人里の中央通りに、整然とした人の列が並ぶ。
祭りか何かと見間違えてしまうような人数ではあるが、それとは明らかに異質で、
かつ厳かな雰囲気がその場所には広がっている。
――これは、とある人物の葬式であった。
当然、この場において騒ぐ声などなく、響くはすすり泣く声と、咽び泣く声のみである。
生前の故人の人徳なのだろう、参列者は後を絶たず、その葬列は長く、長く続く。
「……」
その列を、喪服である羽織袴を纏った森近霖之助は、近くも遠くもない場所から静かに見送る。
見送っているその葬列の主は、霖之助とは決して浅からぬ縁があった。
本来なら、こんなに中途半端な場所から見送るような間柄ではなく、
むしろ棺に添って歩くような場所にいるべきであった。
――だが、彼はそうはしなかった。
ただじっとその列の中心、つまりは少しずつ進んでいく棺で眠る、その故人を見つめる。
今まで生きてきて、既に何度この場面を目にしてきたのかは、もう分からない。
自身に関係ある人のものも見送ったし、そうでない人のものも、数多く見送ってきた。
その度に涙した事も、思い出すのが難しいくらい昔にはあったかもしれないが、
それはもう既に磨耗したものだと思っていた。
だが、こうして改めて自分のよく知る友人が一人、また一人と去っていくのを目の当たりにすると、
その擦り切れてしまっていたと思っていた感情が、僅かにむくりと鎌首をもたげる。
それに目を背けるように、霖之助は見送っていた人の列から離れた。
――今日。森近霖之助はこうして、上白沢慧音を見送った。
最も幻想郷が騒がしく、そして活発だったあの頃を知る友人を。
◇ ◇ ◇
陽の落ちた香霖堂店内は、相も変わらず静かだ。
いつもどおりと言えば、そうなのかもしれない。
だが、その店と共にそれなりの年月を歩いてきた霖之助から見ると、その静けさはかつてのものとは微妙に色が違う。
――静けさには、二種類がある。
一つは、『静』よりも『動』が上回ることが多いために、今ある静寂がいつ壊れるか分からない不安を孕みつつも、
だからこそ壊れるまでじっくりと堪能すべきだと実感できるもの。
もう一つは、明らかに『静』が『動』を上回り、いつ壊れるかという不安が全くないことと引き換えに、
どこか停滞を感じざるを得ないものの、二つだ。
そして今の香霖堂に流れるものは、明らかに後者に近い静寂だ。
――それが悪いとは、決して言わない。
むしろ騒がしいことが苦手な霖之助からすれば、今のこの状況はどちらかと言えば願っていたものだ。
客入りが寂しいのは昔からであり、そこに不満はない。
香霖堂を必要とする誰かがいれば、放っておいても客は来る。
必要としない相手ならば、こちらから願い下げだ。
故に、不満はない、のだが。
「……ふぅ」
一つ溜息を吐いて、霖之助は開いていたページに栞を挟み、閉じる。
本をカウンターに置き、代わりに湯呑みを手に取って、
その軽さにいつの間にかお茶がなくなっていたことに気付いた。
そう言えば、最後に湯呑みを手にしたのはいつだったか。
確か、本が読みづらくなってきたために明かりをつけた時だったような気もする。
外の様子を見る限り、あれから随分と経っていたらしいが、
読書に夢中になっていたせいか飲み物を口にするのも忘れていたようだ。
「……お茶でも淹れるか」
ちょうど読書も一区切りついたところだ。
休憩するにはちょうどいい。
いや、むしろ陽が沈んで大分経つところを見ると、今日はこのまま店を閉めてもいいかもしれない。
『あの頃』とは違って、今は店が閉まっている間に訪れる客もそうそうはいない。
なら、いいだろう。閉めてしまっても。
霖之助は扉の外にかけている掛札を裏返すべく、重々しく腰を上げる。
――店のドアにかかっている、大分年季が入ったカウベルが揺れたのは、ちょうどその時だった。
「……いるかしら?」
「ああ、いらっしゃい。君が一人で来るとは珍しいね、レミリア」
「ええ、まぁそうね」
扉が開き、その戸口の向こうにいたのは、随分と見慣れた客の一人となった紅魔館の主、レミリアだった。
どうやら供を連れることなく、一人で訪れたらしい。
彼女がこうして一人で香霖堂を訪れるのは、間違いなく珍しい部類に入る。
ここ最近、レミリアは比較的まだ覚えのいいメイド妖精に買い物を教えるために、
その妖精を伴って、以前から紅魔館が利用するこの香霖堂に時々訪れてはいた。
しかし、元々の頻度はそう多くなかった上に、近頃は仕事を覚えてきたその妖精が一人で訪れることもあり、
ここ数週間は顔を見ていなかったはずだ。
――それ以前も、まだ『彼女』が健在だった頃ですら、レミリアが一人で来店するのはごくごく稀だった。
ただ、あの頃と比べて単純に来店する頻度だけならば、確実に上がってはいるのだが。
「――思ったよりも平然としてるわね」
「ん? 何がだい?」
「ううん。――まぁ、大したことじゃないわ」
ふと思案に沈む霖之助の顔を見て、レミリアはどこか安堵したように呟きながら、その歩みを店内へと進める。
そのとことことした、吸血鬼らしからぬどこか可愛らしい歩みは、昔から変わっていない。
霖之助ですら懐かしさを感じるその挙動で、レミリアはカウンター前へと自然な足取りでやって来た。
そしてすぐ近くにあった椅子を霖之助の正面へと運び、それに飛び乗ると、少しばかり思案してから、言った。
「……そうね。久しぶりに、あなたの淹れた不味い紅茶でも飲んでみたいわ。淹れてくれるかしら?」
「ふむ。……見たところ、今日はお客ではなさそうだね。
それなのに『不味い』だの何だの言った挙句に、君の方から紅茶をせがむのはどうかと思うが」
「いいじゃない、それくらい。お得意様にはそれくらいしなさいよ。
それにどうせ最近、私達のところくらいしか客は来てないんでしょう?」
「お生憎様だが、君たち紅魔館以外にも、命蓮寺やアリスに妖夢がちょくちょく利用してくれているよ。
……だが、確かに君のところは随分と息の長いお得意様だからね。それくらいは吝かではないよ」
「……だったら最初からそうすればいいじゃない。その辺りは少しも変わらないのね」
「人への言葉のかけ方というものもあるんだよ。君の場合、それについて少々口を開きたくなる事が多いだけさ。
……ちょっと待っているといい。準備をしてこよう」
「早めにね。客を待たせるのはご法度なのよ?」
「分かっているさ」
やれやれ、と溜息を吐きながら、霖之助はそのまま奥の流しへと向かう。
紅茶を淹れるためのポットを取り出し、湯を沸かしながら、
紅茶の葉――今回はレディグレイの入った缶を、流し台の下から取り出した。
湯が沸いたら、まずはポットを温めるために湯を入れる。ティーカップも同様だ。
