その部屋に、森近霖之助は久々に足を踏み入れた。
黒檀で揃えられた家具は程好く年季を経ており、一目で上質なものだと分かる。革張りのソファも黒を基調としたもので、落ち着いた雰囲気を崩してはいなかった。幻想郷では珍しいフローリングの床にも、埃ひとつ見当たらない。
部屋は、持ち主の性格を表す。
自身の店内と思い比べて、霖之助は静かに息をついた。
「君は確か、前に私を訪ねた時もそんな溜め息をついていたな」
声は、落ち着いたものと言うには、あまりにも重厚だった。
紫煙とともに吐き出され、その部屋にゆんなりと漂う。霖之助にも届いたその香りは、前に出会った時と同じものだった。
「まだ、吸っていらしたのですね」
「止める者もいないのでな。惰性で、吸い続けている」
「いえ、そういう意味ではなく」
「ふむ」
霖之助は、苦笑していた。
「葉巻とかに代えられないのかと、そう思って聞きました」
「あれは口で味わうものだ、どうにも合わない」
再び、声の主は口元へと煙草を運ぶ。
確か年齢は五十に届いていないはずだったが、それ以上に老けているなと霖之助は思った。顔に刻まれた皺は、その顔をより彫深いものとしており、ある種の風格をも感じさせる。丁寧に整えられた黒髪は、まばらに浮かんだ白髪も相まって、厳格な印象を与えていた。
「胸に含み、吐き出す。そんな煙草の方が、私の性には合うようだ」
灰皿に煙草が押し付けられ、火が消える。そんな仕草にさえ、岩のような落ち着きと厳しさが見て取れた。
霧雨店の主。
霧雨魔理沙の父親でもあるこの店主は、娘とは違って、常に巌のような気配を漂わせていた。どうやらそれは、煙草の銘柄と同じく、今も変わってはいないらしい。
互いに革張りのソファへと腰掛ける。勧められた煙草は、ひとまず辞退しておいた。
「水煙草を吸っていると聞いたのだが」
「ご存知でしたか。天狗の新聞にはそう答えましたが、今は置きっぱなしです」
「自由だな。君には昔から、商品に対して自由なところがあった」
女中が盆を持って入ってくる。
ティーカップの中身は珈琲だった。砂糖やミルクの類はなく、そのまま口に含む。上品な苦みは、それでも霖之助にとっては少々きついものだった。
「無理せずともいい。いつも、濃いものを淹れてもらっているのだ」
店主は女中を呼び、砂糖とミルクを持ってこさせた。ひとつ礼を言って、それらをカップの中身によく混ぜてから、口に含む。幾分かは和らいだが、それでもまだ苦かった。
「それで、用件は」
身をゆっくりと乗り出して、店主は言った。
「まさか世間話をしに来た訳ではあるまい」
「そのまさか、と言ったら、どうします」
「歓迎しよう」
霖之助は、近況を述べていった。
主に、自分が拾ってきたものについてであるが、店主はそれを遮ることもなく聞き続けていた。煙草に火を灯し、吟味するように紫煙を吐き出して、霖之助の言葉に耳を傾けている。
こういうところも、昔から変わらなかった。
打ち捨てられた嗜好品。外の世界からと思われる用途不明の物品。ただのガラクタにしか見えないマジックアイテムの数々。取り扱うかはさて置いて、どのようなものかという情報を、この霧雨店の主は積極的に得ていくのだ。
知り得ることに損はない。
それが店主の持論だということを、霖之助は自ずと理解していた。
「やはり君は自由だな」
話が落ち着いたところで、煙草の火が消される。
「分別というものがないかのようだ。好奇心が剥き出しで、それを隠そうともしない。商売人としては失格だと、言わざるを得ないだろう」
「手厳しいですね」
「私は、好きだがね」
店主はうっすらと微笑んだ。
暖かみがあり、そして値踏みするような笑みだった。この相反するようなものがない交ぜとなった笑みも、昔から変わっていない。
「自由なだけでは伸びない。気宇壮大に利潤を含まなければ、商売として成り立たぬ」
「僕は、それほど自信過剰ではないつもりですが」
「そうだろうな。むしろ、君には諦めがついている」
「諦めですか」
「そうだ、諦めだ」
黒い瞳が、じっと見つめてくる。この部屋にある家具の色、つまりは黒檀とよく似た色合いだった。
「商売をしようという気持ちが、まるでない」
「それが諦めだと。残念ながら間違っていますよ、僕は常に自分に正直なだけです」
「かも知れない。どうにも昔から、君のことは掴めなかった。君は、私の店で修業をしておきながら、今の店ではまったくそれを活かしてはいない。自由気ままに、商売など忘れたようにしている。そこが私には、分かるようでもあるし、やはり分からないとも思う」
「支離滅裂ですよ」
「だろうな、すまない。君の商売のやり方が、私にはまるで分からんのだよ」
霧雨店は道具屋だ。
それこそ霖之助の店など、月とスッポンとでも言えるほどに、扱う商品は多岐に及んでいる。博麗神社の境内を掃く竹箒から、天狗が印刷する新聞のインクに至るまで、幻想郷のあらゆる物品の流れを、霧雨店は担っていた。
だが唯一の例外もある。霧雨店は、マジックアイテムの類を一切扱わないのだ。
曖昧なものを商いに紛れさせたくはない。
それが霧雨店の主義であり、目の前の店主の主張だった。
霖之助がそういった店主の気持ちを知り、独立を決意するのにそれほどの時間は要さなかった。店主も、霖之助とは抱くものが違うことに薄々勘付いていたのか、強く引き止められることもなかった。
今では、互いに別々のかたちで商いをしている。
これが一番良かったのだろうと、霖之助は考えていた。
「話は、それくらいかね」
備え付けられた柱時計は、淀みなく時を刻み続けていた。見ると、かなりの間を話し込んでいたようである。正午過ぎにここを訪ねたのだが、既に長針は半周ほど進んでいた。
「すみません。長いこと、お邪魔してしまいました」
「構わんよ。私としても、君と久々に話せて楽しかった。また折を見て、店にもお邪魔させてもらおう」
「嫌味でも言いに、ですか」
「どれほどの閑古鳥が鳴いているのか、見物だな」
店主は静かに笑っていた。
こういう笑みが嫌らしくならない者を、霖之助はほとんど知らない。人間でも、これほどまでに泰然自若とできるものかと、改めて感心した。
同時に、少しばかりの悪戯心も芽生えてくる。
この店主の、巌のような心胆をざわつかせるものを、霖之助はよく心得ていた。
「閑古鳥と言えば」
「ふむ」
霧雨店は、マジックアイテムを扱わない。一切合財、扱わないのだ。
それが仇となった、とある出来事は有名である。
「魔理沙の店に、はじめての客があったそうですよ」
「……ふむ」
途端に、店主の顔が一層険しくなる。
「依頼をしに来たのは、なんでも妖精だったとかで。あまり褒められた客層ではありませんが、それでも嬉しかったのでしょう。事細かに、はしゃぎながら話してくれましたよ」
「……ふむ」
返事はそれだけであり、店主は一点を見据えて押し黙る。珈琲を含んだその顔は、なおも険しいままだった。再び灯した煙草を見る目にも、厳めしい揺らぎが宿っている。
魔法を扱いたいがゆえに、勘当同然で家を飛び出していった一人娘――そんな、霧雨魔理沙のことを思い浮かべているのは、容易に見て取れた。自ずと、煙草をつまむ指にも力が込められている。
「確か、そろそろ」
「黙りたまえ、森近君」
硬く低い声は、霖之助の口を止めるのには充分だった。
「君が何故ここに来たのか、そしてなにを伝えたかったのか、ようやく分かった」
揉み潰すようにして、煙草の火は消される。
まだ、長く残ったままだった。
「不躾だな。やはり君は自由だ、私の癪に障るほどに」
「失礼致しました。ご不快な思いをさせてしまい、申し訳ありません」
「構わん。気には食わないが、慣れた」
ソファから店主は立ち上がった。促すようなその仕草に、霖之助も逆らうことなく一礼して、部屋を後にする。
見送る店主の眉間には、最後まで深い皺が刻まれていた。
◆◆◆
猟銃は、霧雨店の目玉商品だった。
今でこそ売れることはほとんどないが、十数年前はそれこそ飛ぶように売れていた。スペルカードによる決闘が確立されるまで、護身としても食糧確保としても、猟銃は幻想郷の人間たちにとって必要不可欠なものだった。
今ではすっかり、陽の目を見ることもない。
それも時代の変遷だろうと、霧雨店の主は考えていた。善し悪し関係なく、時代が移ろえば人の考えも移ろう。そうすると、人に使役される道具というものもまた役割を変えていき、場合によっては使われなくなるものも出てくる。
猟銃は、そうやって需要が無くなったのだ。
平和だから喜ばしいとか、人間が自ら武器を手放すとは嘆かわしいとか、そんな感傷は一切抱いていなかった。購入者が出た際に、不備なく即座に手渡せるよう、点検を怠らないこと。それのみを考えていた。
だからこそ店主は、魔法の森を進む上での護身用として、猟銃を手に取った。自身が扱う商品に、不備などないと自負しているからこその、選択だった。
背負ったそれの世話になることはなるべく避けたいが、そこは妖怪の蔓延る幻想郷なだけあって、油断はできない。近頃では、妖精による悪戯の話もよく耳にした。
あまり煩わしいものには関わりたくない。
ただでさえ、これから煩わしいものと接さなければならないのだ。
道なき道を行く、店主の表情は険しい。
「ふむ」
腰の鈴から音が消えたのは、森の半ばまで来たところである。
見ると、鈴は確かに揺れている。中身が零れ落ちてしまったかのように、鳴らないのだ。注意深く、足元の落ち葉を踏みしめてみる。枯れ葉を潰す感触はあったが、やはり何も聞こえなかった。
慎重に、目を凝らす。
左方に三十度といったところか、茂みが音もなく揺れていた。
猟銃に弾を装填する。
そのまま狙いを定めて、一発撃った。
「うわっ!」
