悪魔の棲む館、紅魔館。
魑魅魍魎が跋扈する魔境・妖怪の山の麓に建つ、紅色に染まった洋館である。
赤は血の色、警戒色。
少々目にきついカラーリングは、寄りつく人妖を威嚇し遠ざける、住人の気性の表れなのかもしれない。
「ん……ん~っ」
なればこそ、彼女がこの館には不釣り合いだと評されるのも、またやむなしといったところだろう。
目を閉じ両手の指を組み、門前で軽く伸びをするのは、紅魔館の顔・紅美鈴。
悪魔が棲むと言われるこの館で、目立って暢気な性格をした、中華風の出で立ちの門番である。
緑のチャイナドレスを翻し、がらがらと門を開けて内側へ入った。
「さてさて、本日のお仕事終了っと」
かつり、かつりと響く足音。
庭園の石畳を歩く美鈴が、意気揚々と向かう先は、紅魔館の正面玄関。
先ほども本人が呟いていたが、この日のシフトはこれで終わりらしい。
いくらタフな妖怪といえども、24時間不眠不休で仕事ができるわけではないのだ(365日の間に休日があるかどうかは謎だが)。
るんたったった、ふんたった。でたらめな鼻歌を口ずさみながら、館のドアを開け放つ。
赤絨毯を踏みしめて、キャンドルに照らされた室内へと入った。
紅魔館は日光侵入お断りの屋敷だ。窓一つないこの館は、照明を消せば、星明かりすら届かぬ暗闇へと変わる。
(ちょっと小腹が空いたから、適当に何か作ろうかしら)
ふと、そんなことを思いつき、針路を台所へと取った。
米があったら炒飯でも作ろうか。手間もかからないし、それくらいが一番いいだろう。
そんなことを思案しながら、かつりかつりと廊下を進む。
「――あら、今上がりだったの」
ちょうどその時だ。
前方斜め下辺りから、耳に馴染んだ声が聞こえてきたのは。
「おや、これはお嬢様。珍しいところで会いますね」
視線を下方へと落とし、声の主へと言葉を返す。
どこか幼い印象を与える、薄桃色のドレスに身を包むのは、これまた幼い容姿の少女。
さりとて妖怪の外見年齢は、実年齢とは一致しない。
深紅の双眸をぎらつかせるのは、齢500を超える大妖魔だ。
「元よりここは私の家だからね。どこに居ようが私の勝手、ということさ」
ふふん、と笑い告げるのは、永遠に紅い幼き月。
血の色の名を姓に持つ、自称串刺し公の後継者。
レミリア・スカーレット――誇り高き吸血鬼にして、守護すべき館の主がそこにいた。
◆
時刻は深夜を回っていた。
夕食の時間は当に過ぎているし、美鈴もそれは食べている。
故に館の炊事を一手に担う、銀髪のメイド長の姿はそこになく。
「さすがに咲夜のようにはいかないか」
「いやはや、面目ない」
半ばからかうように笑う吸血鬼と、苦笑する門番の姿のみが台所にあった。
キッチンテーブルへと適当に椅子を並べ、座る――雑とすら形容してもいいお茶の席を見れば、メイドはきっと嘆くだろう。
もっともそれも、主たるレミリア自らが許可したとあれば、多少は大人しくなるかもしれないが。
「まぁ、たまにくらいは目をつぶるさ。2人きりの茶会なんて、そうそうあるものじゃないからね」
くつくつと笑いながら、白いティーカップをソーサーに置く。
この日、レミリアの紅茶を淹れたのは美鈴だ。
当然、普段その手の仕事をしない彼女が、主の期待に沿えるだけの味を出せるはずもなかったのだが、
この場に居合わせた偶然性に免じて、お咎めなしということにしてくれたようだった。
「本当、何年ぶりですかね。咲夜さんがメイド長になってからは、初めてなんじゃないでしょうか」
対面するようにして席に着いた美鈴の手には、日本茶を注ぐための湯飲みが1つ。
中は半透明の液体で満たされ、そこに柑橘系の果肉のスライスが浮いている。
美鈴の故郷――の更にお隣の国で生まれた、柚子茶と呼ばれる飲み物だ。
我らがメイド長・十六夜咲夜が、「咲夜の用意してくる変なお茶は嫌いだ」と、
度々突っぱねられ続けてきた末に、今度こそはと気合いを込めて、先日香霖堂から仕入れてきた渾身のチョイスである。
(ちなみにレミリアからはまたしても、「果物っぽすぎて茶を飲んでる気がしない」と顰蹙を食らった)。
くるくる、と小さじで柚子をかき混ぜて、頃合いになったところで、口に運ぶ。
「……うん、美味しい」
柑橘特有の甘酸っぱい味覚が、じんわりと口内を満たしていく。
レモネードの味を、色濃く大人しくしたような感触だ。
紅茶を好む家主にとっては、確かに甘ったるく感じられるかもしれないが、少なくとも美鈴にとっては、悪くない。
「やれやれ、クレームをつけた客の前で、よくもまぁそんな幸せそうな顔ができたもんだ」
「いやだから、反省してますってば」
「冗談よ」
そんなやりとりから始まったのは、とりとめのないよもやま話。
鮮やかな紅の長髪を揺らす、中華系の長身の美女と。
10に至るか否かといった、幼く小柄な見た目の娘。
ともすれば親と子にすら見える両者が、しかし実際には全く逆の上下関係のもと、ああだこうだと言葉を交わす。
何もかもがちぐはぐな、一見奇妙なツーショット。
「この前咲夜が、人里に買い出しに行った時の話だそうだけど……」
「おとといパチュリー様に頼まれて、荷物運びのお手伝いをしていたんですけどね……」
先ほど彼女ら自身が言った通り、紅美鈴とレミリア・スカーレットが、2人きりで顔を合わせるのは、稀だ。
それはお互いの立場が理由でもあるし、レミリアお付のメイド長が現れたからでもある。
