0.
ゆらゆらと焔が揺れる。
熱く身を焦がすような、竹林に這い蹲る紅い炎は、けれど私を焼くことも殺すこともない。
ゆらゆらと焔が揺れる。
数時間前までは辺り一面を焼き尽くそうとしていたその火は既に勢いを失い、今はただ、必死にその形を残そうと惨めに蠢いている。
ゆらゆらと焔が揺れる。
私は、その自らの半身とも言えるその火を、地べたに横たわりながらじっと見つめていた。
ゆらゆらと焔が揺れる。
身体中が痛む。既に体の方は元通り復元したが、立ち上がるにはまだ時間がかかりそうだ。
ゆらゆらと焔が揺れる。
今妖怪に襲われたらどうなるんだろうなと、ふと考えた。けれどその心配も杞憂なのだということにもすぐ気がついた。
この竹林に住む妖怪どもは、私とあいつの殺し合いをを見てきたせいか、めっきり私に襲い掛かってくることは無くなった。
普段は低脳な妖怪も、並大抵な力では私には敵わないという事を悟ったのだろう。
ゆらゆらと焔が揺れる。
そのおかげで最近は負け戦が続いていた。少し前なら勝てる時もあったのだが、ここのところはめっきりである。私が弱くなったのか、あいつが強くなったのか。
どちらにせよ、やり場の無い苛立ちは募る一方だった。
ゆらゆらと焔が揺れる。
その焔を、誰かが見たら、きっと哀しいと感じただろう。
やがて炎は消え、周囲の竹林はしんと静まり返る。
風一つ無い静かな日だった。未だ熱気の篭る竹やぶの中、私一人が地面に仰向けで倒れていた。
段々と痛みも消えていく。かつて飲んだ蓬莱の薬、不老不死の力の影響だ。おかげで私は老いることも死ぬこともなく、永遠に生き続けることが出来る。
遥か昔――今は昔と物語のように語られるほど遠い昔から、私、藤原妹紅(ふじわらのもこう)は現代まで生きてきた。
既に立ち上がろうと思えば立ち上がれるほどまでに体は回復している。
けれど、どういうわけか立ち上がろうという気にはなれないでいた。このまま妖怪に食べられたっていい気すらしていた(もっとも本当にそうなったら自らの炎で消し炭にしてしまうのだろうが)
要するに、立ち上がるだけの気力が無くなってしまっていたのだ。
私はここ最近の負け続けの成績に少しばかり落ち込んでいた。それもそのはず。唯一の生きがい――私と同じく不老不死の蓬莱山輝夜(ほうらいさんかぐや)との殺し合いさえも満足に出来てはいないというのだから。
お互いに死ぬことが無い、だからこそ繰り返される殺す事と殺される事。
その不毛な行為にいい加減嫌気がさして、知らず知らずのうちに手を抜いてしまっているか。はたまたあまりに永く戦いすぎて緊張感が無くなってきてしまっているのか。
あるいは、長い年月の末に何かを忘れてしまったのか。
どちらにせよ、ただ一つ言えることは、今の私では輝夜に勝てないということだった。
時は夕焼けを通り過ぎて夜になっていた。唯一の明かりであった火を失った今となっては、人里離れた迷いの竹林に明かりとなるものは何も無い。ただ在るのは幽かな深遠(しんえん)の星の光だけで、今日はそれさえもいつもより遠くにある。
けれど、竹林には温かな光が満ちていた。
どうしてだろう、と思いもう一度よく水面に写ったかのような夜空を覗き込む。するとなんてことはない理由がそこにはあった。
ああ、そうか。
「今宵は満月なのか」
ぽつりと解き放たれる独り言。
誰も聞くこと無く、誰にも気付かれること無く、炎のようにただ夜の闇に飲まれて消えていくだけ。
そう思っていた。
「ずっと空を見上げていながら、そんなことにも気付かれなかったのか」
淡々たる夜の中からふと聞こえてきた、一抹の声。
その瞬間私は自身の体を跳ね飛ばし臨戦態勢に入った。妖怪か、人間か。どちらにせよこんな夜にこの竹林にいるということは、まともじゃないということだ。
こんな近くに来るまで気付かないとは迂闊だった。気が緩んでいたせいだろうか。いずれにせよ関係ない。殺してしまえばいいだけなのだ。いつもの通り、私の炎で。
声をかけてきたにも関わらずそいつは、一向に姿を現そうとはしなかった。気配で場所は感じ取れるのだが、深い竹やぶの中では月明かりは遠く姿までは見えない。かといって正体も分からない相手に自らの手を見せるのは危険である。
「誰だ!人間か、妖怪かっ!」
無駄だとは思いつつも叫び声を挙げた。張り詰めた空気を怒号が打ち破る。
しかし意外なことに、彼女は私の声に応じた。よく通る透き通った声だった。
「あいにくだが、私はそのどちらでもない」
そして、白々たる月明かりの元にその姿を曝け出した。
緑混じる白き長い髪をしたその女は。
頭に無骨な二本の角を生やしたその女は。
私に怯えることなく、蔑むこともなく、凛とした姿で堂々とそこに立っていた。
「私は獣人だ。――そして出来れば、そんな怖い顔をしないでくれないか?私はあなたと争う気は無い」
永遠という時の、一瞬の狭間。刹那にも満たない、 ほんの少しの時間のことだった。
ほのかな満月の明かりに照らされて、人知らぬ迷いの竹林に映し出される彼女の姿。
それを私は、女の私でさえ、これまで生きてきたどの歴史の中よりも、綺麗だと思った。
――それが、私と上白沢慧音の出会いだった――
1.
しばらくの間、私は何も語ることなく彼女を睨みつけていた。
彼女は言った。あなたと争う気は無いと。けれどそれが嘘で無いという保証はどこにもない。
それに、ならば何故私の元に姿を現したのだろうか? 妖怪が住む夜の竹林にいる人間に、どうして話しかけようとなど思うのか?
迷い人と思ったのか? いやそんなはずはない。彼女は私がずっと空を見上げていたことを知っていた。ならば同時に見ていたはずだ。死者同然の怪我を負っていた私の傷が、見る見るうちに修復されていく、人ならざらぬ姿も。
そんな人間を、誰が助けようなどと思う。
しかし彼女は私の殺意を込めた眼差しを、恐怖することもなく、じっと見つめ返していた。その瞳は、久しく見ることが無かった人間らしい瞳だった。
「……獣人、と言ったな」
先に折れたのは私だった。このまま睨んでいても、 きっと彼女は逃げることも話しかけることもしないのだろう。
「もう半分は白沢(ハクタク)か?お前ほどの妖怪が何の用だ」
すると彼女は、その言葉に驚いたかのように目を見開いた。
「そうか、私がわかるのか」
「……伊達に長く生きてるわけじゃないんからね」
白沢――中国に伝わる、人語を解し、森羅万象に通じる聖獣。かつて中国の王が邪鬼悪神について尋ねると一万千五百二十種についていちいち語っただとか。
とはいえ彼女は獣人であるのだから、おそらくは人間の里に住んでいるのだろう。しかしそんな者が、夜の竹林を訪れる理由もなかろうに。
私がそう訝しげに思っていると、彼女はああと気付いたように口を開いた。
「そういえば自己紹介がまだだったな。私は上白沢慧音、人間の里で寺小屋の教師をしている」
それは私の質問の答えではなかった。
「お前聞いていたのか? 私はお前が何をしに来たのかと……」
「こちらが名を名乗ったのだから、そっちも名乗るのが礼儀ではないか?」
少しむっときた。なら質問をきちんと答えるのも礼儀ではないのか。
しかし彼女の言うことももっともなような気がしたので――なんだか洗脳されてしまったような気分だったが――私は名を名乗ることにした。
「私は妹紅。人間の藤原妹紅だ」
「うむ、いい名ではないか」
なんだか見当違いのことを言ってくれる。
私は思わずため息をついてしまった。どうにもおかしい奴だ。それとも人間は元々そういうおかしさを持つものだったか。
しかしいつの間にか、私の中の毒気は完全に抜かれてしまっていた。
「もういーよ……、それで、上白沢慧音さんが何の用なの?」
すると彼女ははっと思い出したかのような表情を浮かべた。
「そうだそうだ、すっかり忘れていた」
ぽりぽりと少し恥ずかしそうに頭をかいていた。真面目そうなんだがどこか抜けている奴だった。
彼女は表情を改めてこちらの方を向いた。月明かりのように白い髪がなびく。
そして、大真面目な顔をして、大真面目な声色で、大真面目に大真面目なことを言った。
「私と、友達になってはくれないか?」
大真面目なだけに、アホらしく恥ずかしいことだった。
「あんたさぁー……」
思わず手で自分の頭をくしゃくしゃとかきむしった。
「どーしてそういう話になるのさ!」
しかし彼女は動じない。
「妹紅、お前と友達になりたいと思ったからだ」
彼女はさも当然のごとくそう答えた。
それは単純明快な答えだったが、私が聞きたいのはそんなことではない。
「そういうことじゃない。つまりは……どうしてこんな辺鄙な竹林で!ウサギも寝静まる時刻に!死にかけていた人間なんかと友達になりたいだなんて思うんだ!!」
真っ当な考えじゃない。
竹林を燃やし尽くさんばかりの妖術を操る人間。
妖怪からも恐れられるほどの力を持った人間。
死に至るほどの傷を負いながら、簡単にそんな状態から蘇っていく人間。
そんな――そんな化物と、誰が友達になろうとなんて馬鹿なことを考えるのだろうか。
しかし彼女は、そんな私のことなど気にも留めず、あっけらかんと私にこう問いかけた。
「誰かと友達になろうと思うことに、理由なんているのか?」
その言葉に、私はぐうの音も出ないほど叩きのめされてしまった。
正確に言うならば、呆れ返ってしまったのだ。
「もういいよ……」
その言葉に何と答えようか迷った私は、結局こいつをこの場で収めようとすることにした。
「では、友達になってくれるのか?」
嬉しそうに身を乗り出してきた。なんというか、無邪気だ。
「ああ、もう友達でもなんでもいいから今日は帰ってくれ」
面倒くさくなった私はしっしと手で振り払いながらそう告げた。
「分かった。それなら今日は帰ろう」
私の答えに満足げな笑みを浮かべた彼女は。
「また明日だな、妹紅」
その笑顔を絶やすことなく、迷いの竹林の夜深くへと去っていった。
しばらくの間、私はその後ろ姿の面影をじっと眺めていた。
満月もじきに沈む。古き一日は終わり、また新しい一日が巡りまわる。
――また明日、と上白沢慧音は言った。
けれど、彼女が再びここに来ることは無いだろう。 少なくとも私はそう考えた。
また明日、また明日。
気が遠くなるほどの「また明日」を辿ってきて、今の私はここにいる。
それでも、その一日として、私が望んだ「また明日」が訪れたことは無かったのだから。
2.
