『た~の~し~い。な~か~まが。ぽぽぽ……』
みなまで言わせない。
こいしの小さな手に握られていたマイクロウージーから火柱があがった。
さすがはサブマシンガン。どこぞのイングラムと違って、集弾性もなかなかのもの。
毎分1400発という高速度で発射された弾丸は、ラウンジに置かれたテレビデオの中をめちゃくちゃに走りまわり、あっけなく機能停止に追いこんだ。
プスンという音がでないのがちょっと不満だ。
でも壊れた。
目標は達成されたとみるべきだろう。
ふぅ、という溜息。
「げげっ! なにしてるんですか。こいし様」
「ん?」
振り向けば、お燐がいた。
顔には焦りの色がにじんでいる。
「どうしたの。そんな慌てた顔して」
「いや、こいし様。つい先月89800円という高額で、しかも割賦12ヶ月払いのテレビデオを破壊遊ばしめているのがどうしてなのかなぁと思いまして」
「ああ、そんなこと」
こいしはマイクロウージーを投げ捨てた。
お燐がびっくりするも、すでにセーフティロックを効かしている。問題はない。
「なにか、テレビデオから洗脳番組が流れてきてたの。危なかったわ。もう少しで頭の中が狂気にみたされるとこだった!」
「な……なるほど。しかしですね。テレビデオを壊したのはやっぱり、ちょっとばかし……まずいのではないですかね」
「でも、地霊殿のみんなが洗脳されるのはもっとまずいわ!」
「いや……しかし、さとり様に怒られますよ」
「お姉ちゃんが? どうして?」
「そりゃ……、物を壊すのはダメでしょう。もったいないお化けがでますよ」
「もったいないお化けなんて、ペットにしてしまえばいいじゃない」
「そういう問題じゃなくてですね……」
お燐が頭をかかえている。
どうしてなのか、さっぱりこいしにはわからない。
でも、さとりに叱られるという言葉には、なにか胸の奥にもやもやとしたものを感じた。
姉に限らず、ほとんどすべての存在との価値観の違いは、とりあえずインプットしている。けれど、そのやり方は演繹ではなく帰納法的な手法で、未知の事柄が発生する可能性は常にあった。要するに一般人がどういう心理を抱くかということに関して、経験からおよその予測はできるが、常に予測が裏切られる可能性があることを、こいしは理解していた。
だから、お燐が言った『さとりに怒られる』という可能性は非常に高いと思われる。
どうしてなのかさっぱり理解できないが、そうなるらしいということはわかった。
わかったところでどうにもならない。
こいしにはほとんど自我らしい自我がないので、怒られたところで、常にテレビの向こう側の出来事と同じだ。
しかし、それでも――。
それでも、さとりの声で叱られるのは、ちょっともやもやするのだ。
そのもやもやを回避したいと思った。
イドの発露である。
「ねえ……お燐。わたし考えてないようでいろいろと考えているんだけど」
「はい?」
「お燐はお姉ちゃんのペットで、やっぱりお姉ちゃんのいうことを一番に聞くわけよね」
「ええ、そうですけど」
「つまり、例えば私がお姉ちゃんにこのことは黙っててと言ったところで、やっぱりお燐はお姉ちゃんに報告しちゃうわけかしら?」
「それは……そうですよ。というか、こんな明らかにぶっ壊れているのに黙ってることなんてできないでしょう」
しかし、こいしはその言葉はすでに予測ずみだったのか、ぼーっとした表情で前を向いている。
コツ、コツという足音。
そして、お燐のほうを向いた。
「ねえ。お燐。私は考えてないようでいろいろと考えているの」
「さきほどお聞きしましたけど」
「考えているようで考えてないときもあるんだけど」
「そうなんですか?」
「そう、私は無意識を操ることができるから」
「無意識は便利ですもんね。わかりました。こいし様。これは要するに故意がなかったということですね?」
「恋はいつだって満ち溢れてるわ」
お燐は深い溜息をついた。
「不注意で壊してしまったということにしませんかとご提案しているんです」
「不注意で9ミリパラベラムを20発ほど撃っちゃったということにするわけね。素敵な提案だわ」
「にゃはは……」
額に汗。
こいしは微笑を浮かべる。
「ねえ。お燐。私は無意識をいろいろと操ってわかったことがあるのだけど」
「はい?」
「どうも無意識というのは『繋がって』るらしいのよ」
「おっしゃってる意味がよくわからないのですが」
「私の無意識とお燐の無意識は同じなの」
「はぁ……そうなんですか」
よくわかっていない顔だ。
そういう顔をしていることはデータから参照できる。
こいしはもう少し説明することにした。
せめて説明責任ぐらいは果たそうというエゴがあらわれてきている。
「もっとわかりやすい比喩表現をすれば、無意識は神さまなの」
「余計わからなくなりました」
「そう。じゃあ何ができるか端的に述べるとね。私はあなたの無意識を操って思いのまま動かせるわ」
「さとり様の催眠のようにですか?」
「そんな児戯とは比べ物にならないぐらいの強度よ」
お燐がわずかに筋肉を硬直させているのがわかる。
こいしの観察眼は覚り妖怪特有のものだろう。心が見えないから、その外形をとらえようとする。外形的行為から内心を推測しようとする。
お燐がわずかに恐怖を抱いたであろう可能性を考える。その予想がはずれたことはほとんどない。
「ねえ。お燐。私、遊んだの。地上で白くてパタパタしてるのが飛んでて……」
そう、確かハトという名称だったはずだ。
お燐が身構える。
こいしはお燐を真正面から見据えた。
「綺麗だったの。だから近くで見たいと思ったのよ。私は墜ちたらいいなと願ったわ。そのとおりになったの」
「わかりました。じゃあテレビを壊したのは私ということにしましょう。それでよろしいですか」
「私の罪を勝手に取らないで?」
こいしは笑った。いつもと寸分違わぬ顔。
お燐は逃げようかそれともそのままこいしの遊戯に従うか逡巡しているようだった。
こいしは笑う。
そう、これも遊戯に過ぎない。
自我を無意識の中に埋没させる危険な遊び。
お燐の危機回避能力が極限までアラートを鳴らす。
しかし、遅い。
こいしは顔を半分ほど埋める大きさのあるサードアイをちょうど左目のあたりに置いて、絶対的強者として宣言した!
