同胞の目は焦点が定まっておらず、お嬢様でも咲夜様でもなければ私でもない、遠くを見つめておりました。
くちびるがほんの少しゆるんでおり、よだれが滴りそうなのを気にもかけていないようで、彼女がまず正常でないことを物語っておりました。お嬢様と咲夜様は顔を向けあい、ときおりは彼女を見やりながら相談をなさっております。そこでぽつりぽつりと聞こえてくるお声は、私を含め、ほかにいる妖精メイドたちにも届いてきました。
「なぜこうなっているの」
「今のところは何とも答えかねます。申し訳ありません」
「咲夜、謝らなくったっていい。貴方がコレをした原因だというのなら別だけど」
「このような不可解なことは到底できそうにありません」
この妖精メイドを発見したのは咲夜様でした。朝の支度はもっとも忙しいお仕事ですが、まさにその最中、突として見つけたと聞いております。廊下の真ん中に前述したとおりの様子で立ち尽くしていたそうです。いや、それだけなら、咲夜様は見過ごしてしまったことでしょう。実際本人も「通りすぎるつもりだった」と言っておられます。
彼女は、咲夜様の足を止めさせるだけの異常を見せつけました。突然このようなことを喋ったそうです。
「もちろんですよ。咲夜様のふところのナイフがたいそう鋭利で、素晴らしい出来栄えなのは重々承知しております。私は約束いたしたはずです。そのナイフは本来、私の身体のなかに収まるべき品で、特に十二指腸のあたりがふさわしいということを」
咲夜様は急ぐのを忘れ、彼女が言った突拍子もない話に思わず振り返り、どういう意味かと聞き返したそうです。
それからお嬢様がおいでになり同胞たちが集まりだしてくるまで、二人の会話は続いて、いまに至るというわけでした。ええもちろん、私もその一部始終に立ち会えましたとも。
彼女の要求をまとめてみると、彼女は咲夜様が所持しているナイフに刺されたくて仕方がなく、それは以前に約束したことだと言っております。しかし、咲夜様はそのような猟奇的な約束をした覚えは一切ないそうです。どちらかが嘘をついているやもしれませんが、そういう方面で疑うのは意味がないだろうということは、既にお嬢様や大多数の同胞にとって明らかでした。目下のところ重大なのは、なぜ彼女がこうなってしまったかに尽きます。
咲夜様と約束したこと。咲夜様のナイフが上等だということ。自分はそのナイフに刺されるべきで、十二指腸が最適だということ。なにが狂ってしまったのか、彼女はこれ以外の話を決して口にしません。いっそ願いを聞き入れてやってはどうかと、お嬢様が仰るも、咲夜様は後始末が面倒だという理由で断りました。
けっきょく彼女は、その異常がおさまるまで空部屋に閉じこめられることになりました。さいわい、主張はしつこいけれど手をだしてはこなかったので、部屋まですんなりと誘導でき、あとは鍵をかけておくだけで済みました。明日になったら覗いてみると咲夜様は仰いました。
私はその部屋の前に行ってみました。扉の正面に立って、ほんの少し意識してみると、扉越しに彼女の熱烈な欲求が聞こえてくるのです。それが今にも実行に移されそうな様子でえも言われぬ恐怖を感じさせました。
「約束は間違いのない約束でございます。私は今か今かと銀色ナイフがぷっつり突き立てられるさまを想像しておりました。咲夜様は必ずそれを成し遂げてくれるでしょう。咲夜様の腕にかかれば、一寸の狂いなく十二指腸にスッポリです」
私はすぐさま部屋から離れました。同胞によると彼女は夜中になっても喋り続けていたそうなので、よほど深刻と言えます。
翌日になって咲夜様が確認しましたが、眉をわずかにせばめる表情が変わることはありませんでした。
いったい彼女はどうなってしまうのかと我々が囁きあっていたときです。すかさず新たな異変の知らせが駆け巡りました。咲夜様はたちまち飛び去っていき、我々はその後を追いかけました。
咲夜様の疾走力もさることながら、同胞のヤジ馬根性もたいしたものです。私が現場についたころには、とっくに人だかりが出来上がっており、その中心に咲夜様と、二人の妖精メイドがおりました。そしてその近くには、なぜか粉々になった陶器の破片が散らばっております。一人は無事なようですが、もう一人は明らかに正気を保っておりません。顔はひきつって、目尻からは涙がいくつもこぼれ出てきます。身体も小刻みに震えていることから、何かに怯えているようですが、その何かについては間もなく発覚いたしました。
「……カエル……カエルが……壺に……あああカエルが……」
彼女のうわごとに、咲夜様がやわらかな優しい声をかぶせていきます。
「カエルがどうかしたの。壺、壺にカエルがいたの?」
「咲夜さん! そこに、そこにいるんですね。壺にカエルがおります、潜んでいます。気をつけてください。カエルは、カエルは、カエルはもぐりこんでおります。咲夜さん。咲夜さん。あ、あアア――――――ッ」
彼女は甲高い奇声を発したかと思うと、私のほうへ走りだしてきました。ものすごい力で肩を押しとばされ、後ろにいたメイド数人を道連れに倒されました。なおも彼女は止まらずに、向こうの壁際に飾られていた花瓶へ直進なさいまして、ガッとわしづかむや振りかぶり、絨毯への直撃でした。壺の割れる音がいとも鮮やかに響き渡ると、うってかわって我々は静かにならざるをえませんでした。
今はバラバラとなった花瓶と、こぼれでた水、ひしゃげた黄色のフリージア。それを彼女は親の敵とでも言うほどに何度も何度も踏みつけております。カエルに対してひどい言葉を投げつけておりますが、緑か、あるいは茶色の両生類がいた跡なんてひとつもありません。
咲夜様はため息を小さくついて、彼女に近づくと優しくなだめながら、どこかへ連れていきました。例の空部屋にむかわれたのです。
事の始まりはもう一人のメイドが話しました。彼女はさきほどのメイドとは仲が良く、たびたび揃って行動していたそうです。今朝も、そう。ですが彼女は異様にびくびくしながら、カエルが壺に隠れていることをしきりに話すものですから、さすがに妙だと思ったそうです。決定的だったのは、ともに廊下を歩いていると、飾られていた壺を見た彼女は叫びだして、そのまま割ってしまったこと。後の出来事はさきに書いてある通りです。
咲夜様がこれをお嬢様へご報告なさると、お嬢様は目を細めて渋げな顔をなさったと聞いております。役に立たないとはいえ、いちおうにも紅魔館に属している妖精メイドが、昨日からついで二人も正気を失ってしまった。原因はまだ分かっていない。これを面倒事と捉えずして何と捉えればよいのか。お嬢様のそうした表情はもっともだと思います。
咲夜様とお嬢様は顔よせあって原因究明に近づこうとお話しあっていますが、我々も同様にかたまりあっていました。恐ろしくはありますが、たいへんな珍事でもあります。まだ興味のほうが勝っており、探偵ごっこをするだけの余裕がありました。
しこたま集まった妖精メイドの情報網をあなどってはいけません。例の二人の生活態度はもとより、趣味趣向まですぐさま共有されていきました。結果としては、やはり二人があのようになってしまったことは普段の姿からしてありえないと、みなさん一致の模様です。いままで隠れていた恐るべき性がここにきて露出してしまった可能性も多いにあります。ですがそれを知るためには、本人たちに聞く他はありません。しかし本人たちはまともに口を聞けない状態です。
