「ねぇ、はたて」
「なによ、文。そんな深刻ぶった顔して」
「あなたは犬走のことを―――」
「椛って呼ぶし、椛は私のことを はたて様と呼ぶわ」
「まだなにも言っていませんよ。いつから悟り妖怪になったの?」
「いや、このやりとり何回目だと思っているわけ。会うたびにこれじゃない」
季節は春。妖怪の山を白く化粧していた積雪は姿を消し、そのかわりに青々とした木々が山をおおっている。雪解け水を糧として芽吹いた新緑により、妖怪の山も白から緑へと衣替えした。
若葉の木漏れ日は温かく柔和で新緑の合間をはしる春風は清らかで気持ちよい。だからといって、目を閉じてそれらを全身で感じようものなら、すぐさま睡魔の餌食になってしまう。
そんな心地よい季節だというのに、はたては毎度の愚痴にうんざりとした気分になる。帰路の途中の文に遭遇した時点で不運といえる。
「いいじゃないですか、愚痴くらい聞いてくれたって。罰も当たりませんよ」
「だからといって、会う度に同じことを愚痴らないで――」
「――そもそも私に愚痴ったところで、なんの解決にもならないでしょうが。でしょ」
「……そこまでわかっているなら、もう二度と私に愚痴らないでね。この頃、夢の中でも愚痴られているんだから」
夢の中でも文に延々と愚痴られるためか、朝はいやに早く目覚めは最悪の気分である。
昨今の はたては春眠暁を覚えずに縁遠く、胡蝶の夢を身近とする生活をしているのだ。
それに対して悩みの種である文はというと、愚痴をもらす程度の安寧とした毎日を送っているらしく、聞けば寝付きも目覚めもいいらしい。台風の中心部分は無風というのに似ている気がして腹立たしい。
しかしそれでも、友人想いでもあるため、はたては文の愚痴を懲りずに聞いてしまう。
「別に減るものじゃないんだしさ。普通に椛って呼べば? 他の連中が相手なら余裕なんだから」
「それで出来るなら、あなたに相談なんてしませんよ。出来ないからこうして相談しているんです」
「相談というのは、もっと建設的なものだと思っていたわ」
「もっと親身になってください。私が困っているのだから」
「……次に椛と会ったら愚痴ろう。うん、絶対愚痴ってやる」
そうは言ったものの実際に椛に愚痴ってしまえば、文の愚痴がさらに熾烈になるのは目に見えている。
それを思いはたては、結局のところ愚痴られる運命なのかと深いため息をつく。
「それで実際のところ、最近はどうなのよ」
「どうなのって何がです?」
「いやだから、椛のことに決まっているじゃない」
「そうですね……、髪が伸びてきて可愛らしい感じです。あと、衣替えしたので装束が春のものになっていますね」
「ごめん、私の聞き方が間違っていたわ。椛と仲良くしているのかって聞きたかったの」
「それならそうと早く言ってください。紛らわしい聞き方は嫌われますよ?」
あくまで高圧的な文の態度に、はたては落ち着くよう自分に言い聞かせる。
これまでも声を荒げて文と揉めたことは何度もある。しかし、どういうわけかどれも最後は、はたてが全面的に悪い事になってしまっている。
平常時ですら勝てないのに、怒りに任せた舌をして口論で文に敵うわけがない。冷静さを欠くと負けてしまうのは経験済み。声を荒げたところで意味はなく、むしろ旗色を悪くするだけである。
それゆえ はたては深呼吸をして、昂る感情をいなすのに一心を注ぐのだ。
そのあいだ、苛立ちの原因でもある文はというと、はたてが落ち着くのを待ってくれている。変な律儀さだ。
「もう話しはじめてもいいですか?」
「……うん、お願い」
「なにから話せばいいかしら……では、まず仕事中の話からしましょうか」
「おっ。まずってことは仕事以外の話もあるんだ」
「まぁ、それも後で話します。まずは、仕事中ですね。一声で言うならアットホームな雰囲気です」
「それはすごい進歩ね。いいと思うわよ。でも、ちゃんと仕事はできているの?」
「私は言わずもがなだし、犬走もなかなかに優秀な子です。口と手を別々に動かせるんですよ」
「それは結構なことで。あと、さらりと自惚れないでくれないかしら」
文句を入れながらも、はたては文の要領のすこぶる良いことは認めている。
しかし、椛にも似たものがあることは、ここで初めて知った。また、椛の印象や性格として、仕事中に私事にかまけるというのが、何よりもはたての驚きを誘った。椛は融通の効く性格をしていただろうか。
はたてが思い浮かべる椛はもっと真面目な性格をしている。きっと目の前で天狗になっている文に悪影響を受けたにちがいない。
「自惚れじゃありません。れっきとした事実です」
「はいはい、それはわかったから。じゃあ、今度は仕事以外での話を聞かせてよ」
「なんだか釈然としませんね。まぁ、いいでしょう。……前の休日に人間の里に取材しに行ったことがありまして」
「もう取材はじめているの? 締め切りなんてずっと先じゃない。ずいぶんと手早いのね」
「深い理由はないんですけどね。先を制せばというやつです」
「それで? 人間の里に取材に出てどうしたの。それにかこつけた裏で、椛をストーキングでもした?」
「ふふん。いつもなら癪にもさわるでしょうが、今回は特別に勘弁してあげましょう」
「あらあら、気前がいいのね。いつもそれくらい寛大であればいいのに」
「私はいつも寛大ですよ。そんなことも知らなかったのですか?」
いつになく大らかな文を見て、はたてはいよいよ雲行きが良くなり過ぎていると感じた。経験からして、このままだと怒涛の惚気自慢を延々と聞かされる羽目になりかねない。
はたても本格的な惚気話なら適当な相槌を打つなりで聞き流せるが、文のものはどれも惚気というにはあまりにも度が過ぎて初々しい。
手が少し触れただとか、お揃いの湯飲みを買っただとか、聞けば聞くほどに全身が痒くなる代物ばかりである。
はたては文の話に興味を持ちながらも、内心では早くも肌の上を虫が這うのを覚悟した。どうせ今回も程度の低い幼稚なことだと、見下しこそしないが軽んじるのだ。
「まぁ、それでも、はたての言うことも、あながち間違いではありませんが」
「やっぱり物影に隠れて休日の椛を……。なんて卑劣な」
「かわいそうに。浅薄な想像力しかないと苦労しますよね。大した記事は書けないでしょうに」
「豊かすぎて事実を捻じ曲げるよりはましだと思うけど」
「先から根も葉もない人聞きの悪いことばかりを口にして。あぁ、なるほど。法螺貝かかえて騒霊達の仲間入りでもする気ですか」
「私が法螺貝なら文は三味線ね。なかなか前衛的な楽団の誕生だわ」
その後もしばらく軽口を叩き合ったが、結局は文に軍配が上がった。
元々、文の方が はたてよりも口達者であるし、今回は追い風にも乗っていた。はたてはしだいに上手く切り返せなくなって、報復の言葉に窮したのだ。
軽口の言い合いといっても負けてしまえば勝者にいいように言われるのが常である。
しかし、意外にも文は、はたてを言葉責めにすることもなく、惚気話の続きを話しはじめた。いやに誇らしげなのが、また憎たらしい。
「法螺吹きさんのおかげで、かなり話がそれてしまったわね」
「……三味線弾きさんもなかなかだと思うわ」
「口の減らないヒトですね。 前の取材は犬走に助手として手伝ってもらったんです。偶然とかじゃなくて約束したのよ」
「あぁ、そうなの。でも正直なところ、椛に仕事あったの?」
これまで文は一人で何一つ不自由なく新聞作りをこなしてきたはずだ。取材だって特別な理由や状況でなければ単独でおこなってきている。
おそらく助手というのは文が椛の気を引くための方便にすぎない。それを疑問に思うだけ無粋であるのに、ついつい尋ねてしまうのは、はたてもまた記者であるからであろうか。
「ちゃんとありましたよ。私が聞き込みしているあいだ、犬走に聞き込みでのやりとりを全部文字に起こしてもらっていたんです」
「なるほどね。たしかにそれは、いくら文でも一人では難しいわね」
「一人でも出来なくはないですが、やはり著しく精度が落ちます。その点、犬走に手伝ってもらうと完璧な仕上がりになる。本当に助かりました」
「そんなによく働いてくれるなら、私も椛に頼んでみようかしら。元は私の考えだもん。椛を助手につけるのって」
はたてがそう呟くと、文の気色が一変した。
それまで憎々しいほど鼻を高くしていたのが、急に狼狽が混じるようになった。
はたてには、文に椛との仲を疑われていた時期がある。その時期の後遺症なのか、文は、はたてが椛と親しげな素振りを見せると、ときおり過剰な反応を見せることがある。誤解はとけても、警戒はとかれていないみたいなのだ。
「……いえいえ、はたてには必要ないでしょ? 家に籠ったままで十分なのですから」
「たまには外に出てもいいかなって。念写だけだと不完全なことも多くあるし」
「それでもです、とにかくダメです。犬走にも都合はあるでしょうし、あまり無理強いをさせるわけにはきません」
「無理かどうかは椛が決めることじゃない? 文が決めることではないはずよ」
「私は犬走の上司です。私が忙しいといえば犬走は忙しいのです。だから、取材する暇なんてありません」
「はいはい。今日はこれくらいにしてあげるわよ」
はたては胸を撫で下ろす文を見て、表情にしないまま内心で微笑む。椛を絡めてからかえば、面白いくらいに文が慌てふためいてくれるからだ。いつも舌戦で負けている身として、これ以上の気晴らしは他にない。
もっと積極的に使ってもいい手であるが、文はともかく椛には悪い気がしてしまい、どうしても遠慮してしまう。そのため、はたてはここぞという時以外は自重するようにしている。友人をだしにしてしまうのに、どうしても抵抗があるのだ。
雑談も一段落したことだし、そろそろ帰ろうかとしたところ、文の口が動いた。
「それでね、はたて」
「まだ、なにか自慢話でもあるの?」
「あなたは犬走を―――」
※※※※※
文と椛が仕事をともにする小屋は妖怪の山の中腹に位置する。そこから少し山裾に飛ぶと、大瀑布が膨大な水を莫大な音とともに滝壷に流し込んでいるのが眺められる。その姿は荒々しさと神々しさを兼ね備えており、見飽きるということがなく、木石であったとしてもその雄大な姿と轟音に魅入ってしまうほどである。
そのためか、文達が沈黙のまま無心で作業に取り掛かっていた頃は、小屋の中にいながらも大瀑布の神聖な気配をふと感じられる時があった。
ときおり聞こえる呼吸の音や衣擦れの音を除けば音を生むもののない閉じた空間にも、大瀑布はその存在を知らしめてきたのだ。
文が小屋を支配する沈痛な空気から逃れるために、大瀑布の気配を探るようにしていたのもまた事実である。
しかしそれは、すでに過去の話である。今では小屋の中において大瀑布の気配を感じる暇はなくなってしまった。
それは文が作業の最中であっても椛と頻繁に会話するようになったからであり、またたとえ作業に集中したところで文の神経が秘密裏に探るのは、離れた大瀑布の厳粛な気配ではなく、同室にいる椛の柔和な気配だからである。
しかもこの頃の文は椛の気配だけでなく機会も探りはじめたのだから、いよいよ大瀑布の気配は遠くの方へと追いやられてしまった。
そして今も、文は背後の椛を感じようと神経を注いでいる。
(はてさて、どうすればいいのやら)
背後で熱心に作業を続ける椛の様子を文は肌で感じながら、椛と呼びかえられる機会を探る。意識を散らしながらも文の手は素早く動き、請け負った作業をこなしている。それらを時間内に終わらさなければ、割を食うのは椛であるため疎かにできない。
先日の相談で知ったことの一つに、はたては最初から椛のことを「椛」と呼称したというものがある。またその次に会った時、はたては椛に自分のことは「はたて」でいいとまで言ったそうだ。「姫海棠様」だと堅苦しいからというのが理由らしい。
文もそれに習ってみたいものの、これまでの数年間はずっと姓で呼び合ってきている。今さらになって堅苦しさを理由にしても椛に怪しまれるだけと思え、決心がつかないでいる。呼称を変えられたとしても、怪しまれては意味がない。ただ寂しい思いをするだけである。
そもそも文が今になって椛への呼称を変えたいのは、建前として椛とより親しくなりたいからであり、本音としては椛と親しくなった一つの証が欲しいからである。
仕事の合間にする雑談や休日に会う約束をするなど、親しみ感じることは多くなったが、どうしても一味足りず満足できない。文はその理由をひとえにお互いが姓で呼び合うからだと考えたのだ。
しかし、呼称を変えるというのは、今まで安定していたものを一度揺さぶるようなものである。それだけで崩れたりはしないだろうが、どうしても寝た子を起こすような気分になってしまう。
また、その一抹の不安の他にも文を躊躇わせるものがあった。
自分が「椛」と口にするのを想像するだけで、胸の奥から恥ずかしさもこみ上げてくるのである。強い酒を一息で飲んだ時にくる、抑えることの困難な熱く激しい感情が全身を駆け巡るのだ。
今も頭のなかで試しに「椛」と呼んでみる練習をしているが、「も」の時点で早くも熱が出て身体が火照り、「み」にいくと心音が耳に届くくらいに激しくなって、頬を汗がつたいはじめる有様である。
そして最後の「じ」に到達する寸前に、傍らから柔らかな声がきた。
「射命丸様」
振り返ってみると椛がすぐそばに立っていた。
筆に似た小奇麗な尻尾が軽く左右に揺られている。
あと一拍でも椛の声が遅かったなら、文は酒に呑まれ醜態をさらしていただろう。。
「そろそろ区切りもよいでしょうから休憩しませんか?」
椛に言われて手元を見てみれば右手側に積み重なっていた資料がすべて左手側にうっている。考え事の片手間に無意識のままかたづけてしまったらしい。
「そうですね。そろそろ一息ついてもいいかもしれません」
座ったままで、わざとらしい伸びをしながら、文は薄目で椛の気色をうかがう。長い作業のせいで椛の顔には多少の疲れは浮かんでいるが、平常通りの落ち着いた様子だ。
仕掛けるなら平常心の今がいいのか、もう少し気分が乗った時がいいのか。文は一拍の迷いのあとに、とりあえず今は様子を見ることにした。断じて恐れをなしたわけではなく、冷静に状況を見据えて最適な時分に仕掛けたいのだ。
「今日の射命丸様は一段とお早いですね。あれだけあった仕事がもうかたづいてしまっています」
「犬走もあと少しで終わりそうではありませんか。急ぎの仕事ではないのですから、もう少し余裕を持ってもいいのですよ?」
「それは分かっているのですが……。目の前にあるとどうしても早くかたづけてしまいたくなるんです」
「いい心がけだと思います。おかげで私も楽をさせてもらっていますし」
「配分が出来ないだけで未熟なだけです。……射命丸様にもご迷惑をかけていると思います」
「犬走からのご迷惑ならもっとかけてもらいたいですね。それをネタにすれば、また取材の手伝いをお願いできますから」
「そんな妙なことをされなくとも、言ってくだされば参りますよ。前のお手伝いも楽しかったです」
こんな日々の会話においても、文は言質をとったなどと狡賢い考えを持つ。
しかし、その相手が椛となれば話は別だ。どんな些細な言葉であっても情緒的に取り込んでしまう。
それこそ必要以上に情緒的に思えてしまい、文の精神は椛の何気ない一言で波立ってしまうことだってある。椛がただ一言でも好印象なことを口にしてくれれば、それだけで文は満たされてしまうのだ。
「ところで、射命丸様」
「はい、なんでしょう」
「明日はお暇でしょうか?」
「明日ですか……、新しく現れたお寺で取材がありますね」
文が取材に行くのは人間の里の近くに現れた命蓮寺という寺で、文は以前にも住職の理念について取材に行ったがことがあった。
妖怪の人間の『共存』という幻想郷のそれと聞きは似ているが、実のところ根本的に異なる理念を住職がお持ちになられていたのが印象的であった。
そして今回は魔界への観光じみたことを計画しているらしく、文はその計画をネタにしようと取材に赴くのだ。
「それならば明後日はどうでしょうか?」
「多分、大丈夫だと思いますが……、なにかあるのですか?」
「少しばかり人間の里の方へお付き合い頂ければと思いまして」
「なるほど。今度は私がお供をすればいいのですね」
「お供だなんてそんな……。ありがとうございます」
目の前で深々と頭を垂れる椛を見て文は、上機嫌のあまりその髪を手櫛でといてやりたくなった。椛の柔らかそうな髪は、文の指々の間を水が伝うようにして流れていくだろう。
本当を言えば明日の取材も椛を同伴させたかったのだが、先方には一人で行くと言ったためにそれが叶わず、文は惜しいことをしたと悔やんでいた。
しかし、それを返してもお釣りがくる好転に見舞われ、文の機嫌は青天井に上向いたといえる。
言うならば今かもしれない。はずみに任せて文は一息に言い切ってしまおうと考えた。
「ところで、も―――もし、雨が降ったらどうしますか?」
「雨ですか……。その時は、日を変えてのお付き合いをお願いします」
