんな顔をしているのかも解らないじゃないか。
「おやすみなさいませ、妹さま」
「おやすみ……」
銀色の髪の毛から立ち上がって来る、人間のにおい。
いつかは灰になって消えてしまう命のにおい。
フランドールだけの宝物は小箱にしまい込むべきだ。しかし、ずっと隠しておくべきではない、この場で直ぐに霧散させてしまった方が良い秘密も、もしかしたらあるのかもしれなかった。
未だ少しだけ自分は牢獄の住人でいたいと願ったから、フランドールは、いつか居なくなってしまうらしい咲夜を、今だけは自分のものにしたかった。それは、“あいつ”にだって許されていない行いだ。子供じみた独占欲だ。数百年、少しずつ蓄積してきた、彼女の中の大人の真似ごとをする部分が、じくじくと針を刺している。それはとてもとても、卑しい秘密なのじゃないかと。
真一文字に結んだ唇を開くと、吸血鬼の牙の先端が、わずかに舌先に触れるのが解った。ゆるやかな痛みはためらいの代わりだったのかも知れない。なるほど、世界は上手くできている。心が拒絶する代わりに、肉体が苦しむことで理性のはたらきを取り戻そうとしているのだと思えた。でも、もう手遅れだ。逡巡などひとつもなしに、彼女はその言葉を口にする。
「咲夜。わたしのこと、名前で呼んでみて」
唇を少しだけ開けたところから、真白い彼女の歯が見える。
呆けた顔を上げた咲夜は、今度こそ嘘をついていない本当の驚きを見せた。「いったい、どんな」と言いかけた彼女に、唇をとがらせて「いいから。早く」とうながした。少しいら立ったように。本当は、少しも怒ってなんかいないのに、そうしなければならないとフランドールは考えていた。今度こそ、彼女は嘘をついていた。
「さようで」
咲夜は微笑した。きれいな、愛らしい笑みだった。眼を覆って細い形に変える目蓋も、このごろ少しだけ痩せてしまった頬も、ごく薄い色の紅を引いた唇も、そのすべてがうつくしかった。
当たり前のことなのだけれど、今ではもうほとんど大人になってしまった彼女でさえ、昔は自分と同じ“牢獄”の住人だったのだろうということを、フランドールに思い出させる笑みだった。愛なるものがもしあったとして、触れることのできない憧れを他の何かで代替する方法を知っていたとして、そういうつまらないものの価値を無邪気に信じていた時代が。フランドールには、それが無性に嬉しかった。自分は、冷たい安らぎの中に、たったひとりで住んでいるわけじゃない。失いたくないほどの宝物があるなら、それを棄てたせいで空っぽになった心の形でさえ、きっと彼女が今まで知ることのなかった孤独の別名だ。
咲夜は息を吸い込んだ。
神さまに対するよりも、さらに最高の敬虔さをもって彼女は言った。
「おやすみなさいませ、フランドールさま」
「よし」
そうやってお辞儀をした咲夜の頭にフランドールは両手で触れて、それから額に唇を押しつけた。針の先で引っかくみたいに、銀色の髪の生え際へと。唇を離すまでには、時計の秒針が盤面を動く音が、たっぷり四回も聞こえたような気がしたけれど、それが例の柱時計からなのか、それとも咲夜の銀時計が発する音なのかはとうとう解らない。いずれにせよ、吸血鬼のよく発達した聴覚をなでていったその四秒は、いちどは“ぎゅっとして、ドカン!”したはずの気恥かしさを再び立ち上がらせるには十分すぎた。
もういちど咲夜と眼を合わせる直前、一本だけ縮れた彼女の髪の毛がフランドールの鼻の頭をなでていった。くすぐったさにしかめる顔を見せるのがわずらわしかった。直ぐに彼女は咲夜に背を向けてしまった。さっき、相手がしようとしたみたいに、さっさとあいさつをして――それからベッドに向かうことだけが、ただひとつの正しい行い。
「おやすみ」
おやすみなさいませ、“妹さま”。
時計の音が、また少しずつ聞こえてきた。
――――――
直ぐにベッドに向かうなら、きっと咲夜をかなしい目に遭わせずに済むだろうな。そう思った素直さのもと、フランドールは毛布ですっぽりと身を覆った。いま地上はすっかりと、太陽の熱にあぶられる昼である。しかし、毛布の中のささやかな暗闇なら、フランドールは誰よりも偉い夜の支配者である。
鏡台の所から持ち出した銀の小箱のふたを開け、あのガラス球を取り出した。
光のほとんど差し込まないこの場所では、それがどんな透明さを持っているのか、どんな歪みに狂わされているのか――そんなことの何ひとつも解らない。解るはずがない。吸血鬼は太陽を手に入れることはできない。そこにある光の快さも、苦々しさも、何ひとつ知ることはないのだったが。
けれど、フランドールは愉しかった。
