「ねぇ・・・キスしない?」
目の前の小さな少女が、いきなりそんなことを言ってきた。
真意のわからない僕は、何も言えない。
すると、彼女はじっと僕の方をみて、
「あははは、うそうそ。あんたってば変な顔してるよ」
そう言って、舌をぺろりと出すのだった。
この少女はチルノと言うらしい。
彼女とよく遊んでいる湖の畔に僕たちは座っていた。
「・・・今日は、もう帰るね」
言いたいことだけ言って、チルノはさっさと帰ってしまった。
大体いつもこんな感じなのだが、今日は何か少し引っかかるものがあった。
「キス・・・か」
僕は、もやもやしたものを払うように頭を振り、湖を後にした。
チルノと初めて会ったのは、まだ暑さの残る季節だった。
その日、僕は釣りに出かけた。いつもは、近くの池で釣るのだが、たまには遠くに行くのも良いと思った。
妖怪が出る夕方を避ければ、湖までの道はそう危険は無い。
一時間ほどかけて湖に着いた。良さそうなところを見つけて、釣りの準備に取りかかる。
湖で釣りをするのは、初めてなので何が釣れるかわくわくしていた。
そして、釣りを始めて二時間・・・。
「つっ・・・釣れない」
一向に魚がかかる気配がしない。そもそもここに魚は居るのだろうか?
一時間かけて来たのにボウズのままでは帰れない・・・。
僕は、少しうなだれた。
「わっ!!」
突如、後ろから大きな声が聞こえた。
僕は驚いて湖に滑り落ちてしまう。
思ったよりも、水深が深くて、溺れそうになる。
必死に水を掻いていると、僕が座っていた辺りから笑い声が聞こえてきた。
「あっははははは! 人間、驚きすぎ!」
ずぶ濡れになりながら、なんとか岸に上がると、僕の半分ほどの背丈しかない少女が、得意げな顔で立っていた。
彼女の背中には、変わった形の羽のようなものが生えていて、それを見て妖精だということがわかった。
愛らしいくりくりとした目が、したり顔と相まって小物っぽさを増していた。
僕は、無言で近づいて、頭の上にげんこつを見舞った。
「いたっ!」
頭をさする少女。キッとこちらを睨んで、僕を指さした。
「何すんのよぉ!!」
次の瞬間、僕の足が動かなくなった。
足を見てみると、腰から下が氷漬けにされている。
まだ寒い季節では無いから良かったが、それでも冷たい。
「ちょっと、何するんだはこっちだよ! 冷たいから、早く解いてくれ!」
すると、少し迷う仕草を見せ、さっきまでの痛がり方が嘘のように、にんまりと笑った。
「いいけど・・・おにぎりちょうだい」
そう言って、勝手に道具入れの中を探って、握り飯を一つ見つける。
もう一つあるから、それで助かるなら安いものだと自分を納得させる。
しかし・・・まさか、こんな時期に氷の妖精がいるとは思わなかった。
下手をすれば、このまま全身を氷漬けにされていたかもしれない。
目の前でおにぎりを頬張っている間抜けな妖精に、そこまでの敵意が無かったのが幸いだ。
「それで・・・そろそろこの氷を解いてくれない?」
僕は、まだ食べている妖精に向かって催促した。
「うーん・・・そのうち解けるよ」
そう言って、またおにぎりを頬張る。
「ちょっと!? それじゃあ凍傷になっちゃうよ!」
僕が何回かお願いをしたら、ようやく氷を解いてくれた。
「もう・・・うるさい人間だなぁ」
体が自由になって、ほっと一息ついた。そして、彼女の隣に座る。
本当は、すぐに逃げてもよかったのだが、敵意が無さそうだし、今の一件でお腹が減ってきてしまった。
「うーん・・・いまいちだったかな。あたいが作った方がおいしいかも」
・・・妖精がおにぎりを作るというのは激しく違和感があるな。その前に、人から飯を掠めておいてよく言えるものだ。
「あたいは、チルノって言うの。あんたは?」
名前を名乗られたら、人妖関係なく名乗るのが一応の礼儀だ。
