星熊勇儀は自分の角があまり好きではなかった。
鬼として最大の特徴とも言えるその角に対し、勇儀は生まれてこの方、良い感情を抱いたことはなかった。むしろ嫌いといってしまっても過言ではない。
赤く、雄々しくそそり立つようにして生えている角を、からかわれたことが一度や二度ではなかったからだ。周りが、粗暴さを纏ったような輩――同じ鬼ばかりであったことも災いし、勇儀は己の角を疎ましく思っていた。それこそ、まだ力も未熟であった頃から。
とは言え、そんなからかいも最近はめっきり減ってきたのは、勇儀にとって唯一の救いだった。鬼として、今や知らぬ者は居ないほどまで力をつけた勇儀に、おいそれと失言を投げかける者などほとんど居なかった。それこそ精々――
「おいおい湿気た面してんじゃないよ、勇儀!」
目の前で赤ら顔をしている、この伊吹萃香ぐらいである。
勢いよく肩を叩かれて、勇儀は苦笑する。常人どころか生半可な妖怪では腕がもげてしまいそうな萃香の張り手にも、勇儀の肩はじんじんとした痛みほどで事なきを得ていた。
「うるさいね、ちったぁ風情ってものを理解してみなよ」
二人で囲む焚き火が、ぱちりと鳴く。
「星とか木々とか、色々と肴はあるじゃあないか。それをわざわざ、あんたの姦しい声でぶち壊すこともあるまいに」
「湿気たことを。私ら鬼にそんなものは似合わないよ」
蕩けた目で萃香は答えた。年がら年中、へべれけよろしく酔い続けるこの童女が、巨木のように厳しく生える二本の角に見合うほどの力を持っていることを、勇儀はよく知っている。そして同時に、萃香がこのように答えることも、長い付き合いから容易に想像がついた。
鬼は粗暴。
人間どもが勝手に囁いていることだが、その実かなり的を射ている言葉だと、勇儀は思っていた。荒々しさこそ美徳であり、それこそ風情など何処吹く風と考える面が鬼には強い。力を誇示し、相対する者を無理矢理なぎ払うところなどは、勇儀にも当て嵌まっていた。
「……やれやれ。それじゃあ仕方ないね」
しかし、粗暴の一言で纏められるほど、鬼とて分かりやすいものではない。
「ん? また出かけるのかい?」
「あんたは嫌いだろ」
立ち上がった勇儀を尻目に、萃香はなおも甘露甘露と飲み続けている。その一言で察しがついたのか、いずこかへと歩き始めた勇儀を止める様子はない。
「嫌いだね。人間みたいだから」
あっけらかんと快々に微笑んだだけだった。
「言ってろ、鬼」
対して、勇儀も同じような笑みで答える。両者に臆する様子はなく、それでいてまろやかな雰囲気も薄れてはいない。信頼し合った毒舌が飛び交ったのみ、それだけであった。
適当なぼろ切れを頭から被ってから、勇儀は序々に駆け出す。身体はすっぽりと覆われており、今はたぶん、この赤い角は外から見えていないことだろう。
そのことが妙に安心だった。
◆◆◆
やがて見えてきた巨大な門に、一足飛びの要領で昇り上がる。一挙に飛び乗った拍子で、瓦がわずかに爆ぜるのを足裏で感じ取りながら、勇儀は出来るだけその衝撃を押し殺した。たっぷりと幾許かの時間を置いてから、面を上げる。
人の都が、そこには在った。
「湿気てるか。確かに、湿気てるね」
どっかりと胡坐をかいてため息をつく。夜風の涼しさが、勇儀が感じている物悲しさをより一層引き立てていた。
人の営み。それも夜間ともなれば、その儚さは米粒ほどのものであった。
所々で揺れる明かりもその儚さを助長させているに過ぎず、その気になれば――それこそ鬼の、星熊勇儀ただ一人で握りつぶせそうなほどの弱々しい存在が、勇儀の眼下に鎮座していた。
「けれども」
無論、勇儀はそんな無謀で粗暴なことを行いに来た訳ではない。
「やっぱり、嫌いじゃないね」
なるべく身体が隠せるようにぼろ切れを直し、立ち上がる。口元に運んだのは、愛用の盃ではない。瞑目して、調子を整える。
響いたのは笛の音だった。
竜笛と言われる横笛を、勇儀はその面も静かにして吹き続ける。力強いその音色は夜空へと昇り、或いは都へと降り立ちながら徐々に繊細なものへと姿を変えて、やがては風もない夜闇へと溶けていく。つっ、と首筋に一筋の汗を垂らしながら、それでも勇儀はそれを拭わず、一心不乱に笛を吹き続けていた。
鬼が楽を嗜んでなにが悪い。
これが勇儀の持論なのだが、周りの鬼達は辟易するばかりであった。一番の友人である萃香とて例外ではなく、むしろ率先してやめろやめろと声高に、笛を吹く勇儀を邪険に扱う始末であった。曰く、「辛気臭い」というのが萃香の言なのだが、それで勇儀が納得するはずもないので両者の主張は平行線の一途を辿るばかりであった。なので、こうして一人、他の鬼達には聞かれることのないこの場所で、暇を見つけては吹いているのである。
どうして笛を吹き始めたのかは、実のところ勇儀も覚えてはいなかった。いつだったか、人間が持っていた笛に興味を抱き、見よう見まねで木を削って笛を作ったことまでは記憶しているのだが……理由までは、とんと思い出せなかった。
とにかく、勇儀はとある切欠から笛を吹き始めたのであり、今もこうして人目や鬼目を忍んでは吹き続けている。そしてなにより大事なのは、勇儀が笛を吹くことが好きであるということだ。思った以上に力強く、嘶きのように音色を轟かせ、鬼である勇儀に汗をかくほどの力を要求する、楽というものに。勇儀は魅せられていた。
やがて楽曲は佳境を迎える。
思わず身体が調子に沿って揺れ動きそうになるのを止めながら、勇儀は一心不乱に笛を吹き続ける。一際、甲高い音色を轟かせてから、一拍とともに呼吸を置いて。
しめを、奏じた。
「……はう」
気の抜けた息継ぎに、火照った熱気が伴う。
今宵の楽はまあまあのものであった。雨は勿論のこと、風もそれほど強くないのが幸いして、自身の音色を程好く聞き取られたのが功を奏したのだろう。満足気に長いため息をついた勇儀の視線が、改めて眼下へと移る。
「ひゅい!」
息が止まりかけたのは、そこにひとつの影を見たからだった。
明かりもつけず夜闇に溶けるようにして、その人影は門の上――勇儀を凝視していた。背格好を見るまでもなく、その頭部に一欠けらの異物もないことから容易に想像がつく。
人間、一人の男であった。
「明かりも持たず歩くか、普通」
呟きは、あくまで自身に聞こえる程度に。
逸る気持ちを抑えながら、なるたけぼろ切れで身体を覆い隠す。ただの人間一人の口を封じるのはそれこそ造作もないが、魑魅魍魎に心得のある人間であったなら話は別だ。明かりもなく夜をうろついているのだから、その可能性は充分にある。無論、そんな人間が相手でも遅れを取るとは思っていない勇儀ではあったが、それでも今ここで騒ぎを起こすことは避けたかった。
そんな勇儀を尻目に、男はなおもこちらを凝視し続けている。
夜間に明かりのひとつもなく出歩いていることも驚嘆ではあったが、不審な影である勇儀を前にして身動ぎもしないとは恐るべき心胆である。驚きのあまり立ったまま失神しているのかとも疑ったが、その瞳には確固たる意識が窺えた。
やはり専門家か。
苦々しい思いとともに勇儀は踵を返し始めていた。人の都を間近で静かに一望でき、周りの仲間に小うるさく文句を言われることもなかったこの場所も、人間に見つかってしまっては、恐らく今後は近寄ることもできないであろう。
また場所を探さなきゃいけないね――少々名残惜しいものも感じながら、勇儀は足に力をこめる。
厳かな笛の音が、耳に届いた。
半ば呆気に取られながらも、辛うじてぼろ切れで顔を隠しながら振り向く。見ると、眼下の男が笛を構え、事もあろうにそれを奏で始めているではないか。都とは言え、夜という時刻が人間にとって如何に危険なものであるかは、鬼である勇儀にも――人間にとっての驚異である彼女にも手に取るように分かる。笛を吹くなど無防備であるどころか、それこそ自分の身を危険に晒すこと以外の何物でもない。
「なにを馬鹿なことを……」