美鈴から、ガラス球をもらったときのことを思い出す。もう、その記憶は幾らかぼんやりと薄まり始めていた。眠いせいかもしれなかった。咲夜が未だ起きていることをずるいというくらいには、あくびだって出なかったはずなのに。頭蓋の裏側を優しく撫でるような眠気だった。咲夜の顔も、美鈴の顔も、もう思い出せなかった。
とろとろと、融け始めた心の中で、彼女がしたことはキスだった。キスの練習だった。いつもは鳥のくちばしに向けてしているそれを、今日はガラス球に向けた。ゆっくりと唇が触れ、小さな舌先をその表面に触れた。これはガラスの飴玉だから。飴玉は、味わうためのものだから。
そのとき伝わって来たのはガラスの冷たさでなく、自分自身の体温であたたまった小さなかたまりの在ることだった。その熱が、ベッドに入る前にした小さないたずらをフランドールに思い起こさせた。誰かの額に、唇を押しつけてみた気がする。しかし、そのいたずらめいたキスをした相手が誰だったのかはまるで思い出せなかったし、それほど大事なことだとも考えなかった。
眠ってしまおう。何たって、眠りと死の神は、同時に生まれた兄弟だというから。
眠ってしまえば、自分はもういちど産まれ直すことができるのだ。
この、愛と優しさに満ちた牢獄の真ん中に。
次は子供でなく、幾らかは大人に近い生き物として。
最後まで、何かに抵抗するように張りを保っていたフランドールの背中の羽が、ついにくたりと萎れて、そのままベッドのシーツにその先端を触れた。彼女は眠った。再び太陽への憧れを見出すまでは、あと数時間の猶予がある。その間には、ガラス球が帯びてしまった熱も、きっとすっかり冷めていくだろう。指先でもてあそぶ球体の感触も、また始めから愉しむことができるだろう。
手の中からぽとりと、ガラスの飴玉が落ちた。銀の小箱にしまって、大事に扱っていたフランドールの宝物が。柔らかいベッドに、ほとんどないような重みを吸われ、彼女の手から逃れていった。
その表面に、実はよく眼を凝らしてようやく見えるくらいの“ごく小さなひびが入っている”ということに、フランドール・スカーレットだって気がつくときが来るだろう。彼女自身の大事な宝物を、いつか壊してしまう前に。
窓をさえぎるガラス一枚の隔てから空をふいと見上げることは誰にもできるが、その光をいっぱいに飲み込むことは、フランドールには決してできない。光というものをもし浴びられたなら、それは背中で受けているのか、額に浴びているのか、眼で見ているのか、口から食べているのだろうか。それから、光をぎゅっと固めれば、いつかは指でつまめるようにもなるだろうか。そうして、宝物をしまっておくための小箱に、うんと溜め込むこともできるのだろうか。
銀色のふち飾りで包まれた、その蓋の端をツいと指でなぞってみると、何の熱も知らなかったとばかりに冷たさが伝わってくる。
ぜんたい四角い形をしていながら、端々によく眼を走らせると、卵みたいな丸みを帯びている。周りとふたの前面にはちょっとした浮き彫りが幾つかしてあった。それは樹木から別れたたくさんの枝葉にも見えたけれど、フランドールはつるぎを模したように鋭い影だと見る方が、格好が良くてずっと好きだった。男の子みたいと笑われそうな気がするから、誰にも言ったことはなかったけれど。
足りないと言えるのなら太陽の色だけが、その宇宙には欠けている。それはフランドールが握り潰すまでもなく、自ら燃え盛って、死の真似ごとを永遠に続けているのだ。太陽は自ら夢を見、そこで駆ける死を誇示している。亀裂のような光から漏れだした熱が、空想の一端が現実として現れているということを示していた。吸血鬼はそれを見ることができない。姿も見えない何ものかに、憎悪を送ることだけが許されている。
事物の明瞭な死を、夢想の中の死にまで貶めることを、彼女は未だ知らなかった。
壊れた太陽のかけらを銀の小箱に隠してしまうと、いつか考える吸血鬼の少女。
――――――
あるときに咲夜は言う。
朝、寝る前のフランドールの髪の毛をブラシで梳きながら、
「妹さまの髪の毛は、日の光のように金色です」
しかしすぐに、その手の動きがほんのわずかにこわばって、彼女が何かまずい失敗でもしてしまったと感じているらしいのが伝わってきた。
この真面目なメイド長は、いかにも申しわけなさそうな声で謝って来たけれど、むしろその手つきが鈍ったせいで髪の毛が引っ張られて痛かったことの方が嫌だった。それにそんなことを叱るくらいなら、椅子に座っても未だ床に足先が届かないほどに低い、自分自身の背の方が、よっぽどかなしいことなのだとフランドールは考えていたのに。
