「殺してください」
か細い声が、そんな悲痛な願いを霊夢へつたえた。
霊夢はひととき、ウンと言えばよいのかイヤと首をふるべきか悩んだが、何も示すことなくそばにあった切り株へ腰をおろした。
ここは林の中だった。上ると妖怪の山に、下ると人間の里にいきつく道を外れて、草むらに入ったところにあるブナの林だった。
涼しい風は霊夢の髪をさらさらとなで、あたり一面の腐葉土の香りをはこんできた。
霊夢は、たったいまある妖怪と直面していた。
その妖怪は、鳥の妖怪に属しているらしかったが、翼をもがれているから夜雀なのか鴉なのか、もっと別の何かなのか霊夢にも判別がつかなくなっていた。
妖怪は仰向けになると翼と地面がこすれて痛いという。しかしうつ伏せになると胸元にざっくり開く傷口がおしつけられて、やはり痛いという。
横になる妖怪はその姿勢のまま首をもたげて、霊夢を見上げるかたちだった。
「殺してください」
風にも負ける消え入ってしまいそうな声で、うるおいながらも虚ろな双眸で、霊夢へ必死の願いをつたえた。
霊夢はこの妖怪に手をかけること、そのものには遠慮を見出すつもりはなかった。ただ、今はすこし戸惑っていた。
妖怪はなぜ倒れ伏しているのか。
なぜ霊夢と妖怪の取り合わせがココにあるのか。
数日前のことになる。
買い出しのため人里へ訪れていた霊夢のもとに、ある頼みごとが舞いこんできた。妖怪退治をやっておくれと言われたとき、彼女は二つ返事で聞きいれた。
目的も内容もいたって簡単簡潔なこと、買い出しの末に重たくなった荷物だからできれば早く帰りたかったこと。それらが手伝って、やるせなさを返事に隠そうともしなかった。
両手に紺色のふくよかな手さげをもって、市場を品定めしていく霊夢に、依頼主の男はつきまといながら、霊夢にとって聞く必要もない事情を語っていた。
鳥のような妖怪に畑を荒らされていた。それが何十日と続いていたので、いよいよ我慢ならなくなった。しかし妖怪は逃げ足がはやく自分では何の仕返しもすることができない。ひとつお力添えを、などと。やや憤りのこもった声で。
霊夢はこのとき、今日は鶏料理を作ろうかしらと、のんきに思ったものだった。
男の住居と名前を忘れず尋ねたあとに、彼をもう追い払ってしまった。
いったん神社へ帰ると品物をおいて準備をすませて、ふたたび空を目指した。今日中に妖怪をみつけて今日中にこらしめて、今日中に男から謝礼をもらおうと決めた。
ところが、妖怪のいる場所というものが、霊夢には見当つかなかった。聞かされておらず調べてもいないのだから、当然といえば当然だが。
しばらく空をただよって探してみたが、もしやと思いつくことさえなかった。
普段なら考えなくうろついているだけでも、出くわすことがある。しかし今回はそんな気配がやってこない。まったく、やってこない。
そうこうしている内にお日様は山のかたわらへすり寄りはじめていた。
日がよくないだけだと自分に言い聞かせた霊夢は、しぶしぶ神社へからだを向けた。
翌日になると、朝から出かけた。
今日中に終わらせるという気持ちが独り言になってあらわれていたから、無愛想と相まって機嫌のわるそうなこと。
昨日よりは念入りに探しまわったかに見えた。見つけてやろうという努力をした。それでも妖怪のいる手掛かりにさえ出会わなかった。
まさか男にたぶらかされたのではないかしらと思いながら、ふらり、ほんの休憩のつもりで足元の道へ降り立ったときだった。すかさず、近くに妖怪の気配を感じとった。
霊夢の目がずっとのびている道を端から端まで見渡したあとに、そばの林へ狙いを定めた。
あそこかな、という霊夢の漠然としたカンが彼女自身の足をとっくにうごかしていた。草穂をかきわけつつ踏みしめつつ、無数のこずえが陽光をさえぎる薄暗い林に入っていく。
ああ、いる。
霊夢は林のなかを迷うことなく進んだ。目当ての妖怪はすぐそこだと、証拠はなくとも確信していた。
ややあって木々のむこうから息づかいが垂れこんでくるようになったので、霊夢は口角をあげた。もう間もなくだった。
「いるんでしょう。そこを動くんじゃないわよ」
息づかいは本当にわずかだ。探すという意識がなければ聞き逃すしかない程度だった。息をひそめているのかのようだがソレとは微妙に異なる加減であることを、霊夢はうすうす感づいていた。少し用心を強めた。
目前につづいているゆるやかな傾斜は、落ち葉の茶色の濃いも薄いもないまぜで、湿り気が光をつややかに跳ねっかえしていた。
そんな調和のとれた腐葉土のうえに、霊夢はついに目標をみとめることができた。
妖怪はその時からすでに横たわった姿勢でいて、霊夢へ背中をむけていた。背中の、赤黒く滲んだ翼のつけねをまず初めに見てしまい、薄笑いをうかべていた顔は苦々しさにあふれた。翼に次いで、汚れてところどころ破れているミカン色の着物も見ると、もういちだん苦味が増した。
妖怪が危機に面していると分かったときには、いたわりの言葉をつい漏らす霊夢がいた。
妖怪はもぞもぞと肩をふるわせはしたが返事が返ってこない。もしかして寝返りをうちたかったのでは、と霊夢は思った。
ここまで近づいていれば、さっきまで聞こえていた息づかいが妖怪のそれであることもハッキリしていたが、さらに言うと声まで霊夢の耳には届いていた。
喉から絞りだされている渾身の、切実としたうめき声が。
ふたたび妖怪の身体がゆれうごいた。こんどはさっきより振り幅が大きかった。やはり寝返りをうつために、そうした苦しげな動きをしていたのだった。
「動いちゃだめよ」
霊夢はできるかぎり声をやさしく加減した。妖怪のオモテに回りこみながら、思いのこもった言葉を繰り返した。
ここにきてやっと、霊夢と鳥の妖怪は顔を合わせることになった。
青白い肌をした妖怪は呼吸をするのも精根いっぱいで、両手をだらりと地面に捨てていた。