漏れ出た言葉もそのままに、勇儀の疑念は一層強くなる。
だがそれも、一拍、二拍と置いた時には、跡形もなく吹き飛ばされてしまっていた。男の奏じる楽が、勇儀にとって経たことのないほどの衝撃であったからだ。それこそ萃香の、鬼の拳以上の、衝撃。
なんだこれは。
言ってしまえば、男の楽曲は上手かった。それも恐ろしいほどに。
楽を嗜む上で勇儀は、参考として幾度となく人間の楽を聞いてきた。無論、攫って来て吹かせたところで何の益にもならないので、忍びながらの盗み聞きではあったのだが。それでもやはり著名な、楽人とも呼ばれる人間たちの奏楽からは様々なものを学び得ることができた。自惚れではないのなら、今の勇儀の腕前はそういった楽人らとも並ぶほどにもなっている。
だが、眼下の男。
この男の奏じる楽は別格であった。
異質と呼んでも過言ではないほどに、それは濃密であり、なにより繊細――洒落た言葉など思い浮かべられないほどに、勇儀は聞き惚れてしまっていた。よろよろと力なくしゃがみ込み、震える手でなんとかぼろ切れを正す。気取られることのないように、しかしその耳はしっかりと眼下に傾けながら、勇儀は男の楽を聴き続けた。
どれくらいそうしていただろう。
気付けば、男は何曲目かの楽を終えてから、なおも勇儀を見つめ続けていた。その誘うような視線に、しばし戸惑いも感じながらも、やがて耐えかねたように勇儀は立ち上がった。早鐘を打つ胸の奥をなるべく悟られないよう、静かに笛を構える。それを待っていたかのように、男も笛を構えた。
始まりは、ともに長く。龍のいななきのように澄んだ音色が響き渡る。
手と手を重ねるように、笛の音が合わさった。
◆◆◆
「どうしたんだい、さっきからまるで上の空じゃないか」
萃香の言葉に、勇儀はようやく我に返った。取りこぼしかけていた盃を慌てて直す。
「別に。ちょっと考えごとをしていただけさ、色々とね」
「その割には、随分とご執心にも見えたけどねえ」
あっけらかんと笑う萃香は、なにか含みのあるものを口元に湛えているようにも見える。この鬼に限ってそんなことはないはずなのだが、それでもどこか見透かされているような気がして、勇儀は落ち着かなかった。取り繕うように、勢いよく盃を傾ける。
あの夜から、勇儀は毎夜のようにあの場所へと足を運んでいた。正体も分からぬ、恐らくは人間であろうあの男と、楽を奏で合うためである。
合わせるように奏じた楽曲は、おおよそ自分のものとは思えないほどに優美で、芳しいものだった。
一曲、二曲と奏で続けてもまるで疲れを感じず、それでいて吹き終えた後の心地良さは、決して一人では得られないほどに濃密なものであり。魅入られるかのように、勇儀は男とのささやかな奏楽に興じ続けていた。
思えば、やはり奇妙な男である。
背格好からして身分は悪くない人間ではあるはずなのだが、あんな夜間に一人で出歩くところなど、あらゆる意味で怪しいものだ。下手をすれば、鬼である勇儀にとって害をなす職種の者である可能性も、充分に考えられる。
そういった意味では、勇儀の行動はかなり迂闊なものであると言えるだろう。無理矢理にでも何人かの手下を引き連れて行くことが、鬼らしくないとは言え、賢明ではあるはずだ。
だが勇儀は、そんな無粋な真似は行いたくなかった。
いくら不審でも相手は一人で、それも共に笛を吹きに来ているのだ。そんな最中に、荒くれ者でもある鬼どもを引き連れて行くなど、どうあっても彼女にはできるはずもなかった。むしろ、思い至ることすら無かったと言ってもいい。鬼と人間、確固たる違いの中に流れるすべてを邪魔されたくはなかった。
楽を奏でる時、吹き合わせる時に比べれば、今こうして口に運ぶ甘露さえ、おぼろげなものになる。その瞬間すべてが華やかで、胸に満ちるものの桁が違う。
そう、それはまるで。
逢瀬のひと時のようで――
「んぶふぅ!」
すんなりと思い浮かんだ単語に、口に含んでいた酒が吹き出てしまった。
訝しげに首をかしげた萃香から顔をしっかりと逸らし、咳き込んで見せて誤魔化す。酔いとはまったく別のもので赤くなってしまった自身の顔を、どうしても隠してしまいたかったからだ。
「なにしてんだい? まさかこの程度で酔ったとか?」
「そ、そんな訳ないだろう! この馬鹿!」
必要以上に上擦った声は、抑え切れず。
眉をひそめた童女の顔が、それによってさらに傾く。
「お、おおっと、もうこんな時間だね! じゃあ私はちょっと出掛けてくるよ!」
「はあ? 何言ってるんだい、まだ宵の口――」
「悪いね!」
言うが早いか、勇儀はぼろきれを手に取って駆け出す。後ろでまだ萃香は何事かを言っていたが、それらすべてを置き去りにして勢いよく山を下って行く。
逢瀬のひと時。
先程、自分で思い浮かべてしまった単語を否定するかのように、勇儀はぶんぶんっとかぶりを振った。ぼろきれを握る手が、一際強くなる。
それでも、早鐘を打ち始めた胸の奥を抑えることは、できなかった。
◆◆◆
静々と、昇る余韻を残して曲が終わった。
随分と西の方角に近くなってしまった月を見つめながら、勇儀は笛から唇を離す。ほうっとついた、町娘のように艶やかな自分の息遣いが、いつになく気に障った。若干、欠けている月はそれでも煌々と都を照らしている。この分だと明日にでも満月となるだろう、白い中に浮かぶ兎も心なしか嬉しそうに見えた。
改めて、ぼろきれを正してから眼下へと視線を転じる。これまで、身に纏うぼろきれを取って奏楽に臨むことはなかった。そして恐らく、これからも取ることはないだろう。
自分が鬼であると悟られることを避けたかったのも事実だが、それがあまり意味のないことであることを勇儀は理解していた。
こんな夜更けに、天高き外門の上で笛を吹く影が、ただの人間であるはずがないのだ。事実、星熊勇儀は人間ではなく、鬼である。眼下の男が、いくら夜間に一人で出歩くような非常識な者であっても、そのことに思い至らないはずがない。
だがそれでも勇儀は、ぼろきれを取ろうとはしなかった。自身の角を――憎ったらしいその雄々しき赤い一本角を、どうしても見られたくはなかった。
彼女自身どうにも合点がいかないのだが、その角を、星熊勇儀が鬼だと雄弁に物語るそれを、男に見せたくはなかったのだ。
隔てられるだとか、違いが生じてしまうだとか、そうやって言葉に表せるようなものではなく、もっと曖昧な靄となって勇儀に圧しかかっていた。
端々でちらつくもどかしさを、目を瞬かせて追い払いながら、勇儀は改めて男を見る。すると、いつもと違って男が未だにこちらを見上げていることに、ようやく気が付いた。
普段ならば、曲が終わるとやがては男から去って行くのだが、この日だけは立ち去らずに今もそこに居る。どうしたのかと勇儀は同じく棒立ちになっていた。
つと、手が差し伸べられる。男が、勇儀に向かって手を差し伸べていた。
降りてきてくれないか?
逡巡するまでもなく、勇儀はその意図するところに至り、思わずびくりとその身が震える。今度こそ擦り落ちてしまおうとしたぼろきれを、すんでのところで握り締めながら、一歩二歩と後ずさった。
それでも男の手は動かず、じっと差し出されている。古の、魑魅魍魎を射抜く退魔の矢の如く、或いは勇儀にとってそれ以上もの驚愕を与えながら。
そのまま、幾許かの時間が流れた。
足元の瓦がかすかに崩れ、乾いた音が鳴らなければ、恐らくこの時間はもっと続いていたに違いない。からりと微かに耳朶を打った時には、勇儀は咄嗟に身を翻していた。
夜空と地上とが暗転し、転がり落ちるようにして巨大な門より降り立つ。着地した衝撃もそのままに、勇儀は人間の都を背に駆け出していた。
目の裏には、なおも手を差し伸べる人影が覗いている。
ぎゅっと両目を瞑るが、今度はその人影が一層色濃く現れてしまい、堪らず両の手でぼろきれをしがみつくようにして、きゅうっと握り締める。
息遣いが荒いのは、駆けていることが原因ではなかった。
◆◆◆
降りてきてくれないか?
