殺した。突き出した刃が、鳩尾のあたりを真っ直ぐに貫いている。
少し遅れて鮮血が噴き出し、体を紅く染める。生暖かく、ぬるりとした感触が、両手いっぱいに広がる。
歓声が湧き上がる。賞賛。狂喜。これでいい。この行いは、正しいことなのだ。
ざわつく気持ちを押さえ込み、剣を収める。眼前に横たわるのは、もう自分の上司ではない。憧れた先輩ではない。結果だけが、そこに存在している。
本当は堪らなかった。この手の得物を、無茶苦茶に振り回したかった。あの人で塗れた剣で、何もかもを消し去りたかった。
どうしてこうなったのか。どこで間違えてしまったのか。上司も、同僚も、後輩も、誰も教えてはくれない。
どんなに食い縛っても、この牙は折れてくれない。涙は出なかった。
こうして私は最愛の人―――射命丸文を、殺した。
「んっ……」
眩しい。まどろみを振り払って開いた目に、朝日が差し込んだ。
軽く頭を揺らして起き上がり、室内を見回すものの、映る光景はいつもと変わらない。
窓はちゃんと二つあるし、仕舞い忘れた服が妖精さんによって片付けられている、なんてこともない。
なにか、とても悪い夢を見ていた気がする。思い出そうとしても、無意識に拒絶しているのか頭の深いところで引っかかって出てきそうにない。
ずっともやもやしているわけにもいかないため、突っ掛けを履いて庭へと出る。
心とは裏腹に澄みきった空が、いっそう眩しく感じる。口にした井戸水が、とても冷たく感じる。
今日は休日だ。随分と久方ぶりに思えるそれだったが、特に何かをする予定もない。元より緩い職場であるせいかもしれないが、なんとも無気力なことである。
何もしないからこそ本当の意味で心身を休めることができるのかもしれないが、生憎とそんな怠惰を受け入れられる性分でもない。
剣の鍛錬でもしようかと足を踏み出した、その時だった。
「もーみーじっ!」
良い風が吹いたと思う間もなく、彼女が目の前に現れた。
微笑を浮かべる射命丸文は、私の先輩で上司にあたる天狗だった。
「どうしたの、浮かない顔しちゃって」
説明しようにも、自分ですらわからないのである。なんでもないと首を振る私の顔を、不思議そうに覗き込んでくる。
その目に彼女の本職、新聞記者としての好奇心はまるで見られず、心から心配してくれているのがわかる。
「本当に大丈夫ですから、文様」
「そう……まぁいいわ。それより、今日は仕事ないでしょ?ちょっと付き合いなさい。行きたいところがあるのよ」
彼女が言っているのは、最近になってこの山に現れた神社のことだ。これまでも、何度か一緒に取材に行ったことがある。
最初の時など私の本職である警備活動中に、首根っこを掴まれて連れて行かれたものだ。
敢えて二つ返事を避けてみる。
「嫌です、と言ったらどうなりますか?」
「あら、椛は有り得ない未来について考えることに生産性があると思うのかしら?」
半分見透かされている。私に、彼女の誘いを断ることはできない。だがそれは、単に上司だからという理由ではない。
あの目―――今にも溢れ出しそうな、いっぱいの好奇心で輝きに満ちた瞳―――を見るのが、私は好きなのだ。
「ふふ、冗談ですよ。もちろん喜んでお供させていただきます」
「よろしい、それじゃ早速……」
言い終わらないうちに、空へ飛び出していく。置いていかれるのかと思うが、そんなことはない。
少し行ったところで急停止し、再び呼びかけてくれる。
「もーみーじ、早く行くわよー!」
「はい!今行きます!」
気がつけば、先ほどまでの鬱屈とした気持ちは消え失せていた。
思いっきり空を飛んだ後のような爽快感。それをいつも与えてくれるのが、彼女だった。
「……というわけで、こちらの皆さんとも仲良くしたいと思っています」
「そうですねぇ……上の方々も考えるところがありますから、そこはうまく折り合いをつけていった方がいいと思いますよ。こっちの頭が固すぎるのは否定しませんが」
先輩が取材活動に勤しむ横で、改めて部屋の中を見回す。
守矢というらしいこの神社は、博麗の神社に比べて一回り豪華で、大きいものに感じられる。
取材を受けているのは、巫女である東風谷早苗だ。まだ慣れていないのか、少し緊張した様子も見うけられる。
「こっちも状況が切迫してたからね。大目に見てもらえると助かるんだけども」
もう一人はここで祀られている神である、八坂神奈子様だ。
一見気さくな様子でありながら、神らしい威厳も兼ね備えている。自分程度の下っ端では、接見することもはばかられる存在だ。
「ここは幻想郷の中でも、珍しく排他的な土地ですからね。それも覚悟の上なのであれば、どのような対応をお考えでしょうか?」
それにしても、取材をしている時の先輩は本当に活き活きとしている。これが天職というものなのだろう。
長い時を生きなければならない妖怪が、生きがいのようなものを持つことが出来るのは、とても幸せなことである。いつかは自分も見つけ出したいものだ。
「なるほど、では椛はどう思いますか?……椛?」
「あ、は、はい!お茶ですか文殿!」
そんな思考も、一声で中断を余儀なくされる。
不覚にも上の空であった。慌てて返事をしたものの、先輩は呆れ顔であった。
「もう、呆けてる場合じゃないですよ。私まで恥ずかしいじゃないですか」
「ふふ、可愛い子じゃないの。うちにも一人欲しいぐらいだわ」
神に頭を撫でてもらうなど、ここに来るまでは考えられないことであった。
そんな私の様子を、先輩がじとーっとした目で見つめてくる。
「あげませんよ?椛は私の……部下ですから」
「わかってるっての。そう怖い顔しなさんな」
豪快に笑う姿を見ていると、この人が神であることを忘れてしまいそうになる。不遜ここに極まれりだ。
微妙な空気になりそうだったので、別の話を切り出してみる。
「そ、そうだ。早苗さんは、幻想郷で何か目指すものと言うか、やりたいことなどはありますか?」
「やりたいことですか?そうですね……」
顎に手を当て、考える仕草を見せる彼女。表情に、少し影が落ちたようにも見える。
まずいことを訊いてしまっただろうか。そう思うのも束の間、すぐに顔を上げ、口を開いた。
「……私たちは、外で信仰を失ってここに辿り着きました。殆ど追い出されたようなものです。もう向こうに戻ることはできません」
「早苗……」
「先ほども申し上げたように、私はここの……幻想郷の皆さんと仲良くなって、受け入れてもらいたいのです。もう、失われるだけの日々を過ごしたくはありません。私たちの力は小さいものかもしれませんが、それでも何か皆さんのお役に立てるのであれば、出来る限りのことはするつもりです」
そこまで一気に言うと、大きく息をついた。
想像以上に重い。どんな顔で、どんな言葉で受け止めればいいのか、自分にはわからない。
「……すいません、暗い話になってしまって。急にこんなことを言われても、困りますよね」
「全くその通りです」
口を開いたのは、先輩だった。期待を裏切る冷たい言い回しに、場の空気が凍りつく。
そんなことはお構い無しに、先輩は言葉を続ける。
「ですが、一番信用できます。人は自分の利に関わることだからこそ、必死になれるものです。下手な奇麗事を並べられるより、ずっといいですよ」
言葉は悪いが、それでも核心をついていた。
確かに後がない状況ならば、ここでやっていくしかない。必死にならざるを得ない。
「すいません。立場上、疑り深い性分なもので。ですが、そちらが真っ直ぐに来てくれた以上は、こちらも素直に言わせていただきました」
「……はっはっはっはっ!」
突如、神が破顔した。戸惑う早苗の肩に手を置き、目を細めてこちらを見やる。
「いやー、やっぱりこっちに来てよかったわ。ここなら、なんとかやっていけそうな気がするよ」
「八坂様……」
「大丈夫だよ早苗。こいつらとなら、楽しくやれるよ。さて、辛気臭い話はこれぐらいにしてさ。もうお昼だし、ご飯でも食べていってもらいなよ。いいだろ、二人とも?」
先輩が頷くのを見て、私も首を縦に振る。それを見て、神も満足といった様子だ。
「よし!じゃあ早苗、準備しようか」
「はい、ですがそういうことは私が……」
「たまにはいいじゃないの。私もまだまだ現役ってところを見せてやるわよ」
