虎は死んで皮残す
ならば鼠は何残す?
草を掻き分け私の家へと通じる獣道を歩く。
飛べばこんな苦労はしなくて済むがあまり目立ちたくはないのでそれは出来ない。
出来ることなら何時までも平穏に暮らしたいのが本音だ――ああ、私の家が見えてきた。
修繕は繰り返しているが、どうしても朽ちた印象の拭えない廃寺。
屋根、そろそろ調べた方がいいかな。雨漏りしてからでは面倒だし。
裏へ回り勝手口の土間へと入る。もう本堂を潰して玄関にしてもよいと思うのだが、主が許さない。
あの人は兎角真面目だからな……と、カタカタと織機を動かす音がする。
狂わぬ律動は耳に心地よい。聞き惚れることはなかったが、足は止まっていた。
それを中断させるのは心苦しかったが何時までも立ち呆けているわけにもいくまい。
戸に手を伸ばしからりと開ける。
「ただいま」
「おかえりなさいナズーリン」
低く落ちついた声に日除けの編笠を脱ぐ。
予想通り、彼女は手を止めて私を迎えてくれた。
金髪金眼の立派な体躯の女性。私の主である寅丸星。
どこか武人然とした雰囲気を纏う人である。
織機を操る姿が、ひどく似合わなかった。
「売れましたか?」
「ああ、ご主人様の紐は評判がいいよ。良い値で買ってくれる」
「それはよかった」
荷物を下ろしながら答える。
彼女が今作っている紐。それを人里で売ってきたのだ。
器用ではないが丁寧に織る彼女の真田紐は誇張でなく評判がよかった。
日銭を稼ぐ為の内職――である。
……本当なら、主である彼女に働かせるなど私の誇りが許さないのだがそうもいかなかった。
兎角我が主は生真面目なのだ。昔のように私がどこぞの金蔵から金子を拝借してばかりでは怪しまれてしまう。なにより彼女自身が何か役に立てないかと言ってきて――こうなってしまった。
体力自慢の彼女にはもっと向いている職もあろうが、なにせ金髪金眼の異形である。何の説明もなく人里に出てしまったら鬼だあやかしの類だと槍持て追われるがおちだろう。故にせめて家から出ずに出来る仕事をと考えた結果が紐作りだった。彼女が家で作り彼女に比べれば幾分人間に近い姿に化けれる私が売りに行くという寸法だ。売るのは私に任せてもらいさえすれば得意の口八丁手八丁でどうとでもなると考えたのだが……この好評っぷりは流石に予想外だった。
評判がよく高く売れるのは構わないのだが……困ったな。
大概のことは不器用なくせに、変なところで器用なんだよなこの人は。
まったく。主が内職で紐作りなんて格好がつかないんだがねえ。
「ああ――そうだ。食料、買ってきたよ」
荷物を広げることで思考を逸らす。
主が望んだことにあれこれ文句を言っては従者は務まらぬ。
私を悩ますこれがわがままなら、まだ文句も言えるんだがね。
「いい食材が手に入ったよ。今年は豊作らしいね」
「善き哉。食が満ちるは平和の始まりです」
……改めて考えることではないのだけれど、言うことが抹香臭いなやっぱり。
買ってきた物に合掌せんでもよかろうに。
指摘したらまた生きるだけで罪を重ねているのです、だから徳を積まねば、なんてお説教だろうな。
彼女と違って仏の教えなんて微塵も信じていない私には理解の外だ。
そもそも、仏門に身を捧げた妖怪なんていう彼女の立場自体――
なんとなしに買ってきた食材に視線を落とす。
大根やら芋やら、まあ厳選した食材なのだが――
本当は、彼女に必要なのは……こんなものではないのだけれど。
我が主は仏門に身を捧げた妖怪。
故に本当に必要なのは……信仰心だ。
妖怪とは人の心を喰らうもの。如何に穏やかに見えようとも彼女もそれは変わらない。
ただ、恐怖や絶望を喰らうのが普通の妖怪であるのに対し、彼女は信心を喰らっていた。
毘沙門天の代理として御仏の奇跡とやらを演じ人々の信仰を集めていたのだ。
それは絶たれて久しい――私たちが住むこの廃寺が示すように、信仰は失われている。
だから……こんな食材など、誤魔化し程度の意味しかない。
ご主人様は、飢えた様子など見せたことはないけれど……
「ナズーリン?」
「え、あっと、なんだい?」
「今晩は何が食べたいかと訊いたのですが、あの、疲れてるんですか?」
心配の眼差しを向けられてしまった。
「いや、ちょっとぼうっとしただけだよ。別に疲れては」
「あなたがそんな隙を見せることなんて殆ど無いじゃないですか」
返事に詰まる。まあ、その通りだけれど。
私は鼠の妖怪だ。はしこさだけが取り柄故、気を抜いた姿を見せることはあまり無い。
隙を見せることは死に繋がるから――なんて格好をつけた理由があるわけじゃないのだが。
困ったな……考え込んでいたことを正直に告げるわけにもいかないし。
「ふむ。具合でも悪いのですか?」
「え」
彼女の手が私の額に伸びてくる――――
「な、なんでもないよ! ああ、うん。今日は遠出したから少し疲れてるのかな」
後ずさりなんとか避ける。
危なかった、もう少しで触れてしまうところだ。
私のような卑俗な輩にこんな貴いお方が触れては穢してしまう。
……きっと、彼女は気にしないと言うのだろうけれど……私が許せない。
ふと見ればご主人様は何やら難しい顔をしていた。
見抜かれた、だろうか。咄嗟の芝居故下手を打ったか。
「今日は芋粥にしましょう」
「はい?」
いもがゆ、って。
今日買ってきた食材の中に芋はあるけど。
「実は今朝、森を散策しているときに蜂の巣を拾ったのです。中に蜜が残っていましたからそれを使いましょう。疲れに効くでしょう」
「蜜ってそんな、私如きに……そんな精が付くのはあなたにこそ」
「部下を労うのも主の務めです。楽しみにしててください、美味しく作りますから」
そんなことを言われても彼女の体を考えれば貴重な蜂蜜なんて使って欲しくない。
使うのならば彼女の為にと思うのだ。断固辞退したい。したいの、だが。
ああ、そう微笑まれるとどうにも弱い。
混じり気なしの純粋な善意。
神も仏も信じぬ私だけれど……彼女だけは、別だった。
