魂魄妖夢の顔から血の気が引いた。元々、半人半霊のために血色はいい方ではないのだが、白い肌がますます白くなった。
彼女の背後で、はらはらと桜の花びらが舞い散っている。
剪定用の鋏を取りに倉庫に来たのだが、その中にあるべきものが無い。
妖夢は冷や汗を流しながら、ごくりと唾を飲んだ。
(し……しまった。ひょっとして……いや、間違いない。また人魂灯を無くしてしまった)
どこで無くした? いつ無くした? そこはさっぱり思い出せない。いや多分、下界に行ったときだというのは分かる。そして、そんなに前の話ではないはずだ。
妖夢は自分の迂闊さを悔やんだ。悔やんでも悔やみきれない。
もしまた、このことが主である幽々子にばれたらどうなるか? 考えただけでも恐ろしい。
先日に無くしたときの幽々子からのお説教を思い出し、妖夢は恐怖に震えた。
言葉遣いは丁寧だったのだが、幽々子の全身から溢れる怒りのオーラに、あのときは震えながら謝ることしか出来なかった。
(どうする? どうする私?)
素直に白状するか?
妖夢は唇に親指を当て、幽々子の反応を想像する。ゴゴゴゴ……等という効果音と雷雲を背負い、額にでっかい角を伸ばした幽々子の姿が脳裏に浮かんだ。
(無理。無理無理っ! そんなの絶対に無理っ!)
がちがちと妖夢の歯が鳴った。やっぱり恐い。恐すぎる。
なら、あと残された手段は?
幸い、幽々子はまだ人魂灯が無くなっていることに気付いてはいない。そして今、自分も思い出した。あのときとは状況が違う。
(そうよ。それなら……幽々子様に気付かれる前に見つければ……すべて丸く収まるはず。でも問題は、どこにあるのか分からないことだけれど……)
そのとき、妖夢の脳裏に閃くものがあった。
窮すれば通ずとはまさしくこのことだと、妖夢は安堵の息を吐く。まだ残された手段はある、足掻く方法がある。ならば、出来ることをするべきだ。
“ねえ妖夢? さっきからどうしたの?”
「ひゃあああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
冥界に妖夢の悲鳴が響き渡った。
慌てて妖夢は納屋の扉を閉め、背中を扉に当てた格好で振り向く。視線の先には西行時幽々子が両耳を人差し指で塞いで目を閉じていた。散歩か何かで、様子を見に来たのだろうか。
「お、おおお……脅かさないで下さいよ、幽々子様。吃驚したじゃないですか」
「吃驚したのは私の方よ、妖夢? 何なのよ、いきなりもの凄い声出して」
非難がましい視線を向けられながら、妖夢の心臓がばくばくと脈打つ。
息も絶え絶えに、妖夢は作り笑いを浮かべた。
「あはは、申し訳ありません幽々子様。ちょっと考え事をしていたところに声を掛けられたもので……」
そして何事もなかったかのように、再び幽々子に背を向け、妖夢は倉庫の扉に鍵を掛けた。横目で幽々子の表情を確認する。どうやら、怪しまれた気配は無いようだ。
「それと、すみません幽々子様。ちょっと用事を思い出したので、少し下界に行ってきます。それでは、失礼します」
「え? あ……うん……」
そそくさと、妖夢はその場から逃げるように立ち去った。
その背中を見ながら、幽々子は溜息を吐いた。
「まったくもう、未熟なんだから」
帰ってきたらたっぷりとお説教しなければいけないと、幽々子は苦笑を浮かべた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
妖夢は自分の幸運に感謝した。
ひょっとしたら今日は遊覧飛行の日かも知れないと恐れたが、そんなことは無かった。大急ぎで命蓮寺に駆け込む。
境内を抜け、本堂へと向かった。
読経が聞こえないと言うことは、今はひょっとして誰もいないのだろうか? そんなことを思いつつ、妖夢は本堂の中を覗いた。
本堂の中では一人の尼が雑巾掛けしていた。どうやら読経の時間は終わり、今は掃除の時間のようだった。
「あ、あの。すみません」
「あら? どうされました?」
妖夢は本堂の外から、聖に軽く頭を下げた。
「突然にお邪魔して申し訳ありません。ええとその……私は冥界で西行寺家の庭師をやっている魂魄妖夢と申します。実はナズーリンさんにお願いしたいことがありましてこちらに参ったのですが、ナズーリンさんはおられるでしょうか?」
聖は額の汗を拭い、その場から立ち上がって妖夢へと近付く。そして、ちょっと困ったような表情を浮かべた。
「冥界からですか、随分と遠いところから来られたんですね。どうやらお急ぎの様子ですが……生憎、ナズーリンは用事があって出掛けているんです」
「……え? 留守……なんですか?」
先日渡された天狗の新聞にナズーリンのことが書かれていたのを思い出し、彼女を頼りにここに来たのだが……。
妖夢はがっくりと崩れ落ち、その場に膝をついた。
「あの? 大丈夫ですか?」
「あ……はい、大丈夫……です」
しかし、そう言う妖夢の口調は全然大丈夫ではなくて……。到底、放っておけるようには聖には見えなかった。
「魂魄妖夢さんと言いましたね。私は聖白蓮と申します。こちらで住職を務めております。よろしければ、ナズーリンが帰るまでお話だけでも聞かせて頂けないでしょうか?」
聖の申し出に、妖夢は一瞬迷った。
しかし、首を横に振る。自分が悪いのだとは分かってはいるが、それでも出来るだけ恥を晒したくはなかった。
「い、いえ……それには及びません。あの、申し訳ありませんが、ナズーリンさんがどちらに行かれたか、ご存じないでしょうか?」
「そうですか? ええと……確かナズーリンは南の方へ飛んでいったはずです」
「南の方。……とすると、魔法の森か、もう少し先の妖怪の山か……」
妖夢は立ち上がった。いつまでもこんなところで立ち止まっているわけにもいくまい。
妖夢は聖に頭を下げた。
「教えてくれて、ありがとうございます。これから、私も南の方へ向かいます。それでは、失礼します」
「いえいえ、私の方こそ、お役に立てたかどうか……。気をつけて下さいね?」
「はい」
妖夢はその場から急いで飛び立ち、南へと向かった。
その後ろ姿を見送りながら、聖は苦笑を浮かべた。
「まったく……未熟ですね」
突然やってきた従者の強張った表情からは、焦燥と恐れがありありと読みとれた。
その様子は、宝塔を無くしたときの星とそっくりだった。
事の経緯は、後でナズーリンに聞いてみよう。慌てていたあの少女はそんな考えにも至らなかったのだろうけれど。
「そして、素直に打ち明けてもらえない私も、まだまだ未熟ですね」
だからこそ、自分にはまだまだ修行が必要なのだと、聖は頷いた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
狭い狭い幻想郷。
とはいっても、人一人を捜すにはやはり広い。
妖夢は魔法の森を通り過ぎ、妖怪の山へと辿り着いてしまった。ここに来るまで、ナズーリンらしき人影は見あたらなかった。
しかし、だからといってそれで諦めるつもりも無い。妖怪の山に来たのも、まったく当てが無いわけでもない。
妖夢は、新緑の鮮やかな緑に覆われた白い渓谷をゆっくりと飛行する。
「ちょっとそこのあなたっ! ここは妖怪の山です。人間は立ち入りを禁止ですっ! 今すぐ立ち去って下さいっ!」
妖夢の上空から、鋭い声が降り注いだ。
その声の主を見上げ、妖夢はその場に停止した。
白い上着と、赤と黒のスカートを履いた声の主が、妖夢の傍へと降りてくる。それは、小柄な体格には似つかわしくない大きな盾と、肉厚の剣を持った白狼天狗だった。
「いえ、すみません。私はここに用が有って来たんです。ええと……犬走椛さんでしょうか?」
椛は小首を傾げた。
「確かに私は犬走椛ですが……。あなた、どうして私のことを知っているのですか?」
「よかった。私は魂魄妖夢といいます。冥界で西行寺家の庭師をやっています。今日は椛さんに用があってここに来ました。その……あなたのことは、文々。新聞っていう新聞で知りました。それで、椛さんならだいたいここら辺にいるだろうと思いまして」
「文々。新聞……ですか」
今度は、あの鴉天狗は一体何を書いたのだろうかと、椛は怪訝な表情を浮かべた。