夜の竹林。
日が沈んでから、未だ間もない。
今日は輝夜が殺しに来ることも無かった。私から殺しに行く気にもなれなかった。そんなわけで今日は一日竹林のそばを流れる川で釣りをして時間をつぶしていた。おかげで今日は大量である。
「これだけ釣れるなんて、今日はついてたな」
嬉々として帰り道を歩いていた。この魚をどうやって食べようか。塩焼きにしようか、余ったものは干物にでもするか。そんな呑気なことを考えながら、家への道を辿っていた。
家の前にたたずむ、一つの人影を見つけるまでは。
「遅かったじゃないか、妹紅」
竹やぶの中に響く声。
私は思わずため息をついた。
上白沢慧音は本当に「また明日」私に会いにきたのだ。
とりあえず彼女を家の中へと上がらせた。帰らせようかとも思ったのだが、なんとなく彼女は言うことを聞いてはくれないだろうと思ったのだ。
昨日とは違い彼女の頭には違い角が生えてなかった。おそらくは満月の日だけ妖獣になる種類の半獣なのだろう。狼男なんかと同じように。
彼女は玄関に上がると「おじゃまします」と言いきちんと靴の向きをそろえて入った。
「つまらない物だが、これを」
そう言って彼女は手荷物の中から箱のようなものを取り出した。中を見てみると、どうやら人間の里で買ったらしい金色のカステラが入っていた。
「これはたいそうな物を、どうも」
普段なかなか人間の里を訪れることが出来ない私にとっては貴重なものだった。
「夕の食事は済ませた?」
「いや、まだだ」
「なら食べてくといい。今日は活きのいい鮎が釣れたんだ」
しかしカステラ一つで懐柔される私もどうかと思った。
そうと決めれば早速私も調理に取り掛かった。まずは鮎にたっぷりと塩を塗ってそれから焼いて……。
「そういうことなら、私にも手伝わせてくれないか?」
すると突然、何を思ったか彼女はそんなことを言い出した。
「何言ってるんだ、お前はお客さんじゃないか」
「元々そのつもりで来たんだ」
そう言うと荷物の中から食材を並べ始めた。人参、ジャガイモ、玉葱、豚肉……。
「……通い妻にでもなる気?」
「通うのは夫の役目であろう」
あっさりと彼女はそう言った。
数十分後、食卓に並んだのは鮎の塩焼きとご飯に得体の知れない茶色い物をかけた物だった。
「……これはなに?」
私はその不気味な茶色い物を指差しながら尋ねてみた。
「なんだ、知らないのか。これは『カレー』というものだ」
すると逆に驚いたような顔をされた。そんなこと言われたって知らないものは知らない。
「そうか。カレーは母の味というのだが、発祥はインドで……」
「何でもいいけど、これ食べられるの?」
長くなりそうな説明をさえぎり、私はとりあえずの疑問を口に出した。
薬味のような独特の臭いが漂う茶色い物体。
まさかここにある以上食事以外のものではないだろうけど、それにしたってこれを「さあ食え」と言われて素直に口に運べるような代物ではない。
「さあ、存分に味わって食え」
しかし目の前の彼女はそれを強いるスパルタなお方のようだった。
「……いただきます」
腹をくくった私は、皿に備えられた「すぷぅん」を手に取り、恐る恐る「かれぃ」というものをすくった。
「……」
「遠慮すること無いんだぞ? まだまだおかわりはたっぷり残っているからな」
じっと、私の感想を期待するような眼差しで見つめられて、それを拒否する方法を私は知らない。
いくらなんでも食事で死ぬことはあるまい……などと私にしては阿呆らしいことを考えながら、思い切って口の中にそれを突っ込んだ。
よく噛み、舌で味わい、ゆっくりと飲み込む。
そして――――
「……美味い」
不思議なことに、私はその茶色い「かれぃ」を美味しいと感じていた。
「美味い!美味いぞっ!この『かれぃ』というやつはなんと美味いんだ!」
その驚きと感動のあまり思わずいつの間にか立ち上がりながらそう叫んでいた。
すると彼女はほっとしたような表情を浮かべながら、たしなめるように私に教えた。
「妹紅、『かれぃ』じゃない、『カレー』だ。かれぃだと魚になってしまうからな」
「そうか、カレーというのかこれは!こんなに美味いもの初めて食べた!」
竹林に篭る千年もの年月の間にこんなに美味いものが作り出されていたのか。なるほど、それは人がいつまで経っても滅びないわけである。
私はカレーをがっつくようにして食べた。そんな私の姿を見て彼女は、ふふっと笑い、
「まだまだおかわりはたっぷりと残っているからな」
やさしい母のような声でそう言ってくれた。
食事の最中、ふと彼女は昨夜の竹林での出来事について尋ねてきた。
「なあ、どうして妹紅はあの女の人と戦っていたんだ?」
それは尋ねられたくないことの一つだった。
答えられないわけではなく、答えたくないのだ。それはあまりにも惨めで、格好悪いことだから。
「あっ、別に答えたくないんだったらかまわないぞ!誰にも秘密の一つや二つはある。単なる好奇心なんだから気にはしない」
そんな私の心境を感じ取ったのか、彼女は慌ててフォローした。
相変わらず賢いのか、抜けているのかよくわからない人間だった。
「……戦っていたんじゃない、殺しあっていたんだよ」
そんな彼女だから、私は話してみようという気になった。誰も知らない、私の想いを。
「どういう……ことだ?」
彼女は困惑していた。無理も無い、人は一度死んだら生き返らない。普通の人間は滅多なことじゃない限り殺し合いなんかしないのだ。
普通は。
「……あなたは見てたよね、私の怪我が治っていくところ」
躊躇いつつも、彼女は恐る恐るうなずいた。
「つまりはそういうことなんだ。藤原妹紅と蓬莱山輝夜――あの一緒に殺しあってた女ね――私たちは不老不死なんだ」
「不老、不死……」
彼女は物語の中でしか聞いたことの無いであろうその言葉を、彼女は繰り返しつぶやいた。
「そう、老いることも死ぬことも無い、人でありながら人ではない者。……こんな幼い姿をしているが、お前なんかよりもずっとずっと年上なんだぞ?」
自虐的に笑いながら、そう言った。自虐以外に何をすればいいというのだろうか。千年も生き続けて、殺しあうことしかない私たちを。
「……どうして、お互いを殺すんだ?」
彼女は疑うことも茶化すことも無く、真剣にそう尋ねた。
「そうだな……たぶん、生きているって実感が欲しいんだろうな」
随分前にそのことについて考えたことがある。何百年か前のことだから、思い出すのには少し時間がかかった。
「私たちは千年もの間生きてきた。食料を調達して、食べて、寝て、起きて、そしてまたそれの繰り返し。周りの風景は変わっていくのに、自分だけが変わらない孤独感。年老わないことを気付かれるのが怖くて、人と触れ合うことも出来ない。いずれ相手は死んでしまうと分かっているから、親しくもなれない。そんな風にして生きてると、やがて生きているって実感を無くしてしまうんだ」
「……」
彼女は私の話を黙って聞いてくれていた。
「そんな私でも、唯一生きていることを実感する瞬間がある。それは死ぬとき。当たり前のことだけれど、生きていなければ死ぬことは出来ない。だからその時、体が朽ちて、命が遠のいていく瞬間、『ああ、私は生きてるんだ』と実感することが出来るんだ」
もちろん、お互いがお互いを憎しみあっているというのも在る。
でもそれは単なる口実。感情なんてものは永い時の中で忘れ去られてしまう。
本当は私は、普通の人として生きていたいだけなんだろう。
そんな物思いに耽りながらふと、目の前の彼女がどんな気持ちでそれを聞いたのかと考えた。
私の境遇に哀れみを感じたのだろうか、それとも殺しあうとは何事だと怒り出すのだろうか。どちらでも、仕方が無いような気がした。それは真っ当に生きている人間にとって当たり前のことなのだ。
「そうか……」
けれど、彼女は。
「話してくれて、ありがとうな」
そのどちらでもなく、ただ、感謝の言葉を述べただけだった。
私はしばらくの間ぼうっとして、じっと彼女の顔を見つめてしまっていた。
「……どうしたんだ?早く食べないとせっかくのカレーが冷めてしまうぞ」
「…う、うん」
彼女の言葉に従い、カレーを食べた。
さっきよりも、素直に辛いと感じることが出来たような気がした。
夢のような時はあっという間に過ぎていった。
赤子が入りそうなほど大きな鍋に(彼女がどこからともなく持ってきたものだ)たっぷりと入っていたカレーを半分も食い散らかした頃には既に亥の刻を過ぎていた。
一晩寝かせた後のカレーの美味しさを語りつくして帰り支度を済ませた彼女は、靴を履き、外に出て、 夜中の星を眺めて、少し名残惜しそうに私の家を眺めていた。
いや、名残惜しかったのは私のほうだったのかもしれない。
「今日は世話になったな」
彼女は礼儀正しく礼を言った。
そんな礼を言われるほどの覚えも無いのだが、頭を下げられると少し恥ずかしくなってしまう。
「別に……食事をいただいたのは、私の方だしな」
照れくさくって、私は竹の向こう側に見える夜の星空を見上げた。
そこにはいつものように星があった。幾千年もの時を経て、何も変わることが無い、永遠の星が。
「それじゃあ私は帰ろうと思うのだが……」
変わるものがあるとすれば、それは星を見る私たちの方なのだろう。
「今日は押しかけるような形で来てしまったからな。……すまなかった」
人は歴史を作る。たとえ自らが死を迎えようとも、子を作り、新たな命を宿し、変わっていく自分たちのことを伝えていく。
「だけど、勝手な願いなんだが……聞いて欲しい」
私はそんな人の営みとは異なる場所にいる。永遠に一人が生き続けるのなら、歴史を刻む必要は無い。歴史とは今しか知らない者のために、過去を語り伝える術なのだから。
「……『また明日』」
だから永遠を生き続ける人間に、刹那を生きようとする人間と関わる資格なんて、無い。
そう、思っていた。
「……また明日、カレーを作ってくれるならな」
だけど、一人だけで生きていくには、どうやら永遠という時は永すぎるようだ。
彼女は一瞬だけ、戸惑ったような表情を浮かべて。
「ああ、もちろんだ。飽きるほど食べさせてやるぞ」
次の瞬間には、満月のように明るい笑顔を見せてくれた。
3.
