「おや、箒が一本ありませんね」
ある日の早朝、命蓮寺の境内にて。
掃除をしようと物置を開けたご主人様が呟いた言葉に、私は思わず顔をしかめた。
あの新入りが、また余計な真似をしているらしい。
幽谷響子は、最近命蓮寺に入信してきた山彦妖怪である。なんでも、山彦としての需要がすっかり無くなってしまったのが寂しくて、仏門に入る決心をしたそうだ。
性格は素直で純真、真面目で向上心もある。朝からこちらの調子も考えずに大声で挨拶してくるのが気に障るが、それを除けば基本的にはいい奴だといえるだろう。寺での仕事を少しずつ学んでいけば、いつかは立派な僧侶になれるかもしれない。尤も、白蓮のような尼君にまでなれるとまでは言えない気もするが。
とにかく、普通にしている分には響子はいい奴だ。仲間達もそう言うし、私自身そう思う。
ただ、どうしても納得のいかない所が一つだけある。それは、ご主人様に対して彼女が抱いている気持ちだ。
純真だからなのか、響子の目にはご主人様の様々な失敗が映らないらしい。裏で散々引き起こしてくれている厄介事にはまったく気づかず、彼女はご主人様の立派な部分だけを見ているのだ。
そのせいか、彼女はご主人様に強い憧れを抱いている。白蓮に信頼され毘沙門天様の代理まで務めるご主人様を、響子は妄信している。裏で苦労している私になど気づかず、彼女は自身の中でご主人様を完璧な存在だと勘違いしているのだ。
それだけなら、別段私がとやかく言うつもりはないし、その必要もない。ご主人様のことをどう思おうと、それは彼女の勝手だからだ。
けれども、そのせいでご主人様まで変わってしまうというならば、黙って見ているわけにはいかない。
ご主人様が私から目を離してしまうというならば、“彼女の勝手”などと言っている場合ではなくなってしまう。
「ふふ、いつもながら感心しますねえ。ナズーリンも響子ちゃんを見習ってもう少し早起きしたらどうです?」
物置から取り出した箒を手渡しながら、ご主人様がそう言ってくる。
こういう言い方をされるのが、私は何より嫌だった。
響子の気持ちを知ってからというもの、ご主人様は彼女に目をかけるようになった。単純なあの方のことだから、尊敬されているのがうれしくてたまらないのだろう。
それだけで済んでいてくれれば、こんな感情を抱かずに済んだ。
ただ単に、ご主人様と響子の話す時間、一緒にいる時間が増えるだけなら、私は何も思わずに済んだはずだ。
なのに、どうしてだい、ご主人様。
どうして、わざわざあいつを引き合いに出したりするんだい。
今あなたの目の前にいるのは響子じゃなくて、私なのに。どうしてわざわざあいつの話をする。
あの日、私はあなたをずっと支えていくと誓った。あなたも、私にずっと側にいてくれと言ってくれた。
主従の関係を越えた絆が、私達にはある。ずっとそう思ってきたのに、どうしてあなたはそうやって――
「ナズーリン、どうしました?」
ご主人様の声で我に返る。
心配そうに見つめてくる彼女に余計な感情を割かせないよう、いつもの口調で答える。
「いや、なんでもないよ。まだ寝惚けているのかもしれないな、誰かさんに乱暴に起こされたものだから」
「掃除に付き合ってくれると言ったのも、寝坊して起きなかったのもあなたでしょう。自業自得というものですよ」
「すまない、昨夜は寝るのが遅かったんだ。どこぞの駄目寅が御守の袋と内符を間違ったりしなければたっぷり睡眠を取ることもできたんだがね」
「そ、それは……って、それでも寝る時間は私と同じだったのでしょう? だったら十分とはいえないまでも最低限の睡眠は」
「さあ行くぞご主人様、朝の掃除なんて長々とやるものじゃない」
「そ、そうですね……って、話をすり替えないでください!」
何やら一人で騒いでいるご主人様を軽く無視して、境内へと歩く。
心の中に、晴れることのないもやもやを残したまま。
「おはよーございます!」
