幾らも屍体をまたいだところで、鼻の奥を突く凄惨のにおいを消せるわけがない。
いくさの後はいつもこうだ。人間どもの累々たる死が山野の限りを埋め尽くし、あんなにもうつくしかった山の風景に血とはがねの跡ばかり刻み込んで、土のにおいを腐蝕めいた鉄のにおいへと一変させてしまう。豊饒ないくさの後は、同じくらい豊饒な死だけが実るに過ぎない。けれども今日の小競り合いでは、どちらが戦いを仕掛けたのか、文にはあずかり知らないことだった。
人間の里はおろか天狗たちの政(まつりごと)にすらそれほど興味はなかったし、今日のことだって、杉の木の葉影に身を隠して昼寝をしていたら、遠くの方で雷の失敗作みたいな鉄砲の音が聞こえてきたから、気になって様子見に行ったまでのこと。それで、はがねの太刀と鉛の弾が自分に向けて殺到したから、やむを得ず目についたやつを手当たり次第に討ちまわった。人間たちの方だって、同じことを考えていただろうから、どちらが悪いと責める気もない。
しかし血気盛んな若い天狗たちは早く人間たちを殺させろと息巻いていたし、夕餉の材料が増えるとうそぶく者までいて、何だかいくさそのものが死を奉じるお祭り騒ぎと意味を違えないような気さえしていた。
そのうち、肩を鉄砲で撃たれたので形ばかりも治療を受けに天狗たちの陣地に戻り、けれどその場所に居ると気が休まるどころか、他の天狗たちの意気軒昂ぶりを何だか妙に窮屈に思うばかり。「若いって良いものですねェ。青春、青春」と冗談を飛ばしたら、睾丸を蹴り潰された男の天狗――どうも顔だけしか思い出せない――が大笑いしながら無事な方の肩をばんばんとぶッ叩いてきて、あまりうっとうしかったのでひと睨みしたら目を逸らされた。
だったら始めからやらないでくれよう、と、声に出すまでのこともなく、申し訳なさそうな顔をして彼は陣地を出ていった。たぶん、首の代わりに人間から削ぎ落したのだろう鼻や耳にひもを通して首飾りみたいにぶら下げている様に、自分よりよっぽど妖怪の本分を果たしていると文は思わないこともない。感心。
そうこうしているうちに「ひゅうう」と鏑が空を裂いていく音が聞こえてきた。いくさが終わったと見た誰かからの合図だろう。あるいは、人間たちの退却か。いずれにせよ、今日のいくさはみな終わって、じきに陣地も引き払われた。ここが痛い、あそこが潰れた、嗚呼しんどいしんどい、と言いつつも、他にやることもない暇な連中だ、たまのいくさは最高の暇つぶし。それは文とても例外でないのだし、人間を襲わなければ妖怪という存在自体がいずれ立ち行かなくなる。であるから、何だかんだと自分の役目をよくし遂げるやつらばかり。それにどうせ怪我をしても直ぐ治る。
ひとりきりになった文は、散歩代わりにいくさ場を、泳ぐみたいにふらついてみる。
耳をわずかに弄する冷たい風に寒気を覚えながら、あちらを眺め、それからこちらも見つめ……。
辺り一面、いくさの後に残されたのは、手も足もひとそろいでない屍体。誰だか判らないほどに顔面を叩き潰された屍体。槍でみぞおちを一突きにされた屍体、背中を撫で斬りにされた屍体、喉を締め圧されて窒息した屍体。屍体の山。また屍体。
夜に入って少し涼しくなったとはいえ、昼下がりから放置されている死人のこと、いずれは腐り果てて肉はでろでろと溶け流れる。熱心に信じる神や仏のあるでもないが、ばかばかしいまでに憐れな人間たちの死を見るにつけ――あやややや、おかわいそうに、これで三途の川を渡ってくださいなと、六文銭でも奉じてやるつもりになりはしたけれど、妖怪に弔われて嬉しい人間が居るとも思えないからやっぱり止めた。
そのうちに、ぴたと風の止んでしまうときがあった。
すると、どこからともなく、女の声が聞こえてくる。
泣き声。すすり泣く声。無性にその声の主が気になって、這うような心地でそちらへ向かった。空を飛んで俯瞰するつもりにはなれなかった。そんなことをしたら、夜というものは途端に無粋な時間になる。とりわけ、多くの死が大地を疾駆した日の夜は。そういう夜にひとりでいるときは、世界の沈黙がより凄惨であることを知らなければならないのだから。