だからといって、場の空気が気まずくなるかと問われると、そうでもなく。
天狗の漫画を貸し借りし合うくらいには、2人の主従関係は良好であった。
◆
そんな雑談がどれほど続いた頃だったか。
「……そうそう。そういえば以前に、竜宮の使いなるものと弾幕勝負になったことがありまして」
不意に美鈴が、そんなことを切り出した。
「ああ、なんだっけ、幻想郷の天気を狂わせた奴だっけか?」
「いや、博麗神社を地震で壊した犯人だったような……まぁそれはどっちでもいいんですけども」
実際にはどちらも外れである。
雷雲よりの使者・永江衣玖――彼女は当時の異変においては、地震が起きることを知らせるという形で関わっていた。
もっともその時のあれやそれには、美鈴はさっぱり関わっていなかったので、
それこそ今の話においては、心底どうでもいい事実ではあるのだが。
ともかく美鈴が言うには、その竜宮の使いの微妙に癪に障る物言いにムッときた彼女が、
珍しくムキになって弾幕勝負を挑み、敗北してやっぱり癪に障る台詞を吐かれて終わった、とのこと。
「私が本気で、この館の門を閉め切ろうとしてると思ってるのか……ねぇ」
「でもまぁ、あいつに言われなくとも、前々から気にはなってたんですよ。この際だから言わせてもらいますけど」
永江衣玖の言うことは、ある程度的を射ていたと言えよう。
元よりこの悪魔の館において、美鈴の戦闘能力のランクは、ぶっちゃけあんまり高くない。
武術しか取り柄のない木っ端妖怪では、図書館の魔術師には到底かなわないだろうし、
時を止めるメイド長にすらも、とてもじゃないが勝てないだろう。
つまるところ、本来彼女が守らなければならないほどに脆弱な存在は、この紅魔館にはいないのだ。
それどころかこの家主は、強者たる己に挑んでくる者達がいるという状況を、半ば面白がっているようにも見える。
ならば門番たる紅美鈴は、何のために存在しているのか。
それで思い悩み苦悶するほど、彼女のメンタルは弱くなかったが、兼ねてからの素朴な疑問ではあった。
……もちろん、全く不必要な存在だと言われてしまえば、当然ショックではあるが。
「そこのところ、どうなんですか? 私はちゃんとお役に立てているんですか?」
「いやでも、お前も役に立ってはいるのよ? 私だって、館に忍び込むネズミ全部の相手をするほど暇じゃないんだしさ」
「篩なんですか、私は」
要するに、私が追い払える程度の相手はあしらって、私を倒せるだけの相手と戦う――その尺度のために私はいるのかと。
「そうとも言うわね。それ以外にも、また色々理由はあるんだけども」
相も変わらずマイペースな、ともすれば自分本位な物言いで、レミリアが美鈴に返す。
ついでにティーカップを手に取ると、軽く一口紅茶を含んだ。
「こんな話があるわ」
音もなく、静かに。
優雅な仕種で、カップをソーサーへと戻す。
自らを貴族と称するレミリアだが、なるほど確かに、その細かな挙動には、その名に違わぬ品性がある。
「その昔、外の世界のあるところに、起業を志す1人の若い女がいた……」
彼女は会社を立ち上げるため、融資をしてくれる企業を探し、日々営業を続けていた。
しかし努力は実を結ばず、どこへ行っても門前払い。
何故誰も話を取り合ってくれないのか、自分の何がいけなかったのか――彼女は失敗の原因を分析し始めた。
そしてある時、彼女はある結論に至る。
彼女は宝石店に向かうと、ありったけの宝石を買い漁り身につけ、その上で再び営業に臨んだ。
すると受付の者達は、慌てて上司に連絡を取り、あっさり商談の席へと彼女を通したそうだ。
「おかげで彼女は金を手にして、見事自分の会社を立ち上げることに成功したそうよ」
「えーっと……それとこれとに、どういう関係が?」
困ったように頭をぽりぽりと掻きながら、美鈴が尋ねた。
腕っ節と身体捌きには自身のある彼女だが、その一方で、残念ながら、その手の教養の理解には疎い。
貴族の語る起業家のたとえ話は、野良妖怪には少々難解すぎたようだ。
「……お前にももう少し学があれば、ちょっとはマシになるんだけどねぇ」
むぅ、と不満げに唸りながら、ジト目で従者を睨むレミリア。
一方の美鈴はそんな主に、あはは、と居心地悪そうな苦笑で返した。
「まぁいいわ、もう少し分かりやすく話してあげる。要するに門番というものは、力ある者のステータスなのよ」
「ステータス……ですか?」
そこまで言い終えたところで、レミリアは一度姿勢を直した。
椅子に預けた身をずらし、両肘をテーブルについて、両手の指を組む。
楽な態勢を取ったところで、再び主は口を開く。
「美鈴は1人の人間が、従者を連れて歩いているのを見た時、その人間に対してどんな感想を抱く?」
「そうですね……偉い人なのかな、といったところでしょうか」
「そう、人を従えている人は偉いのよ」
絡めた指を再び解き、右の人差し指で美鈴を指し、言う。
それがレミリア・スカーレットの語る核心だった。
「若き起業家は宝石を纏い、自らを軽んじた者達に対して、自分を金持ちに見せようとした。
お前も知っての通り、人間にとっての金は、そのまま力に直結する……
それが知力であれ腕力であれ、大金を手にするには、相応の力が必要となるわけだからね」
「なるほど。大金を稼いだ者は、稼げるだけの力がある者……
取引相手は、能力がある者が味方につくのなら、自分にとって利益になりうる、と判断したわけですね」