「わ、わかりました。それではお二人とも、少々お待ちください」
仲睦まじい様子で出ていく二人を見送ると、部屋に静寂が訪れた。ふらふらと体の力が抜ける。
「ふぅ……もうどうなることかと思いましたよ。無茶はやめてください」
「私は清く正しい射命丸だからね。それに、あんな目を見て嘘はつけないわよ。それにしても……」
急に真面目な表情で、顔を近づけてくる。
思わず体を強張らせるが、すぐにその必要はなくなる。
「いい質問だったわよ、椛。おかげでいい答えを引き出せたわ。貴方、意外とこっちの才能もあるんじゃないの?」
すぐいつもの柔らかな笑顔に変わり、人差し指で頬をつついてきた。
恥ずかしいやらなんやらで、顔の温度が急上昇したのがわかる。
「そ、そんなことは……」
「あるかもよ?私が言うんだから間違いはないの。自信持ちなさい」
他でもない彼女に言われたのだ。嬉しくないはずがない。素直に頭を垂れることにする。
「はい、ありがとうございます文様……」
「文様ねぇ……さっきは文殿って言ってたのに?」
「なっ!」
顔を上げると、にやにやと意地の悪い笑みがそこにあった。
そこは触れられると具合が悪いのだが、咄嗟に他の理由が思いつくはずもない。
「うふふ、わかってるわよ。格好つけたい年頃なのね。でも、ちょっと古すぎないかしら?」
「い、いいじゃないですか!これは伝統ある古き良き文化なんですよ!」
「わかったわかった。別に好きに呼んでくれていいわよ、椛なら」
「いーえ、文様は侍を馬鹿にしています。今日という今日は、その根性を叩き直させてもらいます!」
喧嘩、とも呼べない程度のいつものやりとり。こうして過ごす時間が、何よりも楽しく、愛しいものに感じられる。
私が生きる意味を挙げるならば、まさにこれなのかもしれない。そしてこんな日々がずっと続けばいいと、そう思った。
私が普段警備をしているのは、主にこの滝の周辺である。
山を知る者ならば知らぬ者はいないほどの名所だが、やたらと奥地にあるせいか、人通りは少ない。
そのため、そこを持ち場とする私は常に暇を持て余している。
「では、これで王手です。どうしますか?」
「うわっ……ちょ、ちょっと待った!」
そういうわけで始めたのが、この将棋という娯楽だ。
無限に広がる戦略性と、先の展開を見据えた駆け引きの応酬は、自分に限らず多くの妖怪たちの心を捉えて離さないでいる。
近所に住む河童、河城にとりもそのうちの一人で、よく相手をしてもらっている。
「もう、またですか。いい加減諦めたらどうです?」
「そういうわけにはいかないのさ。河童の威信にかけて……うむむむ」
今日はこちらの旗色が良いようだ。長考に入ったようなので、盤から目を離し滝でも眺めてみる。
流れ落ちる水はけして逆に流れることはなく、全て同じところへと落ちていく。その中に混じる紅葉も、だいぶ少なくなってきた。
「あー……ところで椛ー」
「何です?降参ですか」
「いやいやいや。ほら、最近文さんとはどうなのよ。少しはマシになった?」
変な声が出そうになった。なぜここで、先輩の名前が出てくるのか。
思わず持ち駒を取り落としそうになる。
「どうって……どういう意味ですか。別に喧嘩なんかしてませんよ」
「ふっふーん、惚けちゃって。聞いたよ、この前も一緒に取材に行ったんだって?」
「あれは、相手がまだ未知の存在であるからですね。一人では危険なので、お供をさせていただいただけですよ」
やたらとにやけた顔が、盤を乗り越えて接近してくる。
彼女の中でどういう妄想がなされているのか、その笑みからは一種の妖しささえ感じられる。
「そ、そんなことより!ほら、そろそろ時間切れですよ。次の手はどうするんですか」
「あーもう私の負けでいいからさ。それより、取材の話でも聞かせてよ」
言うが早いか、さっさと駒を片付けてしまう。今日の勝負はここまでのようだ。
「はぁ、わかりましたよ。いくらでも話しますよ」
「そうこなくっちゃ!」
こうなっては逃れるのは至難の技だ。溜息を一つだけつかせてもらい、折れることにする。
再び向き合って、正座の体勢に戻るにとりさん。ただ取材の話とはいっても、自分はほとんど横にいただけだ。どこから話したものだろうか。
「ほら、にとりさんも知ってますよねあの神社。あの方たちがどういう目的でここに来たのか、そのへんをまず聞いたんですけれど……」
大した話題でもないと思っていたのだが、話すうちに自然と言葉が出てくる。
目を輝かせて取材をする先輩、真剣な目で境遇を語る巫女、その全てを受け入れる神様。
なんだかんだで、思うところは多かった。
「あの人たちは、居場所を失ったんです。だから必死で……それだけなんです。疑っていた自分が恥ずかしくなっちゃって……」
正直、最初はいい印象がなかった。統制された社会の中に突如として現われ、山の平穏を少なからず乱した存在。
しかし取材に出向いて、会って話してみて、ようやくわかった気がした。実際に言葉を交わした、彼女達の声こそが、真実であると。
「それで、文様がこう言ってくれて……」
次第に、言葉の中に先輩の名前が増えていた。
このように真実を知り、考えることができたのも、やはり彼女のおかげだからだ。尊敬と感謝の言葉を述べればきりがない。
「まったく、文様ときたらもう……」
「はいはい、そのへんにしとこうか。もうお腹いっぱいだよ」
気がつけば、辺りが暗くなり始めていた。かなりの時間が経ってしまっていたようだ。
にとりさんも、やや呆れ顔である。
「わ、いつの間に……すいません、長々と付き合わせてしまって。では、このへんで失礼します」
時間が過ぎれば、役割も引き継がなければならない。
急いで立ち上がり、装備を整える。大きめの盾がうまく引っかからず、恥ずかしい思いをしてしまった。
「あ、そうだ椛……」
飾り物を付け直しながら、小さな言葉を背中で聴く。
「その件、上はあまり良く思ってないらしいから……気をつけてね」
薄々噂には聞いていた。しかし、特に問題だとは思わなかった。
自分と同じく話を聞けばわかることだと、そう思っていた。だから気にも留めなかった。
この時点でもう少し考えられていれば、何か変わったのかもしれない。
その日は朝から騒がしかった。聞くところによると、上層部で緊急会議があるらしい。
もちろん下っ端の自分はお呼びでなかったが、彼女は違った。
「ごめんね椛、この埋め合わせは必ず!」
おかげで、すっかり予定がなくなってしまった。
仕方がないので、一人で山をぶらついてみる。多くの面々が出払っているせいか、いつもより遥かに静かで、寂しげな印象を受けた。
落ち葉を踏みしめながら、物思いに耽る。仕事のこと、山のこと、神社のこと、そして先輩のこと。
これからも取材に行くことはあるだろう。そのとき、自分には何ができるだろうか。
あの方たちが、自分たちだけでなく幻想郷の人々とうまくやっていくために、先輩はどう行動するだろうか。それを自分は、少しでも助けられるだろうか。
答えの出ない疑問が、浮かんでは消えていく。当てもなく歩いていると、いつの間にか知らない場所まで来てしまったようだ。
「あー、まったくもう!」
その時、目の前を一陣の風が通り抜けた。
普通ならそれで済んでしまうところだったが、千里眼には確かに先輩の姿が映っていた。慌てて後を追う。
「あの連中は頭固いんだから……どうしようかしら」
「ま、待ってください文様!」
急いで飛んでいる様子もなかったが、そこは幻想郷最速の天狗。追いつくのに、多少の暇がかかった。
「あら、椛じゃないの。どうしたのよ」
「はぁはぁ……それはこちらの台詞です。もう終わったんですか?」
息を切らせながら問いかけると、どこかばつが悪そうな苦笑いを浮かべる。
「あー、うん。本当はまだ続いてるんだけど……ね。どうにも話が通じないというか」
「はぁ。何についての話し合いだったんですか?」
「そうね、これは言ってもいいのかな……いやでもすぐにわかることだし……」
どうにも歯切れが悪い。彼女らしからぬ様子に戸惑いを覚えるが、それだけ複雑な内容なのだろう。
大人しく待っていると、さらに幾許かの間をおいてゆっくり話し始めた。