(中には他人の名前を悪用する者がいるが)
僕も名乗った。
「ふーん・・・魚、ぜんぜん釣れてないね」
痛いところを突かれた。僕は、ちょっと前に来たばかりだと嘘をついた。
「うそだぁ! あたいはさっきから、ずっと見てたもん」
ずっとイタズラする機会を探していたらしい。暇な妖精だ。・・・そういえば、
「チルノはどうして、こんな季節にいるの? 他の妖精は?」
そう言った途端、チルノの顔は曇って俯いてしまった。しまった、しちゃいけない質問だった。
慌ててフォローしようとすると、チルノが言った。
「あたいが遠くに遊びに行って、帰ってきたらみんないなくなってた」
季節に取り残された少女は、それからずっと一人で暇つぶしをしていたらしい。
僕の髪や服はまだ濡れていたけど、そんなことも忘れて、この子が不憫に思えてきた。
だから、僕は言った。
「じゃあ・・・明日もここに来るよ」
そう言うとチルノは驚いた顔でこっちを見て、ちょっと笑って、得意げな顔をした。
「なによ、このかわいいチルノちゃんと遊びたいの?」
一瞬浮かべた笑顔に魅了された僕は、生意気なことを言う彼女に乗ることにした。
「うん。チルノちゃんと遊びたい」
そう言ったら、チルノはすっくと立ち上がり、こちらに顔を向けずに、湖の方に飛んでいった。
と思ったら、少し引き返して、
「明日はもっと早く来いよーーー!!」
と言って、帰っていった。
まだ、日は沈んでいなかったが、服が濡れているので大人しく帰ることにした。
なんだかんだで、ボウズだったが、不思議と悔しくは無かった。
それからと言うもの、結構な頻度で湖に足を運んだ。
行ったところで、僕は妖精と違って飛ぶことが出来ないので、遊ぶことは限られていた。
でも、追いかけっこでも、飛び回るチルノに罠を仕掛けたりして対等以上に渡り合った。
チルノは悔しがったけど、おにぎりをあげたら、笑顔になった。
そんなある日、ちょっとした事件があった。
その日は、ちょっと用事があって、湖に行くのが遅れてしまった。
いつも明確に行く時間を決めていたわけでは無かったけど、僕は急いで湖に向かった。
湖が見えてきたところで、草むらからがさがさと音が聞こえてきた。
そっちの方には、確かちっちゃい池があったなと思い出し、蛇かもしれないと少し警戒した。
すると、
「きゃあぁぁぁあああ!!」
甲高い悲鳴と共に、何かが飛び出してきた。
草むらから少し距離を取っていたのだが、それ、ものすごい速さでこちらに向かってきた。
ぐいっと、僕の服の裾が飛んできたものに引っ張られる。
そのまま、それは僕の後ろに回り込んだ。
「ちっ、チルノ!?」
後ろを向くと、僕の服を必死で引っ張り怯えた様子のチルノがいた。
僕は、チルノが飛び出してきた草むらを再び見た。
かなり大きな蛙が草むらから姿を現した。
チルノがさらに強く裾を引っ張る。
僕と蛙は、無言で向き合った。
沈黙の時間が続く。
やがて・・・諦めたのか、蛙はのそのそと草むらに消えていった。
蛙が消えてもチルノは裾を引っ張っている。
「蛙はもう行ったよ?」
そう言うと、ようやくチルノは裾を放した。
半ベソをかいているチルノから詳しく話を聞いた。
なんでも、僕が遅かったから退屈しのぎに蛙を凍らせていたら、あの大蛙から追いかけられたそうだ。
もう少し早く来ていたら・・・僕は、とりあえず謝った。
でもチルノは首を横に振った。
「・・・助けてくれたからいい」
それから、いつも通り二人でおにぎりを食べて遊んだ。
チルノは心なしかご機嫌で、いつも以上に元気だった。
それにしても・・・今日のチルノは少しおかしかった。
今までのことを振り返っている間も、今日のあの言葉が頭の中から離れない。
「キス・・・か」
どんな感触なんだろう?
・・・僕とチルノが・・・。ダメだダメだ!
