庭園の手入れをしていると、ひょっこりと咲夜さんが現れた。
小道沿いに植えたパンジーの周りに生えた草をむしっている最中だった。
長い事そうしていたので、軍手の中の手がじんわり熱を帯びていた。
「精が出るわね」
後ろから声をかけられて、一瞬思考が止まり、けれど次の瞬間肩の力を抜いた。
振り仰ぐ前に、咲夜さんは私の隣にしゃがみこんでいた。
「お散歩ですか?」
本当は、お疲れ様です、の一言を言おうとしたのだけれど、一気に距離をつめられて、言葉が喉の奥に引っ込んでしまった。代わりに、その次に言おうとしていた事を言ってみた。
「ああ、まあ、そんなところ、かな」
細長い指先で、つるつるとパンジーの花弁を弄びながら呟く。こんな晴天の下で、その指先にどこか性的なものを感じてしまった私は、日の光に当たり過ぎたのかもしれない。
「それなら、向こう、芝生の向こう側にれんげが咲いているので、ぜひ見に行ってみて下さい。最近の私のおススメです! 可愛いですよ」
「そう、じゃあ、後で見に行ってみようかしら」
パンジーを眺めながら、そう返される。
あれ、何だかおかしいな。咲夜さんの反応が、何だか悪いような気がする。
「咲夜さん、パンジー好きなんでしたっけ?」
「え? いや、別に……と、言っても嫌いなわけでもないけどね」
「そうですか」
「ええ」
「…………」
「…………」
う、何だろうこの沈黙。
と言うか、パンジーをそれ程好きなわけでもないのに、どうして熱心に見ているんだろう。
咲夜さんは掴みどころがない人だけど、今日は一段と掴みどころがない。
これは無言の長期戦になるかもしれない……と思い、それならと軍手を外した。
蒸れて熱を持った手指が乾燥した空気に冷やされて気持ちが良い。
ほう、と一息つくと、咲夜さんの手が伸びてきて、手のひらに触れられた。
不意をつかれて驚く。ひやりとした手。動きが止まってしまう。
拍子でぼとりと軍手が地面に落ちた。
「あ、あの……あまり綺麗な状態ではないと思うので、触らないで頂けると……」
「ん、私は手は洗ってきたわよ」
「いや、あの、咲夜さんのではなく」
「冗談よ」
くす、と笑い含みに言われる。冗談なら今すぐこの手を離して欲しい。
手汗が滲んできたらどうしよう……そう思うと本当に滲んできそうで怖い。
「あの……」
緩く手を引っ込めると、それ以上深追いされる事はなく、咲夜さんも手を引っ込めた。
「別に、貴女を困らせに来たわけじゃないのよ」
「え……? なら、何をしに」
「……今貴女、さりげなく失礼な事を言ったわね」
肩を竦めてみせた咲夜さんに、私は慌てた。
まずい。今のはまずい。まるで咲夜さんを『私を困らせる人』と思ってる、と勘違いされてしまう。
いや、あながち間違ってはいなけれど、それだけではないから。
何て言うのか、構ってもらうのは嫌いじゃないから。
「し、失礼しました」
「別に良いけどね」
拗ねたふうでもなく、咲夜さんは再びパンジーを弄び始めた。
「……私は、ただ、貴女とね、同じ目線で花と触れ合ってみようと思っただけ」
「え?」
「こうして花と接する時、貴女、すごく楽しそうな顔になるから、それに混ぜてもらおうかと」
「え、あ、え……そう、でしょうか?」
「ええ」
確かに、花の世話をするのは大変だけど癒される時間でもある。
綺麗な花を咲かせてくれると嬉しいし。花は、目に見える、分かりやすい達成感を与えてくれる。
「あの……咲夜さん、楽しさに飢えてたんですか?」
「どうしてそうなる」
ぐい、と膝を横から押されて、バランスを崩す。わわ、と声を上げた瞬間、地面にお尻をついていた。
あ、何これ、私すごく間抜けな人みたい……。地面に手をついて起きようかこのまま座っていようか逡巡していると、立ち上がった咲夜さんに手を差し伸べられた。
「ズボンはいてなければ、ここでパンツ丸見えよ、とでもからかってあげられるんだけど……残念」
「……そんな事を言う人の手を取って良いんでしょうか、私は」
「さあ? そこは貴女の性癖次第?」
「また、そういう事を言う……」
はあ、と溜め息をつくと、差し出された手が引っ込められそうになったので慌てて掴んだ。