その一方で、改めて妖夢の傍に浮かんでいる半霊に椛は目を向けた。そういえば、冥界に住む半人半霊の庭師のことは、文々。新聞の記事で見たことがあった。半人半霊などという存在がそうそうそこらにいないことから、目の前の少女は、名乗った通り魂魄妖夢で間違いないのだろう。
こうして、仕事の管轄まで明かしているとは、一体どういう事なのかと……危機意識とかそういうのはどうなっているのだろうかと、椛は文に対して心の中で溜息を吐いた。
取り敢えず、妖怪の山に対する害意は無さそうなので、椛は話を聞くことにした。
「まあいいですけど、私に何の用なんですか?」
「あ、はい。ちょっとお願いが……その、椛さんは目がいいんですよね? 確か、『千里先まで見通す程度の能力』を持っているとか」
「んん? まあ……そうですけど」
「それでですね? 朝から、こっちの方にダウジングロッド? とかいう二本のL字型の棒を持った鼠の妖怪が飛んでいるのを見かけなかったでしょうか?」
「鼠の妖怪? こっちにですか?」
椛は数秒、虚空を見上げた。
「う~ん、ごめんなさい。そんな報告は私には届いてないです。それに、私も見た覚えは無いです。確かに、見ようと思えば千里先を見ることは出来ますけど、基本的には妖怪の山への侵入者でなければ注意を払わないっていう感じですし」
朝からほとんどの時間は大将棋で暇を潰していたとは、言わないでおく。
「そ……そうなんですか、それは……はあ、困ったなあ。いえ、椛さんが悪い訳じゃないですし、私が無理を言って押し掛けてきただけなんですけど」
妖夢はがっくりと肩を落とした。
それを見て、椛は頬を掻く。
「あの、人捜しならそれこそ文さんにでも頼んでみたらどうです? 妖夢さんも何度かあの人の新聞で記事になっていたから、お知り合いなんですよね? あの人なら、幻想郷のあちこちを飛び回っているから、その妖夢さんが捜している妖怪のことも見かけているのでは?」
「……うぅ」
椛の申し出に妖夢は呻き、顔をしかめた。
「あれ? 何かまずいことでも?」
こくりと、妖夢は頷いた。
「ええ……それはちょっとまずいというか……。あの人に知られたら、こう……また変に記事にされたりしないかなあっていうかですね? そんな訳で、あまり……頼りたくないなあって」
それを聞いて、椛は苦笑を浮かべた。
「なるほど……その気持ちはよく分かります。いつもあることないこと、こっちのプライバシーとかそんなのお構いなしに記事にしますし」
「そうなんですよね。だから、まずは椛さんを頼りにしてきたんですが……」
仕方ないので、やはり文に聞いてみることにしようと、妖夢は小さく嘆息した。それはそれで、頼み事をするのにちょっとリスクがありそうだが。
“清く正しい新聞記者に、非道いこと言うものですねあなた達は”
突然聞こえてきた声。
それは間違いなく、射命丸文のものだった。
天狗の耳は地獄耳? というか、いつから聞いていた事やら?
しかし、そんなことを考えるよりも早く、妖夢は動いた。
いつの間にか死角に立っていた文の姿を見付けるのと同時、鞘から楼観剣を抜いた。そのまま、空気を切り裂きながら振り抜く。
「……なっ?」
楼観剣は文の姿をすり抜け、妖夢は腕を上げた格好で止まった。
「残念、それは残像です」
今度は頭上から文の声が聞こえ、妖夢は上を見上げた。
……しかし、そこにも姿は無い。いったいどこに?
妖夢は困惑する。
「ふむ……緑の縞々ですか」
「ひゃわっ!?」
下から聞こえてきた文の声に、妖夢は真っ赤になって慌ててスカートを押さえた。その下で、文がにやにやと笑みを浮かべながら、メモ帳に筆を滑らせていく。
「椛は……いけませんねえ、褌萌えなんて少数派ですよ? ここはもっとセクシーに……うわっち!?」
椛が赤くなりながら文に弾幕を発射し、文は慌てた素振りを見せてそれをよけた。
渓流に弾幕が落ち、激しい水飛沫を上げた。直撃していたら、ただでは済まなかったかも知れない。
「盗み聞きなんて、行儀が悪いですよ? 文さん?」
「陰口も似たようなもんだと思いますけどねえ?」
睨む椛を文は涼しい顔で受け流した。
「それで妖夢さん? どうやら人捜しのようですが、何か面白い話でもあるのでしょうか? 毎度おなじみ、ネタ有るところに私有り、清く正しい射命丸です」
妖夢や椛と同じ高さまで浮かんで、文は笑みを浮かべた。
「べ、別に面白い話なんてありません。ただ、私はナズーリンさんに用があるので、見かけていたら教えて欲しいと思っているだけです」
それを聞いて、文はふむふむと頷いた。
「なるほど、では次の新聞は『春の流行はこれで決まり! 乙女のインナー大特集号』でいきましょう」
「どうしてそうなるんですかっ!?」
「妖夢さんが素直に答えないからですよ。んっふっふ~」
小馬鹿にしたような笑みを浮かべる文に、妖夢はぎりぎりと歯噛みして見せた。
そんな妖夢を数秒眺めて、文は軽く肩をすくめた。
「何かお悩みですか?」
「悩みって……そんなのは別に――」
「さっきの太刀筋を見れば分かります。雑念にまみれていましたよ? 目に頼り、耳に頼り、私の動きを読むことも捉えることも出来ず……。明鏡止水とはほど遠い。五感も心も鈍っています。普段のあなたの剣とは大違いです。おおかた、私を脅迫……とまではいかなくても、結構強引にお願いするつもりだったんでしょうが、そんな状態じゃ無理ですよ」
それは……そうかも知れない。
少しだけ頭を冷やして、妖夢はさっき振るった剣を思い直す。それは文の指摘通りで、決して褒められたものではなかったと、評価を下した。
妖夢は楼観剣を鞘に収めた。
「私はこれでも、誰かが傷付いたり、事件が大きくなるように煽るような記事は書いていないつもりです。新聞の書き方については閻魔様にたっぷりとお説教を頂いていますし、そもそもそういうのは私の性にも合いません。妖夢さんが本気で記事にされるのが嫌なら、そんなのは記事にはしませんよ」
「じゃあ『乙女のインナー大特集号』もやらないんですよね?」
ジト目で見る椛に、文は苦笑いを返した。
「はいはい、あれはあくまでも冗談です。特集のために紅魔館あたりに忍び込んだら、跡形もなく消されそうですし」
「どこまでが冗談か分からないから、不安なんですよあなたは」
椛は嘆息した。
「……文さん、先ほどは失礼しました。そして、恥を忍んでお願いします。後で、私に出来ることであればお礼もします。もし、ナズーリンさんの居場所をご存じでしたら、教えて頂けないでしょうか?」
頭を下げる妖夢を見て、文は頭を掻いた。
「もうちょっと言いたいこともありますが……頭を下げられちゃ、断れませんね。いいですよ。ナズーリンさんの居場所は知りませんが、捜すのを手伝いましょう」
それでは、飛ばしますよと文は妖夢の腕を掴んだ。
その途端、妖夢の視界が一変する。
遙か後方で「速度違反です。待ちなさ~いっ!」と椛が怒鳴っているのが聞こえた気がした。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
妖夢と文が妖怪の山を飛び立った十数分後。
魔法の森から人里の間に広がる田畑。それらを貫くあぜ道に、彼女らはいた。
「……まさか、本当にもう見付けてしまうとは」
「ふっふっふっ。天狗earは地獄耳。天狗eyeは千里眼。そして天狗noseはどこだろうとネタの匂いを嗅ぎ付けるのですよ」
超高速飛行で連れ回されてふらふらになりながらも感心する妖夢を前に、鼻を高々と伸ばして文は腕を組んだ。
「それで? 君達は何の用なんだい?」
妖夢と文の前には、ナズーリンと寅丸星が立っていた。
「あ……はい。実はナズーリンさんにお願いがあるんです。私は冥界で西行寺家の庭師をしている魂魄妖夢と申します。ちょっとその……落とし物をしてしまいまして、探して欲しいんです。お礼はします」
「探し物ねえ。見たところ随分と急いでいるようだけれど、そんなにも大事なものなのかい?」
「はい、仕事の上で、本当に大切なものなんです。それに……幽々子様から預かったものですし……」
「預かりもの? 無くした?」
ぴくりと、ナズーリンは目を細めた。
その静かな、そして鋭い口調に、妖夢は一瞬身を固くした。
「あの……?」
難しい表情を浮かべるナズーリンの態度に、妖夢は気まずいものを感じた。ナズーリンの隣で、星が苦笑を浮かべながら頬を掻いていた。