思った通り、響子は私達より先に境内を掃除していた。私達の姿を見つけると、何故かうれしそうに腕をぶんぶん振りながら挨拶してくる。
若干どころではないくらいにうるさい。あと、箒をぶんぶん振るのは危ないからやめろと言いたい。
「おはよう、響子ちゃん。今朝も張り切ってますね」
「ええ、掃除は仕事の基本ですから! いつか星様のようになれるまで、頑張ります!」
目をキラキラと輝かせながら、ご主人様の笑顔に響子は答える。
なにが星様だ。新入りのくせに馴れ馴れしいにも程がある。ご主人様もご主人様だ。あなたがそんなに甘い顔をするから、響子も調子に乗ってしまうんじゃないか。
一人心の中で舌打ちをする私にはまったく気づかず、二人は話を続ける。
「ふふ、私を目指してくれるのはうれしいですが、頑張り過ぎはよくないですよ。自分のこなせる範囲で、少しずつ徳を重ねていけばいいのです」
「はい! では、あっちを掃いてきますので失礼します。星様もお忙しいのですから、無理なさらないでくださいね」
「ええ、響子ちゃんもね」
笑顔で手を振るご主人様に見送られ、響子は朝霧の中に消えていった。
彼女の姿が完全に見えなくなった頃、ご主人様がうれしそうに言ってくる。
「私のようになれるまで、ですか。ふふ、なんだかちょっと恥ずかしいですね」
「いやあ、私は響子の判断ミスだと思うがね。ご主人様のようにということは、優秀だが放置できないということだ。外見は立派で仕事も優秀だが、ちゃんと管理してやらないと思いもよらぬ失敗をしでかす。そういうふうになりたいと言っているわけだからね」
「そ、そこまで言わなくてもいいじゃないですか」
「どうしたご主人様、私は単に客観的事実を述べただけだよ? それとも、今私が言ったことを少しでも否定出来るかい?」
「そ、それは……」
少し意地悪な口調で訊ねると、ご主人様は困ったように眉をひそめた。
こういう表情もまた、彼女の魅力の一つだ。今にも泣き出しそうに顔をしかめてみたり、子供のように頬を膨らませたり。ご主人様の多彩な表情は、今や私の心を掴んで離そうとしない。
しかし、こういう顔もいいが、ご主人様にはやはり笑顔が似合う。あまり苛めていないで、そろそろ笑わせてやるか。
そんな事を思いつつ、私は唇に力を入れる。
けれど、私の口から言葉が発せられることはなかった。
霧の向こうから聞こえてきた馬鹿でかい声が、私のそれをかき消したのだ。
「終わりましたー!!」
うれしい悲鳴とは、こういうものなのだろうか。
片方の手に箒、もう一方の手にごみ袋を持ちながら、響子が向こう側から走ってくる。
ご主人様を目指すと言っていたが、まさかこういう類の間の悪さまで真似するつもりなのだろうか。
私がそんな事を考えていると、ご主人様が響子に声をかけた。
気のせいか、とてもうれしそうに笑いながら。
「ご苦労様、響子ちゃん。あなたが来てくれて本当に助かっていますよ」
「そんな、それは私も同じです。聖様が声をかけてくれたから、そして星様がいてくださったから、今も私はこうして元気でいられるんです。感謝しているのは私のほうですよ」
「ふふ、そうまで言ってもらっては何もしてあげないわけにはいきませんね。では、今日は私の仕事を教えてあげましょうか」
笑顔でそう言うご主人様。
それを聞いた瞬間、世界が遠のいていく気がした。
本来ならば、あり得ない発言だった。
言うまでもないことだが、響子は今僧侶として修業をするような立場にいるわけではない。仏門に入りこそしたが、いきなり寺の修業をさせるわけにはいかない。まずは掃除や炊き出しなどの細かな仕事、言うなれば雑用を任せ、少しずつ他の仕事や修業を教えていこう。彼女が彼女らしく成長していけるようにと、命蓮寺に受け入れる際に皆で話し合って決めたやり方がそれだ。
だから、ご主人様もその辺りはよく理解しているはず。ならば、いきなり代理の仕事を教えたりするべきでない事くらい分かっているはずなのだ。
