Coolier - 新生・東方創想話

バカとメイドは虚空に踊る

2011/04/15 16:19:31
最終更新
サイズ
159.68KB
ページ数
1
閲覧数
3996
評価数
45/114
POINT
7300
Rate
12.74

分類タグ


 




 空が青すぎるのが悪い。
 仰向けに寝そべりながら、チルノはぼんやりと考えていた。
 もうちょっと賑やかな色をしていればこんなブルーな気分になったりしないのに。そんな悪態をつきながら、彼女はのっそりと身を起こした。
 大蝦蟇の池。その透明度の高い水面に、幾つもの蓮が浮かんでいる。辺りに人影は見当たらない。彼女の食指が動きそうな物は無かった。
 静かで、何も無い。ここは思索に耽るにはとっておきの場所だ。自分の身に余る考え事をしたくなった時、チルノはこうしてこの池に来るのである。あまりに静か過ぎて、暗い方に深みにはまる事があるのだが。
 ひとしきり静寂を噛み締めた後、彼女は小さく息を吐いた。
「死、ねえ。そりゃいつかは……そうなのかな」
 ちゃぷちゃぷと水面を足で揺らしながら、チルノは静かに独りごちる。
 池の畔に目を遣ると、視界の端に小さな祠が映った。誰が祀られているかは知らない。ただそれが死者の為のものである事を彼女は理解していた。
 墓はたいてい人間の為のものだ。妖精が死に疎いのは、死んでもすぐに生まれ変わるからである。だから妖精は墓を見向きもしない。
 だがこの時、チルノの死に対する考えは妖精のそれから逸れて行き、今や妖怪や人間に近いところまで追いやられていた。
 原因は分かっている。いつぞやの花の異変だ。その時に掛けられた言葉が、彼女の心の底に未練がましく残り続けているのだ。
 いつもは忘れている心の翳りが、時々ひょっこりと浮かんで来る。その度に彼女はここにやって来て、こうしてぼんやりと思考の池に沈んでいく。
 自然の死とは何なのだろうか。妖精が死ぬとどうなるのか。
──自分は、いつ死ぬのだろうか
 答えを出した事は、今まで一度も無かった。
「……あーもう、やめやめ」
 そこで思考を止めてチルノは立ち上がる。どうにも見つかりそうにない。蛙や花をどれだけ凍らしても、自分の死について分かる筈が無い。
 分からないから怖い。怖いから畏れる。畏れるから──自分は、まだ人間にすら勝てないのだ。
 大きく伸びをして上を見上げた。相変わらず空は青いままそこにある。チルノ自身も、何も変わっていなかった。
 しかし今日、彼女の日常は唐突に変化する。
「──そこの氷精」
 不意に、チルノに掛けられた声。
 振り向くと、そこには一人の女が立っていた。チルノはその姿を見て眉をひそめた。
 何も言わず、いや何も言えなかったのだろうか。目の前から漏れる威圧は、見る者に畏怖の念すら抱かせる程だ。チルノは話しかけてきた人物をただぼんやり見つめ返していた。
 そして、女がゆっくりと口を開いた。

「好きな事が出来る力が、欲しくないか?」

 不自然な一陣の風が、池の水面を揺らした。





「貴方は『ラプラスの悪魔』を知ってるかしら」
 そう問われた声に、咲夜は紅茶を淹れながら返事をした。
「いえ知りません。一体どんな妖怪なんでしょう」
「妖怪、ねえ。確かにそうかもしれないわ」
 咲夜の目の前で、レミリアが緩やかに目を細めた。
 正午を少し過ぎた頃、二人は湖を見渡す館のベランダに居た。大きなパラソルの陰でレミリアは静かに紅茶を楽しんでいる。咲夜はその傍に佇み、主の言葉を待った。柔らかな風が二人の肌を撫で終えた頃、レミリアはおもむろに口を開いた。
「その悪魔はこの世界のあらゆる物体の状態を知っているの。あの山で風が吹いたとか、向こうの海で魚が飛び跳ねたとか。勿論、今ここにいる私がこの話をしている事もきっとお見通しでしょう」
「それはまた、豪快な覗き魔ですね」
「そう、そいつは絶対的な観測者なのよ。しかも、それは『今この瞬間』に限った事じゃない」
 レミリアはティーカップのソーサーに乗っていた角砂糖を一つ手に取った。
「サイコロを振って出る目は、一見すると運頼み。だけど本当は、サイコロを投げる力やそれが何処に落ちるのかを計算すれば、サイコロがどう転がってどの目を出すかが分かるでしょ? 現実っていうのは詰まるところ物体同士の運動の結果なのだから」
 そう言って、彼女は角砂糖を机の上に転がした。六面体のそれはどの面も真っ白で、どういう結果になったのか咲夜には分からなかった。
「どんな妖怪かと思えば随分と几帳面な悪魔なのですね。けどそれにしたって、幻想の存在でしょうけど」
「あら、どうして?」
「人の心は目に見えませんわ」
「そうでもないわよ。意識が物質の脳から生まれるように、生きる意欲も死にたい気分も化学的に湧いてくるものなの。思考なんて、言ってしまえば電気信号と化学物質の二人三脚なんだしね。人の心ってのは案外さもしい造りになってるのよ」
 心理学みたいなものだろうかと咲夜は首を傾げた。全部を分かった訳では無いがとりあえず相槌を打っておく。レミリアは話を続けた。
「さて、この悪魔はこれから起こる事象も知る事が出来る。しかもそれはサイコロに限らない。天気も地震も人の心もね。その予知を、世界中のありとあらゆるものについて出来るのだから──その悪魔には、全ての未来が見えているかもしれないわ」
「未来、ですか」
 咲夜はとある九尾の式神を思い出した。あの無駄に高い計算力を持つ狐に千里眼でも付ければそんな感じになるのだろうか。
 そんな事をぼんやりと考えていると、「でもまあ」とレミリアがついと口を開いて、
「その悪魔が幻想の存在だってのはあながち間違いでもないかもね。きっと幻想郷にすら居なくて、私達の頭の中にだけいる存在なんでしょう」
「というと、何か根本的な無理があるんでしようか」
「少し考えれば分かる事よ。いい?」レミリアが角砂糖を指で弄びながら言う。「その悪魔は地道な計算によって未来を弾き出す。だけどね、その悪魔が思考している以上は、その計算行為には絶対時間が掛かる」
 そう言われて咲夜は少しばかり考えた後、ようやく得心したとばかり声を漏らした。
「つまり、一秒後の未来を知るのに一秒以上かかってしまうと?」
「正解。そうね、どれだけ短い先の未来を計算しようとしても一緒だわ。何より思考という過程が既に物理的な現象だからね。結局、世界の未来を正確に知る事なんて誰にも出来ないのよ」
 レミリアは角砂糖をティーカップに放り込んだ。六面体はすぐに溶けて沢山の粒になり、あっという間に見えなくなってしまった。その途方もない話に、咲夜は返す言葉を選べずにいた。
 彼女は目の前の湖を眺めながら幻想の悪魔に思いを馳せている。もし仮に、その悪魔が理屈も幻想さえも覆して存在していたらどうなるのだろう。その時、未来というものはその悪魔に全て奪われてしまうのだろうか。
 肌寒い風が二人の間をするりと抜けて行く。レミリアは紅茶を飲み干し、誰にともなく呟いた。
「自分の未来は自分しか決めれないように……世界の未来を知るのは、世界だけなのかもね」
 その問いに、返事は無い。
 咲夜は黙って紅茶をカップに注いだ。





 去って行くその人物の背中を見ながらも、チルノは未だに自分を失ったままだった。
 頭の中は、圧倒的な水量を以て押し寄せて来る知識の奔流。
 体の中は、急流の渦を巻きながら外に弾けんばかりある力の躍動。
 呆然と立ち尽くしたまま気を失いそうになる程の急激な変化に、チルノはただ静かに身を任せていた。目の前の光景が、本のページをめくる様にくるくると移り変わっていく。体の熱が一瞬にして解き放たれたかと思うと、再び肌を貫通してじわりと染み込んで来るような感触がそこにあった。
 暫くして、彼女はようやく自分を取り戻した。自分の掌を見つめる。握って、開く。そして、彼女は確信した。
力は、確かにここにある。
「──あは」
 無意識のうちに、顔が愉悦に歪んでいた。





 シーツの隙間から漏れる寒さで咲夜は目を覚ました。
 枕元の懐中時計を開いてベッドから抜け出す。顔を洗う、着替える、髪をとく。何百回と繰り返して来た習慣を寸分違わず転がして行く。昨日と違ったのは、少しだけ生地の厚いメイド服をクローゼットから出した事だった。
 秋雨を見送ったのが少し前だから、今日はきっと冬のお試し期間なのだろう。そんな事を考えて咲夜は鏡台を立つ。そこで彼女は、昨日の主のとの会話を思い出していた。
──ラプラスの悪魔、ねえ
 未来を見通す悪魔なら、今日の紅魔館の出来事も既に知っているのかもしれない。今日の主のご機嫌だとか、いつ妖精メイドが失敗するのも分かっているのだろう。まだ見ぬ幻想の未来が分かっているならば是非教えて欲しいものだ。
 そう期待する一方で咲夜の中に相反するもう一つの感情があった。それは、未来というものには触れてはいけないというどこか漠然とした禁忌のようなものだ。
 矛盾している、と思った。時間を操る自分が『未来を侵すべからず』とは。彼女は皮肉そうに笑う。実際、時間の流れの速さを変えるだけで過去や未来に行き来する訳ではなかったが、未来に対する散漫な感情は消せなかった。
 胸のリボンを整えて一息。即座に気持ちを切り替えると、瞬く間に彼女の顔と心は瀟洒なメイドになった。そして、彼女は自室の扉を開けて出た。
「……え?」
 直後、目に飛び込んで来た光景を見て、咲夜は言葉を失った。
 その十分後、館の中を飛び回りようやく彼女は事態を把握する事になる。
 館のあらゆる場所が、氷で覆われていた。


「お嬢様……」
 ベッドの上の氷塊を見て、咲夜は小さく声を漏らした。
 それはまるで氷の棺桶だった。ガラスのように透き通った大きな氷。その中で、レミリアが死んだように眠っていた。いや、眠るように死んでいたのかもしれない。この氷漬けの状態ではそれを判別する事さえ彼女には不可能であった。
 自分の能力で時間を加速させ氷を溶かそうかと考えたが、それでは中にいる主にも影響を与えてしまいかねないと危惧し、彼女は氷に触れていた右手を下げた。
──寝ている間に? いくら何でもそんな事が
 吸血鬼相手に出来るはずがない。その言葉は、目の前の光景によって喉の奥に追いやられる。
 咲夜は部屋を見回した。ここはレミリアの寝室だ。控えめな豪奢を着飾るこの部屋は、しかし今は家具も床も壁も天井も全て氷に支配されている。まるで最初からここが氷山を刳り抜いて作った住居であるかのように、この部屋の主は氷に移り変わっていた。
 主を助けられぬ歯痒さを押し殺しながら彼女は部屋を出た。館の廊下にはあちこちに張り付いた氷がある。その廊下を彼女は物ともせずに歩いていった。
目指すは紅魔館の図書館、主の友人である七曜の魔女。彼女の安否も確認し、出来れば状況を打破する為に力を貸してもらおうとしたのだ。
 それにしても、と咲夜は氷に覆われた館を見て逡巡する。彼女にはどうにも不可解な事が二つあった。
 まず、妖精メイド達の姿が見当たらない。この事態から鑑みるに、てっきりあちらこちらで氷とお友達になってるかと思えばそうではないようだ。早々に逃げ出したのか、それとも全員『一回休み』になったのか。居ても居なくても役立たずには変わりはないのだが、姿が見えないのは少し妙だ。
 それともう一つ。これが最大の懸念だった。
 メイド長という地位は激務であるため、咲夜はそれこそ眠る時間を惜しんで働いている。そこで彼女は、眠っている間はいつも自分の時間を加速──つまり自分以外の時間の流れを遅くしているのだ。客観的に見れば彼女はほんの二間程度しか眠っていない。具体的には明け方に寝て、その朝にはもう起きている(ように他人から見える)のである。
「と、なると」
 ここから導かれる結論。つまりこの館の惨状は、何者かの手によって僅か二時間と経たずに形成された事になる。
──吸血鬼異変を罷り通した、この館が?
 この形容しがたい事態に愚痴を零す事もなく、彼女はただ氷の床を駆けて行く
 数分後、凍て付いた扉の前で咲夜は足を止めた。そのドアノブは硬く凍り付いており、図書館への侵入者を頑なに拒んでいる。
「失礼します」
 一息にて、咲夜はドアを蹴破った。
 図書館に足を踏み入れる。そこでもやはり氷が全てを支配していた。いつもは埃っぽいこの部屋の空気も、この時ばかりは嫌な清潔感に塗れている。薄暗い図書館の奥へ歩を進める。どういう訳か、そこは館のどの部屋よりも強い冷気が漂っているようだった。構わずに、彼女は図書館を駆け抜けた。 
 林のように佇む何架もの本棚を過ぎ、ようやく咲夜は本の森を抜けた。視界の端に、見慣れた机と椅子が飛び込んで来る。
「パチュリー様!」
 しかし彼女が開けた場所に出た途端、思いもよらぬ二つの驚愕が同時に襲いかかって来た。
「──おや」
 上から声が降って来る。館の誰でもなく、しかし記憶には残っている幼い声。
見上げた彼女の、視線の先、
 そこには、一丈もある氷塊に腰掛けるチルノの不敵な笑みがあった。
「ふん、遅かったわね」
 不意打ちの登場に、咲夜は無意識のうちに足を止める。戸惑いの色を隠せないまま眼を見張っていると、
「なにその顔。豆鉄砲食らった妖精みたいな顔しっちゃって」
 対するチルノはとても愉快そうに──まるでこの惨状が、とても居心地良いかのような顔をして、軽い声でけらけらと笑った。
 さらに咲夜は冷静に状況を見回し、目の前のそれに気付いた。チルノが腰掛けている氷塊の中に、主の友人である魔女が彫像のように氷漬けになっていたのだ。そこでようやく、彼女はチルノに声を返す。
「……貴方、なのかしら」
 何が、とは聞かなかった。確認さえ取る必要は無かったかもしれない。
「見りゃ分かるでしょ」
 その問いに、チルノはひらひらと手を振って見せた。
 チルノの下の氷塊。そこには自分の従者を守るように立ち塞がり、しかし無念にも二人同時に氷漬けにされてしまった魔女とその従者の姿があった。二人の表情は、共に驚愕の色に染まっている。
「殺さないように作るのって結構大変なんだよ。ここの妖精だって、館の外に追っ払っただけだしさ」
 チルノは気だるそうに足を揺らしてそう言った。
「ま、そこはあたいの度量に感謝しなさ──」
 言い切る前に、咲夜はその額に向かって即座にナイフを投擲した。
「──いって、おわっ!?」
 突然の攻撃に慄き、チルノが咄嗟に手を前に翳す。すると放たれた凶刃は、チルノの目の前で一瞬の内に凍り付き、さらにはその慣性さえも失って静かに落下していった。
 床に落ちた氷が砕け、音が静かな館内に響く。それを目と耳で確認した咲夜は、顔を顰めてチルノに向き合った。
「どうやら、ただじゃない妖精にはなってるみたいね」
「いきなり投げる奴があるか! このバカ!」
 危うく氷塊から滑り落ちそうになったチルノは、喚く狂人ように腕を振り回し咲夜に食って掛かる。加えて駄々をこねる子供のような滑稽さは、咲夜に先程のチルノの言を疑わせる程であった。
 それもそのはず、咲夜にはまだこの現実が信じられないのだ。確かに、チルノは自分のナイフを止められるくらいには強くなっているのだろう。それでも、たまに紅魔館の花壇を荒らしては、ことごとく門番にお説教という名の撃退を受けていたこの氷精が、これだけの事をやってのけたなどと。今の彼女にとって到底にも飲み込める事態ではなかった。
「他に、仲間がいるのかしら」
「うん? そんなもん居ないよ。誘ったけど来なかった奴はいるけど……って、ああ」
チルノは何か得心したようにわざとらしく手を打ち、鼻高々に胸を張る。
「ふふん、安心しな。これをやったのは紛れもなくあたい一人の力だよ。おっと、逆に安心出来なくなったかもね」
「信じられないわね。いくら眠っていたとはいえ、部屋ごとお嬢様を凍らせるだなんて」
「あー、あの吸血鬼」まるで忘れていたと言わんばかりにチルノは気だるい声を上げる。「ちょっとは期待してたんだけど拍子抜け。暖簾に釘ってとこね」
 彼女は独り言ちるように呟いた。
「『運命を操る』ねえ。アレがあたいが目指した悪魔そのものなのか、それともアカシックレコードはやはり存在するのか……まあどっちにしたってもう終わった事だけどさ」
「……?」
 聞き慣れないその言葉に咲夜はふと眉をひそめる。加えて、彼女には少し引っ掛かる調子があった。
──あの氷精は、こんな知的そうな話振りだったかしら
 この状況にしてもそうだ。妖精の悪戯にしてはやり過ぎ──いや、手が込み過ぎている。
「よく分からないけど、一つだけ質問させてもらうわ。貴方の目的は何?」
 そう尋ねられたチルノは、口の端を歪ませて笑った。
「ふふん、それはね──ある『計画』の為、と言っておこう」
 その答えに咲夜は眉をひそめた。
 計画──その言葉から察するに、単なる悪戯ではないだろう。程度の差はあれ、明確な目的と手段と理由があるはずだ。
「まあ、あんたにそれを言っても仕方がない。強いて言えば、あんたを倒しに来たってところかな」
「私を? それが目的だと言うの?」
 咲夜が訝しげにそう尋ねると、チルノは少し首を捻って言葉を濁した。胡乱な色を浮かべる彼女は、どう言うべきかと言葉を探しているようだった。
「うーん、やっぱりちょっと違うかな。今この状況はあくまで過程であって、あたいの目的じゃないんだ。十分条件を満たす為、とでも言うのかな」
 ちぐはぐな言葉を呟くチルノに、咲夜はますます疑問の色を増していく。説明というよりは、ただチルノ自身の確認作業に近いように聞こえたのだ。
 もしかすると、この氷精には高尚な目的があるのかもしれない。ひょっとして、何か幻想郷の為になるような──と、そこまで逡巡して咲夜は頭を振った。
 どうせ妖精の考える事だ、桶屋が儲かる程度のどうでもいい事なのだろう。それに、もし本当にこの行為が幻想郷の為であるとしても、紅魔館を氷漬けにしなければならない過程があるのならそんなものは犬にでも食わしてしまえ。彼女は目の前の雑念をさっと振り払った。
「まあいいわ。とにかく貴方と話しても無駄なようだから、理由があるなら終わってから聞きましょう」
 ついと言い切ると、咲夜は毅然とチルノに向き直った。
 目が覚めてからあまり理解が追い付かなかった彼女が、しかしこの瞬間だけははっきり分かった事が一つだけあったのだ。
「それに、貴方は我が主を蔑んだ」
 相対する理由は、それで十分だった。
 氷よりも冷たい仮面が顔に張り付き、咲夜の両手に数本のナイフが握られる。今の彼女にはお遊びの弾幕ごっこなどをするつもりはなかった。館への敵意、自分の主への奇襲、敵意の無い従者への不意打ち。誰がどう見ても、チルノがスペルカードルールに背いた事は明らかだ。
 咲夜は敵意を研ぎ澄ましていく。敵に向けた銀色の煌きが、彼女の意思を剥き出しにしていた。
 そんな咲夜とは対照的に、チルノはけけっと軽薄な笑みを見せる。
「ようやくヤル気ね。ほら、カエルでもぶつけてやろうか」
 彼女はどこからか持ってきたカエルの氷漬けをお手玉のように弄び、今か今かと戦雲を楽しんでいた。しかしチルノの余裕を気にする事もなく、咲夜はその不快な笑みに詰め寄る。
 簡単な事だ、と彼女は思った。スペルカードルールに囚われなければ、いくらでも勝つ方法はあるのだ。
 『時間を操る程度の能力』
 人間が持つにはまるで不釣り合いな力。神にも及ぶ力を、本気で殺意に変えるとするならば、逃れる事など、それこそ神に等しい者にしか出来はしない。
 時を止める。近づく。ナイフを刺す。氷精は一回休みになる。これで終わりだ。平坦すぎて、逆に躓きそうになる程の道のりだ。
 彼女は感覚を研ぎ澄まし、目の前の高みで嘲笑うチルノにゆっくりと歩み寄った。
「時を止めるのかな、メイドのお姉さん」
 その時、不意にチルノがそう呟いた。
 咲夜は足を止め、するりと視線を流す。彼女の目の前には、状況を理解しながらも、しかし未だ余裕をせしめているチルノの姿がある。
「時を止めて、自分の世界を押し通すつもりみたいね。けどさあ、自分だけが世界を操れると思ってるならちゃんちゃら可笑しいわよ」
「意地のつもり? それとも虚勢かしら」
 返す言葉にも怯まず、チルノはカエルの氷塊を手に握り高らかに声を上げた。
「そう思ってるなら知るがいいわ。あたい達妖精というものがまさに、『世界』そのものだという事を!」
 先程のお返しとばかり、咲夜に向かって勢いよくカエルの氷塊が投げられた。しかし咲夜はそれ避けようともせず、ただ静かにチルノを見据えた。
 その手に握るは、銀の懐中時計。
 そして──咲夜は時を止めた。
 世界から音が消える。館も風も氷も、全てが静寂の中に葬られた。
 チルノが投げた氷塊が、見えない巨人に掴まれたかのように宙に停止していた。運動さえも自由を奪われたこの世界で、咲夜は静かに歩を進める。
 彼女は不毛だと言わんばかりに肩をすくめた。どうせ、最初から結果など見えていたというのに。時間さえ止めてしまえば、どんな攻撃もしていないのと同じなのだ。一体、この妖精の頭の中はどんな無謀に支配されていたのか。
 彼女は辟易と失笑の溜息をつく。あとはあの憎たらしい氷精を倒すだけ──のはずだった。
 だが、その期待は大きく裏切られることになる。

