村紗が酒で溺れたのは三日前のことだ。
『酒に』ではなく『酒で』である。
博麗神社の宴会にて、酒に酔った村紗は何を思ったのか勢い良く酒樽に飛び込み、私が引っ張り上げるまでしばらく浮かんで来なかった。
いつもの村紗ならそんな迂闊な酔い方はしないはずなのだが、そんな惨事が巻き起こったのは私が彼女の酒に『正体不明のタネ』を仕込んだせいである。
村紗には酒が水かお茶あたりに見えていて、味もそう感じられていたのだろう。気づいたときには既に泥酔村紗が出来上がっていた。
「うぅん、ぬえー……ぬえー……」
そんな醜態を晒した村紗は三日後の今、私の目の前でぐったりと寝込んでいる。
単刀直入に言うと、彼女は風邪を引いてしまった。もしかしなくても宴会のせいである。
聖、星、雲山は酷く心配していた。
一輪とナズーリンは「舟幽霊でも風邪を引くのか」と何故か感心していた。
私は黙っていた。
うわ言のように私の名前を呼んでいるのは単に人恋しいからか、はたまた恨めしいからか。
いや、でもタネの件はバレてないはずだから前者だろう。体調崩したときって寂しくなるもんね、わかるわかる。可哀相に。
私が看病役に抜擢されたのは、私以外がそれなりに忙しかったからである。
断じて村紗の側にいてやりたかったから立候補したとかそんなんではない、断じて。
弱っているのをいいことに悪戯してやろうかと思ったぐらいだったが、予想以上に弱っていたので冗談抜きに心配になってしまった。
医者曰く、薬を飲んで一日寝れば良くなるらしいのでまあ大丈夫だろう。
「ぬえー……水ー……」
しばらくして、目を薄ら開けた村紗が弱々しく呟いた。
「水? 喉渇いたの? ちょっと待ってて」
「水……汲んでくる」
虚ろな声でそう言うと、村紗はのろのろと体を起こした。
息が荒く顔が赤い。そして目が死んでる。ますます心配になった。
「いやいいよ、私が持ってくるから」
「……私も行くー」
村紗は立ち上がると、何故か台所とは逆方向にふらふらと歩き出した。私は思わず怪訝な顔をした。
何をしている。その障子の先は中庭しか無いぞ。
「…………あの、ムラサ?」
「行ってきまーす」
「どこにぃ!? 水なら台所にあるよ、ムラサ! 飛ぶなぁ、戻ってこーい!」
靴も履かずにどこかに飛び去ろうとする村紗にしがみついて止めようとする。しかし力比べで勝てるはずもなく、村紗は私を腰にぶら下げたままあっけなく離陸を果たした。
「ねぇ、帰らない? 帰って寝てた方が良いって。ほら曇ってるし、雨降りそうだよ」
真っ直ぐ飛ぶことの出来ない村紗の肩を支えながら、しかし村紗に従って私は飛んでいた。
「だいじょぶ、だいじょぶ。水飲んだら帰るからぁ」
病人というよりまるで酔っ払いだ。もしかしてまだ酔いが残ってたりするのか?
どちらにせよ、早く帰って寝かしつけるべきだ。しかし進行方向を命蓮寺にしようとすると、「やだー」と駄々をこね始める。
不覚にも可愛いと思ってしまったが、めんどくさいという感情の方が大きかった。だいたい1:99くらい。
果てしなく面倒なことになりそうだったので、一応訊いておくことにする。
「ねぇムラサ、今どこに向かってるの?」
「んー……みずうみ」
おい馬鹿やめろ。
湖の水は色んな意味でマズい。味的にも雑菌的にも。
私がそれを忠告しようとしたときには、私たちは既に霧の湖の上空だった。畜生。
湖畔に降り立つと、村紗は「水、水……」と言いながら今にも崩れそうな足取りで湖を目指した。
本格的に可哀相になった。しかし誰かに見られていたら他人の振りをしようと思う。
「あぁっ!」
急に村紗が素っ頓狂な声を上げた。何事かとそちらを見ると、湖に浮かぶ『何か』を指差している。
よくよく見れば、それは小舟だった。しかも、人が二人乗っている。あれは確か――
「ほら凄いでしょ、氷のボート! ちゃんと浮いたよ、大ちゃん!」
「凄いけどチルノちゃん、これお尻が冷たいよ」
「そう? じゃあちょっとだけ飛んでればいいじゃない」
「……それじゃあボートの意味が無いよ」
確か、この近くに住む妖精たちだったか。仲睦まじいその姿に、荒んでいた心が少し癒された。
「こんな天気の日に、楽しそうだねぇ。で、あれがどしたの?」
「私の前で船を漕ぐとは……笑止」
心の癒しタイム終了。妖精逃げてぇぇぇ!
介入する間もなく、村紗が何やら小声でブツブツと呟いた。
直後、妖精たちのボートが水面とともにZUN!とせり上がった。
「な、なになに!?」
混乱する妖精たち。
水面はさらに上昇し、結果ボートを運ぶ高い波となって湖畔に押し寄せた。
主に私たちのいる方向に。
「えぇぇぇぇぇ!?」
私は急いで村紗の手を取り逃げようとした。しかし村紗はその場から動こうとしない。
「ちょっと! このままだと……!」
「私には、あの舟の末路を見届ける義務がある……舟幽霊ムラサとして、ね」
そんないかにも体調不良な顔色の悪さでかっこつけられても。ひたすら不気味としかいいようがない。
「ぎゃああぁぁぁ!!」
叫び声は私と妖精二人の分。
私たちはそのまま波に飲まれ、意識を失った。
「う、うーん……」
何かとんでもなく嫌な夢を見ていた気がする。と思って目を覚ましたら、全身ずぶ濡れで森の中に転がっていた。
わぁい現実だった。
そして寒い。このままだと風邪でも引いてしまいそうだ。
「あの、大丈夫ですか……?」
優しげな声に振り向くと、緑色の髪をした少女が心配そうに覗き込んでいた。
私が呆然としていたのを察してか、少女は付け加えるように言った。
「初めまして。私この辺に住んでる名の無い妖精です」
ようやく思考が追いついた。小舟に乗ってた二人の妖精の、利口そうな方だ。『大ちゃん』と呼ばれてた気がする。
「あ、あぁ、初めまして。私はぬえ。そっちこそ怪我ない? 小舟ごと波にさらわれてたけど」
「ええ。ボートは捨てて、飛んで逃げちゃいました。でも巻き込まれてる人がいたから……心配になって」
なんて良い子だ。怪我をしていなくて本当に良かった。
もし傷の一つでも負わせていたら村紗を人里で引きずり回しの刑に――――ん?