「なんか例の神社……早苗さんたちが、提案をしてきたのよ。これから取材しに行くところなんだけど、何やら新しいエネルギーだとか。山の生活が、かなり便利なものになるらしいわ」
「そうなんですか……それで、上の意見は?」
にとりさんから聞いたように上が否定的な立場ならば、そう簡単には通らなそうな話だ。
今度はすぐに答えが返ってきた。
「あまり良い反応とは言えないわね。そりゃ最初は怪しむのもわかるけれど、どうも部外者ってだけでハナから相手にしてない感じなのよね。私がもっと調べると言っても、必要ないの一点張りだし」
先輩が珍しく大きな溜息をついていた。聞きしに勝る惨状である。ここまで固いとは思わなかった。
何と答えたものか。悩み出した私の頭に、先輩の手が乗せられる。
「ごめんね、愚痴こぼしちゃって。それじゃ私は行くけど……帰ったら一杯付き合ってくれる?」
「ええ、喜んで!」
それでも最後には、いつもの調子で笑顔を向けてくれた。飛んで行く先輩の姿を、その時はただ見送るだけだった。
その日もまた、暇を持て余していた。
将棋でもやろうかと思ったところで、急に目の前が真っ暗になった。
「うわ、前が……」
顔に手をやると、紙がはりついていた。
何のことはない、いつもの新聞であった。
「なになに……『幻想郷の産業革命!守矢神社と全面協力』?」
今日の文々。新聞の号外は、あの神社の特集だった。
新エネルギーの導入によって、私たちの生活がどう変わるのか、本人たちの生の声と共に詳細に書かれている。
入念な取材活動に基づく彼女の記事は、人に読ませるものだった。
「へぇ……面白そう」
率直な感想だった。核融合などの技術的な話は少し難しく感じたものの、要は不便を感じていたところが改善されるというのだ。
さらにその技術を応用することで、新しい娯楽が生み出されるようでもある。暇な自分には、とても楽しみな話だ。
「おーい、犬走。集合だってさー」
同僚から声がかかった。
集合とは、この職場にしてはなんとも珍しい話だ。何か特別なことがあったのだろうか。
「隊長、全員集まりました。一体何があるんです?」
「うむ……私もまだわからんのだが、大隊長殿から直々に話があるらしい」
「ああ、あの人ですか……」
大隊長というのは、白狼天狗全体を取り仕切る立場にある天狗のことだ。
何かと口煩く、私もあまり会いたい人ではない。
「貴様ら、何をダラダラしている!もっと素早く機敏に集まらんか!これが有事だったどうする!」
のっけからこれだ。今日は、いつになく苛立っているようだ。
見ると、何やら見覚えのある紙を携えている。
「貴様らの中にも見たやつはいるだろうが……こんなけしからん話、断じて真に受けてはならんぞ!あの売国奴が!」
号外をその場に叩きつけ、怒りを露にする。
それからも大声で、彼女のことを罵り続ける。
「……とにかく!貴様らは余計なことを考えるなよ!特に犬走!」
「は、はい!」
背筋が伸びる。文様の話が出たところで来るとは思っていたが、やはり上司の恫喝は恐ろしい。
「貴様はアレと随分仲が良いようだが……わかっているな?」
「はい……何かありましたら、ご報告させていただきます」
嫌な役割ではあるが、一兵卒の自分に拒否権などあるはずがない。
期待通りの返答に満足したのか、それ以上は言われずに済んだ。
「はぁ……」
「犬走、お疲れ。あの方もあんな言い方しなくていいのにね」
「まぁ確かに怪しげな話ではあるけれど……貴方はどう思う?」
「うーん、私も微妙だとは思うけど……」
同僚たちに慰められるが、やはり複雑な心境だ。
とりあえず持ち場に戻ったものの、その日は仕事にならなかった。
「文様……大丈夫かな」
あのようなことがあった以上、心配にはなる。
どうにもじっとしていられず、探しに行くことする。
「あそこに……いるかな?」
いつもの滝よりもさらに奥に行ったところに、麓を一望できる場所がある。
彼女は、何かを考えるときはそこにいることが多い。
「あ、いたいた。文様……?」
すぐに声をかけようとしたのだが、先客がいるようだ。
他の天狗たちと、何やら言い争っている。
「……だから私は、そのためにも取材を続けて」
「そんなことは必要ないと言っているんだ!」
「そうだそうだ、人間ごときに毒されおって……天狗の恥晒しめ!」
どうも穏やかな雰囲気ではない。
止めに入るべきなのか迷ううちに、空気はさらに険悪になっていく。
「どうしても止めないというのか?規律を乱すとどうなるか、わからないお前ではあるまい?」
「規律、規律って……そんなくだらないことに縛られているから、進歩しないんですよ!」
「くだらないだと?……この!」
「あっ!」
ぱぁんという乾いた音がして、文様がその場に尻餅をつく格好になる。
もう黙ってはいられない。盾を持ち直し、その場に踊り出る。
「貴方たち!何をやってるんですか!」
「も、椛?」
一番驚いていたのは文様だった。
他の天狗たちも一瞬目を丸くしていたが、すぐにこちらを見下すような目線を向けてきた。
「おーおー、王子様のご登場ですか」
「お熱いことで。実はデキてんじゃないのお二人さん?犬っころと不良烏とか、お似合いじゃないのさ」
「なっ……!」
言葉を返す前に、天狗たちはさっさと飛び去ってしまった。
自分だけならともかく、文様のことまで貶めるのは許せない。追って撤回を求めたくはあったが、それよりも先輩のことが心配だった。
「大丈夫ですか?傷とか……」
「……恥ずかしいところを見られちゃったわね。この程度、なんてことないわよ。助けてくれてありがとね」
頬をさすりながら立ち上がった彼女は、なぜかこちらを見ようとはしなかった。
視線をあさっての方向に向けたまま、服をはらっている。
「それにしても文様……少し自重したほうがいいんじゃないですか?新聞見ましたよ。上もピリピリしているみたいですし、あまり目立たない方が……」
「そうね……気をつけるわ」
それもまた、彼女らしからぬ言葉だった。
常に三歩先を行くような頭脳を持つ彼女の考えは、私ごときの進言で変わるはずがないというのに。
「じゃあ、私はこれから行くところがあるから……」
「あ、取材ですか?それなら私も一緒に……今日はもう予定ありませんし」
「いや……いいわよ」
紅魔館への潜入取材など、危険だという理由で断られることは以前にもあった。
しかし今日は、そういうことでもないようだ。疑問は残るが、断られた以上は食い下がるわけにもいかない。
「はい……わかりました。気をつけてくださいね」
「ええ……」
そのまま去っていくかに見えたが、その足がふと止まった。
そしてこちらを見ないまま、口を開く。
「椛……」
「何ですか?」
「しばらく……私に近づかないでくれる?」
一瞬、我が耳を疑った。冗談だとしても笑えない。
彼女と出会ってから、数百年は経っただろうか。そんな言葉を投げつけられたことは、一度も無かった。
「ど、どうしたんですか文様。さっきのことなら、私は気にしてませんから……」
「いいから!もう姿を見せないで!」
凍てつくような言葉が、胸に突き刺さる。
体が震えだし、目の前が暗くなっていく。たまらず、彼女の腕にすがりつく。
「っ……!離しなさい!」
「……からですか」
「え?」
「私が、役立たずだからですか!確かに私は取材のことなんて何もわかりませんし、文様の足を引っ張るばかりでした!でも、それでもっ……」
それ以上言葉が続かない。涙で見えづらくなった眼に、困惑したような顔が映った。
だがそれも一瞬のことで、すぐにまた顔を背けられる。
「……そうよ、貴方なんていらないの。だから近づかないでって言ってるの!」
決定的な一言だった。
掴んでいた腕の力が抜け、その場に崩れ落ちる。そして何も考えられなくなる。
「さよなら」
彼女が去った後も、その場で泣き続けた。
イラナイ。チカヅクナ。サヨナラ。
言葉の一つ一つが頭の中を巡り、反響し続ける。涙が枯れても、喉が潰れても、動くことができない。
「文様……あや、さまぁ……」
「……椛?こんなとこで何してんのさ」
通りかかったにとりさんに発見されるまで、ずっとそのままだった。