「わかりました。明日の取材が終われば、当分は予定もないので遠慮せず言ってください」
「かしこまりました。私もぜひ射命丸様とご一緒したいので」
せっかくのはずみを損ねてしまった。いざ口にしようとすると想像よりも、熱い恥ずかしさが湧いてきたのだ。
咄嗟に言葉を変えて濁したものの、一瞬のことだというのに身体が熱を持ったのが分かった。言い切っていたら今頃は火が点いて炭になっているかもしれない。
「明後日が楽しみです。射命丸様」
「私も楽しみですよ、犬走」
それでいても、文にはいささかの不満もなかった。今の文にあるのはと大きくなる明後日の期待感と、なかなか覚めない酔いだけである。そこに不満が入り込める隙間などあるはずがない。
※※※※※
命蓮寺は人間の里からさほど離れておらず、しかも幻想郷にきて日が浅いということもあって、物珍しさからか里の人間の往来が多い。
多いといってもその比較対象となる二つの神社に人が寄り付かないだけであり、参拝者の実際の多寡を知る者はいない。
博麗神社の参拝客が少ない理由の一つに、妖怪が跋扈しているというものがある。しかし、妖怪と人間の共存を謳い、関係者にも正味の人間がいない命蓮寺には、参拝客が多くあるというのはどうしてだろうか。
文はそれを立地と印象の問題だと考えている。博麗神社は遠く険しく、命蓮寺は近い。また博麗神社の巫女はあまり里に出向かないが、命蓮寺の僧は積極的に里に出向いて説法をする。結局のところそれだけの差なのだ。
ちょうど文が取材に訪れた時も、命蓮寺の僧の一人寅丸 星とその従者であるナズーリンが里へと向かうところであった。
二人に取次ぎを頼んでみれば、取材予定の村沙 水蜜は過労で倒れているとのことだった。
「すみません。航海の準備に張り切りすぎまして……」
「寝込んでいる相手に取材をするわけにもいきませんね。また後日おうかがいします」
星の申し訳なさそうな声を聞きながらも、文は懐から手帳を取り出し予定の組みなおしをはかる。椛には予定がないといったものの、新聞製作の日程は組み立てられており、そこに狂いが生じるのは望ましくない。
早めの計画であるから、締め切りまで余裕はまだまだあるが、今回のような不測の事態は立て続けに起きやすい、後に備えて日程のずれ込みは最小限に抑えたいのだ。
文が手帳と睨めっこをしていると、星の口が開いた。
「後日というのも大変でしょうから、私達が受け答えしましょうか? 一応の運びは存じておりますので」
「お気持ちはありがたいのですが、やはり本人様でなければ記事にはできません」
「そうですか……、出すぎた真似をしました」
「謝る必要なんてないよ、ご主人。こんな奴に」
突如、ナズーリンがそれまでの沈黙を破り、会話に割り込んできた。星と文の丁寧な口調に対して、ナズーリンのその声音には露骨に棘が含まれている。
それに慌てたのは主人の星である。星は従者の無礼を責め立てるが、虚を突かれた文は呆然として、ナズーリンを見るほかない。
「お客様に何という事を言うのです!」
「ご主人、こんなやつに礼儀なんていらないよ。こいつがご主人の事を影でなんと言っているのか知らないのかい?」
「……存じません。しかし、だからといって礼儀を欠く理由にはなりません」
「このさいだから教えてあげるよ、ご主人。この天狗はあろうことか、君の事を虚仮にしているんだよ」
「それがどうしたのですか。やはり無礼の理由にはなりません」
「君が平気なのかい? 捉えようによっては毘沙門天様も馬鹿にされているのだよ?」
「私は平気ですし、きっと毘沙門天様も御気になされません。ですからお客様に謝ってください」
「私はそうじゃない、たとえ君が平気でもね。君や毘沙門天様を馬鹿にされるのは、自分自身が謗られるよりも不快だよ」
それだけ言い捨てるとナズーリンは門の中へと戻っていった。寺の門前には息を荒げた星と、場違いにほうけた文だけが残される。
気をとり直した文が目を向けると、星が場を取り繕うと思案顔をしているのが見えた。
助け舟ではないが、文の方から謝罪をいれる。
「えっと……、その……すみません」
「いえ、こちらこそ御見苦しいところをお見せました……」
「お気になさられず……? ここは、おあいこみたいな感じで一つ……」
「……そうですね。おあいこということにしましょう」
誤魔化したものの、自分の影口が原因であるから、文の居心地が良いわけがない。今すぐにでも無い尻尾を巻いて、この重苦しい場から逃げ帰りたくもある。
しかし、それでなお文が門前に留まるには理由があった。目の前で繰り広げられた主従の言い争いが、文の目には不思議と魅力的に見えたのである。
それはなにも他人の口論が好きという野次馬根性からくるものではなく、二人の言い合う姿がとても羨ましく思えたのだ。
文は不本意ながら、普段は虚仮にしている虎妖怪に教えを乞うことにした。
「……たしか、ナズーリンさんは寅丸さんの従者でしたよね?」
「ええ、たしかにナズは私の従者です。……それがどうかしましたか?」
「いえ、深い意味はありません。ただ、それにしてはお二方の距離が近そうに見えまして」
「なるほど、私が主人らしくないと言いたいのですね」
「そんな悪い意味ではなくて、なんと言えばいいのか……。ただの主従関係のようには見えなかったのです」
「お気を遣わなくてもかまいません。ナズにもよく威厳を持てと言われていますし」
なよなよと笑う星の態度に、文はわずかばかりの苛立ちを覚える。自分が原因で立腹したナズーリンとの方が、分かり合えるような気すらする。寛容というものも度が過ぎれば欠点になるみたいである。
その星の態度を見て、これではあまり収穫は望めないなと、文が別れの挨拶を口にしようとした時、ふと星の顔から笑みが消えた。
いや、星は依然として微笑んだままであるから、それは実のところ文の錯覚にすぎない。
しかし、そこには威圧感ともいえる厳粛なものが宿っている。文は場の空気が張り詰めたのを感じた。
おごそかな笑みをたくわえたまま星が説きはじめた。
「ナズーリンが仕えているのは『毘沙門天様代理』の私です。ただの妖怪の身としての私に仕えているわけではありません。おそらくですが、新聞屋さんの感じたものの正体はそれだと思います」
「……それでは親しみの理由になっていませんよ。はぐらかさないでください」
「実のところ、私にだって分かりかねます。肩書きの無い私をどう思っているかなんて、ナズーリン本人しか分かりませんから」
「しかし、それで不安になったりしないのですか?」
「ええ、なりません。あの子だけは、いつも私の傍にいてくれますから」
「彼女を信用なされているんですね。……最後の最後で、裏切られるかもしれないというのに」
「当たり前のことだと思いますよ。大切に思う相手を信用しなくてどうするのです」
「……そうですか。良いお話しが聞けました」
「これも仏事のうちです」
「なるほど。あなたへの認識を変えなくてはいけません。もちろん、ただの妖怪としての寅丸星にですが」
「手厳しいのですね。私としては御説法のつもりで語りましたのに」
その言葉を最後にして、星の顔から厳かなものが消えた。
文も肩の力を抜きながら、ふと門へ目をやると、門の影からナズーリンがこちらの方をのぞいている。星に後を追いかけてもらえると思ったのに、それが叶わなかったのが悔しいのだろう。恨めしそうな顔だ。
しかし運が悪いことに文は気がついているが、肝心の星は背を向けているために、従者が戻ってきたことに気が付いていない様子である。
星に教えてやってもいいが、それではナズーリンも満足しないだろうと、文は視線を戻すだけにした。
するとそこには、なぜか自慢気にしている星の姿があった。しかも、文を悪戯に誘う目配せじみたことまでしている。
どうやら星は元が虎であるためか、意外と気配に敏感なうえに、虎の狡猾さも少なからず残しているみたいである。
「あんな感じで嫌味に見えても。ナズにはナズで可愛いところがあるのです」
「それは……是非ともお聞きしたいですね」
返しつつも文の視線は秘かにナズーリンの方へと向いた。門の影のナズーリンは訝しそうに文達を窺っている。
何を話しているのか判別できないでいる。それでいて、不穏な空気は感じているようでもある。さすがは元ネズミといったところで、危機察知の素質はいまだ健在と見えた。
文はわざとらしく懐からネタ帳と筆を取り出し、星の言葉を書き取るふりをはじめる。虎とネズミ、どちらの側につくなんて、蝙蝠でなくともすぐに分かる。そもそもカラスは大変お利口なのだ。
「たとえばですよ。私が夜分にお布団で寝ていると、こっそりと襖が開けられる音がするのです」
「無用心すぎますよ。襖に鍵は無理にしても、つっかえ棒くらいは用意したほうが」
「いえ、部屋の外につながる廊下側の襖ではありません。開くのは決まって隣の部屋とつながる襖です」
「……ほほう、それは興味深いですね。寅丸さんのお部屋の隣は、誰のものなのですか?」
「片隣は物置にしていますので、開けられるとしたらナズーリンだけです」
「ふむふむ、それから? 続けてください」
「これ以上を口にするのは野暮でしょう。ですが一応言えば、私の部屋に入るとナズは一直線に私のお布団へ……」
「……ご主人!!」
文と星の間にナズーリンが駆け込んできた。顔を真っ赤にしているのは、なにも駆けてきたからだけではないだろう。
ナズーリンは星の前に立ちふさがりつつも、文にも牽制するように目を配りながら続ける。狩人を庇う獲物というのも珍しい光景である。
「……ご主人。早いところ里に行かなければ、帰りが遅くなってしまうよ」
「おや、私のことなど見捨てられたのかと思っていました」
「なにを馬鹿なことを。君を見捨てるわけがないだろう。私はただ……そう、船長の様子を見に行っただけさ」
「それにしてはお帰りが早かったですね。まるですぐ傍に控えていたような」
「なんだ、まだいたのかい。君もつくづく暇なやつだな。夕方も近いのだから、鳴きながら帰りなよ」
「こう見えて多忙の身なのですけどね。猫の手を借りたいくらいには」
「ふん、そうかい。でも、君の場合は手よりも、必要なのは皮の方だろう。……ご主人、こんなところで油を売ってないで里へ行こう」
「そうですね……。ナズの言うことにも一理あります。そろそろ参りましょうか」
星はぺこりと文に頭を垂れて、別れの挨拶とともに里の方へと降りていった。ナズーリンもそれに従い階段を下っていったが、たびたび後ろを振り返っては文を威嚇するように視線で射抜いてきた。
しかしながら文は、その刺す視線を受け止めながらも、二人のある一点をおぼろげに見つめていた。二人して階段を下っていく姿にあるものを見つけたのだ。
文の視線の先では、いつの間にか星とナズーリンが手を繋いでいるのである。
それもどちらかが強いたとか、そういう取り決めになっているとかではなく、あくまで繋ぐことが自然で当たり前のような気軽さで手を合わせている。
文はそこに風が吹けば離れてしまいそうで、それでいて嵐に遭っても千切れない絆を思わされた。
文は羨望の眼差しのままファインダーをのぞいた。
レンズ越しに見る二人は、かつてのどの被写体よりも尊いものに見えた。
※※※※※
待ち合わせはいつもの小屋だった。
文が迎えに行こうかと誘ったが、椛が遠慮して断ったためである。小屋で落ち合った後、二人は人間の里へと降りた。選んだ路は空である。
山を下りるあいだ文と椛は飛び石のような会話しかなかったが、そこに気まずさはなく二人して会話の間の沈黙を楽しんでいた。
その沈黙のなかで文は、前日に見た星とナズーリンの親密な間柄を自分と椛に投影していた。彼女らには及ばないにしても、根は同じとするものを椛との間に想像していた。
人間の里の入り口で二人は地に足をつけた。
里の中を飛ぶのは目立ちすぎると、文が言ったところ椛も同じことを考えていたらしく、少しの議論もなく二人は里を歩くことになった。
里は天気もよく時刻も正午を前後とするだけあり、人間はもちろんのこと妖怪や妖精も多く往来している。そのため歩くとなると、余計な手間がかかるのは目に見えている。
それでも、椛はともかく空を好む文があえて地を行こうとするのには、目立たないため以外の理由がある。歩く方が椛と長くいられるからである。
さすがに妖怪の山から歩くとなると不合理であるが、里の中くらいであれば妥当だと踏んでの提案だった。そのためにも、文はいつもの高下駄ではなく皮製のものをはいていて、帽子も紐飾りのない簡素なものを選んでいる。
しかし、文にも誤算があった。里の人々と妖怪の往来が予想以上に激しかったのである。
二人は歩き出して程なく休憩もかねて甘味処で場所を借りることになったが、通りと同じくして店の中も人で一杯になっていた。人間の客に混じって妖の客も散見できる。
そのなかで文は、椛と肩を寄り添わせながらの休憩をとることになった。
誤算といえども、これは文にとり嬉しい誤算でもある。
内心でほっこりとしつつ、文は傍らでお茶をすする椛に疲れを装った声をかける。
「歩くとは言ったものの……さすがに辟易としますね。幻想郷中の人妖が集まっているのでしょうか」
「そうですね。ここに来るまでの間にも、白狼や河童の友人を見ました」
「河童はともかく、白狼の子達を里で見るのは珍しいですね。私の横にもおられますが」
「なんのことでしょうか。今の私はただの町娘ですよ。決して白狼ではございません」
「似合っていますよ、その被り物。下にお耳を隠しているとは思えませんね」
「もう、からかわないでください。目立たないための変装なのですから」
からかうと椛は不貞腐れた演技を見せてくれた。三角耳をスカーフで隠した椛は、山伏に似た装束さえ着ていなければ、本当に町娘とひとつも変わらぬ風体をしている。楽しそうに不貞腐れる表情なんかも、まさに若い町娘のそれに見える。
また、本人は目立たないためのスカーフと言い張っているが、文からすれば逆効果のように思える。白狼の椛に山葡萄色のスカーフは花を添えすぎているのだ。
「からかっているつもりはないのですが。髪も伸ばしているようですし、春装束も可愛らしいですよ」
「射命丸様もお人が悪い。お褒めになられても何も出せませんよ?」
「そう言えば、そもそもなぜ変装をするのです? 先に見た白狼天狗達も被り物をしていましたが」
「幻想郷の出来る前の名残みたいなものです。烏天狗様とちがって私達白狼は耳が上に出ています。ですから人間達に紛れる時は、このようにして隠していたのです」
「そう言われれば、昔は編み傘やら米俵を被っていましたね。あれと比べると可愛くなったものです」
「こ、米俵……?」
「えっ、ちがうのですか? 米俵で頭をすっぽり隠していましたよね?」
「……いいですか、射命丸様? あれは米俵でなくて――」
何がいけなかったのか、文は椛から長く説話を聞かされることとなった。しかし、鴉か白狼かの違いはあるけれど同じ天狗である文からすると、椛の語るものは文もよく知るものばかりである。
それを椛が真面目な顔で話すのだから、文はおかしくて仕方がなかったし、自身の半生を綴った自叙伝を語られているようでむず痒くもある。
それでも文はその熱心な声と姿を見ておきたくて、椛の長話に付き合ってやった。長年の取材経験のおかげで、聞く素振りは得意なのだ。
「――というわけなのです。ご理解頂けましたか?」
「ええ、あの米俵の名前が天蓋だということはしっかり覚えましたよ」
「……やはり射命丸様はお人が悪いです」
「あとは……はい、熱心にお話してくれる犬走も可愛かったですよ」
「ふん、もう知りません」
「それはさておき、そろそろ行きましょうか。人通りも先よりはましになりましたし」
「そうですね、長居をしすぎたかもしれません。参りましょうか」
大通りに目をやれば、行き交う人々と妖達の切れ目から、先まではのぞけなかった向かいの店先が見えた。店内を見れば文達の他にお客はまばらにいるだけで、盛況時は過ぎたみたいである。僅かに残ったお茶をすすってみると冷たくなっていた。
店を出るさい、勘定は文がまとめて支払った。
椛が慌てた様子で自分に払わせて欲しいと請うてきたが、文はその願いを聞き受けなかった。わけがあり今の文は小金持ちである。お茶の代金の一つや二つは、懐にとってなんともない。
しかし、店を出た後も椛は文に謝辞と文句の入り混じった嘆願をしてきた。文も最初は笑みを浮かべていたが、椛があまりに執拗だったので、文は椛に代案を持ちかけた。
「そこまで言うのでしたら、目的のお店まで私の手を取ってくれませんか? 先の支払いはその御代ということで」
そう言って手を差し伸べると、椛は悪ふざけが過ぎますよ、とあきれながら文の手を取ってくれた。
前日に見た主従のものと比べると遠慮と緊張の混じったぎこちない仕草ではあるが、たしかに文は椛と手を添えられた。椛は意外にも慣れているようで、歩調を文に合わせてくれた。