そうして暫くポットを温めたら、一旦湯を空け、葉をレミリアの好みの濃さになるように入れる。
レミリアの好みは、決して紅茶の香りを邪魔しない、若干薄め程度くらいが一番ちょうどいい。
飲んだ時、口から鼻腔へ抜けていく香りを愉しむのがいいのだと、かつてそう聞いていた。
その加減もなかなか難しいのだが、何度も淹れれば大分慣れてはくるものだ。
適量を加えたら、後は湯を注いで葉を適度に蒸らす。
この蒸らしが重要であるのは、もはや言うまでもないだろう。
その間、霖之助は自分の分もお茶を淹れる。
紅茶も飲めないことはないが、やはり自分の舌に合うのは緑茶だ。
「……よし、と」
余った湯で緑茶を淹れ、それが終わったところで、
十分に蒸らした紅茶を茶漉しで漉しながらティーカップに注げば、出来上がりだ。
基本的に香霖堂を訪れる客で紅茶を嗜むのは、
レミリア以外ではアリスくらいのもので、決してよく出す部類のものではない。
だが、その二人は以前から紅茶にはうるさかったために、霖之助も滅多に出さないとは言え、
紅茶を淹れることそのものは全くの素人ではない。
やっていれば、嫌でも身につくというものだ。
その腕は、とりあえずアリスにはある程度認めてもらってはいた――とは言え、
彼女も『まだまだだけど、何とか見れる程度ね』くらいのものではある――が、
レミリア相手ではあの暴言とも言える散々な評価だ。
確かに、何事も瀟洒に過ぎた『彼女』と比べれてしまえば、如何なる紅茶であってもレミリアの舌を満たす事はないのだろう。
それは、もう手に入らないから尚の事、なのかもしれない。
だが、それで文句を言われたところで、霖之助にはどうしようもない。
森近霖之助は神でも料理人でも茶人でもない、ただの古道具屋を営む半人半妖なのだ。
――まぁ、それはさておき、紅茶を待つ小さな上客が怒り出さないようにはしないといけない。
霖之助は『彼女』に教わった淹れ方で淹れた紅茶と自分の分の湯呑みを持ち、店の方へと足早に戻る。
幸い、件の上客は怒ってはおらず、静かに席に座って店主の戻りを待っていたようだった。
「待たせたね。ほら、君の言う『不味い』紅茶だ」
「……いちいち棘があるわね。言っておくけど、だからって言って手を抜いていたら怒るわよ?」
「そこは心配ないさ。君相手に手を抜くと酷い事は、重々承知しているからね。
僭越ながら、僕としては精一杯やらせてもらったつもりだよ」
「本当かしら? ……まぁ、確かめさせてもらうわ」
ソーサーに置かれたティーカップを手に取り、レミリアはまずその香りを愉しむ。
――香りそのものは、及第点と言ったところだろう。
使った葉はレディグレイか。渋味が少なく、しかも爽やかな味があるこの紅茶は、それなりに好きだ。
選択としても悪くはない。
あとは味だが、そちらはどうだろうか。
ゆっくりとカップを傾け、一口含む。
そうして少しばかり舌の上で転がしてから、隅々まで味わうようにゆっくりと嚥下する。
――悪くはない。
決して濃くはなく、口から駆け抜ける香りを愉しむのに邪魔にならない程度の濃さである。
選んだ葉も、味も、温度も、決して不満を告げるようなものではない。
寧ろ、レミリアの味の好みをある程度知っていて、
それを一定のレベルで実現出来るという点では、十分に評価に値するものではないだろうか。
――しかし、そんな悪くはない紅茶であっても、レミリアの中で絶対の指標としてしまっているものと比較してしまえば、どうか。
それと並べてしまえば、悪くない紅茶も一気に及第点スレスレの成績へと真っ逆さまである。
その辺の家庭で飲むには十分かもしれないが、かつて紅魔館で出されていたものとして見るなら、かなり見劣りするのは確かだ。
無論、それを専門でもない霖之助に求めたところで、致し方ないと分かってはいる。
だが分かっていても尚、レミリアの口を衝く評価は、そういった理性的な考えとは違う。
「……香りも味も、ぎりぎり及第点といったところかしら。まだまだ精進すべきね」
「そんなところだろうね」
レミリアの辛い評価に顔色を変えることなく、霖之助は飄々とした様子で自らも緑茶の湯呑みを傾ける。
霖之助の方も、確信には至らずともなんとなく予想がついている。
レミリアが自分から紅茶を求める時は、『霖之助』が淹れたものを求めているのではないのだろう、という事を。
霖之助が、『咲夜』から指南された淹れ方のものを求めているのだろう、という事を。
「……まぁ、でも悪くはないわ」
「おや、そうかい? そう言ってくれると、僕としても助かるよ」
しかし、今日の彼女の評価は、いつものものと少しだけ毛色が違った。
だが、それを霖之助は口にはしない。
レミリアがそう言わない以上、それは口にしても仕方がないことだからだ。
憶測で上客の機嫌を損ねてしまっては、ただの骨折り損だ。
故に、ただ静かに、レミリアが紅茶を口にするのを眺めているだけだ。
――まぁ、レミリアが『咲夜の淹れ方で淹れろ』と言ってはいないのに、わざわざ教わった淹れ方をする自分も自分か。
たまたま一人で香霖堂を訪れたレミリアに、『咲夜の淹れ方を真似た方がいいか』と思って淹れたのが最初だった。
以前、紅茶の淹れ方を教わった事があったので、その時の技術を思い出しながら淹れたのだ。
初め、レミリアの評価は今よりも散々なものであった。
筆舌に尽くしがたい、それはそれは辛辣な評価だったのは、今でも霖之助は決して忘れてはいない。
――しかしそれ以降、一人で訪れる時はほぼ例外なく紅茶を要求してくるところを見ると、
口ではあれこれ言うものの、やはり思うところがあるのだろう。
だから霖之助は、変わらずレミリアを吸血鬼でありながら人間のようだ、とも思う。
妖怪に懐古主義があるのかどうかは分からないが、少なくともレミリアにはその片鱗が見えるような気がする。
だから、わざわざレミリアの要求に渋々ながらも、毎回応えているのかもしれない。
放っておくと怖い上に、更に面倒になるという事情もある。
と言うか、恐らくそっちの比重の方が大きいことには違いないのだが。
「……ねぇ」
ふと、四分の一ほどその容積を減らしたティーカップをソーサーに置いて、レミリアは霖之助を呼んだ。
つい、と声を出す前に、霖之助はそちらへと視線を走らせる。
――いつもより少し、真面目な表情を浮かべていたレミリアが、そこにはいた。
「何だい?」
「今日、人里の方で葬式があったらしいわね。里の警護をしてた半獣の」
「……ああ、そうだね」
誰から聞いたのかは分からないが、レミリアはそう切り出した。
――努めて、いつもどおりの声を出す。
「あなたも参列したんでしょ? 確か昔馴染みとか言ってたし。
……まぁでも、今こうしてここにいるってことは、途中で帰ってきたみたいだけど」