「あのさ、私ともう一人見なかった? 白い水兵服着た……」
私の言葉に、妖精は急にうろたえはじめた。
「あ、一緒に流されちゃってた人のことですよね! えぇと、その人のことでちょっと問題が……」
慌てるように手招きをする妖精。
怪訝な顔をしつつも、一応村紗の安否を確認すべくよいしょと立ち上がった。
濡れ鼠だったせいで気づかなかったが、空からは既に細い雨が降りはじめていた。
「うわぁ雨……めんどくさ」
「ぬえさーん? こっちですー!」
「はーい。今行く」
見つけた村紗は綺麗に閉じ込められていた。
何に? 逆さになったボートという名の氷の棺桶に。
「ムラサぁぁぁ!」
何故こんな奇跡を起こした、神様。
透明の棺の中で虫の息と化している村紗。自業自得ではあるが、病人にこの仕打ちはさすがにあんまりだ。自業自得ではあるが。
「このボート重い上にちょっと地面にめり込んでるみたいで、私一人じゃどうにもできなくて……チルノちゃんはどっか行っちゃったし……」
しょんぼりした様子で妖精は呟いた。
自慢じゃないが私は非力だ。本当なら怪力自慢はその閉じ込められてるバカなのだが。
「……とりあえず二人で持ち上げてみよう」
「はい!」
本当なら断って帰っていいところだよ、妖精さん。
「ダメだ……びくともしない」
駄目元ではあったが、ただ腕が痛くなっただけだった。私はボートの上に腰掛けて溜め息をついた。
私の尻の下では酷い顔色の村紗が弱々しくこちらに視線を向けている。
そして口の動きだけで「白」と言った。私は慌ててボートから降りた。
「うーん、雨降ってるから火を起こすのも無理だし……スペルで吹き飛ばすのはムラサが耐えられるかどうか……」
「あの、私やっぱりチルノちゃんを探してきます。チルノちゃんならなんとか出来ると思うから」
「うん、そうしてくれると助かる。手間かけさせるね」
申し訳なさそうに俯いていた妖精が飛び去ろうとした、そのとき――
ZUZUN!と不穏な地鳴りが響いた。
「な、なになに!?」
妖精がさっきと同じ反応を見せる。デジャヴ。嫌な予感。
考える間もなく、事態は急変した。ボートの真下に地割れが起き始めたのだ。
「――っ! ムラサ、起きて! なんかマズい!」
氷を叩いて必死に呼びかけるが、村紗はぐったりとしたまま反応を見せない。
氷に閉じ込められていたせいで、もはや洒落にならないくらい体調が悪化しているらしい。焦りが募る。
「ムラサ!」
泣きそうな声で叫ぶ。
その瞬間――割れた地面から勢いよく水が吹き出した。
「きゃあぁぁぁ!」
「うわぁぁぁ! 何これ、熱い!」
覆われる視界。そして吹き出す熱湯に飲み込まれる村紗とボート。完全に両者を見失ってしまった。
慌てて逆巻く熱湯の中に飛び込もうとする私を、妖精が引き止めた。
「危ないですよ、ぬえさん!」
「で、でもムラサが!」
思わず取り乱す私。
すると、聞き覚えの無い声が頭上から降ってきた。
「あれ? 誰だこれ? 思わずキャッチしちゃったけど。まぁいいや。温泉を湧かすの、ここであってるかなぁ?」
緊張感のかけらもない声。ハッと上を見上げると、一枚の黒い羽根が落ちてきて、次に人影が降りてきた。
人影は翼を悠然と広げ、私たちの前に降り立った。その腕の中では、村紗が一際小さくなって抱きかかえられている。
「ふいー、やっと出れたと思ったら今日は雨だったのかぁ。あ、こんにちは地上の人! わたし、地獄鴉の霊烏路空!」
そう言って空は艶やかな黒髪と翼をぶるぶるっと振るった。水滴が豪快に散る。
何やら拍子抜けしてしまったが、にこにこしている空と無事な村紗を見て、思わず安堵の溜め息が漏れた。
「こ、こんにちは。私はこの辺に住む名の無い妖精で――種族は『大妖精』と言います」
隣でぽかんとしていた妖精が、我に返ったように返事をした。
それにしても、大妖精だから大ちゃんか。全く関係ないけど。
「あぁ、私はぬえ。えぇと……あなたが抱えてるそれ、私の友達なんだ。引き取るよ」
「ありゃ、そうなの。ぐったりしてるし、何かすごい病気のにおいするし、どうしようかと思っちゃった」
明るい口調で、よくわからないことを言う。
「病気のにおい?」
「あ、うん。友達に病気を操る能力持った子がいるんだ。その子とよく遊んでたら、なんとなくわかるようになった」
言いながら、私に村紗を背負わせる。
「家には動物がたくさんいるから、病気持って帰るとさとり様に怒られちゃう」
妖の類がかかる病は、人間や動物がかかるそれより遥かに強いものらしいから、その心配も当然だろう。
背中の村紗はというと、呼吸以外に身動き一つしない。とりあえず、早いとこ帰って薬を飲ませよう。
と、私が眉をひそめていたせいか、何故か空が急に泣きそうな顔になった。
「あの……もしかして、わたし何か迷惑かけちゃったりした? わたし何をするにも後先考えないから、よくやらかすんだ……」
感情を表すように、翼がわかりやすく垂れ下がった。
「いやぁ、全然。むしろ助かったよ。ちょっと事情があって、空が来てくれなかったら大変だったかもしれない。ね、大ちゃん」
「え、あ、はい! あ、ありがとうございました!」
動揺した結果、何故か深々と頭を下げる大ちゃん。
「大ちゃん」って言ってみたかっただけなんだ、ごめん。