「正解」
力とはすなわち説得力だ。
どこの馬の骨とも知れぬ者が、儲け話を持ってきたから金をよこせ、と言ったところで、誰も信用するはずもない。
どれほどの正論を吐こうとも、実績が伴っていなければ、机上の空論としか受け取られないだろう。
しかしそれと同じ台詞を、力ある高給取りの口から聞かされれば、論理はたちまち説得力を帯びる。
起業家は金持ちとして振舞うことで、その説得力を装おうとしたのだ。
「従者もその宝石と一緒。
他者を従えられる者は、その者を屈服させられるだけの力を持った者なのだと、周囲にアピールすることができる。
私は強いんだ、偉いんだと、周囲に知らしめることができる。外からでも人目につきやすい門番なら、なおさらね」
「つまり私は、お嬢様の偉大さを喧伝するための看板、ということですか」
「馬鹿どもを畏れさせるには、それで十分に有用なのさ」
宝石に踊らされた使用人のような、と。
そこまで言い終えたところで、話にひと段落がついたのだろうか。
吸血鬼は肘をテーブルから離すと、カップを手に取り紅茶を飲んだ。
門番もそれに合わせるようにして、湯飲みの柚子茶を口に含む。
つまるところ、やはり門番・紅美鈴の役目は、館の弱者を守るために、門を閉め切ることではなく。
門前で活躍することで、それをも従える強者の力を、外部に印象付けることだったということか。
それではまるで、活劇漫画や小説に出てくる、引き立て役の噛ませ犬だ。
といっても、それで困ることもないしまぁいいか――素直にそう思っていたあたり、やはり美鈴は美鈴だった。
「やれやれ、相変わらず我らがお嬢様は、カリスマ第一主義でいらっしゃる」
とはいえ調子に乗らせたままでは、いささか癪に障るので、ちょっとばかりの皮肉を垂れる。
どうせ無礼講の席なのだ。無礼だとか不敬罪だとか、そういうことは置いておくことにした。
「ええ、お前様のおっしゃる通りよ」
しかし。
ふっ、と微笑。
あっけらかんと返ってきたのは、意外なほどに上機嫌な肯定だった。
「力とは恐れるべきものであり、畏れるべきものでもある……
畏怖とはすなわち自衛の手段。強いと分かっている者を、わざわざ襲おうとする奴はそうそういないわ。
力を誇示するということは、すなわち己を守ることに繋がる」
なるほど、そういう考え方もあるのか。
柚子茶を一口飲み込んで、机に湯飲みを置きながら思う。
「力は秘するものではない。外へと示すものなのよ」
強い力を目の当たりにした者が、そこに抱く念は2つに1つ――それは人も妖怪も変わらない。
その力をもって、弱き自分を虐げるのではないかという、恐怖。
自分もあの者のように、強く在ることができたらという、畏敬。
恐れは敵対者を逃走へと向かわせ。
畏れは人を魅了し下僕へと貶める。
そうなれば刃向かう者は1人もいない。レミリアをおびやかそうとする者は、軒並みその視界から消え失せる。
力が秩序をなす妖怪社会においては、なるほど確かに、ある種理にかなった自衛の法かもしれない。
「……身の丈に合わない自慢話は、かえって自分を愚かに見せますよ?」
「ほう――お前は、私の身の丈が足りないというのか?」
瞬間。
ぞわり、と。
ここしばらくの間忘れていた、懐かしい不快感が身を揺さぶる。
全身の肌が泡立った。筋肉が委縮し、汗が流れた。
そうだ。この感触だ。
妖魔の本能に突き刺さるのは、眼前の存在が放つ気迫。
吸血鬼と対峙した者全てが、例外なく満遍なく味わわされる、純然にして冷徹なる殺意。
雄弁なるレミリア・スカーレットが紡ぐ万の言葉よりも、遥かに強大な説得力を有した王者のオーラだ。
鮮血の紅眼に睨まれた者は、否応なしに悟らされる。
この存在が口にする、大言壮語の数々には、その実誇張などまるでないのだと。
その言の葉一枚一枚の全てが、圧倒的説得力の上に成り立った、紛れもない真実であるのだと。
幻想最強の一角と謳われ、幻想の理すらも捻じ曲げた、生まれついての絶対王者。
人を、アヤカシを、運命さえもその手に統べる、
恐れと畏れを纏いし最強の血統――それが眼前で犬歯を光らせ、不敵に笑う少女の本質なのだ。
「いえ、滅相もない。少し戯れが過ぎたようです」
申し訳ありません、と謝罪した。
同時に内心で、危なかった、と冷や汗を流す。
無粋と力押しを嫌うレミリアは、滅多に自らの力を振るうことはしない。
そのせいもあって半ば忘れかけていたのだが、どうにか機嫌を損ねる前に、思い出すことができたらしい。
自分が何者に仕えていたのかを。
他ならぬ紅美鈴もまた、レミリア・スカーレットの力に中てられ、魅入らされた者の1人なのだということを。
「まぁいいわ。短期は損気、強者の名折れ……安直な怒りは嘲笑の的だもの」
くすくすと含み笑いのように微笑しながら、吸血鬼は真紅の瞳を細める。
同時にその身に纏った気迫も、たちまち赤色の室内へと霧散した。
そうして普通に振舞っていれば、外見相応のおませな子供なのに――率直な感想は、しかし絶対に口にしないと決めた。
そんなことを口走りでもすれば、今度こそあの世逝きかもしれない。
◆
「大体ね、分からないのはむしろ、美鈴の方よ」
言いながらレミリアが下ろしたカップは、すっかり空になっていた。
どうやら今の一口で、1杯目の紅茶を飲みほしたらしい。
「それだけの力を持ちながら、何故それを誇ろうとしない?
