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それは、冬の追想。
少女を夢見てまどろむ大地の包容者の、知られざる物語(ロマン)――
***
気がつくと、私は幻想郷の大地の一角にしっとりと積もっていた。
ひんやりした空気と、ひりっと私の表面を射し通す日光に、思考が鮮明になってくる。
一年の大半を散漫なまま過ごす私の自我は、秋から冬に移り変わる頃になると、
はるか空の彼方で凝縮され、雲の中で少しずつ大きくなり、
やがてはっきりと核を持つ確かなものとなる。
そうして明瞭な意識を得た途端、上空での緩やかな浮遊は終わり、
急速に地上へと舞い降りる。
急速ではあるが、しかしそのひとときは何度迎えても心地の良いものだ。
空を舞い弾幕をかいくぐる少女たちを悠然と眺めながら、
しかし彼女たちに引けを取らない優雅さをもって、できるだけ緩やかに舞い降りてゆく。
その瞬間だけは、私も美しき幻想の化身となったように感じられて誇らしくなる。
実際きっとその瞬間こそが、私が確たる自我を保っていられる季節の中で、
最も輝き、美しく魅せることのできる瞬間かもしれない。
だからこそ、足を止めて、撃つ手を止めて、もっと私をよく見てほしい。
幻想の地に降る雪は、今年もこんなに綺麗だって、感じてもらいたい。
やがて地上にしとやかに降り立つと、短い魅せ場は幕を閉じ、束の間の陶酔も余韻を残してすぐに消える。
だが、そこに悲しみは起こらない。むしろ、地上に降りての楽しみは、それからにある。
冬の寒さにも臆さずに弾幕ごっこに興じる幻想郷の少女たち。
鈴を転がす笑い声。色とりどりの弾。風に靡く髪と、好戦的な光を湛える大きな瞳。
それらを地上からそっと見上げて観賞するのが私の密やかなる楽しみなのだ。
少女たちが身を包む個性的で装飾的な意匠の装いは、
空を飛ぶというのにふんわりと広がったスカートを有するものが多く、
こうして下から見上げると中身が丸見えであるのだが、誰も気にしている風ではない。
それもそのはず、そうしたスカートを穿く少女たちは大抵その下に特有の下着を着用しているのだ。
いわゆるドロワーズである。
これがまた、なかなかに可愛らしい。
白地や生成り地のものが多いが、殆どの場合その裾にはフリルやレースやリボンといった装飾が施してあり、
明らかに『見られること』を前提としたつくりのように見える。
つまり、このドロワーズを着用の上飛行する少女たちには、たとえスカートが風にはためき下から中身が丸見えでも、
『どうせ見えているのはドロワーズだけ』というある種の安心感があるのかもしれない。
ドロワーズといえど下着の一種が丸見えだというのに。
だが、それも幻想郷には欠かせない景観。私にとってもかけがえのない眼福。指摘するのは無粋というものだろう。
特に、私の真上で戦ったり往来したりする少女たちのドロワーズが、
私の雪肌がはね返した光を受けて下から白く輝くさまは、たとえようもなく美しい。
その彩り豊かな衣服も鮮やかに照り映え、
空を飛び回るわりには白さを保つみずみずしい頬の薄紅色までもがきめ細やかに照らし出される。
私の表面から射する光は、幻想の少女たちをいっそう美しく見せることができるようだ。
だから私は、純白たる雪でいられるこの季節が一番好きだ。
少女たちの観賞が密やかなる楽しみだといっても、べつにいやらしい意味はない。
それは下心というよりも、むしろ憧憬に近い。
彼女たちを観ながら、私は夢見るのだ。
ああいつか、いつか私もあのような少女になれたら。
いつか私も少女の姿をとり、ふんわりしたスカートとドロワーズを穿き、
あんな風に空を飛び、彼女たちと笑いあいながら、弾幕ごっこに興じることができるのか。
そんな日を夢見ながら、思索に耽るのは実に楽しい。
そも思索をするなんて、もはやただの雪ではないのではないかと自分でも思うが、
それは逆に言えば、少女と化せる日も近いということではないのかと、前向きに考えてもいるのだ。
妖怪に近しい存在になりつつあるのだとしても、べつにかまわない。
しかしまだ、こうしてまともに思索に耽ることができるのは、今のところ冬だけなのだ。
他の暖かい季節では、自我がどうしても散漫になってしまう。
雨になれるときもあるが、雫の状態ではまだまだ自我は流動的である。
虚ろな自我では、思索など雲を掴むような感覚なのだ。記憶だってほとんどない。
やはりそれなりに意識もはっきりと思索ができる状態でいられるのは、結晶が寄り集まる雪であるときだけだ。
結晶は核を持たせ、自我を強固にするから。
それでも私の意識は常にはっきりしているわけではない。
私に確かな自我を与えているのは雪の結晶の集合であり、
今も私の雪肌を射し通す日光の熱がそれをじわじわと溶かしていくのだ。
自我は磨り減らされ、繋ぎ止められている意識は揺らぎ、結果私は幾度となくまどろみの淵へと堕ちる。
少女たちをいっそう美しく見せ、そして観るというのはそういうことだ。
自我をまたあの散漫な状態に戻す恐れのある、命がけの観賞。
けれどそれは不可避の宿命。世界の循環、自然の摂理なのだから。
ならばせめて自我の確固としている間、少女たちの麗姿をできるだけ記憶にとどめておきたいと思う。
そう、自分がこの幻想郷の雪でいられる冬の間、ずっと。
そうしていられるときが一番短かった冬は、去年。
紅白の装束に身を包む巫女の少女が、まだ舞い降りている最中の私に向かってつと指を伸ばしたのである。
それはまったくの気まぐれだったのだろう。
あるいは私の本望どおり、舞い降りる私の美しさに魅了されてくれたのかもしれない。
その温かな掌の上で、少女の透き通った瞳に見守られながら、私の意識はあっという間に果てた。
最期に聞いた言葉は、「あら、雪だわ。もうそんな季節なのね」
あまりに劇的で、唐突で、刹那すぎる、けれど至福の冬だった。
たまにそうした劇的な冬は訪れるが、大抵の場合はもっと穏やかに過ぎる。