眼の前の鏡に映り込む自分の姿は、とてもじゃないが、これから眠ろうとしているようには見えなかった。そういうときは、子供でさえも老人のようにしわくちゃに見える。フランドール・スカーレットは眠らない。子供である限り、彼女は眠らないのだ。
鏡が取りつけられてある鏡台の上には、未だ何も置かれてはいなかった。
埃でさえもすべて取り除かれているその場所は、何かもかも死んでいるみたいにきれいだった。“ただ一点を除いて”。
フランドールの眼前で、たったひとつの『否』が存在を許されるならば、あの銀の飾りの小箱だけだった。しかし、これはいつもこの場所に置いてある物でもあったから、とくべつ何があると言うには値しないのである。強いてつけ加えるのであれば、それは決して切り取ることのできない風景の一部であり、この小箱を取り除いたとき、ここはフランドールの部屋ではなくなってしまうということだ。
宇宙の模造がここに息をしている。
いまフランドールが太陽の代わりであり、彼女の髪を梳く咲夜は十六夜の月である。
そして小箱の冷たさは、何光年もの道筋をひと足も外れることなくやって来る、星のような何かとしてたたずんでいる。
戯れに、自分の手が鏡台の上の件の箱に届くか――と、手を伸ばしてみた。人指し指の腹ですうとなでてみたが、冷たさが伝わってくることはない。硬い、硬い、突き放すようなものだけがある。しかし、同時に心に兆すのは、暗く湿った安心だった。さっき「しまった」と身体をこわばらせた咲夜が、今度はそんなフランドールの様子を知って、愉しげな含み笑いを洩らしたところを、銀色の鏡は確かにとらえていた。
ブラシの歯の一本が、後ろ髪の生え際をなでていく感触がくすぐったかった。その直ぐ後にたびたび触れる咲夜の指の冷たさが、反対にくすぐったさを打ち消していこうとしていた。
笑い声を上げる代わりに、「なあに」と、フランドール。
「おかしな咲夜」
「妹さまは吸血鬼ですから弱点が多い。こと、日光を浴びることはお命に関わりますから」
「知ってるよ。そんなことは――でも、特に問題は“ありませんわ”」
と、咲夜の口ぶりを真似てやると、ふうとメイドは息を吐いた。
やれやれという顔をするでも、嬉しそうにするでもなく。
「太陽はお嫌いかと思いまして」
「そんなこと。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないけど」
「それは厄介なことで……」
「いっそこの手でさ、太陽の光をつかむことができるなら、好きにも嫌いにもなれるのにね」
咲夜が、小さく小さく息を飲んだような気配を見せた。吐いたり飲んだり忙しいやつだ。ブラシが、金色の髪の毛の先をするすると通り抜けていくと、それはとうとう最後のひと梳きらしかった。
咲夜の片手がフランドールの肩に触れる。
その向こうの鏡台に腕を差し伸べて、メイドはブラシをコトと置いた。
ゆっくりと、深い傷をいたわるような手つき。そうやって、フランドールの背中から生える翼の根元に、一瞬、触れた。悪魔の妹の“その部分”は、木の根によく似た影をつくる。しかし、樹木には成り得ない幾色もの尖りがたくさん垂れ下がってもいる。『これからいくさに向かうつるぎのすべてに、輝く色で細工したような』。そんな、勇ましい喩えを思いついて、ひとり、得意になっていたのは、半年も前のベッドの中でのことだった。それは彼女が発見した、自分だけが知っている幾つかの秘密のひとつでもあった。
「太陽をだよ、ねえ咲夜。指で小さく丸められれば、この……」
と、人差し指の先で箱をトントンと突っつく。
「箱の中にも、しまい込めるんだ」
ぎゅっとして、ドカン!
太陽の真ん中にあるかもしれない“目”を手のひらに握り、ひと思いに爆ぜさせる自分の姿を考えた。日の光の下、その重みに屈しそうな膝を大地から伸ばし、地下室暮らしですっかり蒼白い肌が焼けていくのも厭わずに、ただ欲しい物のために手を差し伸ばす。そこに何の躊躇もなく、誰に非難されるいわれもない。
「ずいぶんと、その箱を大事にしていらっしゃるようですけれど……」
と、咲夜は言って、
「いったい、中には何が?」
直ぐに、怪訝な顔をした。
鏡の世界で、左右の逆転した銀色の女が微笑する。咲夜の右の目尻にごく小さなほくろがあることに、フランドールは気がついていた。目蓋を細めて眠たげな顔を装いながら、ちらと、鏡に映ったその部分を見た。自分が爪の先で強く押しこんだら、彼女の顔は弾けてなくなってしまうだろうか。夢想の中の太陽みたいに?