声をかけられても返事ができず、ただ泣きじゃくっていた。
「どう、少しは落ち着いた?」
「……はい、ありがとうございます」
一人にはしておけないと、半ば引きずられるようにして連れてこられた。
出してもらった胡瓜茶を飲むと、少しだけ気が紛れた。味はともかく。
「で、どうしたの?あんなに泣いてるなんて、ただごとじゃないみたいだけど。よかったら話してごらん」
「はい、でも……うう……」
「あー、ごめん無理に言わなくていいよ。とりあえず、ここでゆっくりしていきなよ。好きなだけくつろいでもらっていいからさ」
「はい……。そういえば、ここはどこなんですか?見慣れない建物ですが……」
以前通してもらった彼女の家とは、ずいぶん様子が違うように思えた。
窓が少なく、天井も低いため少し狭苦しい印象を受ける。部屋数も多くはないようだ。
「ふっふっふっ……よくぞ聞いてくれました。何を隠そう、ここは私が秘密裏に開発していた『光学迷彩ハウス』なのだ!この家のすごいところは、なんと言ってもその隠密製にあり、私自身ですら簡単には見つけられないぐらいで……」
それからしばらくの間、立て板に水といった感じで喋り続けた。
最初の数分で既についていけなくなっていたが、ともかく別荘のようなものであることはわかった。
「……とまぁ、そんなわけで。なんなら泊まってってもいいよ?」
「いえ、明日も仕事があるんでそれは遠慮しておきますが……今日は本当にありがとうございます」
「いいっていいって。友人が辛いときに力になれるのは、嬉しいもんさ」
けたけたと笑う姿を見ていると、乾ききった心が潤うような気がする。
つられて、少しだけ笑顔になれる。
「……文さんかい?」
「えっ……?」
「うん、やっぱりそうかなって……詳しくは言わなくていいけどさ。ただ、これだけは言わせて」
いつになく真剣な面持ちで、にとりさんがこちらに向き直る。
真っ直ぐに見つめてくる。真っ直ぐな視線。思わず息を呑む。
「あの人なら大丈夫だよ。きっと、文さんなら……」
一点の曇りもない瞳の奥に感じられるのは、確かな信頼。
今この世界に、彼女以上に純粋な存在があるとは思えない。それぐらいのものだった。
「だから、今できるのは信じること……あの人のやることを心から信じて、無事を祈る。それだけだよ」
頬を熱いものが流れ落ちる。
これは先ほどまで流していた涙とは、違う。
「……なんてね。少し臭すぎたかな」
「いえ……そうですよね。私も文様を信じます」
涙を拭い、立ち上がる。
揺らいだ心を落ち着かせ、立つことができる。信じることができる。
そう思うと、一気に心が軽くなったような気がした。
「にとりさん……やっぱり、今日は泊めてもらってもいいですか。一杯やりたいんですよ」
「お、いいね!とっときのお酒があるんだよ。胡瓜大吟醸『河乃童』ってのがあってね」
こうして杯を交わしながら、山の夜は更けていく。
良き友と呑むお酒は、何よりもの慰めとなった。
それからも、文々。新聞の守矢神社特集は続いていた。
核融合の仕組みなどの技術的な面から、早苗さんが人里で転んで下着が見えてしまったなどの面白おかしいものまで、中身はとても充実していた。
「へぇ、もう試作してるんだ……」
今日の記事によると、その技術を用いた輪転機が実験的に導入されるらしい。
通常の三倍以上の速度で新聞を作ることができるようだ。早いだけでまだ粗が目立つらしいが、先が楽しみな話である。
「まだやってるのかあいつは……けしからん!」
それでもまだ、反対派や慎重派の意見も根強い。
特にあの大隊長は、新聞が舞い込んで来る度に怒りを部下たちにぶつけている。
「まったくですな、大隊長殿。これは早急に手を打つべきです」
大隊長ともなると、その人脈は幅広い。
天狗の厳しい縦社会においては、下の者に与える影響も少なくはなく、全体で見れば否定的な意見が優勢になっていた。
「なぁ犬走。お前もこれ反対だよな?だって山の規律に反するじゃないか」
身近な同僚ですら、この有様だ。
こんな調子では、先輩への風当たりがどのようなものか、わかったものではない。
「はぁ……大丈夫かな」
こうして仕事には出ているものの、やはり身が入らない。
愛用の剣を滝つぼに落としてしまうなど、有り得ないミスまでしてしまう。
しかし本人にああ言われた以上は、直接聞くわけにもいかない。にとりさんの言うように、信じて待つしかないのが現実だった。
「ん、あれは……」
ふと神社の方向に目をやると、そこに向かっていく影が見えた。
ちらと見えた黒い羽には、どこか見覚えがる。まさかと思い、後を追ってみることにする。
「こんにちは!文々。新聞でーす!」
「やっぱり……」
思ったとおり、先輩だった。
本来ならばそれが侵入者の類でなかったことに安堵して警備に戻るべきなのだが、今の私にはそれができない。
「いつもありがとうございます、早苗さん」
「いえいえ。こちらこそ、取材していただいてありがたく思っています」
縁側で始まる二人の会話に、つい聞き耳を立ててしまう。いけないことだとわかっていても、そこから動くことができずにいた。
近頃知ることのなかった、彼女の近況が少しでもわかるかもしれない。そんな僅かな期待が、愚かしくもこんな行為を許してしまっている。
「例の試作機ですが、次はこういったものに活用してみるのはどうでしょう?需要はだいぶ高まってきていると思うのですが……」
「そうですね。これは諏訪子様とも相談になりますが、最近はエネルギーも安定してきていますし、きっと大丈夫でしょう」
どうやら、今後のことを話し合っているようだ。
その意欲的な姿勢は、尊敬できるものがある。この光景を見るだけでも、今回の件が信用に足るものであると理解できる。
「あ、そういえば射命丸さん。最近、あの子を連れてきませんね」
「あの子……ああ、椛のことですか」
急に名前が呼ばれ、思わず声が出そうになる。
自分のことが話題に上るとは、夢にも思っていなかった。
「あの子は元々、記者ではありませんからね。今までは無理を言って手伝ってもらってただけですよ」
「そうなんですか?なんだか、いつも楽しそうに見えましたけど」
図星である。先輩についていくというのは、例えどこであっても楽しいものであった。
しかし傍から見てもわかっていたというのは、少し恥ずかしくもある。
「皆さんからもよく聞くんですよ。お二人はとても仲良しさんだって」
しかも皆さんときたもんだ。恥ずかしさは頂点に達し、顔から出る火で隠れている茂みが燃え尽きそうだった。
「そうなんですか。いえ、私も楽しくないわけではないんです。ただ……これ以上、巻き込みたくなくて」
「え?」
「早苗さんもご存知の通り、新技術の導入に反対する人たちは存在します。私が勝手にやっていることなのに、あの子にまで肩身の狭い思いはして欲しくないんですよ」
やはり、盗み聞きなどするものではなかった。何と言っていいのかわからない。
図らずも知ってしまった彼女の本音を、どう受け止めれば良いのか。
「射命丸さん……でも、あの子はきっと」
「いいんです。もう少しすれば、きっとこの風当たりも弱くなります。そうしたら……」
それ以上聞いていられなかった。その場から抜け出し、そのまま家に戻る。
こんな気持ちで仕事など、できるはずがない。
「文様……私は……」
呟きは、虚空に空しく響くだけだった。
青空が広がっていた。どこまでも続くような、透き通るような青空。その下を歩いていくのは、とても気持ちが良い。
風が通り抜ける。短めの銀髪を、やさしく撫でるように過ぎて行く。暖かなその風は、私を通り抜け、その先でその人となる。
「もーみーじっ!早く行くわよ!」
私を呼ぶ声がする。視線を向けた先には、先輩のいつもの笑顔。
漆黒の羽が、太陽の輝きを受けて赤い光を放つ。
「はい!文様!」
その光の先が、私の進むべき道。差し伸べられる手を掴もうと、手を伸ばす。
その瞬間、景色が変わった。空が暗くなり、何も見えなくなる。
私はもがく。見失った光を求め、当てもなく走り回る。
「さよなら」
絶望的な、小さい声だけが聞こえる。サヨナラの四文字だけが何度も耳に入る。
聞こえない、認めたくないと、必死に探し続ける。