それから一週間の間、彼女は私の家を訪れ続けていた。
彼女は毎夜訪れては律儀に夕食を作ってくれた。……とはいってもカレーを作ってもらったのは最初の三日間だけだ。私の方からギブアップしてしまったのだ。なるほど、カレーというのは美味いが段々と飽きが来る。
夕食を食べ終わってもすぐに帰ることは無く、しばらくの間お互いのことを語り合ったりした。彼女が話すことは大抵、寺小屋の子供たちとの教員生活の話だった。
竹林での生活が長い私にとって、人間の里での暮らしは珍しくもありまた懐かしくもあった。
「私だって好きで頭突きをしてるんじゃない!これはあの子たちが可愛くてしている愛の鞭なのだ!」
どうやら今日の彼女は自分が持ち寄った酒に酔っ払ってしまったようで、さっきから愚痴にも嘆きにも似た悲鳴を繰り返し叫んでいた。
ちなみに彼女の言う頭突きとは宿題を忘れてきた生徒に対する体罰のことで、罰則に頭突きなんかを用いる彼女がどこかずれていることはここからもわかる。
「うんうん、わかるよ。わかる」
一方酒を飲まない私はこの酔っ払った淑女をたしなめるのに手一杯だった。実につまらない。
「そりゃあ頭突きをしたら子供は痛いだろうさ!でも私だって痛いんだ!手で叩くよりもずっと。けど子供たちは宿題を忘れる。共に痛みを分かち合ってよりお互いを高めていこうということをどうして理解してくれないんだ!!」
そう言ってしまうと、突然おいおいと泣き出してしまった。やれやれ、今日はずいぶんと酔いがひどい。
「……でも、もしかしたらその子供たちだってあんたのことが好きなのかもしれないよ?」
その言葉にぴくりと反応したのは、当然上白沢慧音である。
「……どういうことだ?」
「だから子供なんてそんなもんだって言いたいんだよ。ほら、よく好きな子をいじめたくなるとかそういうこと聞くでしょ? それと同じで、皆あんたのことが好きでわざと宿題を忘れてしまうんじゃない?」
私がそう言うと、彼女はしばらくそのことについて考え込んでしまった。
そして数秒後、急に彼女は号泣し始めた。
「そうかぁぁぁぁ!!あいつらそんなつもりで宿題を忘れてきていたのかぁぁぁぁぁぁぁ!!」
ちなみにそれは私の根も葉もない想像である。
しかしそんなことをおかまいなしに、うんうんと自己解釈しつつ杯に酒を注ぎ飲み続けていた。
「よしっ!明日からは優しく頭突きをしてやることにしよう!」
……いや、頭突きをやめろよ。
亥の刻も過ぎようとする頃、いつもの通り彼女は帰ることになった。
風の冷たい夜だった。酔いで赤く染まった頬で風を浴びながら、彼女は夜の空を眺めていた。曇っているせいで星月は見えない。けれどその奥に何かを見ようとするような、そんな遠い眼差しだった。
「……大丈夫?」
私は酔った彼女の帰り道を心配した。足元もおぼつかないという時に妖怪に襲われたら、果たして白沢とはいえ平気でいられるのか。
しかしそんな私の心配を、彼女は軽く笑った。
「なに、平気さ。こんな気持ちのいい風が吹いているんだ、酔いなんかすぐに醒める。それにいざとなったら酔った歴史を『食べて』しまえばいい」
気丈にそう笑う彼女の足が千鳥足でふらつく様に、思わずため息をついた。
すると彼女は何かを思い出したかのようにこちらを振り向いた。白く細い髪が夜空を舞った。
「そういえば明日の夜、子供たちを連れてこの迷いの竹林に行くんだ」
「夜の竹林に子供を連れて?正気?」
夜というのは妖怪の活動が盛んになる妖魔の刻。そんな時に獣人である彼女はまだしも、子供たちを連れて行くのは危険としか言いようが無い。
「大丈夫さ、何も竹林のこんな奥深くに来るわけじゃない。入ってすぐのところで花火をする程度だ」
「はなび?」
ジェネレーションギャップだった。
「そうだな……花火とは芸術的な炎のことだ。里の中でやっても良かったんだが、どうにも許可が下りなくてな。それで仕方が無くここでやることにしたんだ。なに、心配することは無い。妖怪なんかに私の教え子には指一本触れさせないさ」
自信満々に彼女はそう言った。
その自らの仕事に生きがいを持ち、今を一生懸命に生きてる彼女の笑顔は、私にはとても眩しいものだった。
「そこで……なんだが」
彼女の話はそこで終わったわけではなかった。
「妹紅もその花火大会に一緒に来てくれないか?」
「……はっ?」
私は一瞬自分の耳を疑った。
彼女はなんと言ったんだ?私に子供たちと一緒に遊んでくれと言ったのか?
「ど、どうして私なんかが?」
すると彼女はさも当たり前のことのように言葉を続けた。
「みんな一緒のほうが、楽しいからじゃないか」
それは――まあ一週間という短い付き合いの中での話なのだが――彼女がいかにも言いそうな台詞の一つだった。
「だ、駄目だよ。私なんかが居たらきっと皆楽しめない」
しかし教師たる彼女は、そんな私のネガ思考を打ち止めた。
「そんなことないさ、みんなきっと妹紅を好きになってくれる。それに花火の後でお前の炎を見せてやったらきっと人気者になれるぞ」
もしかしたら彼女の言うとおり、こんな私でも子供たちと楽しむことが出来るかもしれない。
私だって元々は人間なんだ。立派に生きてきた覚えは無いけど、誰かといると楽しいと感じることぐらいはある。
「……それは、無理だよ」
でも、最後のことだけは自信があった。永い歴史の中での、冬のように揺らぐことの無い確固たる自信が。
「きっと皆怯えてしまう」
私の炎は、殺すための炎だ。
ある時は森を焼き、ある時は妖怪を焼き、ある時は人を焼いてきた。
身を守るためには仕方が無かった。けれどそれは、私に科せられた一つの業だ。
だから私の炎が人を楽しませることなんて、出来るはずが――
「そんなことない」
けれど彼女はそれを認めなかった。
「きっと子供たちは喜んでくれる。分かるんだ私には、妹紅の炎の素晴らしさが」
「……」
私には、何も答えることが出来なかった。
「とにかく明日、午後六時に竹林の入り口に集合だ。遅れたら頭突きだからな!」
彼女は半ば無理矢理にその約束を押し付け、そして人間の里へと帰っていった。
その後姿を見届けながら、私はその約束について考えてみた。
子供たちと、慧音と、楽しく花火大会。
「……無理だよ、私には」
誰にあてることも無いその言葉は、竹林の向こうへと消えていった。
***
次の日の夜、私は待っていた。
上白沢慧音ではなく、蓬莱山輝夜のことを。
結局私は花火大会へは行かなかった。子供たちと楽しく花火なんていうのは、やっぱり私の性に合わない。私にはきっと殺し合いの方が似合ってるんだ。
彼女は私のことをなんて思うだろうか、しょうがない奴だと笑ってくれるだろうか、それとも怒るだろうか、あるいはもう私の家には来ないかもしれない。
そうなっても仕方が無いな、と思った。いずれはこうなる運命なのだから。
「……それにしても、輝夜の奴遅いな」
いつもならそろそろ来てもいい頃だ。何かあったのだろうか。それとも輝夜までもが私のことを見限るのだろうか。
時間はおそらく戌の刻を過ぎたころだろう。もう今頃はとっくに花火もやっている頃……。
「……っ!!」
竹林の中で妖気を感じた。
空を飛び上がり見てみると、どうやら竹林の一部が火事になっているようだった。
恐らくは下級妖怪が悪戯か何かで竹林に火を放ったのだろう。あれはそういう頭の悪い炎だ。それが悪い具合に燃え広がり、次々と炎は燃え広がっていった。
そして気付く。
そこが竹林の入り口の方である事に。
「くそっ!!」
考えるより先に体が動いていた。
私は迷うことなく焔が舞い上がる竹林へと向かっていた。
竹林の入り口には人だかりが出来ていた。
どうやらこの火事につられて来た野次馬のようで、 その中には泣きじゃくる子供たちの姿があった。
「火事はどうなってる!?」
群がる群衆の一人の男に私は尋ねかけた。
空を飛んできた私を男は怪訝そうな顔つきで見たが、人間だと分かると事の顛末を教えてくれた。
「なんでも花火をしていたら急に火が竹林に燃え広がったんだとか。子供たちは全員無事だったんだが……」
「慧音は!!慧音はどうなったんだっ!?」
私は我も忘れてそう叫んでいた。どうしてここまで不安になるのか、自分でも分からなかった。
「あんたあの先生の知り合いか?どうやらその先生は子供たちをここへ避難させたあとで一人見つからない生徒を探しにもう一度竹林の中に入ったらしいんだ。しかしその数分後にその子供も戻ってきちまってすれ違いになったらしくて……」
「じゃあまだ竹林の中に居るって言うのかっ!」
私は絶句していた。まだ慧音があの中に――
「ああ。だがこの火事じゃ誰も先生を助けることが出来なくって……ってあんた!どこへ行くんだ!?」
制止の声も聞かず、私は竹林の中へと駆け出していた。
「決まってるだろ!慧音を助けにだ!」
燃え盛る火炎は、所詮は妖怪の火遊びに過ぎない。蓬莱の不老不死の薬を飲んで幾多もの業火を潜り抜けてきた私にとって、その炎では髪の毛すらも燃やすことは出来ない。
けれど彼女――慧音は別だ。彼女が本気を出せるのは満月の夜だけ。それ以外の日では普通の妖怪程度の力しか持たない。
要するに、このままいたら彼女は死んでしまうのだ。
私は竹林の中を走った。焼け崩れた竹に足をとられながらも、必死に走り続けた。
なんとしても、彼女を失いたくは無かった。
ああ、思えば彼女に言われたとおりに花火大会に来ていればこんなことにならずにすんだのに。
ああ、思えば私が下級妖怪の居場所を無くしてさえいなければこんなことにならずにすんだのに。
ああ、思えば、私さえいなければこんなことにならずにすんだのに。
十分も走り回った頃だろうか。赤く染まる煙を吸いながら、熱い空気で肺を焼かれながら、息切れを起こそうとも探し回った。
そして――――
「けーね!」