「そう? ならいいんだけど。その病気の子……えぇと、こういうとき何て言うんだっけ……『ご愁傷様』? 違うな…………あ、『お大事に』だ!」
世紀の発明でも思いついたように言って、手をぽんと打つ空。
まだ知り合って間もないが、空があまり賢くないのはわかった。
地面から吹き出す温泉はいつの間にか止まっていた。それを見て思い出したことがある。
「そういや空。温泉がどうとか言ってたけど、何か用事あったんじゃないの?」
「ん? あぁ、それは…………って、あぁぁ! すっかり忘れてた! 東の神社の近くに温泉引いてくれ、って頼まれてたんだ!」
「神社に? 博麗神社のことなら、もっともっと東ですよ」
「えぇぇ……やっぱ地図がないと、勘だけじゃダメかぁ」
「参ったなぁ」と頭を掻く空。
博麗神社とこの森では距離が離れすぎている。というか、適当に地下を掘り進んできたのか。運悪く神社や紅魔館の真下に出てしまっていたら、どうなっていたことか。
私と大ちゃんは目を見合わせて苦笑した。
「それじゃ、私は村紗連れて帰るよ。大ちゃん、空、ホントにありがとね」
「はい。村紗さん、お大事に」
「うんうん、風邪引いたときはあったかくして寝るに限るよ。わたし風邪引いたことないからわかんないけど」
腕を組んで得意げに言い張る空に、「なんだそりゃ」と思わず笑ってしまった。
二人に見送られて命蓮寺を目指そうとしたところでふと思いついて、少し飛んだところでくるりと振り返った。
「二人とも、今度命蓮寺に遊びに来てよ! お礼したいからさ!」
二人は互いに目をぱちくりさせた後、笑顔で手を振ってくれた。
私が二人と別れてすぐ、雨は本降りになった。
「――ああ、もう!」
まるで私が帰路につくのを待っていたかのようで、とても腹立たしい。
大粒の雨の中を全速力で飛んだ。命蓮寺につく頃には雷まで鳴り始める始末だった。
「みんなに見られると厄介だし……中庭から戻ろう」
私たちが居なくなっていたことに聖たちが気づいていてもおかしくはなかったが、寺の中は別段慌ただしくもなかったのできっと大丈夫だろう。
中庭から寝室に戻った私はまず自分の服を脱ぎ捨て、村紗の服も剥ぎ取った。
次に、びしょ濡れの村紗の身体を拭く。
その途中、ふと思った。「この状況こそ誰か見られたらマズいんじゃないか」、と。
何がマズいって、私も裸であることだ。何故服を着ていない、私。痴女か。
慌ててきょろきょろと周りを確認するが、誰かが来る気配もなかったのでホッと息を吐いた。
部屋着に着替え、村紗にも浴衣を着せて布団に寝かした。
ようやく全てが終わった気がして、一気に脱力感が襲って来る。そのまま畳の上にごろんと転がった。
「あー……疲れた……」
見事な厄日だった。
体調を崩した村紗にはあまり関わらない方がいいかもしれない。でも結局放っておけなくなるんだろうなぁ。
「全く手間のかかる……」
ようやく落ち着いた様子の村紗の横顔を見ながら、ぽつりと呟いた。すると、
「ごめん……」
と小声の返事。村紗がまぶたをゆっくりと開いた。
「なんだ、起きてたのか。気にしなくていいっての」
「うーん……気にしようにも、ぼーっとしてて全然記憶がないんだけどさ」
「……あぁ、そう」
「うん……でも、ぬえがずっと一緒にいてくれたのは覚えてる。嬉しかった」
急に恥ずかしくなるようなことを言うな。まだぼーっとしててるのか、そうなのか。
「別に、私は何もしてないよ」
森で村紗を見つけたのは大ちゃんだし、ボートの下敷きになった村紗を助けたのは空だ。
そもそも、波に飲まれたときに私が村紗の手をしっかり掴んでいればあんな惨事にはならなかったんだから。
「それでも、ありがとう」
「……どういたしまして」
「迷惑かけて、ごめん」
「気にするなっつってるのに。あんたそんな律儀な性格だったっけ? 何百年友達やってると思ってんのさ」
それきり、しばしの沈黙があった。雨の降る音だけが寝室に響いている。
照れ臭さでいたたまれなくなり、ガバッと身体を起こして、頭を掻いた。
「ま、面白いもの見れたし、いいよ。ムラサってば、幼児退行してて可愛かったなー。みんなに言いふらしちゃおうかなー」
からかう口調で笑いながら言うと、村紗は布団に潜り込んでそっぽを向いてしまった。
つくづく可愛い奴め。
「あはは、冗談冗談。今日のことは私の心の内に留めといてあげるって。話すとしても空と大ちゃんだ……け……?」
そうして言葉の途中で布団の中を覗き込もうとして――村紗の様子がおかしいことに気がついた。
「ムラサ……?」
小さく縮こまった村紗は、布団の中でガタガタと震えていた。
「ちょっと、ムラサ!?」
「ぬ、ぬえ……」
「何、どうしたの!?」
「さ、寒い……寒いよぉ……」
搾り出すような声でそう言った。
私は跳ねるように立ち上がると、押し入れから新たに布団を引っ張り出した。
それを急いでかけてやるが、村紗は依然として寒気に苦しんでいる。
「どうしよう……どうしよう……!」
みっともなく慌てふためく私。とりあえず、誰かを呼んでくるという案が思いつかない程度には混乱していた。
村紗の息は荒く、肩で呼吸をしている。
うろたえにうろたえた私は、わけもわからず布団の中に潜り込んだ。
そして、小さくなった村紗の背中を、ぎゅっと抱きしめる。
寒気とは裏腹に村紗の身体は火照りきっていて、布団の中は暑いくらいだった。
「ぬえ……何してるの……?」