外からの要因が、果たしてあったのかどうかは分かりかねますが、咲夜様はそれを探ることに主眼を置くと決めたようです。盗み聴いていた我々は、咲夜様がまだ朝のお支度をなさっているうちに出し抜いて、要因探しをしてしまおうと思い立ちました。それぞれ館中にちらばって証拠と思わしきものを調べあげました。
私は三人のメイドと一緒になって、雑談などを交わしながら廊下を歩きまわりました。ささいな痕跡も見逃してはいけないと、みんなでオモシロ半分に誓いあったりしながら、部屋があれば覗いてみ、何もなければまた廊下。こんなに楽しい探偵ごっこなら、事件なぞ七日に一つくらい起きてほしいものだとさえ言いながら。
実際楽しいのだから仕方ありません。冗談まじりに要因を当てっこしているとワクワクしてきます。
ある部屋に入った時、そこは客間の一つでしたが、そこのシングルベッドに一人のメイドがちょこなんと座っておりました。うつむいて物静かな様子からすると、今朝の話題をまだ知らないと見えます。なので彼女も誘ってやろうと三人が言いました。そうして私たちが近づいていくと、彼女の絨毯に向けられていた顔がゆっくりと上がりました。その、ちょっと潤んでどこを見ているともつかぬ双眸で、青白い頬をふるわせて何事か訴えかけてきたのには、四人まとめてギクリとしました。
震える、というのは適切な表現だと思います。蚊の鳴くような声と言いますか、木の葉がささめき合うような声といいますか。聞き取り不明の極めて低音量が、彼女の口を源泉とし私たちの耳へ這いよってきました。
「な、なにか。調子でもわるいのかな。ど、どうなの」
最前のメイドが慌てて尋ねました。彼女はメイドを一瞥しただけで、答えることもなく口をもごもご動かし続けます。もしかしたら、こちらが聞き取れなかっただけかもしれませんが、どちらにしても普通ではありません。このままでは詳細を導きだすのは難しいでしょう。ついに三人目が出てしまったと、咲夜様へお伝えしなければなりません。
その役は私が買って出ました。三人には彼女を見張っておいてもらいます。
私は廊下へ出ると咲夜様が働いているであろう場所、時間帯からして台所か洗濯場のどちらかを見当して、ここから近い台所へ向かおうとしました。廊下を浮遊して急ぎぎみに渡っていきましたところ、複数名のメイドとともに慌ただしく廊下を駆け抜けていく咲夜様が偶然にもばったり現れたので、すかさずお声をかけました。すると鋭い目付き返されました。
咲夜様に睨まれることがどれほど恐ろしいか。私はめいいっぱい出すつもりだった声を細くしぼり、おかしくなったメイドがいると、彼女を笑えないような口ぶりで伝えました。その瞬間、咲夜様は視線をいっそう烈しくなされてこう言いました。
「あなたもなの」
はじめ言葉の意味するところが思いつきませんでした。ですが、咲夜様を取り囲んでいるメイドたちの顔色がみんな等しく不安げであることを見て、まさかの思いが私に横切りました。つまり、彼女たちは、私も含めて、まったく同一の目的で咲夜様のもとを訪れにきたと。そう思い至った時の薄ら寒さといったら。
「場所を教えなさい。あとでそこに向かうから」
こうしている間にも、新たなメイドが飛びこんでくるなり、友達が変だと口早に話しだしました。それを見て直前の想像を確信しないわけにはいかず、咲夜様の表情が穏やかでない理由が納得できました。
咲夜様はとつぜんその場から消えてしまいました。時間をお止めになり行動にうつったのでしょう。こうなると我々がするべきことはごく限られてしまいます。いずれ命令が飛んでくるまで待機するほかありません。そして、間もなくすると元いた位置に舞い戻った咲夜様が、我々へどこそこに向かってほしいと命令しました。そこに異常化したメイドがいるはずだから、彼女たちを指定した部屋へ連れていってほしいと仰りました。ここに複数人いるメイド、ざっと眺め回してみるに十二人ばかりが、四手にわけられて部屋の鍵を渡されました。いったい館には何人の心失せたメイドがいるのでしょうか。
私を含め二人のメイドは急げとの命令をまちがいなく実行しながら、紅魔館の長々しく赤い廊下をぐるぐる、ぐるぐる渡りながら、言われた通りの場所にむかいました。
とびきり広い客間へ入ると、メイドが長箒を両手に構えたままとんでもない正義感にあふれる引き締まった顔つきで中央に立っておりました。なにかに取り憑かれているかのように、革命がどうのこうのと言いながら、箒を振り回して我々をよせつけません。一時はとても手に負えないとあきれましたが、どうも彼女は箒を武器とする以外の技をもたなかったため、私が一粒の弾幕を飛ばしてやると彼女の額にてはじけ、そのまま昏倒させることに成功いたしました。
彼女は他二人が担ぎ上げると、ふたたび廊下を渡って指定された部屋へとむかいました。小さくて置物部屋と化していたその部屋に彼女をそっとしておいて、鍵をしめました。と、安心するや否や、光のように瞬く間に現れた咲夜様がつぎの命令をお伝えなさりました。
この調子で館中に出没している狂ったメイドたちを運びました。彼女たちは普段つかわれていない部屋や共同寝室へ移されました。話によると狂ったメイドの数は五十を越えるそうで、おおよそ、全体の四分の一がひどくなってしまったということです。
この紅魔館はじまって以来と言って差し支えない事態に、咲夜様は表情をにごらせ、お嬢様はたいそう立腹いたしております。しかしなによりも恐々としたのは、我々メイドたちでした。メイドだけが異常をきたすこの有様に「つぎは自分がこうなるのではないか」という疑いを、根っから楽天的な一部を除いてみんなが持ってしまいました。
もちろん、私も、まだ正常であるはずの自分の中身が、ふとした拍子に一変することを考えるとゾッとせずにおられません。私はどういった方向へネジ曲がりつつみんなを迷惑させるのでしょうか。例えばそれが、第一に見つかったメイドのように痛ましい自壊を望みだしたりしたら、しかもそれが達成させられてしまったら。あるいは、先のメイドのような暴徒と化して誰かに傷をあたえたとしたら。
まともなメイドの大半はそのような悲観にさいなまれて、ずうんと沈みこんでしまう状態でした。
咲夜様に呼ばれた七人のメイド。そこには私も入っておりました。
七人の顔ぶれはそれぞれに見知ったものでした。基本はぐうたらばかりの妖精メイドたちにおいて比較的マトモに働く者がこの七人で、咲夜様から直接命を受けたり、呼び出されたりすることが多いために、気がついたら顔なじみの彼女たちでした。
咲夜様は今の事態の収拾と究明にあたるため、その他がおごそかになる。だから家事を私たちに手伝ってもらうと仰いました。
実はこの部分だけを切り取ったならば以前にも見られた出来事でした。例えば紅霧異変の時にはもろもろの事情で、館内がずたずたになりたくさんのメイドが不能しました。その後しばらくは、咲夜様と九人のメイドが歯車となって汗水たらしておりました。ちょっと待て二人はどこにいったのかと疑問された方がおられるでしょう。二人はいま共同寝室で楽しそうにしておられます。
咲夜様は残っている七人を見、表にこそ出してはいませんが安堵を感じておられるようです。落ち着いた声で私たちに仕事と持ち場を伝え、六、七秒ほど質問のために間を置いてくだすったあと、消えていなくなりました。私たちは顔を見合わせながら散らばって、おのおの持ち場へおもむきました。
私が担当したのはお庭の手入れでした。と言っても、いつの間にか生え出ている雑草を抜くことばかりが目的でしたが。たしか咲夜様が剪定についてお調べしていたのを覚えています。いつか私たちにご指導してくれるやもしれません。しかし当分は雑草と格闘です。かがみこんで、緑色の浪人を見つけたらスコップでまわりの土をほぐし、根本から取り出します。