お前くらいの木っ端妖怪でも、煩わしい人間どもを追い払うくらいはできるはずでしょう?」
訳が分からないといった風に、主の眉根がしかめられている。
言うなれば紅美鈴は、レミリアの下に仕えていながら、その主とはまるきり真逆の性質を有していた女だった。
よっぽど争いが嫌いなのだろうか。
たとえ侵入者が現れても、平謝りすればそのまま帰す。
それどころか通行人相手に、暢気にも世間話を持ちかけたりする。
およそ排他的な輩の多い紅魔館において、人妖内外隔てなく、馴れ馴れしく接するこの女は、異質だ。
そんなことだから稗田の物書きにも、平和的な妖怪、なんて嘗められ方をするのだろうに。
「いやまぁ私も、少し前まではそうだったんですよ?
ただお嬢様のお力を見せられたら、私なんかのちっぽけな力を自慢したって、駄目じゃん?大したことないじゃん?ってなわけでして」
「それは喜んでいいのか、微妙なところね……」
今度はレミリアが苦笑いをする番だった。
呆れたというか、気まずいというか。
なんか悪いことしちまったかなぁ、と。
軽く肩を落とし、がっくりと脱力したような笑みで、美鈴を見やる。
自分が信用し顔役を任せた相手が、自分のせいで自信喪失していた――なんてことを聞かされれば、誰だっていい思いはしない。
「……といってもまぁ、そんなのは理由の1つでしかないんですけどね」
言いながら、軽くまぶたを閉じ、柚子茶をすする美鈴。
どうやら彼女も彼女で、最後の一口を飲み終えたらしい。
ことん、と空の湯飲みをテーブルに置くと、ゆっくりと青い双眸を開いた。
「幻想郷に来て、人喰いを禁じられて、スペルカードルールに触れて……私達と人間達との関わり方は、大きく形を変えました。
もちろん、未だ私達への恐怖は、一部に残ってはいるけれど……それでも、人と人同士のように、触れ合える望みができました」
幻想郷を幻想郷として保つのは、薄氷のごとく繊細な均衡。
人妖の人口割合に動きがあれば、結界も里も崩壊してしまうという。
故に人と妖怪は、互いに殺し合うことをやめた。
相互不可侵となった両者だが、しかしそうしたことによって、時折互いに交流する姿が見られるようになった。
互いを危険から遠ざけるための秩序が、互いを隣人として近づけるようになったのだ。
「独りぼっちは寂しいですから」
ふっ――と。
美鈴の緩んだ口元が、柔らかな微笑の形を成す。
「他人を打ちのめし、退ける力のない私は……他人を受け入れ、笑い合う方が楽しいんですよ」
裏表も、屈託もなく。
真っすぐな気持ちのいい笑顔で、彼女は眼前の主に言った。
「………」
孤高とは孤独の同義語だ。
敵を遠ざけるための傲岸な態度は、味方になりうる者すら遠ざける。
もちろん咲夜や美鈴のように、彼女に忠誠を誓った者もいるし、紅白の巫女や七曜の魔法使いのような、彼女に構ってくる例外もいる。
しかし、それはあくまで少数派だ。
紅魔館の従者達を除けば、レミリア・スカーレットに、友人と呼べる者はそうはいなかった。
通りすがりの人妖達と、和気あいあいと言葉を交わす、紅美鈴とは対照的に。
「……お前が守りたいのは我が身ではなく、心か」
ふ、とレミリアにも笑みが浮かんだ。
吸血鬼の強靭な精神力は、孤独の暗闇の中でも耐えられる。
しかしこの門番の心は、その重みには耐えられないのだろう。
他者に襲われる恐怖よりも、他者に嫌われる恐怖が勝るから。
誰からも領域を侵されないことよりも、誰かと領域を共有することを望むから。
きっと、だからこそ美鈴は彼女と違って、誰かにすり寄りたがるのだ。
人当たりのいい笑顔を浮かべて、誰かれ構わず愛想を振りまいて、人の輪の中に入りたがるのだ。
「損な性分ね。私には面倒で煩わしくて、とても真似できそうにない」
人の良さは悪徳にもなる。
友愛に徹しようとする態度は、時に悪人に利用され、不利益を被ることにも繋がる。
レミリアにとっては孤独よりも、そうしたリスクの方が不愉快だ。
「でも私には、お嬢様のような生き方の方が、よっぽど難しそうに見えますけどね」
「結局は十人十色ということ……とやかく論じるものでもなし、ということか」
くつくつと笑いながら、美鈴に返した。
そうだ。結局はそこに落ち着くのだ。
強さも性格も違う両者なのだから、物事を理解し実践する尺度も当然違う。
武術に優れてこそいるものの、この門番妖怪は、とりたて強い力を持っているというわけでもない。
レミリアの生き方を真似したところで、幻想郷に数多はびこる、より強力な連中に取って食われるのが関の山だろう。
それこそ彼女自身が言うところの、真似できそうにない損な性分、ということだ。
きっと美鈴にとっては、彼女自身の選んだ道の方が、無理もなく幸せなのだろう。
であれば、これ以上の論議は無粋でしかなかった。
「でもだからといって、悪魔の館の門番としては、厳格さが足りないことには変わりなし……
お前にも炊事洗濯のスキルがあったら、メイドに配置転換することもできたんだけどねぇ」
「たはは……面目ありません」
「まぁいいわ。……それじゃあ」
くい、と持ち上がるのは白いカップ。
「おかわり、もらえるかしら?」
悪魔には似合わぬ柔和な笑みで、空になった陶磁器を手に、レミリアが美鈴へと尋ねる。
「……もちろん、喜んで。眠くなるまでお付き合いします」
笑顔と共に頷くと、美鈴は再び席を立った。
主の命を受け、白いティーカップを受け取り、内側へ紅茶を注いでいく。
自身も柚子茶を淹れ直し、カップをそれぞれの手元へと戻す。
