ある日のことだった。
(私もペットが飼いたいな……)
さとりが子猫を優しく撫でているのを見て、魔理沙は唐突に思った。
ここは地霊殿。言わずと知れた、さとり妖怪と様々な動物が住む屋敷である。
地霊殿を住処とするペットは百種千匹を軽く越えるとされ、屋敷の主である古明地さとりですら正確には把握していないらしい。
まあ実際はもっと少ないのだろうが、それだけ動物が多くいるということだろう。そのあまりの数に、さとりすらペットの名前を間違えてしまい、ペット間で冷戦のような状態になったことがあるとか。ご飯の時間になったら終了したようだが。
自分のような外部の人間からすれば、実に微笑ましいエピソードである。
そんな中で、魔理沙が『動物を飼いたい』と感じるようになるのは、ある意味必然でもあった。
「なあ、さとり。私もペットを飼ってみたいんだが」
魔理沙は読んでいた魔導書を脇に置き、意を決して切り出した。
するとさとりは子猫を撫でる手を止めて、こちらにその視線を向けてきた。
「はあ。それはまた唐突ですね、どうしてですか?」
「いやさ、さとりがちょっと羨ましくてな。なんか、そいつらの安心しきった顔を見てると」
「……魔理沙さんに構ってもらうその子達も、充分に安心していますけど」
さとりはかすかに微笑みを浮かべながら言った。
彼女が持つ第三の眼が、魔理沙の周囲にたむろしているペットたちへ向けられている。
それは嬉しいけど、と頭を振って続けた。
「なんていうか、さとりと私じゃ違うんだよ。さとりには家族的な触れ合いだけど、私はどこかお客さん扱いなんだよな。それなりに好意は持たれてるけど、所詮そこまでみたいな」
「それは仕方ないことだと思いますよ。魔理沙さんは遊びに来ている立場ですから」
「……そいつは理解してるんだけどなぁ。でもやっぱり、羨ましい」
魔理沙は自分の膝で寝転がる子犬の背中にそっと触れた。
ぴくりと背筋が震えるが、反応はそれだけ。魔理沙には喜んでいるかどうかも判断が付かない。
「つまり魔理沙さんは、みんなにもっと心を打ち明けて欲しいと? 友達ではなく、家族のように?」
「それをこいつらに求めるのはさすがに酷だろ。ただまあ、私にもそんなのが近くにいたらいいなって思っただけ」
不意に目線を下げたさとりは、思案するように目を細めた。
それを確認しながら、この会話を聞いて近寄ってきたペットたちを順番に撫でる。
衝動的な要求と指摘されれば返す言葉もないが、それでも胸にある思いは本物である。
とはいえ、気安く触れ合える存在が近くにいたらいいなぁ、という程度の気持ちだった。
さとりが顔を上げて、こちらを見やった。
「一つ聞いておきたいのですが。魔理沙さんは、動物の飼育に関しての知識はありませんね?」
黙って頷く。
たしかに、自分にはそちら方面の知識はないに等しい。
今まで本格的に動物を飼おうとしたことはないし、接触もここで適当に可愛がる程度か。
大喰らいのツチノコを飼っていたこともあるが、あまりに食料を食い荒らすのですぐに元の場所へ放してしまった。
そんな魔理沙の心情を汲み取ったように、さとりは首を横に振った。
「すみませんが、今の魔理沙さんにペットを紹介することはできません。動物を飼うということは、自分の物ではない命を預かると同義です。その意味を真に理解していない方に、私の大切な家族を譲るわけにはいかないので」
そうか、と吐息のような声が自分の口から零れた。
あなたは信用できないとにべもなく断られた形だが、それほどショックを感じていなかった。
それはおそらく、さとりが正面から真剣に返答してくれたからだろう。
残念ではあるが仕方のないことだ。自分とて、無意味に動物を苦しめたり殺したいわけではない。
当然の話だろうと納得する反面、ペットへの興味と期待が一気に失望感に変わる。
魔理沙は深々と溜め息をつき、沈んだ気持ちを切り替えるべく魔導書を再び読もうと手を伸ばした。
だが、さとりの話はまだ終わっていなかった。
「ですが、もしお望みであれば『ペットと暮らす』ということについて教えてあげますが」
「……つまりお試し的な飼育体験をさせてくれるってことか?」
「私と世話係が普段やっていることを体験させてあげます。そこで学んで、きちんと飼育できるだけの知識と経験を積めれば」
「……私も、ペットが飼える?」
「ええ。そうなれば反対する理由がなくなりますので。どうしますか?」
そう言われた瞬間、魔理沙は反射的に頭を下げていた。
「頼む。教えてくれ」
「わかりました」
顔を上げると、さとりが嬉しそうに目元を緩ませていた。
そして膝の上で丸まっている子猫をゆっくり脇に移動させ、スカートをはたきながら立ち上がる。
魔理沙もそれに倣い、擦り寄っていた動物たちに詫びながら腰を上げた。
置いていかれるのだと理解したペットが一様に寂しそうな声で声を上げる。多分に心を揺さぶられながらも、これは彼女たちの生活を勉強するためなのだと自分に言い聞かせて耐えた。
「では、行きましょう」
「ああ」
そして、さとりの小さな背中を追うように、魔理沙は部屋を出た。
「でさ、これから向かうのはどういう場所なんだ?」
地霊殿の廊下を歩いている最中、魔理沙は先行するさとりに尋ねた。
さとりは顔を前方に向けたまま答える。
「主に基本的な教育が足りてない子たちを育てる……まあ、保育所みたいなところです。人型になれる数人のペットたちが先生になって、トイレや食事の仕方を身に付けさせることを目的にしてます」
「ふ~ん。文字の書き取りとか算数は教えないのか?」
「以前は例外なく教えてましたが……現在では、地霊殿外で行動したいという子に限って教えてます。ただ、今から会うのは人型にもなれず、言葉も話せない子です。なので、魔理沙さんが『勉学を叩き込んでやる』必要はありませんので、あしからず」
うぐっ、と言葉を詰まらせる。
――まだ実家で暮らしていたとき、魔理沙は雇われた家庭教師から勉学を教わっていた。
それは厳格な父親が、霧雨道具店の跡取りとして必要な教養を身に付けさせるのだと、決めていたからだ。
国語算数理科社会、特に文字の書き取りやそろばんの使い方。これらを徹底的に仕込まれた。
年端もいかぬ子供には辛い強制で、魔理沙が家を飛び出した遠因でもある。
とはいえ、現在魔理沙が魔法使いとしてやっていけるのは、ひとえに文字の読み書きと計算が可能だからだ。精神的に大人になった今では、それを認めることができた。
なので父親に対して、嫌いではあるが感謝しないでもないという、複雑な感情を抱いている。
……それはそれとして。
「さとり。さらっと人の心とトラウマを読み取らないでくれないか」
「私と魔理沙さんの仲じゃないですか。それに、私はさとり妖怪です。読んでくれと言わんばかりに垂れ流された女々しい感情を、黙って見過ごすはずがないでしょう」
さとりが振り返り、チロっと舌を出して笑みを浮かべた。
魔理沙はさとりの厳しい言葉に溜め息を洩らしつつも、そのさりげない配慮に感謝した。
勉学を教えてやろう、などと思ったのは、過去に自分がされたことを他人にしてみたかったからだ。
それは自らが受けた苦痛を、今度は自分が与えてやるという陰湿な感情の発露である。
さとりはそれを察知し、事前に釘を刺してくれたのだ。
さらに、わざわざ『女々しい』とまで言ってもらえたおかげで、それがどれほど悪趣味なことかを気づかせてくれた。
(ありがとう、さとり)
心の中で呟き、さとりの小さな背中を見つめる。
さとりは返事をせずに前を向いたままだったが、彼女が照れているのが分かった。
露出した耳が、淡い紅に染まっていたからだ。
それを誤魔化すように、さとりが口早にこれから向かう場所の説明を始めた。
要約するとこうだ。
地霊殿の一角にはいくつか特別な部屋があり、そこでは主にペットの教育を目的に使われている。
魔理沙たちが向かっているのは、その中でも基礎中の基礎を教える部屋である。
教えるのはペット育成を担当するペットで、対象は『地霊殿内を出歩くにはまだ早い』と判断された子供らしい。
地霊殿で住んでいれば自然と妖怪化して言葉を理解するようになるため、それまではそこで暮らさせるのだとか。
トイレや食事の作法、上下関係の徹底や他者との触れ合いなど、教えることは多岐にわたる。
なお、勉学や人型になるための訓練をする部屋もあるらしいが、今回の訪問目的は『魔理沙がペットの飼い方を知る』ためだ。なので、そこはまた次回以降になるらしい。
そうこう話している間に、その部屋に辿り着いた。
さとりがドアノブを握りこみながら、魔理沙の意志を問うように、ちらりと視線を向けてくる。
魔理沙は気迫のこもった瞳で見返しながら、こくりと頷いた。
それが合図となって、とうとう扉が開け放たれた。
――途端、無数の影が襲い掛かってきた。
「う、うおおおおお!?」
魔理沙が刹那のうちに認識できたのは、黒々と輝く宝石のような瞳。
二対で成り立つ数え切れないほどのそれが、一瞬で視界を制圧し、魔理沙の体を蹂躙する。
つまり、全身にたくさんの動物が寄って集ってきたのだ。
それを理解したのもつかの間、次の瞬間には鋭い痛みが魔理沙の体を襲った。
「いてっ、いてえぇぇぇ~~~!」
魔理沙は絶叫を上げた。
それは無理もない。飛びついてきた動物は二十匹を越え、それぞれが好き勝手に魔理沙へと張り付いたのだ。
地獄鴉はからかうように魔理沙の金髪を啄ばみ、猫はスカートや上着にはもちろん皮膚にまで爪を立ててよじ登ってこようとし、足元でじゃれる犬は加減せずに噛み付いてくる。
必死に手で追い払おうとするが、それを見た動物たちはますます興奮したように繰り返す。
あまりの歓迎っぷりに、とうとう魔理沙が怒りを堪え切れなくなったときだった。
「めっ!」
隣で佇む少女の一喝が、響いた。
驚くべきことに、たったそれだけで、周囲で暴れまわっていた動物たちが、ぴたりと動きを止めたのだ。
魔理沙もさとりの突然の行動に戸惑いながら、彼女を驚きの目で見つめた。
その場にいる全員の視線を一身に受けながら、さとりは傍にあった壁を強く叩いた。
ドン! それを耳にした動物たちは、一斉に身を竦める。
そして、さとりがもう一回鋭い口調で叱りつけた。
「めっ!」
その言葉を皮切りに、一匹また一匹と動物たちが魔理沙とさとりから離れ、肩を落としながら部屋の奥へと歩み去っていく。
そんな光景を目の当たりにしながら、魔理沙は恐る恐るさとりを見やった。
――表情は硬く、その瞳は今までになく怒りに震えている。
今まで見たことのないさとりの様子に、内心怯えながら話しかけた。
「さ、さとり?」
「……まったく、あの子ったらきちんと躾けてるのかしら」
しかしさとりは一顧だにせず、目を細めて視線を巡らせる。
すでにいつもの顔に戻っていたが、どことなく話し掛けづらい雰囲気を醸し出していた。
「あ、あのー……」
声が次第に尻すぼみになり、やがて反響すら残らず消え去ろうとしていた。
そのときだった。
「あれー、さとり様? どうしてこんなところにいるんですか?」
何者かの気配が背後から生じ、同時に凛として軽やかな声がかけられた。
魔理沙とさとりが揃って振り向く。
声の主らしい女性を見た瞬間、魔理沙は先ほどとは別の意味合いで瞠目した。
鋭い銀の刃を思わせる、腰まで伸びた月光のような髪。
すっと通った鼻筋に、締まりつつもどこか愛嬌の漂う目元と浅葱色の瞳。
彼女の仕事着だろうか。どこぞのメイド長を想起させる、ゆったりとしたメイド服を華麗に着こなしている。
人類の半分が憧れてやまないであろう、豊満な肉体が隠されているのが、服の上からでも分かった。
そして何より特徴的なのが、彼女の頭に付いている――
「耳、だ」
無意識のうちに、感嘆の色を宿した言葉が零れ落ちる。
女性の頭頂に、彼女の髪の毛と同じ色合いをした『耳』が直立しているのだ。
別に似合っていないという話ではない。むしろ、似合いすぎて反応に困るほどだった。
不意に、それが自分の知り合いと全く同じものだと気づいた。
火焔猫燐。この地霊殿に住む、さとりのペットである。女性もまた、燐と同じように二つの耳を持っている。
ということは――
魔理沙は、何故か自分を見ながら目を丸くする女性に、問いかけようと口を開きかけ……
「魔理沙さん。お白」
「「は、はいっ!?」」
沈黙を貫いていたさとりが、それを遮った。
先ほどをはるかに上回る凄烈な声色に、魔理沙と女性の背筋が凍った。
恐る恐る目線をさとりに移動させる――すぐに後悔した。
「私の前で、どうしてそんなに熱い視線と心で、見つめあってるんでしょうかねぇ?」
ものすごく、怖かった。
それからしばらくして、魔理沙たちは部屋の奥にある休憩室へと移動した。
こぢんまりとした部屋だった。過度な装飾はなく、生活する上で必要最低限の物しか揃っていない。壁際に設置された古びたソファに長年使い込まれて付喪神にでもなりそうな棚、あとはシンプルな流しと小さな氷室が目立つ程度か。
あくまで休憩をする場所であって、生活する場所ではない。そういった雰囲気がありありと感じられる。
ちなみに、あくまでも世話をする者が使うためなのか、あれほどいた動物は一匹もいなかった。
魔理沙が抱いた印象を肯定するように、隣に座ったさとりが頷いた。
「基本的に、人型になれる子だけがここを使えるようになってます。火や刃物といった危険なものもありますし、入っちゃいけない場所を教え込むのにも最適ですからね」
「なるほど。でも寝るところはなさそうだけど、ここ以外にもあるのか?」
「ええ、すぐ隣にベッドがあるだけの部屋が。食事もここで済ませられるので、本当に寝るだけのところです」
さとりの話に相槌を打ちながらも、魔理沙の視線はある一点で固定されていた。
その先には部屋の外で出会った女性がおり、楽しげに鼻歌を歌いながら湯を沸かしている。漂ってくる芳醇な香りから、どうやら紅茶を入れる準備をしているようだ。
彼女が踊るように身を翻すと、その臀部から顔を出す銀色の二尾が、ふらりふらりと遊びだす。
それを眺める魔理沙を見咎めるように、さとりが険しい口調で言った。
「……魔理沙さん? そんなにお白のことが気になるんですか?」
「い、いやそういうわけじゃ。ただ、どうにも見覚えがあるような気がしてな。思い出せなくてもやもやするんだ」
「ふ~ん。まあ、魔理沙さんがどういう意図であの子を見つめてるのか、私にはまったく関係ありませんがね」
チクチクと針で突き刺すような物言いに、魔理沙が顔を強張らせる。
さとりはずっとこの調子だった。部屋に来るまでは上機嫌だったのに、女性が現れてから目に見えて機嫌が悪くなっていったのだ。
どうもあの女性に思うところがあるようで、魔理沙が彼女を見ると不愉快そうに眉を顰めるのだ。
「……魔理沙さんが悪いんですよ、まったく」
「ん? なんか言ったか」
「いーえ、何にも!」
ますます唇を尖らせるさとり。
その様変わりに困惑しながら、魔理沙もなんとか元に戻ってもらおうと頭を悩ませる。
「はーい、さとり様に霧雨様。紅茶が入りました~」
その言葉と共に、湯気の立つカップが目の前に現れた。
面を上げると、件の女性がにんまりとした笑顔で紅茶を差し出しているではないか。
その親しげな態度に戸惑いつつも、礼を口にして受け取る。
「ありがとうな。おいしそうだ」
「霧雨様が喜んでくださってこちらも嬉しいです。はい、さとり様も」
「……ええ、ありがとう。お白」
さとりもわずかに渋面を作りながら、同じように受け取った。
それを嬉しそうに見届けた女性は――なんと、魔理沙とさとりの間に捻りこむようにして座った。
予想だにしなかった行動に、魔理沙もさとりも反射的に彼女が座れるように腰をずらしてしまう。
そうして悠々と自分の場所を確保したメイド服の女性は、そのまま魔理沙に微笑みかけた。
「さあ、どうぞ。熱いので気をつけてください」
「お、おう。いただきます」
言われるがままに、紅茶に口を付ける魔理沙。
舌が痺れるほどに熱く、また香りも濃厚で強く鼻をくすぐる。なのだが、味が分からなかった。
理由は簡単。じっくりと、穴でも空けるのかと疑いたくなるくらいに、女性から見つめられているからだ。
「(じ~~~~~~~)」
「う……むぅ」
落ち着かない。すごく落ち着かない。
しかも、理由は分からないが、徐々に女性がこちらとの距離を詰めてきていた。
ソファは三人ほどのスペースしかない。魔理沙はぐいぐいと端へ追いやられてしまう。
女性の笑顔を見る限り悪意はないと思われるのだが、ではどうしてこのようなことをするのか。
魔理沙は、思い切って聞いた。
「ど、どうしてそんなに近づいてくるんだ。もしかして狭いのか?」
「いえいえ、霧雨様とくっつきたいからに決まってるじゃないですか。好きな人と触れ合いたいっていうのは誰にだってある本能なのですよ」
「好きな人!? な、何を言い出すんだ。私たち、初対面だろう?」
「……それは酷い言い草ですね。私と霧雨様、床を共にした関係じゃないですか」
「と、床ぉ!? えええ、それってつまり……」
「あんなに熱い夜はありませんでした。怖がる私を、霧雨様が優しい言葉をかけながら抱擁をうにゃあ!?」
突如、女性が虚をつかれたように悲鳴を上げた。
かと思えば、涙目でさとりの方向を振り返り、猛烈な抗議を行ったではないか。
「さ、さとり様! それは、やめてください、はにゃ、ってぇ! うにゃん!」
「あら、何のことかしら。それよりも、そんなはしたない声を上げるなんて行儀が悪いわよ。お白」
魔理沙が訝しみながら、女性の背中を覗き込む。
なんと、さとりが何食わぬ顔で、女性の尻尾を無造作に引っ張っていた。
上下左右に振り回されるたびに女性の口から切なそうな声が零れ落ちる。