土のかおりがふわっと漂ってきて妙に安らいでくるのです。
そうやってうららかな陽だまりのなか、土いじりに熱がはいっておりました。手が粉っぽく乾燥しだしてくるのもお構いなく続けていますと、あるとき館のほうから飛び立ってきた影が私の頭上を通り過ぎました。見上げると、一人のメイドが湖へむけて一直線に。
スカートのたなびく様に見惚れていると、美鈴さんのまったりした大声が響き渡りました。
「どこ行くんですかあ」
私からは美鈴さんを見つけられませんでしたが、呼びかけられたメイドが一旦止まり、門のあたりに首を曲げるとまた動きだしたことから、たしかに美鈴さんの呼び声だったのだと分かりました。呼びかけを無視してまで急ぐ用事が彼女にあるようですが、おつかいを頼まれでもしたのでしょうか。するとまた眼下がちらりと明滅しまして、今度は三人のメイドが紅魔館から離れていくのです。美鈴さんがもういちどお声を張り上げました。
「なにかあったんですかあ」
その三人のメイドもやはり美鈴さんを無視して行ってしまいそうでした。彼女たちは、私と一緒にぼそぼそ喋るあのメイドを見つけた、彼女たちでした。それなら私が話かけてみれば、まさか無視されるなんてことにはならないだろうと思い、私はさっと飛び立ちました。
声をかけると案の定、彼女たちは少し戸惑いながらも止まってくれました。館から抜けだした理由を尋ねようとしたところ、先にくちを開いたのは彼女たちの一人でした。
「あなたも逃げたほうがいいわよ。館にいる妖精はみんなおかしくなっちゃう」
「え、でも」
「グズグズしていたら正気じゃなくなるかも」
その言葉へむけて返す刀を、私はもつことができませんでした。要因は分からないにせよ、もっとも危ない立場にいるのが我々であることには違いありません。むしろ、これ以上被害を増やさないためには、ぜひともメイドたちを館外へ移動させるべきとも思えます。
三人を引き止めようとした手を、私はひっこめました。そうこうしている内にも、ぽつぽつ脱出を図るメイドが数人ほど通りすぎていきました。きっと館内で、誰かがそんなことを言いふらして、メイド全員を不安に陥らせているのでしょう。
三人が離れていくのを見守ったあと足元に目をやってみました。美鈴さんが呆然と口をあけて、手をひさしにしてメイドたちを眺めておりました。頭上にいる私に気づきますと、なにかあったんでしょうかと、尋ねてきました。ほのぼのとした笑顔をわざわざ崩してあげることもありません。
「ちょっと館内で事故がおきております。それでメイドたちが殺気だちまして」
「はあ、それはしごく大変ですね。それにしてもメイドさん方はいつも騒がしくっていいですね。実に快活としていて、面白そうで」
普段の我々はそう見えていて、館内の事情を知らない美鈴さんからすれば、今日も普段となんら変わらず見えているのでしょうか。
どうぞ貴方は、普段どおりに門前に立ちっ放しでおいで下さい。
手入れ再開のために庭へ立ち帰ってどこまで進んでいたかしらと思い出していると、誰かが私の肩をたたきました。振り返ると妹様が笑っておりました。唇が三日月のように伸びあがっております。
「メイドさんも大変ね。館のなかは嵐のよう」
妹様はそのニヤニヤを、本当はこらえようとしているのでしょう。ですが、ときどき真顔に戻りながら話すものだから、いかにも奇妙でした。笑っておられるという点を見つめれば、機嫌がよいご様子でした。私のほうを観察でもするかのように、じろじろと眺めつつしきりと視線を合わせようとしつつ。対応に困って、仕事があることを盾に押しのけてしまいました。
「あなたは大丈夫なの。ねえ、他のメイドみたいにはなってないのかしら」
「大丈夫です。だと、思います。そろそろいいですか。ほら、まだ雑草がこんなに残っていますし」
「逃げないの」
「逃げません」
「そう。がんばりなさいよ」
妹様はまず浮かび上がると、それから速度をつけて館へ戻っていかれました。そこで逃げ出すつもりだったのであろうメイドと蜂合わせたらしく、なにか会話をなさりました。声は遠くて聞こえることはありませんでしたが、妹様がわざわざ庭まで出向いてきた理由がほんの少し分かりました。館に降りかかった異変を察して、いてもたってもいられなくなり、メイドにわざわざ“あなたはもう狂ったのか”と尋ねてまわっているのではないかと。
妹様に捕まったメイドが顔をしかめて、ぐるっと引き返していきました。妹様はその背中を追いかける姿勢になりました。あのメイドは私がされた会話とおなじ流れを受けたのでしょうか。しかめ面は「どうして逃げるの」と言われたものだから腹を立てた結果のようにも見えます。引き返した理由もそんなところでしょう。妹様の気まぐれと付き合うのは難しいです。
私は空が赤くなる頃には庭を離れて、水場で土まみれた手を綺麗にしているところでした。逃げ出そうとしているメイドはある時間を境に途絶えたので、そのことについて誰かへ尋ねてみました。たしかに逃げたほうがよいという噂は一時的に広まったそうですが、発狂の要因がハッキリとしたので必要なくなったと言います。
咲夜様が、種をまいた犯人と呼ぶべき者を導き出しました。犯人は身分を隠そうともせず、メイドたちをよからぬ方向へ誘導したそうです。そんな大胆不敵なヤツは、いったいどんな悪人面をしているのかしらと思いをはせていると、なんと食堂にてそいつと咲夜様が対峙していると言うではありませんか。私は水を拭きとるための手ぬぐいを投げて、食堂に直行いたしました。私と目指すところを同じくしたメイドがとっくに、指では数えられるほどたくさん食堂の中と外で盛り上がっておりました。同胞の隙間をぬってやっと中まで辿りつきました私は、犯人をみて驚きはしましたが、わずかに失望も感じました。
長卓子と椅子が並べられている食堂の中央に、咲夜様と妹様がそれぞれ椅子を借りてご対面なされています。場の空気をうけとるに妹様が犯人の立場であることは間違いありません。それに失望したのは、侵入者などという未知の相手を思い浮かべていたからです。見知った顔がそこにある衝撃のうすさといったら。
咲夜様の淡々とした事情聴取にこたえる妹様は、私に話かけてこられた時と変わっておりません。へらへらとして、飄々として。
「どうしてメイドたちを狂わせたのですか」
「ほら、私の力ってアレでしょう。ありとあらゆるものを云々。物を木っ端微塵にできることはご承知の通り。だけど物ではない、目に見えないモノは壊せるんだろうかって考えたのよ。幽霊とか、心とか。フフフフ。上出来なおつむを持った咲夜なら察しがついているでしょうけど、まわりの残念なメイドたちのために続けるわ。本当はね、はじめ幽霊から試すつもりだったんだけど、外に出るのが面倒くさくって。だから心から挑戦してみたの。心を壊すことはできるのか、また、心を壊せばどうなってしまうのか。その相手にはメイドが選ばれた。余るほどいるし妖精だから死んでもどこかで生き返るんだろうし。こういうのモルモットって言うらしいわね。
昨日の夜中にメイドをひとりつかまえた。なに、とっても簡単よ。面白いものがあるからついてきてって言えば、ひょこひょこ言う通りにしちゃって、あとは人気のないところへ。心を壊す方法なんだけど始めちっとも分からなかったわ。試行錯誤しているとメイドが怪しみだすし、ようやく鍵を見つけたときにはメイドが部屋を出る寸前だったわ。もうよろしいですかって言ってきて。よろしくない! って思ったわね。やっとメイドの心の眼を引っ張り出せたからすかさず握り潰した。するとバタンと倒れだすものだから、さすがに焦って、逃げ出しちゃった」