紅く焔を浴びた大地に倒れ伏している彼女を見つけた時、私はそう叫んでいた。
すぐさま彼女の元へと駆け寄った。息は荒く、皮膚はそこら中焼け爛れていたが、まだかろうじて生きていた。『まだ』。
「大丈夫か?しっかりしろ慧音!」
頬を叩くと彼女はうっすらと目を開いた。どこを見ているか分からない瞳が、しっかりと私の眼を捉えた。
「ああ、妹紅か……」
そして、まるでいつかのようにニッコリと笑顔を作った。
「初めて、名前で呼んでくれたな……」
かすれた声。煙と火で喉をやられているのだろう。
「そんなことどうだっていい!早くここから抜け出すぞ!!」
私は彼女を抱きかかえようとした。しかし彼女の体に触れた時、ようやく事の重大さが分かった。
「それよりも……あいつ……子供は、どうなった?」
「それよりって……それより大切なものがあるか!」
「いいから、どうなったんだ……?」
こみ上げてくるものを堪えながら、私は答えた。
「……大丈夫だって、慧音が竹林に入ってすぐに戻ってきたんだって」
すると、彼女は安心したように微笑んだ。
「そうか……良かった……」
良くなんて無い。あるはずがない。
永い間、死と生を繰り返してきた私には分かった。
上白沢慧音は、もう、助からない。
「自分より、子供のほうが大切だって言うのか……っ」
彼女は弱々しく首を振った。火の手はこちらの方にまで迫ってきていたが、もう関係ない。
「そんなことないさ、誰だって自分の身は可愛い……ただ」
私のことをしっかりと見つめながら、彼女は小さな声で、囁くように言った。
「お前の炎で、誰かを殺させるわけにはいかなかったからな……」
私は我慢することが出来なかった。
「ばか……っ」
こみ上げてくるものを、堪えることも拭うこともせず、心の底から悔やんだ。
「これは私の炎じゃない……、他の妖怪の火だよ……っ」
すると、彼女は微笑むように顔をつりあげた。けれど上手くいかずに、ただ口元がくずれただけだった。
「ああ……やっぱりそうだったか……。だってこの炎は、綺麗じゃないもの、なぁ」
いつの間にか、お互いに泣いていた。
これから訪れる別れに、月が満ちるほどの涙を流していた。
きっと彼女は私という要因が無くっても、こうして自分の命を犠牲にして子供を助けようとしていただろう。
たとえ無駄死にだと分かっていても、焔上がる竹林を走っていった。それは私とは違う、尊い覚悟。
やっぱり、彼女は私なんかと関わっていい存在じゃなかったんだ。
「なあ、お願いがあるんだ」
やがて彼女は、辛そうに口を開いた。
「もし妹紅さえ良ければ、お前の炎で、私を殺してくれないか?」
……どうして。
「だって悔しいじゃないか。どこの誰とも分からない奴の、しょうもない炎で死んでいくなんて」
……わかった。
私は口の動きだけで彼女に答えた。
硝煙と赤い炎が舞う竹林の中に、新たな紅の炎が生まれた。
その炎は周囲の低俗な火の粉を吹き飛ばし、風さえもそこを避けて通った。
炎は形を変え、姿を作った。それは永遠を司る火の鳥。
もう一度だけ、彼女を見た。彼女はどこまでも笑顔で……いつまでも泣いていた。
ああ、結局私の炎は。
人を殺すことしかできないのか。
古の不死鳥は空を飛んだ。
その炎は美しく舞い踊り。
その灼熱は全てを焼き尽くす。
さよなら、慧音。
ごめんね、慧音。
「それは、本当に彼女が望むことなのかしら」
不死鳥は姿を消した。いや、消し飛ばされた。
私は向こう側を見た。その炎の先――意思の無い炎すら避けて通るその先には、憎き蓬莱山輝夜が凛とした表情で立っていた。
「何をしに来た!どうして邪魔をする!」
激昂した私は叫んでいた。しかし彼女は高貴な姿勢を緩めることなく答えた。
「ただの気まぐれよ。それに、そんなことしたって誰のためにもならないと思ったんだもの」
その言葉に私は何も言い返せなかった。
私がここで火の鳥を彼女に向ければ、慧音は死ぬ。私もまたその罪を背負うことになる。
誰も救われることの無い結末。
だけど、どうやっても慧音は……。
そんな私の様子を見た彼女は、くるりと私に背を向けて、置いてくるように言葉を言った。
「ついて来なさい。……良い医者を知ってるから」
輝夜はそして、そのまま竹林の奥へと歩いていってしまった。
少しだけ迷った。果たして、このまま彼女についていってもいいのだろうか。私を陥れるための罠なんじゃないのか。
「もこ…う……」
しかしそんな迷いも、慧音のうなされる声にかき消された。
たとえここで罠にはめられて死んだとしてもかまわない。
私は人間として上白沢慧音を助けたいのだから。
それが分かった時には、私はもう輝夜の背中を追っていた。わずかに息をする慧音を抱えて。
道のりは永遠にも感じられた。
私の怪我はもう既に治っていた。けれど今にも死にかけている慧音のことが気がかりでそう遠くは無い距離が長く感じられたのだ。
そんな心境を知ってか知らずか、輝夜は急ぐことも無くのんびりと歩いている。私は本気で腹が立った。焼き殺してやろうかと思ったぐらいだ。
でも私は、じっと堪えて輝夜に付き添った。
「安心なさい。私が力を使っている限り、その獣人が死ぬことは永遠に無いから」
仇敵である彼女の言葉を、この時ばかりは信じることにしたのだ。
竹林を歩いていると、色々なことを思い出した。
産まれてからの望まれることの無い暮らし、輝夜との出会い、不死になった日、輝夜との再会、そして、慧音と出会った日の事。
一週間という短い間だったが、それでもわかったことが一つだけある。
千年よりも大切な一瞬というものがあるということを。
ふと気がつくと、いつの間にか足が石畳の上に乗っていた。
竹やぶが切り開かれた場所に堂々と在る、平安時代の宮廷のような日本屋敷。
輝夜はこちらを振り返り、深々とお辞儀をした。
「ようこそ、永遠亭へ」
***
目が覚めると、私は見覚えの無い布団の中に居た。
どうやらいつの間にか眠り込んでしまっていたらしい。ぼぅっとした頭で毛布をどけると、ぐぅっと背伸びをした。
静かな朝だった。遠くには小鳥の鳴く声が聞こえてくる。そうか、永遠亭でも朝は同じ時間が流れているのか。
永遠亭……。
「……慧音はっ!?」
病室を訪ねてみると、そこには慧音の安らかな寝顔があった。
苦しい表情のかけらも見せず、規則正しい寝息を吐き出す慧音。永淋の話によれば、二三日も安静にすれば全快するとのことだった。
私は彼女に礼を言った。しかし彼女は微笑みながら、その賛美の言葉を遠慮した。
「お礼なら姫様に言ってあげてください。姫様がここへ連れてこなければ私は治しようも無かったんですから」
……でもあいつに礼を言うのはなんだかしゃくだな。
私がそう言うと、永淋は上品に笑った。
「そういうのを、世間では『恥ずかしい』って言うんですよ」
ちょっとだけむかついた。
しばらくして慧音が目を覚ました。
まぶたをうっすらと開き、眠たげに目をこすり上半身だけ体を起こした。そして私の姿を見ると首をかしげた。
「……ここは、どこだ?」
私は言いたかった言葉を飲み込み、彼女の質問に答えた。
「ここは永遠亭……輝夜たちの住処だ」
「……私は、助かったのか?」
「ああ。……輝夜たちのおかげだ」
そうは言ったが、彼女はあまり状況をよく飲み込めていないようだった。
そんな彼女を愛しく思いつつ――私はずっと言おうと思っていた、あの時本当は言いたかった言葉を伝えた。
「ありがとう、慧音」
千年分の想いを込めて。
慧音も一瞬驚いたような表情を浮かべたが、やがて、いつもの通りの笑顔へと変わっていった。
「ありがとう、妹紅」
もしも、願うことが一つだけあるのなら。
いずれ来る別れの日にも、二人笑顔でこの言葉を伝えられますように。
――――そして月日は巡り――――
私は待っていた。
世界は夕闇に暮れなずむ。一日が終わり、また次の日が訪れる。終わりの無い輪廻の刹那に、今の私はあるのだ。
一時間近く待っているのに相手がここに来る気配は無い。しかしそれもそのはず、何故なら私は待ち合わせの二時間前からここに来ているのだから。
「……私も、なにやってるんだかなぁ」
とはいえそれだけ楽しみにしているということなのだろう。竹で背を支え立っているだけなのに不思議と頬がにやけてくるのがその証拠だ。
あと一時間何をして時間をつぶそうか――などと考えていると、遠くのほうから先生と教え子がやってくるのが見えてきた。
優麗なその教師は私の姿を認めると、笑いながら手を引いていた生徒に耳打ちをした。
「ほら、一時間も前なのにちゃんといただろう?」
「うんっ、ほんとうだ!」
どうやら私の行動はしっかりと見抜かれていたようである。
少しだけ顔が赤くなったが、それを誤魔化すように私は言った。
「うるさいなー、お前たちだって一時間も早く来て」
すると彼女は生徒たちと顔を見合わせて、皆一様に純朴な笑顔を浮かべてこう言い放った。
「仕方が無いだろ、皆早くお前に会いたかったんだから」
私は赤面した。
今日は花火大会。
あの日のやり直し。
先生からの注意を聞いた子供たちは少しも経つと、花火に夢中になっていた。
なるほど、花火というのは素晴らしいものだ。大小様々なものがあり、色彩にも富んでいる。おまけに扱いやすい。これなら人が好むのも納得できる話だった。
それを傍らで楽しみつつ、私は子供たちと真剣に、 そして楽しそうに遊ぶ彼女の姿を眺めていた。
二人ともあの日のことを謝ろうとはしなかった。
それはお互いに分かった事だし、また謝って欲しいとも思わなかった。
ただ一つだけ、約束を交した。
やがて花火も尽きた。
今宵の宴も終わりかと思いきや、そうではなかった。
慧音は花火が無くなった事を確認すると、にまっと不適な笑みを浮かべた。
なにやら悪寒を感じた私は身を翻しさっそうと逃げ出……そうとしたが、肩を掴まれて逃げられない!