口に出す以上に雄弁な男の行動を、勇儀は考えていた。そして、それを思い浮かべている自分の顔がこれ以上ないほどに呆けた面構えとなっていることに至って、勢いよくかぶりを振る。
あれから山へと帰り、早々に横にはなってみたものの、気付けば昨晩の出来事を悶々と考え続けており、ほとんど眠ることができなかった。
結局、酒を飲んで笛を吹いて萃香と語り合って、それでも気分は晴れずごねごねとしながら、今に――またもや朝が来て昼が来て夜となり――至っている。
恐らく、男としては昨夜の行動は、特に気兼ねのないものだったのだろう。異形の者とは言え、共に笛を奏楽し合った仲として、もっと近くで……そういうものだったと思われる。そういった意味では、勇儀としても当然ながら嬉しく感じていた。
だが、それでも一歩が踏み出せなかった。戸惑いがまずはじめに訪れ、次に驚愕が去来し、それらがない交ぜとなって突き動かされるようにして、小動物のように逃げ帰ってしまった。
その事実に若干の苛立ちを覚えながら、しかしそれ以上の大きさを持つ靄のようなもどかしさに、勇儀はなおも囚われ続けていた。
らしくない。
らしくないとは重々承知しており、できることなら笑い飛ばして文字通り吹き飛ばしてやりたかったが、今の勇儀には到底成し得ることではなかった。
「……で、勇儀。私の話、聞いているのかい?」
「いんや、聞いてる聞いてる……いや、ごめん、全然聞いてない」
「だと思った。素直でよろしい」
いつもと変わらず萃香は快活に笑っている。
この親友に話せるはずもない、話したところで失笑されるのが落ちだ。試しに盃を傾けてはみるが、やはり鬱屈とした気持ちは晴れない。
「で。今日はどうすんのさ、笛」
「……やめておくよ。どうも今夜は冴えない。大人しく、酒でもかっくらって寝ておくよ」
そつなく答えた言葉に、当然ながら嘘偽りはない。
恐らくは今夜も門前で待っているであろう男には悪いが、昨日の今日でおいそれと出向く気にはなれなかった。そんな自分に、さらに悶々としたものを覚えたことも事実ではあったのだが。
「そうかい。じゃあ、今日はこのあたりでお開きとしておくか」
「すまないね、最近付き合い悪くて。この埋め合わせはまた今度ってことで勘弁しておくれ」
「あんたの奢りでなら」
毒はあるものの、嫌みはない。なおも微笑む萃香に見送られて、勇儀はその場を後にする。
これが自分の足音かと、疑いなくなるほどの弱々しいそれに、勇儀は人知れず意気消沈した。
◆◆◆
「やれやれ、辛気臭いねえ」
嘆息する伊吹萃香だが、その言葉とは裏腹に笑みは明るい。
「今夜は満月だってのに」
ゆらりと、巨石が動くかのような存在感を伴いながら、小さなその身体がのそりと立ち上がる。確かに大気が鳴動して、焚き火がぱちりと泣いた。
愛用の瓢箪から景気よく酒をぶちまけて、萃香はにいっと口の端を持ち上げる。歯も剥き出しに哂う童女の瞳には、酒の水たまりに映った満月と、獰猛で荒々しい鬼の性とが浮かんでいた。
「折角の、まんまるい満月だってのに」
手をかざし、握り潰す。
水たまりの満月が砕け散った。
「百鬼夜行には、絶好の満月だってのに」
きししと喉を鳴らして、鬼は面を上げる。見据えた先にあるのは、人間が蔓延る人間の都。静かに横たわっているそれを思い出しているのか、萃香はしたたかに唇を舐めた。
「やれやれ、辛気臭いねえ」
◆◆◆
「やれやれ、辛気臭いねえ……我ながら」
結局、勇儀は今夜も都を目指していた。いつものように牡鹿の如く駆けながらではなく、老牛を思わせる鈍さではあったものの、それでも目的地に向けてしっかりと歩いていた。
恐らく、先日と同じく男は勇儀へとその手を差し伸べてくるだろう。或いは、さらに積極的な行動を起こすかも知れない。
その時、果たして自分はどうするのか、どうすべきなのか、どうしたいのか。このまま歩き続ければ、いずれは都へと辿り着く。そしてあの外門で、男が待っている。そのはずなのに、自分は……
坩堝に陥りはじめた頭の中を、掻き乱すようにかぶりを振る。いつになく重く感じるぼろきれを、てっぺんからしっかりと被り直して、勇儀は面を上げた。
やはり男の誘いに応えることはできない。
このまま、一線を画したままで吹き合うことができないなら、この日を最後にするべきだ。何故なら、星熊勇儀は鬼であり、男は人間だからである。両者は近寄ることすらあれ、それはあくまで一定の線引きを設けているからこそ、成し得るものである。男がその一線を越えようとするのなら、自分はそれを止めなければならない。ならばこの夜より、勇儀が都へと赴かなくなれば――時が過ぎ、幾夜も相手が現れなければ、やがては男も諦めることだろう。
それで、終わりである。
確かにわだかまりも残るかも知れない、現に勇儀としては相手にいささか不公平な、多少の申し訳なさを感じるのも事実だ。だが両者にとって、鬼にも人にも害をなさないと考えるならば、これが一番である。
そう、一番なのだ。
これを機会に笛を辞めてしまうのもいいだろう。鬼は鬼らしく、人の真似事など試さず、飲んで騒いでこれからも呵々大笑と過ごせばいい。星熊勇儀は、その一本角が似つかわしい鬼として、朗々と堂々と暮らせばいいのだ。その方が、きっと良いに決まっている……
のろのろとした自身の足取りがなるべく目に入らぬよう、勇儀は視線をさらに上へと転じた。すっかり日の落ちた夜の帳の中で、白化粧の満月が覗く。
濃密な気配に包まれたのは、そうして一歩を踏み出した時だった。
咄嗟に腰を落とし、左手でぼろきれを抑えながら、何も持っていない状態となった右の拳を握りしめる。都への距離はまだかなりあるにも関わらず、色濃いその気配は睨みつけたその方角、都から確かに感じ取られた。
加えて、これにはひどく覚えがある。
過剰なほどの自信と、それを裏打ちする力強さを漂わせた、憎たらしいほどのおおらかさ。
気が付けば勇儀は、漂白される夜の山を一目散に駆け下りていた。引っ繰り返りそうな視界の端では、己の意思とは別の、不自然な昂りを禁じ得ないほどに、満月が煌々と瞬いている。兎の踊り狂うその白をきっと睥睨しながら、それでも速度は緩めずに走り続ける。
迂闊だった、こんな満月の夜にあいつが、伊吹萃香が大人しく酒だけに興じている訳がない。それこそ己の力を以って百鬼夜行を演じ、都を縦断でもしなければ気が済まないはずだ。
そして萃香は、容赦というものを見せない、知らないと言っても過言ではない。
鬼の名に恥じぬほどの膂力で、立ち塞がるモノすべてをなぎ払う。それが伊吹萃香だ。
大気を思わせる気配が一層強くなる。山肌が剥き出しだった獣道が、徐々に人の手によって舗装された街道へと姿を変えていき、民家がちらほらと目に付いてきた。両足に渾身の力を込め、一息に夜空へと跳び上がる。
がむしゃらに突き進むその先に、ようやくあの巨大な外門が見えた。道の両脇を覆うほどに密集している民家の群れが、後ろへと勢いよく流れていく。
見上げるほどの門、その所々が朽ちていることを見て取れるほどに近づいた時、勇儀ははたと気が付いた。
はしたなく妖気を垂れ流す小柄な影と、毎晩の如く出会っていた影。
ふたつとも、既知の影。
間に割って入るのに、躊躇は微塵も無かった。
◆◆◆
一陣の風、そんな表現など生温いほどの荒々しさで、勇儀は躍り出た。
息が追い付いておらず、だらしなく息遣いが漏れ出てしまうが、それでも対峙した小柄な影――伊吹萃香に向ける視線は、一時も揺るいではいない。
「……睨む相手が、違うんじゃないかい?」
一方の萃香は、この事態を楽しむかのように挑戦的に微笑んで見せた。おおよそ構えらしいものを取ってはいないが、それでもこの鬼の力を勇儀は嫌と言うほど心得ている。ぼろきれを、視界を遮るものを羽織っていて勝負になるほど、甘い相手ではない。
迷いは、一瞬と呼ぶには多少の時間を要した。
応えるように、まず一歩。
背後の男を一瞥しながら、二歩。
男は恐怖ではなく、呆気に取られたような表情でそこに突っ立っていた。遠目で見た際には分からなかったが、天上の如き楽曲を奏でてくれる割には骨太の、一言で言えば濃い顔だった。