「古明地こいしの名において命じる。私を全力で見逃せ! そっちのお空も!」
その瞬間、電撃で撃たれたようにお燐の体がピクンとはねた。ついでに物陰に隠れていたお空も。
「イエス! ユア! ハイネス!」
ふたりの声が綺麗に重なった。
こいしは満足げにうなずいて、いつものようにお気楽な遊覧飛行に身を興じることにした。
もちろん、さとりには何が起こったのかバレバレであったが。
2
紅魔館地下。
「お姉ちゃんを殺す、殺さない、殺す、殺さない、殺す、殺さない……。ふむう。おかしいわ」
「なにがおかしいのかしら」
尋ねてきたのはフランドール・スカーレット。
最近になってこいしと昵懇の仲となった友達のひとりだ。
いま、こいしは薔薇の花弁をむしっていた。よくある花占いというやつである。
「あのね、フランちゃん。わたし、どうしてだかわからないけどお姉ちゃんに叱られそうなの」
「へえ。それで?」
「だから、お姉ちゃんに叱られないように、お姉ちゃんを殺してしまおうかと思うのだけど、花占いをすると、いつも殺さないってなっちゃうのよね」
薔薇を選ぶときに、無意識的な何かが働いているのかもしれない。
無意識の計算能力は個人の計算能力を遙かに凌駕しているから、一瞬の判断でさとりを殺さないような薔薇を選んでしまうのかもしれない。
つまらないが、その選択に抗おうという気力もない。
「フランちゃん」
「なによ?」
「フランちゃんが選んでくれないかしら。恋焦がれるような薔薇を」
「もともとはあなたの薔薇だけど……、あまり散らさないで欲しいわね」
そう、その薔薇はサブタレイニアン・ローズ。
こいしがフランに気まぐれに贈った青い薔薇である。今では植物の全能性とメイドの優秀な能力のおかげか、壁面にびっしりと生え揃っている。
そのなかの一本をフランは手に取った。
右手で花弁を優しく撫でていく。ゆっくりと舐めるように。それから、フランは花弁に視線を向けたまま言った。
「叱られるようなことをしたんでしょ?」
「叱られるようなことをしたのかしら?」
「わからないの?」
「わからない。私は一般論として通用されているような正義にしたがったの」
「正義なんて、またよくわからない言葉ね」
「叱られるってことは、私が不正をしたってことでしょう? 正義に値しないから叱られるってことでしょう?」
「たぶん、そうじゃないの?」
「正義とは計算のことだと思っていたわ。でも違ったのかしら?」
こいしは首を傾けて、フランに問いかける。
フランはこいしが本当にわかっていないようだったので、あえて薔薇は手渡さなかった。フランもそろそろ分別がつく年頃。小さなレディなのである。
「正義が計算ってどういうことなのかわからないのだけど」
「簡単なことよ。誰かが被る不利益と、誰かが得る利益を総合的に考量して、利益が不利益を上まわっていたら正義とする考え方。これなら、私でも計算できるし、まずまずまちがえることはないわ。あの狂ったCMによってみんなが洗脳されるという不利益に比べたら、テレビデオをひとつ壊すぐらいコラテラル・ダメージだと思ったの。つまり、私は正義の行為をしたつもりだったのよ」
「よくわからないけど、最初の前提の時点でまちがってる気がする」
「そうかしら?」
「そもそも、その洗脳という効果は本当なわけ?」
「本当よ。もしかすると洗脳しようという意図はないかもしれない。けれど、狂気を伝播する力はあるの。だって頭がフットーしそうだったもん」
「それってこいしだけなんじゃ……」
「ん。まあ影響力という意味では、わたし以外にはそこまでないかもしれないわね。なにしろ正常人は象徴界によってシールドされてるから、そんなに簡単に狂ってしまうことはないもの。でも効果という点で考えれば、影響はゼロではないわ。私は敏感なの。すごくビンビン感じちゃうの」
こいしは恍惚の表情になる。
フランも一時的には気が触れていたこともあるので、その感覚はわからなくもない。
「こいしは狂気に敏感だから、誰よりも早く狂気が伝染することを恐れたってことかしら。可能性の問題として危険を除去したかったってこと?」
「そう、利他的。私にしてはすごく珍しく正義論」
「本当に珍しいわね。あなたは自由を追い求めているように思ったのだけど」
「自由と正義は必ずしも対立するとは限らないわ。けれど、そうね。正義が計算だとすれば、フランちゃんが言うことも正しいかもしれない。ねえフランちゃん?」
こいしはここで、核心的な質問を投げかける。
「正義ってなんなのかしら?」
「ルール違反のことじゃないの」
「ふむう。確かにルール違反は叱られちゃうわ。でも、時々ルールを破っても叱られないこともあるし、それどころか褒められることもあったわ。ルールを超克するメタルールがあるのかしら。そうだとすると、メタルールを越えるメタメタルールもでてきそうね。みんなどうしてそんなに簡単に判別できるのかしら。フランちゃんも正義か否かの判別がつくの?」
「時々はわからないこともあるわ。でも、そのときはお姉様が教えてくれるの」
「フランちゃんにとっては、おねえさんの言葉が絶対正義なの?」
「そういうわけじゃないけれど、参考にはなるわね」
「けれど、フランちゃんはおねえさんの言葉を重視しすぎる傾向があると思うわ。洗脳されてるんじゃないの?」
「お姉様を悪く言わないで欲しいわね」
少しばかり怒気。
こいしはその怒りすらも頓着しない。
いや、本当はフランが怒りの感情を抱いていることを知っている。どうして怒るのかはわからないのだが、顔の表情筋やその他の仕草から怒りの感情を抱いているのはわかるし、おおよそレミリアのことを悪く言えば、フランがいやな気分になるのは経験上知ってはいるのだ。
けれど、今のこいしにとっては、フランの感情よりも自分の仮想的な理論のほうが重要だった。
なぜなら、仮想の理論を設立することができなければ、現実とのズレがますます激しくなってしまう。
遊離。浮揚。隔絶。
言葉のイメージとしてはそのような類。
こいしが現実を生きるうえで、他人と言葉を交わすことが困難になってしまう。今はデータの入力のほうが優先順位が高い。
「フランちゃんの正義は他者から与えられたものなのかしら。ルールは設定者のものなのかしら」
「よくわからないわね」