「妖夢さん。つかぬことを伺いますが、その無くし物は幽々子さんにちゃんと伝えたのでしょうか?」
びくっ! と妖夢の身が震えた。
妖夢の視線がナズーリンや星から外れる。
「エエハイ、勿論報告シマシタヨ」
その様子を見て、星は苦笑を浮かべた。ナズーリンはこめかみに人差し指を押し当てた。
文は妖夢を素直な少女だと思っていたが、まさかここまで嘘が吐くのが下手だとは思っていなくて……笑うのを堪えることが出来なかった。
自分なりに出来るだけ自然に返したつもりだったが、上手くいかなかったことは明々白々で、妖夢は顔を赤くして俯いた。幽々子に報告するということと、怒られるというイメージが直結していて、その動揺を抑えることが出来なかった。
ナズーリンは大きく溜息を吐いた。
「分かったよ。君の言う無くし物は、後で探してみるよ」
「本当ですかっ?」
妖夢は表情を輝かせた。彼女にはナズーリンの背後に後光が差しているように見えた。
「だけど、一つ条件がある」
「はい。私に出来ることなら何でもしますっ!」
意気込みを伝えるように、妖夢はナズーリンに何度も頷いて見せた。
“まず、きちんと君の主である幽々子さんに、無くしたことを白状するんだ”
それを聞いた直後、妖夢の体は硬直した。
彼女の瞳から光が失われ、意識が遠のく。ここまであちこちを飛び回ったのに、結論がそれかと思うと、目の前が暗くなった。
「そ……そんなぁ」
ついさっきまではそれこそ仏様の様に見えたはずなのに、妖夢にはナズーリンが悪魔の様に思えた。後光は消え失せ、その代わりにどす黒い霧を背負っているように感じる。
「そんなの無理です。だって……幽々子様、怒ったら本当に怖いんですよ? この前だって、無くしたのがばれたとき、本当にそれはもう……。これでまたばれたら……今度は……うあ……ああ……」
震えながら頭を抱える妖夢を見て、星は微笑んだ。
「妖夢さん。いけませんよ。そうですね……何がいけないのか。どうして、以前に無くしたときに、そんなにも怒られたのか分かっていますか?」
「……え? それは勿論、無くしてしまって……その、ずっとそのままにしてしまって……」
恐る恐る答える妖夢に、星は首を横に振った。
「違いますよ。では、もう少し別の訊き方をしましょう。あなたはそのとき、どうして無くしたままにしてしまったのですか?」
「さ……探そうとして、何度も探したけれど見つからなくて……、それでいつの間にか……忘れちゃって……」
その答えにも、星は首を横に振った。
「それでよかったと思いますか? そのときのあなたの行動は、従者として正しいものだったと言えますか?」
星の問い掛けに、妖夢は押し黙る。
従者として、間違っていた。そうだとは思う。しかし、それを口に出すことは出来ない。認めることが恐ろしい。自分が間違っていたと認めれば、きっと怒られるだろうから。
そんな妖夢の心を見透かしたように、星は小さく嘆息する。
「そうですね。あなたの行動は『間違っていた』。そのことは分かりますね?」
こくりと、妖夢は頷いた。
「では、あなたはまず、どうするべきだったと思いますか?」
妖夢の手が震える。
つくづく、自分の心の弱さ、未熟さが嫌になる。
「幽々子様に……きちんと、報告すべきでした」
「そうですね。ちゃんと分かっているじゃありませんか」
「……はい」
「きっと、幽々子さんもあなたが大切な仕事道具を無くしたことではなく、いつまでも報告しなかったから、そんなにも怒ったのですよ」
「そう……なのでしょうか?」
恐る恐る訪ねる妖夢に、彼女の傍らに立つ文が頷いた。
「ねえ妖夢さん? あなた、大切な仕事道具を無くして、その間お仕事はどうしたんですか?」
「それはその……ええと、前回も今回も無くしたのは人魂灯っていう幽霊を導くための道具なんですが……それが無いから、仕事はずっと滞っていて……。結局、お説教の後で幽々子様が人魂灯の灯を点けて、そうしたら幽霊が集まるから私が探しに行って、それで見付けました」
「なるほど。つまり、最初から素直に報告していれば、直ぐに人魂灯とやらを見付けることが出来て、仕事を止めることもなかった……と。そういうわけですよね?」
「うぅ……は、はい」
まったくもって反論のしようがない。呻くことしかできなかった。
「つまり、きちんと相談すれば、最初から問題を解決することが出来たんです。もしこれが原因で、本当に大変な事件になっていたらどうしますか?」
「それは……その……わた……私は……」
そんなとき、自分にはどうしようもない。
妖夢は自分の無責任さを思い知らされた。
「恐い気持ちは分かりますが、悪い報告ほど、早く正直に言わなくてはいけません。分かりましたね?」
「はい。分かりました」
星の口調はそれこそ諭すもので……だからこそ、妖夢の心の奥まで沁みていった。
妖夢は深く、星に頷いた。
どうやら分かってくれたらしいと、星も満足げに頷いた。
「でも、どこも同じなんだねえ」
「え?」
再び妖夢が顔を上げると、ナズーリンが口に手を当てて、くすくすと笑っていた。
「いやね? 私達がこうして出歩いていた理由なんだけれどね? 実はご主人殿が大切な宝塔を無くしてしまったんだよ。それで、一緒に探していたわけさ。幸い、直ぐに見つかったけれど」
「先日、守矢神社へ用事があったので出かけたのですが、その帰りに落としていたようです。お恥ずかしい。さっきの話も、実は私が聖に言われた話そのまんまだったりします」
顔を赤らめながら、星は首筋を掻いた。
「それだけじゃない。これでもう何度目だったか……しかも、聖に黙って……。昨晩、私を無理矢理連れ出してこっそり寺を出ようとしたところで、聖に見つかって大目玉だったんだ。えらそうに説教出来る身分じゃないよ。私も一緒に怒られて、とんだとばっちりさ」
「なっ? ナズーリンっ? 無理矢理じゃないでしょうっ!? 『やれやれ、仕方ないなあ』って、二つ返事でOKしてくれたじゃないですかっ! だからナズーリンも聖に怒られたんでしょう? 『星を甘やかしすぎる』って。いえ、感謝してますけどっ!」
「五月蠅いっ! だいたい、ご主人殿が素直に白状していれば――」
「だってっ!? 仕方ないでしょう? 聖が怒ったらどれだけ恐いか、ナズーリンも知っているじゃないですかっ!」
ぎゃあぎゃあと喚き始める星とナズーリンを見ながら、妖夢は曖昧に笑みを浮かべた。
そんな妖夢の肩を文は叩いた。
「まあ、そんなものなので、そこまで深く落ち込む必要はありませんよ。もっとも、反省は必要ですし、もう繰り返さないようにする必要はありますけどね」
どうやら、星とナズーリンは彼女らなりに妖夢の気を楽にさせようとしたつもりらしい。
妖夢は落ち込んでいた気分が少しだけ晴れた気がした。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
冥界。西行寺家の屋敷。
桜の花びらの舞う縁側に、幽々子は座っていた。傍らにお茶と菓子を置いて、妖夢を見詰めている。
「――幽々子様。本当に申し訳ありませんでした。人魂灯をまたもや無くしてしまったこと、そして直ぐに幽々子様に報告しなかったこと。反省しております」
誠心誠意、心を込めて妖夢は主に頭を下げ、報告と謝意を伝える。
緊張する。恐怖に心が震える。しかしそれでも、自分は従者なのだ。従者として、主に背き、自分に与えられた役目を蔑ろにすることは出来ない。
幽々子は深く溜息を吐いた。
その吐息に、妖夢の心臓は大きく震えた。
この時間が、ほんの数十秒か数分のはずなのに……まるで永遠のように感じられる。
「妖夢。顔を上げなさい」
「は、はい」
恐る恐る、妖夢は顔を上げた。
そして、びくりと顔を強張らせた。
その表情は蒼白で、目は大きく見開かれていた。
がくがくと膝が震える。立っているのがやっとだ。
そんな彼女の視線の先で、幽々子は笑みを浮かべていた。般若の笑みを。
その背中にはゴゴゴゴ……という効果音と共に雷雲が渦巻いていた。
すうっ……と大きく幽々子は息を吸った。
それを見て、妖夢は深く後悔した。
やっぱり素直に謝るんじゃなかった。自分は何て楽観的に物事を考えていたんだ。そうだ、何事も最悪を想定して動くべきだったんじゃないか。
幽々子が勢いよく立ち上がった。
“ぎゃお~っ!! 食~べちゃ~うぞ~っ!!”