雪とは、地上に舞い降りてしまえば解けるまでの命。
その間雪かきにさらわれたり、いたずらな童や妖精の手慰みにされたりしない限りは、
いたって何もすることはないし、特別なことも起こらない。
せいぜいこうして思索に耽るか、まどろみの果てに意識を手放すくらいのことしかできない。
そもそも他に能動的な行動を取るだけの満足な身体もありはしないのだから。
しかしそのことで不便や退屈を感じたりしたことはない。
むしろなかなか悠々自適なものである。
ただひとつ難を言うとするなら、
やはりこの身体では、かの少女たちと語らったり触れ合ったりすることもままならないということくらいか。
そう、大抵の少女たちは、私の上で生き生きと戦ったり往来したりすることはあっても、
私そのものを気にかけてくれる者はなかなかいない。
別にそれでもいいのだ。私は彼女たちを人知れず観賞するだけでも満足なのだ。少し寂しい気はしなくもないけれど。それでも彼女たちはじゅうぶん美しい。だからこそ、いずれはちゃんと向き合って、触れ合ってみたい気もまたする。
そこに理想態(ロマン)を見出す為に――私はその冬も静かに少女たちを観賞する。
自然に近しい妖精たちは、他の有象無象よりは私を気にしてくれそうだけど、
どちらかというと自分たちのいたずらや小さな冒険に夢中で。
ちなみに冷気を操ることで有名な、かの無邪気な氷精が近くまでやってくると、
それだけで私の意識はなぜかはっきりと冴え渡ってくる。
彼女たちを観る貴重な時間をまどろみから救ってくれる彼女には、いつも密かに感謝している。
氷精の少女の遊び相手になってあげたりすることも多い、淡い髪の妖怪少女は、実は同士なのではないかと思っている。
しばしば私のことを、その雪のように透き通る瞳で見つめては、
「今年の雪の結晶は、例年より少しだけ大きいかしら」
などと言って微笑む。
その大福のような頬が印象的な、ふくよかな冬色の少女は、私のことをどことなく気にかけてくれる貴重な存在だ。
もちろん、明確に会話したりというようなことはまだないが。
私のことをはっきりと認識しているような気がする、といえばもう一人いる。
紺色のかっちりとした上着を着込み、他の少女たちに比べると短めのスカートの、
くたりと折れた長い耳が印象的な兎の少女だ。
彼女とて例外でなく私が観賞していると、いつもぴたりと立ち止まり、こちらを振り返るのだ。
薄紫色の長い髪がさらりと揺れ、血のように紅い瞳が鮮やかに、じっと私を見据える。
その姿は正に見返り美人と呼ぶにふさわしい。
そうしてしばらく私を凝視してから、怪訝そうにその場を立ち去る。
彼女は狂気を操ることができるらしく、ゆえに波長を読み取ることもできるそうだ。
私の思念も波のようだとすれば、彼女が振り返るのは、ひょっとするとそれを感じ取っているからかもしれない。
それで私の思索の内容までもが知られているのかどうか、そこまでは定かではなかった。
ひとつだけ確かなのは、彼女に見つめられた後はいつも、なぜだか景色がぼんやりとして、時にはぐにゃりと歪んで見えるのだ。あるいは、他の少女たちも、いつも以上にたいそう魅力的に輝いて見える。
それはまどろみのせいではなさそうだった。
空を最もすごい速さで翔る天狗たちも、かの兎以上に、それはそれは短いスカートを穿いているように見える。
しかし、それは上空の彼女たちを見た時の印象であって、
地上まで降りてくると、思ったよりも丈が長いことに気づかされる。少なくとも膝まではある。
断じてあんな、太腿の付け根が今にも見えそうな長さではない。
その中のとある天狗は実に取材熱心で、こんな雪深い冬でもそこらの少女たちを挑発しては、
怒涛のように浴びせられる弾幕をひょいひょいかわしながら撮影に励む。
とはいっても一部始終を目撃している私からすると、大丈夫かと声をかけたくなるくらい、
何度も何度も被弾して、こっぴどくぼろぼろな有様になっているのに、
それでも何度も起き上がっては同じ弾幕に立ち向かっていく。
その不屈の精神には、なんとも感じ入るものがある。
普段尊大な態度を取ることの多い彼女たちだが、それはこうした無様な醜態を晒すことすら厭わない、たゆまぬ努力が裏打ちしているのかもしれない。
やっと撮影に成功を収めたその天狗は満足そうに微笑むと、そのカメラとフィルムを大切そうに脇に抱え、
それまでの苦行が嘘のように軽やかに空中に舞い上がり、そのままひらりと空の彼方へ消えていった。
上空まで飛び立った彼女のスカートは、やはりきわめて短く見えたが、
不思議とその中身は風の影響か何なのか全く見えず、ドロワーズを穿いているのかどうかすらも判別できなかった。
まどろみの中、時折浮かぶのは山吹色の上着と緑のスカートのコントラストが鮮やかな少女だ。
その鮮烈なイメージにはっとして意識を取り戻すと、次の瞬間にはもうどこかに消えている。
彼女は何者なのだろう。ゆっくり観賞する間もなく、いつも私の意識の継ぎ目をのらりくらりとすり抜けてゆく。
兎耳の少女もいれば、鼠耳の少女もいる。
いつも尻尾から籠をぶら下げており、両手に持ったロッドの先端がせわしなく動いて、
その度に少女の瞳もきょろきょろと動く。
怜悧そうな、鋭い瞳だった。
そんな彼女が時折立ち止まり、尻尾の籠の中を覗いては見せる柔和な表情が印象的だった。
守るべき者の為に戦っている、そんな気がした。
ちなみにそんな彼女が私に見向きすることは、もちろんない。
こうしてまどろみを繰り返しながら夢うつつに観た少女たちの姿は、そのせいか、いつもどこか現実味を欠いて見えた。
それはここが幻想郷だからなのかもしれないが、しかしそれだけでは言い表せないような、
どことない非実在性を孕んでいる気がしたのだ。
一言で言うとするならば、そう、美しすぎるのだ。
それは清浄さにも似ており、イデアのような完全無欠性が秘められている。
