「“メイド長”十六夜咲夜」
着慣れたメイド服に袖を通し、使い慣れた懐中時計を懐に仕舞い、横顔にレディの片鱗が垣間見える十六夜咲夜が自室の鏡の前で呟く。
幾分前に決まり、そして慌しく処々の引継ぎが行われた後、紅魔館の住人たちを前に行われた就任式から一夜、それが今日から咲夜の役職となる。
鏡の中の自分は、その頬が冷めることのない興奮によって縦に横にと引き伸ばされて、大層愉快な百面相を披露していた。
僅かな緊張と不安、そして大きな希望が胸に去来する。だがそれでも仕事に差しさわりがあってはならないと、平静を保つべく両手で頬を強かに打ち据える。
「――よし!」
感情を切り替えてようやく収まった顔芸。一つ大きく頷き、咲夜は仕事に向かうべく扉を開けた。
「咲夜、おはよう!」
廊下では満面の笑みを浮かべたレミリア・スカーレットが咲夜の登場を待ち構え、そして扉が開かれると共にイカルの囀りにも似た佳麗な朝の挨拶で出迎えた。
いきなり想定外の事態だった。何事かと目を丸くする咲夜の前で、レミリアは恥らうように身じろぎし、
「いや、今日からメイド長な訳で……。少し気になっちゃってね」
照れくさそうに頬をかいた。
それでご丁寧にメイドたちの住む棟までやってくるのだから、彼女の過保護も堂に入ったものだ。
咲夜を促し、連れて歩くレミリアは感慨深げに今日の日の到来を喜ぶ。朝陽がまるで笑み栄えるようだと、自分の種族を忘れ弾んだ調子で語りかける。
「慣れた仕事とはいっても、これからは全部貴方が責任を持たなければならないわ。うまくいかないこともあるでしょうけど、気にしちゃ駄目よ。貴方のペースでやりなさい」
三歩下がって追従する咲夜はレミリアの小さな背中を眺める。レミリアは時折振り返り、目が合うと微笑む。
幾度と無く繰り返される、そのやり取りがこそばゆかった。
もう何年も前に、背はレミリアを追い越した。レミリアを見る時の自分の目線が段々と下がっていくのと反比例するように、彼女の眉は釣り上がっていった。身体の成長に伴って心が成熟してくると、何時までも変わらない、そんな主を子供っぽく思えることもあった。だがそれでも、彼女は咲夜にとっていつ如何なる時も大きく、顕要なる存在である。
こうしてレミリアの笑顔に触れるたび、咲夜はこの笑顔のためにこそ、ここにいることを自分に許しているのだと覚悟し、その決意を新たにするのだった。
=====
幻想郷への移住を経て管理者との一悶着の末条約が結ばれた今、紅魔館は背後を憂うことのない日常を手に入れることができた。蛇足ながら、自らの居城といえる図書館もそれは見事なものとなった。
つい先日までパチュリー・ノーレッジはその事実に歓喜し、喘息を抱える虚弱な体でさえなければ踊りだしたくなるような幸福の最中にあった。
だのに今その身は憤懣に苛まれ、冷静沈着こそを信条としているはずの魔女は、まるで子供のように感情の手綱を支離滅裂に打ちつけていた。
ある日の出来事である。偶には友人として―ここが重要である―友人として新たに友誼を深めようと、日頃の不精により鈍く不満を訴える体を振り起してワインを片手にレミリアの部屋に向かおうとしていたところ――。
「あっ、丁度よかった。レミィ、偶には二人で晩酌なんて――」
「咲夜、もう夜も遅いわ。疲れているでしょう?一緒に寝てあげるから、そろそろお休み」
「はぁ、ありがとうございます」
近くにいながら気付かれることなく、二人は寝室へと消えていった。
またある日。
「レミィ、面白い古典を見つけたの。一緒に朗読会を――」
「咲夜。仕事は順調かしら?無理してない?メイド長になってまだ日も浅いし、何かあったらすぐ言いなさい。手伝ってあげるから」
「いえ、お嬢様の手を煩わせるつもりは……」
咲夜を気遣いながら、そのまま脇を通り過ぎていった。
更にまたある日。
「レミィ!一緒にスカッシュでも――」
「咲夜ぁ!さっきのパパナシ最高に美味しかったわ!また腕を上げたわね!」
「ふふ、ありがとうございます。練習した甲斐がありましたわ」
お菓子談義に花を咲かせて去っていった。
万事この調子である。パチュリーがレミリアを誘おうとするたびに咲夜がいて、レミリアは咲夜の方ばかりを向いていて、パチュリーの存在に欠片も気付いた様子もない。
レミィ、なんだか冷たくないかしら?
親友と呼んでくれたではないか。パチュリーは自分を粗略にするレミリアの態度に大いに不満を覚える。
つまり今の彼女を一言で表せば、嫉妬に苛立たっていると、そういうことであった。
―――――
新設されたばかりの紅魔館門番隊。それは館の警備に専門の部署を置き、有事の際に独自に判断し脅威を速やかに排除することの出来る権限を持たせる。というお題目で生まれた。実際のところはメイド長の職を辞した紅美鈴の天下り先の受け皿、になるのだが。何事も形式と言うものが重要なのだ。
事実仕事といえば、その大部分は館と庭園の保守といった雑用と呼べるものばかり。
だがそんな門番隊を率いることとなった美鈴はそれなりに、いや非常に現在の待遇に満足していた。日がな一日のんびりと過ごし、偶にやってくる妖怪を追い払うだけでいい。まさに天職だろう。
跡目を任せた咲夜には申し訳ない気持ちがないでもないが、レミリアの傍で重要な仕事を任されたいと頑張ってきたのは他ならぬ彼女だ。贔屓目を差し引いても彼女の仕事ぶりは頼もしく、十分に独り立ちできるだろうとも考えている。
ここで新しく雇い入れた妖精たちの指導も置き土産代わりに自ら終わらせた。無責任にほっぽり出してきたわけではない。
長らく続けてきたメイドの仕事だったが、本来奔放な性分の自分には似合わないと常々思っていた。
それを大過なく引継ぐことのできた今、この様にして自分にご褒美があってもいいだろう。
「と、そんなわけよ。美鈴、貴方はどう思う?」
「……スカッシュは無理でしょう。パチュリー様の体力では」
そう考えていたのだが、今更パチュリーの愚痴に付き合わされる美鈴は、もしかしたら天の意見は違ったのかもしれないと空を仰いだ。
「そこだけ拾う!?だから、レミィは私を無視して咲夜咲夜咲夜!これ酷くないかしら!?」
「酷いのはパチュリー様の顔色です。もう少し落ち着いてください」
端から見たら日向ぼっこと大差ない仕事ぶりの美鈴。
誰かが敷地内からやってくる気配に振り返ると、そこにはパチュリーがいた。出不精の彼女がそこにいるだけでも驚くべきことだが、今彼女は肩を怒らせ、その歩みは猛牛のようであった。すわ何事かと慌てて駆け寄れば、いきなりまくし立てられた。
その元気をもっと均等に配分すれば彼女ももう少し健やかな日々を送れるだろうにと思う美鈴だが、まず何よりも顔色が土色に変化してきた彼女を落ち着かせるべく行動せざるを得なかった。
「はぁ、つまり相手にしてもらえなくて寂しいわけですね」
「べっ、別に寂しいとかそういうのじゃないわ。ただ私は、友人として相応の振る舞いがあるのではと、そう言いたいだけで……」
「面倒くさい性格してるなぁ」
まだ真新しい塗料の臭いが鼻をつく番所にパチュリーを招き入れ、紅茶で一息ついて美鈴は彼女の言い分を一言に纏めた。
案の定そっぽを向いて頬を染める。魔女とは素直さをどこかに置き去りにしてようやく到達できる境地なのだろうか、だとしたら自分には一生縁のないことだろう。元よりその才能もないのだから考慮する由もないが。
「それに!レミィと近すぎるのは咲夜のためにもならないわ」
「嫉妬ですね。分かります」
「違うわよ!メイド長を任されたのだから、もっと自覚を持つべきだということよ。いつまでも子供気分でいられたら困るわ。うん、そういうことよ」
このまま咲夜がレミリアの温情に甘えていては、メイド長という職分を軽んじた妖精たちが奔放に振舞い、きっと館内の風紀は乱れに乱れてしまうだろう。不安を煽るように熱弁を振るうパチュリーだが、
「仮に文句を付ける輩がいたとしても、彼女なら実力で黙らせますよ」
当然と言うべきか、美鈴はあくまでも全幅の信頼でもって力強く頷く。
「随分と信頼しているのね、咲夜のこと」
「でなければお嬢様を任せることはできませんよ」
紅魔館の住人たちの中で最も長くレミリアに仕えているのは美鈴である。普段飄々としている彼女だが、その忠誠心は橘に例えるまでも無い。その彼女が言うのだから、そうなのだろう。
メイド服を脱いだ開放感からか、非常にくつろいだ、だが品のある手付きで紅茶に口を付ける美鈴の表情からはやはり心配の色は微塵も窺えなかった。
「先ほどのお話ですが――」