「ひいいいいいぃぃぃぃっ! ごめんなさいっ! ごめんなさいっ! ごめんなさいっ!ごめんなさいっ! ごめんなさいっ! ごめんなさいっ! ごめんなさいっ! ごめんなさいっ! ごめんなさいっ! ごめんなさいっ! ごめんなさいっ! ごめんなさいっ! ごめんなさいっ! ごめんなさいっ! ごめんなさいっ! ごめんなさいっ!!ごめんなさいっ! ごめんなさいっ! ごめんなさいっ!」
幽々子が立ち上がるのと同時、反射的に妖夢は土下座した。
「……って、え??」
何かもの凄い違和感を覚える台詞を聞いた気がして、妖夢は顔を上げた。
妖夢の目の前で、幽々子は両腕を上げた……熊のような格好で固まっていた。
困惑する表情を浮かべる妖夢を見て、満足げに幽々子は微笑む。腕を下ろして、再び縁側に座った。
「素直に白状するのが遅れたから、その分は減点ね。まあ、間違いに気付いたようだから、特別にお説教はこれくらいで勘弁してあげるわ」
長い付き合いだ。生真面目なこの少女に、人を欺く様な真似は出来ない。やった場合はどうしても行動や言動が歪になる。そう、今朝に倉庫の前で見せたように。非常に分かりやすい。
そして、だからこそ、ある意味で幽々子は妖夢のことを信用している。
「あの……許していただけるのでしょうか?」
「ええ、どうやら深く反省しているようだし、間違いにも気付いたみたいだしね。でも妖夢? 反省しているのなら、もう二度とこういう事はしないように。あと、無くし物もしないように何らかの手立てを考えること。いいわね? 人魂灯の灯は点けておくから、お昼ご飯の後に探しに行きなさい」
「は、はいっ! ありがとうございますっ!」
もう一度、妖夢は土下座の格好で頭を下げた。
緊張が解けて、その反動で涙が零れた。
その涙を拭いながら、妖夢は立ち上がった。
「それにしても妖夢?」
「はい?」
「そんなにも私って恐いのかしら?」
ちょっぴり恨めしそうに妖夢を見ながら、幽々子は肩を落とした。
そんな主を見て、どう答えたらいいものだろうかと、妖夢は顔をしかめる。
普段は……悪戯好きで何を考えているのかまるで分からない困った主ではあるが、決して粗暴でも横暴でもない。しかし、怒ったときは……どうなのだろう?
「はあ……妖夢ってば、悪い報告をしたら私がそれだけを理由に妖夢を怒鳴りつけるような主人だって思っているのね。主として肩身が狭いわ。私なりに優しくしてきたつもりなのに、寂しいわね」
「いえ幽々子様っ! 決してそんなつもりでは……。その、すべては私の未熟故ですから……」
「未熟。そうね……妖夢が未熟なままなのも私のせいよね。妖忌に何て言えばいいのかしら」
よよよ……と、扇子で顔を覆う幽々子を見ながら、どうせまたこれも自分を弄って遊んでいるんだろうなと妖夢は思う。
しかしそれでも、彼女に言える言葉は一つしかなかった。
「ええと……精進します」
そんな妖夢を見て、幽々子はくすりと笑った。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
人魂灯を持って、妖夢は再び命蓮寺を訪れていた。
「と、いうわけで無事に許しをもらうことが出来ました。人魂灯も見付けることが出来ました。本当に助かりました」
境内の中で、ナズーリンと星、そして文に向かって妖夢は頭を下げた。
「いやなに、すべては正直に報告した君の勇気の賜物だよ。私達が言った事なんて、ささいなきっかけさ」
「でも、無事に見つかってよかったですね。どこにあったんですか?」
「地底にありました。以前に地下から怨霊が湧いた異変の後、その怨霊達と一緒に、元々冥界で管理していた幽霊もつられて地下に行っちゃっていたんです。それで、彼らを迎えに先日は地下に行ったんですが、そのときに忘れていったみたいです。そのうち取りに来るだろうと地底の妖怪が保管してくれていました。地底の妖怪がそう易々と地上に出るわけにもいかないみたいで、迷惑かけてしまいました」
照れくさそうに笑う妖夢が持つ人魂灯を文はしげしげと見詰めた。
「それが人魂灯ですか。ふむふむ……」
「あの……文さん? お願いですから、私がこれを無くしたっていうことは記事にしないで下さいよ?」
「しませんよ。約束ですからね。宝塔と同じく、幻想郷の秘宝や珍品として紹介するに止めますよ。あと、落とし物として見付けたら直ぐに連絡するように書いておきます。さもなくば、恐ろしい目に遭っても知りませんよってね。まあ……私の知る限りでは、幽霊を恐れる人間ってそんなにいない気もしますけどね?」
宝塔についても、文は同様に拾ったら直ぐに届けるように書くつもりだった。
ちなみに、人魂灯には灯が点いた状態なので、沢山の幽霊が周囲に集まっているのだが、命蓮寺に来ている人間も妖怪も誰も恐れている様子は無かった。昼間だからだろうか。
「そういえば文さん?」
「何ですか?」
「ナズーリンさん達を捜す前に『もうちょっと言いたいこともありますが』って言ってましたけど、ひょっとしてこういう事って文さんにも覚えがあったりするんですか?」
「あや? ……覚えてましたか。口を滑らせる物じゃないですねえ」
文は微苦笑を浮かべた。
「別にそんなにも深い意味は無いですよ。事情も話さずに頼み事をするなんてのは、後ろ暗いことがあるんだろうなあって思ったっていうだけの話です。そして、そういうときは何らかの失態を隠そうとしているんだろうなって。……恥ずかしい話ですが、私にも覚えはありますよ。大天狗様にでっかい雷を落とされました」
厳格な縦社会を築いている天狗にとって、そういう報告はとても重要なのだ。「まったくもって、ストレスが溜まります」と文は漏らした。
「まあ、そんなわけで、ちょっと放っておけなかったんですよ」
照れくさそうに、文はそう言って笑った。いつも好き勝手に動いているように見えるが、案外と面倒見のいい面も持っているのかも知れないと妖夢は思った。
「では、すみませんが今日はこれで失礼します。文さん、人魂灯の取材はまた後日にお願いします。早く帰らないとまた幽々子様に叱られてしまいますから」
「そうですか。では、今度はまた時間があるときに寄って下さい」
「はい」
妖夢は頷いて、沢山の幽霊達を引き連れながら冥界へと飛び立っていった。はぐれる幽霊がいないか、ときどき確認しながら。
その後ろ姿は、ちょっぴり成長しているように、命蓮寺に残った三人には感じられた。
―END―
彼女の背後で、はらはらと桜の花びらが舞い散っている。
剪定用の鋏を取りに倉庫に来たのだが、その中にあるべきものが無い。
妖夢は冷や汗を流しながら、ごくりと唾を飲んだ。
(し……しまった。ひょっとして……いや、間違いない。また人魂灯を無くしてしまった)
どこで無くした? いつ無くした? そこはさっぱり思い出せない。いや多分、下界に行ったときだというのは分かる。そして、そんなに前の話ではないはずだ。
妖夢は自分の迂闊さを悔やんだ。悔やんでも悔やみきれない。
もしまた、このことが主である幽々子にばれたらどうなるか? 考えただけでも恐ろしい。
先日に無くしたときの幽々子からのお説教を思い出し、妖夢は恐怖に震えた。
言葉遣いは丁寧だったのだが、幽々子の全身から溢れる怒りのオーラに、あのときは震えながら謝ることしか出来なかった。
(どうする? どうする私?)