それでも彼女たちは生き生きとし、ここに在ることをめいいっぱい謳歌しているようだったが、
反面、触れれば霞となって消えてしまうような、そんな儚さと危うさがあった。
私が晴れて少女となった日、そんな彼女たちと触れ合っても大丈夫なのだろうか。
今にも自我の薄れそうな雪でありながら、そんな心配もどうかと思ったが、それは度外視できない気がかりであった。
むしろ私こそ、触れられれば解けて虚ろになる、そんな儚い存在。
そんな私の方こそ、彼女たちと触れ合っても大丈夫なのだろうか。
お互いに、今のままではきっと何かが欠落している。
いたいけで、無邪気で、可憐で、だけどどこか奥深さのある彼女たちは、
悲しいくらい幻想的で美しく、そして実存性(リアル)が足りなかった。
彼女たちを日々夢見て、憧憬する私が、
しかしそこに私にとっての理想態(ロマン)を見出せずにいるのも、それゆえなのか。
私はきっと、それを求めている。それも、切望と呼んでもいいくらいに。
今年もついに理想態(ロマン)を見出せないまま、春告精がおめでたい色彩の弾幕をばらまき始める時節となった。
私にはまどろみの頻度と長さが日ごとに増え、そろそろ自我の散漫となるときが近づいているのを感じる。
「おや、なごり雪ですかね。もうそろそろ春も近いんですけど」
それは、私をさくりと踏みしめた現人神の起こした奇跡だったのか。
私の意識は緩やかに蕩け、大地の枕へと沈んでゆく。
いつものまどろみとは、なんだか違う感覚だった。かと言って、自我が虚ろになっていく様子でもない。
心地良くて、夢見るようで、懐かしいようで、望んでいたようで。
どこか、私が包む地表さえも通り越し、見えない囲いをふわりと超えたような気がした。
***
気がつくと、私はやはり積雪だった。慣れ親しんだ、結晶の身体。
しかし何かが決定的に違っていた。
いつの間にか空はすっかり暗くなっていたが、まどろんでいる間に夜になってしまうのはままあることだ。
空からは、雪が次々と舞い降りてくる。やがて短い魅せ場を終え、すぐに私と同化する同胞たち。
そのせいか、意識が次第にはっきりしてくる。いつもと微妙に違う感触だったけれど。
春が近づいて、これほど意識が明瞭になるまで雪が降るのは久々のことだと気づく。
寒の戻りなのかなとなんとなく思い、何気なく周囲を見渡す。
そこでようやく、私を包む違和感の正体に気がついた。
うまく言えないが、どことなく、“空気”が違うのだ。
あの幻想郷全体を包む、きりりと冷え込む冬でも暢気でゆるい空気とは、何かが違う。
どこか断定的で性急で、不安で、薄汚れていて、それでもどこかにわずかな懐かしさを残す、とても異質な空気。
よく見ると周囲の景色も見覚えのない、馴染みのない風情のものだ。
角ばった感じと区切って走る線が異様に際立っている。
真っ直ぐで細長いものがたくさん、空に向かって高くそびえている。
雪に埋もれてか、それらの造形に隠れてか、緑は全く見えなかった。
いつの間にか、知らない場所にでも来てしまったのだろうか。
この閉塞した空気に中てられてか、私は一抹の不安に襲われた。
ふいにどこからか、男の呟きのような声が聞こえてきた。
見ると、少しだけ離れた雪道の上にうずくまる影があった。
こんな夜半に雪深い道を出歩くとは、奇妙な人間である。確かにこの一帯は人の文明の香りがとてつもなくするが。
なんとなく興味を引かれた私は、彼の付近まで意識を移動させてみた。
基本的に、自分と接触する雪の範囲なら、私は自由に視点や意識を動かすことができるのだ。
近くで見ると、彼は小太りな男だった。膝を突き、しきりにぺたぺたと周囲の雪を触っているが、見慣れぬ服装である。
喩えるなら、あの波長を操る兎の格好に近いが、下はズボンである。
本来はやたらとかっちりしたデザインのようだが、やや着崩れているように見えた。
その理由はすぐに判った。彼の真下の雪にかかる吐息が酒臭いのだ。彼の頬も雪明りに赤く見えた。
この男、かなり酔っている。
そして先程からしきりに同じ言葉を繰り返していることに気づいた。
「めがね、めがね……」
めがね? ああそうか、眼鏡か。確か、古道具屋の店主が私の上を通るとき、隣を歩く氷精が訊いていた気がする。
『ねえテンシュさん、前から気になってたんだけどさぁ、その目のところにかけてる変なヤツって何~?』
『これは眼鏡というものだ。遠くや近くを見やすくする為に、見えづらい距離の光を集めて目の前まで持ってきてくれる鏡なんだ。だからこれをかけると目で見えるものはすべてよく見えるようになるが、目に見えないものは全然視えない。目に見えない光はこの鏡では集められないからね。だから目に見えないものを視るときは眼鏡を外した方が……』
つまり、そのときの店主の話からするに、この男はきっと目が遠くか近くかをよく見れないので眼鏡をかけている。
しかしその顔に眼鏡が見当たらないところを見ると、きっと失くしたのだろう。それで捜している、と。
ではその眼鏡はどこにあるのだろうと考えて、私はすぐに見つけることができた。
別に彼の頭の上にあったからではない。
彼からわずかに離れた雪の上、しかしごく至近距離に硬く無機質な物体の感触がした。
それはわずかに雪を被っていたが、そのお陰で私にはその形状が手にとるように判った。
確かに、あの店主の顔にあったものと似た形をしている。きっと、捜している眼鏡はこれだ。
しかし、当の男はまだ気づいていないらしい。何度か眼鏡のある方を振り返っているのに、手は見当違いの地面ばかり触れているし、視線はちっとも眼鏡の方を向かない。
やはり、目が見えていないから、眼鏡を視認することができないのだろうか。
彼は延々と眼鏡を捜す不毛な動作を続けている。捜し物はすぐそこにあるというのに。
彼の両手は私の身体ほど、触覚の精度は良くないらしかった。
私はいよいよもどかしくなってきた。
きっと眼鏡を既に見つけている私が彼に場所を教えてあげられれば、すぐに問題は解決する。けれどどうやって?