何となく得意な気分になって、再び小箱の蓋に触れる。
力を込めれば直ぐにでも開け放ってしまえる。しかし、それをする気には未だなれない。ここは宇宙だ。フランドールだけの。咲夜に月の役目を課したことすら打ち明けられない、小さな小さな宇宙なのだ。ふたりで共有する秘密の甘やかさよりも、ひとりで隠す秘密の、その壊れやすい愉しさの方が好きだ。
「秘密だよ」
唇の端を吊り上げて、そう告げた。
べろりと舌を出してからかう代わり、わずかにのぞいた牙が光った。
「誰にも教えてあげるもんか。この箱に触れているときだけ、わたしは神さまにだってなれるんだから」
言葉の裏側では、毛布にくるまって箱を開けるときのことを思い返す。
ぱかりと、蓋を開いてみると、中には見慣れた宝物がたくさん、たくさん。
たとえば、それは蟻の隊列から奪った、まだら模様の蝶の翅である。
また、先の曲がって使い物にならなくなったフォークである。
そして、金の破片を埋め込んだみたいにきらきらと光る、鳥のくちばしである。
さらには、吸血鬼を殺し損ねたあわれな男が使っていた、きれいな銀の銃弾である。
ちぎれないように爪の先でていねいに翅をなで、フォークの先端が元の形に戻りはしないかと押し曲げたり、手のひらの中のくちばしへ唇を押しつけてキスの練習をしたりする。それから、銃弾を額にこんこん当てて、銀で肌の焼ける痛みをこらえながら、いつか訪れるすべての滅亡というものについて、寝物語の代わりに考えてみたりする。
フランドールの宝箱には死のようなうつくしさが詰まっている。彼女が手折った、あらゆる断片が納まっているのだ。再び動き出す余地さえあるのなら、それは停滞と呼ぶこともできたのだろうけれど。フランドールの手の中でだけ息をすることを許された宝物たちは、彼女が殺し、彼女が生を与えたものだ。
そうして生きている中でも、いっとう大事なのは、小さなガラスの飴玉だった。
美鈴からもらったそれは、彼女のいちばんのお気に入り。
園丁の真似ごとをして庭をいじっているのが美鈴の得意で、そんなときの彼女は、実は屋敷の門に身をもたれさせて昼寝をしているときよりも、ずっとずっとしあわせそうな顔をしている。誰かの落としものでしょうか、土の中から出てきたんですよ、と、美鈴がやっぱりしあわせそうな顔をして、その“飴玉”をフランドールの手に握らせたのは、久しぶりに雨の上がった六月の十七日。
何ということはない、ただのガラス球だ。
小さな子供の手であっても握ってしまえばすっかり姿の隠れてしまう、ごく小さなかたまりだ。球体から土汚れを洗い落としたときの、冷たい水の滴が、そのとき手のひらを滑った。その日はやけに暑い日だったから、その感覚を嬉しく思った。しかしそれ以上に明瞭な思い出は、ガラス球を握り込んだフランドールの小さな手を、すっぽりと覆い隠してしまったほどに大きな美鈴の両手。水で洗い流したはずの土が、においだけは未だ少し肌に残っていた。
「手、大きいね」
「あはは……あんまりはっきり仰らないでくださいな。これでも気にしてるんですから」
「ばかにしてるわけじゃない。何だか、こっそり秘密を託されたみたいだったから」
「秘密?」
「うん。美鈴の手は大きいからね。誰かに渡すまで、秘密を隠しておくにはぴったりだよ」
「面白い発想をされますね」
そんなこと、初めて言われました――と、美鈴は笑う。
「おかげで気が触れてるなんて言われるけどね」
悲観するふりをしながら、フランドールは答えた。
少し意地悪い言葉を返してしまったかな、と、悔いて眼を細めたけれど、美鈴は両手でフランドールの手を握ったまま、ずっと黙っていた。微笑を、さらにいっそう形あるものに組み替えて、彼女の両手はそのあたたかさをどんどん増していた。夏に少し近づきつつあったその日でも、フランドールは、美鈴の体温を不快には思わなかった。顔の横で編んでいる彼女の赤毛が揺れて――ああ、美鈴が自分の顔をのぞき込んでいるのだと、ようやく気がつく。
「じゃあ、美鈴もおかしな秘密をお話しいたしましょう」
握りしめられていた両手が開かれた。
すっかりあたたかくなった手のひらの中に、未だ少し濡れた、ガラス球。
本当に秘密をくれるの。そうやって問うと「もちろん」と美鈴は言った。
「このガラス球はね、ただのガラス球じゃないんです。実はガラスでできた、透明な飴玉なんですよ。舐めてみると、雲から降り注ぐ前の雨粒みたいな味がします。頬の裏側に当てて見ると、産まれたばかりの仔犬が最初にする息と同じ味がします。歯でがりりと噛んでしまうと、簡単に割れてしまいますから気をつけなければなりませんけれど、もしも割れてしまうとその中には、長い長い物語を何年もかけて最後まで書き上げた人の悦びが、どうかして魔法のように詰まっているんですから」