「……否定はしないよ」
ずず、と緑茶を啜りながら、霖之助はレミリアの問いに答える。
――人里の守護者であった慧音とは、随分と昔からの馴染みだった。
彼女が半獣になる以前から、里での顔見知りであったし、
再会した後も、ある程度の連絡を取り合うくらいは親しい間柄であった。
故に、その最期には参列しなければならないとは思っていたし、実際参列もした。
だが中途で帰ってきたのも本当だ。
埋葬されるところには、立ち会わなかったのだから。
「……ふぅん。やっぱり思ったよりは普通にしてるわね」
「まぁ、これでも普通の人間よりは長く生きてるからね。……見送るのも、いい加減に慣れたさ」
「……そう」
――まず最初に見送ったのは、阿求だった。
彼女の場合、その特殊な出自も相まって、それなりに早いかもしれないとは思っていたが、
まさか最初だとは思っていなかったため、悲しみよりも先にまず驚いたものだった。
その次は少し空いて、大恩ある霧雨の親父さんだった。
以前から少々身を案じてはいたものの、彼が亡くなったのを聞いた時は、全身から力が抜けていったのを今でもよく覚えている。
霧雨の奥方が亡くなった時も、同じだった。
今の自分の礎を築いてくれた二人だった故に、この時ばかりは霖之助も周りの目を気にせず、最後まで棺に付き添った。
次が、咲夜だった。
他者の時間が止まっている間でも自らは時間を進む彼女が、
他の人間の少女たちよりも比較的早くにいなくなってしまうことは、
ある程度予測はしていた。
最期まで主に忠誠を誓い続けた咲夜は、彼女らしい笑みを湛えたまま、永劫の眠りについた。
それから少し経って、霊夢が旅立った。
次代に博麗の役割を託した後はのんびりと余生を送っていた霊夢だったが、
その葬式は文字通り幻想郷中から人妖問わずに参列客が集まり、
葬式と言うよりは宴会のようだったのは、色々な意味で忘れられないだろう。
そしてそのすぐ後に、魔理沙も霊夢の辿った道筋を追って旅立った。
魔理沙の葬式も霊夢の時と一緒で、泣きながら酒を煽る鬼や天狗、河童で溢れ返っていたのを、霖之助は記憶している。
実に葬式らしくないものではあったが、
よく笑い、騒がしいくらい元気だった魔理沙らしい見送り方だったのだろうと、
今は思っている。
まぁ、この二人は冥界にも知り合いがいるため、ひょっとしたら向こうで元気にやっているのかもしれない。
心配するだけ無用なのかもしれないが――この二人が顔を見せなくなってから明らかに香霖堂の温度が下がったのも、事実だ。
そうして、幻想郷が最も活発だった『あの頃』を知る『人間』が次々と減り、ついに今日、慧音も旅立った。
経った年数を考えれば、あの頃を知っていてなお生きている純血の人間はいない。
残っているのは、人外である妖怪や神や天人。
或いは――霖之助や妖夢のような、人間混じりの人外しか、もういない。
そして、妖怪には寿命という概念は薄い。
そも、妖怪は精神に拠る存在であるが故に、時間の経過による肉体の老衰とは殆ど無縁だ。
だから、順番から考えると――。
「……それに、慧音で多分、終わりだろうからね」
「何がかしら?」
「僕が、あの頃の友人を見送るということが、さ」
「……」
霖之助は半人半妖であるが故に、既に人間にはあまりある年月を生きてきた。
人間を遥かに超える時間を生きてこれたのは、
半身に流れている妖怪の血である事は言うまでもないだろう。
――だが、それでも半分は人間だった。
加齢の影響は、確実に霖之助の身体に及んでいた。
身体能力的な制限はまだ感じないが、鏡を見た時の自分の顔の所々に特にそれを感じるようになったのも、ここ最近のことだ。
まだ霊夢や魔理沙がいた頃は、霖之助は『青年』とも言える顔立ちをしていた。
しかし、今では確実に青年の域を超えている。
かつて文の撮っていた写真と見比べると、その違いは霖之助本人にもうっすらと分かるくらいだ。
こうしていずれは霖之助も、既に旅立った彼女たちと同じように逝くのだろう。
しかし、既にもう霖之助が見送るだろう、縁の深い知り合いはいない。
同じ半人なら妖夢がいるが、彼女の方が霖之助よりも大分若い。
半霊と半妖はどちらが長寿なのかは知らないが、恐らく妖夢が逝くのは霖之助よりは後のはずだ。
また見送る可能性がある人間には稗田家の御阿礼の子がいるが、
あの家系の者はもう既に何度か見送っているので、感覚としては少し違う。
博麗の巫女は、霊夢以降の代とは繋がりが薄くなってしまったために、
よく分からないというのが実情だ。
残りの知り合いは、霖之助の生きているうちに亡くなるようなことはないだろう。
だから、霖之助がかつての知り合いを見送らねばならないのは、今日が最後ということになる。
次に見送られるのは、自分になるのだろうから。
――そんな、まだ実感として形を得るには早すぎるはずの推論が、妙に色を得て、しかも頭に残って離れない。
霖之助にしてみれば、全くもって自分らしくない事である。
しかし、この妙な感覚も、今が初めて感じるものではなかった。
友人を見送るたび、強弱はあれど経験してきたものだ。
その今までの経験から言えば、この感覚はずっと残るわけではないだろう。
精々今日一日、といったところか。
哀愁に耽るのはらしくないが、まぁ、今日くらいは大目に見てもらうとしよう。
「……そうね。のらりくらりしてて、ちっとも人間っぽくはないから忘れてたけど、店主もそのうちいなくなるのね」
「それが人間の摂理だからね。尤も、僕は慧音と違って、最初から半人半妖だった。
実際に閻魔様に世話になるのは、今よりもずっと先の話だろう」
「……だとしても、やっぱり珍しいわね。
あなた、こういうことは考えそうにないし、仮に考えたとしても、絶対喋りそうにはないものだと思ってたけど」
「……概ね、そんなところだろうね。しかし大分近しい友が旅立ったとあっては、僕でも少しは哀愁に浸るものさ。
……とは言え、僕もいつまでもこれを引きずる程、多感でも若くもない。
明日にはいつも通りになっていると思うよ」
こんな話を霖之助がしているのを聞いて、「らしくない」と笑い飛ばさないのは、
人間と距離が近い命蓮寺の面々か、後はレミリアとアリスくらいだろう。
アリスは今は魔法使いだが、パチュリーとは違い、元々から魔法使いではなかったから。
レミリアは純然たる吸血鬼だが、使用人として人間である咲夜を近くに置いていたから。
どちらも、魔法使いや妖怪とはあまり縁のないはずの寿命というものを、程度こそ違えど実感として知っている。
――だから、霖之助はこんな話をしているのかもしれない。
話しても無駄ではないと分かっているからこそ、