私は積雪だ。自分の上に落ちているものを鮮明に知覚することはできても、それを彼に伝える術はない。
口がないし、声もないのだから。まして手渡すことなんて。
今ほど、自由に動く身体を持っていないことが悔やまれる瞬間はなかった。
せめて――せめて、彼に眼鏡の在り処を伝える“口”があれば。眼鏡を拾って渡す“手”があれば。
この身体が、自由に動けば――
すると、どうだろう。突然、彼の眼鏡の落ちている辺りの雪が盛り上がった。それは次第に人間の手の形を取って、掌に眼鏡を載せた格好になる。
私は驚愕した。そしてひどく歓喜した。
しかしこのままでは、やはり彼には渡せない。もっと、もっと自由に動く身体を。私はできるだけ鮮明にイメージした。
みるみる私の視点が高くなってゆく。頭、首、肩、腕、胴、腰、脚――そんな風に自分の身体がくびれて雪の上に形をなすのを私は感じ取った。眼鏡を載せたあの手は右側にあった。
音無き一連のその変化に、男はまだ気づかない。私は満足して微笑みの弧を口元に描いた。これで、渡せる――
一歩、男へと踏み出す。それはぎこちないながらも、ごく自然と身についた動作のように思えた。
さらに一歩踏み出す。男の前に立つ。
ふいに彼の捜し回る手が私の足に触れた。ぴくりと一瞬その肩が震え、ゆっくりこちらへと顔を上げる。
どうやら気配にも気づいたらしい。しかし視線は定まらず、まだ私の顔を捉えてはいない。
もう一声だ。そう、もう一声。何か声をかけよう。今の私には口もある、はず。
次の瞬間、突然彼の焦点がぴたりと合った。私が声をかけたかかけないかのうちに。
そのまま彼の動きが硬直したように止まる。
どうしたのだろう。私の声に反応したのか。いや、そもそも私は声を発したか。
発していなかったとしたら、どうやってそんなに正確に彼の目は私の顔を捉えている?
いずれにしても、彼が今では確実に私を認識していることに変わりはなさそうだった。
私は戸惑いながらも、彼の手の片方を左手でやさしく掴む。
再びぴくりと揺れる男の肩。ひょっとすると冷たいのだろうか。なるほど私は雪だから。
その手をぱたんと裏返し、その上に右手の眼鏡を載せてやった。
すると突然、男はがたがたと震え始めた。寒さに震えているという様子ではなかった。
なぜなら、私の顔を捉えて逸らさないその目が、いつの間にか大きく見開かれていたからだ。
おかしい、彼はまだ私の渡した眼鏡をかけていないはず。
先程から思っていたが、眼鏡を自力で捜し当てることもできないほど目の悪い彼が、
なぜ突然私に焦点を合わせることができたのか。
しかも今の様子はまるで、私のことがはっきり見えているかのようだ。
ふいに「ひっ」という音が彼の喉から漏れた。そのまま盛大に尻餅をつく。
私はその時はじめて、怖がられていることに気がついた。
せっかく人の姿を取って雪の上へと出たのに、ちょっとショックだった。
あまり可愛く見えないのだろうか。それとも単に、雪が人の姿をしているのが怖いのだろうか。
どちらにしても嬉しい話ではなかった。
なんだか意気消沈し、私は再び雪の地面へと潜った。というか、元の積雪と同化しただけだ。
その途端、また「ひいっ」という悲鳴が男の口から出た。怪奇でも目撃したかのようにこちらをまじまじと見ている。
ひょっとすると、ただでさえ人の姿を取った雪が自分に眼鏡を手渡しただけでも恐怖なのに、
その雪人間が再び地面に潜って何事もなかったかのような雪景色に戻ったからだろうか。それは確かに怪奇だ。
そんなことを考えていると、ひたすら震えていた男はいきなりがばっと立ち上がった。
その拍子に渡してあげた眼鏡を取り落としたが、それすら気にすることなく、よろめきながらも一目散に逃げていった。
なんだか微妙な気分だ。
結局、渡してあげた眼鏡はまた雪の上。
しかし、あれは大事なものではないのだろうか。ないと目が見えなくて困るのではなかったのか。
それに答えるように、遠くから何度か雪の上にすっ転ぶ感触が伝わってきた。やっぱり足元がよく見えないのか。
しかし、あの男の恐慌状態といい、自分の落ち込み具合といい、
もう一度眼鏡を拾って渡しに行ってあげる気にはならなかった。
とりあえず目が見えないなりに脇目もふらず走っていったところを見ると、
別に眼鏡がなくても案外困らないのかもしれなかった。
そういえば、先程の彼は結局どうして、眼鏡もかけずに私に焦点を合わせることができたのか。
きっと、目がよく見えない人ほど、見えないものがよく視えるようになるのかもしれない。
そう考えると悪い気はしなかった。
私とて幻想の化身だ。怖がられたのはともかく、そんな私を視てくれたのなら、それは認められたということになる。
そう、生まれて初めて自由な身体を得た、私の姿を。
きっと可愛い少女の姿に違いない。夢にまで見た少女の身体。
嬉しくなって、私はもう一度雪の上に身体を形成した。今度は緩やかながらもわりとすんなりできた。
自分で見ることはちょっとできそうにないが、わりと上背があってふくよかな気がした。
長身の少女か。本当はもっと小柄な方が良かったが、まあ悪くはない。
大柄な少女でも魅力的な子はたくさんいる。ああいう風になれれば良い。
ふくよかなところからすると、やはり私はあの冬の妖怪少女と同類の存在なのだろうか。
彼女ももとは私のような雪の結晶だったりして。そうやって考えると、夢が広がる。
ふと、雪の上に転がる、先程男が取り落としていった眼鏡を手に取った。
縁の黒い、細めの眼鏡だった。
自分に似合うかどうかは判らなかったが、ここに置いていくよりは、使ってあげた方が道具もきっと嬉しいはずだ。
そう思って、店主のかけていた様を思い出しながら、おもむろにかけてみた。
ふいに、世界が変わった。
なんだろう。心なしかかける前よりも視界が鮮明でなくなっているのに、
もともとかけていたかのように、しっくり馴染んでくる。
初めて、目を目として使っているような感覚だった。
ではいったい、今までの視界は何だったのだろう。きっとそれは、雪の知覚の一部に過ぎなかったのだと思う。
視覚とは本来、こういうものだ。
目で見て認識するもの。断じて雪の身体全体で捉えるものではないのだ。
私は大いに納得してから、足元に転がるもう一つのアイテムに気がついた。
黒い、鞄のようだった。
先程は眼鏡と男の挙動にばかり集中していたから見落としていた。
それもこの眼鏡を通して見れば、もはや見落とすこともない。はっきりしっかり捉えられる。
雪の知覚というのは、ときに曖昧すぎて困る。
もともと多くの時間をまどろんで過ごすのだから、仕方ないのかもしれないが。
しかし、この眼鏡の視覚はそんなまどろみとは無縁だ。
