「私ねえ、愛より恋の方が好きなのよね」
マエリベリー・ハーンという女は時折突拍子のないことを言う。
夢の中で天然タケノコ拾ってきただとか、そういう咄嗟に理解出来ないことを。
私の自宅でどこでもそうだと言わんばかりに文庫本を読んでいたと思ったら――の発言。
ふと時計を見る。午後八時十九分五十八秒――午後八時二十分。天気は生憎の雨。
雨の音が聞こえる私の部屋の中で、メリーはそんなことを言った。
「愛より恋、ねえ」
彼女の台詞を反芻。
「――? 愛と恋って、同じじゃない? イコール」
「認められてニアリーイコールね。というか日本人なんだから同じじゃないことくらい知ってなさい」
「ニアリー……近いけど違うって?」
「ほんと蓮子って専門バカよね」
「専門バカ言うな。言葉遊びじゃあなたには敵わないわよ」
「数字と公式じゃ及ばない?」
「無理ね。ファジーは計算し切れない」
曖昧なのはメリーの領分。
宇佐見蓮子は確定的なものを専門にしている。
計算し切れない言葉というのは――どうにも苦手だ。
言葉遊び。
ルールがわからない。法則がわからない。故に遊びに興じられない。
んー。頭が固いんだろうなあ、私。
「でもさ、どう違うの? よくあるあれ? 愛は真心で恋は下心っての」
「そういう言葉遊びは好きだけど今回は関係ないわね。というか逆よ。それだと恋は愛より劣っているみたいじゃない? 私は逆に考えてる。恋は愛に勝ると思ってるの」
好き嫌いではなく勝る?
「蓮子はどう思う?」
どうって、正直に言えば考えたこともなかったけれど――あえて考えるなら。
「まあ――私は普通かな。愛は純心、恋は弱いっていうか、欲がからんでそう?」
恋は下心、じゃあないけどそんなイメージがある。
何かで読んだとかその程度の受け売りではあるけれど。
強弱で言うなら恋は愛より弱い。清濁で言うなら恋は濁で愛は清。
そんなイメージ。
「でもね、愛欲って言葉があるのよ」
「む」
「恋に欲の付く言葉は無いわ――まあ、こんなの揚げ足とりなんだけど」
一瞬納得しかけて、直後翻されてちょっと混乱する。
あれ、愛の方が欲……なんだっけ? そも欲は卑俗なものでいいんだっけ。
うーん……? リフレッシュのつもりで缶コーヒーを飲む。
飲み慣れたそれが、いやに甘く感じた。
思考ループにさえ至れない私が面白いのか、彼女は笑っている。
メリーめ。悪趣味。
「愛ってさ、色々あるじゃない。家族愛とか、人類愛とか」
愛欲然りと彼女は言う。
「あるわねえ」
「でも恋はひとつだけでしょ?」
あー…………なになに恋、ってのは、聞いたことない、かな?
言われてみればその通り。家族愛人類愛と愛は質も量も豊富だわ。
範囲も濃度もとてもマクロ。彼女の言に沿うなら恋はとてもミクロだ。
今思いつく限りでは個人しか対象にならない。
「恋の次の段階が愛って認識が一般的だけど、上下があって格差があって恋より愛の方が格上って感じだけど、私は違うと思うのよ。恋と愛は別物。恋が続いて愛に至るニアリーイコールじゃなくて愛は恋から切り替えられたノットイコール。そう思うの」
別物。ノットイコール。
私は――悉く彼女の逆だと考えている。
恋と愛は連続するものだと思う。ニアリーイコール。限りなく近いイコールだと、思う。
恋を軽んじるわけではないけれど、天秤に乗せればやはり愛に傾くだろう。
恋はミクロで愛はマクロ。大きく重い。
「メリー」
はっきり言って、
「これはどういう話なの?」
全てが逆で、何一つ理解に至らない。
彼女を理解出来ないことに歯痒さを感じる。
彼女に届かない己の無能さが恨めしい。
呆れてるかなと目を向けると、彼女は笑みを深めていた。
映画みたいだなって、思った。
机に頬杖をついて私を見ながら笑っている彼女は洒脱で、完結している。
背景に目がいかない。視界に入るメリー以外の物が全て霞んでしまう。
スクリーンの中に居るみたいに、彼女だけで完成してしまっていた。
「つまりね、私はこれから愛情を示す時には『愛してる』じゃなくて『恋してる』って言いたいの」
声は聞こえていたけれど頭に入っていなかった。
ゆっくりと彼女から視線を外し思い出し再構築する。
「……恋してる、だと別のニュアンスというか、別の言葉に」
「なるけど、『愛してる』より『恋してる』の方が素敵だもの」
素敵、って。それだけで日本語壊されても困るんだけど。
あー……もしかして、これって私が呆れて突っ込むのが正しい展開?