「よくわからないのに、判別がつくの? フランちゃんってもしかして天才さん?」
「それもよくわからないけれど……、とりあえず素直に謝ったらどうかしら」
「なるほど良い選択ね。私が謝ったらお姉ちゃんが許してくれる確率は今までのところ百パーセントだわ! すごいわ。どうしてわかるのフランちゃん。謝ることが正義なの?」
「それも違う気がするけど」
「違うのかしら。いままで私がごめんなさいって言ったら、だいたい叱られる時間が平均して謝らなかった場合に比べて8分34秒ぐらい短縮されたのよ」
「それは……えーっと、事後処理の問題じゃないかしら。こいしが悪いことしたってことは変わらないけれど、同じことをしないっていうこいしの意思を尊重して、叱る時間を短くしたんじゃない?」
「私には何が善いことで何が悪いことかわからないのに?」
「わかって欲しいのよ」
「それは無理な相談だわ」
「不可能ってこと? それともしたくないってこと?」
「……さぁ?」
「まあいいわ。ちょっとの時間ならかくまってあげる」
「レジスタンスするのね!」
「私は何もしないわよ。こいしがいたいならいてもいいってだけよ」
「私が正義だからかしら」
「知らないわ。薔薇に聞いてみたらどう」
フランは青い薔薇をこいしに渡す。
こいしはすぐに受け取って花占いを再開した。
「お姉ちゃんを殺す……殺さない……殺す……」
やっぱり、フランが選んだ薔薇も、殺さないを選択することになった。
その選択はずいぶんと恣意的なものだったけれど。
3
「ではこの問題は誰に解いてもらおうか」
慧音は寺小屋の中を見渡してみる。
生徒たちは一斉に気配を殺した。
こういうときに限って身を小さくするのは、一種の生存本能なのかもしれない。
慧音はなかば呆れ、適当ないけにえを選別しようと品定めをする。
しかし、その前に
「ハイ!」
勢いよく手があがった。
いままでまったく気づかなかったが、見知らぬ少女がまぎれこんでいる。
「君は……ん、確か地霊殿の」
慧音はすぐに気づいたようだ。
そもそも意識の外側からこっそり現われるという出現方法からして、そのような能力に心当たりがあるのが一人だったのかもしれない。
こいしである。きちんと帽子とブーツは脱いでいる。なんとなく今はルール違反をしたくない気分だったので、半紙に書かれてあった言葉に従ったのである。無断侵入の件についてはナチュラルにスルーしていた。
みんなの視線がこいしに集まる。
こいしはスクっと立ち上がった。
「せんせー、正義ってなにかしら?」
「いきなりなんだ?」
「正義の公理系を知りたいの。正義は普遍的なものなのかしら、それとも共同体に依存するものなのかしら」
「藪から棒だな。しかし、その知りたいという姿勢は妖怪も人間も関係なく素晴らしいものだ。私なりの答えだが、幻想郷に限って言えば、共同体を起源にしたものではないか?」
「本当に?」
「ああ。推論だがな。そもそも幻想郷に住む妖怪は人間に退治されることを受け入れているし、人間は妖怪に襲われることを受け入れているだろう。人間も妖怪もひとつの共同体として、ルールを設定しているんだ。だから、正義とはそのルールに反することじゃないかな」
「それはこの狭い幻想郷でのルールでしょう」
「そうだとしても、幻想郷の理に我々は誰一人例外なく縛られているわけだろう。少なくとも幻想郷のルールは実効力のある正義のひとつだよ。もしもその正義に反するような輩が現れれば、たちどころに正義の執行機関が裁きを下しにやってくる」
「博麗の巫女さんのこと?」
「ああ、そうだ」
「でも、どこかの随筆で読んだのだけど、確か、せんせーは博麗の巫女と戦ったって聞いたわ。せんせーはそのとき不正な行為をしたのかしら」
「ずいぶんと手厳しいな。ある一面ではそうだったのだろう。しかし、私にはここを守るという使命があるからな。私の立場からすれば、私の行為は正義に反してはいなかった」
「おかしな理論だわ。部分が全体に優先してはいけない。それが共同体の原理でしょう。共同体のなかに小さな共同体があることを許したとしても、博麗の巫女さんは幻想郷というコミュニティ全体の意思を仮託された存在じゃない。だったら、博麗の巫女に逆らうことは部分が全体に逆らうことと同じ、いわば左腕が私の意志に関係なく動くのと同じで、そんなの許されるわけがないわ。せんせーの正義は矛盾してる」
「正義というものは一面的には捉えきれないものなんだよ。私たちは因果を鳥瞰できるわけではない。そのときに最善の行動をとるしかない」
「じゃあ、あのときには正義だったけど、あとから考えたら不正な行為だったってこともあるのかしら」
「あるんじゃないか?」
「じゃあ、一方的に相手を不正だと決めつけるのは、常に間違いの可能性があるってことにならないかしら? そんな不確定な要素で叱られたくないはずよ。箱入り猫さんだって毒ガスで死にたくないはずだわ」
「ある程度の指標はある。まったく不確定というわけじゃない」
「定性的すぎる概念。正義が相対価値になってしまったら、それは堕落じゃないの?」
「ふむ……、難しい問題だな」
「それに共同体主義を起源にすえるということは、恵まれた者は最小限度の不自由は受け入れないといけないってことになるわ。妖怪は人間のためにスペルカードルールを採用しなくてはならない。妖怪は博麗の巫女を殺してはならない。妖怪は人間を人里で襲ってはならない。変な話」
「しかし、必要な規律ではある」
「共同体の共通善は、結局のところ共同体の存続を絶対価値に置くということでしょう。わたしはそんな不自由な世界は嫌だわ」
「おのおのの自由を最大化するために、わずかな不自由を受け入れるべきじゃないか。もしも妖怪が好き勝手に暴れれば、人間はすぐに死に絶えてしまう。そうなると妖怪も死に絶えてしまう」
「死に絶えちゃダメなの?」
「君は死にたいのか?」
「いいえ。でも死んでもべつにいいと思ってるの」
こいしはクリっとした瞳で、慧音を見つめる。
こいしの考えでは、やはり自由が一番重要だ。ふわふわと浮いているような状態で生きていきたい。くらげのようにふわふわと。
なにも考えず、思想も信条も心さえも無いままに。
ただ自由でありたい。
なぜ共同体のために、『こいし』の自由がわずかでも侵害されないといけないのか。