女性がやめさせようと振り向いた瞬間に、さとりが尻尾を強く握りこむのだ。
そうされた女性は背筋をピンと張り、体全体を硬直させて動けなくなる。
そしてなんとか立ち直った瞬間に再び尻尾を掴まれ、全身が震えて身動きがとれなくなるのである。
どこか官能的な攻防は実に五分以上にも及び、女性が涙をためて謝罪するまで繰り返された。
「お前、シロだったのか! そういや尻尾が二つあったもんなぁ」
魔理沙が、驚きと共に納得の声を上げた。
シロは、地霊殿で最も魔理沙に懐いているペットであり、魔理沙も気に入っている猫だ。
銀の体毛と気品がある整った顔立ち、そして無類の人懐っこさが特徴で、魔理沙が本を読んでいると擦り寄ってくるのが常である。
この『シロ』というのは本名ではなく、その輝く銀色の体毛から魔理沙が考えた愛称だった。
人型になれるとは知らなかったので、目の前の女性がその猫だとは思いもよらなかったのだ。
一緒に寝た、というのはソファでうたた寝したときのことを言っていたようだ。それなら覚えがあった。
「ええ、そうなんですよ。言わなくてごめんなさい」
シロ――本名は長くて嫌いだそうだ――は尻を擦りながら、にこやかに微笑んだ。
彼女はもう魔理沙の隣には座っておらず、主人から距離がある場所で立っている。
そして、距離をとられたさとりは紅茶で喉を潤しながら、ちゃっかり魔理沙の隣をキープしていた。
「私から話したかったんですけど、性格の悪いご主人様がまんまと邪魔してくださって……」
「円滑に話を進めるためにしたことよ。他意はないわ」
シロが恨みがましい視線を送りつけるが、さとりは素知らぬ顔で表情一つ変えない。
妙にぎくしゃくしている雰囲気を一掃するべく、魔理沙が努めて明るく言い放った。
「ま、まあそんなことはともかくさ! シロがここの責任者なのか?」
「責任者……ここの動物の世話は交代でやってるんですが、今の担当は私ですね。でも、どうしてそんなことを?」
「実はさ、ペットの飼い方を教えてもらいたくて来たんだ」
「霧雨様が、ですか? ……つまりこの私に、動物の世話のやり方を手取り足取り腰取り教えてもらいたいと」
「違います。私が、魔理沙さんに、教えるの。お白はそのサポート」
「駄目です。私が教えます」
「駄目じゃないわ。あなたは引っ込んでなさい」
再び険悪になりかけた空気に、魔理沙が慌てて待ったをかけた。
「ふ、二人で教えてくれたら、ものすごく助かるなー! だから仲良く、仲良くな?」
「いいでしょう。見事出し抜いて見せます」
「お白の心は丸見えよ。その程度の心算で私に対抗しようだなんて笑わせるわ」
「……仲良くって言ってるのにぃ」
懇願する魔理沙など見向きもせず、二人は白刃の如き鋭さで睨み合う。
その光景に――魔理沙は、たまらず溜め息をついた。
世話の方法について簡単な説明を受けた後、魔理沙たちは休憩室を出た。
目前には、期待の瞳で見つめてくる大勢の動物たち。
魔理沙は拙い手つきではあったものの、必死に世話に没頭した。
上下関係の仕込み方を試し、
「魔理沙さん。犬は上下関係に厳しいので、きちんと自分が上だと分からせてください」
「よっしゃ、任せろ! ……待て! よし、いい子だ」
「逆に猫はそういったことに疎いので、あまり厳しくしない方がいいですよ~。猫の私が保証します」
「じゃあどうすればいいんだ?」
「主人であると無理に主張するより、優しく愛情をかけてあげれば良好な関係になれます」
「なるほど。じゃあ撫でてやろう。うりうり」
「…………まあ、あれでもいいかしら」
悪戯を繰り返す子犬を叱り、
「こら、私の服を噛むな! ええい、噛むなって!」
「それじゃあ駄目ですよ。眼を見て、短くしっかり叱ってください」
「……分かった。こら、駄目だ! 噛んじゃ駄目だぜ!」
「そうです。きちんと自分が怒ってることをアピールしてください。この時、絶対に可愛さに負けて褒めちゃ駄目です。叱ってるのに褒められてると勘違いしますから」
「うぐぅ……。でも、こんなにしょんぼりしてるし」
「めっ! ですよ、霧雨様」
「私が叱られてどうするんだ……」
爪とぎを正しい場所で行った猫をしっかり褒めて、
「いや~、良い子だなお前は~」
「そうです。きちんと褒めることが大事なんですよ。ちゃんと叱って、それ以上に褒める。それが躾けです」
「そーなのかー。てっきり叱ることが大事なんだと思ってたぜ」
「間違いではありませんけどね。でも、叱るよりも褒めた方が遥かに効率的なんです」
「そうですそうです! というわけで、私も褒められたらこれからも頑張っちゃいますよ!」
「良い子だな、シロは。きちんと仕事をして偉いな~」
「えへへ! もっと撫でてください~」
「むぅ……」
そして、排泄物の処理を手伝った。
「……ぐぐ。森の化け物茸とは違う、生理的にきつい臭いだぜ。お前らは大丈夫なのか?」
「平気ではありませんね。まあ、慣れです」
「そうですね~。特に私は一日中嗅いでるので、もう麻痺しちゃいました。それに、おトイレからは重要なサインが出される場合がありますから、臭いなんて言ってられませんよ」
「何だ、そのサインって」
「お腹がゆるくなってないか、悪いもの食べてたりしないか、病気にかかってたりしないか。排泄物って結構教えてくれるんですよ。……さとり様の能力があれば、直接言われるので楽なんですけどね」
「そうでもないわよ。『お腹が痛い』なんて訴えられても擦るとかしかできないから。どこかに動物のお医者さんがいればいいんだけど」
「永遠亭は……人間専用かなぁ。でもウサギいるし。今度聞いてみようか……うっぷ。すまん、ちょっと外に出てくる」
「分かりました。ゆっくり休んできてください」
「うーい」
魔理沙は廊下に出て、そこにあった窓を開けてゆっくりと深呼吸をする。
意識的に肺の奥まで空気を溜め込み、吐き出す。そうすることで、胃の収縮が伴った吐き気が徐々に落ち着いてきた。
ふぅ、と息をついて窓枠にもたれかかった。
地霊殿の中庭が一望できるこの場所は、気持ちを落ち着かせるのにちょうど良かった。
庭の中心部には灼熱地獄跡に入るための穴が設置されており、その周りでは動物たちが楽しそうに遊んでいる。
駆け回り、転んで、じゃれて、喧嘩して、そして笑っていた。
以前なら『楽しそうだな』と思うだけだったろう。しかし今では、『楽しそうで何よりだ』と母親のような気分で見ていられた。
そんな心境の変化に、魔理沙自身が驚いていた。
「うむ、これはもう私が一人前だという合図だと思うぜ」
「それはどうなんでしょうかねぇ。霧雨様はまだまだのように思えますけど」
呟いた独り言に、誰かが答えた。
それが誰であるか知りつつも、会話をするためにあえて振り向いた。
魔理沙が出てきた扉の前。そこに、コップを持ったシロが立っていた。
シロは微笑みながらコップを差し出す。魔理沙が受け取ると、そのまま魔理沙の傍にある壁に背中を預けた。
「悪いな、助かる」
お礼を言いながらコップに口を付ける。少し温い水が、食道を勢いよく流れていく。
その感触に心底ほっとしながら、魔理沙はシロを見やった。
「さとりを一人にして大丈夫なのか? ひょっとしたら困って泣いてるかもしれないぞ」
「ふふ、さとり様は私の師匠です。あれくらいの数なら、なんなく従わせますよ」
「だろうな。素人目からも堂に入った手際だったし、場数を踏んでる感じだった。……それにしても、少し怖かったかな」
「怖かった?」
「ああ。さとりがペットを叱る時、叱られてるのが私じゃなくても怖かった。いつにない迫力でさ、ああいうさとりは見たことがなかったから、正直ちょっと引いたぜ」
ははっ、と乾いた笑い声が、静かな廊下に響き渡った。
実際に恐怖を感じたわけではない。ただ、見知った人物の異なる側面を見て、少しだけ感心したのだ。
これだけ一緒に居ても、まださとりの知らない一面があったのだと。
怖いというよりも喜びが先立った感想だったのだが、次の瞬間、思いがけない反応が返ってきた。
「霧雨様。無礼をお許しください」
ぺちん。
シロの言葉と同時に、頬に温かく軽い衝撃が走った。
彼女に叩かれたのだと頭が理解したのは、それから十秒ほど呆けてからだった。
「――え?」
「霧雨様。あなたは、あなただけはさとり様をそう思わないでください」
魔理沙は愕然としながら頬を押さえ、そしてシロを見た。
撫でられたように叩かれた頬は痛みを告げなかった。だがそれ以上に、シロの表情こそが魔理沙の心を打った。
彼女らしからぬ、キッと引き絞った眼差しで、魔理沙を射抜いていたからだ。
その唇は悔しさを抑えるように微動し、その浅葱色の瞳からは今にも雫が零れ落ちそうだった。
「さとり様は、優しい方なんです。たとえ冗談だとしても、それを口にしないでください」
「……すまなかった。そういうつもりじゃなかったんだが、誤解させたみたいだな」
「……いえ、私も感情的になりすぎたみたいです。どうもすみませんでした」
シロは目元を袖で拭うと笑顔を浮かべ、今も騒がしい中庭に目を向けた。
魔理沙も同じように中庭を見つめながら、そっと話しかけた。
「シロは、さとりが好きなんだな。それがよく分かったよ」
シロも中庭から目を逸らさず、感情の篭った言葉で、まったく別のことを語りだした。
「実はですね、私は一回家出をしたことがあるんですよ」
「え?」
「たしか妖怪化が半分ほど進んだ頃……百二十年ほど前ですか。さとり様が教えてくれていた勉学と妖怪化の鍛錬が嫌で、地霊殿を逃げ出したんです。四本足で、必死に」
「……たしか、勉強は強制してないんじゃ」
「それは私が逃げ出した後の決まりですね。あの時は、ペットなら誰でも勉学を教えられてました。本人が嫌がっていても、ね」
――本人が嫌がっていても。
その一言は、魔理沙の胸のうちにあった過去を、容赦なく掘り起こした。
霧雨道具店。その跡取り。家庭教師による勉学の強制。それが嫌で、家を飛び出した自分。
徐々に震えだす声を必死に堪え、続きを聞いた。
「それで……どうなったんだ?」
「世界というものを知りました。今までいた地霊殿は世界のすべてではなくて、存在する妖怪全員が自分を愛してくれるわけではなくて、必死に声を上げても助けてくれるどころか気づいてさえくれなくて。温かい我が家に帰ろうと思っても、そこがどこだかすら分からない。世界に見捨てられたような感覚が湧き上がって、気づいたら泣きながら路地の隅っこで眠ってました」
気持ちは分かる、だなんて口が裂けても言えなかった。
だってそうだ。自分はある程度知識を蓄えてから飛び出し、彼女は家を見失うほどに幼かったのだから。
「大変、だったんだな」
「こんなに独特で目立つ屋敷なのに、ずっと中にいたから外観すら分からなかったなんて、笑い話にもなりませんよね。まあ色々あって、偶然帰れたんですよ。自慢だった毛並みは泥と土で薄汚れて、栄養がまったく足らなかったから体がやせ細って、それはもう見るも無残な姿だったらしいです。でもさとり様はすぐに私だと気づいて、お風呂に入れてくれて、ごはんをたくさん食べさせてくれました。それで、一言だけくれました」
「……さとりは、何て言ったんだ?」
「おかえり、と。それだけ。それだけで、全部理解できました。自分の居場所はここで、私を愛してくれるのはこの人なんだと。それからは自発的に勉強に励んで、人型にもなれるようになりました。さとり様は無理しなくていいと言ってくれましたけど、私はそんなさとり様の役に立ちたかったから、それだけ頑張れたんです」
「じゃあ、さとりが勉強をさせなくなったのはそれからか」
「ええ。望む者だけ、ということになりました。でも、何故さとり様が無理やりにでも教えようとしてたのかは分かりました。それが生きる術だったからです。言葉を繰れなければ会話もできない。常識を知らなければ排斥される。他人と関われなければ、死ぬしかないんだと。身をもって知りました」
語り終えて、シロは疲れを吐き出すように大きく呼吸をした。
そして魔理沙も、自分と同じ道を歩み、自分とは違う道を進んだ彼女の言葉を胸に刻み込んだ。
自分があの時実家に帰っていれば、彼女のように違う幸せを得られていたのだろうか。
想像する。泣いて帰る自分を。想像する。「おかえり」と言って抱きしめてくれる父を。想像する。少しだけ優しくなった父に甘えながら、精一杯笑顔を浮かべる自らの姿を。
そんな無き日を、夢想した。
「……だからお前は、そんなにさとりのことが好きなんだな。それが、家族なんだな」
「はい。でも、それは私だけじゃないですよ」
「どういうことだ?」
するとシロは悪戯っぽく笑い、魔理沙を食い入るように見つめてきた。
「霧雨様も、さとり様のことが好きですよね?」
「……なんだってそういうことになるんだ」
「だってさとり様の傍にいるのは、さとり様が大好きな人だけなんですから。でなければ、とっくに心を読まれることを恐れて、すたこらさっさと逃げ出してますよ」
シロの瞳に、柔らかな優しさが帯びる。
どうなのかと、霧雨魔理沙は古明地さとりが好きなのかと、明確な答えを求めてくる。
長い、長い沈黙を経て。
魔理沙は宝石箱にしまっておいた大切な秘密を打ち明けるように、口を開いた。
「私は……」
そのとき、固く閉じられていた扉が開き、そこからさとりが顔を出した。
そして並んで会話をしている魔理沙たちを見つけると、深々と溜め息をつきながら歩み寄ってきた。
「まだ休憩してたんですか。もうとっくに掃除も終わりましたよ。お白も、ちょっと出るだけなんて言ったのに」
「……あ~あ、さとり様もタイミングが悪いですねぇ。いいところだったのに」
「え、ええ? いいところって、何が?」
「気にするな。さとりはこれくらいでバランス取れてるんだよ」
「ちょ、魔理沙さんまでわけの分からないことを、どうしたんですか一体」
困惑するさとりを余所に、魔理沙とシロは示し合わせたように口端を吊り上げる。
そして部屋へと戻りながら、言った。
「まあ、さとりらしいよな」
「まあ、さとり様らしいですよね」
当の本人は、まるで理解できていないように、いつまでも首を傾げていた。
「どういうことなの……」
その後、魔理沙は生き生きとしながら世話に明け暮れた。
シロと話したのがいい気分転換になったというのもあったが、何よりシロの体験談が強く心に響いたのだ。
――私も、さとりみたいに誰かを支えられるのだろうか。
魔理沙はこのとき、さとりとシロの間に結ばれた絆を感じ取っていた。
最初こそ険悪な仲だと心配したものの、それは信頼の裏返しだったのだ。
シロが主人であるさとりを押しのけて行動するのも、さとりがそれを真っ向から受け止めるのも、ひとえにその絆があってこそ。
それを理解した瞬間、魔理沙の奥底から煮え滾るような感情が溢れてきた。
灼熱の溶岩の如き嫉妬であり、澄み切った青空のような羨望である。
(いいな……私も、そんな相手が欲しいな)
漠然と考えていた『ペットの飼育』という目的が、急に明瞭になって現れた。
ペットを飼えれば、あるいは自分にもできるかもしれない。この二人のように、無窮の信頼を築ける相手が。
その一心で世話に没頭し――我に返ると、ペットたちは疲れ切ったように眠っていた。
それを確認した魔理沙たちは、一旦休憩室へ戻ることにした。
「いやー、疲れた! ものすごく、疲れた!」
魔理沙がどっかりとソファに腰を下ろすと、シロが呆れたように苦笑を洩らした。
「それはそうですよ~。すべての世話に全力で取り組めば、それは疲れるでしょうね~」
「でも悪くない気分だ。なんだか一仕事終えた気がするぜ」
「お疲れ様でした。どうぞ、シロの美味しい美味しい紅茶ですよ~」
「お、サンキュ」
受け取り、さっそく口に含んだ。
紅茶の程よい甘みが、蓄積した疲労を溶かしていくようだった。
ほぅ、と生温い息を吐いて目を閉じる。このまま目を瞑っていれば、心地いい眠気がやってくるに違いない。
そう確信していながらも、魔理沙は抵抗する瞼をこじ開けて、火傷も厭わない覚悟で紅茶を呷った。
忍び寄っていた眠気を吹き飛ばし、意識を無理やり覚醒させる。
何故そんなことをしているのかと問われれば、自分の隣に腰を下ろす人物が気になるからだと答えるだろう。
「むぅ~~~~~」
「おい、さとり。さっきから何を唸ってるんだ。気になって気になって仕方がないんだが」
眉間に皺を刻んでふくれっ面をする少女。さとりはありありと不満を表し、魔理沙をじっと睨んでいる。
そして、数秒の空白を置いて答えた。
「……魔理沙さんとお白、何かありました?」
「何かって何が。別に変わったことはないと思うけど。なぁ?」
「そうですね~。私たちはいつだって相思相愛ですよ~」
「そういうことじゃなくて、というか相思相愛でもないでしょうが。……どうも、休憩する前より心の距離が縮まってるようなんですが。やっぱり何かあったでしょう」
訝しげに眉を顰めるさとりに、魔理沙は肩をすくめた。
「そんなに気になるんだったら心でも読めばいいじゃないか」
「そうしたいのは山々なんですけど……どうにも、読み辛いというか。もしかしてプロテクトかけてます?」
「精神プロテクトか。そんなもんはかけてないが」
「ですよねぇ……。無意識に読まれるのを強く拒んでいるのか、あるいは心に思い浮かばないほど何てことのないことなのか。まったく久しぶりですよ、こんなことは」
さとりは困り果てたように、自らの第三の眼を優しく撫でた。
その妙に可愛らしい仕草に思わず頬が緩むが、それを口に出したりはしない。
きっと何てことのないことなのだから。
そんなことを思っていると、上機嫌のシロがお茶請けを皿に盛りつけながら微笑み、言った。
「大丈夫ですよ、さとり様。さとり様の『大切な』方を盗るなんてことはしません」
さとりの頭がボッと茹だった。
