俺の話が聞きたいのかい、お嬢さん。
ええ、どうして不思議がるんだい。そんなにおかしなことじゃないだろう。相手の頭を裏返すくらい誰でもやっていることだ。
それに、まあ俺は飽きるほどやっているからね。
あんたも同じなんだろう? どうせ俺のうわさをどこかで聞いて、からかいに来たんだ。話のタネにはなるんじゃないかってな。
またその顔だ。ねぇ、お嬢さん。あんたは鏡でも見るべきだよ。
こんなしみったれた酒しかない場所にお似合いの奴らを知ってるかい。貧乏たらしいのやら浮浪者やら、そういうくたびれた輩のことさ。そう、たとえば俺のような。
だってのにアンタときたらそこがまるでわかってない! 妙にごてごてしてるし、ひらひらしてるし……ああ、ご丁寧に色までとはね。
ふん、あんたぁもしや馬鹿かなにかかね?
ハッ! 怒るな、怒るなよ。
俺だっていい加減うんざりしてるんだ。
いいか、奴らは俺の話をまるで信じちゃいないのさ。そのくせ、何度も聞きたがるときたもんだ。不味い飯屋に足しげく通うようなものじゃないか、ええ? 刺激を求めているだけなのかもしれないがね。
まあ、とにかくおかしな奴らだよ。きっと頭のどこかがどうにでもなっちまってるのさ。さては俺を仲間にでもする気なのかな。まったくご苦労なことだよ。
だがね、それでも俺は話すさ。舌を見せるだけで酒が飲めるんだ。だったらいくらでも話すし、いくらでも飲むに決まってる。ほしいものはいくらあっても足りないからね。
それに俺だって仲間はほしい。これだけ話してやっているんだ。奴らもこっちに来てくれるってどうして考えないものかね。
ふう。
いやなに、酔いがすっかりさめちまっただけだよ。やれやれだ。そろそろお暇しようかねぇ。
ほう! わかっているじゃないか、お嬢さん。
人になにかしてもらいたいなら、まず自分が与えてやるべきなのさ。お嬢さん、あんたはかしこいねぇ。嘘じゃないよ。本当さ。
それじゃあ聞かせてやるよ、すぐにね。夜ってのは短いんだ。特にこんな上等な酒が飲める日なんかはね。
さて、どこから始めたらいいものかなぁ。あんたは俺のことをどれだけ知っているんだい?
たとえば俺が、おびただしい量の不幸を寄こされる、どうしようもなくか弱い人間ってのは?
へえ、そうかい。じゃあ、そこからやろうか。
俺はこの世の誰よりも不幸な人間なのさ。
これはたとえ話でもなんでもない。ただの経歴さ。立派なものだろう。だが、俺の身体は立派にはできていなかった。
たとえば、この目だ。
単に視力が弱いってだけじゃない。森を通り抜けるときなんかにうす暗さがひどくなる、じつに脆弱な目玉なのさ。
鳥目ってやつだよ。
だがね、こいつが遺伝と栄養素の問題だってことはわかっているよ。
俺はか弱く生まれた男だが、頭までみじめになっているわけじゃない。そこそこの知識ってものは培っているんだ。よくぶらつくところで拾った本からだがね。
とにかく俺は知っているんだ。この目がどうしようもなく不幸ってことをね。辺りが暗くなると鼠のように落ち着きをなくす役立たずだ。
特にあの森を通ったときなんかはひどいもので、ああ、なんだって?
歌のせい?
なにをいっているんだ。歌がどうしたっていうんだい、え?
ちん、ちん、ちっちっちっ、ってか。しっかりしろよ、お嬢さん。俺をどうしたいんだい。
自分の足音。葉っぱのこすれあう音。枝の身じろぎ。さあ、好きなものを選んじまえ。
森は晴れていてもおかまいなしの暗さなんだ。目がとまどっているんだから、耳がいっそう働こうとするのは当然じゃないか。感覚っていうのはそういうものなんだぜ?
それとも、なんだい。鳥の化け物がその声で俺の目玉をだまくらかそうとでもしているのかい。
これはこれは。いったい、どこにそんなものがいるというんだ。俺が気づいていないだけだとでも?
ハッ! ハッ! ハッ!
ああ、なるほど。俺は気づかないな。なにしろ肝心の目玉は生まれつき狂っているときたもんだ!
