梅雨に入って数日が経過したある日の夜のことだった。
つい先ほどまで夕立で土砂降りであったが、湿った空気を夜の冷たい風が洗い流して、とても気持ちの良い夜だった。
男も、先ほどまでは「ついに夏の夜がきたか、川の音や虫の声に耳を傾けながら飲む酒は乙なものだな」などと良い気分に浸っていた。
だが今、男は生きるか死ぬかの瀬戸際に居た。
夜の道をふらふらと歩いていたら、いきなり後ろから斬り付けられた。
通り魔か、はたまた物の怪か。辺りは暗くその顔を確認することはできない。
「言い残すことは、ないか」
「い、言い残すことだぁ……?」
「そうだ。俺は今からお前を殺す。言い残すことがあれば今言うといい。お前の死はもう避けられないのだから」
「こ、この野郎……! 何をふざけたことを……っ!」
男は動くことができない。背中を何かで抉られた様だった。言葉を発することさえも、辛い。
「なん……ぐっ、なんの恨みがあって……!」
「わからないのか? ……ふふっ、そうか、わからないよな。まぁいい、では死ね」
男は、月明かりに照らされたその正体不明の顔を、今ここで初めて見た。その顔は笑っていた。とてもとても歪な笑みだった。
それを確認できたのと同時に、男の意識は途切れた。
「フフ~ン♪ ゆっかりんは~♪ まっだ16だっから~♪」
気まぐれで人里を散歩していた幻想郷の賢者、八雲紫。
何があったかは知らないが、彼女は良い気分だった。良い気分過ぎて、曲がり角の影から現れた男に気付かず衝突した。
「きゃっ!」
「ぐわぁっ!」
「あいたたた……。こ、腰が……」
「すみません、お嬢さん。大丈夫ですか?」
「お、おじょっ!」
主にお嬢さんの部分に反応した紫は、すくっと立ち上がり、ぶつかった男の顔をまじまじと見る。
顔の整った金髪の男だった。身長はあまり高くなく、紫より少し低い程度で、体格も細い。優男というイメージがぴったりだった。
(あら……ちょっとイケメン……)
「わ、私は大丈夫ですわ。おほほほ」
「そうですか、ならよかった。……ところでお嬢さん、これからどちらに向かわれるので?」
「あら、もしかしてナンパってやつかしら?」
紫の顔から思わず笑みがこぼれるが、一方の優男は苦笑いだった。どうやらそういうわけではないらしい。
「い、いえ……。そのですね、もし特に用がないのならば、街中の方には行かない方がいい。
あまりこういったことは口には出したくないのですが、その……。今朝、人が殺されてるのが発見されたんです」
「……あらあら。殺人事件、ですか」
「……おそらくは。惨ったらしいやり方でした。全身を酷く切り裂かれていて」
「酷い話ですわね。……わかりました、今日はもう帰路に就くことにしますわ。わざわざありがとうお兄さん。
えぇと……よかったら名前をお聞きしてもよろしいかしら?」
「……えっ? あ、えっと……ひ、稗田と申します。えと、以後お見知りおきを」
「……そう。稗田さん、ね。また会えるといいわね、では」
そう言って紫は踵を返した。偶然知り合った稗田という男と、人里の殺人事件。
大妖怪が何を思うのか、その胡散臭い表情からは何も読み取ることはできなかった。
「また一人、殺されたんだってね」
博麗神社。ある意味幻想郷の全てを司るといっても過言ではないこの場所に、紫は赴いていた。
「……まるで他人事ね、博麗の巫女さん」
「私は妖怪退治専門だからね。人間同士のいざこざまで請け負っては身が持たないわ。どこかの誰かさんの結界管理がザルなおかげでね」
「酷い言い草ね。まったく……どうしてこう博麗の巫女はたまーにこういう不良ちゃんが混じっちゃうのかしら。
十代に一人くらいあなたみたいな金にがめついだけのダメ巫女が現れる。まったく困ったものだわ」
「ご自身がお年を召されている故の愚痴を寿命が短い人間に語りますか」
「ぐっ……」
喧嘩腰ではあるが、他愛のない会話だった。二十年以上の付き合い故の取り留めのない会話だ。
ただ一つ、人が殺されたという話題から始まったという部分を除いては。
「……で、また同じ殺され方なの?」
「そうよ。これで三人目かしらね」
初夏の夜の通り魔事件は、まだ終わってはいなかった。
それどころか、人里を包む闇はますますその残酷さを増し、人々の心を蝕んでいたのだ。
「しかしまぁ、酷い話よね。全身を切り刻まれて……。よっぽど恨みを買ってなきゃこんな最期迎えないわよ普通」
「……そうね。やれやれ、寿命が短い故の人間の心は、一体何を考えているのやら。私には想像もつきませんわ」
「人間の心、ねぇ。……人間だったらいいんだけどね」
「……」
「一応、いつでも動けるように準備はしておくわ」
さすがに四人目ともなれば、相手側も相応の準備はしているものだろう。
あの中では一番線の細い気の弱そうな男だったが、いや、気の弱そうだった故か、自衛というものに敏感だったのかもしれない。
腹部からは留処なく鮮血が流れ出ていた。
だが、痛みはもう殆どない。
自分の身体が仲間達と遠く離れたものになってしまったのを、妖怪は嘆いた。
だがそれと同時に、憎むべき人間の命を意図も簡単に奪うことが可能のなったという事実を、妖怪は神に感謝した。
梅雨の真っ只中だというのにその日は一粒の雨すら降らず、蒸し暑さに胸がつかえる六月の夜だった。
「やれやれ、熱いわね今日は……」
まだ日が昇ってそう遠くない時間、紫は人里へと足を運んでいた。
「あっ、あなたは……」
「……あら、えっと……稗田さん、だったかしら?」
「えっ、あぁ、そうです。覚えていてくださいましたか。えぇと……」