「ロールズの言う無知のヴェールなんて考え方。妖怪がいるこの世界では無理がありすぎるわ。妖怪は違うもの。人間とはなにもかも」
「しかし大多数の妖怪は受け入れているように思えるが」
「いや」こいしは拒絶した。「そんな世界認めてあげないわ」
それはこいしのイドだったのだろうか。
こいしは自我を無意識のなかに沈めているから、自分本位な発言なんてものは幻想にすぎないはずだ。
その意思は慧音との会話から、無意識の表面にさざなみが立ったようなものなのかもしれない。
いわば、ただの反射。
けれど、こいしの行為は外部的に見れば、明らかにエゴの爆発だった。
「古明地こいしが命ずる。みんな、私に従え!」
寺小屋にいた生徒たちは一斉にたちあがり、こいしに忠誠を誓った。
「イエス! ユア! ハイネス!」
4
わずか三時間ほどの間に、人里の制圧は完了した。
もともとは小さな村程度の大きさしかない場所である。しかも、慧音という人里の守護者が集まるように指示したため、こいしの洗脳《ギアス》も簡単にかけることができた。
夕暮れ時。
日の光が傾きかけ、影が長く伸びる時間帯。
普段なら夕食の準備に人影はまばらになるこの時も、人という人で溢れかえっていた。
いま、彼らは鬼のいない鬼ごっこに全力で興じている。
博麗霊夢がなにかしら妙な気配を感じ、人里に降りてきて最初に見たのは、人々が無秩序に走りまわる姿だった。
「これは……異変?」
異変というほど秩序だった意思を感じない。
それもまた十分に異変と呼べるレベルではあったが、普通、異変はなにかをしたいという意思の表れであることが多い。
例えば、紅い霧をだしたい。桜を開花させたい。隠れていたい。信仰を広めたい。手に入れた力を使ってみたい。大事な人を救いたい。あとは宴会したい、かまってほしいなんてものもあった。
対して、この異変には意思が感じられない。
なにをしたいのかよくわからない。
「話が聞けそうなやつが誰かいればいいけど」
下では突如、鬼役をすることに目覚めた人間が近くにいた人間をつかまえて鬼にしていた。
なんというかウイルスチックである。
鬼がどんどん増えて、鬼だらけになると、今度はその中から再び鬼(あるいは人間役かもしれない)が生まれて、次々と仲間を増やしていっている。
みんな全力で走っているせいか、春先だというのに汗だくだった。
なんとなく楽しそうですらある。
そのなかに見知った顔を見つけた。慧音である。霊夢は下に下りていき、慧音の腕をとった。もちろん慧音も全力疾走中だったので、動きを止めるのには多少苦労した。
「慧音。どうしたの、これ?」
「わが主が命じられたのだよ。霊夢」
「主?」
「ああ」
「主って誰よ。まさか妹紅じゃないでしょうね」
「そうではない。真の支配者。偉大なる古明地こいし様だ」
「こいし? あいつがやったのね」
「あいつ……だと? 不敬な発言だな。取り消せ!」
いつのまにか不穏な空気。
人々の動きがピタっと止まり、こちらを凝視している。
「こいしは人里の人間に手をだしたのね。完全なルール違反。退治する。こいしの居場所を知ってるなら教えなさい」
「貴様! こいし様に手をあげるか」「バカ巫女め」「貧乏巫女!」「脇しか特徴ないくせに!」「さのばびっち!」「もう博麗神社なんかにお賽銭いれてあげないんだからねッ!」
一斉に抗議の声があがる。
霊夢は小指を耳にあてて、その怒号を聞き流した。
「これが人間の姿よ。博麗の巫女さん」
霊夢が見あげる。
そこには左目のあたりに、サードアイをぴったりとくっつけた古明地こいしの姿があった。
霊夢が札をかまえる。
こいしはいつものように微笑みを浮かべた。
5
「人間は手を動かすことについては勤勉だけど、思考することについては怠惰だわ」
こいしは空中で胎児のように丸まりながら口を開いた。
ふわりふわり。
まるで方向性が定まらない少女の形をした球体。
「あなた、なにしてんのよ。人里に手を出すのは幻想郷の根本的なルールに反する行為よ。お次はなに? スペルカードルールなしの殺し合いでもする気?」
「それもいいかもしれないわ! さすが博麗の巫女さんは格がちがった!」
「あなたね。冗談ですませてあげるから、早くこの異常を収束させなさいって言ってるのよ」
「無理よ。私は無意識を操っただけ。いわば、神さまが望むとおりのことを実現させているだけ。今の彼らは完璧な自然状態。リヴァイアサンよ。殺し合いをするならすればいいし、それは完璧な自由でもあるわ。自由こそが正義なのよ」
「またわけのわからないこと言って……」
「博麗さんにとっては、自由は正義じゃないのね。やっぱり共同体主義なのかしら。スペルカードルールを制定したのは確かあなただったわね?」
「私はちょっとこうすればいいんじゃないって提案しただけ」
「共同体主義なの?」
「は?」
「つまり、最小限度の不自由で、最大限の自由を得ようとする考え方?」
「どういうこと?」
「あなたにとっての正義ってなんなの?」
「妖怪をしばくことよ」
「ざ・ん・こ・く」
「残酷で結構。残酷手当てが欲しいくらいだわ」
「でも、それだと正義がなにかの答えになってないわ。社会契約論は基礎に置いてるの? 功利主義なの? 共同体主義よりも普遍主義のほうがお好み?」
「つまり、あんたは自分を正当化したいから、私をダシにしたってことでいいのかしら」
「正当化?」
こいしは少しの間考える。
叱られたくないというのが根本だとすると、正当化したいというのはそうかもしれない。
もちろん、正義が何かわからなければ、日常生活からドロップアウトしそうなので、少しはそうでないことを求めるようなところがあった。
「でも不自由だわ。それ」
矛盾だ。
どうしようもなく。
自由であるために不自由であろうとするなんて。
しかし――
「そう。私はあなたの正義をエレメントモデルとして、私なりの正義をエミュレートするの。実質的な正義の要素がなにかわからなくても、たぶん最高度の権威があるあなたの正義なら、誰も口出しできないはず、という考え」
ぽつりぽつりと呟くように言う。
自分でも自信がない。
どうして、正義を決定しようとしたのか、自分でもよくわからないのだ。
「じゃあ、私以外の人たちは無関係ってことでしょ。はやくなんとかしなさい」