しんしん降り続く雪もあいまって、私の意識はいつにないくらい冴え渡っていた。
さて、この鞄も男が忘れていったものなのだろうか。今となっては判らない。
さすがのこの視界でも、そこまでを見抜くことはできなかった。
それも仕方のないことだ。眼鏡は形あるものを見ることはできても、見えないものを視ることはできないのだから。
だが、そっちの鞄の方は、なんとなく拾っていく気にはならなかった。
少女である自分には、あまりにも無骨すぎるデザインで不似合いな気がしたからだ。
きっとこういうのは、男の人が持つのが似合うのだと思う。
同じ色のやたらとかっちりとした服装の、そう、ちょうど先程の男のような人が持つのが。
しかし、男は本当にそんな格好をしていたか。
月の兎に似た格好などと思ったが、小太りな男があんな細身な上着を着られるはずがない。
雪の曖昧な視界で捉えていた映像に、私は疑問を抱き始めていた。
今のこの眼鏡の視界に比べれば、あれはあまりにも、不確かすぎる。
そうしてその視界に慣れてくる頃には、その眼鏡が自分に似合うかどうかなどという瑣末な思考はすっかりどこかに消え去ってしまった。
一歩一歩、雪――つまり先程まで同化していた自分自身――を踏みしめながら歩く。
ああ、雪とはこんな感触がするのか。いつも雪としての感触でものを知覚していたから知る由もなかった。
あの古道具屋の店主や、氷精や、他のさまざまな少女たちも、こんな感触を味わいながら私の上を往来していたのか。
もっとも今の私は素足だから、靴を履いた彼女たちとはちょっと感覚が違うのかもしれないが。
だいたい私は雪そのものである。素足で雪の上を歩こうと、別に冷たさも寒さも感じない。
とはいえ、私は今きっと少女の姿を取っているのだから、
これからも少女として生きる者のたしなみとして、やはり靴と靴下くらいは履くべきかもしれない。
よく考えたら、しかも今の私は服すら着ていない。一糸も纏っていない。それも乙女として、やはりどうかと思う。
靴と靴下を履いたら、それからちゃんと服を着よう。
あの少女たちに引けを取らないくらい、とびきり可愛くて、こてこてで、ひらひらな服を。
そしてもちろん、ふんわりスカートとドロワーズを。
そこまで考えた時、ふいに向こうから人影が近づいて来るのが見えた。
途端に私は羞恥に襲われる。先程は一糸纏わぬこの姿で、あの男の前に出て行ってしまったのだ。
今考えると顔から火が出る思いだ。
乙女としてあるまじき行為。そりゃ、あの男も硬直して震え上がるわけだ。ちょっと違うとは思うが。
今そしてまた、誰かの前に裸体を晒そうとしているのだ。
二度までも、そのような破廉恥な真似はできない。
しかし人影はどんどん近づいてくる。このままでは裸であるところが見られてしまう。
慌てた私は、とりあえず元の雪の中へと潜った。
そのとき眼鏡を外さなかったので、例の眼鏡は雪の奥深くに埋もれた形となる。
まあ、私にとっては大した問題にはならない。
だが、わりと問題になった。雪の奥深くは白い闇が広がるばかりでちっともよく見えない。
あることに思い至り、私は雪としての知覚に視界を切り替えた。
あのまどろみの視覚が戻って来る。けれどしっかり見える。
なんだ、簡単なことだった。眼鏡に頼りすぎるのは良くない。
人影はひとつ。しかしまだ遠目にも関わらず、私にはそれが少女であることがすぐに判った。
冬の間、ずっと大地を包容し、まどろみながらも常に少女を観てきた私が見間違えるはずもない。
その未成熟で儚げな、あどけなくて危うげな印象は、確実に少女だ。
しかし、この時分に少女。それも一人きりでこんな雪深い夜道を歩くのは、それこそ危険である。
先程の男以上に、これはいよいよもって奇妙だ。
いったいこの界隈はどうなっているのだ。こんな夜遅くに人間が一人で出歩くのが普通だとでもいうのか。
私は注意深く彼女を見守ることにした。
少女が近づくにつれて、次第に彼女の足取りの感触が鮮明に伝わってくる。
革靴だ。先程の男も革靴だった気がするが、こちらはもっと細身だ。実に少女らしい形状の靴といえる。
その硬質な踵がとらえどころのない雪を、しかし鋭く抉るように踏みしめてくる。
その感触は甘美だった。
そういえば私は、少女の観賞と同じくらい、少女の往来が好きだったことを思い出す。
そう、私を踏みしめていくあの靴の感触が。
彼女たちの中には、これと同じ靴を履いていた者もかなりいる。
もっと柔らかい、ふわふわの靴を履いていた者もいるが、あれもあれで気持ちが良い。
どちらも捨てがたい感触だ。
足取りの感触に酔っていると、少女は至近距離まで近づいてきていた。
その服装がはっきりと雪明りに照らし出される。
第一印象は、かなり拍子抜けだった。
私の知っているような幻想郷の少女たちの、あんな華美な装いではなかったからだ。
それでも小綺麗にまとまっている。やはり少女は、どんな格好をしても絵になるのか。
それは今度こそ、あの狂気の兎の装いにそっくりだった。
ただ決定的に違うのは、その下半身。
あんなフレアスカートではない。上半身の上着と同じ紺色の――腰巻かと思うくらいの短さのひだのある何かであった。
とてもそれがスカートには見えなかった。百歩譲ってスカートだとしても短すぎる。
あんなに太腿の大半が露出して、しかも脚の付け根が見えるかすれすれの丈なんて。天狗のでさえそこまで短くはない。
夜の雪道を歩くにはあまりにも寒そうな下半身だった。
その腰巻みたいなものから伸びたすらっとした脚は、どう見ても生脚だったから。
しかしそれでも少女は顔色ひとつ変えずにとことこと歩みを続ける。
先程まで一糸纏わぬ姿で雪の上にいた私が言うのもなんだが、びっくりの耐寒性である。
その肩には鞄がかかっていた。先程私が雪の上で見つけたそれに比べれば、もう少し愛嬌のあるデザインだった。
しかし、どことなく少女らしさは感じても、今ひとつ可愛さが足りないような気がした。
醸し出される機能美も、ぶら下がったぬいぐるみのような装飾品で台無しだった。
でも、可愛かった。鞄にぬいぐるみなんて可愛い。
その少女が、いよいよ私の真上に来る。
靴裏の感触がひときわ大きくなる。少女が私の視界をまたぐその瞬間――
私は、見てしまった。
少女の腰巻の中を。
あの月兎ですら穿いているドロワーズを穿いていない、しかしその代わりにそこに在る、シンプルすぎるその布地を。
瞬間、私の中に電流が走った。
もちろんその電流は精神的なものだったので、私の上を歩く少女が感電することはなかったが、
しかしそれは衝撃的だった。
これだ、という閃きは叫びにも似ていて。
嗚呼、そこに私の求めていた理想態(ロマン)はあった――!