「あ、文様!」
ようやく見つけたその姿は、私の知るそれではなかった。
身体の中央、ちょうど胸のあたりに大きな穴があいていて、そこから何もかも吸い込むような、暗い闇が広がっていく。
「もみ……じ……」
駄目だ。止めないと。そう直感するが、走っても走っても追いつかない。近づくことができない。
そうするうちに闇は彼女の身体を覆いつくし、また何も見えなくなる。それでも走り続けるが、次第に息が切れ、ついには足も止まってしまう。
その場に座り込んだ私は、彼女の名前を叫び続ける。
「文様!文さ…………はっ」
目を開けると、そこは自分の部屋だった。またもや悪い夢を見てしまったらしい。
だが今度は、その内容が明確に思い出せてしまう。余計に性質が悪い。
「文様……」
とても悪い予感がする。ただの夢だと割り切れないほどのものが、頭の中に居座っている。
どうすればこの不安が消えるのか。皆目検討はつかないが、何もしないわけにはいかなかった。
「犬走!大隊長からの命令だよ。集合だってさ!」
今すぐにでも先輩の下へ、と思ったのだがそうもいかないようだ。
不安を抱えたまま家を後にする。職場に近づくにつれ、それは大きくなっていくようにも感じられる。
「只事ではない感じですけれど……何かあったんですかね?」
「私にわかるわけないだろ。面倒なことじゃなけりゃいいんだけど……」
集合場所に到着すると、既に大勢の仲間達がいた。山の白狼天狗が全員集まっているんじゃないかというぐらいだ。
それから程なくして、大隊長が現れた。
「うむ、全員集まっているな。今日は貴様らに、最優先の指令を与える。射命丸文を捕らえるんだ!」
「えっ!」
一瞬、何を言っているのかわからなかった。同じ天狗である先輩を、天狗の自分たちが捕らえようと言うのだ。
なぜ?どうして?周囲も一斉にどよめき始める。
「ええい黙れ!あやつは社会の規律を大きく乱しているのだ。もうこれ以上、野放しにはしておけん!抵抗するようなら、討っても構わん!」
事実上の討伐命令だった。あまりの事態に、反論の言葉すら出てこない。
その後も何か言っているようだったが、全く頭に入らなかった。
「ど、どうしよう……」
耳も早い先輩のことだ。既に知っているかもしれないが、とにかくこの緊急事態を一刻も早く伝える必要がある。
そして、安全な場所に逃げてもらわなくてはならない。
「文様……一体どこに……」
幸い、こうして探す分には任務をまっとうしているようにしか見えない。先輩の行きそうな場所を、片っ端から捜索する。
家から印刷所、行きつけの居酒屋まで、思いつく限りの場所を探すが、どこにも姿は見当たらない。やはり、もうどこかに雲隠れしてしまったのだろうか。
最後に、守矢神社へ立ち寄ってみることにした。もしかするとここに身を寄せているのかもしれない。
「お、あんたは……この前のワンちゃんじゃないか。どうした?そんな血相を変えて」
「何かあったみたいですね……」
飛び込むようにして入ってきた私を出迎えたのは、神奈子様と早苗さんだった。
その傍らには、二本の角が生えた少女が座っている。
「あの、文様のことを知りませんか?ちょっと急ぎで探しているのですが……」
「なんだい、あの烏また何かやらかしたのか?あんたも大変だねぇ」
口を挟んできた彼女は、宴会の場でよく見かけたことがある。
かつては天狗の上の位にあり、山を取り仕切っていた鬼という種族だ。
「いえ、なんといいますか……このままでは危ないんですよ。ちょっと組織内でいざこざがありまして」
「ふうん……天狗たちは相変わらずだねぇ」
それだけを言い、興味なさげに徳利を呷る彼女。
それもそのはず、そんな面倒な社会に嫌気がさして鬼たちは去っていったのだ。
「……やっぱり、私らが原因かい?」
一方で、神は深刻な表情をしている。
やはり神ともなれば、この程度の事態は予見していたのだろうか。
「そういうわけでは……ないとも言い切れませんね。あの計画に反対する人たちが、文様を狙っているんですよ」
「そんな……」
早苗さんが、今にも泣きそうな声をあげる。
信じられないのは自分も同じだ。こんな結果になるとは、思いもしなかった。
「そうか……あいつには、かわいそうなことをしたな」
「!」
その言葉が癇に触った。まるで他人事であるかのように聞こえてしまった。一度そう思い出すと、もう止まらない。
「……誰の、せいだとっ!」
気がつくと、神に掴みかかっていた。
この人たちが余計なことにをしなければ。先輩を巻き込まなければ。そんな思いで頭が支配され、ついには神に向かって拳を振り上げてしまう。
「やめな!」
場を切り裂くような大声とともに、大量の水が落ちてきた。
それがにとりさんの能力によるものだと気がつくのに、少しの時間がかかった。
「あ……」
目の前にあった神の顔は、突然の無礼に怒るでもなく、ただただ悲しそうであった。
僅かにも抵抗もする気配がなく、私の怒りを受け止めようとしていた。
「……頭は、冷えたかい?」
手を離し、その場にうなだれる。
自分は今、何をしようとしていたのか。感情のまま行動し、取り返しのつかないことをするところだった。
「も、申し訳ありません!どんな罰でも受けます!」
「いや、仕方のないことさ。確かに悪いのは私たちだからね……」
「神奈子様……」
反射的に攻撃態勢に入っていた早苗さんも、その得物を降ろす。
張り詰めていた空気が、一気に弛緩した。
「文さんの居るところ、知りたいかい?」
「え?」
膝をつく私の肩に手をやりながら、にとりさんがそう言った。
立ち上がり、逆に今度は彼女の肩を掴む。
「し、知ってるんですか!文様は一体どこに!」
「だから落ち着きなって。もう一度くらいたい?」
呆れ顔で諭され、再び我に帰る。また頭に血が上ってしまっていた。
私が俯くのを見てから、彼女が皆の方へ向き直る。
「お騒がせしてすいません。この子のことは、私に任せてもらえますか?あと伊吹さん、例のこと……よろしくお願いします」
「ああ。こういうことは、新参の私たちが口を出していいもんじゃないわな。他の天狗が来たら、うまく言っておくさ」
「わかってるっての。河童が心配性なのも、変わらないねぇ」
そうして、二人で守矢神社を後にした。
前を歩くにとりさんの背中が、いつもより大きく見えていた。
それから長い間、険しい山道を進む。
あちこちを武装した白狼天狗が飛び回っていて、慌しい様子だ。この全てが先輩の命を狙っていると思うと、とても落ち着いてはいられない。
「にとりさん、これだけは教えてください。文様は無事なんですか?」
「うん、無傷というわけにはいかなかったけど……あ、そろそろこれ被って」
渡されたのは、光学迷彩スーツだった。
確かに、その隠れ家に入るところを他の天狗たちに見られては危険である。
「よし、じゃあここで屈んで……その穴の隙間」
「はい……ってここは……」
天井の低いその部屋には、見覚えがあった。
私が文様に突き放され、泣いていたあの時に連れてきてもらった場所だった。
「ここならそうは見つからないからね。それじゃ、文さんはあの部屋にいるから……後は二人の問題だろう?」
そう言うと、にとりさんは別の部屋へ入っていった。
一人その場に残され、考える。どんな顔をして会えばいいのか。何を言えばいいのか。
「文様……」
簡単には答えが出なかった。それでも、会わなければならない。そうしなければ、きっと後悔する。
恐る恐るドアに手をかけ、ゆっくりと扉を開く。殺風景な部屋の中に一台のベッドがあり、そこに先輩はいた。
「文様っ!」
「椛……?」
こちらを向いた文様の頭には、包帯が巻かれていた。よく見ると、腕にも傷がある。
「どうして貴方がここに……そうか、にとりね。まったくおせっかいなんだから……」
「傷は……大丈夫ですか?」
「ちょっと大袈裟に手当てされちゃったけど、こんなの掠り傷よ。私がそう簡単にやられると思う?」
そう言って腕を振り回す姿を見るに、無事ではあるようだ。
ほっと胸を撫で下ろすが、今はそれよりも、言わなければならないことがある。
「……どういうつもりなんですか!」
「椛……」