こうして実に普段の自分らしくない、本来なら己の内だけで留めている事を口に出しているのかもしれない。
「……そうね」
そんな霖之助の言葉を、レミリアは聞きようによっては適当にも聞こえる抑揚の声で頷いた。
こくり、と霖之助が淹れた残り半分の紅茶を少しずつ含み、飲み込んでいく。
――これとよく似た、もっと味も香りもいい紅茶が、レミリアの居住する紅魔館でいつでも楽しめなくなってから、もう随分経つ。
なのにその味をまだ忘れていないのは、ここでこうして紅茶を出してもらっているからだろう。
確かに味も香りも、咲夜のものには全然追いついてすらいないし、比較するのもおこがましい。
だから、最初は頼んでもいないのに、咲夜を思い出させる中途半端な紅茶を出してきた事に、酷く腹を立てたものだ。
しかし、それでもこの紅茶を出してもらって口にしているうちに、
気付けばいつの間にか罵詈雑言が何てことのない皮肉へと変わっていた。
紅茶の味としては、相変わらずまだまだ咲夜には及ばないものの、
確かに咲夜の面影は感じるし――何より、
最初に自分でもかなり辛辣だと思える評価を告げたはずだったのに、
相変わらず出来る限り咲夜の紅茶を出している霖之助の言葉に出ない優しさが、僅かだが見えてきたのだ。
商売人としての適性がまるでないように見えるこの男だが、意外とそうでもないのかもしれないと、
少しだけ評価を上乗せしたのはもう大分前の事だ。
――だが、もし自分が上客でなかったらここまではしてくれなかったのか、とも、レミリアは考えた事がある。
霖之助の性格を考えれば、それは十分有りうる話だ。
面倒とはどんな人物でも避けたいものではあるが、彼ほどそれを心から避けたがる者もいないからだ。
が、それは今となっては分かりようがない。
運命とは、突き詰めれば現在という定点から見た未来だ。
過去に戻り、今とは違う運命を見ようとしても、
それはあくまで可能性として有りえた『もう一つの現在』であり、この今ではない。
だから、レミリアでもその先は分からない。
今分かるのは、レミリアは霖之助からそれなりの待遇をもって迎えられる存在である、ということだけだ。
なら、それでいい。
それで、何も悪くはないのだ。
「――ふぅ」
レミリアは白磁の底が見えるティーカップを、深い吐息と共にソーサーへと置く。
今日はいつもよりも、するりと紅茶が喉を伝っていく。
特に喉が渇いているわけではないのだが、ペースとしては随分と早い。
それには、静かにレミリアを眺めていた霖之助も、それとなく気付いたようだった。
「おや。今日は随分と飲むのが早いね」
「そうね。別に喉が渇いていたわけではないんだけど……」
特に喉が渇いているわけでもなく、かつ空腹でもないのに、お茶が進むのは何故だろうか。
レミリアは、少しだけ考える。
そして、自分がこの香霖堂にやって来た理由を思い出して、はたりと気付いた。
――もしかしたら、この味を提供する、少々埃と黴臭いがそれなりに居心地のいい場所と、
その場所に置物のように鎮座している『誰か』が失われるのを、
少しばかり危惧していたのではないだろうか、と。
「……」
「? 何か用かい?」
「別に」
ふと、じっと此方を見てくるレミリアに首を傾げながら霖之助は尋ねるが、
当の本人は何でもないようにふい、とそっぽを向く。
よく分からなそうに湯呑みを傾ける霖之助を、
ちろりと、レミリアは僅かに横目で再び眺めた。
人里で半人半獣である上白沢慧音が天寿を全うしたと、
レミリアが小耳に挟んだのは今日の夕方ちょっと前くらいだった。
彼女が半人半獣の混じり物である事は知っていたし、それ故に人間よりも長寿であろう事は、前々から予想はしていた。
あの時点で既に五百年以上生きている己と比べるべくもないだろうが、
しかしその半分程度は長く生きるだろうと、おぼろげながらそう思っていた。
だが、結果は違った。慧音はレミリアの予想よりも早く、この世界を発ったのだ。
慧音が後天的な半人であることは知っていたため、その事実に驚くことはなかったのではあるが――。
――もしかしたら人間と人外の混じり物は、思っているよりもずっと短命なのかもしれない。
そんな考えが頭を過ぎったのかどうかは覚えていないが、
気が付いたら何処へ行くかを尋ねてくるメイド妖精へ適当な言い訳を付けて、
香霖堂へと足を向けていた。
そうして、明かりが灯っている店の様子に少しだけ――本当に少しだけ安堵して、店主に出迎えられた。
少しだけ年を重ねたように見える、中身はあまり変わっていない、偏屈で変わり者の店主に、だ。
「……店主も、やっぱり年はとってるのね」
「ん? ……ふむ。やはり君から見てもそう見えるかい?」
「そう聞き返すってことは、自覚はあるのね」
「まぁ、そりゃあね。
一応、体を動かす分には昔とそう変わりはないが、鏡を見るとそれなりに気付くものさ。
生憎僕は銀髪だから、頭髪に白髪が増えたかどうかは分かりづらいがね」
「そのくせ、中身はそんなに変わってないのよね。
相変わらず長話は好きだし、お客じゃない冷やかしだと露骨に対応が変わるし」
「三つ子の魂百まで、という言葉がある。小さい頃に身に付いた人格や性格というものは、大抵一生変わらないものなんだ。
それと、僕は自分の考察を語っているだけであって、決して長話が好きなわけではないよ。
ただ、僕の考察は詳細まで語らないと理解出来ないから、必然的にある程度の長さが必要なだけであって――」
「ほら、そういうところが変わってないって言うのよ」
「……はぁ。そうかい」
くすくす、と控えめに笑うレミリアに、霖之助は不機嫌そうに口を噤む。
こうして長話を途中で止められると、まるで子供のように拗ねる辺りも、昔から変わっていない。
――それを見ると、妙に安心するのだ。
紅魔館にいるパチュリーもフランドールも美鈴も、外見も中身も昔からあまり変わってはいない。
だが、それは彼女たちが完全な人外であるが故に変わらないだけだ。
変わらないのが当然であるが故に、変わっていなくとも特に何も思わない。
だが今日の慧音の旅立ちで、レミリアは不変に対する認識を少々改めざるを得なかった。
目の前にいる半分は人外の男も、その残る半分の人間の血によって、慧音のようにいつかは先にいなくなる。
それは人間にしてみれば実に当たり前だ。
そうして咲夜も、いなくなったのだから。
だから、なのかもしれない。
たとえ外見は変わっていったとしても、中身が変わっていないことに安堵の感情を覚えるのは。
まだ変わっていない部分を見る事が出来れば、
その避けられぬ『運命』はまだ先だと実感できるから。
――恐らく自分は、この安堵を得たかったのだ。
一時的、かりそめの安堵だと分かっていても。