それから……。美鈴は少し、口ごもる。次にどんな言葉を選び出そうかと考えているみたいだった。そんな風に頭をひねる彼女を、たぶん初めて見たものだから、フランドールは途端に可笑しくなった。笑いを噛み殺しながら、でも眼の端に浮かぶわずかな涙を指先でぬぐいながら、また訊いた。
「もしも、光に透かすと?」
「光に透かすと――そうですねえ――太陽になります。妹さまのための、小さな太陽に」
「すごいね。とてもすごい、ガラスの飴玉だよ。太陽にだってなれるんだから」
「そうですよう。何たって、土の中にあったくらいなんですから。誰かに盗られてしまわないよう、きっと隠してあったのです。こんなにすごい宝物なんですから」
美鈴はそれだけ言って――けれど、その『飴玉』をフランドールにあげるとは、ひとことも言わなかった。言わなかったけれど、返してくれとも頼まなかった。
ガラスでできた小さな太陽で照らせる世界。
小さな吸血鬼の部屋は、それだけの明かりでもこと足りる。
そうやって屋敷の中だけで語り尽くせ、完結する“お話”が、フランドール・スカーレットにとっての、だいたいすべての部分。ねずみに食まれた枕の硬さ。天井から吊り下がる、それひとつではどうにも心許ない灯火のつくる影。押しても叩いても動かない、たくさんの魔法で強化された扉。歩くとたちどころに舞い上がるほこりのにおい。朝食か夕食かも解らないスープの温かさと、深皿の底に沈んだ肉の柔らかさ。それをすくって食べるときのスプーンの感触。そういう諸々のことだけしかなかった時代よりは、今は少しだけ“まし”と言える。
彼女の、赤色の眼がとらえる世界は広がった。広がらざるを得なかった。
何か言いたげに、しかし言葉少なに自分を見つめる姉の眼や、大図書館の魔女がすっかり冷めきった紅茶をすすりながら、分厚い書物のページを繰る音が響くというのも、その大きくなった世界のひとつである。
彼女は、自分自身を、文字や挿絵がすり切れてまるで見えなくなった小説みたいなものだと思わないこともなかった。そういう本を見たことがあったからだ。大図書館からこっそり拝借した、その古くさい子供向けの小説にはとてもすばらしい、胸躍るような物語『だけ』が書き記されていたはずなのだけれど、今となっては、“そういうもの”があったという事実しか憶えていられない。お話は、あくまでお話の中にだけその足跡を留める。だからこそ、紅魔館の中で語られるちっぽけな愛や勇気は、さらにちっぽけな吸血鬼の材料なのだった。
数百年も地下にたったひとりで居たフランドールには、辛いこともかなしいこともなかったし、ひょっとしたら、世の中にそういう感情があるかもしれないという事実にすら、思い及ばなかった。たとえば孤独という感情は、誰かと関わることのない者には決して必要とされないからだ。
それでも、安っぽい憐憫や何かが、世界には存在するのだということをフランドールは薄らと知り始めていたのかもしれない。何たって“あいつ”のことは、未だ苦手。「なぜわたしは閉じ込められていたの」と訊いたとき、そうすることを命じた姉は微笑した。申しわけのなさそうな笑みだった。壊れやすくて、あやふやなものを、あやふやでない悪意のもとに晒すわけにはいかなかったと姉は言った。外の世界は、いくさや、病や、迫害で満ちているんだ。それは死よりも偉大な悪辣で、しかも太陽より明瞭な絶望なんだ!
そんなものは、自分の力で粉々に吹き飛ばせば良いじゃないか。
もうわたしは自由なんだ。すべてを破壊するフランドール・スカーレットの力は。
「おまえはそんなやり方しか知らない。だから私はおまえを閉じ込めておきたかったのに」
“彼女の気高い無知はあらゆる知を沈黙せしめ、神学者たちを唖にする”。優しいかなしさを持った声で、姉はつぶやいた。いったい、いつ自分自身を聖職になぞらえるだけの驕慢を得たというのだろう。わけがわからない、たったひとりの、お姉さま。
優しい姉なんて、フランドールは嫌いだった。
ずっと暗闇の中で頭に思い描いてきた姉は、凶悪で、横暴だった。すべての存在を踏みにじるような独裁者だった。しかし、数百年ぶりに出会った本当の姉は想像の中よりずっとずっとちっぽけで、無理をして背伸びしているような危うさがあった。フランドールにとって、姉こそが自分にとって唯一の悪意の象徴でなければならなかったのに。本当の姉が見せる、優しさみたいな何かに嘲られているような気がした。嘲るような優しさに。