再び自分の席へとつけば、またとりとめもない談笑が始まる。
まだまだ夜は始まったばかり。
幻想最強種と謳われた吸血鬼と、その門を守る木っ端妖怪。
奇妙な2人の組み合わせの、たった2人きりのお茶会は、当分終わることはなさそうだ。
魑魅魍魎が跋扈する魔境・妖怪の山の麓に建つ、紅色に染まった洋館である。
赤は血の色、警戒色。
少々目にきついカラーリングは、寄りつく人妖を威嚇し遠ざける、住人の気性の表れなのかもしれない。
「ん……ん~っ」
なればこそ、彼女がこの館には不釣り合いだと評されるのも、またやむなしといったところだろう。
目を閉じ両手の指を組み、門前で軽く伸びをするのは、紅魔館の顔・紅美鈴。
悪魔が棲むと言われるこの館で、目立って暢気な性格をした、中華風の出で立ちの門番である。
緑のチャイナドレスを翻し、がらがらと門を開けて内側へ入った。
「さてさて、本日のお仕事終了っと」
かつり、かつりと響く足音。
庭園の石畳を歩く美鈴が、意気揚々と向かう先は、紅魔館の正面玄関。
先ほども本人が呟いていたが、この日のシフトはこれで終わりらしい。
いくらタフな妖怪といえども、24時間不眠不休で仕事ができるわけではないのだ(365日の間に休日があるかどうかは謎だが)。
るんたったった、ふんたった。でたらめな鼻歌を口ずさみながら、館のドアを開け放つ。
赤絨毯を踏みしめて、キャンドルに照らされた室内へと入った。
紅魔館は日光侵入お断りの屋敷だ。窓一つないこの館は、照明を消せば、星明かりすら届かぬ暗闇へと変わる。
(ちょっと小腹が空いたから、適当に何か作ろうかしら)
ふと、そんなことを思いつき、針路を台所へと取った。
米があったら炒飯でも作ろうか。手間もかからないし、それくらいが一番いいだろう。
そんなことを思案しながら、かつりかつりと廊下を進む。
「――あら、今上がりだったの」
ちょうどその時だ。
前方斜め下辺りから、耳に馴染んだ声が聞こえてきたのは。
「おや、これはお嬢様。珍しいところで会いますね」
視線を下方へと落とし、声の主へと言葉を返す。
どこか幼い印象を与える、薄桃色のドレスに身を包むのは、これまた幼い容姿の少女。
さりとて妖怪の外見年齢は、実年齢とは一致しない。
深紅の双眸をぎらつかせるのは、齢500を超える大妖魔だ。
「元よりここは私の家だからね。どこに居ようが私の勝手、ということさ」
ふふん、と笑い告げるのは、永遠に紅い幼き月。
血の色の名を姓に持つ、自称串刺し公の後継者。
レミリア・スカーレット――誇り高き吸血鬼にして、守護すべき館の主がそこにいた。
◆
時刻は深夜を回っていた。
夕食の時間は当に過ぎているし、美鈴もそれは食べている。
故に館の炊事を一手に担う、銀髪のメイド長の姿はそこになく。
「さすがに咲夜のようにはいかないか」
「いやはや、面目ない」
半ばからかうように笑う吸血鬼と、苦笑する門番の姿のみが台所にあった。
キッチンテーブルへと適当に椅子を並べ、座る――雑とすら形容してもいいお茶の席を見れば、メイドはきっと嘆くだろう。
もっともそれも、主たるレミリア自らが許可したとあれば、多少は大人しくなるかもしれないが。
「まぁ、たまにくらいは目をつぶるさ。2人きりの茶会なんて、そうそうあるものじゃないからね」
くつくつと笑いながら、白いティーカップをソーサーに置く。
この日、レミリアの紅茶を淹れたのは美鈴だ。
当然、普段その手の仕事をしない彼女が、主の期待に沿えるだけの味を出せるはずもなかったのだが、
この場に居合わせた偶然性に免じて、お咎めなしということにしてくれたようだった。
「本当、何年ぶりですかね。咲夜さんがメイド長になってからは、初めてなんじゃないでしょうか」
対面するようにして席に着いた美鈴の手には、日本茶を注ぐための湯飲みが1つ。
中は半透明の液体で満たされ、そこに柑橘系の果肉のスライスが浮いている。
美鈴の故郷――の更にお隣の国で生まれた、柚子茶と呼ばれる飲み物だ。
我らがメイド長・十六夜咲夜が、「咲夜の用意してくる変なお茶は嫌いだ」と、
度々突っぱねられ続けてきた末に、今度こそはと気合いを込めて、先日香霖堂から仕入れてきた渾身のチョイスである。
(ちなみにレミリアからはまたしても、「果物っぽすぎて茶を飲んでる気がしない」と顰蹙を食らった)。
くるくる、と小さじで柚子をかき混ぜて、頃合いになったところで、口に運ぶ。
「……うん、美味しい」
柑橘特有の甘酸っぱい味覚が、じんわりと口内を満たしていく。
レモネードの味を、色濃く大人しくしたような感触だ。
紅茶を好む家主にとっては、確かに甘ったるく感じられるかもしれないが、少なくとも美鈴にとっては、悪くない。
「やれやれ、クレームをつけた客の前で、よくもまぁそんな幸せそうな顔ができたもんだ」
「いやだから、反省してますってば」
「冗談よ」
そんなやりとりから始まったのは、とりとめのないよもやま話。
鮮やかな紅の長髪を揺らす、中華系の長身の美女と。
10に至るか否かといった、幼く小柄な見た目の娘。
ともすれば親と子にすら見える両者が、しかし実際には全く逆の上下関係のもと、ああだこうだと言葉を交わす。
何もかもがちぐはぐな、一見奇妙なツーショット。
「この前咲夜が、人里に買い出しに行った時の話だそうだけど……」
「おとといパチュリー様に頼まれて、荷物運びのお手伝いをしていたんですけどね……」