「あぁ、ごめんなさい。まだ名乗ってなかったわね。私は八雲紫と申しますわ。むらさき、と書いてゆかり」
「そうですか。良いお名前ですね、綺麗な名前だ」
「うふふ、ありがとう」
この日、紫は稗田と再会を果たした。
年頃の男と女……紫は見た目だけだが、それが再開を果たせば、多少なりとも色のある会話になるだろう。
しかし、一連の事件がそれを拒み、暗く嫌な会話へと二人を導いていった。
「もしかしたら耳に入っているかもしれませんが、以前お会いしたときの事件……もう三件目ですか」
「えぇ……そうらしいですわね。恐ろしいわ」
「犯行は何れも夜中……昼間は安全だろうとしても、これではおちおち外出もできませんよ。困った物です」
稗田が語るように、もう朝の九時を回っているというのに、街道にはまったくといっていいほど人足がなかった。
もう三人も殺されているのだから、無理もないことだった。
「まぁ、こんなところで立ち話もなんですし……。よかったらお茶をしにいきませんか? 一応店は営業している様なので」
「あら! 今度こそこれはナンパね! うふふ、まだまだ私も捨てたもんじゃないわね、よろこんでご一緒させていただきますわ」
「紫さんはどちらにお住まいになられているので?」
「えっ? あぁ、なんていうか……けっこう遠くですわ。周りになにもないから、こうしてたまにここに遊びにきますの」
「そうなんですか……。うーん、そうなると今はタイミングが悪かったとしかいえないですね」
「仰るとおりですわ……。あぁ、ちなみに稗田さんはどこに……」
稗田さんはどこに住んでらっしゃるの? そう尋ねようとした紫の顔を、稗田の腕が覆い隠した。
「ど、どうなさったの?」
「……また、です」
「……え?」
「新たな犠牲者です。そこに倒れています……。すいません、今日はもう帰りましょう。俺から誘っておいて申し訳ありませんが……」
「……稗田さん、腕をどけてくださる?」
「なっ……ダメです。あなたの様な若い女性が見ていいものではない」
「稗田さん、私はあなたが思っているほど弱い女ではありませんわ。
それに見なくてはいけない。私達が住むこの幻想郷が、残酷な殺人鬼に蝕まれている。
私達はそれを確認し、考え、対策し、幻想郷を守る義務がある。……そうでしょう?」
「……わかりました」
稗田はゆっくりとその細い腕を下げた。
そして紫の視界に入ってきたそれは、とてもこの世の物とは思えない、とても無残な。
だが確かに、この幻想郷を担う一部である人間だったモノだった。
「……酷い有様ですわね」
「……えぇ。今までの三人とまったく同じだ。全身を深く切り裂かれ、恐怖に満ちた表情のまま絶命している……。惨い」
「……猟銃を持ってるわね。もしかして自分が殺されるかもしれないとわかっていたのかしら」
「さぁ、もういいでしょう。俺は里の自警団に連絡して現場の処理を行ってもらいます。紫さんはもうお帰りください」
「……えぇ、わかったわ。ところで稗田さん」
「……何か?」
「お召し物に穴があいてしまっていますわ。ほら、お腹のところ」
「あっ……。これはお恥ずかしい。どこかに引っ掛けたかな」
「よかったら私が繕って差し上げましょうか?」
「い、いやいや、ここで服を脱ぐわけにもいきませんし、大丈夫です。大丈夫」
「ふふっ……そう。ではごきげんよう……って言い方もおかしいわね。稗田さん、お気をつけて」
「えぇ、紫さんも」
稗田が見えなくなるところまで移動した紫は、だんだんと雨雲が立ち寄せる鈍色の空に向かって、静かに口を開いた。
「聞こえるかしら、怠惰な巫女さん? 今回の件は、この八雲紫が方を付けますわ」
復讐は今日で終わる。
あの憎々しい男を、この世に生を受けたことを後悔する様な惨ったらしいやり方で殺し、彼の復讐は完了する。
その後どうするかはわからない。まだ考えてもいない。
復讐が終わっても家族は戻ってこない。この身体もおそらくもう戻らないだろう。
でもそれでもいい。いや、今の自分にはそうすることしかできない。
夕方に降り出した雨は、ますますその勢いを増し、一メートル先の視界すらよく見えない。
でも彼は臭いでわかった。
その男が今どこにいるか、次に殺されるのがおそらく自分なのかもしれないと怯えているであろうその男がどこで何をしているか、
彼には手に取るようにわかった。
その臭いを発する家屋の前で足を止める。家の中に入り込んで殺すのはこれが初めてだった。
家族もいるのだろうか。……だとしたらまとめて始末するまで。いないのならば、それでよい。
彼は豪快に戸にかかった錠前を破壊し、そして静かに、その戸を開いた。
中には男がひとり。その顔は恐怖に歪んでいた。
「……次は自分だとわかっていたようだな」
「あ……ぐぅ……。な、なんなんだてめぇは……! なんで俺の仲間を殺した!」
「仲間だぁ……? 仲間を殺したのはお前達の方だろう。その復讐なのさ、これは」
「復讐……!? ま、待てよ! 俺達はお前らみたいな妖怪に手を出したことはねぇ! それがなんだって復讐を!」
「妖怪? あぁ、そうか。俺は妖怪なんだったな。ふふ……ふふははは……」
「妖怪なんだったって……。まさかお前、いやそんな……!」
「いいんだよ、そんなことは。さぁ、殺してやるぞ。お前を殺して終わりだ」
「ま、待ってくれ! 今度子供が生まれるんだ!」
「……ッ!」
男の息の根を止めようと振り上げた腕が、止まった。
「頼む! 見逃してくれッ! 今は念のため嫁は親戚んとこに逃がしてここにはいねぇが……やっと授かった子供なんだ!