「他のメイドが妖精をみつけた時、彼女は立っており、意識もありました」
「それは私も確認しにいったわ。メイドが見つかってから、ヤジ馬に紛れながらだけど。とにかくこれで心を壊せることは分かったわけなんだけど、心が壊れてからのメイドが面白かったから、真夜中に眠っている彼女たちをこっそりと、適当にやって回ったの」
「でしょうね。真夜中に妹様を見たと言っているメイドが、複数おります」
「…………」
「どうかなさいましたか」
「咲夜はどう思う」
「いえ、べつに、そういうことなのだな、と」
お二人が話し終わったころになり、みけんを狭くなされたお嬢様がメイドたちに道を開けさせながらやってきました。妹様と目を合わせると息のながい溜息をつかれました。姉妹間での意思疎通のようなことはそれっきりにして、咲夜様と話だしました。
「メイドたちはどうするの」
「治す方法があればよいのですが、話を聞くと難しそうですね。ひとまず館から離しておきましょうか」
「つれていく場所があるとは思えないわね」
「このまま館におられても迷惑です。ちょうどよい場所を知っているんですよ。私に任せてください」
咲夜様はたいそう自信があるようでした。任せてください。冷静な顔とたしかな声色でそう言われたのなら、信頼せざるをえないでしょう。
咲夜様はお嬢様の合意を聞き届けると食堂から出ていかれました。その後、お嬢様は妹様に話があるからと、我々をみんな締め出して覗きもできなくさせました。しらけたので解散の運びとなりましたが、意地のわるい数人が扉に耳をあてたり、窓へ向かったりなどしておりました。私はその限りではございません。
しばらく経ってからの話によると、咲夜様は異常メイドたちを収容していた部屋を渡り渡り、彼女たちをいちいち引き連れて行列をお作りになりました。全員を連れ終わると外へ出ていかれました。そのいびつな蛇が陽の落ちかけた空を泳いでいったそうです。こんな時刻に、咲夜様が仰っていたちょうどよい場所へいく必要はあるのでしょうか。
咲夜様はとうとう、完全に陽が落ちてからも帰ってきませんでした。幻想郷はさほど広くはありません。咲夜様にはあの能力も備わっています。この場合、寄り道をしていると考えるのが妥当と思われました。まさか下賤な輩に絡まれていることはないとは思いますが。
そのことについて、帰り道で不意打ちを受けたと主張するメイドが六人。お嬢様に愛想を尽かした説に声を上げるのが一人。などなど、我々は行方を推察することを夜分の娯楽としました。私を含め、咲夜様の気まぐれ派は多数でもって優位についておりました。
食堂に再び集まって笑いあう我々の耳に、お嬢様の怒りの声が廊下を伝ってやってきます。高音まで持ち上げられたお声でも、文面だけ見ると心配なさっているような言葉を発しているのが、絶妙に咲夜様を叱っている味加減で、いけないとは分かっていても腹の底をくすぐられてしまいます。すると我々のげらげら音もお嬢様の耳に届いて、怒りの矛先を曲げてしまったようでした。
食堂に入ってきたお嬢様は、さすが吸血鬼といったお顔で群がる私たちを見回しました。思わずお叱りを受けるのかと硬直した我々でしたが、そうではありませんでした。
「いつも咲夜がかわいがってるっていう九人はどいつ。ちょっと前に出なさい」
今は七人しかいませんが、呼ばれた私たちはおずおずと集団から抜けだして、お嬢様の御前に肩を並べることとなりました。
「あと二人はどうした」
「狂ったほうに」
「まあいいわ。貴方たち、咲夜に変わってお菓子をつくってちょうだい」
私たちは顔を見合わせました。
お嬢様がお口になるお菓子、料理といえば、もちろんただのソレではございません。赤い調味料が含まれているために、少々特殊な工程とレシピがありまして、お作りになるのは基本的に咲夜様だけです。ですが私たちも手伝ってみたり挑戦してみた経験はあったので、二の足を踏む粗相をお嬢様へ見せることはありませんでした。
私は内心、いやな仕事がまわってきたとは思いましたけども。なぜって、匂いがつくとナカナカとれませんからね。
私たちは食堂を出るとすぐそばのキッチンへ向かいました。キッチンのとある戸棚にしまわれている、お嬢様御用達の料理が書かれたメモ帳を取り出すと、七人そろって袖をまくりました。
然るべき時間をかけて、クッキーを焼きあげ紅茶の用意をしたら、私がそれらをワゴンに載せてお嬢様がいらっしゃる寝室まで運びます。
車輪をうめかせながら廊下を渡り、寝室の前にきたら扉を二回たたきます。入れというお声がしてからはじめて扉を開き、扉の縁に車輪をひっかけてしまわないよう注意しながらお邪魔します。
大きな天蓋とベッドが右の壁側にどっしりと。小さな丸卓子と籐椅子は部屋の左側に配置されています。小奇麗な棚が左端のほうにあり、入って正面の窓には桃色のカーテンがかけてあります。私は窓のそばにお立ちになっているお嬢様の表情を、みてみぬフリをしながら紅茶を淹れる準備にとりかかりました。
「なにあれ」
ぽつりと、窓の外にむかって投げ出されたであろうお嬢様の声が、私の動きを止めました。どうかなさいましたか、と、半ば決まりの言葉を返してみると、お嬢様が興味深そうに窓を覗きこんでいるので気になって歩みよってみました。本当はこのようなことはいけませんが、咲夜様のお姿でもご覧になられたのかと思い、つい足が。
「あれ、人かしら」
「きっと咲夜様ですよ」
私がお嬢様の髪の毛へ触れるほど近づいたときです。後ろでガシャンと物音がしまして、二人で振り返ってみると何十人というメイドたちが部屋にぞろぞろなだれこんでくるではありませんか。ぎょっとしてお嬢様の肩をつかんでしまいました。それだけでもう驚くには充分でしたが、彼女たちはしかも、咲夜様が連れだしたはずの壊れたメイドたちで、手には包丁やら箒やらが握られているし、何かの冗談かと思わずにはいられませんでした。
メイドの一人がこちらへ迫ってこようとすると、お嬢様が弾幕をわざとデタラメな方向へ放って威嚇なさりました。ですがそんなものには見向きもせず、むしろさらに何人かが足並み仲良くけしかける構えをとってきました。
私は襲われるのを覚悟していよいよ硬くなりましたが、どうでしょう、お嬢様が私の服をおつまみになり引っ張りあげたかと思うと、視界が激しくブレて、何が起こったのか分かりませんでした。気がつくと館の外にいて、私はお嬢様の手ひとつで宙吊りにさせられていて。ああ、これは空を飛んでいるんだなと。
メイドの襲撃をまぬがれて飛行に至ったお嬢様に、申し訳なくも助けていただけました。中空で放り投げられたのには冷やりとさせられましたが、お嬢様は器用に私を掴み直すと肩に担ぎなおしました。
今は派手に割れてしまっている窓にメイドたちが集まって、みんなでこちらを見上げてきている不気味さといったら。
すると彼女たちが立ち退いて、ひとつの白い影が窓から飛び出してきました。咲夜様でした。安心するのも束の間、恐ろしい速さでたちまち距離を詰めてきました。私とお嬢様の神経は、全て咲夜様の手元に光る短刀に注がれることになりました。闇夜のなかでぎらつく刀身を、私でさえ見逃さなかったのだから、お嬢様は油断なく目に焼き付けたに違いありません。
右手は私を支えてくれているのに使われていた。なので左手が、短刀を直に受け止めなされました。力が並大抵でないことは、咲夜様がピッタリ止まりきったことから伺えます。その咲夜様はというとご乱心に言葉を吐きつけてきました。