「だからそれは無理よ。たとえ私が死のうが、無意識は存続しつづけるもの。彼らは彼らの神さまの声に従ってるだけなの。私はいわば神さまを降ろすための巫女さんみたいなものなのよ」
「巫女は私だけで結構」
「山のほうの巫女さんは?」
「あれはにせものよ!」
「まあいいわ。では聞くけれど、ここにいるみんなは私こそが正義であると信じているわ。あなたが仮に共同体主義なら、あなたの正義の源泉はみんなが定めたルールに従っているからということになるわよね。つまりあなたを正当化する根拠はいまはもうないのよ」
「あんたが操ったからでしょうが」
「そうよ。共同体主義にとって、共同体の外側にいる者は排除すべき対象になるの。共同体主義にとって、つまり正義とは暴力にほかならない」
「面倒くさいこと考えてるわね。もう言い残すことは終わった? じゃあ退治するわよ」
「胎児は夢を見る。もしかすると博麗の巫女さんは直感主義なのかしら」
「それであんたが納得するなら、それでもいいわ」
「納得できないの。というより、私には判別がつかないの。直感なら直感でもいいのだけど、それは言葉で掴み取れないってだけで、なにかしら意味があるのかもしれない。法則があるのかもしれない。やっぱり霊夢さんは私の見立てどおり、幻想郷で最も気が狂ってるわ。妖怪よりも狂気にみたされている。こんなの初めてなの!」
「ずいぶんと好き勝手言ってくれるわね」
「だって、あなたの目の前にいると、身がすくんでしまうもの。心臓がドキドキして止まらないもの」
「もういいわ。あんたが来ないのならこっちからいってもいいのよ。それともなに。やっぱりスペルカードルールを放棄して、本当の戦いでもしてみたいの。べつにいいわよ。それでも」
「そのまえに――」
こいしは地面に降り立った。
霊夢の目の前、ちょうど五メートルほどの距離だ。
そして、こいしは霊夢の瞳を真正面から見つめる。
ギアス――
「……私の言うとおりに」
「精神拘束系の力か。あんたなかなか姑息ね。レミリアの誘惑よりかは強かったわよ」
「信じられない。想像界への侵食すら防ぐの? ありえない!」
「時間の引き伸ばしはやめて欲しいんだけど。私も暇じゃないのよ!」
霊夢が札を投げようとする。
「待って!」
「今度はなに!?」
「あなたの正義を是非とも見てみたいのよ。赤裸々に、奥の奥まで、じっとりと、ねっとりと」
「ああそう。ならお好みどおり、見せてあげるわ!」
霊夢の怒りがついに炸裂した!
ホーミングする札。
こいしは無意識に身を潜めようとするが、こいしの霊力に反応する札は認識とは関係がなく自動的に追いすがるもので、こいしの能力が効かない。
二枚は避けた。一枚は弾幕で相殺した。
残りは――
慧音が身をていして、受け止めた。
「ナイスワークだわ。せんせー」
「イエス……ぐふ」
「無辜のせんせーを容赦なく倒すなんて、素敵すぎるわ!」
「これがあんたの最後の切り札ってやつ? 人間を盾にして勝ったつもりなの?」
「違うわ。この人たちは、この人たちの正義にしたがって私を守ってくれてるのよ。あなたは今、不正な行為をしている。自らの権威を傷つけている。でも――それでもいいのかしら。正義とは暴力だとすれば、あなたは今まさに正義を執行しようとしてるのかしら。やっぱりよくわからない。霊夢さんの心のありようがよくわからない。もう少しわかりやすい人が博麗の巫女さんだったらよかったのに」
ちょっとだけガッカリした表情になるこいし。
「ここにいる人たちはあんたに操られているから、あんたの道具みたいなもんでしょ。だったら、あんたを退治する延長よ」
「人間が人間の主体性を認めないなんて滑稽だわ」
「だから、あんたが操ってるからでしょうが」
「いいわ。じゃあ、そういうことにしましょう。そのための用意もすでに終わってるし……」
日が落ちた。
最後に残っていた一閃が地平線に消えたとき。
こいしは両手を空へと掲げた。
「私のギアスは条件づけもできるのよ! 今から8分34秒の猶予時間内にギアスを解かなければ、この人たちは自殺することになっている」
「ずいぶんと味な真似をやってくれるわね。それでどうやったら解けるわけ?」
「謝罪すればいいの。あなたの頭を下げた形がトリガーになっているわ」
「ふん。そんなこと」
「でも、それだけじゃないのよ」こいしは帽子の角度を調整しながら言葉を紡ぐ。「魔法の森にいる盗賊さんにも同じギアスをかけたわ。ここから魔法の森までは全速力で飛んでもギリギリかしら」
こいしは霊夢に選ばせるつもりだった。
千の人間の命と、一人の友達の命を。
その行動を観察することで、博麗霊夢の正義が観察できる。こいしは第三の瞳を閉じてはいるものの、やはり覚り妖怪である。どうしようもなく、見ることへの欲望が強い。その欲望だけはどんなに否定しても否定しきれない。業と呼んでもよいものなのかもしれない。
「時間はないわ。どうするのかしら」
霊夢はこいしをにらみつけた。
ほとんど情を消し去った冷徹な瞳。
心臓を直接握られているような緊張感がこいしを包む。
「ドキドキが止まらない。どうしましょ」
「いくわよ!」
「そう。私を退治してもギアスは解けないわよ。それで貴重な時間を潰すのね! 助けられる人を助けないのね!」
「私の仕事は妖怪を退治することなのよ。人間が死のうが生きようが関係がない!」
霊夢は亜空間をわたり、こいしの眼前へと跳躍する。
手に持ったお払い棒を躊躇なく叩きつける。反応ができない。
妖怪の反応速度を越えている。おそらく時間という概念からある程度浮いているのだろう。
こいしは後ろにあえて吹っ飛ばされることで衝撃を殺した。そのまま、下がりながらハート弾幕を発射する。
「お姉ちゃんは冷たいわ。一人の友達を殺して、千人の人間を生かすことができるのならどっちがいいって聞いたら!」
瞬。
まさに刹那の時間に霊夢が近づいてくる。
「因果関係がないから、千人は見殺しにしてもいいって言うの!」
「そう。よかったわね!」
お払い棒を再び叩きつける。
今度は耐え切れない。ハートを盾にして防ぐ。攻撃は苛烈そのものだったが、霊夢の攻撃は揺らいでるような妙な遊びがある。理詰めで回避できない得体の知れなさ。
このままでは、二分も持たずに落とされてしまう。
そうなれば、霊夢は自分の正義をさらけ出すこともなく、悠々と異変を収束させてしまう。
こいしは堕ちながら命じる!