呂律の回らない口を動かしながら、さとりが必死に否定する。
「たたたた、大切って! 魔理沙さんは大切だけど、そんな深い意味合いじゃ!」
「あれー、そうなんですか。でも霧雨様がいらっしゃった時はよく鼻歌を歌いながら……」
「きゃーきゃーきゃー!? おおおおお白、それは勘違いのちょちょいのちょいであって!」
「じゃあ霧雨様が帰った後に、その座ってた場所に……」
「いやぁぁぁぁぁぁ!? やめなさい、お白ぅぅぅぅ!」
さとりのものを除いて、休憩室内に笑い声が響き渡った。
顔を真っ赤に染めながら止めさせようとするさとりに、さらに彼女をからかうように言い募るシロ。
魔理沙は二人の微笑ましい掛け合いを羨みながらも、望んで蚊帳の外に立っていた。
そしてひとしきり笑った後。
唐突に、シロが振り返って訊いてきた。
「そういえば聞きたかったんですが。どうして霧雨様はペットの飼育を学びたかったんですか?」
「ああ、言ってなかったっけ。実は私、ペットを飼おうかなって思ってるんだ」
「霧雨様が……ペットを?」
「うん。私は一人暮らしだからな、ペットでも飼えば生活が潤うんじゃないかと思って」
本当の願いは『親愛なる家族がほしい』というものだったが、あえてこの程度の説明に留めた。
偽っているわけではないし、それ以上はあくまでも自分の問題である。ペットを飼った後の信頼関係の構築は、それこそ魔理沙が努力していかなければならないことだ。
ふと、誰からか見られている気がして、そちらの方向に視線を向けた。
さとりだった。彼女はこちらの心を読んでいるかのように、複雑そうな表情で見返してきた。
そこに、シロが名案を思いついたと宣言するように手を上げた。
「はいはい! じゃあ私が立候補します!」
「え? マジで?」
「…………!」
確かめるように聞くと、シロは前で手を組んで大きく頷いた。
「はい! 私は炊事洗濯家事親父、すべてこなせますよ!」
「最後のは是非とも遠慮願いたいが……そうか、それはなかなか悪くないな」
「意思疎通と家事ができて、可愛さ満点の猫はいかがですか?」
にっこりと微笑み、尻尾をふりふりと振りながら問いかけてくる。
その盲点ともいうべき提案に、魔理沙は半ば真剣になって思案しだした。
――飼育初心者である自分が人型になれるペットを飼う。
それならばペットの飼い方を彼女から学びつつ、同時にペットを飼うという貴重な経験も得られるはずだ。
最初は成熟した猫から飼い、慣れてきたら隣の部屋にいるような子供を引き取ってみるものいいかもしれない。
存外悪くない案に魔理沙が納得しかけた、そのとき。
「駄目っ!」
悲痛な叫び声が、狭い休憩室に響いた。
思わず声の主を見やる。そこには、さとりは潤んだ瞳を携えて、魔理沙を見据えていた。
そして、どうしたんだと聞く暇もなく、さとりが動き出した。
すくりと立ち上がり、驚きの表情を崩さない魔理沙の腕を引っ掴み、そのまま歩き出したのだ。
「お、おいさとり。どうしたんだよ」
「…………」
さとりは答えず、魔理沙が痛みを感じるほどの力で引っ張る。
そしてそのまま部屋を出ていこうとする直前。
シロが、口を小さく動かしながら何事かをこちらに伝えてきた。
「――頑張ってくださいね」
そう言っているように、魔理沙は思った。
困惑する魔理沙が連れ込まれたのは、飼育部屋を抜けたすぐ傍にある、客間だった。
人間が二人ほど寝転がれそうなベッドがぽつんと置かれているだけの部屋。おそらく、ペット係が体を休める部屋なのだろう。私物のようなものが一切ないのに、かなりの頻度で掃除されているようだった。
そんな場所に連れてきたさとりは未だに無言を貫いており、その顔は俯いていて見ることができない。
魔理沙は内心びくつきながらも、さとりに質問した。
「さ、さとり。ここに何か用があるのか?」
「……甘すぎるんですよ」
「へ? な、なにが甘いんだ?」
「魔理沙さんの認識、思考、行動。その他諸々が角砂糖よりも甘くて、吐き気がします」
「……すみませんでした」
口調こそ淡々としているものの、語る内容は剣呑極まりない。
原因はおろかその経緯すら分からないが、さとりが怒っているのだけは雰囲気でなんとなく分かった。
なので一応謝罪をしてみたが、肌がひりつくほど張り詰めた空気は一向に弛緩する様子がない。
さとりが深々と息を吐く。そして、言った。
「魔理沙さんはまだペット飼育の片鱗に触れただけです。たったあれだけ体験して、すぐにペットを飼えるだなんて思い上がりも甚だしい。まるで、一歩進んで千里歩いたと勘違いしたよう。たとえ相手がお白だとしても、まだ飼うには何もかもが足りません」
「……勘違いしてごめんなさい」
「特に、動物の撫で方が甘い。あの場では言いませんでしたが、及第点どころか落第点ものでした。あの子たちは他者に慣れてるので大丈夫でしたが、あれを初対面の子にしたら嫌われるどころか殺されかねませんよ」
「……本当に申し訳ありませんでした。てっきりアレでいいのかと思ってました」
脳をフル回転させて動物を撫でた時の光景を思い出す。
――頭を撫でた。背中を撫でた。耳を弄った。肉球に触った。尻尾で遊んだ。
思うが侭にコミュニケーションを取った。彼女たちは嫌がる仕草を見せていなかったのだが。
そんな魔理沙の思考が真っ向から打ち砕かれる。
「駄目駄目、まったくもって駄目です。礼儀も準備も何一つなく、自身の欲求を叶えるだけの傲慢な触り方でした。あの子たちは嫌がる素振りは見せませんでしたけど、心の中では嫌がってました。これからその修正と、正しい動物との触れ合い方を教えてあげましょう」
「よろしくお願いします、先生」
どうにも勝てる気がしなかったので、大人しく頭を下げる。
この返事に満足したのか、ようやくさとりは微笑を浮かべて、鷹揚に頷いた。
「では、まずはその対象を。魔理沙さんは犬と猫、どちらが好きですか?」
「ん~……猫、かなぁ」
特別な理由はない。強いて言えば、おもむろにシロの姿を思い出したくらいか。
するとたちまちさとりの面に皺が寄った。その表情は、あからさまに『面白くない』と告げていた。
「猫ですか……。ああ、そういえばウサギも大丈夫ですけど、どうしますか?」
「……猫で」
「……分かりました、猫ですね。ちょっと待っててください」
そう言うと、さとりは重い荷物でも背負っているかのように肩を落とし、部屋を出て行った。
その後姿を最後まで見送り、ようやく安堵の息が零れ出た。
ひとまずベッドに腰を下ろして、どっと溢れ出た疲労を誤魔化すように独りごちた。
「なんだったんだろうな。さとりのあんな剣幕、初めて見たぜ」
険しい表情なので、怒っているといえば怒っているのだろう。
しかしどうにも、怒っているというよりはいじけている風にも見える。
ペットを叱りつけていた時とは違い、まるで『構ってほしい』と寂しげに訴えているようにも思えた。
しかし、シロが自ら飼育されると宣言した瞬間、ああなったのだ。
あのやり取りにおかしなところがないか考えてみるが……まったく思い浮かばなかった。
いつもなら他人の心の詮索などすぐに諦めるのだが、相手はさとりだ。『分かりません』で終わらせたくはない。
そんなことを悶々と思考していると、コンコンと軽い音と共にさとりが入ってきた。
「お待たせしました、始めましょう」
「ああ、またよろしくた……の…………」
普通に返事をしかけたのだが、さとりの姿を見て魔理沙は絶句した。
紅潮した頬を携えたさとりが扉の前で立っていた。それはいい。しかし……
戸惑う声もそのままに、魔理沙が当然の疑問を口にする。
「……さとりさん。その『耳』は、なんでしょうか?」
「……魔理沙さん、猫が良いって言ったじゃないですか」
「それは、そうだけど」
そう、さとりの頭からひょっこりと『耳』が生えていたのだ。
それはまるで彼女のペットである火焔猫燐、あるいはシロのようで。
魔理沙の視線に耐えかねたように、さとりは若干俯き加減に歩み寄ってきた。そしてベッドに座った魔理沙の横を素通りし、そのままベッドに身を投げ出す。――よく見れば、ご丁寧に尻尾まで生えているではないか。
さとりは羞恥を誤魔化すように、強い口調で説明を始めた。
「こ、これはですね……魔理沙さんの撫で技術の向上を目的とした訓練です。ですが魔理沙さんは撫で方が非常に荒くて下手なので、仕方なく私が実験台となったわけなんです。だから、すごく感謝してください!」
「お、おう。すごくありがとうだぜ」
「では、まずは私を普通の猫として扱い、愛でてみてください。駄目出しはその時にします」
それだけ言い放つと、さとりはベッドの上で寝転がった。
その瞳はうっすらと赤みを帯び、そしてひどく潤んでいる。宿るのは羞恥か恐怖か、あるいは期待か。
魔理沙は誘われるようにして、ベッドに膝をつきながらさとりに近づいていった。
「それじゃ、触るぞ?」
「は、はい。優しくお願いします」
「う、うん」
ごくり、と唾を飲み込む音がいやに耳の中で反響する。
正直恥ずかしかったが、さとりはもっと恥ずかしいのだと自分に言い聞かせ、なんとか手を伸ばした。
ぷるぷると震える手。非常にゆっくりながらも、まっすぐさとりの頭を目指す。
引っ込めたくなるのを我慢し、ようやくさとりの柔らかそうな髪に触れようとしたとき。
「魔理沙さん。それでは、駄目です」
「ええ、ここで!?」
すかさず駄目出しを受けた。
まだ触れてすらいないというのに、どこが間違っているのか。
さとりは至極真面目な面持ちで講義してくれた。
「動物は基本的に魔理沙さんよりも小さいですよね。彼女たちからすれば、巨大な生物が真上から襲い掛かってくるような感覚なんです。そうすると当然、怖がるんですよ」
「な、なるほど。私たちからすれば、巨人に手を振り下ろされるようなものか」
「その通りです。なので最初は、下の方から彼女たちの鼻先にそっと手を近づけてください。匂いを嗅がせて安心させるんです。嫌がっていなかったり舐めてくれたりしたら、大丈夫のサインです。そのまま首元に触れてください」
「おう、わかった」
言われたとおり、さとりの鼻に手を寄せる。
さとりは鼻を鳴らしながらこちらの掌の上を旋回し、そして鼻先をこすりつけてきた。
掌の中心が異様にくすぐったくなるが、なんとか堪える。
今のが大丈夫のサインだ、と理解したので、魔理沙はさとりの頬を滑らせるようにして撫でながら、首筋へと手を移動させた。
「っ」
さとりの体がぴくりと震える。しかしすぐに収まり、そのまま見上げてきた。
――まるで本物の子猫のように、無垢な瞳だった。
そのせいだろうか。徐々に彼女が本物の猫のように思えてきた。
「上から下に、そっと手を下ろしてください。あまり強すぎると痛みを感じてしまいます。犬や猫には体毛があります。その流れに沿って優しく撫でれば大丈夫です」
魔理沙は返事をせず、了承の証として言われたとおりに手を動かした。
擦らず滑らせる。さとりの表皮のみに触れるよう、細心の注意を払って上から下へ。
服の上からでも同じように撫で付ける。むしろ服が猫の体毛のように感じられ、ますます魔理沙は没頭していく。
「んっ……そう、その調子。お腹を見せていても勝手に触ってはいけません。嫌がる子も多いですから。背中を丹念に撫でてあげれば、それだけで充分に喜んでくれます」
少し強めに背中を押すと、指先が固いものを捉えた。背骨だ。
背骨の位置と長さを確認するように指を滑らせ、尾骨の手前まで撫でていく。
そしてすぐさま再び首に戻らせて、今度は背骨のすぐ横にある窪みに三本の指を軽く捻じ込んだ。
さとりが深く息を吐く。
「……猫だって、マッサージは好きですよ。んくっ」
窪みに指を押し入れながら再度腰まで下ろしていく。
指先に力が入らない分は回数をこなすことでカバーする。これくらいでいいのだと、なんとなく理解した。
さとりの体が徐々に脱力していくのが、手に伝わる感触で察せられた。
「頭は、猫が魔理沙さんに慣れてから撫でてやってください。もちろん猫も大好きです。上から下に、を忘れずに」
「……ああ」
魔理沙は直下のさとりを見下ろす形で撫でるが、妙にやり辛いことに気がついた。
今は足を崩して座っているため、膝がさとりの顔に当たりそうで怖い。
しかし彼女の背中側に回って撫でようとすると、それではさとりの顔が見えないし却って撫で難くなってしまうのだ。
どうしたものかとしばし考える。すぐに思いついた。
「さとり、ちょっと頭上げるぞ」
一応断って、魔理沙はさとりの頭の下に腕を滑り込ませた。
そして上げた頭とベッドの隙間に、伸ばした状態の足を割りいれた。
膝枕だ。正座ではないので厳密には膝枕ではないのだが、足が痺れるのが嫌なのでこの形となった。
さとりも特に文句は言わず、頬をエプロンドレスに軽く擦りつけていた。
撫でるのを再開し、髪の毛の流れに従って手を動かす。
「さとりの髪、気持ちいいな」
「……ふふっ、ありがとうございます」
さとりの髪は羽毛のように軽く、また柔らかだった。短いくせ毛は幾度撫でようとも飽きが来ない。ついつい調子に乗って反り上がった毛先をいじっていると、さとりがくすぐったそうに目を細めた。
ここで先ほどから気になっていた部位に手を伸ばした。頭の上に付いた『耳』である。
薄いが張りのある布地で構成されているらしい。ふにふにと触って楽しむ。
その後、そっと掻き分けるように耳の根元を探る。指先に固い感触が得られ、その正体が露わになった。
「ああ、やっぱりカチューシャだったのか」
「それはそうですよ。私はさとり妖怪であって、人型になっているわけではありませんから」
深い納得と共に、ほんの少しだけ残念な気持ちが過ぎった。
今度は頭から背筋を通すようにさとりの臀部へと手を滑らせていく。目的のものに、すぐ手が触れた。
尻尾である。細かい毛の手触りがいい、作り物の尻尾。
どうやらウエスト回り、ちょうどスカートの腰辺りにクリップで挟み付けられているようだった。
軽く引っ張ってみると、案の定さとりに睨め付けられた。
「……魔理沙さん。尻尾に触っちゃいけません。あと素人がよく肉球に触りたがりますが、あれも駄目です。動物は触られても不快感しか得られませんから」
「それは悪かった。他には?」
「そうですね、ペット自身が触れられないところをくすぐってあげると喜びますよ。耳の裏、顎、額などですか。あとは……優しい言葉をかけてあげてください。とても喜びます」
ふーん、と頷きながら尻尾から手を離し、さとりの耳の裏や頬をゆっくりなぞり上げる。
さとりは心地よさそうに目を閉じた。そこに再度質問をぶつける。
「どんな言葉をかけたらいい?」
心の中で『さとりはどんな言葉が嬉しいんだ?』と問いかけた。
さとりは途端に恥ずかしがるように顔を伏せ、か細い声で言った。
「……動物は相手の心を敏感に感じ取ります。なので、思ったことを思ったように伝えるのがベストです。でも……ありきたりですが、『可愛い』なんて言われたらみんなが喜びますよ」
「可愛い、か。たしかに一番口にしそうだな。可愛いペットを前にすると」
「ああでも、言い過ぎに注意してください。あんまり連呼するとペットがそれを自分の名前と勘違いしますから」
「可愛いって呼べば振り向いちゃうのか?」
「褒める時は名前を呼びながら、その後に言葉をかけます。逆に叱る時は名前を呼んではいけません。名前を呼ばれることに恐怖を感じるようになりますから」
「なるほど、早速試してみよう」
太腿を枕にして横になるさとりの顔を上げさせ、その瞳をじっと見つめる。
さとりが目を逸らそうとするのを押さえて、魔理沙は優しく呟いた。
「さとりは、可愛いなぁ」
「…………」
やはり真正面から『可愛い』なんて言われると照れるのだろう。
さとりはうなじまで朱に染めると、手を払い除けて魔理沙のエプロンドレスで顔を隠してしまった。
なんとかその顔見たさにあれこれと行動してみるが、頑なに拒むさとりを引っ張り出すことはできなかった。
仕方ないのでまた褒めてみよう、とも思ったのだが。
(そういや、何度も言っちゃ駄目なんだったか)
さとりの言葉が甦り、断念しかけた、そのとき。
エプロンドレスの向こう側から聞こえた、か細い囁き声が魔理沙の耳を打った。
「……大丈夫です」
「え?」
「あと一回くらいなら、大丈夫ですから。……褒めてください」
予想だにしなかった台詞に、魔理沙は撫でる手を止めて目を見張った。
これはやはり、そういう意味だろうか。その通りだとしたら……
「可愛い」
「…………ありがとうござ」
「さとり、可愛すぎるだろ~!」
「ぶわぁ! ま、まりささん!?」
胸底から突如興奮と喜びが一挙に湧き上がり、その荒れ狂う衝動のままに、魔理沙はさとりの体を撫で回した。
もはや力の配分など出来はしない。ただ総身に宿る熱きパッションを発散するだけである。
髪がくしゃくしゃに乱れ、服に皺が寄っても、上から下という鉄則すらも頭から抜け落ち。
魔理沙はしばらくの間、思う存分さとりを撫で尽くした。
やっとそれが止まったのは、さとりがかすかに柳眉を逆立て始めてからだった。
鋭い眼差しで魔理沙を射抜き、自分が不快であることを苛烈に伝えてくる。
さすがにやりすぎたか。そう思った魔理沙が降参するように手を上げると、憮然とした表情で荒々しく息を吐いた。
「魔理沙さん。そこに正座なさい」
「はい」
身だしなみを整え、姿勢を正したさとりの指示に従い、行儀よく座る。
ベッドの上で縮こまって正座する魔理沙に、口をへの字にしたさとりが語気荒く言った。
「自分勝手な愛で方はペットとの距離が広がります。復唱!」
「自分勝手な愛で方はペットとの距離が広がります」
「ペットは家族です。常に敬意を払い、また尊敬される振る舞いをすること。復唱!」