「スカーレット、死ね! 悪魔めッ、くたばれ! 死ね! 死ね!」
そのような罵詈雑言を惜しげなく唾といっしょにまき散らして。この乱れきった姿はどう見てもメイドたちと相違のない、妹様に心を壊されたものです。
お嬢様は私に撃てと仰いました。
命令された私は反射するよう弾幕を生成しておりました。狙いをつける必要はなく散らばりきる前のひとまとめになった弾幕が、目前の咲夜様を包みこむと落下させていきました。地面に降りてみると、咲夜様は植えこみの草花を尻に敷いてのびておりました。当分はもどらないであろう意識を見届けたお嬢様は、担いでいた私を取り払いまして、根本原因の元へ急がれました。私だって結末まで目を離したくありませんから、お嬢様の俊足にどうにかすがりついていきました。
改めて館内に入ると、メイドたちが非常に右往左往としております。混乱の種は言うまでもなくお嬢様を襲撃なさった発狂メイドたちですが、目標を見失った彼女たちがそれぞれ好き勝手にうごきだしたというわけです。慌てふためくメイドに我を失ったメイドに、こうなるとドレがドレだから見当もつきませんから、お嬢様は近づいた者は殴り飛ばすか蹴り飛ばすかしながら向かわれました。
妹様が館の西側廊下をゆうゆう歩いておられたところを、ついに発見いたしました。お嬢様は見つけた途端に跳びかかって、噛みつくばかりの勢いです。
「フラン! あなた咲夜まであんなにして……おかげで殺されるところだったわよ。なんとかしなさいよ」
「それは無理よ。だって私は心を壊しただけで、謀反を企てろとは言ってないし」
「む、謀反。そう謀反よ。メイドを引き連れる知恵はあった癖に、時間は止めようともしなかった。そこまで重症になってしまったのよ。フランのせいなんだからフランが治しなさい」
お二人のぶつかり合いに進展は望めそうにありません。しかし、止めようにもお二人のもつれはやいばが剥き出しで、近づくのもためらわれます。
いつ介入するべきかとドキドキしていたら、一人のメイドが大声をあげながら走ってきました。その内容というのが、ここに来てお客様がおいでになられたというので、さすがに御姉妹を停止させました。
お嬢様は妹様をうごくなと一喝なさりました。そして走っているとも飛んでいるともつかぬ速度で玄関ホールへ向かわれたのです。
玄関ホールの中央にいきますと二人のお客様がおりました。メイドたちに混じっていながら明瞭に区別がつく立ち姿は立派という他ございません。とくに右側の銀色のケースを持った背の高い女性は凛々しくあって、私は目があうと思わずそらしてしまったほどでございます。
二人は竹林から参られた藥師とその助手でした。こんな大事態のなか、医学に精通した者がやってきたということは、恐らくそういうことなのでしょう。貴重な助っ人でした。お嬢様もそれは理解なさっているはずでしたが、どうしてか口調をとげとげしくなされて接するのです。
「呼んだ覚えはないわよ。見ての通り、今は忙しいのよ。大変なのよ」
藥師の方が上品な微笑をうかべながら、お嬢様のお言葉にこくりこくりとうなづきます。
「そうね。私も呼ばれた覚えはないわ。私は紅魔館が危ないという話を聞いて、自分の判断でここまでやってきたのだから。三妖精たちが言いふらしていたわよ」
三妖精と聞いてアッと声を漏らしかけたのは、どうやら私だけでした。今思えばあの逃げ出していった三人組こそ彼女たちではありませんか。あれほど仲良く会話をしておきながら、彼女たちが余所者だと気づかなかったなんて。ですが、紅魔館にいるメイドたちはしょっちゅう入れ替わります。咲夜様ならともかく、顔を覚えている暇はありません。仕方ありませんよね。
「事情は一切承知しているつもりよ。対処法もあるわ。取り引きという形にはなるけれど、わるい相談ではないはずよ」
「何が目的よ。何と取り引きしろって言うのよ」
「目的なんてないわ。私が欲しいものはあなたか、妹さんの血。研究のために。あとお金になるものがほしい。例えばアノ絵とか」
藥師が指さした先の壁には、人間の大人なら寝台にできそうなほど巨大な絵が飾ってあります。白ひげをたくわえた、なにか威厳ある男の肖像画です。人間の里に持っていって好事家にでも見せれば、それなりの値段で買い取ってくれるでしょう。
「アンタ、取り引きだけが目的なのね」
「あら、そうに決まっているじゃない」
「こんな目になったのも、もしかして、本当はアンタのせいじゃ」
「邪推するのは結構だけど、はやめに決めたほうがよろしいのでは」
お嬢様はいかなるプライドに邪魔されて歯をくいしばっておられるのでしょうか。こんなものは選択のしようがない取り引きです。早く決めないと館は荒れる一方ですし。咲夜様がお目覚めになると再び襲いにくる。
私はお嬢様に決心していただくよう、口を挟むことにいたしました。私のような一メイドの言うことです。割りこんだ瞬間はじろりと睨まれましたが、ひるむわけにはいきません。私なりの言葉で説得を行いました。
何度か噛み付かれましたがお嬢様は思いのほか素直でした。しぶしぶ折れてくださると、藥師へすべて任せると言いました。
藥師はお持ちになっていたケースを床に置くと開きました。中から缶のようなものを取り出してお嬢様と私と、となりの助手へ配りました。説明によるとこれはスプレーという品で、頭の出っ張った部分を押しこむと噴射口から薬が噴霧されるそうです。薬を多量に吸いこんだ者は眠りについて、次に目覚めたときは不安定になった心も元通り。ただしスプレーは計六つしか用意していないので失わないようにとのこと。
その原理不明な品を渡されたことでお嬢様がもういちど沸騰なされたとき、玄関口がけたたましく開け放たれました。何事かと思うと、咲夜様が柄の折れた箒を振り回して、支離滅裂に叫び通しながら突撃しなすってきました。すると藥師がお嬢様の正面に立ち、あと数歩といったところまで迫った咲夜様のお顔へスプレーを使います。たちまち霧のかたまりが咲夜様の上半身をおおい隠して、それが晴れる前に意識を奪い去っていきました。床に倒れこんだ咲夜様へ見向きもせず、藥師は私たちへ振り返るとこう言いました。
「これで使い方がわかったでしょう。見た通り、噴霧される量はとても多いから、自分にかからないように」
私たち四人に加えあと二人の正常なメイドを捕まえると、スプレーを持たせて散らばることにしました。おかしなメイドを見つけたのなら手当たりしだいに眠らせる、危険行為のような医療活動は日を跨ぐ直前まで続けられました。時間のかかった理由は、メイドのなかには隠れ潜む者もいるせいで発見が遅れてしまうところがあったからです。
一段落はしても、眠ったメイドたちを放置するわけにもいきませんから、共同寝室などへ運んでいきます。この作業は純粋な力仕事のぶん、妖精にとっては辛いところです。働ける者を総動員して取り掛かりました。図書館でのんきに埃をかぶってらっしゃるパチュリー様や小悪魔は当然ですが、人知れず夢のなかにいらっしゃった美鈴さんも連れ戻します。妹様は元凶であるため、さすがにこの間は個室に閉じこめられてしまいました。
空が白む前にすべてを片付け終わることができると、私たちはひとまず睡眠をとることにしました。時刻が時刻でしたので、お客様も宿泊なさりました。
すっかり明るくなった頃に、私は咲夜様から起こされました。
まどろむ目で咲夜様の顔を確認したときには昨日の出来事がよみがえってきて、身構えてしまいましたが、すっかり元通りでいらっしゃいます。ソファーの上で跳ね起きた私は、おかしく見えたことでしょう。