素直に白状するか?
妖夢は唇に親指を当て、幽々子の反応を想像する。ゴゴゴゴ……等という効果音と雷雲を背負い、額にでっかい角を伸ばした幽々子の姿が脳裏に浮かんだ。
(無理。無理無理っ! そんなの絶対に無理っ!)
がちがちと妖夢の歯が鳴った。やっぱり恐い。恐すぎる。
なら、あと残された手段は?
幸い、幽々子はまだ人魂灯が無くなっていることに気付いてはいない。そして今、自分も思い出した。あのときとは状況が違う。
(そうよ。それなら……幽々子様に気付かれる前に見つければ……すべて丸く収まるはず。でも問題は、どこにあるのか分からないことだけれど……)
そのとき、妖夢の脳裏に閃くものがあった。
窮すれば通ずとはまさしくこのことだと、妖夢は安堵の息を吐く。まだ残された手段はある、足掻く方法がある。ならば、出来ることをするべきだ。
“ねえ妖夢? さっきからどうしたの?”
「ひゃあああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
冥界に妖夢の悲鳴が響き渡った。
慌てて妖夢は納屋の扉を閉め、背中を扉に当てた格好で振り向く。視線の先には西行時幽々子が両耳を人差し指で塞いで目を閉じていた。散歩か何かで、様子を見に来たのだろうか。
「お、おおお……脅かさないで下さいよ、幽々子様。吃驚したじゃないですか」
「吃驚したのは私の方よ、妖夢? 何なのよ、いきなりもの凄い声出して」
非難がましい視線を向けられながら、妖夢の心臓がばくばくと脈打つ。
息も絶え絶えに、妖夢は作り笑いを浮かべた。
「あはは、申し訳ありません幽々子様。ちょっと考え事をしていたところに声を掛けられたもので……」
そして何事もなかったかのように、再び幽々子に背を向け、妖夢は倉庫の扉に鍵を掛けた。横目で幽々子の表情を確認する。どうやら、怪しまれた気配は無いようだ。
「それと、すみません幽々子様。ちょっと用事を思い出したので、少し下界に行ってきます。それでは、失礼します」
「え? あ……うん……」
そそくさと、妖夢はその場から逃げるように立ち去った。
その背中を見ながら、幽々子は溜息を吐いた。
「まったくもう、未熟なんだから」
帰ってきたらたっぷりとお説教しなければいけないと、幽々子は苦笑を浮かべた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
妖夢は自分の幸運に感謝した。
ひょっとしたら今日は遊覧飛行の日かも知れないと恐れたが、そんなことは無かった。大急ぎで命蓮寺に駆け込む。
境内を抜け、本堂へと向かった。
読経が聞こえないと言うことは、今はひょっとして誰もいないのだろうか? そんなことを思いつつ、妖夢は本堂の中を覗いた。
本堂の中では一人の尼が雑巾掛けしていた。どうやら読経の時間は終わり、今は掃除の時間のようだった。
「あ、あの。すみません」
「あら? どうされました?」
妖夢は本堂の外から、聖に軽く頭を下げた。
「突然にお邪魔して申し訳ありません。ええとその……私は冥界で西行寺家の庭師をやっている魂魄妖夢と申します。実はナズーリンさんにお願いしたいことがありましてこちらに参ったのですが、ナズーリンさんはおられるでしょうか?」
聖は額の汗を拭い、その場から立ち上がって妖夢へと近付く。そして、ちょっと困ったような表情を浮かべた。
「冥界からですか、随分と遠いところから来られたんですね。どうやらお急ぎの様子ですが……生憎、ナズーリンは用事があって出掛けているんです」
「……え? 留守……なんですか?」
先日渡された天狗の新聞にナズーリンのことが書かれていたのを思い出し、彼女を頼りにここに来たのだが……。
妖夢はがっくりと崩れ落ち、その場に膝をついた。
「あの? 大丈夫ですか?」
「あ……はい、大丈夫……です」
しかし、そう言う妖夢の口調は全然大丈夫ではなくて……。到底、放っておけるようには聖には見えなかった。
「魂魄妖夢さんと言いましたね。私は聖白蓮と申します。こちらで住職を務めております。よろしければ、ナズーリンが帰るまでお話だけでも聞かせて頂けないでしょうか?」
聖の申し出に、妖夢は一瞬迷った。
しかし、首を横に振る。自分が悪いのだとは分かってはいるが、それでも出来るだけ恥を晒したくはなかった。
「い、いえ……それには及びません。あの、申し訳ありませんが、ナズーリンさんがどちらに行かれたか、ご存じないでしょうか?」
「そうですか? ええと……確かナズーリンは南の方へ飛んでいったはずです」
「南の方。……とすると、魔法の森か、もう少し先の妖怪の山か……」
妖夢は立ち上がった。いつまでもこんなところで立ち止まっているわけにもいくまい。
妖夢は聖に頭を下げた。
「教えてくれて、ありがとうございます。これから、私も南の方へ向かいます。それでは、失礼します」
「いえいえ、私の方こそ、お役に立てたかどうか……。気をつけて下さいね?」
「はい」
妖夢はその場から急いで飛び立ち、南へと向かった。
その後ろ姿を見送りながら、聖は苦笑を浮かべた。
「まったく……未熟ですね」
突然やってきた従者の強張った表情からは、焦燥と恐れがありありと読みとれた。
その様子は、宝塔を無くしたときの星とそっくりだった。
事の経緯は、後でナズーリンに聞いてみよう。慌てていたあの少女はそんな考えにも至らなかったのだろうけれど。
「そして、素直に打ち明けてもらえない私も、まだまだ未熟ですね」
だからこそ、自分にはまだまだ修行が必要なのだと、聖は頷いた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
狭い狭い幻想郷。
とはいっても、人一人を捜すにはやはり広い。
妖夢は魔法の森を通り過ぎ、妖怪の山へと辿り着いてしまった。ここに来るまで、ナズーリンらしき人影は見あたらなかった。
しかし、だからといってそれで諦めるつもりも無い。妖怪の山に来たのも、まったく当てが無いわけでもない。
妖夢は、新緑の鮮やかな緑に覆われた白い渓谷をゆっくりと飛行する。
「ちょっとそこのあなたっ! ここは妖怪の山です。人間は立ち入りを禁止ですっ! 今すぐ立ち去って下さいっ!」
妖夢の上空から、鋭い声が降り注いだ。
その声の主を見上げ、妖夢はその場に停止した。
白い上着と、赤と黒のスカートを履いた声の主が、妖夢の傍へと降りてくる。それは、小柄な体格には似つかわしくない大きな盾と、肉厚の剣を持った白狼天狗だった。
「いえ、すみません。私はここに用が有って来たんです。ええと……犬走椛さんでしょうか?」
椛は小首を傾げた。
「確かに私は犬走椛ですが……。あなた、どうして私のことを知っているのですか?」
「よかった。私は魂魄妖夢といいます。冥界で西行寺家の庭師をやっています。今日は椛さんに用があってここに来ました。その……あなたのことは、文々。新聞っていう新聞で知りました。それで、椛さんならだいたいここら辺にいるだろうと思いまして」
「文々。新聞……ですか」
今度は、あの鴉天狗は一体何を書いたのだろうかと、椛は怪訝な表情を浮かべた。
その一方で、改めて妖夢の傍に浮かんでいる半霊に椛は目を向けた。そういえば、冥界に住む半人半霊の庭師のことは、文々。新聞の記事で見たことがあった。半人半霊などという存在がそうそうそこらにいないことから、目の前の少女は、名乗った通り魂魄妖夢で間違いないのだろう。
こうして、仕事の管轄まで明かしているとは、一体どういう事なのかと……危機意識とかそういうのはどうなっているのだろうかと、椛は文に対して心の中で溜息を吐いた。
取り敢えず、妖怪の山に対する害意は無さそうなので、椛は話を聞くことにした。
「まあいいですけど、私に何の用なんですか?」
「あ、はい。ちょっとお願いが……その、椛さんは目がいいんですよね? 確か、『千里先まで見通す程度の能力』を持っているとか」
「んん? まあ……そうですけど」