「……ん」
「……ああ、お代わりかい?」
飲み終えたティーカップを、レミリアはずいと霖之助へと差し出す。
それはどう見てもお代わりの催促ではあったが、
レミリアにしては実に珍しいために、霖之助は念のために聞き返す。
その問いかけに、紅い悪魔は呆れたように、そしてさも当然のように頷いた。
「それ以外にないでしょうに。ほら、さっさと次を用意なさい」
「君にしては珍しいものだから確認したんだよ。……まぁ、僕もちょうど飲み終えたところだし、持ってきてあげよう」
「何で店主が上から目線なのよ。客にサービスするくらい当たり前でしょう?」
「今日は君は『客』ではないだろうに。 ……まぁいい。とりあえず少し待っていなさい」
「……ねぇ、店主」
「ん?」
レミリアの使っていたティーカップと、自分が使っていた湯呑みを持って流しへ向かおうとした霖之助が、
くるりとレミリアを振り返る。
そうして言葉を待つ霖之助に、レミリアは言葉を投げかけた。
――咲夜が紅魔館からいなくなってから今まで、幾度か告げてきた言葉を。
「やっぱり、紅魔館で働くつもりはないかしら。割と本気で」
「……ふむ」
「相変わらず掃除は下手そうだけど、それ以外は一通り出来るのは評価に値するわ。
咲夜にはやっぱり及ばないけど、メイド妖精よりは全然マシだし。
それに店主にとって、パチェの図書館が使えるようになるのは大きいメリットのはずよ。……それに……」
もごり、とレミリアはそこで一旦口ごもる。
今までのレミリアの言葉は、先程も述べたとおり、既に何度か告げたことのある勧誘文句そのものである。
加えて言うなら、そのたびに一体何が不満なのか、大抵は『店があるから』と素っ気なく断られてきた、
何とも不名誉な実績のある言葉でもある。
なら、そのいつもの言葉に何を加えれば、目の前の半妖を頷かせることが出来るのだろうか。
そんな、いつものレミリアらしくない考えが浮かんだのは、きっと今だからだろう。
今こうして何気なく、いつもと同じように言葉を交わしている人間混じりの相手が、
何もしなくともいつかは消え行くものだと、今日改めて実感したから。
いつかは消え行くのなら、ある程度咲夜が持っていたものを再現できるこの男を、
このまま手放しで置いておくのは少々惜しい。
――それに、絶対に口外する事はないが、最近は咲夜のものとは少し違う、
霖之助独特の癖が混じる紅茶も悪くないと、そう思えるようになってきた。
ならなおのこと、このまま捨て置くには勿体無い。
『奇貨居くべし』という言葉もある。
字から考えて、きっと『変わっているものは近くに置いとけ』とか、そういう感じなのだろう。
この店主には、まさにうってつけの言葉ではないだろうか。
この半妖ほど変わっている存在も、そうそういるはずがない。
なら、その変わっているものはどこに置いておくべきか。
――そんなもの、一つしかない。
紅魔館に仕えるのであれば、いつでも仕えるべき主の命令を聞ける場所にいるのが当然だ。
だからそれを、いつもとは違う付加条件として、レミリアは口上に盛り込んだ。
はたり、と蝙蝠の翼が、少しだけ固い動きで、揺れた。
「……今なら、当主直属の執事にしてあげてもいいわよ?」
「……ふむ。君にしては珍しく、僕を正しく評価してくれているようだが……そうだね。
最後の言葉がなければ、今回は考えたかもしれないな」
「……何それ。どういうことかしら?」
今までのレミリアの経験上、霖之助からの返事は、例外なく否定であった。
言い方がやんわりだったり分かりにくかったり、率直だったり大上段からの袈裟斬り真っ二つだったりと、
そういったいらない表現の違いはあるものの、断っていたことだけは一貫していた。
だから、その返事に僅かだが肯定の意があったのに、レミリアは少なからず驚いた。
驚いたのだが――ちょっとその内容を噛み砕いてみて、すぐにその驚きが怒りに変わった。
何故なら、霖之助の言う『最後の言葉』とは、他でもない。
レミリアが少し迷ってから付け足した、直属の執事への誘いだ。
レミリアからすれば、最大級ともいえる抜擢と――あと、決して短くはない付き合いの間で、
店主としての義理は通す霖之助に抱いていた、それなりの信頼からの言葉であることだけは、確かだった。
しかし、寧ろそれが邪魔だったかのように聞こえるその返事は、
レミリアが相手でなくとも機嫌を損ねさせるのには十分だっただろう。
そんな不穏な気配を感じ取ったのか、霖之助は一つ溜息を吐いて、肩を竦めた。
「そう不機嫌にならないで欲しい。君の抜擢が嫌だから言っているわけではないんだ」
「……相変わらず店主は言葉が足りないのよ。
あれだけだったら、どう聞いても喧嘩を売ってるとしか思えないわ」
「僕が荒事が苦手なのは知っているだろうに。冗談でも吸血鬼に喧嘩を売るつもりなんかないよ」
「どうだか……」
さも当然、と言わんばかりの言葉だが、そう思っているのは恐らく当の本人だけだ。
皮肉なのかどうかは知らないが、どう聞いても喧嘩を売っているとしか思えない言動もそれなりにあると思う。
少なくとも、レミリアがそういうのを目の当たりにしたのは、これ一回だけでないのは確かだが。
「……まぁいいわ。じゃあ、さっきの返事はどういうこと?」
「君の評価やその抜擢は、僕に対するものとしては正しいし、十分なものだとは思う。もしかしたら、身に余るものかもしれない。
……だが、君からそう誘われる度に思うんだ。『僕はあくまで僕であって、何かの代用品ではない』、とね。
……そこは、ちゃんと分かっているのかい?」
「……分かってるわよ」
そう、レミリアは搾り出すように答えた。
それは少しばかり、図星だった。
――実際、レミリアが霖之助に紅魔館へ来るように誘い出した頃は、彼をそう見ていたのだろう。
質は劣るが、咲夜の代用品たりえる存在だ、と。
そうでなければ、わざわざ吸血鬼の貴族たるレミリアが、
どこの馬の骨とも知らない半人半妖を自らの館へと誘うはずがない。
しかし今でもそうかと言われれば、きっとレミリアは頷きつつも心中では首を傾げることだろう。
咲夜の技術を希求しつつも、霖之助自身の癖も悪くはないと思う自分も、些少だが確かに存在するようになった。
だから、十全で咲夜の代用を求めているわけではない、と言えるはずだ。
それは嘘でも何でもない、単純な『真実』だ。
「……第一、店主に咲夜の代わりを求めても、出来っこないでしょうに。初めから期待してなんかいないわ」
「それもそうか。僕に彼女ほどの忠誠心も完璧さもないのは、君もよく知っているだろうしね」
若干の皮肉が混じったレミリアの返答に堪えるどころか、寧ろいとも簡単に納得しながら、
霖之助は止めていた足を再び流しへと向け、その姿は暖簾の向こうへと消えた。