弾は、揺れた茂みから若干上の、木の幹に当たった。狼狽したような叫びは、店主のものではない。子供のように甲高いものが、みっつほど聞こえてきた。
それが切欠となり、周囲に音が戻ってくる。
轟いた銃声に、腰の鈴がちりんと重なった。
「撃つと動く」
「ひっ!」
有無を言わせない声で、言い募る。
「……違ったな。動くと撃つ、だが茂みから出てくるのならば撃たん」
まるで娘のような物言いだと思い、すぐにその考えを振り払った。
それから間もなくして、不承不承とした面持ちの妖精が、茂みから三人出てきた。
わざと猟銃を大仰に背負いながら問い質すと、悪戯を敢行しようとしていたことを素直に話してきた。曰く、落とし穴に嵌めようとし、それが駄目だったなら崖にでも誘いこもうとしていたと。
呆れて、二の句も告げられなかった。
「ほら、やっぱりルナがわざとらし過ぎたんじゃない」
「サニーがしっかりしないのがいけないんでしょう」
「二人とも駄目ね、私はしっかりとこの人を察知していたわよ」
姦しく、悪びれた様子のまったくない三人に、店主は渋い溜め息をついていた。
「一回休みとやらを、体験してみるか?」
よく見えるように猟銃を背負い直す。
妖精たちはびくりと一斉に身を震わせて、押し黙った。
「聞きたいことが、ある」
ようやく静かになったので、なるべく相手を用心させないよう静かに――若干、苦虫を噛み潰したような顔にはなってしまったが――本題を切り出した。
他でもない、魔理沙の家の所在だ。
霧雨魔理沙の名前が出たことがそんなに意外だったのか、妖精たちはそれぞれ驚きもそのままに喋りはじめていた。口々に語りはじめて、三方向から一挙に言葉を浴びせられる。
要領を得るのは難しかったが、それでもなんとか目的地への目処は立った。
「魔理沙さんによろしく言っておいてください〜」
「また巫女への悪戯でも考えましょうって〜」
「あ、でもこの失敗のことは話さないでくださいね〜」
なんとも勝手なものである。
既知の名前が出たことで警戒心が薄れたのか、妖精たちは意気揚々と手を振りながら見送っていた。あまりにもころころと変わるその態度に、思わず目眩すら覚えた。
それは、あのような妖精たちと付き合いのある魔理沙に対しての、目眩だったのかも知れない。
よりによって、あれほど能天気な連中から「さん」づけで呼ばれ、慕われているとは。
「なにをやっているのだ」
思わず、愚痴のような嘆きがこぼれた。
魔理沙のことは、里での話を通じて、ある程度のことは聞き及んでいた。こうして人里からも遠く、なにより辺鄙な魔法の森にわざわざ居を構えていることも熟知していた。それどころか、ただ住むだけではなく店を経営していると言い張り、おまけに店名は霧雨「魔法」店だとしていることも。
こちらにとっては、まさに当てつけのような真似である。
魔理沙の強情さを表しているかのように思えて、人知れず、店主は苦笑した。
「馬鹿娘が」
思えば、事あるごとに自分の考えに突っかかってくるような娘だった。
魔法を扱いたい。
恐らくこれが、自分に反抗した一番の理由だろう。
最後に会った時、荷物を片手に家を飛び出していった時だが、あの時も確かそんなことを言っていたような気がする。もう十年ほど前のことなので、詳しくは憶えていなかった。
やがて、森の中へと溶けるようにして佇む、一軒家が見えた。
表札があり、霧雨魔法店と仰々しく書かれてあった。
あの妖精たちは、嘘は言わなかったようである。
想像していた以上に、小さな、そして有象無象のゴミが溢れる家だった。
近付き、鍵は閉められていないことを確認する。
だが、いきなり入るような真似はしなかった。魔理沙が星々の魔法を扱うことは、霖之助を通じて知っている。出会い頭に、得体の知れないものをぶつけられるのは避けたかった。
それに、そんなことをしては、まるで泥棒である。
盗みはしない。
それも、霧雨店の主の主義だった。
悲しいことに、我が娘には――勘当同然ではあるものの――受け継がれなかったようだが。
溜め息をついて、家の周りに散乱する有象無象へと視線を落とす。
その様は、まさに玩具箱だった。
家を飛び出すまでの、あの子の部屋の有り様と、よく似ていた。
いや、違う。
「……変わって、いないな」
そうだ、変わっていないのだ。
勝手に店の商品を持ち寄って、その癖にまったく片付けられず、ガラクタが蹲っている。そんな部屋と同じものが、まったく変わらないものが、その家には在った。
癖っ毛の強い金髪が脳裏にちらつく。
自分の黒い直毛とは正反対で、だからこそ自慢げだった。
負けん気に満ち溢れた大きな瞳がくりくりと見つめて、やかましいくらいに快活な声が蘇る。
妖精みたいな声だ。
最後に聞いたのはいつだっただろう。
恐らく、喧嘩別れした、あの時だ。
それから一度も会ってはいない。
目頭が熱くなった。
誰もいないのに、気取られぬようにそっと押さえる。
流れるものは無かった。
「たぶん人だな、私が決めたから絶対に人だ。こんな場所に人とは珍しい」
軽やかな声が踊りこんだ。
思い描いていたとおりの、あの子らしい声だった。
「今はその店は留守だ。もう少し待てば、店主も帰って」
振り返り、声の主と相対する。
癖っ毛のある金髪に、大きな瞳をくりくりとさせている。身長はあまり伸びていないようだった。
その顔は、呆けたように目も口も見開き、やがては仏頂面へと移り変わる。
こちらも苦い顔で返してやった。
「久しぶりだな」
しわがれた声は、自分のものには聞こえなかった。
「魔理沙」
「ああ」
帽子のつばをつまんで、霧雨魔理沙はそれだけを言った。
「久しぶりだな、親父」
前は父さんだったのにな、と店主は思った。
魔法の森には、二人を撫ぜる風もない。
◆◆◆
魔理沙邸は足の踏み場もなかった。
決して誇張などではなく、中へと進むのが億劫になるほど散らかっているのだ。用途不明の物品諸々が所狭しと散りばめられており、邸宅の様相を成してはいない。掃除の跡など微塵も感じられず、埃が分厚い層となった白い部分が、随所に見られた。
これでは物置である。それも相当に雑多な。
潜るように先を行く娘の尻を前に、父親はこの日一番の溜め息をついた。
「なんだよ。いきなり来る、そっちが悪いんじゃないか」
口を尖らす魔理沙の目は、冷やかなものを湛えていた。
おおよそ父親に向けるべきではないその視線を、店主は仕方なしと流していた。勘当同然の扱いで、この十年ほどずっと会っていなかったのだ。こういった視線を向けられるのも、無理もないだろう。
かと言って、小言を飲み込むつもりも毛頭なかったが。
「いたずらに不要な物は貯め込まない。私はそう教えてきたつもりなのだがな、魔理沙。よもや、ここまで悪癖を引きずっているとは夢にも思わなかった」
「今度は父親面で説教か? 生憎、蝉時雨で聞こえないぜ」
「今は春だ」
「ぬくい、ぬくいぜ。ぬくくて寝るぜ」
「魔理沙、不必要な嘘は御法度だとも教えたはずだぞ。それになんだ、その口調は」
丸テーブルに、ひとつだけ備えられた椅子に魔理沙は座り込んだ。頬杖をついて、苦々しい顔をしている。
認めたくはないことだが、そんな表情が自分に似ていると店主は思った。
久しく会っていなかったからこそ気付いた、嬉しくない事実だった。
「お前は、私が教えたことをまったく守っていないようだな」
躊躇うことなく、適当なガラクタへと腰掛けた。座るなよ、と魔理沙は小さく言った。
霖之助から聞いた話では、彼の店では魔理沙も断りなく売り物に腰掛けているらしかったので、聞き流しておいた。程なくして、露骨な舌打ちが聞こえてきた。
嘆かわしいことである。
「私が言い聞かせていたこと、憶えているか」
「生憎、和食ばっかり食べていたことしか憶えていないぜ。食パンが十三枚だったかな」
「いたずらに不要な物は貯め込まない、まるで成長していないな。不必要な嘘は御法度、口は達者になったようだが中身は空のままだ」
魔理沙の口は不機嫌に歪み、眉間には深く皺が寄っていた。
「泥棒はするな、いくつか天狗の新聞を読んだが」
「借りているだけだ、私が死ぬまで」
「世間には借りパクという言葉もあるそうだな、魔理沙」
「日本語を話してくれよ、親父。ここは幻想郷だ」
「生憎、私はお前より長く幻想郷で暮らしている、日本語もお前より長く扱っている」
「意外と上手いこと言うじゃないか、親父も」
「魔理沙」
「冗談だぜ」
「借りた物はどこにある」
「だからそれは、一生、私が」
「どこにある」
先に折れたのは魔理沙だった。
しかめ面でぶつくさと呟きながら、それでも書物を運んでくる。瞬く間に、山がもうひとつ生まれていた。表紙の文字などは、店主にはほとんど読み取ることができなかった。
「まだ、なにかあるのか?」
帽子から埃をはたき落としながら、魔理沙は睨み付けてきた。
その視線は、やはり冷やかなままである。
仕方なしとは覚悟していたが、それでも居心地の悪さは否めなかった。
「安心しろ、もう帰る」
「それは良かった。客でなくて清々したぜ」
これ見よがしに、魔理沙は安堵の表情で息をついた。
店主は、一際強い調子で言った。
「魔法を扱うな。私はそう教えていたぞ、魔理沙」
「嫌だ」
即答だった。
店主がなにかを答える前に、魔理沙は動いていた。傍らの箒を手に取り、勢いよく丸テーブルを叩きつけた。強烈な音が起こり、埃が宙を舞った。
「私が、家を出てから何年になる」
それらが収まるまでの時間をたっぷりと待ってから、魔理沙は口を開いた。
「十年ほど、だな」
「その十年ほど、私はずっと魔法の研究をしていた」
魔理沙の声音は静かなものだ。
静かなものだからこそ、溶岩のように動くものを感じさせた。