「……な、なんか、雪山に遭難した人間は体温で暖め合うらしいよ。どっかで見た」
動転しすぎてわけのわからないことを口走ってしまった。何言ってんだ私。何だ雪山って。
相変わらず私に背を向けて震えていた村紗だったが、私の言葉に弱々しく笑ってくれた。
「変なの……」
「……大丈夫? お湯、もらってこようか?」
「行かないで……ぬえ、温かくて気持ちいい……」
村紗はもぞもぞと寝返りをうってこちらを向くと、私の背中に腕を回してきた。
どうでもいいけどそのセリフは色々と誤解を招きそうだからやめて欲しい。熱っぽさも相まって、主に私の理性がやばい。
「わ、わかったわかった。居てあげるから、もう寝な」
「うん……ありが……と」
間もなく、村紗は私の胸に顔を寄せたまま寝息を立て始めた。
私はふぅと息を吐いて、懐を探る。
取り出したのは、黒い羽根。ぽかぽかと温かさを発するそれを見て、私はくすりと微笑んだ。
雷は止み、雨は落ち着いた音色を奏でている。
思わず村紗の頭を撫でた。その安らかな寝顔に安心しきった私が眠りに落ちるまで、そう長くはかからなかった。
「で、風邪移されちゃったんですか?」
「あはは、お約束だよねー。ぬえはホント期待を裏切らないなぁ」
「でも、風邪は誰かに移すと治るってお燐が言ってたよ。だから、ぬえはムラサの代わりに風邪引いたんだね」
純粋に心配してくれる大ちゃんに対して、村紗と空は心底楽しそうに笑っている。ハハハ、こやつらめ。
「まったく誰のせいだと思って……だいたい、あの後村紗が離してくれなかったからずっと……」
ぼそぼそと呟くように言いかけて、顔を隠すように布団に潜った。
添い寝のことを空と大ちゃんに詳しく聞かれるのはごめんだ。恥ずかしすぎる。
あの日の翌日――つまり今日、前日の不調が嘘だったように村紗はすっかり元気になった。
爽やかに目覚めた村紗の隣では、入れ代わったようにぐったりとした私が眠っていたというわけだ。
「本当はムラサさんのお見舞いに持ってきたんですけど、ぬえさん用になっちゃいましたね」
そう言って苦笑した大ちゃんは、林檎の入った袋を村紗に手渡した。
「おぉー! ありがとう、妖精さん!」
「……二人ともムラサの心配なんかしてくれてありがとね。まさか、次の日に来てくれるとは思わなかった」
「『ムラサの心配なんか』って、何その棘のある言い方。林檎全部食べちゃうよ?」
「うにゅ、わたしも林檎食べる! って言いたいところだけど、そろそろ帰らなきゃ」
そう言ってしょんぼりした様子で立ち上がる空だったが、
「また来るね!」
と、すぐに笑顔を取り戻した。
「私も失礼しますね。ぬえさん、お大事に」
大ちゃんもそれに続く。
「うん。今度こそお礼するから、またね」
私が布団の中から手を振ると、二人は手を振り返して寝室から出ていった。
「良い友達ができたねぇ」
果物包丁で林檎の皮を剥きながら、村紗がにやにやと小憎たらしい笑みを浮かべた。
「……ムラサが散々引っ掻き回してくれたおかげでね。正体不明がアイデンティティの私としては、親しい知り合いが増えるのはあんまり喜ばしいことじゃないんだけど」
「またまたぁ、ホントはまんざらでもないくせに」
「うるさいうるさい! まったく、昨日の殊勝な態度はなんだったのか……」
「覚えてませーん」
笑いながら、村紗は林檎の盛られた器を枕元に置いた。
憮然とした表情のまま林檎に手を伸ばす。一口かじると、みずみずしい食感と蜜の甘さが口に広がった。美味い。
「食欲はあるみたいだね」
「昨日のムラサほど重症じゃないからね。だから、別につきっきりで看病してもらうほどじゃないよ」
「そうはいかん! 昨日の恩を忘れるほど私は薄情じゃないよ! さあ、何なりと申しなさい」
別に胸を張って言うことじゃないと思ったが、得意げな村紗を見てあることを思いついた。
そこまで言うなら昨日の借りを返してもらうとしよう。心の中でほくそ笑んだ。
「ん? 何、どしたの?」
「ちょっとこっち来て」
手招きする私を怪訝な顔で見つめながら、村紗は四つん這いのまま寄ってくる。
村紗が近くまで来たのを見計らった私は、好機とばかりにその腕を掴んで、そのまま布団の中に引きずり込んだ。
「わぷっ……! い、いきなり何を――」
慌てる村紗の腰に問答無用でしがみつく。
「ちょちょ、ちょっと、ぬえ!?」
私は村紗の胸に顔を埋めているので見えないが、声色からして顔を真っ赤にしているに違いない。
私の顔が赤いのだから、そうでないと不公平だ。
「おやすみ、ムラサ」
今度は私の風邪が治るまでこうしてやる。そう心の中で堅く誓った。
『酒に』ではなく『酒で』である。
博麗神社の宴会にて、酒に酔った村紗は何を思ったのか勢い良く酒樽に飛び込み、私が引っ張り上げるまでしばらく浮かんで来なかった。
いつもの村紗ならそんな迂闊な酔い方はしないはずなのだが、そんな惨事が巻き起こったのは私が彼女の酒に『正体不明のタネ』を仕込んだせいである。
村紗には酒が水かお茶あたりに見えていて、味もそう感じられていたのだろう。気づいたときには既に泥酔村紗が出来上がっていた。
「うぅん、ぬえー……ぬえー……」
そんな醜態を晒した村紗は三日後の今、私の目の前でぐったりと寝込んでいる。
単刀直入に言うと、彼女は風邪を引いてしまった。もしかしなくても宴会のせいである。