――まだ結論を聞いていないというのに、こうも好き勝手に客の前から席を外すというのもどうかと、レミリアは思う。
だがまぁ、かと言って騒ぎ立てても仕方がない。
向こうが勝手に席を外したならともかく、今はレミリアがお茶のお代わりを要求し、その準備のために席を外したのだ。
この程度は大目に見てやってもいいだろう。
貴族の当主たるもの、下々の多少の無礼を許す度量がなくてはいけないのだ。
――そう思って待っていると、割かし早く霖之助は戻ってきた。
気を長く持つというのも、存外悪いものではないのかもしれない。
「ほら、新しい紅茶だよ」
「ええ、ありがと。……それで、どうするの?」
「ん? さっきの話かい?」
お代わりの紅茶を受け取りながらレミリアがそう尋ねると、
霖之助はまるで惚けているかのようにそう聞き返す。
分かってやっているのか、そうでないのか。
前者だったら怒ってもいいと思うのだが、表情からはそれが読めない。
割と表情に出やすい霖之助にしては珍しいが、それ故に判断がつかないのだ。
――とりあえず、深い深い溜息を吐いてから、呆れた表情で、その妙に気に食わないいつもの表情へ、レミリアは言い放った。
「それ以外に何があるのよ。体よりも先に頭が耄碌してるのかしら?」
「失敬な。心技体、至って健常だよ」
心外そうに眉根を寄せ、霖之助は自身の湯呑みを傾ける。
まぁ、確かに昔からこういうやり取りは変わっていないので、頭が健常であるのは嘘ではないようだ。
しかし、『心技体』のうち、絶対『心』は健常ではないだろう。
少なくとも、この店に訪れる客に対する接客態度や店の様子を見て、
『そうだ』と頷けるやつは目が腐ってると、レミリアは正直に思うのだが。
「……まぁ、何と言うか、だね。
咲夜の代わりを求めているのではないとしても、君の直属で働くとなると、この香霖堂店主を辞めなければいけない。
それは嫌なんだ。それに、正直体がもつ気がしない。
君の我侭には昔から度々付き合わされてきたから、その辺りは身を以って知ってるんだよ」
「……ふぅん」
成程、とレミリアは相槌を打つ。
この半妖は、上客からの注文をそんなふうに捉えていたのか。
まぁ、とは言うものの、レミリアからしても確かに思い当たる節がないでもない。
しかし、それは少しばかり視野が狭窄していると言える。
少し見方を変えれば、しがない古道具屋の店主が、高貴な紅い月からの我侭に付き合う事が許されたのだ。
一介の、それも流行らない店の店主であれば、寧ろ喜んで然るべきだろう。
だからきっと、自分は悪くはない。
悪いとするなら、それは何事も面倒に思う、この店主の方だろう。
――などというレミリアの考えそのものが、我侭以上に霖之助を面倒がらせているのに、まだ彼女は気付いてはいない。
気付くのかどうかも定かではないが――とりあえずそれは置いておく。
「それと……僕からしてみれば、それは少し荷が重過ぎるんだ」
「……私の直属が?」
「ああ。君の直属と言えば、僕の知る限りでは『十六夜咲夜』の代名詞だ。
君は僕を咲夜の代用品としていない、と答えはしたが、咲夜がいた場所に僕が座れば、周りはそうは見ないだろうね。
あの頃から働いているメイド妖精もまだいるんだろう? それに君以外にも、七曜の魔女やフランドールもいる。
……まぁ、美鈴は気にしないとは思うが、いずれにせよ、
君以外の様々な相手に咲夜の代わりを求められるのは目に見えているからね。
香霖堂と兼業で、図書館の整理係や倉庫番くらいだったら、少し考えたと思うんだが」
「……そう」
霖之助の言葉に、レミリアは静かに頷いた。
確かに、それは納得出来る話だ。
レミリアがそう思っていなかったとしても、周りがそういう目で見ないかどうかはまた別問題だ。
やる気や態度云々は別にしても、少なくともメイド妖精よりは遥かに安心して仕事を任せられるだろう相手だ。
パチュリーは勿論のこと、フランドールや美鈴も、そういう認識をするだろう。
――そう考えれば、不安は残る。
咲夜は人間の割に有能に過ぎた。
その代わりを務められる人材など、目の前の店主を含め、恐らくもう現れることはないだろう。
しかし、そうと分かってはいても、その偉大な後釜に座る新しい人物に、
同じような結果を全く求めないかと言われれば、それは嘘だ。
「……そういう事、ね」
「ああ、そういう事さ」
レミリアの返事を意に介すわけでもなく、霖之助は静かにお茶を啜る。
我侭な気性はしているが、レミリアは話せば分かる相手だ。
これまで紅魔館への誘いを断ってきて、今のところ全て成功しているのがいい証拠だ。
此方の話を全く聞かない相手なら、何らかの方法でもう霖之助は紅魔館に連れ去られていることだろう。
そうでないという事は即ち、相手が此方の話を理解して、その内容に承服していることに他ならない。
このようなやり取りが出来る相手は、意外と幻想郷には少ない。
そんな点から、霖之助はレミリアをそれなりに評価しているのだ。
相手に直接、それを口にした事は殆どないが、
霖之助は香霖堂という古道具屋の店主であって批評家ではない。
故に、わざわざ相手に教えてやる義理もない。
自分が分かっていれば、それでいい。
「だから、今回も断らせてもらうよ。
――ああ。それと、出来れば今日はもう無しにしてくれるとありがたいんだが」
「ふん。言われなくても、もう言わないわよ。……興醒めしたもの」
「そうかい。それはすまないね」
「……その台詞も、毎度同じなのが頭にくるわね」
実に不機嫌そうに、レミリアは紅茶を煽る。
――その仕草は貴族らしくないだろうとか、色々と言いたいことはあるものの、今は止めておく。
藪を突いて蛇を出すどころか、文字通り鬼が出てきそうな雰囲気が満ち満ちている。
そういうのは諺の中だけで十分だ。
面倒な事を、わざわざ自分から招く必要はない。
君子とは賢いものなのだ。
「……でも、ちょっとだけ意外ね」
「ん? 何がだい?」
先程とはうって変わって不機嫌な顔が消え、代わりに随分と意地の悪い、
にたりとした笑みを浮かべてレミリアは霖之助を眺めてきた。
随分と変わり身の早いことだが、その笑みにはあまりいい予感がしない。
それは今までの霖之助の経験上、大抵が碌でもないことを考えている時の顔だ。
彼女の浮かべている表情を確認する前に聞き返してしまったのを、今更ながら後悔せざるを得なかった。
「今までなら、『考えたと思う』なんて言わなかったじゃない。何? 今更、実は紅魔館も悪くないとか思ったりしてるのかしら?」
「いや、そういうわけではないんだが……まぁ、特に理由はないさ。気にしないでくれ」
「……ねぇ。知ってるかしら?」
「ん?」