それなのに、今ご主人様は自分の仕事を教えようと言った。もっと先に踏むべき段階があることくらい、ご主人様ほどの人物が見落とすはずがないのに。純真すぎる憧れが、彼女をそうまで狂わせているのか。
どうして、ご主人様はこんなにも響子を特別に思うのだろう。
普段の冷静さを欠いてまで、どうして響子に思いを寄せるのだろう。
もしも、ご主人様にとっての彼女が本当に特別な存在になっているのだとしたら。
ご主人様にとって、私はいったい何なのだろう。
私はずっと側にいた。監視役として寺へ行き、代理の補佐をし、二人きりになり。それからずっと、私はご主人様を懸命に支えてきたつもりだ。なのに、どうして――
――どうして、私にはそんな気持ちを見せてくれなかったのだろう。
なんだか、ご主人様を取られたような気がして。
今まで向けていてくれた眼差しが、別の方向に変わってしまったような気がして。
憤りでも、悲しみでもない。心が焦がれ、枯れ果てるギリギリの感覚が絶えず続く。
それが、妬みという感情なのだろう。
私の心は、いつしかその黒い感情に支配されていた。
いつもはうれしいはずのご主人様の微笑みを、直視出来ないくらいに。
気に入らないなら、壊してしまえばいい。
頭の片隅で、誰かがそう囁く。
それが正しい行いではないことくらいわかっている。
けれど、私には既にそれに抗う気力はなかった。
甘い囁きに、ただ身をまかせて。
呟くように、その言葉を吐き出す。
「それより、いい仕事がある」
口を衝いて出た、無感情な言葉。しかし、それでも二人の注意を引くのには十分だった。
不思議そうに首をかしげて、ご主人様が訊ねてくる。
「あの、ナズーリン? 仕事とはいったい、どういうことですか?」
「考えてもみてくれ。毘沙門天様の代理なんて、そう簡単に務まる仕事ではない。いくら響子が一生懸命努力したところで、今の彼女には不可能だろう」
「で、でも私、やる気ならあるよ!」
「それだけでは駄目だよ。代理を務める以上、信仰の拠り所になる心構えをしなくてはならない。一部だけとはいえそういう仕事を手伝うのだから、未熟と評さざるを得ない君に任せるのは危険すぎる」
「なるほど、確かにそうですね。では、その代わりとなる仕事とはなんです?」
「あなたの従者としての仕事さ、ご主人様」
「従者!? あの、それってどういう事をすればいいの?」
興味が湧いたのだろう、響子は目を輝かせて私に訊ねてくる。
しかし、何故私やぬえにはため口なのだろう。別に気に障りはしないが、なんとなく気にはなる。
「簡単に言えば、ご主人様の補佐をするだけだ。まあ、一口に補佐と言ってもやる事は様々だがね」
「ううんと、具体的にはどうすればいいのかな?」
「細々としたものが多いから、具体例は中々……だが安心してくれ。私が監督しつつやっていくつもりだから」
「あの、いいんですか、ナズーリン?」
「問題ないよ。響子も色々な仕事を知っておいたほうがいいだろうしね」
申し訳なさそうに言ってくるご主人様に、いつもと変わらぬ調子でそう答える。
嘘は言っていない。教える以上、手抜きはしない。もちろん、ご主人様のように甘やかすつもりも一切ない。
厳しすぎるくらいに教え込んで、もう二度と誰かに教わりたくないと思うようにしてやろう。そうすれば、自ずとご主人様に寄っていく時間も減るはずだ。
そんな思いを腹に抱えて、響子に不敵な笑みを浮かべる。
「そういうわけだが、どうする? 君がやりたいなら、今日にでも始めようと思うんだが」
「ぜ、ぜひお願いします! よーし、頑張るぞ!」
「頑張ってね、響子ちゃん。ナズーリン、あまり厳しくしては駄目ですよ?」
「まあ、適度にやるさ。それじゃあ響子、朝食の後に本堂裏に集合だ」
「は、はい!」
若干緊張の混じった声で響子が答える。
それを見ながら、私は笑みを浮かべた。
隣で微笑むご主人様のそれとは違う、悪意に満ちた微笑みを。
「それでは、よろしくお願いします!」
春の日差しが降り注ぐ、本堂裏の小部屋。御札や御守を保管しておく場所となっているその部屋に、元気のよすぎる声が響く。