黒ずんだ胸元、同じく黒ずんだ地面。こんなに肌は白いのに、透き通っているのに、身体やその周辺ばかりが黒々と薄汚れてしまっている。その真新しさから推測してみるに、霊夢が来るよりほんのつい先ほど、ここに惨事が起きたようだった。
霊夢はただならぬ状態にある妖怪を、これがまさしく依頼内容の大本だと感じとった。しかし、なぜ妖怪は瀕死におちいっているのだろうか。
霊夢はいったん周囲に気をくばった。木や、木の陰はもちろん、地面などもよく注視した。
自分たち以外に何者かがいる様子はなさそうだと判断した。
妖怪につく傷は、自傷や木の枝に引っかかったという性質のものではない。誰かにやられたと考えるのが妥当だった。犯人はとっくに消失しているようだが。
霊夢はここで立ち止まらざるをえなくなった。
犯人を探すために、彼女は林のなかに入ったわけではない。この今にも失われてしまいそうな妖怪を退治するためだ。そのつもりだったが、意表を突かれたと言うか、興を削がれたというか、とにかく前述の気持ちは今の霊夢からはなくなっていた。
ひとまず妖怪を助けよう。霊夢がそう決めた矢先、妖怪のくちびるが物言いたげに上下しだした。
その拾いづらい小声に、霊夢は何を言っているのかと聞き返しながら腰を折って耳をちかづけた。そこで、
「殺してください」
と、聞こえた。
切り株へ腰かけ、妖怪へ面とむかった霊夢は、彼女の言葉への返答を選びそこねていた。
もともと退治するために妖怪を追っていたのだから、このような懇願は是非もないではないか。両者同意のもとに行われる殺傷である。いったい何を悩む必要があるか。
……というのも、霊夢にとっての妖怪退治とは妖怪を屠ることにあらず、こらしめることを大前提とする。
言うなれば灸をすえる、これに尽きた。
なので霊夢は、素直に妖怪の頼みを聞き入れられなかった。そもそも、間もなくすれば逝ってしまいそうな身体をしている彼女なのだから。
霊夢は妖怪を起き上がらせようとうながしたが、やわらかに断られてしまった。それに対して、霊夢は叱るように問い詰めた。
「ちょっと。放っておいたら死んじゃうわよ」
「放っておかれるのは、困ります。それに、もし放っておかれなかったとして、今さら傷を癒してなんになりましょう。私はもうじき、あなたの手に、御手にかかるのですから」
霊夢は困り果てた。妖怪は死ぬより他の選択肢をもちあわせていないようだった。
けれど考えてみよう、あるていど成熟した妖怪なら何を施さずとも、放っておくだけで人外の治癒力でたちまち復帰できるはずだった。
彼女だってそう。決して浅くはない傷だが、それでも数日すれば見違えるようになるはずだった。翼は二度と取り戻せないだろうが、生き返ることはできる。
そうなると、死ぬのを目的としているのなら、放っておかれるのはたしかに困るかもしれない。ココで霊夢の手にかかるのが最適だという道筋も、もっともらしく思える。
ともかく、連れ出されることを妖怪自身が望んでいないと分かった霊夢は話をかえた。誰にやられたのかを尋ねた。返答によっては、その犯人を追いかけることになるやもしれなかった。
「誰にそんなことされたの。人か妖怪か、幽霊、妖精。どれにしてもスペルカードルールを無視していないと、こうも残忍にはならない。そうなんじゃないの」
妖怪の力ない声がこぼれてくる。
「もし私がそれを言ったら、貴方はもしかしたら、追いかけることになるでしょう。ですから、言えません。言っては、なりません」
この妖怪は心からそう願っているのだろうか。霊夢のなかの疑問が膨れた。
「もしかして、あんたをこんな目にあわせたヤツって、あんたに頼まれたからそうしたの?」
「いいえ。私がこのようなお願いをしたことは、今の今まで、ありませんでした」
妖怪の顔をみると、じっとりと浮かんだ汗が垂れる髪毛を一本いっぽんと、額や頬にへばりつかせていた。
苦しそうな、けど夢見心地のような何ともいえないその表情に、霊夢は色気を見つけた。そんな場違いさを申し訳なく感じた。
霊夢はここでまた背を伸ばして、あたりへじろじろと目線を送った。誰もいない林の薄暗さをもういちど確認した。
頭のなかを整理しながら切り株へ落ち着き直して、気になる事柄を妖怪へなげかけていった。
「あんたは、○○の畑を荒らしていた妖怪よね」
「どなたの土地だったのかは存じ上げませんが。たしかに、畑で遊んではいました」
いまさらながら、彼女は依頼主が言っていた妖怪に間違いがなかった。
「あなたはそこの男にやられたの?」
「聞いて、どうするんですか」
どうしようもない。
霊夢はふと、この妖怪にもっとも恨みを持っているであろう相手を考え、依頼主である男の顔を想像したに過ぎなかった。
妖怪は誰に襲われたのか言ってくれなかったから、この質問もむなしいだけだったが。
「どうして死にたいの」
「殺されたいんですよ」
「ああ、そう。じゃあどうして殺されたいの」
霊夢は妖怪の殺してもらいたい理由を、二度とは帰ってこないであろう翼への絶望ではないかと予想してみた。
「それは、とても大事な理由がありまして。でも、言えない。ごめんなさい」
「どうして。それを言ってくれないと」
妖怪は首をふった。
まだ尋ねたいことが山ほどあった霊夢も、妖怪が口を開くことに消極的だと分かると、同じようになるしかない。
そうやって質問を打ち切った霊夢が諦めたかのように見えたのだろう。妖怪は表情にわずかな喜色をほころばせて、何度目かになるあの言葉を突き出した。心地良いものではないそのお願いに、霊夢は眉根を寄せるだけだった。
彼女をとりわけて悩ませたのは、妖怪の殺してもらいたい理由だった。もちろん、妖怪から聞き出すことはできなかったが、そのため余計に気になって仕方がなくなった。
とても大事な理由とは。