「店主が嘘を吐く時って、眉間に皺が寄るのよね」
「……」
何気なく霖之助はカウンターへ肘をつき、自然を装いながら、自らの眉間へ触れる。
だが、特に皺が寄っている感触はない。
鏡がないので確実なことは言えないが、レミリアに指摘されたために、無意識のうちにそれを止めたのだろうか。
しかしそんな癖、今まで誰にも指摘された事がなかったのだが――。
「……みたいな事を言うと、嘘吐きが見つかるっていうのは本当だったのね。
大分前の話だけど、似たような話を漫画で読んだのよ。
その時の決め台詞は、『間抜けは見つかったようだ』、だったかしら?」
「……やれやれ」
――これは、一杯食わされた、という事だろうか。
見た目や人間くさい仕草に油断していると、ごくごくたまにこういう心理戦を持ち込んでくるあたりが厄介だ。
ある意味ナズーリンの方が、話し方や口調からして如何にもな雰囲気を醸しだしているため、やりやすいと言えるかもしれない。
やはり悪魔は悪魔だということだろう。
「で? 一体どういう風の吹き回しなのかしら?」
「……別に、君が聞いても何も面白いことはないと思うんだが」
「面白い面白くないは私が決めることよ。
それに、そういう前置きをされると、逆に気になって仕方がないわ。
ほらほら、さっさと白状なさい」
「……はぁ」
実に楽しそうに、そして勝ち誇ったかのように満足そうな笑みを浮かべ、
機嫌が良さそうにレミリアは蝙蝠の翼をゆっくりとはためかせる。
霖之助の、面倒さで染まった憂いの表情とは実に対照的だ。
――先程、霖之助は『レミリアは話せば分かるから評価している』と考えたが、それも場合によりけりだ。
そういう場合も勿論あるのだが、こういった我侭で強引な面がその他の殆どを占める、ということを忘れてはいけない。
結局のところ、レミリアも幻想郷に住む少女ということなのだ。
そうして霖之助も、長い事その相手をしてきた経験がある。
その経験からすれば、こういう興味や好奇心に溢れる少女を相手にした時は、
変に抵抗するとなお面倒になるというのが定石だ。
――まぁ、似合わない話ではあるが、特にレミリア相手に隠すような事ではない。
適当に話してしまっても、然程問題はない。
多少バカにされるかもしれないが、その時は毅然とした態度でお帰りを願おう。
幸い、今回のレミリアは客ではない。帰ってもらっても、何一つ問題はないだろう。
「――懐かしい、と思ったんだ」
「何が?」
「君の我侭だよ。……昔はよく困らせられたものだよ。それこそ、殆ど毎日のようにね」
「……そうかしら? そんなに言われるほど、ここに来た覚えはないんだけれど」
「ああ、『君』はそうだね。……霊夢や魔理沙たちだよ」
「……ああ。そういうこと」
――もう、あの頃を『昔』などと言ってしまうほど、時間が経った。
霖之助は半分妖怪ではあるが、半分は人間である。
純粋な人間よりも時間の流れに対する感覚は鈍いが、
純粋な妖怪ほど、流れを忘れてしまうような鈍感さを備えてはいない。
そんな霖之助ですら、『昔』と呼んでしまうほど、以前。
あの頃は、毎日のように霊夢か魔理沙がここに顔を出していた。
一時はその頻度の多さに、『他にやる事がないのか』と心配してしまうほどだった。
そして、彼女たち以外にも――。
「霊夢や魔理沙は言うまでもないが、咲夜もよく分からない冗談を口にしてね。
彼女の場合、天然なのかどうか分からないあたりが厄介で、時折返答に困ったものだったよ。
夜中に押しかけられたのも、今となってはいい思い出だ。
……ああ、妖夢も違う意味で困ったものだった。本人の未熟さに加えて、余計な一言が多くてね。
僕に敵意でもあるのだろうか、と訝しむくらいだったよ。今では多少、マシにはなったけどね」
「……」
「そして、君か。と言っても咲夜がいたから、君の来店数はそう多くはなかった。
だから、実際困ったということは殆どなかったんだが……寧ろ、咲夜が亡くなってからの方が多いな。
まぁ、従者がいる手前、下手な事は口に出来なかったんだろうがね」
「……そりゃそうよ。当たり前じゃない」
「だが……そうして気が付けば、その顔ぶれの殆どは他界して、残りは成長したせいか、そういう事もなくなった。
命蓮寺のメンバーとアリスは、元々良識だったお陰で然程苦労したこともなかった。
そうして今、この店に訪れるのは、そういう『苦労』とはあまり縁のない人妖ばかりだ。それが不満だと思った事はない。
寧ろ、相手をするという点においては十分に満足だが……だからこそ、懐かしいと思ったんだろうね。
君のそういう、変わらない我侭さが。面倒な事そのものに変わりはないがね」
「……ふぅん」
さして興味がなさそうに、レミリアは無味乾燥な相槌をうっただけだった。
――だが、正直、かなり意外だった。
あれだけ騒がしいのが苦手と公言し、宴会の誘いといった類のものを殆ど断ってきた霖之助が、
まさかそのような感情を抱えるなど、彼をよく知る霊夢や魔理沙ですら予想がつかなかったことだろう。
そのくらい、意外だった。
――いや、違う、か。この場合はきっと逆ね。
霊夢や魔理沙がいた間は、霖之助は決してこんな感情を持つことはなかっただろう。
成長するにつれ、この店に入り浸る頻度は減ったことだろうが、
それでもあの二人はここに来ればいくつになっても『少女』だった。
そんな二人が霖之助を振り回すことは、決してなくなったわけではなかったはずだ。
そしてそんな我侭に、顔を顰めながらも『仕方がないな』と応じる霖之助の顔が、いとも簡単に浮かんでくる。
それは大分前から、レミリアも目にするようになった表情だ。
――その表情を目にするようになってから、霊夢や魔理沙が霖之助に我侭を言っていた理由が、
何となく分かるようになった気がする。
相変わらず面倒そうに応対はするものの、その様子にはどこかほっとする穏やかさがある。
それは『安心』という感情とよく似た、何とも言葉にしづらいものだ。
そんな言葉など、この腕っ節のまるでない半妖には到底似つかない言葉なのに、だ。
――けど、まぁ……悪くはないわね。
霖之助はどう見ても人妖付き合いが下手だ。
そのくせ、不承不承としながらも面倒見はいい。
多分、そのギャップから得られる、一種の強調効果のようなものなのだろう。
悪人が少しいいことをすると、普通の人よりも遥かに善人に見えるとか、そういうやつだ。
――だが、その思惑がどうであれ、この空間にいて感じる空気が決して不快でないことは確かだ。
そう思っているからこそ、今日のようにレミリアは、
紅魔館から離れた場所にある寂れた店に、わざわざ足を向けるのかもしれない。
「まぁ、懐かしい云々は置いておくとしても、貴族である私の我侭を聞けるのよ?