広くはない空間に私達二人だけしかいないのだから、もう少し抑えたって罰は当たらないだろうに。そう思いつつも、仕方なく返事をする。
「ああ。早速だが、これを手伝ってもらおう」
そう言いながら、部屋の隅に積み上げられた札と袋の山を指差す。
隣にいた響子はそちらに視線を移した後、不思議そうに首を傾げつつ訊ねてくる。
「お札と袋? あれって、御守になるやつなの?」
「その通りだ。あの札は内符といって、ご主人様の法力が込められている。それを袋に詰めて御守を作るのを手伝ってほしいんだが、注意しておくことが一つある。ちょっと来てくれ」
そう言って響子を誘導しつつ、山の前に立つ。その中から適当に札と袋を取り出して、彼女に見せる。
「ここに文字が書いてあるだろう」
「うん。家内安全と身体健康……あれ? 別々なの?」
「それが注意点だ。実は昨日、分けて置いてあった札と袋をごちゃまぜにしてしまった者がいてね。本人は手伝うつもりだったらしいのだが、そのおかげで今はそれぞれの札と袋がバラバラにある状態なんだ。だから、入れる時によく確認してから入れてほしい。わかったね?」
「うん。それにしてもドジだね、ごちゃまぜにしちゃうなんて。星様やナズーリンはそういう事しなさそうだし……ああ、ぬえちゃんでしょ、やったの。悪戯好きそうだもんね」
「まあ、言うつもりはないが……意外な人物かもしれないね」
「えっ? 意外な人? 誰かなあ」
「さあ、そろそろ始めようか。口はいいから手と頭を動かしてくれよ?」
放っておくと長くなりそうだったので、私はわざと響子の独り言を遮るようにそう言った。
お喋りはもう終わりだということを分かってくれたのか、私が動くのとほぼ同時に彼女も札を手に取り、袋の山とにらめっこを始めた。
真面目な上に、行動も早い。やはり、響子はいい奴だな。ただ、純真さが思わぬ結果を招いている所以外は。
そんな事を思いつつ、微笑みを零す。
笑い出したくもなるさ。響子いびりその一は、既に始まっているのだから。
この作業自体は、はっきりいってまったく苦になることはない。ただ札と合致する袋を探して入れるだけだし、袋の山も昨夜二人で直したから今はもうほとんど混じり合っていない。
しかし、苦痛になってくるのはその工程の長さだ。札を取って、袋を探し、入れる。単純な作業だけに、飽きが来るのはかなり早い。実際、ぬえがこれをやらされた時は五分もしないうちに放り出したほどだ。さて、響子は投げ出さず最後までやり抜いてくれるだろうか。まあ、私はどちらでも構わないが。
そんな事を考えつつ、何気なく響子の方を見る。
懸命に動き続ける彼女の健気な姿を見て、私は思わず微笑んだ。
その時ばかりは、焦がれた心が少しだけ潤ったような気がした。
「終わったー!!」
小一時間後、響子がうれしそうにそう叫ぶ。その脇には、うず高く積まれた御守の山。どうやら、響子いびりその一は不発に終わったらしい。
しかし、何もそんなに大きな声で叫ばなくてもいいだろうに。そう思いつつ、達成感に浸る彼女を現実に連れ戻す。
「ご苦労様、と言いたいところだが生憎仕事はまだあるよ」
「そ、そうなの? よし、次も頑張ろっと!」
「そうだな……じゃあ、あれをやってもらおうか。響子、出来上がった御守をこれに詰めて、一緒に持ってきてくれ」
そう言いながら箱を渡しつつ、自分の作った分をもう一つの箱に詰める。
また元気な返事をして箱を受け取った響子が、私の真似をして詰め始める。
そうして全ての御守が詰め終わった頃、私は箱を抱えて立ち上がった。やはり真似をして立ち上がる響子に、わざとらしい口調で言う。
「さて、次は売り子をしてもらおう。失敗は許されないぞ」
「なるほど、売り子ね……売り子って何?」
「……よし、歩きながら説明しよう」
そう言って歩みを進めると、それに合わせて響子も歩き出す。
その一挙手一投足だけを見ても彼女の懸命さが伝わってくるようで、どこか複雑な気持ちになる。