「さあ、それでは最後に藤原妹紅先生の花火のお披露目となります!!」
無邪気な子供たちから拍手がこぼれる。
「ちょ、ちょっとそんなの聞いてないよ!!」
「当たり前じゃないか、言ってないからな」
あっさりとそう言う慧音の顔は、まるで悪戯を思いついた子供のようにあどけないものだった。
「みたいみたーい!」
「すっごいの見せてくれるんだろ!」
「線香花火みたいなのだったらぶっとばすからなー!」
ああもう子供たちまで……。
「くっそー、こうなったら見てろよ!あんまり近寄ると火傷するぞ!!」
私は半ばやけくそになりながら、空に向かって炎を作り出した。
永遠の火の鳥は空を舞う。
いつもなら誰かを殺すためにある灼熱は、今だけは夜の虚空を飛ぶためだけに産まれた。
約束。
それは死を望まない事。
生きるということを謳歌する事。
不死鳥は空を目指す。
子供たちの歓声を背に、永遠を生きる者と歴史を刻む者の眼差しを受けながら。
そんな彼女らの姿を見守る二つの人影も、火の鳥は見ていた。
ゆらゆらと焔が揺れる。
熱く身を焦がすような、竹林に這い蹲る紅い炎は、けれど私を焼くことも殺すこともない。
ゆらゆらと焔が揺れる。
数時間前までは辺り一面を焼き尽くそうとしていたその火は既に勢いを失い、今はただ、必死にその形を残そうと惨めに蠢いている。
ゆらゆらと焔が揺れる。
私は、その自らの半身とも言えるその火を、地べたに横たわりながらじっと見つめていた。
ゆらゆらと焔が揺れる。
身体中が痛む。既に体の方は元通り復元したが、立ち上がるにはまだ時間がかかりそうだ。
ゆらゆらと焔が揺れる。
今妖怪に襲われたらどうなるんだろうなと、ふと考えた。けれどその心配も杞憂なのだということにもすぐ気がついた。
この竹林に住む妖怪どもは、私とあいつの殺し合いをを見てきたせいか、めっきり私に襲い掛かってくることは無くなった。
普段は低脳な妖怪も、並大抵な力では私には敵わないという事を悟ったのだろう。
ゆらゆらと焔が揺れる。
そのおかげで最近は負け戦が続いていた。少し前なら勝てる時もあったのだが、ここのところはめっきりである。私が弱くなったのか、あいつが強くなったのか。
どちらにせよ、やり場の無い苛立ちは募る一方だった。
ゆらゆらと焔が揺れる。
その焔を、誰かが見たら、きっと哀しいと感じただろう。
やがて炎は消え、周囲の竹林はしんと静まり返る。
風一つ無い静かな日だった。未だ熱気の篭る竹やぶの中、私一人が地面に仰向けで倒れていた。
段々と痛みも消えていく。かつて飲んだ蓬莱の薬、不老不死の力の影響だ。おかげで私は老いることも死ぬこともなく、永遠に生き続けることが出来る。
遥か昔――今は昔と物語のように語られるほど遠い昔から、私、藤原妹紅(ふじわらのもこう)は現代まで生きてきた。
既に立ち上がろうと思えば立ち上がれるほどまでに体は回復している。
けれど、どういうわけか立ち上がろうという気にはなれないでいた。このまま妖怪に食べられたっていい気すらしていた(もっとも本当にそうなったら自らの炎で消し炭にしてしまうのだろうが)
要するに、立ち上がるだけの気力が無くなってしまっていたのだ。
私はここ最近の負け続けの成績に少しばかり落ち込んでいた。それもそのはず。唯一の生きがい――私と同じく不老不死の蓬莱山輝夜(ほうらいさんかぐや)との殺し合いさえも満足に出来てはいないというのだから。
お互いに死ぬことが無い、だからこそ繰り返される殺す事と殺される事。
その不毛な行為にいい加減嫌気がさして、知らず知らずのうちに手を抜いてしまっているか。はたまたあまりに永く戦いすぎて緊張感が無くなってきてしまっているのか。
あるいは、長い年月の末に何かを忘れてしまったのか。
どちらにせよ、ただ一つ言えることは、今の私では輝夜に勝てないということだった。
時は夕焼けを通り過ぎて夜になっていた。唯一の明かりであった火を失った今となっては、人里離れた迷いの竹林に明かりとなるものは何も無い。ただ在るのは幽かな深遠(しんえん)の星の光だけで、今日はそれさえもいつもより遠くにある。
けれど、竹林には温かな光が満ちていた。
どうしてだろう、と思いもう一度よく水面に写ったかのような夜空を覗き込む。するとなんてことはない理由がそこにはあった。
ああ、そうか。
「今宵は満月なのか」
ぽつりと解き放たれる独り言。
誰も聞くこと無く、誰にも気付かれること無く、炎のようにただ夜の闇に飲まれて消えていくだけ。
そう思っていた。
「ずっと空を見上げていながら、そんなことにも気付かれなかったのか」
淡々たる夜の中からふと聞こえてきた、一抹の声。
その瞬間私は自身の体を跳ね飛ばし臨戦態勢に入った。妖怪か、人間か。どちらにせよこんな夜にこの竹林にいるということは、まともじゃないということだ。
こんな近くに来るまで気付かないとは迂闊だった。気が緩んでいたせいだろうか。いずれにせよ関係ない。殺してしまえばいいだけなのだ。いつもの通り、私の炎で。
声をかけてきたにも関わらずそいつは、一向に姿を現そうとはしなかった。気配で場所は感じ取れるのだが、深い竹やぶの中では月明かりは遠く姿までは見えない。かといって正体も分からない相手に自らの手を見せるのは危険である。
「誰だ!人間か、妖怪かっ!」
無駄だとは思いつつも叫び声を挙げた。張り詰めた空気を怒号が打ち破る。
しかし意外なことに、彼女は私の声に応じた。よく通る透き通った声だった。
「あいにくだが、私はそのどちらでもない」
そして、白々たる月明かりの元にその姿を曝け出した。
緑混じる白き長い髪をしたその女は。
頭に無骨な二本の角を生やしたその女は。
私に怯えることなく、蔑むこともなく、凛とした姿で堂々とそこに立っていた。
「私は獣人だ。――そして出来れば、そんな怖い顔をしないでくれないか?私はあなたと争う気は無い」
永遠という時の、一瞬の狭間。刹那にも満たない、 ほんの少しの時間のことだった。
ほのかな満月の明かりに照らされて、人知らぬ迷いの竹林に映し出される彼女の姿。
それを私は、女の私でさえ、これまで生きてきたどの歴史の中よりも、綺麗だと思った。
――それが、私と上白沢慧音の出会いだった――
1.
しばらくの間、私は何も語ることなく彼女を睨みつけていた。
彼女は言った。あなたと争う気は無いと。けれどそれが嘘で無いという保証はどこにもない。
それに、ならば何故私の元に姿を現したのだろうか? 妖怪が住む夜の竹林にいる人間に、どうして話しかけようとなど思うのか?
迷い人と思ったのか? いやそんなはずはない。彼女は私がずっと空を見上げていたことを知っていた。ならば同時に見ていたはずだ。死者同然の怪我を負っていた私の傷が、見る見るうちに修復されていく、人ならざらぬ姿も。
そんな人間を、誰が助けようなどと思う。
しかし彼女は私の殺意を込めた眼差しを、恐怖することもなく、じっと見つめ返していた。その瞳は、久しく見ることが無かった人間らしい瞳だった。
「……獣人、と言ったな」
先に折れたのは私だった。このまま睨んでいても、 きっと彼女は逃げることも話しかけることもしないのだろう。
「もう半分は白沢(ハクタク)か?お前ほどの妖怪が何の用だ」
すると彼女は、その言葉に驚いたかのように目を見開いた。
「そうか、私がわかるのか」
「……伊達に長く生きてるわけじゃないんからね」
白沢――中国に伝わる、人語を解し、森羅万象に通じる聖獣。かつて中国の王が邪鬼悪神について尋ねると一万千五百二十種についていちいち語っただとか。
とはいえ彼女は獣人であるのだから、おそらくは人間の里に住んでいるのだろう。しかしそんな者が、夜の竹林を訪れる理由もなかろうに。
私がそう訝しげに思っていると、彼女はああと気付いたように口を開いた。
「そういえば自己紹介がまだだったな。私は上白沢慧音、人間の里で寺小屋の教師をしている」
それは私の質問の答えではなかった。
「お前聞いていたのか? 私はお前が何をしに来たのかと……」
「こちらが名を名乗ったのだから、そっちも名乗るのが礼儀ではないか?」
少しむっときた。なら質問をきちんと答えるのも礼儀ではないのか。
しかし彼女の言うことももっともなような気がしたので――なんだか洗脳されてしまったような気分だったが――私は名を名乗ることにした。
「私は妹紅。人間の藤原妹紅だ」
「うむ、いい名ではないか」
なんだか見当違いのことを言ってくれる。
私は思わずため息をついてしまった。どうにもおかしい奴だ。それとも人間は元々そういうおかしさを持つものだったか。
しかしいつの間にか、私の中の毒気は完全に抜かれてしまっていた。
「もういーよ……、それで、上白沢慧音さんが何の用なの?」
すると彼女ははっと思い出したかのような表情を浮かべた。
「そうだそうだ、すっかり忘れていた」
ぽりぽりと少し恥ずかしそうに頭をかいていた。真面目そうなんだがどこか抜けている奴だった。
彼女は表情を改めてこちらの方を向いた。月明かりのように白い髪がなびく。
そして、大真面目な顔をして、大真面目な声色で、大真面目に大真面目なことを言った。
「私と、友達になってはくれないか?」
大真面目なだけに、アホらしく恥ずかしいことだった。
「あんたさぁー……」
思わず手で自分の頭をくしゃくしゃとかきむしった。
「どーしてそういう話になるのさ!」
しかし彼女は動じない。
「妹紅、お前と友達になりたいと思ったからだ」
彼女はさも当然のごとくそう答えた。
それは単純明快な答えだったが、私が聞きたいのはそんなことではない。
「そういうことじゃない。つまりは……どうしてこんな辺鄙な竹林で!ウサギも寝静まる時刻に!死にかけていた人間なんかと友達になりたいだなんて思うんだ!!」
真っ当な考えじゃない。
竹林を燃やし尽くさんばかりの妖術を操る人間。
妖怪からも恐れられるほどの力を持った人間。
死に至るほどの傷を負いながら、簡単にそんな状態から蘇っていく人間。
そんな――そんな化物と、誰が友達になろうとなんて馬鹿なことを考えるのだろうか。
しかし彼女は、そんな私のことなど気にも留めず、あっけらかんと私にこう問いかけた。
「誰かと友達になろうと思うことに、理由なんているのか?」
その言葉に、私はぐうの音も出ないほど叩きのめされてしまった。
正確に言うならば、呆れ返ってしまったのだ。
「もういいよ……」
その言葉に何と答えようか迷った私は、結局こいつをこの場で収めようとすることにした。
「では、友達になってくれるのか?」
嬉しそうに身を乗り出してきた。なんというか、無邪気だ。
「ああ、もう友達でもなんでもいいから今日は帰ってくれ」
面倒くさくなった私はしっしと手で振り払いながらそう告げた。
「分かった。それなら今日は帰ろう」
私の答えに満足げな笑みを浮かべた彼女は。
「また明日だな、妹紅」
その笑顔を絶やすことなく、迷いの竹林の夜深くへと去っていった。
しばらくの間、私はその後ろ姿の面影をじっと眺めていた。
満月もじきに沈む。古き一日は終わり、また新しい一日が巡りまわる。
――また明日、と上白沢慧音は言った。
けれど、彼女が再びここに来ることは無いだろう。 少なくとも私はそう考えた。
また明日、また明日。
気が遠くなるほどの「また明日」を辿ってきて、今の私はここにいる。
それでも、その一日として、私が望んだ「また明日」が訪れたことは無かったのだから。
2.