穏やかな声色がパチュリーの怒張を和らげるように凪ぎ、美鈴の仕草に見入っていた彼女はその身を震わせた。
「気になさる必要はないと思いますよ」
「それはどういう意味?」
「お嬢様が咲夜さんばかりを気にかけているのは親心故ですから。独り立ちしたばかりの咲夜さんに気が気でないのです。お嬢様は結構直情型なお方ですし、今は他に目が行かないのでしょう。もう少しすれば安心して、いつも通りのお嬢様に戻ります」
「むぅ、そんなものかしらね?」
「そんなものです」
納得できてない顔で首を捻る。だが、やはり彼女の言の正当性はパチュリーとて理解できないわけも無く、
「ですから、それまでは小悪魔さんなり私なりと遊んでやってくださいな」
いささかの不平は残るものの、結局美鈴の微笑みに許容するより他無かった。
―――――
もののついでということで、誘われるままに番所の中でささやかな茶会と相成った。
いささか不向きな場所ではあるが、並べられたマドレーヌと紅茶の味が雰囲気を華やかに彩る。
茶道楽ではないと自認するパチュリーだが、やはり旨いものには頬が緩むもの。小悪魔の入れた紅茶と変わらない味に満足げに頷く。彼女の紅茶も美鈴に習ったものだから当然ではあるのだが。
パチュリーは紅茶にハチミツを入れることを好む。だが鉄分を多く含むハチミツでは紅茶の色が黒くなり、それだけで味が汚されるように感じてしまう。
早速空となったカップに視線を落とし、ふと思う。幻想郷では紅茶に合うハチミツは手に入るだろうか。
「紅茶、もう一杯いかがですか?」
「ん、いただくわ。ハチミツも多めにね」
パチュリーの様子に気を利かせた美鈴の勧め。本音は別のところにあったのだが、その好意にカップを差し出した。
番所にそれぞれ設けられた給湯スペースに立ち、湯を沸かしなおす美鈴の背中をぼんやりと眺めやる。
番所は外から見るとこじんまりとして簡素な印象を受けるが、入ってみれば意外に快適な広さを保った空間だった。
広大な図書館と膨大な蔵書の素晴しさは論ずるまでも無いが、本さえあれば豪奢よりも質素を好むパチュリー。ここで本に埋もれて暮らすのも幸せそうだと、そんな益体も無い考えが頭を過ぎった。何せ今なら元メイド長もいる。快適さは押して知るべしというものだろう。
紅茶を淹れる彼女の仕草は洗練されていて、自分で似合わない仕事と言っている割には堂に入ったものだった。
不意に、かつての彼女の姿を錯覚し気になった。
「美鈴」
「はい?」
「門番の仕事、楽しい?」
「ええ、むしろ自分の本分を取り戻した気分です」
「分が3回。紅茶も頃合ね」
ゴールデンルールに沿った紅茶をカップに注ぎながら、視線だけ上げて返事を返す美鈴。メイド服と共に、かつての楚々とした雰囲気を闊達なものへ着替えたように思える彼女。改めて見ると、確かに今の服装の方が似合っているようにも感じられた。
メイド長の交代と門番職の創設。これは美鈴個人の事情というより、咲夜のために道を譲る形で行われたことであった。
パチュリー自身咲夜を憎からず思っているし、美鈴は友人だ。誰かに無理を強いているならば改めるべきもあったかもしれないが、この件について皆が納得しているのであれば殊更に口出しする必要はないだろう。
「まぁ、なら良かったわ」
「はい」
笑い合って、静かに紅茶を堪能する、穏やかに過ぎる時間。美鈴と二人だけで差し向かいこの様な機会を持つことは初めてのことで、それもまた幻想郷に移住したことによる恩恵かもしれない。パチュリーは新たな驚きと共に、素直にこの変化を喜んだ。
「美鈴様ー!これ桜餅っていうんですけど、すっごく甘いっすよ!お一つどうですか!」
心地の良い静寂に浴すること暫し、唐突にそれは打ち破られた。番所に現われた騒乱の徒は二人の雰囲気などお構い無しに割って入った。
「食べるー!」
「美鈴。よく考えたら貴方仕事中だったわよね?」
闖入者は外の世界にいたころから紅魔館で働いている、いわゆる古参の一人。彼女もまた美鈴に付き従う形でメイドから門番へと転向した妖精なのだが、なるほど確かに、彼女たちは楽しんでやっているようだ。
「それじゃ、お邪魔したわね」
「はい、館までお送りします」
その必要も無いだろうに、だがその気遣いは彼女らしい。二人並んで本館へと足を向ける。
庭園に目を向ければ、あちらこちらに掘り返した跡が見えた。何をしているのかと聞けば、気候に合わせて植え替えをしているらしい。造園にも植物にも造詣の深くないパチュリーは、その道で一歩譲る美鈴がこの広い庭園をどう作り変えるのか、少しばかりの興味が湧いた。
まず何を植えるつもりなのか指折り数える美鈴は実に生き生きとしていて、見ている方も自然表情が和らぐ。
そして散策するには狭い距離を過ぎて、美鈴の両の手で数えられなくなった頃に本館へと到着した。
「パチュリー様もご不満かと存じますが、今は咲夜さんにとって大切な時期。今しばらくご辛抱下さい」
館に入るパチュリーを引き止め、別れ際に美鈴は咲夜のために頭を下げる。
咲夜のこととなると歴戦の猛者がこの有様。過保護ともいえる彼女の溺愛に、パチュリーは苦笑するよりほかなかった。
「レミィも咲夜、貴方も咲夜。まったく、その愛情を少しだけでも私に向けて欲しいものだわ」
「あはは。パチュリー様でもそんなこと言うんですね」
「あら、心外ね。私にだって心があるもの。とても傷つきやすい繊細な心が、ね」
ハチミツの入った紅茶に唇が滑らかになっているのか、パチュリーはらしくもない冗談を口にするが、
「……あったんですか。心」
その反応はいかがなものだろう。
「…………」
「…………」
「…………まぁ、少しは」
閉じられた扉の立てる音が、やけに空しく響いた。
=====
育ての親たちが過保護なのは自他共に認めるところであるが、それでも咲夜が手心を加えられることを好まないことを知っている。それ故に長く下積みを重ねて、そして太鼓判を押されての就任となったわけだが、これが中々に大変だった。
在庫の管理、メイドの統括だけが仕事ではない。妖精たちだけに家事一切を任せているわけにもいかず、自分でもそのいくらかを受け持たなければならない。よそ様はともかく、人材の不足する紅魔館では全てがメイド長の役目でもだった。
美鈴の教育の元で少しずつ仕事を覚え、今ではどのような仕事を与えられても戸惑うことはない。が、実際にそれらを一手に引き受けるとなると、すべきことが多すぎて混乱してしまいそうになる。
それ故か、一つ一つの仕事がどうにも滞る。今どうにか体裁を保つことができているのは、門番隊へと下らず咲夜の負担を減らすために館内に留まってくれた古参の妖精メイドたちのお陰だろう。
「食堂の掃除はこれで終わり。ええと、次は……」
メモを取り出して予定を確認する。慣れているはずの作業に焦り重大なミスを犯してしまわないように、今はまだこうして手順をあらかじめ決めてその通りに行動することだけで精一杯だった。
「やっほ。調子はどうかしら?」
「お嬢様。ええ、きわめて順調ですわ」
メイド長となってから、レミリアと会う機会が極端に増えたと咲夜は感じていた。
レミリアに館内で態々メイドをはべらす趣味はなく、メイドの中には一日レミリアと会うことなく過ごす者もいる。咲夜自身はその立場上その様なことはなかったが。
だが仕事中にこうして頻繁に声を掛けられると、メイドとして働き始めたばかりの頃を思い出す。つまりは心配されているのだろう。信頼してもらえないのかと、その様な不満を覚えることはない。ただ彼女の愛情が温かい。
「ならよかった。でも無理はだめよ?いくら下積みがあるといっても、今まで美鈴がやっていた仕事を全部貴方がやらなければならないのだから」
「大丈夫ですよ。その美鈴に認められてメイド長になったわけですから」
ならその信頼に応えるまでです。微笑む彼女が、レミリアは頼もしかった。
眩しそうに目を細めるレミリアは咲夜の姿に時間の流れを実感する。今では近くで咲夜の顔を見るためには首が痛くなるくらい見上げなければならないほど背が伸びてしまった。
「ふふ、そっか。それにしても、咲夜も大きくなったものねぇ。昔はナタリー・ポートマンのように可愛らしいばかりだったのに」
「いやですわ。お嬢様ったら、お上手ですこと」
褒められて悪い気はしないだろう。幻想郷に来る少し前に見た映画のヒロインに例えられて、咲夜の頬に朱が差した。
「でもそれが今では何でもできるようになっちゃって。まるでバーブラ・ストライサンドね!十六夜バーブラに名前変えようか?」