「あのさぁ、何もう勝った気でいるわけ?」

 咲夜の耳に聞こえるはずも無い声が届いた。
「──え?」
 思わず、口から呆然とした声が漏れる。
無理も無いだろう。今までの彼女の人生の中で、たった一度もあり得なかった光景が目の前に広がっていたのだ。
「どうして……貴方が、時の止まった世界で動けるの?」
咲夜は愕然としながらも、何とか声を返した。
 自分のだけが操っていた時間。自分のだけが支配していた世界に、チルノはあっさりと入門して来たのだ。
 彼女の記憶が正しければ、チルノは冷気を操る程度の力しか持たなかったはずだ。事実、この館の氷の惨状を作り出したのは彼女の力に違いない。では目の前の現実は一体何だ。
 ガシャリ、と後ろで氷の砕ける音がした。時間が再び流れだし、止まっていた世界が動き出したのだ。
「知りたい? 仕方ないわね。特別に教えてあげるわ」
 戸惑う咲夜に対しチルノは勝ち誇った態度で言った。憎たらしさが滲み出たその顔を殴り抜けたい衝動に駆られながらも、咲夜は次の言葉を待つ。
 チルノはおもむろに口を開き、そして言った。
「あたいは、神になったのさ」
 目が点になる、とはまさにこの事だろうか。
それ程までに、チルノの言葉は咲夜の体と思考を硬直させた。
 ──神って言ったのかしら。宗教的な偶像じゃなく、幻想郷的な意味で?
混乱する咲夜の頭の中で、白髭を生やし杖を持ったチルノがふよふよと浮かび始めた。
「ふん、凡人には理解出来ないのも仕方ないね。けど、あたいは確かに神に選ばれたのさ。他の神様がわざわざあたいのとこまでやって来て神の力をくれたんだからね」
「神の力を、くれた?」
 チルノの言葉に咲夜はますます頭を悩ませた。神の力を与えるなどということは神にしか出来ない。ということは、チルノに力を貸した神がいるという事だ。それは誰だ。一体何の為に。
「もし仮に……その話が本当なら、貴方に力を授けた神がいるという事かしら」
「だーかーら、あたいが神になったんだって。巫女じゃなくて神よ、神。力を貰ったのは本当だけど」
「……」
 一体正気とは何だったのか。もしかして本当はまだ目が覚めておらず、現実の自分はベッドの上で冷たい秋風に唸らされているだけではないのかと嘆かわしい思想に至った。
「けど神様だからって、そう易々と私の能力を……」
「違うよ」だが、チルノがそれをついと遮る。「この能力自体はあたいの元々の力の延長さ」
「延長? 能力が進化した、とでも言うのかしら」
「進化……うーん、少しニュアンスが違うけどね。そもそもだね、『熱』ってのは言ってみれば物体の運動なんだ」
 ピンと指を立て、彼女は咲夜に語りかける。出来の悪い生徒を諭すようなチルノの態度に咲夜は眉をひそめた。本当は今すぐチルノの脳天にナイフを突き刺してやりたかったが、今は話を聞くのが得策であると考え、黙って耳を傾けた。
「人間の目には見えないだろうけど、物体っていうのはとても小さな球の集まりなんだよ。それは人間だって同じなの。あたい達の周りの空気でも、同じようにその沢山の球が激しく動き回っている。この球全ての運動の激しさ、つまりエネルギーの推移こそが熱の正体さ。あたいはこの熱を自由に操る事が出来る。という事は、これは物体の運動を操っている事でしょ」
 口数の増したチルノはつらつらと話を続けて行く。
「そこでだけどさ、あたい達妖精は自然そのものじゃん? 自然は言わば空間そのもの、ひいては世界の一部って訳だ。因みにここでいう空間っていうのは三次元空間、世界ってのはその空間と一次元の時間を足した四次元時空の事ね。さて、これであたいの言いたい事が分かったかしら」
興に入って話し続けるチルノに対し、咲夜は「全然」とにべもなく答えた。
「ぐぬっ、まあいいわ。さっきも言ったように、妖精という存在は自然という空間そのものであって、あたいはその中の物体を操れる。つまり、あたいの力はもともと三次元空間に干渉する能力だったってわけね。さて、ここからは本題だ。四次元世界の住人であるあたいは、三つの次元の要素を操れる。そんなあたいが、神の力を貰ったらどうなると思う?」
 チルノは勿体ぶるような口調で話を続けていく。
「神様が人間と違うのはよく知ってるでしょ。あのふざけた力、まさに次元が違うって感じね。神様ってのは、人間よりも高次的な存在である──って、何か言葉の綾みたいな話だけど、あいつらが人間とは異なる次元にいる事は確かだよ。けどそれは信仰の結晶であって、あくまで『世界』そのものじゃない。けど、それが神の力を得た妖精なら?」
 そして、彼女は口の端を歪ませて言った。
「答えは簡単だ。それは四次元のさらに一つ上。そう、あたいは今や、五次元の住人となったのさ。そして、四次元目の要素である時間に干渉する事が出来る。物質だけでなく、時間さえもがあたいの手の中にあるんだ!」
 大きく拳を掲げる。その数瞬の後、世界から音が消えた。
 咲夜は辺りを見回す。彼女の視界の中に動く物はない。咲夜ではなく、チルノ自身がこの世界の時を止めているのだ。まるで二人以外の全てが、写真のように時間を切り取られ静止していた。
 興奮を隠しきれないチルノは謳うよう声を上げる。その瞳には、彼女にとってのみの希望の色がありありと浮かんでいた。それは新しい理論を発見した学者の姿によく似ている。聡明であるが故に世界と分かち合う純粋な喜びを、純粋な幼子のように笑っているのだ。
 自分の過ぎた昂ぶりに気づいたのか、チルノは小さく咳払いして続けた。
「まあ、時を操るといっても、流石に過去から未来までの全ての時間を対象とするのは不可能だけどね。自分が持っている紙にしか絵が書けないように、私が干渉出来るのはあくまでも今この瞬間──言ってみれば、パラパラ漫画の一ページだけ。それでも、あたいはそのページに好きなだけ絵を書ける。あたいが時間を止められるという強大な力を得たのは事実よ」
 チルノは威張り倒すように言い放ち、沈黙を保ったまま佇んでいた咲夜を見て笑った。
「という事は……」
そこまで沈黙を保ってきた咲夜がようやくここで口を開いた。
「私の時間を操る能力が効かないんじゃなくて、貴方は私と同じように時間を止められるようになった、という事かしら」
「そうよ。もう時間はあんただけのものじゃないのさ!」
 ふんぞり返って威張り散らす。その尊大な態度に何も言わず、咲夜はただ黙って何かを思案していた。
 彼女の沈黙がよほど気に入ったのか、チルノは表情を愉悦に染めて言った。
「ふっふっふっ、どうやら驚いて声も出ないようね。まあ無理もないわ。さっきまで自分だけの聖域だと思っていた場所が、あたいと言うもっと最強の存在によって踏み荒らされたんだもんね」
 止めどなく流れ続けるチルノを余所に、咲夜は静かに溜息をついて、
「もう、いいわよ」
 と、ついとチルノの言葉を遮った。
 そして彼女は、口を開いたまま停止するチルノに向かって心底鬱陶しそうに零した。
「貴方の話、聞くだけ無駄だったわね」
「──へ?」
「要するに、私と同じように時を止められるようになっただけじゃない。てっきり私の能力が破られたかと思ったら……」咲夜は無駄な時間を過ごしたと言わんばかりの口調で言う。「ただ同じ力を持っていただけなのね。無駄な話をするより、さっさとそう言って欲しかったわ」
 咲夜は毅然とした態度を崩さずつらつらと言葉を紡いでいく。先程のチルノの興奮を冷ますかのような冷たい目だった。
 彼女が危惧していたのは彼女自身の能力の無効化に他ならない。それは、能力を奪われた自分はただの人間とそう変わりないという彼女なりの自己分析からくるものだった。自分以外に時の止まった世界で動ける者を初めて目にして、彼女は冷静を失っていたのだ。
 だが、チルノの話を聞けばどうやら違うらしい。話の中身を全て理解出来たわけではないが、彼女は彼女なりの方法でまた時を止めた。ただそれだけだったのだ。随分と無駄な時間を費やしてしまった。徒労を追い払うかのように、咲夜は小さく溜息を吐いた。
 あまりにも淡々と、むしろ少し煩わしそうに返す咲夜の様子に、今度はチルノが怒りをあらわにした。
「と、どうでもいいって!? ふざけんな! これがどんなに凄い事か分かんないのっ!?」
「もういいから、少し黙って頂戴。ただでさえ起き抜けと寒さのせいで眠いのに、そんな呪文みたいな言葉を聞かされたら冬眠しちゃうじゃないの。それともわざと難しい言葉を使ってるのかしら? なら止めた方が良いわね、余計馬鹿に見えるわよ」
 チルノの表情が怒りを通り越して呆然とも言える色に変わった。さっきまでの二人とは対照的な光景。傍から見れば、さも滑稽な物だったに違いないだろう。
 何かを言い返そうとして、しかしチルノは口を噤んだ。やがて、苦虫を噛み潰したような顔で咲夜に食って掛かった。
「やっぱり、お前はヤな奴だっ! それだけじゃない。そもそもあんたは存在自体がおかしいんだよ!」
 彼女の周りの冷気が膨れ上がった。目の前の人物に──というよりも、現実的な人間であるがゆえに不可解なその現象を──問いかけるように叫んだ。
 返事は無い。構わず、チルノはたた己の感情をぶつけるように言葉を投げ続ける。
「なんであんたは人間のくせに時間を操れるのさ! あたいだって、神の力を手に入れてようやく掴んだってのに、あんたは最初から持ってるじゃないの! あんたは、あんたは一体何──」
 彼女の言葉はそこで止まった。その目には、飛び掛かる咲夜と、手に握られた銀色の煌めきが映っていた。
「っ!?」
 それはほぼ反射的だった。チルノは後ろに倒れるようにして、座っていた氷塊から飛び降りた。体勢を崩しながらも辛うじて両足で着地する。もし後一秒遅ければ、彼女は見事な袈裟斬りにあっていただろう。
 チルノはさっと上を見上げる。ついさっきまで自分が居た氷塊の上には、氷よりも冷徹な視線をした咲夜の姿があった。
耳を貸す必要も、時間を割く暇も無い。語らずとも、咲夜の目がそう示していた。
「もういいって言ったでしょう。貴方の話も、そして──貴方自身も」
 必要な事さえ分かればそれでいい。今の咲夜には、これ以上目の前の妖精の戯言を聞く気は欠片も存在していなかった。ただ、紅魔館にとっての不穏分子を取り除く従者。それが今の彼女なのだ。 
 チルノもその威圧感を肌で感じ取ったようで、一度に切迫した顔付きになり、静かに場の雰囲気から自分を救い出す。やがて、二人の間にしばしの沈黙が流れると、ふとチルノは小さく笑みを零した。
「そうね……あんたがどんな存在であろうとなかろうと、あたいのする事はたった一つだったわ」
 決意とも開き直りとも取れる声で彼女は言った。その表情には、まるで自分に向けるかのようにシニカルな笑いを浮かべている。
 静かに語るチルノの周りに力が集まっていく。今まで感じた事のないその不思議な感覚に、しかし咲夜は毅然で以て向かい合っていた。
 やがて、チルノは不敵な笑みと自信と取り戻して高らかに叫んだ。
「この世に最強は二人も要らない! 時を操る事が出来るのは、あたい一人で十分だ!」
 目の前で起こった現象に、咲夜が小さく驚嘆の声を漏らす。
 たった数秒で、チルノの周囲の空間に何十という氷の剣が生成されたのだ。
 それらの矛先は、すべて咲夜に向いている。
「あたい野望は、誰にも邪魔させない!」
 そして、その何十もの敵意が咲夜に向けて一斉に放たれた。
「ッ!」
 殆ど無意識の内に、咲夜は時間を停止させていた。
 稠密に襲い来る氷の剣の群れが、皆一様に宙に停止する。すかさず彼女は氷塊から飛び降りようとして、しかし同時に、目の前の脅威が自分以外にも向けられている事を悟った。
 このまま時を動かせば、自分の真下の氷塊──すなわち、主の友とその従者にも、その氷の剣が直撃してしまう事に。
 決断に至るまで僅か一秒、彼女はありったけのナイフを取り出すと、宙で停止している氷の剣の一本一本に向かって正確に投擲し始めた。放たれたナイフと向かう氷の剣、それらはまるで威嚇し合う獣の様に、刃先を向かい合わせぴたりと空中で対峙した。
 間に合うか──咲夜の額にするりと汗が流れる。彼女が最後の一本を投げるのと、時が再び動き出すとのは殆ど同時だった。
 何重もの激しい破砕音が辺りに轟く。その音と衝撃に耳を塞ぎたくなる衝動を抑えて、咲夜は氷塊から飛び降りた。
 音も無い着地。彼女はチルノを一瞥すると、しかしその足を反対方向へと進めた。
「あ、くっ、逃すもんか!」
 轟音に耳を塞いでいたチルノが、慌てて咲夜の後を追いかけた。
 少なくとも、ここで戦うのは咲夜にとって得策ではない。身動きの取れない二人から戦場自体を遠ざけるために、彼女は勢いよく地を蹴り飛翔した。行き先は図書館の入り口だ。
 それにしても、と咲夜は後ろから追いかけて来るチルノを見て独りごちる。
「人質を取るっていう発想は無いのかしら。そういうとこは馬鹿のまま、ねっ!」
 振り向きざまに、彼女はナイフをチルノに投擲した。対するチルノは、それを避けようともせず直進して、
「無駄だって言ってるでしょ!」
 チルノが時を止めた。そのまま足を止める事なく、チルノは宙に停止したナイフをまるで羽虫を払うかのように往なした。
 いとも容易く退けられたナイフを見て、咲夜が小さく舌打ちをする。彼女はそれ以上の攻撃を止め、逃走に専念する事にした。今の状態ではまともに相手をする事も出来ないだろう。
 しかし、どうすればまともに相手になると言うのか。そもそも彼女には、時間が止まった状況で他の誰かと戦うなどと言った事が今までの人生の中で一度も無かったのだ。
 戦いの中で時を止める事はあるが、その場合には──全ての物体の運動が停止し、かつ自分は動ける──という、まさに勝利の理想論を絵に書いたような状況だったので、その理想が壊れた時の対処法をなど彼女に知る由も無い。今は戦術も戦略も全くの手探りで戦うしかなかった。
 図書館の入り口が見えてきた。咲夜は開いたままになっていた図書館の扉から出て、すかさず扉に手をかける。それを閉じようと後ろ手に力を込めた──その瞬間に、咲夜は時を止めた。
 開いたままの扉を残して廊下を突っ切る。後ろの方で、その入り口からチルノが出てこようとしたのを確認すると、彼女は再び時間を動かした。
「っ、あいたっ!?」
 急に勢いよく閉まった扉に反応出来ず、チルノが思い切り頭を扉にぶつけた。彼女の小さな体は再び図書館の内側へと押し戻されごろごろと転がっていく。何とまあ分かりやすい引っかかり方だ、と咲夜は逆に関心してしまった。
 歩を進めながら、咲夜はすぐに次の一手を考え始める。
 廊下での戦闘は、防御の手段が乏しい咲夜にとっては避けたい場所だ。相手の攻撃を躱す余地のある場所に出て向かい撃たなければならない。それに相応しい場所は何処か。
 咲夜は頭の中で、館の中の最適な場所を挙げ連ねていく。その中から、彼女はある場所を選択した。


 いつもはメイドが忙しなく動き回る紅魔館のロビーも、この時ばかりは静寂に包まれていた。
 咲夜は息を整え、館の入り口の扉の前で『敵』を待った。ここならば、攻防どちらを行うにしても十分に広く、それにいざとなれば入り口から逃走を図ればいい。まさにうってつけの場所だった。
 しかし、と彼女は周囲に警戒を張りながら逡巡する。
 逃げたところで誰に助けを求めればいいのだろうか。ふと頭をよぎったのは、自分と同じ人間の、赤白黒の少女達。だがその考えをすぐ頭から捨てた。これはもう弾幕ごっこではない。
 それに、スペルカードルールでなくて誰があの妖精に勝てるというのか。おそらく今、館の門前で氷のオブジェになっているであろう門番がそのいい例である。実際倒されたかは知らないが、これだけ時間が経って来なければそういう事なのだろうと咲夜は予測した。
 その時間を止めて攻撃してくるから注意しろ──そんな不条理に対応出来るのは自分だけだというのに。こんな時に、妖怪の賢者は一体何をしている。
 ロビーに轟音が響き渡った。咲夜は思考を中断して顔を上げる。入り口と反対側にある扉が、勢い良く吹き飛ばされて三等分に折れてしまっていた。
 辺りに立ち込める白霧。その中から、彼女の『敵』が悠々と姿を現した。
「──鬼ごっこは、もう終わりだよ!」
 ゆっくりと、しかし確実にチルノは咲夜に向かって歩を進めた。咲夜は小さく息を吐くと、いつでも飛び出せるようにナイフを引き抜いて前に構える。
 だが、チルノがロビーの中央に差し掛かった時、今度は咲夜の方から口を開いた。
「そういえば、少し聞きたい事があるのだけれど」
「……もう話はいいって言った癖に」 チルノは顔をしかめて答えた。「で、何よ」
「貴方はさっき……えっと、五次元からこの世界に干渉できる、と言ったわね。物体の運動を操り、時間を止める事が出来ると。ならどうして、時間を止めた中で、氷をそのまま真っ直ぐ飛ばし続けないのかしら」
 先程、図書館で行われた攻防を咲夜は思い出す。チルノの言に沿うのなら、彼女は時間停止中にも物体に『干渉』し、その運動を止めずに出来るはずだ。しかし彼女の放った氷の刃は、咲夜の時間停止によってその運動を止めている。咲夜はそこが少し引っ掛っていたのだ。
 そう問われたチルノは、渋い顔を見せぶっきらぼうに「出来るならやってるわよ」と口を尖らせた。
「最初にあたいは、世界への『干渉』を『パラパラ漫画に自由に絵を書く』って例えたけど、これは少し間違っている。正確に言えば、あたいがその絵を書くペンそのものなんだ。だから、ページの上でペンが押さえてる部分──つまり、この三次元空間でのあたいの近傍でしか干渉する事は出来ない。言ってみれば、あたいの周りを取り囲む『干渉領域』の中でしか物体を動かせないの」
 またよく分からない単語が出てきた、と咲夜は顔をしかめた。
「私は貴方みたいに知識がないから、あまり難しい事を理解出来ないわね」
「ふふん、あまり難しく考えなくてもいいわよ。干渉領域ってのはあたいという存在を三次元空間に投射したもので、平たく言えばあたいの手足みたいなもんよ。この領域の中にあるものは、眼で見たり触ったりしなくても完全に把握出来るわ。ま、力の及ぶ範囲ってことね。だから干渉領域の外に出たら、物体は再び停止するんだ。これであんたの頭でも分かったでしょ」
 チルノは再びその表情に余裕を貼り付ける。煽てればペラペラと喋り出す性格は変わっていないらしい。それにしても憎たらしい顔だと咲夜は心の中で嘯いた。
 だが収穫はあった。どうやら相手も自分も出来る事は同じらしい。咲夜自身には時間を遅めたり早めたりする事も出来るが、時間停止と同様、今のチルノには何の効果もないだろう。
「あたいがどんどん強くなって、干渉がより強固なものになればそれも変わる。干渉領域は広がり、より大きく強く世界を動かす事が出来るようになるわ! そして、いずれあたいの干渉領域は、世界そのものを包み込むのさ!」
 再び体勢を整える。対するチルノも、自分の言いたい事は全て言ったとばかりに腕を組み、泰然として構えた。
「へえ、これを聞いてもまだ逃げる気は無さそうね」
「今ここで貴方が土下座して館を元に戻すのなら、逃げてやってもいいわよ」
「ふうん。じゃあ無理だ」
 チルノを中心にして、力の奔流が急速に渦を巻いた。ロビーの床を這うようにして、冷気の絨毯が広がって行く。
 おしゃべりはもう終わりだ。その張り詰めた空気を感じ取った咲夜が、ナイフを握る手に力を込める。チルノから冷気がほとばしった、
「あたいはもう、誰かに頭を下げる事は一生ないからね!」
 先手を打ったのはチルノだった。
 ゆるりと右手を振るう。瞬く間に彼女の周りで氷の刃が生まれ、矢のように一斉に放たれた。
 咲夜は横っ飛びでそれを躱すと、すぐには反撃を仕掛けず円を描くようにチルノの周りを飛びながら移動して行く。チルノは攻撃の手を緩めないままその場で氷の刃を打ち続けた。
 逃げる咲夜、追うチルノ。しばらく続いたその状況にも、遂に変化が訪れた。
 攻撃の標準が、飛翔し続ける咲夜の体に近づいて来たのだ。このまま行けば、十秒と経たないうちに咲夜の体に風穴が空くだろう。
 やがてその刃がスカートを掠った時、咲夜はこの戦いにおいて初めて反撃の手を打った。
「──止まれ」
 世界の時が、一瞬にして凍り付いた。
 咲夜の目の前で、数秒後には脇腹を貫くはずだった氷の刃が沈黙する。その横を抜け、彼女は体勢を整えた。二つの眼は確実にチルノを捉えている。
 その手から、ナイフが放たれる。ナイフは彼女の少し前に進み、やがて縫い付けられるようにぴたりと静止した。咲夜はそれを追い越すと、直線ではなくチルノの周りを螺旋を描くように接近して行った。横移動する咲夜にチルノは何とか狙いをつけようとするが、彼女の攻撃は虚しく宙を裂くだけだった。
「ふん、ちょこまかと!」
 ここでチルノは射撃を諦めた。代わりに右手に冷気を集め、一瞬にして氷の武器を具現化させる。そこに生まれたのは、均整も何もないただ尖らせただけのランスに似た氷槍。しかしそれは彼女の攻撃心をありありと映し出していた。
「さあ、来てみやがれ!」
 彼女は大きく吠え、その矛先を咲夜へ向けた。
 渦に巻き込まれる流木のように二人の間隔が徐々に縮まっていく。途中、咲夜は新たなナイフを取り出したかと思うと、それまで螺旋を描いていた彼女は急に角度を変え、中心のチルノへと一直線に飛び込んだ。
 馬鹿め、とチルノはほくそ笑む。重心を低く構え、柄を強く握りしめた。
 だがその時、咲夜は急に前のめりになったかと思うと、くるり、と空中で縦方向に回転した。
 チルノの目が驚き見開かれる。一見すれば不可解なその行動を、しかし彼女は即座に理解する事になるだろう。
 回転の差中、咲夜が体を傾け姿勢を低くしたその上を、後方から飛来したナイフが通過したのだ。それは咲夜が時を止める前に投げたナイフだった。彼女は螺旋を描くように飛びながら、ナイフと自分の攻撃が重なるように位置とタイミングを寸分狂わず合わせて見せたのだ。
 飛来するナイフはチルノの喉元を狙う。また咲夜自身はもう一本のナイフを逆手に持ち、回転の勢いを利用して振り下ろそうとしている。二つの銀は僅かな時間差でチルノに迫った。
 咄嗟にチルノは槍を手離し、後ろに倒れながら首を捻る事で飛来するナイフを躱した。しかし、その上から覆いかぶさるように咲夜が降って来る。繰り出される斬撃を躱すのは不可能だろう。
 この刹那を争う状況で、チルノは賭けとも言える策を打った。
 崩れゆく体勢の中、なんと彼女は、手離した槍を咲夜に向かって蹴り上げたのだ。
「なっ!?」
 この行動には流石の咲夜も驚かずにいられなかった。彼女は反射的に両手を防御に使い、飛んで来る槍の横っ腹を受け止める。
 辛うじてバランスを保つ事に成功した咲夜は、そのままチルノにナイフを振り下ろす。だが、一瞬の遅れが生じたその攻撃は、転がるチルノの頬を薄く切るに留まった。
 チャンスを逃した事にほぞを噛みながらも、慌てて立ち上がったチルノを見て咲夜はそれ以上の追撃を諦めた。おそらく、次からはこのような不意打ちを狙えないだろう。
「ちょ、ちょっと冷やっとしたけど、これくらいじゃあたいは倒せないよ!」
「そう、なら永遠に冷たい体にしてあげるわ」
 咲夜は両手にナイフを構える。しかし直ぐには動かない。馬鹿正直に飛び込めばあっという間に氷漬けにされるのは目に見えていたからだ。
 痺れを切らしたチルノが動いた。そこには様子を見る時間さえ惜しむ彼女の獰猛さが滲み出ている。
 チルノは両手を床に叩き付けた。すると、床から背丈ほどもある鋭い霜柱が一瞬にして出現した。地面を這う冷気と共に次々と霜柱が出現し、あたかも氷のノコギリのように咲夜に向けて前進する。咲夜はそれを躱しつつナイフを投げた。対するチルノが時を止める。しかし咲夜は既に地を蹴っていた。チルノは手を突き出し冷気の塊を放つ。咲夜は深く身を沈める。銀色の髪が数本、凍って散った。気にせず、素早くナイフを取り出しチルノの膝を払った。
 息を呑んだチルノは咄嗟にダン、と片足を床に強く踏み込ませた。それだけで、彼女の足元に瞬時にして霜柱を形成される。響く刀鳴の音。咲夜のナイフが霜柱に阻まれたのだ。いくらか氷の防御を削ったが、当のチルノに刃は届いてはいない。時は既に動き出している。好機とばかりチルノはツララを放った。体勢を崩した咲夜は目の前の霜柱を蹴り、その勢いのままに後方へ飛んだ。
 ツララが床にぶつかって崩れ落ちる。距離を取ろうとする咲夜を逃すまいと、チルノは続けて追い打ちを放った。今度は避けられないと察し、咲夜が時を止めた。目の前でツララの時間が殺される。彼女は体勢が整うや否や、再びチルノに向かって突進して行った。
 銀が煌めき、冷気が迸る。砕かれ飛び散る氷の粒が宝石のように舞った。
 二人は何度も衝突し、その度に世界の時間が両者の手中に収められて行く。静寂は風を切る音と破砕音に掻き回され、しかしロビーは奇妙な冷気に包まれて行った。
 暫く──しかし彼女達にとってほんの僅かな──時間が経ち、幾度目かの交差が切って終わった。咲夜は体勢を低くして間合いを取る。
 この時、咲夜は数十に及ぶ攻防の中で、無意識のうちにある変化を感じ取っていた。違和感が積み重なった雲のような塊。それを確信へと変えるべく、彼女はチルノへ焦点を合わせる。
 二人の間は約五メートル。チルノが氷の刃を放つのを見て、咲夜は時を止めた。そこでチルノの攻撃は止まる──筈だった。
 しかしその刃は、時間が止まった世界の中でもなお、確かな速度を持って咲夜に襲いかかって来たのだ。
「……ッ!」
 咲夜は慌てて上体を反らした。見ると、過ぎ去ったナイフはそのままの速さで飛んで行き、さらに少し距離を進んだところでピタリと停止した。
 やはり、と咲夜は顔をしかめる。背中にするりと嫌な汗が流れる。考えたくもないが、目の前の光景が現実を暗く照らしていたのだ。
「ふふん、だいぶこの力の使い方が分かって来たわ」
 チルノは得意げに鼻を鳴らす。成長──それは彼女にとって、これ以上ない至福の言葉だ。事実、チルノはこの戦いの中で成長している。
 チルノの物体を操る能力は確かに進化していた。出会った頃とは違い、今の彼女はより強く、より離れた場所の物体にも干渉出来るようになっていたのだ。先の言葉を借りるならばこうだろう。チルノの『干渉領域』は最初の頃よりもさらに大きな空間へと拡大し、その影響力を強めている。時間の止まった世界の中でも、物体を自由に動かせるほどになっていたのだ。
「もっと、もっとよ! このまま行けば、あたいの野望に順調に近づいて行ける!」
 昂ぶる彼女と対照的に、咲夜の心は急激に冷え固まって行く。
 このままでは不味い。チルノは確実に力を増している。しかもそれは戦いの中で成長したものであった。咲夜の不安は次第に焦燥へと変わっていく。やがて、彼女の決心はある一点へと収縮した。
 手が付けられなくなる前に何としても倒し切る。たとえそれが、自分の身を犠牲にするものであっても。
 咲夜は短く息を吐いた。決意が鈍る前に、必ず決着をつける。
 やがて覚悟を決めると、二つの眼でしっかりとチルノを見定め──

「──咲夜?」

 最初、咲夜にはそれが誰の声なのか分からなかった。
 ロビーの端にいる人物を見て、彼女は一瞬の内にその表情を驚きの色に染めた。咲夜の不審に気付いたチルノも、ゆっくりとその方向に振り返る。
 金色の髪、虹色の羽。まだ幼さが残るその顔つき。真紅の瞳をきょろきょろと動かして、その少女はそこに立っていた。
「フランドール、様……」
 ぼつり、と咲夜はその少女の名を口にした。フランドールは、まるで訳が分からないといった表情で辺りを見回すだけだった。
──何故ここに。どうして無事で。地下室に居て、難を逃れた?
 咲夜の頭が疑問の洪水で埋め尽くされる。様々に色を変える咲夜に対し、フランドールは眉をひそめて言った。
「何があったの? あちこち凍ってて、ちょっと寒いわ。それに、貴方だれ?」
 釈然としない様子でフランドールはチルノに歩み寄って来る。そこで咲夜はようやく正気を取り戻し、フランドールとチルノの両方を見た。
「フランドール様!」
 咲夜は、おそらく幻想郷の強者の中で十の指に入るであろうその少女に向かって、
「お逃げください!」
 そう叫んで、彼女はフランドールに向かって飛んだ。
「え?」
 その言葉の意味が分からず、フランドールはきょとんとした顔付きになる。
 そこへ、脅威が迫った。
「──もらったぁあああッ!」
 雄叫びを上げ、チルノが飛び掛った。
 突然の事にたじろいだフランドールが、反射的にチルノへと手を突き出した。あらゆる物を破壊する程度の能力。その禁忌が今まさに放たれようとして、
「止まれッ!」
 しかし、チルノによってフランドールの時間は無惨にも止められてしまった。
 どれだけパワーやスピードを持っていようが、時間を止められてしまえば意味がない。敵がどんな能力を持っていようとも、チルノにとってはただの的に過ぎないのだ。ただ一つ──自分の同じ能力を除いては。
 咲夜はその冷酷な事実を十分に理解していたため、フランドールをチルノから遠ざけようとしたのだ。
 館の外でもどこでもいい。せめてこの戦場からは遠ざけなければならない。咲夜の心に莫大な焦燥と冷静が渦を巻き、その両方が共に彼女の体を突き動かしていた。
 即座の決断が功を奏したか、咲夜はチルノよりも早くフランドールの距離を縮める事が出来た。
 ──間に合えッ!
 目と鼻の先に、フランドールの手があった。咲夜は手を伸ばし、それを掴む。精一杯力を込め、少女の細い手を引っ張り上げる。
 振り返ると同時に、彼女はありったけのナイフを敵に投擲した。
 高く、鋭い音が轟いた。


