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――― ねぇ、何が正しかったの?
闇に塗り潰された視界に、その姿を追い求める。
答えを教えてくれる者は、いない。返ってくるのは、時折鳴り響く水音だけ。
硬い岩盤に背を預け、うずくまったまま。
背の痛みも、収まらない空腹感も、孤独でさえも、彼女を動かす要因とはなり得ない。
あるのは罪悪感と、後悔と、泣きたい気持ちだけ。
これで、いいんだよね?
痛々しいまでに信じ込む、頑なで、切実な思いを抱えたまま。
全てを忘れられたらどんなに楽だろう。
――― だけど。
本当は待っている。心のどこかでずっと待っている。偽らざる本心が求めている。
忘れたくない思いがそこにある。
彼女の――― 雛の、本当の願い。
――― もう一度、この孤独から連れ出してくれる、温かなその手。
”Lead Me”
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鍵山雛は、厄神である。
根本的に、あらゆる生物に不幸をもたらす”厄”。
彼女の仕事は、幻想郷に暮らす人々の下へ厄が流れ込まぬよう見張り、場合によっては回収する事である。
ある程度厄が溜まったら、それをさらに上の神へ引き渡す。それが一連の流れ。
大抵の場合、自らに厄を取り込む彼女の傍では、誰であれ不幸になると言われている。
だが、噂というものは得てして恐怖を煽る方向へ解釈されるものであって。
厄神の仕事が”厄を回収し、見張る”である事を知る者は、殆どいない。
その”厄神”という名前の響きは、人々に”疫病神”という先入観を与えるには十分過ぎるインパクトを持っていた。
傍に寄れば不幸になるという言い伝えも乗算され、いつしか雛は”不幸を撒き散らす疫病神”とのレッテルを張られていた。
それは人に限らない。彼女の住まう妖怪の山の住民、特に天狗の一族においては、近寄ろうとする者はまずいない。
だが、雛はそれを全く気にかけなかった。
人が自分を何と考えていようと、雛は人が好きだった。
そして、彼らが不幸にならぬよう厄を集める仕事に、誇りを持っていた。
人々が誤解から自分を避けるのも、厄に近寄らせないという観点ではむしろ好都合だった。
だから、訂正しようともしなかった。する方法も思いつかなかったが。
だから、雛はいつも独りだった。
誰よりも優しい神様の傍には、誰の姿も無かった。
その少し前まで。
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季節は、今まさに春の只中にあった。
妖怪の山の麓、川の少し近くの開けた平地。
少し木々で隠すようにして建てられたその家に、雛は住んでいる。
ここに厄神が住んでいるという事を知る者はあまりいないが、元より用事があって訪れるような場所でも無かったし、知っている者は尚の事寄り付かない。
「……わぁ、すっかりいい天気だ」
戸を開け、雛は外へ出て開口一番、空を見上げて呟いた。
昨日、一日降り続いた雨もすっかり上がって、雲一つ無い青空。柔らかな陽光が、優しい春の匂いをより強くする。
散歩が彼女の日課だった。自身の立場を考えるとあまり積極的に出歩きたくは無かったが、どうせ近場なので誰とも会わないと踏んでいた。
ちらりとすれ違ったくらいでは別に影響を及ぼさないという事も知っていた上での判断である。
(結構ぬかるんでる。気をつけなくちゃ)
歩き始め、雛は足元が雨の影響で大分ぬかるんでいる事に気付く。
まあ気をつけていれば問題無いだろうと思い、そのまま歩を進める。
平地を抜け、ゆるやかな斜面。低空飛行で飛び越える。
木々の間を縫うようにして飛んで行き、森の空気を胸いっぱいに吸い込む。
むせ返るような草の匂い。雨上がりという事もあって、いつもよりかなり強く感じられた。
(そう言えば……こっちの方はあんまり来たことないや)
普段は斜面を下り、山を出るような方面へと散歩する事が多い。
しかしこの日、雛は逆に山を登るようなコースを選んでいた。
(まあ、誰かがいても迂回すればいっか)
どうせ誰かに会う事なんて滅多に無い、ましてや人間がここを訪れる確率なんて果てしなくゼロだ。
異変ならともかく。
(ん、この音は)
ふよふよと斜面を登る雛の耳に、さらさらと流れるような音。
妖怪の山には、綺麗な川が流れている。どうやら近いらしい。いつもより大きく感じるのは、雨で増水したからだろうか。
やがて斜面が終わりを迎えようとしていた。先に見える木々の先、視界が妙に開けている。
上り終えた雛が、ひょい、と木の間から顔を出す。
「こんな所、あったんだ」
そこは、自分が居を構える場所に近い、開けた場所。自分の家の近くと違うのは、常に川のせせらぎが聞こえる事。
辺りは土の地面だが小さな岩も目立つ。川が近い事に関係しているのだろうか。
見渡してみても、人影は無い。ほっとしたように息をついて、木の間から平地へ足を踏み入れる。
(今度からは、こっちの方に来てみようかな?)
歩き易そうな地形に、川の音。散歩コースとしてはかなり良好だ。
今は地面が大分ぬかるんでおり、あちこちプチ泥沼状態だが仕方無い。ブーツ履きで助かった。
てくてくと平地のもう少し奥まで、雛は歩を進めていく。
雨上がりの湿った風が、長い髪を揺らす。いい所だなぁ、と雛が何とは無しに空を見上げた、まさにその瞬間であった。
「ちょ、危ないよ!今すぐ離れて!!」
どこかから、少女のものらしき声が聞こえた。
逃げろとは言われたが、それよりもどきりとして立ち止まり、辺りを見渡してしまう。
声がした。即ち、誰かがいるのだ。
(離れて、って……)
まさか砲弾でも降ってくるんじゃあるまいし、とは思いつつも、言われた通りその場を動こうとする雛。
だが、時既に遅し。
その視界に一瞬だけ、目の前を高速で通過する何かが映った。そして―――
「きゃあ!?」
どぱぁん、とすぐ傍からの大きな破裂音と共に、雛の全身、特に前半分に襲い来る冷たさ。
何か液体がかかった、とはすぐに分かったが、状況が掴めない。
だがそれだけに終わらず、足元に伝わってきた衝撃と突然の液体襲来に驚き、棒立ちだった雛はバランスを崩してしまう。
「わ、わ……きゃっ!」
体勢を保とうとして叶わず、雛は足元のぬかるんだ地面に背中から思いっきり倒れこんでしまうのであった。
特徴的なデザインと配色のスカート、その裾から背中、身体で言えば肩甲骨の辺りまで泥がべったり。無論、その長い髪も。
「いたたたた……」
そっと身体を起こす。泥の中に座り込んでしまっているが、転んだ時点で尻まで泥だらけなので今更気にしない。
頭のリボンや顔にも泥が跳ね、さらに最初にかかった透明な液体も滴る始末。
と、続いて、
「うわわわ、ごめんよ!大丈夫かい!?」
少し離れた木陰より、青い影が飛び出してくるのが見えた。声の主であろう事はすぐに分かった。
最初に声を聞いた時よりも強く、雛の心臓がどくんと跳ねる。
目の前に、自分以外の誰かがいる。それどころか、彼女は明らかに自分を目標にして駆け寄って来る。
積極的に誰かが自分に向かってくる状況なんて、今まで殆ど無かった。
「まさか誰かがいるなんて……うわっ!?」
しかし、かなり慌てた様子で駆け寄ってきたその少女は、急ぐ余り足元の小さな岩に蹴躓いてしまう。
前方へ思いっきりその小さな身体を投げ出され、雛のいる泥溜まりへと豪快にダイビング。
跳ね上がった泥が彼女のみならず、雛にも降り注いだ。
「あたたた……う~わ、やっちゃった」
腕立て伏せのように身体を起こし、少女は自分の服を見て舌を出した。
傍で見ると、彼女は水色のワンピースに近い服を身に纏っている。頭にはキャップ、青い髪を左右で括ったその姿はとても涼しげで、爽やかな印象を与えた。
もっとも、今は泥まみれで爽やかさも何も無い。
「ミイラ取りがミイラ、か……くくっ、あはははは!」
だが彼女はしょげる様子を見せず、むしろ二人揃って泥だらけという今の状況に笑いがこみ上げて仕方無いようだ。
大声で笑い出した目の前の少女を見てしかし、雛は焦りを募らせる。
(もしかして、私の影響……じゃないにしても、私のそばにいたらいけない)
目の前の彼女が自分を知っているかは分からないが、雛は厄神。出来るだけ、他人との接触を避けなければならないと思っていた。
自分が転んだ理由もよく分からないままだが、普段と散歩コースを変えた事で、こうして見ず知らずの少女と接触する羽目になってしまった。
失態だ、と雛は自責する。急ぎ、ここを離れなければ。
「あはは……ふぅ、やっと落ち着いた。ごめんね、巻き込んじゃって。私のせいでこんなになっちゃった」
少女は立ち上がり、手の泥をスカートの汚れていない部分で拭う。
それから、綺麗になった手を雛へ向けて差し伸べた。
「ほら、立てる?よかったら私の家においでよ。服洗ってあげるからさ」
(え……)
先程から高鳴っていた雛の心臓は、ここへ来て一番の大躍動。
人が寄ってくるだけでも滅多に無い経験なのに、誰かが自分に手を差し伸べるなんて。
厄神は、人に災厄をもたらす存在――― 事実はどうあれ、一般の印象はそうだ。
そんな存在へ、追い払いこそすれ、手を差し伸べる者なんて今の今までいなかった。
(だめだよ、早く離れなきゃ……)
雛は心の中で頭を振る。どうやら、この少女は自分が何者であるかを知らないと見える。少なくとも、外見だけでは。
泥だらけになって倒れこんだ者へ手を差し伸べる、そんな優しい少女を、自らの厄で穢すような真似などどうして出来ようか。
その手を取ってはいけない。短くお礼を述べて、さっさとどこかへ飛んで行ってしまうのが正しい。
だけど―――
(……手……)
雛は初めて、誰かの優しさに直接触れた。
長きに渡り、自分から誰かへ、自覚は無くとも厄から守ってやるという優しさを与え続けていた雛。
だが、そんな彼女が今初めて、誰かから与えられる優しさに触れた。
そっと、顔を上げてみる。
「どしたの?どっか痛む?遠慮なんかしないでよ」
中々手を取らない雛に首を傾げつつもその少女は、にぱっと笑顔を向けた。そこに、打算的な要素は一切見られない。
その笑顔は、雛にとって太陽にも勝る輝きを放っていた。
こんな自分に、優しくしてくれる。笑顔を向けてくれる。こんなに心が満たされたのは、初めてかも知れない。
散々暴れまわった心臓が、もう一度大きく、大きく跳ねる。その瞬間、
――― 雛は反射的に、少女の手を取っていた。泣きそうになるくらい、温かな手だった。
「よいしょ!結構軽いね。じゃ、私の家に行こうか。おしゃれな服なのに、このままじゃシミになっちゃう」
雛を引っ張り起こした彼女はそう言ってまた笑う。歩き始めたが、雛の手をすぐには離そうとはしなかった。
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「私、発明家まがいのことやっててさ」
先の平地から続く山道を下りながら、その青い少女は隣の雛へ向けて語る。
「さっきも、新開発した夏のレジャー用兵器”迫撃水風船砲”の実験をしてたんだ。
小型の大砲から水風船を空高く打ち上げて、任意の場所に落として炸裂させる、すごいやつなんだよ」
「へ、へぇ……」
「あの場所はいつも私が実験に使う場所だったから、まさか誰かが足を踏み入れるなんて思わなくて。
水風船がどこまで飛んだかな~、って空を見上げてたから、お前さんが来たのに気付かなかったんだ。ごめんよ。
言い忘れてたけど、私は河童さ。河童は工作が好きって、知ってるだろ?」
「うん、聞いたことはあるよ」
雛の返答に、彼女は満足そうな笑みを浮かべる。
「だから、転ぶ前にかかったやつはただの水だから心配しないで。
……っと、そんな事よりもっと大事な事を忘れてた」
「?」
首を傾げる雛に、彼女は足を止めて向き直る。
「名前だよ、名前。私はにとり。河城にとりさ。良かったら、お前さんの名前も教えておくれよ」
ドン、と胸を叩く少女――― にとり。どこか期待の篭った視線を向けられ。雛はたじろいだ。
(名前を教えたら、厄神だってバレるんじゃ……)
彼女が少なくとも、見た目で雛が厄神だと分からなかったのは確かだ。だが、名前は知っているかも知れない。
せっかく助けたのに、その相手が不幸をもたらす存在だと知ったら、どんな反応をするだろう。その事を考えると、何だか申し訳無い気持ちにもなる。
「どしたの?もしかして名前を教えた相手と結婚しなきゃいけないみたいな、そんな一族の掟があるとか?」
すぐに答えない雛に、笑っておどけるにとり。
そんな彼女を見て、恩義のある相手だからこそ、名前を教えなければいけないと雛は考え直した。
もし正体がばれ、それで距離を置かれてしまったらそのまま去ればいい。万事解決だ。
「あ、ごめんね。私は……雛。鍵山雛だよ」
意を決して、彼女もまた名乗る。まるで、今まで黙っていた秘密を誰かに打ち明ける時のように、雛は顔を伏せてしまう。
それは、相手の反応が怖いからに他ならない。徐々に顔を上げ、にとりの顔色を確かめる。
その口が開いた。
「へぇ……なんだい、可愛い名前じゃないか。気に入ったよ。よろしくね、雛」
どうやら、厄神の存在と雛の名前はリンクしていないようだ。内心でほっと胸を撫で下ろし、彼女の差し出す右手を握った。
可愛い名前、と言われた事が無性に嬉しくて、雛はにとりの手を離して歩き出してからも、顔が火照ってしょうがなかった。
そんな二人の前に、分かれ道。片方は綺麗な通り道といった感じだが、もう片方はごつごつした岩場が続いている。
「こっちの岩場を通れば早いんだけど……雛はあれだ、飛べるの?普通の人間が麓とは言え、妖怪の山の中にいるとは思えないけど」
振り返り尋ねるにとり。雛は頷き、答える。
「うん大丈夫、飛べるよ」
「そっか、なら良かった。となると雛は妖怪の類?あ、失礼な質問だったら謝るよ」
「え、えっと……ま、まあそんな感じ」
厄神だなんてとても言えない。ぼかして神様、と答える事も考えたが、そしたらきっと何の神か気になるだろう。
だから敢えて、更にぼかした回答で乗り切る事を選んだ。幸い、にとりはそれ以上の詮索をしてこない。
「なるほどね、じゃあ私とおそろいかな?河童も妖怪だし。じゃ、私についてきてね」
「う、うん」
地面を蹴り、岩場を飛び越えていくにとりの背中を追い、雛も飛び立つ。
背を追うとは言ったが、結局すぐに二人は肩を並べて併走。にとりが口を開き、雛がそれに答える、の繰り返しが少しの間続いた。
一分間も飛べば、やがて川のせせらぎがすぐ傍まで近付いてくる。
「もうすぐそこだよ。川のそばに住んでるんだ。水は河童の命だからね」
そう言ってにとりは前方を指差す。
果たして目の前に突如現れる清流。若干増水してはいるが、濁っている様子はあまりない。
河川敷を少し歩くと、まるで前一面だけ板を外した直方体のような形の建物。中には作りかけっぽい機械や工具が散乱している。どうやら工房のようだ。
その隣に佇む、木造一軒屋。
「ここだよ。狭いし散らかってるけど、遠慮しないでね……っと、その前に。汚れてるから服だけ脱いじゃおうか。
水を使う実験だったし、元々帰ったらすぐお風呂入るつもりだったからさ、もうお風呂沸かしてあるんだ」
「え、だけどそこまで……」
ついて来た以上そういった展開はあって当然のようなものだが、いざそうなると雛は動揺してしまう。
人に何かしてもらう、という事に全く慣れていないせいもある。だがにとりはけらけらと笑い、
「遠慮なんかいらないってばさ。これくらいさせてよ……ほら脱いだ脱いだ!」
「きゃ」
有無を言わさぬ体で雛の衣服を脱がしにかかる。ちなみに玄関。
もっとも、二人の衣服に付着した泥は既に乾き、土となって剥がれ落ち始めている部分も多かった為、家を汚さないようにとの配慮だろう。
粗方、服を脱ぎ終えた雛を尻目に、自分自身もさっさと服を脱ぎ捨てるにとり。
キャップを靴箱の上に置き、二人分の汚れた衣服を近くにあったタライに放り込んでから、雛の背中を押す。
「んじゃ早速お風呂だ!それそれ~」
「ま、待って……その、一緒に?」
「当たり前じゃない、女同士なんだから恥ずかしくない!それに雛ともっと話したいし……イヤだった?」
にとりはそこで、申し訳無さそうな顔。雛は慌てて首を振り、それを否定した。
「う、ううん。そんなことはないよ」
「よかった、それじゃあ行こっか!」
笑顔に戻り、再び雛の背中を押していくにとり。
いざ浴室に入ると、彼女は浴槽の蓋を取って湯加減を確かめる。悪くないようで、雛へ向けてサムズアップ。
「とりあえず身体洗わなきゃ。はいこれ」
「あ、ありがとう」
洗う為のタオルをにとりから受け取る。洗面器に湯をとってから、銘々身体に付着した泥やら汗やらを洗い流していく。
その間も、
「ね、ね。雛は山に住んでるの?どのへん?」
「うん、山の中……麓のあたりだから、高度的にはここと変わらないんじゃないかな」
「そっかぁ、もしかしてここから近い?」
「ん~、遠くはないはず。割と近いかも……飛べばすぐ?」