「いやです」
「…………………………………………そう」
「なんでそんなに残念そうなんですか?」
それ以上は仕事に関する話題も無く、何気ない会話を交わし、それだけでレミリアは去っていった。彼女が立ち去るのを確認して、咲夜は小さく嘆息する。
レミリアの手前強がりをしてみせたが、やはり少し無理をしていると自覚していた。体力の問題ではなく、全ての責任が双肩に圧し掛かっているという重圧によって、でだ。レミリアたちは気楽にやればいいと言ってくれるが、咲夜はそれを手抜かりと感じて良しとは出来なかった。我ながら気負いすぎていると感じないでもないが、きっと性格なのだろう。
―――――
レミリアが立ち去るより少し前。咲夜と睦み合う微笑ましく弾んだ声の響く食堂を、扉の影から覗く者がいた。
それは誰あろうパチュリー・ノーレッジ。番所から帰る途中、何事かあったのだろうかと興味本意で覗き込めば、
「……妬ましいわ」
美鈴によって鎮火された嫉妬の炎が再び燃え上がる。熱を帯びた手に力が入り、掴む樫の扉の軋む音が聞こえてきそうだった。
仮に扉に意思と言うものがあるならば苦痛を訴えるか恍惚に悶えるかしただろう。
ああ、十六夜咲夜よ、お前はどこまで愛されれば気が済むのか。
その逢瀬をただ眺めることしかできないパチュリー。食い入るように見入る瞳は爛々と輝き、異様な雰囲気を纏い禍々しい陽炎すら立ち昇ろうかというその背中。偶然にも通りがかり、その姿を見てしまった不幸な妖精メイドが転げるようにして逃げ去るも、当然ながらパチュリーは気付いていなかった。
=====
レミリアとの逢瀬から暫し時間を置いて、変わらずメイドの仕事に精を出す咲夜が廊下の掃除を一通り終え、さて次の仕事に向かおうとしていたところ、珍しいことにパチュリーと出会った。
「パチュリー様、いかがなさいました?」
ここは図書館ではない。この引き篭もり魔女が自発的に館内を散策しているところなど、咲夜の記憶には殆どなかった。
「ええと、パチュリー様?」
パチュリーは咲夜の問いに答えず、つかつかと傍まで歩み寄り、目前で方向を変えて窓際に視線を落とす。
「…………」
次いで窓縁を一つ指でなぞり、
「咲夜、まだ埃が残っていてよ?忙しいのは分かるけど、もう少し丁寧にやりなさい」
小姑のように、目を細めて厭らしく言った。大人気ないにもほどがある。ここ美鈴がいたならば、醜い嫉妬だと指をさして笑ったかもしれないが、生憎と彼女は今門の前で我が世の春を謳歌している真っ最中。誰もこの醜態を押し留める者はいなかった。
「申し訳ありません。すぐにやり直します」
だが咲夜は彼女の常に無い仕草をいぶかしむでもなく、その指摘を真摯に受け止めた。あまつさえ、他に手抜かりがないか自分から進んで確認する徹底振りである。
疲労を露ほどにも悟らせない機敏な動き。咲夜の働き様は誰が後ろ指を指すことができるかというほどであった。
「……美鈴ならこんな失敗しなかったわよ」
だが、いったい咲夜にどのような反応を期待していたのか、何となく負けた気がしてならないパチュリーは更に一つ嫌味を加えるが、
「はい、まだまだ勉強不足だと痛感させられますわ」
苦笑して答える咲夜は、どこまでも前向きで健気だった。
「この館が名に相応しい優美な屋敷であるか否か。それは貴方たちメイドの仕事一つよ。どう、やっていけるかしら?」
「やってみせますわ。推挙して頂いたからにはこれ以上の無様を晒すつもりはございません」
「……そっ、ならこれからも頑張りなさい」
「はい!ありがとうございます。パチュリー様」
眩いばかりの笑顔で返される。パチュリーはその胸に僅かな徒労感と大きな敗北感を抱え立ち去った。
=====
紅魔館門番隊は相も変わらず暇である。移転してきた当初こそ、身の程を弁えぬ取るに足らない妖怪が現われることもあったが、今ではが気まぐれな妖精が暇つぶしに現われるだけ。
持ち込んだ小説も全て読み終え、そろそろ図書館へ新しい本を調達に行こうかと思う。そういえばパチュリーはどうしているだろうか。先ほどのこともあって彼女のことが気になった。
どうせ今頃無聊な時を過ごしているのだろう。せっかくだからチェスの相手でも勤めようかと腰を上げたところで、
「ちょっと、どういうことよ!」
「ええ、不可解ですね。何故『ベイブ』がオスカーを逃したのか」
「いや、どう考えても『ブレイブハート』一択だったでしょ。――って、違うわよ!」
またしても唐突に現われたパチュリーは、やはり興奮気味の様子。
またぞろ愚痴を聞かされるのかと辟易し話題の転換を図るも、美鈴の些細な手妻は容易に跳ね除けられた。
「咲夜がすっごいいい娘なんだけど!?」
だがそんな当たり前のことを、今更驚愕と共に伝えられてもどう返せばいいのか分からない。
覚めやらぬ激情に身を任せ、ありのままに語れば、呆れを含みながらも穏やかで春の陽光にも似た美鈴の微笑が夏の日差しが落ち行く様に刻々と陰り、やがて秋湿もかくやといった眼差しに取って代わった。
彼女の様相を見て取り、そこでようやく正気を取り戻したパチュリーだったが、
「なんて大人気のない。繰り返します。なんて、大人気の、ない!」
「あぅ……」
既に事のあらましを理解した美鈴の口から洩れた言葉は冬の北風の如く冷厳で、パチュリーはただただ打ちのめされるばかりであった。
「だっ、だって、羨ましかったんだもん」
「だもん、じゃありません。いい歳して何子供みたいなこと言ってるんですか」
「むっ、失礼ね。私はまだ花の100代よ。お、ば、さ、ん」
「ほほぅ。なら実年齢はともかく、生活習慣が年寄りじみてるのはどういうことでしょうねぇ?」
「………」
「………」
ガタッ。
「あ、ちょっと待って。立ちくらみが……」
「弱っ!」
―――――
「ともかく、あまり咲夜さんの邪魔しないでくださいよ?繰り返しますけど、彼女にとって大事な時期なのですから」
柳眉を吊り上げて、私怒ってます、といった風に精一杯しかめっ面を作ってパチュリーに詰め寄る。
自分が馬鹿らしいことをしたという自覚のあるパチュリーは美鈴の前で恥ずかしげに身を縮ませていた。
「まったく、パチュリー様だけは大人な人だと思っていたのに」
嘆息する美鈴に、忸怩たる思いはあっても多少小言が多いのではと思ってしまうパチュリーは言葉を返す。
「って言うか、そんなに咲夜のこと気にするならもう少し傍で見ていてやればいいじゃないの?」
「正式に引き継いだわけですから、前任者がでしゃばるのはどうかと思いますよ?」
そうしたいのは山々ですけどね。今度は別の意味で嘆息する。
幻想郷に来て、ここで新しいメイドも増えた。何もかもが今までとは違う、時期としては調度良い頃合だったろうと思う。そして新しくメイド長となった咲夜が美鈴のやり方を踏襲することに固執する必要など無い。
「咲夜さんが良いと思ったとおりにしてくれたらいいのですけど、そこに私がいては遠慮もありましょう?だからこそ、あえて距離を置くのです」
もちろん心配ではありますけどね。そう言って、やや苦味に偏る笑みを浮べた。
美鈴は今、本館にあまり近寄らない。宿舎も態々敷地内に別に建てて居を移し、生活の殆どをそこで完結させていた。
広いとは言っても、紅魔館の敷地面積など高が知れている。役職と共に生活の場を新たにする必要などどこにも無かった。
だのにそうした理由は他でもなく、
「咲夜のためだったのね?だからこうして――」
「本当は好き勝手にドンチャン騒ぎしたかったからですけどね!」
「うん。台無しだわ」
結局どこまでが本音なのか、必要とあらば厚顔にも繊細にも振舞える彼女の心根はようとして知れない。だがまぁ、心配なのは本心だろう。メイド仕事の煩雑さを誰よりもよく知る彼女なのだから当然である。
だなら、その美鈴がいないことで殊更にレミリアも気が気でないというのも、仕方が無いことかもれない。
そこでパチュリーは思いついた。
「閃いた」
「ろくでもないことを?」
「このっ、貴方って人は……っ!」
なら咲夜がさっさと一人前になればいい。自分は誰か、他でもない紅魔館の誇る知恵者。であるならば、
「いえ、いいわ。咲夜が心配、でも自分がでしゃばるのはよくない。貴方はそう言うのね。なら考えたのだけど、私が咲夜に助言してあげるのはどうかしら?」
適切な助言によって彼女の成長を助けることができれば、レミリアも咲夜にばかりかまける必要が無くなるはずである。
「ああ、暇つぶしですね」
「……ねぇ、貴方メイド辞めてから言うことが辛らつ過ぎない?」