 辺りに白霧が立ち込める。その靄をスクリーンに、大様に立つチルノの影が映った。
 彼女が見つめる先で次第に霧が薄れて行く。その中から、もう一つの影がぼんやりと浮かび上がった。
「ほら、言ったでしょ」
 誰となく呟く様に、チルノは薄く笑って言った。
「あたいは、最強だって」
 のぼせたような声。鼻にかけたその態度を、しかし否定出来るものは居なかった。
 やがて晴れた霧は、チルノに凄惨な光景を差し出す。
 一つは、氷漬けになったフランドールの姿。
 そしてもう一つは、両足を氷に閉じ込められた、十六夜咲夜の姿だった。
 チルノはもはや構えも取らず、挨拶でもするかのように悠々と咲夜に歩み寄った。
 咲夜は何とか足を動かそうとしたが、その氷は地面ごと固まっており、囚人を繋ぎ止める鎖のように彼女の自由を奪っていた。
「ま、最初からあたいの勝利に間違いないと思ってたけどさ。これでもう、あんたの勝つ可能性は無限小だね」
 咲夜は返事もせず、ただ悔恨を噛み締める。己の失態に対する忸怩と怒りで舌を噛み切りたくなる程であった。
 フランドールを助けられなかった。あまつさえ、自らの責でチルノに勝つ可能性を擦り減らした。
 まさに最悪の状況。これ以上の醜態を晒す事があるだろうか。
「おっと、油断禁物ってやつだね」
 チルノが咲夜から僅かな距離を取って足を止めた。ナイフは投げられない。咲夜は打つ手がなくなった。ここから彼女一人で逆転する事はほぼ不可能だろう。
 咲夜は必死に希望を拾い集めようとして、しかし周りには絶望しか見えてこなかった。自分は氷の棺桶に閉じ込められ、紅魔館はチルノに支配され、それから──それだけだ。
 そこで全てが終わる。少なくとも自分にとっての終わりは、今まさにこの瞬間だった。
 そこまで考えて、彼女はふと浮かんだ疑問を口にした。
「そういえば……貴方の目的をまだ聞いてなかったわね」
 せめてもの時間稼ぎだ。もしかしたら、異変に気づいた紅魔館の住人以外の誰が助けに来るかもしれない。
 彼女は、そんな図々しい未来に賭けたのである。
「私を倒す事が過程というのなら、本当の目的はちゃんとあるはずでしょう」
「あれ、言わなかったっけ。まあいいや。メイドが冥土の土産を欲しがるなんて贅沢ね」
 呆れるような顔を見せながら、チルノは緊張感のない声と共に肩をすくめた。
 腕を組み、誇らしげに咳払いをする。その仰々しさは自尊の表れだろうか。そして、彼女はそれを語った。
「あたいの野望、それは──未来を知る事だ」
「未来?」
 咲夜はチルノの突飛な発言に思わず首を傾げた。。
 未来を知る。確かに目の前の妖精はそう言った。
 チルノを見つめたまま咲夜は微動だにしない。何も言えないというよりも、言う事が多すぎて何を言えばいいか分からない状態だ。そんな咲夜を余所に、チルノは淡々と話を続ける。
「例えば、サイコロを振る前から次に出る目が分かってれば何でも出来そうでしょ。敵が次にどんな攻撃をするだとか、どこに弾が飛んでくるだとか、そんな『未来』の情報を知ってたら、自分の思うがままに事が運べそうじゃない?」
 咲夜はその話に聞き覚えがあった。
 つい昨日、主に聞かせてもらった幻想だ。それは偶然か必然か。
「──ラプラスの、悪魔」
「あれ、知ってたの? なーんだ、つまんないの」
 チルノは唇を尖らせ面白くなさそうに唸った。
「まあ、それなら話が早いわ。あたいは、あの悪魔を実現させようと思うんだ。世界を見通し、全てを解析し、そしてあたいは未来を得る」
「無理ね」
 雄弁に話すチルノに対し、咲夜はきっぱりと切り捨てた。
「私もちゃんと理解してるわけじゃないけど、それは不可能な話よ」
「へえ、なんで?」
「例えば一秒後の出来事を計算しようとした時、貴方は世界中を一瞬で見て回って、かつ一瞬で全部を計算し終える事が出来るのかしら。一秒後の未来が分かるのに百年掛かってたら、それこそ本末転倒じゃない」
 彼女は主から聞いた事をそのまま繰り返し、皮肉そうに笑った。
 この妖精がどこまで理解してるか分からないが、本気でラプラスの悪魔になろうとするなら失笑ものだ。
「ふうん、人間にしてはマシな質問ね」
 対してチルノは、それがどうしたと言わんばかりの態度で返した。その返答に咲夜は少し眉をひそめる。
「本当に意味が分かっているのかしら。時の流れというものがある限り、貴方の行動は全て時間に縛られる。何をするにも、必ず時間が掛かってしまうと言うのに」
 そう言うと、チルノはさぞ愉快そうに笑った。まるで咲夜の方こそが滑稽と言わんばかりの体である。
「あんたさあ、今まであたい達が何をしてたと思うのさ。今のあたいは、時間に縛られないんだよ?」
 言って、チルノが両手を真上に広げた。その瞬間、世界の時間が停止する。またも音は消え、全ての時間が凍り付いた。
 咲夜はその行為の意味が分からず首を傾げたが、すぐに何かに気付いた様子で目を見張った。
「ふん、気づいたようね。そうさ、そのための時間停止さ」
 そう、いくら観測に時間をかけようとも、どれ程長い方程式を解こうとも、時間が止まってしまえば一瞬すら掛からない。今のチルノには、それだけの事をやってのける力があるのだ。
 時間を止めて、世界を演算する。そして彼女は未来を知るのだろう。時を止めたその時間の間に、結果だけが頭に飛び込んでくるのだ。一瞬後の世界が、一瞬前に見えてしまう。究極の情報が、彼女の手の内にあった。
「これが、あたいの野望。名付けて、『ラプラスの妖精計画』だ!」
 全ての未来を見通して、あらゆる運命を掌握する。
 明日の天気も、一週間後の吸血鬼のご機嫌も、一年後に生まれてくる赤子の名前も。
 チルノは、世に起こる全ての事象を手に納めようとしているのだ。
 だが、
「……それでも」
 チルノを睨むように咲夜は口を開いた。彼女には、どうしてもそれを認めたくなかったのだ。
「それでも、全ての未来を知ることなんて出来るはずがない。未来は、今ここに存在しないから『未来』なんでしょう。情報だけとはいえ、未来に足を踏み入れる事なんて……」
「ふん、未来はそんなに神聖なものじゃないよ」
 チルノはそれをにべなく跳ね除けて言う。
「『未来』なんてのはただの言葉の綾だ。過去だって一緒。未来や過去なんて言葉は、次の現象か前の現象かに過ぎないよ。時間の流れなんて人間が作り出した概念、ただの基準。物体の運動を操るあたいが時間まで操れるのはそのせいだからね」
 そんなはずが、と咲夜は口を開きかける。しかしチルノがそれを制して、
「じゃあ一つ聞くけど、あんたは今この瞬間に何を見ているの? 『現在』の世界って言いたいわけ? けどね、さっきあんたが言ったように、人間がものを考えるのにも時間が掛かるわよね。同じようにあんたが目の前の物を見てそれを認識するまでにも時間が掛かってる訳だ。という事はさ、あんたが今見てる現実だって『現在の現実』じゃない訳でしょ? あんたが頭の中で認識した世界と、この瞬間に目の前にある世界は同じじゃない。現実でさえフラフラなのに、どうして未来を区別出来るのさ? あんたの言う『未来』ってのは、一体何?」
 咲夜は何も答えられなかった。
 ぐらり、と自分の心が揺れる音がした。時間を操る自分が時間に操られているような気がして、上手く体が動かせなかった。
 過去と現在、そして未来。自分が今見ているのは一体どれなのだろうか。自分が守ろうとしている紅魔館の未来は、本当に未来なのだろうか。
──未来とは、何か?
「……ッ」
 凍り付いた両足に走る痛みで、咲夜は思考の海から抜け出した。
 頭を振って、目の前の敵に集中する。彼女は余計な考えを頭から捨て去り、しっかりとチルノを見つめた。
 当のチルノは気が済んだとばかり、浅く息を吐き肩の力を抜いた。
「ま、こんな話してもしょうがないんだけどさ。天敵のあんたに最後のお土産ってところね」
「天敵?」
「そうよ。あんたがいると、この計画がおじゃんになっちゃうからさ」
「別に、今更になって貴方の邪魔をする気はないわよ。私はもう負けたのだから。未来予知の計画だか何だか知らないけれど、勝手にやればいいじゃない」
「ところが、そうもいかないんだよね」
 不意に、チルノは声色を落として言う。
「この計画にはさ、あんたの存在自体が邪魔なんだよ」
「私の、存在?」
 咲夜はその言葉の意味が分からず怪訝の色を見せる。
 自分自身が彼女の計画を破綻させてしまう存在なのだという。それはどうも行動ではなく、存在そのものだという。存在自体が問題ならば、それは特性か。
 十六夜咲夜という存在、特性──能力。
 咲夜ははっとして顔を上げた。
「そう……そういう事なのね」
 ここでようやく彼女は、今日これまでのチルノの行動を全て理解したのだ。
 この計画を成り立たせるには無くてはならないものがある。それは、あくまで自分以外の何もかもが時の流れに逆らわずに進んで行く、という大前提だ。
 常識的に考えれば、誰も何も時間に逆らわない。物体はただそこにあり、ただ時間に身を任せるがままに運動する。あらゆる生命も、時間のままに生まれ、育ち、死ぬ。この世界で、時間の流れに逆らうものなど何も無い。
 ただ一人、十六夜咲夜を除いては。
「貴方の狙いは、最初から私だけだったという事かしら」
「だから最初に言ったじゃん」チルノはやれやれと手を軽く振った。「あんたを倒す事が、計画の中身だって」
 時を操り、時間流を塞き止める不穏分子。そのイレギュラーこそが十六夜咲夜だ。
 だからチルノは紅魔館を狙ったのだ。神の力を得てこの計画を練った直後に、彼女は計画の障害である咲夜を排除しようと決めたのだろう。たとえ何万光年離れていようと、自分の計画を破綻させてしまう存在である彼女を。
「ま、安心しな。別にあんたをメッタメタのギッタギタにするわけじゃないからさ。そりゃあ動かなくさせるのが一番手っ取り早いけど、転生してまた同じ力を持たれると厄介だからね」
 ただ、とチルノは言葉を続けて、
「あんたには永遠にこの世と隔絶してもらうけどね。イベントホライズンにでも叩き込んでおこうか」
 ブラックホールの中心を囲むある領域。光さえも外に抜け出せないその領域では、未来永劫にわたって外界とのと因果関係を断ち切られる。まさに完璧な牢獄だ。
 チルノは両手を広げ咲夜に向けた。掌で凝縮された冷気が零れ、チルノの周りに渦を巻く。その脅威は今にも放たれようとしていた。
「さて、おしゃべりはここまでだよ」
「……くっ」
 咄嗟に逃げようとするが、氷に封じられた足は動かない。咲夜は自らの不甲斐なさに唇を噛んだ。
 ここで、終わってしまうのか。せめて、もう一度戦う事が出来れば。
 そんな幻想を思い浮かべながらも、彼女は最後までチルノを真正面に見つめていた。
 チルノが無慈悲に笑った。
 勝利を確信した顔で、彼女は子供のように無邪気に笑っていた。
「今ここで、全ての可能性は死に絶える! あたいの世界で──もう二度と、波動関数が生まれる事はない!」
 その手が、溢れんばかりの冷気を捉える。
「終わりだっ!」
 両手を咲夜に向け、その力を開放しようとした。
 その瞬間、

ぼこっ

 どこからか、くぐもった音が聞こえてきた。
「……あ?」
 チルノが構えたまま、素っ頓狂な声を上げる。

ぼこっ、ぼこっ

 咲夜の耳にも、確かにその奇妙な音が聞こえて来た。
「何よ、この音は?」
 状況が分からず、チルノは動揺に囚われる。しかし彼女がどこに目を動かしても、その音の正体は掴めない。
「な、何よっ、一体何なのよっ!?」
 無我夢中であたりにツララを放つ。しかし音は消え失せない。それどころか、ますます大きく、さらに近づいて来るばかりだ。
 そして数秒後、咲夜は自分の目を疑う事になった。
 チルノの足元から、巨大な水柱が勢いよく吹き出したのだ。
「のわぁあああああっ!?」
 避ける間もなく、チルノは驚愕の声を上げながら空高く吹き飛ばされた。
 咲夜は目の前の状況に思考が追い付かなかった。ポカンと口を開けたまま出来た事は、ロビーの端から端までふっ飛ばされたチルノをただ見つめるだけだった。
 突然、呆然とする咲夜の上から声が降って来た。
「──ふう、危機一髪ってところかな」
 咲夜は放心から抜け出し上を見上げる。その声の主は、吹き上げる大木のような水柱の上に直接立っていた。
 この未来を誰が予想したのだろうか。誰がこの未来を実現させたのだろうか。
 現れた少女は、朗々とその声を響かせた。

「私、参上」

 土着神の最頂点。
 洩矢諏訪子がそこにいた。
「よっと」
 諏訪子は軽く跳ねて水柱から飛び降りた。
 それに合わせるかのように、吹き上がる水も着地と同時にぴたりと止まった。
「やあやあ、大変な事になってるみたいねぇ」
 軽く手を振り、花見を見物しに来たかのように彼女は呑気に歩いて来た。
 咲夜はこの少女に見覚えがあった。博麗神社の宴会に誘われた時、遠目ながらも二、三度見かけた事があったのだ。
「洩矢諏訪子……だったかしら。山の神社の一柱をやってるって言う」
「お、知ってたの? うんうん、これも早苗の努力のおかげかねぇ」
 頷きながら、諏訪子はいつの間にか大きな鉄の輪を取り出していた。
 それを大きく振りかぶり、咲夜の足元を目掛け振り下ろす。小気味いい音がして、咲夜を束縛していた氷の枷が壊れた。
 自由になった足を二三度ばかり振ってみる。痺れたが動けない程ではない。彼女は礼を言って立ち上がった。
「それで、どうして貴方がここに?」
「ああ、あっちの妖精に用があってね」
 諏訪子はあごをしゃくって後ろのチルノを指した。
「もう知ってるかもしれないけど、あの妖精が急に力を付けたでしょ?」
「……何か、ご存知で?」
 咲夜は声を落として尋ねる。諏訪子は小さく頬をかいて答えた。
「どうも、神奈子があの妖精に力を与えたみたいでね」
 神奈子、という名前も咲夜の朧げな記憶の中にあった。
「それも、貴方のところの神社の神ね。力を与えたって言うのは?」
「そのまんまだよ、神の力さ。といっても取り込んでるんじゃなくて、多分神奈子が力を貸してるんだと思うんだけど」
 どこか腑に落ちない言い方をする諏訪子を訝しみながら、咲夜は先程のチルノの言葉を思い出していた。
──他の神様が、わざわざあたいのとこまでやって来て神の力をくれたんだからね
 つまりチルノに力を与えたのは、その神奈子とかいう神なのだろう。
「その神奈子とかいう神様は、どうしてあの氷精に力を貸したのですか?」
 咲夜が尋ねると、諏訪子は少し苦々しい顔付きを見せて、
「それが私にも分からないんだ。まるっきり神奈子の独断なんだよ」
「独断?」
「そう。理由を聞こうにも神奈子がどこにも居なくてさ。で、力を与えても大丈夫な奴かどうかを確かめに来たんだけど」
「このザマ、ですか」
 咲夜の視線の先で、ロビーの壁にしこたま頭をぶつけたチルノが呻いていた。端から端からまで飛ばされたので、その衝撃はかなりのものだったのだろう。
 諏訪子が呆れるように溜息をついた。
「ありゃ完全に暴走してるね。力に溺れて、己を過信してる」
「そうですね。ロクでも無い事を考える程はありますわ」
「色々話したい事はあるけど……とりあえず」
 諏訪子はゆっくり振り返り、ロビーの端のチルノを見据える。
「あの妖精をぶっ倒す事から始めようか」
 そう言って、諏訪子は不敵に笑った。
 チルノが頭をさすりながらゆっくり立ち上がった。振り返り、こちらをきっと睨み付けるが、その目の端には情けなくも涙が溜まっていた。
「ふ、不意打ちなんて姑息な手をっ!」
 チルノは顔を朱に染めながら諏訪子に噛み付いた。頭からは湯気を上げながら、しかし周りには恐ろしいほどの冷気を撒き散らしている。一触即発。チルノは今にも諏訪子に飛び掛りそうな具合だ。
「あんた、蛙の親玉ね。蛙達の復讐に来たんだろうけど、すぐに返り討ちにしてやるわ! あんたなんて宇宙ひもでお尻ペンペンの刑だ!」
「ふん、浅薄な妖精が。やれるもんならやってみなさい」
 猛るチルノを前にして、諏訪子は余裕を失っていなかった。端然と腕を組んだまま、彼女は真っ直ぐとチルノを見つめ返している。
「何か、勝機があるんでしょうか」
 期待して問うと、諏訪子は視線だけを後ろに向けて言う。
「勿論だよ。神の力を分けてもらったからって、所詮は妖精だ」
「では……」
 ああ、と諏訪子はゆっくり頷いて、
「私に任せておきなさい」
 そう言って、力強く足を踏み出した。
「妖精はただの自然の一部でしかない。それで神に勝とうとするなら、思い上がりも甚だしいね」
 彼女はチルノと向かい合い、不敵な笑みでチルノの威圧を制す。
 チルノは負けじと睨み返すが、その気迫はややも後退しているように見えた。
──勝てる、の?
 ひょっとすれば同じ神なら相手に出来るのかもしれない。時間を操る能力を前にして、これ程の余裕に構えているのだから。
 誇る諏訪子の様子に、そんな咲夜は希望を見ていた。
「そう、たかが妖精だ。いくら強くなったところで──」
 そして、諏訪子は追い打ちをかけるように、勝ち誇った様にその言葉を口にした。
「──冷気を操るだけじゃ私には勝てないからねぇ。ふふん」
 一瞬、三人の間にえも言わぬ空気が流れた。
「……え?」
「……ん?」
 咲夜とチルノは同時に声を漏らし、そして同時に同じ推測に至った。
──もしかして、時を止められる事を知らないのか
 そこから先に行動に移したのはチルノの方だった。
「……止まれ」
 ぼつり、とチルノが呟く。
 世界の時間が一瞬にして凍り付く。
「──」
 静寂が訪れる。咲夜はもう一度、目の前の光景を再確認する。
 胸を張ったままの姿勢で、諏訪子はあっさりとその時を止められてしまっていた。
「……は?」
 なす術もなく時間を止められた諏訪子を見て咲夜は絶句した。
 混乱と呆然、彼女の心が渦を巻きつつある中で、
「とりあえず、仕留める!」
 突進するように、チルノが諏訪子に襲いかかった。
「ッ! ああもう!」
 ほぼ反射的に、咲夜は動かぬ諏訪子の腰元を掴み、その小さな体を脇に抱える様にして飛んだ。そのまま一番近い扉を押しのける様に開き、廊下へ飛び出した。
「こら、逃げるなっ!」
 ぎりぎり飛行が出来る廊下を通って、チルノが後から追いすがる。とは言っても、このまま諏訪子を抱えて戦う事はほぼ不可能だったので、咲夜にはこの一手しか無かった。
「──へ? あれ?」
 そこでようやく時間が動いた。周りの一変した状況を認めて、諏訪子が疑問の声を漏らす。
「あれだけ期待させておいて、このザマですか」
「え、何? なんで私抱えられてるの?」
 腰元でばたばたと手を振る諏訪子に、咲夜は溜息で以って返した。
「簡潔に申し上げます。あの氷精は、私と同じ時間を操る能力を持ってまして、貴方はこの世界ごと時間を止められたのです」
「時間を止める? あはは、バカ言っちゃいけないよ。いくらなんでも──」
 言い終わる前に、咲夜は時を止めた。
 諏訪子を抱えている手の反対の手だけで、咲夜は諏訪子の髪を三つ編みに編んでみせた。そして再び諏訪子の時間が動き出す。一瞬のうちに変わった自分の髪型を見て、諏訪子は絶句した。
「ご理解頂けましたか?」
「……お、おーけい」
 流石にこの奇術を信じざるを得なかったようで、諏訪子は自分の三つ編みをびよんびよんと引っ張りながらこくこく頷いた。
 咲夜は後ろを振り返り、飛んで追いすがるチルノの姿を認めた。廊下がずっと直線ではないだけまだマシだが、この分ではいずれ追いつかれてしまうだろう。
「うーむ」
 暫く黙り込んでいた諏訪子だったが、やがて数度こつこつと指で額を叩くと。
「時間を操る、ねえ……にわかには信じ難いけど、確かに時間を止められたとしか思えない事をやってるね。うん、信じるよ」
 どうやら彼女は現状を受け入れたらしい。理解が早くて助かる、と咲夜は安堵した。これも日本の神の気質なのだろうか。
「よし、状況は分かった」
「え? あっ、ちょ、ちょっと?」
 突然咲夜が慌てた声を出した。というのも、小脇に抱えていた諏訪子が、飛んでいる咲夜の脇から抜け出し、器用に体を伝って咲夜の肩に座ったのだ。
 いわゆる肩車という格好である。
「重いんですが」
「この方が楽でしょ? さて、ここからどうするかだけど」
 諏訪子が振り返ると同時に、チルノは二人に目掛けツララを放った。咲夜は後ろを一瞥しただけでそれを躱す。
「決まってますわ。後にも先にも、あの氷精を倒す事が最優先です」
「だね。それじゃあ役割分担といこうか」
 咲夜の肩に座りながら、諏訪子はぴんと指を立てる。
「どうやらあの妖精と貴方は、その時間が止まった世界とやらで動けるらしいから、私はどうする事も出来ないね。その間、貴方は私を肩車で運ぶ。私は何とか限られた時間で攻撃しようとしてみるさ。それでいいね?」
 咲夜はしっかりと頷いた。了解とばかり彼女は飛行する速度を上げる。廊下の角で壁にぶつかりそうになりながらも何とか曲がり切った。結果、チルノとの距離がやや開けた。
「じゃあ──反撃させてもらおうかね」
 諏訪子が肩に座ったまま後方へ身を捻り、先程の曲がり角から飛び出したばかりのチルノの姿を捉えた。
 両手を合わせ、神力を練り上げる。幼い瞳が妖しく笑う。
「『蛙狩──」
 敵に放つは、神代の坤。
「──蛙は口ゆえ、蛇に呑まるる!』」
 直後、館中に響く地響きと共に、巨大な岩石の蛇が床から姿を現した。
「ぬあっ!?」
 追いすがるチルノが素っ頓狂な声を上げる。無理も無いだろう、廊下にほとんど隙間無く埋まるくらいの巨蛇が、いきなり地面から飛び出して来たのだ。
 ガリガリガリと凄まじい音と火花をあげてその巨体が壁を削って行く。巨蛇は大口を開け、チルノを喰らわんとばかり突進した。
「や、やばっ!」
 咄嗟にチルノは時間を止める。一瞬安堵の表情を見せるが、すぐに何かを悟った様に焦りの色が浮かぶ。この場合において、時間停止その場凌ぎの手段でしかない事を思い知ったようだ。
 時間が止まり硬直した諏訪子を背負って飛びながら、咲夜もまたその状況を把握していた。
──あれじゃ、時を止めても逃げ場はないわね
 そう、チルノがあの巨蛇を避ける隙間はどこにも無く、近くに逃げ込める様な部屋もない。となれば残された選択肢は二つ。蛇を狩るか、潰れた蛙になるかだ。数十秒の時間が止まった世界の中で、チルノは今や窮鼠ならぬ窮蛙へと追い込まれた。
 だがその窮地で、チルノは何かを悟ったかのように双眸が光を宿した。
 チルノは巨蛇に近づき蛇の岩肌に手を合わせる。するとそこから、辺りに耳鳴りのような音が響いた。
「何を──?」
 咲夜の位置からは蛇の巨体が邪魔になって良く見えなかったが、その音源はどうやらチルノが手を触れている場所であるようだ。
 あと数秒もしない内に時が動き出すというところで、チルノは巨蛇から手を離した。しかし彼女は逃げようともせず、静かに構えて巨蛇を見据えている。
 時が再び動き出し、世界に音が舞い戻る。
 チルノを押し潰すはずだった巨蛇の体が、ベシャッと水っぽい音を立て泥のように崩れ去った。
「うえぇ?」
 蛙が潰れた音のような声を喉から出したのは、時間と共に動き出した諏訪子の方だった。攻撃を潰された諏訪子同様に、咲夜も一驚を喫する。
「あれ、何したの?」
「分かりません。ただ、何かキンキンと高い音を出してたような気がしますが」
「高い音……高周波?」
 諏訪子は喉を唸らせる。泥水となった巨蛇と、その泥溜りに立つチルノを交互に見比べ、そこで気付いた。
「固有振動数を与えて……いや違う、これは液状化か!」
 温度を操るとは、つまり物質の運動を操る事に他ならない。それは振動も同じである。
 チルノは巨蛇の体に高周波振動を与える事で物体の結合力を減少、その基である岩石の剪断応力を無にし、液状化に似た現象を誘発させたのだ。
「あれも、神の力なんでしょうか」
「いや、あの妖精の能力自体は物体を操る程度に収まっている。幻想的な力はあくまで下地に過ぎない。ただそれが、途轍もない精度と力学的な応用力だけで、神の力に拮抗しているんだ──と、来るよっ!」
 耳元の諏訪子の叫び声で咲夜は我に返る。見ると、チルノがこちらに向かって勢い良く地を蹴ったところだった。
「ちっ!」
 咲夜は諏訪子を肩に乗せたまま再び逃走を始めた。いつまでも逃げ続ける訳では無かったが、一対一でも勝ち目が無い以上はこうするよりは他はない。
「それにしても、よく分かりますね」逃げ続けながら、咲夜は諏訪子に問い掛けた。「相手の能力を一目で見抜くなんて、やはり神は全知という事で?」
「全知というか、これは神様の性質みたいなもんだね。今はこうして貴方とも触れ合ってるけど、元々神ってのはどっちかっていうと物質よりも精神寄りの場所にいるから、物事の本質に繋がり易いんだよ。物質を介さず世界に触れられるからね。だから、相手がどう世界に干渉してるかはすぐに分か──」
 うげっ、と振り返った諏訪子は声を漏らした。
「あー、ありゃ、ちょっとマズイかも」
 頭の上で諏訪子が唸った。つられて咲夜が後ろを振り返る。
 そこには後方から追いかけて来るチルノの姿がある。だが奇妙な事に彼女は飛行をしていない。よく見ると、彼女は地に足を付けて走って──いや、滑っていた。
 チルノは氷で作った自前のスケート靴を履き、あろう事か前方の床を凍らせながら廊下を滑走していた。その速度は、諏訪子を肩車して飛行する咲夜よりも速い。
 廊下の角に差し掛かった。あれでは曲がり切れまい。その咲夜の考えとは裏腹に、チルノは思いもよらぬ行動に出る。
「はあっ!」
 チルノは前方の角に勢い良く冷気をぶちまけると、曲がり角の壁を滑らかな曲線を描く様に凍らせた。そして、なんとその氷壁を滑る事で速度を落とさず曲がって見せたのだ。
 ほうと関心したように諏訪子は息を吐く。それは賛辞が敵意か、続けて彼女は柏手を打ち大気を震わせた。
 すると、後方の両側の壁が音を立てて迫り出し、咲夜の身の丈ほどある岩石の双掌がチルノを握り潰さんと迫った。掌がチルノを挟み込む──その寸前、時が止まった。そこでほくそ笑んだのはチルノだ。咲夜と彼女だけが、依然として世界に残っていた。
 やがて追跡は終わりを迎える。そこから二回目の曲がり角で、ついにチルノは咲夜達に追い付いた。
 チルノが瞬時に氷の剣を生成し、右手を大きく振りかぶる。咲夜が何とか躱そうと身を捻ったところで、時が動き出す。
 そこで、諏訪子がぽつりと呟いた。
「ぴったり、だね」
 直後、諏訪子の掌から勢い良く水流が噴き出した。
「ぅわぷっ!?」
 まともに激流を受けたチルノは、その勢いのまま横の壁に叩きつけられた。振り返り、咲夜が足を止める。
 諏訪子はあらかじめ時間停止を予測していた。チルノが時を止める瞬間を見計らって、真正面に水流を穿つ。その結果、時が動き出すと同時に彼女の攻撃が発生したのだ。
 チャンスだ。咲夜は即座にナイフを取り出し、無防備になったチルノへと接近する。諏訪子も同じ事を考えていた様で、いつの間にか取り出した鉄輪を片手に、咲夜の肩から跳躍していた。
 時間停止は連続では行えない。逃げ場は無いと見て、チルノは歯を食いしばり握ったままだった氷剣を前に構えた。
──苦し紛れか
 咲夜と諏訪子の二人は勝機を見た。勢いを殺さず、僅かに攻撃のタイミングをズラして左右からの挟撃を図る。同時に掛かられるよりも対処が難しい二段構えだ。
 しかし、この絶体絶命とも言える状況で、チルノの瞳はむしろ氷の様に冴えていた。
「舐める、なぁっ!」
 肺の空気を全て吐き出すかの様に吠えると、指先をついと刀身の側に滑らせる。それを刃先から柄までなぞり終えると、チルノを取り巻く空気の流れが変わった。
 先に飛び出した諏訪子の鉄の輪がチルノに襲いかかる。練り上げたとはいえ所詮はただの氷。その鉄の輪は彼女の氷剣を粉砕する──はずだった。
 衝突は音も無く終わった。
 チルノの氷剣が、諏訪子の鉄輪を真っ二つに切断したのだ。
 諏訪子の顔が驚愕に染まる。返す刀で振られたチルノの攻撃を躱したのはほとんど僥倖だった。
 間合いを詰めた咲夜も同じように虚を突かれるが、しかし攻撃の手を休めない。続けざまにチルノの肩口をナイフで斬り掛かろうとして、
「ダメだ、近づくなっ!」
 諏訪子の怒号。咲夜は反射的に硬直する。チルノがこちらに視線を移すのと同時に、体が本能的に飛び退った。
 氷剣が水平に薙ぎ払われる。それは咲夜の腰元低くで宙を切った。
 だが次の瞬間、あろう事か避けたはずの咲夜の太腿から、鎌鼬を受けた様な切り傷が浮かび上がった。
「ッ!?」
 幸い、それは皮膚を薄く切っただけで済んだ。しかし痛みよりも戦慄がそれに勝り、その動揺が咲夜の身をびくりと強張らせた。
 三人の間に刹那の空白の時間が訪れる。チルノが冷たく笑い、ゆっくりと体を傾けた。
「させるかぁっ!」
 チルノが行動を起こすよりも早く、諏訪子が動いた。
 横っ飛びで咲夜に近づき、着地と同時に地を叩く。一瞬にして、二人とチルノを別つように足元から石壁がせり上がった。
 ガン、と岩盤がぶつかる音が廊下に反響する。その石壁の上端が廊下の天井に達するのと、チルノが時を止めるのは同時だった。
 そこでようやく咲夜の足が動いた。時間の止まった諏訪子を抱え、石壁と反対方向に駆ける。少し遅れて、チルノの手によって石壁が砂塵に帰した。
「今のは……」
 咲夜はひりひりと痛む太腿に触れる。確かに氷剣は当たっていない。ならばこの切り傷は一体何か。
 数十秒ほどして再び時間が動き出す。ぷは、と諏訪子が緊張を吐き出すかのように声を出した。
「今度は振動剣か。いよいよ架空武器の範疇だね、ある意味幻想かも」
「振動? そんな動きは見られませんでしたが」
「目に見えないくらいの速さなんだろうね。刃を高速振動させて切削力を上げているんだ」
 諏訪子は一度の攻防で氷剣のカラクリを見切っていた。だからこそ、彼女は咲夜の攻撃を中断させたのだ。
 刀身が触れずとも、空気を裂いただけで皮膚を裂く威力。あのまま行けば、チルノを倒せるかはともかく咲夜は無事では済まなかっただろう。
「金属ならともかく、水分子の結合を維持しつつ振動を乗せるなんてどんな剛性の保ち方をしてるのやら……それにしても」
 そこで諏訪子は言葉を切り、咲夜をまじまじと見つめた。咲夜が首を傾げて視線を返すと、諏訪子は感心したように口を開く。
「よくあんなのと一対一で戦ってたね。その時間を操る能力とやらがなかったとしても、十分手強い相手だと思うけど」
 言われて、咲夜は言葉を濁した。彼女の頭に、捉え切れない疑問が浮かび上がってきたのだ。
──何故、これほど急激な成長を?
 最初に巨蛇を相手にしたときもそうだ。勿論、咲夜はチルノが操る力の原理はよく分かっていない。しかし、先程ロビーで戦った時のチルノでは、おそらくあのような芸当は出来なかっただろう。
 確かにチルノは戦いの中で成長している節はある。だが、諏訪子が参戦してからの成長ぶりは違和感すら感じてしまう程だ。
 窮鼠猫を噛むとは言うが、あまりにも飛躍し過ぎている。一体、何が彼女をここまで引っ張り上げたのか。
「まあでも、少しやりすぎだね」
 不意に、諏訪子がぽつりと呟いた。
 後方のチルノを見遣る彼女は、無味ながらも雰囲気は穏やかではない。
「冷気や鈍らな氷ならともかく、ちょいとハシャぎ過ぎだ。一線を踏んじゃったね。あんまりやりたく無いけど、こうなりゃもう手段は選ばない」
 小脇に抱えた諏訪子の顔を見て、咲夜はぞっとした。
 先程までのあどけない調子は消え去り、瞳は深淵のように暗澹として底が無い。疫病を止める為に人を殺すとでも言うかのような、無機質な目だった。
「ごめん。先に謝っとく」
 彼女は口を開いた。
「館、壊すわ」
 そう言って、諏訪子は咲夜から離れた。
 床に着地。毅然とチルノを見据えて立ち上がると、静かに両手を合わせる。足元から、絶望の塊のような不自然に暗い靄が漏れてきた。
 チルノとの距離が十メートルを切った。そしてこの時、咲夜は始めて神の力の深淵を見る事になる。
 諏訪子が短い呼吸と共に、地面を叩く。凄まじい轟音が辺りを包み、
 廊下そのものが、粘土細工のようにぐにゃりと歪んだ。
「あっ──」
 チルノが息を呑んだ。彼女に出来たのは、ただそれだけだった。
 ぎゅるり、と廊下の壁が飴細工の様に内側に捻じ曲がった。チルノを中心にした半径十メートル以内。その床、壁、天井のありとあらゆる全てがたわみ、ひしゃげ、捩れた。
 全てが一瞬だった。新聞紙で湯呑みを乱暴に包む様だと咲夜は思った。耳をつんざくような音と共に、周りの風景ごとチルノは土石に包まれ潰される。
 彼女の姿が見えなくなってから、ようやく時が止まった。チルノが止めたのだろう。だが咲夜にはもう憐憫の情しか湧いてこなかった。
 繭のようになった目の前の岩の塊からは何の反応もない。そのまま数十秒が過ぎ、再び世界が時を刻み始めた。
 攻撃はそこで終わらない。チルノを包み込んでもなお、館の一部を引き千切り、巻き込んで行く。嵐が内側のチルノに向かって突進しているような有様だった。
 ついに壁が全て剥ぎ取られ、館の外の風景が見えた。それでも諏訪子は顔色変えず、動かない繭の上に岩石を何重にも塗り固め、押し潰す。磁石に鉄が引き寄せられるように岩石が内へ内へと凝縮していく。人の意思があるとは思えないほどのあまりに機械的な光景に、咲夜は掛ける声すら失っていた。そこにはただ、岩と岩がぶつかり合う音だけが辺りに響いている。
 攻撃が止んだのは、紅魔館の十分の一が瓦礫になった後だった。
「あー、やっぱりごめん。やり過ぎたかも」
 溜息をつき、諏訪子が声を緩めて言った。
 返事を返さず、咲夜はただ、チルノを埋め尽くした岩の塊を見つめていた。丈が十メートルはあろうそれは、檻にしては少し大き過ぎるように思われた。
 それを非と捉えたのか、諏訪子はぱたぱたと手を振る。
「えっと……一応、館の住人を位置を察知して、巻き込まないようにしたんだけど。やっぱダメだった?」
「……いえ、これくらいは仕方ありません」
 そこでようやく咲夜は調子を取り戻し、諏訪子に言葉を返した。
「後の事を考えて手間取るより、手早く終わらせた方がいいでしょう」
 よく考えればそうだ。倒す手段があるなら、使わない手は無い。本気を出さずに戦闘を長引かせるなど下手な小説だけでいい。その分被害は大きかったが、こうなって止むを得ないだろう。
「あ、そう? いやね、やっぱり加減が出来ないし、相手もタダじゃ済まないからさ。まあ妖精だからいいかなって」
 諏訪子は頬を掻いた。穏やかさが戻った雰囲気に、咲夜はようやく終わったのだと実感する。
 彼女は物言わぬ岩の塊を見た。これが事の結末かと思うと、少しばかり気が抜けてしまった。
──こうなってしまうと、呆気ないものね
 岩の塊の中押し潰されているであろうチルノを想像しながら、咲夜はどこかぼんやりとした様子で岩の塊を眺めていた。中身はさぞスプラッタな有様になっているかもしれないが、掃除をしなくていいのは楽だと思った。
「さてと、ケリがついたところで後片付けといこうか」
「そうですね。まずはお嬢様達の氷を溶かす事から始めましょう」
「それと館の修復かね」
 諏訪子は廊下を見回した。長い通路のほとんどの壁が剥ぎ取られ、外の風景が広々と見渡せるくらい開放的な空間になってしまっている。外から見れば老朽化した劇場のようになっているだろう。
 ここで、諏訪子の側にからからと小石が転がって来た。彼女はそれを拾い上げら苦笑いを浮かべる。
「割と乱暴に巻き込んだからねぇ。いつ崩壊してもおかしくないところが──」
 ふと、上を見上げた諏訪子が唐突に言葉を失った。不審に思った咲夜は振り返って声を掛けるが、返事は無い。諏訪子は顔を上げたまま呆然としていた。咲夜もまたその視線の先に目をやる。そこには先程までと相変わらず、チルノを押し潰した岩の塊が黙しているだけだった。
 だがその沈黙は、岩塊に走った一筋の亀裂によって打ち破られた。
「……!」
 変化はそれに留まらなかった。亀裂はゆるやかに縦に伸び深さを増していく。大木の枝がさらに枝を生やすように亀裂が亀裂を生じ、乾いた音と共に周りの岩が剥げ落ちる。転がる岩片が咲夜の足にぶつかった。
 岩塊に一際大きなヒビが裂開する。それが合図であるかのように、瞬く間に全身に亀裂が広がった。
 深く鈍い音が轟き、ついに岩塊は砕け散った。
「──やってくれたわね」
 そして、不敵な笑みを浮かべたチルノが、瓦礫の中から再び姿を現した。
「……うっそだぁ」
 そう零したのは諏訪子だった。
 自失から一回りして気の抜けた声になっている。それほどまでに、今の彼女にはこれが現実だとは思えなかったのだ。
「あり得ない。いくら物体の運動を操れるからといって、あの圧力に勝てる訳が……」
「ふん、あんたの力はとっくにお見通しなのさ」
 呆然とする諏訪子を見て、チルノが鼻をならした。
「ずばり、磁力でしょ。というよりも、物質を磁石にしたと言った方がいいかしら。ただの強磁性じゃなくて、多分モノポールかな。しかもその磁束を無理矢理に濃縮したってところかな」
 諏訪子は何も言わない。その沈黙を肯定と捉え、チルノは話を続ける。
「それが分かれば後は簡単よ。どんなに強い磁力だろうと、同じ力で返してやればいいだけの話さ。あたいの冷気が、超伝導を可能にする」
「まさか」諏訪子は信じられないといった顔を見せた。「マイスナー効果で磁場を退けたっていうの? 仮にそうだとしても、あの一瞬だけで私が物体に磁性体に変えたのを見抜い──」
 その時彼女は、まるで自分自身の言葉に胸を突き刺されたように「あっ」と声を漏らした。
「そうか、貴方も神の力を持ってるんだったね。こりゃ、失敗したかな」
「失敗?」
 二人のやり取りを見ていた咲夜が口を開く。ああ、と諏訪子は頷いて、
「さっきも言ったよね? 神は物事の本質を突く力を持っている。だから、見ただけで何がどう働いているかが分かるんだ。そして、それを理解してしまう。自分の知らない事でもね」
 ここでようやく咲夜は気付いた。
 この戦いでのチルノの不自然な成長。それが今、はっきりと裏付けられたのだ。
 元々、チルノは神の力を与えられただけだった。それはつまり、赤ん坊が火薬とその取扱書、そしてその取扱書を読む為の辞書を渡されたようなものだ。あくまでも、火薬を使って何が出来るかを教えていない。
 だから最初、チルノは冷気を操る能力の補強にしか使えなかった。時間停止は、妖精と神の力が合わさった結果の副産物に過ぎない。
 しかし彼女は諏訪子に出会ってしまった。諏訪子の神の力、そしてそれをどう扱っているか。戦いを通してそれを理解し、自らの糧とした。冷気から離れた物体の運動制御はその結果だ。皮肉にも、諏訪子は戦う相手に力の使い方を教えてしまっていたのである。
 その結果が、目の前の光景だ。
「さて──あたいの番かな?」
 空気が急激に冷え込んだ。咲夜達の雰囲気を一変させたのは、深く響いたチルノの声だ。豹が獲物を前にして笑ったらこの様な顔になるだろう。
 今の自分に何も怖いものはない。態度がそう示していた。実質、今この場でそれを否定する術を咲夜達は持たなかった。
 二人は動かない。否、動けない。その眼はしかりとチルノを捉えて離すまいと睨んだ。
「五秒、時間を稼げるかい?」
 チルノと対峙した姿勢のまま、諏訪子はぽつりと呟いた。
「その間、何とか手を打って見る。とりあえず、この状況は不味いからね」
「……了解しました」
 咲夜がナイフを両手に構える。待っていたと言わん顔で、チルノは静寂を解いて興奮を露わにする。彼女にとっての狩りが今始まろうとしている。
 咲夜の左手からナイフが放たれた。それが合図とばかり、チルノが弾丸のをように飛んで来る。チルノは易々とそこナイフを撃ち落とした。
 だが、チルノが咲夜に手を翳したその時、
「──今よ、美鈴っ!」
「えっ!?」
 咲夜の叫び声に、チルノの余裕が一瞬にして崩れた。
 チルノは縫い付けられたように空中で硬直した。慌てて後ろに視線を飛ばし、振り向きざまにツララを数発。一瞬で氷の盾を形成し、防御の姿勢をとる。
 しかし、肝心の敵は彼女の視界のどこにも居なかった。あたふたと周りを見渡しても見つからない。ようやく冷静を取り戻し、チルノはゆっくりと振り返る。
「そうよ、門番はさっきあたいが──はっ!」
 振り返った瞬間、彼女は気付いた。
 ハメられた。それも、最も古典的な方法で。
「ちっくしょおおおっ!」
 雄叫びを上げるチルノの目の前で、床に空いた大きな穴が静かにと閉じて行った。