「それでですね? 朝から、こっちの方にダウジングロッド? とかいう二本のL字型の棒を持った鼠の妖怪が飛んでいるのを見かけなかったでしょうか?」
「鼠の妖怪? こっちにですか?」
椛は数秒、虚空を見上げた。
「う~ん、ごめんなさい。そんな報告は私には届いてないです。それに、私も見た覚えは無いです。確かに、見ようと思えば千里先を見ることは出来ますけど、基本的には妖怪の山への侵入者でなければ注意を払わないっていう感じですし」
朝からほとんどの時間は大将棋で暇を潰していたとは、言わないでおく。
「そ……そうなんですか、それは……はあ、困ったなあ。いえ、椛さんが悪い訳じゃないですし、私が無理を言って押し掛けてきただけなんですけど」
妖夢はがっくりと肩を落とした。
それを見て、椛は頬を掻く。
「あの、人捜しならそれこそ文さんにでも頼んでみたらどうです? 妖夢さんも何度かあの人の新聞で記事になっていたから、お知り合いなんですよね? あの人なら、幻想郷のあちこちを飛び回っているから、その妖夢さんが捜している妖怪のことも見かけているのでは?」
「……うぅ」
椛の申し出に妖夢は呻き、顔をしかめた。
「あれ? 何かまずいことでも?」
こくりと、妖夢は頷いた。
「ええ……それはちょっとまずいというか……。あの人に知られたら、こう……また変に記事にされたりしないかなあっていうかですね? そんな訳で、あまり……頼りたくないなあって」
それを聞いて、椛は苦笑を浮かべた。
「なるほど……その気持ちはよく分かります。いつもあることないこと、こっちのプライバシーとかそんなのお構いなしに記事にしますし」
「そうなんですよね。だから、まずは椛さんを頼りにしてきたんですが……」
仕方ないので、やはり文に聞いてみることにしようと、妖夢は小さく嘆息した。それはそれで、頼み事をするのにちょっとリスクがありそうだが。
“清く正しい新聞記者に、非道いこと言うものですねあなた達は”
突然聞こえてきた声。
それは間違いなく、射命丸文のものだった。
天狗の耳は地獄耳? というか、いつから聞いていた事やら?
しかし、そんなことを考えるよりも早く、妖夢は動いた。
いつの間にか死角に立っていた文の姿を見付けるのと同時、鞘から楼観剣を抜いた。そのまま、空気を切り裂きながら振り抜く。
「……なっ?」
楼観剣は文の姿をすり抜け、妖夢は腕を上げた格好で止まった。
「残念、それは残像です」
今度は頭上から文の声が聞こえ、妖夢は上を見上げた。
……しかし、そこにも姿は無い。いったいどこに?
妖夢は困惑する。
「ふむ……緑の縞々ですか」
「ひゃわっ!?」
下から聞こえてきた文の声に、妖夢は真っ赤になって慌ててスカートを押さえた。その下で、文がにやにやと笑みを浮かべながら、メモ帳に筆を滑らせていく。
「椛は……いけませんねえ、褌萌えなんて少数派ですよ? ここはもっとセクシーに……うわっち!?」
椛が赤くなりながら文に弾幕を発射し、文は慌てた素振りを見せてそれをよけた。
渓流に弾幕が落ち、激しい水飛沫を上げた。直撃していたら、ただでは済まなかったかも知れない。
「盗み聞きなんて、行儀が悪いですよ? 文さん?」
「陰口も似たようなもんだと思いますけどねえ?」
睨む椛を文は涼しい顔で受け流した。
「それで妖夢さん? どうやら人捜しのようですが、何か面白い話でもあるのでしょうか? 毎度おなじみ、ネタ有るところに私有り、清く正しい射命丸です」
妖夢や椛と同じ高さまで浮かんで、文は笑みを浮かべた。
「べ、別に面白い話なんてありません。ただ、私はナズーリンさんに用があるので、見かけていたら教えて欲しいと思っているだけです」
それを聞いて、文はふむふむと頷いた。
「なるほど、では次の新聞は『春の流行はこれで決まり! 乙女のインナー大特集号』でいきましょう」
「どうしてそうなるんですかっ!?」
「妖夢さんが素直に答えないからですよ。んっふっふ~」
小馬鹿にしたような笑みを浮かべる文に、妖夢はぎりぎりと歯噛みして見せた。
そんな妖夢を数秒眺めて、文は軽く肩をすくめた。
「何かお悩みですか?」
「悩みって……そんなのは別に――」
「さっきの太刀筋を見れば分かります。雑念にまみれていましたよ? 目に頼り、耳に頼り、私の動きを読むことも捉えることも出来ず……。明鏡止水とはほど遠い。五感も心も鈍っています。普段のあなたの剣とは大違いです。おおかた、私を脅迫……とまではいかなくても、結構強引にお願いするつもりだったんでしょうが、そんな状態じゃ無理ですよ」
それは……そうかも知れない。
少しだけ頭を冷やして、妖夢はさっき振るった剣を思い直す。それは文の指摘通りで、決して褒められたものではなかったと、評価を下した。
妖夢は楼観剣を鞘に収めた。
「私はこれでも、誰かが傷付いたり、事件が大きくなるように煽るような記事は書いていないつもりです。新聞の書き方については閻魔様にたっぷりとお説教を頂いていますし、そもそもそういうのは私の性にも合いません。妖夢さんが本気で記事にされるのが嫌なら、そんなのは記事にはしませんよ」
「じゃあ『乙女のインナー大特集号』もやらないんですよね?」
ジト目で見る椛に、文は苦笑いを返した。
「はいはい、あれはあくまでも冗談です。特集のために紅魔館あたりに忍び込んだら、跡形もなく消されそうですし」
「どこまでが冗談か分からないから、不安なんですよあなたは」
椛は嘆息した。
「……文さん、先ほどは失礼しました。そして、恥を忍んでお願いします。後で、私に出来ることであればお礼もします。もし、ナズーリンさんの居場所をご存じでしたら、教えて頂けないでしょうか?」
頭を下げる妖夢を見て、文は頭を掻いた。
「もうちょっと言いたいこともありますが……頭を下げられちゃ、断れませんね。いいですよ。ナズーリンさんの居場所は知りませんが、捜すのを手伝いましょう」
それでは、飛ばしますよと文は妖夢の腕を掴んだ。
その途端、妖夢の視界が一変する。
遙か後方で「速度違反です。待ちなさ~いっ!」と椛が怒鳴っているのが聞こえた気がした。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
妖夢と文が妖怪の山を飛び立った十数分後。
魔法の森から人里の間に広がる田畑。それらを貫くあぜ道に、彼女らはいた。
「……まさか、本当にもう見付けてしまうとは」
「ふっふっふっ。天狗earは地獄耳。天狗eyeは千里眼。そして天狗noseはどこだろうとネタの匂いを嗅ぎ付けるのですよ」
超高速飛行で連れ回されてふらふらになりながらも感心する妖夢を前に、鼻を高々と伸ばして文は腕を組んだ。
「それで? 君達は何の用なんだい?」
妖夢と文の前には、ナズーリンと寅丸星が立っていた。
「あ……はい。実はナズーリンさんにお願いがあるんです。私は冥界で西行寺家の庭師をしている魂魄妖夢と申します。ちょっとその……落とし物をしてしまいまして、探して欲しいんです。お礼はします」
「探し物ねえ。見たところ随分と急いでいるようだけれど、そんなにも大事なものなのかい?」
「はい、仕事の上で、本当に大切なものなんです。それに……幽々子様から預かったものですし……」
「預かりもの? 無くした?」
ぴくりと、ナズーリンは目を細めた。
その静かな、そして鋭い口調に、妖夢は一瞬身を固くした。
「あの……?」
難しい表情を浮かべるナズーリンの態度に、妖夢は気まずいものを感じた。ナズーリンの隣で、星が苦笑を浮かべながら頬を掻いていた。
「妖夢さん。つかぬことを伺いますが、その無くし物は幽々子さんにちゃんと伝えたのでしょうか?」
びくっ! と妖夢の身が震えた。
妖夢の視線がナズーリンや星から外れる。
「エエハイ、勿論報告シマシタヨ」
その様子を見て、星は苦笑を浮かべた。ナズーリンはこめかみに人差し指を押し当てた。