二人で食堂にむかいますと、藥師がそこにおりました。咲夜様は既に事情を教えられたそうです。お嬢様へ立ち向かわれた記憶はないそうですが、あったら困ると仰いました。正気を失ったのは、妹様と話していた時ではないかと疑っております。あのあたりから記憶が定かでないそうです。
咲夜様は私同様に八人のメイドも起こして食堂に集めました。まだ目をこすっている彼女たちに、これからみんなで朝食を作ると仰いました。館の住人全員で大朝食会を開くので、一人だけではとても手が足りないのだと。
みんなで集まってご飯を食べることは、紅魔館では特別な日以外ではあまり行われることがありません。それに久しぶりでした。朝食会となると、メイドたちはまず全員参加と考えるべきですが、他の方はどうなのかと、私は尋ねずにおれなくなりました。
「メイド全員で食べるのですか」
「そうよ」
「お嬢様もご参加なさるのですか」
「そのつもりだけど」
「妹様は」
「お嬢様からの許しが必要だと思うけど、できれば」
「美鈴さんやパチュリー様、小悪魔もですか」
「パチュリー様は辞退なさるかもしれないわね。……それと、お客様は参加してくれるって。なんだか嬉しそうじゃない」
「それはもちろん」
咲夜様は私の質問攻めに、愚直にも答えてくださりました。
今日はとても楽しい一日になりそうです。それを確実なものとするために朝食の準備をしなければなりませんが、もう一つ、咲夜様も準備をなさらないと。
咲夜様はしかるべきご覚悟をなさっているのでしょうか。私としては万全を期した上で、咲夜様ご自身のきらめくナイフを突き立てるべきだと思っております。咲夜様の張りあるお肌は確実にナイフの侵入にこたえて、ぷっつりと断ち切れるであろうことは想像に難くなく、その柔らかさについては貴方が自ら約束してくれましたよね。特に十二指腸のあたり。太ももに巻かれているナイフホルダーよりぴったり収まるであろうことを保証してくださいましたよね。そういった準備をなさらないといけません。みんなの御前で披露するのです。私は咲夜様に言われた通りに実行すればよいと心得ており、ナイフさばきだって相応の自信を持っているのですよ。
さあ咲夜様、さあ、ナイフをお渡しください。どうしたのですか。さあ、さあ早く。忘れてしまっているというのなら、私が今すぐ取りましょう。咲夜様はナイフをいつも、太もものホルダーか腰回りに隠し持っておりますよね。私がそれを取りましょう。
くちびるがほんの少しゆるんでおり、よだれが滴りそうなのを気にもかけていないようで、彼女がまず正常でないことを物語っておりました。お嬢様と咲夜様は顔を向けあい、ときおりは彼女を見やりながら相談をなさっております。そこでぽつりぽつりと聞こえてくるお声は、私を含め、ほかにいる妖精メイドたちにも届いてきました。
「なぜこうなっているの」
「今のところは何とも答えかねます。申し訳ありません」
「咲夜、謝らなくったっていい。貴方がコレをした原因だというのなら別だけど」
「このような不可解なことは到底できそうにありません」
この妖精メイドを発見したのは咲夜様でした。朝の支度はもっとも忙しいお仕事ですが、まさにその最中、突として見つけたと聞いております。廊下の真ん中に前述したとおりの様子で立ち尽くしていたそうです。いや、それだけなら、咲夜様は見過ごしてしまったことでしょう。実際本人も「通りすぎるつもりだった」と言っておられます。
彼女は、咲夜様の足を止めさせるだけの異常を見せつけました。突然このようなことを喋ったそうです。
「もちろんですよ。咲夜様のふところのナイフがたいそう鋭利で、素晴らしい出来栄えなのは重々承知しております。私は約束いたしたはずです。そのナイフは本来、私の身体のなかに収まるべき品で、特に十二指腸のあたりがふさわしいということを」
咲夜様は急ぐのを忘れ、彼女が言った突拍子もない話に思わず振り返り、どういう意味かと聞き返したそうです。
それからお嬢様がおいでになり同胞たちが集まりだしてくるまで、二人の会話は続いて、いまに至るというわけでした。ええもちろん、私もその一部始終に立ち会えましたとも。
彼女の要求をまとめてみると、彼女は咲夜様が所持しているナイフに刺されたくて仕方がなく、それは以前に約束したことだと言っております。しかし、咲夜様はそのような猟奇的な約束をした覚えは一切ないそうです。どちらかが嘘をついているやもしれませんが、そういう方面で疑うのは意味がないだろうということは、既にお嬢様や大多数の同胞にとって明らかでした。目下のところ重大なのは、なぜ彼女がこうなってしまったかに尽きます。
咲夜様と約束したこと。咲夜様のナイフが上等だということ。自分はそのナイフに刺されるべきで、十二指腸が最適だということ。なにが狂ってしまったのか、彼女はこれ以外の話を決して口にしません。いっそ願いを聞き入れてやってはどうかと、お嬢様が仰るも、咲夜様は後始末が面倒だという理由で断りました。
けっきょく彼女は、その異常がおさまるまで空部屋に閉じこめられることになりました。さいわい、主張はしつこいけれど手をだしてはこなかったので、部屋まですんなりと誘導でき、あとは鍵をかけておくだけで済みました。明日になったら覗いてみると咲夜様は仰いました。
私はその部屋の前に行ってみました。扉の正面に立って、ほんの少し意識してみると、扉越しに彼女の熱烈な欲求が聞こえてくるのです。それが今にも実行に移されそうな様子でえも言われぬ恐怖を感じさせました。
「約束は間違いのない約束でございます。私は今か今かと銀色ナイフがぷっつり突き立てられるさまを想像しておりました。咲夜様は必ずそれを成し遂げてくれるでしょう。咲夜様の腕にかかれば、一寸の狂いなく十二指腸にスッポリです」
私はすぐさま部屋から離れました。同胞によると彼女は夜中になっても喋り続けていたそうなので、よほど深刻と言えます。
翌日になって咲夜様が確認しましたが、眉をわずかにせばめる表情が変わることはありませんでした。
いったい彼女はどうなってしまうのかと我々が囁きあっていたときです。すかさず新たな異変の知らせが駆け巡りました。咲夜様はたちまち飛び去っていき、我々はその後を追いかけました。
咲夜様の疾走力もさることながら、同胞のヤジ馬根性もたいしたものです。私が現場についたころには、とっくに人だかりが出来上がっており、その中心に咲夜様と、二人の妖精メイドがおりました。そしてその近くには、なぜか粉々になった陶器の破片が散らばっております。一人は無事なようですが、もう一人は明らかに正気を保っておりません。顔はひきつって、目尻からは涙がいくつもこぼれ出てきます。身体も小刻みに震えていることから、何かに怯えているようですが、その何かについては間もなく発覚いたしました。
「……カエル……カエルが……壺に……あああカエルが……」
彼女のうわごとに、咲夜様がやわらかな優しい声をかぶせていきます。
「カエルがどうかしたの。壺、壺にカエルがいたの?」
「咲夜さん! そこに、そこにいるんですね。壺にカエルがおります、潜んでいます。気をつけてください。カエルは、カエルは、カエルはもぐりこんでおります。咲夜さん。咲夜さん。あ、あアア――――――ッ」
彼女は甲高い奇声を発したかと思うと、私のほうへ走りだしてきました。ものすごい力で肩を押しとばされ、後ろにいたメイド数人を道連れに倒されました。なおも彼女は止まらずに、向こうの壁際に飾られていた花瓶へ直進なさいまして、ガッとわしづかむや振りかぶり、絨毯への直撃でした。壺の割れる音がいとも鮮やかに響き渡ると、うってかわって我々は静かにならざるをえませんでした。