「冗談です。そうですね、パチュリー様が見ていてくださるなら、私も安心できるかな?」
咲夜は一つこれと決めて取り組むと、とたんに傾斜するきらいがあると美鈴は理解していた。努力家なのは美徳だが、自分を考えに入れず行動することも多く、少々危なっかしい面もある。
万全を期した引継ぎとはいえ、心中穏やかではないとは認めざるを得ないところ。だからこそ理知的なパチュリーが抑え役となってくれるならば、と彼女の提案の理に頷く。
「言ったわね?安心なさい、私が咲夜を一日でも早く一人前のメイド長に教育してあげるわ!」
「いえ、無理するようなら止めていただければ、それだけでよろしいのですが……」
だが妙に張り切っている様子の彼女に、ややはやまったかもしれないとも思った。
=====
美鈴の心配はもっともなことで、だがパチュリーとて彼女の思う処を明瞭に察していた。元来メイドの作法に一家言持つわけでもないパチュリーなのだから、あえて場を乱すようなことを言うつもりはない。
正確に言えば、美鈴に成り代わり監督する立場に自分を置く、その程度に考えていた。
もちろん、根底の理由が理由だけにレミリアと鉢合わせにならないように配慮することも忘れない。
そうしてパチュリーは翌日より早速行動を開始したのだが、殊のほか嘴を挟む機会が見受けられた。
「その程度の仕事を態々メイド長自ら済ませようとするの?もう少し妖精メイドを上手く使いなさい。それもメイド長として重要な資質よ」
ある時は、その責任感から必要以上に仕事を背負い込む咲夜に釘を刺し、
「咲夜。今日来る里の配達だけど、諸事情で明日に延期になったそうよ。連絡を受けた新人の妖精メイドがオロオロしてたわよ。誰に伝えればいいのかって。新しい娘にはまず連絡網を明らかにしておきなさい」
ある時は新人を疎かにしてしまった咲夜に苦言を呈す。
「咲夜、タイが曲がっていてよ?忙しいのは分かるけど、身だしなみを疎かにするのは頂けないわね」
またある時は、多忙故の不注意を指摘する。
「ちょっ、咲夜!その本棚の掃除はいいから!別にやましいものはないけど、いいから!」
そして、時に働きすぎる咲夜の仕事の手間を取り除く。
半ば思いつきのような形で始まったパチュリーの一連の行動だが、自分の一言一言に律儀に頷き、礼を言う咲夜という素直で向学心豊かな少女の成長をつぶさに見守るのは、まるで花の開花を待ちわびることに似て存外に楽しかった。
そして当の咲夜はどうかというと、これが思いのほかすんなりと受け入れていた。
作法こそは学んだが、それ以上は自由にやればよいと考えているのがレミリアたちである。そのため、いざ自己裁量に委ねられると自分の出来不出来に確固とした基準を持つことが出来ず、それがむしろ咲夜にとってパチュリーの存在をありがたく思う要因となっていたのだ。
美鈴の思惑に沿うものであるかはともかく、事は概ね上手く運んでいると思われた。
=====
自分が美食家であると思っているレミリアにとって、食事は大切な娯楽であった。味についてはもちろん、だが最近ではそこに新たな楽しみを見出していた。今現在、レミリアの食事は全て咲夜によって用意されている。つまりは彼女の料理の腕前の上達振りを見ることだ。そして夕食こそが、それを顕著に実感できる時だった。
「うん。美味しいわ」
「ありがとうございます」
咲夜が初めて食事を作ったとき、経験がないためか酷い出来だったと美鈴から聞いている。野菜を切らせれば大きさは疎らで、味付けは大味、肉も野菜も生焼けと、実に初心者らしい失敗だ。
そしてそれを繰り返し、積み重ね、その成果を前に舌鼓を打つレミリアは満足げに頷いた。
「純粋に美味しいのもいいけれど、こうなると昔の貴方の作ったものもが恋しくなるわね。主に冒険的な意味で」
愛情こそ最高の調味料とはよく言うが、愛とは常に刺激的なもの。かつてはパイが苦かったり、ホワイトシチューが辛かったりと、自分から食べたいとあえて彼女に作らせたものであっても、舌への被害に身構えて口を付けていたものだ。その緊張感も過去のこと、今はこうして供される食事をただ楽しむだけでいい。
「ねぇ、ああいうのはもう作らないの?」
「そ、それは忘れていただけると……」
悪戯な笑みで咲夜を振り返るレミリアは、後に後悔とともにこの日言葉を思い出す。
レミリアは彼女の高い忠誠心を忘れていた。以後咲夜は主の期待に応えるべく、あらゆる努力を重ねることとなる。舌への刺激のために。
―――――
「で、調子はどうかしら?」
食後の紅茶と共に、レミリアはもう何度目になるか分からない言葉を咲夜に向ける。
いつものように強がりで平静を装う咲夜は、やはりいつものような言葉を返すが、今日ばかりは少し付け加えるべき出来事があった。
「順調です。と言いたいところですが、最近パチュリー様にお叱りを受けることが少々」
「パチェが?何でまた?」
この数日の出来事を話すと、レミリアの訝しげに顰められた眉が次第に可笑しげに緩められる。
パチュリーは咲夜に積極的に関わることをしなかった。それでも今、度々様子見にやってくるとは。日頃の振る舞いからか鑑みるに埒外のことだった。
咲夜をメイド長にすると伝えたときは澄ました顔をしていたが、やはり内心では気を揉んでいたのだろう。
親友のあまり感情を表さない顔を思い浮かべてクツクツと笑う。
「パチェも心配だってことか。咲夜、もう聞きあきたでしょけど、あまり急ぎ過ぎるのはよくないわ。貴方のペースでやればいい。もちろん、頑張るのは素晴しいことだけれどね。でも、よく言うでしょう?走れば躓くって。焦ることはないわ。私が保障してあげる、貴方は遠からず完全で瀟洒なメイドになれるってね。それこそ、美鈴よりもずっと立派な、ね」
「はぁ……、美鈴より、ですか」
「信じられない?」
と言うより、今一想像ができなかった。咲夜の知る美鈴はいつだって英姿颯爽としたメイド長で、彼女を思い浮かべるとき、常に目標にも似た感情を抱いていた。
その様な人物を例にとり期待を寄せられることに、思わず調子の外れた声を返す。
「だから美鈴を気にすることない、貴方の思うとおりにやりなさい」
傍でずっとその様を見てきた咲夜の心中は察するに余りある。彼女の考えるところを容易に理解したレミリアは笑って言った。
―――――
夜半の頃、散策に出かけるレミリアを見送り自室に下がった咲夜は、しきりに休息を求める身体に耳を貸すことなく、脱いだメイド服に皺ができないよう丁寧にハンガーに吊るし私服に着替える。
「……疲れた」
そして疲労困憊といった態でベッドへと倒れこんだ。
蝋燭にのみ光源を頼った部屋は薄暗い。幼い頃はよく、光に侵されない天井の四隅には何者かが潜んでいるのではないかと怯えながら見上げ、そして隣にいてくれる美鈴の胸に顔を埋めその恐怖から逃れようとしたものだ。
今同じようにして見上げる咲夜の瞳には恐怖の色はなく、ただ無事に一日の終わりを迎えたことで安堵するばかりであった。
思うとおりにすればよい。
ふと、レミリアの言葉を思い出す。自分を気遣う彼女の言葉だ。
幼い容貌に似つかわしくない慈悲を孕んだレミリアの微笑。咲夜はその笑みに、甘えてしまいたい、そう思ってしまうときもある。或いは、美鈴に助けて欲しいと言えばすぐに飛んできてくれるかもしれない。
だが咲夜は決して弱音を口にすることはない。自信志す、完全で瀟洒なメイドはその様な醜態を演ずることは決して無いからだ。
だが果たして、自分は皆の望むメイド長となれるのか。咲夜はずっと考えていた。
咲夜のメイド長就任が館内に通達されると、レミリアや美鈴はもちろんのこと、馴染みの妖精メイドたちも皆祝福と激励の言葉をくれた。
そして、パチュリーだ。その時は、頑張りなさい、と彼女らしい平坦な口調で祝福されたのみであったが、日頃出歩くことが稀な彼女が、今こうして態々気をまわしてくれている。
先頃のレミリアの驚きは、咲夜にとっても同じであった。
粗略にされた記憶などありはしないが、それでもレミリアや美鈴のように自分を溺愛することはなかった彼女が、だ。
それだけ期待してくれているのだろう。それに応えたいと切に願っている。
思うとおりにしている。努力はした。できることは全てやっている。しかし現状はどうか。今日もまたパチュリーに気を揉ませてしまう機会があったではないか。完全で瀟洒など程遠いというのが実際のところだろう。
確かに、まだ重大な手抜かりはない。だがそれも皆の手助けあってのこと。慣れていないだけ、とそう言い訳が立つかもしれない。
だが近い将来は――?