気がつくと、私は再び雪の上に身体を形成していた。
雪深く埋もれていた眼鏡も、しっかり着用して。
どんどん遠ざかる少女の背中。追いかけなければと自然に足が前に出る。
雪でできた私の素足は雪の上でどんなに急いでも足音を立てない。
身体を持った今の私に鼓動があるとしたら、それは早鐘のようにどんどん速くなってきているはずだ。
今の私を突き動かしているのは、直感にも似た衝動だった。
それも激しく、熱く、切実で、甘やかで、祈りにも似た稲妻のように私の身体を駆け抜けてゆく。
早く追いつきたい。早くその背に手を伸ばして。早く追い求めていたそれを――
眼前まで近づいた少女の背中に、ふいに冷静になる。
乱暴は良くない。相手は清らかで繊細な少女なのだ。あくまでもジェントルに、接触を図るべきだ。
そのジェントルな接触の図り方に、一瞬躊躇した。どんな接触の図り方が理想的なのだろう。
優しくその肩に手を置けば良いのか。いや、いきなり触れるのはさすがにぶしつけだろう。やはり声をかけるのが良いんじゃないか。けど何て? 「お嬢さん」? 「あの、すみません」? 「もしもしそこの……」
考えるのももどかしく、気づけば私は声をかけていた。
何と言ったのか判らない。きっと前述の言葉がないまぜになった、支離滅裂な内容だったかもしれない。
いやそもそも、声をかけたのかどうかすら私には判然としない。
それでも、前を歩いていた少女はその足を止めた。私の声は、届いたのだ。
そして振り返る。さらりと美しく髪が揺れ、あの見返り美人の兎を彷彿とさせる――
ふわりと、その御髪から芳香が立ち上った。
それは、実存性(リアル)を孕んだ確かなる理想態(ロマン)。
私の中で、ついに何かが弾け飛んだ。
少女の悲鳴に我に返る。
雪はあらゆる音を吸収する。だから辺りは静かになるが、その分私の中には大音声となって響き渡るのだ。
気がつくと、少女は雪の下にいた。いや、正確には私の下にいた。
恐怖に染まる、そのあどけない顔。
その恐怖の原因が自分にあると気づいて、私は愕然とした。
あれだけ乱暴は良くないと自分に言い聞かせていたのに。
ふと指先から熱が伝わってきた。生きた温かみだった。
だけど不思議と自我が散漫になることへの恐れはなかった。むしろ心地良く、もっと触れていたかった。
触れる……? 見れば私の両の手は、あろうことか少女の腰巻の中へと伸びている。
意思とは別のところでまさぐるその手を、少女がか細い手で懸命に押さえている。
私は確信した。この手の先に、私の追い求めてきたものがあることを。
そしてそれゆえに、私にとって最大の抑止力である、少女の愛らしい抵抗が今この手の上に働いているのだと。
ならば、この少女には非常に申し訳ないが、ここまで来たならその抵抗を振り切ってでも、それを手にするしかない。
指先が、布のような感触の何かを捉えた。
私ははっとする。
その強烈な実存性(リアル)に、多分私の理性は取り戻されたのだ。
しかしよくよく考えたら、私の理性が飛んだのも実存性(リアル)が原因ではなかったか。
だがそんなことは瑣末事。今すべきことは、ただひとつ。
私は迷いを押し殺し、そこに指をかける。一際強くなる少女の手の抵抗。
よどみなく、勢いをつけて引っ張る。数瞬の膠着。
ふっと緩む抵抗。痛々しく弾け飛ぶ少女の手。だがもう後戻りはできない。
――嗚呼、そこに理想態(ロマン)は在るのだろうか――
追い求めた実存性(リアル)は、一対の橋を一気に滑り下りた。
その時はじめて気がついた。少女のそれが、本当は生脚でなかったことに。
よくよく考えてみたら、こんな雪降る夜中の道で、私のような雪の身体ならともかく生身の人間が、
何の防寒対策もせず生脚を晒して出歩くわけがないのだ。
そう、今私の手の中にあるのは、私を衝動の覚醒の末かくも錯乱せしめたかの、ドロワーズよりずっとシンプルな下着と、今しがた少女の脚から脱皮した薄膜だった。
それは生まれたての生命のように暖かく、まさに実存性(リアル)の権化であった。
それなのに、それを握る私の雪の手は、ふしぎなことに、ちっとも溶け出す気配がない。
それは奇跡であった。それが理想であった。それこそが実存であった。
少女が、そして私が、儚く消えゆく幻想でも、脆く崩れ去る雪の結晶でもない、真の実在であることを雄弁に物語る、それは確かな証であった。
しかしその証たるぬくもりは、私の手と大気に満ちる冷気により少しずつ削ぎ取られていく。
心の奥底でずっと追い求めてきた、やっと手に入れた生の灯火を、そう簡単に消させるわけにはいかない。
少しでも、心に刻まなければ。
たとえこのぬくもりがいずれ消え去るとしても、そのぬくもりが確かにここにあったことを焼き付けなければ。
どうするのが最善だろう。そう考えて、私は迷わず、二枚の実存性(リアル)を重ねて頭に被った。
今しがたまで少女の身体が放っていた実在のぬくもりが、
頭の先から波のように身体中を駆け巡り、その芯に私自身のぬくもりを灯す。
少女から匂いたつ芳香を存分に受けた実存性(リアル)も、同じ実在の祝福を芯の部分に灯されたのか、