「一人で抱えこんで、一人でなんでもやろうとして、それでこんな大変なことになって……どうして……」
嗚咽が漏れ、声が続かなくなってしまう。
言いたいことは数多あれど、感情が高まりすぎてなかなか言葉にならない。
「だからっ……私はっ!」
「……仕方ないじゃない!」
それまで黙っていた先輩が、大声をあげ立ち上がった。
その目には、自分と同じかそれ以上の涙が溜まっている。
「私だって、貴方が傍に居てくれればって……何度も考えたわよ!でもこんなことになって、私が勝手にやっていることで、貴方まで皆に責められるようなことになりそうで……そんなことにだけは、絶対にしたくなかったの!」
「だからって……!」
出る言葉に任せ、想いをぶつけ合う。
自分がどれだけ心配したか、どんなに悲しかったか。その全てを、言葉にして目の前の相手に投げつける。
「あの時さよならって言われて……私がどんな気持ちだったか、わかりますか?いらないって言われて、どんなに辛かったか……」
「椛……私は……貴方に……」
「…………」
そしていつしか、互いに言葉を失った。気まずい沈黙が、場を支配する。
言いたいことはほとんど言ってしまった。これからどうすればいいのか。
「椛」
その言葉と共に、急に腕を引かれた。体勢を崩し、倒れこんだところに先輩がいた。
そのまま抱きしめられるような形になる。
「ごめん……ごめんね……私も、どうしたらいいかわからなくて……」
彼女は震えていた。いつもの自信たっぷりで、不敵な笑みを浮かべる先輩は今、どこにもいなかった。縋りつくように私を抱きしめ、泣いているのは一人の少女でしかなかった。
「文様……」
身に危険が迫った時、自分なら誰かに助けを求めるかもしれない。
しかし彼女はそうしなかった。自分以外の誰かを、脅威に晒すことを良しとしなかったのだ。
「ごめんなさい……」
いや、自分もどうだろうか。他の誰かならいざ知らず、先輩を危険に晒すようなことを、自らするだろうか。
同じかもしれない。たとえ我が身が犠牲になろうとも、本当に大事な人には傷ついて欲しくない。それが、人を愛するということではないのか。
「ねぇ椛……貴方は、天狗に生まれてきてよかったと思う?」
耳元で囁かれた。どういう意図で聞いてきたのかはわからない。それでも、私の答えは決まっている。
「はい。私は白狼天狗としてこの世に生を受けたことに、誇りを持っています。天狗であれたから、私はやっていけるんです」
「うん、いい答えね」
満足そうに頷き、頭を撫でてくれる先輩。今この瞬間だけは、何もかも忘れて、この幸せに身を委ねる。とても心地よい。
「文様……」
もう一つだけ、言いたいことがあった。
言うべきかずっと迷っていたのだが、言えるのはきっと今しかない。
「私は、私はずっと文様のことを―――お慕い申しておりました」
気恥ずかしさから仰々しい言い方をしたが、単純に言えば私は先輩が好きだ。
射命丸文という人を、心から愛しているのだ。
「だから……もう無茶しないでください。文様がいなくなったら私……」
「ありがとう……私も、椛が好き。大好きよ」
すぐ目の前に、彼女の顔がある。こうして近くで見ることは珍しくなかったが、今はその意味合いが違う。
―――そして一度だけ、唇が触れた。
「にとりさん、ありがとうございました」
先輩の部屋を出た後、彼女の部屋を訪ねた。
夜はもう深けていたが、にとりさんはまだ起きていた。水煙草をふかしながら、外を眺めている。
「本当に何から何までお世話になってしまって……」
「いいんだよ……私も同じだから」
最初は、何を言っているのかわからなかった。
しかし彼女がこちらに振り向いた瞬間、全てを理解させられることになる。
「私も、あの烏に惚れちまった女だからさ」
今まで何人もの人や妖怪の顔を見てきた、この千里眼。
そこに生涯忘れられそうにない、何よりも綺麗な笑顔が映っていた。
穏やかな朝だった。随分久しぶりに、よく眠れたような気がする。
のんびりと朝の支度をする。
「はぁ……」
昨夜のことを思い出すと、溜息が漏れる。触れるだけの軽いキスだったが、その感触は忘れもしない。
無意識になぞった唇に、まだ熱があるような気がする。
「文様ぁ……」
鍋を火にかけたのも忘れて、惚けてしまう。
昨日の今日にも関わらず、また会いたい、触れたいと思う自分がいた。偉い人は言った。恋とは、二人で愚者になることであると。
「も、椛っ!」
轟音と共にドアが打ち破られ、転がるようにして誰かが入ってきた。
押し入り強盗かと思いかけたが、それはよく見知った顔だった。
「にとりさん?ど、どうしたんですか」
「大変なんだよ!文さんが……!」
手にしていた皿が床に落ち、粉々に砕け散った。
目を背けていた非情で最悪な現実が、目の前につきつけられた。
「あの試作機が壊されるって……それで文さんが出て行っちゃって……」
「そんな……文様!」
剣と盾を手に、彼女を押しのけるようにして飛び出す。
どう考えても罠だ。おそらくその先には―――
「おい、あっちだ!早く応援に行け!」
外に出てすぐにわかった。白狼天狗が総出で、討伐に向かっている。
それに紛れて飛んでいく。間に合うだろうか。間に合ったとして、何ができるだろうか。そんな不安が頭をよぎったが、今はとにかく向かうしかない。
「いたぞ、あそこだ!」
そこには、信じられない光景が広がっていた。
天狗が、天狗と戦っている。仲間同士で血を流している。
「やめなさい!こんなことをして、どうなるかわかっているんですか!」
「逆賊に耳を貸すな!討て!殺せ!」
指揮を執っているのは、あの大隊長だった。
物量にものを言わせた戦術で、先輩を追い込んでいく。また一匹、先輩の使い魔である烏が撃ち落とされる。
「やっと来たか犬走!お前も加勢しろ!」
「し、しかし!」
すぐにでも先輩を助けに行きたいが、遅すぎた。ここで先輩につくことは、天狗社会全体を敵に回すことになる。
かと言って、このまま先輩が討たれるのを指をくわえて見ているのか。
「……文様!」
当てる気のない弾を撃ちながら、先輩へ近づいていく。
こうなってしまった以上は、最悪の事態を避けるしかない。
「文様、聞こえますか!」
一瞬目が合うが、すぐ別方向から弾が飛んできて遮られてしまう。
ならばと剣を抜き、一気に踏み込む。
「ぐっ!」
振り下ろした剣が団扇で受け止められるが、元より半分以下の力だ。これで声は届くはずだ。
「早く投降してください!今ならまだ間に合います……このままじゃ文様は!」
「甘いわ椛」
こんな状況にも関わらず、先輩はニヤリと笑った。目を丸くする私に、静かに語りかける。
「こういう時だからこそ、ジャーナリズムが必要になるのよ。風評や噂に流されてしまわないように、私たちが真実を伝えるの。それに……」
ものすごい力で剣を押し返してくる。力を入れても、体勢を保てそうにない。
そして先輩が、強く言葉を放つ。
「私は清く正しい、射命丸文ですから!退きなさい椛!」
そのまま弾き飛ばされ、地面に叩きつけられる。
その後の言葉はほとんど周囲の怒号にかき消されたが、これだけは聞こえた。
「大丈夫、私は死なないから」
先輩の姿が遠ざかっていく。私は無力だった。結局はこうして、後ろから見守ることしかできない。
だがきっと先輩は戻ってくる。そう信じて、今は待ち続ける。それが最善である。
――――――はずだった。
完全に視界から消える直前に、見えてしまった。一斉に放たれた弾が先輩に直撃し、落ちていく姿。
そして聞こえてきた、湧き上がる歓声。歓喜の音。
「文様っ!」
痛む体を無理矢理起こし、狂気の宴の中心へと飛び込む。
「あ……ああ……」
まさに地獄絵図だった。傷つき倒れる先輩に容赦なく浴びせられる、弾、弾、弾。
なんとも醜悪な笑みを浮かべ、率先してそれを行っていたのもまた、あの大隊長だ。
「ふはは、我々に逆らうからこうなるのだ。犬走、貴様も撃つんだ!なんならその剣で手でも足でも斬れ!もっと苦しめるんだ!」
あまりに非現実的な光景に、動くことができない。
これが正常なことなのか、異常なことなのか。その判別すらつかない。
「あはは……あはははは」
いっそ呑まれてしまった方が。狂気に身を任せ、剣を振り上げる。