また、手を繋ぎ歩いてみると、文は椛の肩が自分よりも高いところにあるのに気が付いた。普段は文の高下駄のせいで曖昧だったが、どうやら椛は文よりも少し背が高いらしい。今は隠されている三角の耳を考えれば、その差は広がるだろう。
文はそっと椛に寄り添い身体を預けた。
椛の言っていた店は通りから離れたところにあった。
老舗らしく店内は薄暗く、すでに看板も擦れて文字も読めなくなっている。そのため何を扱っているのか外見だけでは検討もつかない。下手をすれば幻想郷よりも長い歴史を持っていそうである。
そんな朽ち果てた有様ながらも、営業はしているらしく、文達が到着するのと入れ違いに、店内から人間の男が出てきた。
男は病的までに色白で痩せており、ぎらついた目の下には黒い染みができているし、清潔とは縁遠い服装をしていた。
人一倍に好奇心の強い文であるが、店にも客にも良い感情を持つわけがなかった。警戒の目をして店を見ていると、添えられていた椛の手が離された。
「すみませんが射命丸様はここでお待ちになってください。すぐに終わりますゆえ」
「待つのは構わないのですが、その……あまり健全的ではない感じのする店ですね」
「私もたびたび訪れますが、ここはいつもこういった感じです。ですから、その様に警戒されなくとも大丈夫です」
「それならよいのですが……」
「では、いって参ります」
一礼したあと椛は一人で怪しげな店へ入って行った。
店先に残され手持ち無沙汰になった文は、とうとつに、つい先までのやりとりを恥ずかしく思いはじめた。
文自身にその気はなかったにしろ、結果として椛をお金で従わせたと感じられただ。椛はなにも言わなかったが胸の内で蔑視していたかもしれない。そう考えるだけで文は疑心暗鬼に囚われてしまう。
少し冷静なって考えられれば、椛が冗談半分だと分かってくれているとは思う。しかし疑心暗鬼になった文の目には、わずかな不安も莫大なものに映ってしまい、万が一の最悪がより近く見えてしまう。
そのため、自己弁護と自己嫌悪を繰り返した文が出したものは、椛に一言だけ謝ろうという消極的なものだった。
文は一言の誠意を見せれば最悪の事態は防げると考えたのである。
そうして、文が店の入り口を見据えていると、椛が小走りに出てきた。手には紙袋を大事そうに抱えている。望んだ物がみつかったのだろう、見るからに上機嫌な様子である。
「お待たせしました。……思ったより遅くなってしまいました。申し訳ございません」
「いえ、気にすることはありません。とても早かったですよ」
「そう言って頂けると助かります」
「ところで、犬走……」
「ええ、もちろんですよ。帰りもご案内させてもらいますね。では、お手をお借りします」
椛は笑みを湛えたまま紙袋を持ち替え、やはり手慣れた仕草で文の手を取ってくれた。
文は少しばかり悩んだ末に、行きと同じように椛の腕に自分の腕を絡ませ肩に頭を預ける。
すると預けた頭にふわりと何かが当てられた。それが椛の髪だと気付くのに時間はかからなかった。
大通りに出る直前まで文と椛の髪は重なり合っていたが、大通りに出る寸前に椛は名残惜しそうに頭を上げた。
それを補うかのように文が腕を抱く力を少しだけ強めてやると、椛がくすりと笑いスカーフに隠した耳が動いた。
こうして二人連れ添って歩いているうちに、文の疑心暗鬼は完全に消えてしまっていた。
※※※※※
「一つ聞いていいかしら?」
「手短にお願いしますね。近頃のあなたは話が長いので」
「誰が原因か教えてあげたいわね」
「年を食うというのは嫌ですね。どういうわけか愚痴が多くなるみたいですし」
「文を見ていると、あながち嘘じゃないのかもと思えるわ」
「前言に付け加えて、年を食うと愚痴が多くなるくせに、礼儀は忘れるみたいですね」
「墓穴掘っていると気付いている?」
はたてがそろそろ潮時かなと見計らうと文も同じ事を考えているようで追撃はこなかった。この言い合いは早くもこれで手打ちらしい。
はたては改めて同じ質問をする。終わったことは再燃させないのが、烏天狗同士で上手く付き合う秘訣である。これを反故にすると、いよいよ泥沼に突入してしまうので不文律ともいえる。
それゆえ、今度は真面目な返答が期待できるのだ。
「改めて一つ聞くわよ?」
「ええ、どうぞ」
「なんで、そこまでしておいて未だに呼称が変わらないのよ。文も椛も」
「それが分かれば苦労はしませんよ。それに、そこまでなんて言われることしていません」
「お手々繋いでお買い物行くのは、そこまでのことじゃないの?」
「まさか。あくまで仲の良い上司と部下の関係です」
「だったらその時の事を思い出してみなさいよ」
などと はたては言ったものの、文と椛の買い物から既に一週間は経っている。どんなに強い思い出であっても、そうそう鮮明に思い出せるわけがない。よくて大筋の記憶だけだろう。
人妖問わずに記憶なんて不安定で微妙なものである。はたても半ば投げやりに言ったにすぎない。
しかし、幸か不幸か文は流れ弾が当たったらしく、その顔をみるみる赤くしていった。
「……たしかに先週の件は、そこまでのことでした」
「……言っておいて悪いけど、よくそこまで赤くなるほど思い出せたわね」
「ほら、記憶を頼りにする部分も多いので。……主に記事を書く時に」
「どうりで捻じ曲がった記事ができるわけだわ」
「捻じ曲げてなんていませんよ。よりオモシロおかしくしているだけです」
人目を憚らず はたては大きな溜め息をつく。文の戯言は捨てておいて、どうすれば友人がまともになるかを考える必要が出てきた。
文の話が妄言でなければどう考えても、いろいろと順序を飛び越してしまっている。
はたてからすれば、腕を組んで里の大通りを歩くなんて尋常なことではない。自分が椛の立場なら赤面なんかではすまないだろう。
初々しいさも度が過ぎると、存外なことに大胆というか見境がなくなるようである。他人に言われて後から思い返さないと、自分達がどれだけのことをしたのか分からないらしい。
しかしなにはともあれ、そろそろ本気で尻を叩いてやらねばと、はたては思う。
伝聞から考える限り失敗することはありえないのだから、安心して友人を崖から突き落とせる。
「記事の良し悪しは後にして、いい加減に呼称を変えなさい。もう十分遅いけど手遅れではないのだから」
「ですから、そのきっかけがないから困っているんです。きっかけさえあれば頑張りますよ」
「きっかけ、きっかけ言っているから、頑張れないんでしょう? 認めなさいよ、ただ失敗するのが怖いんだって」
「ま、まさか……この私が臆病風に吹かれているとでも? 風を操るこの私が?」
「鶏天狗というのも個性的でいいと思うわよ? 飛べるかは怪しいけど」
「なっ、よりにもよって鶏などと……!」
さすがに鶏というのが効いたのだろう。先とはちがう気色で文が赤くなっていく。
もう少しで導火線に火が点いてくれる。そうすれば後は勝手に物事が進んでくれるはずだ。
肩を小刻みに震わせる文を見て、はたては笑いを我慢する気も隠す気もなかった。
そしてついに火は奥の火薬までたどり着いた。
「……いいでしょう。そこまで言うのなら、明日にでも変えてみせます。ええ、やってやります」
「あらあら、大見得切るのはいいけど出来なかったらどうする? 毎朝私の家の前で鶏の鳴き真似でもする?」
「ええ、いいですよ。鶏でも鷹でも孔雀でも禿げ鷲でも、何だって鳴いてやりますよ」
「三味線して焼き鳥はさすがに恥ずかしいわよ?」
「しつこいですね。あなたこそ臆病な鶏なのではありませんか?」
はたては文の仕返しの挑発を秘かに笑う。
ここまで言い切ったのだから、本当に文は呼称を変えてくれるだろう。簡単な挑発に乗ったあたり、文も内心では半ば決心していたにちがいない。
もう愚痴を聞く夢を見なくてすむと思うと、はたての目には自然と涙が溢れてきた。思えば長い月日、文の愚痴を聞いてきたと、ありもしない哀愁すらも感じてしまう。
これでついに解放される日が来るのだ。そう思うほどに、はたての睡眠時間と精神の安寧は、文の愚痴によって蝕まれていたのである。
一人静かに涙するはたてを、文がたいそう気持ち悪そうに見ていた。
※※※※※
はたてに大見得を切った翌日。
あろうことか文は寝不足であった。住処に戻ったとたんに、急に恥ずかしさと恐ろしさが湧いてきたのだ。
恐ろしさから逃げるようにして寝床に着いたのだが、目を閉じたせいで余計に考え込んでしまい、まったく寝付けなかった。
まぶたをおろした文を襲ったのは奇妙な感覚だった。
文が目を閉じると、翌日に控えた一大事が上手くいく想像をしたかと思うと、すぐさまそれを打ち消すように失敗してしまう想像がはたらき、その後にまた事が上手くいく想像が繰り返してはじまったのだ。
こうして文は一晩中この想像上の喜劇と悲劇を繰り返し見続けてしまった。左右に揺られる心境のなかで眠れるわけもなく、一睡もできることなく朝を迎えるはめになった。
椛に気取られると面倒だと、寝不足ながら文は身繕いだけはしっかりとこなした。
体調をかんがみて前の買い物の時と同じように動きやすい装束を選び、目を覚ますために何度も冷水で顔を洗った。いつもは食べない朝ごはんもしっかりと食べた。
しかし、それだけの身繕いをしたというのに、椛の目は誤魔化せなかった。小屋に着いて挨拶がすむや否や、文はやんわりと詰め寄られた。
「なんだか今日は体調が優れないようです。奥で休まれますか?」
「少し寝不足なだけです。こう見えて案外元気なものですよ」
「小事を疎かにすると大事に障ってしまいます」
「犬走は心配性なのですね。でも安心してください、寝不足には慣れていますから」
「しかしですよ?」
「締め切り間近の極限状態に比べれば、この程度なら平気なものです」
「射命丸様は強情です」
「ええ、犬走と同じくらいにはね」
文の意固地の強さに椛は折れてくれた。
あきれの言葉を口にして、自分の作業へと戻ったのだ。体調を慮ってくれた椛を蔑ろにしたようで文の心は痛んだ。
椛に問い詰められるさい、文はその耳と尻尾が力なく垂れているのを見た。そして今も目をやれば、椛の尻尾は不安そうに垂れており。三角の耳だって伏せられたままである。
その椛の不憫な姿に責め立てられ、文は視線をやらないまま椛に声をかけた。
「……心配かけて、ごめんね」
「わかっているなら、休んでください」
何気なし謝ると、思いのほか強い言葉が返ってきた。振り返り見てみれば、椛が不満そうに口を尖らせている。文がうすく笑ってみせると、椛の耳と尻尾がぴんと立つのも見えた。
椛が元気になったのを見とどけ、文は満足して作業にうつった。
しかし、満足して作業に取り掛かったのはいいが、文の考える以上に睡魔の力は強大だった。
文は気が付かないまま眠りに落ちてしまった。
どうやら春眠は暁だけでなく、他にも多くのものを覆い隠してしまうらしい。
文の意識は夢と現の汽水に浸かっていた。
真っ暗な眠りのなかに薄っすらとぼやけた白い目覚めが浮かんでいる。意識は朦朧としてもっとも心地よい感覚に支配されている。
しかし、こうした心地よい意識は長続きものではなく必ず暗か白かに傾いていく。この時の文は白いに傾いていった。ぼやけていた白いものが輪郭を作って暗を照らしていく。
深い洞窟から抜けるようにして、文の意識はしだいに鮮明となっていった。
意識がはっきりしていくなかで特別に感じるものがあった。
木や葉や土、そして僅かに油のにおいが文の鼻孔をくすぐる。そのなかでも特に木のにおいは、少し前に嗅いだ記憶のあるものだった。
どこで嗅いだものか霧のかかった頭で思い出していると、ふと手櫛を入れられる感触があった。それも一度だけでなく、二度も三度もゆっくりと髪を流されていった。その心地よさに文は思わず吐息を漏らしてしまった。
「お目覚めになられましたか?」
「……まだ、寝ていますので、気にせず続けてください」
「よくお眠りになられていましたよ。体調が優れないのなら無理をせずとも」
「……ごめんなさい。寝るつもりはなかったのですが」
「お気になされないでください。私もこうして射命丸様の御髪を流せるのですから」
「それを言うなら、私は犬走の膝を借りています。……重かったでしょうに」
「私が勝手にさせてもらっていることですので」
そう言いながらも椛は文の髪を梳いてくれる。ときおり梳くのではなく、指ですくって遊んでいる様子もある。どちらの手遊びも気持ち良い。
文はうっとりと髪を遊ばれる感触を楽しむ。椛も遊ぶのが嬉しい、尻尾が畳を叩く音が聞こえる。
また椛に遊ばれる髪の他にも、文を楽しませるものがあった。頭を預ける椛の膝枕である。椛が足に頼る生活を好んでいるためか、その膝は意外にもしっかりとしていて文を安心させてくれる。
しかし、それでも気がかりなことがある。
「お仕事は大丈夫なのでしょうか?」
「はい、不備はありません。ご安心を」
「私の分までやらせてしまったみたいですね……」
「元はすべて私のものでした、普段が射命丸様の御厚意に甘えさせてもらっているのです」
「それこそ私が勝手にしているだけです」
「おあいこですね」
「……もう少しこのままでいてもいいですか?」
「もちろんです。射命丸様がお望みなられるのであれば」
それからは文も椛も無言となった。
文の耳に聞こえてくるのは、自分の吐息の他に椛に流される髪の音だけである。文は目を閉じて意識を集中させた。どのようにして椛への呼称を変えるか、これまでにないほど綿密に考えるためにだ。
まず文の頭をよぎったのは、それとなく変えてみるか、椛に確認して変えるかというものだった。
しかし、どう考えても確認する方が恥ずかしさは上である。素知らぬ振りをして変えれば、本当に恥ずかしいのは最初の一回ですむのだ。
大した暇もなく文は素知らぬ振りをして変えることに決められた。
それであっても、ここにきてなお文は不安であった。もし万が一にも親しくなったというのが、文の一方的な思い込みで、ただの幻想でしかないと考えると、言いようのない寒気がおそってくるのだ。
普段の文はその寒気を払拭するために、自分と椛の親しさの証拠を見つけていくのだが、今回に限ればその必要はないと思われた。今この瞬間にも椛と触れ合えているからである。文からすれば、膝枕は最上の親しみの表現の一つといえる。
しかし、その温かみを感じられているというのに、胸を凍らせる寒さは完全に取り除けずにいる。そのため結局のところ、文は普段通りと同じく、椛との親交の具合を思い出さなければならなかった。
やはり最初に思い出すのは、先週の里での買い物である。
小屋で待ち合わせ里まで下り、手を取り合って大通りを歩いた。はたてに言われて初めて気が付いたが、たしかにこれらも親しみの証拠と十二分になりえるものだ。
そうやって先週のことを思い出していると、ふと期せずして目覚めの時に抱いた疑問が晴れた。椛から漂う木と油の残り香に似たものを、その帰り道で嗅いだ記憶があったのだ。
文は確認を得るために、依然として楽しそうに髪で遊ぶ椛に、閉じた瞳のまま尋ねる。
「先週、里で買われたのは、もしかして油なのですか?」
「いえ、ちがいますが……。あっ、もしかして臭います?」
「わずかばかりですが。あまり嗅いだことないものですね」
「多分、サクラの木の臭いです。えっと……、どいた方がいいでしょうか?」
「まさか。……一晩中こうして欲しいくらいです」
「それは流石に困りますね。射命丸様もお忙しいでしょうに」
「ふふ、冗談ですよ。最初のカラスが鳴くまでお願いします」
「了解しました。まだしばらくかかりそうですし、もう一眠りされてはどうですか」
そう言って椛は髪だけでなく文の額にも手をくれた。椛の手はひんやりとして気持ちよく、思案のために目を閉じていた文は再びすぐさま眠りに落ちてしまった。
眠りに落ちながら文は、果たして桜の匂いはこれだったかなと疑問に思えた。少なくとも、文の知る桜は油に似た臭いはしないし、桜から油をとるというのも聞いたことはない。
つぎに文が目覚めたとき、部屋は薄暮につつまれていた。依然として椛の膝の上にいる。
椛はあれからも膝を貸してくれていたらしく、部屋に明かりは点けられていない。窓に目をやれと早めの月が出ていて星もちらほら見える。
最初のカラスが鳴くまでと言ったが、カラス達も巣に帰ったのだろうか、暗くなった空から鳴き声は聞こえてこない。
そのかわり、文の耳には寝息が聞こえてくる。どうやら椛も文に膝を貸しながら寝入ってしまったようだ。
文は椛に気が付かれぬよう上体を静かに起こした。
それから、傍らで座したまま眠る椛の身体を慎重に崩してやり、おかえしのつもりで自分の膝を枕にしてやった。横にしてやると寝息は少し乱れたが、すぐさま元の規則正しいのに戻ってくれた。
膝で眠る椛を見下ろしながら、文はその白髪にそっと指をさした。羽毛を扱うようにゆるりと掻き分けてみると、椛の三角の耳がぴくりと動いた。起こしてしまったかと焦りはしたものの、ただの生理的な反射だったらしく寝息が乱れることはなかった。