妖怪だとか代理だとか、関係ない。その在り様が貴かった。
「……ああ。楽しみにしているよ、ご主人様」
寅丸星。
私が信じ崇める――ただ一人の、本物の神様。
風が冷たくなってきたな。
もう夏も終わりか。歌人なら秋深し――とでも詠む頃だ。
そういった趣味もない私は縁側で陽に当たっていた。
今日はこれといって用事もない。こんな昼日中に誰か来ることもなかろうし、寝ようかな。
ご主人様は妖怪でありながら仏に仕える変わり者。故に敵も多い筈だが……ここ数十年は刺客どころか迷い人も来ない。警戒を怠るわけにはいかぬが多少は緩めてもよいかもしれぬ。
ふむ。たまには昼寝もよいだろう――と、何者かが近づく気配。
ただし、背後から。庭に向かって座っている私の背後だ。寺の内からならご主人様だろう。
「ナズーリ、ああ居た居た」
案の定だったようだ。
それにしても気配の薄い人だな。
足音も殆どしないし、大柄な容姿に似合わぬ感じだ。
「ん、何か御用かな?」
私をお探しのようだったがなんだろう。
予定があるといった話は聞いていないのだが。
「ちょっと訊きたいのですが……」
「なんだい?」
「私の火口箱を見ませんでしたか?」
「火口箱?」
彼女のは、大体部屋に置きっぱなしだった筈だが。
私は火を熾すのには妖術を使うから火口箱なんて使わないし。
「部屋は探したのかい?」
「ええ、探したんですが見つからなくて」
あの小ざっぱりした部屋で見つからないか。
となるとどこかで落としたと考えた方がよいだろう。
あまり物が無い彼女の部屋で何かに紛れたとは考えにくいし。
さてどうやって探すか――ふむ、無駄は省いた方がよかろうな。
「よし、探してみよう」
立ち上がり首に下げていた水晶を掲げる。
「? 何をするのですか?」
怪訝な視線を感じる。ああ、そういえば彼女の前でこの能力を使うのは初めてだったかな。
そう使う機会があるでもなし、使いたい能力でもなかったからな。
「これはダウジングと言ってね。南蛮渡来の物探しの妖術さ」
「だうじんぐ……南蛮渡来の術とは。よく使えますね」
「大分自己流だがね。伝え聞いた南蛮の妖術を私に馴染むようにしてみたんだ」
私が元来持っていた能力に上乗せした形になるのかな。
紐で吊った水晶――この術に使う時はペンデュラムと呼ぶ――に妖力を通す。
脳裏にご主人様の火口箱を思い浮かべる――ペンデュラムが揺れ始めた。
「反応あり……こっちのようだよ」
ペンデュラムの導くままに歩き出す。どうやら目標は外にあるらしく、途中草鞋を履いて外に出る。
手応えからしてそう遠くは無いのかな……まあ、殆ど出歩かぬご主人様だ。精々散歩道に落としたと言うのがオチだろう。後ろを歩くご主人様に目を向ける。
「もうすぐ見つかるよ」
「もうですか? 早いですねえ」
そんなことはない。私が全力を揮えばこのように出向くまでもなく見つけられたろう。
ただ、全力を揮う為には手下が必要で――今の私たちには手下である無数の鼠たちを養う余裕はなかった。細々と二人で生きていくのが精一杯。昔のように私が盗みを再開すれば手下を養うくらい容易いが、彼女が許さないだろう。彼女にばれぬようこっそりとやり切る自信はあるが、あまり彼女を裏切るような真似はしたくなかった。
「おっとこちらのようだ」
獣道を草を掻き分けながら進む。
「あなたにこんな特技があったとは、驚きです」
素直な感心が耳に痛い。
褒められたものではない――これは、密偵として活躍していた頃に磨いた能力だ。
ご主人様に仕える前……そして、今も……私は毘沙門天の密偵なのだ。
私の本来の役目はご主人様に仕えることではなく、彼女を内偵すること。
毘沙門天の威光を背負った妖怪、寅丸星が悪事を働かぬかと調べ上げ報告することだった。
私は、……私は……こうしている今も、ご主人様を騙している。
忠実な部下面して、彼女を裏切り続けている……
毘沙門天には嘘の報告を重ねご主人様に手出し出来ぬようにしているが、そんなもの――真実を告げられぬことへの免罪符にはならぬ。
裏切る為に仕えた者が偽の主君に惚れて本物の主君を裏切った。っは、笑い話もいいところだ。
こんなこと、告げられる筈もない。こんな不忠者……誰が手元に置いておくものか。
結局私は、我が身かわいさに告げられないのだ。彼女の傍に居続ける為に嘘を重ねている。
大義も何もない。ただ――私は……
「…………見つけたよ」
大きな葉の影に隠れるように落ちていた火口箱に手を――
「っ、ナズーリンっ!」
え。あれ、手が、痛い。
痛いっていうか右手、蛇に噛まれて、
「つぁっ」
ご主人様が、蛇を叩き落してくれた。蛇はそのままするすると逃げていく。
呆然とそれを見送っていたら噛まれた腕をご主人様に掴まれた。
「大丈夫ですか!?」
「ああ……」
何をやってるんだ私は。妖怪蛇なら兎も角、天敵とはいえそこらの蛇に噛まれるなど……
考え込んでいたとはいえ油断したにも程がある。まったく、私らしくもない。
いやそれより、迂闊が過ぎる。ご主人様に触れさせてしまうなんて。
密偵の分際で彼女に気遣わせて、本当に何をしているのか――――あぁ!?
「え、あ、え!?」
ごしゅ、ごしゅじんさまが、え?
ごしゅじんさま、わたしのて、すってる。
頭のどこかでは毒血を吸い出しているのだ。蛇に噛まれた時の対処としてはありふれていると冷静なことを考えながら同時にそれはどういう意味だと常識がわからなくなるほどに思考が混乱していた。
思考が分裂してしまう。わけがわからなかった。
ぷっと血を吐き、彼女は私に微笑みかける。
「早く戻りましょう。消毒せねばなりません」
もどる。
ああ、うん。
ちりょうは、せねばならないよね。
それはわかる。わかるけど。
顔が、どんどん熱くなる。
「ご、ご主人、さま、あの」
「え?」
「わ、わたしはその、あのあの、ほら、妖怪だから、蛇の毒なんか、あの」
「あ……」
「こ、こんなもの舐めておけば平気だよ」
言って傷口を舐めようと――待て! 待て私!