その事実に、こんな状況にも関わらず面白おかしくなり、くすりと口元が緩む。
おかげで少し気が晴れた。
ぼろきれを景気よく剥ぎ取って、三歩。
雄々しき一本角は、満月の光を受けてなおその朱色を損なうことなく、勇儀の額にあった。
「風情も分からんお子様に、ちょいと灸を据えに来たのさ」
空になった右の掌を、ごきりと鳴らす。
「満月程度で騒ぎ立てるな、みっともない」
「……言うねえ、辛気臭く顔を伏せていた奴が」
けたけたと歯を見せて、萃香は笑う。笑いながらその実、笑いの引っ込んだ瞳を細めて、両の拳の具合を確かめるように開閉している。
こいつは、殊更こういった状況では正直だ。既に人間である男のことなど眼中になく、勇儀を見定めていることが手に取るように分かる。
上等だ。
三歩目で踏み締めた大地へと、更に力を込める。自然と上半身が前に屈み、どっしりと萃香を見遣った。
互いに準備は万全。間に張り詰めた空気が、火花さえも起こりそうなほどに引き締まり、程好い威圧感が纏わりはじめる。
似つかわしくない優美な音色が、耳朶を打った。
躊躇わず振り返ると、男は笛を奏ではじめていた。一糸乱れぬ楽曲が、実態を伴うかのような流れとなって、剣呑な情景を押し退けていく。
だが、これでは火に油を注ぐようなものだ。特に勝負事に水を差されたと感じるであろう、萃香にとっては。
なにを馬鹿なことを。
すんでのところまで飛び出しかけた叫びだったが、勇儀はそれを咄嗟に呑み込むこととなった。突如として眼前に現れた金色の閃きを、首を後ろに下げてかわしたからだ。
わずかに後退して面を上げると、金を主とした龍面がこちらを見つめていた。
緋色の装束に身を包んだその人影は、煌びやかに光る金色の剣をゆったりと構え直している。
油断なく横を窺うと、萃香も似たようなものと相対していた。黄色を中心とした色彩の装束を纏っており、群青色の龍面で表情は窺い知れない。金の龍面と同じように泰然自若とし、こちらは銀色の剣を携えている。
不思議なことに、そのどちらからも敵意のようなものは感じられなかった。
そこで勇儀はふと思い至る。
突如として姿を現した装束姿の両者に、見覚えがあったからだ。
「……おいおい、鬼の勝負事を邪魔するとは良い度胸じゃないか」
だが萃香には、そんなことは些細な問題だったらしい。正面の群青色の龍面を見据えて、構える。
「そんなに邪魔したいなら、相手してやるよ!」
獣のように一声上げて、眼前へと肉薄する。それを群青色の龍面は、舞いでも行うかのようにゆさりとかわしていた。
萃香に次の行動を許さず、滑らかにその首筋へと銀の剣を振るい、寸前のところでぴたりと止めた。
咄嗟に身体を捻って遣り過ごそうとした萃香であったが、あることに気が付くと、無理矢理にその場へと踏み止まって動かなくなる。
見ると、勇儀に相対していたはずの金色の龍面が、萃香の背後へとその身を移していた。金の剣が、銀の剣と対になるかのように鬼の首元へと向けられている。萃香はかすかに焦りの浮かんだ目でそれらを睨みつけながら、憎々しげに汚く舌打ちをした。
二対一。
納得のいかない形ではあろうが、それでも勝敗は決してしまった。これで萃香にできることはない。悔しげな唸りとともに、撒き散らされていた妖気が収束していくのが分かる。
笛の音が止まった。
すると、装束姿がまったく同じ所作で剣を引き、鏡合わせのようにして下がっていく。左方に金色であり緋色であり金の剣、右方に群青色であり黄色であり銀の剣が、その間より現れた男の両脇へと優美に控えた。
男の視線が勇儀のそれと重なる。ふっと、照れ臭げで朗らかな笑みを浮かべて見せた。
「それはお前の式か、人間」
落ち着き、それでいて若干ながら沈み込むものを匂わせる声を、萃香は上げる。
童が不貞腐れたかのような顔からは、覇気が薄れているのを確かに感じた。
否定するかのように男はゆっくりと首を横に振る。改めて笛を構え、一筋の音を吹く。
龍のいななきのように長く響き、それに合わせるように両脇の人影は、大きくそれぞれの剣を天上へと掲げた。そして手首を捻り、軽やかに剣が閃く。
ふたつの装束姿は、霞のように、夜空へと溶けていくかのように、ゆんなりと消えていった。
「……ちぇっ、興が削がれちまったよ」
鼻を鳴らした萃香は、むっすりとした表情を隠すこともなく小さく嘆息して、踵を返した。拗ねてしまった童女となんら変わらない仕草で、後ろ手に手を振る。
そのまま振り返りもせずに、霧となってどこかへと去ってしまった。
あの調子で百鬼夜行という気分にはならないだろう。大方、酒をかっくらって不貞寝を決め込んでいるに違いない。
そういった意味でも萃香は分かり易くて、なにより正直だった。
「らんりょうおう、それと、なそり」
ぽそりと呟く。いつぞや垣間見ていた舞を脳裏に思い返しながら、勇儀は力なく息をついた。
これでは、勢いもそのままに間へと割って入った自分が馬鹿みたいである。それこそ一大決心をしてまで、鬼だとばれても構わないと腹を括ったのに。
あまり好きではない、この一本角まで晒して――
「……うあ」
ようやく、男がしげしげと自分の赤い角を見つめていることに、勇儀は気が付いた。それどころか、あろうことか歩み寄ってまでして、確かめようとしている。
興味深げに手を伸ばそうとしているのが視界の端に映ったのだ。
「いや、これは! そう、駄目! 駄目なんだよ、駄目だって!」
角に触れようとした男の手を辛くもかわすとともに、落ちていたぼろきれを必死に手繰り寄せて覆い被さる。
その拍子でかなり無様に崩れ落ちてしまったが、そんなことを気に留めるほどの余裕が、今の勇儀にはなかった。
「あ、あんまりその、じろじろとは」
我ながら、しどろもどろと答えた声も合わせて、なんと情けないことか。
自分への不甲斐なさ半分、得も言われぬ気恥ずかしさ半分で真っ赤になった顔ごと、真っ赤な角を必死に隠し続ける。傍らに男がしゃがみ込んだことを感じ取り、一段とぼろきれを掴む手に力がこもった。
つと、温もりを感じる。
男の手が、自分の手に被さったのだと勇儀が知った時には、ぼろきれはそっと取られていた。赤い角が、再び白い月明かりによって照らされる。
男の濃い顔が目の前にあった。優しげに、太い眉毛を下げて微笑んでいた。
「あ……」
吐息のような囁きが、勇儀の唇から漏れ出る。そっと、赤い角が撫でられた。
綺麗だな、と男が呟いた。
壮麗な楽曲には似つかわしくない、野太くて温かな声だった。
「……なんだい、それ」
勝手に張り詰めていたものが、取れたかのようだった。口元が綻び、腹筋をひくつかせるように小さく、そのまま辺りを憚らぬほどの大声となって。
自分でも止められないほどの勢いで、勇儀は笑いはじめてしまった。目尻に涙が滲み出てくるが、それも構わない。悲しみや、悔しさから込み上げてくるものではないのだ。満たされるものに突き動かされて、出てくるものなのだから。
一方の男は、いきなり笑い出されたことに納得いかないのだろう。憮然とした――先程の萃香とよく似ていた――童が拗ねたような顔で、ぶつくさと何事かを呟いていた。
そんな様子が、また面白おかしくなって、勇儀はさらに笑い続ける。
火照ってしまう頬は、なるべく気付かれたくなかった。
夏の夜を上品に色づける、白い満月にも。今はどこかで自棄酒にでも興じている、親友にも。勿論、目の前で憮然としている、この男にも。
誰にも気付かれたくはなかった。
◆◆◆
うつらうつらとした意識が、不意に目覚める。
地底に取り残された廃屋では、雨や雪は凌げても風は凌げなかったらしい。冷たい隙間風のおかげで、勇儀の目はすっかり醒めてしまっていた。
「懐かしいね」
思えば、随分と昔のことだった。幻想郷などという言葉も、今ほど大きな意味を持たなかった時代である。長く生きていると、それこそ生き過ぎているほどだと、こうして昔の出来事を夢に見ることも少なくなかった。
眠ることもできず、勇儀は廃屋から外へと出た。