呆れられるかもって怯えてたのがバカみたい。
「メリー、「愛情」なのよ? そこは『愛してる』でいいんじゃないの」
「なら恋慕に言い換えるわ。恋慕を示す言葉は『恋してる』よ」
「屁理屈じゃない」
いよいよもって呆れ返る。
結局本読むのに飽きた彼女の遊びに付き合わされたってだけじゃない。
天然物のタケノコの時みたいに色々ひっくり返されると身構えた私はなんなのよ。
はーあ。脱力。
「ねえメリー? 言葉ってのは歴史の積み重ねで成り立ってるんだから思い付きで変えられないわよ」
「あら、その歴史が間違ってるのは歴史が証明してるわよ? 豆腐と納豆とか」
あれは――まあ、あれ? 納豆と豆腐が日本に伝わる時に名前が入れ代わったって説。あれって真実だっけ? その説の方が間違ってるって話どこかで聞いたような……ううむ。反論出来ない。出来ないっていうか、しにくい。言語学とか専攻してないし、確証を得られない。メリーなら知ってそうだけどわざと間違った知識で私をからかってるって可能性もあるし……油断ならないのだ、この女は。
迂闊なことを言えば傷口を広げるだけ。口惜しい。
「まあまあ。世に広めようってわけじゃないんだから御目こぼししてちょうだいな宇佐見せんせ」
まだ博士号は取ってないわよ。
仮に取ったとしても言葉の世界には関わらないと思うけど。
「それで? メリーさんはその間違った日本語でどうしたいの?」
適当に時計を見ながら先を促す。
八時三十二分五十七、五十八、五十九、八時三十三分。
「ねえ蓮子、知ってる? 愛より恋の方が大変なのよ」
午後八時三十三分ジャストに彼女は口を開いた。
星を見ているわけじゃないから本当にジャストなのかは自信が無いけれど。
ん――……そういえば、雨の日の室内って、私の能力全喪失状態ね。
メリーは屋内も屋外も関係なく全天候対応型の能力。ちょっとずるいわ。
って、なに考えてるんだろ私。今はメリーの話聞かないと。
「愛は静かでも構わないけど、恋は常に騒がしくなきゃいけないんだもの。愛より恋の方が積極的なのよ。前向きに後ろ向きに立ち止まったり進んだり。消費されるエネルギーは膨大だわ」
それは――まあ、さっきの暴論よりは、わかりやすい。
少なくとも積極性だけは愛より恋が上だろう。それくらいは私にもわかる。
恋というものは恋に恋するほどに、強烈だ。
「愛し続けるより恋し続ける方が難しくて険しいの。恋は盲目――目が見えなくなるほどに、好きでい続けなきゃならないんだから」
「ふぅん――つまり、消費エネルギーの大小と恋と愛の評価が吊り合ってないって言いたいのね」
「それもあるわね。でも本質はもっとファジーなのよ。言語化出来ないくらい曖昧で、掴みづらい感覚的なもの。目には見えず数値化も出来ない感情の質量」
言語化も数値化も出来ないんじゃ私は完璧にお手上げだわ。
観測が難しい質量ってだけなら私の専門分野に近いけど。
「私はその質量の多寡で恋が愛に勝っていると考えたんだけど――うん、これも本質じゃないかな」
? 本質じゃないって? 論説には程遠い与太話だったのは確かだけど何故全否定?