「いやはや、逃げるのが精一杯か」
 二人が辿り着いた場所は、紅魔館の地下にあるフランドールの私室だった。
 明かりの少ない薄暗い部屋。ファンシーな人形達。いつもは薄気味悪いと感じるのだが、この時ばかりはそんな事を気にする余裕が咲夜には無かった。
 ここが一番良さそうだったから、と諏訪子曰くである。単に一番近いという理由だけらしい。特に反論はしなかった。フランドールがあの時までチルノの手に掛からなかったという事は、チルノはまだこの部屋を知らないのだろうと思い当たったからだ。
「とりあえず、はいこれ」
 諏訪子は胸元から数個のお守りを取り出し、それらを咲夜に渡した
「うちの神社特製のお守りでね。小さな傷や疲れくらいなら癒してくれるよ。貴方、結構無理してたでしょ?」
 その言葉に咲夜は頬を緩ませて、「気付いてましたか」と苦々しく笑った。
 実際、彼女はひどく疲れていた。度重なる戦闘と逃走によって、身も心も消耗し切っていたのだ。目立った傷はないものの、よく見れば小さな掠り傷や切り傷で肌は荒れ、顔色も少し弱い。上手く隠していたつもりだったが、諏訪子はあっさりと咲夜の憔悴を見抜いた。
「それが神様だからね。ま、これからの作戦も色々考えなきゃならない訳だし、今は休憩しようか」
 諏訪子はベットを見つけると勢いよくダイブした。「洋風もいいねぇ」などと言いながら子供のようにベットを跳ねる彼女を見て、先程までの張り詰めた咲夜の緊張はするすると解けてしまっていた。
 側にあった椅子に腰掛ける。諏訪子から貰ったお守りを胸に当てると、途端に暖かい光が咲夜の体を包んだ。纏わり付くような体の嫌な重さが、少しマシになった気がした。
「さっきの話ですが。何故その神奈子とかいう人は、あの氷精に神の力なんてものを与えたのでしょうか」
 気分を落ち着けた後、咲夜は寝転がっている諏訪子に尋ねた。
「ん? んー……えっとね」
 よっこらせ、と諏訪子は身を起こして胡座をかいた。
「……うん、やっぱり分からないねぇ。神奈子はなーんでこんな事をしたのかな。私はこのところずっと間欠泉地下センターに通ってたから、最近の加奈子の様子を知らないんだけど」
「心当たりとかは? 貴方がここに来たのも理由があっての事では?」
 諏訪子は首を横に振った。その表情は暗い。彼女はそれまでの経緯を話した。
 諏訪子の話はこうだ。今朝、軒先の蛙どもが急に騒ぎ出した。それにつれられて霧の湖に駆けつけて見れば、そこの蛙たちのほとんどが氷漬けにされていたではないか。僅かに残ってた蛙に聞くと、どうやら湖の氷精の仕業らしい。しかも、その場所には神奈子らしき神力の気配が残ってたときた。そこで諏訪子は、神奈子の力の気配を頼りに跡を頼りに跡を辿って行き、ここに辿り着いた──大体の経緯はこんな感じだった。
「では今のところ、何も情報無しと」
「あーうー……ごめん」
 彼女は申し訳なさそうに顔を伏せた。
 本当に迷惑な話だと咲夜は額に手を当てる。あの巫女といい、どうも山の神社の面々は幻想郷を騒がせるのが得意らしい。
「あ、でもさ。多分妖精だから、一回休みにすれば神の力も剥がれるんじゃないかなーって。だから単純に、ぶっ倒せば元に戻るんじゃないかと」
「それ以外の方法は?」
「……多分、無いかも。私が力を与えた訳じゃないから、どうする事も出来ないし」
 またも嘆息。
 問い質したい事は山ほどあるのだが、しゅんと項垂れる諏訪子の様子を前にして、咲夜は何だか小さな子供を虐めているような居た堪れない気分になってしまった。開き掛けた口を結んで、彼女はそれ以上の追及を諦めた。
 神奈子の思惑が分からなければ事態に進展していない。結局、この館を元に戻す為にはチルノを倒す事以外に方法は無かったのだ。
──あの悪魔なら、この未来も予知していたのかしら
 こういう時、彼女は自分の能力を恨めしく思うのだ。時間を操れても未来が見える訳でもないし、過去に戻れる訳でもない。言ってしまえば彼女の能力は、究極の『その場しのぎ』なのだから。
「ほんと、神奈子は何が目的なんだろう。あの地獄鴉みたいに別の神を取り込ませて利用するんじゃなくて、ただ力を貸しただけだからねぇ」
 ゴロンと横になった諏訪子が呟くように言った。
「その、神奈子さんの能力は一体どんなもので?」
「神奈子の? えっと、『乾を創造する能』力なんだけど、具体的に言えば、力を操る能力、なのかな」
「力って、何のです?」
「そのまんまだよ。押したり引いたりとかする、斥力とか引力とか。重力、電磁力、強い力、弱い力……って言っても分かんないよね。まあそんなのを利用して、風雨や天候なんかを操ってるんだ」
「はあ」
「あ、因みに私は『坤を創造する能力』を持っててね、こっちも分かりやすく言えば、物質を操る能力になるのかな。物性変換といってもいいかもね。さっきの戦いで、物体を磁性を与えたのもこの能力だよ」
 先程の岩を操ったりしたのもその力なのだろうか。咲夜は何とか事情を飲み込もうとしたが、さっぱり理解出来なかったので、とにかく凄い力なんだろうという程度に留めておいた。
 だが、今の話でも少しばかり分かった事がある。
 神奈子の力とチルノの能力は似ているのだ。チルノの物体の運動を操る能力とは、つまり力を操る事に他ならない。妖精がただ力を与えられただけであそこまで成長したのは、能力の相性がよかったのだろう。
「それじゃあ、あの計画とやらには神奈子さんは協力してなさそうですね。やはり、あくまであの氷精の暴走という事かしら」
「計画? 何それ」
 諏訪子が体を起こして尋ねる。咲夜は問われるままに、今日の出来事を話した。
 最初はただ耳を傾け頷くだけだった諏訪子だが、チルノの計画について説明し始めると、
「あはは! 流石は妖精だねぇ。今ごろラプラスの悪魔だなんて、頭の中が十九世紀で止まってるんじゃないの」
 途端に彼女は腹を抱えて笑い始めた。
 ぽふぽふをベッドを叩きながら笑う諏訪子。一方の咲夜は何が可笑しいのか分からず、ただ諏訪子の反応に首を傾げていた。
 そんな咲夜の様子に気づいたのか、諏訪子は無邪気な笑顔のまま答えた。
「いやね、あの氷精が言ったラプラスの悪魔ってのはもう否定された話なんだよ。もう百年も前に『そんな悪魔は原理的に存在出来ない』とね。今更それを蒸し返そうだなんて、とんだお笑い種だね」
 けらけらと笑いながら話す諏訪子の言葉に、咲夜はぴしゃりと水を掛けられたような面持ちになった。
 未来を見通す悪魔は存在しない。確かに彼女はそう聞いた。
 安心と呼ぶか不安と呼ぶかは分からなかったが、心に黒く重たい塊がすとんと落ちたような気分だ。
「その悪魔は存在しえない、のでしょうか」
 しかし咲夜の疑問は晴れなかった。果たして本当に、チルノの計画は達成不可能なのだろうかと。
 ふと、さっきまで自分がチルノの未来予知を否定していた事を思い出す。先程はチルノに言葉で打ち負かされ、かと思えば今は諏訪子に自分が否定し切れなかった事をあっさりと完遂させられた。心はやるせない気分で一杯だった。
 とは言っても自分に分かる事は少ない。あるとすれば──と、そこまで考えて咲夜の頭にある一つの言葉が引っ掛かった。
「そういえば、あの妖精が少し気になる事を言ってたような」
「気になる事?」
 ええ、と咲夜は思い出しながら言った。
「確か、『波動関数が生まれる事がない』とか何とか」
 その時、諏訪子の顔付きが一変したのを咲夜は見逃さなかった。
「……どうやら、ただの思い付きって訳じゃなさそうだね」
 諏訪子は噛み締めるように呟く。彼女の表情からは笑みが消え、まるで思慮深い軍師のように険しい色を見せていた。
「何ですか、その、波動関数とかいう魔法は」
 咲夜はそう聞かずには居られなかった。あのチルノと諏訪子が目の色を変えるそれを、どうしても知っておきたかったのである。
 その波動関数というものが、この悪魔を巡る異変の奥深い所にあるのではないかと彼女は感じたのだ。
「魔法かぁ。うん、確かに外の世界の魔法と言ってもいいかもしれないね」
 諏訪子は頷き、咲夜に向き直った。
「ところでさ、量子力学って分かるかな?」
「聞いたこともありませんね」
「じゃあ電子は?」
「まあそれなら。電気の元でしょう、眼に見えないくらい小さな物体の」
「そうだね。といってもその程度の認識か」
 諏訪子はうんうんと首を二、三度傾け、それから口を開いた。
「量子力学というのは、簡単に言えば外の世界の超すげー物理学だね。外の世界の人間達が絶賛模索中の手探り学問さ。その量子力学から生まれたのが波動関数だ。どういうもんかっていうと、うん、『式』とでも言おうかね」
「つまりその、科学の範囲にあるのかしら」
「そうそう。まあ科学なんて定義すれば何でも包み込めるけどさ」
「科学の……そう」
 そこで咲夜は少し落胆したような色を見せる。諏訪子がそれを不思議そうに眺めていると、咲夜はゆっくりと口を開いた。
「いえ、科学的なものは常識的なものなんですよね。ではそれは、つまり非幻想郷的なものなんでしょう?」
 外の世界の非常識は幻想郷の常識である。逆もそうだ、外の世界の常識はここでは通用しない。それなら外の常識で作った波動関数とかいう魔法も、きっと幻想郷では効き目がないはずだ。そう考えて、咲夜は波動関数に何かを期待した喜びを捨て去ったのだ。
「ふふん、果たしてそうかな」
 だが、諏訪子はそれをさも愉快そうに笑い飛ばした。その意味深な言葉に咲夜は眉をひそめて言う。
「どういう意味です? 波動関数とやらが、世界の垣根を越えるものだとでも?」
「うーん、教えるのはいいんだけどなぁ。ちょっと話が長くなると言うか……面倒くさいというか」
 諏訪子は面倒臭そうに頭をかいた。少しの間考え込むと、やがて何か思いついたかのようにはっと目を見開き、ずいと咲夜に迫った。
「それじゃ、一つだけ私の頼みを聞いてくれるかな。そしたらやる気が上がるかも」
「私に出来る事なら」
「じゃあ!」
 でん、と諏訪子は胸を張って、
「『お帰りなさいませ、諏訪子お嬢さま』って言って!」
「おか……は?」
「外の世界に行って見たい場所があったんだけど、結局一度も行かないまま幻想郷に来ちゃってさ。だからお願いっ。プリーズ!」
 ベッドの上に正座したまま、諏訪子は咲夜の言葉を待った。当の咲夜は目を丸くして動けないでいる。
「あ、スカートを摘む動作も欲しいな」
 追加の注文は、ますます咲夜の狼狽ぶりに拍車を掛けるだけだった。
 この俗っぽい生き物は、本当に神か。やっぱり自分は、タチの悪い妖精に騙されて続けたままなのか。というかそれはどこに行くつもりだったのだろうか。
 一瞬の逡巡。あらゆる思索が彼女の頭の中を駆け巡った。
 しばらくの間、二人の間に静寂が流れる。それでもなお、諏訪子は相変わらず胸を張ったまま咲夜の意思を待っている。
「……」
 やがて、咲夜が動いた。
 僅かに腰を落とし、スカートを端をちょこんと摘む。
 麗しく、一礼。
「……お帰りなさいませ、諏訪子お嬢さま」
「ひゃっほうっ!」
 奇声を上げ、蛙飛びで枕に突っ込んだ諏訪子は、そのままジタバタとベッドの上でもがき始めた。
 どうやらご満悦らしい。咲夜は冷ややかな顔でそれを見下していた。
 ひとしきりはしゃぎ終えると、ついと調子を変えて諏訪子は居住まいを正した。
「ふう。さて、話を戻そうか。老執事喫茶の需要についてだっけ?」
「違います」
「そうだっけ。あーうん、波動関数ね」
 こほんと諏訪子は咳払いを一息。咲夜は小言の一つや二つを言いたくなったが、何も言わず諏訪子の話に耳を傾ける事にした。
「まず、私達の世界について話そうか」
 そう切り出して、諏訪子はゆっくりと話し始めた。
「床にボールが落ちているとしよう。私は手を動かして静止しているそれを拾い上げる事が出来る。ボールを投げれば、それは部屋の壁に当たって跳ね返り、床に落ちて転がっていく。これは実際やってみなくても分かるだろうね。極めて当たり前の事だ。ところが、万物の最小単位ほどの小ささ──電子スケールのミクロな世界では、この常識的世界観は通用しないんだ」
「通用しない? 予想もしない動きをするとでも?」
 そんなところだね、と諏訪子は返した。
「ところで、電子はどんな形をしていると思う?」
「形は、確か球体だったはずですわ」
「うん、半分正解だね」
 半分、という奇妙な物言いに咲夜は疑問の色を示した。
「実を言うとね、電子は元々つぶつぶの粒子じゃなくて、波の形をしているんだよ」
「波……電子が、ですか? ドロドロに溶けているとでも?」
「そういう意味じゃなくて……うーん、形と言う表現は少し違うね。電子ってのは、そもそも実体がないものなんだ」
 途端に咲夜は奇妙な顔つきになった。その意味するところがまるで理解出来なかったのだ。その様子を察してか、諏訪子の方も「やっぱり、人に教えるのは苦手だよ」と苦笑した。
「実体が無いって、それじゃあ電子はどんな存在なんでしょう。それが波というものなんですか?」
「そうだ。ここからが少し分かりにくいところなんだけど……」 諏訪子は言葉を選ぶようにして説明を続ける。「電子はそもそも球体──独立した、固いつぶつぶの粒子じゃなくて、『確率の波』という存在なんだ。たとえば、さっきのボールのように私の掌から電子を一つ飛ばしてみたとする。だけどこの場合、電子は粒子ではなく波として、空間を青いさざ波のようにゆったりと漂い広がっていく。そこには当然、波の山があったり谷があったりするだろう。ではこの山の部分に電子があるかと言われればそうじゃない。その山や谷は何かと言うと、『電子が出現する確率の高さ』を表しているのさ。波の山の部分では電子が高い確率で現れて、谷の部分ではあまり見つからない。その波は、電子が現れる可能性の波と言ってもいい。そう、電子は粒子ではなく、この『可能性の波』として空間を漂っているのさ」
 ますます考え込む顔付きになる咲夜に対し、諏訪子がピンと指を立てて答える。
「箱の中にサイコロを投げ入れて、目が出る前に蓋を閉じたところを想像してごらん。その時、私が蓋を開ける前にはもう既に目は決まっているはずだ──というのが古典的な物理学の考え方だ。しかし量子力学ではそう考えない。量子力学ではこの場合、『箱の中のサイコロは可能性の波となって、一から六の目までの全ての事象の波が、互いに干渉し合うような、波の重ね合わせの状態となって存在している』と考えるんだ。蓋を開けてみるまではどの目が出るかはまだ決まっていない。箱の中には粒子としての実体ではなく、『可能性の波』としてのサイコロが漂っているだけだから──というわけさ」
「ちょっと待ってください。それって、単なる言葉の綾ではありませんか? 『どの目が出るか分からないから、まだ可能性のままだ』という事でしょう。実体がないというのも、単に私達が見ていないからという認識の有無なだけでは?」
「いや違う。これはれっきとした事実だ。ええと、外の世界で言うと、二重スリット実験だったかな。この実験の結果から、可能性の波の重ね合わせが現実的、物理的な事実であると証明されるよ。言葉の綾ではなく、『可能性の波』というものが現実に存在する、という事がね」
 諏訪子は一度言葉を切って、そして言った。
「私達は電子がどの場所にあるかという事を確定させる事が出来ない。電子はあくまでも確率の波であり、可能性のままだからだ。だから、私達は『電子が現れる確率』を知ろうとする。そこで用いられるのが、波動関数という式なんだよ。これは何かと言うと、『電子が現れる確率』を表した式なのさ。私達は電子の確率波動関数を追い、可能性を調べる。波動関数が持つ意味は、電子の存在ではなく、確率的に実現する電子の状態という事だね。これが波動関数と呼ばれるものの正体だ」
「……何とか、イメージだけは掴めたような気はします」
 そう聞いた諏訪子は満足そうに頷く。だが咲夜は苦々しい顔付きまま、「しかし、別の問題もあるでしょう」と再び口を開いた。
「電子というものが、もともと波動関数で表わされる確率の波である事は分かりました。しかしですね、現実的に存在しているのは、むしろ実体、粒子としての電子でしょう? 箱の中にサイコロの可能性の波が詰まっていたとしても、蓋を開けた私達が見るのは、六面体のサイコロという実体です。波の電子が真実ならば、一体どこで粒子の電子に変化したんです?」
「そうなんだよね。うん、ここからが世界の面白いところだ」
 何が面白いものかと咲夜は顔をしかめた。諏訪子は一度は思案顔を覗かせ、それから頭の中の考えを絞る様に言葉を紡いでいく。
「電子の確率の波、可能性の波というように、物体の究極の姿は幽霊のようなものなんだ。ではこの波の電子がいつ実体を持つかというと──それは、『私達という意識が、電子を観測した時」からだ」
「観測した時? 随分と曖昧な言い方ですね。私の意識が波の電子を見た瞬間に、電子が実体を持つと?」
「その通りだ。電子の確率の波は、放っておくとどんどん空間へと広がって行って、どの場所にも同じ確率の高さになっていく」
 諏訪子は両手を動かし、頭の上でゆっくりと広げ始めた。
「しかし、私が実験をして、電子がこの瞬間、この位置にあると観測し、確定したとする。この時、当たり前のように聞こえるけど、電子がその小さな空間にいる確率は百パーセントになる。実際に見つかったわけだしね。すると同時に、その位置以外の全ての空間の確率がゼロになる。電子は空間に広がる波から、ただ一点の粒子になったわけだ」
 彼女は広げた両手を胸の前でパチンと合わせた。閉じた手のひらを咲夜に差し出す様にゆっくりと広げると、宙に浮いた水球が一つ、ポンと飛び出して来た。
「詰まるところ、私は観測する事によって、電子という可能性を、実体という現実に呼び起こしたというわけだ。これは魔法でも奇跡でも何でも無い。世界の何処にでも行われている当たり前のことなんだ。そして、数多にある可能性の波を、たった一つの現実の粒子に変えてしまう過程を──量子力学では、波動関数の収束という」
「波動関数の、収束……」
 頭にかりかりと刻み付けるように、咲夜はゆっくりと言葉を連ねた。
 世界にはただ一つの現実だけでなく、波動関数という無数の可能性の波が重なり合って存在している。全ての事象は意識を持った観測者によって観測されるまで、永遠に『可能性』のままとして存在している。
 一つの波動関数が展開する事によって生じる無数の可能性は、意識によってどれか一つの事象に収束され、現実となる。それが、世界の在り方なのだと言う。世界という現実は、意識によって造られていたのだ。
 ここまで考えて、ふと咲夜はある事に気づいた。
「待って下さい。私達の意識が、たくさんの可能性の中からたった一つだけを実現させると言いましたよね。けど、そもそも『意識』というものは物理的な作用なんじゃありませんか? 観測という行為が意識から来るものだとしても、どこから『世界』と『意識』を分けているのです?」
「へえ、良い所に気がつくね。流石は吸血鬼のメイドをやってるだけの事はある」
 ぱちぱち、と諏訪子はわざとらしく手を打った。咲夜は特に気にした様子もなく、沈黙によって続きを促した。
「ふむ、それじゃあ逆に質問しようか。貴方は、どこまでが自分で、どこまでが自分じゃないと断言出来る? 貴方の体だって同じ物質だ。酸素だって炭素だって鉄分だって、みんな周りにある物と元は一緒だ。それなのに、一体貴方は何を持って『自分』を確定してるの?」
「それは……」
 唐突に投げかけられた質問に咲夜は一瞬言い淀んだ。
 彼女は少しばかり考えを巡らせた後、そこからふと浮かんで来た言葉を口にした。
「私が、私だと自覚しているからでしょうか」
「その通りさ」
 その答えに、諏訪子はしっかりと頷いた。
「そう、それは『自分は自分だ』という『意思』に他ならない。可能性に満たされたこの世界から、自分という存在を確立させる唯一の方法。意味は違うけど、『我思う、故に我在り』って感じだね。広がった可能性の波を、たった一点の粒子に収束させているのは、まさにその意思なんだ」
 彼女は出来の良い生徒を見る教師のような穏やかな目で咲夜を見つめた。
「究極的に突き詰めれば、宇宙はもともと波動関数のまま一つに繋がっていたはずなんだ。しかし、ある者の意識が、『そこに物がある』と思い込んだところから始まったんだ。物を物として観測したその時、波動関数の収束が起こり、事象は実体になった。分かるかい? 意識を持つ観測者が、『そう信じた』からこそ、可能性は現実となって現れるんだよ」
「それって──」
 ──信仰が力を持つと、そういうなの事だろうか。
 畏れを捨て、妖怪を見放し、信仰を蔑ろにした外の世界の科学が、『信じる事で現実となる』と。
「あの妖精は、『妖精は世界の一部だ』って言ってたんでしょ? それってつまり、自己と世界は同一だと考えてるって事だよね。だから、あの妖精は世界と波動関数で繋がっている。物体を操ったり出来るのは、あいつ自身が自らの意思で世界の波動関数を収束させているからだと思うよ。昔からの言葉で言うと……梵我一如ってとこかな」
「しかし、ただの意思だけで……」
「眉唾かね。だがこれは真理だ。貴方にも思い当たるフシはあるんじゃないの? 妖精は世界との繋がりを信じる事によって世界を操っている。じゃあ貴方は、どうして時間を操っているのかな?」
 言葉に詰まった。そんな事は考えた事がなかったのだ。
 自分が時間を操る事など、当然のように思っていたからだ。
 ──自分はどうして、時間を操れるのか?
「私には……科学的がどうだとか、そんな事は分かりません」
「うんにゃ、五次元がどうだとか言うのは結果であって、ただの科学的な後付けさ」
「後付け、ですか」
「ああ、科学はあくまで『結果』しか説明していない。そこから何が起こるのか、何が現れるのかという予知は全部、波動関数という確率に丸投げだ。そりゃ起こった事を説明するだけなら科学じゃなくたって出来る。ただ科学が万能なだけさ。大切なのは、自分が何を見て、何を信じるかだからね」
 語る諏訪子の言葉を、しかし咲夜はどこか遠くの声のように聞いていた。
 彼女の頭の中はぐるぐると渦を巻いていた。飲み込めぬ程の理解と、それに伴う新たな考えが、浮かんでは消え、彼女を狼狽させていた。受け止めきれぬ知識の鉄砲水が、彼女の華奢な体を掬い上げ、未知という暗い滝壺へと流して行くようであった。
「といっても……まだ外の世界じゃこんな話は到底信じてもらえてないだろうさ。意識は科学で測定出来ないからね。と、まあここまで話だ。これで波動関数──ひいては、あの妖精の計画の無謀さについて分かってもらえたら嬉しいんだけど」
 言い終わって、諏訪子はふうと息を吐いた。彼女の言葉に、咲夜はふらふらと揺れる意識を目下の問題へと何とか集中させる。その答えについて自分で考えを巡らせ、そして言った。
「全ての可能性は、確率的にしか実現されない。そう言いましたね?」
 確かめるように、慎重に理解を繋げて行く。諏訪子が静かに首肯した。
「ああそうさ。意識はただ波動関数を収束させるだけだ。どの可能性が実現するかは、波動関数が示す確率の高さと……あとは、信じる心かね。とにかく、未来に絶対は無いということだ」
「だからラプラスの悪魔は存在し得ない。計算ではどうする事も出来ない『可能性』が存在するから──と、そういう事ですか」
「だいせいかーい」
 おどけるように諏訪子は仰向けでベッドに倒れ込んだ。頭が枕に沈み、羽毛の柔らかい音がした。
 語る彼女の言葉を、しかし咲夜はどこか遠くの声のように聞いていた。
 全ての可能性は確率的にしか実現されない。それは世界の真実だった。
 物質という実在なら数字で表せられるだろう。だが、波動関数という名の可能性が存在する限り、この世界は計算だけで確定出来ない。
──ならば、未来とは?
 咲夜の中の未来のイメージが大きく変容していった。
 人智を越えた聖域のような場所から、薄暗い深海のような底へと転換していく。盤石な現実という名の陸地。海に立つのは可能性の白波。ならばその海は何を示すのか。
 彼女は、未来というものが余計に分からなくなってしまった。
「それにしても……波動関数という言葉を知っていながらラプラスの悪魔を持ち出すなんて、一体どういう事なんだろ。うーん、粒子を固定してしまうとか、うむむ……」
 難しい顔をして考え込む諏訪子。だが咲夜はその言葉を聞かず、ゆっくりと口を開いた。
「最後に、一つ聞いていいでしょうか」
 自らの疑問を問うべく、咲夜は目の前の神に向かい合う。
「では、未来とは──」
 だがその言葉は、地の底を揺らす巨大な地響きによって遮られた。
 ぱらぱらと天井から小さな破片が落ちてきた。衝撃はそれ程大きくはない。だが二人は、それが地震によるものではないという事を直感的に理解していた。
「不味いね。多分あの妖精、館を壊してでも私達を探すつもりじゃないかな」
 顔色を変えた諏訪子はベッドから跳ね起き、天井を見透かすように上を見上げた。咲夜同じように姿の見えぬチルノを透視する。
「体の調子はもう大丈夫?」
 諏訪子に尋ねられて、咲夜は体の嫌な重さがすっかり消えている事に気づいた。咲夜は軽く腕を振って感触を確かめる。問題ない。鉛のように重かった体も今は軽い。彼女は首肯して諏訪子に返した。
 勝てる見込みは僅かでも拾い上げる。太刀打ち出来るのは、神か自分かだ。
「よし。それじゃあ、私やるべき事をやろうか」