同じ香りを放ち、私の鼻腔を抜けて全身を歓喜で満たし、かのぬくもりに彩を添える。
なんと満ち足りた気分なのだろう。生きているというのは、今ここに在るということは、かくも素晴らしいことか。
それを教えてくれたぬくもりに、その証を私の中にも灯してくれた二枚の実存性(リアル)に、
何よりそれを提供してくれた、それが私の追い求める理想態(ロマン)であることを悟らせてくれた少女に、
最大の感謝を捧げよう。
お嬢さん、君の太腿は今、むき出しで寒いだろうけども、
それは実在のぬくもりすら知らなかった私に分け与えてくれたぬくもりの一片ゆえだ。
だがそれも、君の芯の部分に灯る実存の火種が新たなぬくもりをつくりだして、
それが内側から湧き上がるだろうから、じきに平気になるだろう。
なるべくなら、そのぬくもりを逃がさず寒い思いをしない為にも、
こんな雪深い夜にはそのような短い腰巻など着けず、もっと丈の長いスカートを穿くといいよ。
できれば膝丈以上のふんわりとしたスカートを。それとドロワーズを併用するのもお勧めだよ。
実存(リアル)を幻想(ファンタジア)で内包する。実に甘美な装いではないか。
さらばだ、お嬢さん。私は君のお陰で探し求めていたものをついに見つけられたから。
それはもちろんこの形あるものがよく見える眼鏡のことではない。君のくれた真の実存のぬくもりだよ。
感謝してもしきれない。
だから、さあ、君も涙を拭って、雪を払って、腰巻を長くして、さあお立ちなさい。
君にも君なりの幸の多からんことを。心から祈っているよ――
もはや言い残すことも、思い残すこともない。
私は満足して、雪の上を悠然と歩いて立ち去る。
もはや雪の中に潜る必要もない。一糸纏わぬ姿と恥じる必要もない。
少女の脚を覆っていた薄い膜のせいで先程までよりも視界は悪かったが、
それは確かにほっこりと外気の冷気から、内包する少女の実存性(リアル)のぬくもりをしっかりと守っていた。
視界は冴えなくても心は晴れやかだ。
衣はなくとも心は錦、この身体の芯には確かに、少女がくれた真実の実存の火種が灯っているのだから。
何も不足はない。何も恐れはない。
ぬくもりは私の自我を虚ろにし、まどろみの淵へと堕とすものなんかではない。
むしろ私の意識を冴え渡らせ、心を満ち足りた気分で満たしてくれるものだと、やっと知ることができたのだ。
あれ、でも私はもともと積雪の結晶体――
次の瞬間、私は意識の隙間に飲み込まれた。
***
気がつくと、私はやはり積雪だった。慣れ親しんだ、結晶の身体。
しかし何かが決定的に違っていた。
四肢を持ち、頭部もある。それは明らかに積雪の姿ではない。
では、晴れて私も少女の姿を取れたということなのだろうか。それは実に喜ばしいことだ。
だがなぜか息苦しい。それに前も見えづらい。しかもなぜか横たわっている。
自由に動く身体とは、かくも不自由なものなのか。
いや、確か何らかの原因があったはずだ。ふわりと鼻先を掠める、こてこてとした優美な裾。
いや、そんなものではない。もっと華美とはかけ離れた、小綺麗でシンプルで実存の――
「気がついたようね」
突如鼓膜を震わせたのは、鈴の音のように凛とした、ぞっとするほどの美声。
はっとして顔を上げる。先程鼻先を掠めた裾は、その声の主のものだった。
あんなに前が見えづらかったはずなのに、なぜかその姿だけは鮮明に見ることができる。
不気味なほどの鮮烈さ。実存性(リアル)さえも気圧されるほどの、絶対の幻想(ファンタジア)。
よく見知ったひらひらした服、何段にも重なり膨らんだロングスカート、
そんな装いに引けを取らずに幾つもの赤いリボンで結わえられた豊かな金髪。
その少女の美貌は、喩えようもなく。
しかしその麗しく大きな瞳は憎悪と侮蔑の光を湛えて私を見下ろしていた。
「よくも……」
少女の美声が憤怒に震える。
「よくもまあ、あのような狼藉を働いてくれましたわねっ!」
ぎゅむっ!! と、力いっぱい踏みつけられた。
悪くない、むしろ素晴らしい感触だ。
思わず浮かべてしまった恍惚の表情に、少女の視線に込められる侮蔑の色が濃くなる。
「……これだから嫌なのよ、貴方みたいな輩は」
苦虫を噛み潰したような表情も束の間、すぐに激怒の形相に戻り。
「なにが実存のぬくもりよ、なにが追い求めていた理想態(ロマン)よ! 貴方がやったことは、ただの……!」
吐き捨てるように、女神は宣告した。
「……唾棄すべき、変態行為よ」
理解するのにしばしの時間を要した。いや、どれほどの時間をかけても理解できなかった。
いったい何を言っているのだろう。
私はいつか少女になる日を夢見て、その為の幻想と実存を模索していただけなのに――
「“少女”?」
皮肉げにその秀麗な口元が歪む。
「貴方は自分の姿すらも、まともに認識できていないようね」
だがどこか、憐憫の色までもがかすかにその瞳に見え隠れしていた。
「よろしい、見せて差し上げましょう。立ち上がって、よおくご覧なさい」
彼女はそう言って、おもむろにスキマをこじ開けると、中から姿見を取り出した。
「これが今の、貴方の姿よ」
!!!