今のはなかなか面白かった。面白かったぜ、お嬢さん。
もちろん、森だけじゃない。俺の身体はどこであれなにかしらの不幸を抱えているんだ。
真っ赤な館のところにある湖を知っているかい。俺はあそこには近寄りたくないんだ。冷えがひどくなってしまうからね。
冷えっていうのは文字通りさ。
寒いのは誰だって不快だろう? 冷えは誰にだってありうる不幸さ。ただ、女は外側が冷えるらしいね。そこがちょっと違うんだ。俺は内側がどうにも寒くて重くて仕方ない。
つまり、内臓さ。
血液がのろまになると身体は錆びついたようにギイギイ鳴きだすんだ。
まあ、これは確かに不幸だが、仕方なかったのかもしれないがね。なんたって、俺の若いころの生活が、まだ金が、幸福があった時期の生活が俺の血を鈍足のまぬけにさせたからさ。
俺はな、肉がとても好きなんだ。
大きな厚切りの牛肉を両端から真ん中に向けて切ってやって袋を作るんだ。そこにさらに肉を詰め込む。血も脂もぜんぶだ。塩もたんまりばらまいて。そして、縫い目を閉じて網でじっくり焼く。
そいつを酒といっしょにしこたま腹に流し込んだものさ。
そうすると、俺はそのときだけ不幸から逃れられる。あごが肉の弾力に逆らうたびに、歯と喉が肉汁で塗れるたびに、俺は頭のしびれるような快楽に襲われるんだ。
そうやって、余分な葉っぱは一片も食わずに、赤身の肉と酒におぼれたものさ。生まれたころから軟弱なこの肉体に歯向かうように。
その結果がこれだ。俺の不幸はさらに肥えやがるし、血液はもうどろどろだ。こんな血じゃあ、吸血鬼だって見向きもしないだろう。
は? ためしに?
馬鹿言うなよ。この世のどこに吸血鬼なんているっていうんだ、ええ?
あんた相手じゃ、俺は冗談もまともに言えないのか。
あんなものは作り話の中だけだろう。
俺も昔、読んだよ。なかなか、面白みのある生き物じゃないか。
その赤い館に? ハッ!
確かに。確かにあんなところにこそ吸血鬼はいるべきだね。
ところでお嬢さん、ほら、これ飲めよ。
なにって、水だよ、水。これで少しはマシになるさ。酒に弱いなら弱いって言ってくれないと。わかっていれば少しはこっちだって遠慮するんだから。
さて、さて。どこまで話したかな、お嬢ちゃん? ハッ! ハッ!
そうだ、湖だったな。まったく、湖の冷気ってのは嫌なもんだよ。
夏場はいいかもしれない。だが、俺の身体はご存知のとおり、鉛のように重く、冷たくなっているんだ。これ以上の寒さはごめんだよ。
ただでさえ身体の芯が冷えてしまっているんだ。だから、ああいった場所にいるだけで俺の中にある寒さが皮膚にまでにじみ出るのは当然のことなのさ。
妖精? 妖精だって?
お嬢さん。そういうものを夢見るのは楽しいだろうが、俺はあまり好かないんだ。若くはないからね。
うん、水が歯にしみたのかい? そんなに眉を動かすなよ。ああ、わかった。わかったから。
もちろん、妖精なんていないに決まっている。
子供ならいたがね。近くの林で踊っていたよ。あの年頃はただ手足を振り回すだけでも楽しいんだろうさ。
おっと、その子供たちが妖精だと言いたいんだろう?
残念ながらそいつはお断りさ。なぜって、あの子供たちは羽なんて持っていなかったんだから。
なんだよ。そんなに睨むなよ。
言いたいことも言えなくて悔しいのかい、お嬢さん。俺の目はでたらめだから、見逃したってことにでもしておいてくれよ。
それとも、妖精の羽は氷のように透けるのかい? とても薄く、ひどくもろいと? ああ、それなら見逃しても仕方なかったかもしれないな。いや、まったく仕方ない。
おい、なんだよ。急に立つなよ。まだ終わっちゃいないんだ。
俺の不幸はまだまだある!
夜でもないのにとつぜん視界が真っ暗になることがある! まるで闇に包まれたかのようにな!
わかるかい、貧血ってやつさ。前触れもなく襲ってくるおそろしい不幸の一種さ。
虫どもが集団で踊りかかってくることがある! まるで統率者が指示を出したかのように!
そんなものは勘違いだ。俺たちはあまりに虫の生態に無知なのさ。
ほかにもまだある。いくらでもある。
俺はその不幸の正体をたしかに知っているはずだというのに、それを克服することはかなわんのさ。
ああ、どうして俺はこんなにも弱く生まれたものか。どうしてこんなにも不幸でなくてはいけないんだ。
まったく、どうして、俺はこんなにも。
陥れる? なんのことだよ。罪だって?
おい、自分の不幸を語るっていうのがそんなにいけないことなのか。こんなにもあわれな男がどうして愚痴のひとつも漏らしちゃいけないんだ。
奴らと同じように笑い飛ばせよ、馬鹿にしろよ。なにを怒っているんだよ。
なんだってんだ。ああ、もう十分だろう? 早く帰りなよ。
そりゃ酒はおごってもらったがね。普通は礼のひとつくらい、わっ、あ、おお!
ぐっ、なに、な、なんだ!
ちくしょう! さては飲みすぎてまいったか。くそ、椅子から転げ落ちるほど俺の身体はだらしなかったか。
それにしてもやけに暗いぞ。目までまいってしまったか。いつもよりもひどい。俺はいったいどこにいるんだ!
身体も痛む。なんだ、手足がまったく動かん。ぐ、ぐ、ぐ。痛い。胸が痛い!
ああ? スキマ?