文は妖夢を素直な少女だと思っていたが、まさかここまで嘘が吐くのが下手だとは思っていなくて……笑うのを堪えることが出来なかった。
自分なりに出来るだけ自然に返したつもりだったが、上手くいかなかったことは明々白々で、妖夢は顔を赤くして俯いた。幽々子に報告するということと、怒られるというイメージが直結していて、その動揺を抑えることが出来なかった。
ナズーリンは大きく溜息を吐いた。
「分かったよ。君の言う無くし物は、後で探してみるよ」
「本当ですかっ?」
妖夢は表情を輝かせた。彼女にはナズーリンの背後に後光が差しているように見えた。
「だけど、一つ条件がある」
「はい。私に出来ることなら何でもしますっ!」
意気込みを伝えるように、妖夢はナズーリンに何度も頷いて見せた。
“まず、きちんと君の主である幽々子さんに、無くしたことを白状するんだ”
それを聞いた直後、妖夢の体は硬直した。
彼女の瞳から光が失われ、意識が遠のく。ここまであちこちを飛び回ったのに、結論がそれかと思うと、目の前が暗くなった。
「そ……そんなぁ」
ついさっきまではそれこそ仏様の様に見えたはずなのに、妖夢にはナズーリンが悪魔の様に思えた。後光は消え失せ、その代わりにどす黒い霧を背負っているように感じる。
「そんなの無理です。だって……幽々子様、怒ったら本当に怖いんですよ? この前だって、無くしたのがばれたとき、本当にそれはもう……。これでまたばれたら……今度は……うあ……ああ……」
震えながら頭を抱える妖夢を見て、星は微笑んだ。
「妖夢さん。いけませんよ。そうですね……何がいけないのか。どうして、以前に無くしたときに、そんなにも怒られたのか分かっていますか?」
「……え? それは勿論、無くしてしまって……その、ずっとそのままにしてしまって……」
恐る恐る答える妖夢に、星は首を横に振った。
「違いますよ。では、もう少し別の訊き方をしましょう。あなたはそのとき、どうして無くしたままにしてしまったのですか?」
「さ……探そうとして、何度も探したけれど見つからなくて……、それでいつの間にか……忘れちゃって……」
その答えにも、星は首を横に振った。
「それでよかったと思いますか? そのときのあなたの行動は、従者として正しいものだったと言えますか?」
星の問い掛けに、妖夢は押し黙る。
従者として、間違っていた。そうだとは思う。しかし、それを口に出すことは出来ない。認めることが恐ろしい。自分が間違っていたと認めれば、きっと怒られるだろうから。
そんな妖夢の心を見透かしたように、星は小さく嘆息する。
「そうですね。あなたの行動は『間違っていた』。そのことは分かりますね?」
こくりと、妖夢は頷いた。
「では、あなたはまず、どうするべきだったと思いますか?」
妖夢の手が震える。
つくづく、自分の心の弱さ、未熟さが嫌になる。
「幽々子様に……きちんと、報告すべきでした」
「そうですね。ちゃんと分かっているじゃありませんか」
「……はい」
「きっと、幽々子さんもあなたが大切な仕事道具を無くしたことではなく、いつまでも報告しなかったから、そんなにも怒ったのですよ」
「そう……なのでしょうか?」
恐る恐る訪ねる妖夢に、彼女の傍らに立つ文が頷いた。
「ねえ妖夢さん? あなた、大切な仕事道具を無くして、その間お仕事はどうしたんですか?」
「それはその……ええと、前回も今回も無くしたのは人魂灯っていう幽霊を導くための道具なんですが……それが無いから、仕事はずっと滞っていて……。結局、お説教の後で幽々子様が人魂灯の灯を点けて、そうしたら幽霊が集まるから私が探しに行って、それで見付けました」
「なるほど。つまり、最初から素直に報告していれば、直ぐに人魂灯とやらを見付けることが出来て、仕事を止めることもなかった……と。そういうわけですよね?」
「うぅ……は、はい」
まったくもって反論のしようがない。呻くことしかできなかった。
「つまり、きちんと相談すれば、最初から問題を解決することが出来たんです。もしこれが原因で、本当に大変な事件になっていたらどうしますか?」
「それは……その……わた……私は……」
そんなとき、自分にはどうしようもない。
妖夢は自分の無責任さを思い知らされた。
「恐い気持ちは分かりますが、悪い報告ほど、早く正直に言わなくてはいけません。分かりましたね?」
「はい。分かりました」
星の口調はそれこそ諭すもので……だからこそ、妖夢の心の奥まで沁みていった。
妖夢は深く、星に頷いた。
どうやら分かってくれたらしいと、星も満足げに頷いた。
「でも、どこも同じなんだねえ」
「え?」
再び妖夢が顔を上げると、ナズーリンが口に手を当てて、くすくすと笑っていた。
「いやね? 私達がこうして出歩いていた理由なんだけれどね? 実はご主人殿が大切な宝塔を無くしてしまったんだよ。それで、一緒に探していたわけさ。幸い、直ぐに見つかったけれど」
「先日、守矢神社へ用事があったので出かけたのですが、その帰りに落としていたようです。お恥ずかしい。さっきの話も、実は私が聖に言われた話そのまんまだったりします」
顔を赤らめながら、星は首筋を掻いた。
「それだけじゃない。これでもう何度目だったか……しかも、聖に黙って……。昨晩、私を無理矢理連れ出してこっそり寺を出ようとしたところで、聖に見つかって大目玉だったんだ。えらそうに説教出来る身分じゃないよ。私も一緒に怒られて、とんだとばっちりさ」
「なっ? ナズーリンっ? 無理矢理じゃないでしょうっ!? 『やれやれ、仕方ないなあ』って、二つ返事でOKしてくれたじゃないですかっ! だからナズーリンも聖に怒られたんでしょう? 『星を甘やかしすぎる』って。いえ、感謝してますけどっ!」
「五月蠅いっ! だいたい、ご主人殿が素直に白状していれば――」
「だってっ!? 仕方ないでしょう? 聖が怒ったらどれだけ恐いか、ナズーリンも知っているじゃないですかっ!」
ぎゃあぎゃあと喚き始める星とナズーリンを見ながら、妖夢は曖昧に笑みを浮かべた。
そんな妖夢の肩を文は叩いた。
「まあ、そんなものなので、そこまで深く落ち込む必要はありませんよ。もっとも、反省は必要ですし、もう繰り返さないようにする必要はありますけどね」
どうやら、星とナズーリンは彼女らなりに妖夢の気を楽にさせようとしたつもりらしい。
妖夢は落ち込んでいた気分が少しだけ晴れた気がした。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
冥界。西行寺家の屋敷。
桜の花びらの舞う縁側に、幽々子は座っていた。傍らにお茶と菓子を置いて、妖夢を見詰めている。
「――幽々子様。本当に申し訳ありませんでした。人魂灯をまたもや無くしてしまったこと、そして直ぐに幽々子様に報告しなかったこと。反省しております」
誠心誠意、心を込めて妖夢は主に頭を下げ、報告と謝意を伝える。
緊張する。恐怖に心が震える。しかしそれでも、自分は従者なのだ。従者として、主に背き、自分に与えられた役目を蔑ろにすることは出来ない。
幽々子は深く溜息を吐いた。
その吐息に、妖夢の心臓は大きく震えた。
この時間が、ほんの数十秒か数分のはずなのに……まるで永遠のように感じられる。
「妖夢。顔を上げなさい」
「は、はい」
恐る恐る、妖夢は顔を上げた。
そして、びくりと顔を強張らせた。
その表情は蒼白で、目は大きく見開かれていた。
がくがくと膝が震える。立っているのがやっとだ。
そんな彼女の視線の先で、幽々子は笑みを浮かべていた。般若の笑みを。
その背中にはゴゴゴゴ……という効果音と共に雷雲が渦巻いていた。
すうっ……と大きく幽々子は息を吸った。
それを見て、妖夢は深く後悔した。
やっぱり素直に謝るんじゃなかった。自分は何て楽観的に物事を考えていたんだ。そうだ、何事も最悪を想定して動くべきだったんじゃないか。
幽々子が勢いよく立ち上がった。
“ぎゃお~っ!! 食~べちゃ~うぞ~っ!!”