夜の竹林。
日が沈んでから、未だ間もない。
今日は輝夜が殺しに来ることも無かった。私から殺しに行く気にもなれなかった。そんなわけで今日は一日竹林のそばを流れる川で釣りをして時間をつぶしていた。おかげで今日は大量である。
「これだけ釣れるなんて、今日はついてたな」
嬉々として帰り道を歩いていた。この魚をどうやって食べようか。塩焼きにしようか、余ったものは干物にでもするか。そんな呑気なことを考えながら、家への道を辿っていた。
家の前にたたずむ、一つの人影を見つけるまでは。
「遅かったじゃないか、妹紅」
竹やぶの中に響く声。
私は思わずため息をついた。
上白沢慧音は本当に「また明日」私に会いにきたのだ。
とりあえず彼女を家の中へと上がらせた。帰らせようかとも思ったのだが、なんとなく彼女は言うことを聞いてはくれないだろうと思ったのだ。
昨日とは違い彼女の頭には違い角が生えてなかった。おそらくは満月の日だけ妖獣になる種類の半獣なのだろう。狼男なんかと同じように。
彼女は玄関に上がると「おじゃまします」と言いきちんと靴の向きをそろえて入った。
「つまらない物だが、これを」
そう言って彼女は手荷物の中から箱のようなものを取り出した。中を見てみると、どうやら人間の里で買ったらしい金色のカステラが入っていた。
「これはたいそうな物を、どうも」
普段なかなか人間の里を訪れることが出来ない私にとっては貴重なものだった。
「夕の食事は済ませた?」
「いや、まだだ」
「なら食べてくといい。今日は活きのいい鮎が釣れたんだ」
しかしカステラ一つで懐柔される私もどうかと思った。
そうと決めれば早速私も調理に取り掛かった。まずは鮎にたっぷりと塩を塗ってそれから焼いて……。
「そういうことなら、私にも手伝わせてくれないか?」
すると突然、何を思ったか彼女はそんなことを言い出した。
「何言ってるんだ、お前はお客さんじゃないか」
「元々そのつもりで来たんだ」
そう言うと荷物の中から食材を並べ始めた。人参、ジャガイモ、玉葱、豚肉……。
「……通い妻にでもなる気?」
「通うのは夫の役目であろう」
あっさりと彼女はそう言った。
数十分後、食卓に並んだのは鮎の塩焼きとご飯に得体の知れない茶色い物をかけた物だった。
「……これはなに?」
私はその不気味な茶色い物を指差しながら尋ねてみた。
「なんだ、知らないのか。これは『カレー』というものだ」
すると逆に驚いたような顔をされた。そんなこと言われたって知らないものは知らない。
「そうか。カレーは母の味というのだが、発祥はインドで……」
「何でもいいけど、これ食べられるの?」
長くなりそうな説明をさえぎり、私はとりあえずの疑問を口に出した。
薬味のような独特の臭いが漂う茶色い物体。
まさかここにある以上食事以外のものではないだろうけど、それにしたってこれを「さあ食え」と言われて素直に口に運べるような代物ではない。
「さあ、存分に味わって食え」
しかし目の前の彼女はそれを強いるスパルタなお方のようだった。
「……いただきます」
腹をくくった私は、皿に備えられた「すぷぅん」を手に取り、恐る恐る「かれぃ」というものをすくった。
「……」
「遠慮すること無いんだぞ? まだまだおかわりはたっぷり残っているからな」
じっと、私の感想を期待するような眼差しで見つめられて、それを拒否する方法を私は知らない。
いくらなんでも食事で死ぬことはあるまい……などと私にしては阿呆らしいことを考えながら、思い切って口の中にそれを突っ込んだ。
よく噛み、舌で味わい、ゆっくりと飲み込む。
そして――――
「……美味い」
不思議なことに、私はその茶色い「かれぃ」を美味しいと感じていた。
「美味い!美味いぞっ!この『かれぃ』というやつはなんと美味いんだ!」
その驚きと感動のあまり思わずいつの間にか立ち上がりながらそう叫んでいた。
すると彼女はほっとしたような表情を浮かべながら、たしなめるように私に教えた。
「妹紅、『かれぃ』じゃない、『カレー』だ。かれぃだと魚になってしまうからな」
「そうか、カレーというのかこれは!こんなに美味いもの初めて食べた!」
竹林に篭る千年もの年月の間にこんなに美味いものが作り出されていたのか。なるほど、それは人がいつまで経っても滅びないわけである。
私はカレーをがっつくようにして食べた。そんな私の姿を見て彼女は、ふふっと笑い、
「まだまだおかわりはたっぷりと残っているからな」
やさしい母のような声でそう言ってくれた。
食事の最中、ふと彼女は昨夜の竹林での出来事について尋ねてきた。
「なあ、どうして妹紅はあの女の人と戦っていたんだ?」
それは尋ねられたくないことの一つだった。
答えられないわけではなく、答えたくないのだ。それはあまりにも惨めで、格好悪いことだから。
「あっ、別に答えたくないんだったらかまわないぞ!誰にも秘密の一つや二つはある。単なる好奇心なんだから気にはしない」
そんな私の心境を感じ取ったのか、彼女は慌ててフォローした。
相変わらず賢いのか、抜けているのかよくわからない人間だった。
「……戦っていたんじゃない、殺しあっていたんだよ」
そんな彼女だから、私は話してみようという気になった。誰も知らない、私の想いを。
「どういう……ことだ?」
彼女は困惑していた。無理も無い、人は一度死んだら生き返らない。普通の人間は滅多なことじゃない限り殺し合いなんかしないのだ。
普通は。
「……あなたは見てたよね、私の怪我が治っていくところ」
躊躇いつつも、彼女は恐る恐るうなずいた。
「つまりはそういうことなんだ。藤原妹紅と蓬莱山輝夜――あの一緒に殺しあってた女ね――私たちは不老不死なんだ」
「不老、不死……」
彼女は物語の中でしか聞いたことの無いであろうその言葉を、彼女は繰り返しつぶやいた。
「そう、老いることも死ぬことも無い、人でありながら人ではない者。……こんな幼い姿をしているが、お前なんかよりもずっとずっと年上なんだぞ?」
自虐的に笑いながら、そう言った。自虐以外に何をすればいいというのだろうか。千年も生き続けて、殺しあうことしかない私たちを。
「……どうして、お互いを殺すんだ?」
彼女は疑うことも茶化すことも無く、真剣にそう尋ねた。
「そうだな……たぶん、生きているって実感が欲しいんだろうな」
随分前にそのことについて考えたことがある。何百年か前のことだから、思い出すのには少し時間がかかった。
「私たちは千年もの間生きてきた。食料を調達して、食べて、寝て、起きて、そしてまたそれの繰り返し。周りの風景は変わっていくのに、自分だけが変わらない孤独感。年老わないことを気付かれるのが怖くて、人と触れ合うことも出来ない。いずれ相手は死んでしまうと分かっているから、親しくもなれない。そんな風にして生きてると、やがて生きているって実感を無くしてしまうんだ」
「……」
彼女は私の話を黙って聞いてくれていた。
「そんな私でも、唯一生きていることを実感する瞬間がある。それは死ぬとき。当たり前のことだけれど、生きていなければ死ぬことは出来ない。だからその時、体が朽ちて、命が遠のいていく瞬間、『ああ、私は生きてるんだ』と実感することが出来るんだ」
もちろん、お互いがお互いを憎しみあっているというのも在る。
でもそれは単なる口実。感情なんてものは永い時の中で忘れ去られてしまう。
本当は私は、普通の人として生きていたいだけなんだろう。
そんな物思いに耽りながらふと、目の前の彼女がどんな気持ちでそれを聞いたのかと考えた。
私の境遇に哀れみを感じたのだろうか、それとも殺しあうとは何事だと怒り出すのだろうか。どちらでも、仕方が無いような気がした。それは真っ当に生きている人間にとって当たり前のことなのだ。
「そうか……」
けれど、彼女は。
「話してくれて、ありがとうな」
そのどちらでもなく、ただ、感謝の言葉を述べただけだった。
私はしばらくの間ぼうっとして、じっと彼女の顔を見つめてしまっていた。
「……どうしたんだ?早く食べないとせっかくのカレーが冷めてしまうぞ」
「…う、うん」
彼女の言葉に従い、カレーを食べた。
さっきよりも、素直に辛いと感じることが出来たような気がした。
夢のような時はあっという間に過ぎていった。
赤子が入りそうなほど大きな鍋に(彼女がどこからともなく持ってきたものだ)たっぷりと入っていたカレーを半分も食い散らかした頃には既に亥の刻を過ぎていた。
一晩寝かせた後のカレーの美味しさを語りつくして帰り支度を済ませた彼女は、靴を履き、外に出て、 夜中の星を眺めて、少し名残惜しそうに私の家を眺めていた。
いや、名残惜しかったのは私のほうだったのかもしれない。
「今日は世話になったな」
彼女は礼儀正しく礼を言った。
そんな礼を言われるほどの覚えも無いのだが、頭を下げられると少し恥ずかしくなってしまう。
「別に……食事をいただいたのは、私の方だしな」
照れくさくって、私は竹の向こう側に見える夜の星空を見上げた。
そこにはいつものように星があった。幾千年もの時を経て、何も変わることが無い、永遠の星が。
「それじゃあ私は帰ろうと思うのだが……」
変わるものがあるとすれば、それは星を見る私たちの方なのだろう。
「今日は押しかけるような形で来てしまったからな。……すまなかった」
人は歴史を作る。たとえ自らが死を迎えようとも、子を作り、新たな命を宿し、変わっていく自分たちのことを伝えていく。
「だけど、勝手な願いなんだが……聞いて欲しい」
私はそんな人の営みとは異なる場所にいる。永遠に一人が生き続けるのなら、歴史を刻む必要は無い。歴史とは今しか知らない者のために、過去を語り伝える術なのだから。
「……『また明日』」
だから永遠を生き続ける人間に、刹那を生きようとする人間と関わる資格なんて、無い。
そう、思っていた。
「……また明日、カレーを作ってくれるならな」
だけど、一人だけで生きていくには、どうやら永遠という時は永すぎるようだ。
彼女は一瞬だけ、戸惑ったような表情を浮かべて。
「ああ、もちろんだ。飽きるほど食べさせてやるぞ」
次の瞬間には、満月のように明るい笑顔を見せてくれた。
3.