その時、かすかに聞こえた声。
「も……みじ……」
それが、聞こえてしまったのだ。
瞬間、頭の中で何かがはじけとんだ。
上司だとか社会だとか、そんなことはもうどうでもいい。もう耐えられない。愛する人を、これ以上傷つけるのなら。
「うああああああっ!」
剣を腰だめに構え、一直線に走る。刃を向ける先は、ただ一つ。
殺す。先輩を傷つけるものを、排除する。ただその思いだけが、体をつき動かす。
「なっ!」
慌てて身構える大隊長。だがもう遅い。
目をつぶって剣を突き出すと、ずぶりとした嫌な感触が、指先から腕を伝って頭に届いた。
やった。私はやったんだ。憎いあいつの断末魔を見てやりたい。そう思い、顔を上げた先には。
「うっ……ああ……」
―――先輩がいたわけで。
昨日と同じだった。昨日もちょうどこのぐらいの距離で、その顔を見上げた。こうして見つめあって、唇を重ねた。
しかし今、その口から漏れたのは愛の言葉でも何でもなく、驚くほど赤い紅だった。
「な……なんで……」
「流石ですね椛……私がここに来る……の……わかって……」
そうして、彼女は崩れ落ちた。
呆然と剣を握り締める私の目の前で、血溜まりの中に沈む。
彼女の命が尚もとめどなく溢れ、広がり続ける。大好きな先輩が、地面に流れて消えていく。
「……よ、よくやった犬走、勲章ものだ!トドメは私がさしてやる!下がれ!」
誰かが何か言っているようだが、何も理解できない。
私が何をしたというのか。私はただ彼女を守ろうとして、彼女を刺した。意味が、わからない。
「死ね、射命丸!」
その言葉だけは、やけにはっきりと聞こえた。先輩の首筋目掛けて、剣が振り下ろされる。
私はそれを見ていた。何も考えられず、何もできず、どこかふわふわした感覚の中。
先輩が絶命する瞬間を、ただ眺めているだけだった。
「なっ……何事だ!」
そのとき、大地が揺れた。どこからか飛来した岩が、剣を弾き飛ばす。
そしてさらなる地響きと共に、彼女は現れた。
「ようお前ら……なかなか好き勝手やってるじゃないか」
「お、お前はまさか……」
天狗たちより二まわりは大きな体に、額に生えた一本の角。
見るもの全てを威嚇し、恐れさせるその姿はまさしく鬼のそれだった。
「くっ、間に合わなかったか……」
「文さん……そんな!」
その後ろには、この前の鬼とにとりさんがいた。
にとりさんがすぐ先輩に駆け寄り、手当てを始める。
私はと言えば、未だに血を滴らせる剣を握り締めたままだった。
「ったく、河童から話を聞いて来てみれば……しばらく見ない間に、天狗ってのは随分とだらしなくなったもんだな。ええ?」
一言発するだけで、場の空気が目に見えて震える。
居丈高な態度だった天狗たちも、一瞬にして縮み上がる。
「そんなめっそうもない!我々は我々の法に基づき、反乱分子に正当な裁きを……」
「黙れ!仲間を傷つけることこそ、この世で最も重い罪だと知れ!お前らに任せたのが失敗だったようだな。私が戻ったからには、もう好きにはさせないよ」
「ぐっ……!」
天狗ごときにはもう、何も言えはしない。あとは一睨みするだけで、場が収まった。
「おい、犬っこ!何ボケッとしてんだ!」
その言葉で我に返り、思い出す。
目の前には胸から血を流し、苦しそうに呻く大事な人。その苦しみを与えたのは、他でもない自分なのだ。
「あ……文様!文様ぁ!」
「椛、あんまり動かしちゃ……!」
みるみるうちに、顔から色が失われていく。
どうして彼女が、あんなやつを庇ったのだろうか。わからない。
「私、私はなんてことを……」
「もみ……じ」
苦しそうに搾り出された言葉が、かろうじて耳に届いてくる。
「だめ……よ。貴方は……ま、だ……未熟……なんだ、から。こんな、ところで、私……に……」
わかってしまった。なぜ彼女が剣の先に飛び出すという、自殺に近いことをしたのか。
あのとき彼女が出てこなかったら、私の剣は間違いなくあの大隊長に突き立っていた。
「もっ、と……強く、なって。立派な、天狗に……」
そうなれば、私は罪に問われる。上司を殺害したとなれば、生易しい裁きでは済まない。少なくとも、今のままではいられないはずだ。
きっと彼女は、私を守るために。
「……約束、したじゃないですか!」
だからといって、こんな結果になることを望んでなんかいない。
彼女をこんなにしてまで、天狗として生き続ける意味があるだろうか。
「生きるって、死なないって……!」
「椛……もうやめな……」
にとりさんに止められるが、とても収まりはしない。
先輩の肩を掴み、訴え続ける。
「なんで……どうし、て……」
「ご……めん、ね……にとりも……」
「……馬鹿!この大馬鹿野郎っ!」
雨が降り出した。この雫は、涙なのか雨なのか。もう何もわからない。
それ以上言葉を発することのない彼女に縋りつき、ただ泣き叫んだ。
「文様……」
そこから先のことは、よく覚えていない。
ようやく到着した救急部隊に先輩が運ばれていくのを、呆然と見送るだけだった。
それから、山社会は少しずつ変わっていった。鬼が再び取り仕切ることにより、守矢神社は完全に受け入れられた。
実は先輩を討伐するという件は元々、あの大隊長をはじめとした一部の暴走であり、大天狗様の与り知らぬものであったのだ。
新エネルギーも山に広く普及した。賛成派は、思っていたより多かったのだ。
これもまた、先輩の地道な活動の成果といえるのだろう。
そんな中、私はこうして家に篭っていた。大天狗様により休暇を与えられていたので仕事の問題はないのだが、そういう問題ではない。
仕方のない状況だったとはいえ、先輩を傷つけたのは私なのだ。
あの光景を毎晩のように夢に見てしまうので、いつしか眠ることもしなくなった。
「文様……」
結論から言うと、先輩は生きていた。致命傷となる部分から僅かに外れていたらしく、一命はとりとめていた。
しかし、無事だとも言えなかった。
最後の一撃―――私の刺した剣は背中まで貫通し、羽の付け根にある大事な器官を破壊していた。彼女は、最速の理由たるその翼を失ったのだ。
あの日以来、先輩とは会っていない。どこかにいるのかもしれないが、探す勇気は出なかった。
「もーみーじ、いるー?」
今日もまた、にとりさんが訪ねてきた。
何かと気を遣ってくれているが、彼女ともまた、まともに顔を合わせることができないでいる。
「……やっぱり、決めたのかい?」
「はい……」
この日も扉越しに話をする。彼女が言っているのは、この手にある辞表のことだ。
「私がこの手で、文様の未来を奪ってしまったんです。今まで通り、のうのうと天狗をやっていられるわけがないでしょう……」
「天狗をやめて、山を降りて……それからどうするつもりだい?」
「さぁ、わかりません。野良妖怪として生きて、そのへんで野垂れ死ぬ……そんなところでしょうね」
実際、それぐらいの認識だった。もうどうでもよかった。
今すぐ腹を切ってもよかったのだが、天狗であるうちにそんなことをすれば、きっと文様の元まで報せが届く。そんな迷惑は、かけられない。
「それで、あの人が喜ぶと思うの?」
わからない。それでも、今の私にはこうする以外に責任の取り方が思いつかない。どうしようもないのだ。
「……もういいよ。とりあえずこれ、預かりもんだよ。置いとくから、後で見ておきな」
足音が遠ざかっていく。
「あんたとの将棋、この前のでちょうど百勝百敗なんだ。できたらまた、滝の裏で」
そして、何も聞こえなくなった。扉を開けると、そこには紙の束が落ちていた。拾いあげて見てみると、それは手紙だった。
上からの現場に復帰しろというお達しだろうか。重い気持ちで開く。
親愛なる椛へ
お久しぶりです。毎度お馴染み射命丸文です。
私は今、早苗さんたちの神社でお世話になっています。のんびりとした暮らしも、たまには悪くありませんね。
貴方が天狗を辞めようとしていると聞いて、とても驚きました。
私個人としては、非常に残念に思います。貴方が天狗であってくれたおかげで、私たちは出会えたのですから。
貴方が決めたことなので止めはしませんが、一言だけ言わせてもらいます。
こら馬鹿犬!甘ったれたことを言うんじゃありません!
