珍しい花が咲いたから見に来ないか、と彼女は言った。
天気の良い日だった。
実に天気は良かったし、うだるように暑かった。
昨日まで数日続いた雨をたらふく飲み込んだ土は、強烈な陽射しに焼かれて焼かれて焼きまくられて、そこここでゆらゆらと陽炎を吐き出していた。
彼女の持つ日傘が作る陰は濃くて、水蒸気の向こうでくにゃりくにゃり揺れているその姿が現実離れして嘘臭かった。
私は正直億劫だったし、彼女の誘いに乗るだなんて事は大嫌いだったので、断る理由は二つもあったのだ。
それで私は、そうね、と答えて椅子から腰を上げた。
我ながら難儀な天邪鬼だと思う。
傘を傾けた彼女が、少し、笑った。
思惑通りなのだろうと思うと癪だが、不愉快な笑いではなかった。
早速参りましょう、と言って彼女は扉を開く真似事をする。
そうして現れた空間の裂け目へと、手招きされるがままに身を躍らせて、太陽の畑を後にした。
得体の知れない空間を訳の分からない方向へ流れて行く。
そうまでして自分の住処を知られたくないという心情は、私には縁が無くてよくわからない。
「どんな花なの」
「白い花よ」
「それで」
「葉は緑よ」
「大抵葉は緑ね」
「いい香りがするわ」
「別段普通ね」
「珍しい花よ」
「確かに珍しい花なんでしょうね」
「珍しい花よ」
いつの間にか彼女の家の前にいた。
ここへ来たのは片手で数える程で、前回来たのがまた千年以上も昔になるはずだが、まるで様子は変わっていないと思う。
変わったと言えば、玄関で私達を出迎えた狐くらいのものだ。
「こんにちは、仔狐ちゃん」
狐は、ようこそいらっしゃいました、と柔和な笑みを崩さなかった。
全くもって可愛げが無い。
それで、私は主にそう言ってやると、大いに賛同するわ、との事。
花は中庭に咲いたと言う。
庭に面した縁側には既に席が誂えてあって、優美にそこへと私達を案内した狐は、優美に茶の準備を済ませ、優美に辞した。
すごく良いお茶の葉が手に入ったのよ、と薦められて茶を啜るとなるほど大変に美味であった。
庭に目をやると、確かに丁度正面に一輪の白い花が咲いていた。
やや背の高いそれは、時折の風に小刻みに揺れている。
特に何の変哲も無いその花は、しかし間違いなく珍しいものであるらしく、今まで見た事が無かった。
とりたてて目を留めるような特徴も無く、ともすれば普通に見過ごしてしまいそう。
逆に言えば、この花を見て珍しいものと判断できるのは、自然、相当に造詣の深い者に限られるはずなのである。
「貴女ってそんなに花に詳しかったかしら」
「お花は好きよ」
「そろそろ種明かしをしなさい」
「まさしく種を明かすと、その花の種は月で拾って来たのよ」
「月?」
「千年以上も昔になるかしら、月で拾った種を私がそこへ埋めたの」
芽が出て花が咲くまで千年もかかるなんて流石に月人は気が長いのね、と彼女は笑った。
私は随分と昔の、埃のかぶった記憶を引っ張り出す。
天気の良い日だった。
やはり実に天気は良かったし、うだるように暑かった。
そう、てんで今日と同じ調子で彼女はやって来て、言った。
月を侵略しに行かないか、と。
勿論私は億劫だったし、彼女の誘いに乗るだなんて事は大嫌いだった。
おまけに何故そんな事をするのか、と訊ねても彼女は頑として答えなかったので、断る理由は三つもあったのだ。
負に負を乗じて、さらに負を乗じれば、負だ。
それで私は、嫌よ、と答えて椅子から腰を上げなかった。
その時も彼女は、傘を傾けて少し笑ったように思う。
それから喧嘩になった。
彼女は酷く私を詰って、傘で殴り、素手で殴り、私の腎臓を吹き飛ばしたり肺を潰したりした。
沢山の花達が巻き添えに蹂躙されたものだから私も頭にきて、傘で殴り、素手で殴り、彼女の腕を折ったり顎を砕いたりした。
五、六回は泣かしたが、同じぐらい泣かされた。
滅茶苦茶に暴れて、最後の方は涙と鼻水と血液でくしゃくしゃになりながら、妙に可笑しくなってきて大笑いしていた。
彼女も見るに耐えない醜い泣き笑いで私を殴るので、それがまた笑えた。
結局、勝負は付かなかった。
疲労困憊の彼女は、もういいわ、と言って倒れ込むように空間の裂け目へと潜って帰って行った。
私もくたくたに疲れたので、惨い有様の花畑に大の字に転がって、泥だらけのまま眠ってしまった。
月ではこれでもかと言う程ボロ負けしたと噂に聞いた。