聖、星、雲山は酷く心配していた。
一輪とナズーリンは「舟幽霊でも風邪を引くのか」と何故か感心していた。
私は黙っていた。
うわ言のように私の名前を呼んでいるのは単に人恋しいからか、はたまた恨めしいからか。
いや、でもタネの件はバレてないはずだから前者だろう。体調崩したときって寂しくなるもんね、わかるわかる。可哀相に。
私が看病役に抜擢されたのは、私以外がそれなりに忙しかったからである。
断じて村紗の側にいてやりたかったから立候補したとかそんなんではない、断じて。
弱っているのをいいことに悪戯してやろうかと思ったぐらいだったが、予想以上に弱っていたので冗談抜きに心配になってしまった。
医者曰く、薬を飲んで一日寝れば良くなるらしいのでまあ大丈夫だろう。
「ぬえー……水ー……」
しばらくして、目を薄ら開けた村紗が弱々しく呟いた。
「水? 喉渇いたの? ちょっと待ってて」
「水……汲んでくる」
虚ろな声でそう言うと、村紗はのろのろと体を起こした。
息が荒く顔が赤い。そして目が死んでる。ますます心配になった。
「いやいいよ、私が持ってくるから」
「……私も行くー」
村紗は立ち上がると、何故か台所とは逆方向にふらふらと歩き出した。私は思わず怪訝な顔をした。
何をしている。その障子の先は中庭しか無いぞ。
「…………あの、ムラサ?」
「行ってきまーす」
「どこにぃ!? 水なら台所にあるよ、ムラサ! 飛ぶなぁ、戻ってこーい!」
靴も履かずにどこかに飛び去ろうとする村紗にしがみついて止めようとする。しかし力比べで勝てるはずもなく、村紗は私を腰にぶら下げたままあっけなく離陸を果たした。
「ねぇ、帰らない? 帰って寝てた方が良いって。ほら曇ってるし、雨降りそうだよ」
真っ直ぐ飛ぶことの出来ない村紗の肩を支えながら、しかし村紗に従って私は飛んでいた。
「だいじょぶ、だいじょぶ。水飲んだら帰るからぁ」
病人というよりまるで酔っ払いだ。もしかしてまだ酔いが残ってたりするのか?
どちらにせよ、早く帰って寝かしつけるべきだ。しかし進行方向を命蓮寺にしようとすると、「やだー」と駄々をこね始める。
不覚にも可愛いと思ってしまったが、めんどくさいという感情の方が大きかった。だいたい1:99くらい。
果てしなく面倒なことになりそうだったので、一応訊いておくことにする。
「ねぇムラサ、今どこに向かってるの?」
「んー……みずうみ」
おい馬鹿やめろ。
湖の水は色んな意味でマズい。味的にも雑菌的にも。
私がそれを忠告しようとしたときには、私たちは既に霧の湖の上空だった。畜生。
湖畔に降り立つと、村紗は「水、水……」と言いながら今にも崩れそうな足取りで湖を目指した。
本格的に可哀相になった。しかし誰かに見られていたら他人の振りをしようと思う。
「あぁっ!」
急に村紗が素っ頓狂な声を上げた。何事かとそちらを見ると、湖に浮かぶ『何か』を指差している。
よくよく見れば、それは小舟だった。しかも、人が二人乗っている。あれは確か――
「ほら凄いでしょ、氷のボート! ちゃんと浮いたよ、大ちゃん!」
「凄いけどチルノちゃん、これお尻が冷たいよ」
「そう? じゃあちょっとだけ飛んでればいいじゃない」
「……それじゃあボートの意味が無いよ」
確か、この近くに住む妖精たちだったか。仲睦まじいその姿に、荒んでいた心が少し癒された。
「こんな天気の日に、楽しそうだねぇ。で、あれがどしたの?」
「私の前で船を漕ぐとは……笑止」
心の癒しタイム終了。妖精逃げてぇぇぇ!
介入する間もなく、村紗が何やら小声でブツブツと呟いた。
直後、妖精たちのボートが水面とともにZUN!とせり上がった。
「な、なになに!?」
混乱する妖精たち。
水面はさらに上昇し、結果ボートを運ぶ高い波となって湖畔に押し寄せた。
主に私たちのいる方向に。
「えぇぇぇぇぇ!?」
私は急いで村紗の手を取り逃げようとした。しかし村紗はその場から動こうとしない。
「ちょっと! このままだと……!」
「私には、あの舟の末路を見届ける義務がある……舟幽霊ムラサとして、ね」
そんないかにも体調不良な顔色の悪さでかっこつけられても。ひたすら不気味としかいいようがない。
「ぎゃああぁぁぁ!!」
叫び声は私と妖精二人の分。
私たちはそのまま波に飲まれ、意識を失った。
「う、うーん……」
何かとんでもなく嫌な夢を見ていた気がする。と思って目を覚ましたら、全身ずぶ濡れで森の中に転がっていた。
わぁい現実だった。
そして寒い。このままだと風邪でも引いてしまいそうだ。
「あの、大丈夫ですか……?」
優しげな声に振り向くと、緑色の髪をした少女が心配そうに覗き込んでいた。
私が呆然としていたのを察してか、少女は付け加えるように言った。
「初めまして。私この辺に住んでる名の無い妖精です」
ようやく思考が追いついた。小舟に乗ってた二人の妖精の、利口そうな方だ。『大ちゃん』と呼ばれてた気がする。
「あ、あぁ、初めまして。私はぬえ。そっちこそ怪我ない? 小舟ごと波にさらわれてたけど」
「ええ。ボートは捨てて、飛んで逃げちゃいました。でも巻き込まれてる人がいたから……心配になって」
なんて良い子だ。怪我をしていなくて本当に良かった。
もし傷の一つでも負わせていたら村紗を人里で引きずり回しの刑に――――ん?