先ほど彼女ら自身が言った通り、紅美鈴とレミリア・スカーレットが、2人きりで顔を合わせるのは、稀だ。
それはお互いの立場が理由でもあるし、レミリアお付のメイド長が現れたからでもある。
だからといって、場の空気が気まずくなるかと問われると、そうでもなく。
天狗の漫画を貸し借りし合うくらいには、2人の主従関係は良好であった。
◆
そんな雑談がどれほど続いた頃だったか。
「……そうそう。そういえば以前に、竜宮の使いなるものと弾幕勝負になったことがありまして」
不意に美鈴が、そんなことを切り出した。
「ああ、なんだっけ、幻想郷の天気を狂わせた奴だっけか?」
「いや、博麗神社を地震で壊した犯人だったような……まぁそれはどっちでもいいんですけども」
実際にはどちらも外れである。
雷雲よりの使者・永江衣玖――彼女は当時の異変においては、地震が起きることを知らせるという形で関わっていた。
もっともその時のあれやそれには、美鈴はさっぱり関わっていなかったので、
それこそ今の話においては、心底どうでもいい事実ではあるのだが。
ともかく美鈴が言うには、その竜宮の使いの微妙に癪に障る物言いにムッときた彼女が、
珍しくムキになって弾幕勝負を挑み、敗北してやっぱり癪に障る台詞を吐かれて終わった、とのこと。
「私が本気で、この館の門を閉め切ろうとしてると思ってるのか……ねぇ」
「でもまぁ、あいつに言われなくとも、前々から気にはなってたんですよ。この際だから言わせてもらいますけど」
永江衣玖の言うことは、ある程度的を射ていたと言えよう。
元よりこの悪魔の館において、美鈴の戦闘能力のランクは、ぶっちゃけあんまり高くない。
武術しか取り柄のない木っ端妖怪では、図書館の魔術師には到底かなわないだろうし、
時を止めるメイド長にすらも、とてもじゃないが勝てないだろう。
つまるところ、本来彼女が守らなければならないほどに脆弱な存在は、この紅魔館にはいないのだ。
それどころかこの家主は、強者たる己に挑んでくる者達がいるという状況を、半ば面白がっているようにも見える。
ならば門番たる紅美鈴は、何のために存在しているのか。
それで思い悩み苦悶するほど、彼女のメンタルは弱くなかったが、兼ねてからの素朴な疑問ではあった。
……もちろん、全く不必要な存在だと言われてしまえば、当然ショックではあるが。
「そこのところ、どうなんですか? 私はちゃんとお役に立てているんですか?」
「いやでも、お前も役に立ってはいるのよ? 私だって、館に忍び込むネズミ全部の相手をするほど暇じゃないんだしさ」
「篩なんですか、私は」
要するに、私が追い払える程度の相手はあしらって、私を倒せるだけの相手と戦う――その尺度のために私はいるのかと。
「そうとも言うわね。それ以外にも、また色々理由はあるんだけども」
相も変わらずマイペースな、ともすれば自分本位な物言いで、レミリアが美鈴に返す。
ついでにティーカップを手に取ると、軽く一口紅茶を含んだ。
「こんな話があるわ」
音もなく、静かに。
優雅な仕種で、カップをソーサーへと戻す。
自らを貴族と称するレミリアだが、なるほど確かに、その細かな挙動には、その名に違わぬ品性がある。
「その昔、外の世界のあるところに、起業を志す1人の若い女がいた……」
彼女は会社を立ち上げるため、融資をしてくれる企業を探し、日々営業を続けていた。
しかし努力は実を結ばず、どこへ行っても門前払い。
何故誰も話を取り合ってくれないのか、自分の何がいけなかったのか――彼女は失敗の原因を分析し始めた。
そしてある時、彼女はある結論に至る。
彼女は宝石店に向かうと、ありったけの宝石を買い漁り身につけ、その上で再び営業に臨んだ。
すると受付の者達は、慌てて上司に連絡を取り、あっさり商談の席へと彼女を通したそうだ。
「おかげで彼女は金を手にして、見事自分の会社を立ち上げることに成功したそうよ」
「えーっと……それとこれとに、どういう関係が?」
困ったように頭をぽりぽりと掻きながら、美鈴が尋ねた。
腕っ節と身体捌きには自身のある彼女だが、その一方で、残念ながら、その手の教養の理解には疎い。
貴族の語る起業家のたとえ話は、野良妖怪には少々難解すぎたようだ。
「……お前にももう少し学があれば、ちょっとはマシになるんだけどねぇ」
むぅ、と不満げに唸りながら、ジト目で従者を睨むレミリア。
一方の美鈴はそんな主に、あはは、と居心地悪そうな苦笑で返した。
「まぁいいわ、もう少し分かりやすく話してあげる。要するに門番というものは、力ある者のステータスなのよ」
「ステータス……ですか?」
そこまで言い終えたところで、レミリアは一度姿勢を直した。
椅子に預けた身をずらし、両肘をテーブルについて、両手の指を組む。
楽な態勢を取ったところで、再び主は口を開く。
「美鈴は1人の人間が、従者を連れて歩いているのを見た時、その人間に対してどんな感想を抱く?」
「そうですね……偉い人なのかな、といったところでしょうか」
「そう、人を従えている人は偉いのよ」
絡めた指を再び解き、右の人差し指で美鈴を指し、言う。
それがレミリア・スカーレットの語る核心だった。
「若き起業家は宝石を纏い、自らを軽んじた者達に対して、自分を金持ちに見せようとした。
お前も知っての通り、人間にとっての金は、そのまま力に直結する……
それが知力であれ腕力であれ、大金を手にするには、相応の力が必要となるわけだからね」
「なるほど。大金を稼いだ者は、稼げるだけの力がある者……