その子のためにも俺は今殺されるわけにはいかねぇんだ! 償いはする! 一生かかろうと必ずし続ける! 頼む……ッ!」
「こっ、子供など……ッ!」
「ひっ……!」
「お前らが撃った私の家族には! 姉さんのお腹の中にはっ! 赤ちゃんがいたんだ!!
それを殺しておいて自分の子供のために助けてくれなどと……! 何をほざくかァーーーーッ!!!」
「そこまでよ」
「なっ……!」
ありったけの憎悪を込めて振り下ろしたその腕は、男に寸前で、何者かによってその動きを停止させられた。
状況を理解できない妖怪がその目で見たものは、空間に浮かぶ不可解な隙間から上半身だけを出した、半日前に別れたばかりの女だった。
「ゆ、紫……さん……」
「馬鹿なことは……いえ、違うわね。こんな悲しいことはもうやめなさい、稗田さん」
「い、一体何がどうなって……!」
「そこのあなた、早くいきなさい」
「えっ?」
「え? じゃないわよ。早くここから去りなさい。そして償いなさい。生きている限り」
「あ……あぁ。あぁ!」
「お、おい! 待てよ! えぇい、離せ女ァ! 私の邪魔をするなァ!」
稗田は紫に掴まれた腕を振り解こうとするも、女とは思えない力に抵抗することができない。
男は慌てて、草履も履かずに逃げていった。
「あ、あぁ……」
稗田の腕から力が抜けたのを確認すると、紫はその手を離す。
稗田は力なく、その場にへたり込んだ。
「あんた……何者なんだ……。何故俺がこの事件の犯人とわかった……」
「私は幻想郷の賢者。頭には自信があるのよ」
「……」
「そうね……あえて説明するなら、全身をここまでズタズタに引き裂かれて殺されるなんて、ただの通り魔とは思えない。
深い恨みを持った犯行の可能性が高い。そこまで憎々しく思ってるんだもの、散々弄った後も、第三者を装って慣習に紛れて、
その様をあざ笑ってやりたいと思うんじゃないかしら。そしてあなたは今朝の遺体を見て、『今までの三人と同じだ』と言った。
殺された人間を全て見ているのよね? あなた、自警団の人間には見えないし、ただの人間がそう何度も、それもここまで惨い事件を、
毎回確実に確認しにいくものかしら?」
「そんな……ことが……」
「それに残念だけど、あなたはいろいろと怪しすぎる。稗田って名前、偽名でしょう?」
「……あぁ、そうだ」
「あなたと最初に出会ったあの場所、すぐ隣にあったものね、稗田の屋敷が。大方名前を聞かれて、
慌てて視界に入った稗田家の表札を見てそう答えたのでしょう。でも稗田は幻想郷の歴史を司る由緒正しい大家。
人里で稗田を知らない人間なんて存在しない。偽名に使うには都合が悪すぎたわね。それにあなたの服に空いていた穴と今朝の……」
「いや、もういい。もう……いい」
稗田は下を向いて動かない。紫は小さく溜め息をついて、口を開いた。
「以上があなたを疑った証拠。悪いけど後をつけさせてもらったわ。そしてこれがその結果」
「う、うぅ……」
「あなたが犯人なのはわかった。犯行も止めた。でも私が知りうるのはここまで。
……何故こうなったのかまではわからない」
「……何が言いたい」
「よかったら、話してみなさいな。何があなたをここまでの凶事に駆り立てたのかを」
「……いいだろう、話してやる」
稗田は顔を上げた。その目じりにはうっすらと涙が浮かんでいる様に見えた。
「俺は妖怪の山の麓に住む狐だった。狐は小さな家族単位で生活している。俺も例外なく家族と一緒だった。
でもあいつらが……。人里の自称猟友会とかいう連中が、俺達の家族を襲った。
後で調べたが、なんでも狐の皮を使って衣類を見繕ってみたくなったそうだ。それだけの理由だった。
父と母を撃ち殺し、姉と義兄と弟も殺した。姉は子供を身篭っていた」
「……そう」
「奴らの気まぐれかどうからわからないが、俺だけは撃たれなかった。奴らは恐怖と絶望で震える俺を見て笑ったよ。
狩りを楽しんでいたのさ。自分達人間が力関係で圧倒的上にいるということを誇示して、俺を見下して楽しんでいたんだ。
そして家族の死骸は奴らに持っていかれた。俺は自分の無力さを呪ったよ。同時に奴らへの怒りで頭がどうにかなりそうだった。
そんなのを三日三晩続けていたら、俺の身体はまるで人間の様になっていた」
「……怒りと絶望で、妖狐と化したのね」
「地獄の苦しみを味わったよ。家族を殺した憎き人間と同じ姿になってしまったんだからな。でもそれはすぐに希望へと変わった。
自分でも信じられないくらい身体から力が湧いてくるんだ。これなら奴らに復讐できる……ってね」
「……そう。ありがとう、辛いことなのに答えてくれて。……ついでといっては何だけれど、もうひとついいかしら」
「……なんだ」
「彼ら人間への復讐……。それがあなたが男を装っている理由なのかしら?」
「……わかっていたのか」
「えぇ、まぁ……最初にぶつかったときになんとなく」
「あぁ、そうさ。復讐を決意したあの日から、俺は女であることを捨てた。もう恋をする必要も、子をなす必要もない。