「ひいいいいいぃぃぃぃっ! ごめんなさいっ! ごめんなさいっ! ごめんなさいっ!ごめんなさいっ! ごめんなさいっ! ごめんなさいっ! ごめんなさいっ! ごめんなさいっ! ごめんなさいっ! ごめんなさいっ! ごめんなさいっ! ごめんなさいっ! ごめんなさいっ! ごめんなさいっ! ごめんなさいっ! ごめんなさいっ!!ごめんなさいっ! ごめんなさいっ! ごめんなさいっ!」
幽々子が立ち上がるのと同時、反射的に妖夢は土下座した。
「……って、え??」
何かもの凄い違和感を覚える台詞を聞いた気がして、妖夢は顔を上げた。
妖夢の目の前で、幽々子は両腕を上げた……熊のような格好で固まっていた。
困惑する表情を浮かべる妖夢を見て、満足げに幽々子は微笑む。腕を下ろして、再び縁側に座った。
「素直に白状するのが遅れたから、その分は減点ね。まあ、間違いに気付いたようだから、特別にお説教はこれくらいで勘弁してあげるわ」
長い付き合いだ。生真面目なこの少女に、人を欺く様な真似は出来ない。やった場合はどうしても行動や言動が歪になる。そう、今朝に倉庫の前で見せたように。非常に分かりやすい。
そして、だからこそ、ある意味で幽々子は妖夢のことを信用している。
「あの……許していただけるのでしょうか?」
「ええ、どうやら深く反省しているようだし、間違いにも気付いたみたいだしね。でも妖夢? 反省しているのなら、もう二度とこういう事はしないように。あと、無くし物もしないように何らかの手立てを考えること。いいわね? 人魂灯の灯は点けておくから、お昼ご飯の後に探しに行きなさい」
「は、はいっ! ありがとうございますっ!」
もう一度、妖夢は土下座の格好で頭を下げた。
緊張が解けて、その反動で涙が零れた。
その涙を拭いながら、妖夢は立ち上がった。
「それにしても妖夢?」
「はい?」
「そんなにも私って恐いのかしら?」
ちょっぴり恨めしそうに妖夢を見ながら、幽々子は肩を落とした。
そんな主を見て、どう答えたらいいものだろうかと、妖夢は顔をしかめる。
普段は……悪戯好きで何を考えているのかまるで分からない困った主ではあるが、決して粗暴でも横暴でもない。しかし、怒ったときは……どうなのだろう?
「はあ……妖夢ってば、悪い報告をしたら私がそれだけを理由に妖夢を怒鳴りつけるような主人だって思っているのね。主として肩身が狭いわ。私なりに優しくしてきたつもりなのに、寂しいわね」
「いえ幽々子様っ! 決してそんなつもりでは……。その、すべては私の未熟故ですから……」
「未熟。そうね……妖夢が未熟なままなのも私のせいよね。妖忌に何て言えばいいのかしら」
よよよ……と、扇子で顔を覆う幽々子を見ながら、どうせまたこれも自分を弄って遊んでいるんだろうなと妖夢は思う。
しかしそれでも、彼女に言える言葉は一つしかなかった。
「ええと……精進します」
そんな妖夢を見て、幽々子はくすりと笑った。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
人魂灯を持って、妖夢は再び命蓮寺を訪れていた。
「と、いうわけで無事に許しをもらうことが出来ました。人魂灯も見付けることが出来ました。本当に助かりました」
境内の中で、ナズーリンと星、そして文に向かって妖夢は頭を下げた。
「いやなに、すべては正直に報告した君の勇気の賜物だよ。私達が言った事なんて、ささいなきっかけさ」
「でも、無事に見つかってよかったですね。どこにあったんですか?」
「地底にありました。以前に地下から怨霊が湧いた異変の後、その怨霊達と一緒に、元々冥界で管理していた幽霊もつられて地下に行っちゃっていたんです。それで、彼らを迎えに先日は地下に行ったんですが、そのときに忘れていったみたいです。そのうち取りに来るだろうと地底の妖怪が保管してくれていました。地底の妖怪がそう易々と地上に出るわけにもいかないみたいで、迷惑かけてしまいました」
照れくさそうに笑う妖夢が持つ人魂灯を文はしげしげと見詰めた。
「それが人魂灯ですか。ふむふむ……」
「あの……文さん? お願いですから、私がこれを無くしたっていうことは記事にしないで下さいよ?」
「しませんよ。約束ですからね。宝塔と同じく、幻想郷の秘宝や珍品として紹介するに止めますよ。あと、落とし物として見付けたら直ぐに連絡するように書いておきます。さもなくば、恐ろしい目に遭っても知りませんよってね。まあ……私の知る限りでは、幽霊を恐れる人間ってそんなにいない気もしますけどね?」
宝塔についても、文は同様に拾ったら直ぐに届けるように書くつもりだった。
ちなみに、人魂灯には灯が点いた状態なので、沢山の幽霊が周囲に集まっているのだが、命蓮寺に来ている人間も妖怪も誰も恐れている様子は無かった。昼間だからだろうか。
「そういえば文さん?」
「何ですか?」
「ナズーリンさん達を捜す前に『もうちょっと言いたいこともありますが』って言ってましたけど、ひょっとしてこういう事って文さんにも覚えがあったりするんですか?」
「あや? ……覚えてましたか。口を滑らせる物じゃないですねえ」
文は微苦笑を浮かべた。
「別にそんなにも深い意味は無いですよ。事情も話さずに頼み事をするなんてのは、後ろ暗いことがあるんだろうなあって思ったっていうだけの話です。そして、そういうときは何らかの失態を隠そうとしているんだろうなって。……恥ずかしい話ですが、私にも覚えはありますよ。大天狗様にでっかい雷を落とされました」
厳格な縦社会を築いている天狗にとって、そういう報告はとても重要なのだ。「まったくもって、ストレスが溜まります」と文は漏らした。
「まあ、そんなわけで、ちょっと放っておけなかったんですよ」
照れくさそうに、文はそう言って笑った。いつも好き勝手に動いているように見えるが、案外と面倒見のいい面も持っているのかも知れないと妖夢は思った。
「では、すみませんが今日はこれで失礼します。文さん、人魂灯の取材はまた後日にお願いします。早く帰らないとまた幽々子様に叱られてしまいますから」
「そうですか。では、今度はまた時間があるときに寄って下さい」
「はい」
妖夢は頷いて、沢山の幽霊達を引き連れながら冥界へと飛び立っていった。はぐれる幽霊がいないか、ときどき確認しながら。
その後ろ姿は、ちょっぴり成長しているように、命蓮寺に残った三人には感じられた。
―END―
しかし、ゆゆ様のおしおき……ゴクリ
こうやって成長していくのだと思います。妖夢、頑張れ
>9様
幽々子様によって妖夢は「女」を知ったのでした(おい
>10様
自分は幽々子様にお仕置きされたいです
お読み頂いた皆様、本当に有り難うございました。