「古明地こいしが命じる!」
「無駄だって言ってるでしょ」
「私を守れ!」
霊夢とこいしを横切るように飛来したのは、白いハトの群れだった。さすがに霊夢もまったく関係のないハトを全部叩き落すことは躊躇われたようだ。
功利主義である確率が少し高まる。
こいしの微笑度も高まる。
「こいし。最後通告よ。これ以上ルールを破ったら退治では済まないわ」
「退治じゃ済まないとどうなるの?」
「絶滅させる」
「コワーイ」こいしはカラカラと鈴のなるような声で笑った。「殺すって言えばいいのに」
「なぜあんたは聞きに来なかったのよ」
「ん?」
「どうして私に千人と一人どっちを選ぶって直接聞きに来なかったの」
「言葉では建前が生まれるじゃない」
「行動でも建前は生まれるでしょう」
「それはそうね。けれどノイズの混じる量は明らかに少ない」
「嘘なんかつかないわよ」
「うーん。確かにそうかも。あなたは見た目よりずっと考えがからっぽだし。でももう遅いわ。終りまであと五分とちょっと、お互いの正義を実現するためにがんばりましょう!」
こいしは気配を全力で殺した。
まるでそこには誰も存在しないような空虚さ。
いかに霊夢がすべての影響から免れるといっても、『無関係』であることからは逃れられない。
いま霊夢の視点ではこいしの姿がかき消えたかのように見えるはずだ。
こいしは霊夢の表情を横目に空間をスイスイと泳ぐように渡った。
不可解なのは霊夢がまったく焦りを浮かべていないこと。
やはり普通とは違う。
普通なら、自分の正義の拠り所である村人の命が危険にさらされているというのに、これだけ表情が変わらないというのもおかしい。
完全なコントロール? そんなことが人間にできるはずが……。
こいしはハッとした。
人間に対する興味が、わずかな気配の揺れとなっていた。
気づいたら、霊符がまぢかに迫っている。
避けた。しかし避けようとするその意思はこいしの無意識とは相容れない。
「そこね!」
今度は完全にこいしの姿を認識していた。
こいしのほうがわずかに焦りの表情を浮かべていた。あいもかわらずかわいらしい微笑を浮かべてはいたものの、一瞬だけ見せる自我の現われだ。
泡沫のように。
水面から一瞬だけ呼吸するかのように。
見える。見える。
自分の心が見える。
楽しい。
それでいて怖い。
意味不明。
「そう……わからないの!」
こいしは空中で反転し、指をならした。
霊夢がとっさに振り向く。霊感といってもいい勘のよさ。
しかし――
「遅い!」
そこには数百の妖精たちが一斉に弾幕を充填していた。
幽さのなかに月光が照らす妖精たちの顔。皆一様に目が死んでいる。異様といってもよい空間である。
これでもまだ霊夢の表情は崩れない。
「撃て!」
それはもはや光の壁だった。
隙間らしい隙間がない。スペルカードルール完全無視の殲滅弾幕である。
「妖精さんがんばって! これこそが正義よ。これこそが革命よ!」
霊夢はまず下方へと避けた。雨のように降り注ぐ弾幕をかいくぐりつつ、被弾しそうになったらお払い棒で払いのける。
しかしさすがに圧倒的な物量の前に、霊夢の動きに精彩さが無くなりつつある。
霊夢を殺してしまったらどうしよう?
こいしのどこかが考える。もしかするとお姉ちゃんに叱られちゃうかしら。まあそれでもかまわないかもしれない。霊夢の正義は結局見ることができなさそうだが、その代わり新しい正義を提示すればいい。結局正義とは共同体の発起人が決定するものだ。おそらく霊夢はその機構として人格を無視した形で組みこまれているのだろう。
霊夢が死んでも幻想郷の正義は消えないだろうが、その前に幻想郷そのものを奪ってしまえばいい。
あとは適当に――そう、お姉ちゃんあたりを代理人に据えれば、こいしは自由でいられる。
きっとそれが、こいしがさとりに叱られない効率的な方法なのだ。
「堕ちろー!」
こいしは無邪気に笑いながらむちゃくちゃにハート弾幕を撃ちまくった。
作戦なんてものは存在しない。
ともかく物量で押しつぶす。所詮、個人は共同体に属する存在。
霊夢がいくら強くても、共同体以上に強くはなれない。
それが正義!