「ペットは家族です。常に敬意を払い、また尊敬される振る舞いをすること」
「言葉と行動で愛情を伝え、生物を飼う責任を自覚し、末永く共に生き続けましょう」
「言葉と行動で愛情を伝え、生物を飼う責任を自覚し、末永く共に生き続けます」
最後の一句まで言い終えると、満足したようにさとりが頷いた。
「よろしい。これで魔理沙さんに伝えることはあまりなくなりました。かろうじて及第点です」
最後まで手厳しい判定に、魔理沙は思わず苦笑を洩らした。
そして痺れかけた足を伸ばす。硬直していた筋肉がほぐれ、心地いい感触が駆け巡る。
ベッドに体を投げ出して横たわると、ふわりと頭が浮き上がり、柔らかな何かが頭の後ろに敷かれた。
――仰向けになっている魔理沙の視界は、朗らかに微笑むさとりで占められた。
先ほどとは正反対の立場となり、今度は魔理沙が髪や頬を撫でられることとなった。
こいつはたしかに恥ずかしいな、と思いながら、魔理沙は素直に礼を口にした。
「ありがとな、さとり」
「いえいえ、私も結構なご褒美を……げふんげふん、違いました。お疲れ様です、魔理沙さん」
「すごく疲れた。ペットを飼うって大変なんだな。骨身に染みたよ。でも、これでペットが飼えるんだな」
「…………」
何故か突然、さとりが表情を曇らせた。
てっきり賛同の声が上がると思っていた魔理沙は、きょとんとしながらさとりを見上げる。
妙に息の詰まるような沈黙の中、おずおずといった様子でさとりが聞いてきた。
「魔理沙さんは、本当にペットを飼うつもりですか?」
「え……」
そのつもりで今日はずっとペットの世話をやってきたのだ。
今更それを問うさとりの真意が読めず、魔理沙は訝しみながら答えた。
「そうだけど。なにか、まずいか?」
「い、いえ。……そういうわけじゃ、ないんですけど」
「じゃあ何なんだ。それともなんだ、やっぱり私が信じられないのか」
「違います! 魔理沙さんを信頼していないわけではないんです!」
自然と荒々しくなる魔理沙の言葉を、さとりが悲鳴を上げるように遮る。
そんな彼女の様子をつぶさに観察していた魔理沙は、体を起こしてベッドの上に座りなおした。
涙目になりかけているさとりを落ち着かせるように、ゆっくりと語りかける。
「別に怒っても疑ってもいないぜ。ただ、さとりの本音を聞かせてほしいんだ」
数瞬の沈黙の後、さとりが重圧に耐えかねたように腰を上げかけるが、彼女の肩を優しく押さえつけることで封じる。
ここで逃げられては問題が解決するどころか、悪化して何日も続きかねないと直感したのだ。
だから努めて笑顔を浮かべ、閉ざされたさとりの心を解きほぐすように、言った。
「教えてくれ、さとり。今日は私の先生だろ?」
するとさとりは観念したように体の力を抜き、自分の肩を押さえつけていた魔理沙の手を取って、しっかりと握り締める。
そして震える声で、こう切り出した。
「……魔理沙さん。あなたを信じていないんじゃなくて、少し不安になってるだけなんです」
「――不安か。分かるよ、私も自分以外の命を預かるんだと思うと、怖くてたまらない」
「そうじゃないんです。魔理沙さんはきっとペットを家族として大切にしてくれるんだと信じてます。でも、だからこそ怖くなったんです。……その先のことが」
「その先? どういうことだ?」
「……私はすごく真剣に悩んでるんです。絶対、笑わないでくださいね?」
「ああ、約束する」
魔理沙が力強く頷いたのを見届け、さとりは蚊の鳴くような声量で、驚くべき一言を言い放った。
「…………魔理沙さんがペットを飼ったら、地霊殿に来る回数が減るんじゃないかと思って」
「……へ?」
気の抜けた声が、静寂に満ちた部屋で響き渡った。
魔理沙の困惑を知ってか知らずか、さとりは畳み掛けるようにして心情を伝えてくる。
その顔は――とんでもなく赤かった。
「だ、だから魔理沙さんがペットを飼ったら、もうここへは来なくなると思ったんです! だって魔理沙さんが訪問する理由の大部分は、ペットと触れ合いたいというものじゃないですか! それに、誰だってペットを飼えば生活の基準が変化するんです。ペットが家で待ってるから遠出やお泊りはなるべくしないとか、寂しくなったらすぐに帰りたくなるとか!」
「は、はあ……」
「魔理沙さんの住む魔法の森と地霊殿はかなりの距離があるし、そもそもペットがいれば地霊殿に来る必要がないじゃないですか! それに、友達よりも家族を優先するのが普通です。ペットを大切にしろと言った手前、それを覆させるなんて出来るはずないじゃないですか!」
さとりが興奮したように喋り続けるのを、魔理沙は呆然と眺めていた。
せっかく彼女が心のうちを赤裸々に明かしてくれているのに、その内容の半分も頭に入ってこない。
だが、それでも言われたことが理解できた。できてしまった。
「だいたい、一から家族を作ろうだなんて甘いにも程があります! すでに親しい人物から選んだっていいじゃないですか! そりゃあ心を読む能力だとか、それを活用して他人をからかうような悪趣味な性分ですけど! それとも自分に服従するペットが欲しいんですか!? 違うでしょう、魔理沙さんが欲しいのは……!」
「家族。一緒にいるのが当たり前な、普通の家族だ」
「そう、そうです! だというのに、初めましてな子を選んで教育して家族だなんておこがましい! もっと近くに魔理沙さんが好きで好きでしょうがなくて、願わくば家族に立候補したい人物がいるかもしれないじゃないですか! そう、お白よりも近くに! それが誰だかは……まあ、知りませんけどね。ええ、知りませんとも!」
最後は吐き捨てるように、さとりは荒い息を立てながら言い終えた。
その頭上で作り物の耳がプルプルと震えており、いやにリアルな動きを醸し出している。
魔理沙は確認するようにさとりの言動を最初から巻き戻し、最後まで吟味するように思い返す。
そうすることで自らの記憶が間違いでないと判断して……思わず、噴き出した。
「くくっ」
「あー! 笑った! 笑いましたね、この人は! 約束したのに!」
「ふふふ、あっはっはっはっは! いやすまん、さとりを笑うつもりは……はははははっ」
「嘘つき嘘つき嘘つきぃぃぃぃぃぃ! 魔理沙さんなんて信じた私が馬鹿でしたよ、ええいどちくしょー!」
さとりが拳を振り回してポコポコと叩かれるが、魔理沙は避けずに甘んじて受け入れる。
だが、その顔は変わらず笑顔だった。これは仕方ないのだ。いくら止めようと思っても止まらないのである。
――嬉しくてたまらないから。
魔法を使うことを咎められ、実家を飛び出して一人暮らしを余儀なくされた。
周りに人はいた。幼馴染がいた。出会いがあった。友人がたくさん増えた。けれど、みんな他人だった。
あまり好かれてないことは自覚していた。物を『借りる』ことが多かったし、自分は所詮自称魔法使いなのだから。
それで構わないと思った。それが魔法使いの宿命だと諦めていたから。
だが、地霊殿に来て少しだけ家族への憧れを思い出してしまった。
それくらい、古明地さとりとそのペットたちの絆は眩しくて、手が届きそうなほど近くに感じられた。
でもやっぱり自分には無理だと、そう思い込んで地霊殿に足繁く通いつめた。
ペットに囲まれることで、自分も彼女らの絆の中にいるのだと錯覚するために。
だが、それは誤りだった。
(私は馬鹿だな。本当に、大馬鹿者だ)
自らの愚かさ加減を呪いながら、魔理沙は頭を抱えるさとりを見つめた。
こんなに近くにいたのに。抱きしめられるほど近距離にいたというのに、全然気づかなかったのだ。
無限の信頼を寄せられ、ただ無条件に愛し、愛してくれる人物に。
――ようやく、自分の居場所を見つけた気がした。
「なあ、さとり」
「ああもう、なんですか。今それどころじゃないんですけ、ど?」
手を伸ばし、さとりの頬を静かに撫で擦る。
さとりはきょとんとした瞳を向け、こちらの意図を読もうとするように三つの目を瞬かせた。
その視線を受け、自らの心を晒す恐怖と戦いながら語りかけた。
「私さ、ずっと家族がほしいと思ってたんだ。家を追い出されて、瘴気の漂う森に一人で住みようになってから。家に帰ったら『おかえり』って言ってくれる家族がいれば、きっと毎日が楽しくなるんだろうなって」
「……そうですか」
「だからさ、やっぱりペットが飼えるなら飼いたい。もう一人は嫌なんだ」
「……お気持ちは分かりました、私も力の限り協力しましょう。魔理沙さんはどんな子がいいですか?」
「猫がいい。可愛い猫が、いいな」
「では、やはりお白にお願いしますか? あの子も望んでましたし」
魔理沙は頭を振り、明確に否定する。
そして、訝しむさとりの髪を手櫛で梳きながら、言った。
「いるじゃないか。私の目の前に、優しくて嫉妬深くて可愛い猫が」
「それって……えええぇぇぇぇ!? ど、どうしたんですか魔理沙さん! なんか悪いものでも食べました!?」
「いや、それ何気に酷いぞ。結構勇気を振り絞ったんだが」
「だ、だってド鈍感の魔理沙さんが……ものすごくらしくない、くさい台詞を……」
「……ひでぇ」
鈍感なのは否定しないが、ここまで狼狽されるとやはり傷つく。
がっくりと肩を落とす。するとさとりが、慌てて取り繕うようにフォローしてきた。
「ま、まあ魔理沙さんもそういう冗談を口にするんだなって感心しただけですから。そんな落ち込まなくても」
「ほとんど冗談じゃないぜ。わりと本気で提案してる」
「……本気で? 申し訳ないですが、私はペットじゃないですよ。今はこんな格好してますけど」
さとりの表情が忽然と消え失せた。
加えて、肩にある第三の眼が大きく見開かれたかと思うと、心の底まで見通されたような感覚が走り抜ける。
心臓が早鐘を打ちはじめる。胸が圧迫されて息苦しい。知らず、指先が小刻みに振動してきた。
しかし、それら全てを気合で捻じ伏せ、魔理沙は決定的な一言を口にした。
「ああ。だからさ、ペットとしてじゃなくて『家族』として一緒にいてくれないか?」
――沈黙。
さとりは、答えなかった。
逃げ出したい衝動を、歯を食いしばることで耐える魔理沙。
そんな彼女を見つめる双眸には、喜びや困惑どころか、何の感情も浮かんでいない。
一千万倍にまで引き伸ばされた体感時間が、魔理沙の精神を緩やかに炙っていく。
そして。
「ふふふっ」
唐突に、さとりが口を押さえながら肩を震わしはじめたのだ。
明らかに笑いを堪えている。さとりの豹変にしばし呆けていた魔理沙が、事態を把握するのに、さらに数秒を要した。
「……おい、笑うこたぁないだろ」
「うふふふふっ! 魔理沙さんったらすごく顔が真っ赤ですよ。そんなに恥ずかしかったんですか?」
「っ! ええい、もういい! 今日はもう帰る!」
自覚していた顔の火照りを指摘され、魔理沙はついに堪え切れなくなって立ち上がった。
そのまま部屋を出て行こうと扉へと歩みを進ませる――その直前。
「魔理沙さん」
真後ろから抱きすくめられた。
咄嗟に振り払おうと腕を広げかけたが、その優しい抱擁に力が霧散してしまい、やがて再びベッドに腰を下ろした。
まるで魔理沙がそうすると分かっていたのか、さとりが寄りかかるように体重を預けてくる。
「心からの言葉、ありがとうございます。魔理沙さんの気持ちは充分伝わってきましたよ」
「……怖かった。自分から嘘偽りのない言葉を言うなんて、こんなに怖いものだとは思わなかった」
「誰だってそうです。自分の気持ちを素直に告げるだけなのに、どうしてこんなにも勇気がいるんでしょうね」
「さあな。ペットが羨ましいぜ。あいつらはこれを平気な顔でしてくるからな」
「言葉を持たないから、行動で示すしかないんですよ。『私はあなたが好きです』って」
「そうか……。で、返事は?」
「返事? 一体何の話ですか?」
からかうような声音に、魔理沙が深々と溜め息をつく。
「意地が悪いぜ、さとり妖怪。こっちはそろそろ心臓が爆発しかねないんだが」
「それは失礼しました。コントロールできないほどの喜びなんて久しくなかったので、つい」
首元に回っていた腕が、きゅっと軽く締まり。
一旦離れていたさとりの吐息が、再度くすぐるように接近し。
甘い囁きが、魔理沙の耳朶に響いた。
「――んにゃお」
数日が過ぎて、魔理沙は再び地霊殿へ訪れていた。
いつものように応接間のソファを陣取り、日課である読書をしながら、擦り寄ってくるペットを撫で可愛がる。
その行動は『あの日』からもまったく変わらず、態度もいつものようにふてぶてしいものである。
今は非番らしい白猫を膝に乗せ、のんびりとした午後の時を過ごしていた。
しばらくすると、動物たちが一斉にある場所を凝視した。
突然のことだが魔理沙は動揺することもなく、彼女たちと同じように扉へと視線を移す。
間もなく、扉が音を立てて開いた。
入ってきた人物は部屋をぐるりと見回し、魔理沙の姿を認めると、柔らかな微笑を零した。
「魔理沙さん。もう来てたんですか」
彼女の挨拶に、魔理沙も微笑みをもって応えた。
「よう、さとり。今日の仕事はもう終わりなのか?」
「ええまあ、だいたいは。書類の整理も終わりましたし、あとはお燐とお空の報告を受け取るだけです」
「お勤めご苦労様だぜ。自由人の私には到底理解できない世界だな」
「私たちの食事や消耗品、魔理沙さんが飲んでる紅茶もこれで得ているんですよ。なんならお金を請求しましょうか?」
そいつは勘弁、と首を振りながら、白猫の背中をゆっくりと撫でた。
白猫が気持ちよさそうに喉を鳴らす。
さとりはそれを見つめながら、白猫にそっと話しかけた。
「お白。そろそろみんなのご飯じゃない?」
瞬間、応接間で寝転がる動物たちが先ほどに層倍する勢いで、顔を上げた。
その瞳は爛々と輝いており、期待に満ちた視線が魔理沙の膝元へと注がれる。
すると白猫は、億劫そうに目を開けて――ひらりと、地面に降り立った。
次に魔理沙が瞬きした時には、白猫は銀髪を腰元までたなびかせるメイドへと姿を変えていた。
彼女は名残惜しそうに魔理沙を見やると、深々と頭を垂れた。
「霧雨様、どうもありがとうございました。私はこれから仕事ですので」
「おう、またなシロ。次も触らせてくれよな」
「喜んで。では、また」
おいで、とシロが近くのペットを招きながら扉へと向かった。
彼女の歩みに合わせるように、続々とペットたちが白猫の後ろや横に移動し、同じように歩いていく。
それぞれが空腹を訴えるように鳴きながら、やがて一匹も残らず部屋を出て行った。
急速に音が消え、応接間は静けさを取り戻す。それに追随するように、さとりが静かに魔理沙へと歩み寄った。
魔理沙は自分の隣を軽く手で叩く。そして、律儀に待っているさとりを促した。
「ほい、どうぞ」
「ありがとうござ……ありがとう、魔理沙」
礼を口にしながら、さとりが魔理沙の隣に腰を下ろした。
その態度はいつもと変わらない。ソファに背中を預けて、少しだけ肩を寄せ合って座るのも、二人の日常だった。
そして、しばらく互いに言葉を発さず、ぼんやりと過ごしていた。
違う点があるとすれば、魔理沙が時折物言いたげにチラチラとさとりへ視線をやるのに対し、さとりはそれに気づいていながらもあえて無視しているところだろう。
まるでおやつを言外にねだる犬に、飼い主が意図的に気づかない振りをしているようだった。
それに耐えかねたのか、魔理沙が若干弱々しい声を上げた。
「な、なあさとり。『挨拶』はないのか?」
するとさとりは、心底不思議がっているように首を傾げる。
「挨拶? そうね、挨拶は大事よね。こんにちは、魔理沙」
「そうじゃなくてなぁ……お前、ワザとやってるだろ?」
「ええ、だって魔理沙の方から挨拶してこないんだもの。それじゃあしようがないじゃない」
「いや、あれって挨拶というよりも……」
「魔理沙がしないなら、私もしません。してほしいなら、ちゃんとしなさい」
ぷいっと顔を背け、さとりは再び正面を見ながら口を閉ざした。
そんな彼女の態度に魔理沙は困り果てながらも、やがて決意したように表情が引き締まっていく。
ソファの背もたれに手をつき、腰を少し浮き上がらせながら、さとりの横顔へと近づいていき……
「んっ」
火がついたように素早く、さとりの頬に口付けをした。
まさに一瞬の早業だったが、離れた魔理沙はまるでリンゴのように顔を火照らせている。
そして、キスをされたさとりは頬を擦りながら、やや不満げに口を尖らせた。
「……もうちょっと落ち着いてやってもらいたいのだけれど」
「これが精一杯だ! まったく、本当にこんな挨拶があるのかよ……」
「日本ではなくて遠い外国のことだけどね。家族はもちろん、友人に対しても行われる、立派な挨拶よ」
そうにこやかに断言され、魔理沙は深々と溜め息をついた。
もちろん最初に言われたときは信用しなかったのだが、なんとさとりはその証拠となる資料を見せてきたのだ。
たしかにそこには、親愛を示す表現として存在すると書かれていて、魔理沙を大変驚愕させたものだ。
魔理沙は恥じらいを隠すように、声高々に言い放った。
「これでいいんだよな! ちゃんとしたから、お前もするんだよな?」
「もちろん。約束を守った良い子には、ご褒美をあげなきゃね」
さとりはそう言うやいなや、魔理沙の手を握り、自分の胸の辺りまで引き寄せる。
そして軽く深呼吸した後、美しい桜の開花を思わせるような笑顔で、言った。
「おかえり、魔理沙」
「――ただいま、さとり」
こうして、今日初めての『家族』としての挨拶を、魔理沙たちは終えたのであった。
(私もペットが飼いたいな……)
さとりが子猫を優しく撫でているのを見て、魔理沙は唐突に思った。
ここは地霊殿。言わずと知れた、さとり妖怪と様々な動物が住む屋敷である。
地霊殿を住処とするペットは百種千匹を軽く越えるとされ、屋敷の主である古明地さとりですら正確には把握していないらしい。