奴らに復讐することだけを目的に生きてきた。もっとも、その復讐もこうして滞ってしまっているけどな」
「まだ、あの男の命を狙う気なのかしら」
「あぁ、当然だ。また邪魔をするっていうならあんたでも容赦しない。
たとえあんたが俺より強くても、俺はあんたを殺して、奴を始末してみせる」
稗田の眼に、また強い意志が宿っていくのを、紫はただ見ていた。
このまま彼女が凶行を続けようというのなら、紫は賢者として、それをいかなる手段をもってしても止めねばならない。
紫は少し微笑んでから、口を開いた。いつもの胡散臭さは、消えていた。
「ねぇ、稗田さん……? あなた、家族は好きだった?」
「おかしなことを聞くな、当然さ。みんな大好きだった。兄弟仲も良かったし、義兄も姉を大切にしてくれた。
母は優しかったし、父は厳格だったけれど、自分が殺されかけていても俺の身を案じてくれていた」
「……そう」
「……血が、胸にあいた穴から血が止まらなくなっても……。うぅ……今にも死にそうなのに、私に『逃げろ』と……。
くっ、ううう……うああ」
「そう、素晴らしい家族だったのね。でも稗田さん、そこまであなたを大切にしてくれた家族が、
ひとり残ったあなたに対して、自分達の仇を取ってくれ、だなんて思うかしら?」
「……ッ!」
「あなただけは何としても生き延びて欲しい。……そう思うんじゃないかしら」
「お、お前は……! わ、私の今までの行動を無駄なことだと……! 私のやってきたことを無駄なことだと! そう言うのか!」
「あくまで私の考えよ。私には家族はいないもの。でも、いないからこそ、たくさんの家族をこの目で見てきたからこそ、そう思う」
「……そんな、馬鹿なことが……」
「私は生まれたときからひとりだった。自分と同じ種族の者すらいなかった。……家族というものが、羨ましかったわ、正直ね。
みんな、暖かで……。支え合って……。自分よりも優先する大切な相手がいる」
「……」
「いくらあなたが妖怪になったとしてもね、人間だってそこまで非力ではないわ。
昨夜あなたが撃ち込まれたであろう猟銃の弾、頭に当たっていたらあなたは今ここにいないのよ」
「うぅ……」
「自分を大切になさい。……あなたの家族はそれを一番望んでいるはずよ」
「う、うあああああああ……」
稗田の眼から大粒の涙がこぼれた。
紫は稗田をその胸に強く抱き寄せ、頭を撫でた。
家族を望む者と、家族を失った者。不思議な絆が紡がれていくのを、紫は感じずにはいられなかった。
「……稗田さん。稗田さん」
「んぁ……」
稗田は紫の胸の中で泣き疲れて眠ってしまっていた。
家の窓からはうっすらと蒼い光がさしており、あれから数時間が経過したことを示していた。
「わ、私……眠っちゃって……」
「少しは落ち着いたかしら? さぁ、いつまでもここには居れないわ。外に出ましょう」
「……えぇ」
雨はすっかり上がっていて、空には美しい虹がさしていた。
夏の朝特有の涼しい風が二人を包み、するすると眠気を取り除いていく。
「……私は、これからどうしたらいいんだろう。家族はもういない。敵討ちももう、潰えてしまった」
「そのことなんだけれど……」
「……?」
「あなた、私のところにこない?」
「えっ?」
「あなたは家族を失った。私は家族が欲しい。ちょうどいいじゃない?」
「あ……」
「ただし! 当然家族というものには序列というものがあるからね。この場合! あなたが入門してきたってことで……」
「……ことで?」
「炊事洗濯その他は任せた!」
「なっ! なんですかそれ!」
『ふふっ……あははは!』
薄っすらと明るくなった空の下で、二人はどちらからともなく笑い合った。
「……虹が、綺麗ですね」
「そうね。稗田……いつまでも偽名で呼ぶのもね。本当の名前を教えてくれるかしら?」
「名前なんてありませんよ。元野生動物ですもん」
「……それもそうね。じゃあ私が名前を付けてあげるわ。うーん……。そうだ、あれを見て」
そう言って、紫は空にかかる虹を指差した。
「虹……ですか?」
「そう。虹はね、赤、橙、黄、緑、青、藍、紫の七色からなってね。一番上が赤、下が紫なの」
「紫……。紫さんの名前ですね」
「そう、私は紫と書いて『ゆかり』。だからあなたはその上。藍と書いて『らん』。
うん、我ながら素晴らしいネーミングセンスだわ」
「藍……。私の、名前……」
紫は、藍が知る中で一番の微笑を、藍に見せた。
藍の中にもう感じることはないであろうと思っていた暖かな感情が、確かに芽吹くのを、彼女は今、感じた。
「だから藍。いつまでも、私の隣にいなさい」
「……はい!」
「らーんー。おなかすいたー。朝ごはんは~」
「紫様……寝ぼけたまま歩くとまた……」
「ぐわぁっ!」
「言わんこっちゃない。いくら朝に弱いからって毎度毎度壁に頭ぶつけて……」
「いだだ……。仕方ないじゃないの。頭は覚めなくてもおなかは空くんだから」
「まったく……。それにいい加減その中年男性みたいな悲鳴あげるのどうにかなりませんか?