私は衝撃を受けた。
そこに映っていたのは――
小太りの、全裸の男だった。
顔は、薄い膜と厚手の布地に覆われていてよく判らなかったが、
その下には眼鏡をかけていることがうっすらと窺えた。
そしてその顔つきも、お世辞にも“少女”と呼べるものではなかった。
それはどちらかといえば、むしろオジ――
いや、それ以上は認識してなるものか。きっとこれは悪い冗談に違いない。
この美貌の少女、八雲紫は私をからかおうと思って、わざとこんなショッキングな、他人の似姿を持って来ているのだ。
「いいえ、からかってなどいません。これはただの姿見です。鏡とは、あらゆるものをありのままに映し出す。それはそれは残酷なことですわ。それは貴方の今かけている眼“鏡”だってそう。形あるものは全てありのままに見えるようにする。見たかろうと、見たくなかろうと、ね」
がらがらと崩れ去ってゆく、私の思い描いていた自分の姿。
こんなはずではなかった。
たとえ本当はどんな姿であったとしても、心の中は少女でいられたはず。少女の自分を夢見れたはず。
それなのに、それなのに……なぜ今の私は、心の中の少女の自分を視れずにいるんだろう?
紫の口にした眼鏡のくだりで、はっとする。
男が取り落としていったのをなんとなく手にとってから、なぜかかけ続けてしまっていた眼鏡。
形あるものは見えても、目に見えないものは決して視えない鏡。
これのせいで私の、目に見えないものをも視る力――雪としての知覚、あるいは幻視力――が、いつの間にか衰えてしまったというのか。それも、ほんのわずかな時間のあいだに。
「いいえ、そんなものじゃないわ。貴方は根本的に“少女”ではなかったの。恐らく今後も“少女”になれることなどないでしょう。貴方の中にはそれだけの素地が、既に築かれてしまったの」
衝撃発言だった。
今までの、そしてこれからの私の全てを否定された気分だった。
そんな、そんなあっけなく、否定されていいはずがない。
少女になれないのなら、私はどうして生きていけばいい? どうして少女たちを観賞すればいい?
そんな私の必死の問い掛けに、賢者の少女はふと質問を返す。
「では、貴方はどう感じたかしら? 貴方の上を行き交う少女たちを見て」
それは、すごく美しく魅力的に感じましたとも。
いつも夢見るような心地で眺めておりましたとも。
夢見て、憧れて、いつか私も彼女たちのようになりたいとさえ思っておりましたとも。
「貴方のその少女に対する感情は、ただの憧憬じゃなかった。いつの間にかそれは、劣情にも似た感情へと変貌していったのよ」
どうしてそんなことが言えるのですか。
美しいものを愛でる、そのどこが劣情でありましょう。
仮に劣情であったとしたら、私はいったいどこから間違えてしまったのか。
「どこで間違えたのか、なんて具体的に指摘することは、残念ながら私にはできませんわ。そもそも貴方がここまで育ち、私の与り知らぬところで結界を超えるほどになっていたことだって、つい先程まで認識すらできていなかったのですもの。境界の管理者として、お恥ずかしながらね。貴方のことは単なる、雪の結晶体に宿る意思でしかないと思っていましたから。ですがよくよく考えたら、むしろそれゆえに結界を超えることができたのかもしれませんね。雪は幻想というより、自然現象ですから」
なんと、私はこの幻想郷を包むといわれるかの大結界を超えていたというのか。それも知らず知らずのうちに。
そこで私は確か……そう、長年追い求めてきた理想態(ロマン)を見出し、
その実存性(リアル)を、ついに手に入れた、はずだった。
それが、変態行為であったと……? 先程貴方は、そう言ったのか。
「貴方のやったことは許されることじゃない」
賢者の声に、再び怒気が戻ってくる。
「本当だったら、ここでさっさと貴方を外の世界の警察にでも突き出さなければいけないところかもしれませんが、何せ貴方は人間でもなければ妖怪ですらない。実際起こした事件の内容も、生身の人間がやったにしては整合性もなく説明のつかないことばかり。かと言って、こんなことで幻想郷の存在を明るみに出すわけにもいかないのよ」
ケイサツとやらに突き出されるほど、悪いことをしたというのだろうか。
私は実存性(リアル)を求めるまま、ごく自然な行動を取っただけに過ぎないのに。
そりゃ途中、何度か理性が飛んでいた気がするのは、弁解の余地もないことだが。
「……ですがその分、当然それなりの処罰はしておかなければなりませんわ。その身をもって」
ぎらりと背筋も凍るような眼光。
その賢者の言葉と共に、ふいに音もなく私の背後を取った九尾の従者が、この頭上へ向かって手を伸ばす。
待って、これだけは取らないで。お願い、これは私の実存の火種なのだ。
しかし私の予想に反して、従者の少女は私の頭にすっぽりと、新たな袋を被せただけだった。
白地のズタ袋。しかしそれは、眼鏡ごしに雪の奥深くで見たものとは、比べものにならないくらい深くて重い、白い闇。
そして眼前に浮かび上がるは、黒々とした“罪”の一文字。
闇と“罪”で前がよく見えない。だが賢者の姿見を見てはたと気づく。
ああ“罪”という字は、左右を反転させても“罪”なのだと。
それは自他ともに認識し、その意識の奥底に刻み付ける為。
ああ、どうしてこうなってしまったのだろう。
襲い来るのは果てしない責め苦。本能からの行動を、知ってしまった甘美な感覚を責め続ける、終わりなき罪の苦しみ。
理想態(ロマン)を見出し、実存性(リアル)を手にした私は、
しかしその実存性(リアル)ゆえに逃避できない懊悩の現実の中、
少しずつ理想態(ロマン)から遠ざかってゆく。
ああ、この両の眼に呪いのように焼き付けられた“罪”の一文字が、悶え苦しむ私をどこまでも追いかけて、
光明も射さぬ絶望の淵へと叩き堕としてゆく――
ズタ袋の下に、女性用のパンツとストッキングを被ったまま。
――それは、少女に憧れ、こよなく愛し、自らもそれになろうとして、ついになれなかった、
しかもその可能性すら永久に閉ざされた男の、悲運の物語(ロマン)。
了
この主人公は俺の中にある一つの可能性。
嫌悪感を抱くとするならば、紫様のおしおき込みで
「あれ、こんな生涯もアリといっちゃアリじゃね? てかちょっと羨ましくね?」
などと思ってしまった自己嫌悪に他ならないでしょうね、多分。
それにしても作品自体の興味深さもさることながら、それをものした作者様自身に対する興味も尽きない。
どこから創作意欲が湧いたのか、意図は那辺にあるのか。
後書きで触れておられた怪事件やサンホラを調べたり聴いたりすれば、そこら辺わかってくるのでしょうか。