 凍り付いた廊下の壁をチルノの足音だけが叩いていた。
 感覚を研ぎ澄まし、敵を探し続ける。普段の彼女をよく知る者が見れば別人かと思うかもしれない。それほどまでに、今の彼女は狩人然としていた。
 神の力を手に入れてから、彼女は自分の体が空間へ広がっていくように感じていた。
 空間そのものが自らの手足。漂う空気は血液。肉体はここにあっても、その心は宙に滲み出ている。力が馴染むに従い、感覚は研ぎ澄まされ、頭はさらに冴えていく。洪水のように押し寄せてくる情報も、今の彼女はしっかりと受け止めていた。
 自然の造形というものは大抵がフラクタルに出来ている。数字を負わずとも、式で丸め込んで行けば自ずと真値は推して出る。カオス理論などというものは初期値鋭敏性に惑わされて逃げた羊の穴蔵だ。今の自分は空間そのものと化している。対象に影響を与える事無く、空間そのものを観測する事が出来るのだ。
 広大に、そして鋭敏に世界を見渡す事が出来る。遥かに刺激的で、魅力的だ。今ここで元の存在に戻れば、きっとその窮屈さに耐えきれなくなるだろう。
 今までの、ただの妖精に。
「……」
 不意に、その表情が思案の色を覗かせる。彼女の頭にある考えがよぎった。
──自分は、いつ死ぬのか。
 凍った床を力強く踏みしめる。足元の氷片が、ぴしっと音を立てて割れた。
 何度も繰り返した問いだ。何度も逃げた壁だった。
 だが、その答えは今日分かるのだ。
 あのメイドさえ倒せば計画を邪魔するものはいなくなる。そうなれば、こんな底の見えない不安に別れを告げられる。
 チルノの心に、揺らぎは無かった。
「……へえ」
 突然、彼女は足を止めて振り返った。
 音は無い。だが彼女は空間に広がる己の感覚でそれを感知した。
「自分からやってくるなんてね。やっと諦めたの?」
 その視線の先。廊下の角から、その人物はゆらりと姿を表した。
「さあ、どうかしら」
 そう言って、咲夜は薄く笑った。





 目の前のチルノの雰囲気が変わった。狭い廊下だからか、刺すような冷気が咲夜の肌に当たった。
「あの蛙の神は?」
 チルノが軽く尋ねた。咲夜がついとそれに答える。
「増援を呼びに行ったわ。巫女や妖怪の賢者をね。流石の貴方も、博麗の巫女には手出し出来ないでしょう」
「ふん、無駄だと思うけどね。どんな奴でも、あたいの能力の前には千騎当一さ。むしろ、あんたにとってはお荷物なんじゃない?」
 不敵な笑みを浮かべてチルノは笑う。
「霊夢だって殺さなければいいんでしょ。ちょっと氷漬けにして足止めするくらいなら、結界だって何の影響も無いわよね。あたいがあんたを排除して、それから開放すればいいじゃん。何の問題も無いし、何の障害も無い」
 そう聞いて、咲夜は悟られぬ程度に顔を歪めた。
 確かにその通りだ。時間を停止する力の特性から言って人数の差は無意味に近い。それに、今のチルノはそれ抜きにしても諏訪子と渡り合える実力がある。
 無論、彼女の計画にとって咲夜以外を狙う理由がない。それはつまり、咲夜ただ一人さえ排除してしまえばそれで計画は成功してしまうという事だ。
 ならばこそ、これ以上強くなる前に倒さなければならない。
 咲夜が着実に一歩を踏み進む。こつこつと静かな廊下に足音が反響した。
「貴方は、本当にラプラスの悪魔になるつもり?」
 咲夜が目の前のチルノに話し掛ける。チルノは僅かに目を細めるだけで返した。
「物質の正体は粒子と波の二重性。世界に可能性という波が漂うかぎり、未来は確定しない。この世は確率的でしか現実を生み出さないのに、貴方は一体どの未来を見るのかしら」
 ほとんど諏訪子の受け売りの説明だ。しかし事実は事実である。外の世界の人間が量子力学を発展させなくとも、ラプラスの悪魔は最初からこの世に存在していなかったのだ。
 だから止めておけとは言わない。言ったとしても、咲夜に許す気は無かった。
「はん、それが?」
 だが、その真実に対してチルノは鼻で嘲る。
「あの蛙にでも教えてもらったの? 確かにいいとこまでは来てるけど──それでも、まだあたいの領域までには達していないね!」
 途端、チルノの魔力が膨れ上がった。空気が乱れ、空間さえも凍りつかせそうな冷気がびっしりと廊下を敷き通る。
 吐く息さえもたちまち凍ってしまうのではないかと錯覚する程の脅威。それでもなお、咲夜は凝然を保った。
 彼女は力強く床を踏みしめ前に進む。いつの間にかその両手にはナイフが収められていた。
 研ぎ澄まされた呼吸と共に、咲夜は二本のナイフを投擲した。
 ナイフが宙を貫いて行く。確かな速度をもって放たれたそれらは、しかしチルノを狙ってはいなかった。
 一本のナイフが、近くの壁に当たって跳ね返る。遅れてもう一本のナイフもバウンドし、廊下に甲高い二重の金属音が響いた。
 攻撃と呼べぬ不可解な行動に、チルノの顔が怪訝の色に染まる。跳ね返ったナイフは再び別の壁に、そして天井や床へと跳ね回っている。
 ナイフの鋭い金属音が狭い廊下の空気を切り続ける。その軌道を目で追っていたチルノは、ようやくその意味を理解した。
「成る程、跳弾による攻撃か」
 ナイフを銃の弾丸のように見立て、意図的に跳弾させ相手に命中させる技だ。それは一回や二回の跳弾ではなく、跳ね返った回数は既に十を越えている。常人ならばまず見切れるはずもない軌道だ。
 二本のナイフは速度を落とす事もなく、チルノの周りを蜘蛛の巣を張るような軌跡を描いて飛び回る。チルノは最早ナイフを目で追う事を止めていた。
「普通の奴じゃこんなの避けきれなさそうね。下手に動いたら当たるし、なかなかやるじゃん」
 その状況の中で、あろうことかチルノは目を瞑ったまま悠然と構えていた。
「でもまあ、惜しかったね」
 チルノが呟くと同時に、それまでよりも一段と大きな跳弾音が立て続けに二度響いた。
 直後、チルノが両手を左右に掌底のように打ち出した。その手の先で、彼女に刃を向けた二本のナイフが凍り付いていた。
 咲夜の顔が驚愕に染まる。チルノの目が開いたのと、ナイフが床に落下したのは同時だった。
「一回目の跳弾の時点で既にナイフの軌道は見切ったわ。言ったでしょ? あたいはラプラスの悪魔だって。これくらい、時間を止めるまでもないね」
 言いながら、チルノは弓を張るように姿勢を落とし両足に力を溜めた。抵抗は無駄だと言わんばかりの攻撃一辺倒の構え。理屈は通る。それに見合うだけの実力差がそこにはあった。
「ちっ!」
 悪態をつき、咲夜は再びナイフを構える。覚悟を決め、捨て鉢な態度でチルノを迎え撃つ──かのように見せた。
──さあ、来い。
 チルノの認識能力と解析能力は確かに脅威だ。だがそれは、あくまで認識していればの話である。
 ならば、認識させなければいい。
 焦燥の色をちらつかせながら、考えを巡らす彼女の頭はひどく冷静だった。
 チルノが跳んだ。
 足元で踏み込んだ床が砕け、小さな体が大気を穿った。力を最大限に利用した跳躍は彼女の体を矢に変えた。咲夜もまた床を思い切り踏みしめる。ダン、と決意を固める音と共に、身を低くして迎撃姿勢を取った。
 二人の距離が急速にゼロに近づいて行く。チルノは一秒と経たず距離を詰め、咲夜を攻撃の間合いに引き入れた。
 風を切る音が咲夜の耳朶を打つ。チルノが右手を大きく振りかぶった。
 だが、次の瞬間、
「──なんてね」
 チルノはぴたりと振りかぶった右手を止め、咲夜の一メートル手前で急速に後退した
 突然身を翻したチルノに、咲夜が声を漏らした。
 直後、廊下に轟音が鳴り響く。
 チルノが進むはずだった場所に、廊下の四方から出た四匹の岩蛇が殺到した。
 四つの顎が廊下の一点を押し潰すように喰らい付く。だが、狙ったはずの獲物はそこには居なかった。
「……うそっ」
 呆然の一声を発したのは、蛇の頭に乗って現れた諏訪子だった。
──諏訪子が立てた作戦は単純だった。
 咲夜がチルノと対峙し、攻撃を誘う。攻撃の瞬間というものは、逆に言えば防御の最大の隙である。その一瞬を見切り諏訪子が奇襲を掛ける、といったものだ。
 どんなに優れた認識能力を持っていたとしても、認識する間を与えなければそれは発揮されない。そこを突いた諏訪子の奇襲によってチルノを撃退する──はずだった。
 しかし、目の前にあるのは二人の意思に反した現実だ。
 チルノと諏訪子の視線が一直線に並ぶ。チルノの飄々と歪んだ顔が、獲物に向かって舌舐めずりをしたように見えた。
「あんたらの行動なんて、最初からお見通しだっ!」
 チルノは全身に凍気を纏い、力任せに体を回転させた。狭い廊下に、凄まじい冷気の嵐が発生する。廊下の端々にある燭台が次々と吹き飛んで行く。
 そして、その荒れ狂う氷の竜巻は、傍にいた諏訪子をも容赦なく蹂躙した。
「あぐっ!?」
 竜巻の衝撃に諏訪子は吹き飛ばされ、離れた床に叩きつけられた。幸いにも、咲夜自身は諏訪子が出した巨蛇が壁となり、その冷気を防いでいだ。
「諏訪子さん!」
 咲夜が駆け寄る。その後ろで、諏訪子が召喚した四匹の巨蛇が音もなく土に帰った。
「あう……ぅ」
 咄嗟に防御を取ったのか、諏訪子の体は致命傷には至っていない。だが全身には氷片が蝕んでおり、さらにその左半身は肩口から足までぎちりと氷が拘束していた。彼女が満身創痍に追い込まれた事は誰の目から見ても明らかだ。
「奇襲なら仕留められると思った? ふふん、とんだ思い違いね」
 そんな二人を嘲笑うかのように、チルノがゆるりと歩を進める。
「あたいの干渉領域は既に三次元空間で半径十メートルを超えている。この領域内であれば、あたいに分からない事はない。真後ろから天狗が突進する方がまだ勝算あったんじゃない?」
 けらけらと笑い、チルノは二人をしっかりと見据えた。彼女の顔とは対象的に、咲夜には狼狽の色がじわりと滲み出している。
「さて、そろそろ終わりにしてあげるわ。これでやっとあたいの計画を邪魔する奴はいなくなる」
「──ラプラスの悪魔になんて、なれるわけがない」
 その時だ。張りの無い言葉を口にしながら、諏訪子がよろよろと身を起こした。
 彼女はチルノをきっと睨め付け、床に膝を付いて苦しそうに話し始める。
「人が、意思を持って世界を認識しない限り……波動関数は収束しない。貴方がどれだけ優れた解析能力を得たところで……現実化していない可能性までは計算は出来ないはずだ。ぐっ……仮に、人の思考を読めたとしても、どの可能性が実現するかは、その意思の強さに依るものだからね」
 その瞳は弱々しくも、確かな反抗の意思を以てチルノを睨み返している。だが、そんな諏訪子を嘲笑うかのようにチルノは鼻を鳴らした。
「人が意思によって他の存在を定着させない限り可能性は可能性のまま──ね。確かに、無限に存在する全ての可能性の波を計算する事なんて、この世界の誰にも出来やしないわ」
「……はっ、そこまで分かっているのに、どうしてそんな事やろうとするのさ」
「何言ってるの? あたいは、この世界の誰にも出来ないと言っただけで、あたい自身が出来ないとは言ってないよ」
 諏訪子は怪訝な反応を返した。側で聞いていた咲夜もまた、その意味深な言葉に疑問の色を見せる。
「どういう……ことさ」
「簡単よ。世界の誰にも出来ないのなら──」
 厳かな声と共に、彼女ははっきりと言い放った。
「あたいが、世界そのものになればいい」
 その意味を、咲夜と諏訪子はすぐには理解出来なかった。
 神の次は、世界そのもの? さっぱり訳が分からない。咲夜にはもはや、チルノを理解しようとする気さえ失いかけていた。
「あたいの持つ干渉領域の中では、空間や物質を完全に知覚する事が出来る」
 そんな二人を余所に、チルノは淡々と話を続ける。
「言い換えれば、この領域内にある存在は、あたいによって観測されるのと同じ事よ。目で見たり触ったりしなくても、ただその場所にあるだけでね。さて、ここで干渉領域を宇宙全てにまで広げてみる。するとどうなると思う? そう、この世界の全ての波動関数はただ一粒の未来に収束されるのさ」
 淡々と、しかし心の底に響くような声で、チルノが話を続けていく。彼女の言葉が、咲夜には何故か不安を揺さぶるような居心地の悪いものに聞こえた。
「あたいが世界と同化する事で、世界そのものを恒常的に観測し続ける。自我を持った世界は、波動関数の生成を許さない。だから──」
「──嘘だ」
 その時、咲夜の側から小さな声が聞こえた。
 絶望を声に乗せたのは、血相を変えた諏訪子だった。
「諏訪子さん……?」
「無理だ、出来っこない。そんな馬鹿げた話が、あり得るわけが無い!」
 声を荒げる諏訪子。だが咲夜には、彼女がどうしてここまで動揺の色を示すのか理解出来なかった。
 一方で、いつの間にか目の前のチルノは笑っていた。誕生日を待ち望む子供のような顔で、心の底から笑っているように咲夜には見えた。
「出来るわけがない……許される、はずがない」
 対照的に、諏訪子はうわ言のように否定の言葉を繰り返していた。手負いのせいもあってか、その表情は憔悴に染まっている。咲夜には二人の会話も、諏訪子が何を恐れているのかも分からなかった。
 しかし今の彼女は確信出来る事が一つある。このままチルノを放っておけば、間違いなく最悪の事態になるであろうと。
 畏れの根源にある未知に対する恐怖が、咲夜の中にふつふつと浮かび上がってきた。
「許されるかどうかは、あたいが決める──さて」
 チルノが再び一歩を踏み出す。先程よりも、はるかに重く冷たい一歩だ。
 冷気を纏った右手が、ゆっくりと二人へと向けられる。そこから無慈悲な一撃が放たれるよりも先に、諏訪子は無理矢理体を動かして、
「──逃走は、任せたっ!」
 咲夜に向かって叫んだ。諏訪子はよろめきながらも僅かな力を振り絞ると、直後、廊下を埋め尽くすほどのありったけの水流をチルノに向けて放った。
 水流がチルノを飲み込む寸前で、ぴたりと時間が止まった。状況の変化に呆然とする咲夜と、呆れるように眉をひそめるチルノだけが時間に取り残される。そこでようやく咲夜は我に返る事が出来た。
 時間が止められた諏訪子を背に乗せ、咲夜は一目散に駈け出した、彼女に出来たのは、ただそれだけだった。
 またか、とチルノが皮肉混じりに独りごつ。
「ふん、無駄だってのにさ」
 そのまま無造作に手を振り払うと、大量の水流があっというまに凍り付き、そのままチルノに道を開けるようかのようにガシャリと砕け散った。
 そして再び、彼女は静かな廊下をただ一人歩き始めた。