今はバラバラとなった花瓶と、こぼれでた水、ひしゃげた黄色のフリージア。それを彼女は親の敵とでも言うほどに何度も何度も踏みつけております。カエルに対してひどい言葉を投げつけておりますが、緑か、あるいは茶色の両生類がいた跡なんてひとつもありません。
咲夜様はため息を小さくついて、彼女に近づくと優しくなだめながら、どこかへ連れていきました。例の空部屋にむかわれたのです。
事の始まりはもう一人のメイドが話しました。彼女はさきほどのメイドとは仲が良く、たびたび揃って行動していたそうです。今朝も、そう。ですが彼女は異様にびくびくしながら、カエルが壺に隠れていることをしきりに話すものですから、さすがに妙だと思ったそうです。決定的だったのは、ともに廊下を歩いていると、飾られていた壺を見た彼女は叫びだして、そのまま割ってしまったこと。後の出来事はさきに書いてある通りです。
咲夜様がこれをお嬢様へご報告なさると、お嬢様は目を細めて渋げな顔をなさったと聞いております。役に立たないとはいえ、いちおうにも紅魔館に属している妖精メイドが、昨日からついで二人も正気を失ってしまった。原因はまだ分かっていない。これを面倒事と捉えずして何と捉えればよいのか。お嬢様のそうした表情はもっともだと思います。
咲夜様とお嬢様は顔よせあって原因究明に近づこうとお話しあっていますが、我々も同様にかたまりあっていました。恐ろしくはありますが、たいへんな珍事でもあります。まだ興味のほうが勝っており、探偵ごっこをするだけの余裕がありました。
しこたま集まった妖精メイドの情報網をあなどってはいけません。例の二人の生活態度はもとより、趣味趣向まですぐさま共有されていきました。結果としては、やはり二人があのようになってしまったことは普段の姿からしてありえないと、みなさん一致の模様です。いままで隠れていた恐るべき性がここにきて露出してしまった可能性も多いにあります。ですがそれを知るためには、本人たちに聞く他はありません。しかし本人たちはまともに口を聞けない状態です。
外からの要因が、果たしてあったのかどうかは分かりかねますが、咲夜様はそれを探ることに主眼を置くと決めたようです。盗み聴いていた我々は、咲夜様がまだ朝のお支度をなさっているうちに出し抜いて、要因探しをしてしまおうと思い立ちました。それぞれ館中にちらばって証拠と思わしきものを調べあげました。
私は三人のメイドと一緒になって、雑談などを交わしながら廊下を歩きまわりました。ささいな痕跡も見逃してはいけないと、みんなでオモシロ半分に誓いあったりしながら、部屋があれば覗いてみ、何もなければまた廊下。こんなに楽しい探偵ごっこなら、事件なぞ七日に一つくらい起きてほしいものだとさえ言いながら。
実際楽しいのだから仕方ありません。冗談まじりに要因を当てっこしているとワクワクしてきます。
ある部屋に入った時、そこは客間の一つでしたが、そこのシングルベッドに一人のメイドがちょこなんと座っておりました。うつむいて物静かな様子からすると、今朝の話題をまだ知らないと見えます。なので彼女も誘ってやろうと三人が言いました。そうして私たちが近づいていくと、彼女の絨毯に向けられていた顔がゆっくりと上がりました。その、ちょっと潤んでどこを見ているともつかぬ双眸で、青白い頬をふるわせて何事か訴えかけてきたのには、四人まとめてギクリとしました。
震える、というのは適切な表現だと思います。蚊の鳴くような声と言いますか、木の葉がささめき合うような声といいますか。聞き取り不明の極めて低音量が、彼女の口を源泉とし私たちの耳へ這いよってきました。
「な、なにか。調子でもわるいのかな。ど、どうなの」
最前のメイドが慌てて尋ねました。彼女はメイドを一瞥しただけで、答えることもなく口をもごもご動かし続けます。もしかしたら、こちらが聞き取れなかっただけかもしれませんが、どちらにしても普通ではありません。このままでは詳細を導きだすのは難しいでしょう。ついに三人目が出てしまったと、咲夜様へお伝えしなければなりません。
その役は私が買って出ました。三人には彼女を見張っておいてもらいます。
私は廊下へ出ると咲夜様が働いているであろう場所、時間帯からして台所か洗濯場のどちらかを見当して、ここから近い台所へ向かおうとしました。廊下を浮遊して急ぎぎみに渡っていきましたところ、複数名のメイドとともに慌ただしく廊下を駆け抜けていく咲夜様が偶然にもばったり現れたので、すかさずお声をかけました。すると鋭い目付き返されました。
咲夜様に睨まれることがどれほど恐ろしいか。私はめいいっぱい出すつもりだった声を細くしぼり、おかしくなったメイドがいると、彼女を笑えないような口ぶりで伝えました。その瞬間、咲夜様は視線をいっそう烈しくなされてこう言いました。
「あなたもなの」
はじめ言葉の意味するところが思いつきませんでした。ですが、咲夜様を取り囲んでいるメイドたちの顔色がみんな等しく不安げであることを見て、まさかの思いが私に横切りました。つまり、彼女たちは、私も含めて、まったく同一の目的で咲夜様のもとを訪れにきたと。そう思い至った時の薄ら寒さといったら。
「場所を教えなさい。あとでそこに向かうから」
こうしている間にも、新たなメイドが飛びこんでくるなり、友達が変だと口早に話しだしました。それを見て直前の想像を確信しないわけにはいかず、咲夜様の表情が穏やかでない理由が納得できました。
咲夜様はとつぜんその場から消えてしまいました。時間をお止めになり行動にうつったのでしょう。こうなると我々がするべきことはごく限られてしまいます。いずれ命令が飛んでくるまで待機するほかありません。そして、間もなくすると元いた位置に舞い戻った咲夜様が、我々へどこそこに向かってほしいと命令しました。そこに異常化したメイドがいるはずだから、彼女たちを指定した部屋へ連れていってほしいと仰りました。ここに複数人いるメイド、ざっと眺め回してみるに十二人ばかりが、四手にわけられて部屋の鍵を渡されました。いったい館には何人の心失せたメイドがいるのでしょうか。
私を含め二人のメイドは急げとの命令をまちがいなく実行しながら、紅魔館の長々しく赤い廊下をぐるぐる、ぐるぐる渡りながら、言われた通りの場所にむかいました。
とびきり広い客間へ入ると、メイドが長箒を両手に構えたままとんでもない正義感にあふれる引き締まった顔つきで中央に立っておりました。なにかに取り憑かれているかのように、革命がどうのこうのと言いながら、箒を振り回して我々をよせつけません。一時はとても手に負えないとあきれましたが、どうも彼女は箒を武器とする以外の技をもたなかったため、私が一粒の弾幕を飛ばしてやると彼女の額にてはじけ、そのまま昏倒させることに成功いたしました。
彼女は他二人が担ぎ上げると、ふたたび廊下を渡って指定された部屋へとむかいました。小さくて置物部屋と化していたその部屋に彼女をそっとしておいて、鍵をしめました。と、安心するや否や、光のように瞬く間に現れた咲夜様がつぎの命令をお伝えなさりました。
この調子で館中に出没している狂ったメイドたちを運びました。彼女たちは普段つかわれていない部屋や共同寝室へ移されました。話によると狂ったメイドの数は五十を越えるそうで、おおよそ、全体の四分の一がひどくなってしまったということです。