だとか、
「ところでさ、雛はどうしてあんなにリボンいっぱいつけてるの?」
「え……なんとなく、かなぁ。変?」
「とんでもない、すごく可愛いし似合ってるよ。けど、ああいうカッコしてるのが知り合いにいなくてね。
なんていうかこう、リボンにロングスカートで乙女~って感じのさ。私はあんまりおしゃれしないし」
「でも、二つにくくってる髪もすごく可愛いと思うな」
「えへへ、ありがと。でも今は私も雛もほどいちゃってるからわかんないね」
だとか、にとりは殆ど一時でさえも口を閉ざさず、雛に話しかけた。
雛もまた、それに答え続けるお陰で口が休まらない。浴槽に二人で入ってからも、会話の応酬はずっと続いた。
「そういえば、誰かと一緒にお風呂入ったの、始めてかも」
「私も……」
「初対面から色々すっ飛ばして裸の付き合い、これが今の幻想郷における妖怪のコミュニケーションなのだ、とか言ってみたり」
「何だか恥ずかしいなぁ」
「そう?私は楽しいよ」
上気してほんのり赤くなった顔で、にとりは笑いかける。
楽しいのは雛も同じだった。風呂どころか、誰かとこんなに長く、親しげに話した事も無かったかも知れないのに。
正体をばらしていないのだから当然と言えば当然かも知れないが、厄神である雛を全く恐れる事無く、飽きずに話しかけ、笑いかけてくれるにとり。
その嬉しさがまた恥ずかしさを助長して、雛の顔も既に真っ赤。そのせいか、『のぼせちゃった?』と心配されてしまった。
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・
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にとりに借りた服を着て、雛は縁側で座っていた。その手には湯呑み。
庭先では、まだ髪を解いたままのにとりが洗濯を終えた二人の衣服を干している最中だ。
手伝う事を申し出たが、『私のせいなんだし、お客さんだから休んでて』と丁重に断られてしまった。
彼女が淹れてくれたお茶を飲みながら、洗濯物を干す作業をぼけっと眺める。
やがて干し終えたにとりが戻ってきて、その横に座った。
「終わったよ。多分、夕方くらいにはもう着れるようになると思う」
「うん、ありがとう。色々と迷惑かけちゃってごめんね」
「もう、雛は謝りすぎだよ。気にしないでってば」
手をひらひら振って、にとりは自分の分の湯飲みを手に取る。
そんな彼女に、今度は雛の方が話しかけてみた。
「んと……失礼な質問だったらごめんね。前に読んだ本には、河童は人見知りする事が多い種族だって書いてあった気がするの。
けど、今日実際に会ってみたら全然そんな事ないなぁって思って……これって」
「ああ、なるほど」
にとりは湯呑みに緑茶を注ぎながら答える。
「確かに、河童……もちろん個人差はあるから全然そんな事ないのもいるけどさ。私は結構人見知りみたいなのはあると思う。
誰かと友達になりたいな~、って思っても、なかなか恥ずかしくて話しかけられなかったりね。
けど、今日の雛とのケースはさ、アレだ。出会いがあんまりに衝撃的すぎたから、そんな気持ちどっかに吹っ飛んじゃったんだよ」
「あれは驚いたなぁ。いきなり空から水風船、だもんね」
「ははは、いい思い出になったよ。それと、今はさすがにそれなりに友達とか知り合いはいるさ」
にとりは話し終えると湯呑みに口をつける。ずずっ、と音がして、口を離してから彼女はまた雛を向いた。
「それにしても、世の中何があるかわかんないね。実験中に人身事故を起こしたかと思ったら、友達ができてたんだから。
人間万事塞翁が馬、とはよく言ったもんだ。この場合、人じゃないし私と雛を繋いだのが泥ってのがちょいとアレだけどさ」
「!!」
しみじみとした語り口だが、彼女の言葉は雛の心拍数を一気に押し上げる事となる。
(……今……と、友達って、言ったよね……)
ずっと独りだった雛を、友達だと言ってくれる。それは、雛が一人ぼっちでは無くなった事を表していた。
出会ってからまだ少しの時間しか過ごしていない。けど、一緒に風呂に入って、帰り道も入浴中も、そして今も、飽きもせず雑談に花を咲かせる。
これを友達と言わずして、何と言う。
どくん、どくん、と自らの心音がやたら大きく聞こえた。だが、むしろそれが心地良くすら感じられた。
(本当は、いけないのに……)
自分の立場を忘れそうになってしまう。雛は厄神。傍に寄る者を不幸にすると言われている存在だ。
こんなに長い事近くにいたら、にとりにも何か良からぬ影響が出てしまうのではないか。友達だと言ってくれる彼女だからこそ、そんな目に遭わせたくない。
それはある種の、使命感。
「……どしたの?私の顔、なんかついてる?」
雛が自分の顔を見つめたまま固まってしまったので、にとりはちょいと小首を傾げて尋ねた。
――― だけど、雛はそれ以上に嬉しかった。もう少し、ほんの少しでも長く、にとりの横にいたいと強く願う。
こんな経験、今まで無かったのだ。共に笑い合って、語り合って、喜びも悲しみも分かち合える存在。
初めての”友達”と、少しでも長く一緒に過ごしたい。厄神にも心はある。少しくらい、いいじゃないか。
現に―――
「あっ、その、えっと……これからも、よろしくしてくれる?」
思わず、そんな言葉が口を突いて出てしまった雛に向けて、にとりは本当に嬉しそうな顔で答えるのだ。
「やだなぁ、当たり前じゃないか。雛が飽きるまで、私は友達さね」
その一言に、雛がどれほど救われたか。恥ずかしげも無くそんな台詞を言ってのけるにとりに、雛の方が恥ずかしくなるくらいだ。
少しばかり熱くなった頬を、川辺のそよ風が撫でていく。涼しくて心地良い。
「あ、ありがとう……えっと、その……」
雛は再び口ごもってしまった。彼女の事を呼ぼうと思ったのだ。しかし、何て呼ぼう。
その答えを探し終える前に、にとり自身がそれを提示してくれた。
「さては何て呼ぼうか迷ってるね。普通に、にとりって呼んでよ。私も雛って呼んでるしさ」
「う、うん、わかった……にとり」
「それでよし!」
にとりは大きく頷いて、ばしん、と雛の背中を叩く。雛は思わず咳き込んだ。
「おっと、ごめんごめん。ちょいと強かったね。
……さて。もういい時間だし、お腹空いてないかい?お昼作るから、一緒に食べようよ」
「え、ホントに?何だか、お世話になりっぱなしで悪いなぁ……」
「いいんだってばそんなの……だったらさ、服洗ったりお風呂入れてあげた代わりに、お昼ご飯に付き合ってもらうってのは?」
にとりの言葉に、雛は思わず噴き出してしまう。物は言いようだ。
「それじゃ、いただきます」
「よしきた。特製のきゅうりフルコースを振舞うよ」
「やっぱりきゅうりなんだね」
「河童の骨髄はきゅうりで出来てるのさ。リンパ液は浅漬けの汁ね」
そんな冗談と笑い声を飛ばしながら、二人は家の中へと消えていった。
・
・
・
・
その日の夜。
家に帰り着いてからも胸はどきどきと高鳴り、ベッドの中に潜り込んで尚、雛は興奮を抑え切れないままでいた。
昨日と、今日。普段通りに過ぎていく日常。朝起きて、散歩して、三食食べて、厄を見張りつつ思い思いに過ごしてから眠る。
しかしこの二日間――― 否、昨日までの長い日々と、今日からの長いであろう日々との決定的な違い。
それは、自分に友達がいる事。
(今までは、考えもしなかったけど……)
自分の能力上、人に近付く事が困難だった雛。
日常的に接してくれる人なんて現れないし、出来っこないと思っていた。
でも今は違う。
瞼を閉じれば、夕刻の会話が川のせせらぎと共に、鮮明に蘇る。
『もう帰っちゃうのかい?泊まってってくれてもいいのに』
にとりは残念そうな顔で見送りに来てくれた。その一言に頷きたくなりつつも堪え、雛は笑ってみせる。
『嬉しいけど、流石にそこまで迷惑はかけられないよ。服ももう乾いたし。
今日は本当にありがとう。すごく楽しかったよ』
その言葉には、額面以上の感情が篭っている。厄神として働き始めて、初めてと言っていいくらいの濃密な交流。
(これからも、とは言ったけど……)
雛は笑顔のまま、しかし内心でため息をつく。自分の立場を、能力を、忘れた訳では無い。否、にとりといた時は忘れかけていたが。
自分自身の事を考えれば、そう気軽に接する事は出来ない。友達となった者だからこそ、影響を与えたくない。
一般の人々との差別では無い、理屈だけでは片付かない問題。
仲良くしたい。だが友達だからこそ近付けない。その切ないジレンマは雛の心を引き裂くかの如き勢いで渦を巻く。
そんな彼女の心もいざ知らず、にとりは尋ねた。
『じゃあさ、また来てくれるかい?いつでもいいからさ』
己の心に従えないというのは、こんなにも辛いものか。
諸手を挙げてYESと言いたくても、それが出来ない。毎日だって会いたくても、不幸にしたくないからそれが出来ない。
胸の辺りを万力で締め上げられるかのような感覚。みしみし、という音さえ聞こえてきそうだ。
気付けば、にとりは何も言わない雛に不安なような、縋るような目線を向けてきていた。
目は口ほどに物を言う。その諺のこれ以上無い実例を目の当たりにしていた。
『本当は、私といてもそんなに楽しくなかったんじゃないか?だから乗り気じゃなくて、口ごもっているんじゃないか?』
脳内で、そんな彼女の声が明確に再生される。
(……違う、違うよ!そんなんじゃない!)
雛は叫びたい衝動を押さえ込む。出来るなら、先の素敵な提案を躊躇い無く飲み込みたいくらいなのに。
むしろにとりの方が音を上げるまで、毎日だって遊びに来たい。自分にとってはたった一人の、大事な友達なのだから。
とにかく、何か言わなければ。必死に、丁度良い言葉を探す。
『……う、うん!私としては、にとりが迷惑じゃなければ是非また遊びに来たいな』
とにかく、それだけは伝えよう。
みるみる明るくなっていく彼女の顔。眩しい。
『よかった、嬉しいよ。雛だったらいつでも大歓迎、明日にだって来てくれていい。
待ってるから、また来てね。絶対だよ!?』
まさかの念押しに、雛は曖昧な笑顔で小さく頷く。『もちろん!』と言えない自分が腹立たしい。
嫌われたいなんて思う訳が無い。だが、仲良くなってくれる事がこんなに切なく感じられるなんて。
雛の姿が完全に見えなくなるまで、にとりは手を振ってくれた。
思考が再びベッドの中へと帰還し、天井を見上げたまま彼女はため息。
(遊びに行きたいのは本当だけど、私なんかが行って、もしにとりに何かあったら……)
全ての不安はそこにある。今日一日ならともかく、これから定期的に通ったら何かしらの影響が出るかもしれない。
本心では会いたくてたまらないのに、理屈では会ってはいけない。もどかしくて、またため息。
(けど、にとりなら他にも友達はいっぱいいるだろうし……)
投げかけてくれたあの優しい言葉は社交辞令で、別に行かなくたって大丈夫なんじゃないか。
そうやって自分を納得させれば、少しは楽になれる気がした。
(そうだよね。こうやって今日一日、一緒に過ごせただけでも奇跡なんだから。これだけで十分だよ)
今日一日が、これまで生きてきて最高に楽しい日だったと胸を張って言える。
その思い出と満ち足りた気持ちだけで、雛は明日からも独りだけで生きていける。
そんな気がした。
区切りを付けたつもりになって尚、頭にちらつくにとりの顔。
他の友達ってどんな人かな。同じ河童仲間とか、普通の妖怪とか、天狗とか、もしかしたら人間にも知り合いがいるのかな。
見知らぬ誰かに思いを馳せる内、雛は眠りへと落ちていった。
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――― 翌朝。
朝食を済ませ、日課の散歩。この日もまた、青空。
地面もすっかり乾き、いつも通りの景色となった庭先へ。
今日はどこへ行こうか、などと考えながら歩き、木々の乱立する斜面にぶつかる。
(そうそう、昨日はこっちに上ったんだっけ)
一人頷きつつ、斜面を低空飛行で上っていく雛。
やがて平地に出る。遠くからは川の音も聞こえる。にとり曰く”実験場”。
(ここでいきなり水風船が飛んできて……あれはびっくりしたなぁ)
思わずくすりと笑み。横切るように歩いていき、そこから伸びている山道を下る。
風に乗って運ばれてくる草の匂いを楽しみながら歩を進め、分かれ道。
(ここで、飛べるかどうか訊かれたっけ……厄神だってコト、ばらさないでよかった)
そんな回想を交えながら、雛は岩場となっている道を飛んでいった。
「……あれ?」
彼女が思わず一人ごちたのは、岩場を一分半程かけて飛び越えた時だった。
昨日よりも穏やかで、きっと普段通りとなったのであろう、さらさらと流れる清流が目の前に現れたからである。
川のほとり、それはつまり―――
(にとりの所……に、また来ちゃったってこと?)
自分では意識していなかったのに――― 正確には意識していないつもりでも、彼女の足は自然とにとりのいる場所へ彼女を運んでいた。
結局の所、本心に嘘はつけない。自分と一緒に泥だらけになった見ず知らずの少女に声を掛け、世話を焼き、一緒に笑ってくれる人懐っこい河童。
そんな彼女が自分は好きで、一日と経たずにまた会いたくなったのだ。それが、偽らざる雛の本心。
「だ、だめだよ……にとりに何かあってからじゃ遅いんだよ?」
口に出して、自分自身を説得する。
だがその最中も、彼女の足は着実ににとりの家へと向かっている。
口を開いたままの工房と、変わらぬ佇まいの彼女の家。
(見るだけ……見るだけならいいよね?)
ならばと、ちょっとだけ自分に甘くしてみる。顔を見れば、それで満足して帰る。そう心に決めようとする。
だがここ―――自分が隠れている工房の陰――― からではまともに家の中は見えない。もう少し近付かなければ。
その時、ガラガラと音を立てて玄関が開いた。心臓が勢い良く飛び跳ねる。
(いた!)
昨日と変わらないワンピースのような作業着姿のにとりが、手に何やら箱を持って外へと出てきた。
しかも、こちらに近付いてくるではないか。
用があるのは工房、それも中。ならば、このまま隠れていれば見つからない。
頭では分かっていたし、そもそも顔を見るという妥協案は達成されたのだから、もうここに留まる理由は無い筈なのだ。
分かってはいる。それでも、雛の心臓はにとりの歩に合わせて上下運動を激しくし、このままでは口から出てきてしまいそうだ。
(そうだ、このまま帰らなきゃ……ほら、このまま背を向けて歩いて)
頭でそう自分に命令するも、どうやら彼女の身体は脳より心と仲が良いらしい。
命令に反し、雛の足が取った行動は、工房の影からひょっこりと身体をさらけ出させるというものであった。
(あ……)
時既に遅し。ばっちり、にとりと目が合った。
突然の登場に驚きの表情でフリーズしていたにとりが、まるで金縛りから解けたが如くに急に表情を変えた。
「わぁ、雛!もう来てくれたんだね、嬉しいよ!まさかそんな所から登場するとは思わなかったけど、驚かすつもりだったのかい?」
ころりと笑顔になり、箱を足元に下ろすと雛の下へ駆け寄る。きっと、どうでもいい相手にこんなリアクションはしない。
一方、自身の処理能力をオーバーしてくるくる頭を回すばかりだった雛は、とにかく彼女の質問に答えようと口を開く。
「う、うん。昨日驚かされたから、ちょっとしたお返しにと思って……タイミング間違えて失敗しちゃったけど」
「あはは、雛もドジだねぇ。でもそんな所、なんか可愛いよ」
彼女の言葉を微塵も疑わず、朝っぱらにおける工房陰からのいきなりの登場にも疑問を持たず、にとりは嬉しそうな顔。
それに答える雛もまた、昨夜から先程までの葛藤が嘘のように、気持ちがクリアになっていく。
こうして話をしてみると、にとりは本当に楽しそうな様子で自分に話しかけてくれる。
また遊びに来て欲しい、という言葉は単なる社交辞令じゃ無かったのかと、雛は思い返していた。
それが後には悩みの種となるかも知れない。だが今はその事実が、にとりの笑い顔が、本当に嬉しくて仕方無い。
「いやぁ、昨日雛が帰ってすぐに、工房をひっくり返して発明品を掻き集めたのさ。
次に雛が来てくれた時に、何を見せてあげようか、どんな物なら喜ぶかなってと思うと夜も眠れなくて……。
明日にでもとは言ったけどまさか、もう来てくれるなんて。雛に見せたい物、いっぱいあるんだよ!」
彼女が嘘をついているとしたら、この世のどんな詐欺師よりも巧妙な人心掌握術を持っているのだろう。
先の思い返しが確信へと近付き、我知らず雛のテンションも上昇。やや興奮した口ぶりで言葉を返した。
「うん、私もすごく楽しみだよ。昨日私が撃たれたやつも気になるし」
「それは本当にごめんってばさ。じゃ、まずはその”迫撃水風船砲”を詳しく見せてあげる。さ、こっち!」
にとりに続いて、工房へと足を踏み入れる雛。
この上無いくらいに満ち足りた気持ちになっている今の自分を、客観的に見つめてみる。
(もう少し。もう少しだけ一緒にいても、大丈夫だよね?)