それから文は安心して椛の髪で遊ぶことができた。白狼天狗の毛並みは文も見慣れているものの、それが物珍しいことに変わりなく、恐る恐る目と指でその様子を仔細に観察していった。そのどれもが文にとって初めての愉悦だ。
ときには髪だけでなく、前から秘かに気になっていた狼耳にも触れてみた。付け根のあたりを撫でてやると、耳はくすぐったそうに跳ねるのである。それがまた面白くて文は味をしめて、しだいに大胆になっていった。耳の内を掻いてやったり、つまんで耳の形を変えてやったりしたのだ。
精細さに欠けた指使いであったが、椛の眠りは相当に深いらしく起きる気配はない。
しだいに髪や耳だけでは物足りなくなって、最初の感じた遠慮や不安はどこかに消えてしまった。
白い毛並みに満足した文は指を下ろし、かたちの良い眉毛で遊んだうえに、閉じられた瞼を浮かせた指の腹で何度もなぞった。
椛の睫毛は長くて大人びたものではないが、よく手入れがされているらしく小綺麗に整った感じである。
つぎに文は、その指で椛の額から鼻筋をなぞって下ろしていき、頬や唇のまわりを撫でやり、ついには喉元にまでその指を掻き滑らせた。くっきりと浮かんだ形の良い鎖骨にも触れてみたかったが、さすがに起こしてしまうと思いこの時は諦めた。
そのかわりに、文は指を椛の控えめな唇まで戻して、その上で這わせた。椛の寝息で指を湿らせながら遊んでいると、不意に開いた椛の口に指先を咥えられてしまった。
どうやら椛には強く狼の習性が残っているみたいで、口周りを刺激されると噛みつくようである。文は椛のその未熟なところすら可愛らしく思う。
ただ、噛みつくといっても歯牙を立てるきついものではなく、乳を吸うような幼く甘えたものなので、文はそのまま指を与えてやることにした。ゆるく噛まれるだけでなく、咥えられた指を舌でくすぐられるのが心地よかったのである。
そのうえ文が空いている手で頬や喉元を撫でてやれば、椛は気持ち良さそうに喉を鳴らすようになった。これもまた文に深い愉悦をもたらしてくれた。
喉が鳴らされると、その度に文の指を吸う力は強くなるため、愉悦がさらに深い愉悦を呼ぶといったものまではたらいてくれる。
そうして順々に深まっていく快楽に文が酔っていると、椛が鼻をすすらせ指を口から離した。
ついに起きるのかと思ったが、椛は寝がえりをうち文のお腹に顔をうずめるようにしてきた。どうやら文のにおいを嗅ぎつつ、自分のにおいを擦りつけているみたいである。これもまた狼の仔がする甘えなのだろう。
指と同じ様にお腹も貸し与えてやると、椛はすぐに満足したらしく、再び指を欲しがるように唇を僅かに震わせはじめた。
もちろん文は前と同じ人差し指を椛に咥えさせてやる。椛もすんなりと文の指を口に含んでくれ、また乳を吸うようにして舌で転がしてくれた。少しざらついた舌の感触が気持ち良い。
この頃になると、文の空いた手は今度こそ喉元ではなく、さらに下の鎖骨に伸ばされていた。ここまで熟睡しているのだから、きっと大丈夫だろうと踏んだのだ。
くっきりと浮かぶ椛の鎖骨は形が大変良く、起伏もしっかりと見てとれる。ぷっくりと浮かんでいる分だけ、三日月に窪んだところも大変に素晴らしい。
しかし、いくら椛が熟睡しているからといって、みだらに扱えば目を覚ましかねないので、文は浮かんだ鎖骨の上筋だけを楽しむ程度に抑えることにした。他の部位と比べ張りつめられた肌は、文の指をなめらかに滑らせてくれるにちがいない。
期待で震える指先で文はそっと椛の鎖骨を撫でてやった。指の腹が膨らんだところに触れた時、椛の呼吸がむず痒そうに乱れた。それまで胸の前で合わされていた椛の手がにわかに動き、文の指が乗ったところを払う。文はそれに合わせて指を鎖骨から離して難を逃れた。
その後もしばし椛は首元を掻いていたが、また胸の前で手を合わせ、その寝息も規則正しいものに戻った。文は一瞬だけ迷ったものの、やはりその魅力に抗うことは出来ず、懲りないで指を乗せた。
それほどまでに椛の鎖骨は素晴らしいものであった。
撫でればなめらかなに滑るのは当たり前で、指の腹で突いたり叩いたりすれば硬くしっかりとした骨の感触が伝わってくるし、軽やかな音もまた文を楽しませてくれる。まるで木管楽器である。
抑えきれずに、起伏のうちの伏である三日月の窪みに指を入れれば、骨と骨の間の奥に温かな血肉を感じられた。指を入れるだけでなく、引っ掛けて折れない程度の力で引っ張りたくもある。もちろん流石にこれは自制した。
このようにして文は我を忘れて、眠り続ける椛で遊ぶに遊んだ。
それから半刻して椛が目を覚ました。
目覚めた椛は自分の境遇を知るや否や飛び起き、慌てて文に無礼を詫びはじめた。その慌てぶりは凄まじく、薄暮も過ぎて月明かりだけに照らされる部屋であるのに、はっきりとその気色が分かるほどであった。
対して文はあくまで落ち着きを保ったまま、慌てふためく椛を諌めた。しかし椛は本当に驚いたらしく、目尻にうっすらと涙を浮かべている。
「起きていきなり騒ぐのは、身体に悪いですよ?」
「……いろいろと申し訳ございません。ここまでの無礼を犯すなどとは夢にも……」
「無礼とは思っていません。私の勝手にしたことですから」
「しかし、射命丸様に噛みついたことには変わりありません」
「そんな些細な事は気にしなくとも。たしかにうすく歯型はついていますが」
「決して些細ではありません。大変重篤な問題です」
「もしかして、美味しくなかったとか……私の指」
「味とかそういう問題ではなくて……。私は白狼の身分です、そして射命丸様は――」
「味には自信あったのですが。もう一度試してみませんか? ほら、お口を開けてください」
「……私の負けです。ですが、御冗談はほどほどにしてください」
あれほど慌てふためいたのに椛は早くもあきれ顔になった。何かある度に古い慣習に固執していたのが、今では大分なりを潜めてくれ、文に対して融通や諦観を知ってくれた。
おかげで文としては付き合いやすくなり満足しているが、今回の事はそれを差し引いても重大な過ちと感じているらしい。依然として椛はあきれ顔に影を宿している。
文からすればただの遊びであっても、椛にとれば背徳に思えるようである。
「ところで犬走。よく眠られましたか?」
「……射命丸様には敵いません」
「私は先にも言いましたが、よく眠れましたよ」
「……おふざけが過ぎます」
帰り支度をしながら文は椛に尋ねた。口では苦言を言っているが、尻尾の方は嘘をつけないらしく、左右に揺れているのが見える。
二人で一緒に小屋を出ると、すでに月は高いところにあった。文は椛の別れの一礼を見届けてから、名残惜しくも帰路についた。
そして小屋と住処のちょうど中間のところで、今日中に呼称を変えるという賭けを思い出した。
教えなければ誤魔化せる賭けだとは知りつつも、文は踵を返して椛を追いかけることにした。椛のことだから歩いて帰宅するはずで、空を行けば必ず追い付けると踏んだのである。
※※※※※
結局のところ文は椛を見つけられなかった。
よくよく考えてみれば、追い付いたか追い越したか分かるわけがなかった。いくら椛の白い毛並みが暗いところでも目立つといっても、木々にさえぎられては意味をなさない。
しかも、残念な事に文は椛の家も帰路も完全に把握できていなかった。何度か椛の住処に訪れたことはあるが、そのどれもが椛の付き添いがあり、昼間の時間帯に歩きで案内されたこともあり、文一人の空路だと曖昧なところが多いのだ。
そのため、文が苦心して椛の住処に辿り着いた時には、すでに窓から明かりが漏れていた。きっと椛はくつろいでいることだろう。慌ただしくならないと考えれば、好都合なのかもしれない。
文は少し離れたところで着地して、探し飛びまわるうちに乱れた髪や服装を正し、ついでに呼吸も整える。荒い呼吸は椛を探しまわった以外にも理由がある。今こうしている間にも、文の胸中では期待感と不安が波打ちひしめいているのだ。
一通りの心構えが出来たところで、文は椛の住む住処へ足を運ぼうとしたが、ちょうどその時に誰かが近付いて来る足音がした。文は咄嗟に身を隠して様子を見ることにした。何か不審な気配を感じたのだ。梢の影に身を潜めると何やら不思議な好奇心も湧いてきた。
月明かりと星の光だけを頼りにして文が周囲の暗闇を探っていると、椛の住処近くの茂みから何かが出できたのを見つけた。出てきた影は身に付いた塵芥を落とそうとしてか、その場で身を震わせはじめた。
やや距離があり明かりも乏しいため、その正体を見定めるのには困難だと思えたが、その仕草を見て文は一つの見当をつけた。その身を震わせて塵を落とす仕草は、椛が雨に濡れた時にするものとよく似ているのだ。
実際、文が睨んだ通りにその影の正体は、もちろん椛ではないが、白狼天狗であった。
しかし椛の髪がせいぜい肩にかかる程度であるのに、月に照らされたその白狼天狗の髪は尻部あたりまで伸びており、もはや尻尾と一体化している。それでいて、手入れは細かくしているのか、あきらかに長過ぎる髪であるのに、そこ乱雑さはない。白狼天狗とは思えないほどの怪しげな艶やかさが、離れた場所にいる文にも十分に見てとれる。
そして、その怪しく美しい白狼天狗はおもむろに椛の住処に寄って行きその扉を叩いた。
白狼天狗が扉を叩くと、少しの暇もおかないで扉が開き、住処の中から椛が顔を出した。はっきりと声は、こえないが、その白狼天狗と椛が特別に仲の良いことは雰囲気だけで知りえた。
嬉々とした気配を漂わせる戸口の二人を見ながらも、文は取り乱すことはなく梢の影で冷静さを保っていた。決して面白くないが、文句を言いに表に出られるほど文は無粋ではないのだ。
しかし、その後に椛が白狼天狗を住処へ招き入れ、窓から漏れてくる二人の談笑を聞いているうちに、物寂しさと悔しさを感じずにすむわけがなかった。
それであっても文はかなりの時間を木陰で耐え忍んだ。月が流れて木々の作る影がその向きを変えても、文はその場を動かずに白狼天狗が出てくるのを待った。
しかし、文もついには根負けしてしまい、今晩は諦めて立ち去ることにした。談笑が途切れて久しいのに関わらず、依然として二人の別つ気配がしないのである。そのうえ密やかな声や息使いの音すら聞こえるようになった。
触れてはいけないものに、触れてしまった感覚に襲われ、文は最後に椛の住処を一瞥してその場から去った。胸の奥で何かが吹き荒んでいた。
※※※※※
翌日、昨晩のことを気に掛けながらも、文は平常心のまま椛と作業を共にできた。
住処に戻り落ち着いて考えてみれば、椛にも仲の良い友人が一人や二人いても変ではないと思えたのだ。文にも はたてがいるのだから、おあいこだともいえる。
また、変に意識するだけ失礼なことだと思い、文は小屋で椛に会っても特に詮索する気はなく、あくまで普段通りに過ごそうとも考えた。
熱心に作業に取り組む椛の姿は、今までと何ら変わらないもので、耳は緩やかに立ち尻尾は左右に揺れている。文はそれを見るだけで、いつもと変わらぬ安寧とした時間に身を委ねられ、昨晩の事を忘れられるのだ。
作業自体は決して楽しくないが、椛が近くにいるためか、その安らかな時間は駆け足で去っていく。気が付けば、いつものお茶の時間になっていた。
「そろそろ休憩しましょうか。今日も時間通りに帰れそうですね」
「はい、射命丸様」
文が休憩を誘えば、椛は何も言わずともお茶を淹れて持って来てくれる。初めは仰々しかったその運びも、今では日常の風景に溶け込んでしまった。今も椛がお茶の準備をしてくれるのが音だけで分かる。
いつの日からか、椛が知らぬ間に文の好みの味と熱さを覚えてくれたのか。それとも逆に文の方が好みを合わせたのか定かではないが、文は椛のお茶が好きになっていた。
さらに言うならば、文は椛と飲むお茶が好きなのだ。
「はい、どうぞ。お熱いのでお気を付けください」
「いつもすみません」
「それは言わない約束です。……これでいいでしょうか?」
「文句なしの満点です。もちろんお茶の方も……」
手渡された湯飲みは文の好きな温かさであるが、立ちこめる湯気の匂いは少し異なっている。気になって少し飲んでみると、たしかに普段の味と違った。茶葉を変えたのだろうか。しかし茶葉はつい先日に文が持って来たばかりで切らすには早過ぎる。
文が不可思議に思っていると、一息ついた椛から声をかけられた。
「今日も射命丸様はお眠りになられると思いましたが、どうやら杞憂だったみたいですね」
「二日立て続けに寝てしまっては犬走に悪いでしょうから。しかし、どうしてその様なことを?」
「お昼にお眠りになったせいで、夜に眠れなくなってしまわないと思いまして」
「それを言うなら犬走だってじゃありませんか。どうですか? 我慢しなくとも膝を貸しますよ」
「心配には及びません。昨日は……帰宅してすぐに床に着きましたので」
「……そうですか、それは残念。もし眠くなったらいってください。いつでもお貸ししますので」
「射命丸様も言いつけて頂ければ、いつでもお貸しいたします」
喉に引っ掛かりを覚えないわけではなかったが、文もそれをわざわざ暴こうとは思わなかった。私生活をみだりに吹聴する輩よりは清潔だと思える。
あまり知られたくないことは椛にもあるはずで、そこに詮索を入れるのは不潔なことである。
しかし、いくら前向きに捉えても、やはり昨晩と同じ物寂しさが湧いてくる。
それを消すためにも文は、椛を夜の散歩に誘おうと思い立った。望月を立会人にして呼称を変えようとも思ったのだ。
「犬走が春装束になってからけっこう経ちますね」
「少し早めの衣替えだったのですが、最近は冬装束を見なくなりました。もう立派な春です」
「夜風の冷たさもずいぶんと和らぎました」
「雪も降らないし積もらないでしょうから、雪下駄をかたさなければ」
「ところで、今夜は久しぶりに散歩をするのですが……お供してくれませんか?」
「申し訳ございません。私も射命丸様と春の月星を眺めたいのですが、今晩は小用がありまして」
「そうですか……。それでは、また今度の機会にしておきます」
「つぎの機会には必ずやお供させて頂きます」
それを言う椛の目は真っ直ぐで一点の曇りもないように感じられた。そんな椛を一寸でも怪しんだことを文は秘かに恥じた。考えてみれば椛が文を疎かにしたことなど一度たりともない。
初めて会った時から椛は、多少は堅苦しいところもあったが、文のことを何よりも尊重してくれた。変な話であるが気にかけてくれたといっても過言ではない。
そうやって椛があまりにも真摯に接してくるので、ついつい文も理想の上司を演じてしまい、いつの間にかそれが演技ではなくなってしまった。気が付けば文もまた椛と真摯に向き合っていたのだ。
しっかり見てやると堅苦しく隙がなく思えた椛にも、存外なところで抜けており欠点も多々あるのを知った。白狼天狗達の間では、大きいほど良いとされる狼耳は明らかに小振りであるし、振れば品がないとされる尻尾はよく動く。それこそ舌を牙縫いしてしまうことも少なくない。
手先だって一見すれば器用のようで、実のところ不器用なのを日陰の努力で補っている。内面の才覚だって文が褒めるほどの繊細さが本当にあるわけではない。むしろ愚鈍とさえ思えるところもある。裏なく称えられるのは美しい毛並みくらいだ。
しかし、それだけの欠点をしても、文は椛を優秀な白狼天狗だとするし、また格別に大切な存在だと認めている。椛が欲するのなら首はさすがに無理にしろ、片翼くらいなら差し出せる気持ちさえある。
文のこの椛への思い入れのすべては、その真摯さに帰結すると言える。文には椛の愚直さが自分には真似できない貴いものに見えるのだ。
誘いは断られたが、文にはまだ存分に心の余裕があった。つぎに誘えば必ず椛はお供をしてくれると信じていた。
しかしながら、その期待は遂げられず、翌日も翌々日も文は椛に誘いを断れ続けることになった。
※※※※※
椛が文の誘いを断るようになって一週間ほどが過ぎた。
文は数日に一度くらいで椛を夜の散歩に誘ったが、どれも多忙を理由にして供だってくれなかった。椛は作業を終えるとすぐに帰宅してしまうのだ。
季節の変わり目であるから、用事が重なってしまうのは不自然ではないが、どうしても文は腑に落ちないでいた。あの晩の事が無関係だとは思えない。
いくら椛の私事に踏み入らないことは肝に銘じておいても、気になるものは気になってしまう。あの晩に見た白狼天狗の事が気にならないと言えば嘘になる。どれだけ言葉で飾ろうとも、文には俗な好奇心が人一倍あり、その本質的な欲求が文を惑わせるのだ。
しかし、文は惑うことはあっても実際に椛を問い質すことはせずにいられた。
それは単に聞くのが恐いというのもあるが、やはり一番の理由は椛への信頼である。文は詮索を裏切り騙すことにも等しい行為だと考えるのだ。
そのため、文はどうしても我慢できなくなると、例え作業中であっても、休憩と称して小屋を出て大瀑布を眺めに行くようになった。