まあ実際はもっと少ないのだろうが、それだけ動物が多くいるということだろう。そのあまりの数に、さとりすらペットの名前を間違えてしまい、ペット間で冷戦のような状態になったことがあるとか。ご飯の時間になったら終了したようだが。
自分のような外部の人間からすれば、実に微笑ましいエピソードである。
そんな中で、魔理沙が『動物を飼いたい』と感じるようになるのは、ある意味必然でもあった。
「なあ、さとり。私もペットを飼ってみたいんだが」
魔理沙は読んでいた魔導書を脇に置き、意を決して切り出した。
するとさとりは子猫を撫でる手を止めて、こちらにその視線を向けてきた。
「はあ。それはまた唐突ですね、どうしてですか?」
「いやさ、さとりがちょっと羨ましくてな。なんか、そいつらの安心しきった顔を見てると」
「……魔理沙さんに構ってもらうその子達も、充分に安心していますけど」
さとりはかすかに微笑みを浮かべながら言った。
彼女が持つ第三の眼が、魔理沙の周囲にたむろしているペットたちへ向けられている。
それは嬉しいけど、と頭を振って続けた。
「なんていうか、さとりと私じゃ違うんだよ。さとりには家族的な触れ合いだけど、私はどこかお客さん扱いなんだよな。それなりに好意は持たれてるけど、所詮そこまでみたいな」
「それは仕方ないことだと思いますよ。魔理沙さんは遊びに来ている立場ですから」
「……そいつは理解してるんだけどなぁ。でもやっぱり、羨ましい」
魔理沙は自分の膝で寝転がる子犬の背中にそっと触れた。
ぴくりと背筋が震えるが、反応はそれだけ。魔理沙には喜んでいるかどうかも判断が付かない。
「つまり魔理沙さんは、みんなにもっと心を打ち明けて欲しいと? 友達ではなく、家族のように?」
「それをこいつらに求めるのはさすがに酷だろ。ただまあ、私にもそんなのが近くにいたらいいなって思っただけ」
不意に目線を下げたさとりは、思案するように目を細めた。
それを確認しながら、この会話を聞いて近寄ってきたペットたちを順番に撫でる。
衝動的な要求と指摘されれば返す言葉もないが、それでも胸にある思いは本物である。
とはいえ、気安く触れ合える存在が近くにいたらいいなぁ、という程度の気持ちだった。
さとりが顔を上げて、こちらを見やった。
「一つ聞いておきたいのですが。魔理沙さんは、動物の飼育に関しての知識はありませんね?」
黙って頷く。
たしかに、自分にはそちら方面の知識はないに等しい。
今まで本格的に動物を飼おうとしたことはないし、接触もここで適当に可愛がる程度か。
大喰らいのツチノコを飼っていたこともあるが、あまりに食料を食い荒らすのですぐに元の場所へ放してしまった。
そんな魔理沙の心情を汲み取ったように、さとりは首を横に振った。
「すみませんが、今の魔理沙さんにペットを紹介することはできません。動物を飼うということは、自分の物ではない命を預かると同義です。その意味を真に理解していない方に、私の大切な家族を譲るわけにはいかないので」
そうか、と吐息のような声が自分の口から零れた。
あなたは信用できないとにべもなく断られた形だが、それほどショックを感じていなかった。
それはおそらく、さとりが正面から真剣に返答してくれたからだろう。
残念ではあるが仕方のないことだ。自分とて、無意味に動物を苦しめたり殺したいわけではない。
当然の話だろうと納得する反面、ペットへの興味と期待が一気に失望感に変わる。
魔理沙は深々と溜め息をつき、沈んだ気持ちを切り替えるべく魔導書を再び読もうと手を伸ばした。
だが、さとりの話はまだ終わっていなかった。
「ですが、もしお望みであれば『ペットと暮らす』ということについて教えてあげますが」
「……つまりお試し的な飼育体験をさせてくれるってことか?」
「私と世話係が普段やっていることを体験させてあげます。そこで学んで、きちんと飼育できるだけの知識と経験を積めれば」
「……私も、ペットが飼える?」
「ええ。そうなれば反対する理由がなくなりますので。どうしますか?」
そう言われた瞬間、魔理沙は反射的に頭を下げていた。
「頼む。教えてくれ」
「わかりました」
顔を上げると、さとりが嬉しそうに目元を緩ませていた。
そして膝の上で丸まっている子猫をゆっくり脇に移動させ、スカートをはたきながら立ち上がる。
魔理沙もそれに倣い、擦り寄っていた動物たちに詫びながら腰を上げた。
置いていかれるのだと理解したペットが一様に寂しそうな声で声を上げる。多分に心を揺さぶられながらも、これは彼女たちの生活を勉強するためなのだと自分に言い聞かせて耐えた。
「では、行きましょう」
「ああ」
そして、さとりの小さな背中を追うように、魔理沙は部屋を出た。
「でさ、これから向かうのはどういう場所なんだ?」
地霊殿の廊下を歩いている最中、魔理沙は先行するさとりに尋ねた。
さとりは顔を前方に向けたまま答える。
「主に基本的な教育が足りてない子たちを育てる……まあ、保育所みたいなところです。人型になれる数人のペットたちが先生になって、トイレや食事の仕方を身に付けさせることを目的にしてます」
「ふ~ん。文字の書き取りとか算数は教えないのか?」
「以前は例外なく教えてましたが……現在では、地霊殿外で行動したいという子に限って教えてます。ただ、今から会うのは人型にもなれず、言葉も話せない子です。なので、魔理沙さんが『勉学を叩き込んでやる』必要はありませんので、あしからず」
うぐっ、と言葉を詰まらせる。
――まだ実家で暮らしていたとき、魔理沙は雇われた家庭教師から勉学を教わっていた。
それは厳格な父親が、霧雨道具店の跡取りとして必要な教養を身に付けさせるのだと、決めていたからだ。
国語算数理科社会、特に文字の書き取りやそろばんの使い方。これらを徹底的に仕込まれた。
年端もいかぬ子供には辛い強制で、魔理沙が家を飛び出した遠因でもある。
とはいえ、現在魔理沙が魔法使いとしてやっていけるのは、ひとえに文字の読み書きと計算が可能だからだ。精神的に大人になった今では、それを認めることができた。
なので父親に対して、嫌いではあるが感謝しないでもないという、複雑な感情を抱いている。
……それはそれとして。
「さとり。さらっと人の心とトラウマを読み取らないでくれないか」
「私と魔理沙さんの仲じゃないですか。それに、私はさとり妖怪です。読んでくれと言わんばかりに垂れ流された女々しい感情を、黙って見過ごすはずがないでしょう」
さとりが振り返り、チロっと舌を出して笑みを浮かべた。
魔理沙はさとりの厳しい言葉に溜め息を洩らしつつも、そのさりげない配慮に感謝した。
勉学を教えてやろう、などと思ったのは、過去に自分がされたことを他人にしてみたかったからだ。
それは自らが受けた苦痛を、今度は自分が与えてやるという陰湿な感情の発露である。
さとりはそれを察知し、事前に釘を刺してくれたのだ。
さらに、わざわざ『女々しい』とまで言ってもらえたおかげで、それがどれほど悪趣味なことかを気づかせてくれた。
(ありがとう、さとり)
心の中で呟き、さとりの小さな背中を見つめる。
さとりは返事をせずに前を向いたままだったが、彼女が照れているのが分かった。
露出した耳が、淡い紅に染まっていたからだ。
それを誤魔化すように、さとりが口早にこれから向かう場所の説明を始めた。
要約するとこうだ。
地霊殿の一角にはいくつか特別な部屋があり、そこでは主にペットの教育を目的に使われている。
魔理沙たちが向かっているのは、その中でも基礎中の基礎を教える部屋である。
教えるのはペット育成を担当するペットで、対象は『地霊殿内を出歩くにはまだ早い』と判断された子供らしい。
地霊殿で住んでいれば自然と妖怪化して言葉を理解するようになるため、それまではそこで暮らさせるのだとか。
トイレや食事の作法、上下関係の徹底や他者との触れ合いなど、教えることは多岐にわたる。
なお、勉学や人型になるための訓練をする部屋もあるらしいが、今回の訪問目的は『魔理沙がペットの飼い方を知る』ためだ。なので、そこはまた次回以降になるらしい。
そうこう話している間に、その部屋に辿り着いた。
さとりがドアノブを握りこみながら、魔理沙の意志を問うように、ちらりと視線を向けてくる。
魔理沙は気迫のこもった瞳で見返しながら、こくりと頷いた。
それが合図となって、とうとう扉が開け放たれた。
――途端、無数の影が襲い掛かってきた。
「う、うおおおおお!?」
魔理沙が刹那のうちに認識できたのは、黒々と輝く宝石のような瞳。
二対で成り立つ数え切れないほどのそれが、一瞬で視界を制圧し、魔理沙の体を蹂躙する。
つまり、全身にたくさんの動物が寄って集ってきたのだ。
それを理解したのもつかの間、次の瞬間には鋭い痛みが魔理沙の体を襲った。
「いてっ、いてえぇぇぇ~~~!」
魔理沙は絶叫を上げた。
それは無理もない。飛びついてきた動物は二十匹を越え、それぞれが好き勝手に魔理沙へと張り付いたのだ。
地獄鴉はからかうように魔理沙の金髪を啄ばみ、猫はスカートや上着にはもちろん皮膚にまで爪を立ててよじ登ってこようとし、足元でじゃれる犬は加減せずに噛み付いてくる。
必死に手で追い払おうとするが、それを見た動物たちはますます興奮したように繰り返す。
あまりの歓迎っぷりに、とうとう魔理沙が怒りを堪え切れなくなったときだった。
「めっ!」
隣で佇む少女の一喝が、響いた。
驚くべきことに、たったそれだけで、周囲で暴れまわっていた動物たちが、ぴたりと動きを止めたのだ。
魔理沙もさとりの突然の行動に戸惑いながら、彼女を驚きの目で見つめた。
その場にいる全員の視線を一身に受けながら、さとりは傍にあった壁を強く叩いた。
ドン! それを耳にした動物たちは、一斉に身を竦める。
そして、さとりがもう一回鋭い口調で叱りつけた。
「めっ!」
その言葉を皮切りに、一匹また一匹と動物たちが魔理沙とさとりから離れ、肩を落としながら部屋の奥へと歩み去っていく。
そんな光景を目の当たりにしながら、魔理沙は恐る恐るさとりを見やった。
――表情は硬く、その瞳は今までになく怒りに震えている。
今まで見たことのないさとりの様子に、内心怯えながら話しかけた。
「さ、さとり?」
「……まったく、あの子ったらきちんと躾けてるのかしら」
しかしさとりは一顧だにせず、目を細めて視線を巡らせる。
すでにいつもの顔に戻っていたが、どことなく話し掛けづらい雰囲気を醸し出していた。
「あ、あのー……」
声が次第に尻すぼみになり、やがて反響すら残らず消え去ろうとしていた。
そのときだった。
「あれー、さとり様? どうしてこんなところにいるんですか?」
何者かの気配が背後から生じ、同時に凛として軽やかな声がかけられた。
魔理沙とさとりが揃って振り向く。
声の主らしい女性を見た瞬間、魔理沙は先ほどとは別の意味合いで瞠目した。
鋭い銀の刃を思わせる、腰まで伸びた月光のような髪。
すっと通った鼻筋に、締まりつつもどこか愛嬌の漂う目元と浅葱色の瞳。
彼女の仕事着だろうか。どこぞのメイド長を想起させる、ゆったりとしたメイド服を華麗に着こなしている。
人類の半分が憧れてやまないであろう、豊満な肉体が隠されているのが、服の上からでも分かった。
そして何より特徴的なのが、彼女の頭に付いている――
「耳、だ」
無意識のうちに、感嘆の色を宿した言葉が零れ落ちる。
女性の頭頂に、彼女の髪の毛と同じ色合いをした『耳』が直立しているのだ。
別に似合っていないという話ではない。むしろ、似合いすぎて反応に困るほどだった。
不意に、それが自分の知り合いと全く同じものだと気づいた。
火焔猫燐。この地霊殿に住む、さとりのペットである。女性もまた、燐と同じように二つの耳を持っている。
ということは――
魔理沙は、何故か自分を見ながら目を丸くする女性に、問いかけようと口を開きかけ……
「魔理沙さん。お白」
「「は、はいっ!?」」
沈黙を貫いていたさとりが、それを遮った。
先ほどをはるかに上回る凄烈な声色に、魔理沙と女性の背筋が凍った。
恐る恐る目線をさとりに移動させる――すぐに後悔した。
「私の前で、どうしてそんなに熱い視線と心で、見つめあってるんでしょうかねぇ?」
ものすごく、怖かった。
それからしばらくして、魔理沙たちは部屋の奥にある休憩室へと移動した。
こぢんまりとした部屋だった。過度な装飾はなく、生活する上で必要最低限の物しか揃っていない。壁際に設置された古びたソファに長年使い込まれて付喪神にでもなりそうな棚、あとはシンプルな流しと小さな氷室が目立つ程度か。
あくまで休憩をする場所であって、生活する場所ではない。そういった雰囲気がありありと感じられる。
ちなみに、あくまでも世話をする者が使うためなのか、あれほどいた動物は一匹もいなかった。
魔理沙が抱いた印象を肯定するように、隣に座ったさとりが頷いた。
「基本的に、人型になれる子だけがここを使えるようになってます。火や刃物といった危険なものもありますし、入っちゃいけない場所を教え込むのにも最適ですからね」
「なるほど。でも寝るところはなさそうだけど、ここ以外にもあるのか?」
「ええ、すぐ隣にベッドがあるだけの部屋が。食事もここで済ませられるので、本当に寝るだけのところです」
さとりの話に相槌を打ちながらも、魔理沙の視線はある一点で固定されていた。
その先には部屋の外で出会った女性がおり、楽しげに鼻歌を歌いながら湯を沸かしている。漂ってくる芳醇な香りから、どうやら紅茶を入れる準備をしているようだ。
彼女が踊るように身を翻すと、その臀部から顔を出す銀色の二尾が、ふらりふらりと遊びだす。
それを眺める魔理沙を見咎めるように、さとりが険しい口調で言った。
「……魔理沙さん? そんなにお白のことが気になるんですか?」
「い、いやそういうわけじゃ。ただ、どうにも見覚えがあるような気がしてな。思い出せなくてもやもやするんだ」
「ふ~ん。まあ、魔理沙さんがどういう意図であの子を見つめてるのか、私にはまったく関係ありませんがね」
チクチクと針で突き刺すような物言いに、魔理沙が顔を強張らせる。
さとりはずっとこの調子だった。部屋に来るまでは上機嫌だったのに、女性が現れてから目に見えて機嫌が悪くなっていったのだ。
どうもあの女性に思うところがあるようで、魔理沙が彼女を見ると不愉快そうに眉を顰めるのだ。
「……魔理沙さんが悪いんですよ、まったく」
「ん? なんか言ったか」
「いーえ、何にも!」
ますます唇を尖らせるさとり。
その様変わりに困惑しながら、魔理沙もなんとか元に戻ってもらおうと頭を悩ませる。
「はーい、さとり様に霧雨様。紅茶が入りました~」
その言葉と共に、湯気の立つカップが目の前に現れた。
面を上げると、件の女性がにんまりとした笑顔で紅茶を差し出しているではないか。
その親しげな態度に戸惑いつつも、礼を口にして受け取る。
「ありがとうな。おいしそうだ」
「霧雨様が喜んでくださってこちらも嬉しいです。はい、さとり様も」
「……ええ、ありがとう。お白」
さとりもわずかに渋面を作りながら、同じように受け取った。
それを嬉しそうに見届けた女性は――なんと、魔理沙とさとりの間に捻りこむようにして座った。
予想だにしなかった行動に、魔理沙もさとりも反射的に彼女が座れるように腰をずらしてしまう。
そうして悠々と自分の場所を確保したメイド服の女性は、そのまま魔理沙に微笑みかけた。
「さあ、どうぞ。熱いので気をつけてください」
「お、おう。いただきます」
言われるがままに、紅茶に口を付ける魔理沙。
舌が痺れるほどに熱く、また香りも濃厚で強く鼻をくすぐる。なのだが、味が分からなかった。
理由は簡単。じっくりと、穴でも空けるのかと疑いたくなるくらいに、女性から見つめられているからだ。
「(じ~~~~~~~)」
「う……むぅ」
落ち着かない。すごく落ち着かない。
しかも、理由は分からないが、徐々に女性がこちらとの距離を詰めてきていた。
ソファは三人ほどのスペースしかない。魔理沙はぐいぐいと端へ追いやられてしまう。
女性の笑顔を見る限り悪意はないと思われるのだが、ではどうしてこのようなことをするのか。
魔理沙は、思い切って聞いた。
「ど、どうしてそんなに近づいてくるんだ。もしかして狭いのか?」
「いえいえ、霧雨様とくっつきたいからに決まってるじゃないですか。好きな人と触れ合いたいっていうのは誰にだってある本能なのですよ」
「好きな人!? な、何を言い出すんだ。私たち、初対面だろう?」
「……それは酷い言い草ですね。私と霧雨様、床を共にした関係じゃないですか」
「と、床ぉ!? えええ、それってつまり……」
「あんなに熱い夜はありませんでした。怖がる私を、霧雨様が優しい言葉をかけながら抱擁をうにゃあ!?」
突如、女性が虚をつかれたように悲鳴を上げた。
かと思えば、涙目でさとりの方向を振り返り、猛烈な抗議を行ったではないか。
「さ、さとり様! それは、やめてください、はにゃ、ってぇ! うにゃん!」
「あら、何のことかしら。それよりも、そんなはしたない声を上げるなんて行儀が悪いわよ。お白」
魔理沙が訝しみながら、女性の背中を覗き込む。
なんと、さとりが何食わぬ顔で、女性の尻尾を無造作に引っ張っていた。
上下左右に振り回されるたびに女性の口から切なそうな声が零れ落ちる。
女性がやめさせようと振り向いた瞬間に、さとりが尻尾を強く握りこむのだ。
そうされた女性は背筋をピンと張り、体全体を硬直させて動けなくなる。
そしてなんとか立ち直った瞬間に再び尻尾を掴まれ、全身が震えて身動きがとれなくなるのである。
どこか官能的な攻防は実に五分以上にも及び、女性が涙をためて謝罪するまで繰り返された。