けれども、ここで彼女に甘い顔をするわけにはいかない。認めたくはないが、私は今響子に嫉妬しているのだから。
私が慌てることはない。いつも通り、厳しくやればいい。そう自分に言い聞かせつつ、隣を歩く響子に言う。
「境内の脇に小屋があるのを知っているかい?」
「ああ、あの新しそうなやつね。あそこで何かするの?」
「あそこで御守を売ってもらう。参拝に来た者が人妖問わず買っていくからね」
「ああ、それで売り子ね。了解、まかせて!」
「意気込みは十分だな。ただ、くれぐれも値段や御守の種類、数を間違わないようにね。人々にお金を出して信仰を買ってもらうのと同義だから、失敗は許されないよ」
「はい!」
いつものように、いい返事が返ってくる。
もう慣れてしまったからなのか、何故かこの時はその返事がとても心地よいもののように感じられた。
本堂を出てほんの少し歩いた先。山門と本堂のちょうど中間あたりに、その小屋はある。参拝客が増えたため、一般的な御守を売るために最近作った建物だ。
脇から中へ入り、窓口に向かう。箱を下ろして一息吐きつつ隣を見ると、同じように汗を拭う響子の姿が見えた。
次に何をするのか聞きたそうに目を輝かせる彼女に、窓口のそばにある枠を指差しながら言う。
「そこに、それぞれ違う大きさの枠があるだろう?」
「えっと……ああ、これね」
「そこに予め御守を分けて置いておくといい。そうすれば、取り間違いなどの可能性は減るからね」
「なるほど。どんなふうに分ければいいかな?」
「そうだな……家内安全は少し幅があるから穴の大きい所に、身体健康は小さめだから小さい所に、といった感じかな」
「わかった、ありがとうナズーリン」
「礼には及ばないよ。それより、しっかりね」
「うん! ええと、これは大きいから……こっち。これは……」
独り言を呟きながら、響子は御守を並べる。その様子を横目で眺めて微笑みつつ、私も準備を始めた。
もちろん、笑みを浮かべたのには訳がある。これからやって来るであろう参拝客の集団を想像すると、笑いが止まらないのだ。そう、その集団への対応こそが、響子いびりその二である。
大抵の場合、御守を買う者は一度本堂にお参りしてからこの小屋へ寄る。つまり、横に並んだ窓口が二つあるこの小屋ではどうしても本堂に近い側が混みやすくなる。そしてもちろん、混みやすい方を担当するのが響子というわけだ。
一度にやって来る人の波、捌ききるには経験が物を言う。ほとんど毎日ここを担当している私ならまだしも、今日初めて売り子を経験する響子にそれが出来るとは思えない。その一は上手く乗り切ったようだが、今回はさすがに懲りるだろう。
そんな事を考えつつ、一人微笑む。
そうこうしているうちに、第一陣の姿が見え始めた。
田畑を耕したばかりなのか服に土を着けたままの青年に、寺子屋帰りらしい子供達。その少し後ろには暇つぶしに来たような妖精や、少し困った顔をしている妖怪の子供。
いつもの事ながら、実に人妖入り混じった集団だ。こんな風景が成り立つのも、ここ幻想郷だけだろう。
「こんにちはー!!」
人々の姿を眺めながら緩やかなひと時を楽しんでいると、不意に隣から元気のよすぎる挨拶が飛んできた。どうやら、彼女は初対面の相手には挨拶をしないと気が済まないらしい。
人々の反応も様々で、律儀にこちらを向いてお辞儀する者もいればただ黙って手を挙げる者もいた。けれど、私が見た限りではこの集団のほとんどの者が何らかの反応をしていたように思える。強制挨拶運動は、いつも寺にいるわけではない彼らにも既に浸透しているのか。
「声が小さーい! もう一度!」
「響子ちゃんみたいな大声は誰だって無理だよー!」
どこかで聞いたような台詞で調子に乗った響子に、本堂に向かって歩いていた子供が腕でバツ印を作りつつ答える。
なんと、名前まで知られているのか。少年のあの態度といい、あまり寺の者以外と接する機会はまだないと思っていたが、既にそこそこの知名度はあるらしい。
「家内安全の御守をいただけますか」