厄神だって、友達と一緒に遊ぶくらいの安らぎがあったっていい。きっとそうだ。
自分だって会いたかったし、何よりこんなにも自分の事を待っていてくれたんだ。
それに応えた所でバチが当たる程、神様は意地悪じゃないよ。自分も神様だけど。
誰にとも無く、雛は言い聞かせた。
・
・
・
・
・
暫しの月日が流れ、春真っ只中であった幻想郷も気付けば初夏の色を濃くし始めている。
新緑の目立つ木々を背景に、まるで幻想郷の歴史の如く、変わる事無く流れ続ける川。
清流を見つめ、縁側にて肩を並べる雛とにとりの姿がそこにはあった。
「なんか、だんだん暑くなってきたね。きゅうりがうまい」
「いつも食べてるじゃない」
まるで仕事帰りのサラリーマンの如き口調できゅうりをかじるにとりに、雛はくすくすと笑う。
結局あれから、結構な頻度で雛はにとりの下を訪れ、にとりもまたそれを心待ちにしていた。
自分の立場を鑑みた事など一度や二度では無い。だが、自分が来る度に彼女が見せる嬉しそうな顔を思うと、訪問を控える気にはなれなかった。
もっとも、それは己を納得させる理由であり、何よりも雛自身が彼女に会いたかったというのは当然だ。
「雛も食べる?」
「ありがとう」
にとりが差し出す、一本丸々のきゅうりを受け取る。冷やしてあったのか、ひんやりとした感触を手の平に返してくる。
じっと見つめてみる。青々としたその表面には、うっすらと水滴の粒が並んでいる。
持ち直し、端から一気にかぶりつく。ばりぼり、と音を立てて噛み砕くと、途端に口の中に広がるみずみずしい食感。
「あ、へたんトコ切り落としてなかったっけ。ごめんごめん」
「大丈夫だよ」
申し訳無さそうに頭をかくにとりに、雛は笑ってそう返しまた一口。
二口目を飲み下しながら、雛は川面を眺めるにとりの横顔に視線を移した。
(一緒に過ごすようになって、どれくらいかな……)
確実に一ヶ月以上は経った。そろそろ二ヶ月になるだろうか。
週の半分近くをにとりと共に過ごすようになった雛は、楽しいと思う一方で大きな不安を抱えていた。
それは勿論、自身の厄の影響。
(にとりは何も言わないけど……)
彼女の様子を見る限りでは、何か影響があったようには思えない。初めて会った時と変わらず、笑顔を向けてくれる。
いやむしろ、仲良くなったという点では笑顔でいる時間はより長くなったかも知れない。
だが、それだからと言って彼女に何も影響が無く、これからも起こらないという結論には至らない。
ここで、視線に気付いたにとりが顔を雛へ向けた。
「ん、どした?」
見つめられていたと気付いたのか、にとりはどこか照れくさそうに頬を染めている。
雛は少しばかり、探りを入れてみる事にした。
「ねぇ、変な質問なんだけど……」
「なんだい?何でも言ってごらんよ」
雛の口調にも不審感を表さずに、彼女はそう言って促す。
意を決して、雛は口を開いた。
「そのさ、何か最近……変わったことはあった?」
「変わったことって……どんな?」
尋ね返されてしまった。漠然とした質問なのだから仕方無い。雛は付け加える。
「あ、えっと。例えば、普段じゃ絶対しないような失敗をしただとか、変な噂を耳にしたとか……んと、変な意味じゃないの」
焦りをなるべく表に出さぬよう配慮しつつ、雛は少し具体的過ぎただろうか、と冷や汗。
にとりは首を傾げる。う~ん、と唸り、再び彼女の方へ向き直った。
「……いんや、別にそういうことはないよ。こないだ見せた”時限式水爆弾”もちゃんと上手くいったし」
にとりが言っているのは、先日雛が見せてもらった新しいタイプの水風船の事である。
水風船に小型のタイマーユニットが取り付けてあり、ピンを抜くと四秒後に仕込んだ針が風船の表面を突き刺し、水風船に穴を穿って破裂させ水を撒き散らすというものだ。
出会いのきっかけにもなった”迫撃水風船砲”に続く、にとり曰く”夏のレジャー用兵器”第二弾である。夏になったら売り込むつもりらしい。
実際に見せてもらった雛も、にとりの手元で爆発するような失敗を見る事無く、ちゃんと作動しているのを確認していた。
「そっか、なら良かったけど……」
「で、どうしてまたそんなコト訊くのさ」
「いっ、いやいやいや!別になんでもないの。ただ、その……私が最近不運続きで、それがにとりに感染したりしてないかなって」
咄嗟に雛の口から出た”嘘も方便”に、にとりは声を上げて笑った。
「あははは、そんなワケないって。雛も結構ロマンチストというか何と言うか……その考え方、なんか可愛いけどね」
「も、もう」
赤面する雛にまた笑い、『おかわり持ってこよっと』と言い残してにとりは、きゅうりが乗っていた空っぽのざると共に家の中へと戻っていく。
自分一人になった縁側で、雛は再び思いを巡らせた。
にとりを信じていない訳では決して無いが、彼女の発言だけではまだ安堵出来ない自分がいた。
口だけなら何とでも言えるのだ。我ながら嫌な言い回しだ、と雛は少しばかり自嘲的な気持ちになる。
(にとりにとっての不幸……って、何だろう?)
雛は考える。自分の影響でにとりに不幸が訪れるとしたら、一体どのような形で現れるのか。
彼女はエンジニアだ。ともすれば、その方面で何かしらの失敗をするというのが真っ先に浮かぶ。
(発明が思うようにいかないとか、せっかく出来たのに先を越されてたとか、大事な部品をなくしちゃったとか)
にとりのエンジニアとしての腕前は一流だ。それは、雛が一番良く―――雛自身の知る限りでは――― 知っている。
そのような失敗を、彼女がするだろうか。いやしかし、厄によって引き起こされる不幸というのはあらゆる要素を無視して起こる、気がする。
だが自分が見せてもらった発明品はちゃんと完成していた。ならば影響が出るとしたらこの後?でもそれならこれまでの二ヶ月は―――
「ひ~な~?」
「わひゃあ!?」
にゅっ、と目の前に逆さまになったにとりの顔が突然現れ、雛は思わず悲鳴を上げてしまった。
雛のリアクションに大変満足した様子で、にとりはけらけらと笑いつつ頭を上げる。
勢い良く頭を持ち上げたので、垂れ下がっていたツインテールの髪がぶぉん、と跳ね上がり、元の位置に戻った。
何故か帽子は落ちない。これも河童の力だろうか。
「いやぁ、いい驚きっぷりだよ!驚かした甲斐があるってモンだねぇ」
ご機嫌なにとりに、雛は胸元を押さえながら荒い息。
「はぁ、はぁ……本当に驚いたよ。考え事してたら急ににとりの顔が出てくるんだもん」
「ごめんごめん。でも、雛が退屈してたらやだなって思ってさ」
「お、お心遣いどうも……」
未だ収まらぬハートビートを左手で押さえつけながら、落ち着く意味合いも込めて食べかけのきゅうりを再びかじる。
一方でにとりは、早くも持って来た内の一本を半分食べ終え、じゅるじゅると音を立てて汁を吸っていた。
手元にあるきゅうりのかじり口を見ながら、雛はようやく落ち着いてきた頭で考える。
先はああ考えたものの、今のにとりの様子を見ていると、本当に楽しそうだ。とても悩みがあるようには見えない。
ならば、自分の今抱えているこの不安も、杞憂なのかも知れないと思えるようになった。
(それに、あんだけ笑ってくれてるってことは)
自分の前で、数え切れないくらいの笑顔を見せるにとり。
作り笑顔をする理由なんてどこにも無いのだから、それは雛と一緒にいる事が楽しいからに他ならない。
もし、最後の不安であるにとりへの影響が無いのであれば――― 自分は、にとりの傍に居ていいという事になる。
少なくとも、今は。その事実は、雛にこれ以上無いくらいの多幸感をもたらした。
「よし、こうなったら次は、私がにとりを驚かせてあげるからね」
気持ちが軽くなった、そのままの勢いでにとりへ向けて言い放つ雛に、彼女はやっぱり笑みを向ける。
「お、言ったな。楽しみにしてるからね。でも河童の神経は図太いから、簡単には驚かんよ」
強気なにとりに、雛は彼女の膝の辺りを指差して呟いた。
「にとり、きゅうりのざる落っことしてるよ」
「ひゅい!?」
独特な叫び声と共に、足元を慌てて注視するにとり。しかし、緑色は一本も確認出来ない。
それどころか、きゅうりを満載したざるは彼女の膝では無く、彼女の隣にちゃんと置いてあった。
「なんてね。ほら、もう驚いた」
大好物をダシにすればきっと驚くだろう、と踏んだ雛の予測は見事に的中し、にとりの自信は早くもひっくり返されるのであった。
にとりはこれまた大層悔しかった様子で、真っ赤になった頬を風船のように膨らませている。
「むぅぅぅ……きゅうりを人質に取るような真似するなんて……河童にしてみたら暗殺されかかったレベルの驚きなんだからね!」
「ごめんね。まさか、ここまできゅうりに情熱を注いでるとは思いもしなくて」
「きゅうりは河童の骨髄だって言ったでしょ!きゅうりより重い物なんて、命と工房といくつかの発明品と、それに雛みたいな親友くらいなんだから!」
「え」
どきり、と心臓が跳ねる。この体験も、にとりと出会ってから何度目だろうか。
臆面も無く、名指しでその存在を『命並みに重い』なんて言われてしまうとは。
勝ち誇った状態から一転、驚かされた時よりも心臓の鼓動を早める雛。
みるみる顔を赤くする彼女の様子に、まだ赤らんだ頬のまま、にとりは彼女の肩を叩いた。
「言ったろ、河童の神経は図太いって。また私の勝ちさね。それにしても、真っ赤になった雛もすごく可愛いよ。
これからも雛が照れてる所、一杯見せてもらおっと。あと、私を赤くしてくれる言葉、待ってるよ」
「う、うぅ」
彼女自身の顔も赤い所を見るに、恥ずかしくない訳では無いようだ。案外、言われる側になれば脆いのかも知れない。
それでも、この勝負ではとても勝てそうに無い。雛は己の微かな自信が崩れていくのを、心の目ではっきりと見たそうな。
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また月日は流れて、季節は巡る。
とは言ってもあれからまた一ヶ月と少ししか経っていない。
気付けば妖怪の山も夏一色で、青々した木々がぎらぎら照りつける太陽光を一身に浴びている。
何をそんなに罰ゲームみたいな、とぼやくのはにとり。手にしたラムネをぐいっと傾けると、からりとビー玉が涼しい音を奏でた。
「光合成しなきゃ、ってのは分かるけどさ、日射病って概念はないのかねぇ。まあ、なきゃ炎天下どころか一年中突っ立ってるなんて出来やしないか」
ぷは、と息をつきながら樹木の苦労に思いを寄せる彼女の様子に、雛は思わず笑みをこぼす。
「ふふ、だったらにとりも体感してみる?水を一日中頭からかぶり続けるの」
「そんなんへっちゃらだよ、水は河童にとって酸素も同然さ」
「でしょ?木もおんなじなんじゃない?」
雛の言葉に、にとりはポンと手を打った。
「おぉ、なるほど。雛はアタマいいね、私じゃかなわない」
「そ、そんな。にとりの方がずっとすごいよ、私は機械なんて目覚まし時計やオルゴールくらいしか触れないもの」
尊敬の眼差しを受け、照れながら雛がそう返すと、にとりもまた顔を赤らめる。
「あっと、思い出した」
照れくさいからなのか、はたまた本当にたまたま思い出したのか、話題を変えるにとり。
「確かさ、一週間後に山のふもとの方で縁日やるって話だよ。ほら、いつものやつ。雛はどうなの、なんか予定ある?」
毎年夏に開催される縁日。人妖(と言っても大半が妖)入り乱れた山の住民が様々な屋台やら出し物やらを出す、かなり規模の大きいものだ。
プリズムリバー楽団の演奏や花火大会など、見所も多い。
多くの者が楽しみにする夏の一大イベントで、山に住まう者の95%は参加している、らしい。
「あー、あれかぁ」
雛は表面上は平静を保って、しかし内心でその表情に影を落とす。
彼女自身は、先に述べた数値で言えば”残りの5%”に当たる。理由は至極単純、自分が厄神だからだ。
ただでさえ自身に対する良い噂の無い妖怪の山、そのイベント会場にのこのこ出ていけばどうなるか――― 想像もしたくない。
雛自身に何かされる、というのではなく、そこにいるのが厄神だとバレた場合の事だ。
人々の楽しいお祭り気分に鉄砲水を打ち込むような真似など、雛には出来なかった。まして、彼女は人々の幸せを願う神なのだから。
(お祭り、か……行ってみたいけど、でも……)
雛にとって、お祭りは遠くから眺めるもの。幸せそうな人々の表情を見て、満足するもの。
だから彼女は、正直に答えた。
「ん~、別に予定はないよ。家にいると思う」
家にいる、を強調したつもりだった。適当な用事をでっち上げようかとも考えたが、にとり相手に嘘をつくのが躊躇われたのでやめた。
だが、にとりは彼女の発言を前半部分しかまともに聞かなかったらしく、身を乗り出した。
「じゃ、じゃあさ!もし雛さえよければ、私と一緒に行かない?オススメの屋台とか、たくさん知ってるからさ」
期待に満ちた顔だった。それは、雛と一緒にお祭りに行きたくてたまらない、まるで子供のように純粋な眼差し。
それが逆に、雛にとっては重く圧し掛かる。
「え、えっと……その……」
しどろもどろになってしまいつつ、何とか返答までの時間を稼ぐ。
正直に言えば、今すぐ是非と答えたい。彼女の『一緒に行こう』の言葉に、どきりとしたのも事実だ。また、本当に嬉しかったのも。
にとりと一緒のお祭り。きっと最高に楽しいに違いない。考えただけで、笑みがこぼれそうだ。
日中の熱気が残るふもとの大通りと涼しい夜風。人々の威勢の良い掛け声。揺れる明かり。そして沢山の笑顔。
そんな素敵なビジョンも、自分自身の立場を鑑みればあっという間に黒い闇へ。
(行きたい……すごく行きたいよ。でも、私なんかがいたら……)
雛は厄神。放射能にも似た――― 少量なら影響は無いという部分も同様――― 目に見えない恐怖を纏った存在。
すれ違った、或いは屋台でのやり取りくらいなら別段影響は出ないから、彼女が参加した所で、厄による実害と言える実害は無いだろう。
何せカーニバル、祭りだ。人々の活力と希望が渦巻く場所。少々の厄など跳ね返す。それにたった一晩。
影響があったとて精々、一件か二件、売り上げが例年比で少々減る屋台が出るかもしれない、程度だ。
だが、精神面はそうはいかない。彼女の存在そのものがお祭り気分を台無しにし、多大な不安をもたらす現状。
雛とてそれは不本意、故に一度も参加せず、遠巻きに眺めるに留めていたのに。
(楽しいだろうなぁ、きっと……いや、絶対に)
にとりにあんな顔で誘われたら、断るなんて出来ない。自分の気持ちに正直になりたかった。
厄神としての立場か、鍵山雛という一人の少女か。普段通りに考えれば圧倒的に前者。
しかし、それを揺るがすくらいに、にとりの存在は彼女の中で大きくなっていた。
いつしか彼女は、”祭りに参加するか否か”では無くて、”どうすれば参加出来るか”を考えていた。
(要は、私が厄神だってバレなきゃいいんだよね……でも、う~ん)
「……雛?どうしたの?」
「わっ、わっ?!」
気付けばにとりの顔が目の前にあって、雛は目を白黒させた。自然と顔も赤くなる。
いつまで経っても答えを返さない雛に対する不安が、ありありと感じられるにとりの表情。既視感すら感じる光景だ。
一刻も早く彼女の顔に浮かぶ不安を消し去りたくて、雛は慌てて言葉を探した。
「あっ、その、ごめんね。私としては是非ご一緒したいんだけど、その……」
「ホントかい!?でも、何かあるの?」
ぱっと顔を輝かせるにとりは、しかしまだ何か言いたげな雛の様子に首を傾げる。
「えっとね……ふ、服がさ」
「服?」
「うん。私って結構変わったカッコしてるし、目立っちゃわないかなって」
彼女の衣装はどことなく特異だ。スカートやら模様やらリボンやら、知っている者には遠くからでも彼女が雛と分かってしまう。
この衣装でいる限りは、会場に無事着いたとしてもバレるのは時間の問題。そう考えた雛の言葉であったのだが、
「なんだ、そんなの。私が貸してあげるよ!」
にとりがドンと胸を叩いたので、彼女は訊き返した。
「貸す……って?」
「決まってるだろ、浴衣だよ。きっと雛にも似合うよ」
唐突な申し出に少々驚きの雛だが、お祭りと言えば浴衣、浴衣と言えば夏。着てみたい、と思ったのは事実だったので、その申し出に甘える事にした。
浴衣姿の少女なんてそこら中に溢れているのだから、簡単には見つからないだろう。
厄の影響は前述した通り心配には及ばぬ量、これで彼女を阻む理由は無くなった、筈だ。
「ありがとう、それじゃあ当日に貸してもらっても……」
「おっけ、任せな!あとさ、友達も一人連れてきていいかい?」
内心、ぎくりと硬直する雛だったが、断る理由など普通は無いし、彼女の考えている事を無碍にも出来ないので頷いた。
「うん、いいよ。友達ってどんな子?」
「白狼天狗の椛ってコ。割と長い付き合いでさ、よく将棋を指すのさ。礼儀正しくていいコだから、きっと雛とも仲良くなれるよ」
「へ、へぇ……それは楽しみだなぁ」
背中を伝う冷や汗。いくらいい子と言っても、自分の正体を見破られはしないかと気が気でなかった。
まして天狗では、そのデータベースに自分の情報はほぼ確実に入っている。その”友達”も雛の事を知っている可能性は十分にある。
しかし、眼前まで迫ったお祭り気分にほだされるまま、彼女もにとりと共に笑い合うに留めた。
バレたらその時はその時だ。今はお祭りに思いを馳せ、胸を躍らせるのみ。案外、他人の空似で誤魔化せるかも知れない。
「よーし、なんか気合い入ってきた!雛、今から浴衣の柄とか選んじゃおうか!」
「き、気が早くない?」
「いいんだよ、こういうのは先にやっとくモンなの!ほら立った立った!」
早くもお祭り熱に浮かされ、にとりは雛を急かす。そんな彼女に苦笑いを浮かべつつ、雛もまた腰を上げる。