それから一週間の間、彼女は私の家を訪れ続けていた。
彼女は毎夜訪れては律儀に夕食を作ってくれた。……とはいってもカレーを作ってもらったのは最初の三日間だけだ。私の方からギブアップしてしまったのだ。なるほど、カレーというのは美味いが段々と飽きが来る。
夕食を食べ終わってもすぐに帰ることは無く、しばらくの間お互いのことを語り合ったりした。彼女が話すことは大抵、寺小屋の子供たちとの教員生活の話だった。
竹林での生活が長い私にとって、人間の里での暮らしは珍しくもありまた懐かしくもあった。
「私だって好きで頭突きをしてるんじゃない!これはあの子たちが可愛くてしている愛の鞭なのだ!」
どうやら今日の彼女は自分が持ち寄った酒に酔っ払ってしまったようで、さっきから愚痴にも嘆きにも似た悲鳴を繰り返し叫んでいた。
ちなみに彼女の言う頭突きとは宿題を忘れてきた生徒に対する体罰のことで、罰則に頭突きなんかを用いる彼女がどこかずれていることはここからもわかる。
「うんうん、わかるよ。わかる」
一方酒を飲まない私はこの酔っ払った淑女をたしなめるのに手一杯だった。実につまらない。
「そりゃあ頭突きをしたら子供は痛いだろうさ!でも私だって痛いんだ!手で叩くよりもずっと。けど子供たちは宿題を忘れる。共に痛みを分かち合ってよりお互いを高めていこうということをどうして理解してくれないんだ!!」
そう言ってしまうと、突然おいおいと泣き出してしまった。やれやれ、今日はずいぶんと酔いがひどい。
「……でも、もしかしたらその子供たちだってあんたのことが好きなのかもしれないよ?」
その言葉にぴくりと反応したのは、当然上白沢慧音である。
「……どういうことだ?」
「だから子供なんてそんなもんだって言いたいんだよ。ほら、よく好きな子をいじめたくなるとかそういうこと聞くでしょ? それと同じで、皆あんたのことが好きでわざと宿題を忘れてしまうんじゃない?」
私がそう言うと、彼女はしばらくそのことについて考え込んでしまった。
そして数秒後、急に彼女は号泣し始めた。
「そうかぁぁぁぁ!!あいつらそんなつもりで宿題を忘れてきていたのかぁぁぁぁぁぁぁ!!」
ちなみにそれは私の根も葉もない想像である。
しかしそんなことをおかまいなしに、うんうんと自己解釈しつつ杯に酒を注ぎ飲み続けていた。
「よしっ!明日からは優しく頭突きをしてやることにしよう!」
……いや、頭突きをやめろよ。
亥の刻も過ぎようとする頃、いつもの通り彼女は帰ることになった。
風の冷たい夜だった。酔いで赤く染まった頬で風を浴びながら、彼女は夜の空を眺めていた。曇っているせいで星月は見えない。けれどその奥に何かを見ようとするような、そんな遠い眼差しだった。
「……大丈夫?」
私は酔った彼女の帰り道を心配した。足元もおぼつかないという時に妖怪に襲われたら、果たして白沢とはいえ平気でいられるのか。
しかしそんな私の心配を、彼女は軽く笑った。
「なに、平気さ。こんな気持ちのいい風が吹いているんだ、酔いなんかすぐに醒める。それにいざとなったら酔った歴史を『食べて』しまえばいい」
気丈にそう笑う彼女の足が千鳥足でふらつく様に、思わずため息をついた。
すると彼女は何かを思い出したかのようにこちらを振り向いた。白く細い髪が夜空を舞った。
「そういえば明日の夜、子供たちを連れてこの迷いの竹林に行くんだ」
「夜の竹林に子供を連れて?正気?」
夜というのは妖怪の活動が盛んになる妖魔の刻。そんな時に獣人である彼女はまだしも、子供たちを連れて行くのは危険としか言いようが無い。
「大丈夫さ、何も竹林のこんな奥深くに来るわけじゃない。入ってすぐのところで花火をする程度だ」
「はなび?」
ジェネレーションギャップだった。
「そうだな……花火とは芸術的な炎のことだ。里の中でやっても良かったんだが、どうにも許可が下りなくてな。それで仕方が無くここでやることにしたんだ。なに、心配することは無い。妖怪なんかに私の教え子には指一本触れさせないさ」
自信満々に彼女はそう言った。
その自らの仕事に生きがいを持ち、今を一生懸命に生きてる彼女の笑顔は、私にはとても眩しいものだった。
「そこで……なんだが」
彼女の話はそこで終わったわけではなかった。
「妹紅もその花火大会に一緒に来てくれないか?」
「……はっ?」
私は一瞬自分の耳を疑った。
彼女はなんと言ったんだ?私に子供たちと一緒に遊んでくれと言ったのか?
「ど、どうして私なんかが?」
すると彼女はさも当たり前のことのように言葉を続けた。
「みんな一緒のほうが、楽しいからじゃないか」
それは――まあ一週間という短い付き合いの中での話なのだが――彼女がいかにも言いそうな台詞の一つだった。
「だ、駄目だよ。私なんかが居たらきっと皆楽しめない」
しかし教師たる彼女は、そんな私のネガ思考を打ち止めた。
「そんなことないさ、みんなきっと妹紅を好きになってくれる。それに花火の後でお前の炎を見せてやったらきっと人気者になれるぞ」
もしかしたら彼女の言うとおり、こんな私でも子供たちと楽しむことが出来るかもしれない。
私だって元々は人間なんだ。立派に生きてきた覚えは無いけど、誰かといると楽しいと感じることぐらいはある。
「……それは、無理だよ」
でも、最後のことだけは自信があった。永い歴史の中での、冬のように揺らぐことの無い確固たる自信が。
「きっと皆怯えてしまう」
私の炎は、殺すための炎だ。
ある時は森を焼き、ある時は妖怪を焼き、ある時は人を焼いてきた。
身を守るためには仕方が無かった。けれどそれは、私に科せられた一つの業だ。
だから私の炎が人を楽しませることなんて、出来るはずが――
「そんなことない」
けれど彼女はそれを認めなかった。
「きっと子供たちは喜んでくれる。分かるんだ私には、妹紅の炎の素晴らしさが」
「……」
私には、何も答えることが出来なかった。
「とにかく明日、午後六時に竹林の入り口に集合だ。遅れたら頭突きだからな!」
彼女は半ば無理矢理にその約束を押し付け、そして人間の里へと帰っていった。
その後姿を見届けながら、私はその約束について考えてみた。
子供たちと、慧音と、楽しく花火大会。
「……無理だよ、私には」
誰にあてることも無いその言葉は、竹林の向こうへと消えていった。
***
次の日の夜、私は待っていた。
上白沢慧音ではなく、蓬莱山輝夜のことを。
結局私は花火大会へは行かなかった。子供たちと楽しく花火なんていうのは、やっぱり私の性に合わない。私にはきっと殺し合いの方が似合ってるんだ。
彼女は私のことをなんて思うだろうか、しょうがない奴だと笑ってくれるだろうか、それとも怒るだろうか、あるいはもう私の家には来ないかもしれない。
そうなっても仕方が無いな、と思った。いずれはこうなる運命なのだから。
「……それにしても、輝夜の奴遅いな」
いつもならそろそろ来てもいい頃だ。何かあったのだろうか。それとも輝夜までもが私のことを見限るのだろうか。
時間はおそらく戌の刻を過ぎたころだろう。もう今頃はとっくに花火もやっている頃……。
「……っ!!」
竹林の中で妖気を感じた。
空を飛び上がり見てみると、どうやら竹林の一部が火事になっているようだった。
恐らくは下級妖怪が悪戯か何かで竹林に火を放ったのだろう。あれはそういう頭の悪い炎だ。それが悪い具合に燃え広がり、次々と炎は燃え広がっていった。
そして気付く。
そこが竹林の入り口の方である事に。
「くそっ!!」
考えるより先に体が動いていた。
私は迷うことなく焔が舞い上がる竹林へと向かっていた。
竹林の入り口には人だかりが出来ていた。
どうやらこの火事につられて来た野次馬のようで、 その中には泣きじゃくる子供たちの姿があった。
「火事はどうなってる!?」
群がる群衆の一人の男に私は尋ねかけた。
空を飛んできた私を男は怪訝そうな顔つきで見たが、人間だと分かると事の顛末を教えてくれた。
「なんでも花火をしていたら急に火が竹林に燃え広がったんだとか。子供たちは全員無事だったんだが……」
「慧音は!!慧音はどうなったんだっ!?」
私は我も忘れてそう叫んでいた。どうしてここまで不安になるのか、自分でも分からなかった。
「あんたあの先生の知り合いか?どうやらその先生は子供たちをここへ避難させたあとで一人見つからない生徒を探しにもう一度竹林の中に入ったらしいんだ。しかしその数分後にその子供も戻ってきちまってすれ違いになったらしくて……」
「じゃあまだ竹林の中に居るって言うのかっ!」
私は絶句していた。まだ慧音があの中に――
「ああ。だがこの火事じゃ誰も先生を助けることが出来なくって……ってあんた!どこへ行くんだ!?」
制止の声も聞かず、私は竹林の中へと駆け出していた。
「決まってるだろ!慧音を助けにだ!」
燃え盛る火炎は、所詮は妖怪の火遊びに過ぎない。蓬莱の不老不死の薬を飲んで幾多もの業火を潜り抜けてきた私にとって、その炎では髪の毛すらも燃やすことは出来ない。
けれど彼女――慧音は別だ。彼女が本気を出せるのは満月の夜だけ。それ以外の日では普通の妖怪程度の力しか持たない。
要するに、このままいたら彼女は死んでしまうのだ。
私は竹林の中を走った。焼け崩れた竹に足をとられながらも、必死に走り続けた。
なんとしても、彼女を失いたくは無かった。
ああ、思えば彼女に言われたとおりに花火大会に来ていればこんなことにならずにすんだのに。
ああ、思えば私が下級妖怪の居場所を無くしてさえいなければこんなことにならずにすんだのに。
ああ、思えば、私さえいなければこんなことにならずにすんだのに。
十分も走り回った頃だろうか。赤く染まる煙を吸いながら、熱い空気で肺を焼かれながら、息切れを起こそうとも探し回った。
そして――――
「けーね!」
紅く焔を浴びた大地に倒れ伏している彼女を見つけた時、私はそう叫んでいた。
すぐさま彼女の元へと駆け寄った。息は荒く、皮膚はそこら中焼け爛れていたが、まだかろうじて生きていた。『まだ』。
「大丈夫か?しっかりしろ慧音!」
頬を叩くと彼女はうっすらと目を開いた。どこを見ているか分からない瞳が、しっかりと私の眼を捉えた。
「ああ、妹紅か……」
そして、まるでいつかのようにニッコリと笑顔を作った。
「初めて、名前で呼んでくれたな……」