ご主人様が吸った直後だぞ!? 彼女の唇が触れた跡を、舐めるなんて……!
「あ、あはは。早とちりでしたでしょうか」
「いや、あの……御心配、ありがとう……」
……なんだ、この空気。居辛いなんてものじゃない。
ああそれにしても暑いな。なんだ夏に逆戻りか? 旱神でも出たのかね。
収穫間際の畑が心配だなまったく。
見てない見てない。照れ笑いを浮かべるご主人様なんて見てない。
「まあ、でも消毒はしましょう。確かあなたが飲む酒があったでしょう?」
「あるけど……ああもう、わかったよ。帰ろう」
度し難いな、私は。
私にそんな資格は無いと重々承知しているのに。
穢れた私なんかに触れたらあなたをも穢してしまうとわかっているのに。
あなたに心配してもらえたことが、あなたが触れてくれたことが――嬉しくてしょうがなかった。
火口箱を忘れてしまい、後で取りに戻らねばならなかった程に私は浮かれていた、らしい。
裏庭の畑で収穫をする。
ふむ。今年の南瓜はいい育ち具合だ。
手拭いで汗を拭う。秋でも動けば暑いなあ。
笊に収穫した南瓜を乗せる。今晩は煮つけにでもしようか。作るのはご主人様なんだけれど。
立ち上がり腰を伸ばす。気を張ることもなく天を仰ぐ。密偵である私が農作業に興じれる、か。
近頃は戦もないし事件もない、正に天下泰平。世は並べて事も無しとはこのことだね。
世は並べて事も無し。善き哉善き哉。
――ダメだっ。
両の頬を泥手で張る。ビリビリと痛むがこれくらいは必要だった。
放っておけば口元が緩んでしまう。情けない顔になってしまう。
あれから、ご主人様手ずから治療をしていただいてから何日が過ぎてると思ってるんだ。何時までにやけ続ければ気が済むんだ私は。ったく、己の浮かれ易さに辟易するよ。無心に農作業でもしておれば忘れられると思ったのにさっぱりだ。何時までも傷を吸われた時のことを思い出して――ええい。
大きく息を吐いてしゃがみ込む。
平和だ天下泰平だと考える余裕があるからダメなんだ。
もっと作業に集中しよう。南瓜の熟れ具合をじっくり見極めるんだ。
手近にあった南瓜を叩いて熟れ具合を確認。するまでもなく青々として熟れてないのは明白だった。
落ちつけナズーリン。毘沙門天隷下にありながら毘羯羅大将の再来かと言わしめた優秀さはどこへ失せた。……そういえば毘羯羅大将は仏教に取り入れられる前はドゥルガーなる女神で、虎を乗り物にしていたとか……虎。ご主人様……いやいやいやいや何を考えてるんだ私は! 私はただの木端妖怪の鼠で女神なんていう大それたものじゃないしあまつさえご主人様に乗るだとか不敬にも程が……
でも……まあ、不思議な縁、だな。
十二支の子に対応する毘羯羅大将。元は虎と縁深き女神だった。
毘沙門天の下で鼠と虎が再び出逢った、か……運命なんて信じないけれど、面白くは思う。
ふふ、これで私がドゥルガーなる女神の分化・零落した果ての妖怪だったらなお面白いのだけど。
時を超えて再び巡り逢う。そういう物語は、嫌いじゃない。
先程とは違う笑みを口元に浮かべながら南瓜を笊に乗せる。
熟れているのはこんなものか。残りはもう少しこのままがよかろう。
さて隣の畑も見てこようか――――?
なんだ? 視線?
――誰かに見られている。
俄かに緊張し鋭敏化した耳にかさりと草を踏む音が届く。
この幽かな足音、この気配。ご主人様か。
やれやれおどかさないで欲しいな。というより、私がやると言ったのだから農作業くらい任せて欲しいものだよ。なんでも自分でやろうとするのだから見てる方が休まらない。
「どうかしたかい? 休んでいてくれと――」
距離にして六・七間だろうか。
思ったよりも遠くに彼女は居て、生い茂る木の葉に顔の半分ほどを隠していた。
私が振り向いたからか、ご主人様はすぐに踵を返す。用事もないのだから追うことはしなかった。
偶然通りがかって私の姿が見えたから立ち止まっていただけかもしれない。
けれど。
一瞬だけ見えた凍えるような黄金の瞳は、何を意味していたのだろう。
湯浴みを終え片付けも済ませた私は自室に戻った。
月が雲に隠されているのか――部屋の中は暗い。
妖術で手の平に小さな火を灯す。その火を燭台に差した蝋燭に移し文机の前に座り込んだ。
暫し、沈思に耽る。
……なんだったのだろう、昼のあれは。
彼女は私のことを勤勉だと思い込んでいるから仕事を確認に、とは考えにくい。
――その後の夕食の席では、畑でのことは話題にも上らなかった。
私はなんとも言い難い違和感を覚え口に出せなかったのだが、彼女は何故?
考えても詮無き事とはわかっているのだが……気になってしょうがない。
機嫌でも悪かったのだろうか……? いつも笑っているから忘れてしまいそうになるが、彼女にだってそれくらいはあるだろう。ただ、私が振り向いたら逃げるように去っただけ。そう見えただけかもしれない。あの時も考えたように偶然通りかかって――と見るのも自然だ。
……本当に考えても意味が無いな。ご主人様に問い質さねば答えなど得られない。
そこまでして知りたいわけじゃなし、無理な追及はやめにしよう。
溜息を吐いて文机の横に積まれた本を手に取る。
手慰みに源氏物語などを読んでみよう。
開くは宇治十帖が総角の巻。長かった源氏物語も終わりが見えてきた。
人間には興味が無いが、人間の書く物語は別だった。
作り話だと承知の上だからこそ純粋に楽しめるという捻くれた感性故か。
現実事実になど魅力は感じない。幻想にこそ心を浸らせられ――
……――――…………っ
「ん?」
声――ご主人様?