その拍子に、彼女が手にしたラムネ瓶からぽたりと、水が一滴落っこちた。
・
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――― 耳を澄ませば、どん、どん、と花火の音。空が明るく光っていないのを見るに、単なる合図だろう。
午後六時を回った時間帯ではあるが、辺りはまだ薄暗い程度で、十分に周囲を視認出来る。
約束の時間通りに、雛はにとりの下を訪れた。約束をしてからの一週間は、さながら彼女にとって人生で最も長い一週間。
多くの人で賑わう麓の大通りの喧騒も、流石にここまでは聞こえてこない。耳を打つのは穏やかな川のせせらぎ。
「雛、待ってたよ。それじゃ着替えよっか」
それと、縁側から顔を出したにとりの嬉しそうに弾んだ声。自然と笑顔を返しているのが、自分でも分かる。
「うん、ありがとう。お邪魔します」
丁寧に言いつつ、雛は縁側からそっと上り込む。
部屋に入ると、にとりは既に先日選んだ浴衣を手にして待ち切れない様子でそこにいた。
「さっき花火が聞こえたね。もう大分賑わってるだろうし、私達も早く行こうよ!」
余程楽しみにしていたのか、小刻みにぴょんぴょんと跳ねながらにとり。大分興奮している模様。
「う、うん。じゃあ、手伝ってもらってもいいかな」
「おっけ、任せな!ほれほれ」
ゆっくり服を脱ごうとする雛だったが、にとりがさっさと脱がしにかかる。いつしかを彷彿とさせる光景。
いつものドレスにも似た服から、ぴしっとした浴衣へ。大分シルエットが細くなった。
しゅる、しゅるとにとりが帯を結んでくれる音を聞きながら、雛は自分の浴衣姿を改めてチェックする。
夜空のような紺色に、淡い夕顔の模様をあしらったシンプルなものだが、落ち着いた配色がむしろ雛には合っていた。本人は似合っているか不安そうだが。
「おーし、こっちは完了!」
ぽん、とにとりが背中を叩く。きちんと帯を締めた為か、先も述べたように普段の雛よりも大分スマートな印象。
「あ、ありがとう」
お礼を言いつつ、彼女は髪を結ぶ長短複数のリボンを解くと、短いリボンで後ろ髪をまとめ上げる。
髪型についてはにとりと話し合ったが、彼女がやたらと推していたのもあってポニーテール。
深い緑の長い髪を一束にし、後ろで括って完成。
「ど、どうかな……」
不安そうな面持ちで尋ねる雛。その場でくるりと一回転。
その拍子に浴衣の裾や、いつもと違う一まとめの長い髪がふわりと揺れる。その光景に、思わずにとりは息を呑んでいた。
「うわあ……すごいよ雛、やっぱりすごく似合ってる!可愛いよ!」
先よりも興奮した様子で、彼女は雛の手を取る。その拍子にどきりと跳ねる心臓。
真正面からの賞賛に、雛の顔も真っ赤だ。
「そ、そ、そうかなぁ……でもにとりが言うならホントだよね。ありがとう」
「なんていうかさ、普段と違う髪型にしてるってだけで、何だかすごくドキドキしちゃうよ」
その言葉に、雛はたまに髪型を変えてみようか、などと考えてみる。
彼女はそのまま靴下も脱ぎ、裸足に。にとりが下駄まで用意してくれた為だ。
「ほいよ。浴衣にブーツは合わないよ、やっぱ下駄じゃなきゃ」
「あれ、にとりは着ないの?」
そのまま縁側から外に出たにとりに、雛が尋ねる。すると彼女はヒラヒラと手を振って、
「え?ああ、私はいいや。雛と一緒に浴衣で並んで歩きたい気持ちもあるけどさ、せっかく雛が着てるんだから私は引き立て役ってコトで」
「も、もう」
先程から、やたら雛を赤面させる言葉ばかりのにとり。夏の夜風が、火照った頬に心地良かった。
下駄を履き、少し歩いてみる。からんころん、と軽妙な木の音色が奏でられ、我知らず雛は笑みをこぼしていた。
「わ、何だかいいなぁ、この音」
「おっ、下駄履きの良さが分かる?雛もお祭り好きの素質あるよ、絶対」
そう言ってにとりは嬉しそうだ。
肩を並べ、河川敷を少し歩いてから二人は薄暗い夏の夜空へと舞い上がった。
・
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・
溢れる熱気と、耳を打つざわめき。
その大通りは、あちこちに灯った照明でまさに昼間のような明るさだった。
煌々と照らされた屋台の合間を、楽しそうに行き交う人々(正確には妖々)。
「うわあ……」
その光景に思わず、雛は見とれて立ち尽くしてしまう。
自分の目の前にこれだけ多くの人がいる、という経験が少ないのもそうだが、何よりも一人一人から発せられる正のオーラとでも言うべき熱気に驚いていた。
皆が皆、100%純粋にこのお祭り騒ぎを楽しんでいる。常時このムードなら、きっと自分が仕事をする必要も無いだろう。
「ほらどうした!ぼっ立ってないで行くよ!」
「わ、わっ」
にとりに手を引かれ、慌てて雛も人通りに飛び込んでいく。途端に鳴り出す下駄の音。
流されてしまいそうになりつつ、何とか流れに沿って歩いていく。にとりが手を握っているので離れてしまう事は無さそうだったが。
少し歩いて、先よりも人通りが少なくなってきた所でにとりは雛を向く。
「さて、と。早速だけどお腹空いちゃったよ。なんか食べたいのある?」
「う~ん、そうだなぁ」
尋ねてくるにとりは本当に楽しそうだ。
見やれば、行き交う人々の中で、種族に関わらず少女達は九割方浴衣姿だ。雛が浮いている様子は、似合っている事も相まってか全く無い。
せっかく来たのだから、楽しまなければ損だ。厄神云々はこの際忘れ、彼女もまたお祭りモードへ。
しかしその前に、ふと思い出した事を尋ねてみる。
「あれ、そう言えばさ。お友達連れてくるって言ってたけど、その子は?」
するとにとりは若干顔を曇らせた。
「あ~。なんかさ、あっちはあっちで付き合いとか色々あって、私達とは来れなくなっちゃったって。
下っ端は大変だよって言ってた。この会場のどっかで会えるかも」
「そっか。天狗って上下関係とか色々あるらしいから大変なんだね」
彼女の報告を、雛は若干複雑な思いで聞いていた。
自分の正体がバレるリスクが無くなった事は喜ぶべきなのかも知れないが、にとりの友人に会ってみたかったというのも本音だ。
(やっぱり、ちょっと残念だな)
そう思える自分が、何だか普通の人に近づいている気がして少し嬉しくなる雛だった。
「でさ、さっきの話。何食べる?」
不意ににとりが話を戻す。彼女の事だ、きっとこの場で沢山食べる為に昼食をかなり減らしたのだろう。
それなりに長い事一緒にいた雛にはそれが手に取るように分かったので、早く答えてあげる事にする。
「ん~、なんかまだ暑いし、まずはかき氷とか」
「よしきた、ちょうどそこに屋台が……」
にとりが指差した先には、確かにかき氷ののぼりを掲げた屋台。
しかし、そこで彼女はその隣の屋台に注視する。
「およ、チョコバナナ売ってる。なんか食べたくなっちゃった。
雛、悪いけどかき氷の方お願いしていいかな。私はチョコバナナ買ってくるよ、もちろん雛の分も」
「いいよ、ありがとう。シロップは?」
「ブルーハワイで」
雛が頷き返すと、にとりはニヤリと笑って隣の屋台へ並ぶ。
それを見送り、彼女もかき氷の屋台へ向かう。幸い、丁度行列がはけた所だったのですぐに店主とご対面。
「らっしゃい!何にする?」
店主の男性が、威勢よく声をかけてくる。自分の分を決めていなかった雛は、少し考えてから注文を告げた。
「えっと、ブルーハワイと……メロンを一つずつ」
「まいど!ちょいと待っててな」
注文を受け、店主はがりがりと氷を削り始める。
その様子を何となく眺めつつ、雛は少しだけ不安に駆られる。
こんなに傍で顔を見られたら、自分の正体がバレてしまわないかと。
「あいよ、お待ちどうさん!」
不意に声をかけられて、雛は思わずびくりと顔を上げた。
テーブルの上に二つ、それぞれ青と緑が美しいかき氷。
「あっと、ごめんなさい」
慌てて財布を取り出す雛。それを見てふっと笑いながら、店主は口を開いた。
「二つで……300円ね」
「え?400円じゃ」
雛は再び顔を上げて尋ねる。目の前のメニューには、確かに”かき氷 200円”と書かれている。二つなら400円ではないのか。
すると店主は豪快に笑い飛ばし、
「はっはっは!可愛いお嬢ちゃんにはサービスしてやらにゃあな」
どうやらサービスしてくれるようだ。雛は顔を赤らめながら代金を取り出し、店主に渡す。
「あ、ありがとうございます」
「おう、また来なよ!」
最後まで豪快な店主の笑い声に後押しされ、雛はカップを二つ持って屋台を出た。
近くで顔を見られてもバレないどころか、『可愛い』とまで言われてしまった。自然と顔が再発熱するのを夜風で冷ましながら、雛はほっと息をつく。
案外、心配しなくても良さそうだ。服装や髪形まで変えてるのだから、杞憂に駆られるよりも素直に楽しもう。
「お待たせ!ごめんね、意外に並んでたから遅くなっちゃった」
「ううん、私も今戻った所」
にとりが隣の屋台から出て来て、彼女へチョコバナナを持った手を振る。
見れば、片方は既にてっぺんがかじられて欠けている。待ち切れずに食べてしまったようだ。
「はい、これ」
当然ながら、かじってない方のバナナを雛へ。それと交換するように、ブルーハワイのかき氷をにとりへ。
「ありがと、雛。さ、食べながらあちこち回ってみよっか」
「うん!」
答え、チョコバナナをかじる。途端に二つの甘さが口の中でハーモナイズ。自然と笑顔がにじみ出た。
・
・
・
右を見ても、左を見ても、前を見ても勿論、人の波。上はともかく、下には流石にいない。
笑い声、歓声、そこらの雑談、客引きの掛け声。そんなのをない交ぜにしたざわめきが、歩く雛の下駄の音を掻き消す。
「すごい人だね、やっぱ。みんな楽しみにしてたんだね」
「そりゃそうさ、お祭りだもの。おっと、そこ人通るよ」
「あっ、すみません」
雛が慌てて退くと、すれ違う四人組の少女達も軽く会釈しながら通り過ぎて行った。
大勢の人々に囲まれているが、彼女が厄神であると気付いた者はいない。正確には、そのような様子は無い。
にとりと共にあちこち回る内、雛もその心配を殆どしなくなった。
「あれ?にとり、あのお店ってもしかしてさ」
そんな折、雛が何かに気付いた。
彼女が指差す先には、少し大きめのブース。テーブルの上には大小様々な物が乗っかっているが、ここからではよく見えない。
テーブルの後ろでは、売り子らしき数人の少女があくせく動いている。
それを遠目で見つつ、にとりは頷いた。
「ああ、河童組の発明品展示だね。ヘンテコなモンばっかだけどさ」
「へぇ、ホントに?見に行ってみようよ」
雛は純粋に興味を示し、にとりを誘う。だが当の彼女は首を横に振った。
「い、いや、私はいいや。今回は大したモン出してないし。それよりも、あっちの方に面白そうなのがあるから、そっち行ってみない?」
「え?あ、ちょ……」
珍しく雛の意見に反対し、にとりは別の方向へ雛の手を引いていく。
「で、でも。前見せてくれた発明品とかも出してるんじゃないの?ほら、水風船のやつとか」
「あ、あぁ……あれ、今回はやめたよ。ちょっと欠陥が見つかってさ。だから私の発明品は置いてないし、ね?」
(欠陥なんてあったっけ)
見せてもらった時、彼女自身が成功したと言っていた気がする。
が、どこか慌てたにとりの様子に、雛は首を傾げつつも深くは考えなかった。
(恥ずかしいのかな?)
売り子をしているであろう、にとり以外の河童にも少し興味があった。こっそり一人で見に行けないだろうか、などと考えている内に、何やら前方から騒がしい音楽が。
ホーンセクションに和太鼓と三味線と祭囃子をフュージョンしたような、不可思議にして熱い和風スウィングジャズ。
「ほら雛、私の言った通りだろ?」
「ホントだ、聴いたことない感じだけどいい曲だね」
一段高いステージで、プリズムリバー楽団の演奏。ステージを囲むようにして、それぞれ何かしらの食べ物を持った観客達が声援を、或いは手拍子を送る。
いつもの楽団服では無く、それぞれ浴衣に身を包んだ三姉妹が、観客の声援に応えつつ楽器を鳴らしまくっている。
汗にまみれたその顔は、とても楽しそうだ。
「カッコいいなぁ、なんだか憧れちゃう」
「雛は楽器できないの?」
「う~ん、無理。出来たらきっと楽しいだろうけど。にとりは?」
「作るのはともかく、演奏は……あ、でも。草笛なら得意だよ」
彼女の言葉に、雛は思わず笑ってしまう。と、その時であった。
「あっ!」
不意に、にとりが何やら声を上げたので、雛は彼女へ尋ねる。
「どうしたの?」
すると、彼女の顔を見たにとりは何故か、はたと口を押える。
しかし少し考える素振りの後に、そっと二時方向を指差した。
「あそこ。今日一緒に来るはずだった、友達の椛がいるんだ」
「え、どの子?」
「あの白い子」
にとりの指が指し示す先を目で追うと、確かに白狼天狗・犬走椛の姿が。
彼女はいつも通りの服――― 雛はそうだと知らないが――― で、大量にお土産を頼まれているのだろう、左手が大小様々の袋で完全に塞がっている。
しかし、残った右手に握り締めた綿菓子を時々ぱくつきながら、一心不乱に演奏へ耳を傾けていた。その顔は真剣で、まさに”聴き入って”いる。
「へぇ、あの子なんだ。可愛いね」
(やっぱり、私の事も知ってるのかな……)
来ない、と聞いた時は会いたいと思ったが、いざその姿を目にしてみると、やはり心の中で不安が首をもたげる。
にとりはどうするだろう、などと考える雛だったが、その時演奏が終了した。途端に湧き上がる歓声と拍手の嵐。
彼女も一緒に拍手を送る。やがてそれが止むと、にとりはステージに背を向けようとしていた。
「どこ行くの?」
「あ、いや……ほらさ、演奏も終わっちゃったし。それに、この後花火が上がるらしいからさ、もっと高い所で見たいなって。だめ?」
「ううん、それは賛成だけど……お友達、せっかく見つけたのにいいの?」
不安はあるが、やはり一度話してみたい。そう思った雛の言葉に、にとりは首を振った。
「ん~、いいや。なんか忙しそうだし、重そうな荷物持ってるから手間取らせるのもね。また今度紹介するよ」
「ふぅん」
どういう訳か、そそくさとその場を後にしようとするにとり。また首を傾けつつも、やはり不安は残るのでこの場は見送る事にした。
微妙な心理の中で、もっと早く来てればなぁ、なんて考えながら、雛もにとりの後を追う。
集まっていた人ごみに紛れてしまい、椛の姿はもう見えなかった。
・
・
・
・
大通りより少し離れ、山を登る。
斜面が途切れ、土手のようになったその場所に二人は腰を下ろした。
眼下には、煌々と灯る明かりの列と人の波。
「うん、こっからならよく見えるよ」
ガサガサと袋を漁りながらにとり。焼きたてのお好み焼きが乗った皿を膝と太ももの上に乗せ、一口かぶりつく。
「花火が上がるのってどの辺?」
美味しそうにお好み焼きを頬張るにとりに目を細めながら、雛は尋ねる。もっとも、彼女も買ってきたから揚げを爪楊枝でかじっている。
「ん、ちょっと待っへ……んぐ。去年と同じなら、この正面にでかでかと上がるはずだよ」
口の中の物を飲み下してから彼女は答えた。その様子に『あ、ごめんね』と思わず陳謝する雛。
「いいよ、気にしないで。あちこち歩いたからお腹空いちゃって」
「私だってそうだよ。久しぶりにこんな歩いたし、普段はあんまり人が多い所に出ないから……」
彼女の言葉に偽りは無い。自身の事を鑑みれば、人前にはとても出られない。
「そういえば、雛って人ごみとか苦手そうな感じだよね」
大人しい物言いなどからそう判断したらしいにとりは、箸を止めて表情を曇らせた。
「もしかして、迷惑だったかなぁ。私が無理矢理誘ったみたいなモンだし……」
「そ、そんな事ないよ!すごく楽しかったし、普段あんまり行けないお祭りに行けたってだけで嬉しいよ。浴衣まで貸してもらっちゃってさ。
私はにとりと一緒に行けて、本当に良かった。もしにとりさえ良ければ、来年も……」
とにかく。彼女の発言をとにかく否定したかった雛は、一気にまくし立てた。
珍しい彼女のマシンガンの如き言葉の数々に、一度は圧倒されたかのような表情を浮かべたにとりだったが、
「……そっか。えへへ、私も嬉しいよ。ありがとね、雛」
すぐに、はにかんだ笑顔へ。敢えてそれ以上の言葉を用いないのは、素直な気持ちの表れか。
と、その時である。向き合っていた二人の、視界の片隅で光が上がったかと思うと、どん、どんと爆発音。
「おっ、始まったね」
「すごい……」
視線を前へ戻す。夜空に打ちあがる、青に緑の大輪花火。しっかりと見たのが初めてだった雛は、それだけしか言えないくらいに見入っていた。
「きれいだねぇ。これを見なきゃ、夏が来た気がしない」
「風物詩って、そういうモノだよね」
再び上がった花火を眺めながらの会話。不意ににとりが腰を浮かせ、もう少し雛との距離を詰めて座り直す。
足が触れ合う距離。どきりと心臓が跳ねる。そんな雛をよそに、にとりは子供のように興奮した様子で声を張り上げた。
「たまや~!」
何とも楽しそうに、あっはっは、と笑って、残っていたお好み焼きをもぎゅもぎゅと口に押し込む。
口が塞がった彼女の代わりにと、雛が口を開いた。
「かぎや~……」
「だめだめ、声が小さい!こうやるんだよ……かぎや~!」
恥ずかしさから小さい声しか出なかった雛にそう言うと、にとりが再び声を張る。花火と共に、夜空へ溶けていく掛け声。
ふふん、と得意げに雛を向く彼女だが、口の周りはソースでべたべた。
「もう、口ちゃんと拭かなきゃ」
雛はハンカチを取り出し、にとりの口元を拭ってやる。
「ん、ん……ふぅ。ありがと」
綺麗になった唇をぺろりと舐めて、礼を言うにとりに雛はからかうような口調で言ってみた。