 勢い良く開いたロビーの扉から、諏訪子を抱えた咲夜が顔を出した。
 二人はロビーを横切り、館の入り口の大扉に駆け寄る。途端、その表情が苦々しげに歪んだ。
 館の外への扉は分厚い氷で覆われていた。先程の空白の時間の内にチルノがやったのだろう。咲夜は躊躇なくその氷を蹴り付けたが、足が痺れただけで扉はビクともしない。
 閉じ込められた。その事実がますます咲夜の焦燥を駆り立てる。
 ロビーの端に氷漬けになったフランドールが見えた。さらに後ろを振り向く。チルノはまだ追いついていない。だが時間の問題だ。咲夜は顔をしかめ、その足を別の扉へと向けた。
「どこへ、向かってるの……?」
 背中から弱々しい諏訪子の声が聞こえた。咲夜はせめて気丈に振舞おうと感情を殺して声を返す。
「ロビーの隣の大広間です。ここはフランドール様も居ますし、とりあえずはそこへ。庭への出口があります」
「ああ……無駄かもしれないけど、助けを呼んだ方がいい。これはもう、私達だけの問題じゃない。あの妖精は……もう、私達の手には負えなくなってしまったかもしれない……」
 先程から諏訪子はずっとこんな調子だ。時折ぶつぶつと何かを呟いては、焦りを隠そうともしない色を見せる。あの会話に──あの妖精の計画には、一体どんな脅威が孕んでいるというのか。
「教えて下さい、あの氷精の計画が何なのかを。その干渉領域とやらで世界を包んで、一体何をしようと言うんです?」
 歩きながら咲夜は背中の諏訪子に問う。返事はすぐには返って来ない、
 それから扉を開けて廊下に出たところで、ようやく諏訪子が口を開き、訥々と話し始めた。
「……あの妖精は、世界と同化すると言っていた。世界そのものが自我を持つということだね。波動関数を収束させるものは、何だか覚えているかい」
 それは人の意識だ。自己と他の存在の間に境界を引く、認識という名の存在肯定。そう答えると、背中で諏訪子が小さく頷いた。
「そうだ。意識によって他の存在は、可能性の波からただ一つの現実へと収束する。だが……普通はその現実から、さらに新しい可能性──波動関数が展開する。だから、未来というものは最初から決まっているものじゃない。一秒一秒ごとに、新しい可能性が生まれていくもんなんだ」
 しかし、と諏訪子は一度言葉を切って話を続ける。
「逆に言えば……世界を観測し続ける事によって、波動関数を展開させず、現実をそのままの状態を保つ事が出来るんだ。あの干渉領域の中では、常に観測している事になるんだろう」
「……すると、どうなってしまうんです?」
「全ての事象は意識による波動関数の収束によって実現される。けど新たな波動関数が生まれなければ、新たな可能性も生まれない。そう、あの妖精が世界を丸ごと観測し始めた瞬間……未来はただ一つに確定されるんだ。現実は機械的に運動する粒子だけになる。ただ現実が現実を創り上げていくだけのビリヤードみたいなものさ。球は最初から決まった動きしか出来ず、他の球とぶつかり合う事しか出来ないような、ね。究極の量子ゼノ効果……あの妖精が目指しているのはこういう事だろうけど……」
 一瞬言い淀んだ諏訪子を、しかし咲夜は見逃さなかった。その瞳の奥に潜む暗澹を、彼女は感覚的に見抜いていた。
「本当に恐ろしい事は、他にあると?」
 諏訪子はすぐには答えなかった。重苦しい表情で、彼女はゆっくりと口を開いた。
「……波動関数が存在しないという事は、人の意思の介在する余地がなくなってしまうという事だ。そうなると……次第に、世界から信仰が消えて行く一方になるだろうね。信仰は力を持たず、魔法は消滅し、全ての神と妖怪は衰退していく……」
 咲夜が黙って耳を傾けている。それはむしろ、返す言葉を見失ってしまったという様子だ。諏訪子の悲しげな表情も、冷え切った空気も静寂も、全てが彼女の心を掻き乱していた。廊下に響く自分の足音が、どこか遠くのように聞こえていた。
諏訪子は言葉を選ぶように口の中に言葉を溜めていた。やがて十秒の沈黙の後に、彼女はその答えを吐き出した。
「この世の全ての幻想は消滅し、意思はただの肉体の付属物に成り下がる。そして──」
 その言葉は、確かな重みを持って咲夜の心に深く入り込んだ。

「──幻想郷は、ゆるやかに死を迎えるだろう」

 無意識のうちに、咲夜は歩みを止めていた。
 何かを言い返そうとしても言葉が出てこない。驚嘆さえ胸につっかえる。喉の奥が急激に干上がったように思えた。
 冗談だと言ってくれればどんなに良かったか。咲夜は否定の言葉さえ忘れて廊下に立ち尽くす。心の変化に体が付いていかなかった。
 足元が池沼にずぶりと沈み込むような感覚。ふらりと後ろに一歩たじろぐ。彼女は僅かな理性だけで何とか地に足をつける事が出来ていた。
「……だから、今はほんの少しでも可能性を上げようか」
 ぽん、と肩に乗せられた重みで咲夜は我に返った。
「……ええ」
 生返事を返し、体と心に鞭を入れ彼女は再び歩き始める。廊下を進んて行くと、左手に扉が見えた。
 二人は紅魔館の大広間に足を踏み入れた。そこは館の中でも特に広い空間だ。ゆうに百人は狂騒に包み込めるその場所は、今はしんと静まり返っている。天井にはいくつものシャンデリアが場の雰囲気に不釣り合いな明るさを見せ、左手のステージはより一層寂寥を演出している。静寂が支配するがらんどうな大広間を二人は横切った。通路とは反対側に、館の出口があったはずだ。
 しかし、絶望は彼女達を逃がしはしなかった。
 咲夜が息を呑んで扉の前で立ち尽くす。中庭への出口は、無残なまでに固く氷に閉ざされていたのだ。
 前の諏訪子なら壊せそうなほどの厚みだが、今の彼女では望むべくもないだろう。
 物言わぬ扉を前にして、咲夜はただ見上げるだけだった。
「私は……」
 立ち尽くしたまま、暗い顔をして咲夜がぽつりと口を開いた。
「私は、どうすればいいのでしょう」
 その声に覇気は無い。いつもの瀟洒な彼女らしからぬ、年相応の少女のような儚げな表情をしていた。
 自分達は負けたのだろう。たった一人の妖精に立ち回られ、その結果がこのザマだ。自分は、二度も敗北したのだ。
──自分に出来る事は、もう無いのだろうか。
 彼女の足は、大広間の中央で自然に止まっていた。
「最初から、助けを求めるべきでした。全ては私の認識の甘さにあります」
「さあ、どうだろうね」
 咲夜の懺悔に対し、諏訪子は落ち着いた声で返す。
「助けを求めたところで、あの妖精に勝てていたかどうか分からない……時を止める能力に加えて、神の力が備わった破壊的な強さだ」
 苦々しい表情を見せる。咲夜もそれは分かっていた。どちらにせよ、この未来には変わりなかったのだろうか。
「私が束になって掛かってもこの様でしたからね……いえ、協力すらさせてもらえなかった」
「そうだね。これは相性の問題だ。神の力と時間停止、結局はどちらかの能力で──」
 そこで突然、諏訪子の言葉が途切れた。
 咲夜が不審に思って後ろを振り向く。
 目の前の諏訪子は、自分の吐いた言葉に驚いた様子で固まっていた。
「……協力? 時間を止める、神……」
 ぶつぶつと何かを呟くように、諏訪子は言葉を探していた。視線を宙に漂わせ思考にのみ集中している。それはまるで、ジグソーパズルの最後の十ピースを拾い集めるような表情だ。
「ああっ!」
 そして、彼女は何かに気付いたようにぱっと顔を上げた。
「そうか、そうかっ! ああちくしょう、何で今まで分からなかったんだ。もっと早く思い付くべきだった!」
 憔悴を忘れ、諏訪子は声を張り上げる。その急な変わり様に、今度は咲夜の方が面食らった。
「あの、一体何が分かったんです?」
 そう尋ねると、諏訪子は咲夜をじっと見つめながら、
「あいつに、勝つ可能性が見えた」
 そう言って、瞳に希望を宿らせた。
 咲夜はハッと息を呑み、思わず諏訪子を背中から落としそうになった。慌てて体勢を整え、矢継ぎ早に問い詰める。
「それは、それはどんな方法なんです? この状況から、私達があの妖精に勝てる手が本当にあるんですか」
「ああ。ただ、その前に」
  諏訪子は抑揚のない声を返した。厳然とした面持ちで、静かに咲夜に向き直る。
「貴方に聞いておかなければいけないことがある。とても大事な事だ」
 そこにただならぬ雰囲気を感じ取った咲夜は、しんと居住まいを正した。心を落ち着け、次の言葉を待った。
 まるで大広間の時が止まったように感じていた。やがて、その静かな世界で、諏訪子は粛然とそれを口にした。

「貴方、処女かい?」

 咲夜は背負っていた諏訪子を床に落とした。
 鈍い音が辺りに響く。叩きつけられた諏訪子の喉から、ぐえっと蛙の潰れるような声が聞こえた。
「そう、体が弱って錯乱してるんですね。分かりました、いま楽にしてあげます」
 溜息を一つ、彼女は肩をすくめてナイフを取り出した。ゆっくりと向き直る。その目はかなり本気だった。
「す、ストップ……そうじゃない、話を聞いてくれ」
 慌てて手を振る諏訪子に、咲夜はナイフを振り上げたまま静止した。じろりと一睨みして、黙ったまま次の言葉を促す。
 調子を整えるように、諏訪子はこほんと小さく咳払いして口を開いた。
「貴方を、私の巫女にしようと思うんだ」
「巫女?」
 ああ、と諏訪子は頷く。
「神奈子があの妖精にしたのと同じように、私の力を貴方に貸す。信仰という形でね。これなら、人間の貴方にも神の力が宿るはずだ」
「待って下さい。信仰って、その、確かに神は信じてますけど」
 つらつらと並べられた言葉に、咲夜は戸惑いながら考える。
 巫女というのはあの巫女だろうか。境内で掃除して祝詞を奏上したり、空を飛んだり妖怪を退治したり脇丸出しのあの巫女だろうか。
 咲夜の頭の中に、偏見に満ちた巫女像がぼんやりと浮かんでは消えて行く。
「私はお札も使えませんし、人並みの信仰しか持っていないんですよ。というか、そちらの巫女はもういるでしょう」
「それだけで十分さ。何も心から忠誠を誓えって訳じゃない。早苗だって巫女じゃなくて神奈子寄りの風祝だしね。それに……」
「それに?」
 聞き返すと、諏訪子はあどけない微笑みを浮かべた。
「貴方はさっき、私に敬意を見せたでしょ? 少なくとも……縁は繋がったよ」
──お帰りなさいませ、諏訪子お嬢さま
「……あれが?」
 偶然と呼ぶにはあまりにも出来過ぎていた。 それでも、結果は変わらない。
「神様自身がこうやって承諾してるんだ。巫女になるには、ちっぽけな信仰で構わないよ」
「それでは」 咲夜は一瞬言葉に詰まりながら口を開く。「私が……えっと、おぼこかどうかと言うのは、何の関係が?」
「今からやるのは、言ってみれば一時的な神降ろしだ。私の分霊を貴方に宿らせる。貴方は私と精神を同調させるんだけど、貴方の心に僅かな穢れがあれば上手く力が馴染まない。これは肉体的というよりも精神的な問題だ。神に身を捧げるという清い心が必要なんだよ」
「し、しかし。その、私は、お嬢様に身を尽くすと誓いまして」
「そんな事言ってる場合じゃない! そのお嬢様を助けるためにも、私の力を百パーセント貴方に授ける必要があるんだ」
 たどたどしい咲夜に対し、諏訪子は声を荒げて迫る。
「これならあいつにも勝てる。神の力も時間を止める力も同じだ。後は、貴方次第なんだよ!」
 喜色が混じった気迫に咲夜は一歩たじろぐ。視線をあちこちに彷徨わせながら、彼女はぎこちなく表情を強張らせた。
 目を合わせたままの二人は沈黙に包まれる。輝く瞳は諏訪子。焦点がぶれているのは咲夜のそれだ。
「……では、一つだけ教えてください」
 やがて、咲夜は観念したかの様に拳を握り締めると、ゆっくりと口を開いた。
「未来とは、何なのでしょう」
 自らの意志をしっかり固め、それを言葉に乗せた。
 諏訪子は眉をひそめ、咲夜の顔をしっかりと見つめる。彼女の覚悟を品定めするような視線に対して、しかし咲夜は毅然と立ち向かった。
 自分の心の中で、姿が見えぬまま足踏みだけが聞こえてくる。その未来という言葉を、彼女ははっきりと確かめておきたかった。
 彼女自身が、彼女の未来を掴む為に。
 やがて諏訪子は、真剣な表情を浮かべながら言った。
「未来とは、意思だよ」
 その言葉は、咲夜の心に重くのしかかった。
「誰かが望み、別の誰かが育み、さらに別の誰かが支える。それが意思という名の未来だ」
 あらゆる可能性の結果。全ての現実の原因。波動関数を収束させる世界の識者。
 物質がある限り現実は無くならない。意思がある限り、未来は無くならない。
 物と心が、世界の在るべき姿だった。
「──分かり、ました」
 咲夜が返事を返したその時、二人の後ろで大広間の扉が軽快に吹き飛ばされた。
 慌てて振り向く。その薄霧の向こうに、彼女は居た。
「みぃつけた」
 にやりと笑ってチルノは堂々と歩を進める。その一歩一歩が、彼女の体躯に似合わぬ重さを持っているように咲夜は感じた。
 咄嗟に諏訪子は構えようとするが、しかし歯を食い縛って咲夜の方に向き直った。抵抗は無力。ならば、やるべき事はただ一つ。
「さぁ、早く答えるんだ! 下手に神の力を貸すと失敗してしまうよ! 貴方が男とにゃんにゃんした事があるかどうかで、幻想郷の命運が決まるんだっ!」
「にゃん──!?」
 言葉のセンスにすら突っ込ませない程の勢いで、諏訪子がずいとにじり寄る。その表情は真剣だ。
 自分でも分かっている。残された選択肢は、たった一つしか無いことに。
「さあっ!」
 諏訪子が声を張った。その切迫した表情と対照的に、咲夜の顔色は究極に複雑な色に染まっていく。
 それでも、
 彼女は、やるしかなかった。
「……ッ!」
 大きく息を吸い込む。大広間の冷たい空気が、のぼせた頭を冷やした。

 咲夜は、高らかに叫んだ。


「──処女ですよっ! まだキス一つしたことない、ピチピチの生娘ですよぉっ!」


 清々しい程に、吹っ切れた。

「いよっしゃぁああああっ!」
 応える諏訪子の咆哮。
 右手を天に振り上げ、己の力を一点に集める。
 大気から、大地から、彼女は気を結集し、神の力を練り上げる。
「よくぞ言ったぞ、十六夜咲夜ぁっ!」
 光を掲げるその姿は、戦の勝鬨を上げたようにも見えた。
「させるか!」
 二人の異変に気づいたチルノが一直線に飛んで来た。暴力的なまでに踊る冷気が大気を揺るがす。その軌跡は、御神渡りのように氷のわだちを刻んだ。
 諏訪子の手が静かに翳される。
 途端、咲夜の体が金色の光に包まれた。
 心を撫でられるような暖かい光の衣は、次第に輝きを増して行く。
 直ぐ側までチルノが接近していた。獣のような咆哮と共に、その狂気が振り下ろされる。
 だが、諏訪子はそれよりも一瞬早かった。
 目が眩むような光が、大広間に発散した。

 咲夜は自分の体が空間に溶けて行くように感じていた。
 眼球が肉体から離れ、視界の三百六十度を全てを見渡す感覚。さらにそれは波のように広がり、床や壁をすり抜けて行った。
 天井と壁がただ一点で交わっている。壁の向こうを見ようとすると、壁面が視界の裏にぐるりと回り込んだ。平面を自分に向かって折り畳みながら一点に吸い込んで行く。いくつもの風景を視界の奥に追いやると、手前に霧の湖が姿を現した。
 やがて、浮遊感に囚われていた感覚が徐々にクリアになる。拡散した自分の手足が丸みを帯び形成されていった。
 ときどき自分の体達に触り合いながら、しかし干渉模様を作ることなく肉体は創り上げられていく。
 頭は冴え渡り、波動関数は収束する。見慣れた世界が自分の感覚に当て嵌った。
 
 彼女は、十六夜咲夜という現実に収束した。





 衝撃の後の大広間は、塗り潰したような白い霧に覆われていた。
 一寸先も見えない視界。だが、その白い霧が晴れる前から、チルノの顔はうっすらと歪み始めていた。
 数秒の後、緩やかに霧が晴れていく。
 すぐ目の前には氷漬けになった諏訪子が居た。これでもう立ち上がる事はないだろう。しかし、氷の棺桶に閉じ込められながらも勝ち誇ったように笑うその表情が、チルノにはひどく気に入らなかった。
 ゆっくりと、視線を横にずらして行く。そこでチルノは、その人物の姿を視界に捉えた。
「──ようやく、分かったわ」
 凛とした、心に刺すような声。
 チルノの視線を受け止めながら、咲夜は静かに顔を上げた。
「私が未来に抱いていた漠然とした感覚……あれは、未来を見る事が、人の意思に触れるのと同じ事だからだったのね」
 独り確認するようかのように、ぽつりぽつりと言葉を紡いでいく。その視線は、ただ虚空を見ていた。
「未来とは意思、ね。随分遠回りな答えだけど、今ならようやく理解出来るわ」
 咲夜は胸に手を当てながら、語りかけるように言う。
「紅魔館の意思は、今ここにある」
 その時、不意にチルノには咲夜の体が一回り大きくなったように感じた。
 チルノは認めたくはなかった。僅か一瞬とはいえ、自分の中に生まれた感情。それが咲夜に対する畏怖であることに。
 冷徹な、そして確固たる意思を秘めた瞳がチルノを捉えた。
 二人の視線が絡み合う。拮抗する二つの意思は、それぞれの未来への道を譲ろうとはしなかった。