取引相手は、能力がある者が味方につくのなら、自分にとって利益になりうる、と判断したわけですね」
「正解」
力とはすなわち説得力だ。
どこの馬の骨とも知れぬ者が、儲け話を持ってきたから金をよこせ、と言ったところで、誰も信用するはずもない。
どれほどの正論を吐こうとも、実績が伴っていなければ、机上の空論としか受け取られないだろう。
しかしそれと同じ台詞を、力ある高給取りの口から聞かされれば、論理はたちまち説得力を帯びる。
起業家は金持ちとして振舞うことで、その説得力を装おうとしたのだ。
「従者もその宝石と一緒。
他者を従えられる者は、その者を屈服させられるだけの力を持った者なのだと、周囲にアピールすることができる。
私は強いんだ、偉いんだと、周囲に知らしめることができる。外からでも人目につきやすい門番なら、なおさらね」
「つまり私は、お嬢様の偉大さを喧伝するための看板、ということですか」
「馬鹿どもを畏れさせるには、それで十分に有用なのさ」
宝石に踊らされた使用人のような、と。
そこまで言い終えたところで、話にひと段落がついたのだろうか。
吸血鬼は肘をテーブルから離すと、カップを手に取り紅茶を飲んだ。
門番もそれに合わせるようにして、湯飲みの柚子茶を口に含む。
つまるところ、やはり門番・紅美鈴の役目は、館の弱者を守るために、門を閉め切ることではなく。
門前で活躍することで、それをも従える強者の力を、外部に印象付けることだったということか。
それではまるで、活劇漫画や小説に出てくる、引き立て役の噛ませ犬だ。
といっても、それで困ることもないしまぁいいか――素直にそう思っていたあたり、やはり美鈴は美鈴だった。
「やれやれ、相変わらず我らがお嬢様は、カリスマ第一主義でいらっしゃる」
とはいえ調子に乗らせたままでは、いささか癪に障るので、ちょっとばかりの皮肉を垂れる。
どうせ無礼講の席なのだ。無礼だとか不敬罪だとか、そういうことは置いておくことにした。
「ええ、お前様のおっしゃる通りよ」
しかし。
ふっ、と微笑。
あっけらかんと返ってきたのは、意外なほどに上機嫌な肯定だった。
「力とは恐れるべきものであり、畏れるべきものでもある……
畏怖とはすなわち自衛の手段。強いと分かっている者を、わざわざ襲おうとする奴はそうそういないわ。
力を誇示するということは、すなわち己を守ることに繋がる」
なるほど、そういう考え方もあるのか。
柚子茶を一口飲み込んで、机に湯飲みを置きながら思う。
「力は秘するものではない。外へと示すものなのよ」
強い力を目の当たりにした者が、そこに抱く念は2つに1つ――それは人も妖怪も変わらない。
その力をもって、弱き自分を虐げるのではないかという、恐怖。
自分もあの者のように、強く在ることができたらという、畏敬。
恐れは敵対者を逃走へと向かわせ。
畏れは人を魅了し下僕へと貶める。
そうなれば刃向かう者は1人もいない。レミリアをおびやかそうとする者は、軒並みその視界から消え失せる。
力が秩序をなす妖怪社会においては、なるほど確かに、ある種理にかなった自衛の法かもしれない。
「……身の丈に合わない自慢話は、かえって自分を愚かに見せますよ?」
「ほう――お前は、私の身の丈が足りないというのか?」
瞬間。
ぞわり、と。
ここしばらくの間忘れていた、懐かしい不快感が身を揺さぶる。
全身の肌が泡立った。筋肉が委縮し、汗が流れた。
そうだ。この感触だ。
妖魔の本能に突き刺さるのは、眼前の存在が放つ気迫。
吸血鬼と対峙した者全てが、例外なく満遍なく味わわされる、純然にして冷徹なる殺意。
雄弁なるレミリア・スカーレットが紡ぐ万の言葉よりも、遥かに強大な説得力を有した王者のオーラだ。
鮮血の紅眼に睨まれた者は、否応なしに悟らされる。
この存在が口にする、大言壮語の数々には、その実誇張などまるでないのだと。
その言の葉一枚一枚の全てが、圧倒的説得力の上に成り立った、紛れもない真実であるのだと。
幻想最強の一角と謳われ、幻想の理すらも捻じ曲げた、生まれついての絶対王者。
人を、アヤカシを、運命さえもその手に統べる、
恐れと畏れを纏いし最強の血統――それが眼前で犬歯を光らせ、不敵に笑う少女の本質なのだ。
「いえ、滅相もない。少し戯れが過ぎたようです」
申し訳ありません、と謝罪した。
同時に内心で、危なかった、と冷や汗を流す。
無粋と力押しを嫌うレミリアは、滅多に自らの力を振るうことはしない。
そのせいもあって半ば忘れかけていたのだが、どうにか機嫌を損ねる前に、思い出すことができたらしい。
自分が何者に仕えていたのかを。
他ならぬ紅美鈴もまた、レミリア・スカーレットの力に中てられ、魅入らされた者の1人なのだということを。
「まぁいいわ。短期は損気、強者の名折れ……安直な怒りは嘲笑の的だもの」
くすくすと含み笑いのように微笑しながら、吸血鬼は真紅の瞳を細める。
同時にその身に纏った気迫も、たちまち赤色の室内へと霧散した。
そうして普通に振舞っていれば、外見相応のおませな子供なのに――率直な感想は、しかし絶対に口にしないと決めた。
そんなことを口走りでもすれば、今度こそあの世逝きかもしれない。
◆
「大体ね、分からないのはむしろ、美鈴の方よ」
言いながらレミリアが下ろしたカップは、すっかり空になっていた。
どうやら今の一口で、1杯目の紅茶を飲みほしたらしい。
「それだけの力を持ちながら、何故それを誇ろうとしない?