まんじりともせず天井を見上げていると、いつしか不安が安堵に取って代わる。未知への恐怖ではなく、職分への義務感によってだ。
「……明日やること、ちゃんと確認しておかないと」
そして不安を振り払うべく、ようやく得た休息の時間を食いつぶしてまで身体を振起す。
それから暫く、咲夜の部屋の明かりは消えることは無かった。
=====
「あれ?パチュリー様、今日もお出になられるのですか?」
「ええ。小悪魔、貴方は図書館のことをお願いね」
小悪魔の言うとおり、パチュリーはここ数日、毎日咲夜の様子を見に図書館を出て歩き回っていた。
あくまでも下心あっての行動だったが、なるほど、レミリアたちが咲夜を可愛がる気持ちが今更ながらに理解できた気がする。
実直で、ひたむきで努力家な咲夜。良き生徒の見本のような少女を見ていると、こちらまで勤勉さを発揮してしまいたくなってくる。
こうして咲夜の相手をしていると、いつか弟子をとるものいいかもしれないとも思う。彼女のように真摯で謙虚な姿勢で学べる学徒を導き、行く行くは幻想郷に名を馳せる傑物たる魔法使いの羽化を導くのだ。
彼の偉大な魔法使いをして師と言わしめる者は誰か、他ならぬパチュリー・ノーレッジ。七曜の魔女パチュリー・ノーレッジ!
やや華美な妄想に浸るパチュリーは、それだけに気分の良いことを表していた。
無論その弟子とは、まかり間違っても図々しく無断で上がりこんで好き勝手に蔵書を漁っていく魔女などではない。
決して、ない。
「まぁ、そんなのがいるなら見てみたいかもね」
喉の奥で笑うパチュリーは訝しげな小悪魔に見送られて、今日も今日とて咲夜を探しに図書館を後にした。
=====
「食料の搬入は全部済みましたよ」
「…………」
「で、在庫のリストはこっちです。メイド長、確認お願いします。……メイド長?」
「――えっ!?ああ、そうね。私も時々ヒラメとカレイを見間違えたりするわ」
「聞いて無かったなら素直にそう言って下さい」
どうにも心ここにあらずといった風の咲夜。らしくも無い彼女の様子に少し心配そうな顔をする妖精メイドは咲夜の顔を覗き込むよう身を寄せる。
端正な咲夜の顔。よくよく注視してみれば、その目の下にははっきりとクマができていた。
「お疲れですね。少し休んだらどうです?慣れてる私らもいますから、一応何とかなると思いますよ」
「これくらいでへばってたら格好付かないじゃない。大丈夫よ」
「やー、でも――」
「大丈夫だって。それより、新人の娘たちを見に行ってやってよ。幻想郷の妖精って本当に気まぐれなのばっかりで、誰かがお尻叩いてやらないとすぐ遊びだすんだから」
「はぁ……、メイド長がそう言うなら」
時折振り返り、心配そうにする妖精メイドを笑顔で見送り、姿が見えなくなるのを確認した咲夜は一つ大きく息を吐く。
「……うん、大丈夫。しっかりしなさい、メイド長」
古い馴染みとはいえ、今は立場上部下に当たる彼女に心配されるようでは面目が立つものか。
そして自分に言い聞かせるように言葉を吐き捨てた。
=====
咲夜を探して廊下を練り歩くこと暫し、どういうわけか今日はなかなか彼女が見つからない。
パチュリーはここでもないそこでもないと頭を巡らす。館内のそこここで見受けられる上機嫌な様子の彼女はすでに日常の一コマと認識されているのか、メイドたちは特に驚くこともなく一礼して仕事を続けていた。
だが元々が虚弱な魔女である。一刻と経たず足が疲れを訴えるパチュリーは、休憩にしようとサロンに入る。
「……居た」
どういう幸運か、そこで掃除をしている咲夜を見つけた。彼女は調度品を磨いている最中で、こちらにはまだ気付かれてはいない。
上機嫌なまま、妙な悪戯心を発揮したパチュリーは足音を立てずにじり寄る。あと数歩という距離まで近づいて、置きなおされた調度品の音に、はっとして常らしくない自分の振る舞いに思い至った。
羞恥に頬を染めるパチュリーは、そ知らぬ顔でそのまま咲夜に声を掛けることにした。
「咲夜」
だがその呼びかけに咲夜は、棚に手を掛けたまま、珍しく仕事中に呆けていて反応が無い。そして掃除道具を取り上げようと屈むだけだった。
「……咲夜?咲夜さーん?」
屈んだまま、やはり呆けた様子の咲夜にその声は届かない。そして近づいて肩に触れようと足を踏み出した瞬間、
「上から来るわよ!気を付けなさい!」
グラリ、と揺れる置物に気付いたパチュリーは慌てて駆け寄り、頭上の脅威など知る由も無い咲夜を突き飛ばす。そして機敏に身を翻し落下物を回避する。
「えっ?――パチュリー様!」
ことができるわけもなく、見事脳天で受け止めた。
―――――
「……うん?」
「お目覚めになられましたか!」
「やっ、パチェ、ごきげんよう」
気付けばソファーに寝かされて、咲夜とレミリアに覗き込まれていた。
頭に何か違和感を感じる。手で触れてみるとそれが氷嚢であると理解し、そこで自分は咲夜を突き飛ばし置物を頭で受け止めたのだと思い出した。
「そっか、私――ぃ!」
ぼやけた頭で起き上がろうとすると、とたん腰に痛みが走った。
服の上から手を当てると鈍痛を感じる。恐る恐る服を捲れば、色の白い肌にくっきりと紫色のあざが出来ていた。
「あー、たぶん倒れたときに腰ぶつけたんじゃないかしら。待ってなさい、たしか美鈴が軟膏持ってたはずだから、ちょっと行って貰ってくる」
「それでしたら私が……」
「いいよ。咲夜はパチェを見てやってて」
=====
不注意からパチュリーに怪我を負わせてしまうという事実は彼女の細い双肩に重くのしかかり、天を向かい真っ直ぐと伸びる若木のような背を老木のように折り曲げる。
俯き口を噤む咲夜と静かに横たわるパチュリー。二人きりの談話室にできた空白は、咲夜の零す低く気落ちした声で破られた。
「……申し訳ありません。パチュリー様」
だが渋面を浮べる咲夜とは対照的に、当のパチュリーは瑣末事だと手を振って答えた。
「構わないわ。むしろ貴方が怪我でもしたら、その方が大変よ」
紅魔館が。その様なことになれば、親馬鹿二人がえらいこっちゃと騒ぎ出すことは容易に想像できた。咲夜の怪我で紅魔館がヤバい。それを未然に防ぐことができたのだから、パチュリーはただ安堵するのみだった。
「パチュリー様……」
「えっ、ちょっ、何その反応?」
だが言外に含まれる意味に気付いた様子もない咲夜はその優しい言葉に目頭を熱くする。
鈍痛を抱える頭では自分の言葉が与える表層的な印象についてまで意識が向かなかったのか、訳が分からないと慌てる。
「駄目ですね。私」
「な、何が?」
目尻を拭い、自嘲を孕んだ泣き笑いの顔で零す咲夜。消沈した気持ちそのままに肩を落とし、常の覇気は霧散し、陰鬱な印象さえ受ける。
そんな彼女を見るのはパチュリーも初めてのことで、恐々と訪ね返す。
「メイド長として、ですわ。仕事中に現を抜かすなんて、メイド長失格です」
確かに、先ほどの彼女はどうにも様子がおかしかったと思う。そういえば、とその疑問を口にしようとすると、
「あんなにもパチュリー様に目を掛けていただいたというのに」
「い、いや!あれは――!」
先んじて漏れる咲夜の言葉にパチュリーはたじろぐ。
やり過ぎたのか、もしかしたら自分の一言一言が圧力となって彼女の仕事に差し障るストレスを与えていたのかもしれない。そして今その緊張の糸が切れてしまったが故の集中を欠いた先ほどの姿か。