薄ら禿げた老兵の頭にけつまずいて、危ないなあと独語するその向こう側に声の主は居た。帰り血で真っ黒に染まった童水干は、もともと真っ白な色をしていたはずだ。いくさのために男装をしているのだとは申せ、その小柄なことで容易に少女であるのが知れる。背に負うた鞘からは太刀がすっぽ抜けていて、今やどこにあるのかも解らない。折れたつるぎ、棄てられた刀、辺りはそういうものだらけだ。もしかしたら、その中に紛れ込んでしまっているのか。
真っ白な髪の毛から突き出た獣の耳も雨に降られたみたいに萎れていて、狼か犬だか紙を丸めたごみくずだか、形だけではまるで解らないのだった。“そいつ”が、屍体にその身を囲まれている。ぺたんと地面に座り込んで、尻尾をだらりと土に浸し、ひんひんと泣き、ぐすぐすと鼻をすすり、一生懸命に両手の甲で目蓋をこすっているというみっともない後ろ姿。
「椛」
と呼びかけたのは、あ、こいつ何だか泣いてやがるぜという、意地悪い理由もないではなかったけれど、それを表面に押し出して話をするには、今日の射命丸文は少しばかり憂鬱だからだった。彼女らしくもなく、うさんくさく笑んでみる気にもなれない夜だ。たぶん、いくさのせいで疲れたのだと思う。あるいは、人間の腐っていくにおいで頭の中身までいかれてしまったのか。
「文さま」
と、その少女は、ゆっくりと振り返った。
実直ではあるが、利発そうというほどでもない顔立ち。早い話がばかなのだが可愛らしいといえば可愛らしいと言うこともできる、よく馴染みの白狼天狗。はあ、はあ、と、彼女の息は乱れ切っていた。泣きすぎて、上手く呼吸ができないのだろう。眼の端を真っ赤に泣き腫らし、鼻水とよだれと汗で顔中がぐしゃぐしゃだ。本物のけだものでも、そんなどうしようもない顔は見せないというのに。
「傷が痛むの」
文がそう訊いたのは、椛の顔面があまり真っ黒く染まっていたから。夜にあってもなお一際に黒いその血の色は、空っぽになった彼女の右の眼窩から漏れ出ていた。どんな痛みがあったのか文には知る由もない。しかし、完全に潰れてしまっているらしい椛の右の眼の代わりにぽっかりとはめ込まれているものは、涙でなしに赤黒い肉の空虚さだけだった。
鉄砲で右の眼を撃たれました――と、椛は答えた。
「指先を突っ込んで弾を取り出すときは、ことのほか、よく痛みました。爪先に挟まった眼球の破片を舐め取ったのは、私も初めてでした。しかし、もう平気です」
「ならば、なぜ泣くのです」
文は怪訝な顔をした。
犬走椛とは、彼女が老いた牝狼から天狗に化身してからの付き合いだけれど、彼女が大泣きしているときというのは、大抵、何かの秘密をひとりで抱え込んでしまっているときだった。本人は大まじめに隠し通そうとしているらしいのだけれども、元がそれほど頭のよくないやつだから演技もいまいち下手くそで、あっという間にばれてしまうのが常なのである。
首をひねって疑問を表明しようとした矢先、椛がひときわ大きく、洟(はな)をすすった。それで余計にみっともなさに拍車がかかるのを棄て置けず、漸う、文は椛に駆け寄る。何も言わずに数枚の懐紙を取り出して突きつけると、椛はそれを手にとって洟をかむ、よだれをふく。
おとなしくしていて。そう言うと少しの間だけ、椛は泣きやんだようだった。最後に一枚残った紙で、顔面にこびりついた血の膜やかたまりを、文はていねいにふき取ってやった。その間、椛は上下の歯を口中で弱々しく打ちつけ、何度も何度も自分の唇を舐めていた。柔らかい人の形の肌と、その奥から飛び出、ひび割れてしまった真っ白い骨の硬さが、指先におかしな痛みをくりかえし与えた。右眼があったはずの場所をのぞき込むと、湿ったあたたかさが文の嗅覚を包み込んだ。生き物の命のあたたかさ、剥き出しになった魂の温度。
「月を、探しておりました」