ときには眺めるだけでは雑念がはれず、大瀑布に頭から飛び行ったことすらある。幸いなことに河童に助けられ大事には至らなかったが、ずぶ濡れで小屋に戻ると椛に問い詰められた。鴉の行水と言っても誤魔化せれなかった。文が身体を乾かしている間に、椛は予備の装束を住処まで取りに帰ってくれた。その日だけは文も椛と同じ装束で作業することになった。
そして、今日も小さな小屋に張り詰めた声が響く。
帰り際に散歩に誘ったところ、文の目の前で椛が深々と頭を垂らす。
文が気にする必要はないと言っても、椛は頭を上げようとせず謝罪を続ける。
椛に誘いを断られるのには慣れたが、こうして謝られ続けるのにはどうしても慣れない。
「本当に申し訳ございません。ここのところ私事が立て込んでおりまして」
「他に用があるのなら仕方がありません」
「せっかくのお招きを何度も反故にしてしまい、失礼なことだとは思っているのですが」
「いえ、無遠慮な私が悪いのです……。あまり気にしないでください」
「私事さえ落ち着けば是非ともお供させて頂きます」
「その時を楽しみにしておきます。……出来るだけ早めにね」
「かしこまりました」
椛は言い終わるや否や、文に一礼をするとそそくさと帰ってしまった。小屋の前に一人残された文はその後ろ姿を見つめるしかなかった。
普通ならば文句の一つも言いたくなるが、誘いを断る椛の声は本当に申し訳なさそうで、咎める気など持ちようがなかった。肩を縮こませ頭を垂れる椛は不憫でならず、文は椛を追い詰めているように感じられるのだ。
椛の背と尻尾が見えなくなるのを見届けて、文は住処へと飛ぶ。尻尾を追えば好奇心も満たされようが、今でも椛を裏切る気はないし、好奇心を満たす勇気もない。
文は住処へと飛びながら、これを機に当分は新聞に集中しようなどと気を紛らわせる術を探す。
あぁ、そういえば、新聞がまだ完成していませんでしたねと、存外なところ早く見つかり気休めを得られた。
しかし、帰宅した文が一人寂しさを慰めるために机に向うと、喜ぶべきか悲しむべきか、驚くほど軽やかに筆が進み、持ち合わせのネタを全て消化してしまった。
これもひとえに椛の書き起こしてくれたメモのおかげである。椛のメモは取材に関わることは漏らさず記しており、それでいて後で見やすいように要所で簡潔にまとめられていた。
それを片手に筆を走らせたのだから、一文にしては珍しい一縷の無駄もなく、また誇張や脚色の混じらない純粋な事実が書かれた記事が出来た。
出来たあがった記事を推敲して、文は記者として少しの悔しさも感じながらも、概ねその仕上がりに満足した。
仕事をやり遂げて満足気に伸びをすると、そのはずみでロウソクの火が消えてしまった。それでいて文の住処はめっぽう明るい。傍らの窓から月光が差しこんでいるのだ。
その青白い光に誘われるように文は窓の方を見た。
そこには窓縁で四角に切り取られて、中枠でさらに四つに分けられた夜空があった。四つに仕切られたうち向かって右上の夜空には月が浮かんでいて、ちょうど今夜が十五番目のようだ。
曖昧でいて完全であるそれは、文が立会人にしたかったものである。
文は散歩に出ることにした。青白い月に呼ばれたのだ。
文は散歩というのだから飛ばすに歩くことにした。夜空を飛ぶのは馴染み深いが、夜道を歩くのは新鮮である。
空は黒ではなく深い藍色で染まっている。藍色の空に浮かぶ月は、文を慰めこそしてくれないが、地にいながらの奇妙な浮遊感を与えてくれる。まるで現と夢の境界に立っているような心地がする。
わずかに聞こえてくるものは、虫の音と梟の鳴き声だけで、それ以外はすべて闇に溶け込んでしまっている。
(あの白狼天狗は誰だったのでしょうか)
行く当てもなく歩いていると、文の頭に浮かんでくるのは、あの晩に見た白狼天狗のことだった。
文は椛にあそこまで仲の良さそうな知り合いがいるなんて知らなかった。
いままでの椛の雑談のなかに、他の白狼天狗や河童の知り合いや友人が出てくることは何度もあったが、あそこまで特徴的で親しげな白狼天狗がいるとは一度も聞かされていない。
しかも、あの白狼天狗は通い慣れた様子であったし、椛もごく普通に尻尾を振りながら招き入れていた。包み隠さず言えば、思い出すだけでも奥歯が軋んでしまう。日が過ぎていくごとにその音は強くなっていく。
それがあまり良くない事だと分かっていても、文にだって独占欲はあるのだ。椛を人目につかないように、どこかに囲ってしまいたい欲求だって心の奥底に眠っている。
それゆえ、椛が自分以外に懐いているのを見れば気分は悪くなるし、その程度が過ぎれば沈んでしまう。浮ついた噂を聞かないことだけが、せめての救いだといえる。
沈んだ足取りのままでいると、気が付けばいつもの小屋の近くまで来ていた。辺りが静寂に包まれているせいか、大瀑布の気配は昼間よりも強く、意識せずとも容易に感じられる。
文は大瀑布を拝んでから帰ることにした。大瀑布を見れば湿った考えも吹き飛ぶと思ったのだ。
当たり前だが大瀑布には昼も夜もないようで、轟音を立てて清流を落とし込んでいた。しかし音こそ同じであるが、流れ落ちる水幕に望月が映し出されている。夜天と水幕の二つの月に照らされて、辺りは青白い月光に照らされていやに明く神秘的である。
大したものはないだろうと、写真機を置いて来てしまったのを惜しむ。後日に写真を見せてやれば、椛も喜んでくれるだろうし、はたてには自慢出来たはずだと思えた。
しかし、ふたたび大瀑布を泳ぐ月を眺めると、その月光が冷徹に感じられた。水幕に泳ぐ月だけでなく、夜天に浮かぶ月も見てみたがやはり冷たい。立会人にするには少しばかり情が薄いようだ。
それを思うと文は負け惜しみじみているものの、幾分か前向きな気分になれた。
それに、もう少し待てば桜だって咲くのだから、立会人は桜に頼もうかとも思えた。桜を立会人にしてお酒を片手に椛と並ぶ。考えるだけで胸が高鳴る光景だ。神社の境内で騒々しい連中と飲む酒もいいが、椛と二人きりの花見酒というのも洒落ているにちがいない。
そう言えば、椛はお酒に強いのでしょうか、ふと文は疑問を持った。
意外なことなのか、文は今まで椛と杯を交わしたことがなく、椛がどれほど飲める口なのか分からないのである。そもそも白狼天狗と席を同じにすること自体が稀なのだ。
文もまさか椛が自分より強いとは思わないにしろ、どの程度までなら平気なのか気になった。調子に乗って飲ませ過ぎても椛に悪いし、かといって遠慮させては文が面白くない。
二人楽しく飲むためには是非とも知っておきたいところである。あわよくば酔った椛を介抱してやりたいし、酔い潰れた振りをして椛に介抱されるのも捨てがたい。文が椛の口を知らぬように、椛も文の口を知らないはずである。桜花を天井にして椛の膝を借りるのも一興だといえる。
まだ先の桜の花を夢見ながらいると、ちょうど大瀑布をわけて向こう岸に人影が来るのが見えた。人影は二つあり話し込んでいるのか、文には気が付いていない様子だ。嫌な予感がした文は木の上に逃げた。
いつしかの晩のように息を潜めて大瀑布の向こう岸を見ると、嫌な予感は的中した。
人影の正体は椛とあの白狼天狗だった。大瀑布の轟音のせいで声はまったく聞こえないが、それでいて楽しげな気配だけは、文の元にもひしひしと伝わってくる。
どうやら白狼天狗の二人は大瀑布を泳ぐ月が目当てだったらしく、奇しくも文が大瀑布を眺めていた場所と真逆のところに腰を据えた。見るからに二人の仲は睦まじく、我も忘れて文も見惚れてしまうほどである。
二人は岩に腰掛け、何やら楽しそうに語り合っている。文のところからは何を言っているのか分からないが、その二人の楽しげな様子に、最初は見惚れつつもしだいに胸は苦しくなる。
一刻も早く椛と白狼天狗を引き離してやりたいが、そんな暴挙に出られるわけもない。また引き離せないのならば、せめてこちらが立ち去ろうとしたが、金縛りにあったかのように身体は動かせず視線も逸らせずにいる。
文は指を咥えて二人を眺めるしか出来なかった。
明るい夜なのが災いした。大瀑布に月が映るのも不幸だった。
どちらか片方でも欠けていれば、文は見ないですんだのだ。
二人の肩を寄せ合う姿も、二人の手が添えられるのも、二人の影が深く重なるのも。
暗ければ何一つ見ないですんだのだ。
その光景はまるで一枚の写真のようで、文の心に深く焼き付いた。
※※※※※
翌朝、文が目を覚ますと頭と目尻が痛んだ。
寝床は荒れており、枕元には空の酒瓶数本が転がっている。吐き気こそしないが気持ちの悪いことに変わりはなかった。飲みながら盛大にこぼしたらしく、全身から酒の臭いがするのも都合が悪い。
すでに日は高いところにあり遅刻は決定している。
文は一寸悩んだ末に、湯浴みをしてから小屋に向かうことにした。遅刻をしたうえ無様な姿を椛に見せたくない。
かえの装束はあるでしょうかと、タンスをのぞいてみると白狼天狗の装束が入っていた。文はつい先日に椛から装束を借りたことを思い出した。返すのを忘れていた。
さすがにそれをかえにするわけにもいかず、タンスの段を順々に開けてみると、型落ちであるが鴉天狗の装束を見つけられた。少し古臭いが酒臭いよりは健全である。
その古い装束を片手に文は湯殿に向かった。
以前までは早朝と晩しか開いてなかった湯殿も、数年前に温泉が見つかってからは、その湯を引き入れることで終日の利用が可能になっている。
朝と晩に利用することは多々あるが、昼間の湯浴みは文も初めてのことになる。脱衣所に入る時に番台の天狗に好奇の目でみられた。
脱衣所で少し古めの装束を棚に置いて、酒に濡れた装束は脱衣籠に放り込む。脱衣をすませた文が入ると、浴場は湯気と硫黄の臭いが立ち込めていた。朝晩はにぎやかな湯船も日が高いところためか、客は文だけのようである。
文は軽く身体を湯で清めたあとに、肩まで湯船につかって一息漏らし、おもむろに前夜のことを思い返した。
前夜、文は二人の逢瀬を最後まで見ることなく、その場から立ち去った。
大瀑布の轟音のため木から下りるのに、音を気にする必要はなかったが、念には念を入れてゆっくりと降下した。おかげで後を濁さず去れたと思う。
住処に戻ってからの記憶はないが、だいたいの想像はつく。やけ酒をしながら不貞寝をして、さらには寝泣きまでしたにちがいない。
そこまで思い返して、文はなんて浅ましいことかと、自分が情けなくなり自然と膝を抱いた。お湯につかっているのに寒気がおそってくる。
文は心のどこかで椛に好かれていると思い、いつかは椛の特別になれると思っていた。
しかし、実際は椛が本当に好いているのも特別に慕うのも、あの妖艶な白狼天狗だった。文ではなかったのだ。
文はそれを知らず浮かれていた自分の愚かさを恥じ、椛の真意に気が付けなかった自身の鈍さを悔いた。
すべては文の思い違いと思い込みだったのである。その勘違いを罵り、その自惚れを呪うしかない。
湯気に舐められ睫毛に水滴が乗る。
嗚咽こそなかったが、文は湯船のなかでたしかに頬を濡らした。
湯船からあがった文は身体を丹念に拭いて、かえの装束に着替えた。酒臭いのは当番の天狗に預け洗いに出させ、そのついでに新しいのを一着よこすように言いつけた。洗濯には数日かかるが、かえの装束は早ければ今日の夕方にでも届くとのことである。
温泉で身を清められたのと、湯船のなかでひとしきり泣いたこともあり、湯殿から出た文は奇妙なほどに爽やかだった。
文はその爽やかさが消えぬうちにと、急いで小屋に向かった。また、小屋に向かう間は極力何も考えないようにした。せっかくの爽やかな気分を湿らせたくはないのだ。
遅れながら文が小屋に入ると、椛が作業の手を止めて早足で寄ってきた。
椛は怒るでもなく心配するでもなく、ただ文にかなり遅めの朝の挨拶をくれた。椛は上機嫌らしく尻尾をしきりに揺らしており、それにつられて文も頬を緩めてしまうが、その裏で椛の上機嫌の理由は考えないように努めた。
挨拶のほかに定型的な報告を聞き文が席に座ると、ほとんど間をおかず椛がお茶を持って来てくれた。お茶は文の好みよりも少し熱い。どうやら椛は自分に淹れたお茶を、文にまわしてくれたみたいである。
「射命丸様が遅れになられるとは珍しいですね。お寝坊ですか?」
「少し寝過ぎてしまいまして……。犬走は定刻通りにここに?」
「実を言うと私も少し遅れてしまいました」
「お寝坊さんですか?」
「その通りです。申し訳ございません」
「なるほど。定刻通りでしたら、犬走の初遅刻が見られたと。それは惜しいことをしました」
「今朝のような不覚は二度と取りませんゆえ」
文もどちらかといえば時間を遵守する性格だが、椛はそれ以上である。事実、一緒に仕事をするようになって、これまで椛が時間に遅れたことは一度もなかった。
それなのに今日に限って遅刻となると、あの白狼天狗が無関係などとは到底思えず、嫌でも文は昨晩を思い返させられる。
「ところで、射命丸様の今日のお召しものはいかがなされました?」
「やはりわかりますか。かえを切らしているのを失念してしまったのです」
「たしか鴉天狗様達の旧装束ですよね。あまり馴染みはありませんが懐かしく思います」
「よく覚えているのですね。ちなみに新旧の装束、どちらの方が私に似合いますか?」
「難しい質問ですね。どちらも射命丸様にお似合いしますから。でも、強いて言うのなら古い方ですかね」
「どうしてこちらなのです? 私も嫌いではないのですが、古臭くありませんか?」
「初めてお会いした時の御姿だからです。私が懐かしく感じるのも同じ理由です」
「そうでしたっけ? たしかに時分としてはおかしくないですが」
「ええ、たしかに射命丸様は今の御姿をしておられました」
「犬走が言うのですから、きっと正しいのでしょうね」
椛は鮮明に記憶しているようだが、文は椛と初めて会った時のことなど覚えていない。記憶力そのものは良いが、興味のないことはすぐに忘れてしまう。正直なところ、当初の文は生真面目な白狼天狗と一緒に働くのを億劫に感じていた。
文が椛に強い興味を持ちはじめたのは、仕事を共にするようになり少し経ってからである。
「そう言えばお寝坊されたのはどうなされたのですか? やはり新聞なのでしょうか?」
「……まぁ、そんなところです。犬走のメモのおかげで筆が止まらなくて」
「お役に立てたことは嬉しいですが、お寝坊させてしまい複雑な気分です」
「そうですね。早くに来て犬走の遅刻を見届けて、それをだしに膝を借りるべきでした」
「もう、お戯れがすぎますよ」
「知らないのですか? 犬走のお膝は心地良いものなのですよ?」
「それを言えば射命丸様のお膝も気持ち良かったです」
話しているうちに手元のお茶が、文の好きな熱さになっていた。文がそれを一息に飲み終えると、椛は湯飲みを受け取りかたして、そのまま作業に戻っていった。
文はその様子を目で追いかけることもしないで、椛が置いてくれた資料だけに集中した。そうしなければ昨晩のことを問い質してしまいそうになるからだ。
しかし、文が考えないよう努めても、椛のする仕草の一つ一つを見るだけで、昨晩の大瀑布を思い出させられるのである。あの妖艶な白狼天狗の素性はもちろんのこと、どういった関係なのか根ほり葉ほり聞き出して確かめたくある。
二人はどこで知り合って、いつから付き合いがあるのか、そしてどれほど親密な関係なのか。
仮に文がそれらを問えば、椛はすべて応えてくれるだろう。恥じらいながらも、つつみ隠さず文に交流を知らせてくれるにちがいない。
それでなくとも、実際に目の当たりにしたのだから、もはや二人が特別な仲であることを疑う余地はない。目を逸らさず考えれば、二人が特別な関係であることは明白なのだ。
二人が特別な関係であることを認めると、文は今までの自分のおこないがひどく破廉恥に思えてきた。
知らないとはいえ椛を取材と銘打って連れまわしたり、その手を取らせたりしたうえに寄り添ってしまった。それに加えてつい先日は膝の貸し借りまでしてしまっている。考えたくはないが、椛は擦り寄られるのを嫌って、文の誘いを蹴る様になったのかもしれない。
文はなんだか自分が椛に背徳なことを強いたと思えはじめ、背筋に冷たいものがはしる。
何事も真摯にかまえる椛にとって、自分の強いた背徳行為はどれほどの苦痛であろうか。それも一度や二度ではなく細かいものを含めれば相当な数にのぼる。今まで椛は嫌な顔一つ見せずに、ずっと影で耐えてきたのだろう。
今でも椛は文に嫌な顔どころか苦言すら漏らしてはこないのだ。それがどれほど精神を削ることであるか想像はかたくない。文は自分の軽率な振舞いを呪う。
謝ればすむ問題でないのは確かであるが、それでも文は椛に今までの浅慮を謝りたくあった。
しかし、唐突に謝ってしまえば椛を当惑させ、逢瀬を盗み見たことを白状しなくてはいけなくなる。そのため文は詮索癖とともに、その謝意すらも胸の内に隠さなければならなかった。
二つのものを胸に秘めての作業は、いつもより疲れるうえに長く感じられた。
この日もまた椛は作業を終えるとすぐに帰ってしまった。