通る者もいない街道は、どこからか雪が降り注いでいる。しんしんと底冷えする夜風に、それでも勇儀は何かを羽織ろうともせず、夜空を見上げていた。
額の一本角は、雄々しく赤くそそり立っている。
そこには、黄色く大きなひとつの星が、描かれていた。
鬼として最大の特徴とも言えるその角に対し、勇儀は生まれてこの方、良い感情を抱いたことはなかった。むしろ嫌いといってしまっても過言ではない。
赤く、雄々しくそそり立つようにして生えている角を、からかわれたことが一度や二度ではなかったからだ。周りが、粗暴さを纏ったような輩――同じ鬼ばかりであったことも災いし、勇儀は己の角を疎ましく思っていた。それこそ、まだ力も未熟であった頃から。
とは言え、そんなからかいも最近はめっきり減ってきたのは、勇儀にとって唯一の救いだった。鬼として、今や知らぬ者は居ないほどまで力をつけた勇儀に、おいそれと失言を投げかける者などほとんど居なかった。それこそ精々――
「おいおい湿気た面してんじゃないよ、勇儀!」
目の前で赤ら顔をしている、この伊吹萃香ぐらいである。
勢いよく肩を叩かれて、勇儀は苦笑する。常人どころか生半可な妖怪では腕がもげてしまいそうな萃香の張り手にも、勇儀の肩はじんじんとした痛みほどで事なきを得ていた。
「うるさいね、ちったぁ風情ってものを理解してみなよ」
二人で囲む焚き火が、ぱちりと鳴く。
「星とか木々とか、色々と肴はあるじゃあないか。それをわざわざ、あんたの姦しい声でぶち壊すこともあるまいに」
「湿気たことを。私ら鬼にそんなものは似合わないよ」
蕩けた目で萃香は答えた。年がら年中、へべれけよろしく酔い続けるこの童女が、巨木のように厳しく生える二本の角に見合うほどの力を持っていることを、勇儀はよく知っている。そして同時に、萃香がこのように答えることも、長い付き合いから容易に想像がついた。
鬼は粗暴。
人間どもが勝手に囁いていることだが、その実かなり的を射ている言葉だと、勇儀は思っていた。荒々しさこそ美徳であり、それこそ風情など何処吹く風と考える面が鬼には強い。力を誇示し、相対する者を無理矢理なぎ払うところなどは、勇儀にも当て嵌まっていた。
「……やれやれ。それじゃあ仕方ないね」
しかし、粗暴の一言で纏められるほど、鬼とて分かりやすいものではない。
「ん? また出かけるのかい?」
「あんたは嫌いだろ」
立ち上がった勇儀を尻目に、萃香はなおも甘露甘露と飲み続けている。その一言で察しがついたのか、いずこかへと歩き始めた勇儀を止める様子はない。
「嫌いだね。人間みたいだから」
あっけらかんと快々に微笑んだだけだった。
「言ってろ、鬼」
対して、勇儀も同じような笑みで答える。両者に臆する様子はなく、それでいてまろやかな雰囲気も薄れてはいない。信頼し合った毒舌が飛び交ったのみ、それだけであった。
適当なぼろ切れを頭から被ってから、勇儀は序々に駆け出す。身体はすっぽりと覆われており、今はたぶん、この赤い角は外から見えていないことだろう。
そのことが妙に安心だった。
◆◆◆
やがて見えてきた巨大な門に、一足飛びの要領で昇り上がる。一挙に飛び乗った拍子で、瓦がわずかに爆ぜるのを足裏で感じ取りながら、勇儀は出来るだけその衝撃を押し殺した。たっぷりと幾許かの時間を置いてから、面を上げる。
人の都が、そこには在った。
「湿気てるか。確かに、湿気てるね」
どっかりと胡坐をかいてため息をつく。夜風の涼しさが、勇儀が感じている物悲しさをより一層引き立てていた。
人の営み。それも夜間ともなれば、その儚さは米粒ほどのものであった。
所々で揺れる明かりもその儚さを助長させているに過ぎず、その気になれば――それこそ鬼の、星熊勇儀ただ一人で握りつぶせそうなほどの弱々しい存在が、勇儀の眼下に鎮座していた。
「けれども」
無論、勇儀はそんな無謀で粗暴なことを行いに来た訳ではない。
「やっぱり、嫌いじゃないね」
なるべく身体が隠せるようにぼろ切れを直し、立ち上がる。口元に運んだのは、愛用の盃ではない。瞑目して、調子を整える。
響いたのは笛の音だった。
竜笛と言われる横笛を、勇儀はその面も静かにして吹き続ける。力強いその音色は夜空へと昇り、或いは都へと降り立ちながら徐々に繊細なものへと姿を変えて、やがては風もない夜闇へと溶けていく。つっ、と首筋に一筋の汗を垂らしながら、それでも勇儀はそれを拭わず、一心不乱に笛を吹き続けていた。
鬼が楽を嗜んでなにが悪い。
これが勇儀の持論なのだが、周りの鬼達は辟易するばかりであった。一番の友人である萃香とて例外ではなく、むしろ率先してやめろやめろと声高に、笛を吹く勇儀を邪険に扱う始末であった。曰く、「辛気臭い」というのが萃香の言なのだが、それで勇儀が納得するはずもないので両者の主張は平行線の一途を辿るばかりであった。なので、こうして一人、他の鬼達には聞かれることのないこの場所で、暇を見つけては吹いているのである。
どうして笛を吹き始めたのかは、実のところ勇儀も覚えてはいなかった。いつだったか、人間が持っていた笛に興味を抱き、見よう見まねで木を削って笛を作ったことまでは記憶しているのだが……理由までは、とんと思い出せなかった。
とにかく、勇儀はとある切欠から笛を吹き始めたのであり、今もこうして人目や鬼目を忍んでは吹き続けている。そしてなにより大事なのは、勇儀が笛を吹くことが好きであるということだ。思った以上に力強く、嘶きのように音色を轟かせ、鬼である勇儀に汗をかくほどの力を要求する、楽というものに。勇儀は魅せられていた。
やがて楽曲は佳境を迎える。
思わず身体が調子に沿って揺れ動きそうになるのを止めながら、勇儀は一心不乱に笛を吹き続ける。一際、甲高い音色を轟かせてから、一拍とともに呼吸を置いて。
しめを、奏じた。
「……はう」
気の抜けた息継ぎに、火照った熱気が伴う。
今宵の楽はまあまあのものであった。雨は勿論のこと、風もそれほど強くないのが幸いして、自身の音色を程好く聞き取られたのが功を奏したのだろう。満足気に長いため息をついた勇儀の視線が、改めて眼下へと移る。
「ひゅい!」
息が止まりかけたのは、そこにひとつの影を見たからだった。
明かりもつけず夜闇に溶けるようにして、その人影は門の上――勇儀を凝視していた。背格好を見るまでもなく、その頭部に一欠けらの異物もないことから容易に想像がつく。
人間、一人の男であった。
「明かりも持たず歩くか、普通」
呟きは、あくまで自身に聞こえる程度に。
逸る気持ちを抑えながら、なるたけぼろ切れで身体を覆い隠す。ただの人間一人の口を封じるのはそれこそ造作もないが、魑魅魍魎に心得のある人間であったなら話は別だ。明かりもなく夜をうろついているのだから、その可能性は充分にある。無論、そんな人間が相手でも遅れを取るとは思っていない勇儀ではあったが、それでも今ここで騒ぎを起こすことは避けたかった。
そんな勇儀を尻目に、男はなおもこちらを凝視し続けている。
夜間に明かりのひとつもなく出歩いていることも驚嘆ではあったが、不審な影である勇儀を前にして身動ぎもしないとは恐るべき心胆である。驚きのあまり立ったまま失神しているのかとも疑ったが、その瞳には確固たる意識が窺えた。
やはり専門家か。
苦々しい思いとともに勇儀は踵を返し始めていた。人の都を間近で静かに一望でき、周りの仲間に小うるさく文句を言われることもなかったこの場所も、人間に見つかってしまっては、恐らく今後は近寄ることもできないであろう。
また場所を探さなきゃいけないね――少々名残惜しいものも感じながら、勇儀は足に力をこめる。
厳かな笛の音が、耳に届いた。
半ば呆気に取られながらも、辛うじてぼろ切れで顔を隠しながら振り向く。見ると、眼下の男が笛を構え、事もあろうにそれを奏で始めているではないか。都とは言え、夜という時刻が人間にとって如何に危険なものであるかは、鬼である勇儀にも――人間にとっての驚異である彼女にも手に取るように分かる。笛を吹くなど無防備であるどころか、それこそ自分の身を危険に晒すこと以外の何物でもない。