失ってしまった翼だろうか。もしくは身体に傷が残るのを恐れてか。心に立ち直れない穴をあけられてしまったとか。
それらは皆が皆ありえそうで、しかしこうして妖怪を眺めていると違うようでもある。恨みつらみや哀しみ憤りが、彼女の顔には含まれていなかった。
本当にまったくの純真から絞り出された殺害願望とでも言うのか。襲われて傷をつけられたことにより、そういったどうしようもない願望が発露するにいたったのか。
霊夢は妖怪としばらく見つめあったのち、目をそらして木の葉の天井を見た。
霊夢は妖怪を殺したことがある。もちろんある。職業柄、血筋柄、逃れられない行いだ。妖怪を殺すことに関して嫌悪感もなかった。
そのため、この名も知らぬ鳥の妖怪を前にして、殺すか否かを決めかねている自分に珍しささえ感じているほどだった。
霊夢は男の話を思い出していた。この妖怪は畑荒らしを何十日も繰り返していたそうだ。作物が食べ散らかされて、土を踏み荒らされた。
仕置きを加えるには充分なことをやっていると思われた。だが、命を奪うほどではないのではないだろうか。
また、霊夢は表面上スペルカードルールによる決闘方式を提案した本人なのだから、彼女があまり無益に殺生をすると、作ったルールを揺るがす恐れがある。もしそうなれば面倒事になるのは間違いないし、紫が黙ってはいない。
そうした事情もあるので、この妖怪をおいそれと殺してしまうのは、いかがなものだろうか。
霊夢はなぜ妖怪がこうなっているのかの脈絡を知らず、唯一の証人である妖怪本人はほとんど語ってくれない。あまりに少ない判断材料は彼女を悩ませよからぬ空想を生み出させた。つまり、真犯人は。事件の全貌は。などという、ケレンミある空想をじわじわと育てていった。
一人推理していると、やはりどうにも男のことを忘れるわけにはいかなかった。
自分は困っているのだと、わざわざ追いかけてきてまで話してきた彼。あのときは鬱陶しいとしか考えていなかった霊夢だが、あそこまで熱心に語る必要はあったのだろうか。実はそれこそが、自分の今の不当な現状を熱烈に伝えたかったための言動だったとしたら。
男はどんな表情をしていたっけと思い返してみたが、そもそも男が話している最中、霊夢は市場しか見ていなかった。どんな声色だったかしらと記憶ひっくりかえしてみたら、そういえば怒りをあらわしていたような。霊夢は男の声を聞くことは聞いていたが、果たして彼はそう見てくれていたか。そっけなく扱っていたから、男のほうは「オレのことが無視されている」などと考えたかもしれない。そうすると男自らこらしめんと躍り出はすまいか。
ありそうだなと、霊夢は一人合点したが。一方でわざわざ作り上げた推理を崩してもみた。
男は妖怪の逃げ足の早さを言及していたはずだった。つまり鳥の妖怪だから颯爽と飛べてしまえるから、追いかけようにも敵わないというのだろう。ならこの襲撃を男による犯行だと決めるのは難しいのではないか。
つまるところ、あの男が犯人かどうかという疑問に決着をつけることはできなかった。
霊夢はうんと悩んだ。この際だから妖怪の言葉には耳を貸すまいとして(どちらにしても有益な話はしてくれないし)、すべて自分で選んでしまうべきと考えてみた。
「どうか」
なにを言われようと。
「殺してください」
相手にしない。
「殺されることなく生きてしまったとしたら、私はもいちど男の畑にむかって、悪さすることでしょう」
「…………」
「男の畑だけではない。もっと別の場所にも悪さするかも、しれません。こんな危ない私を野放しにしておくのですか」
妖怪は、自分を殺しておかなければならない理由を言い、霊夢に訴えかけてきた。まさか説得をされる側になるとは思わなかった霊夢は、妖怪をまじまじと見つめたっきり閉口した。
そう言われてみれば、たしかに妖怪の言葉はもっともだ。
やがて回復した彼女がいたずらを奮いだす姿を想像するのは難くない。しかし一方で、こんなに痛恨の思いをした妖怪がまた愚行に走るとも思えない。
そうだ。これこそを悪行重ねた末の天罰だと妖怪に思わせればよい。今回のことに懲りて同じような所業は二度とやってはダメよと話してみるのだ。霊夢はさっそく身を乗り出した。
「ねえ。私おもうの。今回のあなたの身に降りかかった大事は、きっと今までの悪さにかかった天罰ではないかしら」
「そうですか。天罰は、私を殺してくれませんでしたね」
「いや、ええと、うん……」
霊夢の心にふつふつとやるせなさが芽生えてきた。これほどまで三途の川を渡りたがっているのだから、言うとおりにしてやったほうが良いのではないかと。
投げやりな気持ちだった。
そんな霊夢を見透かしているかのように、妖怪はおだやかな表情をいっそう和らげた。
「さあ、殺してください。実はだんだんと、さっきまで辛くってたまらなかったのに、だんだんと落ち着いてきているんです。傷は開きぱなしですが、頭痛はおさまってきているし、そろそろ起き上がれそう。どうか、どうか」
妖怪は自分が殺されるという事実を、どこか夢をみているような気持ちで捉えている。それこそが幸せなのだという熱がこもった今の彼女を、気がつけば憐れみの視線で見下ろしている霊夢がいた。
どんな病気にかかれば命をなげうつことを躊躇わなくなって、どんな衝撃をうければ絶命することに期待を抱けるようになるのだろうか。
こんな心情におちぶれた妖怪ならば、このまま見逃してしまっても、結局おなじ幕引きとなり果てそうだ。それにここで見逃してしまった時は、とても悲しい表情をするだろう。
悲しい表情。この美しい色白の顔を、霊夢はできればそんな表情にさせたくなかった。
霊夢はまだ決心をつけたわけではなかった。だが吸いこまれるように妖怪のすぐ近くまでいくと座りこむと、懐から御札を一枚とりだした。