「引っ込めるの早いですよ」
「んじゃ、最初から掴まっていれば良かったでしょうが」
正論と思いたくない正論を言われて、ぐっと言葉に詰まる。
くっと腕を引かれて、おとなしく立ち上がった。
ああ、もう、本当に何がしたいんだか……。咲夜さんも、私も。
「手、今度は掴んでも、文句言わないのね」
「――あ! そうだった」
はっとして手を引くと、今更でしょ、と強く引かれて手のひらが密着する。
それだけの事なのに恥ずかしくて仕方ない。この人は他人の微妙な羞恥心に疎い。
いや、聡いのに、わざと気付かないふりをしているのかもしれない……。
見つめてみても、表情は読み取れない。こういう時、涼しげな顔を、ずるく感じてしまう。
「ねえ、れんげ、どこに生えてるんだったっけ」
「え? あ、えと、あっちですが」
指し示すと、咲夜さんは指し示す方をまじまじと見つめた後、連れてってくれる? と言った。
え、え、と戸惑っている間に歩き始める。つられて私も足を動かした。
連れてってって、自分でぐいぐい進んでいってるじゃないですか。私いらないじゃないですか。
ああもう、本当に何なんだろう……。ひょっとして、一緒に見たいとか……?
いや、それは期待のしすぎでしょう。そんなに現実は甘くないはず、うん、多分、いや、絶対。
「……手のひら、ちょっと汗ばんできたかもね」
「うう、なら離して下さっても結構ですよ?」
ヘンな事を考えていたら、緊張して汗ばんできたのかもしれない。
女の人は汗を気にするって、絶対分かっているはずなのに、はず、なんだけどなぁ……。
「でも、汗ばんでいるのは、私のほうかもしれないわよ」
「……え!」
「貴女のほうかもしれないけれど」
「あ……うう……」
「ふふ」
この状況でそんな爽やかな笑顔を見せられても嬉しくないですよ……まったく……。
くっつけ合った手のひらの温度が増したような気がする。ああもう、恥ずかしい。
ぐっ、と俯いていると、ひとしきり笑った咲夜さんに、れんげのところまでだから、と言われた。
「そのかわり、一緒にれんげ観賞してね」
「……良いですけど、今度はちょっかいかけたりしないで下さいね」
「良いけど、……ふうん、あれは貴女にとって、ちょっかい、に映るのね」
面白そうな声。咲夜さんの前では、ちょっとの発言も失言になりうる。
「好意的にとって、ですよ?」
「好意的にとってもらえるだけで結構よ」
ああ言えば、こう言う。悔しくなって、ぐっと手に力を込めると、ぴくりと咲夜さんの手が動いた。
ささやかな意趣返し。これくらい、許して欲しい……と思っている最中、強く握り返された。
「……これはもう、汗とかどうでも良いとか、思わない?」
「……ですね」
吐息、いや、ため息混じりに呟く。もう良いや、咲夜さんが良いなら。
顔を上げる前に、繋がれた手を見つめた。
ぎゅっ、と握っているからか、お互い少し血管が浮かび上がっている。
あの、どうせなら、恋人繋ぎと言うのをしてみたいです、と言ったら、呆れられるだろうか。
現金なやつだって、苦笑されてしまう……?
顔を上げると、視線の先にれんげの群れが見える。
ああ、やっぱり場所、知ってたんじゃないですか……。
チャンスは今しかない、と思いながらも、現実逃避するかのように、そんな事が頭をよぎる。
言葉で伝えるのは憚られて、意を決して指を動かすと、するりと組み合わされた。
え……? と思わず呆けた声が出る。咲夜さんは、そんな私を見て、心底楽しそうに笑った。
あ、今の、笑顔は、好きかもしれないです……じゃなくて!
「……ねえ、やっぱり、これはもう汗とか」
「もう、黙って下さい!」
はいはい……。くすくす笑われて、頬が熱くなる。
違いますから、これは今日が晴天で、暑いせいですから。
熱を逃がそうと溜め息をついたら、手のひらの温度が気になりだした。
二人の間の籠った熱が、行き場を失っている。
でも、もう、手を離す余力なんて、残っていないもの。
そんなパワー、根こそぎ奪われてしまった。
だから、この状況は、もうどうしようもないもの……そんな言い訳を心の内で呟いた。