「お前、シロだったのか! そういや尻尾が二つあったもんなぁ」
魔理沙が、驚きと共に納得の声を上げた。
シロは、地霊殿で最も魔理沙に懐いているペットであり、魔理沙も気に入っている猫だ。
銀の体毛と気品がある整った顔立ち、そして無類の人懐っこさが特徴で、魔理沙が本を読んでいると擦り寄ってくるのが常である。
この『シロ』というのは本名ではなく、その輝く銀色の体毛から魔理沙が考えた愛称だった。
人型になれるとは知らなかったので、目の前の女性がその猫だとは思いもよらなかったのだ。
一緒に寝た、というのはソファでうたた寝したときのことを言っていたようだ。それなら覚えがあった。
「ええ、そうなんですよ。言わなくてごめんなさい」
シロ――本名は長くて嫌いだそうだ――は尻を擦りながら、にこやかに微笑んだ。
彼女はもう魔理沙の隣には座っておらず、主人から距離がある場所で立っている。
そして、距離をとられたさとりは紅茶で喉を潤しながら、ちゃっかり魔理沙の隣をキープしていた。
「私から話したかったんですけど、性格の悪いご主人様がまんまと邪魔してくださって……」
「円滑に話を進めるためにしたことよ。他意はないわ」
シロが恨みがましい視線を送りつけるが、さとりは素知らぬ顔で表情一つ変えない。
妙にぎくしゃくしている雰囲気を一掃するべく、魔理沙が努めて明るく言い放った。
「ま、まあそんなことはともかくさ! シロがここの責任者なのか?」
「責任者……ここの動物の世話は交代でやってるんですが、今の担当は私ですね。でも、どうしてそんなことを?」
「実はさ、ペットの飼い方を教えてもらいたくて来たんだ」
「霧雨様が、ですか? ……つまりこの私に、動物の世話のやり方を手取り足取り腰取り教えてもらいたいと」
「違います。私が、魔理沙さんに、教えるの。お白はそのサポート」
「駄目です。私が教えます」
「駄目じゃないわ。あなたは引っ込んでなさい」
再び険悪になりかけた空気に、魔理沙が慌てて待ったをかけた。
「ふ、二人で教えてくれたら、ものすごく助かるなー! だから仲良く、仲良くな?」
「いいでしょう。見事出し抜いて見せます」
「お白の心は丸見えよ。その程度の心算で私に対抗しようだなんて笑わせるわ」
「……仲良くって言ってるのにぃ」
懇願する魔理沙など見向きもせず、二人は白刃の如き鋭さで睨み合う。
その光景に――魔理沙は、たまらず溜め息をついた。
世話の方法について簡単な説明を受けた後、魔理沙たちは休憩室を出た。
目前には、期待の瞳で見つめてくる大勢の動物たち。
魔理沙は拙い手つきではあったものの、必死に世話に没頭した。
上下関係の仕込み方を試し、
「魔理沙さん。犬は上下関係に厳しいので、きちんと自分が上だと分からせてください」
「よっしゃ、任せろ! ……待て! よし、いい子だ」
「逆に猫はそういったことに疎いので、あまり厳しくしない方がいいですよ~。猫の私が保証します」
「じゃあどうすればいいんだ?」
「主人であると無理に主張するより、優しく愛情をかけてあげれば良好な関係になれます」
「なるほど。じゃあ撫でてやろう。うりうり」
「…………まあ、あれでもいいかしら」
悪戯を繰り返す子犬を叱り、
「こら、私の服を噛むな! ええい、噛むなって!」
「それじゃあ駄目ですよ。眼を見て、短くしっかり叱ってください」
「……分かった。こら、駄目だ! 噛んじゃ駄目だぜ!」
「そうです。きちんと自分が怒ってることをアピールしてください。この時、絶対に可愛さに負けて褒めちゃ駄目です。叱ってるのに褒められてると勘違いしますから」
「うぐぅ……。でも、こんなにしょんぼりしてるし」
「めっ! ですよ、霧雨様」
「私が叱られてどうするんだ……」
爪とぎを正しい場所で行った猫をしっかり褒めて、
「いや~、良い子だなお前は~」
「そうです。きちんと褒めることが大事なんですよ。ちゃんと叱って、それ以上に褒める。それが躾けです」
「そーなのかー。てっきり叱ることが大事なんだと思ってたぜ」
「間違いではありませんけどね。でも、叱るよりも褒めた方が遥かに効率的なんです」
「そうですそうです! というわけで、私も褒められたらこれからも頑張っちゃいますよ!」
「良い子だな、シロは。きちんと仕事をして偉いな~」
「えへへ! もっと撫でてください~」
「むぅ……」
そして、排泄物の処理を手伝った。
「……ぐぐ。森の化け物茸とは違う、生理的にきつい臭いだぜ。お前らは大丈夫なのか?」
「平気ではありませんね。まあ、慣れです」
「そうですね~。特に私は一日中嗅いでるので、もう麻痺しちゃいました。それに、おトイレからは重要なサインが出される場合がありますから、臭いなんて言ってられませんよ」
「何だ、そのサインって」
「お腹がゆるくなってないか、悪いもの食べてたりしないか、病気にかかってたりしないか。排泄物って結構教えてくれるんですよ。……さとり様の能力があれば、直接言われるので楽なんですけどね」
「そうでもないわよ。『お腹が痛い』なんて訴えられても擦るとかしかできないから。どこかに動物のお医者さんがいればいいんだけど」
「永遠亭は……人間専用かなぁ。でもウサギいるし。今度聞いてみようか……うっぷ。すまん、ちょっと外に出てくる」
「分かりました。ゆっくり休んできてください」
「うーい」
魔理沙は廊下に出て、そこにあった窓を開けてゆっくりと深呼吸をする。
意識的に肺の奥まで空気を溜め込み、吐き出す。そうすることで、胃の収縮が伴った吐き気が徐々に落ち着いてきた。
ふぅ、と息をついて窓枠にもたれかかった。
地霊殿の中庭が一望できるこの場所は、気持ちを落ち着かせるのにちょうど良かった。
庭の中心部には灼熱地獄跡に入るための穴が設置されており、その周りでは動物たちが楽しそうに遊んでいる。
駆け回り、転んで、じゃれて、喧嘩して、そして笑っていた。
以前なら『楽しそうだな』と思うだけだったろう。しかし今では、『楽しそうで何よりだ』と母親のような気分で見ていられた。
そんな心境の変化に、魔理沙自身が驚いていた。
「うむ、これはもう私が一人前だという合図だと思うぜ」
「それはどうなんでしょうかねぇ。霧雨様はまだまだのように思えますけど」
呟いた独り言に、誰かが答えた。
それが誰であるか知りつつも、会話をするためにあえて振り向いた。
魔理沙が出てきた扉の前。そこに、コップを持ったシロが立っていた。
シロは微笑みながらコップを差し出す。魔理沙が受け取ると、そのまま魔理沙の傍にある壁に背中を預けた。
「悪いな、助かる」
お礼を言いながらコップに口を付ける。少し温い水が、食道を勢いよく流れていく。
その感触に心底ほっとしながら、魔理沙はシロを見やった。
「さとりを一人にして大丈夫なのか? ひょっとしたら困って泣いてるかもしれないぞ」
「ふふ、さとり様は私の師匠です。あれくらいの数なら、なんなく従わせますよ」
「だろうな。素人目からも堂に入った手際だったし、場数を踏んでる感じだった。……それにしても、少し怖かったかな」
「怖かった?」
「ああ。さとりがペットを叱る時、叱られてるのが私じゃなくても怖かった。いつにない迫力でさ、ああいうさとりは見たことがなかったから、正直ちょっと引いたぜ」
ははっ、と乾いた笑い声が、静かな廊下に響き渡った。
実際に恐怖を感じたわけではない。ただ、見知った人物の異なる側面を見て、少しだけ感心したのだ。
これだけ一緒に居ても、まださとりの知らない一面があったのだと。
怖いというよりも喜びが先立った感想だったのだが、次の瞬間、思いがけない反応が返ってきた。
「霧雨様。無礼をお許しください」
ぺちん。
シロの言葉と同時に、頬に温かく軽い衝撃が走った。
彼女に叩かれたのだと頭が理解したのは、それから十秒ほど呆けてからだった。
「――え?」
「霧雨様。あなたは、あなただけはさとり様をそう思わないでください」
魔理沙は愕然としながら頬を押さえ、そしてシロを見た。
撫でられたように叩かれた頬は痛みを告げなかった。だがそれ以上に、シロの表情こそが魔理沙の心を打った。
彼女らしからぬ、キッと引き絞った眼差しで、魔理沙を射抜いていたからだ。
その唇は悔しさを抑えるように微動し、その浅葱色の瞳からは今にも雫が零れ落ちそうだった。
「さとり様は、優しい方なんです。たとえ冗談だとしても、それを口にしないでください」
「……すまなかった。そういうつもりじゃなかったんだが、誤解させたみたいだな」
「……いえ、私も感情的になりすぎたみたいです。どうもすみませんでした」
シロは目元を袖で拭うと笑顔を浮かべ、今も騒がしい中庭に目を向けた。
魔理沙も同じように中庭を見つめながら、そっと話しかけた。
「シロは、さとりが好きなんだな。それがよく分かったよ」
シロも中庭から目を逸らさず、感情の篭った言葉で、まったく別のことを語りだした。
「実はですね、私は一回家出をしたことがあるんですよ」
「え?」
「たしか妖怪化が半分ほど進んだ頃……百二十年ほど前ですか。さとり様が教えてくれていた勉学と妖怪化の鍛錬が嫌で、地霊殿を逃げ出したんです。四本足で、必死に」
「……たしか、勉強は強制してないんじゃ」
「それは私が逃げ出した後の決まりですね。あの時は、ペットなら誰でも勉学を教えられてました。本人が嫌がっていても、ね」
――本人が嫌がっていても。
その一言は、魔理沙の胸のうちにあった過去を、容赦なく掘り起こした。
霧雨道具店。その跡取り。家庭教師による勉学の強制。それが嫌で、家を飛び出した自分。
徐々に震えだす声を必死に堪え、続きを聞いた。
「それで……どうなったんだ?」
「世界というものを知りました。今までいた地霊殿は世界のすべてではなくて、存在する妖怪全員が自分を愛してくれるわけではなくて、必死に声を上げても助けてくれるどころか気づいてさえくれなくて。温かい我が家に帰ろうと思っても、そこがどこだかすら分からない。世界に見捨てられたような感覚が湧き上がって、気づいたら泣きながら路地の隅っこで眠ってました」
気持ちは分かる、だなんて口が裂けても言えなかった。
だってそうだ。自分はある程度知識を蓄えてから飛び出し、彼女は家を見失うほどに幼かったのだから。
「大変、だったんだな」
「こんなに独特で目立つ屋敷なのに、ずっと中にいたから外観すら分からなかったなんて、笑い話にもなりませんよね。まあ色々あって、偶然帰れたんですよ。自慢だった毛並みは泥と土で薄汚れて、栄養がまったく足らなかったから体がやせ細って、それはもう見るも無残な姿だったらしいです。でもさとり様はすぐに私だと気づいて、お風呂に入れてくれて、ごはんをたくさん食べさせてくれました。それで、一言だけくれました」
「……さとりは、何て言ったんだ?」
「おかえり、と。それだけ。それだけで、全部理解できました。自分の居場所はここで、私を愛してくれるのはこの人なんだと。それからは自発的に勉強に励んで、人型にもなれるようになりました。さとり様は無理しなくていいと言ってくれましたけど、私はそんなさとり様の役に立ちたかったから、それだけ頑張れたんです」
「じゃあ、さとりが勉強をさせなくなったのはそれからか」
「ええ。望む者だけ、ということになりました。でも、何故さとり様が無理やりにでも教えようとしてたのかは分かりました。それが生きる術だったからです。言葉を繰れなければ会話もできない。常識を知らなければ排斥される。他人と関われなければ、死ぬしかないんだと。身をもって知りました」
語り終えて、シロは疲れを吐き出すように大きく呼吸をした。
そして魔理沙も、自分と同じ道を歩み、自分とは違う道を進んだ彼女の言葉を胸に刻み込んだ。
自分があの時実家に帰っていれば、彼女のように違う幸せを得られていたのだろうか。
想像する。泣いて帰る自分を。想像する。「おかえり」と言って抱きしめてくれる父を。想像する。少しだけ優しくなった父に甘えながら、精一杯笑顔を浮かべる自らの姿を。
そんな無き日を、夢想した。
「……だからお前は、そんなにさとりのことが好きなんだな。それが、家族なんだな」
「はい。でも、それは私だけじゃないですよ」
「どういうことだ?」
するとシロは悪戯っぽく笑い、魔理沙を食い入るように見つめてきた。
「霧雨様も、さとり様のことが好きですよね?」
「……なんだってそういうことになるんだ」
「だってさとり様の傍にいるのは、さとり様が大好きな人だけなんですから。でなければ、とっくに心を読まれることを恐れて、すたこらさっさと逃げ出してますよ」
シロの瞳に、柔らかな優しさが帯びる。
どうなのかと、霧雨魔理沙は古明地さとりが好きなのかと、明確な答えを求めてくる。
長い、長い沈黙を経て。
魔理沙は宝石箱にしまっておいた大切な秘密を打ち明けるように、口を開いた。
「私は……」
そのとき、固く閉じられていた扉が開き、そこからさとりが顔を出した。
そして並んで会話をしている魔理沙たちを見つけると、深々と溜め息をつきながら歩み寄ってきた。
「まだ休憩してたんですか。もうとっくに掃除も終わりましたよ。お白も、ちょっと出るだけなんて言ったのに」
「……あ~あ、さとり様もタイミングが悪いですねぇ。いいところだったのに」
「え、ええ? いいところって、何が?」
「気にするな。さとりはこれくらいでバランス取れてるんだよ」
「ちょ、魔理沙さんまでわけの分からないことを、どうしたんですか一体」
困惑するさとりを余所に、魔理沙とシロは示し合わせたように口端を吊り上げる。
そして部屋へと戻りながら、言った。
「まあ、さとりらしいよな」
「まあ、さとり様らしいですよね」
当の本人は、まるで理解できていないように、いつまでも首を傾げていた。
「どういうことなの……」
その後、魔理沙は生き生きとしながら世話に明け暮れた。
シロと話したのがいい気分転換になったというのもあったが、何よりシロの体験談が強く心に響いたのだ。
――私も、さとりみたいに誰かを支えられるのだろうか。
魔理沙はこのとき、さとりとシロの間に結ばれた絆を感じ取っていた。
最初こそ険悪な仲だと心配したものの、それは信頼の裏返しだったのだ。
シロが主人であるさとりを押しのけて行動するのも、さとりがそれを真っ向から受け止めるのも、ひとえにその絆があってこそ。
それを理解した瞬間、魔理沙の奥底から煮え滾るような感情が溢れてきた。
灼熱の溶岩の如き嫉妬であり、澄み切った青空のような羨望である。
(いいな……私も、そんな相手が欲しいな)
漠然と考えていた『ペットの飼育』という目的が、急に明瞭になって現れた。
ペットを飼えれば、あるいは自分にもできるかもしれない。この二人のように、無窮の信頼を築ける相手が。
その一心で世話に没頭し――我に返ると、ペットたちは疲れ切ったように眠っていた。
それを確認した魔理沙たちは、一旦休憩室へ戻ることにした。
「いやー、疲れた! ものすごく、疲れた!」
魔理沙がどっかりとソファに腰を下ろすと、シロが呆れたように苦笑を洩らした。
「それはそうですよ~。すべての世話に全力で取り組めば、それは疲れるでしょうね~」
「でも悪くない気分だ。なんだか一仕事終えた気がするぜ」
「お疲れ様でした。どうぞ、シロの美味しい美味しい紅茶ですよ~」
「お、サンキュ」
受け取り、さっそく口に含んだ。
紅茶の程よい甘みが、蓄積した疲労を溶かしていくようだった。
ほぅ、と生温い息を吐いて目を閉じる。このまま目を瞑っていれば、心地いい眠気がやってくるに違いない。
そう確信していながらも、魔理沙は抵抗する瞼をこじ開けて、火傷も厭わない覚悟で紅茶を呷った。
忍び寄っていた眠気を吹き飛ばし、意識を無理やり覚醒させる。
何故そんなことをしているのかと問われれば、自分の隣に腰を下ろす人物が気になるからだと答えるだろう。
「むぅ~~~~~」
「おい、さとり。さっきから何を唸ってるんだ。気になって気になって仕方がないんだが」
眉間に皺を刻んでふくれっ面をする少女。さとりはありありと不満を表し、魔理沙をじっと睨んでいる。
そして、数秒の空白を置いて答えた。
「……魔理沙さんとお白、何かありました?」
「何かって何が。別に変わったことはないと思うけど。なぁ?」
「そうですね~。私たちはいつだって相思相愛ですよ~」
「そういうことじゃなくて、というか相思相愛でもないでしょうが。……どうも、休憩する前より心の距離が縮まってるようなんですが。やっぱり何かあったでしょう」
訝しげに眉を顰めるさとりに、魔理沙は肩をすくめた。
「そんなに気になるんだったら心でも読めばいいじゃないか」
「そうしたいのは山々なんですけど……どうにも、読み辛いというか。もしかしてプロテクトかけてます?」
「精神プロテクトか。そんなもんはかけてないが」
「ですよねぇ……。無意識に読まれるのを強く拒んでいるのか、あるいは心に思い浮かばないほど何てことのないことなのか。まったく久しぶりですよ、こんなことは」
さとりは困り果てたように、自らの第三の眼を優しく撫でた。
その妙に可愛らしい仕草に思わず頬が緩むが、それを口に出したりはしない。
きっと何てことのないことなのだから。
そんなことを思っていると、上機嫌のシロがお茶請けを皿に盛りつけながら微笑み、言った。
「大丈夫ですよ、さとり様。さとり様の『大切な』方を盗るなんてことはしません」
さとりの頭がボッと茹だった。
呂律の回らない口を動かしながら、さとりが必死に否定する。
「たたたた、大切って! 魔理沙さんは大切だけど、そんな深い意味合いじゃ!」
「あれー、そうなんですか。でも霧雨様がいらっしゃった時はよく鼻歌を歌いながら……」
「きゃーきゃーきゃー!? おおおおお白、それは勘違いのちょちょいのちょいであって!」