一介の商人としては寧ろ光栄だと思いなさい」
「はは、相変わらずだね、君は。
……そうだな。それなりに光栄だと思っている、とでも言っておこうか」
苦笑しながら、霖之助は再びお茶を啜る。
仕草はいつものそれと変わりはないが、その顔は皮肉な言葉の割にはとても穏やかだ。
――そういえばここ最近になって、よくこの表情を浮かべるようになった気がする。
無論、そう言い切れるほどこの店に通っているわけではないが、
それでも少し前には目にする事がなかった顔だ。
霊夢や魔理沙は見た事があるのかもしれないが、少なくともレミリアはなかった。
彼としては珍しく、気を許しているのだろうか。
だとしたら、やっぱりあの頃の店主を知る者としては、珍しいと思わざるを得ない。
――いや。これは珍しいと言うより、やはり……変わったと、そう言うべきなのだろうか。
「……丸くなったわね、店主。
百年も前だったら、今みたいな応対は出来なかったと思うわ」
「ふむ。まさか僕がその言葉を言われる側になるとはね。
成程、霧雨の親父さんもこういう心境だったのか。
……悪くはないかもね。似合わないとは思うが」
「確かにそうね。言っちゃ何だけど、ちょっと気味が悪いわ」
「悪いと思うなら、是非ともその時点で口にするのを止めておくべきだと、僕は思うんだがね」
「あら、別にいいじゃない。懐かしいんでしょ、こういうの」
「……今更ながら、口を滑らせてしまったのを後悔しているよ。
それと、あくまで懐かしいと思っただけで、君の我侭自体を求めてはいないよ。
面倒事は変わらず御免だ」
はぁ、と霖之助の溜息が響く。
今度の顔は穏やかではなく、レミリアのよく知る、純粋に面倒そうに顰められた表情だ。
そちらの表情の方がむしろ、『森近霖之助』という男の標準のはずだった。
――やはり大元は変わっていないとは言え、少しずつ、少しずつ変わっていっているのだろう。
魔理沙はよく、『香霖は外見も中身も変わらない』と言っていたが、きっとそうではない。
単純に、人間の時間では気付かなかっただけなのかもしれないのだ。
――レミリアは先ほど、霖之助の『不変』に安堵を覚えた。
いつか忍び寄る未来が、まだ先であることを実感したために。
しかし、だからと言ってこの変化に不安は覚えなかった。
ただ感じたのは、『悪くない』という、僅かな充足感だ。
自分からしてみれば、ある意味好ましい変化だったからだろうか。
だとすれば、我ながら随分と現金なものだ。
しかし、『動かない古道具屋』に似合うのはどちらかと問われれば、
やはり『変化』ではなく『不変』の方だろう。
丸くなった霖之助も『悪くはない』が、『らしくはない』のだから。
「……さっきのも悪くないけど、そっちの方がやっぱりらしいわね」
「うん? 何だって?」
「いいえ、別に」
こくり、と淹れられた紅茶を飲み込む。
――少しだけ冷めてしまったし、やはり咲夜のものとは比べられないような粗茶だけど。
でも、やっぱり、悪くないと思う自分がいる。
全くもってらしくない。
随分と安っぽい味に慣れてしまったものだ。
貴族の当主たる自分が、俗な味に慣れてしまうとは。
この責任は、やはりいつか取ってもらうことにしよう。
それがいつになるかは分からないが、
少なくともこの森近霖之助という男がいなくなってしまう、それよりは遥かに前までに。
「……次は」
「?」
「次は、頷かせてあげるわ。文字通り、その首を洗って待ってなさい」
「……お手柔らかに頼むよ。あと、出来れば面倒事を避けてくれればなおいいんだが」
「それは店主の心がけ次第よ。私のせいじゃないわ」
「……やれやれ。やっぱり君は、変わらないんだな」
ふふっ、という、どこかあどけなささえ残る笑みと。
はぁ、という、だるそうな溜息。
その二つが、ここ最近は青い沈黙で沈みがちだった香霖堂に響く。
――それは、以前とは少し違う、また新しい『静』の在り方だったのかもしれない。
しかし霖之助の紅白と白黒後の話ってのはどれもいい雰囲気だな。
ただ、慧霖好きの自分は最初辺りで軽く絶望に陥りました・・・
しばらくこの空気に浸るか
やっぱり、いつものメンバーがいないと寂しいな……
とても面白い作品でした
コウドクヤメタンデスカー?
まぁ、冗談はともかく
斜陽な雰囲気の香霖堂もいいものでした
たぶんレミリアがするんでしょうかね。
なんだかんだで今を生きている。
このお話ではお茶がいいアクセントになってました。
守谷の巫女さんはきっと神様になったのでしょうね。
霖之助は本当に見送る役が似合う。
騒がしさが薄れて静かになった香霖堂・・・切ないけどいい後味になってます。
霊夢も魔理沙も子孫くらい残してけよぅ
この雰囲気、うまく言葉にできないけど凄く好き
時間は流れる
静かに、ゆっくりと
されど確実に前へと進み、決して戻ることはない…
香霖堂の外には雨が降っている気がしてならない
人間よりも長寿な半妖、しかし妖怪よりは脆いもんね
レミリアは霖之助が死ぬまでに首を縦に振らせることができるのかな……
しかし、状況ゆえにとは言えども口数が少なすぎて、逆に地の文が人物の心境の吐露に比べあまりに多すぎて、後半くらいからは斜め読みになりました。
問題なことに、この作品は人物の会話だけを読みぬいて心境や状況の進行が全て理解できてしまいます。
地の文と会話で同じことを二度読まされている気分で、感情移入は辛かったです。
個人的には霖之助はああいう性格ですが、本質的には寂しがりな面もある彼が
死ぬまで孤独を貫くとはどうしても思えないもので、ぜひ口説き落とされて欲しいです。