響子の意外な一面に驚いていると、隣の窓口で声が聞こえた。ついに、響子いびりその二の始動というわけだ。
この日最初の購入者は初老の男性。詳しい家庭事情は分からないが、一家を預かる者としての行動なのだろう。
響子にとって、初めての客。無事に渡してやれるだろうか。そんな事を思いつつ眺めていると、彼女は笑顔を浮かべてすぐに御守を手に取り――
――急にこちらを向いて訊ねた。
「値段、いくらだったっけ?」
「……え?」
言葉が出てこなかった。
値段を伝え忘れるというあり得ないミスを自分が犯したという事実を、受け止めきれなかったのだ。
「値段だよ! 家内安全の御守っていくらだったっけ?」
急かすように言う響子の言葉に、凍りついた頭がやっと動き出す。
「す、すまない。十文だ」
「ありがとう! お待たせしました、十文になります」
「十文ね……はい」
「ええと……ちょうどいただきます。ありがとうございました!」
「いえいえ、こちらこそありがとう」
そう言って男性は山門の方へと歩いていく。それを見送る響子は本当にうれしそうだ。
そんな彼女とは対照的に、私の心は揺れに揺れていた。
何故、こんなミスを犯してしまったのだろう。
確かに、私は響子を失敗させようとしていた。けれど、あくまでそれは普通に仕事をさせた上での話だ。やり方を教えなかったり、違う方法を教えたりといった方法を取ってまで、彼女を陥れようとしていたわけではない。
けれども、私が今取ってしまった行動はそれとほとんど同じだ。つまり、過失とはいえ私は響子を汚いやり方で陥れようとしたことになる。
それが、本当に私のしたかったことなのか。
私はただ、ご主人様を響子に取られてしまうのが嫌だと思っただけだ。響子自身のことは認めているし、これからも頑張ってほしいと思っている。だから、彼女を妬む気持ちはあっても彼女を強く恨むような感情はなかったはずだ。
けれども、今私は確かに響子を陥れかけた。汚いやり方で、彼女を困らせようとした。幽谷響子という新入りを、私はひどい手を使って爪弾きにするところだったのだ。
そんなの、私が望んだ事じゃない。こんなに素直で純真で、真面目で意欲のある少女にそんな扱いをするくらいなら、初めからこんな事はしないほうがましだ。
響子に謝ろう。不純な動機で仕事に誘い、迷惑までかけたんだ。ちゃんと謝って、それからご主人様の話をしよう。全てはそれからだ。
「ナズーリン、ねえ、ナズーリン!」
響子の大声で我に返ると、彼女の窓口の前には行列が並んでいた。
どのくらい待たせてしまったのか、その数は一人や二人ではない。
さすがに苛立つ者はいないようだが、待たせているのがいいわけはない。
この人数は、さすがに無理だ。そう素早く判断すると、椅子から立ち上がりながら響子に言う。
「響子、代わるよ。こちらにも買いに来るお客様がいらっしゃるだろうから頼む。値段は、そこの紙に書いてあるから」
「で、でも、その紙って一枚しかないんじゃないの?」
「大丈夫、この程度覚えているさ。さあ、どいたどいた」
そう言って背中を押しながら、無理やりどかすようにして席を替える。目の前で待つ年配の女性にお辞儀をして、出来る限り丁寧な口調で言う。
「すみません。こちらの者は初めてここを担当するのですが、私の指導が足りずご迷惑をお掛けしました。全て私の責任ですので、どうかこの者は責めないでやってください」
「あら、いいのよそんなに謝らなくて。初めてじゃうまく出来ないのも仕方ないわ、誰のせいでもないんだから。それじゃあ、安産祈願をいただけるかしら。娘が臨月でね、少しでもご利益があるようにと思ったんだけど」
「それはおめでとうございます。我が主が法力と真心を込めておりますので、きっと元気なお孫さんがお生まれになりますよ。それではこちら、十文になります」
いつもの調子、いつもの台詞回し。相手に合わせた手際重視の話術で、人の波を着実に捌いていく。
隣から熱心に向けられる、響子の視線をひしひしと感じながら。