何処からか声が聞こえる。
風が凪いでいる故に草木の擦れる音もしない夜夜中。
虫の鳴く声に混じって、確かに彼女の声が聞こえた。
耳を澄ます。
――なず――――……りん……
呼んでいる……のか? 間違いなくご主人様の声。
この大きな耳でなくば聞き逃していただろう幽かな声量。
具合でも悪くしたのだろうか……兎に角呼ばれているのなら行かねば。
蝋燭を手燭に差し替え部屋を出る。夜目の利く私には本来なら必要無いがもしもの備えは必要だ。
ご主人様の容体を診るようなことになれば灯りが無くてはどうにも出来ぬ。
広くもない廃寺だ。すぐに彼女の部屋の前に辿り着く。
だが、彼女の部屋からは灯りが漏れていなかった。
眠っているのだろうか? しかし声は今も聞こえている。
「――ぁ――りん…………なず――」
寝言、にしては……なにか、引っ掛かりのある口調のようにも聞こえるのだが……
ここで二の足を踏んでてもどうにもなるまい。まずは確認をせねば。
襖に手を掛け、一気に開く。
「失礼するよ、ご主人様――――……っ!?」
なんだこの臭い。目さえ痛む……お香? 真っ暗な部屋の中で、香を焚き染めている……?
見れば部屋のそこかしこで香が焚かれていた。香の匂いがきつ過ぎて、鼻が全く利かない。
……何故? 今まで彼女はそんな無駄遣い、口にしたこともない。体裁を保つ為に幾度か香木を買ってきたことや盗んできたことはあったが、使われたことなど数えるほどだった。
あまりにも彼女らしくない行動だ。いや待て、ご主人様は?
「ご主人様……? あの、灯りも点けずに何を……?」
彼女は部屋の隅に居た。大柄な身体は探すまでもなく視界に入る。見えていた。ただ、その姿が理解出来ない。彼女はまるで何かから逃れようとしているかのように――こちらに背を向けて座っていた。
なんだろう。威圧感。圧迫感。彼女に、ご主人様に相応しくない言葉が溢れて止まらない。
ご主人様は、ただ背を向けて座っているだけなのに。
「墨を」
低い声。
「墨、を――こぼしてしまいまして」
こちらを見ずに彼女は答える。
「……? そうなのかい……?」
手燭が照らす彼女の足元は確かに黒く染まっているようだが……
薄暗くて、蝋燭の灯りのせいでかえってよく見えない。
鼻も利かないから臭いで判断することも出来ない。
……墨? こんな暗い部屋で書き物でもしていたと?
いやおかしいと思うからおかしく見えるのだ。墨をこぼし慌てて燭台を倒して蝋燭が墨の中に落ちてしまった――と考えれば辻褄は合う。このお香は説明がつかないけれど、そんなところかもしれない。
暗くて、倒れたかもしれない蝋燭なんて見えないけれど。
「はい。見苦しいところを――片づけは、自分でやりますから」
「え? あ、ああ……」
この対応もおかしくはない。己の不始末に他人の手を煩わせるなど彼女はしない。
何もおかしくはないのに――違和感がちっとも薄れなかった。
「あの……手伝わなくていいのかい?」
「構いません」
語調が強められたと感じたのは錯覚か。
「これくらい、出来ますから。構わないでください」
一度も振り返らぬ拒絶に言葉を失ってしまう。
なんと返せばいいのかわからない。
否、わかっている筈だ。構うなと命じられたのだから部下の私はそれに頷けばいい。
それだけで、いい。
「わかったよ――それじゃ」
失礼と告げ部屋を辞す。
咽返るような香の臭いに息が切れた。
鼻が曲がる――頭の奥がきりきりと痛む、ような。
そんなわけのわからぬ感覚に惑わされたか。
戸を閉める瞬間――血の臭いを嗅いだ気がした。
あれ以来、ご主人様の口数は極端に減った。
元々多弁な方ではないけれど、それ故にその変化は際立った。
食事時の雑談もなくなり、日に数度言葉を交わせば多い方。
おはよう。おやすみ。それしか言わぬ日も多かった。
露骨に避けられている――と言っても過言ではない。
私の正体を、密偵であることを覚られたかとも考えたが彼女ならまずは問い質すだろう。
言ってはなんだが、あのお人よしのご主人様が疑わしい程度で態度に表すとも思えない。
流石に確証を得られるほどの失敗はしていない筈だし……
またもや考えてもしょうがないことではあるが、今度は流すわけにもいかない。
明らかに、おかしいのだ。
まるで彼女が彼女でなくなったかのような――変化。
何を馬鹿なと笑い飛ばしたいのに出来ないでいる。
それほどに今の彼女は私の知るご主人様からかけ離れている……
……直接本人に訊ねてみるか? 今回に限って言えば後ろ暗いところなど無いのだし。
しかし、迂闊にご主人様の深みに踏み入るようなことにでもなれば……それくらいなら。
所詮不安を感じているのは私だけなのだ。ならば私さえ我慢しておれば――――だけど。
堂堂巡。
考え過ぎて、結局は元に戻る。先に進めない。
行動に出なければ何も変わらぬとわかっているのに動けない。
考えなしに行動できる胆力があればよかったのだが、生憎と私は臆病だった。
打つ手なし。ならばもういつも通りに生活するしかない。
彼女の方から何かを訴えてくれるまで待つしか、ない。
気分転換でもしようと部屋の戸を開ける。
しかし陽など射さず空は今にも降り出しそうな鉛色の曇天だった。
今心の内を絵に描けばこのような色となるだろう……転換にならぬ気分はさらに沈む。
――視線。
振り向けばまた逃げられてしまうと思いながら振り返る。
果たしてそこに、ご主人様は居た。
普段と変わらぬ容姿。いつもの服装。変わってしまったとは思えない見慣れた姿。
驚いたような顔をしている。私が部屋に居るとは思っていなかったのだろうか。
「あの……」
何を言えばいいのだろう。
開きかけた口を閉じる。視線を逸らす。
「どうしました?」
耳を疑う。それは、いつものご主人様の声音。
「ナズーリン、具合が悪いのでしたら今日はもう休みなさい。顔色が」
「ご主人様」
見上げればいつもより薄い気はするけれど、確かに私を気遣ってくれるあの顔。
ああ――よかった。あれこれ思い悩んだのなんて、全部……
「……早とちりだよご主人様。私は、大丈夫」
幾分か作り物の色が濃かったけれど、笑みを浮かべられた。
きっとここ数日は、機嫌でも悪かったのだ。何故かなんてわからないけれど、それでいい。
彼女の負担になる程彼女の心に踏み入りたいとは思わない。
わからないものはわからないままで、いい。
「それなら――よいのですが」
「なんだい? そんなに不健康そうに見えたかな?」
「ええ。あなたには健康でいてもらわねば困ります」
「はは、それはお気遣いどうも」
?