しかし、美鈴が自分についたささやかな嘘がそれに当たるとは思わなかったし、そう考えたいとも思わなかった。少なくとも、今の彼女が身を置く宇宙の矮小さは、未だたくさんの、情熱と献身と安逸と、それから愛とでできていた。姉が見せるあわれみみたいな何かまで含め、いずれにせよ世界は善に満ちて存在していると信じたかった。それが、四九五年の時間を飛び越えて、小さな自由を手に入れたフランドールの魂が、新しくつくり出した牢獄の姿に他ならなかった。
憐れみか、忠誠か、何ひとつも解らなかったけれど、美鈴がくれたガラスの飴玉は、その牢獄を、もっともっと価値ある何かに変えてくれるかも知れないものだった。
それから、寝室でこっそりと開く宇宙を模した宝箱に、ちっぽけなガラス球が加わった。
閉め切ったカーテンからわずかに漏れる光を透かし、唇をとがらせて懸命にそのあたたかさを食もうとしているうちに、彼女はいつか眠ってしまう。何度かくり返されたそのやり方こそが、彼女にとっての秘密だった。フランドールの小箱の中には、だから、秘密もまた、宝物のひとつとして収められている。
フランドール・スカーレットより他にそんなことを知っている者が、ひとりとて居るはずもない。もちろん咲夜だって例外ではない。時を止めて世界に干渉できるのなら、フランドールにとっていちばんの大敵は紛れもなしに十六夜咲夜なのだから。だから彼女にだけは、他の誰に対するより、ほんのわずかに意地の悪い言葉を投げつけてしまう。
「太陽さえもしまい込めるのなら、確かに妹さまは神さまですね」
何か気恥かしいところでもあったのだろうか、目蓋の端を指先で掻きながらうつむいて、咲夜は言葉を継ごうとしたらしかった。どこかにためらいのようなものがあったようで、薄笑いにも似た声音がシンと耳をなでていく。
「そして、詩人でいらっしゃる」
ふう、と、対抗するように嘲りに似せた溜め息を、ひとつ――――。
「おべっかは嫌いだよ、咲夜」
「そんな。本心からですわ」
「背をなでられる気持ち良さに慣れ切った犬の言うことは、どうにも信用できないなあ」
「お……お人が、悪うございます」
困り果てた様子で言葉を途切れさせる咲夜。
しかし、このうろたえる様ですら、主人に花を持たせようとする行為だったら、どうだろう。いちど疑ってみると、他愛もない事象すら返しのついた棘みたいに、心に引っかかって取れなくなる。気持ちを紛らわせるつもりで、足をぱたぱたと動かした。普段ならたしなめるだろう相手はおろおろした様子で、手も、それから眼の向く先も、中空にさまよわせているのである。
「怒ってやしないよ。ただ……ねえ。咲夜。わたしが、そう思っていたら、どうするかってことだよ」
もう咲夜は何も言わなかった。
どこか安堵したようにこくりとうなずき、いつものように、麗しい冷たさの宿った表情になる。音もなく、自分の肩に置かれた彼女の手の感触は、表情とはまるで裏腹にあたたかかった。もし自分がナイフで咲夜を突き刺したとしても、流れ出たその血でこちらの寒さをあたためてくれる。彼女は、きっとそういう人間なのだと確信できる。
無言の優しさを繕うことに、ばかばかしいほどに長けた咲夜だから。
「人間は犬には成り切れません。しょせん、どこかでぼろを出す。神さまが触れた小箱でさえ、いつかは壊れてなくなってしまうみたいに。魔を退ける銀の清浄でさえ、黒く腐蝕してしまうみたいに。あるいはしまい込まれた太陽の熱に取り込まれて、灰だけが後には残されるのかも」
「どっちが詩人なのかなんて、もう解らないね。――咲夜も、いつか灰だけになる? 黒くなって、ぼろぼろになる?」
「おそらく。身体が死んで葬られるのが先か、心が死んで引きずり降ろされるのが先か」
「咲夜ならきっと前者だよ。“あいつ”のいちばんのお気に入りは、あなたなんだから。そうなるように歩いているのも、あなたなんだし」
「恐れ入ります。だけれど、」
くすくすと笑う咲夜。
「だけれど夢の中でなら、いつまでも妹さまのメイドでいられますわ」
顔立ちも声も背丈も肌の色も、すべてがまるで違うのに、その笑顔は、ガラス球をくれたときの美鈴にそっくりだと思った。否、嘘をついたときの笑みは、きっと誰しも同じなのだ。しあわせのための笑み。小さな騙りが、何か大切なものをもっと好いところへ導いてくれるだろうと考えるときの顔をしている。そう思うことにはどんな言葉も要らないから、誰しもがそっくりの、うつくしい微笑をする。たぶん、フランドール自身でさえ。
「へえ。ありがとう。そんな夢を見たら、きっと箱の中にしまっておくよ」
「あら嬉しい。ふたりだけの秘密ですわね」
鏡に映った自分の顔は、笑っていなかった。
小さく肩を叩かれて、それに応じるようにして身をよじる。
咲夜が寝る前に髪を梳いてくれるときには、お定まりとも言える“早く寝ない子のところには、悪い怪物がやって来ますよ”の合図だった。もっとも、そんな言葉は吸血鬼にとってはつまらない冗談でありすぎるけれど。