一応乙女なんですから……見た目だけは」
「えぇいうるさいだまれ! ……あぁ、大声出したから頭に響く……」
「まったくこの人は……! 朝ごはん、もうできてますよ。今持っていきますから、先に席についていてください」
「はーい」
「うん、おいしいおいしい」
「それはどうも」
「……ねぇ、藍。私が寝てる間、雨降ったの?」
「あぁ、けっこう強かったですよ。ついさっきあがりましたけどね」
「虹、出てるわね」
「あら、本当」
「んふふふふ~」
「何ですかニヤニヤしちゃって」
「いやー。なんか藍との運命の出会いを思い出しちゃってねー」
「……もう何百年以上も前の話なのに、よく覚えてますね」
「あら、藍は忘れちゃった?」
「……覚えていますよ。ちゃんとね」
「……そ。さて、ごちそうさま。それじゃ私は二度寝するから」
「ちょ、ちょっと紫様それはないでしょう?」
「おやすみー」
「……行ってしまわれた。やれやれ。
……虹、か。
ふふっ、さて、天気もいいし洗濯でもしようかな!」
-Fin-
つい先ほどまで夕立で土砂降りであったが、湿った空気を夜の冷たい風が洗い流して、とても気持ちの良い夜だった。
男も、先ほどまでは「ついに夏の夜がきたか、川の音や虫の声に耳を傾けながら飲む酒は乙なものだな」などと良い気分に浸っていた。
だが今、男は生きるか死ぬかの瀬戸際に居た。
夜の道をふらふらと歩いていたら、いきなり後ろから斬り付けられた。
通り魔か、はたまた物の怪か。辺りは暗くその顔を確認することはできない。
「言い残すことは、ないか」
「い、言い残すことだぁ……?」
「そうだ。俺は今からお前を殺す。言い残すことがあれば今言うといい。お前の死はもう避けられないのだから」
「こ、この野郎……! 何をふざけたことを……っ!」
男は動くことができない。背中を何かで抉られた様だった。言葉を発することさえも、辛い。
「なん……ぐっ、なんの恨みがあって……!」
「わからないのか? ……ふふっ、そうか、わからないよな。まぁいい、では死ね」
男は、月明かりに照らされたその正体不明の顔を、今ここで初めて見た。その顔は笑っていた。とてもとても歪な笑みだった。
それを確認できたのと同時に、男の意識は途切れた。
「フフ~ン♪ ゆっかりんは~♪ まっだ16だっから~♪」
気まぐれで人里を散歩していた幻想郷の賢者、八雲紫。
何があったかは知らないが、彼女は良い気分だった。良い気分過ぎて、曲がり角の影から現れた男に気付かず衝突した。
「きゃっ!」
「ぐわぁっ!」
「あいたたた……。こ、腰が……」
「すみません、お嬢さん。大丈夫ですか?」
「お、おじょっ!」
主にお嬢さんの部分に反応した紫は、すくっと立ち上がり、ぶつかった男の顔をまじまじと見る。
顔の整った金髪の男だった。身長はあまり高くなく、紫より少し低い程度で、体格も細い。優男というイメージがぴったりだった。
(あら……ちょっとイケメン……)
「わ、私は大丈夫ですわ。おほほほ」
「そうですか、ならよかった。……ところでお嬢さん、これからどちらに向かわれるので?」
「あら、もしかしてナンパってやつかしら?」
紫の顔から思わず笑みがこぼれるが、一方の優男は苦笑いだった。どうやらそういうわけではないらしい。
「い、いえ……。そのですね、もし特に用がないのならば、街中の方には行かない方がいい。
あまりこういったことは口には出したくないのですが、その……。今朝、人が殺されてるのが発見されたんです」
「……あらあら。殺人事件、ですか」
「……おそらくは。惨ったらしいやり方でした。全身を酷く切り裂かれていて」
「酷い話ですわね。……わかりました、今日はもう帰路に就くことにしますわ。わざわざありがとうお兄さん。
えぇと……よかったら名前をお聞きしてもよろしいかしら?」
「……えっ? あ、えっと……ひ、稗田と申します。えと、以後お見知りおきを」
「……そう。稗田さん、ね。また会えるといいわね、では」
そう言って紫は踵を返した。偶然知り合った稗田という男と、人里の殺人事件。
大妖怪が何を思うのか、その胡散臭い表情からは何も読み取ることはできなかった。
「また一人、殺されたんだってね」
博麗神社。ある意味幻想郷の全てを司るといっても過言ではないこの場所に、紫は赴いていた。
「……まるで他人事ね、博麗の巫女さん」
「私は妖怪退治専門だからね。人間同士のいざこざまで請け負っては身が持たないわ。どこかの誰かさんの結界管理がザルなおかげでね」
「酷い言い草ね。まったく……どうしてこう博麗の巫女はたまーにこういう不良ちゃんが混じっちゃうのかしら。
十代に一人くらいあなたみたいな金にがめついだけのダメ巫女が現れる。まったく困ったものだわ」
「ご自身がお年を召されている故の愚痴を寿命が短い人間に語りますか」
「ぐっ……」
喧嘩腰ではあるが、他愛のない会話だった。二十年以上の付き合い故の取り留めのない会話だ。
ただ一つ、人が殺されたという話題から始まったという部分を除いては。
「……で、また同じ殺され方なの?」
「そうよ。これで三人目かしらね」
初夏の夜の通り魔事件は、まだ終わってはいなかった。
それどころか、人里を包む闇はますますその残酷さを増し、人々の心を蝕んでいたのだ。
「しかしまぁ、酷い話よね。全身を切り刻まれて……。よっぽど恨みを買ってなきゃこんな最期迎えないわよ普通」
「……そうね。やれやれ、寿命が短い故の人間の心は、一体何を考えているのやら。私には想像もつきませんわ」
「人間の心、ねぇ。……人間だったらいいんだけどね」
「……」
「一応、いつでも動けるように準備はしておくわ」
さすがに四人目ともなれば、相手側も相応の準備はしているものだろう。
あの中では一番線の細い気の弱そうな男だったが、いや、気の弱そうだった故か、自衛というものに敏感だったのかもしれない。
腹部からは留処なく鮮血が流れ出ていた。
だが、痛みはもう殆どない。
自分の身体が仲間達と遠く離れたものになってしまったのを、妖怪は嘆いた。
だがそれと同時に、憎むべき人間の命を意図も簡単に奪うことが可能のなったという事実を、妖怪は神に感謝した。