霊夢の姿が弾幕の巨大なカタマリに呑みこまれた。
「やった?」
当然その言葉はフラグだった。
異様な音。
ピクチュという気が狂いそうになる音とともに、霊夢がこいしの背後に現れた。
位相転移。
空間を繋げた。
七つほど回避方法を考える。そのいずれもが、却下。不可能。
とりあえずできそこないのフニャっとなったハート弾幕をひとつだけ作り出したが――
できたことはそこまでだった。
こいしは至近距離で夢想封印を喰らい堕ちていった。
6
「正義が負けるなんておかしいわ」
空が高かった。
こいしは大の字になって地面に寝ている。
星がまばらにしか見えない。
人間の輪ができていた。
みんなこいしを遠巻きに見ている。
こんなことが前にもどこかであったような気もするが、よく思い出せない。
人波をかきわけるようにして、ふたりの人影が現れた。
一人は博麗霊夢。もうひとりは知らないおばさんだった。あ、なんか睨まれた。
「紫。とりあえず今回のことは助かったわ」
どうやら、霊夢は紫の能力を信じて、こいしを退治することを選択したらしい。だとすれば、こいしが提示した千人か一人かという問いかけは、その問い自体を不当なものとして却下されたのだろう。これでは正義を問う意味がない。
「八百長だわ!」
「なにをいまさら」紫は冷たく言った。「これだけのことをしといて、ぬけぬけと」
「だって、幻想郷のルールでは一対一のはずだもの」
「あれだけ多勢で攻め寄せてきてよく言うわ」
「待って紫。ギアスとか言ったかしら。それがそいつの能力だとすれば、形式的には一対一のようなもんだわ。人間や妖精を弾幕の一種だと考えればいいのよ」
「あら、肩を持つのね。まあ、あなたらしい公平さともいえますけれど」
「それで、あいつはどうなったの?」
「あいつ? ああ魔理沙のことね。大丈夫よ。あの子だったら自力でギアスを解くぐらいの能力はあるでしょうし……、親切なご近所さんにも通知しておいたから」
「あっそ」
「それよりも、この娘をどうするかね」
「もしかして私、殺されちゃうのかしら」
ドキドキが止まらない。
誰かに殺してもらうのが夢だったのだ。
「なんだか嬉しそうな顔してるんだけど、こいつもマゾだったのかしら」
げんなり顔の霊夢。
「地霊殿の主の妹であることも加味すると、封印させていただくのが筋かしらね」
「お待ちください!」
聞き慣れた声だった。
こいしはよろけながらも立ち上がった。
「お姉ちゃん。こんなところまでくるなんて珍しいね」
「こいし……」
「ん?」
こいしはニコっと笑った。
その瞬間、こいしの体にいくつもの火線が突き刺さった。
薄暗い世界に、それはまるで花火のように綺麗で――熱い。
熱いのか痛いのかよくわからない。痛覚は認識の外に置いているけれど、さすがに許容量をオーバーしている。
すごく熱い。
熱い熱い。熱いって思うから熱いのかしら。
熱くないわ。ひえぴたクールだわ。
だめ熱い。
よく加熱したフライパンに手のひらをピタっとくっつける、ドキドキ耐久レースを十分間ほどがんばってやってみた時より熱い。
「熱い。熱い。熱い。お姉ちゃん。それはちょっと洒落になってな――」
雨が葉っぱにあたったときのような、
パタパタというそんな軽い音。
しかし、その威力は激烈といってよかった。
こいしは言葉を続けられず、口もとに笑みを浮かべることしかできなかった。
どこかで見たことがある黒い箱。どこかで拾ってきた外の世界の遊び道具。
マイクロウージー。
さとりの腕のなかにはしっかりとサブマシンガンが握られていて、もう片方の手は射線がズレないように軽く手が添えられていた。
こいしがさとりの表情を観察する。
どうしたことか。
まったくの無表情で、どんな感情を抱いているのか推察することすらできなかった。
また撃たれた。
さすがに三度目は、立っていられず、こいしはそのまま地面に倒れた。
妖怪であってもかなりの痛さ。神経が再生するまでまともに動けそうにない。
恐怖は感じていない。こいしのなかの恐怖や痛みはすでに壊れている。
けれど、困惑した。
どうして、さとりがこいしを傷つけるのかわからなかったからだ。
今まで総じて見れば優しい姉だったのに。
もしかするとこいしの正義は幻想郷にとっては不正行為であったのだろうか。
しかし、こいしは正義を見たかっただけ。さとりに叱られたくなかっただけなのに、それがそんなに悪いことなのだろうか。
「どう、して?」
さとりは答えなかった。
7
「不肖な妹の不始末。その責はわたしにあります」
こいしが首だけを動かしてみると、さとりは地面に這いつくばっていた。
どうやら正義に屈服しているらしい。
「だめよ。あなたが何を言おうと、ここまで幻想郷の理を無視してしまったら、もはや赦すことはできないわ」
紫が言葉を叩きつけるように言った。
まるきりヒステリー。
つまり、パラノイアで――その精神構造はほとんど普通の人のように思える。この人が正義を司っているのかしら? こいしには不思議でならない。もはや正義という概念を正常人と共有することはほとんど不可能だと判断していたが、その結論がますます正当であることをうかがわせた。
しかし、やはり腑に落ちないのは、さとりの行動である。
こいしの行動が幻想郷の正義に照らして、不正であるとするなら、今さとりがおこなっているこいしを擁護するかのような行為は不正であることになる。
さとりはいつだって正しいはずだった。
とりあえず、そう仮定することはできた。
もしかすると、さとりはさして正義ではなかったのかもしれない。
「お姉ちゃん。幻想郷には……正義が無かったんだね」
この国は、たぶん、そうなのだろう。
共同体主義以前の問題だったのだ。
共同体主義の前提となる社会契約論が成立していない。
ただの弱肉強食があった。そして強者どうしの野合があった。そう考えると、いろいろと納得がいく。
さとりも野合に加わった一人なのだろう。
スペルカードという法。
法は方言であり、絶対普遍の法則ではない。
そのはずなのに、その理を知らず、その言葉を交わすことが根本的には不可能な他者である『こいし』に幻想郷の法を適用するのは果たして正義に適うのだろうか。