あれ?
なんだろう。何かおかしかった。
短い会話に何か、おかしなものが紛れていた。
「それじゃ、私はこれで」
心臓の鼓動が速くなる。
一刻も早くこの場から立ち去らねばと早鐘を打つ。
疑問に思うより先に踵を返し部屋に戻る。
途端。
背筋に冷たいものが走った。
反射的に振り返る。
「……ご主人様?」
彼女は――私に手を伸ばして、呆けているようだった。
何事もなく夜を迎える。
いつものように湯浴みを終えご主人様が眠ったのを確認して自室に戻った。
行燈の火も落としたし、もうやることはないな。濡れた髪をいじりながら確認事項を反芻する。
――ご主人様のことは――もう、いいだろう。大丈夫だと結論付けた。
拭いきれない不安感なんて、気のせいに決まっている。
疲れているから思考が負に傾くのだ。休んで、遊びでもすれば忘れられる。
そういえば近頃は酒も飲んでいなかった。酒に気づかぬ程気を張り続ければこうもなるさ。
ふと雨の音に気づいた。かなり強く降っているようだ。明日まで降り続かねばよいが……
別に、いいか。明日も予定はない。たまには思い切り夜更かししてみるのもいいだろう。
蝋燭に火を点け文机の上に置かれたままだった読みかけの本に手を伸ばす。
手に取るは宇治十帖が最後にして源氏物語の最終巻でもある夢浮橋。
これを読み終えれば源氏物語も終わりか――町に出て戯作でも買い漁ろうかね。山路の露や雲隠六帖などは流石に持っていないのだし。さて何を探そうか……時々町で耳にする噂だと雨月物語とか南総里見八犬伝とかいう読本が面白いらしいな。
さてしかし、町まで出るとなると時間がかかる。下手をすれば数日は留守にせねばならない。
ご主人様のことを考えれば控えたいところだが――
「おや?」
戸が開けられ――ご主人様?
雨音にかき消されたのか、足音に気づかなかった。
それがなくとも彼女の足音は小さいのだから、こんな日は私でも聞き逃してしまう。
「どうかしたのかい? こんな夜更けに」
もう眠っていた筈なのに、何の用だろう?
影になってしまって彼女の顔がよく見えない。
かすかに唇が動いたようだが……声は雨音に紛れて、聞こえなかった。
「すまない、もう一度言ってくれないか。よく聞こえな」
「ナズーリン」
今度ははっきりと聞こえた。
「――ナズーリン」
私の名を呼んで――――笑って、いる?
はっきりと見えない。判断できない。
「ナズーリン――」
ゆっくりと彼女は部屋へ入ってくる。
広くはない部屋に大柄な彼女が入ったからか、いやに狭くなったように感じる。
圧迫感。鼓動を半鐘へと変えるそれが、雨に湿った空気に充満している――――
「ご主人様?」
重い。
肩にずしりと何かが乗った。
「え」
脳髄に電流が走る。
それが何なのか認識できない。
服が肌蹴ている。ご主人様に引っ張られた浴衣はどこか破れたのか用を為してない。
肌蹴た肩口。
そこに。
ご主人様が噛みついていた。
「あ――ぅうあああああああああああああああああっ!?」
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
肉を破り骨に喰い込む牙が激痛を走らせる。
血が溢れて痛くて熱い痛い痛い痛い痛い――っ!
「やめっ、ご主人様! やめて! 痛い、痛いよっ!!」
何、なにが――なんで、ご主人様が私を、そんな、あり得ない――!
突き飛ばしたいのに、彼女は完全に覆い被さっていて非力な私じゃ出来ない……!
わけがわからない、でもこのままじゃ……!
「う、わあああああああっ!!」
無理矢理体を捩って振り落とす。
衝撃で文机に乗っていた蝋燭が落ちた。
だけど火はすぐに消える。私の傷口からこぼれ落ちた血で、消された。
噛みつかれた程度の出血じゃない。肉が、ごっそりと抉り取られている――
左肩が、痛過ぎて痺れて――感覚が滅茶苦茶だ……なんだ、これ。
混乱する頭に、ぺちゃぺちゃという音が響く。
「ご、ご主人様……?」
倒れたまま、違う、彼女は蹲って――私の血を、啜っていた。
意味がわからない。抜けたままの腰でなんとか動く右腕で後ずさる。
「――ナズーリン……」
何が起きたんだ。
どうして、どうして……?
「ナズーリン――」
なんだ、これ。なんだこれ。なんだこれ、なんだこれなんだこれ誰だこれは――!?
音もなく飛びかかってくる。爪が振り下ろされる。
寸でで避けたそれは文机に掠り、それだけで文机は真っ二つに砕けた。
背筋が凍る。あれが、文机が私でも結果は変わらない――!
「待って! ごしゅ、ご主人様!」
「あは」
え?
「あは、は、は――ははははははははははははははははっ!!」
哄笑。
人の笑い方じゃない。
妖怪の笑い方ですらない。
金色の眼が見開かれていて、光源もないのにギラギラと光っている。
理知的な彼女の面影が何処にも無い。返り血に塗れた顔で、狂笑を浮かべて。
「ナズーリン――ナズーリンナズーリンナズーリンナズーリンナズーリンナズーリンナズーリン……」
私の声が届いていない。
――錯乱、している。
ダメだ。ここに居てはダメだ。
死ぬ。死んでしまう死んじゃう殺されちゃう――
脇目も振らず逃げ出す。戸を壊す勢いで庭に躍り出て裸足で駆ける。
雨に打たれるのも構わず背に届く彼女の声を必死に引き剥がそうと走り続けた。
息が切れて足が止まる。
「く――は……」
どれだけ走ったのか。ここがどこかなんてとうの昔に見失っている。
強い雨は森をすり抜け私に届く――文字通りの濡れ鼠だった。
「つっ……」
びりっと左腕に痛みが走る。雷に触れたかと思うほど、指先まで痺れた。
ああ手当てもしてなかった――そんな余裕なんてどこにもない。
傷口を確認する。穴とさえ言える大きな傷口。何か、縛る物は――無いか。
袖を破って包帯にでもしなきゃ……
「あ、れ……?」
だらりと下げられた左腕がまったく上げられない。なんだ? 筋が切れた?