梅雨の真っ只中だというのにその日は一粒の雨すら降らず、蒸し暑さに胸がつかえる六月の夜だった。
「やれやれ、熱いわね今日は……」
まだ日が昇ってそう遠くない時間、紫は人里へと足を運んでいた。
「あっ、あなたは……」
「……あら、えっと……稗田さん、だったかしら?」
「えっ、あぁ、そうです。覚えていてくださいましたか。えぇと……」
「あぁ、ごめんなさい。まだ名乗ってなかったわね。私は八雲紫と申しますわ。むらさき、と書いてゆかり」
「そうですか。良いお名前ですね、綺麗な名前だ」
「うふふ、ありがとう」
この日、紫は稗田と再会を果たした。
年頃の男と女……紫は見た目だけだが、それが再開を果たせば、多少なりとも色のある会話になるだろう。
しかし、一連の事件がそれを拒み、暗く嫌な会話へと二人を導いていった。
「もしかしたら耳に入っているかもしれませんが、以前お会いしたときの事件……もう三件目ですか」
「えぇ……そうらしいですわね。恐ろしいわ」
「犯行は何れも夜中……昼間は安全だろうとしても、これではおちおち外出もできませんよ。困った物です」
稗田が語るように、もう朝の九時を回っているというのに、街道にはまったくといっていいほど人足がなかった。
もう三人も殺されているのだから、無理もないことだった。
「まぁ、こんなところで立ち話もなんですし……。よかったらお茶をしにいきませんか? 一応店は営業している様なので」
「あら! 今度こそこれはナンパね! うふふ、まだまだ私も捨てたもんじゃないわね、よろこんでご一緒させていただきますわ」
「紫さんはどちらにお住まいになられているので?」
「えっ? あぁ、なんていうか……けっこう遠くですわ。周りになにもないから、こうしてたまにここに遊びにきますの」
「そうなんですか……。うーん、そうなると今はタイミングが悪かったとしかいえないですね」
「仰るとおりですわ……。あぁ、ちなみに稗田さんはどこに……」
稗田さんはどこに住んでらっしゃるの? そう尋ねようとした紫の顔を、稗田の腕が覆い隠した。
「ど、どうなさったの?」
「……また、です」
「……え?」
「新たな犠牲者です。そこに倒れています……。すいません、今日はもう帰りましょう。俺から誘っておいて申し訳ありませんが……」
「……稗田さん、腕をどけてくださる?」
「なっ……ダメです。あなたの様な若い女性が見ていいものではない」
「稗田さん、私はあなたが思っているほど弱い女ではありませんわ。
それに見なくてはいけない。私達が住むこの幻想郷が、残酷な殺人鬼に蝕まれている。
私達はそれを確認し、考え、対策し、幻想郷を守る義務がある。……そうでしょう?」
「……わかりました」
稗田はゆっくりとその細い腕を下げた。
そして紫の視界に入ってきたそれは、とてもこの世の物とは思えない、とても無残な。
だが確かに、この幻想郷を担う一部である人間だったモノだった。
「……酷い有様ですわね」
「……えぇ。今までの三人とまったく同じだ。全身を深く切り裂かれ、恐怖に満ちた表情のまま絶命している……。惨い」
「……猟銃を持ってるわね。もしかして自分が殺されるかもしれないとわかっていたのかしら」
「さぁ、もういいでしょう。俺は里の自警団に連絡して現場の処理を行ってもらいます。紫さんはもうお帰りください」
「……えぇ、わかったわ。ところで稗田さん」
「……何か?」
「お召し物に穴があいてしまっていますわ。ほら、お腹のところ」
「あっ……。これはお恥ずかしい。どこかに引っ掛けたかな」
「よかったら私が繕って差し上げましょうか?」
「い、いやいや、ここで服を脱ぐわけにもいきませんし、大丈夫です。大丈夫」
「ふふっ……そう。ではごきげんよう……って言い方もおかしいわね。稗田さん、お気をつけて」
「えぇ、紫さんも」
稗田が見えなくなるところまで移動した紫は、だんだんと雨雲が立ち寄せる鈍色の空に向かって、静かに口を開いた。
「聞こえるかしら、怠惰な巫女さん? 今回の件は、この八雲紫が方を付けますわ」
復讐は今日で終わる。
あの憎々しい男を、この世に生を受けたことを後悔する様な惨ったらしいやり方で殺し、彼の復讐は完了する。
その後どうするかはわからない。まだ考えてもいない。
復讐が終わっても家族は戻ってこない。この身体もおそらくもう戻らないだろう。
でもそれでもいい。いや、今の自分にはそうすることしかできない。
夕方に降り出した雨は、ますますその勢いを増し、一メートル先の視界すらよく見えない。
でも彼は臭いでわかった。
その男が今どこにいるか、次に殺されるのがおそらく自分なのかもしれないと怯えているであろうその男がどこで何をしているか、
彼には手に取るようにわかった。
その臭いを発する家屋の前で足を止める。家の中に入り込んで殺すのはこれが初めてだった。
家族もいるのだろうか。……だとしたらまとめて始末するまで。いないのならば、それでよい。
彼は豪快に戸にかかった錠前を破壊し、そして静かに、その戸を開いた。
中には男がひとり。その顔は恐怖に歪んでいた。
「……次は自分だとわかっていたようだな」
「あ……ぐぅ……。な、なんなんだてめぇは……! なんで俺の仲間を殺した!」
「仲間だぁ……? 仲間を殺したのはお前達の方だろう。その復讐なのさ、これは」
「復讐……!? ま、待てよ! 俺達はお前らみたいな妖怪に手を出したことはねぇ! それがなんだって復讐を!」
「妖怪? あぁ、そうか。俺は妖怪なんだったな。ふふ……ふふははは……」
「妖怪なんだったって……。まさかお前、いやそんな……!」
「いいんだよ、そんなことは。さぁ、殺してやるぞ。お前を殺して終わりだ」
「ま、待ってくれ! 今度子供が生まれるんだ!」
「……ッ!」
男の息の根を止めようと振り上げた腕が、止まった。
「頼む! 見逃してくれッ! 今は念のため嫁は親戚んとこに逃がしてここにはいねぇが……やっと授かった子供なんだ!
その子のためにも俺は今殺されるわけにはいかねぇんだ! 償いはする! 一生かかろうと必ずし続ける! 頼む……ッ!」
「こっ、子供など……ッ!」
「ひっ……!」
「お前らが撃った私の家族には! 姉さんのお腹の中にはっ! 赤ちゃんがいたんだ!!