「なにを馬鹿なことを……」
漏れ出た言葉もそのままに、勇儀の疑念は一層強くなる。
だがそれも、一拍、二拍と置いた時には、跡形もなく吹き飛ばされてしまっていた。男の奏じる楽が、勇儀にとって経たことのないほどの衝撃であったからだ。それこそ萃香の、鬼の拳以上の、衝撃。
なんだこれは。
言ってしまえば、男の楽曲は上手かった。それも恐ろしいほどに。
楽を嗜む上で勇儀は、参考として幾度となく人間の楽を聞いてきた。無論、攫って来て吹かせたところで何の益にもならないので、忍びながらの盗み聞きではあったのだが。それでもやはり著名な、楽人とも呼ばれる人間たちの奏楽からは様々なものを学び得ることができた。自惚れではないのなら、今の勇儀の腕前はそういった楽人らとも並ぶほどにもなっている。
だが、眼下の男。
この男の奏じる楽は別格であった。
異質と呼んでも過言ではないほどに、それは濃密であり、なにより繊細――洒落た言葉など思い浮かべられないほどに、勇儀は聞き惚れてしまっていた。よろよろと力なくしゃがみ込み、震える手でなんとかぼろ切れを正す。気取られることのないように、しかしその耳はしっかりと眼下に傾けながら、勇儀は男の楽を聴き続けた。
どれくらいそうしていただろう。
気付けば、男は何曲目かの楽を終えてから、なおも勇儀を見つめ続けていた。その誘うような視線に、しばし戸惑いも感じながらも、やがて耐えかねたように勇儀は立ち上がった。早鐘を打つ胸の奥をなるべく悟られないよう、静かに笛を構える。それを待っていたかのように、男も笛を構えた。
始まりは、ともに長く。龍のいななきのように澄んだ音色が響き渡る。
手と手を重ねるように、笛の音が合わさった。
◆◆◆
「どうしたんだい、さっきからまるで上の空じゃないか」
萃香の言葉に、勇儀はようやく我に返った。取りこぼしかけていた盃を慌てて直す。
「別に。ちょっと考えごとをしていただけさ、色々とね」
「その割には、随分とご執心にも見えたけどねえ」
あっけらかんと笑う萃香は、なにか含みのあるものを口元に湛えているようにも見える。この鬼に限ってそんなことはないはずなのだが、それでもどこか見透かされているような気がして、勇儀は落ち着かなかった。取り繕うように、勢いよく盃を傾ける。
あの夜から、勇儀は毎夜のようにあの場所へと足を運んでいた。正体も分からぬ、恐らくは人間であろうあの男と、楽を奏で合うためである。
合わせるように奏じた楽曲は、おおよそ自分のものとは思えないほどに優美で、芳しいものだった。
一曲、二曲と奏で続けてもまるで疲れを感じず、それでいて吹き終えた後の心地良さは、決して一人では得られないほどに濃密なものであり。魅入られるかのように、勇儀は男とのささやかな奏楽に興じ続けていた。
思えば、やはり奇妙な男である。
背格好からして身分は悪くない人間ではあるはずなのだが、あんな夜間に一人で出歩くところなど、あらゆる意味で怪しいものだ。下手をすれば、鬼である勇儀にとって害をなす職種の者である可能性も、充分に考えられる。
そういった意味では、勇儀の行動はかなり迂闊なものであると言えるだろう。無理矢理にでも何人かの手下を引き連れて行くことが、鬼らしくないとは言え、賢明ではあるはずだ。
だが勇儀は、そんな無粋な真似は行いたくなかった。
いくら不審でも相手は一人で、それも共に笛を吹きに来ているのだ。そんな最中に、荒くれ者でもある鬼どもを引き連れて行くなど、どうあっても彼女にはできるはずもなかった。むしろ、思い至ることすら無かったと言ってもいい。鬼と人間、確固たる違いの中に流れるすべてを邪魔されたくはなかった。
楽を奏でる時、吹き合わせる時に比べれば、今こうして口に運ぶ甘露さえ、おぼろげなものになる。その瞬間すべてが華やかで、胸に満ちるものの桁が違う。
そう、それはまるで。
逢瀬のひと時のようで――
「んぶふぅ!」
すんなりと思い浮かんだ単語に、口に含んでいた酒が吹き出てしまった。
訝しげに首をかしげた萃香から顔をしっかりと逸らし、咳き込んで見せて誤魔化す。酔いとはまったく別のもので赤くなってしまった自身の顔を、どうしても隠してしまいたかったからだ。
「なにしてんだい? まさかこの程度で酔ったとか?」
「そ、そんな訳ないだろう! この馬鹿!」
必要以上に上擦った声は、抑え切れず。
眉をひそめた童女の顔が、それによってさらに傾く。
「お、おおっと、もうこんな時間だね! じゃあ私はちょっと出掛けてくるよ!」
「はあ? 何言ってるんだい、まだ宵の口――」
「悪いね!」
言うが早いか、勇儀はぼろきれを手に取って駆け出す。後ろでまだ萃香は何事かを言っていたが、それらすべてを置き去りにして勢いよく山を下って行く。
逢瀬のひと時。
先程、自分で思い浮かべてしまった単語を否定するかのように、勇儀はぶんぶんっとかぶりを振った。ぼろきれを握る手が、一際強くなる。
それでも、早鐘を打ち始めた胸の奥を抑えることは、できなかった。
◆◆◆
静々と、昇る余韻を残して曲が終わった。
随分と西の方角に近くなってしまった月を見つめながら、勇儀は笛から唇を離す。ほうっとついた、町娘のように艶やかな自分の息遣いが、いつになく気に障った。若干、欠けている月はそれでも煌々と都を照らしている。この分だと明日にでも満月となるだろう、白い中に浮かぶ兎も心なしか嬉しそうに見えた。
改めて、ぼろきれを正してから眼下へと視線を転じる。これまで、身に纏うぼろきれを取って奏楽に臨むことはなかった。そして恐らく、これからも取ることはないだろう。
自分が鬼であると悟られることを避けたかったのも事実だが、それがあまり意味のないことであることを勇儀は理解していた。
こんな夜更けに、天高き外門の上で笛を吹く影が、ただの人間であるはずがないのだ。事実、星熊勇儀は人間ではなく、鬼である。眼下の男が、いくら夜間に一人で出歩くような非常識な者であっても、そのことに思い至らないはずがない。
だがそれでも勇儀は、ぼろきれを取ろうとはしなかった。自身の角を――憎ったらしいその雄々しき赤い一本角を、どうしても見られたくはなかった。
彼女自身どうにも合点がいかないのだが、その角を、星熊勇儀が鬼だと雄弁に物語るそれを、男に見せたくはなかったのだ。
隔てられるだとか、違いが生じてしまうだとか、そうやって言葉に表せるようなものではなく、もっと曖昧な靄となって勇儀に圧しかかっていた。
端々でちらつくもどかしさを、目を瞬かせて追い払いながら、勇儀は改めて男を見る。すると、いつもと違って男が未だにこちらを見上げていることに、ようやく気が付いた。
普段ならば、曲が終わるとやがては男から去って行くのだが、この日だけは立ち去らずに今もそこに居る。どうしたのかと勇儀は同じく棒立ちになっていた。
つと、手が差し伸べられる。男が、勇儀に向かって手を差し伸べていた。
降りてきてくれないか?
逡巡するまでもなく、勇儀はその意図するところに至り、思わずびくりとその身が震える。今度こそ擦り落ちてしまおうとしたぼろきれを、すんでのところで握り締めながら、一歩二歩と後ずさった。
それでも男の手は動かず、じっと差し出されている。古の、魑魅魍魎を射抜く退魔の矢の如く、或いは勇儀にとってそれ以上もの驚愕を与えながら。
そのまま、幾許かの時間が流れた。
足元の瓦がかすかに崩れ、乾いた音が鳴らなければ、恐らくこの時間はもっと続いていたに違いない。からりと微かに耳朶を打った時には、勇儀は咄嗟に身を翻していた。
夜空と地上とが暗転し、転がり落ちるようにして巨大な門より降り立つ。着地した衝撃もそのままに、勇儀は人間の都を背に駆け出していた。
目の裏には、なおも手を差し伸べる人影が覗いている。
ぎゅっと両目を瞑るが、今度はその人影が一層色濃く現れてしまい、堪らず両の手でぼろきれをしがみつくようにして、きゅうっと握り締める。
息遣いが荒いのは、駆けていることが原因ではなかった。
◆◆◆
降りてきてくれないか?