「さっきから子供みたいだよ、にとり」
「いいじゃないか、こういう時はさ。それに、雛の子供なら幸せになれそうだし」
ニヤリと笑みを返され、雛の方が赤面する始末。そんな彼女の顔を、再び花火の光が照らし出す。
顔を上げると、ちかちかと色とりどりに顔を染めたにとりもまた、こちらを見ていた。
ゆっくりと口が開く。
「雛さえ良ければだけど……来年もさ、一緒に行こうよ」
「うん!」
その言葉に、雛は迷う事無く即答した。厄神としての立場や葛藤など、何も無かったかのように。
にとりの傍にいる限り、雛は自分が一人の少女として、ごく普通に振る舞う事が出来る――― そんな気がしていた。
厄やその影響に囚われず、大好きな友達とこうしてお祭り騒ぎに参加し、花火を眺められるような、当たり前の生活。
(きっと、大丈夫だよね。来年もまた)
根拠なんて何も無い。だが、雛は確信と言えるレベルで、そんな希望を感じていた。
すぐ傍で見つめ合い、やがて互いに笑顔を見せた二人の横顔を、スターマインの激しい光明が白く染め上げた。
・
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・
ふと辺りを見渡せば、緑一色だった景色も衣替えを始める、そんな九月の終わり。
暑さも殆ど薄らいで、山にも涼しい風が吹き渡る。
季節が移り変わろうとも、雛の日常は変わらない。厄を集める。引き渡す。
そして、にとりの下へ行く道中も、すっかり通い慣れた道。
(何だか、時間の流れが早いなぁ)
川へと続く岩場を飛び越えながら、雛はそんな事を考える。
二人で肩を並べて花火を見たあの夜から既に一ヶ月以上、それどころか二人が出会ってから既に半年もの月日が流れている。
楽しい時間と言うものは得てして早く過ぎ去るのであって、神様である雛でもそれを止める事は不可能だ。
やがて聞こえてくる川のせせらぎ。しかし、それを聞いた彼女の顔は少しばかり不安げ。
(今日もかな……)
そのまま河川敷へ出、にとりの家へ。
縁側に座っている、いつも通りの青い作業着。それを捉えた雛は思わず、『やっぱり』と呟いてしまう。
(また、なんか暗い顔してる)
普段であれば、工房や縁側で機械をいじっているか、きゅうりをかじっているか。そんな感じで、とにかく”ボーっとしている”事の無いにとり。
しかし、ここ最近の彼女はどこかおかしい。雛が来たのにも気付かず、縁側で遠くを眺めている。その顔は、どこか暗い。
以前は、雛が近付いただけでその気配を感じ取り、笑顔で駆け寄ってきてくれていたのに。
夏が終わり、辺りが秋の色を呈し出した辺りから、ずっとこうだ。
「にとり?」
数mの所まで近付いても、視界に入らない限りは気付かなさそうだったので、雛は声をかけた。
瞬間、びくりと肩を竦ませ、きょろりと辺りを見渡そうとして、すぐ近くにいる雛の姿に気付き、
「あっ、雛!来てくれたの。ごめんね、なんかボケっとしちゃって」
表情を180度変え、満面の笑みで立ち上がる。
これだけ嬉しそうな顔をされたら、彼女の暗い顔の原因は自分であるという仮説はすっ飛んでしまった。
「私が来るのはいつものことじゃない……ていうか、いつもごめんね。お邪魔してばっかりで」
「いいよぉそんなの。私が来てもらってる立場なんだし」
ひらひらと手を振るにとりの顔には、先の物憂げな色は欠片も残っていない。
しかしそれでも気になる。もしかしたら、隠しているだけなのかも知れない――― そんな拭えない不安を秘めつつ、雛は尋ねた。
「あのさ、ちょっと変な事訊くけど」
「なんだい?」
「にとり、何か嫌なことでもあったの?」
それを聞いたにとりの目の焦点が、若干ぶれた。
「え……い、いや、別に。なんだってそんなコト訊くのさ?」
動揺しているのか、はたまた妙な質問に驚いただけか――― 判別しかねたが、雛は素直に理由を述べた。
「だってさ、最近のにとり……何だかよくぼーっとしてるし、やたら暗い顔してるし……心配だよ。
前はそんな事なかったのにさ。もしかしたら、私が何か気に障るような事したのかなって」
「そんなコトないよ。雛は何にも悪くないし、気にしないで。多分気のせいさ。きゅうり分が不足してるだけだよ」
しかしにとりは、彼女の言葉は即座に否定してみせた。
(私が何かした、ってワケじゃないみたいだけど)
そう思える。雛はそれが分かっただけでも幾許か安堵出来た。
ほっと息をつき、『ならいいんだけど』と呟いた彼女に、今度はにとりが口を開く。
「じゃあさ、今度は私が訊いてもいいかな。変なコト」
「え?あ、うん」
唐突な言葉にやや戸惑いつつ、雛は頷いた。
それを見たにとりは、彼女の目を真っ直ぐに見つめながら”質問”を投げかける。
「――― 私とさ、これからも仲良くしてくれる?」
静寂。二人の間を吹き抜ける、一陣の秋風。
予想だにしない質問の内容に、雛は硬直してしまった。
このような状況、一度や二度では無い。早く答えなければ、また彼女を不安にさせてしまう。
幸いにも、答えは分かりきっていた。1+1を解くより早い。
「当たり前じゃない。そもそも、ずっと前に『私が飽きるまで友達』って言ってくれたのはにとりだよ?」
出会ったあの春の日、一緒に風呂の中で、縁側で語らった光景が、鮮明に蘇る。
それはにとりも同じのようで、その表情はすぐに柔らかい笑顔へと戻っていった。
「そっか、良かった。私も自分で言ったこと忘れてたよ。お風呂入ったのは覚えてるけど」
「懐かしいね、あれからもう半年くらい経ったんだ……」
ぼんやりと、過去に思いを馳せる雛。あの日まで、自分が一人ぼっちだった事。あの日を境に、生きるのが楽しくて仕方なくなった事。
別に生きるのが辛かった訳では決して無いけれど、”親友がいる”今の生活の充足感を知ってしまったら、もう戻れない。
「あ、そうだ!」
不意ににとりが大きな声を出したので、雛の意識も現実へとジャンプ。
「無理なお願いだったら謝るけど……私さ、雛の家に行ってみたいんだ」
「わ、私の?それは構わないんだけど……つまんないと思うよ?普通の家だし、にとりの家みたいに面白い物も置いてないし」
そうは言うが、にとりに一度来てもらいたいという思いが無いと言えば嘘になる。
厄神の仕事に特別な道具は必要無いのだから、家に来られても何かを隠す心配はいらない。
「何言ってんの、そんな心配いらないよ。雛が住んでる所、ってだけで行く価値は十二分さ。あ、変な意味じゃないよ」
えっへんと胸を張るにとり。雛も、我知らず笑いが込み上げる。
「そうだね、それじゃあ今日は私の家に案内するよ。そんなに遠くないしね」
「よっしゃ!あ、何かお土産もってかなきゃ」
「別にそんな気を使わなくても……」
雛はそう言うが、にとりは目の前でリュックに大量のきゅうりを詰め込む。
分かりやす過ぎる行動に彼女はとうとう堪え切れず、大声を上げて笑ってしまった。
・
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・
・
・
吹く風も枯葉の匂いを運んでくるようになり、涼しさもピークを迎える十月の終わり。
毎日のようににとりと会う生活は当然続いていたが、少しばかり変わった点があった。
それは、あの日以来にとりが雛の下へ訪れる事が多くなった事。
(いつも自分の家じゃ飽きちゃうだろうし、今までお世話になってたんだから)
雛はそう考え、いつ彼女が訪れてもいいように部屋の掃除を頻繁にするようになった。
何かあっても困る、と厄の引き渡しもこまめに行う。最近はあんまりにとりと会うのが当たり前になっていて、気を使わなくなっていた節もある。そこは反省点だ。
にとりに『綺麗な部屋だね』と褒められるのが嬉しくて、模様替えなんかにも手を出してみたり。
温かいお茶を手に、二人で何でもない雑談に花を咲かせたり、テーブルに乗るようなサイズの発明品を持ってきてもらったり。
場所は変われど、二人の楽しい時間は何ら変化せず、確かにそこにあった。
(そろそろ、冬に近づいてくるのかな)
紅葉が大半を占める山の景色を眺めながら、雛はそんな事を考えた。
この日は、彼女がにとりの下へ行く番。いつもお邪魔するのも悪いし、とはにとりの弁だが、むしろそれは自分の台詞だと思わなくもない。
以前、妙に暗い表情を見せていた彼女も、最近は以前のように物思いに沈んでいる事も無く、元に戻った感じがしていた。
自分から尋ねる事が少なくなったから相対的に、なのかも知れないが、以前程の不安は感じない。
(私がいる時は、いつも明るいしね)
そう思って、負の方向に考えるのはやめにした。
山道を歩き、もうすぐ岩場。そこを飛び越えれば、川まですぐだ。
そんな折、不意に突風が吹きすさび、雛のスカートの裾を大きくはためかせる。
「わっ……と、風強いなぁ」
飛んできた落ち葉が髪に引っかかったのを取りながら、雛はため息。
そのまま歩き出そうとしたのだが、今度は足に何かがぶつかった。かさり、と軽い音もセットだ。
「ん?何だろう、これ」
それは大きめの紙だった。薄く柔らかい材質で、何やら文字が沢山書き込まれている他、写真が載っているのも見て取れる。
(新聞?)
確かにそのようだ。拾い上げ、何気無く広げて読んでみる。まず上の方の”文々。新聞”の文字が目に飛び込んできた。聞き覚えはある。
日付は、昨日。
「何のニュースが……」
せっかくだからと、一面記事に目を通す。大きな写真が一面を飾っているが、白黒で少々分かり辛い。
どうやら、妖怪の山にある滝がバックのようだ。
「あれ、この子……」
二人の人物が写っていたが、まず最初に目に留まった手前、大きく写っている方の人物に見覚えがあった。
夏の日、縁日の会場で見かけた、あの白狼天狗。
(椛ちゃん、って言ったっけ)
にとりの親友の筈だ。それから、思い出したように見出しへと視線を―――
「……えっ?」
”親友同士の間柄にいったい何が!?天狗と河童、滝をバックに大喧嘩”
思わず、疑念の呟きが漏れる見出しだった。天狗、とは椛の事だろう。
そして、その親友の河童と言えば―――
「――― にとり!?」
写真の奥、どうやら弾幕の発射体制らしい帽子と作業服の少女。間違い無い。見間違える筈も無い。
自分の親友でもある、河城にとりの姿。
記事を読んでいく。どうやら、記者は鬼気迫る表情で弾幕をばんばん撃ち込むにとりと、それを避ける椛という”喧嘩”の最中に飛び込み、写真を撮ったようだ。
詳しい事情は不明だが、仲の良い親友として山でも評判だった二人が喧嘩したというのは非常に稀であり、天変地異の前触れではないか、という見解で記事は締められている。
見解はともかくとして、雛はそれを読み終えた後も暫くその場に立ち尽くしていた。
(何があったんだろう……)
自分は詳しい事情を全く知らないが、椛は少なくとも自分よりずっと長く、にとりと共にいた親友の筈だ。その絆は当然深い。
そんな二人をこんな激しい、戦闘とまで言えるレベルの喧嘩へ導いたのは何なのか。
しかし、いくら考えてもそんな事分かりっこない。新聞を畳むと、そこらの石の下へ飛ばされないように置き、雛は地面を蹴った。
岩場を飛び越え、河川敷へ。真っ直ぐ、にとりの家へと向かう。歩を緩めると、変な事を考えてしまいそうだった。
「いらっしゃい雛、待ってたよ。さ、上がんなって」
出迎えたにとりは、まるで弾幕勝負を、親友との喧嘩をしたようには思えない体だった。
具体的に言えば、身体のどこにも傷は無い。表情も明るい。
(……やっぱり、どこか疲れてる)
だが、雛には分かった。その笑顔は、少しだけ作られている。本当は、何かに悩んでいる筈だと。
それでも、その話題を持ち出す気は無かった。わざわざ場を暗くするような話はしたくないし、触れられたく無い部分もあるだろう。
(きっと、その内仲直りする。ずっと長く友達だった二人なんだから)
雛は自分自身に言い聞かせると、首を傾げて待っているにとりへ手を振り、家の中へ上がった。
せっかく遊びに来たのだから、楽しい話題を。
今感じている胸騒ぎを、ねじ伏せられるくらいに楽しい話題を。
・
・
・
・
・
――― 風が冷たい日だった。
冬の足音が聞こえ始めた山の麓近くの自宅で、いつも通りに生活する雛。
この日もにとりの下へ出かけ、帰路に着いたのは夕方。
作りかけの発明品を見せてもらい、少しだけ部品の組み立てをやらせてもらった。
『続きはまた明日ね。このままにしとくから』
帰り際のにとりの言葉を思い出し、思わず笑みが浮かぶ。
不意にぶつかってきた強く冷たい風に身を震わせつつも、雛は自宅へと帰り着いた。
とりあえず温かいお茶でも淹れようか、なんて考えながらドアを開ける。
しかし、ふと何かに気付いて玄関脇の郵便受けを覗いてみた。
「あれ、お手紙だ」
誰かからの手紙が入っていた。封筒にはきちんと住所も書いてあり、”鍵山雛様”と宛名書きもある。
毛筆だがどこか可愛らしい印象の字。自分に手紙を送るような人物に心当たりが無く、雛は首を傾げながらそれをひっくり返した。
封筒の裏側には、差出人の名前が。
”犬走椛”
「……え?」
そこに書いてあった名前を二度、三度と見返すが、やはり同じ。にとりの親友であり、大喧嘩真っ最中の椛からの手紙。
少なくとも、自分とは全く面識の無い相手からの手紙。以前感じた胸騒ぎが一層強くなり、雛はその手紙を持って玄関へ上がった。
後ろ手にドアを閉め、深呼吸。
(なんで?)
そう思うのは当然だった。にとりの存在という共通点はあれど、親交どころか面識すら全く無い相手。
宛先間違いか、とも一瞬は思ったが、封筒の宛名書きは確かに自分自身。
そっと封を切り、中の折り畳まれた紙片を引っ張り出す。
三つ折りの手紙。透けて見える文字は細かく、かなり長い文章のようだ。
(よく分からないけど、とにかく読んでみよう)
うん、と軽く頷いて、雛はその手紙を開いた。
――― そして彼女は、真実を知る。
・
・
・
『
拝啓 鍵山雛様
初めまして。私は妖怪の山にて主に哨戒任務を担当しております、白狼天狗の犬走椛と申します。
全く面識も無い者からのお手紙、驚かれた事と思われますが、平にお許し下さい。
さて、今回このようなお手紙を出すに至りましたその要因は、私の大切な友人である河城にとりさんについてです。
私の耳に『にとりさんが厄神と何やら付き合っている』という噂を耳にしたのは、初夏の辺りでしょうか。
最初はまさか、と思いましたが、天狗の情報入手の早さは伊達では無く、次々と続報が入るにつれて私の不安も大きくなっていきました。
いつしか『常に厄神と行動を共にする酔狂な河童』として、にとりさんの名前は悪い意味で有名になっていました。
気付けば『不幸に憑りつかれる』などという理由で同じ河童の方々からも避けられるようになり、毎年夏の縁日での発明品公開にも出展出来なかったと聞きます。
どんどん孤立していくにとりさんの様子を、私はただ黙って見ている事しか出来ませんでした。
そんな中、私はもうこれ以上苦しんで欲しくないと思い、先日彼女へ厄神様に会う事をやめるよう言いました。
しかし、にとりさんはそれを頑として聞き入れてはくれず、ついには弾幕まで持ち出しての大騒ぎへと発展、記事にまでされてしまいました。
あれ以来、彼女は私に会ってくれません。
この意味が、お判りでしょうか。
何があったのか、どんな事情があるのかは、私には知り得ない事です。
しかし、あなたとにとりさんが同じ場所にいる事で、にとりさんは与り知らぬ所でどんどん傷ついています。
このまま待ったとて、私の大切な友人が、云われなき不名誉に苦しめられていくのを止められないのであれば、私があなたに要求する事はただ一つです。
お願いします。にとりさんを解放して下さい。
もうこれ以上、にとりさんが傷つくのを私は見ていられません。私から何かしたくても、当分言葉を交わすのも難しい状況です。
誰かに依頼したくても、厄神様が相手というだけで『冗談じゃない』という顔をされます。無理もありませんが。
あなたが本当に、俗に言われる不幸を呼び寄せる存在なのかは分かりません。これもまた、云われ無き中傷なのかも知れません。
しかし、今のにとりさん、そして私にとって、あなたは間違い無く不幸をもたらす存在です。
責めるような、無礼な言葉しか選べなかった事をどうかお許し下さい。しかし、私はどうしてもにとりさんを助けたいのです。
もう一度明記します。にとりさんを、解放して下さい。
もし聞き入れてもらえず、そしてこれ以上彼女が傷つくようであれば、実力行使も辞さない覚悟である事は、ご了承頂きたく存じます。
敬具
犬走椛
』
・
・
・
――― 雛の時が、止まった。
まるで、この世の森羅万象から置いてきぼりにされてしまったかのような、虚無感。
すぐにはその手紙の内容を理解出来ず、もう一度頭から読み返す。
一文字一文字を噛み締め、飲み込み、その意味を頭に理解させる。
ようやくその手紙の全容を理解した雛の目に、もう一度その一文が飛び込んでくる。
『今のにとりさん、そして私にとって、あなたは間違い無く不幸をもたらす存在です』
その瞬間、雛は我知らず、がくりと膝を折っていた。
「あ……あぁぁ……!」
視界は真っ暗で、もう何も見えない。今しがたまで読んでいた手紙すら、手に持っているのか分からない。
初めての友達だった。ずっと一緒にいられると思っていた。何も怖くなかった。
しかし、そんなのは全て幻想、夢物語、まぼろし。陽炎のように消えてしまった、幸せな白昼夢。
そして今目の前にそびえるのは、暗く厳しい残酷な現実。
じわりと、視界が滲んでいく。
(にとりだけは……)
(にとりだけは、傷つけたくなかった……なのに……)
(――― なのに私は……!)