「あんたが曖昧と言ってのけたものに、私は興味を持って研究し続けた。あんたが許してくれないから、あんたが認めてくれないから、私は一人でやると決めて、家を飛び出したんだよ。この魔法の森で、色んな魔導書を読み耽って、キノコとか何やらを使って実験もして。おかげで幻覚なんかにも慣れた、狂うのにも慣れた、様々な厄介事にも慣れてしまった」
箒を引き戻して、壁に立て掛ける。
こちらを向いたのは仏頂面だったが、その大きな目はあくまでも静謐だった。
「私はそれに自信を持っている。あんたから見れば、馬鹿らしいのかも知れないけどな」
「誇りを抱くものが曖昧ならば、すべてが根幹からぐらつく」
「私はそれに十年を費やした」
「十年でも二十年でも、崩れ去ればなにも残らん」
「あんたの家から飛び出して、私は私のやり方で進んできた」
「魔理沙、魔法は曖昧だ」
「曖昧じゃない」
互いに、目を逸らすことはなかった。
「今は私の、確かな力だ」
店主の口から、否定の言葉は出なかった。
力なく、息をついただけである。
気まずさのようなものを感じて、窓から外を眺めた。魔法の森の、気分が悪くなりそうな緑しか映らなかった。魔理沙も押し黙ったまま、視線を泳がせている。
潮時だった。
「邪魔したな」
猟銃を背負い直し、ガラクタの間を縫うように歩く。積み上げられた本には、手をつけることはなかった。
魔理沙は見送りらしいこともせず、口を噤んでいた。
「こんなことを」
気が付けば、嘆息と一緒に吐き出していた。
「こんなことを言うつもりは、なかったのだがな」
「えっ?」
玄関で足が止まる。
振り返ると、椅子から半ば立ち上がり、こちらを見つめている娘の姿があった。
やはり、背はあまり伸びてはいないようだ。食事などはきちんと摂っているのか、会った時から気になっていたが、問い質すことはできなかった。
意地を張り過ぎだと、自嘲した。
「三日後、墓参りだ」
それだけを言って、店主は霧雨魔法店を後にした。
来なさい、とは結局、言えなかった。
◆◆◆
どさりと、倒れ込むように椅子へと座った。
長い溜め息をついて、調子を整える。久々に、本当に久々に出会った父親は、白髪とか皺とかが、かなり増えていた。
想像以上に、父は老けていた。
「墓参りか」
まさか、それだけを言うために来たのか。それだけが、本当に言いたかったことなのか。
壁に掛けられている、カレンダーへと目をやる。
「それくらい、さすがに憶えているよ」
今日から三日後。
その日付は、墨で丸く囲まれている。
「馬鹿親父」
悪態にもならない、小さな呟きだった。
◆◆◆
借りた物をすべて返すのは、思ったよりも時間がかかった。
本当のところ、今までに借りていた物品は父に見せたよりも遥かに多かったのだが、魔理沙はそれらもすべて返していった。返しに行った先々では、例外なく、奇妙なものでも見るかのように迎えられた。
このまま有耶無耶にしてしまうことも考えたのだが、あの父に面と向かって問い質されると、誤魔化せる気がしなかった。嘘や誤魔化しが一切効かないところが、父にはあった。少なくとも魔理沙は、父に対してそんな思いを抱いていた。
やはり、苦手である。
父の、有無を言わせぬようなところが、魔理沙は昔から苦手だった。久しぶりに出会ったが、それは今も変わってはいなかったらしい。あの皺の寄った目で見据えられると、背筋を嫌な汗が流れてしまう。蛇に睨まれた蛙のようなものだと魔理沙は考え、一人で納得していた。
だとすると、私は蛙のままか。
「なめくじよりは、ましかな」
うららかな春の日差しが身を包んでいた。仰げば、雲ひとつない青空が飛び込んでくる。ピクニック日和とは、こんな日のことを言うのだろう。幻想郷らしく言うならば、宴会日和と言ったところか。
墓参りには、春の気配が強すぎると魔理沙は感じた。
人里は賑わっていた。気の早い人間が一升瓶を抱えていれば、気の早い妖怪が赤ら顔で千鳥足になっている。春の陽気に、誰もが沸いていた。
そんな人妖を尻目に、魔理沙は里の奥へと歩いていく。強張った顔になるのは、致し方なかった。
なるべく顔見知りに見つからないよう、深く帽子を被り直す。
やがて、久しく通っていなかった、その店が見えた。
人里の中では珍しい、三階建てにもなりそうな建築物は、一階がまるまる商店として開放されているようだった。最近になって改築でもしたのか、遠目から見る外観はまだ新しい。人の出入りも活発なものであった。
霧雨店と、仰々しく飾ってある看板が、嫌でも目に入った。
「相変わらず、御立派な文字だぜ」
わざとらしく皮肉を込めて呟くが、あまり大きな声にはならなかった。
看板は、新しい店の外観とは反して年季が入っている。霧雨店の代々店主が、店を受け持った時に新しい物を書くのだと、父が語っていたことを魔理沙は思い出していた。看板の文字は厳つく立派であり、父の横顔とよく似ていた。
看板をきっと見やり、意を決して店に近づいていく。
どうやら、春の宴会に向けてのセールを開催しているようだった。店内で物色する人々も、そういった物が目当てなのかそれぞれ手に取り、何事かを交している。量ではなく、質で勝負しているのが霧雨店の特徴だった。
客の中には、妖怪も混じっている。嗜好品を特に好む妖怪にとっては、こだわりで商売をする霧雨店を利用することも、多いようだった。その繋がりを通じて、香霖堂にも客をまわしてもらうことがあると、霖之助が語っていた。
まったく、調子がいい。独立して店を持って、それでも世話になるとは。
飄々と持論を展開する霖之助の姿が浮かんで、魔理沙は嘆息した。
「店先で溜め息とは、感心せんな」
窘めなれるような言葉に、思わずしかめ面となってしまう。
父は、三日前と同じ格好だった。
「来てやったのに、いきなり文句かよ」
「すまんな」
「……いや、私の方こそ、ごめん」
思わぬ謝罪に居心地の悪さを感じて、魔理沙も頭を下げた。
不意に、父の背が小さくなったように感じたからだ。
「では、行こう」
歩きはじめた父に、並ぶ。
「今日は暖かい」
父は、前を見据えたままだった。
「暑くはないか?」
「親父こそ、そんな格好で聞いても説得力ないぜ」
「仕事着なのでな。店を訪れる客は、店員の格好も気にしてくる」
「だから黒のスーツか、御苦労なことだ」
「お前こそ、普段からそのような恰好だと聞いていたが」
「魔法使いだからな。普通の魔法使いは、普通に魔法使いらしい格好をしているんだぜ」
例外はあるけど、と魔理沙は付け加えた。
父は、なおも前を見据えていた。その横顔は思ったよりも近くにあり、刻まれた皺も記憶のものより深くなっている。改めて、十年ほどという歳月を魔理沙は感じていた。
当たり前だが、十年は長い。
その長さが少しだけ気になった。
「墓は、命蓮寺へと移してもらった」
「あそこの住職も魔法使いだな」
「お前の親族だと言ったら、ひどく警戒された。誤解を解くのには少々骨が折れたぞ、魔理沙」
「桜吹雪でなにも聞こえないぜ」
人里の桜は、まだ花開きはじめたばかりだった。
取るに足らない話が、その後も続いた。借りた物については何度もしつこく聞かれたが、魔理沙にしては珍しく本当に返していたので、そこは譲らなかった。父はそれでも気掛かりなようだったが、一応の納得はしていたようだった。
じゃりじゃりと、ふたつの足音が重なる。
気まずさは確かに感じていたが、それでも意外と自分が苛立っていないことに、魔理沙は驚いていた。
十年という歳月が、自分を宥めているのかも知れない。
それくらい、父は老けていた。
「ここだ。と言っても、お前はもう来ているか」
「さすがに墓参りには来ていないぜ」
「だろうな。三日前まで、私が教えていなかった」
命蓮寺まで、それほど時間はかからなかった。
さすがの幻想郷の住人でも、この場所で宴会という気にはならないらしい。人影も疎らな境内を、父は慣れた様子で進んでいった。丁寧に舗装された玉砂利に、桜の花びらがちらほらと落ちていた。
墓石は少ない。
目的のものは、すぐに魔理沙にも分かった。
予想通り、その墓石は他と比べても小さなものだった。
「なんだよ。前と変わってないじゃないか」
「仰々しい墓は、性に合わないだろう」
「私なら、鉄塔くらいに大きなものを所望するけどな」
「生憎、お前とは感性が違うのだよ、私たちは」
墓地でも大きな魔理沙の声を、父は叱りつけるようなことはしなかった。
魔理沙の調子を、元気だという証拠を、墓石にも伝えたかったのかも知れない。それくらいのことは魔理沙も想像がついたから、殊更元気な口調で語りかけていた。
父にも。
そして、墓石に向かっても。
「水を汲んで来てくれ」
「じゃあ、親父はそっちの花を換えておいてくれよ」
手間取ることもなく、二人は墓前を整えていく。すべて終わるのに、あまり時間は要さなかった。
恐らく、何度も足を運んでいるのだろう。墓はそれほど荒れてはいなかった。
そういうところも、父は真面目だった。
「……お前から、いきなさい」
線香の煙が、春の空に昇っていく。こっそりと墓参りをすることはあったが、こうして二人揃って行うのも久しぶりだった。小さな壺を見送る時、自分は父の手を握り締めていたような気がする。大きな声で泣いていたことは、よく憶えていた。
手を合わせて、目を閉じる。
久しぶりと、胸の内だけで挨拶をした。
魔理沙が終えると、父も続いて手を合わせ、目を閉じていた。
若干、目元が潤んでしまった自分とは違い、父の横顔は厳しいままだった。一筋のものも垣間見えず、そういったところも昔から変わっていない。昔、嗚咽もなく黙って見送っていた父を、魔理沙は憎たらしいとも感じたし、羨ましいとも感じていた。
気持ちを押し殺す。
魔理沙には、できない芸当だった。
「では、行こうか」
思ったよりも長い間、父は手を合わせていた。
一度、水で濡れた墓石に向かって、手を振っておく。巌のような父の気配が、少しだけ和らいだような気がした。たぶん気のせいだろうと、魔理沙は思った。