失意に沈む咲夜に、パチュリーは必死の弁明と若干の韜晦を交え、自分のことで気に病むことはないと諭す。元より、嫉妬心に端を発す自分本位な行動である。自分が原因なのかもしれないというのだから、パチュリーも必死だった。
「そんなことありませんわ!」
だが咲夜はその言葉を首を振って否定する。
「パチュリー様のお言葉はその一つ一つが有難く、目を掛けていただいていると、そう感じ、授かるたびに一層身が引き締まる思いでした。」
咲夜の健気な言葉は銀のナイフより鋭利で、一言一言投げかけられる度にパチュリーの矮小な心は失血を強いられた。が、咲夜はそんなパチュリーに気付いた様子も無く言葉を続ける。
「私は果報者です。皆が皆優しい言葉をくれて、日々愛されていると実感します。その度、また頑張ろうって思えるんです」
「咲夜……」
初めて門を潜ったときから皆の態度は変わらず、その幸福は暖かな暖炉のように咲夜を包んだ。幼い咲夜は薪を絶やさぬように、自らその細腕を働かせようと決めた。
その果てに得た、メイド長の肩書きに咲夜は歓喜した。自分の資質が正当に評価された、と言う理由ではない。誰のため、何のために努力してきたかが正しく伝わっていたのだと思えたからだ。
「それ故、不安なんです。望まれて、そして自分が望んだ地位だというのに……」
だが今、咲夜は寒天に置き去りにされた稚児の様で、でも、と更に言い募るその紅唇は弱弱しい。
「些細な失敗が怖いのです。それを積み重ねて、そして――」
もしかしたら。身震いするように両手で掻き抱き、零す。
「そして、皆を失望させてしまうのではないか、と」
「いや、それ絶対ないから」
怪物たる品位を忘れ奇行に走る親馬鹿に頭を抱えること記憶に余りあるパチュリーにしてみれば、その心配はいっそ杞憂でしかない。
「もっと上手くできるだろう。美鈴ならこの位なんてとこないはずだって。そう考えると、余計に……」
が、当の本人にしてみればその様なことを期待するのは依存心に他ならず、勤勉実直で責任感過多のメイド長にとって許されざることだった。
「思い知りました。今までずっと守られていただけということを。知りませんでした。自分で決めて、自分で責任を持つことの重みを」
今までずっと美鈴が傍にいた。少しの失敗も、彼女が笑ってフォローしてくれた。何一つ不安に思う必要は無く、見上げれば道行きを示してくれた。
思うとおりにすればよい。そう言われた。言われてしまったが故に、これからは一人で地図を見て歩まなければならない。
どれだけ背伸びしようと、年相応の少女。むしろ一般に比べて人生経験というものが不足しているといえる。
その彼女が始めて直面した大きな壁。感情の納め処を知らぬ咲夜は、標の無い葛藤の迷路を独りさ迷っていた。
―――――
「で、自分の素質に不安を感じるあまり睡眠時間を削ってまで、ね」
「…………はい」
「そうね、私も彼女は素晴しいメイド長だったと思うわ。……今は見る影も無いけど」
彼女の能天気な笑顔を思い浮かべ、内心で睨め付ける。
いったいどの辺りが“大過なく引き継いだ”というのか。親の欲目が過ぎるというものだ。
いや、それは無理らしからぬことだったかもしれない。
物覚えがよく何事にも如才ない、というのがパチュリーの咲夜への評価である。そしてそれは紅魔館の皆も同じことだろう。
咲夜の懊悩は、だからこそ埒外といえるものだった。
だが元を正せば、それは彼女の努力に因る処が大きい。そうあろうとするのは何のためか。それも良く分かる。そしてだからこそ悩みを吐き出すことができず、寸暇を惜しむまで切迫していたのだろう。
ここに入るべきは自分ではない。本来、それは今門の前で我が世の春を謳歌している美鈴、或いはレミリアだ。
が、今回に限って言えばその役目を負うべき者たちが適確とはいい難い。たとえ偶然からにしても、今ここで彼女の心根に触れる機会を獲てしまった自分が納めるしかいないのだろう。
何と言い含めたものか。理に聡いパチュリーだが、情念に訴えかける言葉は終ぞ学んだことが無い。だが今必要なのは理屈ではなく、情感に満ちた暖かい言葉だ。明らかに適任とは言えなかった。
灰色の頭脳を忙しなく働かせようと暫し視線を虚空に漂わせ、だがその様なことをする必要が無いことにすぐさま気付いた。
「咲夜。貴方って時々すごく馬鹿ね」
「…………」
「そんな心配、する必要ないってことよ」
「……えっ?」
ただ当たり前の事実を彼女に伝えてやればそれだけでいいのだ。
常の皮肉げな笑みを潜ませ、ゆっくりと咲夜に身を寄せる。
「貴方がどれだけ失敗しても、誰も貴方をメイド長として相応しくないなんて思わないわ。絶対よ。何故だと思う?」
子供へのそれに似たパチュリーの問いかけ、首を振って分からないと返す咲夜のそれもまた稚児の様で、その仕草に、幼い日、少女であった頃の彼女の姿が蘇りパチュリーは可笑しそうに目尻を緩める。
―――――
「えぇっと、あの、それはどういう……」
「分からない?まぁ、それが分かるならこうはなっていないか」
ただの人間である咲夜が紅魔館で働くこととなった時、パチュリーはその事実を無感動に受け入れた。
人間は地上の覇者たらんと欲し、果てに空をも制した。パチュリーもその驚嘆すべき歩みを軽んずることをしない。だがそれも長い歴史の積み重ねによってこそ成し遂げられたことだ。
高々100年足らずで没する人の生涯で、例え人として最も幼い頃に招き入れられた少女とは言え、どれほどのものとなるのか。その未来絵図はパチュリーにさしたる感傷を呼び起こすことは無かった。どちらかと言えば、何の役に立つのだと呆れてさえいた。
「寝る間も惜しんで仕事を覚えようとしていた、あの小さい女の子は誰だった?」
「……私です」
両の手で数えられる僅かな時。人間にとって壮大な物語の序説となるに十分な歳月であっても、人でないレミリアたちには劇の幕間程度にも満たない。
だが咲夜は、遥か彼方を悠々と歩く怪物、レミリアを幼い身体で必死に追い縋った。その事実をパチュリーは感嘆と共に思い起こす。
「食事だってそう。種族の違いを気にしてないって風に振舞おうとして、いつも皆と一緒に食べてるのは誰?」
「私、です」
紅魔館に住む者で人間は咲夜だけ。そして咲夜の同僚の中には人間であれば少しばかり眉を顰める物を嗜好する者もいる。だがそれがどうしたと言わんばかりに、咲夜は彼女たちと食事の席を共にした。
そうして咲夜は皆との距離を自分から狭め、真に友誼を結ぶに至り、信頼を勝ち得た。
「空気を綺麗にしてくれるって、図書館にポトスの鉢植えを置いてくれたのは?」
「それも、私です」
本来自分のことで手一杯のはずだろうに、それでも咲夜はパチュリーの生活環境にまで気を配る。
重い鉢植えを抱えてやってきた咲夜に礼を言うと、彼女は玉の汗を浮べた頬を染め、照れた笑みを返した。暫くその笑みを思い浮かべるたび、緩む頬を本で隠さなければならなかったのは愉快な思い出だった。
「紅魔館の権威を知らしめると言って、紋章入りの馬鹿でかい旗を時計台に立てたのは?」
「お嬢様です」
「………………そうだった」
ただでさえ紅いのに、おまけに華美な旗印。その光景には、テーマパークかと呆れたものだ。皆に不評だったそれを、尚も下ろすことに不満を見せるレミリアだったが、美鈴に指を指して笑われると無精無精引き下がった。いや、ムキになって支柱ごとグングニル代わりに投げつけていた。
それはともかく。
「ほら、貴方はこんなに気配りができて、誰かのために一生懸命になれる。こんな娘、他に誰がいて?」