この御札を使おうとした。ところがそれをすぐさま懐へ押し戻してしまった。これは弾幕を張るための御札であって妖怪殺しには向いていない。こんなものを使ってしまうと、中途半端な痛みで妖怪を責めてしまう。
もちろんコレを使っても殺すことはできるが、何枚も何枚も、べたべたと綺麗な肌へ張りつけないといけない。すると、生き地獄を味あわせてしまう。
ならば針を使うか。もしくはこの手で。いや、どれも苦痛なしにはいられない。
霊夢はいま、妖怪殺しに適切なものを持っていなかった。神社に戻ればあるだろうが、今もどるなんてまるで空気が読めていない。面倒くさくもある。
そんなたった一つの障害のせいで、霊夢をさっきまで覆っていた殺害への思いはぐずぐず消え去っていった。
やはり殺せないと告げようとしたその時、霊夢は前方に人が立っていることに気づいた。
魔理沙が、いつの間にかそこにいた。霊夢は愕然として、反射でさっと立ちあがると口を開こうとしたが、魔理沙のほうが早かった。
「こいつだいじょうぶかよ。死にかけじゃないか。まさか霊夢が、やったようには見えないな」
魔理沙の顔はずいぶん渋くなっていた。それはたおれる妖怪の痛々しさを真摯にうけとめているからだった。
「そう、そうよ。この子たおれていたの」
霊夢の口からは当たり障りない言葉がでてきた。
魔理沙はさっそく妖怪へ手をのばすと、身軽に担ぎあげてしまった。あまりにてきぱきと事がはこんだので、霊夢はただ見守るだけだった。
「ちょっと飛びづらいな。肩をかしてくれ」
霊夢のさっきまでの沈鬱な思いはしまいこまれて、無言に妖怪の救助を手伝うばかりとなる。
左肩を渡したさいに妖怪と目があった。失望の実る暗い表情をしていたが、嫌がりはしなかったし、あのセリフを口走りもしなかった。だからその表情は、霊夢にしか分からなかった。
霊夢と魔理沙は一緒に空を飛ぶとまず林を出た。ゆったりした速度で竹林の方角へ向かった。妖怪へ負担をかけぬよう余裕をもちつつ時間をかけて永遠亭まで向かい、そこに到着したら、魔理沙が大きな声で永琳の名を呼んだ。
かわりにやってきた鈴仙が、血だらけの妖怪を見てかなりの驚きを示した。
妖怪は霊夢、魔理沙の手をはなれると鈴仙へとうつされて連れて行かれてしまった。
霊夢と魔理沙はそのまま、別の部屋へ、勝手にお邪魔した。
そのあいだ霊夢は何も喋らなかった。喋るわけにもいかなかった。
魔理沙は、霊夢が妖怪を発見したのはホンノ少し前だと思っているようだった。本当は何十分も前から対話していたのだが。それも悲劇的な選択を迫られていたわけだが。霊夢にしてみればいったいどの口が事実を漏らせるというのだろうか。
さいわい霊夢の無口について魔理沙は触れてこない。元気づけようとしているのか、たわいのない話を、いつもより多めに語ってくる。霊夢はときおり相槌をいれた。
この魔理沙の話はおもしろいから、これをあの妖怪も聞けば、きっと殺してくださいなんて言えなくなるはず。
「霊夢。その、なんだ、あまり気にするなよ。お前がやったわけじゃないんだろ」
霊夢は魔理沙からみると沈んでいるように見えるらしい。だからそういう言葉が出たのだろう。ウンと返しながら、場合によっては私がやっていたかもしれないのだけれど、などと考えてみたり、依頼主の男の顔をいまいちど思い描いたり。
やがて部屋で待っていた二人のもとに永琳が現れた。しかるべき処置を、消毒して縫って包帯を巻いておいたから、あとは彼女自身の治癒力で元通りになるだろうと、そっけない口調で伝えてきた。
「ただし、翼はもとにはもどらないわ。手足と同じ、一生モノだから。……お茶でも飲む?」
魔理沙だけがうなづいたのに、湯のみは二つ用意された。
湯のみの中身を見つめていた霊夢は徐々に、こうなっては仕方がないと諦めはじめていた。
こう急転してしまったら、あの妖怪も多少は心変わりしたのではないだろうか。そう思いながらあたたかな緑色を飲みこんだ。
けれどもし、いまだに殺害されたい欲をほのめかしているとしたら、どうだろう。
気になった霊夢は、永琳に容体を聞くふりをしてそれとなく質問した。あの子はなにか言ってなかったかと。
妖怪はずっと黙りきりだそうだ。
どうしても妖怪の顔が頭にこびりついていた霊夢は、ほとんど手つかずの湯のみを置いて立ちあがった。
永琳から妖怪が安静にしている部屋をきいて、案内しようかとの申し出を断ると部屋を出た。
永遠亭のながい廊下を黙々と歩く。均等に整然とならぶ襖を、行燈の火が静々と照らす。兎たちの影がときおりちらついて、はしゃぎ声も流れてくるが、自然と遠くにいるよう感じられた。
この一種ふしぎな世界にいるうちに、霊夢はかくだんと冷静になっていった。たわんでいた精神がまっすぐに直っていくと、霊夢の思考はしっかり整理されていき、ある決心をさせた。
永琳に教えられたとおり進み目的の部屋にいってみると、そこは畳ではなくフローリングの床で、六つの簡易ベッドが用意されていた。
その右最奥のベッドに妖怪は横になっており、彼女以外には誰もいなかった。入り口のほうに顔を向けていたこともあり、霊夢とは入ったときから視線が繋がった。
妖怪が微笑んだので、霊夢もそれにならった。
妖怪は、ぼろぼろだった着物を脱がされて、新しいものを着させられている。清潔そうな白い衣服に包まれた彼女は、ことさら壊れやすそうな印象だった。
一つ目のボタンが開いており、そこからうかがえる包帯のまきついた胸元を霊夢は見ていたかとすると、ひらけていた妖怪との距離を縮めた。
そして。
か細い声が、そんな悲痛な願いを霊夢へつたえた。
霊夢はひととき、ウンと言えばよいのかイヤと首をふるべきか悩んだが、何も示すことなくそばにあった切り株へ腰をおろした。
ここは林の中だった。上ると妖怪の山に、下ると人間の里にいきつく道を外れて、草むらに入ったところにあるブナの林だった。