境内を後にし、帰路へとつく。
これからの予定を、魔理沙はまったく考えていなかった。仕方なく、父に並んで歩き続ける。交す言葉など、思い付きもしなかった。
「霧雨店の店主さんですね」
数人に取り囲まれたのは、命蓮寺から出て間もなくのことだった。
あまりにも姦し過ぎる声が、二人を押し潰すようにして包み込む。
「そちらは人間の、魔法使いの霧雨魔理沙さんのようですが」
人間の、という部分がいやに耳朶を打つ。声の主はにこやかな表情をしていたが、その裏にある粘液のような好奇心を隠そうともしてはいなかった。他の者たちはこちらを覗き込みながら、器用に手帳へとペンを走らせていた。
天狗の新聞記者だ。
背に生えた翼を見なくとも、すぐに思い至った。
「そちらの魔理沙さんは、勘当したとも聞いていましたが」
「こうして並んでいるということは、仲直りをしたのですか」
「命蓮寺には、どのような御用件で」
「どなたかの墓参りでしょうか。だとすると、これを機に勘当を取り止めるということですか」
「霧雨店の跡継ぎは、そちらの霧雨魔理沙さんで決定ですね」
「なにかコメントを」
「魔理沙さん、コメントをお願い致します」
思わず浮かんだしかめ面を、魔理沙は引っ込めなかった。
天狗の取材もある程度は受けていたのだが、これだけ無遠慮で不躾なものを受けたのははじめてだった。顔見知りの取材が、如何に可愛いものだったがよく分かる。
見ると、父は黙って事の成り行きを見つめていた。
眉間の皺は、彫刻されたかのように深かった。
「霧雨魔理沙さん、コメントを」
最初に口を開いていた、天狗の顔が迫る。身体ごと近付かれて、包囲の輪がぐらりと揺れた。足元がふらつき、咄嗟に後ずさるも態勢が崩れる。
倒れる。
そう思った時には、片手で、しかしずっしりと後ろから支えられていた。
その先を見ると、前を向いたままの父の顔があった。
怒っている。
本能的に感じて、魔理沙は大きく息を呑み込んだ。険しい横顔はずっと変わらないものだったが、それでも父は怒っていた。十年ほど前、魔理沙が家を飛び出ると言った時と同じくらいに、黒い瞳を座らせて。
父は静かに、怒っていた。
「君の新聞は、確か唐竹草上といったかな」
「記憶していただき、恐縮です」
魔理沙へと迫った天狗を、父の目が見据える。
若干、気圧されたかのようにその笑みが引きつった。
「他には、山伏会報、青狗時事録、深山之鼻袋といったところか」
それぞれ言い当てられていき、天狗たちの間がざわつく。険しく、そして威風堂々とした父の物言いは、まるで大天狗の一喝でもあるかのような効力で、天狗たちを推し黙らせた。
包囲も、徐々に緩やかなものへと変わる。
「ところで唐竹の」
「はい、なんでしょうか」
「そのペンは、どこの物だ」
天狗はしばし考え、やがてかぶりを振った。
「山伏の、その手帳はどこの物だ」
「それは」
「青狗の、そのペンのインクはどこの物だ」
「インクなど」
「深山の、その手帳に挟まれる栞はどこの物だ」
「存じませぬ」
父の瞳は、なおもどっしりと座っていた。
「すべて私が卸した」
穏やかだが、重厚な声だった。
「大天狗の方々には、今も御贔屓していただいている」
「それは」
「脅しと言いたいのか、唐竹の」
「そのようなことは」
「私は今、機嫌がいい。勘当同然の娘と、こうして里を歩けているから」
険しい顔が、天狗へと迫る。
ゆったりとした動きだったが、それでも迫られた天狗は後ずさっていた。
「君たちも、私のような老いぼれ一人を、追いかけることもあるまい」
「私たちは記者としての本分を」
「その本分を為すのに、必要な物とは、なにかね」
かすかに、父の口元が笑った。
酷薄な笑みだと思い、魔理沙は背筋が寒くなった。
「これ以上を言わせるな、新聞記者」
父は煙草を咥えた。
火は、つけられなかった。
「去れ」
天狗の新聞記者たちは、愛想笑いをして足早に去っていった。露骨に悔しがるような真似をする者は、一人もいなかった。それだけ父のことを恐れているのだろうと、魔理沙は考えていた。
紫煙が、目の前を横切る。
渋い顔で、父は煙草を吸っていた。
「止めたんじゃなかったのかよ」
「何故、そう思う」
「ずっと吸ってなかったから」
「お前の前では、吸うのを我慢していた」
父の身体が、わずかに動く。そうすることで、紫煙は魔理沙へと届かなくなっていた。
その匂いは十年ほど前と、変わってはいなかった。
「煙草は、身体に良くない」
「でも吸うんだな、親父は」
「惰性だよ」
ふうっと。
紫煙は風に攫われて、消えた。
「……お前は、私の言いつけを守っていなかった」
煙草を吸い終え、父は振り返った。吸い殻は、しっかりと携帯灰皿に放り込んでいた。父らしい、生真面目な仕草だと魔理沙は思った。
「不要な物は貯め込むし、平気で嘘もついた」
「性分なんだよ」
「盗みもした」
「借りただけだよ、ちゃんと返した」
「魔法を扱った。今も、扱い続けている」
「悪いかよ」
「ああ」
「ひどいぜ」
「だが」
「えっ」
「守っていたことも、あった」
父は、魔理沙をじっと見つめていた。
格好いいなと、何故だか魔理沙は感じていた。意固地であり、曲げないことは絶対に曲げない。皺も多くなって白髪も混じって、実年齢以上に老けている。口数はあまり多くなく、たまに口を開けばきつい文句を飛ばしてきた、そんな父親だ。
だが悔しいことに、格好よかった。
厳めしくこちらを見つめるその姿は、黒いスーツがよく似合っていた。
「扱うものに誇りを持つこと」
春風が、二人を撫ぜた。
「真正面から堂々と動くこと」
桜の香りが、鼻孔をくすぐった。
「このふたつは守っていた。お前は、突然やって来た私からも逃げず、それどころか啖呵を切ってみせた」
厳めしいその顔が、ふっと動いた。
柔らかな笑みを、父は浮かべていた。
「嬉しかったぞ、魔理沙」
「……まあ。性分、だからな」
声が上擦ってしまうのは、止められなかった。熱いものが、頬に込み上げてくる。なるべく悟られないように、魔理沙は帽子のつばをつまんでいた。
父はなおも、そんな娘を見つめている。
気恥ずかしさで落ち着けなかった。口元が、自分の意思に反して、もごもごと動いていた。
「先程は、勘当同然と言ったがな、魔理沙」
既に父は、笑みを引っ込めていた。
「勘当、同然だ。私は、お前を勘当した憶えなどない」
「えっ」
「仕事がある。それではな」
魔理沙がなにかを言う前に、父は歩きはじめていた。
若干、急ぎ足にも見えた。
「……次は、なにか飯でも食おうか」
振り返らずに、父はそれだけを言った。足を止めることもなく、颯爽と去っていく。
止めるようなことはしなかった。
「ああ」
魔理沙の顔に、自然と笑みが浮かんだ。たぶん、さっき父が浮かべたものと、よく似た笑みだった。
「またな、親父」
父は、後ろ手に手を振っただけだった。
◆◆◆
「魔理沙と会ったそうですね」
「知っていたか」
「魔理沙本人が、照れ臭げに話してくれました」
「……ふむ」
霧雨店の主は、相変わらず気難しい顔をしていた。
「君の言葉がなければ、私も会おうとはしなかっただろう」
「その言い方だと、僕があなたを焚きつけたようにも聞こえます」
「事実だからな」
「厳しい言葉です」
「だが、おかげで彼奴らの目も逸らせる」
にべもなく告げたその言葉に、霖之助の目は訝しげなものを湛えていた。
思わぬ言葉だった。
「途中、天狗たちの取材を受けた」
「それも魔理沙から聞きました」
「恐らく、どこぞの大天狗からの差し金だろう。あわよくば、私の失態でもと思ったに違いない。山の中には、私からの卸しを快く思わない、古い者たちもいると聞いている」
「天狗らしいとも言えます」
「だからこそ、一芝居打った」
紫煙をくゆらせながら、店主は立ち上がった。
「弱みを、あえて見せた」
「魔理沙ですか」
「彼奴らは、ここぞとばかりにそちらへと目を向けるだろう。或いは、血気盛んに動いてくるかも知れん。弱みと思うものを心得ておけば、こちらはそのための対応を予想しやすくなる」
「魔理沙は囮ですか」
「手荒なことは行わないはずだ。それは幻想郷の掟に背く」
「あの子は」
「森近君」
窓を見やる店主の顔は、霖之助からは見えなかった。
「人間と妖怪は、争い続けている。争いの形を変えて、それでも闘争は続いているのだ」
硬い声だった。
「軋轢だよ。それは恐らく、決してなくならない」
「僕とあなたは、上手くやっているつもりですが」
「個人は語り合える。だが集団では、どうしようもない場合もある」
「悲観的過ぎます」
「かも知れない。願わくば、私の考えなど杞憂であってほしい」
煙草は、根元に近いところまで減っていた。
漂う紫煙の匂いに、違った混じりが感じられた。
「あの子は強くなった。強情に、お世辞にも真っ直ぐとは言えないが、それでも私は嬉しかった」
「魔理沙に被害が及ぶかも知れません」
「そんなことは、させん」
灰皿に、煙草が押し付けられる。
すべてを押し潰すかのような仕草だと、霖之助は思った。
「断じて。私が、許さん」
肝の冷えるような険しい表情を、店主は浮かべていた。
煙草の煙は、すぐに漂わなくなった。
「森近君」
しばらくしてから、店主は口を開く。
しわがれたその声は、目の前の店主には似つかわしくないものだった。
「私は、父親失格かな」
「少なくとも」
思ったままを、霖之助は口にしていた。
「今の顔は、父親のそれだと、僕は思います」
「……そうか」
店主は、自嘲気味に微笑んでいた。
目尻にうっすらとそれは浮かび、一筋だけこぼれ落ちた。
「ありがとう」
吸い殻は、もう煙を漂わせることはない。
魔理沙はどうしているだろうと、霖之助は不意に思った。