雛は厄神。不幸の象徴を纏った存在。そこにいるだけで、辺りを恐怖で凍りつかせる。
そんな自分に、友達が出来ていいはずなんてなかった。少し考えれば分かった。なのに。
少しでも一緒にいたい、そのわがままが、結果的に最愛の親友を傷つけていた事実。それも、長きに渡って。
同族集団から孤立して。長い付き合いの親友とも喧嘩して。その代償は、自分一人との時間。
なんだそれは。あってはいけない現実がそこにある事を、雛は認めざるを得なかった。
(ああ、だからあの時……そっか……にとりは優しいもんね……)
今なら分かる。夏の縁日の日、河童の発明品展示に行きたがらなかった理由が。
既に仲間から孤立していたにとりは、とても顔を出す事が出来なかったんだ。
ライブ会場にいた椛に声をかけなかったのも、自分が横にいたから。
そもそも、彼女を誘わなかった理由だってそれなんじゃないか。だとしたら―――
(そうだよね……みんなみんな、私が悪いんだ)
――― 紛れも無く、自分はにとりにとっての疫病神。いや、厄そのもの。
暫くそうして膝をついていた雛は、ある時不意に立ち上がる。
ふらふらとした足取りで玄関を開け、冷たい風の吹く外へ。
手からはらりと落ちた、椛からの手紙にも気付かず、ゆっくりと薄闇の中へ溶けていくその背中。
――― まるでさよならを告げるように、軋んだ音を立ててドアが閉まった。
・
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・
その日は、もう少し温かい日だった。
川のせせらぎを聞きながら、にとりは縁側に腰掛け、川面を眺めていた。
時折手にしたきゅうりをかじる。空を見上げる。かと思えば、膝の上に乗せた作りかけの機械を何やらいじってみる。
ぶらりと足を振って、ため息。時刻は既に、午後二時を回っている。
「……雛、遅いなぁ……」
頬杖をついて、目を閉じる。そうしていれば、雛の声が聞こえてきそうな気がした。
しかし、聞こえるのは川の音だけ。
結局、雛が現れる事は無かった。
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――― ねぇ、何が正しかったの?
闇に塗り潰された視界に、その姿を追い求める。
答えを教えてくれる者は、いない。返ってくるのは、時折鳴り響く水音だけ。
硬い岩盤に背を預け、うずくまったまま。
背の痛みも、収まらない空腹感も、孤独でさえも、彼女を動かす要因とはなり得ない。
あるのは罪悪感と、後悔と、泣きたい気持ちだけ。
これで、いいんだよね?
痛々しいまでに信じ込む、頑なで、切実な思いを抱えたまま。
全てを忘れられたらどんなに楽だろう。
――― だけど。
本当は待っている。心のどこかでずっと待っている。偽らざる本心が求めている。
忘れたくない思いがそこにある。
彼女の――― 雛の、本当の願い。
――― もう一度、この孤独から連れ出してくれる、温かなその手。
・
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・
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――― どれくらい、経っただろう。
時間の感覚も、前後左右の間隔も無い。目を閉じても開いても、さして変わりの無い光景。
何もかもが凍り付いたかのようなこの場所で、時の流れを教えてくれるのは、時折響く水滴が落ちる音。
そして遥か遠くで鳴り響く、滝の音。
――― 雛が選んだのは、己を完全に封じる事。
もう二度と人前に出ない。光を浴びる事を許さない。誰も来ない場所で、時折厄の回収と引き渡しだけを粛々と行う。
別に神様なんだから、何も食べなくたって死にはしないし、眠らなくても問題は無い。ただ空腹を覚え、眠気を感じるだけ。
だからここ、妖怪の山で一番大きな滝、その裏に広がる洞窟の奥へと身を隠した。
内部は少し奥へ行けば光も差さず、入り組んでいて迷路のよう。それ故、入り口には進入禁止の看板と柵が設けられている。
雛にとっては、好都合だった。ここなら誰も来ない。つまり、自分の厄で誰かを傷つける事が無い。
(これでいい。これで、いいの)
何度も自分に言い聞かせる。まるで夢のようなあの日々には、もう戻れない。
夢に溺れ、藁の代わりに親友を掴んで溺れさせた。そんな自分がもう一度、泳ぐ権利は無い。
独りぼっちの雛に、優しくしてくれた。ずっと友達と言ってくれた。数え切れない笑顔を投げかけ、受け止めてくれた。
その結果が、あの手紙。山のような恩を、さらに大きな仇で返した。自分がどれだけ最低かは、分かってる。分かりたい。
でも死ぬ事は許されない。厄神としての仕事を放棄する訳にはいかない。だから、仕事以外の全てを禁じた。
それこそが、自分への罰。自分を怖がって、誰もギロチンの刃を落としに来てくれない。だから、自分で落としに来た。
(私は厄神……不幸を呼ぶ存在。それでよかったんだ)
そうなのだ。全ての者が自分を恐れて近付かなければ、誰も傷つかない。
疫病神には、何も見えない闇の中がお似合いだ。早い所、入り口を誰かに塞いで欲しい。遭難者が出る前に。
(さよなら、にとり。大好きだったよ。ううん、今でも好きだよ。私がいなくなったから、すぐ元の生活に戻れるからね……)
これで最後と決め、脳裏にその顔を浮かべる。眩しいくらいの笑顔。
そのヴィジョンを段々掻き消そうとするが、なかなか上手くいかなかった。
どす黒い闇の中で、うずくまったまま思い出と格闘する雛の姿は――― あまりにか細く、小さい。
・
・
・
・
・
「……どうしちゃったんだろう、雛」
河川敷に建てられた自宅の玄関先で、にとりは待っていた。
毎日のように来てくれていた親友、雛が再び訪れるのを。
(飽きちゃったのかなぁ……私と一緒に遊ぶの)
不安とも悲しみともとれない、鎮痛な表情を何とか押し隠す。今この瞬間に雛が来ても、心配しなくて済むように。
そわそわと落ち着き無く、短い間隔で歩き回ったり、家の周りをぐるりと回ってみたり。
彼女の不安を露骨に示すそれらの行動を、数時間に渡って続けた後。
「もうダメだ、雛に直接会わなきゃ!」
わざと声に出して頷くと、にとりは小石の多い地面を蹴って宙に舞い上がる。
その足取りに迷いは無い。何度も通った場所なのだから。
高度的に大して変わらない、ふもと付近の平地。木々で少し隠すようにして建てられたその家。
地面に降り、玄関前まで。照明は灯っていない。
一度、大きく深呼吸してから玄関を叩く。
「雛?にとりだけど……いる?」
どんどん、と数回ノックするも、返事は無い。
「どこ行ってるんだろう」
少しだけ考え、何気無くドアのノブを掴んで引いてみた。
がちゃり。
「あれ、開いてる……」
呟き、首を傾げつつもそのままドアを少しだけ開ける。
「ひーなー?」
隙間から中へ向けて声を掛けたが、返事は無い。
もう少し開けてみる。と―――
「おろ?」
かさり、と足元から音がした。不審に思って下を向けば、ドアと床の隙間に何やら紙片が挟まっている。
屈んで拾い上げると、三つ折りにされていたらしきその紙は、くしゃくしゃに折り目がついていて元の形を判別し辛い。
ひっくり返すと、字がびっしりと書き込まれていた。
あんまり良くないよなぁ、なんて思いながらも、その文章に目を通そうとするにとり。
その目に、一番最初に書かれた名前が飛び込み――― 彼女は硬直する。
「……え?」
・
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・
・
・
気が狂いそうになる程の、暗闇。
徐々に心身を蝕んでいく闇の恐怖は、雛の本心を少しずつ呼び覚ましつつあった。
「………」
いくらシャットアウトしようとしても、溢れては蘇り、また溢れ出す記憶。
この場所が暗ければ暗い程、心の中に閉じ込めた記憶が明るく輝く。
(……にとり……)
結局の所、忘れるなんて不可能だった。
ただ独りで生きてきた雛の、初めての友達。いつも傍にいてくれた。いなかった頃にはもう戻れない。
それを自らの手で追うような真似をして、今こうしてここにいる。
自業自得。でも、そんな四字熟語で片づけられる程、親友の存在は小さくない。
仕事以外する事が無い。膨大に有り余った時間の中で、いくらでも楽しかった頃の思い出が蘇る。
毎日が楽しかった過去と、真っ暗闇の今と。その対比が余計に、雛の心を切り裂いていく。
戻りたい。戻れない。戻っちゃいけない。けど戻りたい。
(会いたい……)
――― そう思うのは、必然だ。
自分のせいで不幸に見舞われた親友に、もう一度会うなんて許されるのか。どの面を下げて行けばいいのか。
会えばきっと、再び彼女を不幸に陥れる事になるかも知れない。厄神として、そんな事はあってはならない。
分かっている。頭ではとうに理解している。だが、彼女の心は親友の姿を求め、泣き出したいくらいに軋んで、悲鳴を上げる。
雛とて一人の少女。友達に会いたいのは当たり前。しかしそこには己の使命という分厚い壁。
厄神としての立場か、鍵山雛という一人の少女か。普段通りに考えれば圧倒的に前者。
いつしかと同じ問いを己に投げかける。答えは出ない。少し考えるのをやめれば、にとりがまた笑ってる。
『どうしたの、雛?そんな悲しそうな顔してないで、こっちにおいでよ』
声まで聞こえてきそうだ。今優しい言葉をかけられたら、きっと泣いてしまう。
そしてそんな笑顔を見せられたら、もうこれ以上の自制なんて出来っこない。
「………」
雛は、どれくらいかぶりに腰を上げた。ゆっくりと、ふらつきながら立ち上がる。
暫く使っていなかった足腰に力を込め、直立。おぼつかない足取りで、一歩。
(会いたい……もうなんでもいいから、会いたい)
会いたい。会いたい。会いたくてたまらない。その顔を見たい。声が聞きたい。
叶うならなんだってする。もう独りぼっちは嫌だ。会いたい。触れたい。話したい。
――― そしてまた、笑ってほしい。
「にとり……」
呟き、また一歩。少しずつ、その空間から這い出す。
その目は何も見てはいない。虚ろで、焦点は定まっていない。もっとも、定まっていた所で大して変わりはしない。
手さぐりで、壁に手をつく。硬い岩肌の触感を確かめながら、道になっている部分を探す。
「ねぇ、にとり……どこにいるの?ねぇ……」
掠れた声が洞窟内に反響し、すぐに消えていく。壁に手をつきながら、一歩、また一歩。
もつれそうになる足を制御し、必死に暗闇からの脱出を試みる。
もう、自分がここへ来た理由も忘れかけていた。彼女の心を支配するのは、ただ『会いたい』という単純な理由だけ。
「もう……もう、いやだよ。いじわるしないで……にとり、どこにいるの……?」
自分が何を言っているのかも定かで無いまま、雛はふらふらと歩き続ける。
しかし、不意に足元に現れた石に足をとられた。大きくバランスが崩れる。
「きゃっ!?」
久しぶりに大声を出した。雛の短い悲鳴はやはり洞窟内で反響し、吸い込まれていく。
地面に崩れ落ち、地面の冷たい感触が全身を駆け抜ける。
どうしようも無く自分が惨めに思えて、雛の心を一気に悲しみが満たしていく。
端から見えない視界が、涙で滲んだ。
その時だっただろうか。或いは、もっと前からか。
――― 遠くで、何かが聞こえる。滝の音じゃない。
かつ、かつ、と何かを叩くような。重くは無い音。断続的に聞こえ、しかも少しずつ大きくなっている。
少しだけ考え、雛にも理解出来た。
これは―――
(足音……?)
久しぶりに、大きく心臓が跳ねるのを味わった。全身に血が巡り、素早く辺りを見渡す。
こんな所に誰が足を踏み入れるというのか。遭難した者でもいるのだろうか。
遭難者なら、とにかく無事に返さなければ。雛の厄神としての精神が、ようやく戻りかける。
だが、その考えはすぐに否定される事となるのであった。続けて聞こえてきたのが、声だったから。
それも、遭難者が助けを求める声でも、不安に駆られた息遣いでも無いものだったから。
「ねぇ、誰かいるの!?」
今何よりも聞きたくて、一番聞きたくないその声が、洞窟内に跳ね返った。
・
・
・
・
(なんで―――!?)
雛の全身を、転んだ時よりも遥かに大きな衝撃が駆け巡った。
暗闇の向こうから聞こえてきたのは、紛う事無く、にとりの声だった。
誰にも話さなかった。話す相手もいなかった。誰にも見つからない、幻想郷の歴史からも消え去るつもりで、ここを選んだ。
なのに、彼女はやって来た。
どうして?
なんで?
何の目的で?
脳内を埋め尽くした疑問符が、勝手に口を動かした。
「――― にとり!?」
はっと気付き、口を押える。が、もう遅い事は彼女自身にも分かっていた。
先の悲鳴を聞きつけてこちらへやって来たのだ、今の声が聞こえない道理は無い。
しかも、彼女自身の名前を呼んだのだ。ともすれば―――
「……雛!?雛なんだね!?そこにいるんだね!?」
――― ああ、なんという事だ。
その声は本当に嬉しそうで、弾んでいる。それに伴い、雛の思考は深く暗く、沈んでいく。
自分がここへ来た理由。身を隠す意味。それらを全て、余す事無く思い出した。
誰よりも大切な、にとりをこれ以上傷つけない為にここへ来た。もう二度と会わなければ、大丈夫だと思った。
今彼女に来られたら、それらは全て無為のものとなってしまう。
会いたくてたまらなかった相手が、いざ来たら会う訳にはいかない。爆弾を抱えたようなジレンマに、雛の頭は混乱を極めていた。
遠くに、薄い明かりが見える。岩肌を照らす淡い照明が、暗闇に同化していた雛にはあまりにも眩しく感じられた。
(だめ、来ちゃ……)
我知らず、念じる。彼女の思いに反し、光の反射はますます強く、明るくなっていく。
そしてとうとう、その光源が露わになった。眩しくて、反射的に目を閉じる。
「………」
少しの間目を閉じたままでいた雛は、ゆっくりと目を開いた。もう、明るさには慣れた。
宙に浮いたように見える、カンテラのような照明。そこから発せられる光が、その周囲を照らしていた。
狭い洞窟。岩肌。石の転がる地面。滴り落ちる水滴。膝をつき、崩れ落ちたままの雛。
―――そしてその照明を手にした、河城にとりの姿を、確かに煌々と照らしだしていた。
どうしてここが分かったのだろう。そもそも、何故自分を探しに来てくれたのだろう。
溢れ出す疑問の数々を反芻する内に、正面に立っていたにとりの顔が、カンテラに負けないくらい明るく輝いた。
「雛、よかった!無事だったんだね!探したんだよ、もう!!」
笑い、駆け寄ってくる。
願いが叶った。再会出来た。数分前の雛なら喜んだだろう。いや、心の底では嬉しくてたまらない。
けど、厄神としての雛は、凍り付いていた。
一番大切な相手が、また自ら傷付きにやって来たようなものなのだ。自分がここへ来た理由をもう一度確認する。
それを確かに思い出し、間違いが無い事を確認した瞬間、雛は息を大きく吸っていた。
「――― 来ないでぇっ!!」
・
・
・
あれほど明るかったにとりの顔から、みるみる笑顔が消えていく。正直、辛くてたまらない。
今こんなに苦しいのは、久しぶりに大声を出したからでは無いと断言出来る。
「ひ、雛……?」
足が止まった。とにかく、彼女をここから追い出さなくてはいけない。そして、帰ってこないようにしなければ。
雛は考える。跳ね回る心臓を無理矢理押さえつけ、努めて冷静に考える。にとりを帰し、二度と来させなくする方法。
そして、それは割と難しくない事に気付いた。彼女に向って、『あなたが嫌い』と言えばいいのだ。
こんな辺境へ来た理由は、にとりの顔をもう見たくないから。そう嘘をつけば、優しいにとりはきっと帰るだろう。
「にとり……わ、私はね……」
震える唇で、言葉を紡ぐ。今から自分が、世界一の大嘘つきになろうとしている。
しかし、それ以上の言葉が出てこない。荒くなる呼吸。まるで言葉が手足をふんばって、喉に引っかかったような感覚。
(言えない……そんなこと、言えないよ……)
雛は頭を振った。言える筈が無い。にとりを嫌うなんて、嘘でも出来ない。だって、たった一人の友達なのだから。
それに、今ここでそう言って、仮に彼女が引き上げたとしても。
どうやって情報を得たかは知らないが、こんな所まで雛を探しに来てくれたのだ。
そうまでして探しに来た相手に拒絶されれば――― 間違い無く、にとりは傷付くだろう。
それは、厄神として絶対に許されざる行為だ。にとりを傷付けない為にここへ来たのに、本末転倒だ。
「雛、どうしちゃったのさ。こんな所にいないで、帰ろうよ。ね?」
押し黙ってしまった彼女を安心させるように言いながら、にとりは再び近付いてくる。
思わず息を呑み、雛は崩れ落ちた体制のままで後ずさった。
「だ、だめ……来ちゃだめ……」
か細い声に、再びにとりの足が止まる。
もう限界だ。彼女を傷付けず、帰す方法はもうこれしかない。
「にとり、落ち着いて聞いて。私は……私はね、厄神なの。そばにいる人を、たとえどんなに大切な人でも不幸にしちゃうの」
――― 全てを告白する事。もう二度と、あの頃の関係に戻れない覚悟だった。それでも良かった。にとりが不幸にならなければ。
「私は……これ以上、あなたを傷つけたくない。だからここに隠れたの。だから、もう私に近づかないで。
にとりが元気に暮らしてくれれば、私は幸せだから。来てくれてありがとう。けど」
淡々と続けようとした雛の声を、にとりが遮った。
「――― 知ってるよ、そんなコト。雛は厄神で、幻想郷とそこに住まう人々の厄を一身に背負い続ける、優しい神様……だろ?