「あのさ、私ともう一人見なかった? 白い水兵服着た……」
私の言葉に、妖精は急にうろたえはじめた。
「あ、一緒に流されちゃってた人のことですよね! えぇと、その人のことでちょっと問題が……」
慌てるように手招きをする妖精。
怪訝な顔をしつつも、一応村紗の安否を確認すべくよいしょと立ち上がった。
濡れ鼠だったせいで気づかなかったが、空からは既に細い雨が降りはじめていた。
「うわぁ雨……めんどくさ」
「ぬえさーん? こっちですー!」
「はーい。今行く」
見つけた村紗は綺麗に閉じ込められていた。
何に? 逆さになったボートという名の氷の棺桶に。
「ムラサぁぁぁ!」
何故こんな奇跡を起こした、神様。
透明の棺の中で虫の息と化している村紗。自業自得ではあるが、病人にこの仕打ちはさすがにあんまりだ。自業自得ではあるが。
「このボート重い上にちょっと地面にめり込んでるみたいで、私一人じゃどうにもできなくて……チルノちゃんはどっか行っちゃったし……」
しょんぼりした様子で妖精は呟いた。
自慢じゃないが私は非力だ。本当なら怪力自慢はその閉じ込められてるバカなのだが。
「……とりあえず二人で持ち上げてみよう」
「はい!」
本当なら断って帰っていいところだよ、妖精さん。
「ダメだ……びくともしない」
駄目元ではあったが、ただ腕が痛くなっただけだった。私はボートの上に腰掛けて溜め息をついた。
私の尻の下では酷い顔色の村紗が弱々しくこちらに視線を向けている。
そして口の動きだけで「白」と言った。私は慌ててボートから降りた。
「うーん、雨降ってるから火を起こすのも無理だし……スペルで吹き飛ばすのはムラサが耐えられるかどうか……」
「あの、私やっぱりチルノちゃんを探してきます。チルノちゃんならなんとか出来ると思うから」
「うん、そうしてくれると助かる。手間かけさせるね」
申し訳なさそうに俯いていた妖精が飛び去ろうとした、そのとき――
ZUZUN!と不穏な地鳴りが響いた。
「な、なになに!?」
妖精がさっきと同じ反応を見せる。デジャヴ。嫌な予感。
考える間もなく、事態は急変した。ボートの真下に地割れが起き始めたのだ。
「――っ! ムラサ、起きて! なんかマズい!」
氷を叩いて必死に呼びかけるが、村紗はぐったりとしたまま反応を見せない。
氷に閉じ込められていたせいで、もはや洒落にならないくらい体調が悪化しているらしい。焦りが募る。
「ムラサ!」
泣きそうな声で叫ぶ。
その瞬間――割れた地面から勢いよく水が吹き出した。
「きゃあぁぁぁ!」
「うわぁぁぁ! 何これ、熱い!」
覆われる視界。そして吹き出す熱湯に飲み込まれる村紗とボート。完全に両者を見失ってしまった。
慌てて逆巻く熱湯の中に飛び込もうとする私を、妖精が引き止めた。
「危ないですよ、ぬえさん!」
「で、でもムラサが!」
思わず取り乱す私。
すると、聞き覚えの無い声が頭上から降ってきた。
「あれ? 誰だこれ? 思わずキャッチしちゃったけど。まぁいいや。温泉を湧かすの、ここであってるかなぁ?」
緊張感のかけらもない声。ハッと上を見上げると、一枚の黒い羽根が落ちてきて、次に人影が降りてきた。
人影は翼を悠然と広げ、私たちの前に降り立った。その腕の中では、村紗が一際小さくなって抱きかかえられている。
「ふいー、やっと出れたと思ったら今日は雨だったのかぁ。あ、こんにちは地上の人! わたし、地獄鴉の霊烏路空!」
そう言って空は艶やかな黒髪と翼をぶるぶるっと振るった。水滴が豪快に散る。
何やら拍子抜けしてしまったが、にこにこしている空と無事な村紗を見て、思わず安堵の溜め息が漏れた。
「こ、こんにちは。私はこの辺に住む名の無い妖精で――種族は『大妖精』と言います」
隣でぽかんとしていた妖精が、我に返ったように返事をした。
それにしても、大妖精だから大ちゃんか。全く関係ないけど。
「あぁ、私はぬえ。えぇと……あなたが抱えてるそれ、私の友達なんだ。引き取るよ」
「ありゃ、そうなの。ぐったりしてるし、何かすごい病気のにおいするし、どうしようかと思っちゃった」
明るい口調で、よくわからないことを言う。
「病気のにおい?」
「あ、うん。友達に病気を操る能力持った子がいるんだ。その子とよく遊んでたら、なんとなくわかるようになった」
言いながら、私に村紗を背負わせる。
「家には動物がたくさんいるから、病気持って帰るとさとり様に怒られちゃう」
妖の類がかかる病は、人間や動物がかかるそれより遥かに強いものらしいから、その心配も当然だろう。
背中の村紗はというと、呼吸以外に身動き一つしない。とりあえず、早いとこ帰って薬を飲ませよう。
と、私が眉をひそめていたせいか、何故か空が急に泣きそうな顔になった。
「あの……もしかして、わたし何か迷惑かけちゃったりした? わたし何をするにも後先考えないから、よくやらかすんだ……」
感情を表すように、翼がわかりやすく垂れ下がった。
「いやぁ、全然。むしろ助かったよ。ちょっと事情があって、空が来てくれなかったら大変だったかもしれない。ね、大ちゃん」
「え、あ、はい! あ、ありがとうございました!」
動揺した結果、何故か深々と頭を下げる大ちゃん。
「大ちゃん」って言ってみたかっただけなんだ、ごめん。