黒檀で揃えられた家具は程好く年季を経ており、一目で上質なものだと分かる。革張りのソファも黒を基調としたもので、落ち着いた雰囲気を崩してはいなかった。幻想郷では珍しいフローリングの床にも、埃ひとつ見当たらない。
部屋は、持ち主の性格を表す。
自身の店内と思い比べて、霖之助は静かに息をついた。
「君は確か、前に私を訪ねた時もそんな溜め息をついていたな」
声は、落ち着いたものと言うには、あまりにも重厚だった。
紫煙とともに吐き出され、その部屋にゆんなりと漂う。霖之助にも届いたその香りは、前に出会った時と同じものだった。
「まだ、吸っていらしたのですね」
「止める者もいないのでな。惰性で、吸い続けている」
「いえ、そういう意味ではなく」
「ふむ」
霖之助は、苦笑していた。
「葉巻とかに代えられないのかと、そう思って聞きました」
「あれは口で味わうものだ、どうにも合わない」
再び、声の主は口元へと煙草を運ぶ。
確か年齢は五十に届いていないはずだったが、それ以上に老けているなと霖之助は思った。顔に刻まれた皺は、その顔をより彫深いものとしており、ある種の風格をも感じさせる。丁寧に整えられた黒髪は、まばらに浮かんだ白髪も相まって、厳格な印象を与えていた。
「胸に含み、吐き出す。そんな煙草の方が、私の性には合うようだ」
灰皿に煙草が押し付けられ、火が消える。そんな仕草にさえ、岩のような落ち着きと厳しさが見て取れた。
霧雨店の主。
霧雨魔理沙の父親でもあるこの店主は、娘とは違って、常に巌のような気配を漂わせていた。どうやらそれは、煙草の銘柄と同じく、今も変わってはいないらしい。
互いに革張りのソファへと腰掛ける。勧められた煙草は、ひとまず辞退しておいた。
「水煙草を吸っていると聞いたのだが」
「ご存知でしたか。天狗の新聞にはそう答えましたが、今は置きっぱなしです」
「自由だな。君には昔から、商品に対して自由なところがあった」
女中が盆を持って入ってくる。
ティーカップの中身は珈琲だった。砂糖やミルクの類はなく、そのまま口に含む。上品な苦みは、それでも霖之助にとっては少々きついものだった。
「無理せずともいい。いつも、濃いものを淹れてもらっているのだ」
店主は女中を呼び、砂糖とミルクを持ってこさせた。ひとつ礼を言って、それらをカップの中身によく混ぜてから、口に含む。幾分かは和らいだが、それでもまだ苦かった。
「それで、用件は」
身をゆっくりと乗り出して、店主は言った。
「まさか世間話をしに来た訳ではあるまい」
「そのまさか、と言ったら、どうします」
「歓迎しよう」
霖之助は、近況を述べていった。
主に、自分が拾ってきたものについてであるが、店主はそれを遮ることもなく聞き続けていた。煙草に火を灯し、吟味するように紫煙を吐き出して、霖之助の言葉に耳を傾けている。
こういうところも、昔から変わらなかった。
打ち捨てられた嗜好品。外の世界からと思われる用途不明の物品。ただのガラクタにしか見えないマジックアイテムの数々。取り扱うかはさて置いて、どのようなものかという情報を、この霧雨店の主は積極的に得ていくのだ。
知り得ることに損はない。
それが店主の持論だということを、霖之助は自ずと理解していた。
「やはり君は自由だな」
話が落ち着いたところで、煙草の火が消される。
「分別というものがないかのようだ。好奇心が剥き出しで、それを隠そうともしない。商売人としては失格だと、言わざるを得ないだろう」
「手厳しいですね」
「私は、好きだがね」
店主はうっすらと微笑んだ。
暖かみがあり、そして値踏みするような笑みだった。この相反するようなものがない交ぜとなった笑みも、昔から変わっていない。
「自由なだけでは伸びない。気宇壮大に利潤を含まなければ、商売として成り立たぬ」
「僕は、それほど自信過剰ではないつもりですが」
「そうだろうな。むしろ、君には諦めがついている」
「諦めですか」
「そうだ、諦めだ」
黒い瞳が、じっと見つめてくる。この部屋にある家具の色、つまりは黒檀とよく似た色合いだった。
「商売をしようという気持ちが、まるでない」
「それが諦めだと。残念ながら間違っていますよ、僕は常に自分に正直なだけです」
「かも知れない。どうにも昔から、君のことは掴めなかった。君は、私の店で修業をしておきながら、今の店ではまったくそれを活かしてはいない。自由気ままに、商売など忘れたようにしている。そこが私には、分かるようでもあるし、やはり分からないとも思う」
「支離滅裂ですよ」
「だろうな、すまない。君の商売のやり方が、私にはまるで分からんのだよ」
霧雨店は道具屋だ。
それこそ霖之助の店など、月とスッポンとでも言えるほどに、扱う商品は多岐に及んでいる。博麗神社の境内を掃く竹箒から、天狗が印刷する新聞のインクに至るまで、幻想郷のあらゆる物品の流れを、霧雨店は担っていた。
だが唯一の例外もある。霧雨店は、マジックアイテムの類を一切扱わないのだ。
曖昧なものを商いに紛れさせたくはない。
それが霧雨店の主義であり、目の前の店主の主張だった。
霖之助がそういった店主の気持ちを知り、独立を決意するのにそれほどの時間は要さなかった。店主も、霖之助とは抱くものが違うことに薄々勘付いていたのか、強く引き止められることもなかった。
今では、互いに別々のかたちで商いをしている。
これが一番良かったのだろうと、霖之助は考えていた。
「話は、それくらいかね」
備え付けられた柱時計は、淀みなく時を刻み続けていた。見ると、かなりの間を話し込んでいたようである。正午過ぎにここを訪ねたのだが、既に長針は半周ほど進んでいた。
「すみません。長いこと、お邪魔してしまいました」
「構わんよ。私としても、君と久々に話せて楽しかった。また折を見て、店にもお邪魔させてもらおう」
「嫌味でも言いに、ですか」
「どれほどの閑古鳥が鳴いているのか、見物だな」
店主は静かに笑っていた。
こういう笑みが嫌らしくならない者を、霖之助はほとんど知らない。人間でも、これほどまでに泰然自若とできるものかと、改めて感心した。
同時に、少しばかりの悪戯心も芽生えてくる。
この店主の、巌のような心胆をざわつかせるものを、霖之助はよく心得ていた。
「閑古鳥と言えば」
「ふむ」
霧雨店は、マジックアイテムを扱わない。一切合財、扱わないのだ。
それが仇となった、とある出来事は有名である。
「魔理沙の店に、はじめての客があったそうですよ」
「……ふむ」
途端に、店主の顔が一層険しくなる。
「依頼をしに来たのは、なんでも妖精だったとかで。あまり褒められた客層ではありませんが、それでも嬉しかったのでしょう。事細かに、はしゃぎながら話してくれましたよ」
「……ふむ」
返事はそれだけであり、店主は一点を見据えて押し黙る。珈琲を含んだその顔は、なおも険しいままだった。再び灯した煙草を見る目にも、厳めしい揺らぎが宿っている。
魔法を扱いたいがゆえに、勘当同然で家を飛び出していった一人娘――そんな、霧雨魔理沙のことを思い浮かべているのは、容易に見て取れた。自ずと、煙草をつまむ指にも力が込められている。
「確か、そろそろ」
「黙りたまえ、森近君」
硬く低い声は、霖之助の口を止めるのには充分だった。
「君が何故ここに来たのか、そしてなにを伝えたかったのか、ようやく分かった」
揉み潰すようにして、煙草の火は消される。
まだ、長く残ったままだった。
「不躾だな。やはり君は自由だ、私の癪に障るほどに」
「失礼致しました。ご不快な思いをさせてしまい、申し訳ありません」
「構わん。気には食わないが、慣れた」
ソファから店主は立ち上がった。促すようなその仕草に、霖之助も逆らうことなく一礼して、部屋を後にする。
見送る店主の眉間には、最後まで深い皺が刻まれていた。
◆◆◆
猟銃は、霧雨店の目玉商品だった。
今でこそ売れることはほとんどないが、十数年前はそれこそ飛ぶように売れていた。スペルカードによる決闘が確立されるまで、護身としても食糧確保としても、猟銃は幻想郷の人間たちにとって必要不可欠なものだった。
今ではすっかり、陽の目を見ることもない。
それも時代の変遷だろうと、霧雨店の主は考えていた。善し悪し関係なく、時代が移ろえば人の考えも移ろう。そうすると、人に使役される道具というものもまた役割を変えていき、場合によっては使われなくなるものも出てくる。
猟銃は、そうやって需要が無くなったのだ。
平和だから喜ばしいとか、人間が自ら武器を手放すとは嘆かわしいとか、そんな感傷は一切抱いていなかった。購入者が出た際に、不備なく即座に手渡せるよう、点検を怠らないこと。それのみを考えていた。
だからこそ店主は、魔法の森を進む上での護身用として、猟銃を手に取った。自身が扱う商品に、不備などないと自負しているからこその、選択だった。
背負ったそれの世話になることはなるべく避けたいが、そこは妖怪の蔓延る幻想郷なだけあって、油断はできない。近頃では、妖精による悪戯の話もよく耳にした。
あまり煩わしいものには関わりたくない。
ただでさえ、これから煩わしいものと接さなければならないのだ。
道なき道を行く、店主の表情は険しい。
「ふむ」
腰の鈴から音が消えたのは、森の半ばまで来たところである。
見ると、鈴は確かに揺れている。中身が零れ落ちてしまったかのように、鳴らないのだ。注意深く、足元の落ち葉を踏みしめてみる。枯れ葉を潰す感触はあったが、やはり何も聞こえなかった。
慎重に、目を凝らす。
左方に三十度といったところか、茂みが音もなく揺れていた。
猟銃に弾を装填する。
そのまま狙いを定めて、一発撃った。
「うわっ!」
弾は、揺れた茂みから若干上の、木の幹に当たった。狼狽したような叫びは、店主のものではない。子供のように甲高いものが、みっつほど聞こえてきた。
それが切欠となり、周囲に音が戻ってくる。
轟いた銃声に、腰の鈴がちりんと重なった。