それを殺しておいて自分の子供のために助けてくれなどと……! 何をほざくかァーーーーッ!!!」
「そこまでよ」
「なっ……!」
ありったけの憎悪を込めて振り下ろしたその腕は、男に寸前で、何者かによってその動きを停止させられた。
状況を理解できない妖怪がその目で見たものは、空間に浮かぶ不可解な隙間から上半身だけを出した、半日前に別れたばかりの女だった。
「ゆ、紫……さん……」
「馬鹿なことは……いえ、違うわね。こんな悲しいことはもうやめなさい、稗田さん」
「い、一体何がどうなって……!」
「そこのあなた、早くいきなさい」
「えっ?」
「え? じゃないわよ。早くここから去りなさい。そして償いなさい。生きている限り」
「あ……あぁ。あぁ!」
「お、おい! 待てよ! えぇい、離せ女ァ! 私の邪魔をするなァ!」
稗田は紫に掴まれた腕を振り解こうとするも、女とは思えない力に抵抗することができない。
男は慌てて、草履も履かずに逃げていった。
「あ、あぁ……」
稗田の腕から力が抜けたのを確認すると、紫はその手を離す。
稗田は力なく、その場にへたり込んだ。
「あんた……何者なんだ……。何故俺がこの事件の犯人とわかった……」
「私は幻想郷の賢者。頭には自信があるのよ」
「……」
「そうね……あえて説明するなら、全身をここまでズタズタに引き裂かれて殺されるなんて、ただの通り魔とは思えない。
深い恨みを持った犯行の可能性が高い。そこまで憎々しく思ってるんだもの、散々弄った後も、第三者を装って慣習に紛れて、
その様をあざ笑ってやりたいと思うんじゃないかしら。そしてあなたは今朝の遺体を見て、『今までの三人と同じだ』と言った。
殺された人間を全て見ているのよね? あなた、自警団の人間には見えないし、ただの人間がそう何度も、それもここまで惨い事件を、
毎回確実に確認しにいくものかしら?」
「そんな……ことが……」
「それに残念だけど、あなたはいろいろと怪しすぎる。稗田って名前、偽名でしょう?」
「……あぁ、そうだ」
「あなたと最初に出会ったあの場所、すぐ隣にあったものね、稗田の屋敷が。大方名前を聞かれて、
慌てて視界に入った稗田家の表札を見てそう答えたのでしょう。でも稗田は幻想郷の歴史を司る由緒正しい大家。
人里で稗田を知らない人間なんて存在しない。偽名に使うには都合が悪すぎたわね。それにあなたの服に空いていた穴と今朝の……」
「いや、もういい。もう……いい」
稗田は下を向いて動かない。紫は小さく溜め息をついて、口を開いた。
「以上があなたを疑った証拠。悪いけど後をつけさせてもらったわ。そしてこれがその結果」
「う、うぅ……」
「あなたが犯人なのはわかった。犯行も止めた。でも私が知りうるのはここまで。
……何故こうなったのかまではわからない」
「……何が言いたい」
「よかったら、話してみなさいな。何があなたをここまでの凶事に駆り立てたのかを」
「……いいだろう、話してやる」
稗田は顔を上げた。その目じりにはうっすらと涙が浮かんでいる様に見えた。
「俺は妖怪の山の麓に住む狐だった。狐は小さな家族単位で生活している。俺も例外なく家族と一緒だった。
でもあいつらが……。人里の自称猟友会とかいう連中が、俺達の家族を襲った。
後で調べたが、なんでも狐の皮を使って衣類を見繕ってみたくなったそうだ。それだけの理由だった。
父と母を撃ち殺し、姉と義兄と弟も殺した。姉は子供を身篭っていた」
「……そう」
「奴らの気まぐれかどうからわからないが、俺だけは撃たれなかった。奴らは恐怖と絶望で震える俺を見て笑ったよ。
狩りを楽しんでいたのさ。自分達人間が力関係で圧倒的上にいるということを誇示して、俺を見下して楽しんでいたんだ。
そして家族の死骸は奴らに持っていかれた。俺は自分の無力さを呪ったよ。同時に奴らへの怒りで頭がどうにかなりそうだった。
そんなのを三日三晩続けていたら、俺の身体はまるで人間の様になっていた」
「……怒りと絶望で、妖狐と化したのね」
「地獄の苦しみを味わったよ。家族を殺した憎き人間と同じ姿になってしまったんだからな。でもそれはすぐに希望へと変わった。
自分でも信じられないくらい身体から力が湧いてくるんだ。これなら奴らに復讐できる……ってね」
「……そう。ありがとう、辛いことなのに答えてくれて。……ついでといっては何だけれど、もうひとついいかしら」
「……なんだ」
「彼ら人間への復讐……。それがあなたが男を装っている理由なのかしら?」
「……わかっていたのか」
「えぇ、まぁ……最初にぶつかったときになんとなく」
「あぁ、そうさ。復讐を決意したあの日から、俺は女であることを捨てた。もう恋をする必要も、子をなす必要もない。
奴らに復讐することだけを目的に生きてきた。もっとも、その復讐もこうして滞ってしまっているけどな」
「まだ、あの男の命を狙う気なのかしら」
「あぁ、当然だ。また邪魔をするっていうならあんたでも容赦しない。
たとえあんたが俺より強くても、俺はあんたを殺して、奴を始末してみせる」
稗田の眼に、また強い意志が宿っていくのを、紫はただ見ていた。
このまま彼女が凶行を続けようというのなら、紫は賢者として、それをいかなる手段をもってしても止めねばならない。
紫は少し微笑んでから、口を開いた。いつもの胡散臭さは、消えていた。
「ねぇ、稗田さん……? あなた、家族は好きだった?」
「おかしなことを聞くな、当然さ。みんな大好きだった。兄弟仲も良かったし、義兄も姉を大切にしてくれた。