否、鎖骨が、折れてる。いや、これは――
「ぐっ……!」
触れて確かめる。激痛が走るが、それよりも驚きが勝った。
指が肉にしか触れない。露出してる筈の硬い感触が無い。
無い。無かった。無くなっている。――鎖骨が、体の内に、無い。
肉ごと食い千切られたのだ。
……食った? ご主人様が?
私を? くった? なんで?
ご主人様が、私を、喰った。
ありえない。
あの人が、四重禁戒、八斎戒をこれでもかと守るご主人様が。
不殺生戒どころか不飲酒戒までしっかりと守り般若湯にさえいい顔をしないあの人が。
獣肉どころか同居人で部下である私を喰うなんて――そんな。
なんで? なんで……彼女が、こんなことになる兆候なんてあったか?
確かにおかしいとは感じていたけど、そもそもどうして?
何百年も厳しい戒律を守り続けてきたのになんでいきなり――
「は、はは」
いきなり、じゃ、ない。
考えてもみろ。彼女は何百年信仰を受けてないんだ?
どれだけの間飢え続けてきたと思ってるんだ、ナズーリン。
妖怪にとって何の足しにもならない食事をどれだけ重ねたって飢えは満たされない。
彼女のような強大な妖怪は畏れに染まった血肉を喰らわねばならないなんて知っていたじゃないか。
入定の苦行さえも翳みかねない数百年の飢餓。それでも妖獣の身体は死なせずに生は続き――
「成程――妖怪鼠なんて、今のあなたにはこの上ない御馳走だものなあ……っ」
気が狂わぬ方がおかしい。今の今まで耐えてきたのが異常なのだ。
は――はは。
そうだ。そうだよ。
私は鼠だ。彼女は虎だ。
仏の道なんて関係ない。もっと原始的なところで決定している。
本来、私は彼女の食料に過ぎないのだ。妖力を蓄えた子鼠なんて絶好の餌だ。
私は――何を思い違いしていたのか。鼠と虎の関係。いつか考えた毘羯羅大将とドゥルガーなる女神の変遷。私に虎を従える器量なんてありはしない。残酷なまでに決定的な自然の摂理。
鼠は虎に喰われる。
それだけの、ことだった。
「ご主人様――」
でもただ飢えただけで彼女が狂う筈がない。
そんなに弱いお方じゃない。でなければこの数百年だって、耐えられなかった。
切っ掛けがあったんだ。彼女が決定的に狂ってしまう切っ掛け。
それは。
「私の、せいか」
飢えだけじゃない。彼女が狂ってしまったのは、私の血の味を知ってしまったから。
思い返すまでもない。蛇に咬まれた私の傷口を吸ったあれのせいだ。
私の不注意のせいで、彼女は血の味を思い出してしまったのだ。
何百年も己を律し戒律を守ってきた彼女を狂わせたのは全て。
全て――――この、愚かな鼠のせい。
「…………逃げなきゃ」
喰われてやるわけにはいかない。
望んで狂ったわけではない彼女に罪を犯させてはならない。
いつか正気に戻ると信じて逃げ続けなければ。例えそれが永遠だとしても――
守らなきゃ。
毘沙門天から守り続けてきたように。
狂ってしまったあの人を、守らなきゃ。
雨降る夜の森を走る。
全身を痺れさせる痛みにふらつき、木に凭れかかった。
息が切れる――逃げるのは得意だが、この傷が厄介だ。
少し身を捩るだけで激痛が走る――血が止まる気配さえ無い。
「っく……」
私は妖獣の筈なのに、傷口が全く塞がらないだと?
馬鹿な、矢傷を負ったことがあるがあの時はすぐに血も止まったのに……
こと身体能力においては同格の妖怪を凌駕する妖獣が――
「――――ああ、流石だなご主人様……!」
妖力――私という存在そのものごと喰らったか――!
忘れていたよ……あなたは密林の王者たる虎だったな。
虎の妖怪。他者を喰らうということに関しては最上級の概念……!
彼女に喰われれば妖獣も妖怪も関係ない。治癒能力なんて無効化される。肉体の形を決定する魂が欠けたのだ。これでは如何なる能力があろうが治る筈が無い……!
応急処置だけでもせねば……動かぬ左腕を覆う袖を破り口と右腕を使い裂いて包帯にする。
余った布で傷口を押さえ包帯を巻きつける。血止め程度になればよいが……
くそ、どこかで休まねばちゃんとした手当ても出来ない。
人に化けて、人里にでも逃げ込もうか――いや、ダメだ。
ただの虎なら人の群を警戒して離れるかもしれないが相手は寅丸星。
人を恐れなどしない強力無比な妖怪。下手をすれば里の人が喰われかねない。
彼女にそんな真似をさせるわけにはいかぬ。このまま逃げ続けないと――
「――っち」
膝が震えている。
これが恐怖にならよかったが、疲労にだ。
体力が底を尽きかけている。一時、一刻でもいい。休息が欲しい。
彼女に、虎に追われているという状況が異常なまでに体力を奪っていく。
気配がまったく無いのだ。狼や熊に襲われた方がまだましだ。
虎は、音もなく忍び寄って喉笛に喰らいついてくる。
今はどれだけ距離を稼げたのか――
背を預けていた木から離れる。
それは偶然だった。
一歩を踏み出そうとしたが膝の力が抜けたたらを踏んだ背後を轟音が駆け抜ける。
反射的に跳んですぐに身を起こす。木が圧し折れて、倒れていく――
「ご主人様……っ」
寅丸星がそこに立っていた。
一撃、一撃であの木を圧し折ったのか……!?
なんという金剛力……!
追いつかれた。ここから逃げるは至難の業。
どうする、どうする……!? 適当に戦いあしらうが上策なれど彼女に通じるだろうか。
逃走に主眼を置いて戦えば即座に殺されはしなかろうが……ええい、やるしかない――っ!
ペンデュラムを触媒に妖力を増幅、解放。光の矢を無数に放つ。初弾は軽々と躱される。
それは織り込み済みだ。手に巻き付けたペンデュラムを振りさらに妖力弾をばら撒く。
しかし当たる軌道の妖力弾も素手に弾かれ届かない……!
どこかに当たれば、一瞬でも動きを止めれれば逃げられるのに。
焦るな。集中を乱すな。一手でダメなら二手三手を重ねろ。
楽に逃げれる相手じゃないのはわかっていただろう――!
弾を増やし避けた先で当たるように撃っても彼女の爪に弾かれる。
まだか。妖力は何時までももたない。っく、手数がダメなら――!