口に出す以上に雄弁な男の行動を、勇儀は考えていた。そして、それを思い浮かべている自分の顔がこれ以上ないほどに呆けた面構えとなっていることに至って、勢いよくかぶりを振る。
あれから山へと帰り、早々に横にはなってみたものの、気付けば昨晩の出来事を悶々と考え続けており、ほとんど眠ることができなかった。
結局、酒を飲んで笛を吹いて萃香と語り合って、それでも気分は晴れずごねごねとしながら、今に――またもや朝が来て昼が来て夜となり――至っている。
恐らく、男としては昨夜の行動は、特に気兼ねのないものだったのだろう。異形の者とは言え、共に笛を奏楽し合った仲として、もっと近くで……そういうものだったと思われる。そういった意味では、勇儀としても当然ながら嬉しく感じていた。
だが、それでも一歩が踏み出せなかった。戸惑いがまずはじめに訪れ、次に驚愕が去来し、それらがない交ぜとなって突き動かされるようにして、小動物のように逃げ帰ってしまった。
その事実に若干の苛立ちを覚えながら、しかしそれ以上の大きさを持つ靄のようなもどかしさに、勇儀はなおも囚われ続けていた。
らしくない。
らしくないとは重々承知しており、できることなら笑い飛ばして文字通り吹き飛ばしてやりたかったが、今の勇儀には到底成し得ることではなかった。
「……で、勇儀。私の話、聞いているのかい?」
「いんや、聞いてる聞いてる……いや、ごめん、全然聞いてない」
「だと思った。素直でよろしい」
いつもと変わらず萃香は快活に笑っている。
この親友に話せるはずもない、話したところで失笑されるのが落ちだ。試しに盃を傾けてはみるが、やはり鬱屈とした気持ちは晴れない。
「で。今日はどうすんのさ、笛」
「……やめておくよ。どうも今夜は冴えない。大人しく、酒でもかっくらって寝ておくよ」
そつなく答えた言葉に、当然ながら嘘偽りはない。
恐らくは今夜も門前で待っているであろう男には悪いが、昨日の今日でおいそれと出向く気にはなれなかった。そんな自分に、さらに悶々としたものを覚えたことも事実ではあったのだが。
「そうかい。じゃあ、今日はこのあたりでお開きとしておくか」
「すまないね、最近付き合い悪くて。この埋め合わせはまた今度ってことで勘弁しておくれ」
「あんたの奢りでなら」
毒はあるものの、嫌みはない。なおも微笑む萃香に見送られて、勇儀はその場を後にする。
これが自分の足音かと、疑いなくなるほどの弱々しいそれに、勇儀は人知れず意気消沈した。
◆◆◆
「やれやれ、辛気臭いねえ」
嘆息する伊吹萃香だが、その言葉とは裏腹に笑みは明るい。
「今夜は満月だってのに」
ゆらりと、巨石が動くかのような存在感を伴いながら、小さなその身体がのそりと立ち上がる。確かに大気が鳴動して、焚き火がぱちりと泣いた。
愛用の瓢箪から景気よく酒をぶちまけて、萃香はにいっと口の端を持ち上げる。歯も剥き出しに哂う童女の瞳には、酒の水たまりに映った満月と、獰猛で荒々しい鬼の性とが浮かんでいた。
「折角の、まんまるい満月だってのに」
手をかざし、握り潰す。
水たまりの満月が砕け散った。
「百鬼夜行には、絶好の満月だってのに」
きししと喉を鳴らして、鬼は面を上げる。見据えた先にあるのは、人間が蔓延る人間の都。静かに横たわっているそれを思い出しているのか、萃香はしたたかに唇を舐めた。
「やれやれ、辛気臭いねえ」
◆◆◆
「やれやれ、辛気臭いねえ……我ながら」
結局、勇儀は今夜も都を目指していた。いつものように牡鹿の如く駆けながらではなく、老牛を思わせる鈍さではあったものの、それでも目的地に向けてしっかりと歩いていた。
恐らく、先日と同じく男は勇儀へとその手を差し伸べてくるだろう。或いは、さらに積極的な行動を起こすかも知れない。
その時、果たして自分はどうするのか、どうすべきなのか、どうしたいのか。このまま歩き続ければ、いずれは都へと辿り着く。そしてあの外門で、男が待っている。そのはずなのに、自分は……
坩堝に陥りはじめた頭の中を、掻き乱すようにかぶりを振る。いつになく重く感じるぼろきれを、てっぺんからしっかりと被り直して、勇儀は面を上げた。
やはり男の誘いに応えることはできない。
このまま、一線を画したままで吹き合うことができないなら、この日を最後にするべきだ。何故なら、星熊勇儀は鬼であり、男は人間だからである。両者は近寄ることすらあれ、それはあくまで一定の線引きを設けているからこそ、成し得るものである。男がその一線を越えようとするのなら、自分はそれを止めなければならない。ならばこの夜より、勇儀が都へと赴かなくなれば――時が過ぎ、幾夜も相手が現れなければ、やがては男も諦めることだろう。
それで、終わりである。
確かにわだかまりも残るかも知れない、現に勇儀としては相手にいささか不公平な、多少の申し訳なさを感じるのも事実だ。だが両者にとって、鬼にも人にも害をなさないと考えるならば、これが一番である。
そう、一番なのだ。
これを機会に笛を辞めてしまうのもいいだろう。鬼は鬼らしく、人の真似事など試さず、飲んで騒いでこれからも呵々大笑と過ごせばいい。星熊勇儀は、その一本角が似つかわしい鬼として、朗々と堂々と暮らせばいいのだ。その方が、きっと良いに決まっている……
のろのろとした自身の足取りがなるべく目に入らぬよう、勇儀は視線をさらに上へと転じた。すっかり日の落ちた夜の帳の中で、白化粧の満月が覗く。
濃密な気配に包まれたのは、そうして一歩を踏み出した時だった。
咄嗟に腰を落とし、左手でぼろきれを抑えながら、何も持っていない状態となった右の拳を握りしめる。都への距離はまだかなりあるにも関わらず、色濃いその気配は睨みつけたその方角、都から確かに感じ取られた。
加えて、これにはひどく覚えがある。
過剰なほどの自信と、それを裏打ちする力強さを漂わせた、憎たらしいほどのおおらかさ。
気が付けば勇儀は、漂白される夜の山を一目散に駆け下りていた。引っ繰り返りそうな視界の端では、己の意思とは別の、不自然な昂りを禁じ得ないほどに、満月が煌々と瞬いている。兎の踊り狂うその白をきっと睥睨しながら、それでも速度は緩めずに走り続ける。
迂闊だった、こんな満月の夜にあいつが、伊吹萃香が大人しく酒だけに興じている訳がない。それこそ己の力を以って百鬼夜行を演じ、都を縦断でもしなければ気が済まないはずだ。
そして萃香は、容赦というものを見せない、知らないと言っても過言ではない。
鬼の名に恥じぬほどの膂力で、立ち塞がるモノすべてをなぎ払う。それが伊吹萃香だ。
大気を思わせる気配が一層強くなる。山肌が剥き出しだった獣道が、徐々に人の手によって舗装された街道へと姿を変えていき、民家がちらほらと目に付いてきた。両足に渾身の力を込め、一息に夜空へと跳び上がる。
がむしゃらに突き進むその先に、ようやくあの巨大な外門が見えた。道の両脇を覆うほどに密集している民家の群れが、後ろへと勢いよく流れていく。
見上げるほどの門、その所々が朽ちていることを見て取れるほどに近づいた時、勇儀ははたと気が付いた。
はしたなく妖気を垂れ流す小柄な影と、毎晩の如く出会っていた影。
ふたつとも、既知の影。
間に割って入るのに、躊躇は微塵も無かった。
◆◆◆
一陣の風、そんな表現など生温いほどの荒々しさで、勇儀は躍り出た。
息が追い付いておらず、だらしなく息遣いが漏れ出てしまうが、それでも対峙した小柄な影――伊吹萃香に向ける視線は、一時も揺るいではいない。
「……睨む相手が、違うんじゃないかい?」
一方の萃香は、この事態を楽しむかのように挑戦的に微笑んで見せた。おおよそ構えらしいものを取ってはいないが、それでもこの鬼の力を勇儀は嫌と言うほど心得ている。ぼろきれを、視界を遮るものを羽織っていて勝負になるほど、甘い相手ではない。
迷いは、一瞬と呼ぶには多少の時間を要した。
応えるように、まず一歩。
背後の男を一瞥しながら、二歩。
男は恐怖ではなく、呆気に取られたような表情でそこに突っ立っていた。遠目で見た際には分からなかったが、天上の如き楽曲を奏でてくれる割には骨太の、一言で言えば濃い顔だった。
その事実に、こんな状況にも関わらず面白おかしくなり、くすりと口元が緩む。
おかげで少し気が晴れた。
ぼろきれを景気よく剥ぎ取って、三歩。
雄々しき一本角は、満月の光を受けてなおその朱色を損なうことなく、勇儀の額にあった。
「風情も分からんお子様に、ちょいと灸を据えに来たのさ」
空になった右の掌を、ごきりと鳴らす。