それじゃ話終わっちゃうじゃない。
「うーん。なんていうか、もっとはっちゃけたっていいじゃない。固定観念に縛られるなっていうの? あんな感じで。若者らしく可能性に邁進せよってゆーか。少年よ大志を抱け? ほら、結婚式もさ、言うじゃない? 『生涯愛し続けることを誓いますか』とか。あれも愛じゃなくて恋にするべきなのよ。『生涯恋し続けることを誓いますか』って方が重いもの」
おどけた口調で彼女は言う。なんだ、途中で理論が破綻しちゃったか。
「めちゃくちゃよメリー」
ちょっと楽しくなってきてたんだけどな、メリーの無茶理論聞くの。
恋と愛の優劣なんてさっぱりだけど、わからな過ぎたけど嫌じゃなかった。
途中までは自信満々だったくせに存外情けない終わり方選んじゃったわね、メリー。
「ま、そんなわけで私は『愛してる』に代わって『恋してる』を使うのよ」
「締まらないわねえ。それ決め台詞になってないわよ?」
「だからね」
「蓮子恋してる」
……っぷ。
決め台詞どころか……こうして言われるともう、あはは。ダメだわ笑っちゃう。
締まらないっていうか情けないっていうか、あははは。あーダメ、ツボ入った。
なんか真面目に彼女の話聞いてた分だけ可笑しくってしょうがないわ。
「あはは、それじゃ私が恋をしてるみたいだわ。あなたの想いっていうか、それじゃ指摘」
「蓮子は恋をしてないの?」
がらっと、空気が変わった。
眼を強制的に彼女に奪われてしまう。
笑っている。
微笑みとかそんなキレイじゃない、様々な感情を混ぜ込んで作った色の笑み。
可憐で勝ち誇ってて妖艶で歪で――まるで人間じゃないかのような、背筋の凍る美しさ。
溶けない氷を眺めている不安感。陸を泳ぐ魚の息苦しさ。燃え上がる空に沈む熱さ。
言語化不可能の、膨大な感情の質量が全身を一気に覆い尽くした。
はめられた。
油断していた――忘れていた。
いつも受動的だから忘れがちだけど、忘れちゃいけなかったのに。
彼女は私が隙を見せればこうやって一気に攻め込む。逃げ道を奪う。
私を困らせる時だけ前向きに積極的に能動的なのだ、メリーは。
メリーは、意地が悪いのだ。意地悪なのだ。
長々と語ったことは全てがブラフ。私をこの状況に追い込む為の罠。
あの一言で私を絡め取る為の下準備。――手の込んだことだ。
きっとおどけて論説を破綻させたのもチャンスを逃さぬ為だったのだ。
境界を視るその紫の眼で、私の心に隙が出来たのを見抜いて――
――~~……こんの、卑怯者。
私は能力喪失状態だってのに自分だけフルに活用して。
ほんとに、いじわる。
「ったく」
時計を伏せる。
星の見えないこんな夜は時計を見なければ時間がわからない。
でも。
彼女と共に過ごす時間を計るような無粋はしたくなかった。
「――してるわよ」
「うん? 聞こえない」
「だから、してるって」
「何をかしら?」
「だから」
いじわる。ひきょうもの。ずるっこ。
反論にもならないってわかってる。
皮肉にも届かないってわかってる。
だけど、せめてもの抵抗で私は正しい日本語を使う。
「私は、あなたに――――」
きっと、私は、
ずっとメリーに恋してる。
「~を愛している」というけれど「~に愛している」とは言わない。
自分の意思下で行う動作としての「愛」よりも自分の意思でもどうにもならない状態としての「恋」のほうが得体が知れず、騒々しいかも。そんな言葉遊びがこのお話を読んだら思い浮かんでしまいました。
おもしろいお話を読ませていただきました。今日はよい休日になりそうです。
素敵な言葉遊びと、攻めメリーでした。
メリーずるーい、ずるっこだぁ。
やっぱ蓮メリは良いわぁ
微塵も点数を落とす理由になりませんでした。
あゝ美しき予定調和。
恋人がほしいです。愛人でなしに。
とにかく、蓮子とメリーが幸せなら私も幸せです。
非常にテンポよく読めました
次回も期待してます!
素敵です。
この糖分補給で疲れが吹っ飛びました。
愛と恋…誰もが思うその違いへの着目、お美事です。
良いお話をありがとうございました
すごく好き。