「そう? ならいいんだけど。その病気の子……えぇと、こういうとき何て言うんだっけ……『ご愁傷様』? 違うな…………あ、『お大事に』だ!」
世紀の発明でも思いついたように言って、手をぽんと打つ空。
まだ知り合って間もないが、空があまり賢くないのはわかった。
地面から吹き出す温泉はいつの間にか止まっていた。それを見て思い出したことがある。
「そういや空。温泉がどうとか言ってたけど、何か用事あったんじゃないの?」
「ん? あぁ、それは…………って、あぁぁ! すっかり忘れてた! 東の神社の近くに温泉引いてくれ、って頼まれてたんだ!」
「神社に? 博麗神社のことなら、もっともっと東ですよ」
「えぇぇ……やっぱ地図がないと、勘だけじゃダメかぁ」
「参ったなぁ」と頭を掻く空。
博麗神社とこの森では距離が離れすぎている。というか、適当に地下を掘り進んできたのか。運悪く神社や紅魔館の真下に出てしまっていたら、どうなっていたことか。
私と大ちゃんは目を見合わせて苦笑した。
「それじゃ、私は村紗連れて帰るよ。大ちゃん、空、ホントにありがとね」
「はい。村紗さん、お大事に」
「うんうん、風邪引いたときはあったかくして寝るに限るよ。わたし風邪引いたことないからわかんないけど」
腕を組んで得意げに言い張る空に、「なんだそりゃ」と思わず笑ってしまった。
二人に見送られて命蓮寺を目指そうとしたところでふと思いついて、少し飛んだところでくるりと振り返った。
「二人とも、今度命蓮寺に遊びに来てよ! お礼したいからさ!」
二人は互いに目をぱちくりさせた後、笑顔で手を振ってくれた。
私が二人と別れてすぐ、雨は本降りになった。
「――ああ、もう!」
まるで私が帰路につくのを待っていたかのようで、とても腹立たしい。
大粒の雨の中を全速力で飛んだ。命蓮寺につく頃には雷まで鳴り始める始末だった。
「みんなに見られると厄介だし……中庭から戻ろう」
私たちが居なくなっていたことに聖たちが気づいていてもおかしくはなかったが、寺の中は別段慌ただしくもなかったのできっと大丈夫だろう。
中庭から寝室に戻った私はまず自分の服を脱ぎ捨て、村紗の服も剥ぎ取った。
次に、びしょ濡れの村紗の身体を拭く。
その途中、ふと思った。「この状況こそ誰か見られたらマズいんじゃないか」、と。
何がマズいって、私も裸であることだ。何故服を着ていない、私。痴女か。
慌ててきょろきょろと周りを確認するが、誰かが来る気配もなかったのでホッと息を吐いた。
部屋着に着替え、村紗にも浴衣を着せて布団に寝かした。
ようやく全てが終わった気がして、一気に脱力感が襲って来る。そのまま畳の上にごろんと転がった。
「あー……疲れた……」
見事な厄日だった。
体調を崩した村紗にはあまり関わらない方がいいかもしれない。でも結局放っておけなくなるんだろうなぁ。
「全く手間のかかる……」
ようやく落ち着いた様子の村紗の横顔を見ながら、ぽつりと呟いた。すると、
「ごめん……」
と小声の返事。村紗がまぶたをゆっくりと開いた。
「なんだ、起きてたのか。気にしなくていいっての」
「うーん……気にしようにも、ぼーっとしてて全然記憶がないんだけどさ」
「……あぁ、そう」
「うん……でも、ぬえがずっと一緒にいてくれたのは覚えてる。嬉しかった」
急に恥ずかしくなるようなことを言うな。まだぼーっとしててるのか、そうなのか。
「別に、私は何もしてないよ」
森で村紗を見つけたのは大ちゃんだし、ボートの下敷きになった村紗を助けたのは空だ。
そもそも、波に飲まれたときに私が村紗の手をしっかり掴んでいればあんな惨事にはならなかったんだから。
「それでも、ありがとう」
「……どういたしまして」
「迷惑かけて、ごめん」
「気にするなっつってるのに。あんたそんな律儀な性格だったっけ? 何百年友達やってると思ってんのさ」
それきり、しばしの沈黙があった。雨の降る音だけが寝室に響いている。
照れ臭さでいたたまれなくなり、ガバッと身体を起こして、頭を掻いた。
「ま、面白いもの見れたし、いいよ。ムラサってば、幼児退行してて可愛かったなー。みんなに言いふらしちゃおうかなー」
からかう口調で笑いながら言うと、村紗は布団に潜り込んでそっぽを向いてしまった。
つくづく可愛い奴め。
「あはは、冗談冗談。今日のことは私の心の内に留めといてあげるって。話すとしても空と大ちゃんだ……け……?」
そうして言葉の途中で布団の中を覗き込もうとして――村紗の様子がおかしいことに気がついた。
「ムラサ……?」
小さく縮こまった村紗は、布団の中でガタガタと震えていた。
「ちょっと、ムラサ!?」
「ぬ、ぬえ……」
「何、どうしたの!?」
「さ、寒い……寒いよぉ……」
搾り出すような声でそう言った。
私は跳ねるように立ち上がると、押し入れから新たに布団を引っ張り出した。
それを急いでかけてやるが、村紗は依然として寒気に苦しんでいる。
「どうしよう……どうしよう……!」
みっともなく慌てふためく私。とりあえず、誰かを呼んでくるという案が思いつかない程度には混乱していた。
村紗の息は荒く、肩で呼吸をしている。
うろたえにうろたえた私は、わけもわからず布団の中に潜り込んだ。
そして、小さくなった村紗の背中を、ぎゅっと抱きしめる。