「決着をつけましょう」





 咲夜は右手に握ったナイフを掲げた。
 チルノの怪訝な顔でそれを見つめる。その視線を受けながら、咲夜はすうっと息を吸い込みナイフを強く握りしめた。
 鋭い呼吸と共に剣先を一直線に床に突き立てる。甲高い銀の反響音と共に、大広間の床一面から、それらは突如として飛び出した。
「ッ!?」
 チルノは反射的に飛び上がっていた。金属同士が擦れ合う豪快な音が彼女の耳をつんざく。宙に浮かびながら、彼女はようやくその光景を認めた。
 それは銀色の剣だった。大広間の辺り一面に何百、何千という刃が辺り一面に突き出している。まるで刀の草原だ。ほのかに煌く銀光が圧倒的な物量を以てして、奇異でありながらも荘厳な雰囲気を醸し出していた。
 チルノはふと息を飲み、そして咲夜に鋭利な視線を刺した。一方の咲夜はチルノの視線を受け止めながらも、しかしどこかぼんやりとした面持ちで、辺りに突き立つ銀剣の群れを見回していた。
 自分がやった事に驚いているような、そんな様子だ。
 それもそうだ。実際、彼女は自らの力に畏怖していた。
──これが、神様の力
 いつかの月での戦闘。その際、彼女と戦った月の使者が見せた技だ。まさに神懸かりとも言える月の使者の所業を、咲夜はたった一度だけで模倣してみせた。いや、正確には模倣する事が出来てしまった。
 改めて己に授かった力をしみじみと実感する。成る程、確かに世界が見違えたように見える。溢れんばかりの力ではなく、全身の気を剣先の一点に集中させたような鋭敏な感覚がそこにある。今のチルノのように、自分なら全てを理解出来る、自分なら何でも出来てしまうと過信する程の人の身に余る力だ。ともすれば、このまま力に溺れてしまうかもしれないと暗い気持ちさえあるくらいだ。
 だが、これで差は埋まった。
 咲夜は視界を広げる。床一面に林立している剣はダガーとショートソードの中間ほどの細身の剣だ。諏訪子の坤を創造する能力を借りる事で、地層の銀を集め刃を精錬したものだ。諏訪子はより物質的に安定な鉄を用いていたが、咲夜は自らの武器足り得る銀を選んだ。
 彼女はその内の一本を引き抜く。見た目より軽い感触が手に伝わった。
 咲夜は跳ねるように腕を振り、その剣をチルノ目掛けて投擲した。
 チルノが慌ててそれを躱す。しかし攻撃は一度ではない。咲夜はさらに側にある刃を手に取り、投げる。刃渡り六十はあろうかというその武器を、彼女はダーツのように軽々と放っていた。
 三度目の投擲。迫る刃を見据えて、そこでようやくチルノは時を止めた。息を継ぎ、彼女は腕を振るう。暴力的な冷気が風と共に凪ぎ払われ剣を吹き飛ばした。そして、チルノは噛み付くように叫んだ。
「やっぱり、やっぱりかっ! あんたも、神になったってわけね!」
「神? いえ、少し違うわね」
 その問いに、咲夜は静かに答える。
「今の私は巫女であり、メイドでもある」
「何だと! ってことは、えっと、巫女メイドかっ!」
 ニッチな単語を吐きながら、チルノは苛立ちに歯を食いしばった。体勢を整える暇も無く、目の前からさらなる刃が飛来する。彼女は表情に明確な憤りを見せながら、しかしただそれを避けるしかなかった。
 宙で旋回して避け続けるチルノに対し、咲夜は走りながらも攻撃の手を休めない。地を駆けながら剣を引き抜き投擲。立ち止まり、両手に剣を拾って同時に打ち出す。後ろに振り向く際、遠心力を利用しての射撃。反撃の隙さえ与えず、ただ咲夜は投げて投げて投げ続けた。大広間の中空が、何閃もの銀光で埋め尽くされていく。
 だが、チルノも防戦に尽くすだけではなかった。
「いい加減に、しろおおおおっ!」
 チルノの咆哮。それが反撃の合図とばかり、彼女は力任せに両腕で空間を振り抜いた。
 途端、大広間を揺るがす程の途轍もない衝撃が渦を巻く。身を裂く冷気は、荒れ狂う獣のようなブリザードだ。その暴風に、それまでチルノに向かっていた剣が力なく吹き飛ばされ、地上に突き立つ無数の剣さえもが暴力的に薙ぎ払われた。
 咲夜の視界が一瞬の内に白く塗りつぶされる。彼女は姿勢を低くして反撃に備えた。
 数秒後、視界の晴れた彼女の目に映ったのは、宙に浮く巨大な氷塊だった。
「ペシャンコだっ!」
 叫びながら、チルノは自分の背丈十倍以上もある氷塊を掲げ、一気に咲夜に向けて放った。 振り下ろす、という表現の方が近いだろうか。最早そこに加減は無い。そう感じさせる程の威圧感が、逃げ場のない咲夜を押し潰さんと降り迫った。
 辺り一面に陰が落ちる。それでもなお、咲夜はきっと氷塊を見据えて静かに剣を取った。彼女が柄を力強く握り締めた途端、その銀の刃がより一層鋭い光を放ち始める。
 音もなく、三日月の軌跡が煌めいた。
 一瞬の後、氷塊は自由落下を止めたかと思うと、ギンと甲高い音を大広間に轟かせた。その直後、氷塊がズレ落ちるように二つに割れた。咲夜の持つ銀の剣が、その十倍以上の大きさの氷塊を真正面から両断したのだ。
 宙で割れた二対の氷塊は道を開けるように咲夜の両側へと落下する。衝撃で砕けた氷の破片が舞い、吹雪のように静かな大広間を彩った。
 咲夜は毅然と立ち上がる。先程までと変わらぬ勇姿に、しかし一つの変化がある。彼女の手に握られた銀の剣。見ると、その刀身は今や向こう側が透けるほどの薄さになっていた。髪の毛一本の厚みもない、朧げな銀光を放つ光の帯のような剣がそこにあった。
「……単分子剣ね」 それを見抜いたチルノが苦々しく呟いた。「それ、斬れるにしてもかなり技術が要ると思うんだけどさぁ」
「神業なら問題無いでしょう」
 ついと返した咲夜に、チルノはより一層敵意を剥き出しにする。
「本当にさぁ! 気に食わないよ、あんたはっ!」
 チルノは一直線に咲夜に向かって宙を翔けた。その手に生成された氷の剣は、先程と同じ氷の剣が握られている。咲夜は舌を鳴らすと、さっとしゃがみ込み床に手を付いた。
 ふつふつという音と共に床が見る見るうちに銀色の水溜りのように変化していく。それは次第に粘性を増して行く。そこで一瞬その表面がキンと強張ったかと思うと、その直後、館の柱ほどもある巨大な銀の大剣が銀の水溜りから勢い良く姿を現した。
 質量に似合わぬ凄まじい勢いのまま、地面から突き出た大剣はチルノを貫かんとばかり、さの刀身をぐんと伸ばしていく。
 だが、チルノの取った行動は回避ではなかった。
「邪魔だああああああああっ!」
 その大剣を前にして、チルノは有らん限りの声を上げながら氷の剣を大きく真上に振りかぶった。真正面からの唐竹割り。無謀とも思えるその攻撃は、しかしあろうことか銀の大剣を水飴のように易々と切り裂いた。
 チルノは重力に身を任せ、大剣を引き裂きながら落下する。そのまま根本にいる咲夜ごと両断するかと思われた直前、咲夜はバックステップでこれを躱す。身を翻して、先程彼女が割った氷塊の上に飛び乗った。
「逃すかっ!」
 大剣を薙ぎ払ったチルノは地面に着地すると、続けて跳ねるように氷塊に向かって飛んだ。そのまま手を突き出し、ばんと掌を氷塊に押し付ける。ただそれだけで、巨大な氷塊に変化が起こった。
 ぐらり、と咲夜が足場を失ったようにバランスを崩した。否。それは比喩ではなく、文字通り足場が無くなったのである。咲夜が乗っていた巨大な氷塊の片割れが、一瞬にして水に融解したのだ。
 足首が水球にずぶりと浸かる。眼下でチルノがほくそ笑んだ。氷塊の形から崩れかけていた水球が、チルノによって瞬く間に氷へと再氷結される。だがその氷は、嵌り込んだ咲夜の足を捉えていた。
 すかさず豹のように目をたぎらせたチルノが、再び氷の剣を握りしめて氷塊の上の咲夜へと跳躍する。咲夜に迎え撃つ術は無い。
 咄嗟に、彼女は銀剣を足元の氷塊に突き立てた。その衝撃でガラスのように砕け散る単分子剣を代償に、氷塊に大きな亀裂が生まれた。好機と見て力一杯足を踏ん張ると、咲夜の足が氷塊から抜け出す。勢いのまま、彼女は斜め後ろに体を投げ出した。
 寸前で振るわれたチルノの氷剣を彼女は何とか躱しす事が出来た。血肉と引き換えに、スカートの裾が真空波によって裂かれる。足元を狙って殺さずに倒そうとしているあたり、チルノの中に冷静は残っているようだ。捉え損ねたチルノの顔が小さく歪んだ。
 咲夜は緩やかに床に着地した。彼女達は示し合わせたかのように視線を交差させる。氷塊の上から見下ろすチルノと見上げる咲夜。最初に会った時と全く同じ光景がそこに広がっていた。
「ああもうっ! ちくしょう、ちくしょうっ!」
 怒りを隠そうともせず、チルノが噛み付くように叫んだ。
「あんたさえ居なければあたいの夢が叶うのに! あたいは、未来を知る事が出来るのに!」
 それを受けて、咲夜は静かに問い返した。
「未来を知る、ね。未来を知って、本当の意味での神にでもなるつもり?」
 その問いにチルノは首を横に振る。そこで咲夜はふとした違和感を感じた。
 何時の間にか、チルノの表情に僅かに憂いが滲み出している事に気が付いたのだ。それまで戦っていた荒々しさは薄れ、一瞬だけ、年相応の少女のような陰りが滲み出ていた。
「あたいは、あたいはただ──自分が、いつ死ぬのかを知りたいだけだ」
 チルノはどこか独りごちるように口を開く。思ってもみなかったその言葉に咲夜は意表を突かれた。
 目の前にいるのは確かに妖精だ。死の概念が極端に薄い、人間と対極の位置にいるもの。それに加えて『チルノが』である。いくら知能を得たからと言って、自由奔放と傍若無人を絵に書いたようなチルノが、よもや死について語ろうとは。
 未来を知る──自分がいつ死ぬのかを知る──そこから考えを短絡して得た答えに、咲夜は一つの目星をつけた。
「成程ね。自分がいつ死ぬかを予め知っておいて、死を回避しようということかしら」
 いかにも妖精らしい単純な考えだと咲夜は嘲るり
 しかし、チルノはきっと咲夜を睨めつけて、
「違うっ!」
 振り払うように、その意思を力強く否定した。
「死から逃げる事が出来ないなんて、あたいだって分かってるよ! 生きてる奴が、誰だって死ぬことぐらい!」
 声を荒げて反論する。その時ばかりは、チルノが等身大の妖精のように咲夜には見えた。それどころか、妖精の気楽ささえ失いかけているように見える。何かに必死に抵抗しているような、そんな叫びだった。
「あんたは死が何なのか考えた事があるか? いつどこからやってくるか分からないし、何故それがあるかも分からない。だから人は死を恐れる。妖怪だって、自分達の消滅を怖がって逃げてきた先がこの幻想郷なんでしょ? そうさ、分からないから怖いんだ。だから──あたいは、『死』が何なのかを知りたいだけだっ!」
 言い放つと、チルノの気が爆発するように膨らんだ。そのまま氷塊から跳躍しつつ両手に冷気を集める。最初の荒々しい力とは違い、どこまでも密に凝縮させた力だ。そのまま彼女は柏手のように両手を合わせる。その手が地面に振り下ろされる寸前、咲夜はチルノが何をしようとしているかを瞬時に理解し、咄嗟に地を蹴った。
 チルノが着地と同時に地面を叩く。途端、豪快な炸裂音と共に、床一面にびっしりとツララが突き出した。先程の咲夜の真似事だろうか。足場は無いとみて、咲夜は壁に垂直に着地した。
「そんなものを知ってどうすると言うのかしら。死ぬしかないと分かっているのに、貴方はそこから何を求めるの!」
 問い掛ける咲夜に、休む暇もなくさらなる脅威が迫る。床に突き出したツララが、打ち上げるように一斉に彼女の元に飛来してきたのだ。 咲夜は壁面に垂直に立ち、そのまま壁伝いに水平方向へと駆け出す。その足跡をなぞるようにチルノのツララが追いかけて来た。
「そんな事、決まってる!」
 攻撃を放ちながら、チルノが高らかに答えた。
「未知への『畏れ』は最も存在を強くさせる。だけど、誰も『死』という未知には打ち勝ってこなかった。だからあたいは『死』に──いや、あらゆる未知に勝ちたい! 全てを知り、全てを理解した時、あたいは本当の意味で全ての畏れのてっぺんになれる!」
 辺りにガラスの割れるような音が反響する。咲夜は大広間の空気が重くなったように感じた。
 大広間を見渡し、そこで彼女はその変化を知る。それまであった大広間の氷は全て溶けており、水流となってチルノへと渦を描くように流れていたのだ。
「……そうか」
 畏れの頂点
 チルノの見据える最終目標。それは彼女なりの解釈であり、真実かどうかは定かではない。
 全ての未知を抹消する為には、過去と現在だけではなく未来の未知さえも知らなければならない。だから時間さえも股にかけて、彼女はその全てを知ろうとしたのだ。
 これこそが、チルノの真の計画だった。あらゆる畏れを乗り越えるための、純粋なる力への意思。
 全ては、ただ一つを手に入れるために。
「そうだ、あたいは『覚悟』が欲しい! 何も畏れない強さが! 波動関数の中でも揺るがない意思が!」
 刺すような冷気が大広間に飛び散った。
 咲夜が一瞬だけ眼を閉じる。次に開いた時、彼女の目に映ったものは、チルノの側に現れた氷の巨像だった、
「氷の蛇とは、いよいよ本性を現してきたわね」
 苦笑を漏らした咲夜。それを嘲笑うかのように、現れた巨大な氷の蛇は鎌首をもたげた。
 人間を一飲み出来るほどの巨大な頭。大広間の端から端まで届くくらいの体。透き通った氷の鱗。刺すように振りまかれる冷気がなくとも、相手を震え上がらせる事が出来る姿だ。
 咲夜が受け継いだ諏訪子の知識の中にその巨蛇の形はあった。そう、諏訪子の召喚する巨蛇に似ているのである。しかし蛇は本来、もう一柱の神奈子の象徴するところだ。チルノにはその神奈子の力が宿っている。どちらが模倣かと言えば答えは明白だろう。
 チルノの目が真っ直ぐと咲夜を捉える。傍らで、ぱきぱきと音を立てながら氷蛇がゆっくりと顎を開いた。
 そこにはもう先程までの憂いは無い。ただ己を信じ、己を貫き通そうとする確固たる意思が瞳に宿っている。
「あたいのこの意思だけは──誰にも邪魔させないっ!」
 その声と同時に、氷蛇が跳ねるように咲夜に向かって突撃した。
 大口を開いた氷蛇が壁面の咲夜に猛接近する。迎撃は不可能。彼女は際どいところで壁を蹴りつけ、体を宙に踊らせた。既にその手には新たに生成した銀剣が握られている。
 標的を逃した氷蛇が凄まじい勢いで壁に激突した。その轟音と衝撃に館全体が震え上がる。だが、壁にめり込んだ氷蛇は首の先から粉々に砕けてしまっていた。
 やはり氷の強度か。そう思った咲夜の目の前で突然、氷蛇の体が一瞬のうちにどろりと溶解した。蛇の形を保ったまま氷から液体へと変化したそれは、うねうねと胴体をくねらせながら壁の穴から這いずり出たかと思うと、あっと言う間に凍り付き、元の巨大な頭を持つ氷蛇へと戻っていた。
「形状は自在って訳ね。厄介」
 咲夜はそう零しながら、再び突撃して来る氷蛇の胴体の隙間に潜った。巨体の背に着地すると同時に、彼女はさっと振り返り剣を横に凪いだ。その切っ先で、何処からか飛来してきたツララが粉々に砕け散る。見ると、氷蛇の巨体の影からチルノが姿を現した。
「うらあああっ!」
 雄叫びを上げ、右手を包んだ荒削りの氷塊を振り下ろす。咲夜は咄嗟に振るった剣を返し、目の前に構え直した。
 爆発が起きたかと思うほどの衝撃が咲夜の両手に叩き付けられた。足場にしていた氷蛇の巨体でさえ、その衝撃にびりびりと揺らぎ、氷の鱗に小さな亀裂が走った。咄嗟に咲夜は体捌きを変え、チルノの攻撃を受け流す。そのまま後方に跳躍。だが、体を捻った氷蛇がその顎を咲夜に向けている。彼女は噛み砕かんと迫る牙を上空に避けて躱すと、そのまま頭に着地。宙を這う氷蛇の胴体を、滑るように駆けて行く。
「はっ、お互い危なっかしいね!」
 息を弾ませながらチルノが叫んだ。
「あんたがこれから一生、時間を操る能力を使わないというのなら、あたいもあんたに危害を加えないと約束してやるんだけどさ!」
「お断りね。それはもう、私という存在の否定だわ」
「ああそうかい!」
 追いかけるようにチルノがツララを放つが、咲夜は氷蛇の巨体に隠れるようにしてこれを躱し続ける。
「なんで、どうしてそこまで未知の『未来』に拘り続けるんだっ!? 始めから決められていても、そうでなくても一緒でしょうが! 可能性から生まれた意思であるのと、機械的に作られた意思であるのとに何の違いがある。そんなこと、あんたたちには区別出来ないじゃないか。だったら同じなんだ!」
 氷蛇が勢いよく尻尾を振り上げ、地面に叩き付けた。背に乗る咲夜は衝撃を避け、近くの壁面に吸いつくように着地した。そこへ、チルノが風を切って飛翔する。
「ガリレオが地動説を唱えたところで地球がひっくり返った? ラザフォードががらんどうな原子構造を見つけた時、人間が地面をすり抜けたりしたの? 違うでしょうがっ! 真実は、現実を何一つ変えたりはしない!」
「いいえ──変わるわ」
 咲夜の視線がチルノを射抜いた。チルノは一瞬体を硬直させ、そして気付いた。咲夜が足場にしている壁面が、眩むほどの銀光沢に塗りつぶされていたのだ。
「世界が意思によって作られる限り──誰も、他人の意思を左右する権利は無いっ!」
 銀に染まった壁面が大きく波打った。そして、その波紋の中から、咲夜の背丈ほどもある銀の刀身が姿を表した。
 切っ先だけでこの大きさだ。そこから推量出来る全長は、小さな帆船ほどの大きさとなるだろう。
 チルノが慌てて体制を急転させた。声を漏らし、咄嗟に右手を翳す。彼女が時を止めるのと、壁面から巨大な銀剣が飛び出すのは同時だった。
 だが、チルノの安易な行動は覆される事になる。
 静寂の世界。その世界の時間が止まってもなお、巨大な銀剣はチルノを射抜かんと宙を貫き続けていたのだ。
「んなっ!?」
 チルノの顔が一瞬にして青ざめた。だが判断は早い。咄嗟に体を投げ出すようにして銀剣から横に軸を外す。回避はほとんど運だった。まさに皮膚一枚というチルノの体の側を、風で唸りをあげる巨大な銀剣が横切った。避け損ねた左手に小さな切り傷が走る。
 しかしそれでもなお、咲夜の顔には小さな笑みが残っていた。
「まとめて倒すのは虫が良過ぎるわね。けど、今はこれで十分」
 チルノに躱された銀剣はなお速度を増して風を切る。そしてそれは圧倒的な質量を持って、チルノの真後ろにいた氷蛇を串刺しにした。
 床を穿った衝撃に再び館が大きく震える。剣に胴を貫かれた氷蛇は、痛みを感じるかのように悶えて身を跳ねた後、弾けるようにして水に飛散した。
「狙いはそっちか。でも、また凍らせればすぐに……」
 ほくそ笑んだチルノの表情は、しかしすぐに曇りが滲む事になる。
 水に戻った氷蛇はどういうわけか、元の蛇の形にはなろうとせず、ぐにゃぐにゃと歪みながら氷と水の状態を行ったり来たりしていた。まるで雨に打たれた粘土細工のように、いびつな姿のまま床の上をのた打ち回っていた。
 なぜ凍らない──そう考えているのだろう、チルノが目に見えた色で狼狽する。その後ろで、上手くいった、と咲夜が小さく呟いた。
 咲夜の召喚した巨大な銀剣。それがチルノの氷蛇を貫いた時、彼女はその水に地中から掻き集めたヨウ化銀を打ち込んだのだ。その結晶構造は氷と非常によく似ており、水の凝固を誘発させる。自身が核となる事で、水を無理矢理に氷にしてしまう性質を持つ。咲夜はこれを逆手に取り、あえて水にヨウ化銀を打ち込んだ。チルノは水分子同士の相互作用を制御し、凝固と融解によって氷蛇を操っていた。ここに水以外の物質が混じる事で、水素結合は掻き乱され、精密な水分子の制御は失われる。咲夜はそれを狙ったのだ。
 これでもう氷蛇は使えない。
「あんたは……あんたは、どこまで……!」
  チルノが歯を食いしばり息巻いた。先程の時間停止中での攻撃、加えて、自分の攻撃の手を潰された事に、様々な感情を含ませてチルノは声を荒げる。
「どこまであたいの邪魔をすれば気が済むんだ! あたいの計画に、その上、あたいだけの時を止めた世界にも!」
 チルノの裂帛の気合がそのまま冷気となり咲夜に襲い掛かった。咄嗟に咲夜は何百もの銀剣を生成して放ち、防御に近い弾幕で前面を覆った。獣の突進の如き冷気は、その銀幕を一瞬にして凍り付かせ粉々に粉砕した。
「言ったでしょう。世界は、貴方だけのものではないと!」
 咲夜の脚が壁面を掴み、風を切るように飛んだ。踏み込みの音だけが遅れて彼女の動きを伝える。無論チルノはそれを知覚する。が、体が速さに追いついてこない。
 横薙ぎに銀色のナイフが振るわれる。チルノは半ば投げ出すようにして、咲夜の懐に体を潜らせた。だが次の瞬間、チルノの真横から回し蹴りが飛んできた。ナイフを振るった咲夜が、その回転の勢いのまま体を捻り蹴りを放ったのだ。
 チルノの体がボールのように蹴り飛ばされる。有効打──ではない。よく見ると、ガードしたチルノの左手は氷に覆われている。実質咲夜が与えた衝撃は半分以下だろう。チルノは体勢を整え壁に着地する。
 彼女達はもはや一介の妖精と人間ではない。そこにいるのは、神の力を宿した意思ある者達なのだ。
 未来を掴むのは、より強い意思を持つ者だ。
「ああああっ!」
 チルノが吠える。大広間の壁面が布を広げたかのように床から天井まで一瞬にして凍り付く。壁面に等間隔にツララが並んだ。まるで艦隊の一斉放射だ。そしてそれらは同時に、咲夜という敵のただ一点に射出される。隙間がない程に埋め尽くされた弾幕は、咲夜を穿つ巨大な槍のように見えた。
 迫る脅威に対して咲夜の打った手は、逃げではなく反撃の一手。
 大広間の床が銀色に染まり、生き物の様にゆらりとせり上がった。そこから飛び出したのは、都門の如くそびえ立つ銀の盾。
 轟音と、衝撃。
 神々の矛と盾が、真正面からぶつかり合った。
 あらゆる音が飲み込まれ、空間を伝わる余波がびりびりと二人の体を蝕んだ。盾に弾かれた無数のツララは砕け散り、煌めく破片が空間を彩って行く。チルノの攻撃は終わる気配を見せない。次第に、一点を穿たれ続ける盾にも瓦解の兆しが見え始める。だが、チルノの弾幕も徐々に密度を薄めて行く。
 鳴り止まぬ打々発止。やがて、遂にその瞬間は訪れた。
 無限に続くかと思われたチルノの攻撃が、この一発を以て終わりを告げる。最早砂上の楼閣と化した銀の盾に、そのツララが衝突した。
 ツララは砕け散る。同時にその大盾も、積み木崩しのように静かに崩れ去った。
 その直後、崩れ去る瓦礫の隙間から、咲夜が疾風のように空を駆け出した。
 交差する視線。咲夜の手には銀の剣。そして攻撃を終えたチルノは、僅かに身を引いたのみ。
「私の、勝ちね」
 後はその右手を振り抜くだけ──のはずだった。
 しかし、
 チルノが返したのは、悔恨ではなく泰然の色たった。
「いや──あたいの勝ちだ」
 直後、咲夜の体は針で縫い付けられるように宙に停止した。
 咲夜の目が驚愕に見開かれる。彼女の意思に反して、体はぴくりとも動かなかったのだ。
 一体何が起こった──咲夜は即座に視線を遣る。チルノが一歩も動いていない。目に見える攻撃もない。あるのはただ、白霧のようにただよう無数の氷の破片。
「……まさ、か」
 そこで、咲夜は全てを理解する。今度こそ、チルノの顔に笑みが浮かんだ。
 ツララが砕かれる事によって空間に撒かれた氷片。チルノはその無数の氷粒の全ての運動を操ったのだ。一つ一つが針の穴に糸を通すような精密な動作を、彼女は気の遠くなりそうな回数を重ね、空気中の物体の動きを制御していた。空間そのものを凍り付かせた、とでも言うだろうか。
 空気そのものに重みがある。今の咲夜は、重い砂の中にいるような感触を味わっていた。
 動かぬ咲夜の目の前で、チルノがゆっくりと前に傾いた。
「しまっ──」
 気づいた時には、既に衝撃があった。
 後ろに弾かれた咲夜は、そのままゆっくりと落下していく。
 乾いた音と共に、彼女の体は冷たい床にぶつかった。その上空から、急速に声が降りてくる。
「咄嗟に、銀剣を盾に変えたのね。でも、もうおしまいだ!」
 咲夜は何とか体勢を立て直そうとして、しかし自分の手足から石のような重さが伝わるのを感じた。
 防御した右手は痺れて動かない。避け損なった左肩から先はずしりと氷が張り付いている。両足は、叩き付けられた時の衝撃と疲労で棒のようだ。僅かに身を起こしてチルノに視線を投げる──それで、今の咲夜には精一杯の反抗だった。
「世界そのものであるあたいが負ける事は──絶対に、ないっ!」
 間髪入れず、チルノが飛翔する。隕石のような勢いで、咲夜に止めを刺さんとばかりに急降下してきた。
 右手には溢れんばかりの冷気。空気を凍らせて、彼女は宙を切り裂いて行く。
 今度こそ助けは無い。逃げ場は──どこにもない。
 正真正銘の、絶体絶命。
 風を切る音が聞こえた。チルノが目前に迫っている。二人の視線が一直線に並ぶ。
「これが、世界の意思だ!」
 彼女の意思を乗せた右手が、ゆっくりと振り下ろされる。
 そして──


 咲夜は、世界の時が減速していくのを感じた。
 周りの景色がスローモーションで流れていく。走馬灯──ではない。それは集中だった。
 敗北が迫るまさにその直前まで、咲夜の瞳に意思は消えなかったのだ。
 ──考えろ。
 周りの世界に反して、彼女の思考は目まぐるしい勢いで回る。
 あらゆる知識、あらゆる記憶、あらゆる策が、彼女の頭の中を巡っていった。
 彼女の意思は、まだここにあるのだから。
 ──意思?
 その言葉が、心に触れた。それにつられて、彼女の記憶から声が浮かんで来る。

 『宇宙はもともと、波動関数のまま一つに繋がっていたはずなんだ』
 
 『妖精は世界との繋がりを信じる事によって世界を操っている』

 最後の言葉が、咲夜の心に浮かび上がる。
 
 『じゃあ貴方は、どうして時間を操っているのかな?』

 ──そうだ
 天啓が、彼女の脳に穿たれた。
 ──未来を定めるのは波動関数。『世界』を操るは、自分が世界そのものであるという確固たる意思。それなら、『時間』を操る意思は
 咲夜の瞳に光が宿る。
 ──ああ、そうか
 彼女は、その意思に辿り着いた。


 ────私は、『時間』そのものだ
 

 瞬間、
 大広間は、青白い閃光によって切り刻まれた。



 

 巻き上げられた砂埃がゆっくりと晴れる。
 そこに現れた大広間の光景は一変していた。大広間の真ん中には、爆発が起きたかと思うほど床に大きく空いた穴が出現していた、
 そして、その端には──壁に叩きつけられ、磔のように浅くめり込んだチルノの姿があった。
 チルノは壁な大きなクレーターを作っていた。天井にまで達して同心円状に広がる壁のヒビが、彼女の受けた衝撃の熾烈さを物語っていた。
 やがて、重力はゆっくりとチルノを壁から引き剥がしていく。転がる壁石と共に、遂に彼女は力無く床に倒れた。
「……ぐ、うっ……」
 チルノが小さく呻いた。だがその顔は、苦痛というよりも呆然に支配されているような色である。
「嘘、だ……そんなこと、が」
 うつ伏せに声を漏らす。心ここにあらず、という言葉がぴったりだろう。それ程までに、今の現実は彼女の理解を遥かに超えていた。
 チルノは回想する。衝撃が来る前に一瞬だけ見えたのは、咲夜の背後より出づる青白い光に包まれた『何か』
 自然では見る事が決してかなわないその光の像を、チルノは解析と予測だけで正体を掴んでいた。だがそれでも、彼女はその現実を認めようとはしなかった。
 あの青白い閃光が、チェレンコフ光と呼ばれる、幻想の光である事を。
「虚数質量、時間遡行だなんて……そんな、そんな馬鹿らしい事が……」
 信じられるはずがない。認められる訳がない。
 その光り輝く像が──十六夜咲夜の輪郭をしていただなんて。
 じゃり、と砂を擦る音が静かに響いた。
「あ……」
 チルノが表情を蒼白に染める。ゆっくりと、うつ伏せにしていた顔を上げた。
 再び、足音。
「ああ……」
 それは確かに近づいて来る。じゃりじゃり、じゃりじゃり。一歩ごとにチルノの体が僅かに震えた。
 そして、十六夜咲夜は、チルノの前に毅然と立った。
 そこにもう弱さはない。その瞳に宿る意思は、あらゆる輝きを覆せるほどに煌煌と映っている。
 しばらく二人は視線を交わし合う。やがて、逃げるようにチルノが顔を伏せた。
「あたいのラプラスの悪魔が……因果律の終点が……」
 ぽつり、とチルノの声。
 彼女は肉体ではなく、心で泣いていた。
 それは他でもない。彼女自身の本質──意思としての、完全なる敗北だった。
 朦朧とする頭の中で、チルノは勝手に浮かび上がる知識を繋いでいく。
 波動関数の収縮は時間非対称だ。観測によって確率的に一つの現実に定まる過程は不可逆である。可能性が現実になるという時間の矢は、原因が結果をもたらす因果律によって定められている。
 つまり、時間を遡るという事は──
「一度収束した波動関数を、再び元の波に戻すなんて……ふ、ふふふ……そんな、因果律そのものを破る、の……」
 チルノはうわ言のように呟いた。その声にはもう覇気は無い。
 咲夜は何も答えず、ただ静かに歩を進める。右手には、小さな銀が握られていた。
「あたいは……何に、何に負けんだ。時間……? それと、も……」
 徐々に声を失うチルノの前で、ゆっくりと、咲夜は手を振りかぶった。
 凛とした声が、静寂な空間に響き渡る。

「それは、十六夜咲夜という──紅魔館の意思よ」

 一閃の銀光が煌めく。
 それが、彼女達の戦いの終止符だった。





 神奈子の居場所が分かったのはそれから三日後の昼だった。
 諏訪子につれられて咲夜がやってきたのは、妖怪の山の池のすぐ近く。神奈子は小さな洞窟に姿を潜め、その入口を大岩で塞いで引き篭っているとの事だった。ご丁寧に結界まで張ってあるらしい。痺れを切らした諏訪子が神社から早苗を呼び付けその洞窟の前で服をひん剥き裸踊りをさせようとしたところ、早苗の貞操を危惧した神奈子が慌てて大岩を吹き飛ばし姿を現した事で、この騒動は決着と相成った。
「で、一体何が目的だったのさ?」
 地面に座し、顔を俯かせる神奈子に対して諏訪子は尋ねた。沈痛な面持ちを見せる神奈子を、諏訪子は冷たい目で見据えている。側にいた咲夜は思わず生唾を飲んだ。立ち入る事が憚られる程の重苦しい雰囲気。本物の神同士が見せる沈黙の重圧は、見ているだけで息が詰まってしまいそうだった。咲夜もまた、気を張り詰めて神奈子の返答を待った。
 そして、神奈子の口が静かに開かれた。
「……だって」
 ──だって?
 子供のような口上から始まったそれに、咲夜は一瞬理解が追いつかなかった。
 神奈子がぐいと顔を上げる。その目尻には、うっすらと涙が溜まっていた。
「だって、諏訪子が最近私に構ってくれないんだもん! こ、この前だって、私や早苗に内緒で核融合炉作ったり、巨大人形作ったり、河童と一緒にバザー企画したりしてたじゃない! こっちに来てから他の人とばっかり遊ぶようになって……私寂しくなって……それで……つい意地悪してやろうと……氷の妖精に力を与えて、幻想郷の蛙を凍らせてやろうかと……うぅ……」
「……」
──思春期の子供かっ
 心の中で盛大に突っ込みを入れつつ、ナイフを抜き掛けた咲夜であったが、
「──かなちゃんの、ばかぁっ!」
 諏訪子の響き渡る怒声によって静止させられた。
 驚いたのは神奈子も同じようで、うっすらと涙に滲んだ目を見開きながら諏訪子を見つめ返していた。そのまま諏訪子が堰を切ったようにまくし立てる。
「私がこの頃忙しかったのは、早く核融合炉を完成させて神社の生活を良くしようと思ったからだよ! 初めてこっちに来た時、『トイレは洋式がいいなあ」ってかなちゃんは言ってたじゃない! それに早苗も、洗濯機が欲しいって! だから私は、二人の喜ぶ顔が見たくて頑張ってたんだよ!」
「す、すわちゃん……」
 ぽつりと呟く神奈子。その傍らで、咲夜は完全に割って入るタイミングを失っていた。
「ごめん……私は、私は……!」
 ぽろぽろと大粒の涙を流す神奈子の肩を、諏訪子はそっと抱きしめた。
「いいんだ……二人の気持ちを考えなかった私も悪かったよ。今日は、三人一緒に晩ご飯を食べよう?」
「すわちゃん!」
「かなちゃん!」
 ひしと抱き合う二人。そこには神の威厳はなく、ただ自分達の心をようやく交わすことが出来た友情の温かみが溢れていた。
 いつの間にか、半裸で側に佇んでいた早苗も感涙にむせび泣いていた。
「うぐっ、ひっく……諏訪子様……神奈子様……早苗は、早苗は、お二人の側にいられて幸せですっ!」
 その輪に早苗も加わった。
 おいおいと泣き声を上げながらも、三人はお互いの肩を抱き合って微笑んでいた。血の繋がった家族のような仲睦まじい雰囲気。その神聖さを邪魔出来る者は誰もいないだろう。
 ただ一人、十六夜咲夜というメイドを除いては。
「……えっと」
 呆然と立ち尽くしながら、咲夜は何とか状況を整理する事が出来た。
 チルノに力を与えたのは目の前の神奈子である。それはどうしてかというと、諏訪子に構ってもらう為であるという思春期の男児的発想によるものである。ただ、神奈子はチルノがここまでやらかすとは思っていなかっただろう。それでも、原因は原因なのだ。
 つまり──今回の騒動の発端は、
 二人の神様の、ただの仲違いだったという事だ。
「……」
 その瞬間、
 咲夜の頭の中で、決定的な何かが切れた。