きっと、その真心は誰にも真似できない。館が暖炉であるならば、咲夜こそがその中で輝く灯火った。
皆が眩い生気に輝く彼女の傍により、その光源に目を奪われた。
「ずっと皆が貴方のことを見てきた。きっと、貴方が自分を振り返る以上にね」
それ故、この小さな人間の娘がどれだけ努力家なのか、引きこもり加減では幻想郷において他の追随を許さないパチュリーでさえもよく知っている。
「だから皆信じることができるのよ、貴方が素晴しいメイド長になってくれることを」
そして初め抱いた、決して肯定的とは言えない咲夜への感情も、流水が岩を削るようにやがて微塵となり、終には砂石のごとく風に攫われていった。
「失敗したってかまわない。それが貴方の糧となってくれるならね。ゆっくりとでいい。皆ずっと待っているから。貴方が、貴方の望むままのメイド長になれる日を」
時を刻む砂時計の一粒を惜しむように、漏刻の一滴さえも零さぬように日々を歩んできた彼女を皆が見守ってきた。目まぐるしい季節の移り変わりすら遠くに置き去りにする、駿馬の様な彼女の成長に誰もが感嘆の吐息を零し、そして颯爽と歩くその背を振り仰ぐ日の到来を思い描いていた。
「思うとおりにすればいいって、レミィは言ったわね?ええ、まったく持ってその通りだわ」
軽やかに時を駆ける咲夜に、憧憬にも似た淡い思いを抱いた。
鈍重に長い生涯を生きる妖怪であるからこそ、そんな咲夜に枷をはめて閉じ込めてしまいたくはなかったのだ。
「貴方は少し考えすぎて臆病になっていだけ。心配することなんて何もない。だから、どうかその翼を折ってしまわないで。もう分かるでしょう?皆が見たいのは、何なのかって」
終ぞ聞いたことの無い甘い色の香る声音が咲夜の耳朶を打つ。そこにあるパチュリーの優しげな瞳に、瞬きを忘れた咲夜の目線は溶け入るようにして、自然魅入られた。
安心させるように、美鈴の笑みを思い出し、努めて彼女の様に微笑む。日頃から体だけでなく、顔の筋肉まで物臭に任せている自分では上手くできるかどうか心配だったが、咲夜の反応を見る限り上手く出来たらしい。
「もちろん、私もその一人よ」
自分でも似合わないと思うウインクを最後に添えると、咲夜は感極まった様子で失意のそれではない感情で瞳を潤ませる。
「はい……。はいっ!パチュリー様」
「むぎゅぅ――!」
そして思わずパチュリーに抱きつく。思いの外、効果は抜群だった。
いい具合に腰への負担が増し、抗議をしようにも細腕に似合わぬ力持ちな咲夜に抱き締められて息が出来ない。
「私、頑張ります。胸を張って、私がメイド長だと言える様に頑張ります」
「ぬふぅ!!」
「完全で瀟洒なメイド、紅魔館にその人在りと言われるよう一層励みますわ」
「あわびゅ!!!」
「ただいまー。パチェ、軟膏貰ってきた……わ、よ?」
パチュリーの声にならない悲鳴が限界を迎え、小野塚小町が大儀そうに腰を上げたところでレミリアが軟膏を片手に戻ってきた。
一瞬、目の前の惨状に唖然とした表情を見せるも、
「パチュリー・ノーレッジ、死亡確認!」
親友のために素早く生存フラグを立ててやり、パチュリーは一命を取り留めた。
=====
そして数日後、なんとそこには元気に愚痴を零すパチュリーの姿が!
「もう二度と抱き締められたりなんかしないわ」
「あはは。お疲れ様でした」
ようやく腰の痛みが引いたパチュリーは、最近妙に縁のある番所で美鈴と一緒に居た。
彼の一件。自分の胸にだけ留めておくべきか迷ったが、せめて保護者たる美鈴にだけでも伝えておくべきかと考え、態々足を運んだわけだ。無論のこと、ここで相手にレミリアを選ばない理由は察するに余りある。
「まぁ、これも自業自得かもしれないのだけれど……」
語った顛末をため息と共に締めくくる。
夜遅くまで仕事に没頭し、体調管理が疎かになるまで自分を追い込んでしまったのは咲夜自身である。そこに至る過程で、彼女の内心に問題があったのは事実。だがその葛藤も表面化することなく、時間と共に自分で決着を付けることだってできたかもしれない。
或いは、その導火線に火をつけたのは自分の性急に過ぎる横槍とも言うべき行動だったのではないかと、今もパチュリーは考えている。もっとも、咲夜本人は否定するだろうが。
「気にし過ぎでは?それでしたら、気付いてあげられなかった私にも責任の一端はありますでしょうし」
美鈴は咲夜の優れた資質を過信して、彼女の繊細な心を看過していたことを少し悔やんだ。だが咲夜にとって良い結果に終わったのなら、それでよしとすべきだろう。
先日、庭園から見上げた先、窓越しに見た咲夜の横顔は生気に満ち、同僚のメイドと談笑する彼女の相貌に陰りはなかった。ならば、この話はここで終いだ。
「それでもね、求められる前に忠告するなって、いい見本よ。正直良心の呵責を覚えるわ。最近、あの娘すっごい晴れやかな笑顔で私を見てくるのよ」
日頃から動いていないのに、腰痛を患ったおかげで更に動かなくなったパチュリー。咲夜は手作りの菓子を持って度々見舞いに訪れた。その熱心な様子に、経緯を知らない小悪魔などはしきりに首を傾げていたという。
純粋な咲夜の花の咲いたような笑顔にパチュリーの胸はチクチクと痛んだ。もちろん、恋ではない。
「変なところで律儀だなぁ。……ですがそういうことなら、パチュリー様」
「うん?」
「あなたって、本当に最低の屑だわ!」
「美鈴!?い、いきなり何よ!?」
「いえ、良心の呵責を覚えると言うのなら、咲夜さんに代わって罵倒しておこうかと思いまして」
「いらないわよ!」
「あ、ここにいたんだ」
戯れる二人の後ろから掛けられた声。その元を辿ると、扉から身を覗かせるレミリアの笑顔があった。
「お嬢様、如何なさいました?」
「やっ、パチェを探しにね」
「私?」
自分を指差すパチュリー。さて、そんな急ぎの用事でもあっただろうかと首を傾げる。
「久しぶりにチェスでもどうかしらと思ったのだけれど」
お邪魔だったかしら?テーブルに並んだカップとクッキーを見て、パチュリーを真似するように小首を傾げた。
「え、えらく突然じゃないの」
「いや、最近咲夜のことにばかりかまけてたしね。やっぱり出直す?」
「……いいえ!行く、行くわ!さぁ行きましょう!早く行きましょう!」
「パチェ、そんな元気よくイクイクって、はしたないわよ」
「はしたないのはお嬢様です。パチュリー様、昼間からほっつき歩いているお嬢様をさっさと連れて行ってください」
「美鈴さーん?貴方メイド辞めてから口調が少し乱暴じゃないくて?――って、パチェ、そんな引っ張らなくても自分で歩くから!それじゃ、私は行くけど、しっかり門番やんなさいよー」
虚弱な身体のどこにそんな力があるのか、引きづられるレミリアは飛ぶのとも歩くのとも違う景色の流れを視界の脇に、日傘を振って去っていった。
暫し、本館の中に二人が消えていくのを見守っていると肩を叩かれる。
「こんにちは、美鈴」
「……咲夜さん」
素直に首を動かせば、頬に柔らかく刺さるものがあった。咲夜の指だ。悪戯を成功させた咲夜は可笑しそうに笑い、半眼になる美鈴の胸に紙袋を押し付ける。
言いたいことはあったが、まずはその袋が何なのか覗き込む。
「半休貰ったから、差し入れに」
「マフィンですか。これは美味しそうだ」
「外の娘にはもう渡したから、こっちは遠慮なくどうぞ。それにしても、本当に皆メイド服脱いじゃったのね。なんだか見違えたわ」