「じゃあ霧雨様が帰った後に、その座ってた場所に……」
「いやぁぁぁぁぁぁ!? やめなさい、お白ぅぅぅぅ!」
さとりのものを除いて、休憩室内に笑い声が響き渡った。
顔を真っ赤に染めながら止めさせようとするさとりに、さらに彼女をからかうように言い募るシロ。
魔理沙は二人の微笑ましい掛け合いを羨みながらも、望んで蚊帳の外に立っていた。
そしてひとしきり笑った後。
唐突に、シロが振り返って訊いてきた。
「そういえば聞きたかったんですが。どうして霧雨様はペットの飼育を学びたかったんですか?」
「ああ、言ってなかったっけ。実は私、ペットを飼おうかなって思ってるんだ」
「霧雨様が……ペットを?」
「うん。私は一人暮らしだからな、ペットでも飼えば生活が潤うんじゃないかと思って」
本当の願いは『親愛なる家族がほしい』というものだったが、あえてこの程度の説明に留めた。
偽っているわけではないし、それ以上はあくまでも自分の問題である。ペットを飼った後の信頼関係の構築は、それこそ魔理沙が努力していかなければならないことだ。
ふと、誰からか見られている気がして、そちらの方向に視線を向けた。
さとりだった。彼女はこちらの心を読んでいるかのように、複雑そうな表情で見返してきた。
そこに、シロが名案を思いついたと宣言するように手を上げた。
「はいはい! じゃあ私が立候補します!」
「え? マジで?」
「…………!」
確かめるように聞くと、シロは前で手を組んで大きく頷いた。
「はい! 私は炊事洗濯家事親父、すべてこなせますよ!」
「最後のは是非とも遠慮願いたいが……そうか、それはなかなか悪くないな」
「意思疎通と家事ができて、可愛さ満点の猫はいかがですか?」
にっこりと微笑み、尻尾をふりふりと振りながら問いかけてくる。
その盲点ともいうべき提案に、魔理沙は半ば真剣になって思案しだした。
――飼育初心者である自分が人型になれるペットを飼う。
それならばペットの飼い方を彼女から学びつつ、同時にペットを飼うという貴重な経験も得られるはずだ。
最初は成熟した猫から飼い、慣れてきたら隣の部屋にいるような子供を引き取ってみるものいいかもしれない。
存外悪くない案に魔理沙が納得しかけた、そのとき。
「駄目っ!」
悲痛な叫び声が、狭い休憩室に響いた。
思わず声の主を見やる。そこには、さとりは潤んだ瞳を携えて、魔理沙を見据えていた。
そして、どうしたんだと聞く暇もなく、さとりが動き出した。
すくりと立ち上がり、驚きの表情を崩さない魔理沙の腕を引っ掴み、そのまま歩き出したのだ。
「お、おいさとり。どうしたんだよ」
「…………」
さとりは答えず、魔理沙が痛みを感じるほどの力で引っ張る。
そしてそのまま部屋を出ていこうとする直前。
シロが、口を小さく動かしながら何事かをこちらに伝えてきた。
「――頑張ってくださいね」
そう言っているように、魔理沙は思った。
困惑する魔理沙が連れ込まれたのは、飼育部屋を抜けたすぐ傍にある、客間だった。
人間が二人ほど寝転がれそうなベッドがぽつんと置かれているだけの部屋。おそらく、ペット係が体を休める部屋なのだろう。私物のようなものが一切ないのに、かなりの頻度で掃除されているようだった。
そんな場所に連れてきたさとりは未だに無言を貫いており、その顔は俯いていて見ることができない。
魔理沙は内心びくつきながらも、さとりに質問した。
「さ、さとり。ここに何か用があるのか?」
「……甘すぎるんですよ」
「へ? な、なにが甘いんだ?」
「魔理沙さんの認識、思考、行動。その他諸々が角砂糖よりも甘くて、吐き気がします」
「……すみませんでした」
口調こそ淡々としているものの、語る内容は剣呑極まりない。
原因はおろかその経緯すら分からないが、さとりが怒っているのだけは雰囲気でなんとなく分かった。
なので一応謝罪をしてみたが、肌がひりつくほど張り詰めた空気は一向に弛緩する様子がない。
さとりが深々と息を吐く。そして、言った。
「魔理沙さんはまだペット飼育の片鱗に触れただけです。たったあれだけ体験して、すぐにペットを飼えるだなんて思い上がりも甚だしい。まるで、一歩進んで千里歩いたと勘違いしたよう。たとえ相手がお白だとしても、まだ飼うには何もかもが足りません」
「……勘違いしてごめんなさい」
「特に、動物の撫で方が甘い。あの場では言いませんでしたが、及第点どころか落第点ものでした。あの子たちは他者に慣れてるので大丈夫でしたが、あれを初対面の子にしたら嫌われるどころか殺されかねませんよ」
「……本当に申し訳ありませんでした。てっきりアレでいいのかと思ってました」
脳をフル回転させて動物を撫でた時の光景を思い出す。
――頭を撫でた。背中を撫でた。耳を弄った。肉球に触った。尻尾で遊んだ。
思うが侭にコミュニケーションを取った。彼女たちは嫌がる仕草を見せていなかったのだが。
そんな魔理沙の思考が真っ向から打ち砕かれる。
「駄目駄目、まったくもって駄目です。礼儀も準備も何一つなく、自身の欲求を叶えるだけの傲慢な触り方でした。あの子たちは嫌がる素振りは見せませんでしたけど、心の中では嫌がってました。これからその修正と、正しい動物との触れ合い方を教えてあげましょう」
「よろしくお願いします、先生」
どうにも勝てる気がしなかったので、大人しく頭を下げる。
この返事に満足したのか、ようやくさとりは微笑を浮かべて、鷹揚に頷いた。
「では、まずはその対象を。魔理沙さんは犬と猫、どちらが好きですか?」
「ん~……猫、かなぁ」
特別な理由はない。強いて言えば、おもむろにシロの姿を思い出したくらいか。
するとたちまちさとりの面に皺が寄った。その表情は、あからさまに『面白くない』と告げていた。
「猫ですか……。ああ、そういえばウサギも大丈夫ですけど、どうしますか?」
「……猫で」
「……分かりました、猫ですね。ちょっと待っててください」
そう言うと、さとりは重い荷物でも背負っているかのように肩を落とし、部屋を出て行った。
その後姿を最後まで見送り、ようやく安堵の息が零れ出た。
ひとまずベッドに腰を下ろして、どっと溢れ出た疲労を誤魔化すように独りごちた。
「なんだったんだろうな。さとりのあんな剣幕、初めて見たぜ」
険しい表情なので、怒っているといえば怒っているのだろう。
しかしどうにも、怒っているというよりはいじけている風にも見える。
ペットを叱りつけていた時とは違い、まるで『構ってほしい』と寂しげに訴えているようにも思えた。
しかし、シロが自ら飼育されると宣言した瞬間、ああなったのだ。
あのやり取りにおかしなところがないか考えてみるが……まったく思い浮かばなかった。
いつもなら他人の心の詮索などすぐに諦めるのだが、相手はさとりだ。『分かりません』で終わらせたくはない。
そんなことを悶々と思考していると、コンコンと軽い音と共にさとりが入ってきた。
「お待たせしました、始めましょう」
「ああ、またよろしくた……の…………」
普通に返事をしかけたのだが、さとりの姿を見て魔理沙は絶句した。
紅潮した頬を携えたさとりが扉の前で立っていた。それはいい。しかし……
戸惑う声もそのままに、魔理沙が当然の疑問を口にする。
「……さとりさん。その『耳』は、なんでしょうか?」
「……魔理沙さん、猫が良いって言ったじゃないですか」
「それは、そうだけど」
そう、さとりの頭からひょっこりと『耳』が生えていたのだ。
それはまるで彼女のペットである火焔猫燐、あるいはシロのようで。
魔理沙の視線に耐えかねたように、さとりは若干俯き加減に歩み寄ってきた。そしてベッドに座った魔理沙の横を素通りし、そのままベッドに身を投げ出す。――よく見れば、ご丁寧に尻尾まで生えているではないか。
さとりは羞恥を誤魔化すように、強い口調で説明を始めた。
「こ、これはですね……魔理沙さんの撫で技術の向上を目的とした訓練です。ですが魔理沙さんは撫で方が非常に荒くて下手なので、仕方なく私が実験台となったわけなんです。だから、すごく感謝してください!」
「お、おう。すごくありがとうだぜ」
「では、まずは私を普通の猫として扱い、愛でてみてください。駄目出しはその時にします」
それだけ言い放つと、さとりはベッドの上で寝転がった。
その瞳はうっすらと赤みを帯び、そしてひどく潤んでいる。宿るのは羞恥か恐怖か、あるいは期待か。
魔理沙は誘われるようにして、ベッドに膝をつきながらさとりに近づいていった。
「それじゃ、触るぞ?」
「は、はい。優しくお願いします」
「う、うん」
ごくり、と唾を飲み込む音がいやに耳の中で反響する。
正直恥ずかしかったが、さとりはもっと恥ずかしいのだと自分に言い聞かせ、なんとか手を伸ばした。
ぷるぷると震える手。非常にゆっくりながらも、まっすぐさとりの頭を目指す。
引っ込めたくなるのを我慢し、ようやくさとりの柔らかそうな髪に触れようとしたとき。
「魔理沙さん。それでは、駄目です」
「ええ、ここで!?」
すかさず駄目出しを受けた。
まだ触れてすらいないというのに、どこが間違っているのか。
さとりは至極真面目な面持ちで講義してくれた。
「動物は基本的に魔理沙さんよりも小さいですよね。彼女たちからすれば、巨大な生物が真上から襲い掛かってくるような感覚なんです。そうすると当然、怖がるんですよ」
「な、なるほど。私たちからすれば、巨人に手を振り下ろされるようなものか」
「その通りです。なので最初は、下の方から彼女たちの鼻先にそっと手を近づけてください。匂いを嗅がせて安心させるんです。嫌がっていなかったり舐めてくれたりしたら、大丈夫のサインです。そのまま首元に触れてください」
「おう、わかった」
言われたとおり、さとりの鼻に手を寄せる。
さとりは鼻を鳴らしながらこちらの掌の上を旋回し、そして鼻先をこすりつけてきた。
掌の中心が異様にくすぐったくなるが、なんとか堪える。
今のが大丈夫のサインだ、と理解したので、魔理沙はさとりの頬を滑らせるようにして撫でながら、首筋へと手を移動させた。
「っ」
さとりの体がぴくりと震える。しかしすぐに収まり、そのまま見上げてきた。
――まるで本物の子猫のように、無垢な瞳だった。
そのせいだろうか。徐々に彼女が本物の猫のように思えてきた。
「上から下に、そっと手を下ろしてください。あまり強すぎると痛みを感じてしまいます。犬や猫には体毛があります。その流れに沿って優しく撫でれば大丈夫です」
魔理沙は返事をせず、了承の証として言われたとおりに手を動かした。
擦らず滑らせる。さとりの表皮のみに触れるよう、細心の注意を払って上から下へ。
服の上からでも同じように撫で付ける。むしろ服が猫の体毛のように感じられ、ますます魔理沙は没頭していく。
「んっ……そう、その調子。お腹を見せていても勝手に触ってはいけません。嫌がる子も多いですから。背中を丹念に撫でてあげれば、それだけで充分に喜んでくれます」
少し強めに背中を押すと、指先が固いものを捉えた。背骨だ。
背骨の位置と長さを確認するように指を滑らせ、尾骨の手前まで撫でていく。
そしてすぐさま再び首に戻らせて、今度は背骨のすぐ横にある窪みに三本の指を軽く捻じ込んだ。
さとりが深く息を吐く。
「……猫だって、マッサージは好きですよ。んくっ」
窪みに指を押し入れながら再度腰まで下ろしていく。
指先に力が入らない分は回数をこなすことでカバーする。これくらいでいいのだと、なんとなく理解した。
さとりの体が徐々に脱力していくのが、手に伝わる感触で察せられた。
「頭は、猫が魔理沙さんに慣れてから撫でてやってください。もちろん猫も大好きです。上から下に、を忘れずに」
「……ああ」
魔理沙は直下のさとりを見下ろす形で撫でるが、妙にやり辛いことに気がついた。
今は足を崩して座っているため、膝がさとりの顔に当たりそうで怖い。
しかし彼女の背中側に回って撫でようとすると、それではさとりの顔が見えないし却って撫で難くなってしまうのだ。
どうしたものかとしばし考える。すぐに思いついた。
「さとり、ちょっと頭上げるぞ」
一応断って、魔理沙はさとりの頭の下に腕を滑り込ませた。
そして上げた頭とベッドの隙間に、伸ばした状態の足を割りいれた。
膝枕だ。正座ではないので厳密には膝枕ではないのだが、足が痺れるのが嫌なのでこの形となった。
さとりも特に文句は言わず、頬をエプロンドレスに軽く擦りつけていた。
撫でるのを再開し、髪の毛の流れに従って手を動かす。
「さとりの髪、気持ちいいな」
「……ふふっ、ありがとうございます」
さとりの髪は羽毛のように軽く、また柔らかだった。短いくせ毛は幾度撫でようとも飽きが来ない。ついつい調子に乗って反り上がった毛先をいじっていると、さとりがくすぐったそうに目を細めた。
ここで先ほどから気になっていた部位に手を伸ばした。頭の上に付いた『耳』である。
薄いが張りのある布地で構成されているらしい。ふにふにと触って楽しむ。
その後、そっと掻き分けるように耳の根元を探る。指先に固い感触が得られ、その正体が露わになった。
「ああ、やっぱりカチューシャだったのか」
「それはそうですよ。私はさとり妖怪であって、人型になっているわけではありませんから」
深い納得と共に、ほんの少しだけ残念な気持ちが過ぎった。
今度は頭から背筋を通すようにさとりの臀部へと手を滑らせていく。目的のものに、すぐ手が触れた。
尻尾である。細かい毛の手触りがいい、作り物の尻尾。
どうやらウエスト回り、ちょうどスカートの腰辺りにクリップで挟み付けられているようだった。
軽く引っ張ってみると、案の定さとりに睨め付けられた。
「……魔理沙さん。尻尾に触っちゃいけません。あと素人がよく肉球に触りたがりますが、あれも駄目です。動物は触られても不快感しか得られませんから」
「それは悪かった。他には?」
「そうですね、ペット自身が触れられないところをくすぐってあげると喜びますよ。耳の裏、顎、額などですか。あとは……優しい言葉をかけてあげてください。とても喜びます」
ふーん、と頷きながら尻尾から手を離し、さとりの耳の裏や頬をゆっくりなぞり上げる。
さとりは心地よさそうに目を閉じた。そこに再度質問をぶつける。
「どんな言葉をかけたらいい?」
心の中で『さとりはどんな言葉が嬉しいんだ?』と問いかけた。
さとりは途端に恥ずかしがるように顔を伏せ、か細い声で言った。
「……動物は相手の心を敏感に感じ取ります。なので、思ったことを思ったように伝えるのがベストです。でも……ありきたりですが、『可愛い』なんて言われたらみんなが喜びますよ」
「可愛い、か。たしかに一番口にしそうだな。可愛いペットを前にすると」
「ああでも、言い過ぎに注意してください。あんまり連呼するとペットがそれを自分の名前と勘違いしますから」
「可愛いって呼べば振り向いちゃうのか?」
「褒める時は名前を呼びながら、その後に言葉をかけます。逆に叱る時は名前を呼んではいけません。名前を呼ばれることに恐怖を感じるようになりますから」
「なるほど、早速試してみよう」
太腿を枕にして横になるさとりの顔を上げさせ、その瞳をじっと見つめる。
さとりが目を逸らそうとするのを押さえて、魔理沙は優しく呟いた。
「さとりは、可愛いなぁ」
「…………」
やはり真正面から『可愛い』なんて言われると照れるのだろう。
さとりはうなじまで朱に染めると、手を払い除けて魔理沙のエプロンドレスで顔を隠してしまった。
なんとかその顔見たさにあれこれと行動してみるが、頑なに拒むさとりを引っ張り出すことはできなかった。
仕方ないのでまた褒めてみよう、とも思ったのだが。
(そういや、何度も言っちゃ駄目なんだったか)
さとりの言葉が甦り、断念しかけた、そのとき。
エプロンドレスの向こう側から聞こえた、か細い囁き声が魔理沙の耳を打った。
「……大丈夫です」
「え?」
「あと一回くらいなら、大丈夫ですから。……褒めてください」
予想だにしなかった台詞に、魔理沙は撫でる手を止めて目を見張った。
これはやはり、そういう意味だろうか。その通りだとしたら……
「可愛い」
「…………ありがとうござ」
「さとり、可愛すぎるだろ~!」
「ぶわぁ! ま、まりささん!?」
胸底から突如興奮と喜びが一挙に湧き上がり、その荒れ狂う衝動のままに、魔理沙はさとりの体を撫で回した。
もはや力の配分など出来はしない。ただ総身に宿る熱きパッションを発散するだけである。
髪がくしゃくしゃに乱れ、服に皺が寄っても、上から下という鉄則すらも頭から抜け落ち。
魔理沙はしばらくの間、思う存分さとりを撫で尽くした。
やっとそれが止まったのは、さとりがかすかに柳眉を逆立て始めてからだった。
鋭い眼差しで魔理沙を射抜き、自分が不快であることを苛烈に伝えてくる。
さすがにやりすぎたか。そう思った魔理沙が降参するように手を上げると、憮然とした表情で荒々しく息を吐いた。
「魔理沙さん。そこに正座なさい」
「はい」
身だしなみを整え、姿勢を正したさとりの指示に従い、行儀よく座る。
ベッドの上で縮こまって正座する魔理沙に、口をへの字にしたさとりが語気荒く言った。
「自分勝手な愛で方はペットとの距離が広がります。復唱!」
「自分勝手な愛で方はペットとの距離が広がります」
「ペットは家族です。常に敬意を払い、また尊敬される振る舞いをすること。復唱!」
「ペットは家族です。常に敬意を払い、また尊敬される振る舞いをすること」
「言葉と行動で愛情を伝え、生物を飼う責任を自覚し、末永く共に生き続けましょう」
「言葉と行動で愛情を伝え、生物を飼う責任を自覚し、末永く共に生き続けます」
最後の一句まで言い終えると、満足したようにさとりが頷いた。