こいしはもちろんスペルカードルールに従って弾幕ごっこをすることもできるし、人里の人間も殺さないように気をつけることもできるが、それはあくまでも経験則にしたがった予測であって、言葉を知っているからではない。『こいし』こそは幻想郷に属しながら幻想郷の外側に完全な個室を持つ少女なのである。
だから――
「お姉ちゃん。謝る必要なんか――ないわ」
ギアスを使って、さとりを洗脳する。
それが、こいしの正義である。
8
けれど――
こいしの持つ絶対遵守の力は、
さとりには届かなかった。
なぜなら、こいしの持つギアスの力は相手の目を見ていなければならないのに、こいしはどうしてもさとりと目をあわせられなかったからだ。
「あれ。変だわ。どうして? どうして?」
「こいし。わたしの目を見なさい」
さとりがこいしの顔を両の手で固定した。
こいしは憔悴した顔で、うなだれる。無意識がそうしろとささやいているのだ。けれど、もはや抵抗する力を失っているこいしは、さとりと顔を合わすしかなかった。
「こいし、あなたは悪いことをしたのよ」
「そうかしら。お姉ちゃんは私を洗脳しようとしているだけじゃないの?」
「そうかもしれませんね……」
袖の長い服で汚れた顔を拭かれる。
「どうして? どうして、お姉ちゃんが泣いているの?」
「あなたが傷つくのがいやだからです」
「けれど、自由であることが私にとっての正義なの。みんな正義のためにはよく死ぬし、哀しむことじゃないわ。名誉の戦死よ」
「そうですか。けれど、それではあなたはすぐに死ぬしかありませんよ」
「それでもいいと思ってるの」
「私が嫌なんです」
「お姉ちゃんは寂しがりやさんだわ」
「そうかもしれませんね」
「それにとてもわがままだわ」
「それも認めましょう」
正義の源泉はこんな小さなところにあるのかもしれない。
姉の泣いた顔。
それが、なんとなく嫌で、否定したくて、一瞬だけ自分を憎悪する感情すら逆流してきて、なんとなく幻想的な気分。
もちろん、そんな一時の感情が正義だと主張すれば、この幻想郷では笑われてしまうだろう。
いや――、たぶん同じ思想で動いている人間が一人だけいる。
徹底的すぎる個人主義を推し進めて、一対一の関係で責任を受け入れる関係。
退治は対峙。
自由はそこでは責任だった。使命と言い換えてもいい。
そんな面倒くさいことを、ずっとやり続けるなんて、たぶん普通の人間には無理なのかもしれない。だから象徴的にひとりの人間が負うしかないのかもしれない。
ひとり対ひとりなら、『他者』である『こいし』もその正義を対話によって受け入れることは、もしかすると可能なのだろうか。
少し自由でなくなるのが、本当に残念だけれども。
ちょっぴり、いや、ものすごく嫌だけれども。
考えたのはそこまで。
いま一番近いところにある顔は、姉のものであった。
「古明地さとりの名において命じます。こいし謝りなさい」
こいしはみんなに謝った。
正義とはなんなのか?霊夢かっこいい、さとこいちゅっちゅである。ということですよね。
その後にこいしが人間は思考することに怠惰だ、などと言ってますが肝心のこいしが人間のシュレディンガーの猫という思考実験を理解してないせいでなんだか寒いなあと感じてしまったり、
シュレディンガーの猫を理解しないで使うのは、言ってみれば単語の意味を知らないのに文中に使っているようなものではないでしょうか、私はすごい違和感を感じてしまいました。
かわいくないこいしちゃんは正義じゃない。
つまりこいしちゃんが可愛くないと思う存在こそが正義と対となる? ……えーと、
こいしちゃんとは正義だと思います。けどつまり正義って……つまりこの面白いと思える燃えが正義かーー!!
部分が見てとれた。
でもそれをわざわざ指摘するのも不粋なのかなぁ...
というかこのSS読んでるとこいしがただの天の邪鬼にしか見えない。
ルールに縛られないことが自由だと思ってるのならそれこそ一人寂しく
消え去るしかないよね。
ミスかな?
「おかしな理論だわ。全体が部分に優先してはいけない。
↓
「おかしな理論だわ。部分が全体に優先してはいけない。
何せ妖怪って思考が常軌を逸している者が多いですからね(笑)
姉に怒られない為の効率的な方法として考えついたのが、最も遠回りで壮大で自分本位なやり方なんですから。
しかし、みんなが洗脳されるのを恐れてテレビデオを破壊したこいしちゃん自身が洗脳系能力者だったというのは何たる皮肉か。
確かにあのCMって何だか狂気を感じさせるものはありますが(笑)
そしてさとり様もギアス使えるのか。ひょっとしてギアスはもともとサトリ妖怪の能力だったのか(笑)
用語の解釈や用法については皆さんのおっしゃる通り、ちょっと首を捻る部分もなくはないですが、
全体としては面白い思索と雰囲気でした。
というか、対霊夢あたりからだんだんこいしちゃんが市○悦子さんに見えてきたんですけど、何ででしょう・・・(笑)
超空気作家まるきゅー様の、生き生きとしたロックなこいしさんが大好きです。
私もサンデル先生の正義とは何かで、学生時代に思いを馳せた者の一人であります。
それと差し出がましく無粋な指摘になりますけれども、
> まるきりヒステリー。
> つまり、パラノイアで――その精神構造はほとんど普通の人のように思える。
F44.0~F44.9解離性障碍(ヒステリー)の種種と、F22持続性妄想性障碍或はF60.0妄想性人格障碍は、全く別箇の疾病です。
(テレビデオ高すぎだろ!とか、なんでいきなりマシンガンをぶっぱなしてんの?wとか)
こいしちゃんと登場人物達との会話は私には理解のギリギリでしたが、だがそれが良い。
難しすぎてついて行けない、と言うほどでもなかったので難易度的にはちょうど?良い感じでした。
ギャグと見せかけて考証系と見せかけて…という多重構造が何とも言えない味になっていますね~。
最後のさとりんのマシンガン射撃にもやられた!という感じです。
こいしちゃんの危うい可愛さに満ちあふれた怪作でした。