涼しい風は霊夢の髪をさらさらとなで、あたり一面の腐葉土の香りをはこんできた。
霊夢は、たったいまある妖怪と直面していた。
その妖怪は、鳥の妖怪に属しているらしかったが、翼をもがれているから夜雀なのか鴉なのか、もっと別の何かなのか霊夢にも判別がつかなくなっていた。
妖怪は仰向けになると翼と地面がこすれて痛いという。しかしうつ伏せになると胸元にざっくり開く傷口がおしつけられて、やはり痛いという。
横になる妖怪はその姿勢のまま首をもたげて、霊夢を見上げるかたちだった。
「殺してください」
風にも負ける消え入ってしまいそうな声で、うるおいながらも虚ろな双眸で、霊夢へ必死の願いをつたえた。
霊夢はこの妖怪に手をかけること、そのものには遠慮を見出すつもりはなかった。ただ、今はすこし戸惑っていた。
妖怪はなぜ倒れ伏しているのか。
なぜ霊夢と妖怪の取り合わせがココにあるのか。
数日前のことになる。
買い出しのため人里へ訪れていた霊夢のもとに、ある頼みごとが舞いこんできた。妖怪退治をやっておくれと言われたとき、彼女は二つ返事で聞きいれた。
目的も内容もいたって簡単簡潔なこと、買い出しの末に重たくなった荷物だからできれば早く帰りたかったこと。それらが手伝って、やるせなさを返事に隠そうともしなかった。
両手に紺色のふくよかな手さげをもって、市場を品定めしていく霊夢に、依頼主の男はつきまといながら、霊夢にとって聞く必要もない事情を語っていた。
鳥のような妖怪に畑を荒らされていた。それが何十日と続いていたので、いよいよ我慢ならなくなった。しかし妖怪は逃げ足がはやく自分では何の仕返しもすることができない。ひとつお力添えを、などと。やや憤りのこもった声で。
霊夢はこのとき、今日は鶏料理を作ろうかしらと、のんきに思ったものだった。
男の住居と名前を忘れず尋ねたあとに、彼をもう追い払ってしまった。
いったん神社へ帰ると品物をおいて準備をすませて、ふたたび空を目指した。今日中に妖怪をみつけて今日中にこらしめて、今日中に男から謝礼をもらおうと決めた。
ところが、妖怪のいる場所というものが、霊夢には見当つかなかった。聞かされておらず調べてもいないのだから、当然といえば当然だが。
しばらく空をただよって探してみたが、もしやと思いつくことさえなかった。
普段なら考えなくうろついているだけでも、出くわすことがある。しかし今回はそんな気配がやってこない。まったく、やってこない。
そうこうしている内にお日様は山のかたわらへすり寄りはじめていた。
日がよくないだけだと自分に言い聞かせた霊夢は、しぶしぶ神社へからだを向けた。
翌日になると、朝から出かけた。
今日中に終わらせるという気持ちが独り言になってあらわれていたから、無愛想と相まって機嫌のわるそうなこと。
昨日よりは念入りに探しまわったかに見えた。見つけてやろうという努力をした。それでも妖怪のいる手掛かりにさえ出会わなかった。
まさか男にたぶらかされたのではないかしらと思いながら、ふらり、ほんの休憩のつもりで足元の道へ降り立ったときだった。すかさず、近くに妖怪の気配を感じとった。
霊夢の目がずっとのびている道を端から端まで見渡したあとに、そばの林へ狙いを定めた。
あそこかな、という霊夢の漠然としたカンが彼女自身の足をとっくにうごかしていた。草穂をかきわけつつ踏みしめつつ、無数のこずえが陽光をさえぎる薄暗い林に入っていく。
ああ、いる。
霊夢は林のなかを迷うことなく進んだ。目当ての妖怪はすぐそこだと、証拠はなくとも確信していた。
ややあって木々のむこうから息づかいが垂れこんでくるようになったので、霊夢は口角をあげた。もう間もなくだった。
「いるんでしょう。そこを動くんじゃないわよ」
息づかいは本当にわずかだ。探すという意識がなければ聞き逃すしかない程度だった。息をひそめているのかのようだがソレとは微妙に異なる加減であることを、霊夢はうすうす感づいていた。少し用心を強めた。
目前につづいているゆるやかな傾斜は、落ち葉の茶色の濃いも薄いもないまぜで、湿り気が光をつややかに跳ねっかえしていた。
そんな調和のとれた腐葉土のうえに、霊夢はついに目標をみとめることができた。
妖怪はその時からすでに横たわった姿勢でいて、霊夢へ背中をむけていた。背中の、赤黒く滲んだ翼のつけねをまず初めに見てしまい、薄笑いをうかべていた顔は苦々しさにあふれた。翼に次いで、汚れてところどころ破れているミカン色の着物も見ると、もういちだん苦味が増した。
妖怪が危機に面していると分かったときには、いたわりの言葉をつい漏らす霊夢がいた。
妖怪はもぞもぞと肩をふるわせはしたが返事が返ってこない。もしかして寝返りをうちたかったのでは、と霊夢は思った。
ここまで近づいていれば、さっきまで聞こえていた息づかいが妖怪のそれであることもハッキリしていたが、さらに言うと声まで霊夢の耳には届いていた。
喉から絞りだされている渾身の、切実としたうめき声が。
ふたたび妖怪の身体がゆれうごいた。こんどはさっきより振り幅が大きかった。やはり寝返りをうつために、そうした苦しげな動きをしていたのだった。
「動いちゃだめよ」
霊夢はできるかぎり声をやさしく加減した。妖怪のオモテに回りこみながら、思いのこもった言葉を繰り返した。
ここにきてやっと、霊夢と鳥の妖怪は顔を合わせることになった。
青白い肌をした妖怪は呼吸をするのも精根いっぱいで、両手をだらりと地面に捨てていた。
黒ずんだ胸元、同じく黒ずんだ地面。こんなに肌は白いのに、透き通っているのに、身体やその周辺ばかりが黒々と薄汚れてしまっている。その真新しさから推測してみるに、霊夢が来るよりほんのつい先ほど、ここに惨事が起きたようだった。