「撃つと動く」
「ひっ!」
有無を言わせない声で、言い募る。
「……違ったな。動くと撃つ、だが茂みから出てくるのならば撃たん」
まるで娘のような物言いだと思い、すぐにその考えを振り払った。
それから間もなくして、不承不承とした面持ちの妖精が、茂みから三人出てきた。
わざと猟銃を大仰に背負いながら問い質すと、悪戯を敢行しようとしていたことを素直に話してきた。曰く、落とし穴に嵌めようとし、それが駄目だったなら崖にでも誘いこもうとしていたと。
呆れて、二の句も告げられなかった。
「ほら、やっぱりルナがわざとらし過ぎたんじゃない」
「サニーがしっかりしないのがいけないんでしょう」
「二人とも駄目ね、私はしっかりとこの人を察知していたわよ」
姦しく、悪びれた様子のまったくない三人に、店主は渋い溜め息をついていた。
「一回休みとやらを、体験してみるか?」
よく見えるように猟銃を背負い直す。
妖精たちはびくりと一斉に身を震わせて、押し黙った。
「聞きたいことが、ある」
ようやく静かになったので、なるべく相手を用心させないよう静かに――若干、苦虫を噛み潰したような顔にはなってしまったが――本題を切り出した。
他でもない、魔理沙の家の所在だ。
霧雨魔理沙の名前が出たことがそんなに意外だったのか、妖精たちはそれぞれ驚きもそのままに喋りはじめていた。口々に語りはじめて、三方向から一挙に言葉を浴びせられる。
要領を得るのは難しかったが、それでもなんとか目的地への目処は立った。
「魔理沙さんによろしく言っておいてください〜」
「また巫女への悪戯でも考えましょうって〜」
「あ、でもこの失敗のことは話さないでくださいね〜」
なんとも勝手なものである。
既知の名前が出たことで警戒心が薄れたのか、妖精たちは意気揚々と手を振りながら見送っていた。あまりにもころころと変わるその態度に、思わず目眩すら覚えた。
それは、あのような妖精たちと付き合いのある魔理沙に対しての、目眩だったのかも知れない。
よりによって、あれほど能天気な連中から「さん」づけで呼ばれ、慕われているとは。
「なにをやっているのだ」
思わず、愚痴のような嘆きがこぼれた。
魔理沙のことは、里での話を通じて、ある程度のことは聞き及んでいた。こうして人里からも遠く、なにより辺鄙な魔法の森にわざわざ居を構えていることも熟知していた。それどころか、ただ住むだけではなく店を経営していると言い張り、おまけに店名は霧雨「魔法」店だとしていることも。
こちらにとっては、まさに当てつけのような真似である。
魔理沙の強情さを表しているかのように思えて、人知れず、店主は苦笑した。
「馬鹿娘が」
思えば、事あるごとに自分の考えに突っかかってくるような娘だった。
魔法を扱いたい。
恐らくこれが、自分に反抗した一番の理由だろう。
最後に会った時、荷物を片手に家を飛び出していった時だが、あの時も確かそんなことを言っていたような気がする。もう十年ほど前のことなので、詳しくは憶えていなかった。
やがて、森の中へと溶けるようにして佇む、一軒家が見えた。
表札があり、霧雨魔法店と仰々しく書かれてあった。
あの妖精たちは、嘘は言わなかったようである。
想像していた以上に、小さな、そして有象無象のゴミが溢れる家だった。
近付き、鍵は閉められていないことを確認する。
だが、いきなり入るような真似はしなかった。魔理沙が星々の魔法を扱うことは、霖之助を通じて知っている。出会い頭に、得体の知れないものをぶつけられるのは避けたかった。
それに、そんなことをしては、まるで泥棒である。
盗みはしない。
それも、霧雨店の主の主義だった。
悲しいことに、我が娘には――勘当同然ではあるものの――受け継がれなかったようだが。
溜め息をついて、家の周りに散乱する有象無象へと視線を落とす。
その様は、まさに玩具箱だった。
家を飛び出すまでの、あの子の部屋の有り様と、よく似ていた。
いや、違う。
「……変わって、いないな」
そうだ、変わっていないのだ。
勝手に店の商品を持ち寄って、その癖にまったく片付けられず、ガラクタが蹲っている。そんな部屋と同じものが、まったく変わらないものが、その家には在った。
癖っ毛の強い金髪が脳裏にちらつく。
自分の黒い直毛とは正反対で、だからこそ自慢げだった。
負けん気に満ち溢れた大きな瞳がくりくりと見つめて、やかましいくらいに快活な声が蘇る。
妖精みたいな声だ。
最後に聞いたのはいつだっただろう。
恐らく、喧嘩別れした、あの時だ。
それから一度も会ってはいない。
目頭が熱くなった。
誰もいないのに、気取られぬようにそっと押さえる。
流れるものは無かった。
「たぶん人だな、私が決めたから絶対に人だ。こんな場所に人とは珍しい」
軽やかな声が踊りこんだ。
思い描いていたとおりの、あの子らしい声だった。
「今はその店は留守だ。もう少し待てば、店主も帰って」
振り返り、声の主と相対する。
癖っ毛のある金髪に、大きな瞳をくりくりとさせている。身長はあまり伸びていないようだった。
その顔は、呆けたように目も口も見開き、やがては仏頂面へと移り変わる。
こちらも苦い顔で返してやった。
「久しぶりだな」
しわがれた声は、自分のものには聞こえなかった。
「魔理沙」
「ああ」
帽子のつばをつまんで、霧雨魔理沙はそれだけを言った。
「久しぶりだな、親父」
前は父さんだったのにな、と店主は思った。
魔法の森には、二人を撫ぜる風もない。
◆◆◆
魔理沙邸は足の踏み場もなかった。
決して誇張などではなく、中へと進むのが億劫になるほど散らかっているのだ。用途不明の物品諸々が所狭しと散りばめられており、邸宅の様相を成してはいない。掃除の跡など微塵も感じられず、埃が分厚い層となった白い部分が、随所に見られた。
これでは物置である。それも相当に雑多な。
潜るように先を行く娘の尻を前に、父親はこの日一番の溜め息をついた。
「なんだよ。いきなり来る、そっちが悪いんじゃないか」
口を尖らす魔理沙の目は、冷やかなものを湛えていた。
おおよそ父親に向けるべきではないその視線を、店主は仕方なしと流していた。勘当同然の扱いで、この十年ほどずっと会っていなかったのだ。こういった視線を向けられるのも、無理もないだろう。
かと言って、小言を飲み込むつもりも毛頭なかったが。
「いたずらに不要な物は貯め込まない。私はそう教えてきたつもりなのだがな、魔理沙。よもや、ここまで悪癖を引きずっているとは夢にも思わなかった」
「今度は父親面で説教か? 生憎、蝉時雨で聞こえないぜ」
「今は春だ」
「ぬくい、ぬくいぜ。ぬくくて寝るぜ」
「魔理沙、不必要な嘘は御法度だとも教えたはずだぞ。それになんだ、その口調は」
丸テーブルに、ひとつだけ備えられた椅子に魔理沙は座り込んだ。頬杖をついて、苦々しい顔をしている。
認めたくはないことだが、そんな表情が自分に似ていると店主は思った。
久しく会っていなかったからこそ気付いた、嬉しくない事実だった。
「お前は、私が教えたことをまったく守っていないようだな」
躊躇うことなく、適当なガラクタへと腰掛けた。座るなよ、と魔理沙は小さく言った。
霖之助から聞いた話では、彼の店では魔理沙も断りなく売り物に腰掛けているらしかったので、聞き流しておいた。程なくして、露骨な舌打ちが聞こえてきた。
嘆かわしいことである。
「私が言い聞かせていたこと、憶えているか」
「生憎、和食ばっかり食べていたことしか憶えていないぜ。食パンが十三枚だったかな」
「いたずらに不要な物は貯め込まない、まるで成長していないな。不必要な嘘は御法度、口は達者になったようだが中身は空のままだ」
魔理沙の口は不機嫌に歪み、眉間には深く皺が寄っていた。
「泥棒はするな、いくつか天狗の新聞を読んだが」
「借りているだけだ、私が死ぬまで」
「世間には借りパクという言葉もあるそうだな、魔理沙」
「日本語を話してくれよ、親父。ここは幻想郷だ」
「生憎、私はお前より長く幻想郷で暮らしている、日本語もお前より長く扱っている」
「意外と上手いこと言うじゃないか、親父も」
「魔理沙」
「冗談だぜ」
「借りた物はどこにある」
「だからそれは、一生、私が」
「どこにある」
先に折れたのは魔理沙だった。
しかめ面でぶつくさと呟きながら、それでも書物を運んでくる。瞬く間に、山がもうひとつ生まれていた。表紙の文字などは、店主にはほとんど読み取ることができなかった。
「まだ、なにかあるのか?」
帽子から埃をはたき落としながら、魔理沙は睨み付けてきた。
その視線は、やはり冷やかなままである。
仕方なしとは覚悟していたが、それでも居心地の悪さは否めなかった。
「安心しろ、もう帰る」
「それは良かった。客でなくて清々したぜ」
これ見よがしに、魔理沙は安堵の表情で息をついた。
店主は、一際強い調子で言った。
「魔法を扱うな。私はそう教えていたぞ、魔理沙」
「嫌だ」
即答だった。
店主がなにかを答える前に、魔理沙は動いていた。傍らの箒を手に取り、勢いよく丸テーブルを叩きつけた。強烈な音が起こり、埃が宙を舞った。
「私が、家を出てから何年になる」
それらが収まるまでの時間をたっぷりと待ってから、魔理沙は口を開いた。
「十年ほど、だな」
「その十年ほど、私はずっと魔法の研究をしていた」
魔理沙の声音は静かなものだ。
静かなものだからこそ、溶岩のように動くものを感じさせた。
「あんたが曖昧と言ってのけたものに、私は興味を持って研究し続けた。あんたが許してくれないから、あんたが認めてくれないから、私は一人でやると決めて、家を飛び出したんだよ。この魔法の森で、色んな魔導書を読み耽って、キノコとか何やらを使って実験もして。おかげで幻覚なんかにも慣れた、狂うのにも慣れた、様々な厄介事にも慣れてしまった」