文もそれに倣って、椛の背を見送ることもなく住処へと飛んだ。まっすぐ帰るつもりであったが、途中でかえの装束を頼んでいたのを思い出し、向きを変えて湯殿へ立ち寄ることにした。
文は昼間にもくぐった暖簾を通って湯殿に入り、番台に座る天狗に装束のことを尋ねた。
番台の天狗が言うには、係の者が文と入れ替わりで出立したため、かえの装束が届くにはしばらく時間がかかるとのことだった。文は出直すのも面倒に感じて、係の者が戻って来るのを湯殿で待つことにした。
文は番台から離れたあと、入口からすぐの待合室の片隅にある椅子に腰をおろした。文の場所から入口はよく見え、係の者が戻って来ればすぐに分かる。
日が傾いたとはいえまだ明るいというのに湯殿は盛況である。
文のいる待合室にもたくさん客がおり、さすがに人間の客はいないものの、天狗以外にも河童やその他の妖怪の姿も多く見られる。
友人と雑談をする者、長椅子で寝ている者、冷えた飲み物を楽しむ者などと、それら各々がくつろぎの時間を楽しんでいる。
そのなかには腰に手を当て、立ったまま牛乳を勢いよく飲んでいる傾奇者もいて、その珍妙な姿で他の客達の視線を集めている。
文も物珍しさでその傾奇者に目を向けていると、牛乳を飲み終える前に番頭の天狗達に取り押さえられるのが見えた。傾奇者も激しく抵抗したが、さすがに多勢に無勢で番頭達に敵わず、最後は引きずられるようにして奥の個室に連れていかれた。
やはりタオル一枚で脱衣所から待合室まで出てくるのは規則に反するのだろうか。引きずって行く番台達の怒声を聞く限りは常習犯のようである。
それにしても、文には傾奇者の鴉天狗が知り合いのように思えた。また傾奇者も抵抗のさなかに文の存在に気付いたようであった。
事実、傾奇者は番頭達に引きずられながら、文に助けを求めるように文の名と、「私よ、私よ」と文もよく知る友人の名を連呼していた。
もちろん文は珍妙な者と関わりたくないので無視を決め込んだ。新聞のネタが無いからといって、わざわざ自分がネタになるほど酔狂ではない。
騒動が一段落した頃に、籠を背負った天狗が湯殿に入ってきた。
湯殿の当番がする前掛けをしており、一目でそれが番頭の言っていた係の者だと文は分かった。
かえの装束を受け取ろうと立ち上がると、それより先に係の天狗に声をかけている者がいる。見れば長く美しい髪をしたあの白狼天狗である。どうやら白狼天狗も装束を頼んでいたらしく、係の天狗からそれを受け取っている。
文は注意深くその姿を観察した。
見たところ白狼天狗は風呂上がりなのだろう。一際目立つ長い白髪はわずかに湿っており銀色に見える。
真っ白な頬も湯上がりで火照っているためか、わずかに赤くなり白桃のように見え、そのせいか桃の甘い香りがするように感じられる。
また長い髪からのぞく狼耳も、椛とそれとはちがって、大きいうえに形もよいし、尻尾は毅然として立っており見るからに上品である。
そのため、先の傾奇者とはちがった意味で文を含めた客達の視線をその美貌に集めている。風呂上がり特有の赤んで湿った色気のせいで、その妖艶さがずいぶんと増しているのだ。
しかしながら当の本人にその自覚はないようで、自慢気な様子は見受けられず非常に落ち着いていて、かえの装束を受け取ると、そのまま湯殿を去ってしまった。
まわりの客が白狼天狗の残り香に見惚れているなか、文だけは無意識のうちにその背中を追った。外に出て白狼天狗の姿を探すと、少し離れたところにその後ろ姿を確認できた。
満月には劣るものの少し欠けた月に煌々と照らされているため、その長髪は青と銀に妖しく輝いていて、白狼天狗のまわりだけが明るく見える。
白狼天狗の向かう方角からするに、今晩も椛の元を訪れるのだろう。このようにして連日連夜に、椛のところに通い続けているのかもしれない。
それだけ見ると、文はかえの装束を受け取りに湯殿に戻った。追いかけてどうこう出来る問題ではないのだ。
文が湯殿に戻ると、係の天狗は入口の近くで荷を降ろしていた。
文は構わず要件を言って、かえの装束を出させる。
そのさいに、文は素知らぬ振りをして、あの白狼天狗のことを尋ねてみたところ、係の天狗は粘つく視線で文を物色しながら、ぺらぺらと立て板に水を流すようにして、知っていることを詳細に語ってくれた。
自分から尋ねておいて理不尽であるが、文は話しを聞きながらも、胸の内から湧いてくる不快感を抑えるのに心血を注いだ。語られる内容もそうであるが、何よりも係の天狗の下卑た笑みが、苦痛とも不快ともとれない嫌な感情を抱かせてくるのだ。
一通りの情報を引き出せた文は、装束のことだけに礼を言って、さっさと湯殿を出て帰路についた。係の天狗に引き止められた気がしたが、あまり相手をしたくないので聞こえない振りをした。卑しい笑みには耐えかねた。
帰りの空で文は少し欠けた月を見ながら、椛とあの白狼天狗のことに思いを馳せる。係の天狗の話の端々から、二人の並々にならぬ深い付き合いが想像できたのだ。
係の天狗が語ることには、あの白狼天狗は名前こそ知られていないものの、湯殿ではかなり有名な存在だという。それはほぼ毎日湯浴みに訪れるからでもあるが、一番の理由はあの妖艶な姿によるところが大きいとのことで、彼女を目当てに湯殿へ来る連中も多いらしい。
また、あの白狼天狗は基本的に一人で湯浴みに来るとのことだが、ときおり別の白狼天狗を連れて湯殿に来るときもある。その同伴者の特徴を尋ねてみると、教えられる特徴のすべてが椛のものと符合した。
さらに二人が背中を流しあったり、髪を洗いあったりするのを見たという者もいて、ときには湯船の中で寄り添って湯船に浸かる姿も見られるとのこと。
その仲睦まじい光景は、主にあの妖艶な白狼天狗と親しげにする椛への羨望や妬みだが、仲間内で必ず話の種や酒の肴になるのだという。
それらの話を聞けば聞くほど、文は椛が縁遠い存在であることを認識させられた。
今まで文が積み重ねたものを足しても、椛はなお手の届かないところにいる。それどころかいくら手伸ばし足掻いても、椛に辿り着く日はこない。すべてが遅かったのだ。
住処に着いた文はかえの装束の合わせもせず寝床に着いたが、夜もまだ浅いため寝付けられなかった。
寝酒に一杯飲もうとしたが、前夜ですべて飲み終えたのを思い出し、文は目をうすく開け青白い月光に照らされる部屋を、特に焦点も合わせずにぼんやりと眺めた。すると文の視線は壁に掛けられた一枚の絵に吸い寄せられた。以前に椛がくれた絵である。
その絵の中の文は、今の文とはちがい笑っており、そして堂々としている。
絵を見ていると色々な事を思わされ、しだいに文の視界は滲んでいき、鼻も鳴るようになった。それでいて心だけは妙に落ち着いている。
その落ち着いた心境でこれからのことを考えると、すんなりと一つの答えに辿りつけた。
文は呼称を変えるのを止めることにした。
これからすべきは、今の関係と立場をそのまま保つことで、不躾に擦り寄って椛を困惑させることではない。本意を遂げられないことは悔しいが、椛のことを考えればこそ身を引くでもなく、ただ諦めるしかないと考えたのだ。
しかし、いくら諦めたといえども慟哭は収まってくれず、泣き疲れ眠るまで文は一晩中涙した。
早朝に目が覚めると、寝床と装束は前日よりもひどい有様だが、気分だけは清々しかった。鬱憤としたものが全部流れたようである。
文は椛に気どられないため、先日よりも入念に身支度を整えることにした。冷水で顔を洗って、いつもはしない白粉を僅かに使い、切れて赤くなった目尻を隠す。
嗚咽で痛めた喉はごまかしようないため、はたてと口論したことにする。遠からず次に はたてと顔を合わせれば薄情者と罵られ、本当に口論すると思うので、多少の前後は方便だろう。
もらったばかりの装束に袖を通し、その他もろもろの支度も整えた文は、まだ少し早いが万全の心持ちで小屋へと向かった。
※※※※※
文が扉を開けてみると、さすがにまだ椛は来ていなかった。
いつも先にいる椛がいないためか、部屋は普段より広く感じられる。先に作業をはじめてもよかったが、椛の性格を考えると負い目を与えるだけと思い、文はてきとうに時間を潰すことにした。幸い、床には畳が敷かれており、暇を潰すにはもってこいといえる。
そうして暇潰しに文が畳の目を数えていると、しだいに小屋の中に大瀑布の気配が漂いはじめた。
かつて小屋を支配した気配も、今では遠い過去のもので懐かしくあり、文は久しぶりにその気配に身をゆだねることにした。
文が久しぶりに感じる大瀑布の気配は、その味わいを大きく変えていた。かつてはただ騒々しく思えた気配が、今ではひたすら清らかに澄んでいる。どうやら大瀑布の気配は小屋に満ちるものが沈黙か閑静かでその性格を豹変させるようである。
その澄んだ気配に包まれていると、これもまた椛のおかげだと思え、文は何か労ってやりたくなった。
椛が姿を見せたのは定刻よりも半刻ほど遅れてからだった。
その取り乱しは凄まじく、椛は文を見るなり遅刻を平身低頭して謝りはじめた。慌てて小屋まで来たせいか、椛の頬には薄いながらも朱線がはしっている。
咎める気はないと文が言っても、椛は聞く耳を持たず自分を責め続け、初めから張り裂けそうであった声は、ときおり嗚咽を含むようになった。その健気な姿に文は頭を撫でて慰めてやりたかったが、昨晩の決意を思い出して見守るだけにした。そのせいか、椛が落ち着くまでに、しばらく時間を要した。
椛が一応の落ち着きを見せたこともあり、文はお茶を淹れてくると言って立ち上がった。
その時に、私がやりますと言い椛が引き止めてくれたが、文は振り向くこともせずに、ただ大人しく座っているよう柔らかに命じた。
いつもは椛がお茶を用意してくれるため、文が台所に入るのはかなり久しいことになる。
久しぶりの台所は相変わらず物が少なく、小さな茶箪笥がぽつんと一つ置いてあるだけだ。文はそこからお揃いの湯飲みと、二種ある茶葉のうち文が持参した方を取り出し、やかんを火にかけた。
湯が出来るまで手持無沙汰になった文が、ふと壁を見てみると奇妙な張り紙がある。日に焼けてか黄色味を帯び、ところどころ破れており、かなり以前から壁に貼られていることがうかがえる。
その張り紙には「射命丸様」の文字があり、その隣には何個かの数字が書かれている。これを見た文は、少し考えさせられたものの、やかんが鳴く前にはその張り紙の意味を解せた。
試しに一度やかんの水を入れ替えて、張り紙の指示に従ってみると、案の定いつも椛が出してくれるお茶が出来た。張り紙の正体は、お茶を文の好みの熱さに合わせるためのメモであった。
しかし、メモには文のことだけ書かれており、椛を示す「私」や「自分」といった文字はない。文は出来あがったお茶を傍らにして、すでに曖昧になった記憶とあやふやな感覚を頼りに、前日に椛が分けてくれたお茶の熱さを探すことにした。
それは要領のよい文であっても、少しばかり時間を取られるものであった。
文がお茶を淹れて戻ってみると、椛はかなり落ち着きを取り戻しており、むしろ取り乱したことを気恥ずかしそうにしている。椛は湯飲みを受け取るとすぐに口元へ当てた。
最初、椛は決まり悪そうにしてお茶を口にしたが、飲むと同時に耳と尻尾を勢いよく立ててみせた。どうやら一口目で文の配慮に気が付いたらしい。一瞬だけ驚きの気色を見せたものの、特に何も言わないで、そのまま一息で湯飲みを空にした。
「どうです、お口に合いました?」
「けっこうなお手前でした」
「落ち着かれたようで何より。それしても、ただの遅刻で少し大袈裟ですね」
「申し訳ございません。先日に引き続き二度までも」
「怒ってはいませんから、そう謝る必要はありません。いえ、このさい禁止にしましょうか」
「しかしながら二日続けての不覚ですよ。いくらなんでも甘すぎます」
「では謝り禁止のついでに困り顔も禁止します」
「無茶苦茶なことを仰いますね」
「困り顔も嫌いではないのですが、やはり笑っている方が犬走に似合います」
「そう仰せられましても、やはり意識してするのは難しいですよ」
それを言う椛は照れ笑いを浮かべていて、つられて文の頬も自然と緩む。
それだというのに、椛は笑わないで下さいと真面目な口調で文句をくれるのだから、文の頬はことさらに緩んでしまう。これに対しても椛は文句を重ねてきた。
なにせ照れ笑いだけでなく、尻尾だって揺られているのだ。文も困り顔で振られる尻尾を、ついつい目で追ってしまう。
その目を左右に泳がせるのを怪しんだのか、椛は腰を浮かせ振り向いて背後を確認するが、尻尾も同じく振り返ってしまうので、文の視線の正体に気が付けないでいる。
尻尾を探す椛の姿は愛らしくも滑稽に思えた。
しばらくして、文はわざとらしい大きな咳をして椛の注意を引き、そろそろ作業をはじめましょうかと指示を出した。
椛は了解しましたと短くだけ応え、自分の作業机に向かってくれた。切り替えの速さも椛の美点と言える。
椛が作業をはじめるのを見届けて、文も自分の机に向かった。
遠くからカラスの鳴く声が聞こえた。
作業も残すところ僅かで、あと少しもしないうちに小屋は西日で赤くなるだろう。そうなれば、作業机の上をかたし小屋の戸締りをして椛と別れることになる。
おそらく椛はここ数日通りすぐ帰ってしまうはずで、文もそれにならい大人しく住処へ戻るつもりでいる。ここ数日で散らかった部屋を掃除したいのだ。酒瓶を寝具にする生活は好ましくない。
ふと視線を横にすると、椛の作業も終わりが近いらしく日誌を取り出している。しかし本来ならば日誌は文の仕事だ。それを椛が請け負っているのには理由がある。
日誌は報告書の代わりでもあるので、監督役を務める天狗が作成をすることになっている。しかし文が事務的で面白味のないものを好むわけもなかった。
文はしだいに記述の内容に創作の余地を求め、提出される日誌は日々その内容を非日常的なものへと変えていった。
さらには、それを面白がった有志の天狗の案により書籍化までされ好評を博した。しまいには妖怪の山の中だけではなく人間の里でも大変流行ったという。
しかし、文は書籍化にあたって、自著が紀実小説として扱われると思っていたが、実際には御伽草子として扱われているのを知った。
そのことを不服とした文は報酬の返還を申し入れて、かわりに本の回収を求めたが、発案者の天狗が文に反発した。発案者の天狗の片手には紙幣が握られており、奥の机には黄金色の山もあった。
両者は揉めるに揉めたが、最後には大天狗から直々の指し止めが下りたことにより一応の解決をみた。
ちなみに、文が受け取っていた報酬は、大天狗が指し止めたことを理由にして一銭も返さなかった。
そしてそれ以降、特例の扱いで椛が日誌の作成を担当しているのだ。
文が昔のことを思い出している間に、椛は日誌を書き終えたらしい。目をやらずとも、机の上をかたす音が聞こえてくるのでわかる。
その音が止むのを待って、文は帰り仕度をはじめた。椛が日誌を渡しに来るのは、二人ともが帰り仕度を終えてからである。
文が帰り支度を終えると、はかったように椛が来て日誌を手渡しにきた。
「日誌書き終えました。ご確認ください」
「ご苦労様。すみません、本当なら私の仕事だというのに。それもこれもあの金の亡者のせい」
「どうしたのですか、いきなり昔のことを。はたて様に悪気はなかったと思います」
「あの子を庇う必要はありません。図に乗らせてしまいますから」
「射命丸様は、はたて様にお厳しいです」
「犬走が優しすぎるだけです」
「そんなことはないと思いますが……。ところで射命丸様」
「なんでしょうか」
「今晩のご予定は空いていらっしゃいますか?」
それを言う椛の声と顔は痛々しいほどに張り詰めていた。
※※※※※
椛との待ち合わせにはまだ時間があるが、文は住処を出ることにした。部屋の掃除をあらかた終え、なんとなく住処に留まるのが無意味に思え、それなら早めに出ようと考えたのだ。
急ぐ必要もないので文は滑るようにゆるりと飛ぶ。歩いても間に合うくらいの余裕があるし、その気になれば、人間の里へ立ち寄り手土産を買うことだってできるだろう。ちょうどお酒も切らしている。この機会に買い出しするのもいいかもしれない。
そう思いつつも文は真っ直ぐに待ち合わせの小屋まで飛んだ。本当のところ寄り道するほどの気力はなかった。小屋の前で椛と別れてから、文の精神は張り詰められたままなのだ。
椛の誘いは珍妙なものだった。わざわざ文を一度住処まで帰らせ、しばらく後に小屋まで来て欲しいと言ったのである。行き先も特別な場所ではなく椛の住処だという。まどろっこしいことこの上ない。
しかも、肝心の理由というか目的を椛は話してくれなかった。ただ文が予定のないことを告げると、椛は来て欲しいと迫まってきたのだ。その時の椛の表情が何ともいえない感極まったもので、その気迫に負けて文は黙って頷いた
もし相手が椛でなければ文は断っていたし、仮に応諾してもふいにしてやっただろうが、椛からの誘いを反故にする気にはなれず、文は理不尽な呼び出しにも応じることにしたのだ。