時間にして二、三分ほど経っただろうか。
溜まってしまっていた客の列も、今はすっかり無くなった。こうなれば、もう午前中ここに寄る者は少なくなる。一応待機はしておくが、実質この仕事は終わりというわけだ。
「ふう、これで午前は終わったようなものか。すまなかったな響子、ちゃんと教えることができなくて」
隣に視線を移しつつ、そう切り出す。
視線の先にいる響子は、何故か興奮しているように見えた。
「そんなことないよ! 私、すっごく勉強になったもん!」
息を荒げる響子。元々よくわからない部分はあったが、これではますます訳がわからない。
思わず眉を寄せると、少し息を整えた後で今度は彼女が口を開いた。
「今日はありがとうね、ナズーリン」
「な? 何故、礼なんて言うんだ?」
「だって、教えてくれたじゃない。ただがむしゃらに頑張ろうとしても意味がない時もあるって」
「どういう意味だい」
「私、今までずっとがむしゃらにやって来たんだ。どんな事にも全力投球、何がなんでも正面突破ってね。だけどさ、それじゃうまくいかない時もあるんだよね。寺の仕事って言っても、いろんな種類がある。今の私に出来るものなんて、やっぱりまだ少ししかない。難しい仕事や、特別な仕事。まだまだ知らないことがいっぱいある。だから、今私がすべきことは目の前の一歩を着実に歩んでいくこと。いきなり星様の仕事を教えてもらったりするのは、まだまだ早い。それを教えるために、わざわざ難しい仕事をやらせたり、その手本を見せてくれたりしたんでしょ?」
そう言って微笑んでみせる響子。
どこまでもお人よしで、どこまでも素直で。まるで、あの方を見ているみたいだ。
どこに、私がそんないい奴だと判断できる要素があった。
私は君らみたいにお人よしじゃないんだよ。相手を疑わずに全て受け入れられるほど、大きな器じゃないんだよ。
君らみたいに、綺麗な心の持ち主じゃないんだよ。
こみ上げる想いが、私の口からあふれ出す。
「……君は、本気でそう思っているのかい?」
「え? ええと、うん」
「難しい仕事をやらせたのは、私が意地悪をしようとしたからだ。そう思いはしないのかい?」
「思わないなあ。だって、ナズーリンがそんな事する理由がないもん」
「どうしてだっ!!」
誰もいなくなった境内に、私の声が響く。
いつもなら喜んで騒ぎ出すはずの響子も、目を丸くして驚いていた。
彼女に向けていた視線が、少しずつ下がっていく。だんだんとぼやけていく視界の中で、私は言葉を紡ぎ出す。
「なあ、響子……どうして君は、そんなにいい奴なんだ? なのにどうして、私は君を妬まなければならなかったんだ?」
「え? 何、話が見えないよナズーリン」
「私はね、響子。君を陥れようとしてしまったんだよ。ご主人様に気に入られた君のことを、私は妬んでしまった。嫉妬の炎に包まれ、君に仕事を教えるふりをして失敗に誘導し、二度と君が仕事を教わりたいと言い出さないようにしようと考えた。そうすれば、ご主人様の気持ちも変わると思ったんだ。私は、そういう奴だ。君が私をどう評しようとも、それに変わりはない。だから……君に礼を言われる資格なんてないのさ。寧ろ、蔑まれるべきだ。醜い私を、責めてほしい。そうでもしないと、そんな笑顔を見せられると、辛くてたまらないんだ」
響子の反応を待たずに、そう一気に告げる。
頬を流れる雫が、やけに冷たい。
尤も、こんな奴の涙なら冷たいのも当然か。
そんな事を考え、ただ俯く。
申し訳なさで上げられない顔を押さえても、涙は止まらなかった。
「でもさ」
優しい声とともに、手が差し伸べられる。
震える手に触れた彼女の手は、あまりに温かかった。
「どんな理由があったとしても、さっきナズーリンは私を助けてくれたでしょ?」
思わず、顔を上げる。
はっきりとは見えないけれど。
涙で霞んだ視界の中の響子は、確かに優しい微笑みを浮かべていた。