椛は薄らと――本当に薄らとした微笑だけを浮かべていたけれど、それはお面を貼りつけてみるよりもさらに粗末な芝居に見えた。脚を組み替えてあぐらをかき、ごくりと唾を飲み干す彼女。呆然と立ったままの文を、空の右眼がじいと見つめた。くしゃくしゃと、椛の血を吸い込んだ紙くずが手の中で擦れる。
「月を、」
探す? 言い差して、否、違うと直ぐに気づいた。
椛は自分を見ているのでなく、その向こうにある夜空を見つめていたのだ。言葉通りに月を探すためなのだろう。ふと、文も振り返って椛と同じ空を見た。分厚い雲が空のごく高いところに根を張って、しばらくは月はおろか星の光さえもはっきりとは見えそうにない。しかし、その裏側には確かに、あの蒼白い球体を感じる。その光は地上に住まうすべての妖怪に等しく作用する。肉体の奥底からじわりじわりと染むようなそれは、元から魂の内側にでも存したものなのか、それとも月から新たに賜ったものなのか。
椛は、その月を探すという。
千里の先を見通す彼女なら、空(から)の眼でもその影くらいは見分けられようものを。
「月を探して、どうします」
「はい」と、椛は弱々しく返事をし遂げ、
「月の光は、生き物を狂わせるのです」
そう、継いだ。
「どうにも話が見えてきませんが」
と言ったのは、文の偽らないところ。
「おまえは、狂人に憧れるのですか」
「そうであるのかもしれませぬ」
椛は、笑いを深めた。
「でも、椛には月が見つけられないのです。だから、私はかなしくて泣いていました」
緩慢な動作で彼女は立ち上がり、どこかに行き過ぎるようにして文の横に立った。すると、文の視界には、もう椛の潰れた眼の他には何も見えなくなるのだった。
「文さま。月は人も妖怪も狂わせるのでしょう。それであるならこんないくさにも、いっとう、立派な理由をつくることができるはずだと思うのです。世の人が、悉皆、月の光で狂っていくのだとすれば。むろん犬走椛も狂人であれば」
そう言う椛の横顔には、未だ血の跡が薄く残っていた。
表情は恍惚に吊り上げられ、どこか引きつっているようにも見える。隻眼になったことで、顔の印象そのものが変化したのだ――そう思うには未だ何かが足りない。あとひとつ、何かが加わっているとすれば、それは彼女の言う狂気の雛形なのだろうか。
「あなたは、人間たちの最期の顔をご覧になったことがありますか」
さて、――おかしな問いを発する犬だ。
それこそ千年に近いその齢、朝夕に食む米粒と屠ってきた人間の数と、どっちが多いか知らないが、ともかくも両手足の指ではまるで足りないだけ多くの人間を文が殺してきたのは確かなこと。喰うためでもあり、いくさの中でもあり、花の代わりに手折るのでもあり。人間の死ぬときの顔など、腐るほど見てきたはずだ。
「私たちは妖怪でしょうが。人の世の生き死になぞ、飽いてしまうほどに見慣れてきた」
「むろん、その通りです。そして人間は狂ったようにして死んでいきます。狼のような牙も持たず、鴉と同じ空も飛べぬままに。ただその代わりに彼らが持っているものは、獣とは似ても似つかぬはがねの武器と、妖怪よりはるかに弱々しいその肉体。そして、それらを崇高なのだろう死に駆り立てるだけの、あらゆる言葉です。何を掲げていようが、いくさは最後に血を流す。ならば行いそのものを為す、最初の根は、純然の魂ではありませぬか」
椛の喉が蠢いた。
「そうやって死ぬことの高潔がうつくしいというのなら、月に衝き動かされて死ぬ狂気は、言葉を用いないぶん、さらに純然で、うつくしいと思うのです」
汗でてらてらと光るその部分は、地を這う大蛇の腹がごとく。
文は、しばし見とれてしまった。
犬走椛はどちらかといえば寡黙な方で、そんな彼女が、饒舌に自分自身の憧れを語ることは、かつて無かったからだ。それだけなら、“おかしなこと”で片づくかもしれなかった。けれど、なおも空を見上げて月を探しているらしい彼女の空の右眼の暗闇には、まるで茫漠とした地獄の深みをひたすらに見つめているような不気味さが宿っていた。深淵をのぞき込むとき、深淵もまた汝をのぞき込む。頭のいかれて死んだ男の、そんな言葉を思い出した。犬走椛――射命丸文が見つめる深淵は、しかし、自分自身は別の深淵を必死に探しているのだ。その底で燃え盛っているだろう炎の熱を映すための眼を、持たないままに。