「よろしい。これで魔理沙さんに伝えることはあまりなくなりました。かろうじて及第点です」
最後まで手厳しい判定に、魔理沙は思わず苦笑を洩らした。
そして痺れかけた足を伸ばす。硬直していた筋肉がほぐれ、心地いい感触が駆け巡る。
ベッドに体を投げ出して横たわると、ふわりと頭が浮き上がり、柔らかな何かが頭の後ろに敷かれた。
――仰向けになっている魔理沙の視界は、朗らかに微笑むさとりで占められた。
先ほどとは正反対の立場となり、今度は魔理沙が髪や頬を撫でられることとなった。
こいつはたしかに恥ずかしいな、と思いながら、魔理沙は素直に礼を口にした。
「ありがとな、さとり」
「いえいえ、私も結構なご褒美を……げふんげふん、違いました。お疲れ様です、魔理沙さん」
「すごく疲れた。ペットを飼うって大変なんだな。骨身に染みたよ。でも、これでペットが飼えるんだな」
「…………」
何故か突然、さとりが表情を曇らせた。
てっきり賛同の声が上がると思っていた魔理沙は、きょとんとしながらさとりを見上げる。
妙に息の詰まるような沈黙の中、おずおずといった様子でさとりが聞いてきた。
「魔理沙さんは、本当にペットを飼うつもりですか?」
「え……」
そのつもりで今日はずっとペットの世話をやってきたのだ。
今更それを問うさとりの真意が読めず、魔理沙は訝しみながら答えた。
「そうだけど。なにか、まずいか?」
「い、いえ。……そういうわけじゃ、ないんですけど」
「じゃあ何なんだ。それともなんだ、やっぱり私が信じられないのか」
「違います! 魔理沙さんを信頼していないわけではないんです!」
自然と荒々しくなる魔理沙の言葉を、さとりが悲鳴を上げるように遮る。
そんな彼女の様子をつぶさに観察していた魔理沙は、体を起こしてベッドの上に座りなおした。
涙目になりかけているさとりを落ち着かせるように、ゆっくりと語りかける。
「別に怒っても疑ってもいないぜ。ただ、さとりの本音を聞かせてほしいんだ」
数瞬の沈黙の後、さとりが重圧に耐えかねたように腰を上げかけるが、彼女の肩を優しく押さえつけることで封じる。
ここで逃げられては問題が解決するどころか、悪化して何日も続きかねないと直感したのだ。
だから努めて笑顔を浮かべ、閉ざされたさとりの心を解きほぐすように、言った。
「教えてくれ、さとり。今日は私の先生だろ?」
するとさとりは観念したように体の力を抜き、自分の肩を押さえつけていた魔理沙の手を取って、しっかりと握り締める。
そして震える声で、こう切り出した。
「……魔理沙さん。あなたを信じていないんじゃなくて、少し不安になってるだけなんです」
「――不安か。分かるよ、私も自分以外の命を預かるんだと思うと、怖くてたまらない」
「そうじゃないんです。魔理沙さんはきっとペットを家族として大切にしてくれるんだと信じてます。でも、だからこそ怖くなったんです。……その先のことが」
「その先? どういうことだ?」
「……私はすごく真剣に悩んでるんです。絶対、笑わないでくださいね?」
「ああ、約束する」
魔理沙が力強く頷いたのを見届け、さとりは蚊の鳴くような声量で、驚くべき一言を言い放った。
「…………魔理沙さんがペットを飼ったら、地霊殿に来る回数が減るんじゃないかと思って」
「……へ?」
気の抜けた声が、静寂に満ちた部屋で響き渡った。
魔理沙の困惑を知ってか知らずか、さとりは畳み掛けるようにして心情を伝えてくる。
その顔は――とんでもなく赤かった。
「だ、だから魔理沙さんがペットを飼ったら、もうここへは来なくなると思ったんです! だって魔理沙さんが訪問する理由の大部分は、ペットと触れ合いたいというものじゃないですか! それに、誰だってペットを飼えば生活の基準が変化するんです。ペットが家で待ってるから遠出やお泊りはなるべくしないとか、寂しくなったらすぐに帰りたくなるとか!」
「は、はあ……」
「魔理沙さんの住む魔法の森と地霊殿はかなりの距離があるし、そもそもペットがいれば地霊殿に来る必要がないじゃないですか! それに、友達よりも家族を優先するのが普通です。ペットを大切にしろと言った手前、それを覆させるなんて出来るはずないじゃないですか!」
さとりが興奮したように喋り続けるのを、魔理沙は呆然と眺めていた。
せっかく彼女が心のうちを赤裸々に明かしてくれているのに、その内容の半分も頭に入ってこない。
だが、それでも言われたことが理解できた。できてしまった。
「だいたい、一から家族を作ろうだなんて甘いにも程があります! すでに親しい人物から選んだっていいじゃないですか! そりゃあ心を読む能力だとか、それを活用して他人をからかうような悪趣味な性分ですけど! それとも自分に服従するペットが欲しいんですか!? 違うでしょう、魔理沙さんが欲しいのは……!」
「家族。一緒にいるのが当たり前な、普通の家族だ」
「そう、そうです! だというのに、初めましてな子を選んで教育して家族だなんておこがましい! もっと近くに魔理沙さんが好きで好きでしょうがなくて、願わくば家族に立候補したい人物がいるかもしれないじゃないですか! そう、お白よりも近くに! それが誰だかは……まあ、知りませんけどね。ええ、知りませんとも!」
最後は吐き捨てるように、さとりは荒い息を立てながら言い終えた。
その頭上で作り物の耳がプルプルと震えており、いやにリアルな動きを醸し出している。
魔理沙は確認するようにさとりの言動を最初から巻き戻し、最後まで吟味するように思い返す。
そうすることで自らの記憶が間違いでないと判断して……思わず、噴き出した。
「くくっ」
「あー! 笑った! 笑いましたね、この人は! 約束したのに!」
「ふふふ、あっはっはっはっは! いやすまん、さとりを笑うつもりは……はははははっ」
「嘘つき嘘つき嘘つきぃぃぃぃぃぃ! 魔理沙さんなんて信じた私が馬鹿でしたよ、ええいどちくしょー!」
さとりが拳を振り回してポコポコと叩かれるが、魔理沙は避けずに甘んじて受け入れる。
だが、その顔は変わらず笑顔だった。これは仕方ないのだ。いくら止めようと思っても止まらないのである。
――嬉しくてたまらないから。
魔法を使うことを咎められ、実家を飛び出して一人暮らしを余儀なくされた。
周りに人はいた。幼馴染がいた。出会いがあった。友人がたくさん増えた。けれど、みんな他人だった。
あまり好かれてないことは自覚していた。物を『借りる』ことが多かったし、自分は所詮自称魔法使いなのだから。
それで構わないと思った。それが魔法使いの宿命だと諦めていたから。
だが、地霊殿に来て少しだけ家族への憧れを思い出してしまった。
それくらい、古明地さとりとそのペットたちの絆は眩しくて、手が届きそうなほど近くに感じられた。
でもやっぱり自分には無理だと、そう思い込んで地霊殿に足繁く通いつめた。
ペットに囲まれることで、自分も彼女らの絆の中にいるのだと錯覚するために。
だが、それは誤りだった。
(私は馬鹿だな。本当に、大馬鹿者だ)
自らの愚かさ加減を呪いながら、魔理沙は頭を抱えるさとりを見つめた。
こんなに近くにいたのに。抱きしめられるほど近距離にいたというのに、全然気づかなかったのだ。
無限の信頼を寄せられ、ただ無条件に愛し、愛してくれる人物に。
――ようやく、自分の居場所を見つけた気がした。
「なあ、さとり」
「ああもう、なんですか。今それどころじゃないんですけ、ど?」
手を伸ばし、さとりの頬を静かに撫で擦る。
さとりはきょとんとした瞳を向け、こちらの意図を読もうとするように三つの目を瞬かせた。
その視線を受け、自らの心を晒す恐怖と戦いながら語りかけた。
「私さ、ずっと家族がほしいと思ってたんだ。家を追い出されて、瘴気の漂う森に一人で住みようになってから。家に帰ったら『おかえり』って言ってくれる家族がいれば、きっと毎日が楽しくなるんだろうなって」
「……そうですか」
「だからさ、やっぱりペットが飼えるなら飼いたい。もう一人は嫌なんだ」
「……お気持ちは分かりました、私も力の限り協力しましょう。魔理沙さんはどんな子がいいですか?」
「猫がいい。可愛い猫が、いいな」
「では、やはりお白にお願いしますか? あの子も望んでましたし」
魔理沙は頭を振り、明確に否定する。
そして、訝しむさとりの髪を手櫛で梳きながら、言った。
「いるじゃないか。私の目の前に、優しくて嫉妬深くて可愛い猫が」
「それって……えええぇぇぇぇ!? ど、どうしたんですか魔理沙さん! なんか悪いものでも食べました!?」
「いや、それ何気に酷いぞ。結構勇気を振り絞ったんだが」
「だ、だってド鈍感の魔理沙さんが……ものすごくらしくない、くさい台詞を……」
「……ひでぇ」
鈍感なのは否定しないが、ここまで狼狽されるとやはり傷つく。
がっくりと肩を落とす。するとさとりが、慌てて取り繕うようにフォローしてきた。
「ま、まあ魔理沙さんもそういう冗談を口にするんだなって感心しただけですから。そんな落ち込まなくても」
「ほとんど冗談じゃないぜ。わりと本気で提案してる」
「……本気で? 申し訳ないですが、私はペットじゃないですよ。今はこんな格好してますけど」
さとりの表情が忽然と消え失せた。
加えて、肩にある第三の眼が大きく見開かれたかと思うと、心の底まで見通されたような感覚が走り抜ける。
心臓が早鐘を打ちはじめる。胸が圧迫されて息苦しい。知らず、指先が小刻みに振動してきた。
しかし、それら全てを気合で捻じ伏せ、魔理沙は決定的な一言を口にした。
「ああ。だからさ、ペットとしてじゃなくて『家族』として一緒にいてくれないか?」
――沈黙。
さとりは、答えなかった。
逃げ出したい衝動を、歯を食いしばることで耐える魔理沙。
そんな彼女を見つめる双眸には、喜びや困惑どころか、何の感情も浮かんでいない。
一千万倍にまで引き伸ばされた体感時間が、魔理沙の精神を緩やかに炙っていく。
そして。
「ふふふっ」
唐突に、さとりが口を押さえながら肩を震わしはじめたのだ。
明らかに笑いを堪えている。さとりの豹変にしばし呆けていた魔理沙が、事態を把握するのに、さらに数秒を要した。
「……おい、笑うこたぁないだろ」
「うふふふふっ! 魔理沙さんったらすごく顔が真っ赤ですよ。そんなに恥ずかしかったんですか?」
「っ! ええい、もういい! 今日はもう帰る!」
自覚していた顔の火照りを指摘され、魔理沙はついに堪え切れなくなって立ち上がった。
そのまま部屋を出て行こうと扉へと歩みを進ませる――その直前。
「魔理沙さん」
真後ろから抱きすくめられた。
咄嗟に振り払おうと腕を広げかけたが、その優しい抱擁に力が霧散してしまい、やがて再びベッドに腰を下ろした。
まるで魔理沙がそうすると分かっていたのか、さとりが寄りかかるように体重を預けてくる。
「心からの言葉、ありがとうございます。魔理沙さんの気持ちは充分伝わってきましたよ」
「……怖かった。自分から嘘偽りのない言葉を言うなんて、こんなに怖いものだとは思わなかった」
「誰だってそうです。自分の気持ちを素直に告げるだけなのに、どうしてこんなにも勇気がいるんでしょうね」
「さあな。ペットが羨ましいぜ。あいつらはこれを平気な顔でしてくるからな」
「言葉を持たないから、行動で示すしかないんですよ。『私はあなたが好きです』って」
「そうか……。で、返事は?」
「返事? 一体何の話ですか?」
からかうような声音に、魔理沙が深々と溜め息をつく。
「意地が悪いぜ、さとり妖怪。こっちはそろそろ心臓が爆発しかねないんだが」
「それは失礼しました。コントロールできないほどの喜びなんて久しくなかったので、つい」
首元に回っていた腕が、きゅっと軽く締まり。
一旦離れていたさとりの吐息が、再度くすぐるように接近し。
甘い囁きが、魔理沙の耳朶に響いた。
「――んにゃお」
数日が過ぎて、魔理沙は再び地霊殿へ訪れていた。
いつものように応接間のソファを陣取り、日課である読書をしながら、擦り寄ってくるペットを撫で可愛がる。
その行動は『あの日』からもまったく変わらず、態度もいつものようにふてぶてしいものである。
今は非番らしい白猫を膝に乗せ、のんびりとした午後の時を過ごしていた。
しばらくすると、動物たちが一斉にある場所を凝視した。
突然のことだが魔理沙は動揺することもなく、彼女たちと同じように扉へと視線を移す。
間もなく、扉が音を立てて開いた。
入ってきた人物は部屋をぐるりと見回し、魔理沙の姿を認めると、柔らかな微笑を零した。
「魔理沙さん。もう来てたんですか」
彼女の挨拶に、魔理沙も微笑みをもって応えた。
「よう、さとり。今日の仕事はもう終わりなのか?」
「ええまあ、だいたいは。書類の整理も終わりましたし、あとはお燐とお空の報告を受け取るだけです」
「お勤めご苦労様だぜ。自由人の私には到底理解できない世界だな」
「私たちの食事や消耗品、魔理沙さんが飲んでる紅茶もこれで得ているんですよ。なんならお金を請求しましょうか?」
そいつは勘弁、と首を振りながら、白猫の背中をゆっくりと撫でた。
白猫が気持ちよさそうに喉を鳴らす。
さとりはそれを見つめながら、白猫にそっと話しかけた。
「お白。そろそろみんなのご飯じゃない?」
瞬間、応接間で寝転がる動物たちが先ほどに層倍する勢いで、顔を上げた。
その瞳は爛々と輝いており、期待に満ちた視線が魔理沙の膝元へと注がれる。
すると白猫は、億劫そうに目を開けて――ひらりと、地面に降り立った。
次に魔理沙が瞬きした時には、白猫は銀髪を腰元までたなびかせるメイドへと姿を変えていた。
彼女は名残惜しそうに魔理沙を見やると、深々と頭を垂れた。
「霧雨様、どうもありがとうございました。私はこれから仕事ですので」
「おう、またなシロ。次も触らせてくれよな」
「喜んで。では、また」
おいで、とシロが近くのペットを招きながら扉へと向かった。
彼女の歩みに合わせるように、続々とペットたちが白猫の後ろや横に移動し、同じように歩いていく。
それぞれが空腹を訴えるように鳴きながら、やがて一匹も残らず部屋を出て行った。
急速に音が消え、応接間は静けさを取り戻す。それに追随するように、さとりが静かに魔理沙へと歩み寄った。
魔理沙は自分の隣を軽く手で叩く。そして、律儀に待っているさとりを促した。
「ほい、どうぞ」
「ありがとうござ……ありがとう、魔理沙」
礼を口にしながら、さとりが魔理沙の隣に腰を下ろした。
その態度はいつもと変わらない。ソファに背中を預けて、少しだけ肩を寄せ合って座るのも、二人の日常だった。
そして、しばらく互いに言葉を発さず、ぼんやりと過ごしていた。
違う点があるとすれば、魔理沙が時折物言いたげにチラチラとさとりへ視線をやるのに対し、さとりはそれに気づいていながらもあえて無視しているところだろう。
まるでおやつを言外にねだる犬に、飼い主が意図的に気づかない振りをしているようだった。
それに耐えかねたのか、魔理沙が若干弱々しい声を上げた。
「な、なあさとり。『挨拶』はないのか?」
するとさとりは、心底不思議がっているように首を傾げる。
「挨拶? そうね、挨拶は大事よね。こんにちは、魔理沙」
「そうじゃなくてなぁ……お前、ワザとやってるだろ?」
「ええ、だって魔理沙の方から挨拶してこないんだもの。それじゃあしようがないじゃない」
「いや、あれって挨拶というよりも……」
「魔理沙がしないなら、私もしません。してほしいなら、ちゃんとしなさい」
ぷいっと顔を背け、さとりは再び正面を見ながら口を閉ざした。
そんな彼女の態度に魔理沙は困り果てながらも、やがて決意したように表情が引き締まっていく。
ソファの背もたれに手をつき、腰を少し浮き上がらせながら、さとりの横顔へと近づいていき……
「んっ」
火がついたように素早く、さとりの頬に口付けをした。
まさに一瞬の早業だったが、離れた魔理沙はまるでリンゴのように顔を火照らせている。
そして、キスをされたさとりは頬を擦りながら、やや不満げに口を尖らせた。
「……もうちょっと落ち着いてやってもらいたいのだけれど」
「これが精一杯だ! まったく、本当にこんな挨拶があるのかよ……」
「日本ではなくて遠い外国のことだけどね。家族はもちろん、友人に対しても行われる、立派な挨拶よ」
そうにこやかに断言され、魔理沙は深々と溜め息をついた。
もちろん最初に言われたときは信用しなかったのだが、なんとさとりはその証拠となる資料を見せてきたのだ。
たしかにそこには、親愛を示す表現として存在すると書かれていて、魔理沙を大変驚愕させたものだ。
魔理沙は恥じらいを隠すように、声高々に言い放った。
「これでいいんだよな! ちゃんとしたから、お前もするんだよな?」
「もちろん。約束を守った良い子には、ご褒美をあげなきゃね」
さとりはそう言うやいなや、魔理沙の手を握り、自分の胸の辺りまで引き寄せる。
そして軽く深呼吸した後、美しい桜の開花を思わせるような笑顔で、言った。
「おかえり、魔理沙」
「――ただいま、さとり」
こうして、今日初めての『家族』としての挨拶を、魔理沙たちは終えたのであった。
なんかだんだんただのバカップルになってきてる気がするけどそれもいいじゃないかー!
やったー!
OK!!
ありがとう
さとまりが捗るな…
イチャイチャしおってんもう!
さとりが猫になったとこは甘々過ぎて悶えてしまったw
さとりは忠犬っぽいイメージがあったので猫さとりんは
新鮮でした。
あ、してるか
じゃあ式挙げろよ。盛大に祝うから
その言葉、さとりんにそのまま(ry
いっしょにさとまりのよさについて語らないか
ちょっと古明地魔理沙について話し合おうぜ?
そんなレベルじゃなかった。なにこのバカップル。
さとまりは流行る
もっとさとまりを