「私を妬んだり、陥れようとしたのが事実だっていうけどさ、そんなふうに思ってる中でもナズーリンは私を助けてくれたわけじゃん。そんな人のことを、醜いとか嫌な奴だとか言うのは間違ってると思うけどな」
目がぼやけたままだからだろうか。
私の手を握る響子の姿に、ご主人様が重なって見えたような気がしたのは。
「……責めないのか? 私が悪いことには変わりないんだぞ」
「だから、言ってるでしょ。私にはナズーリンがそんな悪い奴に思えないんだってば。まあ、いい奴だとも思ってないけどね」
そう言って悪戯っぽい笑みを浮かべる響子。なんだか、ますます二人がだぶって見えてくる。
再び彼女を心の片隅で妬ましく思いつつも、私は頬の雫を拭った。
どこまでもお人よしで馬鹿で純真な、この素晴らしき仲間の想いに応えるために。
「……どうやら、君には勝てそうにないな」
「あら、やっとわかった? その調子で星様の従者の座も譲ってくれないかなー」
「それは無理だね。いかに君が気に入られようと、私達が乗り切ってきた数百年の重みには勝てないよ」
「ふん、まあいいけどさ。それより、そろそろお昼だよね? もう仕事切り上げてもいいんじゃない?」
「そうだな。もう参拝客はこないだろうし、ここにいる必要はないか。ところで響子、午後はどうする? 午後はまた別な仕事があるから、勉強にはなると思う。まあ、君がやりたいと言うのなら、教えてやってもいいんだが?」
「言ったじゃん、もう無理はしないって。星様の従者の仕事だって、やっぱり私にはまだ早いよ。……まあ、一輪さんや村紗さんが忙しかったら、付き合ってあげてもいいけど?」
そう言って澄ましてみせる響子。彼女のそんな顔がおかしくてつい笑ってしまうと、彼女もつられて笑い出す。
なんだか、随分神経質になっていたようだ。
ご主人様と私の関係は、ご主人様と響子の関係とは違う。だから、本来両者は比べられるものではなかった。
私と響子とでは、スタート位置もゴールも違う。私達にはそれぞれ私達なりのルートがあり、私達なりの絆がそこに確かにある。
それだけで、本当はよかったのだ。ご主人様だって、私に向ける想いと響子に向ける想いとでは違いがあるだろう。
どちらがいいとか、悪いとかではない。私はただ、尽くすべき対象として。響子はただ、憧れの対象として。私達はただ、自分の信じる道を行けばいい。どうして、こうなるまでそれに気付かなかったのだろう。今となっては、本当にそれが不思議でならない。
私の進む道と、響子の進む道。両者はともにご主人様に帰結するように見えるが、実際は決して交差することのない不思議な直線だった。ならば、もう妬みなんて感情は要らない。互いに高め合い、上を目指そう。それが私達にとって、最も意義のある生き方ではないだろうか。
「考え事?」
親しげな口調で、響子が訊ねる。
「まあね」
「何、教えてよ」
「君に話す義理はないだろう」
「だーめ、気になる」
「仕方ないな……まあ、君はいいライバルになりそうだと思っていただけだよ」
「ほう、言うじゃん。その言葉、そっくりそのまま返させてもらうよ」
「ふふ、君らしいね。さて、そろそろ行こうか」
そう言いながら、椅子から立ち上がる。うん、と軽く返事をしつつ私に続く響子とともに、境内を進む。
なんとなく癪だが、きっと彼女のような奴を親友と言うのだろう。
互いに高め合いながら、冗談も真面目な話も出来る存在。そんな相手はご主人様以外にいなかったからとても新鮮な気分だ。気に入らない所は多々あるが、こんな奴とならうまくやっていけそうな気がする。
そんな事を考えつつ、歩みを進める。
春の日差しに包まれた、桜の舞い散る境内を行く。
初めて出会った、親友と呼べる人物。真面目で純真で、どうしようもないくらい馬鹿なそいつは、私が初めて心から嫉妬した相手だった。
もしかして新作の奴でこの作品が一番最初?
挨拶するたび、組合せが増えるね!
製品版が待ち遠しいですね。
ナズーリンとの密かな確執がおもしろかったです。
ナズはいつもクールに格好良くいて欲しい。