「さ、さ! もう、昼も遅い。良い子と良い吸血鬼は寝る時間ですよ、妹さま」
「ちぇッ。もうそんな時間なんだ。咲夜は未だ起きてるくせに」
「人間は吸血鬼と違って、昼型の生き物でありますからして」
咲夜の言葉を狙いすましたようにして、ごお――お、ごお――お、と響くのは、屋敷の中でいちばんに大きな柱時計の音なのだ。先だって、妖怪の山から呼びよせた河童の技師に数十年ぶりの手入れをしてもらったから、古びた音も少しだけ若返って聞こえる気がした。
腰のエプロンに指先を幾度か触れ、フランドールから半歩も離れた咲夜。
床に足の届かない椅子からゆっくりとその身を下ろし、咲夜を振り返った。すると、彼女は直ぐに頭を下げて、あいさつをしようとする。笑っているのかは解らなかった。表情を見せようとしないことが、最高の礼儀ででもあるように。でも、それじゃ、どんな顔をしているのかも解らないじゃないか。
「おやすみなさいませ、妹さま」
「おやすみ……」
銀色の髪の毛から立ち上がって来る、人間のにおい。
いつかは灰になって消えてしまう命のにおい。
フランドールだけの宝物は小箱にしまい込むべきだ。しかし、ずっと隠しておくべきではない、この場で直ぐに霧散させてしまった方が良い秘密も、もしかしたらあるのかもしれなかった。
未だ少しだけ自分は牢獄の住人でいたいと願ったから、フランドールは、いつか居なくなってしまうらしい咲夜を、今だけは自分のものにしたかった。それは、“あいつ”にだって許されていない行いだ。子供じみた独占欲だ。数百年、少しずつ蓄積してきた、彼女の中の大人の真似ごとをする部分が、じくじくと針を刺している。それはとてもとても、卑しい秘密なのじゃないかと。
真一文字に結んだ唇を開くと、吸血鬼の牙の先端が、わずかに舌先に触れるのが解った。ゆるやかな痛みはためらいの代わりだったのかも知れない。なるほど、世界は上手くできている。心が拒絶する代わりに、肉体が苦しむことで理性のはたらきを取り戻そうとしているのだと思えた。でも、もう手遅れだ。逡巡などひとつもなしに、彼女はその言葉を口にする。
「咲夜。わたしのこと、名前で呼んでみて」
唇を少しだけ開けたところから、真白い彼女の歯が見える。
呆けた顔を上げた咲夜は、今度こそ嘘をついていない本当の驚きを見せた。「いったい、どんな」と言いかけた彼女に、唇をとがらせて「いいから。早く」とうながした。少しいら立ったように。本当は、少しも怒ってなんかいないのに、そうしなければならないとフランドールは考えていた。今度こそ、彼女は嘘をついていた。
「さようで」
咲夜は微笑した。きれいな、愛らしい笑みだった。眼を覆って細い形に変える目蓋も、このごろ少しだけ痩せてしまった頬も、ごく薄い色の紅を引いた唇も、そのすべてがうつくしかった。
当たり前のことなのだけれど、今ではもうほとんど大人になってしまった彼女でさえ、昔は自分と同じ“牢獄”の住人だったのだろうということを、フランドールに思い出させる笑みだった。愛なるものがもしあったとして、触れることのできない憧れを他の何かで代替する方法を知っていたとして、そういうつまらないものの価値を無邪気に信じていた時代が。フランドールには、それが無性に嬉しかった。自分は、冷たい安らぎの中に、たったひとりで住んでいるわけじゃない。失いたくないほどの宝物があるなら、それを棄てたせいで空っぽになった心の形でさえ、きっと彼女が今まで知ることのなかった孤独の別名だ。
咲夜は息を吸い込んだ。
神さまに対するよりも、さらに最高の敬虔さをもって彼女は言った。
「おやすみなさいませ、フランドールさま」
「よし」
そうやってお辞儀をした咲夜の頭にフランドールは両手で触れて、それから額に唇を押しつけた。針の先で引っかくみたいに、銀色の髪の生え際へと。唇を離すまでには、時計の秒針が盤面を動く音が、たっぷり四回も聞こえたような気がしたけれど、それが例の柱時計からなのか、それとも咲夜の銀時計が発する音なのかはとうとう解らない。いずれにせよ、吸血鬼のよく発達した聴覚をなでていったその四秒は、いちどは“ぎゅっとして、ドカン!”したはずの気恥かしさを再び立ち上がらせるには十分すぎた。
もういちど咲夜と眼を合わせる直前、一本だけ縮れた彼女の髪の毛がフランドールの鼻の頭をなでていった。くすぐったさにしかめる顔を見せるのがわずらわしかった。直ぐに彼女は咲夜に背を向けてしまった。さっき、相手がしようとしたみたいに、さっさとあいさつをして――それからベッドに向かうことだけが、ただひとつの正しい行い。
「おやすみ」
おやすみなさいませ、“妹さま”。