「少なくとも、」
と、文は言った。
「人間たちにとっては、“われわれ”の存在自体が狂気のようなものでしょう。自らの概念の箱庭の中で、知らずに育てた恐怖と戦っている」
そんな言葉も、椛にとっては気休めにさえならないだろう。
はあ――! 大きな溜め息を吐いたのは、果たして呆れのためだったのか。
「狂っていることと、狂わせることとは、同じなのでしょうか」
しきりに頬をぬぐおうとする椛の指に、何かの滴が滴っていた。
それが涙なのか、血なのかは解らない。天狗の視覚は夜闇に盲い、嗅覚もまたいくさの後の血とはがねのにおいに潰されている。確かなことは、わずかに見え始めた月の蒼白さが椛の姿を逆光に埋め、その表情をはっきりと読み取らせてはくれないということだけだ。
「狂気そのものであるよりは、狂わされる己が欲しいと願うのは、妖怪の分を外れた考えなのでしょうか。それとも、これはひどく、人間じみた考えなのでしょうか」
雲間から降り注いでくる星明かりが、痛かった。
文は息を呑んだ。次いで、舌を打ちたい思いに駆られた。
人を蔑むことが妖怪の嗜みなら、確かに椛は人間に近づきすぎている。今の犬走椛は射命丸文には決して到達できないところに立っていたし、最も唾棄すべき存在にもなっていた。しかし、不思議と眼を逸らす気にはなれなかった。今、自分の目の前でひとりの妖怪が死んでしまうのだとするのなら、その最期を看取ってやるのは自分だけができる務めだと思ったからである。みっともなくすすり泣く狼。右眼の欠けた隻眼の天狗。
「妖怪である自分を殺すつもりですか」
そう訊くと、
「いっそ、それも良いのかもしれませぬ。ちょうど、介錯にためらいの無さそうなお方が目の前に居りますから」
と、皮肉。
「私には、私の狂気がありませぬ。妖怪の正気のままで、いくさに望むことには倦みました。それだから他の何かに狂わされ、それを理由にして生き、死ぬことに、ときどき、ひどく憧れるのです。いつか、私は私がまるで空っぽであることに気づいたときから、月に恋をした。たとえば他者を愛するのがそうであるごとく、月のうつくしさに仮託すべき死やいくさの何かがあれば、どんなにか、私はしあわせだったことでしょう」
椛は、本当は何が欲しいのだろう。
自分を死なせてくれる神や、魂の中心まで焼く聖なる地獄がそれだろうか。
否、それよりも、あらゆる恐怖にさいなまれる、たったひとつの自分自身だろうか。
月を探している、なんて曖昧な言葉の詐術でごまかしている彼女は、きっとどこまでも孤独を気取っているのだろう。誰に癒すべくもない孤独。屍体ばかりが氾濫するいくさの後に訪れる、ざわざわとした孤独だ。それは死でも癒せない。生き続ける限り、犬走椛という天狗がこの地上を歩く限り、月を恋いうる彼女の孤独は永劫に続く。
たとえば今この場で殺しても。
射命丸文が、その頸を押しひしいで、最後のひと息まで締め尽くしても。
「そんなばかげた感傷を、私に話したのはどうして」
何度目か問うと、椛は、にこりと笑った。
見飽きるくらいに見慣れてしまった、ばかな犬らしい笑みで、彼女は言った。
「さあ。私の隻眼をいちばんに嘲笑ってくれそうな人が、きっと文さまだったからでしょう」
いくさの後はいつもこうだ。人間どもの累々たる死が山野の限りを埋め尽くし、あんなにもうつくしかった山の風景に血とはがねの跡ばかり刻み込んで、土のにおいを腐蝕めいた鉄のにおいへと一変させてしまう。豊饒ないくさの後は、同じくらい豊饒な死だけが実るに過ぎない。けれども今日の小競り合いでは、どちらが戦いを仕掛けたのか、文にはあずかり知らないことだった。