もう一度、頭を振り家路を急ぐことにした。
チルノ・・・明日、もう一度聞いてみよう。真意を問いただすんだ・・・。
「・・・それで、やっぱりその人間はキスしてこなかった?」
湖の中央。池の上で、二人の妖精が浮いたまま話をしている。
「うん・・・」
片方の少女は、少し落ち込んだ様子で答える。
それを聞いて、もう片方の少女が、はきはきと言う。
「ほらね、チルノちゃん。やっぱり、人間に遊ばれてるだけなんだよ。だからさ、みんなと遊ぼう?」
チルノは、何も言わない。少女は、諭すように言葉を続けた。
「一人で寂しかっただろうけど、私たちも帰ってきたんだし、人間なんて危ないよ? この間だって、妖精が連れてかれたんだって」
そう、チルノの仲間の妖精が、ようやく帰ってきたのだ。
また、みんなと遊ぶことが出来る。
ただ・・・、
「明日、もう一度あいつに会ってくる」
「・・・ちゃんとさよならするんだよ? つらいかもしれないけど、妖精と人間が仲良くなんて出来ないんだから」
それは、チルノにもわかっていた。
「うん、わかった・・・」
だから・・・これが、きっと一番良い方法なんだ、と自分に言い聞かせるチルノだった。
「・・・」
チルノがいない・・・。
結局、あの後、帰ってからもなかなか寝付けず、朝早くから湖へとやってきたのだ。
しかし、今日に限ってチルノはいなかった。
よくよく考えてみると、チルノに出会ってからというもの、湖に来ればいつでもチルノが待っていた。
最初のうちは、たまには僕が待つのもいいかなと思っていたが、もう結構な時間が経っている。
もう、釣りの道具も持って来ていないので、やることもない。
もうすぐ本格的に冬になる。厚着をしてきたけど、それでも少し寒い。
でも・・・、なんだかチルノに無性に会いたい。その思いが、僕に帰ることを躊躇させる。
それから、どれくらい経ったのだろうか。
日が沈み始めてしまった。
・・・さすがに、これ以上待つことは出来ない。
僕は、ようやく重い腰を持ち上げた。
何か、チルノにあったのだろうか?
いや、一日くらい来なかったくらいでそんなことは無いか。
とにかく、明日も・・・…思考がそこまで及んだ時、かすかな音に気が付いた。
それは、すすり泣きのような声。
もしかして・・・辺りを見回す。
傾く陽光の中、その特徴的な羽が逆光を浴びて、黄金に輝く。
「チルノ・・・遅かったね」
僕からは、彼女の顔がよく見えない。でも、彼女が泣いていることはわかった。
だから、なるべく優しい声で言った。
「でも、別に怒ってないよ。…それより、来てくれてよかった」
「なん・・・でよ・・・」
「えっ?」
いきなり彼女が僕に飛びかかってきた。
そのままの勢いで、僕は草むらに倒れた。倒れた僕の上にチルノが馬乗りになっている。
何がなんだかわからない僕は、とりあえず、彼女の言葉を待つことにした。
チルノは、僕の胸に顔を埋める。
そして、震える声で言葉を発する。
「あんたが・・・来なければ・・・来てもすぐ帰れば・・・言わなくてすんだのに・・・・・・ばかぁ・・・」
そう言ったきり、黙ってしまった。僕は、ますます訳が分からなくなった。
チルノは、そのうち震えだして、嗚咽をもらし始めた。
僕の上で泣くチルノ・・・。
こんなに小さな体を一生懸命震わせて、たぶん・・・僕のために泣くチルノ・・・。
気が付くと、僕の手は彼女の柔らかな髪の上に置かれていた。
氷の妖精にふさわしい、氷のような色の髪。
でも、冷たいイメージとは裏腹に、とても柔らかくて触っている僕の手を内側から包んでくれる。
二度、三度、何度も彼女の頭を撫でる。
チルノの悲しみが解けますように・・・そう願って、ゆっくりと暖かさが伝わるように・・・。
そうして、震えが止まった。
僕は、手をそっと降ろす。
チルノが顔を上げる。
いつもの笑顔とは違う真剣な表情。
静かに、僕だけに聞こえる声で彼女の唇がゆっくり動く。
「・・・キス、して・・・」
僕は、少し考えて、彼女の頭を両手で引き寄せる。
ドキドキして、彼女の顔もまともに見えないけど・・・唇が触れた感触だけが伝わってきた。
ひんやり冷たい・・・かき氷みたいなキスの味。
唇は、すぐに離れていった。ふっと、微かに残る甘い女の子の匂い。
「チルノ・・・」
ふっと、僕の上からチルノの重さが消えた。
起きあがると、チルノは空中に浮いていた。
「今日で・・・あんたともお別れだよ・・・」
いつだって、チルノは僕を突然驚かせる。
そうやって、僕のことをからかっているのかもしれない。
「今回は騙されないよ、チルノ」
「ううん・・・これは、うそじゃない。みんなが帰ってきたんだ」
「あっ・・・」
チルノが僕と遊んだ理由・・・。チルノは、もう一人じゃなくなったんだ・・・。
「そもそも人間となかよくなったのがわるかったわ、ちょうどいい暇つぶしのつもりだったのに・・・」
「そんな・・・」
わざとそうしているのか、僕にはチルノの顔が逆光で見えない。
「でも、すっきりした。・・・もう、あんたの顔も見たくない。だから・・・ばいばい」
僕に背を向けて、チルノは湖の方に飛んでいこうとする。
本当に・・・いつもいつも勝手なチルノ・・・。
勝手にイタズラして、勝手におにぎりを食べて、勝手に遊んで蛙に追いかけられて、勝手に・・・人の心に居座って。
それで・・・勝手に僕の前からいなくなるなんて・・・!