「満月程度で騒ぎ立てるな、みっともない」
「……言うねえ、辛気臭く顔を伏せていた奴が」
けたけたと歯を見せて、萃香は笑う。笑いながらその実、笑いの引っ込んだ瞳を細めて、両の拳の具合を確かめるように開閉している。
こいつは、殊更こういった状況では正直だ。既に人間である男のことなど眼中になく、勇儀を見定めていることが手に取るように分かる。
上等だ。
三歩目で踏み締めた大地へと、更に力を込める。自然と上半身が前に屈み、どっしりと萃香を見遣った。
互いに準備は万全。間に張り詰めた空気が、火花さえも起こりそうなほどに引き締まり、程好い威圧感が纏わりはじめる。
似つかわしくない優美な音色が、耳朶を打った。
躊躇わず振り返ると、男は笛を奏ではじめていた。一糸乱れぬ楽曲が、実態を伴うかのような流れとなって、剣呑な情景を押し退けていく。
だが、これでは火に油を注ぐようなものだ。特に勝負事に水を差されたと感じるであろう、萃香にとっては。
なにを馬鹿なことを。
すんでのところまで飛び出しかけた叫びだったが、勇儀はそれを咄嗟に呑み込むこととなった。突如として眼前に現れた金色の閃きを、首を後ろに下げてかわしたからだ。
わずかに後退して面を上げると、金を主とした龍面がこちらを見つめていた。
緋色の装束に身を包んだその人影は、煌びやかに光る金色の剣をゆったりと構え直している。
油断なく横を窺うと、萃香も似たようなものと相対していた。黄色を中心とした色彩の装束を纏っており、群青色の龍面で表情は窺い知れない。金の龍面と同じように泰然自若とし、こちらは銀色の剣を携えている。
不思議なことに、そのどちらからも敵意のようなものは感じられなかった。
そこで勇儀はふと思い至る。
突如として姿を現した装束姿の両者に、見覚えがあったからだ。
「……おいおい、鬼の勝負事を邪魔するとは良い度胸じゃないか」
だが萃香には、そんなことは些細な問題だったらしい。正面の群青色の龍面を見据えて、構える。
「そんなに邪魔したいなら、相手してやるよ!」
獣のように一声上げて、眼前へと肉薄する。それを群青色の龍面は、舞いでも行うかのようにゆさりとかわしていた。
萃香に次の行動を許さず、滑らかにその首筋へと銀の剣を振るい、寸前のところでぴたりと止めた。
咄嗟に身体を捻って遣り過ごそうとした萃香であったが、あることに気が付くと、無理矢理にその場へと踏み止まって動かなくなる。
見ると、勇儀に相対していたはずの金色の龍面が、萃香の背後へとその身を移していた。金の剣が、銀の剣と対になるかのように鬼の首元へと向けられている。萃香はかすかに焦りの浮かんだ目でそれらを睨みつけながら、憎々しげに汚く舌打ちをした。
二対一。
納得のいかない形ではあろうが、それでも勝敗は決してしまった。これで萃香にできることはない。悔しげな唸りとともに、撒き散らされていた妖気が収束していくのが分かる。
笛の音が止まった。
すると、装束姿がまったく同じ所作で剣を引き、鏡合わせのようにして下がっていく。左方に金色であり緋色であり金の剣、右方に群青色であり黄色であり銀の剣が、その間より現れた男の両脇へと優美に控えた。
男の視線が勇儀のそれと重なる。ふっと、照れ臭げで朗らかな笑みを浮かべて見せた。
「それはお前の式か、人間」
落ち着き、それでいて若干ながら沈み込むものを匂わせる声を、萃香は上げる。
童が不貞腐れたかのような顔からは、覇気が薄れているのを確かに感じた。
否定するかのように男はゆっくりと首を横に振る。改めて笛を構え、一筋の音を吹く。
龍のいななきのように長く響き、それに合わせるように両脇の人影は、大きくそれぞれの剣を天上へと掲げた。そして手首を捻り、軽やかに剣が閃く。
ふたつの装束姿は、霞のように、夜空へと溶けていくかのように、ゆんなりと消えていった。
「……ちぇっ、興が削がれちまったよ」
鼻を鳴らした萃香は、むっすりとした表情を隠すこともなく小さく嘆息して、踵を返した。拗ねてしまった童女となんら変わらない仕草で、後ろ手に手を振る。
そのまま振り返りもせずに、霧となってどこかへと去ってしまった。
あの調子で百鬼夜行という気分にはならないだろう。大方、酒をかっくらって不貞寝を決め込んでいるに違いない。
そういった意味でも萃香は分かり易くて、なにより正直だった。
「らんりょうおう、それと、なそり」
ぽそりと呟く。いつぞや垣間見ていた舞を脳裏に思い返しながら、勇儀は力なく息をついた。
これでは、勢いもそのままに間へと割って入った自分が馬鹿みたいである。それこそ一大決心をしてまで、鬼だとばれても構わないと腹を括ったのに。
あまり好きではない、この一本角まで晒して――
「……うあ」
ようやく、男がしげしげと自分の赤い角を見つめていることに、勇儀は気が付いた。それどころか、あろうことか歩み寄ってまでして、確かめようとしている。
興味深げに手を伸ばそうとしているのが視界の端に映ったのだ。
「いや、これは! そう、駄目! 駄目なんだよ、駄目だって!」
角に触れようとした男の手を辛くもかわすとともに、落ちていたぼろきれを必死に手繰り寄せて覆い被さる。
その拍子でかなり無様に崩れ落ちてしまったが、そんなことを気に留めるほどの余裕が、今の勇儀にはなかった。
「あ、あんまりその、じろじろとは」
我ながら、しどろもどろと答えた声も合わせて、なんと情けないことか。
自分への不甲斐なさ半分、得も言われぬ気恥ずかしさ半分で真っ赤になった顔ごと、真っ赤な角を必死に隠し続ける。傍らに男がしゃがみ込んだことを感じ取り、一段とぼろきれを掴む手に力がこもった。
つと、温もりを感じる。
男の手が、自分の手に被さったのだと勇儀が知った時には、ぼろきれはそっと取られていた。赤い角が、再び白い月明かりによって照らされる。
男の濃い顔が目の前にあった。優しげに、太い眉毛を下げて微笑んでいた。
「あ……」
吐息のような囁きが、勇儀の唇から漏れ出る。そっと、赤い角が撫でられた。
綺麗だな、と男が呟いた。
壮麗な楽曲には似つかわしくない、野太くて温かな声だった。
「……なんだい、それ」
勝手に張り詰めていたものが、取れたかのようだった。口元が綻び、腹筋をひくつかせるように小さく、そのまま辺りを憚らぬほどの大声となって。
自分でも止められないほどの勢いで、勇儀は笑いはじめてしまった。目尻に涙が滲み出てくるが、それも構わない。悲しみや、悔しさから込み上げてくるものではないのだ。満たされるものに突き動かされて、出てくるものなのだから。
一方の男は、いきなり笑い出されたことに納得いかないのだろう。憮然とした――先程の萃香とよく似ていた――童が拗ねたような顔で、ぶつくさと何事かを呟いていた。
そんな様子が、また面白おかしくなって、勇儀はさらに笑い続ける。
火照ってしまう頬は、なるべく気付かれたくなかった。
夏の夜を上品に色づける、白い満月にも。今はどこかで自棄酒にでも興じている、親友にも。勿論、目の前で憮然としている、この男にも。
誰にも気付かれたくはなかった。
◆◆◆
うつらうつらとした意識が、不意に目覚める。
地底に取り残された廃屋では、雨や雪は凌げても風は凌げなかったらしい。冷たい隙間風のおかげで、勇儀の目はすっかり醒めてしまっていた。
「懐かしいね」
思えば、随分と昔のことだった。幻想郷などという言葉も、今ほど大きな意味を持たなかった時代である。長く生きていると、それこそ生き過ぎているほどだと、こうして昔の出来事を夢に見ることも少なくなかった。
眠ることもできず、勇儀は廃屋から外へと出た。
通る者もいない街道は、どこからか雪が降り注いでいる。しんしんと底冷えする夜風に、それでも勇儀は何かを羽織ろうともせず、夜空を見上げていた。
額の一本角は、雄々しく赤くそそり立っている。
そこには、黄色く大きなひとつの星が、描かれていた。
男の人と姐さんのそれからのお話も読んでみたいなと思いました
いやはや、作者様はわかってらっしゃる。
奏でる笛が逢瀬の代わりってのも雅だ。文体もその雰囲気を高めるのに一役買っていて大変結構。
にしても勇儀姐さんの竜笛の名前ってもしかして葉二? とか、角の星はひょっとして五芒星?
などと興味は尽きないのですが、そこら辺のエピソードなんかもいつか目にすることができればとっても嬉しいです。
素晴らしいお話、ありがとうございました。
そういうことになった。で締めたくなる作品でした
男の名前、もしや博雅?だとすると笛は葉二?