 咲夜は重い足取りで妖怪の山を後にした。
 数百本のナイフが刺さりウニの如き姿となった三柱が発見されたのは、その少し後だった。





 その帰路の事である。霧の湖を通りかかった咲夜の眼下に、大きな二つの氷塊と、その氷塊を削ろうとしているのか、にゃあにゃあと喧しい鳴き声を上げながら氷塊をひっかき続ける黒猫が一匹。気になって降りて見ると、あろう事かその二つの氷塊の中身は、八雲紫とその式神の狐であった。
 無視しようかと思ったが、黒猫の鳴き声があまりにも悲痛であったため、咲夜は仕方なく氷を溶かす事にした。
 氷から這い出し、しばらく肩で息をしていた紫であったが、咲夜の無言の問い掛けに耐えきれなくなった様子で、おもむろにその重い口を開いた。
「……えっと、あの妖精思ったより強くてねえ。その、ちょっと懲らしめようと油断して近づいたら……うっかり凍らされちゃった☆」
「もう、紫様ったら☆」
「にゃあ☆」
 おほほあははにゃあにゃあと笑い合う妖怪と式神と黒猫。どうやらこの妖怪の賢者は、先日の騒動の際、真っ先にリタイアしていたらしい。
「……」
 数千本のナイフが刺さりウニの如き姿となった妖怪の賢者が発見されたのは、そのだいぶ後だった。





「そもそも、最初から無理な話だったのかもね」
 カップを持ち上げたレミリアが、彼方の湖を見遣りながら言った。
「全ての未来を知る力があったとしても、その未来の中に『自分』を含めるかどうかの問題は消えないわ」
「どういう意味でしょうか?」
 聞き返しながら、咲夜はテーブルにポットを置いた。ゆっくりとレミリアが紅茶に口を付ける。その肩には小さなカーディガンが掛かっていた。彼女は頬杖を付いて、何となしに答える。
「たとえば『自分』以外の存在の未来を完璧に計算したとしましょう。でもそれは、『自分』の存在を含めた本当の世界を予言したわけじゃないのよね。自分が好き勝手動く度に、未来が大きく変化していく。だからこれは駄目。では、『自分』を含めた未来を計算しようとしましょう。けどね、これも結局は意味の無い事なのよ。分かるかしら」
 咲夜は先日の記憶と共に、頭の中に僅かに残った諏訪子の知識を引っ張り出す。
 世界、可能性、波動関数、ラプラスの悪魔、未来──そして、自らの意思。
 ここでようやく彼女は答えの一片を見つけ出した。気づいたようね、とレミリアがくすりと笑う。
「そう。たとえ『自分の未来』を知ったとしても、そいつはそこから、『自分で計算した自分の行動』以外の事が出来なくなってしまうのよ」
 これは「決められた事しかやってはいけない」という訳ではない。その未来を知った時、これから自分がどう思うか、自分はどう行動すべきかという「自分に問い掛ける思考」さえもが計算されているのだ。波動関数が生まれない世界に、新たな可能性の波は立つ事が無い。計算に沿わない行動や思考は存在せず、誤差が生じる事は永劫になくなる。
 絶対に起こる事は未来ではなく、可能性の無い世界に時間は存在しない。
 結果──自分そのものを含めた未来を知った瞬間、『未来』という可能性は消滅してしまう。
 あるのはただ一つだけ、未来を知りたいと願った『過去の意思』だけになるのだ。
「結局、未来は誰にも分からないわ。いえ、分からない物こそが未来なのよ。確定してしまえば、ただの現実になってしまうのだから」
 それにしても、とレミリアは言葉を続けて言う。
「粒子と波ねえ。面白い話だわ。現実である粒子と可能性である波。物体と意思という二元が、世界を形作っているという事なのね」
 彼女は角砂糖を一つカップに放り込んだ。細かな粒に分かれた砂糖をくるくると混ぜる。一つ一つは粒である砂糖は寄り添って渦を描き、カップの中に新しい模様を作り上げていた。
「言ってみれば──世界は数字と心で出来ている、ってところかしら」
 レミリアがそう言い終えると同時に、後ろのテラスの扉が勢いよく開いた。
「だぁっ! もう、この館はなんでこんな無駄に広いのよ!」
 そこからほとんど地団駄に近い足取りで、チルノがモップを片手に歩いて来た。
 今の彼女はいつもの青色ではなく、黒と白のメイド服に身を包まれている。
「大広間の掃除、やっと終わったわよ! 全く、なんであたいがこんなみみっちい事を……」
「お前が負けたからだろう。敗者は勝者の言う事を聞くものなんだよ」
 不満を漏らすチルノに対し、レミリアがついと言い捨てた。

 紅魔館で三ヶ月のタダ働き。それがチルノに与えられた罰だった。
 これは咲夜が決めた事だ。本来ならスペルカードルールから逸れた罪に対しては八雲紫が審判を下すはずだったのだが、彼女はチルノの処分を咲夜に一任した。理由は複雑である。
「いいじゃん、消しちゃいなよ」
 これは諏訪子の助言である。咲夜にしても特にチルノを擁護してやるつもりはなかったが、チルノの妖精らしからぬ意思に興味を惹かれた咲夜の好事家精神がこれを助けた。
 さらに、咲夜が一番懸念していたレミリアの了承もあっさり取れた。レミリアにすれば寝ている間に勝手に終わっていた事なので特に気にしてなかったのだろう。詰まるところ、面倒臭い事は何もなく今にいたる次第である。
 そして今、神の力と多くの知恵を失ったチルノは、妖精メイドの一員として館に従事する日々を送っているのだった。

「ふーん、敗者ねえ。そこのメイドが言うならともかくさあ、あたいにあっさりと氷漬けにされたのはどこのおバカさんだっけ?」
 チルノは思いついたように皮肉そうな笑みをレミリアに見せた。その言葉に硬直したレミリアは、思わず掴んでいた角砂糖を指から滑らせる。
「あっ、あんな不意打ちナシに決まってんでしょうが! それに、その、紅魔館としては勝ったからいいのよ!」
「はん、どーだか。あんたはその紅魔館の主じゃないの? もしかして、ただのマスコットキャラだったり」
「ふ、ふふふ……どうやらお前には紅魔館のメイドとしての研修が足りないようね。私自らが直々に教えてあげるわ」
 顔を付き合わせてレミリアとチルノはぎらぎらと睨み合った。燃えるような赤い目と、氷のような青い瞳。妖魔同士の殺気立つ雰囲気も、咲夜から見ればあどけない少女同士の戯れにしか見えなかった。
 やがて、戯れはここまでとばかりに咲夜がぱんと手を鳴らした。
「ほら、大広間の掃除が終わったら次はロビーよ。案内してあげるから、付いて来なさい」
「えー、まだやるの……」
「文句言わない。ではお嬢様、失礼します」
 咲夜がそう言って踵を返すと、チルノはしぶしぶ後をついて来る。いかにも不機嫌といった顔を向けるレミリアを残して、二人は館の中に戻って行った。


「──と、ここまででロビーの掃除は終わりね。手順は全て分かったかしら」
 廊下を歩きながら、咲夜はチルノに掃除の指示を出していた。掃除自体はそれほど難しいやり方ではないが、説明を聞いたチルノはとても胡乱な表情を浮かべていた。「……たぶん」と小さく頷く声もどこか弱々しい。咲夜は小さく溜息をついた、
「この前の貴方は無駄に知識をひけらかしていたのにねえ、少しくらい知識を残しておいても良かったでしょうに」
 咲夜がそう言うと、チルノの歩みが勢いを失った。
 二人の距離に差が生まれる。咲夜が足を止めてゆっくりと振り返ると、そこにはどこか寂しげな表情を浮かべるチルノの姿があった。
「未練が、あるのかしら」
 その問いにチルノは答えない。彼女は僅かに顔を下げただけだった。
 咲夜には、チルノの様子が怒りでも哀しみでもないように感じた。言ってみれば、帰り道が分からなくなった子供──寂しさと不安がふつふつと浮かんだような、そんな風に見えたのだ。
 チルノが全ての未知を知る機会はなくなった。何も畏れまいとして、彼女が知ろうとした未来は手の届かないところに行ってしまった。
 彼女は再び、未知の世界に放り込まれた。
 咲夜は物言わぬチルノと向かい合ったままだ。やがて、しばらくチルノを見つめた後、言葉を探しながらゆっくりと口を開いた。
「貴方は、全ての未知を知ることが最も強い畏れ、つまり最強である道だと言ったわね。けど、私はそうは思わないわ」
「え?」
 その言葉に、チルノはさっと顔を上げる。咲夜は話を続けた。
「妖怪というものは心で生きるものなんでしょう。もし仮に貴方が全ての未来を知ったとして、それからどうするの? 全てを今この時間から未来の果てまで全てを知ってしまったら、貴方は何に楽しみを見出すのかしら?」
「楽しみ?」
「そう、楽しみよ」 咲夜は穏やかに頷いた。「知りたい事は全部知って、何から何まで自分の思い通り──逆にいえば、それはもう終わってしまったのと一緒ね。自分のやろうとした事の結果が最初から分かってしまうなんて、恐ろしいとは思わないかしら? 未知が無ければ時間もない。完全過ぎてもう何も入れる事は出来ない。何をやっても満たされない。そうなると……心は、徐々に死んで行くわね」
「あ……」
「妖怪や貴方達妖精にとって、心の死は存在の死なのでしょう? だから、意思を持つ者は誰もラプラスの悪魔になる事は出来ないわ。その悪魔は意思を持たない──心のない科学の悪魔だから」
 結局のところ、彼女は盲目だったのだ。数字だけを追い求め、自らの心の存在を置き去りにしていた。下手に知識を得たために、より愚鈍の深みに沈んでしまったのだろう。
「じゃあ……あたいはどうすればいいの?」
 おぼつかない調子でチルノが尋ねた。頼る縁のないその顔は、まさしく迷子そのものだ。
「それは簡単な事よ」
 そんなチルノに、咲夜は小さく笑いかける。
「未知を楽しみなさい。畏れるんじゃなくて、未知に期待すればいいのよ。これからどんな楽しい事が待っているんだろうってね。本当に強い人は、むしろ未知を心待ちにしているわ」
 人間である彼女は、チルノという妖精にそれを語った。
「先を考えるから動けなくなるのよ。いつもの貴方みたいに、頭を空っぽにした方が強いと思うわよ、私は」
 チルノがぽっかりと口を開けた。
 天啓──というのは少し咲夜の自惚れだが、自分のこの意見は、チルノにとってまた別の一歩を踏み出すきっかけになるはずだと確信していた。
「──うんっ!」
 そして咲夜の期待通り、その言葉にチルノは力強く頷いた。彼女の目論見は的中したらしい。
 チルノの目に新たな輝きが生まれた。いい意味での純粋さが、チルノの心に戻ってきたようだ。
「分かった! あたいの目の前の敵は、とりあえず全部ぶっ倒すことにする!」
「ええ、その意気よ」
 快活に意気込むチルノに対し、咲夜は柔らかく微笑んだ。それじゃあ、と咲夜はピンと指を立てて、
「早速ロビーの掃除をやってもらおうかしら。ただの掃除といっても、どんな楽しい事が待っているか分からないわよ」
「よーし、任せろ!」
 そう言って廊下を勢い良く駆け出したチルノの背中を咲夜は見送った。チルノは、いつもの妖精に戻っていた。
──これで元通り、かしら
 いつも通りの騒がしい日々。妖精一匹紛れ込んでも、何も変わらないいつもの紅魔館。
 彼女が望んだ未来が確かにそこにあった。
 吸血鬼の姉はワガママを言い、妹は無邪気に騒ぎ、門番は昼寝をして、魔女は読書に耽る。
 小悪魔は本を並べ、妖精は役に立たず、そして、毎日のように異なる音で館の扉が叩かれる。
 何年経っても変わらない光景。変わるのは、人間である彼女だけ。
 吸血鬼にも魔法使いにもならない、一生死ぬ人間。
 十六夜咲夜は──紅魔館の時間なのだ。
 変わらない紅魔館の中で、ただ一人時を刻む紅魔館の時計。
 時間を操る彼女こそが、絶えず流れ続ける時間そのものだったのだ。
──そう、こんな当たり前の事を、私は意識していなかったのね。


 曰く、この世界と個は根本で繋がっている。
 それを分け隔てているのは、自然は自然でしかないという、つまらぬ人間の意思なのだ。
 信じる心があれば、誰だって世界を、そして未来を変えられる。
『だから、幻想郷には魔法があり妖怪がいる。世界と自分の繋がりを信じれば、誰でも波動関数を繋げる事が出来るのさ。そう、貴方が時間と繋がっているようにね』
 諏訪子はそう言って笑い飛ばした。
 それからこう続けた。チルノは神の力を手に入れたから時間を操れるようになったわけではない。神の力を手に入れ、『未来』──すなわち、妖精である彼女が初めて自らの時間というものを意識したからこそ、彼女は時を操れるようになったのだ、と。
 推測の域は出ていないらしい。確かめる術はもう無い。だが咲夜には、その答えがあながち間違いではないように思えた。
 意思こそが、幻想を現実に作り上げている魔法なのだ。


 冬の寒さが館に忍び寄っている。少しすれば息は白い衣を着て、その後には山が白い帽子を被るだろう。
 時間は流れていく。未来は確定していく。そしてこの瞬間にも、新たな波動関数が生まれているのだ。
 紅魔館に、また新たな未来が訪れる。
 そして、彼女にも。

──今日のおゆはんは、かぼちゃのスープにしましょう。

 また一つ、世界の波動関数が収束した。
 
 
 
 
 
 
 
ここまでスクロールしてもらってありがとうございました
コーラの王冠
簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.3190簡易評価
1.100名前が無い程度の能力削除
これはなかなかにアツい長編でした。
あと、諏訪子様。あんたショジョスキーなだけちゃうんかと。
3.100名前が無い程度の能力削除
堪能。
しかし、かなちゃん何たる寂しがり。
巻き添え食った早苗さんはその、何だ。ご愁傷様です?
4.100名前が無い程度の能力削除
SFと幻想郷の融合か。久しぶりに秀逸なガチSFを見た
ここまで深いテーマなのに一気に読ませられてしまった。凄い
つか諏訪子のキャラが最高すぎるwwwww
5.100奇声を発する程度の能力削除
読み応えが凄くとても面白かったです
9.100名前が無い程度の能力削除
シリアスとギャグのバランスが、ちょっと自分には合わなかったかなぁ。
でも満点は満点です。面白かった。
11.100名前が無い程度の能力削除
俺の中に息づく中二ソウルに良質の燃料が投入されてしまった。これはワクワクせざるを得ない。
この容量で終始バトルだったので、欲を言えばもう少しストーリーを展開させてほしかったかなと。
それでも科学と幻想が交差するときryな大迫力のバトルは読み応えがあり、十分に堪能させていただきました。
12.100這い寄る妖怪削除
オチwww

こういう理屈っぽいネタをちゃんと読ませる形にできると言うのはすごいなあ。
13.100名前が無い程度の能力削除
まさか東方SSでラプラスの魔、ひいては波動関数を見る日がこようとは。
実にお見事です。作者に敬意を。
次はマックスウェルの悪魔に期待しますw
15.100名前が無い程度の能力削除
何かこう、一つのテーマに向かって話が収束していく感じがすごいワクワクした。内容といい、海外SFを彷彿させてもらったぜ
量子力学ネタをきちんとストーリーに織り込んで料理するのは滅茶苦茶すげぇと思った。感服
コペンハーゲン解釈もいいけど、次の機会があれば多世界解釈ネタで一つよろしく!
20.100名前が無い程度の能力削除
まず最初に、この物語を生み出した作者様に最大限の称賛を。

とにかく素晴らしいの一言でした。これほど私の心を動かしたssはそうありません。
もし書店で買った何らかの短編集にこの小説が掲載されていたなら、それ以外がどれ程つまらなくとも十分に満足できたと思います。ある意味で東方という枠組みをこえて。
23.100高純 透削除
私の理解が追いつきませんでしたが、面白かったです。
睡眠時間がガリガリ削られました。でも、気にならない。
25.100名前が無い程度の能力削除
面白かった。
面白かったがしかし、理系だと理論と哲学の狭間に違和感を覚えてしまうのか……不確定性原理がどうこう言うのはマナー違反ですな。

ストーリー的には満点。100点もってけ!!
27.90名前が無い程度の能力削除
作者はきっとARMSを読んだことがある気がする
28.100名前が無い程度の能力削除
チルノの時を止める能力は最初、「周りの運動を停止させる=擬似的な時間停止」と思ってたのでしたが、咲夜もチルノも科学的な根拠なんてないけど時間を止められるという解釈でいいのでしょうか?
「この能力自体はあたいの元々の力の延長さ」というセリフから、熱ひいては運動を操れる話に移っています。
これを「時を止める能力は運動を操る力の延長」と解釈したのですが、そう考えると後々違和感のある設定が出てくるので気になりました。

本編は量子力学をかじっていると何倍も面白くなりますね。
一番驚いたのはチルノが干渉領域内の存在を正確に観測できるというシーン、干渉領域はこのためだけに作られた設定と言ってもいいのではないでしょうか。
というかチルノ凄すぎて笑っちゃいましたよw図も実験もなしに量子力学を理解できてしまう咲夜さんも十分ヤバいですが。

ちょっとどうかなと感じた所もいくつかありますが100点入れさせてもらいます。
あとは量子力学本当に面白いんで興味持った人はぜひ調べて欲しいですね。
34.100名前が無い程度の能力削除
一気に読んでしまいました。とても面白かったです。
42.100名前が無い程度の能力削除
面白い。戦闘の描写が非常にしっかりしていて想像も容易だった
神奈子がチルノに力を与えた理由がもう少ししっかりしていてもよかったかも
43.100名前が無い程度の能力削除
久々にいいバトル物でした。最後まで熱く楽しめました。
45.100名前が無い程度の能力削除
終始難解な話を展開しつつ、その帰結は『難しく考えるな』
身も蓋も無く簡単に言えば、そういう事でしょうか。
チルノであった事が、結に活きたなあ、と感じました。

まあ、かなちゃんの動機は何となく予測出来ました(苦笑)
なんちゅうはた迷惑な。
神や妖怪陣はともかく、早苗はウニになって大丈夫なのか?
とか、数点のツッコミは有りますが、
概ね大勢に影響はないところですので、問題なかったです。

今日分の読解力を、起きぬけに1時間で使わされたのは、
何やら学生時代の期末試験日早朝を彷彿としましたが(笑)

二度寝の前にすっかり目が覚めました。
お疲れ様です、大変面白く読ませて頂きました。
47.100名前が無い程度の能力削除
最高に面白かった。東方SFものとして、忘れられない作品になりそうです。
50.100名前が無い程度の能力削除
いくらなんでも蛇足だろうと思っていた「お帰りなさいませ」が、まさか伏線だったとは……。老執事喫茶について諏訪子さん詳しく。
56.90名前が無い程度の能力削除
知識量が力強い作品でした!
57.100名前が無い程度の能力削除
みんな格好いいわあ
かなちゃんは可愛い
60.30シュティレンガーの犬削除
難しい事はよくわからないので単純に読んだ感想。
・なんか性格悪くて腹が立つだけのチルノだな。らしさも残ってないし。
・説明長いな。目が痛いし。読み飛ばそう。
・戦闘シーン、戦って逃げてばかりでつまらない。もっとサクサク行こうよ。
まとめると面白く無かったです。
頭の良い人は途中の理論で楽しくなるのかもしれないけど
馬鹿な自分は読んでてただただ疲れた。
67.100名前が無い程度の能力削除
誰か言ってたけどマクスウェルの悪魔なら確かに幻想入りしても不思議ではないですね。
ふとした機会で、たまたま量子力学についての本を買って読んだばかりの私としては、そういう意味でも大変おもしろく読ませていただきました。
68.100名前が無い程度の能力削除
こうして俺が100点入れるという波動関数も収束した。
70.100名前が無い程度の能力削除
よかった
72.100名前が無い程度の能力削除
とてもよかったです
74.100名前が無い程度の能力削除
はっ…発想のスケールで負けた…。とにかく膨大で濃密で、良い意味でお腹いっぱいです。円周率すら割り切りそうなチルノちゃんは、どれだけ甚大な力を持とうとも、結局、自らの意思に振り回されてしまったのでしょう。
76.20名前が無い程度の能力削除
なんかペラペラうるさいオリキャラちゃん無双
他のキャラも違和感多いしなんだろうね
元のキャラとかどうでもいいのかい
79.100名前が無い程度の能力削除
読み疲れた。

しかし悪くない疲れでした。
80.100名前が無い程度の能力削除
私は読み切ったぞー(疲
いやいや何たる濃密な作品か
コーラの王冠さんの頭に王冠を乗せたい衝動に駆られてますよ!
81.100名前が無い程度の能力削除
朧げにしか理解できない文系脳が悲しくなった。
科学と哲学が交差しちゃった感じ。
82.100名前が無い程度の能力削除
すげえ、チルノがまるで別人…じゃねえ、別妖精のようだ
そしてイマイチ影の薄い図書館組ェ…
しかし目が痛い。こんな時間まで読むんじゃなかったという思いと、読み切ってよかったという思いがないまぜになってやがる
読んでる間Google先生が手放せんw

次回作を書かれるなら最近現実に帰ってきたらしいあの熱のゲートキーパーをお願いしたいな
83.100765削除
あれ、俺の知ってるチルノと違う…何このイケメン。

咲夜さん、チルノ共に凄く魅力的でした。単なる正義と悪の戦いではなく、意思と意思とがぶつかり合う展開は非常に萌…もとい燃えます。
紅魔館一同を凍らせ(紫も)、咲夜を封印し、世界と同一の存在となる。その目的が「 死を知り『覚悟』を手に入れる」。前半の時止め合戦や頭脳プレイといい、独特な擬音や台詞で有名な某漫画のラスボス戦でも見ているかの様な臨場感でした。

大変面白かったです。お疲れ様でした
85.40名前が無い程度の能力削除
自分も科学畑の人間で内容は嫌いではないが、
説明のためだけに据えられるキャラクターはまるで何故何科学の様で、
正直あからさま過ぎて美しくない。どっちつかずなところは自分には頂けない。
87.無評価名前が無い程度の能力削除
理解しきれなかったがとても面白い
かなちゃんかわいいよかなちゃん
88.100名前が無い程度の能力削除
点数忘れた!
89.100名前が無い程度の能力削除
素晴らしい…一言に尽きる
コーラの王冠さんなら本編で量子論能力持ってる豊姫や
理解不能と名高い永遠と須臾の輝夜の能力ですら無理なく描写できるんじゃないだろうか…!
90.100名前が無い程度の能力削除
文系の俺には量子力学なんてさっぱりですが、面白かったです
91.100名前が無い程度の能力削除
幻想を捕らえた。やはり幻想と科学は表裏一体の物だったのですね。
新米とはいえ私も理系の端くれ、幻想を追い求めるのに悔いはありません。

惜しむらくは、大ちゃんがどうなってたのか知れないことと、ある種 世界を式で表す戦いにおいて、八雲藍という式すら扱える八雲紫がチルノに敵わなかったこと。まあ時間への干渉ができなかったことだけが敗因なので仕方ないんでしょうけど。……あれ、油断?時間とか以前の問題? マジで大丈夫か幻想郷 そのうちゆかりんのうっかりで潰れるぞ。今回みたいな。

さて、アカシックレコードにちょろっと書き加えました
「私が付ける点数は文句なしの満点です」
96.無評価名前が無い程度の能力削除
自分は大学のSF研究会の人間ですが、SFとしてみるにはアラが多いように思います
エッセンスとして入っているだけならば粗探しなんてナンセンスですが
ここまで詳しく描写されている以上は内容に誤りがあるのはどうかとおもいます

たとえばチルノが時間に干渉できることの説明としてまず熱は物質の運動であるというところから語り始めているのに
結局5次元の住人になったから4次元に干渉できるようになった、とまとめられていて
チルノの能力の延長という話や、最初の熱の話が完全に上滑りしている印象を受けます

あくまで創作である以上こじつけめいた部分が出るのはありだと思いますが、登場人物がさも得意げにかじったようなSF知識を披露する長台詞はキャラクターの博識さを示すどころか逆効果になっているように感じました
あえて匂わす程度にとどめるほうが読者の想像を刺激してすべて説明するより知的に感じさせるという選択肢も大いに活用可能だと思います

調子に乗って言いたい放題言いましたが創想話でこれだけ密なSFものを投稿したという意味では意欲作だと思います
次回作にも期待が持てる内容でした
98.100名前が無い程度の能力削除
普通の機械系とかの理系ですら訳分からん状態だと思う。
量子力学と超伝導材料学、ついでに構造解析学と表面放出が軸だね。
材料学科の私は全て馴染みのある話だけども
101.90名前が無い程度の能力削除
ちょっとSFすぎる、というか説明が多すぎるかなぁ。匂わす程度でいいと思う。そしたらもっと削れたはず。
チルノのキャラにやや難があるかなー。

処女告白の後のいよっしゃあ! で思わず私もガッツポーズ。
105.無評価名前が無い程度の能力削除
前作は、数学や科学などの考察を多用しつつも
それにからめて、きちんとキャラクターも描写されていて
とても素晴らしかったのですが……

なんというかキャラも話も空回りというか。
神奈子の理由や、紫のズッコケもなんかセンスがないなあと。
107.50名前が無い程度の能力削除
みんな100点入れてるなぁ。頑張って読破したけど、俺には難しくてよくわかんねぇorz
何だか物語っていうより、論文読んでるような印象が強かった。
個人的には神様連中と八雲一家の下りの方が、取っつきやすくて良かったかな。
110.90名前が無い程度の能力削除
説明台詞が多い事に良くない感想を持ってる人もいるだろうけど、この作品における過剰なまでの物理知識(たぶんSF知識ともいう)のひけらかしは、例えばジュースの濃縮原液と水を別々に与えるような、ある種のジョークじみた試みだと私は思うよ。
この場合の濃縮原液は、SF作品の面白さの根本である「もしもこうだと都合よく仮定すると……」によって刺激される好奇心。
敢えて惜しみなく積み重ねることでひたすらに好奇心を煽るような奇妙で素敵な作品だった。
114.100名前が無い程度の能力削除
タイトルを見て某暗黒ライトノベルを彷彿とさせられたので読ませていただきました。魔法のような科学といった内容もとても自分好みでした!面白かったです!
116.10名前が無い程度の能力削除
びっくりした、つまらなすぎて。東方物としては原型残らなすぎだし、SF、科学物としては粗が目立ちすぎる。
5分の1も読んでいないのに語りの部分は所々飛ばし読みするくらいに面白くなかった。
まずキャラに長ったらしい説明を何度もさせないほうがいい。
量子力学かじってたら普通に分かる部分だし、知らない人にとってはあまりにもお粗末な説明。
展開も変わりすぎて矛盾が多い。途中からポンポンしょうもない役割を持ったキャラが出てくる。
突然諏訪子が出てきてさらにつまらなくなったし。
タグもこれだけっておかしいよね?