「死なないでくれよ……!」
数十発分の妖力を固め私の背よりも大きな妖力弾を撃つ。
流石にこれは弾けぬのか避ける頻度が上がった。よし、これでいい、っ!?
信じられない身のこなしで薄くなった弾幕をすり抜け一気に詰め寄ってくる!?
そんな、こっちは弾を撃つのに集中して、手を振るのが間に合わな、
炸裂音が、響く。
「しまっ――」
狙いが逸れた。顔に当ててしまった。
まさか、そんな――などと狼狽する暇もない。
後方に弾かれた首がぐりんと戻ってくる。
爆煙を振り払ったその顔には、一筋の傷さえも刻まれていなかった。
馬鹿な、直撃だぞ……!? 至近距離で喰らって無傷なんて――!
「があああああああああああっ!!」
「ひっ」
突き出された爪を寸でで躱す、躱した、筈なのに……!
「ぐぁ……っ」
脇腹を抉られた。指一本分の肉が削り取られた。
身のこなしには自信があったのに……! この人には欠片も通じない!
なんだ、なんなんだこの出鱈目な強さは!? ご主人様はここまで強かったのか!?
滅茶苦茶に手足を振り回してるだけなのに、武術も法力も使ってないのに、信仰を受けてもいないのに、鉾さえ持ち出してない素手なのに、こんな――!
勝ち目が無いどころじゃない、逃げる隙さえ見つからない。
また、爪が突き出されて――――なんだ?
右手。包帯をしている。怪我? 見覚えが無い。
血が滲んでいる。血。赤い。傷が開いている。傷なんてあったか。
待てよ。怪我? 傷口が、ある。傷口。穴。突破口――――
考えてのことじゃない。反射に近い行動だった。突き出された右手の包帯目掛け妖力弾を――
「おおああああああっ!」
咆哮に我に返る。目に映るは鮮血。夜闇に飛び散る赤。
隙が、出来た。逃走の糸口。考える間も惜しい、地面に向けて妖力弾を放つ。
巻き上がる土砂を即席の煙幕として逃げ出す寸前、見てしまった。
一秒にも満たぬ刹那の光景。されど見逃せぬ包帯の弾け飛んだ彼女の傷口。
血を撒き散らす真新しい傷の形は、間違いようもなく――喰い千切った痕だった。
「はあ、はぁ――」
なんとか撒けたようだ。気配がないからわからないけど、すぐそばには居ないらしい。
機械的に傷を診る。逃げ続ける為の準備を重ねる。
幸い腹の傷は深くなかった。これならはらわたがこぼれてくることはないだろう――
自分の怪我なんて、どうでもいい。
腕が動かない? 構わない。はらわたがこぼれる? 知ったことか。
そんなことより、彼女の、ご主人様のあの傷は、なんだ。
誰が彼女を傷つけた? 誰が彼女の腕に噛みついたのだ?
――ッハ。考えるまでもない。廃寺に引き籠っていた彼女に、私に気づかれず襲いかかるなんて不可能だ。不可能ならば答えなんて一つだけ。遠回りするまでもない。最初からわかっていたことだ。
ご主人様が、自分で喰い千切ったんだ。
あの夜。墨をこぼしたと言ったあの夜。
香を焚き染め血の臭いを私に覚らせぬようにして、己の腕を、喰っていた。
私を喰わぬ為に、己の血肉を啜って耐えていたんだ。
己を喰らってまで――私を守っていてくれたんだ……!
「ご主人様――ご主人様……っ」
いっそ、喰われてやりたい。
そこまでしてもらってなお生き延びたいなんて思わない。
もう、十分だよ。こんなに大事にされるなんて考えもしなかったよ。
私は薄汚い木端妖怪で、あなたに出逢うまで一度だって人扱いされたことはなかった。
いつでも誰かの走狗で、道具でしかなかった。弱い妖怪が強い者に捕まれば当然だと、諦めていた。
なのにあなたは、あなただけは……上っ面の言葉だけじゃなく、本当に、私を――
あふれた涙が雨に流され落ちていく。
まだ、泣けたんだ。私。
もう涙なんて枯れたと思っていたのに。
満足だよ。泣くことまで思い出せるなんて、身に余る幸せだ。
私の命であなたの飢えが和らぐのなら喜んで差し出す。
生きたまま喰われたってきっと私は笑って逝ける。
あなたになら、何をされたって……
でも、でも――
「あなたが……ほんの少しでも、あくどかったら、よかったのに」
きっと、あなたは己を許さない。
飢えのままに私を喰らったと知ったら、あなたは自ら命を断つだろう。
そんなのはダメだ。そんなの認められない。それだけは、許せない。
逃げ続けよう――戦おう。
あなたが私を守ってくれた分だけ、あなたを守る。
追いつかれ戦い逃げる。
それを繰り返す。
少しずつ少しずつ身体を削られながら――
ここは、どこだろう。
雨に打たれるも実感は皆無。
肌に何かが触れてももうわからない。
体中ズタズタで、どこが無事なのか判然としなかった。
血が、足らない――
まだ夜は明けないのか。
逃げ切れない。血が止まらない。
私の体はこんなにも重かっただろうか。
感覚が薄れ痺れているかのように自由が利かず。
視界が妙に狭い。陰影が異常に濃いような。
どれだけ走ったのだっけ?
今は何時だろうか。なにか、チカチカしている。
明日の予定はどうだったろう。
月に叢雲花に風。そうじゃないな、藪を突いて蛇を。
何を考えているのだろう? 虎の尾、か?
脈絡を見失っている。
まっすぐに立てない。
足元が覚束ない。
虎は死んで皮残す。
ならば鼠は何残す?
そんなものは決まって――
――なんだ? ああ、思考もグチャグチャだ。
頭に血が廻っていない――何を考えているのかもわからない。
口が、泥水を啜っていた。
吐き出す。倒れていたのか――起きなきゃ。
起きて逃げなきゃ――手が滑る。また倒れてしまう。
疲れた。
意識を手放すのが脳髄を焦がすほどに恋しい。
このまま眠ってしまえたらどれだけ楽になるだろう。
だけど焦げ付いた脳髄は起きろ逃げろと繰り返す。
そうだ。
逃げなきゃ――目の前に立っている、この人の為に、逃げなきゃ。
ご主人様を、守るんだ。
首を掴まれる。
木か岩か、もうわからない何かに身体を押し付けられる。
手。腕はまだ取れてない。私の首を掴む彼女の手に掛け、剥がそうともがく。
彼女にとっては抵抗ですらないだろう。あと一噛みもされれば私は、息絶える。
あれ――落ちてる。私はまた、地面に倒れていた。
見ればご主人様は腕を押さえて吼えている……?