母は優しかったし、父は厳格だったけれど、自分が殺されかけていても俺の身を案じてくれていた」
「……そう」
「……血が、胸にあいた穴から血が止まらなくなっても……。うぅ……今にも死にそうなのに、私に『逃げろ』と……。
くっ、ううう……うああ」
「そう、素晴らしい家族だったのね。でも稗田さん、そこまであなたを大切にしてくれた家族が、
ひとり残ったあなたに対して、自分達の仇を取ってくれ、だなんて思うかしら?」
「……ッ!」
「あなただけは何としても生き延びて欲しい。……そう思うんじゃないかしら」
「お、お前は……! わ、私の今までの行動を無駄なことだと……! 私のやってきたことを無駄なことだと! そう言うのか!」
「あくまで私の考えよ。私には家族はいないもの。でも、いないからこそ、たくさんの家族をこの目で見てきたからこそ、そう思う」
「……そんな、馬鹿なことが……」
「私は生まれたときからひとりだった。自分と同じ種族の者すらいなかった。……家族というものが、羨ましかったわ、正直ね。
みんな、暖かで……。支え合って……。自分よりも優先する大切な相手がいる」
「……」
「いくらあなたが妖怪になったとしてもね、人間だってそこまで非力ではないわ。
昨夜あなたが撃ち込まれたであろう猟銃の弾、頭に当たっていたらあなたは今ここにいないのよ」
「うぅ……」
「自分を大切になさい。……あなたの家族はそれを一番望んでいるはずよ」
「う、うあああああああ……」
稗田の眼から大粒の涙がこぼれた。
紫は稗田をその胸に強く抱き寄せ、頭を撫でた。
家族を望む者と、家族を失った者。不思議な絆が紡がれていくのを、紫は感じずにはいられなかった。
「……稗田さん。稗田さん」
「んぁ……」
稗田は紫の胸の中で泣き疲れて眠ってしまっていた。
家の窓からはうっすらと蒼い光がさしており、あれから数時間が経過したことを示していた。
「わ、私……眠っちゃって……」
「少しは落ち着いたかしら? さぁ、いつまでもここには居れないわ。外に出ましょう」
「……えぇ」
雨はすっかり上がっていて、空には美しい虹がさしていた。
夏の朝特有の涼しい風が二人を包み、するすると眠気を取り除いていく。
「……私は、これからどうしたらいいんだろう。家族はもういない。敵討ちももう、潰えてしまった」
「そのことなんだけれど……」
「……?」
「あなた、私のところにこない?」
「えっ?」
「あなたは家族を失った。私は家族が欲しい。ちょうどいいじゃない?」
「あ……」
「ただし! 当然家族というものには序列というものがあるからね。この場合! あなたが入門してきたってことで……」
「……ことで?」
「炊事洗濯その他は任せた!」
「なっ! なんですかそれ!」
『ふふっ……あははは!』
薄っすらと明るくなった空の下で、二人はどちらからともなく笑い合った。
「……虹が、綺麗ですね」
「そうね。稗田……いつまでも偽名で呼ぶのもね。本当の名前を教えてくれるかしら?」
「名前なんてありませんよ。元野生動物ですもん」
「……それもそうね。じゃあ私が名前を付けてあげるわ。うーん……。そうだ、あれを見て」
そう言って、紫は空にかかる虹を指差した。
「虹……ですか?」
「そう。虹はね、赤、橙、黄、緑、青、藍、紫の七色からなってね。一番上が赤、下が紫なの」
「紫……。紫さんの名前ですね」
「そう、私は紫と書いて『ゆかり』。だからあなたはその上。藍と書いて『らん』。
うん、我ながら素晴らしいネーミングセンスだわ」
「藍……。私の、名前……」
紫は、藍が知る中で一番の微笑を、藍に見せた。
藍の中にもう感じることはないであろうと思っていた暖かな感情が、確かに芽吹くのを、彼女は今、感じた。
「だから藍。いつまでも、私の隣にいなさい」
「……はい!」
「らーんー。おなかすいたー。朝ごはんは~」
「紫様……寝ぼけたまま歩くとまた……」
「ぐわぁっ!」
「言わんこっちゃない。いくら朝に弱いからって毎度毎度壁に頭ぶつけて……」
「いだだ……。仕方ないじゃないの。頭は覚めなくてもおなかは空くんだから」
「まったく……。それにいい加減その中年男性みたいな悲鳴あげるのどうにかなりませんか?
一応乙女なんですから……見た目だけは」
「えぇいうるさいだまれ! ……あぁ、大声出したから頭に響く……」
「まったくこの人は……! 朝ごはん、もうできてますよ。今持っていきますから、先に席についていてください」
「はーい」
「うん、おいしいおいしい」
「それはどうも」
「……ねぇ、藍。私が寝てる間、雨降ったの?」
「あぁ、けっこう強かったですよ。ついさっきあがりましたけどね」
「虹、出てるわね」
「あら、本当」
「んふふふふ~」
「何ですかニヤニヤしちゃって」
「いやー。なんか藍との運命の出会いを思い出しちゃってねー」
「……もう何百年以上も前の話なのに、よく覚えてますね」
「あら、藍は忘れちゃった?」
「……覚えていますよ。ちゃんとね」
「……そ。さて、ごちそうさま。それじゃ私は二度寝するから」
「ちょ、ちょっと紫様それはないでしょう?」
「おやすみー」
「……行ってしまわれた。やれやれ。
……虹、か。
ふふっ、さて、天気もいいし洗濯でもしようかな!」
-Fin-
もう少し何かが足りない
お見事でした
なんともストレート
それだけが気になりました。
まさかの俺=藍様とは!
良い意味で予想外でした。
お話も手堅くまとまっていて読みやすいです。
が、言ってみればありきたりの筋書きでもあります。
もう一ひねり、二ひねり欲しいところ。
次回作にも期待しています。