人間の里はおろか天狗たちの政(まつりごと)にすらそれほど興味はなかったし、今日のことだって、杉の木の葉影に身を隠して昼寝をしていたら、遠くの方で雷の失敗作みたいな鉄砲の音が聞こえてきたから、気になって様子見に行ったまでのこと。それで、はがねの太刀と鉛の弾が自分に向けて殺到したから、やむを得ず目についたやつを手当たり次第に討ちまわった。人間たちの方だって、同じことを考えていただろうから、どちらが悪いと責める気もない。
しかし血気盛んな若い天狗たちは早く人間たちを殺させろと息巻いていたし、夕餉の材料が増えるとうそぶく者までいて、何だかいくさそのものが死を奉じるお祭り騒ぎと意味を違えないような気さえしていた。
そのうち、肩を鉄砲で撃たれたので形ばかりも治療を受けに天狗たちの陣地に戻り、けれどその場所に居ると気が休まるどころか、他の天狗たちの意気軒昂ぶりを何だか妙に窮屈に思うばかり。「若いって良いものですねェ。青春、青春」と冗談を飛ばしたら、睾丸を蹴り潰された男の天狗――どうも顔だけしか思い出せない――が大笑いしながら無事な方の肩をばんばんとぶッ叩いてきて、あまりうっとうしかったのでひと睨みしたら目を逸らされた。
だったら始めからやらないでくれよう、と、声に出すまでのこともなく、申し訳なさそうな顔をして彼は陣地を出ていった。たぶん、首の代わりに人間から削ぎ落したのだろう鼻や耳にひもを通して首飾りみたいにぶら下げている様に、自分よりよっぽど妖怪の本分を果たしていると文は思わないこともない。感心。
そうこうしているうちに「ひゅうう」と鏑が空を裂いていく音が聞こえてきた。いくさが終わったと見た誰かからの合図だろう。あるいは、人間たちの退却か。いずれにせよ、今日のいくさはみな終わって、じきに陣地も引き払われた。ここが痛い、あそこが潰れた、嗚呼しんどいしんどい、と言いつつも、他にやることもない暇な連中だ、たまのいくさは最高の暇つぶし。それは文とても例外でないのだし、人間を襲わなければ妖怪という存在自体がいずれ立ち行かなくなる。であるから、何だかんだと自分の役目をよくし遂げるやつらばかり。それにどうせ怪我をしても直ぐ治る。
ひとりきりになった文は、散歩代わりにいくさ場を、泳ぐみたいにふらついてみる。
耳をわずかに弄する冷たい風に寒気を覚えながら、あちらを眺め、それからこちらも見つめ……。
辺り一面、いくさの後に残されたのは、手も足もひとそろいでない屍体。誰だか判らないほどに顔面を叩き潰された屍体。槍でみぞおちを一突きにされた屍体、背中を撫で斬りにされた屍体、喉を締め圧されて窒息した屍体。屍体の山。また屍体。
夜に入って少し涼しくなったとはいえ、昼下がりから放置されている死人のこと、いずれは腐り果てて肉はでろでろと溶け流れる。熱心に信じる神や仏のあるでもないが、ばかばかしいまでに憐れな人間たちの死を見るにつけ――あやややや、おかわいそうに、これで三途の川を渡ってくださいなと、六文銭でも奉じてやるつもりになりはしたけれど、妖怪に弔われて嬉しい人間が居るとも思えないからやっぱり止めた。
そのうちに、ぴたと風の止んでしまうときがあった。
すると、どこからともなく、女の声が聞こえてくる。
泣き声。すすり泣く声。無性にその声の主が気になって、這うような心地でそちらへ向かった。空を飛んで俯瞰するつもりにはなれなかった。そんなことをしたら、夜というものは途端に無粋な時間になる。とりわけ、多くの死が大地を疾駆した日の夜は。そういう夜にひとりでいるときは、世界の沈黙がより凄惨であることを知らなければならないのだから。
薄ら禿げた老兵の頭にけつまずいて、危ないなあと独語するその向こう側に声の主は居た。帰り血で真っ黒に染まった童水干は、もともと真っ白な色をしていたはずだ。いくさのために男装をしているのだとは申せ、その小柄なことで容易に少女であるのが知れる。背に負うた鞘からは太刀がすっぽ抜けていて、今やどこにあるのかも解らない。折れたつるぎ、棄てられた刀、辺りはそういうものだらけだ。もしかしたら、その中に紛れ込んでしまっているのか。