お前くらいの木っ端妖怪でも、煩わしい人間どもを追い払うくらいはできるはずでしょう?」
訳が分からないといった風に、主の眉根がしかめられている。
言うなれば紅美鈴は、レミリアの下に仕えていながら、その主とはまるきり真逆の性質を有していた女だった。
よっぽど争いが嫌いなのだろうか。
たとえ侵入者が現れても、平謝りすればそのまま帰す。
それどころか通行人相手に、暢気にも世間話を持ちかけたりする。
およそ排他的な輩の多い紅魔館において、人妖内外隔てなく、馴れ馴れしく接するこの女は、異質だ。
そんなことだから稗田の物書きにも、平和的な妖怪、なんて嘗められ方をするのだろうに。
「いやまぁ私も、少し前まではそうだったんですよ?
ただお嬢様のお力を見せられたら、私なんかのちっぽけな力を自慢したって、駄目じゃん?大したことないじゃん?ってなわけでして」
「それは喜んでいいのか、微妙なところね……」
今度はレミリアが苦笑いをする番だった。
呆れたというか、気まずいというか。
なんか悪いことしちまったかなぁ、と。
軽く肩を落とし、がっくりと脱力したような笑みで、美鈴を見やる。
自分が信用し顔役を任せた相手が、自分のせいで自信喪失していた――なんてことを聞かされれば、誰だっていい思いはしない。
「……といってもまぁ、そんなのは理由の1つでしかないんですけどね」
言いながら、軽くまぶたを閉じ、柚子茶をすする美鈴。
どうやら彼女も彼女で、最後の一口を飲み終えたらしい。
ことん、と空の湯飲みをテーブルに置くと、ゆっくりと青い双眸を開いた。
「幻想郷に来て、人喰いを禁じられて、スペルカードルールに触れて……私達と人間達との関わり方は、大きく形を変えました。
もちろん、未だ私達への恐怖は、一部に残ってはいるけれど……それでも、人と人同士のように、触れ合える望みができました」
幻想郷を幻想郷として保つのは、薄氷のごとく繊細な均衡。
人妖の人口割合に動きがあれば、結界も里も崩壊してしまうという。
故に人と妖怪は、互いに殺し合うことをやめた。
相互不可侵となった両者だが、しかしそうしたことによって、時折互いに交流する姿が見られるようになった。
互いを危険から遠ざけるための秩序が、互いを隣人として近づけるようになったのだ。
「独りぼっちは寂しいですから」
ふっ――と。
美鈴の緩んだ口元が、柔らかな微笑の形を成す。
「他人を打ちのめし、退ける力のない私は……他人を受け入れ、笑い合う方が楽しいんですよ」
裏表も、屈託もなく。
真っすぐな気持ちのいい笑顔で、彼女は眼前の主に言った。
「………」
孤高とは孤独の同義語だ。
敵を遠ざけるための傲岸な態度は、味方になりうる者すら遠ざける。
もちろん咲夜や美鈴のように、彼女に忠誠を誓った者もいるし、紅白の巫女や七曜の魔法使いのような、彼女に構ってくる例外もいる。
しかし、それはあくまで少数派だ。
紅魔館の従者達を除けば、レミリア・スカーレットに、友人と呼べる者はそうはいなかった。
通りすがりの人妖達と、和気あいあいと言葉を交わす、紅美鈴とは対照的に。
「……お前が守りたいのは我が身ではなく、心か」
ふ、とレミリアにも笑みが浮かんだ。
吸血鬼の強靭な精神力は、孤独の暗闇の中でも耐えられる。
しかしこの門番の心は、その重みには耐えられないのだろう。
他者に襲われる恐怖よりも、他者に嫌われる恐怖が勝るから。
誰からも領域を侵されないことよりも、誰かと領域を共有することを望むから。
きっと、だからこそ美鈴は彼女と違って、誰かにすり寄りたがるのだ。
人当たりのいい笑顔を浮かべて、誰かれ構わず愛想を振りまいて、人の輪の中に入りたがるのだ。
「損な性分ね。私には面倒で煩わしくて、とても真似できそうにない」
人の良さは悪徳にもなる。
友愛に徹しようとする態度は、時に悪人に利用され、不利益を被ることにも繋がる。
レミリアにとっては孤独よりも、そうしたリスクの方が不愉快だ。
「でも私には、お嬢様のような生き方の方が、よっぽど難しそうに見えますけどね」
「結局は十人十色ということ……とやかく論じるものでもなし、ということか」
くつくつと笑いながら、美鈴に返した。
そうだ。結局はそこに落ち着くのだ。
強さも性格も違う両者なのだから、物事を理解し実践する尺度も当然違う。
武術に優れてこそいるものの、この門番妖怪は、とりたて強い力を持っているというわけでもない。
レミリアの生き方を真似したところで、幻想郷に数多はびこる、より強力な連中に取って食われるのが関の山だろう。
それこそ彼女自身が言うところの、真似できそうにない損な性分、ということだ。
きっと美鈴にとっては、彼女自身の選んだ道の方が、無理もなく幸せなのだろう。
であれば、これ以上の論議は無粋でしかなかった。
「でもだからといって、悪魔の館の門番としては、厳格さが足りないことには変わりなし……
お前にも炊事洗濯のスキルがあったら、メイドに配置転換することもできたんだけどねぇ」
「たはは……面目ありません」
「まぁいいわ。……それじゃあ」
くい、と持ち上がるのは白いカップ。
「おかわり、もらえるかしら?」
悪魔には似合わぬ柔和な笑みで、空になった陶磁器を手に、レミリアが美鈴へと尋ねる。
「……もちろん、喜んで。眠くなるまでお付き合いします」
笑顔と共に頷くと、美鈴は再び席を立った。
主の命を受け、白いティーカップを受け取り、内側へ紅茶を注いでいく。
自身も柚子茶を淹れ直し、カップをそれぞれの手元へと戻す。
再び自分の席へとつけば、またとりとめもない談笑が始まる。
まだまだ夜は始まったばかり。
幻想最強種と謳われた吸血鬼と、その門を守る木っ端妖怪。
奇妙な2人の組み合わせの、たった2人きりのお茶会は、当分終わることはなさそうだ。