ごめんよ、雛。騙してたみたいでさ。でも私、知ってたんだ。雛の正体」
「え……」
にとりは知っていた。雛が厄神である事を。そして、その本来の役割を。
「いつ、って聞きたそうな顔してるね。会って少ししたくらいかな。雛って名前にちょっと聞き覚えがあったから調べたのさ。
そしたら厄神だって。もっとも、俗に言われてる不幸を呼ぶ存在だなんて思わなかった。
本当は人を幸せにしてくれる神様だって。ちゃんと調べれば分かるのに、みんなおかしいよね」
にとりはそう言って、けらけらと笑う。
ずっと隠していたつもりになっていた。けど本当は、全て知っていた。
そして、その上で雛と仲良くしてくれた。
「で、でも……でも、それで私がにとりにしたことが許されるわけじゃないよ。
私だって、知ってる。にとりが、河童の中で孤立してること。それに、お友達とケンカしたことも。
みんな、私のせいなの。私のそばにいたから、にとりが不幸になった。
ずっと仲良くしてくれたのに、そのお返しがこんなにたくさんの不幸だよ?」
雛は一度言葉を切り、ため息と共に続けた。
「私は、にとりのそばにいる資格はないの。私と会わなければ、にとりは……」
「そこまでだ、雛」
再び遮ったにとりの声は、雛が初めて聞く声色だった。普段の彼女からは想像もつかないような、針のように鋭い声。
そっと顔を見上げる。彼女の目もまた、鋭い光を宿していた。
「さっきから聞いてりゃ、随分な言い草じゃないか。私が不幸?雛のせいで?
冗談じゃない!私は雛を責めたこともなけりゃ、雛のそばにいた事を後悔したことなんて一度もない!!」
怒鳴るような声が洞窟内の湿った空気を震わせる。呆気にとられた表情の雛に向けて、にとりは続けた。
「……分かったよ。どうしても理解できないってんなら、言ってやるさ。一度しか言わないから、よく聞くんだ」
彼女は一度、大きく深呼吸。
「私が、雛のせいで不幸になった。さっきは否定したけどさ、あながち間違いじゃないかもしれない」
「……え?それじゃ」
「話は最後まで聞くんだ、雛」
言いかけた雛を手で制し、にとりはもう一度息を吸った。
「――― 私にとっての一番の不幸は、雛がいなくなった事だからさ」
・
・
・
「………」
にとりの言葉が一瞬理解出来なくて、雛は硬直する。
そんな彼女を正面から見据えながら、にとりははっきりした口調で続けた。
「いいかい?出会ってからの日数こそ浅いかもしれない。けど、いつどんな時でも何より私の事を気にかけてくれる。
厄神として、普段から多くの人々の幸せを考えてくれる。私のわがままにも付き合ってくれた。
自分自身だって誤解のおかげで寂しいだろうに、そんな辛さなんてこれっぽっちも見せやしない。いつだって笑ってる。
そんな、優しい雛が私は大好きなのさ。仲良くなれて、こんなに嬉しいと思った事はなかったよ。
雛に会えない日は明確に寂しいと感じた。雛がいるだけで笑顔になれた。こんなに気を許せたのは、雛以外じゃ椛くらいさ。
毎日会いたいと言ったら、毎日来てくれたじゃないか。そんな雛がある日、いきなり来なくなった」
雛は何も口を挟まず、彼女の言葉を真剣に聞いている。
「一日や二日ならともかく、長い事来なくなって……不安でしょうがなかったよ。
作りかけの発明品を膝に乗せて、どれだけ縁側で待ったか。夢にまで見たさ。
けど雛は何日待っても来なくて……いてもたってもいられなくて、雛の家に行った。
玄関は開いてるのに誰もいない。そしたら、こいつを見つけたのさ」
「―――!!」
言いながら彼女がポケットから取り出したのは、椛からの手紙。
「これを読んで、その時初めて分かった。どれだけ待っても、雛はもう来ないって。
私が原因で雛がすごく苦しい思いをしてるっていうのが、耐えられなかった。探したよ。正直、半狂乱だったと思う。
どれだけ必死に探したか……分かる?もう雛に会えないかもしれない、そう思うだけで胸が張り裂けそうだった!」
語調を強くするにとりの肩が、震えていた。雛の場所からは暗さもあってよく分からないが、泣いているのかも知れない。
今まさににとりを悲しませているという事実に、雛は自分自身を殴りつけたいくらいだった。
「心当たりのある場所にはみんな行った。数少なくなった、話を聞ける相手にもみんな聞いた。けど雛は見つからなかった。
一度は諦めようと思った。けど、眠ろうとする度に雛の事を思い出して……泣いたよ。涙が止まらなかった。
雛に会いたい、その一心でただただ探し回った!既に行った場所もチェックした!寂しさで頭がどうにかなりそうだった!」
にとりの声色が、段々不明瞭なものになっていく。何かに引っかかるようなその感じは、彼女が涙声になっている事を雛にもはっきり示していた。
「もうダメかと思った矢先に、この洞窟の存在を思い出したよ。雛のことだ、誰も傷つけたくないから誰も来ない場所に籠るんじゃないかって思った。
念のために帰り道を示す命綱も用意して、この迷路みたいな洞窟を歩き回って――― 今日、やっと見つけたんだ。
雛がいなくなってから、三週間は経ったよ。やっと会えると思った。なのに、来た言葉は『来ないで』だった……」
ぐす、と鼻をすすり、にとりは叫び出すかのようにまくし立てた。
「やっと雛に会えたのに、もう会わないでくれ!?そんなのイヤだ!もっともっと雛と遊びたい!喋りたい!一緒にいたい!!
今の私は不幸のドン底だよ!!こんなに悲しいのは初めてだ!!
雛は厄神なんだろ!?だったら、私を不幸から救ってよ!!沢山の人を不幸から救って、友達は救ってくれないの!?
わ、私を……私を助けてよ、雛!!早く!!もう耐えられない!!」
魂まで震わせるような声量でそれだけの言葉をぶつけると、とうとう、にとりはその場で声を上げ泣き出してしまった。
顔を手で覆うも、指の隙間から涙がこぼれて、湿った地面に一粒の染みを作る。
暫くの間、暗い洞窟ににとりの泣く声だけが響いていたが、
「わ、私だって!!」
今度は、雛が声を張り上げる番だった。にとりも顔を上げる。
「私だって、本当はにとりと一緒にいたい!ずっとひとりだった私の、初めての友達だよ!?それに、ずっと仲良くしてくれるって言った!
だけど……だけど、私がまた帰ったら、にとりはどうなるの?友達とケンカしたまんまだし、発明品も満足に発表できない。
この始末はどうすればいいの?どうすれば、私はにとりに許してもらえるの?」
「ひ、雛……ちょ、聞いて」
けほけほと咳き込みながら、にとりが何やら話そうとする。
一度息を吸い、ゆっくり吐いて、幾許すっきりした顔に戻った彼女は、優しく語りかけるように言った。
「心配しないで。雛の懸念、今からいっこずつぶっ飛ばしてあげる。まず椛のことだけど……大丈夫だよ、もう仲直りしたから」
「え?」
「ホントだよ。例の手紙を見つけたあと―――」
・
・
・
雛の家で手紙を見つけたにとりは、それを握り締めたまま椛の下へと一直線に向かっていった。
滝の近く、自宅の窓際で何やら物思いに耽っていた椛であったが、
『椛、ちょっといい!?』
『わひゃあ!?』
いきなり窓の下からにとりが出てきて、ひっくり返る羽目に。
『え、ちょ……』
改めてにとりの姿を確認すると、どうしてもうろたえてしまう。先日、弾幕沙汰の大喧嘩をしたばかりの相手がいきなり尋ねてきたのだから無理も無い。
とは言え、自分はただ説得しようとしただけなので、相手に対する怒りなんかは感じていないのだが、それでも驚く事に変わりは無い。
『えっと、その……とりあえず、こないだはゴメン!本当に反省してるから』
『あ、え、えっと……いえ、こちらこそごめんなさい!お気になさらず』
いきなり謝られ、椛も謝り返す。
『よかった。で、本題なんだけど……これ』
『あっ!』
続いてにとりが取り出した手紙を一目見て、椛は目を丸くした。
『ど、どこでそれを……』
『雛の家。ちゃんと読んだみたいでさ、それで……』
にとりは彼女へ、雛が失踪したらしい事を告げる。すると、みるみる内にその表情は鎮痛なものへ。
『そんな……私は、ただ』
『分かってる。椛はさ、私の事を心配してくれたんだよね。文面見てれば分かるよ、必死だったってコト。
そこまで私の事を想ってくれる友達がいてさ、私は幸せ者だよ。ありがとう、椛』
真正面からのお礼の言葉に、椛は顔を赤らめる。幾許和らいだ表情に安心し、にとりは続けた。
『だけどね、もっかい言うよ。雛はさ、椛が思ってるような恐ろしい疫病神なんかじゃない。
現に、私は半年以上雛と付き合ってるけど、全然不幸になんかならないよ』
『え、だって……』
『誤解だっていつかは解ける……てか、解け始めてるよ。何人か私のとこに、謝りに来てた。
縁日の後、私が連中の所に何度も言って、雛の誤解を解こうとしたのも幸いしたかな?
それに、椛とはもう仲直りできたし、それだけ私の事を真剣に考えてくれてるって分かったから、むしろ幸せなくらいさ』
ニヤリと笑うにとり。
『無理強いみたいな事はしないけどさ、ただ、分かって欲しいんだ。椛も雛も、私の大切な友達だってコト』
少しの間顔を伏せていた椛は、その言葉を聞いた後に顔を上げる。少しずつ、笑顔が戻っていった。
『……そうですよね。にとりさんが言うなら、そうなんですよね、きっと』
『そうさ。一度は、雛を椛に紹介しようかと思ってたくらいなんだ。今はちょっと厳しいかもしれないけど』
安堵した様子でそう言うと、にとりは辺りをぐるりと見渡した。
『よし。安心した所で、私は雛を探しに行ってくるよ』
『あの!良かったら、私にもお手伝いさせて下さい!』
申し出る椛に、にとりは嬉しそうな顔で頷いた。
『ありがとう。それじゃ、なんかそれらしき人影見かけたら教えてよ。これ、雛の写真』
以前撮った、にとりと一緒に写った写真を渡す。
受け取り、頷いた椛に頷き返し、にとりは再び地を蹴った ―――
・
・
・
「――― ってワケ。だからもう、椛のコトも、他の河童連中のコトも心配いらないよ。
椛とのケンカだってさ、雛から離れた方がいいとか言われてカッとなっちゃったからでさ、私が一方的にふっかけたようなもんさ。
本当の不幸が来てたなら、お互いにいがみあってこんなにあっさり仲直りなんてできないだろうね」
話を聞いていた雛は、思い出していた。
夏が終わった後の一時期、やたら暗い顔をしていたにとり。自分が周りから孤立しているのを実感したからなのだろう。
しかし、その後暫くしたら暗い顔をする事は無くなった。あれは、一部の者の誤解が解け、少しずつ以前の関係に戻りつつあったからだ。
そして椛との喧嘩の件。拾った新聞の写真は、弾幕を撃つにとりと逃げる椛。にとりだけが攻撃をしていた。
ああ、そうか。そういう事だったんだ。
「でも……」
しかし雛は、今の説明だけでは安心し切れない部分があった。
「これまでの問題に決着が着きそうなのは、本当に良かったよ。
けどさ、これからまた同じことが起こらないっていう保証はないよ。次にもし、またにとりに何かあったら私……」
「もう、恥ずかしいから何度も同じ事を言わせないでおくれよ」
不安そうな雛の声を三度、にとりが遮った。
「私にとっての一番の不幸は、雛がいなくなる事。それだけさ。逆に言えば、雛がいてくれりゃそれ以外の事なんか不幸の内に入らない。
幸せや不幸なんてのは気の持ちよう。私は雛や椛がいてくれりゃそれでいいのさ」
言い終えたにとりは少々恥ずかしそう。そのまま、誤魔化す為か何事か考え始める。
「それにしても、他の河童連中に避けられるようになったのが初夏で、誤解が解け始めたのは秋以後。
この間に、なんかあったのかな。仮に雛の厄が原因だったとしてさ、何らかの不幸を和らげる要因があったはずさ」
雛もその言葉を聞き、少し考えてみる。
秋と言えば、にとりがやたら暗い顔をしていて、それからやたらと雛の家に行きたがるようになって―――
「あっ!」
「どしたの?なんか気付いた?」
雛が不意に声を上げたので、にとりが尋ねる。
「私……にとりが遊びに来るようになってから、厄の引き渡しをこまめに行うようになったよ。
それまでは、にとりと遊ぶのが当たり前になってたから少し間隔が長くなってたんだけどさ。
わざわざ私の家に来てもらうんだから、少しでも影響を減らそうと思って……」
「それだ!」
そう叫んだにとりの声は、希望に満ち溢れていた。
「それだよ雛!厄をいつまでも持ってるから影響が出るんだ。さっさと渡しちゃえば何も起こらないよ!
それにさ、個人からの厄の回収も出来るんだろ?だったら、定期的によく会う人の厄を祓ってやれば大丈夫なんじゃない?」
「そ、そうなのかな……」
「きっとそうだよ!これなら雛も、何も心配しないで外で暮らせるよ!」
にとりは本当に嬉しそうで、先まで泣いていたのが嘘のように飛び跳ねる。
一方で雛は、まだ彼女の言葉を全て理解出来ないでいた。あまりに急な展開。
それでも、にとりといつも一緒にいた頃の、根拠の無い、だけどとても強いあの希望を再び感じていた。
今度は明確な、ある程度の根拠に則った方法もある。それに―――
「……にとりが言うなら……きっと、そうだよね?」
「当たり前さ、私を信じてよ!」
にとりの笑顔が、カンテラよりも眩しい。もう、雛を阻むものは何も無かった。
「何があるか分かんないけどさ……雛がいれば大丈夫だよ。
雛がみんなを幸せにする。今度は、私達が雛のために何か、してやれる事がないか探してみるよ。だからさ―――」
そう言うと、にとりは未だ地面に座ったままの雛の下まで歩いていき――― 手を差し伸べた。
「一緒に帰ろ、雛!」
雛の中に、ある光景が蘇る。
初めて会ったあの時。お互い泥にまみれながら、にとりが差し伸べてくれたあの手。
そして今。
(手だ……)
暗闇の中であれ程求めていたものが、今目の前にあった。
その手と、にとりの笑顔を見比べる。高鳴る鼓動。
(きっと大丈夫だよね……今度こそ!)
小さく頷いて、それから―――
――― 再び、その手を取った。あの時と何ら変わらない、温かな手。
・
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――― 冬のある日。
雪をコーティングされた山道を歩く二人組がいた。
「そんなに緊張しないでってば」
にとりはお気楽な様子で、隣を歩く椛に声を掛ける。
「で、でもぉ……色々、ありましたし……」
「大丈夫だって!」
何かに怯えたようにも見える椛の背中を、にとりは励ますように叩いた。
そうこうしている内に辿り着いた、平地に建てられた一件の家。
どんどん、とドアをノックするにとり。
「ひーなー!あっそびっましょー!」
子供じみたコールに、思わず椛は噴き出してしまう。
するとドアが開き、中からは雛が出迎える。
「いらっしゃい!にとり……あれ?」
雛もまた、横にいる椛の姿に気付いたようだ。
「今日はさ、お互いに紹介しようと思って連れてきたんだ。ほら椛」
「あっ、あわわわわ!」
背中を押され、椛はつんのめるように雛の前へ。
「あ、あのその、見張りとかやってます、白狼天狗の、い、犬走椛ですっ!