正門を覗き見れば、立哨中の妖精がマフィンに齧り付いていた。門番と言う職に合わせてそれらしい服装を誂えたわけだが、なるほど確かに、妖精が着るに無骨に見えるのかもしれない。見慣れた妖精の見慣れぬ姿に驚くのも無理らしかぬ話だろう。
「一応、仕事中なんだけどなぁ」
マフィンを頬張る妖精がこちらに気付き、目が合うとにこやかに手を振って返された。職務中の余計な飲食についての後ろめたさなど微塵も見受けられない笑顔だった。
「どの口で言ってるのかしら?」
開かれたままの番所の扉。そこから覗く、設えられた本棚を視界に収め半眼で睨む。その視線の力強さたるや、正しくメイド長に相応しいものだった。
「しっかりやってよね。門番長」
「了解です。メイド長」
用事は本当に差し入れだけだったらしい。それだけ済ますと、咲夜はその足で屋敷へと引き上げていった。軽快な足取りは瀟洒そのもの。後姿を眺める美鈴は暫し見惚れた。
「――咲夜さん!」
「何?美鈴」
「えーっと、……お仕事頑張ってくださいね」
「ええ、ありがとう」
何でもないと振る舞いはしても、正直に話せば、パチュリーから聞かされ話は僅かな未練を美鈴の胸に残した。
一つ大きな苦難を乗り越えた咲夜の背中は頼もしい限りで、それが親を自認するものとして嬉しくあり、だが少し寂しくもある。
「メイド長、なんとも様になってますねぇ」
「……そだね。あ、これ美味しい」
チロリ、と指先を舐め近づいてくる妖精も咲夜の背を眼で追い、しみじみと漏らす。
頷く美鈴の口にしたマフィンは、だが少しばかり塩辛く感じた。
幼い頃、咲夜は自分の傍にいることを好み、そこで穏やかに笑っていた。それが今ではごく自然に背を向けて歩くことを覚えた。きっと、これが親離れというものなのだろう。まさか妖怪である自分が、そんな人間じみた節目を迎えることになるとは思いもよらなかった。
「まぁ、咲夜さんも頑張ってることだし、私たちももう少し真面目に門番やろっか」
「じゃあこの前作った『おいでませ紅魔館』の看板はどうします?」
未練たらしいとはよく分かっている。だがそれでも、親を自認するものとして彼女の大切な転換期といえる機会に立ち会ってやれなかったことに恋々としている自分がいた。
もう咲夜に対してしてやれることなど、そうはないのだろう。だがもう少し、ほんの少しでいいから、彼女に親らしいことをしてやりたかった。
「……撤去で」
「りょーかい」
だからか、妖精を門へと送り出してから、ふと考えた。
「なら次は、人間の友達でも作ってあげたい、かな?」
温かいいいお話でした。
パチュリーのキャラが良い!
子供っぽいパッチェさんも可愛いです
しかし、皆が良い事に異論はありえない。
ビバ紅魔館。
人間味あるパチュリーがいい。可愛い。
>いつしか安堵が不安に取って代わる
こう書くとむしろ安心しちゃってるような。代わられる、ならともかく。
私の勘違いならごめんなさい。
「瀬が伸びてしまった」→背?
「自信」→「自身」の間違い?というのがいくつか
話はとても良かったです。
一人ひとりのキャラクターがとても魅力的でした!
あんた最高だよ!
人間っていいなぁとしみじみ思いました
沢山の感想ありがとうございます。お陰さまで咲夜は壁を乗り越え、完全で瀟洒に一歩近づけました。もう何も怖くない。
31様
32様
誤字・誤用を修正しました。ご指摘、ありがとうございます。
とまあそれはさておき、どいつもこいつもキャラが立っていて面白かったです
咲夜本人の能力やフランに触れていない点が少し気になりましたが、全体のテンポの良さ非常にツボでした
そしてパチェさんめちゃくちゃかわいい、というかみんな良い。さっきゅんまじ天使…
あと作者さんそれは死亡フラグだ…
パチュリー目線からの咲夜さんの成長を描く事で、咲夜さんの魅力がこれ以上ない程に伝わってきました。自身の体を省みず周りのために頑張る咲夜さんがしっかり描写されている事で、パチュリーの嫉妬が愛情に変わっていく展開にも充分に説得力があり、美鈴の信頼や、お嬢様の溺愛ぶりも理解できました。この作品を読めば、最終的に読者も咲夜さんを溺愛してしまうことでしょう。
個人的には、パチュリーの嫉妬からの行動を、期待の表れと勘違いする両者の思考のすれ違い部分が読んでいてとても楽しかったです。
あえて重箱の隅をつつく様な指摘をさせていただくと、41番の方が言われているように、咲夜さんが能力を使用しない事とフランが登場しない事の2点が残念でした。特に、フランが登場しないことで、館の皆から認められる咲夜さんというこの作品の重要な表現のノイズになっているように感じます。
誤字の報告ですが、「たとい偶然からにしても」、という文があったのと、「パチュリーは慌てて駆け寄り、頭上の脅威など知る由も無い咲夜を突き飛ばしたパチュリーは機敏な動作で落下物を回避する」、の文で主語が二回繰り返されていました。
面白い作品を読ませていただきましてありがとうございました。
この紅魔館最高です。
クールに描かれることの多いパチェさんが可愛いすぐるw
中が良かっただけに、一瞬最後の台詞が微妙に感じましたが、意味を少し考えてみると印象が一転しました。
でも少しでいいので妹様もからめて欲しかったような……
初見の筆者名だったので、ちょっと過去作漁ってみたくなりました。
それにしても他にあまり無いツンが一周してデレになってるパチェさんの可愛さと言ったら、もう……
最近ようやくパチュリーの良さが分かってきましたので、今回の主役抜擢と相成りました。
いやぁ、紅魔館って本当にいいもんですね。
49様
誤字修正しました。ご指摘ありがとうございます。
ご指摘もっとものことだと思います。
本作、フランについては地下にいることでどうしても絡ませづらく、思い切って切り捨ててしまいました。
しかし多くの方も触れている通り、やはり彼女も家族の一人ですから少しでも咲夜と掛け合わせるべきだったと猛省しております。
咲夜の能力については、こればかりは私の力不足です。咲夜の葛藤にばかり話の重点を置きすぎて、能力を使用した影響があると物語として成り立たなくなってしまいましたので。
今回深く読み込まれた感想を頂き、作者として冥利に尽きると言うものです。
本作の反省を活かして次の作品に望む所存ですので、よろしければまたお付き合い下さい。
>>親友のために素早く生存フラグを立ててやり、パチュリーは一命を取り留めた。
これが運命を操る程度の能力・・・!
特に親バカ二人、と作中で言われるお嬢様と美鈴の咲夜さんへの暖かい想いが伝わってきました。
嫉妬の情を燃やすパチュリー様も憎めない。
作中お嬢様が咲夜さんを優しく励ます言葉が本当に素敵で、こんなお嬢様と美鈴に育てられたら咲夜さんも素敵な人に育つよなあ、と納得です。
咲夜にばかり構うレミリアに構ってほしくて嫉妬するパチュリーの描写がとてもすっと入ってきて愛らしくて良かったです(実は自分も同様にパチュリーの嫉妬を書いてみたことがあるんですが、作者様のように書けたらなぁなどと考えていたり…w)。そしてそこから咲夜の成長譚につなげる話の展開も良かったです。
「なら次は、人間の友達でも作ってあげたい、かな?」という美鈴の発言から紅魔郷へ、という締めもとてもすっきりしていました。咲夜の時間はこうして流れ続ける。
…ところでパチュリーにスカッシュさせたら一体どれくらい持つんですかね?(純粋な興味