かすれた声。煙と火で喉をやられているのだろう。
「そんなことどうだっていい!早くここから抜け出すぞ!!」
私は彼女を抱きかかえようとした。しかし彼女の体に触れた時、ようやく事の重大さが分かった。
「それよりも……あいつ……子供は、どうなった?」
「それよりって……それより大切なものがあるか!」
「いいから、どうなったんだ……?」
こみ上げてくるものを堪えながら、私は答えた。
「……大丈夫だって、慧音が竹林に入ってすぐに戻ってきたんだって」
すると、彼女は安心したように微笑んだ。
「そうか……良かった……」
良くなんて無い。あるはずがない。
永い間、死と生を繰り返してきた私には分かった。
上白沢慧音は、もう、助からない。
「自分より、子供のほうが大切だって言うのか……っ」
彼女は弱々しく首を振った。火の手はこちらの方にまで迫ってきていたが、もう関係ない。
「そんなことないさ、誰だって自分の身は可愛い……ただ」
私のことをしっかりと見つめながら、彼女は小さな声で、囁くように言った。
「お前の炎で、誰かを殺させるわけにはいかなかったからな……」
私は我慢することが出来なかった。
「ばか……っ」
こみ上げてくるものを、堪えることも拭うこともせず、心の底から悔やんだ。
「これは私の炎じゃない……、他の妖怪の火だよ……っ」
すると、彼女は微笑むように顔をつりあげた。けれど上手くいかずに、ただ口元がくずれただけだった。
「ああ……やっぱりそうだったか……。だってこの炎は、綺麗じゃないもの、なぁ」
いつの間にか、お互いに泣いていた。
これから訪れる別れに、月が満ちるほどの涙を流していた。
きっと彼女は私という要因が無くっても、こうして自分の命を犠牲にして子供を助けようとしていただろう。
たとえ無駄死にだと分かっていても、焔上がる竹林を走っていった。それは私とは違う、尊い覚悟。
やっぱり、彼女は私なんかと関わっていい存在じゃなかったんだ。
「なあ、お願いがあるんだ」
やがて彼女は、辛そうに口を開いた。
「もし妹紅さえ良ければ、お前の炎で、私を殺してくれないか?」
……どうして。
「だって悔しいじゃないか。どこの誰とも分からない奴の、しょうもない炎で死んでいくなんて」
……わかった。
私は口の動きだけで彼女に答えた。
硝煙と赤い炎が舞う竹林の中に、新たな紅の炎が生まれた。
その炎は周囲の低俗な火の粉を吹き飛ばし、風さえもそこを避けて通った。
炎は形を変え、姿を作った。それは永遠を司る火の鳥。
もう一度だけ、彼女を見た。彼女はどこまでも笑顔で……いつまでも泣いていた。
ああ、結局私の炎は。
人を殺すことしかできないのか。
古の不死鳥は空を飛んだ。
その炎は美しく舞い踊り。
その灼熱は全てを焼き尽くす。
さよなら、慧音。
ごめんね、慧音。
「それは、本当に彼女が望むことなのかしら」
不死鳥は姿を消した。いや、消し飛ばされた。
私は向こう側を見た。その炎の先――意思の無い炎すら避けて通るその先には、憎き蓬莱山輝夜が凛とした表情で立っていた。
「何をしに来た!どうして邪魔をする!」
激昂した私は叫んでいた。しかし彼女は高貴な姿勢を緩めることなく答えた。
「ただの気まぐれよ。それに、そんなことしたって誰のためにもならないと思ったんだもの」
その言葉に私は何も言い返せなかった。
私がここで火の鳥を彼女に向ければ、慧音は死ぬ。私もまたその罪を背負うことになる。
誰も救われることの無い結末。
だけど、どうやっても慧音は……。
そんな私の様子を見た彼女は、くるりと私に背を向けて、置いてくるように言葉を言った。
「ついて来なさい。……良い医者を知ってるから」
輝夜はそして、そのまま竹林の奥へと歩いていってしまった。
少しだけ迷った。果たして、このまま彼女についていってもいいのだろうか。私を陥れるための罠なんじゃないのか。
「もこ…う……」
しかしそんな迷いも、慧音のうなされる声にかき消された。
たとえここで罠にはめられて死んだとしてもかまわない。
私は人間として上白沢慧音を助けたいのだから。
それが分かった時には、私はもう輝夜の背中を追っていた。わずかに息をする慧音を抱えて。
道のりは永遠にも感じられた。
私の怪我はもう既に治っていた。けれど今にも死にかけている慧音のことが気がかりでそう遠くは無い距離が長く感じられたのだ。
そんな心境を知ってか知らずか、輝夜は急ぐことも無くのんびりと歩いている。私は本気で腹が立った。焼き殺してやろうかと思ったぐらいだ。
でも私は、じっと堪えて輝夜に付き添った。
「安心なさい。私が力を使っている限り、その獣人が死ぬことは永遠に無いから」
仇敵である彼女の言葉を、この時ばかりは信じることにしたのだ。
竹林を歩いていると、色々なことを思い出した。
産まれてからの望まれることの無い暮らし、輝夜との出会い、不死になった日、輝夜との再会、そして、慧音と出会った日の事。
一週間という短い間だったが、それでもわかったことが一つだけある。
千年よりも大切な一瞬というものがあるということを。
ふと気がつくと、いつの間にか足が石畳の上に乗っていた。
竹やぶが切り開かれた場所に堂々と在る、平安時代の宮廷のような日本屋敷。
輝夜はこちらを振り返り、深々とお辞儀をした。
「ようこそ、永遠亭へ」
***
目が覚めると、私は見覚えの無い布団の中に居た。
どうやらいつの間にか眠り込んでしまっていたらしい。ぼぅっとした頭で毛布をどけると、ぐぅっと背伸びをした。
静かな朝だった。遠くには小鳥の鳴く声が聞こえてくる。そうか、永遠亭でも朝は同じ時間が流れているのか。
永遠亭……。
「……慧音はっ!?」
病室を訪ねてみると、そこには慧音の安らかな寝顔があった。
苦しい表情のかけらも見せず、規則正しい寝息を吐き出す慧音。永淋の話によれば、二三日も安静にすれば全快するとのことだった。
私は彼女に礼を言った。しかし彼女は微笑みながら、その賛美の言葉を遠慮した。
「お礼なら姫様に言ってあげてください。姫様がここへ連れてこなければ私は治しようも無かったんですから」
……でもあいつに礼を言うのはなんだかしゃくだな。
私がそう言うと、永淋は上品に笑った。
「そういうのを、世間では『恥ずかしい』って言うんですよ」
ちょっとだけむかついた。
しばらくして慧音が目を覚ました。
まぶたをうっすらと開き、眠たげに目をこすり上半身だけ体を起こした。そして私の姿を見ると首をかしげた。
「……ここは、どこだ?」
私は言いたかった言葉を飲み込み、彼女の質問に答えた。
「ここは永遠亭……輝夜たちの住処だ」
「……私は、助かったのか?」
「ああ。……輝夜たちのおかげだ」
そうは言ったが、彼女はあまり状況をよく飲み込めていないようだった。
そんな彼女を愛しく思いつつ――私はずっと言おうと思っていた、あの時本当は言いたかった言葉を伝えた。
「ありがとう、慧音」
千年分の想いを込めて。
慧音も一瞬驚いたような表情を浮かべたが、やがて、いつもの通りの笑顔へと変わっていった。
「ありがとう、妹紅」
もしも、願うことが一つだけあるのなら。
いずれ来る別れの日にも、二人笑顔でこの言葉を伝えられますように。
――――そして月日は巡り――――
私は待っていた。
世界は夕闇に暮れなずむ。一日が終わり、また次の日が訪れる。終わりの無い輪廻の刹那に、今の私はあるのだ。
一時間近く待っているのに相手がここに来る気配は無い。しかしそれもそのはず、何故なら私は待ち合わせの二時間前からここに来ているのだから。
「……私も、なにやってるんだかなぁ」
とはいえそれだけ楽しみにしているということなのだろう。竹で背を支え立っているだけなのに不思議と頬がにやけてくるのがその証拠だ。
あと一時間何をして時間をつぶそうか――などと考えていると、遠くのほうから先生と教え子がやってくるのが見えてきた。
優麗なその教師は私の姿を認めると、笑いながら手を引いていた生徒に耳打ちをした。
「ほら、一時間も前なのにちゃんといただろう?」
「うんっ、ほんとうだ!」
どうやら私の行動はしっかりと見抜かれていたようである。
少しだけ顔が赤くなったが、それを誤魔化すように私は言った。
「うるさいなー、お前たちだって一時間も早く来て」
すると彼女は生徒たちと顔を見合わせて、皆一様に純朴な笑顔を浮かべてこう言い放った。
「仕方が無いだろ、皆早くお前に会いたかったんだから」
私は赤面した。
今日は花火大会。
あの日のやり直し。
先生からの注意を聞いた子供たちは少しも経つと、花火に夢中になっていた。
なるほど、花火というのは素晴らしいものだ。大小様々なものがあり、色彩にも富んでいる。おまけに扱いやすい。これなら人が好むのも納得できる話だった。
それを傍らで楽しみつつ、私は子供たちと真剣に、 そして楽しそうに遊ぶ彼女の姿を眺めていた。
二人ともあの日のことを謝ろうとはしなかった。
それはお互いに分かった事だし、また謝って欲しいとも思わなかった。
ただ一つだけ、約束を交した。
やがて花火も尽きた。
今宵の宴も終わりかと思いきや、そうではなかった。
慧音は花火が無くなった事を確認すると、にまっと不適な笑みを浮かべた。
なにやら悪寒を感じた私は身を翻しさっそうと逃げ出……そうとしたが、肩を掴まれて逃げられない!
「さあ、それでは最後に藤原妹紅先生の花火のお披露目となります!!」
無邪気な子供たちから拍手がこぼれる。
「ちょ、ちょっとそんなの聞いてないよ!!」
「当たり前じゃないか、言ってないからな」
あっさりとそう言う慧音の顔は、まるで悪戯を思いついた子供のようにあどけないものだった。
「みたいみたーい!」
「すっごいの見せてくれるんだろ!」
「線香花火みたいなのだったらぶっとばすからなー!」
ああもう子供たちまで……。
「くっそー、こうなったら見てろよ!あんまり近寄ると火傷するぞ!!」
私は半ばやけくそになりながら、空に向かって炎を作り出した。
永遠の火の鳥は空を舞う。
いつもなら誰かを殺すためにある灼熱は、今だけは夜の虚空を飛ぶためだけに産まれた。
約束。
それは死を望まない事。
生きるということを謳歌する事。
不死鳥は空を目指す。
子供たちの歓声を背に、永遠を生きる者と歴史を刻む者の眼差しを受けながら。
そんな彼女らの姿を見守る二つの人影も、火の鳥は見ていた。