あ――傷。彼女の腕の傷に、私の指か爪が当たったのか。
這いずる。逃げなきゃ。逃げなきゃ。
「かはっ」
ご主人様の顔が、真正面に。
焼き直しだ。首を掴まれ何かに叩きつけられた。
また、捕まってしまった――
逃げなきゃ。逃げなきゃ。逃げなきゃ――いけないのに。
「――ご主人様」
びくりと私の首を掴む手が震えた、気がした。
抵抗なんてしていない。両の手も足もだらりと投げ出されたまま。
抵抗、するべきなんだけど、手足は動かない――動かさない。
「いいよ」
ああ、私は――愚かだなあ。
このまま私を食べればあなたが苦しむとわかっているのに。
あなたを苦しめたくないと心底願っているのに。
なのに、私は。
「…………あなたになら食べられてもいいよ」
望んでしまっている。
あなたの血肉となることを。
あなたの心に私を深く深く刻みつけることを。
だって、忘れられないだろう?
あなたは生真面目で優しいから、私を喰い殺したことを生涯悔やむだろう?
寅丸星。
私はあなたの中に永遠に居続けられるのなら死んだっていい。
結果あなたが苦しむことがわかっているのに、なお望んでしまう。
狂っているんだろうな。己の命よりあなたの命より、あなたの心に残ることを望むなんて。
あなたを殺すかもしれないとわかった上で、ほんの一時でもあなたの心を私だけに染めれると――
あなたが自殺するまでの僅かな間、あなたを私だけのものに出来ると、喜んでいる。
あなたを傷つけて、苦しめて……本当に、私は――救いようが無い。
「せめて痛くしないでほしいな――」
彼女は爪を振り上げる。
私は眼を閉じる。
ご主人様と過ごした日々を思い浮かべる。
うん。幸せだった。彼女に恋した日々は何よりの宝物だった。
金銀財宝なんて塵芥に等しいほどに眩い私の宝物。
こんな想いを抱いたまま死ねるなんて、なんて私は幸せなのだろう。
だけど、いつまで待っても爪は振り下ろされなかった。
「……ご主人様?」
開いた眼に映るのは爪を振り上げたまま凍りついたように動かぬ彼女の姿。
違う。凍りついてなんかいない。彼女は――震えていた。
初めてご主人様の顔をまっすぐ見つめる。
端正な顔が、苦しそうに歪んでいた。
「あ――ああああああああああっ!!!」
振り下ろされる爪は私の頭から大きく逸れて背後の大岩を砕く。
それだけだった。それ以上彼女は私を害そうとはしない。
それどころか私を開放して後ずさる。
一噛みで終わるのに。彼女の飢えはそれで満たされるのに。
正気を失った黄金の瞳から、ぼろぼろと涙がこぼれた。
「う――――あ、ぁぁぁああああぁぁぁ……!!」
抗って、いた。
正気と狂気の境で、耐え切れぬ筈の飢えに。
獣と人の狭間で、血を吐くように叫びながら。
限界なんて越えてしまった筈なのに。
私のせいで――彼女の誇りは擦り切れてしまった筈なのに。
ああ――ああ……
笑い出して、しまいそうだ。
この人は、己を喰らってまで耐えたというのに。
この方は、こんなにも気高く美しいのに。
私は、なんて……醜いのだろう。
触れれば穢すだけだとわかっているのに、手を伸ばす。
震える彼女の腕に触れることは出来ず、袖を握り締める。
雨に濡れたその袖を、強く――強く握り締める。
「ご主人様」
……ご主人様。
「――――私は」
……私は。
「私は――……あなたに喰われるまで傍に居続けるから」
私は――……あなたを汚す毒でしかなかったよ。
なんて――醜悪。
おぞましくておぞましくて笑うしかなかった。
人々の清らかな願いを糧としたあなたの真逆。
最後の最期まであなたに縋るこの執着に、気づいてしまった。
喰われてもあなたの中に居残ろうとした欲望が、私の心底を曝け出した。
寅丸星。
幾百年も恋い焦がれた私の道標。
幾百年も追い続けた私のお星さま。
ずっとずっと、あなたと共に生きたこの数百年。
数百年もの間、この腐れた心は――星の光を食べて生きていた。
「あなたを独りにしないから」
虎は死んで皮残す。
ならば鼠は何残す?
死んだ鼠が残すのは、そんなの病に決まってる。
期待にざわめき弛緩していた心が粟立った。
一途に相手の心に自身を残そうとするナズーリンがやはり濃厚に百合ですね。
おもしろかったです。
しかしその分、終わり方が唐突すぎる感が……
この後のナズはやっぱり……
素敵な作品でした。
寅ちゃんとナズは、バックボーンからして暗い話が似合いますね。
だから、今が幸せなのでしょうけど。
ありがとうございました。
その素晴らしい解答に驚いて感動しました。
ナズーリンは永遠に星を蝕み続けるんですね。
その後のシリアスな展開を目の当たりにして軽く自己嫌悪w
冗談はさておき、読み終えたときのなんとも言えない余韻が心地よかったです。
これだけでも本当に心拍数が上昇して緊張しちゃいました。
そして星の自傷行動とナズーリンの御主人の為にも食われてはやれない⇒諦念から来ただろう自分を刻み付けたいという想いの変遷に
読む身の息も心も重くしていった最後に来たあの一文。
もう正直ノックアウト過ぎて辛い。
そこに至るまでの過程や切っ掛けも丁寧に書かれていて引き込まれました。
タイトルも上手く考えられていて文句なしの100点です
ダークで切なくて雰囲気がなんだかエロい。
素晴らしいナズ星です。ありがとうございました。
ただ星の心情を推測することしかできないのがつらかった。星の立場で見たこの話を読んでみたいと思う。
そして、最後の問いの答えが素晴らしすぎた。素晴らしい作品をありがとうございます。
一言言わせて下さい。
大好きです!!
これが本編の姿につながるのだとしたら、その歪みはどこにあるんだろう、とか
なんだか色々想像してしまいました。
ナズーリンは、ひたすらに星ちゃんを愛してたんだね。
最後の虎は死んで~の文で、最後どうなったかが想像出来た。………出来てしまった