なんだ、それは。どこからだ。あの女か、おい、これはお前がやったのか! くそ、どこだ!
ぐ、ぐ、ぐ! 痛い、痛い!
いや、こんなことが、娘一人になにが! あの娘はいったい! まさか、化け物か、妖怪か!
いや、いや、いや。そんな馬鹿なことが……そんなものがいるわけが……そう、そうだ。
どうして俺は疑問に思わなかったんだ。
俺の弱い肉体を付け狙う不幸が、生まれたころから居座るこの重荷が、どうして一番重要な心臓を今まで狙わなかったんだ。
そうだ! 来るべきときが来たんだ! 憎い不幸どもが最後にとっておいた獲物についに手を伸ばしたんだ!
なるほど、道理だ。それに、久しぶりに味わった濃い酒が、あの娘の文句につられてやってきた興奮と組み合わされば、俺の血液もいよいよ破裂するかもしれないじゃないか。それが引き金になることだって。
ぐ、ぐ、ぐ。
ああ、痛みが遠のく。意識が引き伸ばされる。
じきに最後だ。あのお嬢さんには、悪いことをしたものだ。俺の妄想の餌食にさせかけたし、それに、こんな男の最後に立ち会ってしまうとは。心から同情するぜ、お嬢さん。
だが、おかげで俺は少しばかり救われた。
こんなにもつまらない、夢もなく、不幸がはびこる世で迎える最後だが、俺のそばにはあのお嬢さんがいるのだろう。
人に看取ってもらうのは、人が最後に受け取る幸福なんだ。
俺は最後の最後に、ようやく不幸から逃れ、本当のあたたかみをつかんだんだ!
ああ、今行くぞ。親父、お袋!
そして、さよならだ、お嬢さん! さよならだ、幻想郷!
結局最後まで認識される事は無かったし、その上やたらとポジティブに死んでいきました。
果たして、幻想ですらなくなった妖怪はどこへ行くのか
『要らないもの』として殺処分されたわけか……
男は自分の理解の及ばないところがあるのを知っていながら(リグルとか)
そこに妖怪や妖精が入り込むことを絶対に認めていない?
理解が及ばないところへの不安を埋めるのは外界でいえば科学信仰なんだろうけど、それが広まったのは文明開化のときで、鎖国から解放されたときという話もある(丸山眞男とか)。鎖国からの解放なくして文明開化はないし、妖怪を排斥する科学信仰が生まれる土壌が育まれる気がしないのが個人的な感想だから、ゆかりんの鎖国が続いている現在の幻想郷では、せいぜいが緩やかに科学と妖怪の存在が絡まりながら広まっている程度だと個人的に思ってるから、男の科学的な思考に河童などの妖怪が絡んでこないのがとても不思議。
理解が及ばないところがあるのを知らないで、世の中は全て知っているし妖怪なんているわけがないと喚いているのなら、それこそ妖怪や妖精と顔を合わせている幻想郷の人間にとっては狂人だし、見世物小屋の達磨女程度の感覚で接していそうで、ゆかりんが気に掛けるような人物でもないだろうと思う。
本当に個人的な感想で、幻想郷の人間がSFの超時空戦闘機を持ち出してきた気分だった。
導入部分はわりと好き。
また、紫はなぜ男を処分したのか。
わからんことだらけや!
目の前に分かりやすいモンスターが出たって幻覚で片付けられてしまうだろうし
紫は外見年齢変化出来るからお嬢さんと呼ばれてもなんら不思議ではないし
というかこれにいちいちピキピキ来てたら外の世界が存在することに精神が持たんだろう。
ただ、思考実験として興味深かったです。
もうちょっと作中で示唆してくれても良かったが、それだとわざとらしくなるか?
幻想郷で生まれたっぽいこの人間がなぜ妖怪の存在を疑うようになったのか
たぶん完全に作者がこの話をやりたかったがためだと思うが、そこらを補強してほしく感じる
もうちょっと頑張れば切れ味マシマシになったはず、もうちょっと。
それに、まあ俺は飽きるほどやっているからね。
まあ、それはともかく。
この男の価値観は幻想郷の人間のわりにすごく外の人間っぽいですが、
こんな風にすぐ自分のことを不幸だと決め付けて自虐的に愚痴ったりする辺り、
人外の方々から見ると実に滑稽なのかもしれないなと思いました。どちらかというと面白くないでしょうけど。
私たちにもどことなく思い当たる節があったりして、ね。
超自然現象を完全に排するのもいいけれど、そうして科学でも説明のつかない理解の及ばない事態に出くわした場合、
自分がたまらなくツイてない気がしてきますからねぇ。そうやって自分を納得させるしか方法がないですから。
それは幻想郷でも変わらないんだろう。
紫にとっては男の信仰を打ち崩せなかったのが歯痒かったんだろう。
すべてを受け入れるはずの幻想郷も男を受け入れられなかった。
紫にとって忘れ難い敗戦の一つとなったことは確かだな。
よって危険因子で殺処分なんですね。
俺みたいな人間はゆかりん絶対に幻想入りさせてくんないだろうなー