私は、彼女が恨み言の一つでも言いに現れるかと思ったけれど、ついに彼女は来なかった。
なんとなく、面白くは無かった。
何故彼女が月を攻めよう等と考えたのかはどうしても分からなかった。
今でも分からない。
「教えて差し上げましょうか」
「千年目の真実ね」
「理由は三つあったの」
「一つ目は」
「貴女と喧嘩する為よ」
「二つ目は」
「花の種を拾って来る為よ」
「三つ目は」
「この花が咲いた時に、貴女と仲直りをする為よ」
全く意味が分からなかった。
彼女は手を叩いて狐を呼ぶと、熱い茶のおかわりを所望した。
私は、相変わらずあんたって訳が分からないわね、とそれに倣って自分の湯呑みを差し出した。
一回喧嘩をしなくちゃ、仲直りって出来ないでしょう、と澄まして彼女は言った。
風に揺れる月の花を眺めながら、もう本当に馬鹿馬鹿しくなって私は声を上げて笑った。
そうやって笑ったのは、やはり千年振りの事だった。
仲直りの印としてはなかなか良いでしょうあの花は綺麗で、と彼女が言うので、私は、悪くないわ、と答えた。
淹れ直した熱い茶を狐から受け取ると、彼女はそれを私の顔にぶちまけた。
それから、私の髪を引っ掴むと思い切り縁側に私の顔面を叩き付けた。
派手な音を立てて木片を撒き散らしながら縁側は崩壊し、私は湿った地面に這いつくばった。
一回仲直りをしなくちゃ、喧嘩って出来ないでしょう、と澄まして彼女は言った。
私は、上等よ、と答えて起き上がりざまその澄まし顔に思い切り拳をねじ込んでやった。
日が沈み、月が高く昇るまで存分に喧嘩をした。
私は彼女の腕だの足だのを十回余りも折りに折って、関節を増やしてやったので彼女は泣いて喜んでいた。
彼女は私の臓物を片端から撒き散らして、ダイエットに協力してくれたので私も泣いて喜んだ。
殴って、殴られて、泣いて、笑って、殴って、殴られた。
いっぱい叫んだ、腹の底から叫んだ。
もうすっからかんの空っぽになるまで、自分の何もかもを吐き出してしまった。
結局、また勝負は付かなかった。
彼女の家は巻き添えに半分がた壊れて、慎ましく私達を迎える狐には悪い事をしたと思うが、狐はやはり柔和な笑みを崩さなかった。
疲労困憊の彼女は、もうギブアップよ、と言って這いずる様にして大して被害の無かった自室へ潜り込んだ。
私もくたくたに疲れたので、荒れ果てた庭に大の字に転がった。
地面に横たえた頭の脇で、月の花は折れてしまっていた。
いずれにせよ、彼女がいなければここからは帰れないのだから、私は重くなる目蓋に逆らうつもりはなかった。
いつの間にやら傍にしゃがみ込んだ狐が、お部屋と寝具をご準備しましょうか、と穏やかに申し出てくれたが、声を出すのも面倒で手だけ振って断った。
それだけでは流石にあんまりだと思ったので、仔狐ちゃんのおうち、壊しちゃってごめんなさいね、と言っておいた。
狐は、今更、とひとしきり笑った後、私は本当にお二人の事が羨ましいのです、と言い残して立ち上がり、屋内へと姿を消した。
天頂、私の真上に大きな月が浮かんでいる。
天気の良い夜だった。
月、月、月ねえ、と意味も無く口の中で呟いて、しばらくそうやって私は月を睨んだ。
それから、折れてしまった月の花の花弁をちぎって、口の中に放り込んだ。
咀嚼する元気は無かった。
そうして、私は目を閉じた。
目蓋の裏で、傘を傾けて少し笑う彼女に唾を吐きかけてから、私の意識は泥の中へと沈んでいった。
100が上限なのが恨めしいです
妖怪の友情ってこんなものかも知れませんね。
勘違いが解けてみれば至極納得。
大変良い話でした。
容赦無い喧嘩で友情を確かめ合う二人の漢っぷりに、心が揺れました。
そもそも、人間には理解できないものが妖怪なのかもしれませんが。
この作品に出会えて私は幸せだと思う。
再び月に挑んだとしたら、お互いの背中を預けて戦う二人の姿が思い浮かぶ。
そんなに喧嘩したいだなんて妖怪さんは激しいですな
夕日をバックに川原で殴り合いなんてチャチなもんじゃねぇ友情モノで胸熱でした。
青茄子さんのセンスが好きです。次作もお待ちしてます。
関係ありませんが、青茄子さんの文は無言坂さんに似ている気がする。お二方とも好きですけど。
妖怪としても頭おかしいだろってぐらい妖怪してる二人が素敵です。それを微笑みで羨む藍さまも。
やってることはけっこう怖いことなのに、不思議と悪く感じないのはすごい