時計の音が、また少しずつ聞こえてきた。
――――――
直ぐにベッドに向かうなら、きっと咲夜をかなしい目に遭わせずに済むだろうな。そう思った素直さのもと、フランドールは毛布ですっぽりと身を覆った。いま地上はすっかりと、太陽の熱にあぶられる昼である。しかし、毛布の中のささやかな暗闇なら、フランドールは誰よりも偉い夜の支配者である。
鏡台の所から持ち出した銀の小箱のふたを開け、あのガラス球を取り出した。
光のほとんど差し込まないこの場所では、それがどんな透明さを持っているのか、どんな歪みに狂わされているのか――そんなことの何ひとつも解らない。解るはずがない。吸血鬼は太陽を手に入れることはできない。そこにある光の快さも、苦々しさも、何ひとつ知ることはないのだったが。
けれど、フランドールは愉しかった。
美鈴から、ガラス球をもらったときのことを思い出す。もう、その記憶は幾らかぼんやりと薄まり始めていた。眠いせいかもしれなかった。咲夜が未だ起きていることをずるいというくらいには、あくびだって出なかったはずなのに。頭蓋の裏側を優しく撫でるような眠気だった。咲夜の顔も、美鈴の顔も、もう思い出せなかった。
とろとろと、融け始めた心の中で、彼女がしたことはキスだった。キスの練習だった。いつもは鳥のくちばしに向けてしているそれを、今日はガラス球に向けた。ゆっくりと唇が触れ、小さな舌先をその表面に触れた。これはガラスの飴玉だから。飴玉は、味わうためのものだから。
そのとき伝わって来たのはガラスの冷たさでなく、自分自身の体温であたたまった小さなかたまりの在ることだった。その熱が、ベッドに入る前にした小さないたずらをフランドールに思い起こさせた。誰かの額に、唇を押しつけてみた気がする。しかし、そのいたずらめいたキスをした相手が誰だったのかはまるで思い出せなかったし、それほど大事なことだとも考えなかった。
眠ってしまおう。何たって、眠りと死の神は、同時に生まれた兄弟だというから。
眠ってしまえば、自分はもういちど産まれ直すことができるのだ。
この、愛と優しさに満ちた牢獄の真ん中に。
次は子供でなく、幾らかは大人に近い生き物として。
最後まで、何かに抵抗するように張りを保っていたフランドールの背中の羽が、ついにくたりと萎れて、そのままベッドのシーツにその先端を触れた。彼女は眠った。再び太陽への憧れを見出すまでは、あと数時間の猶予がある。その間には、ガラス球が帯びてしまった熱も、きっとすっかり冷めていくだろう。指先でもてあそぶ球体の感触も、また始めから愉しむことができるだろう。
手の中からぽとりと、ガラスの飴玉が落ちた。銀の小箱にしまって、大事に扱っていたフランドールの宝物が。柔らかいベッドに、ほとんどないような重みを吸われ、彼女の手から逃れていった。
その表面に、実はよく眼を凝らしてようやく見えるくらいの“ごく小さなひびが入っている”ということに、フランドール・スカーレットだって気がつくときが来るだろう。彼女自身の大事な宝物を、いつか壊してしまう前に。
そんな気がしました。
こうずさんのこれまで読んだ作品の内でも、特に腑に落ちる読後感です。
次回作も楽しみにしています。
ほとんどの酸とアルカリに半永久的な耐性を持ち、格子間に絡め取った分子をやはり半永久的に閉じ込める機能を持ちながら、機械的衝撃に弱く、無機物・セラミクスの宿命としてひとたびひびが入ってしまえば取り返しの付かない破断に至り、増して金属の靭性の前には容易く砕けるという弱点を持つ。すなわち吸血鬼というものに似たたちを持っているようにも思えます。フランドールとガラス玉というのは、よく似ているんじゃないかな、と。どちらも土の中にあったのだし。そしてガラスというのは、砕けても依然変わらずガラスなのです。
作中、フランドールの生活環境は宇宙に例えられています。咲夜が月で、フランドール自身が中心すなわち太陽であるとしています。ところで、地殻の成分が、実はガラスそのものにかなり近いという事実を考えると、ガラス玉は地球であると考えられる。さらにフランドールとガラス球を同一性のある象徴として描いているとすると、つまりフランドールは彼女自身にとって太陽であると同時に地球だったのではないでしょうか。つまり、自らの身を滅ぼすものを自分の身のうちに抱えている少女です。これはそのまま、おっかねえ能力を持った境遇に当てはまる。であれば結局、フランドールはその能力と上手く距離をとって付き合ってゆくしかねえんじゃねえかなあ、と思う次第です。さながら地球と太陽のように。
こういう、狭い空間で語られる話ってのは、時々深淵のような底知れなさを見せてくれるのでとても好きです。
余韻のままに、点数を。