真っ白な髪の毛から突き出た獣の耳も雨に降られたみたいに萎れていて、狼か犬だか紙を丸めたごみくずだか、形だけではまるで解らないのだった。“そいつ”が、屍体にその身を囲まれている。ぺたんと地面に座り込んで、尻尾をだらりと土に浸し、ひんひんと泣き、ぐすぐすと鼻をすすり、一生懸命に両手の甲で目蓋をこすっているというみっともない後ろ姿。
「椛」
と呼びかけたのは、あ、こいつ何だか泣いてやがるぜという、意地悪い理由もないではなかったけれど、それを表面に押し出して話をするには、今日の射命丸文は少しばかり憂鬱だからだった。彼女らしくもなく、うさんくさく笑んでみる気にもなれない夜だ。たぶん、いくさのせいで疲れたのだと思う。あるいは、人間の腐っていくにおいで頭の中身までいかれてしまったのか。
「文さま」
と、その少女は、ゆっくりと振り返った。
実直ではあるが、利発そうというほどでもない顔立ち。早い話がばかなのだが可愛らしいといえば可愛らしいと言うこともできる、よく馴染みの白狼天狗。はあ、はあ、と、彼女の息は乱れ切っていた。泣きすぎて、上手く呼吸ができないのだろう。眼の端を真っ赤に泣き腫らし、鼻水とよだれと汗で顔中がぐしゃぐしゃだ。本物のけだものでも、そんなどうしようもない顔は見せないというのに。
「傷が痛むの」
文がそう訊いたのは、椛の顔面があまり真っ黒く染まっていたから。夜にあってもなお一際に黒いその血の色は、空っぽになった彼女の右の眼窩から漏れ出ていた。どんな痛みがあったのか文には知る由もない。しかし、完全に潰れてしまっているらしい椛の右の眼の代わりにぽっかりとはめ込まれているものは、涙でなしに赤黒い肉の空虚さだけだった。
鉄砲で右の眼を撃たれました――と、椛は答えた。
「指先を突っ込んで弾を取り出すときは、ことのほか、よく痛みました。爪先に挟まった眼球の破片を舐め取ったのは、私も初めてでした。しかし、もう平気です」
「ならば、なぜ泣くのです」
文は怪訝な顔をした。
犬走椛とは、彼女が老いた牝狼から天狗に化身してからの付き合いだけれど、彼女が大泣きしているときというのは、大抵、何かの秘密をひとりで抱え込んでしまっているときだった。本人は大まじめに隠し通そうとしているらしいのだけれども、元がそれほど頭のよくないやつだから演技もいまいち下手くそで、あっという間にばれてしまうのが常なのである。
首をひねって疑問を表明しようとした矢先、椛がひときわ大きく、洟(はな)をすすった。それで余計にみっともなさに拍車がかかるのを棄て置けず、漸う、文は椛に駆け寄る。何も言わずに数枚の懐紙を取り出して突きつけると、椛はそれを手にとって洟をかむ、よだれをふく。
おとなしくしていて。そう言うと少しの間だけ、椛は泣きやんだようだった。最後に一枚残った紙で、顔面にこびりついた血の膜やかたまりを、文はていねいにふき取ってやった。その間、椛は上下の歯を口中で弱々しく打ちつけ、何度も何度も自分の唇を舐めていた。柔らかい人の形の肌と、その奥から飛び出、ひび割れてしまった真っ白い骨の硬さが、指先におかしな痛みをくりかえし与えた。右眼があったはずの場所をのぞき込むと、湿ったあたたかさが文の嗅覚を包み込んだ。生き物の命のあたたかさ、剥き出しになった魂の温度。
「月を、探しておりました」
椛は薄らと――本当に薄らとした微笑だけを浮かべていたけれど、それはお面を貼りつけてみるよりもさらに粗末な芝居に見えた。脚を組み替えてあぐらをかき、ごくりと唾を飲み干す彼女。呆然と立ったままの文を、空の右眼がじいと見つめた。くしゃくしゃと、椛の血を吸い込んだ紙くずが手の中で擦れる。
「月を、」
探す? 言い差して、否、違うと直ぐに気づいた。
