薄っすらと、薄いオレンジ色の口紅をひいた。
いや、オレンジ色と桃色の中間、くらいの色合いのほうが正しいかもしれない。
休日、人里に一人で下りた時、立ち寄った雑貨屋で口紅を見つけた。
白い小さな陶器にオレンジ色のガーベラが描かれていて、ふたを開けると花の香りの口紅が詰まっていた。
値段はごく安めに設定されていて、人里の子供達が大人の真似をして塗るような、幼い代物だった。
でも、だからなのか、普通の口紅とは違って子供っぽい甘さと大人っぽさが同居した不思議な魅力を放っていて、誘われるように手に取り、思わず買ってしまった。
紅魔館に戻り、茶色の紙袋から口紅を取り出し、指で掬って唇に落とす。
指と唇の熱で滑らかさを増した口紅をゆっくりとひきのばしていった。
鏡台の前で一人静かにひいていたら、何故だかいけない事をしているような気分になった。
とくりと胸が高鳴る。まるで母親の口紅を密やかに試す少女のような気分。
無言で口紅をひき終わり、鏡に顔を近づけて塗り上がりを確認する。
薄く、薄く、ごく薄く、少し唇の血色が良くなったくらいだから、誰も気付かないかもしれない。
でも、別に気付かれなくても良い。自分だけが、知っていれば良い。
何故だかとても満足して、ふふ、と笑った。
ほんの少しだけ口紅を舐めると、花のような柔らかな匂いが口の中に広がる。
人工的な、花の香り。何だかとてもどきどきする。こっそりと悪い事をしているような気分になる。
でも、その密やかな具合がとても楽しい。もう一度、ふふ、と笑った。
いつもより大胆な気分のまま部屋を出て、庭園へ向かう。
休日である今日は、世話をするためではなくて、楽しむために。
足取りが軽い。口紅を引いただけなのに、ふわふわと夢見心地な気分になる。自然と笑顔になる。
廊下で擦れ違う妖精達にも、いつも以上ににこやかにふるまえた気がする。
いつも一人の時は一つ飛ばしする階段を、今日は静々と一段ずつ下りてみた。
このくすぐったい淑女然とした態度、もどかしささえ、何だか楽しい。
鼻歌を歌いたくなるような軽やかさをもてあましていると、階段を上ってくる咲夜さんと遭遇した。
「あ、お疲れ様です」
「あぁ、お疲れ様」
踊り場で擦れ違う。相変わらず表情のない顔だなぁ、と頭の片隅で思っていると、つっと腕をとられた。
衝撃で、かくりと僅かに上体が傾く。わ、と声を上げて踏みとどまり、どうかしましたか、と顔を向けた。
まじまじと、咲夜さんが私の顔を見ている。正確に言えば、唇を。
あ、と思って、気付いて、胸の奥が疼いた。口紅、気付かれた、のかもしれない。
そう思って、不思議な高揚感と不安に苛まれながら硬直していると、ふ、と咲夜さんの唇が弧を描いた。
思いがけない笑みに目を見張る。頭が一瞬からっぽになる。
いつの間にか親指が伸びてきて、ぐっ、と唇に触れられた。
はっ、と半開きになる下唇を拭われる。痺れるような感覚が背筋を這い上がる。
「生意気」
「は……え……?」
ひらりと、おどけるように手のひらを返すと、咲夜さんは何事もなかったかのように階段を上っていった。
我に返り、さ、咲夜さん! と声をかけても歩みを止める事はなく、程なく壁に隠れて見えなくなってしまった。
何、何なのよ、もう……とひとりごち、触れられた唇に手を当てる。
例えようのない羞恥心が込み上げてきて、頬が火照ってきたのが分かった。
何よ、何なの、何なんですか、これ……。
溜め息をつこうと手を離すと、うっすらと手に口紅がついていた。
ふ、っと気付いて溜め息が引っ込む。薄く滑る口紅から目が離せない。
(……咲夜さん、指についた口紅どうしたんだろう)
頭の中で声に出してみたら、胸が苦しいくらいに高鳴って、その場にうずくまった。
きゅ、と唇を噛みしめる。それから口を開いて、ほんの少しだけ舌先で舐めた自分に羞恥心を覚えた。
ほのかに漂う花の香り。くらくらするような甘さを持て余しながら、咲夜さんの指先を思った。
この短さでこれほどの表現ができるなんてお見事です。