僕は、本当に頭に来た。チルノは、勝手すぎる。
だったら・・・、
「チルノーーーーーー!!!」
僕から、遠くに行こうとしているチルノに叫ぶ。
腹の底から、力の限り叫ぶ!
チルノの方なんて、もう見ない。
今ここで、僕の考えを全て吐き出すんだ。
「僕は、チルノと出会えて、悪かったなんて思わない! 僕は、まだ全然すっきりしてないんだからな!! 何度だって、ここに来てやる! いつまでだって、君を待ち続けてやるっ!!!」
急に、すごい勢いで涙が出てきた。
あと一言なのに・・・これだけは絶対に言わないといけないんだ・・・!
「チル、ノっ、チルノ、好きだーーーーー!!!!!」
「はぁっ、はぁっ、はぁっ・・・」
・・・まだ息が荒い。
日は、すっかり沈んでしまった。
周りには・・・誰もいない。
湖は、相変わらず生物の気配が無く、辺りは不気味な程、静まり返っていた。
チルノは・・・そのまま行ってしまった。
キスの感触だってまだ残っているのに・・・。
「でも・・・」
僕は決めた。いつまでだって、彼女を待ってやるんだ。
そう思うだけで、凍えるような寒さでも、僕の心は不思議と温かくなるのだった。
Ex.
「えぇ~、本当にぃ~? またうそじゃないの~?」
それは、ホラ話でも嘘でも方便でも無い、紛れもない事実。
早く、みんなに見せたい。自慢してやりたい。
いつもこの時間には来ているんだ。いつもの、あの場所に。
こういうところは、ちゃんとしているのに、普段はぼーっとしていて、いかにもイタズラしてくださいってオーラを出している。
ううん、本当はイタズラして怒られたいだけなのかも。
だって、そうやって怒られても、ちゃんと仲直りして・・・笑いながら二人でおにぎりを食べるのが楽しいんだもん。
「あっ、もしかしてあれ?」
「うっそぉー! 本当に待ってるよ?」
「だから、あたいが言ったとおりだったでしょ?」
胸を張ってそう言っても、まだ信じてくれない。
本当かなぁ?なんて。
・・・実力の違いをみせるしないみたい。
あいつのすぐ近くまで来たところで、後ろから付いてきた子たちはそっと草むらに隠れた。
これでいつも通り、あいつからはあたししか見えないはずだ。
あたいは、あいつの名前を呼ぶ。
そうすると、あいつは立ち上がって、あたいに手を振る。
すーっと、湖面をすべってあいつの前に浮かぶ。
そして・・・いつものように目をつむる。
あたいが溶けちゃいそうな、熱い唇。でも・・・大好き。
「きゃあああーーーっ!!」
付いてきた妖精たちが一斉に悲鳴をあげる。
あいつは、あたいを見て目をぱちくりさせている。
だから・・・勝手なあたいはもう一度キスをしてこう言うんだ。
「あたいったら、最強ね!」
それから、批評コメントありがとうございました。そのお叱りを胸に、何とか作品に昇華できたらと思います。
rateの高い方々もよく用いる手法のようですし。