その、えっと……先日は、とんだ無礼なお手紙を……申し訳ありませんっ!!」
その場で土下座してしまう椛に、雛も慌てて玄関先で膝をつく。
「い、いやいやその、こちらこそにとりのことで色々……ごめんなさいっ!」
お互いに頭下げ合戦になってしまった二人の様子が大層おかしかったのか、にとりは大笑い。
「あっはっはっはっは!!やっぱり二人とも、絶対気が合うって!!」
いつまでも頭を下げ続ける二人を止め、三人揃って家の中へ。
紅茶の良い香りが漂う部屋で、にとりは椛に尋ねてみた。
「でさ、どう?雛と実際会ってみて」
「えーっと……その、包み隠さず申し上げますとですね」
ちょんちょん、と指先を突き合わせるようにしていた椛は、遠慮がちに続ける。
「その、お写真で拝見した時もそう思ったのですが、思っていたよりもずっと、その……普通の方だなぁって」
言ってしまってから椛は、
「いやその、悪い意味ではないんです!申し訳ありません!」
またまた頭を下げるので、にとりと雛がダブルで止める。
「言いたい事は分かるよ。どんなんを想像してたの?」
「以前は厄をばらまく恐ろしい神様だという噂でしたので、もっと悪魔や死神のような風貌をした恐ろしい方かと……。
でも、こうして会ってみると普通の女の子だったので、その、安心しました」
その答えに、雛は安堵の息をつく。
「よかった。私も、にとりのお友達に一回会ってみたかったんだ」
「一回だけじゃないだろ?」
にとりの言葉に、雛は頬を染めながら頷いた。
「その、もしよければ……私とも……」
「も、もちろんです!これからもよろしくお願いします!」
どこか興奮した様子で、椛は雛の手を取った。
「よかったね、雛。お友達第二号だ。雛ならきっと、友達百人なんて楽勝だよ」
呟き、にとりは満足そうに笑みを浮かべた。
・
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それから、幾度と無く季節が巡り、時には異変やら何やら、飽きない毎日が続くその中で。
以前と違い、積極的に出歩くようになった雛には、沢山の新しい出会いが待ち受けていた。
『冬が長くて憂鬱だから厄払いして』とやって来た秋静葉と秋穣子。
『くるくる回る神様がいるってホント!?』と噂を聞きつけ遊びに来たチルノとその友人達。
『ファッションセンスのいい神様ってのが住んでるのはここか?』と、リボンに興味を示す霧雨魔理沙。
『あんたとタイアップして、厄除けの御守りを売りたいんだけど』なんて商談を持ち込む博麗霊夢。
数え切れない出会いの中で、雛の優しさは多くの人々の心を射止めていった。
そして―――
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「もらったぁ!今こそ”
「うお、ここでか!?」
快哉を叫んだリグル・ナイトバグが、”竜”と書かれた将棋の駒を持って盤上を大ジャンプさせ、相手――― 魔理沙の王将の真ん前に陣取った。
「王手王手!さあ魔理沙、どうする?」
ニヤリと笑ったリグルに、魔理沙は少々考えてから軽く舌打ち。
「ちぇ、もったいないけどこれ使うか……背に腹はなんとやら」
そう言うと彼女は盤上の”賛”の駒を摘み上げると、一マス前の”礼”の右側に動かした。
リグルの顔が青ざめる。
「げ、それって……」
「おうよ。礼、賛が揃って特殊兵器”ライサンダーZ”発動。竜騎士を狙撃な」
ひょい、と”竜”の駒を盤外へ除ける魔理沙に、リグルは舌を出した。
「うえ、まさか使える位置にいたなんて……」
「まだまだ甘いな。さ、どうする?」
「う~」
長考。その様子を横で見ていた椛は、近くにいたにとりに尋ねた。
「あの、彼女たちがやっている将棋みたいなのは一体……」
「ああ、私が開発した”最終幻想的大将棋”だよ。B級SF映画の香りをトッピングしてあるのが特徴さ」
「は、はぁ……」
目が点になっている椛。
「え、でも結構見てるとこれ面白いよ?椛もあとで一緒にやってみない?」
「うーん、普通の将棋や大将棋なら自信あるんですが……」
試合の成り行きを楽しそうに見守っていた雛に誘われ、椛は苦笑い。
そこへ玄関のドアをノックする音。雛が立ち上がるが、それより早くドアが開く音がした。
「ひなー!遊びにきたよ!」
「いらっしゃい、上がって上がって!」
「お邪魔します」
「なんか楽しそうな声するけど、何してんの?」
「リグルは先に来てるんだっけ」
続いてどやどやとやって来る、チルノを筆頭に大妖精、ルーミア、ミスティア・ローレライの仲良し組。
「あ、魔理沙!何これ!何してんの?」
「おう、少し待ってな。今やっつけるから」
「勝手に私の負けにしないでよ!」
「ほい、ルールブック」
騒がしさが上昇した室内の様子に、雛やにとりはとても楽しそうだ。
――― 彼女達がいるのは、雛の自宅だ。季節は春、桜の花びらが窓の外を舞う暖かな季節。
この家にも雛を慕ってか、いつしか多くの者が集うようになった。
増改築しようかな、なんて考えるくらいだ。
(私の家も、すっかり騒がしくなったなぁ……)
「ひなー!あたいの厄とってー!」
「きゃ!」
物思いに耽ろうとした矢先にチルノが飛びついてきて、雛は思わず短い悲鳴を上げる。
「もう、びっくりしたよ。それにさ、一昨日厄払いしたばっかじゃなかった?」
「えー、でもくるくる回るの面白いからやってよー」
「しょうがないなぁ、じゃそっちで」
せがまれ、雛は彼女を部屋の隅へ連れて行く。
「はい、それじゃやるよ」
わくわくした様子のチルノを前に、雛はゆっくりとくるくる回る。何故厄払いの際に回るかは自分でも定かでは無いのだが、この方が調子が良くなる気がするのだ。
十秒弱程で回転を止めた。
「はい、おしまい」
「え、もう?もっとやってよー」
「一昨日やったばかりだから、厄が殆どたまってないんだよ。また今度やってあげるから」
「はーい」
ちょっと残念そうにしつつも雛の言葉に素直に従い、彼女も将棋観戦へ。
すると今度は、窓をコンコンと叩く音。
「やほー。遊びに来たよ」
「お土産付きで……って随分と繁盛してるわね。足りるかしら」
焼き芋がぎっしり詰まった袋を抱えた穣子と、予想外の大人数に驚いている静葉。
「多い方が楽しいよ!さ、上がって」
「お邪魔しま~す」
二人追加され、さらに騒がしさアップ。
「あ、なんかいいにおい」
「焼き芋持ってきたから、みんなで食べよ?」
「ありがとー!」
「おいおい、春に焼き芋か?ありがたく頂くけど」
「いつ食べてもおいしいのが焼き芋の魅力よ」
「あ、じゃあわたしお茶いれてきますね。雛さん、お台所借ります」
「ありがとう、大ちゃん」
「へぇ、おいしいわねこれ。流石は焼き芋の神様か……」
「そりゃ当然……って霊夢!?いつからいたのよ!?」
「ん、さっきあんたらと一緒にこっそり。なんかいい匂いしたから」
おやつの登場に沸き立つ一同。いつの間にか紛れ込んだ霊夢も交え、焼き芋をかじりながらの妙ちきりんな大将棋はますますの盛り上がりを見せる。
「あー、負けたぁ」
「私の言った通りだったろ?」
結局、先の勝負は魔理沙が勝利を収め、二人は一旦将棋盤から離れる。
「あ、じゃあ……雛さん、私と勝負です!」
「ホントに?よし、やろっか!」
「にとりさんと将棋を指したあの日々が、伊達ではないことを見せて差し上げます!」
随分と気合が入ってるらしく、腕まくりまでして盤の前に座る椛。雛もその向かいに座る。
「あ、おい。まずはサイコロ二個振って、その出目で運勢と守護精霊を決める所から始めるんだぜ」
「なんじゃそりゃ……」
「色々あった方が面白いんだよ。ほら振った振った!」
魔理沙の言葉にポカンとする椛。出鼻をくじかれたようだ。にとりはそんな彼女にサイコロを握らせる。
「ええい、ままです!うりゃあ!」
気合いと共にぽーんと高く放り投げられたサイコロは、天井に当たって跳ね返り―――
「あてっ!」
観戦していたチルノの脳天をダブルで直撃。
「あわわ、申し訳御座いません!大丈夫ですか!?」
慌てて謝る椛にチルノは、
「だいじょぶ……だけど、なんであたいに当たるのよ!ひな、さっき厄とってくれたんじゃなかったの?」
そう言って今度は雛を向いて頬を膨らませる。
当の雛は困った顔で言った。
「うーん、これは……厄の影響じゃなく、単なるドジってコトで」
「チルノ、ドジだって!」
「あたいじゃないもん!!」
「さ、さあ!仕切り直しです!」
「お茶がはいりましたよ」
茶化されてますます赤くなるチルノ。椛は早く場の空気を変えようと、大慌てで再びサイコロを振る。
その様子に、帰ってきた大妖精も含めて室内は大きな笑いに包まれた。
――― 勝負の合間に、雛は思い返す。
思えば、にとりと初めて出会ったのもこんな春の日だった。
あの頃はいつも独りで、誰かが家に来るなんて考えもしなかった。
(だけど……)
改めて、室内を見渡す。
ざっと見ただけで十人以上。こんなにも多くの人妖が、雛を慕って遊びに来るというその事実に、未だ驚きを隠せない。
不幸を呼ぶ存在だなんて言われ、暗がりで泣いていた雛はどこへやら。今でも全ての誤解を解いた訳では無いけれど、沢山の友達が出来て雛は幸せだった。
そして、その笑い声の中心で楽しそうに盤を眺める、にとりの顔を見る。
(私が今、こうしているのも……)
そうなのだ。雛が今こうして、沢山の友達と一緒に笑い合えるのも。
全ては、この幻想郷で生きていく勇気をくれたにとりのお陰。この家、或いはあの洞窟にいつまでも閉じこもっていたら、決して得られなかった幸せ。
「……ん?どした、雛。私の顔になんかついてる?」
「あ、え?」
どうやら、ずっとにとりの顔を眺めていたようだ。
「ほら、雛さんの番ですよ。この私の完璧なる金十字フォーメーションに恐れをなしましたか?さあ!」
椛はいつの間にかこのゲームを完全にものにしたようで、実に楽しそうに挑みかかってくる。
彼女の陣には”金”が見事な十字を描いた美しいフォーメーションがそびえる。
「え、えーっと、じゃあ……」
雛は手持ちの駒と場を見ると、”顎”の駒を取り出して”獅”の横に置いた。
勝ち誇っていた椛の顔が一転、驚きに染まる。
「そ、それは!?」
「特殊攻撃”ザ・サファリ”発動で、えっと……”心無きテレテレテッテのリズム”で二列、四列の奇数番と、三列、五列の偶数番を攻撃」
「きゃー!!」
椛が悲鳴を上げた。市松模様を描くかのように指定列の奇数或いは偶数番の駒を倒され、見事な十字フォーメーションは無残な姿に。
「あ、その……なんかごめんね、椛」
がっくりと突っ伏してしまった椛に思わず謝ってしまう雛だったが、
「な、情け無用です!私の反撃はまだここからですよっ!」
椛もすぐに身体を起こし、プレイ再開。再び室内は歓声と笑いに包まれていく。
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「次は負けませんからねっ!」
夜。悔しそうな椛を見送り、雛は息をついた。
既に他の者も殆どは夕方頃に帰宅しており、彼女は遅くまで残って雛と例の将棋を指していた。
結局、二戦行ってどちらも雛の勝利。普通の将棋ならまず勝てないだろうが、どうやらにとりの作った物は雛と相性が良かった模様。
再戦を誓い、彼女は帰路に着いた。
「椛も帰っちゃったか」
部屋に戻ると、にとりが将棋セットを片付けながら声を掛けた。
「うん。悔しそうだったし、何だか悪かったかなぁ」
「いやいや、椛は努力家だからね。次はもっと戦術を磨いて挑んでくるさ」
ははは、と笑い合う。
「ところで雛」
「え?」
不意ににとりが尋ねてきて、雛は首を傾げる。
「昼間さ、将棋やってる最中になんか私の方見てたけど……どうしたの?」
「ああ……」
そんな些細な事を覚えていたのか、と思いつつ、雛は正直に答えた。
「昔のこと。ほら、にとりと初めて会ったのも、今日みたいな春の日だったなぁって」
「うん……そうだね。懐かしいなぁ。今でも覚えてるよ、一緒にお風呂入ったの」
「あの水風船のやつ、どうなったの?」
「改良品を作ってるけど、去年の夏に結構人気が出てさ。今年また売るつもりさ」
楽しそうに笑うにとりの顔を見つめ、雛は頷いた。
「まさか、こうしてたくさんの人が遊びに来てくれるようになるなんて思わなかったよ」
「雛は優しいからね。多くの人が惹かれるのは当たり前さ」
相変わらず臆面も無い言い方に、雛は頬を染めつつも言葉を返した。
「でも、そのもっと前に……にとりがいてくれたから、今こうして私がいるんだ。それは間違いないよ」
「そうかい?そう思ってくれるのは嬉しいな。なんせ、最近は沢山人が来るからね。
私がいなくなっても気付かないかな、なんて考えたこともあるくらいで」
少しだけ寂しげな顔をしたにとりに、雛は首を振った。
「そんな事、絶対にないよ。にとりは、私の一番最初の友達だもの。
それに、私が飽きるまで一緒にいてくれるんでしょ?約束、覚えてるよ」
「……そっか。あはは、何だか恥ずかしいや」
「やっと私の勝ちだね。顔、赤いよ」
「よく覚えてるねぇ。私も今思い出したけど」
声を上げて笑い合う。
――― 忘れなんかしない。一つ一つの思い出が、大切な宝物。
あの時にとりがいなければ、今の自分は、幸せな生活はきっと無い。
独りぼっちだった雛を、人の優しさがある所へ連れて行ってくれた。
意図せず、にとりを傷付けてしまった。それでも必死に探し、暗闇の中で心を鬱いだ雛を、もう一度見つけてくれた。
みんな、みんな、にとりがいたから。
「……ねぇ、にとり」
「なんだい、雛」
「これからも……」
「ずっと一緒だよ。お互い、約束したじゃないか。もう忘れたの?」
にとりは優しく笑いかけ、そっと手を差し伸べる。
雛も頷いて、その手を取った。温かい。
「言っとくけど、もうこの手を離すつもりはないよ?河童はしつこいんだからね」
「厄神の手を離さない、か……河童は変わり者って、ホントなんだね」
「その通り。私は厄神様の手を握らないと生きていけないのさ。だからこれからも一緒」
何度目か分からない、にとりの笑顔。何度見たって見飽きない。
(にとり……)
手から伝わる温もりと、心を満たされる温かな幸せを感じながら、雛は目を閉じる。
その胸に秘めた、感謝の言葉。口には出さないけど、きっと伝わる。
独りぼっちの孤独から。
暗闇に閉ざされた洞窟から。
そして、友達がいない寂しい世界から。
――― 私を連れ出してくれて、ありがとう。
雛もにとりもいいやつだな~。
そんな妖怪に私もなりたいです。
にとりの幸せは雛の幸せ、雛の幸せはにとりの幸せですね。
椛も含めて、みんな優しいなぁ。
個人的にエピローグでバカルテットや大ちゃんが出てきて安心しました。
みんな、幸せにならなきゃ。
にとりが男前。
秋姉妹が良い味出してました。
とにかく雛さんお幸せに。
素敵なお話をありがとうございます。
厄神はこうあるべきですね。面白い話でした。
滝の裏の行で久しぶりに泣きました(ノ_・。)
最後には本当に皆幸せそうで、「もう映画になれば!?」とか思ってました。いや無理ですけどorz
反面、ネタに少々にやけました(笑)
私ではStarmine、Golden cross、顎(=金「獅」子)ぐらいしか分かりませんでしたが^^;
それと誤字が…
最初ににとりと会う前の、「実験場」の場面で、
「確立」→「確率」
ですね。
次回作も期待しております^^
厄神っていう響きはやっぱりどうしてもマイナスなイメージが付きまとってしまいますね。
原作で絡みのあるキャラも全然いないし、リアルに切ない状況になってそうな雛さん。
そんな雛さんに
> 「――― 私にとっての一番の不幸は、雛がいなくなった事だからさ」
こんな言葉かけたらイチコロやろ!にとりさんのジゴロ!女殺し!
そして最後のほうはどっかで見たことあるような無いようなフレーズに見事吹き出してしまいましたよw くそうやられたww
もちろん、雛自身も。
とても優しい厄神様と素敵な友人たちの輪はきっと広がっていくのでしょう。
暖かい気持ちになれました。
それと、にとりがかっこいい
雛さん、僕にも友達ください
にとりが雛を、雛がにとりを思う気持が感情移入しやすくとても読みやすかったです。
長文なので読むのを延ばしていた作品でしたが、やはりこの良さはこの長さでないと味わえないと思います。
さらにサブキャラも使い捨てでなくしっかりと存在感があり読んでいて楽しかったです。
これからもがんばってください
追記
あなたの書く魔理沙はいいひとすぎる。だがそれが、私は好きです。
>>3様
キャラ描写はいつも頑張っている部分なので、魅力的に映ったようで嬉しいです。
妖怪になるのは色々怖いと思われますので、人間のままで目指して下さい。
>>奇声を発する程度の能力様
いつも有難う御座います。あなたのコメントのような、まさに素直なお話を目指しております。
目論見ハマって一人ニヤリ、とっても幸せ。
>>しろーね様
これまた、いつもご贔屓にして頂きまして有難う御座います。
そうやって幸せも悲しみも分かち合える存在ってとっても素敵だと思うのです。
ラストは絶対賑やかにしようと決めてました。冒頭が寂しんぼなので。
>>7様
この上無く同感です。雛はとにかく幸せになって欲しいキャラ、個人的に。
>>8様
その一言で十分で御座います。みんなではっぴー、これ重要。
自分の作品の締めは多くのキャラが出てくる事が割と多いのですが、その精神が根底にあるからなのかしら?
>>後てゐ様
やや、幸せウサギ様降臨!?これは確実にはっぴーだ。
>>17様
みんなではっぴー、これ重要。大事な事なので二度。
登場人物の幸せを少しでも感じて頂ける、そんな作品が書きたい。
>>23様
意図せずバラまいてしまうと言うか、已むに已まれぬ事情で放出するお話なら過去に書きましたが……厄神様は責任感が強いので普段はそんなコトしません。しませんってば!
みんなの幸せを願う、それが厄神様です。
>>24様
自分の作品は凝りの無い単純構成ですが、だからこそストレートな感想を頂けると自分の想いが伝わってるなァと嬉しくなるのデス。
>>キャリー様
やや、いつも有難う御座います。タイトルホイホイ出来る日が来ようとは。
物語の核心シーンはやはり書いてて力が入ります。そして元ネタがJUST REFLEC!
あ、誤字報告有難う御座います。修正致しました。気をつけなくちゃ。
>>デン様
以前に引き続きまして、これまた有難う御座います。わぁい。
『100kb以上あるとは~』ってとっても嬉しい!自分の作品、どれも長いので……。にとりんは感情表現や言葉がストレート、故に相手の心を揺さぶっちゃうのです。
最後らへんの将棋ネタ、あなたならきっと何に影響されて書いたか分かって頂けるでしょう。ごめんなさい&有難う御座いました。
>>ユウ様
これまたまた以前に引き続き……何度も読んでくれる方が多くて最高に嬉しい!ホント有難う御座います。
不幸面ばかりクローズアップされがちな雛ですが、その本分は幸せをもたらす所にあり。誰よりも優しい能力です。
>>31様
書いてる途中にふと浮かんだので、あとがきに採用。同じように思い返して下さる方がいらっしゃって無性に嬉しい。
『厄は取ったから、あとはあなた次第だよ!頑張って!』とは雛様の弁。
>>月宮 あゆ様
ここまで想いを寄せられる親友がいたら、それだけで人生は素晴らしいものになるでしょう。羨ましい。
長さは自分の作品における宿命なので、それを長所に出来るようこれからも頑張ります。出すキャラはどんなにチョイ役でもしっかり書くよ!
魔理沙のキャラも大分固まってきたなぁ……七夕話の辺りからかしら?
(主に前半を)にとり視点で見てみたいな、と思いました。
まさかの弐寺ネタw
サファリを地味に特訓したのはいい思い出w
テレテレt(シャッター閉