椛は自分を見ているのでなく、その向こうにある夜空を見つめていたのだ。言葉通りに月を探すためなのだろう。ふと、文も振り返って椛と同じ空を見た。分厚い雲が空のごく高いところに根を張って、しばらくは月はおろか星の光さえもはっきりとは見えそうにない。しかし、その裏側には確かに、あの蒼白い球体を感じる。その光は地上に住まうすべての妖怪に等しく作用する。肉体の奥底からじわりじわりと染むようなそれは、元から魂の内側にでも存したものなのか、それとも月から新たに賜ったものなのか。
椛は、その月を探すという。
千里の先を見通す彼女なら、空(から)の眼でもその影くらいは見分けられようものを。
「月を探して、どうします」
「はい」と、椛は弱々しく返事をし遂げ、
「月の光は、生き物を狂わせるのです」
そう、継いだ。
「どうにも話が見えてきませんが」
と言ったのは、文の偽らないところ。
「おまえは、狂人に憧れるのですか」
「そうであるのかもしれませぬ」
椛は、笑いを深めた。
「でも、椛には月が見つけられないのです。だから、私はかなしくて泣いていました」
緩慢な動作で彼女は立ち上がり、どこかに行き過ぎるようにして文の横に立った。すると、文の視界には、もう椛の潰れた眼の他には何も見えなくなるのだった。
「文さま。月は人も妖怪も狂わせるのでしょう。それであるならこんないくさにも、いっとう、立派な理由をつくることができるはずだと思うのです。世の人が、悉皆、月の光で狂っていくのだとすれば。むろん犬走椛も狂人であれば」
そう言う椛の横顔には、未だ血の跡が薄く残っていた。
表情は恍惚に吊り上げられ、どこか引きつっているようにも見える。隻眼になったことで、顔の印象そのものが変化したのだ――そう思うには未だ何かが足りない。あとひとつ、何かが加わっているとすれば、それは彼女の言う狂気の雛形なのだろうか。
「あなたは、人間たちの最期の顔をご覧になったことがありますか」
さて、――おかしな問いを発する犬だ。
それこそ千年に近いその齢、朝夕に食む米粒と屠ってきた人間の数と、どっちが多いか知らないが、ともかくも両手足の指ではまるで足りないだけ多くの人間を文が殺してきたのは確かなこと。喰うためでもあり、いくさの中でもあり、花の代わりに手折るのでもあり。人間の死ぬときの顔など、腐るほど見てきたはずだ。
「私たちは妖怪でしょうが。人の世の生き死になぞ、飽いてしまうほどに見慣れてきた」
「むろん、その通りです。そして人間は狂ったようにして死んでいきます。狼のような牙も持たず、鴉と同じ空も飛べぬままに。ただその代わりに彼らが持っているものは、獣とは似ても似つかぬはがねの武器と、妖怪よりはるかに弱々しいその肉体。そして、それらを崇高なのだろう死に駆り立てるだけの、あらゆる言葉です。何を掲げていようが、いくさは最後に血を流す。ならば行いそのものを為す、最初の根は、純然の魂ではありませぬか」
椛の喉が蠢いた。
「そうやって死ぬことの高潔がうつくしいというのなら、月に衝き動かされて死ぬ狂気は、言葉を用いないぶん、さらに純然で、うつくしいと思うのです」
汗でてらてらと光るその部分は、地を這う大蛇の腹がごとく。
文は、しばし見とれてしまった。
犬走椛はどちらかといえば寡黙な方で、そんな彼女が、饒舌に自分自身の憧れを語ることは、かつて無かったからだ。それだけなら、“おかしなこと”で片づくかもしれなかった。けれど、なおも空を見上げて月を探しているらしい彼女の空の右眼の暗闇には、まるで茫漠とした地獄の深みをひたすらに見つめているような不気味さが宿っていた。深淵をのぞき込むとき、深淵もまた汝をのぞき込む。頭のいかれて死んだ男の、そんな言葉を思い出した。犬走椛――射命丸文が見つめる深淵は、しかし、自分自身は別の深淵を必死に探しているのだ。その底で燃え盛っているだろう炎の熱を映すための眼を、持たないままに。
「少なくとも、」
と、文は言った。
「人間たちにとっては、“われわれ”の存在自体が狂気のようなものでしょう。自らの概念の箱庭の中で、知らずに育てた恐怖と戦っている」