箒を引き戻して、壁に立て掛ける。
こちらを向いたのは仏頂面だったが、その大きな目はあくまでも静謐だった。
「私はそれに自信を持っている。あんたから見れば、馬鹿らしいのかも知れないけどな」
「誇りを抱くものが曖昧ならば、すべてが根幹からぐらつく」
「私はそれに十年を費やした」
「十年でも二十年でも、崩れ去ればなにも残らん」
「あんたの家から飛び出して、私は私のやり方で進んできた」
「魔理沙、魔法は曖昧だ」
「曖昧じゃない」
互いに、目を逸らすことはなかった。
「今は私の、確かな力だ」
店主の口から、否定の言葉は出なかった。
力なく、息をついただけである。
気まずさのようなものを感じて、窓から外を眺めた。魔法の森の、気分が悪くなりそうな緑しか映らなかった。魔理沙も押し黙ったまま、視線を泳がせている。
潮時だった。
「邪魔したな」
猟銃を背負い直し、ガラクタの間を縫うように歩く。積み上げられた本には、手をつけることはなかった。
魔理沙は見送りらしいこともせず、口を噤んでいた。
「こんなことを」
気が付けば、嘆息と一緒に吐き出していた。
「こんなことを言うつもりは、なかったのだがな」
「えっ?」
玄関で足が止まる。
振り返ると、椅子から半ば立ち上がり、こちらを見つめている娘の姿があった。
やはり、背はあまり伸びてはいないようだ。食事などはきちんと摂っているのか、会った時から気になっていたが、問い質すことはできなかった。
意地を張り過ぎだと、自嘲した。
「三日後、墓参りだ」
それだけを言って、店主は霧雨魔法店を後にした。
来なさい、とは結局、言えなかった。
◆◆◆
どさりと、倒れ込むように椅子へと座った。
長い溜め息をついて、調子を整える。久々に、本当に久々に出会った父親は、白髪とか皺とかが、かなり増えていた。
想像以上に、父は老けていた。
「墓参りか」
まさか、それだけを言うために来たのか。それだけが、本当に言いたかったことなのか。
壁に掛けられている、カレンダーへと目をやる。
「それくらい、さすがに憶えているよ」
今日から三日後。
その日付は、墨で丸く囲まれている。
「馬鹿親父」
悪態にもならない、小さな呟きだった。
◆◆◆
借りた物をすべて返すのは、思ったよりも時間がかかった。
本当のところ、今までに借りていた物品は父に見せたよりも遥かに多かったのだが、魔理沙はそれらもすべて返していった。返しに行った先々では、例外なく、奇妙なものでも見るかのように迎えられた。
このまま有耶無耶にしてしまうことも考えたのだが、あの父に面と向かって問い質されると、誤魔化せる気がしなかった。嘘や誤魔化しが一切効かないところが、父にはあった。少なくとも魔理沙は、父に対してそんな思いを抱いていた。
やはり、苦手である。
父の、有無を言わせぬようなところが、魔理沙は昔から苦手だった。久しぶりに出会ったが、それは今も変わってはいなかったらしい。あの皺の寄った目で見据えられると、背筋を嫌な汗が流れてしまう。蛇に睨まれた蛙のようなものだと魔理沙は考え、一人で納得していた。
だとすると、私は蛙のままか。
「なめくじよりは、ましかな」
うららかな春の日差しが身を包んでいた。仰げば、雲ひとつない青空が飛び込んでくる。ピクニック日和とは、こんな日のことを言うのだろう。幻想郷らしく言うならば、宴会日和と言ったところか。
墓参りには、春の気配が強すぎると魔理沙は感じた。
人里は賑わっていた。気の早い人間が一升瓶を抱えていれば、気の早い妖怪が赤ら顔で千鳥足になっている。春の陽気に、誰もが沸いていた。
そんな人妖を尻目に、魔理沙は里の奥へと歩いていく。強張った顔になるのは、致し方なかった。
なるべく顔見知りに見つからないよう、深く帽子を被り直す。
やがて、久しく通っていなかった、その店が見えた。
人里の中では珍しい、三階建てにもなりそうな建築物は、一階がまるまる商店として開放されているようだった。最近になって改築でもしたのか、遠目から見る外観はまだ新しい。人の出入りも活発なものであった。
霧雨店と、仰々しく飾ってある看板が、嫌でも目に入った。
「相変わらず、御立派な文字だぜ」
わざとらしく皮肉を込めて呟くが、あまり大きな声にはならなかった。
看板は、新しい店の外観とは反して年季が入っている。霧雨店の代々店主が、店を受け持った時に新しい物を書くのだと、父が語っていたことを魔理沙は思い出していた。看板の文字は厳つく立派であり、父の横顔とよく似ていた。
看板をきっと見やり、意を決して店に近づいていく。
どうやら、春の宴会に向けてのセールを開催しているようだった。店内で物色する人々も、そういった物が目当てなのかそれぞれ手に取り、何事かを交している。量ではなく、質で勝負しているのが霧雨店の特徴だった。
客の中には、妖怪も混じっている。嗜好品を特に好む妖怪にとっては、こだわりで商売をする霧雨店を利用することも、多いようだった。その繋がりを通じて、香霖堂にも客をまわしてもらうことがあると、霖之助が語っていた。
まったく、調子がいい。独立して店を持って、それでも世話になるとは。
飄々と持論を展開する霖之助の姿が浮かんで、魔理沙は嘆息した。
「店先で溜め息とは、感心せんな」
窘めなれるような言葉に、思わずしかめ面となってしまう。
父は、三日前と同じ格好だった。
「来てやったのに、いきなり文句かよ」
「すまんな」
「……いや、私の方こそ、ごめん」
思わぬ謝罪に居心地の悪さを感じて、魔理沙も頭を下げた。
不意に、父の背が小さくなったように感じたからだ。
「では、行こう」
歩きはじめた父に、並ぶ。
「今日は暖かい」
父は、前を見据えたままだった。
「暑くはないか?」
「親父こそ、そんな格好で聞いても説得力ないぜ」
「仕事着なのでな。店を訪れる客は、店員の格好も気にしてくる」
「だから黒のスーツか、御苦労なことだ」
「お前こそ、普段からそのような恰好だと聞いていたが」
「魔法使いだからな。普通の魔法使いは、普通に魔法使いらしい格好をしているんだぜ」
例外はあるけど、と魔理沙は付け加えた。
父は、なおも前を見据えていた。その横顔は思ったよりも近くにあり、刻まれた皺も記憶のものより深くなっている。改めて、十年ほどという歳月を魔理沙は感じていた。
当たり前だが、十年は長い。
その長さが少しだけ気になった。
「墓は、命蓮寺へと移してもらった」
「あそこの住職も魔法使いだな」
「お前の親族だと言ったら、ひどく警戒された。誤解を解くのには少々骨が折れたぞ、魔理沙」
「桜吹雪でなにも聞こえないぜ」
人里の桜は、まだ花開きはじめたばかりだった。
取るに足らない話が、その後も続いた。借りた物については何度もしつこく聞かれたが、魔理沙にしては珍しく本当に返していたので、そこは譲らなかった。父はそれでも気掛かりなようだったが、一応の納得はしていたようだった。
じゃりじゃりと、ふたつの足音が重なる。
気まずさは確かに感じていたが、それでも意外と自分が苛立っていないことに、魔理沙は驚いていた。
十年という歳月が、自分を宥めているのかも知れない。
それくらい、父は老けていた。
「ここだ。と言っても、お前はもう来ているか」
「さすがに墓参りには来ていないぜ」
「だろうな。三日前まで、私が教えていなかった」
命蓮寺まで、それほど時間はかからなかった。
さすがの幻想郷の住人でも、この場所で宴会という気にはならないらしい。人影も疎らな境内を、父は慣れた様子で進んでいった。丁寧に舗装された玉砂利に、桜の花びらがちらほらと落ちていた。
墓石は少ない。
目的のものは、すぐに魔理沙にも分かった。
予想通り、その墓石は他と比べても小さなものだった。
「なんだよ。前と変わってないじゃないか」
「仰々しい墓は、性に合わないだろう」
「私なら、鉄塔くらいに大きなものを所望するけどな」
「生憎、お前とは感性が違うのだよ、私たちは」
墓地でも大きな魔理沙の声を、父は叱りつけるようなことはしなかった。
魔理沙の調子を、元気だという証拠を、墓石にも伝えたかったのかも知れない。それくらいのことは魔理沙も想像がついたから、殊更元気な口調で語りかけていた。
父にも。
そして、墓石に向かっても。
「水を汲んで来てくれ」
「じゃあ、親父はそっちの花を換えておいてくれよ」
手間取ることもなく、二人は墓前を整えていく。すべて終わるのに、あまり時間は要さなかった。
恐らく、何度も足を運んでいるのだろう。墓はそれほど荒れてはいなかった。
そういうところも、父は真面目だった。
「……お前から、いきなさい」
線香の煙が、春の空に昇っていく。こっそりと墓参りをすることはあったが、こうして二人揃って行うのも久しぶりだった。小さな壺を見送る時、自分は父の手を握り締めていたような気がする。大きな声で泣いていたことは、よく憶えていた。
手を合わせて、目を閉じる。
久しぶりと、胸の内だけで挨拶をした。
魔理沙が終えると、父も続いて手を合わせ、目を閉じていた。
若干、目元が潤んでしまった自分とは違い、父の横顔は厳しいままだった。一筋のものも垣間見えず、そういったところも昔から変わっていない。昔、嗚咽もなく黙って見送っていた父を、魔理沙は憎たらしいとも感じたし、羨ましいとも感じていた。
気持ちを押し殺す。
魔理沙には、できない芸当だった。
「では、行こうか」
思ったよりも長い間、父は手を合わせていた。
一度、水で濡れた墓石に向かって、手を振っておく。巌のような父の気配が、少しだけ和らいだような気がした。たぶん気のせいだろうと、魔理沙は思った。
境内を後にし、帰路へとつく。
これからの予定を、魔理沙はまったく考えていなかった。仕方なく、父に並んで歩き続ける。交す言葉など、思い付きもしなかった。