霊夢はただならぬ状態にある妖怪を、これがまさしく依頼内容の大本だと感じとった。しかし、なぜ妖怪は瀕死におちいっているのだろうか。
霊夢はいったん周囲に気をくばった。木や、木の陰はもちろん、地面などもよく注視した。
自分たち以外に何者かがいる様子はなさそうだと判断した。
妖怪につく傷は、自傷や木の枝に引っかかったという性質のものではない。誰かにやられたと考えるのが妥当だった。犯人はとっくに消失しているようだが。
霊夢はここで立ち止まらざるをえなくなった。
犯人を探すために、彼女は林のなかに入ったわけではない。この今にも失われてしまいそうな妖怪を退治するためだ。そのつもりだったが、意表を突かれたと言うか、興を削がれたというか、とにかく前述の気持ちは今の霊夢からはなくなっていた。
ひとまず妖怪を助けよう。霊夢がそう決めた矢先、妖怪のくちびるが物言いたげに上下しだした。
その拾いづらい小声に、霊夢は何を言っているのかと聞き返しながら腰を折って耳をちかづけた。そこで、
「殺してください」
と、聞こえた。
切り株へ腰かけ、妖怪へ面とむかった霊夢は、彼女の言葉への返答を選びそこねていた。
もともと退治するために妖怪を追っていたのだから、このような懇願は是非もないではないか。両者同意のもとに行われる殺傷である。いったい何を悩む必要があるか。
……というのも、霊夢にとっての妖怪退治とは妖怪を屠ることにあらず、こらしめることを大前提とする。
言うなれば灸をすえる、これに尽きた。
なので霊夢は、素直に妖怪の頼みを聞き入れられなかった。そもそも、間もなくすれば逝ってしまいそうな身体をしている彼女なのだから。
霊夢は妖怪を起き上がらせようとうながしたが、やわらかに断られてしまった。それに対して、霊夢は叱るように問い詰めた。
「ちょっと。放っておいたら死んじゃうわよ」
「放っておかれるのは、困ります。それに、もし放っておかれなかったとして、今さら傷を癒してなんになりましょう。私はもうじき、あなたの手に、御手にかかるのですから」
霊夢は困り果てた。妖怪は死ぬより他の選択肢をもちあわせていないようだった。
けれど考えてみよう、あるていど成熟した妖怪なら何を施さずとも、放っておくだけで人外の治癒力でたちまち復帰できるはずだった。
彼女だってそう。決して浅くはない傷だが、それでも数日すれば見違えるようになるはずだった。翼は二度と取り戻せないだろうが、生き返ることはできる。
そうなると、死ぬのを目的としているのなら、放っておかれるのはたしかに困るかもしれない。ココで霊夢の手にかかるのが最適だという道筋も、もっともらしく思える。
ともかく、連れ出されることを妖怪自身が望んでいないと分かった霊夢は話をかえた。誰にやられたのかを尋ねた。返答によっては、その犯人を追いかけることになるやもしれなかった。
「誰にそんなことされたの。人か妖怪か、幽霊、妖精。どれにしてもスペルカードルールを無視していないと、こうも残忍にはならない。そうなんじゃないの」
妖怪の力ない声がこぼれてくる。
「もし私がそれを言ったら、貴方はもしかしたら、追いかけることになるでしょう。ですから、言えません。言っては、なりません」
この妖怪は心からそう願っているのだろうか。霊夢のなかの疑問が膨れた。
「もしかして、あんたをこんな目にあわせたヤツって、あんたに頼まれたからそうしたの?」
「いいえ。私がこのようなお願いをしたことは、今の今まで、ありませんでした」
妖怪の顔をみると、じっとりと浮かんだ汗が垂れる髪毛を一本いっぽんと、額や頬にへばりつかせていた。
苦しそうな、けど夢見心地のような何ともいえないその表情に、霊夢は色気を見つけた。そんな場違いさを申し訳なく感じた。
霊夢はここでまた背を伸ばして、あたりへじろじろと目線を送った。誰もいない林の薄暗さをもういちど確認した。
頭のなかを整理しながら切り株へ落ち着き直して、気になる事柄を妖怪へなげかけていった。
「あんたは、○○の畑を荒らしていた妖怪よね」
「どなたの土地だったのかは存じ上げませんが。たしかに、畑で遊んではいました」
いまさらながら、彼女は依頼主が言っていた妖怪に間違いがなかった。
「あなたはそこの男にやられたの?」
「聞いて、どうするんですか」
どうしようもない。
霊夢はふと、この妖怪にもっとも恨みを持っているであろう相手を考え、依頼主である男の顔を想像したに過ぎなかった。
妖怪は誰に襲われたのか言ってくれなかったから、この質問もむなしいだけだったが。
「どうして死にたいの」
「殺されたいんですよ」
「ああ、そう。じゃあどうして殺されたいの」
霊夢は妖怪の殺してもらいたい理由を、二度とは帰ってこないであろう翼への絶望ではないかと予想してみた。
「それは、とても大事な理由がありまして。でも、言えない。ごめんなさい」
「どうして。それを言ってくれないと」
妖怪は首をふった。
まだ尋ねたいことが山ほどあった霊夢も、妖怪が口を開くことに消極的だと分かると、同じようになるしかない。
そうやって質問を打ち切った霊夢が諦めたかのように見えたのだろう。妖怪は表情にわずかな喜色をほころばせて、何度目かになるあの言葉を突き出した。心地良いものではないそのお願いに、霊夢は眉根を寄せるだけだった。
彼女をとりわけて悩ませたのは、妖怪の殺してもらいたい理由だった。もちろん、妖怪から聞き出すことはできなかったが、そのため余計に気になって仕方がなくなった。
とても大事な理由とは。
失ってしまった翼だろうか。もしくは身体に傷が残るのを恐れてか。心に立ち直れない穴をあけられてしまったとか。
それらは皆が皆ありえそうで、しかしこうして妖怪を眺めていると違うようでもある。恨みつらみや哀しみ憤りが、彼女の顔には含まれていなかった。