寒気とは裏腹に村紗の身体は火照りきっていて、布団の中は暑いくらいだった。
「ぬえ……何してるの……?」
「……な、なんか、雪山に遭難した人間は体温で暖め合うらしいよ。どっかで見た」
動転しすぎてわけのわからないことを口走ってしまった。何言ってんだ私。何だ雪山って。
相変わらず私に背を向けて震えていた村紗だったが、私の言葉に弱々しく笑ってくれた。
「変なの……」
「……大丈夫? お湯、もらってこようか?」
「行かないで……ぬえ、温かくて気持ちいい……」
村紗はもぞもぞと寝返りをうってこちらを向くと、私の背中に腕を回してきた。
どうでもいいけどそのセリフは色々と誤解を招きそうだからやめて欲しい。熱っぽさも相まって、主に私の理性がやばい。
「わ、わかったわかった。居てあげるから、もう寝な」
「うん……ありが……と」
間もなく、村紗は私の胸に顔を寄せたまま寝息を立て始めた。
私はふぅと息を吐いて、懐を探る。
取り出したのは、黒い羽根。ぽかぽかと温かさを発するそれを見て、私はくすりと微笑んだ。
雷は止み、雨は落ち着いた音色を奏でている。
思わず村紗の頭を撫でた。その安らかな寝顔に安心しきった私が眠りに落ちるまで、そう長くはかからなかった。
「で、風邪移されちゃったんですか?」
「あはは、お約束だよねー。ぬえはホント期待を裏切らないなぁ」
「でも、風邪は誰かに移すと治るってお燐が言ってたよ。だから、ぬえはムラサの代わりに風邪引いたんだね」
純粋に心配してくれる大ちゃんに対して、村紗と空は心底楽しそうに笑っている。ハハハ、こやつらめ。
「まったく誰のせいだと思って……だいたい、あの後村紗が離してくれなかったからずっと……」
ぼそぼそと呟くように言いかけて、顔を隠すように布団に潜った。
添い寝のことを空と大ちゃんに詳しく聞かれるのはごめんだ。恥ずかしすぎる。
あの日の翌日――つまり今日、前日の不調が嘘だったように村紗はすっかり元気になった。
爽やかに目覚めた村紗の隣では、入れ代わったようにぐったりとした私が眠っていたというわけだ。
「本当はムラサさんのお見舞いに持ってきたんですけど、ぬえさん用になっちゃいましたね」
そう言って苦笑した大ちゃんは、林檎の入った袋を村紗に手渡した。
「おぉー! ありがとう、妖精さん!」
「……二人ともムラサの心配なんかしてくれてありがとね。まさか、次の日に来てくれるとは思わなかった」
「『ムラサの心配なんか』って、何その棘のある言い方。林檎全部食べちゃうよ?」
「うにゅ、わたしも林檎食べる! って言いたいところだけど、そろそろ帰らなきゃ」
そう言ってしょんぼりした様子で立ち上がる空だったが、
「また来るね!」
と、すぐに笑顔を取り戻した。
「私も失礼しますね。ぬえさん、お大事に」
大ちゃんもそれに続く。
「うん。今度こそお礼するから、またね」
私が布団の中から手を振ると、二人は手を振り返して寝室から出ていった。
「良い友達ができたねぇ」
果物包丁で林檎の皮を剥きながら、村紗がにやにやと小憎たらしい笑みを浮かべた。
「……ムラサが散々引っ掻き回してくれたおかげでね。正体不明がアイデンティティの私としては、親しい知り合いが増えるのはあんまり喜ばしいことじゃないんだけど」
「またまたぁ、ホントはまんざらでもないくせに」
「うるさいうるさい! まったく、昨日の殊勝な態度はなんだったのか……」
「覚えてませーん」
笑いながら、村紗は林檎の盛られた器を枕元に置いた。
憮然とした表情のまま林檎に手を伸ばす。一口かじると、みずみずしい食感と蜜の甘さが口に広がった。美味い。
「食欲はあるみたいだね」
「昨日のムラサほど重症じゃないからね。だから、別につきっきりで看病してもらうほどじゃないよ」
「そうはいかん! 昨日の恩を忘れるほど私は薄情じゃないよ! さあ、何なりと申しなさい」
別に胸を張って言うことじゃないと思ったが、得意げな村紗を見てあることを思いついた。
そこまで言うなら昨日の借りを返してもらうとしよう。心の中でほくそ笑んだ。
「ん? 何、どしたの?」
「ちょっとこっち来て」
手招きする私を怪訝な顔で見つめながら、村紗は四つん這いのまま寄ってくる。
村紗が近くまで来たのを見計らった私は、好機とばかりにその腕を掴んで、そのまま布団の中に引きずり込んだ。
「わぷっ……! い、いきなり何を――」
慌てる村紗の腰に問答無用でしがみつく。
「ちょちょ、ちょっと、ぬえ!?」
私は村紗の胸に顔を埋めているので見えないが、声色からして顔を真っ赤にしているに違いない。
私の顔が赤いのだから、そうでないと不公平だ。
「おやすみ、ムラサ」
今度は私の風邪が治るまでこうしてやる。そう心の中で堅く誓った。
そしてもっといちゃいちゃさせていいんですよ?
村ぬえ大好物ですが何か?
四人の登場人物達がそれぞれイイ味出していますね。微笑ましくそして可愛らしい。
全員に言える事なのですが、特に水蜜。まだまだ底を見せていない印象、君の魅力をもっと拝ませてくれ。
てな訳で次回作品に期待です。
もちろん彼女達以外のキャラがメインのお話でも大歓迎ですよ。
だいちゃんもおくうもみんなかわいいなあ!
ムラぬえは流行るべきです。
よいムラぬえでした。
もっとムラぬえ書いてもいいんですよ?