しかし、誘いを受けたのはいいが、椛との距離を保とうとした矢先のことに、文は戸惑いを感じてしまう。今まで誘いを断っておいてといった憤りもたしかにあるが、それ以上に何かあるのかと勘繰ってしまう。
単に今晩はあの白狼天狗と予定が合わず、空いた時間で都合をつけてくれただけかもしれないが、それだけではない気がするのだ。余程のことでは出せない表情をしていた。
どちらにしても距離を保ち、椛にはこれ以上の深入りをしないと文は再び胸に誓った。
月こそ出ているが雲も多く浮かんでいるため、先日と先々日に比べるとはるかに空は暗い。
それでも小屋の前にいる白い影を見落とすほどのものではない。影も文に気が付いたのだろう、わずかに影の先が揺れている。
「こんばんは、犬走」
「ご足労ありがたく存じます」
着地と同時に夜分の挨拶を交す。薄暗闇のせいで表情こそ見えないが、その声音は澄んでいる。誘いの理由が椛にとって悲しいものではないと知る。
もっとも、文にとっても悲しくないかは定かではない。
「早速ですが参りましょう」
「ええ、案内よろしく」
そう言いながらも文は椛より先に歩み出した。
椛が文の手を取るために、右手を差し出そうとしたからである。好意を無碍した後ろめたさはあるが、受け取ればきっと後悔すると思えた。椛が文の後を遅れて追い駆けて来る。
小走りに駆けて来た椛は、文よりも少し前に出て案内をはじめてくれた。
好意を跳ね除けられたというのに、椛は機を見て文の手を取ろうとしてくれる。その気遣いですら文は、素知らぬ振りをして避ける。手と手がかすめる度に、指と指がふれる度に文は胸が痛くなった。
しかし本来ならば、一度たりとも取ってはならない手だった。今さらその好意に甘えられるほど、文は恥知らずではない。
しばらくすると、文の手を撫でてくれるものはなくなった。さすがの椛も諦めてくれたらしく、耳と尻尾が垂れていくのが見える。失意が大きいのか、尻尾の先が地面に線を引きそうですらある。
健全な距離を保つためとはいえ、失意の椛を見たことで、文の後ろめたさはより強くなる。
そのせいで、甘えなのか自責なのか定かではないが、手を添える程度なら平気だなんて愚考を持ちそうになる。
ここにきて未だ椛の気遣いを好意と見間違える自分が憎くあった。
その愚考を捨てるため文は、好意と気遣いを見誤ることも、後ろめたく感じることも、すべて甘えなのだと自身を諭す。文は自分に向けられる気遣いと、あの白狼天狗が与えられているものの違いを何度も反芻した。見誤るのは罪なのだ。今こうして同行しているのは埋め合わせでしかなく、手を取ろうとしてくれるのは礼儀でしかない。
そこにあるのは好意ではなく、ただの気遣いや思いやりと呼ばれるもので、浮かれてはいけないし、勘違いしてもいけない。自分のためにも、椛のためにも。
文は暗く険しい獣道を見据え、そう念じるのだった。
しかし、甘えた考えを拭い去るのに気を散らしたのが悪かった。
念じるのに集中した結果、視野が狭くなっていた。諦めたと見えた椛の手がにわかに動き、文の手を取ったのである。
突然のことに文は反応できず、手を添えられただけでなく、そのまま椛に引き寄せられ、手だけでなく身体もさらわれてしまった。
前の時とはちがい文が高下駄をしているせいで、椛との間に背丈の差はほとんどない。すぐそばに椛の顔が来て、はずみで髪と髪が触れ合い、顔が近いため椛の吐息が自分のものと同じくらいよく聞こえる。
文は距離を取ろうとしたが、椛は許してくれない。文が身じろいで逃げようとすると、椛は手を腰にまわしてしっかりと受け止める。遠ざかろうとしたのに、より密着することになってしまった。
この椛の暴挙に文は憤りを感じた。手や膝ならともかく、腰にまで手を添えるのを許したつもりはない。平時なら気にならない些細なことでも、緊迫したなかでは鋭敏に反応してしまうものがある。親しく思われるのはいいが、どんな理由であれ気安く扱われるのは我慢ならない。
それでいても、文はあくまで表面上は冷静でいられたし、相手が椛であるため秘かに嬉しさすら覚えてしまう。他の者が相手なら手痛い仕返しもしてやれるが、椛が相手となると過激なことをする気が起きない。
そのため自分自身に妥協して、椛に身体を預けてやる素振りを見せてやった。すると、腰の椛の手は再び文の手に添え直された。腰に手を回したのは椛からしても、不本意なことだったと文は知った。
しかし、不本意のこととはいえ、それだけのことをしておきながら、椛は平然とした態度で何も話してくれない。その反面、歩調だけは前の時みたいに文に合わせてくれている。
そのいけすかない態度に文句の一つでも言おうとすると、今度は添えられた手に指を絡められそうになった。
払うようにして文は抵抗を示すが、すぐに椛の手に優しく捕えられる。そのうえ握り込んで封じた指々もほぐされて、そこに少しでも隙間ができると、椛の指が遠慮がちに入り込もうとする。
ここまでされると文の決意も揺らぎ、椛の好きにさせてやればよいと思えた。椛もそれを察したのか、遠慮の見えた指に力を加えて、しっかりと握るようにして五指を絡ませてきた。それに応じるかたちで、文からも指を軽く絡めてやると、椛の尻尾が文の腰を撫でた。
文は椛が何を考えているのか、さっぱり分からなかった。何をしたいのか尋ねてみたいが、自分から訊くのは憚れる。ただでさえ好き放題されているのだから、椛から話してくれないとわりが合わないと文は思うのだ。
しかし、いくら待っても椛は口を開いてくれない。椛はただ黙りこんで説明も弁明もないまま歩くだけで、寄り添って歩く速さは文のものなのに、置いて行かれるような不安すらある。ただ手を添えるだけでは心許ないと文は思いはじめた。
その機微に触れてくれたのだろうか、椛の文の手を取る力が少し強くなった。それに応じて文が身体を寄せてやると、今度は逆に手を解いて自由にしてくれた。逃げることもできようが、文は腕を絡ませることを選んだ。
つい先ほどまでは椛から離れたかったが、今は少しも離れたくなかった。決心だとか意気込んでおいて、なんて未練がましいんだと思いつつも、文は椛の腕をきつく抱いてやる。指だけでは不安に押し潰されそうなのだ。
そして訊くならば今かもしれないと、文は夜道を見据えたまま声をかけた。椛が返事をしてくれるか不安だった。
「今晩はやけに積極的なのですね。一瞬とはいえ腰を抱かれるとは」
「ああしなければ、射命丸様がいなくなってしまうと思いまして」
「いなくなるなんてありえませんよ。そう言う犬走はどうなのですか……?」
「私、ですか」
「他に行きたいところとか」
「ないですね。今でも身に余るほどですから」
「遠慮しなくとも。言ってくれれば……上にだってかけあいますよ」
「そのお気持ちだけで十分です。それとも、やはりお邪魔になりましたか」
「まさか、そんなこと。私の方こそ犬走に迷惑をかけて」
「おりませんよ。迷惑だなんて感じたこともありません」
「嘘よ、だって私。一昨日の晩に犬走が……」
文がそこまで言ったとき、急に椛が歩みをとめた。文はつんのめりそうになり、言葉が途切れて最後まで言えなかった。逢瀬を盗み見たと告げたのだ、きっと椛は怒るか失望しているだろう。
文がおそるおそるその気色をうかがうと、どういうわけか椛は怒りも失望もせずに、ただただ困惑している様子である。
それを文が不思議そうに見ていると、椛が落ち着きを取り戻した。
「なるほど、あれを見られたのですね」
「すみません……。だけど故意ではありません。たまたま、あそこで月を見ていたのです」
「いえ、お気になされず。私の不注意でもありますし」
ここで椛が大きく一つのため息をついた。
もう春も近いとはいえ夜は冷える。椛のため息が暗がりを白く染める。
そして白い吐息が霧散するのを待って、椛は言葉を続けた。
「ただ、出来れば見られたくありませんでした」
「あの子はやっぱり犬走の……?」
「そう誤解されてしまいますから」
椛が困ったように笑う。
文にはどうして笑っているのか、なぜ一昨日の晩が誤解なのかも分からない。
「だけど実際に見ました。……犬走とあの子の逢瀬を」
「信じて頂けなくとも結構です。ですが射命丸様、それは誤解です」
「あれを見てどう誤解できるの。それとも犬走には見境がないという意味なのですか……?」
「もちろん私にだって見境はあります。しかし、どう説明すればいいのか分からないのです」
「それなら、一つだけ教えてください」
「なんでしょうか」
本当に訊いてしまうか迷い、不安のあまり文は奥歯を食い縛る。
訊いてしまえば、もう後には戻れない。
しかし、はっきりとさせたかった。文はうつむき搾るように声を出す。
椛を見ながら尋ねるなんて恐くて出来ないのだ。
「私がいても犬走は楽しいですか……?」
「はい。楽しいです。すごく楽しいですし、何より射命丸様の傍は落ち着ます」
「……そう言ってもらえると助かります」
「いえ、本心を言っただけです」
椛の言葉に嘘がないのは、目を見ずとも腰を撫でてくる尻尾で分かる。
緊張の糸が切れ文はへたりこみそうなるが、椛がそれとなく支えてくれた。
文は腕を絡める力を強め、さらに身体を椛に寄せてやった。髪と髪のこすれる音が聞こえる。
「少し話し込みすぎましたね。夜が深くなる前に参りましょう」
二人が椛の住処に到着したのは、これより四半刻ほど後だった。寄り添って歩くのに、夜の獣道は険しすぎたのである。特に文は高下駄をはいているせいもあり、途中で何度か転びそうになった。しかし、その度に椛が受け止めてくれたので、文は一度も地面に身を当てないですんだ。
文も椛も内心では歩かないで空を行けば、転ぶ心配をせず住処に早く着けることも分かっていた。それでも二人はあえてそれを口にせずいた。
木々の生い茂る道なき道を、密やかに二人寄り添い歩くのが、秘密を共有するようでこの上なく愉しかったのである。
※※※※※
文が椛の住処を訪れるのは初めてではない。
ただ、以前にも何度か訪れたことはあるが、奥の寝室をかねた私室にまで足を踏み入れるのは今回が初めてになる。
文の抱いた椛の私室の第一印象は、小綺麗だとか清潔だというものだ。椛が言うには、いったん別れて待ち合わせした理由は私室の掃除のためとのことだが、日頃から適度に整理や掃除はされていると思えた。
また椛の私室は特別に物が少ないようにも思われる。ざっと見ただけで目に入る家具は、やや床よりも高い寝床に箪笥が一棹、あとは小さな本棚が一つあるだけで、机や椅子といったものもない。後日に知ったことが、この日だけは邪魔になるから、他の家具達はかたしていたらしい。
そんな質素な模様の部屋の中に一つだけ奇異な物が置かれている。文の知る物のなかで、それに一番近いものは写真機に使う三脚であるが、それにしてはあまりに大きすぎる。そして何より頭から布を被せて隠すほどの物でもない。
文が不思議そうにそれを見ていると、椛が気恥ずかしそうに前に出た。
「以前に射命丸様の似絵を描かせて欲しいと、お願いしたのを覚えておられますか」
「前に頂いた絵のことですよね。もちろん覚えていますよ。今もちゃんと飾ってあります」
「そこまでの扱いを頂いておりますが、実はあの絵は習作に近いものなのです」
「つまりあの絵は草稿みたいなもの、ということですか。あれだけの絵なのに」
「あまり長くお待たせするのは失礼だと思いまして。本当の絵はこちらになります」
そう言いながら椛は被せていた布を取り払った。そこには赤味の額縁に入れられた一枚の絵があった。もちろん文の似絵だ。
布の下に隠れていた絵の中の文は中腰に構えていて、正面を向いた顔は誇らしげで、その手には紅葉の葉型の団扇と愛用の写真機が握られている。
また文の周囲は四季折々の花々が舞っており、絵の上部から下部に従い春夏秋冬の順に咲く花が飾られているのが分かる。
などと、たしかに前に文がもらった絵の名残が見られるが、細部がより繊細に描きこまれているのが見てとれた。特に文を魅了したのは、文自身も誇りとしている髪と、自覚こそないがよく褒められる瞳の色合いである。これらだけは前に貰った絵と比べても格別に巧みである。
まず絵に描かれた文の髪はまさしく鴉濡羽といった見事なもので、基調となる黒色がその艶やかさゆえに、周囲を飾る花々の色を反射させ、複雑で淡い青や緑や紫がその毛先に綾なしている。
また、ただ全体を単純に艶やかな黒に染めるのではなく、ところどころ白んだ黒がおかれていて、微妙な髪の起伏が表現されている。
さらに普段は隠している翼も髪と同じ毛質だと考えたのだろう。一見すれば翼も同じ様に見えるが、髪をより目立たせるためか意図して控えめに塗られているように思える。
それでも翼はその羽どころか、羽毛の一枚一枚の毛先すら丹念に描かれているのだから、決して見劣りするわけでもない。髪と翼とで同じ絵の中であっても、それぞれに異なる特色を持たせているのである。
双眸については、文が自分の瞳をまじまじと見たことがないために、それが本当に自分の物に似せられているかは分からない。ただ、切れ目気味で我の強そうな目付きは確かに文のものだと分かる。
その目の輪郭の中に浮かぶ瞳のふちは紅を強くしたような黒で彩られ、内側にいくにつれて明度があげられて濃い橙に変化していくが、中心にある瞳孔だけはふちの紅黒をさらに濃くした色になっている。
上下の瞼にある睫毛は髪や翼とは明らかにちがう色が与えられており、黒と言うよりは深い赤茶色と呼べるものである。おそらくは瞳の濃さを引き立てるための配慮なのだろう。これもまた羽毛と同じ様に一本一本を細やかに描かれており、文の瞳をさらに美しく際立たせている。
この他にもすらりと伸びた足の白い肌のきめ細やかさ、襟元からのぞく鎖骨の隆起と喉元の儚さなど、文の目を引くところは多々あった。椛がどれだけ精を尽くして描き上げたかは想像すら出来ない。
自分の絵を舐めるように見た後に、文は筆を執った椛の方に目をやった。
椛は不安と気恥ずかしさのせいか、目尻に薄くはあるが涙を浮かべている。誇らしげに胸を張っていても構わないほどの出来だというのに、自信が持てないでいるみたいである。自惚れるのはよくないが、あまりに謙遜してしまうのも問題と思えた。
「どうでしょう。私の拙作はお気に召されましたか」
「これだけの絵を貶すとなると、一日そこらでは言葉が出ません。これほどの絵、見たことがありません」
文は素直な感想を言うと、椛は感極まった様子で目尻に手を当てている。今朝のそれとはちがい、文も安心してそれを眺められる。
「それにしても恥ずかしいですね。ここまで美化されると、何というか照れてしまいます」
「そんなことはありません。本物の射命丸様の方がずっと麗しいです」
「さすがに担ぎすぎですよ。あと、絵だけでなく額縁も手造りなのでしょうか」
「確かにそうですけど、よくお分かりになられましたね」
「前にお膝を借りた時と同じにおいがしたもので」
「そう言えば、あの時にお話ししましたね」
「たしか桜の木でしたっけ」
「いえ、サクラと言っても実際は樺の木です。樺の木材はその色合いのため、特別にサクラと呼ぶのです」
椛の説明を聞くなかで、文の頭にふと引っ掛かるものがあった。
考えればそれはひどく簡単なことで、樺の別字がその正体だった。
椛が意図して含めたかは分からないが、文にはそれが言うならば天佑に思え、同時にすっと肩の力が抜けていった。たしかに身体は火照ってしまうが、どうして今まで躊躇っていたのか不思議ですらある。
椛が一通りの説明を終えるのを待って、文はしっかりとその目を見据えて言葉を作る。
それもただ作るのではなく、とても短い言葉であるが、文は万感の思いを込めて緩やかに音にしていく。
ずっと心に留めておいたその名を文はようやく呼べるのである。
「……モミジ」
火照りながらも文がその言葉を口にすると、椛は悪戯がばれた子供のような照れた笑顔をのぞかせた。
どうやら椛が意図して仕組んだことらしい、たしかに偶然として片付けるには出来過ぎている。思えばわざわざ文を買い物に誘ったのも、髪の色の具合を見るためだったのかもしれない。
しかしそのおかげで文はよりはっきりと、その名を口にすることが出来る。
「……椛と、同じ名前なのですね。私の絵の額縁は」
「はい。同じ名の木を使わせて頂きました。よろしかったでしょうか、射命丸様」
「椛の名を冠したものを……。私が、拒むわけありません」
「射命丸様の言うその椛は、どちらの椛なのですか」
「それは想像におまかせします」
そう言いつつも文は近くに来て欲しいと目配せした。椛はすぐさまその意を読み取ってくれ、文のすぐ傍まで寄って来てくれた。
はにかみながら傍らに寄ってくれた椛に、文は少し背伸びして手を首に回し抱いてやる。椛を正面から抱いてやるのは初めてである。初めてのことであるうえに、つま先で立っているために、文の抱擁は不安定に揺られる。
それを椛は慮ったのだろう。椛の手が文の腰を支えるように添えられた。文が椛を抱き締めているはずなのに、椛もまた文を抱くようになった。二人の身体はより密着し、髪だけでなく額も触れ合う。