そんな言葉も、椛にとっては気休めにさえならないだろう。
はあ――! 大きな溜め息を吐いたのは、果たして呆れのためだったのか。
「狂っていることと、狂わせることとは、同じなのでしょうか」
しきりに頬をぬぐおうとする椛の指に、何かの滴が滴っていた。
それが涙なのか、血なのかは解らない。天狗の視覚は夜闇に盲い、嗅覚もまたいくさの後の血とはがねのにおいに潰されている。確かなことは、わずかに見え始めた月の蒼白さが椛の姿を逆光に埋め、その表情をはっきりと読み取らせてはくれないということだけだ。
「狂気そのものであるよりは、狂わされる己が欲しいと願うのは、妖怪の分を外れた考えなのでしょうか。それとも、これはひどく、人間じみた考えなのでしょうか」
雲間から降り注いでくる星明かりが、痛かった。
文は息を呑んだ。次いで、舌を打ちたい思いに駆られた。
人を蔑むことが妖怪の嗜みなら、確かに椛は人間に近づきすぎている。今の犬走椛は射命丸文には決して到達できないところに立っていたし、最も唾棄すべき存在にもなっていた。しかし、不思議と眼を逸らす気にはなれなかった。今、自分の目の前でひとりの妖怪が死んでしまうのだとするのなら、その最期を看取ってやるのは自分だけができる務めだと思ったからである。みっともなくすすり泣く狼。右眼の欠けた隻眼の天狗。
「妖怪である自分を殺すつもりですか」
そう訊くと、
「いっそ、それも良いのかもしれませぬ。ちょうど、介錯にためらいの無さそうなお方が目の前に居りますから」
と、皮肉。
「私には、私の狂気がありませぬ。妖怪の正気のままで、いくさに望むことには倦みました。それだから他の何かに狂わされ、それを理由にして生き、死ぬことに、ときどき、ひどく憧れるのです。いつか、私は私がまるで空っぽであることに気づいたときから、月に恋をした。たとえば他者を愛するのがそうであるごとく、月のうつくしさに仮託すべき死やいくさの何かがあれば、どんなにか、私はしあわせだったことでしょう」
椛は、本当は何が欲しいのだろう。
自分を死なせてくれる神や、魂の中心まで焼く聖なる地獄がそれだろうか。
否、それよりも、あらゆる恐怖にさいなまれる、たったひとつの自分自身だろうか。
月を探している、なんて曖昧な言葉の詐術でごまかしている彼女は、きっとどこまでも孤独を気取っているのだろう。誰に癒すべくもない孤独。屍体ばかりが氾濫するいくさの後に訪れる、ざわざわとした孤独だ。それは死でも癒せない。生き続ける限り、犬走椛という天狗がこの地上を歩く限り、月を恋いうる彼女の孤独は永劫に続く。
たとえば今この場で殺しても。
射命丸文が、その頸を押しひしいで、最後のひと息まで締め尽くしても。
「そんなばかげた感傷を、私に話したのはどうして」
何度目か問うと、椛は、にこりと笑った。
見飽きるくらいに見慣れてしまった、ばかな犬らしい笑みで、彼女は言った。
「さあ。私の隻眼をいちばんに嘲笑ってくれそうな人が、きっと文さまだったからでしょう」
椛を崩した最後のきっかけは何だったのだろう。
ストーリ―は良いと思う
どうにも、ニヒリズムを気取って格好を付けているだけに見えて醒めちゃうんですよね。
あとはまあ、この天狗や人間達なら吸血鬼異変も起こらないだろうとか、
これからどうやって椛と文の仲が険悪になったんだとか、
原作の設定との違和感も差し引いてこの点数とさせていただきます。
さらに、救いが無いように見えるけど、後書きでそうでないことが私達には判る。
そういう作りになってて、さらにすごく好きです。
おもしろかったです。
すでに↑のコメントでも指摘されてますが、この物語が退廃的な終わり方をしつつも、後書きで前進しつつある部分も好きです。
ありがとうございました。
かなり過去の話かと思いきや十数年前の出来事だったのは意外でした。
あと文ちゃんは椛と結婚すれば良いよ。
これが深淵というものなのか。
椛の今後のお話が気になります。
期待して待ってます!