本当にまったくの純真から絞り出された殺害願望とでも言うのか。襲われて傷をつけられたことにより、そういったどうしようもない願望が発露するにいたったのか。
霊夢は妖怪としばらく見つめあったのち、目をそらして木の葉の天井を見た。
霊夢は妖怪を殺したことがある。もちろんある。職業柄、血筋柄、逃れられない行いだ。妖怪を殺すことに関して嫌悪感もなかった。
そのため、この名も知らぬ鳥の妖怪を前にして、殺すか否かを決めかねている自分に珍しささえ感じているほどだった。
霊夢は男の話を思い出していた。この妖怪は畑荒らしを何十日も繰り返していたそうだ。作物が食べ散らかされて、土を踏み荒らされた。
仕置きを加えるには充分なことをやっていると思われた。だが、命を奪うほどではないのではないだろうか。
また、霊夢は表面上スペルカードルールによる決闘方式を提案した本人なのだから、彼女があまり無益に殺生をすると、作ったルールを揺るがす恐れがある。もしそうなれば面倒事になるのは間違いないし、紫が黙ってはいない。
そうした事情もあるので、この妖怪をおいそれと殺してしまうのは、いかがなものだろうか。
霊夢はなぜ妖怪がこうなっているのかの脈絡を知らず、唯一の証人である妖怪本人はほとんど語ってくれない。あまりに少ない判断材料は彼女を悩ませよからぬ空想を生み出させた。つまり、真犯人は。事件の全貌は。などという、ケレンミある空想をじわじわと育てていった。
一人推理していると、やはりどうにも男のことを忘れるわけにはいかなかった。
自分は困っているのだと、わざわざ追いかけてきてまで話してきた彼。あのときは鬱陶しいとしか考えていなかった霊夢だが、あそこまで熱心に語る必要はあったのだろうか。実はそれこそが、自分の今の不当な現状を熱烈に伝えたかったための言動だったとしたら。
男はどんな表情をしていたっけと思い返してみたが、そもそも男が話している最中、霊夢は市場しか見ていなかった。どんな声色だったかしらと記憶ひっくりかえしてみたら、そういえば怒りをあらわしていたような。霊夢は男の声を聞くことは聞いていたが、果たして彼はそう見てくれていたか。そっけなく扱っていたから、男のほうは「オレのことが無視されている」などと考えたかもしれない。そうすると男自らこらしめんと躍り出はすまいか。
ありそうだなと、霊夢は一人合点したが。一方でわざわざ作り上げた推理を崩してもみた。
男は妖怪の逃げ足の早さを言及していたはずだった。つまり鳥の妖怪だから颯爽と飛べてしまえるから、追いかけようにも敵わないというのだろう。ならこの襲撃を男による犯行だと決めるのは難しいのではないか。
つまるところ、あの男が犯人かどうかという疑問に決着をつけることはできなかった。
霊夢はうんと悩んだ。この際だから妖怪の言葉には耳を貸すまいとして(どちらにしても有益な話はしてくれないし)、すべて自分で選んでしまうべきと考えてみた。
「どうか」
なにを言われようと。
「殺してください」
相手にしない。
「殺されることなく生きてしまったとしたら、私はもいちど男の畑にむかって、悪さすることでしょう」
「…………」
「男の畑だけではない。もっと別の場所にも悪さするかも、しれません。こんな危ない私を野放しにしておくのですか」
妖怪は、自分を殺しておかなければならない理由を言い、霊夢に訴えかけてきた。まさか説得をされる側になるとは思わなかった霊夢は、妖怪をまじまじと見つめたっきり閉口した。
そう言われてみれば、たしかに妖怪の言葉はもっともだ。
やがて回復した彼女がいたずらを奮いだす姿を想像するのは難くない。しかし一方で、こんなに痛恨の思いをした妖怪がまた愚行に走るとも思えない。
そうだ。これこそを悪行重ねた末の天罰だと妖怪に思わせればよい。今回のことに懲りて同じような所業は二度とやってはダメよと話してみるのだ。霊夢はさっそく身を乗り出した。
「ねえ。私おもうの。今回のあなたの身に降りかかった大事は、きっと今までの悪さにかかった天罰ではないかしら」
「そうですか。天罰は、私を殺してくれませんでしたね」
「いや、ええと、うん……」
霊夢の心にふつふつとやるせなさが芽生えてきた。これほどまで三途の川を渡りたがっているのだから、言うとおりにしてやったほうが良いのではないかと。
投げやりな気持ちだった。
そんな霊夢を見透かしているかのように、妖怪はおだやかな表情をいっそう和らげた。
「さあ、殺してください。実はだんだんと、さっきまで辛くってたまらなかったのに、だんだんと落ち着いてきているんです。傷は開きぱなしですが、頭痛はおさまってきているし、そろそろ起き上がれそう。どうか、どうか」
妖怪は自分が殺されるという事実を、どこか夢をみているような気持ちで捉えている。それこそが幸せなのだという熱がこもった今の彼女を、気がつけば憐れみの視線で見下ろしている霊夢がいた。
どんな病気にかかれば命をなげうつことを躊躇わなくなって、どんな衝撃をうければ絶命することに期待を抱けるようになるのだろうか。
こんな心情におちぶれた妖怪ならば、このまま見逃してしまっても、結局おなじ幕引きとなり果てそうだ。それにここで見逃してしまった時は、とても悲しい表情をするだろう。
悲しい表情。この美しい色白の顔を、霊夢はできればそんな表情にさせたくなかった。
霊夢はまだ決心をつけたわけではなかった。だが吸いこまれるように妖怪のすぐ近くまでいくと座りこむと、懐から御札を一枚とりだした。
この御札を使おうとした。ところがそれをすぐさま懐へ押し戻してしまった。これは弾幕を張るための御札であって妖怪殺しには向いていない。こんなものを使ってしまうと、中途半端な痛みで妖怪を責めてしまう。