「霧雨店の店主さんですね」
数人に取り囲まれたのは、命蓮寺から出て間もなくのことだった。
あまりにも姦し過ぎる声が、二人を押し潰すようにして包み込む。
「そちらは人間の、魔法使いの霧雨魔理沙さんのようですが」
人間の、という部分がいやに耳朶を打つ。声の主はにこやかな表情をしていたが、その裏にある粘液のような好奇心を隠そうともしてはいなかった。他の者たちはこちらを覗き込みながら、器用に手帳へとペンを走らせていた。
天狗の新聞記者だ。
背に生えた翼を見なくとも、すぐに思い至った。
「そちらの魔理沙さんは、勘当したとも聞いていましたが」
「こうして並んでいるということは、仲直りをしたのですか」
「命蓮寺には、どのような御用件で」
「どなたかの墓参りでしょうか。だとすると、これを機に勘当を取り止めるということですか」
「霧雨店の跡継ぎは、そちらの霧雨魔理沙さんで決定ですね」
「なにかコメントを」
「魔理沙さん、コメントをお願い致します」
思わず浮かんだしかめ面を、魔理沙は引っ込めなかった。
天狗の取材もある程度は受けていたのだが、これだけ無遠慮で不躾なものを受けたのははじめてだった。顔見知りの取材が、如何に可愛いものだったがよく分かる。
見ると、父は黙って事の成り行きを見つめていた。
眉間の皺は、彫刻されたかのように深かった。
「霧雨魔理沙さん、コメントを」
最初に口を開いていた、天狗の顔が迫る。身体ごと近付かれて、包囲の輪がぐらりと揺れた。足元がふらつき、咄嗟に後ずさるも態勢が崩れる。
倒れる。
そう思った時には、片手で、しかしずっしりと後ろから支えられていた。
その先を見ると、前を向いたままの父の顔があった。
怒っている。
本能的に感じて、魔理沙は大きく息を呑み込んだ。険しい横顔はずっと変わらないものだったが、それでも父は怒っていた。十年ほど前、魔理沙が家を飛び出ると言った時と同じくらいに、黒い瞳を座らせて。
父は静かに、怒っていた。
「君の新聞は、確か唐竹草上といったかな」
「記憶していただき、恐縮です」
魔理沙へと迫った天狗を、父の目が見据える。
若干、気圧されたかのようにその笑みが引きつった。
「他には、山伏会報、青狗時事録、深山之鼻袋といったところか」
それぞれ言い当てられていき、天狗たちの間がざわつく。険しく、そして威風堂々とした父の物言いは、まるで大天狗の一喝でもあるかのような効力で、天狗たちを推し黙らせた。
包囲も、徐々に緩やかなものへと変わる。
「ところで唐竹の」
「はい、なんでしょうか」
「そのペンは、どこの物だ」
天狗はしばし考え、やがてかぶりを振った。
「山伏の、その手帳はどこの物だ」
「それは」
「青狗の、そのペンのインクはどこの物だ」
「インクなど」
「深山の、その手帳に挟まれる栞はどこの物だ」
「存じませぬ」
父の瞳は、なおもどっしりと座っていた。
「すべて私が卸した」
穏やかだが、重厚な声だった。
「大天狗の方々には、今も御贔屓していただいている」
「それは」
「脅しと言いたいのか、唐竹の」
「そのようなことは」
「私は今、機嫌がいい。勘当同然の娘と、こうして里を歩けているから」
険しい顔が、天狗へと迫る。
ゆったりとした動きだったが、それでも迫られた天狗は後ずさっていた。
「君たちも、私のような老いぼれ一人を、追いかけることもあるまい」
「私たちは記者としての本分を」
「その本分を為すのに、必要な物とは、なにかね」
かすかに、父の口元が笑った。
酷薄な笑みだと思い、魔理沙は背筋が寒くなった。
「これ以上を言わせるな、新聞記者」
父は煙草を咥えた。
火は、つけられなかった。
「去れ」
天狗の新聞記者たちは、愛想笑いをして足早に去っていった。露骨に悔しがるような真似をする者は、一人もいなかった。それだけ父のことを恐れているのだろうと、魔理沙は考えていた。
紫煙が、目の前を横切る。
渋い顔で、父は煙草を吸っていた。
「止めたんじゃなかったのかよ」
「何故、そう思う」
「ずっと吸ってなかったから」
「お前の前では、吸うのを我慢していた」
父の身体が、わずかに動く。そうすることで、紫煙は魔理沙へと届かなくなっていた。
その匂いは十年ほど前と、変わってはいなかった。
「煙草は、身体に良くない」
「でも吸うんだな、親父は」
「惰性だよ」
ふうっと。
紫煙は風に攫われて、消えた。
「……お前は、私の言いつけを守っていなかった」
煙草を吸い終え、父は振り返った。吸い殻は、しっかりと携帯灰皿に放り込んでいた。父らしい、生真面目な仕草だと魔理沙は思った。
「不要な物は貯め込むし、平気で嘘もついた」
「性分なんだよ」
「盗みもした」
「借りただけだよ、ちゃんと返した」
「魔法を扱った。今も、扱い続けている」
「悪いかよ」
「ああ」
「ひどいぜ」
「だが」
「えっ」
「守っていたことも、あった」
父は、魔理沙をじっと見つめていた。
格好いいなと、何故だか魔理沙は感じていた。意固地であり、曲げないことは絶対に曲げない。皺も多くなって白髪も混じって、実年齢以上に老けている。口数はあまり多くなく、たまに口を開けばきつい文句を飛ばしてきた、そんな父親だ。
だが悔しいことに、格好よかった。
厳めしくこちらを見つめるその姿は、黒いスーツがよく似合っていた。
「扱うものに誇りを持つこと」
春風が、二人を撫ぜた。
「真正面から堂々と動くこと」
桜の香りが、鼻孔をくすぐった。
「このふたつは守っていた。お前は、突然やって来た私からも逃げず、それどころか啖呵を切ってみせた」
厳めしいその顔が、ふっと動いた。
柔らかな笑みを、父は浮かべていた。
「嬉しかったぞ、魔理沙」
「……まあ。性分、だからな」
声が上擦ってしまうのは、止められなかった。熱いものが、頬に込み上げてくる。なるべく悟られないように、魔理沙は帽子のつばをつまんでいた。
父はなおも、そんな娘を見つめている。
気恥ずかしさで落ち着けなかった。口元が、自分の意思に反して、もごもごと動いていた。
「先程は、勘当同然と言ったがな、魔理沙」
既に父は、笑みを引っ込めていた。
「勘当、同然だ。私は、お前を勘当した憶えなどない」
「えっ」
「仕事がある。それではな」
魔理沙がなにかを言う前に、父は歩きはじめていた。
若干、急ぎ足にも見えた。
「……次は、なにか飯でも食おうか」
振り返らずに、父はそれだけを言った。足を止めることもなく、颯爽と去っていく。
止めるようなことはしなかった。
「ああ」
魔理沙の顔に、自然と笑みが浮かんだ。たぶん、さっき父が浮かべたものと、よく似た笑みだった。
「またな、親父」
父は、後ろ手に手を振っただけだった。
◆◆◆
「魔理沙と会ったそうですね」
「知っていたか」
「魔理沙本人が、照れ臭げに話してくれました」
「……ふむ」
霧雨店の主は、相変わらず気難しい顔をしていた。
「君の言葉がなければ、私も会おうとはしなかっただろう」
「その言い方だと、僕があなたを焚きつけたようにも聞こえます」
「事実だからな」
「厳しい言葉です」
「だが、おかげで彼奴らの目も逸らせる」
にべもなく告げたその言葉に、霖之助の目は訝しげなものを湛えていた。
思わぬ言葉だった。
「途中、天狗たちの取材を受けた」
「それも魔理沙から聞きました」
「恐らく、どこぞの大天狗からの差し金だろう。あわよくば、私の失態でもと思ったに違いない。山の中には、私からの卸しを快く思わない、古い者たちもいると聞いている」
「天狗らしいとも言えます」
「だからこそ、一芝居打った」
紫煙をくゆらせながら、店主は立ち上がった。
「弱みを、あえて見せた」
「魔理沙ですか」
「彼奴らは、ここぞとばかりにそちらへと目を向けるだろう。或いは、血気盛んに動いてくるかも知れん。弱みと思うものを心得ておけば、こちらはそのための対応を予想しやすくなる」
「魔理沙は囮ですか」
「手荒なことは行わないはずだ。それは幻想郷の掟に背く」
「あの子は」
「森近君」
窓を見やる店主の顔は、霖之助からは見えなかった。
「人間と妖怪は、争い続けている。争いの形を変えて、それでも闘争は続いているのだ」
硬い声だった。
「軋轢だよ。それは恐らく、決してなくならない」
「僕とあなたは、上手くやっているつもりですが」
「個人は語り合える。だが集団では、どうしようもない場合もある」
「悲観的過ぎます」
「かも知れない。願わくば、私の考えなど杞憂であってほしい」
煙草は、根元に近いところまで減っていた。
漂う紫煙の匂いに、違った混じりが感じられた。
「あの子は強くなった。強情に、お世辞にも真っ直ぐとは言えないが、それでも私は嬉しかった」
「魔理沙に被害が及ぶかも知れません」
「そんなことは、させん」
灰皿に、煙草が押し付けられる。
すべてを押し潰すかのような仕草だと、霖之助は思った。
「断じて。私が、許さん」
肝の冷えるような険しい表情を、店主は浮かべていた。
煙草の煙は、すぐに漂わなくなった。
「森近君」
しばらくしてから、店主は口を開く。
しわがれたその声は、目の前の店主には似つかわしくないものだった。
「私は、父親失格かな」
「少なくとも」
思ったままを、霖之助は口にしていた。
「今の顔は、父親のそれだと、僕は思います」
「……そうか」
店主は、自嘲気味に微笑んでいた。
目尻にうっすらとそれは浮かび、一筋だけこぼれ落ちた。
「ありがとう」
吸い殻は、もう煙を漂わせることはない。
魔理沙はどうしているだろうと、霖之助は不意に思った。
一つ一つのセリフに重みを感じられる良い作品だったぜ。感服
いい作品でしたよ。
私が知る限り、創想話でここまでカッコいい親父さんを見るのは初めてでした。
それだけでなくちゃんと原作設定を踏まえながら、霖之助や魔理沙も上手く描けていたと思います。