貴方はまだまだ若い天狗です。これから先も様々なものを見て、多くの楽しいことや辛いことを経験していくことでしょう。
そんな貴方が、私ごときのために気を病んでしまうのは、とても悲しいことだと思います。
貴方はとても優秀で素直で、私の自慢の後輩でした。
だから、どこへ行ってもきっと活躍できると信じています。私が保証するんですから、間違いはありません。
なんだかしんみりしてしまいましたね。それでは体に気をつけて、お元気で。たまには顔を見せてくださいね。
清く正しい射命丸文より
天狗にしてはかわいい文字を書くと評判だった、先輩の手紙。
丁寧語でなくなったその部分だけ、やたらと強い筆圧で、乱暴に書かれていた。
「文様……」
その一文字一文字から、先輩の気持ちが痛いほど伝わってくる。
読み返そうとしても、もう文字が滲んで読むことが出来ない。
気づけば溢れていた涙が手紙を濡らしてしまっていたし、そもそも前が見えそうにない。
「私は……」
強く握り締めた手紙は、もうぐちゃぐちゃになっていた。それと同様に、頭の中もぐちゃぐちゃになる。
これからどうすればいいのか。考えても考えても、答えは出てきそうになかった。
ある晴れた日の妖怪の山。いつも通り、踏み慣れた山道を駆け上がる。
あれから数年の月日が流れた。結局私はこれまでと同じように、天狗として妖怪の山に存在していた。
それでも一つだけ、違うところがある。
「えーっと、次は号外の印刷の依頼……じゃなくて、その前に取材行かなくちゃ!約束してたんだった!」
今の私の手には、もう剣も盾もない。何枚かのメモと、一本の筆があれば十分だった。
「やぁ椛。この前の新聞、なかなか面白かったよ!」
横から、にとりさんの声がかかった。
彼女の言う通り、今の私は新聞を発行している。まだ文々。新聞の足元にも及ばないものの、そこそこに部数は出始めていた。
「あ、おはようございますにとりさん!最近、なかなか将棋のお相手ができなくてすいません」
「いいっていいって。私もそんなに暇じゃなくなったし」
核融合の技術が実践投入されたことで、技術者である河童たちの仕事も、かなり増えてきていた。あの人が言っていた通り、その技術によって山の暮らしは遥かに良くなっていた。
私がこうして新聞を作ることができるのも、その恩恵があったからだ。
以前は増える新聞記者に対して印刷機の数が追いつかず、印刷所は常にいっぱいであった。
しかし核エネルギーによって印刷速度が上がった結果、私が参入する隙間が生まれたのだ。
「でも今日はお休みさ。だから付き合わせてもらっていいかな?」
「ええ、喜んで。よろしくお願いします!」
「まーた嬉しそうな顔しちゃって。あくまで取材なんだからね。わかってるの?」
近頃は、こうしてにとりさんがついてくることも少なくはない。
記者としてはまだ右も左もわからない私にとって、助手の存在は非常にありがたいものであった。
「わかってますって。それじゃあ、行きましょう!」
彼女の手を引いて走り出す。かつて私の手を引いてくれた、あの人のように。
「それにしても椛……その格好、よく似合うなぁ」
「えへへ、そうですか?まだ少し慣れないんですけれども……」
警備隊だった頃は、剣と盾という装備に合わせて様々な飾り物があった。どちらかといえば実用性よりも、様式に則った服装であった。
「特にこのヒラヒラとした感じが……前よりは動きやすいんですが」
今はあの人に近いものがあった。実際に記者になって初めてわかったのだが、この仕事はスピードが命だ。旬のニュースを誰よりも早く、正確に記事にしなくてはならない。
そうして試行錯誤の末辿り着いたのが、このミニスカートである。最初は生足を晒すことに抵抗があったのだが、軽やかさは前の比ではなかった。
「ほんっと、かわいいねぇ……妬けちゃうな」
「そんなことないですよ、にとりさんだってその、笑顔とかいろいろ本当にかわいくって。見とれちゃいそうですよ」
「ふふ、浮気?私は椛だったら別に……なんてね。でも、その台詞はあいつに会うまでとっといたらどうだい?きっと喜ぶよ」
そうこうしているうちに、今日の取材先に到着した。今や幻想郷でも一大勢力を築いた、守矢神社である。
相変わらずの博麗神社とは違い、この日もまた多くの参拝客で賑わっていた。
「あ、椛さんににとりさんじゃないですか!おはようございます!」
早苗さんも、相変わらずでやっている。馴染んできたせいか少し破天荒な行動も目立ってきたが、こちらとしてはネタにしやすくて助かっている。
「今日もあの方の取材ですか?」
「はい、本人には一応アポはとってあったんですけれど……」
「いえいえ、いつものことですから。もうすぐ帰って来ると思うので、こちらへどうぞ」
客間に通された私たちは、お茶を飲みながら取材対象の到着を待っていた。
しばらくして、準備のためににとりさんが席を外す。
「はぁ……」
ここへ来ると、どうしても思い出されることがある。私がこの道を歩むきっかけとなった、あの事件のことだ。
あの時の自分は何もわからず、状況に流されてしまった。だがきっとそれは自分だけではなく、ほとんどの者がそうだったのだと思う。
誰かが悪いというわけではない。ただ知らなかっただけなのだ。
だから今度は、私が真実を伝える。それができなくなったあの人に代わって。
それが私の生きていく意味であり、この大地を自由に翔ける風のような、あの人の残したたった一つの『風標』なのだ。
「椛、準備できたよー」
にとりさんから声がかかり、立ち上がる。取材対象も来ているようだ。
隣の部屋に行くと、にとりさんが大きなレンズ付きの箱を持っていた。
「よーし、今から録り始めるからね。よろしく!」
これは彼女が最近開発した、ビデオカメラという機械だ。目の前で起こっていることを映像と音声で記録することのできる装置であり、写真の進化版とも呼べるものだ。
新聞記事だけに止まらず、こうしてさらにわかりやすく皆に情報を伝えることができるのも、新しい技術の賜物であった。
今日は、取材の様子を撮影することになっている。見ている人にわかるように、口頭で説明しながら進めていく。
「どうも、犬走椛です。本日は自分の足で走っているにも関わらず、あの白黒魔法使いを凌駕するスピードを記録し、幻想郷最速となったこの方にお話を聞いてみたいと思います。それでは、まずお名前をお聞かせ願えますか?」
マイクを向けられたその方は、昔と全く変わらない眩しい笑顔で、こう言った。
「はい。私はいつでも清く正しい、射命丸文ですよ」
素晴らしかったです!!!
ただ、一読した後にどうしても心の中にもやもやと引っかかるものが残りました。
何度か読み返してみたのですが、山の規律を乱しているのは文というよりも守矢神社の側のはずだと思い至りました。
天狗は仲間意識が強く、排他的な存在である、ということを考えると、排除されてしかるべきは神社側のはずではないか。
しかし、作中では文への攻撃が強く描かれていて、神社側への被害がほとんど見受けられないという状態でした。
推敲していく過程で、このような場面が切り落とされていったのかもしれませんが、そうだとしても気になる面として印象に残ってしまいました。
>あと伊吹さん、例のこと……よろしくお願いします
河城さん? でしょうか。この場面には鬼は登場していなかったような……
めったに長文を読まないのですが、この作品は感想に価するものだと思いました故、コメントを残させていただきます。
でも守矢さんは文に協力をしてもらってる割に、何故真っ向から文を守ってやらないんだろう、と言う疑問は残りましたが
すいかに依頼しただけみたいですし
他は綺麗な話だったので、そこだけちょっと気になりました
ウェブ上に公開してしまうのはどうかとおもいますがどうでしょうかアーーーーーーッ!!