もちろんコレを使っても殺すことはできるが、何枚も何枚も、べたべたと綺麗な肌へ張りつけないといけない。すると、生き地獄を味あわせてしまう。
ならば針を使うか。もしくはこの手で。いや、どれも苦痛なしにはいられない。
霊夢はいま、妖怪殺しに適切なものを持っていなかった。神社に戻ればあるだろうが、今もどるなんてまるで空気が読めていない。面倒くさくもある。
そんなたった一つの障害のせいで、霊夢をさっきまで覆っていた殺害への思いはぐずぐず消え去っていった。
やはり殺せないと告げようとしたその時、霊夢は前方に人が立っていることに気づいた。
魔理沙が、いつの間にかそこにいた。霊夢は愕然として、反射でさっと立ちあがると口を開こうとしたが、魔理沙のほうが早かった。
「こいつだいじょうぶかよ。死にかけじゃないか。まさか霊夢が、やったようには見えないな」
魔理沙の顔はずいぶん渋くなっていた。それはたおれる妖怪の痛々しさを真摯にうけとめているからだった。
「そう、そうよ。この子たおれていたの」
霊夢の口からは当たり障りない言葉がでてきた。
魔理沙はさっそく妖怪へ手をのばすと、身軽に担ぎあげてしまった。あまりにてきぱきと事がはこんだので、霊夢はただ見守るだけだった。
「ちょっと飛びづらいな。肩をかしてくれ」
霊夢のさっきまでの沈鬱な思いはしまいこまれて、無言に妖怪の救助を手伝うばかりとなる。
左肩を渡したさいに妖怪と目があった。失望の実る暗い表情をしていたが、嫌がりはしなかったし、あのセリフを口走りもしなかった。だからその表情は、霊夢にしか分からなかった。
霊夢と魔理沙は一緒に空を飛ぶとまず林を出た。ゆったりした速度で竹林の方角へ向かった。妖怪へ負担をかけぬよう余裕をもちつつ時間をかけて永遠亭まで向かい、そこに到着したら、魔理沙が大きな声で永琳の名を呼んだ。
かわりにやってきた鈴仙が、血だらけの妖怪を見てかなりの驚きを示した。
妖怪は霊夢、魔理沙の手をはなれると鈴仙へとうつされて連れて行かれてしまった。
霊夢と魔理沙はそのまま、別の部屋へ、勝手にお邪魔した。
そのあいだ霊夢は何も喋らなかった。喋るわけにもいかなかった。
魔理沙は、霊夢が妖怪を発見したのはホンノ少し前だと思っているようだった。本当は何十分も前から対話していたのだが。それも悲劇的な選択を迫られていたわけだが。霊夢にしてみればいったいどの口が事実を漏らせるというのだろうか。
さいわい霊夢の無口について魔理沙は触れてこない。元気づけようとしているのか、たわいのない話を、いつもより多めに語ってくる。霊夢はときおり相槌をいれた。
この魔理沙の話はおもしろいから、これをあの妖怪も聞けば、きっと殺してくださいなんて言えなくなるはず。
「霊夢。その、なんだ、あまり気にするなよ。お前がやったわけじゃないんだろ」
霊夢は魔理沙からみると沈んでいるように見えるらしい。だからそういう言葉が出たのだろう。ウンと返しながら、場合によっては私がやっていたかもしれないのだけれど、などと考えてみたり、依頼主の男の顔をいまいちど思い描いたり。
やがて部屋で待っていた二人のもとに永琳が現れた。しかるべき処置を、消毒して縫って包帯を巻いておいたから、あとは彼女自身の治癒力で元通りになるだろうと、そっけない口調で伝えてきた。
「ただし、翼はもとにはもどらないわ。手足と同じ、一生モノだから。……お茶でも飲む?」
魔理沙だけがうなづいたのに、湯のみは二つ用意された。
湯のみの中身を見つめていた霊夢は徐々に、こうなっては仕方がないと諦めはじめていた。
こう急転してしまったら、あの妖怪も多少は心変わりしたのではないだろうか。そう思いながらあたたかな緑色を飲みこんだ。
けれどもし、いまだに殺害されたい欲をほのめかしているとしたら、どうだろう。
気になった霊夢は、永琳に容体を聞くふりをしてそれとなく質問した。あの子はなにか言ってなかったかと。
妖怪はずっと黙りきりだそうだ。
どうしても妖怪の顔が頭にこびりついていた霊夢は、ほとんど手つかずの湯のみを置いて立ちあがった。
永琳から妖怪が安静にしている部屋をきいて、案内しようかとの申し出を断ると部屋を出た。
永遠亭のながい廊下を黙々と歩く。均等に整然とならぶ襖を、行燈の火が静々と照らす。兎たちの影がときおりちらついて、はしゃぎ声も流れてくるが、自然と遠くにいるよう感じられた。
この一種ふしぎな世界にいるうちに、霊夢はかくだんと冷静になっていった。たわんでいた精神がまっすぐに直っていくと、霊夢の思考はしっかり整理されていき、ある決心をさせた。
永琳に教えられたとおり進み目的の部屋にいってみると、そこは畳ではなくフローリングの床で、六つの簡易ベッドが用意されていた。
その右最奥のベッドに妖怪は横になっており、彼女以外には誰もいなかった。入り口のほうに顔を向けていたこともあり、霊夢とは入ったときから視線が繋がった。
妖怪が微笑んだので、霊夢もそれにならった。
妖怪は、ぼろぼろだった着物を脱がされて、新しいものを着させられている。清潔そうな白い衣服に包まれた彼女は、ことさら壊れやすそうな印象だった。
一つ目のボタンが開いており、そこからうかがえる包帯のまきついた胸元を霊夢は見ていたかとすると、ひらけていた妖怪との距離を縮めた。
そして。
いや、不思議というか、なんというか。
よくわからないけど、わからないなりに、楽しんで読めました。
…楽しんでは、ちょっと違うかな。
とにかく、好きな雰囲気。好みの終わり方。
この妖怪の喋り方が、えらく私の心に刺激を与えてきました。
何々すると、あなたは何々するでしょう。
そんな言葉の運び方が、いたく気に入ってしまいました。
いいなあ
結末がない作品がここまで響くとは。お見事です。
このもやもや感、どうしてくれませうか。
余韻が半端ないですね。
ものすげえ参考にさせて頂きました。