互いの吐息が唇を撫で合い睫毛も絡むなか、文は頬を滑らせて口を椛のこめかみに近付けて、甘えるようにささやく。
「ところで、あの子は誰なのですか」
ささやくと同時に椛を抱く力を強めて逃げられなくして、問い詰めながら椛に頬ずりをしてやる。
柔らかな頬もそうだが、こすれあう髪と髪が立てる音もまた耳に心地よい。そして何よりも、椛の身体が強張ったのが直に分かる。
「……やはり、言わなければいけませんか」
「椛が言いたくなければ、言わなくともいいのですよ」
あくまで優しく、甘えるような声でつぶやく。
指の腹を首筋から鎖骨へそっと走らせてやると、椛が身体を強ばらせて血の気も引いたのが、手に取るようにして分かる。
棒立ちになった椛に、文はここぞとばかりに足を払い、寝床へ仰向けになるよう転ばせてやった。馬乗りしてもよかったが、さすがに悪く思え覆いかぶさる程度にとどめておく。
押し倒された椛はいうと、血の気が失せて青くなった顔を赤に染めなおしている。本当に見境がないわけではないらしい。
「教えてはくれないのですね。やはり特別なお方だと」
「いえ、射命丸様はひどい誤解をしています。あの方はただの友人です」
「しかし、あれが誤解だと言われても。本当に仲睦まじく見えました」
「たしかに親しい仲です。ですが、そのような関係では」
「誰が見ても同じ考えをすると思いますが」
「わかりました。そこまで仰せられるのならば、私にも考えがあります」
そう言って何をするのかと思えば、椛は覆いかぶさる文を引き寄せて、ぺろりと文の頬を舌先で撫でてきた。それも一度や二度ではなく、椛はまるで仔犬が甘えるように、文の頬やらを舌先で撫で続ける。その不意打ちに文は言葉を失うが快感はなく、ここに来るまでの道と同じように好きにさせてやることにした。
椛もその了承を暗に受け取ったのだろう。頬をひとしきり撫でたあと、舌先をのぼらせて瞼を撫でる。さすがにくすぐったく感じ、文が身をよじって逃げようとしたところ、椛の腕と舌先はそれを許してくれず、撫でる力の強弱を変えながら追ってきた。そして最後に文の額をひと撫ですると、満足して舌先を文から離した。
文は上半身を立てて片手で顔を拭い、気恥ずかしいながらも文句を言う。
「……いきなりは卑怯です。前もって一言ください」
「肝に銘じておきます。たしかに突然すぎました」
「存外なところで大胆なのですね」
「お言葉ですが、射命丸様。それが誤解なのです」
「これが誤解……? それはどういう意味なのです?」
「一言でいうならば、私の未熟さがすべての原因なのです」
「……未熟さ、ですか。もう少し分かりやすく言ってくださいな」
未熟さの意味を捉えられず文が怪訝にしていると、椛が申し訳なさそうに釈明をはじめた。
それによれば、普通なら天狗に変化した時点で、もしくは年月を重ねれば消失するはずの習性や性質が、椛には多々残っており感情の起伏や変化にともない表出してしまうらしい。
日頃から、椛の狼耳や尻尾がよく動くのも、先の舐め癖もすべてそれらが起因するのだという。
文もにわかには信じられず、からかわれているとも思った。
しかし、椛の沈痛な面持ちを見ると、その疑念は露として消えていった。椛が本当に自分の未熟さを憎んでいるのが見てとれたのだ。
「つまりあの逢瀬も、今のことにも特別な意味はないと言いたいのですね……?」
「いえ、そうとも言い切れません。一番恥ずかしい癖は、特に親しい相手にしか出ませんから」
「でも、私は……」
「それは、射命丸様が鴉天狗様だからです。基本的に癖が出るのは、白狼や河童の友人だけです」
「その言い方だと、お相手はあの子の他にもいるように聞こえます」
「はい。これまで他の友人達にも、同じ様な迷惑をかけてきました」
「……やけに堂々と言われるのですね。まるで当たり前かのように」
「隠すようなことではないですから。それらに特別な感情はありません。ただ、私が未熟なだけ。それがすべてです。」
「そうですか……。そういうものなのですか……。わかりました、椛を信じます」
文は本音を漏らしつつ椛を占領していたが、ふと思い立つことがあり退いてやった。
まだ当分は問い詰められると思っていたのだろう。それを椛が不思議そうに見つめてくる。
文は椛に背を向けるように座り直し、深く息をついて気分を和らげる。そして普段は隠している翼を顕わしてやった。すると背後からそれを物珍しそうに見る気配がした。絵には巧みに描かれていたが、実際にまじまじと見るのは椛も初めてのはず。
実際の文の翼の色は髪とは多少異なり、紫を濃くした色合いをしている。見足りない箇所は想像で補ったのだろうか。
「どうでしょうか、私の翼は……?」
「射命丸様の御髪の色と、実際のカラス達の羽を参考に色を選びましたが、やはり微妙に違いますね」
「……今は絵のことはいいですから。とにかく羽繕いしてもらえませんか?」
「かしこまりました。しかし、どうすればよろしいのでしょうか」
「分からないのであれば、撫でてくれるだけでも十分ですから」
「とりあえずは、撫でるようにすればいいのですね」
「羽の一枚一枚、羽毛の一筋一筋を丹念にお願いします」
「それでは失礼します」
手筈が分からないと言うわりに椛の羽繕いは見事なもので、冗談半分で出した指示の通りに、羽の一枚一枚から羽毛の一筋一筋まで、指で丹念に繕ってくれる。羽の嵩張ったところを直してくれ、羽毛の変な癖を解いてくれるうえに、それらにわずかに付着していた塵芥すらも取ってくれた。
それだけでなく、椛は髪にするように羽を梳いてくれるし、時には軽く爪を立て掻くようにもしてくれる。そのどれもが、文の自分でするのとは比較できないほど気持ちが良い。気持ち良さのあまり、文は翼だけでなく背を震わせてしまった。
熱の入った吐息と嬌声を漏らして身体を震わせると、羽繕いする椛から可愛らしい悲鳴が上がる。
その悲鳴も文には心地よく感じられ、くすりと笑ってしまう。背後から不満そうにする椛のため息が聞こえた。
しばらく椛の羽繕いに身を委ねて堪能した後に、時期を見て文はお礼を言って椛の住処から出た。文が扉をくぐってからも、二人は欠けた月を立会人にして、別れを惜しむようにいくらかの雑談を交えた。
そのなかで文は花見のことを椛に持ちかけた。二人きりで行きませんかと誘うと、いいですねと快諾を見せてくれた。
絵はもうしばらく椛が手元に置きたいらしく、引き取るのはまだ次の機会となった。翼まわりを塗り直す気なのかもしれない。
月が雲に隠れてはまた姿を現すのを何度か繰り返した後に、一陣の夜風が二人を撫でた。それが別れの合図になった。
名残惜しそうに見送る椛に、文は「また明日」と短く声をかけてやる。椛は「はい。また明日、お会いしましょう」と短く応えた。それを聞き届けて文は夜空へと舞い上がった。
別れ際に椛が見せた顔立ちを胸に抱き、月を片翼に乗せ住処へと飛ぶ。
夜風はまだ冬の残滓を纏っていたが、それを浴びる文は少し早いが花見の算段を立てていた。神社や冥界以外にも桜が望める名所は、有名無名を織り交ぜてもいくつかある。
そのなかでも特に閑静で落ち着ける場所を、文は記憶を頼りに探した。もちろんそこには椛と二人きりで行くつもりでいる。
椛と飲む花見酒はきっと楽しいにちがいない。
※※※※※
呼び出され久しぶりに顔を合わせたところ、はたての姿は少しやつれている様子だった。
椛がいかがしましたかと尋ねると、二週間ほど鳥籠の中で美しく囀っていたと言う。その言葉からは訊いてくれるなという意味が読み取れた。
元より深く詮索し合う仲でもない。椛は呼び出しの理由を問うた。不機嫌そうにはたてが応える。
「文のやつ、顔は見せないくせに手紙だけは寄こすのよ。直接来てくれれば文句だって言えるけど、籠の中だと紙はおろか筆すら持たせてもらえないの。仕返しの術がなかったわ。ただでさえ、臭い飯で気が滅入っていたのに」
「あの失礼ですが、その籠というのはまさか」
「黙りなさい、椛。いい? ここからが本題よ」
「なんでしょうか、はたて様」
「獄中……、いえ私が籠の中にいる間に色々あったらしいじゃない」
「射命丸様はそこまでお書きに?」
「そうよ。馬鹿の一つ覚えみたいに『椛』『椛』と書き連ねた手紙を山ほど送ってきて……!」
「落ち着いて下さい、はたて様」
どうやら相当酷い目にあったらしく、はたてが延々と愚痴をこぼす。椛は相槌こそ打ちながらも、その原因の一端が自分にあることは明らかで、少しばかり居心地の悪さを感じないでもなかった。
まさか文にそこまで喜ばれるなど思いもしなかったのだ。
「しかしながらです。射命丸様がそこまでお喜びになられるとは」
「そりゃ、喜ぶでしょう。ずっと願っていたことが叶ったのだから」
「そうは言われましても、私がしたことなんて些事です」
「あなたにとっては些事でも、あの子にしたら大事なのよ」
「鴉天狗様達がお考えになられることは難しいです」
椛を含む白狼天狗からすれば、文が嬉々としてはたてに報告したことなど大した意味を持たない。
元が群れをなす狼だったこともあり、多少の触れ合い程度なら言葉の挨拶より少し上等なものでしかない。添い合って歩くのだって、抱擁し合うのだって、それこそ舐め合うのだって日常茶飯事といえばそれで終わる。
やはり文が相手だから咎められるのだろうか。格上の存在を相手に粗相を犯したのだから、叱責を受けるのは当然といえば当然だ。口にはしなかったが、椛は自分の軽率な振舞いに顔をしかめた。
「難しいとかじゃなくてさ。文があなたをどう思っているか、知っているの?」
「それはもちろん。私とて木石ではありません」
「ならどうして蛇の生殺しじみた真似をするの」
「私は白狼の身です。射命丸様は一時の感情に流されているだけです。そのうち熱も冷めるはずです」
「そのくせ絵を描いてみたり、膝枕したり不必要に接しているじゃない」
「絵を描くのは趣味です。傍にお美しい方がいれば描きたくなりますよ。膝枕も御髪を表現するためのものです」
「……率直に聞くわ。あなたにとって文は何なの?」
「尊敬する上司であり記者様です。……それ以上の関係は望みません」
「なんでよ? 少なくともあの子は望んでいるわ」
「私が白狼天狗だからです。そして、あの方は鴉天狗様です。そう遠くない日に、射命丸様もお気付きになられるはずです。もっと居心地の良い場所があると、もっと高く飛べるのだと」
今まで思いこそしても、決して口にはしなかったことを椛は告げた。はたての眉間に皺が刻まれるのが見えた。
しかし、言ってしまえばそれだけのこと。椛は白狼天狗で文は鴉天狗。同じ天狗であってもその間には不可視ながら深い溝、あるいは高い壁がある。上下の関係は成り立っても、対等で親密な関係というのはありえないと椛は考える。
さらに言えば、下位の椛はともかく、上位の文に大きな不利益を被らせることは目に見えている。今でさえ鎖とか足枷になっているとも椛は自覚している。
これで納得なり諦めなりしてくれるだろう。それこそ、あきれられてしまっても構わない。椛はそう思い告げたのだが、はたての反応は冷ややかなものだった。
「あのね。そういう悪企みは、相手にばれないようにしなさい。……あの子、気が付いているわよ」
「それも射命丸様の手紙に?」
「ううん。あくまで私の勘よ。手紙には書かれていないわ。だけどね、椛。あの子の手紙、おかしいのよ」
「どういうことでしょうか……?」
「文はね、少し陰口みたいになるけど、かなりの自慢好きなのよ。ことある毎に誇らしげに物事を語るの。だけど、私に来た手紙には自慢を思わせる文字はなかった。ただ淡々とあなたとの交流が書かれていただけ。まるで、手紙に書くことで、自分に言い聞かせているみたいだった。そんなもの読まされる私からしたらいい迷惑よ」
「……検閲が入るからではありませんか?」
「バカね、そんなこと文が気にするわけないじゃない。むしろ大袈裟に書いて、盛大に自慢するわよ」
「どちらにしても、射命丸様に悪いことをしているようですね。いつか謝らなければいけません。もちろん、はたて様にも」
「いや、そんなことしないで、あの子の気持ちを受け入れてやるという選択肢はないの?」
「そんなのあるわけないですよ。……先から申していますように、私は白狼の身で、あの方は鴉天狗様ですから」
言い切った椛の声は澄んでいたが、顔は今にも泣きだしそうである。泣き顔を見られたくないのか、椛は立ち去ろうとする。はたてはそれが不憫でならなかった。
どうして目の前の白狼天狗がこうも縛られているのか、文と同じく上位に位置する はたてには理解できない。
幻想郷の天狗社会において多少の残滓はたしかにあるが、昔ほど明確な身分差はないし、気にしている者だって極一部の古参天狗を除けばいない。
はたての知り合いにも鴉天狗と白狼天狗で添い合っている連中はいるし、極端な話をすれば天狗と河童が添い合っていることだってある。椛が固執する鴉だとか白狼だなんてものは、古臭いカビにまみれた考えだ。
しかし、これが手紙の中で文も言っていた椛の未熟さにちがいないと、はたては悟る。
時代錯誤だとか個人の考えというよりも、もっと強迫的で根源的なものが感じられ、狼の病的に上下関係を重んじる習性が、未だに椛を強く支配しているように思えるのだ。
未熟さが抜け切ってくれれば、椛は文を受け入れるのだろうか。
用事はすんだとばかりに立ち去ろうとする椛の背中を見て、はたては思う。
仮にそうであったとしても、このままだと友人達が救われるのは、いつの日になるかわからない。
椛は本当に気付いていないのだろうか。自分が本当はどうしたいのか、どうなりたいのか。それすら覆い隠してしまう未熟さが消え去るには、かなりの時間が必要になる。
それでは、せっかくの二人の想いだって風化してしまうかもしれない。
それはあまりにも悲しくて哀れなことだと、はたては感情のままに世迷言を口走る。
「もし天狗ではない。ただの犬走椛だったなら」
はたては、ありえない仮定だと思う。
天狗だからこそ二人は出会えたのだから。
どちらかでも天狗でなければ、出会うことすらなかった。
人妖問わず、それこそ片方が物言わぬ木や獣だったりした可能性だってある。
同じ天狗として生まれるか、変化しただけでも幸運なのだ。
「もし天狗ではない。ただの射命丸文だったなら」
はたては、愚かな空想だとも思った。
生まれの不幸を呪ったところで、今が変わるわけがない。
むしろ呪えば呪うほど二人を別け隔てるものは存在を強くする。
鴉だとか白狼だとか考えてしまう時点で、すでにそれはもう道を誤っている。
考えるべきことは相手の想いに自分がどう応えるかである。
「あなたは、あの子をどう想うの?」
「……そんなこと、決まっているではありませんか」
世迷言など聞き流されると思った。
しかし、椛は寸暇もなく応えを示した。
さも当然のことかのように、あらかじめ用意していたかのように。
一呼吸おいて、ゆっくりと振り向く。
開いた瞳にはうっすらとした涙と静かな頬笑みが湛えてある。
「私は射命丸様を心からお慕い申し上げたい」
椛の言葉は遠くの相手に捧げられたものであるようで。
それだけ言うと、椛は今度こそ本当に立ち去ってしまった。
一人残された はたての元に春風が舞い込んできた。
そのなかに桜の花びらが一枚だけ乗っているのが見えた。
たしかに桜は、どこかで咲きはじめているようだ。
まだ満開には程遠くとも、香りすら漂っていなくとも、誰からも知られていなくとも。
そして、いつの日か。
きっとその桜花は、硬く古ぼけた蕾から抜け出して、誰もが見蕩れる美しい姿を見せるにちがいない。
ただ、公式で不仲設定の鴉と白狼が仲がいいのと、白狼の椛が文の仕事を手伝っているところが違和感がありました。そこについてもっと言及されているとよかったかなと。
誤字報告的な
>>記憶を頼りする部分
頼りに?
>>サクラの木の臭いです
ネガティブなイメージが無いなら「匂い」の方がいいと思います。
>>みだらに扱えば
>>みだらに吹聴する
みだり?
ちょい役かと思ったはたてがいい味出してるなあ
続きにも期待しています。
触れればはじけてしまいそうななんともあやうく美しいお話でした
ただ、どうしても平坦な感じが否めず、平坦な道を只管真っ直ぐ歩いているように思えました。
これで終わってしまっては勿体ない作品だと思います。
前作の文の瞳の描写に続いて、大瀑布や絵の描写がとても綺麗で引き込まれます。
もどかしい関係に切なくなりました。
前半の星ナズもいい味出してて、読み応えがあってよかったです。
次回作も期待してます。
そして、はたてさんにもスッキリして貰いたいところ
このモヤモヤした思いをドーンと開放されるような何かを見てみたくなります
もし続編があるのならば・・・っ ならば・・・っっっっ
・・・すごく見たいです。
キャラの性格や応酬も味が在りましたので、楽しく読ませて頂けました。