この紅魔館はじまって以来と言って差し支えない事態に、咲夜様は表情をにごらせ、お嬢様はたいそう立腹いたしております。しかしなによりも恐々としたのは、我々メイドたちでした。メイドだけが異常をきたすこの有様に「つぎは自分がこうなるのではないか」という疑いを、根っから楽天的な一部を除いてみんなが持ってしまいました。
もちろん、私も、まだ正常であるはずの自分の中身が、ふとした拍子に一変することを考えるとゾッとせずにおられません。私はどういった方向へネジ曲がりつつみんなを迷惑させるのでしょうか。例えばそれが、第一に見つかったメイドのように痛ましい自壊を望みだしたりしたら、しかもそれが達成させられてしまったら。あるいは、先のメイドのような暴徒と化して誰かに傷をあたえたとしたら。
まともなメイドの大半はそのような悲観にさいなまれて、ずうんと沈みこんでしまう状態でした。
咲夜様に呼ばれた七人のメイド。そこには私も入っておりました。
七人の顔ぶれはそれぞれに見知ったものでした。基本はぐうたらばかりの妖精メイドたちにおいて比較的マトモに働く者がこの七人で、咲夜様から直接命を受けたり、呼び出されたりすることが多いために、気がついたら顔なじみの彼女たちでした。
咲夜様は今の事態の収拾と究明にあたるため、その他がおごそかになる。だから家事を私たちに手伝ってもらうと仰いました。
実はこの部分だけを切り取ったならば以前にも見られた出来事でした。例えば紅霧異変の時にはもろもろの事情で、館内がずたずたになりたくさんのメイドが不能しました。その後しばらくは、咲夜様と九人のメイドが歯車となって汗水たらしておりました。ちょっと待て二人はどこにいったのかと疑問された方がおられるでしょう。二人はいま共同寝室で楽しそうにしておられます。
咲夜様は残っている七人を見、表にこそ出してはいませんが安堵を感じておられるようです。落ち着いた声で私たちに仕事と持ち場を伝え、六、七秒ほど質問のために間を置いてくだすったあと、消えていなくなりました。私たちは顔を見合わせながら散らばって、おのおの持ち場へおもむきました。
私が担当したのはお庭の手入れでした。と言っても、いつの間にか生え出ている雑草を抜くことばかりが目的でしたが。たしか咲夜様が剪定についてお調べしていたのを覚えています。いつか私たちにご指導してくれるやもしれません。しかし当分は雑草と格闘です。かがみこんで、緑色の浪人を見つけたらスコップでまわりの土をほぐし、根本から取り出します。
土のかおりがふわっと漂ってきて妙に安らいでくるのです。
そうやってうららかな陽だまりのなか、土いじりに熱がはいっておりました。手が粉っぽく乾燥しだしてくるのもお構いなく続けていますと、あるとき館のほうから飛び立ってきた影が私の頭上を通り過ぎました。見上げると、一人のメイドが湖へむけて一直線に。
スカートのたなびく様に見惚れていると、美鈴さんのまったりした大声が響き渡りました。
「どこ行くんですかあ」
私からは美鈴さんを見つけられませんでしたが、呼びかけられたメイドが一旦止まり、門のあたりに首を曲げるとまた動きだしたことから、たしかに美鈴さんの呼び声だったのだと分かりました。呼びかけを無視してまで急ぐ用事が彼女にあるようですが、おつかいを頼まれでもしたのでしょうか。するとまた眼下がちらりと明滅しまして、今度は三人のメイドが紅魔館から離れていくのです。美鈴さんがもういちどお声を張り上げました。
「なにかあったんですかあ」
その三人のメイドもやはり美鈴さんを無視して行ってしまいそうでした。彼女たちは、私と一緒にぼそぼそ喋るあのメイドを見つけた、彼女たちでした。それなら私が話かけてみれば、まさか無視されるなんてことにはならないだろうと思い、私はさっと飛び立ちました。
声をかけると案の定、彼女たちは少し戸惑いながらも止まってくれました。館から抜けだした理由を尋ねようとしたところ、先にくちを開いたのは彼女たちの一人でした。
「あなたも逃げたほうがいいわよ。館にいる妖精はみんなおかしくなっちゃう」
「え、でも」
「グズグズしていたら正気じゃなくなるかも」
その言葉へむけて返す刀を、私はもつことができませんでした。要因は分からないにせよ、もっとも危ない立場にいるのが我々であることには違いありません。むしろ、これ以上被害を増やさないためには、ぜひともメイドたちを館外へ移動させるべきとも思えます。
三人を引き止めようとした手を、私はひっこめました。そうこうしている内にも、ぽつぽつ脱出を図るメイドが数人ほど通りすぎていきました。きっと館内で、誰かがそんなことを言いふらして、メイド全員を不安に陥らせているのでしょう。
三人が離れていくのを見守ったあと足元に目をやってみました。美鈴さんが呆然と口をあけて、手をひさしにしてメイドたちを眺めておりました。頭上にいる私に気づきますと、なにかあったんでしょうかと、尋ねてきました。ほのぼのとした笑顔をわざわざ崩してあげることもありません。
「ちょっと館内で事故がおきております。それでメイドたちが殺気だちまして」
「はあ、それはしごく大変ですね。それにしてもメイドさん方はいつも騒がしくっていいですね。実に快活としていて、面白そうで」
普段の我々はそう見えていて、館内の事情を知らない美鈴さんからすれば、今日も普段となんら変わらず見えているのでしょうか。
どうぞ貴方は、普段どおりに門前に立ちっ放しでおいで下さい。
手入れ再開のために庭へ立ち帰ってどこまで進んでいたかしらと思い出していると、誰かが私の肩をたたきました。振り返ると妹様が笑っておりました。唇が三日月のように伸びあがっております。
「メイドさんも大変ね。館のなかは嵐のよう」
妹様はそのニヤニヤを、本当はこらえようとしているのでしょう。ですが、ときどき真顔に戻りながら話すものだから、いかにも奇妙でした。笑っておられるという点を見つめれば、機嫌がよいご様子でした。私のほうを観察でもするかのように、じろじろと眺めつつしきりと視線を合わせようとしつつ。対応に困って、仕事があることを盾に押しのけてしまいました。
「あなたは大丈夫なの。ねえ、他のメイドみたいにはなってないのかしら」
「大丈夫です。だと、思います。そろそろいいですか。ほら、まだ雑草がこんなに残っていますし」
「逃げないの」
「逃げません」
「そう。がんばりなさいよ」
妹様はまず浮かび上がると、それから速度をつけて館へ戻っていかれました。そこで逃げ出すつもりだったのであろうメイドと蜂合わせたらしく、なにか会話をなさりました。声は遠くて聞こえることはありませんでしたが、妹様がわざわざ庭まで出向いてきた理由がほんの少し分かりました。館に降りかかった異変を察して、いてもたってもいられなくなり、メイドにわざわざ“あなたはもう狂ったのか”と尋ねてまわっているのではないかと。
妹様に捕まったメイドが顔をしかめて、ぐるっと引き返していきました。妹様はその背中を追いかける姿勢になりました。あのメイドは私がされた会話とおなじ流れを受けたのでしょうか。しかめ面は「どうして逃げるの」と言われたものだから腹を立てた結果のようにも見えます。引き返した理由もそんなところでしょう。妹様の気まぐれと付き合うのは難しいです。
私は空が赤くなる頃には庭を離れて、水場で土まみれた手を綺麗にしているところでした。逃げ出そうとしているメイドはある時間を境に途絶えたので、そのことについて誰かへ尋ねてみました。たしかに逃げたほうがよいという噂は一時的に広まったそうですが、発狂の要因がハッキリとしたので必要なくなったと言います。
咲夜様が、種をまいた犯人と呼ぶべき者を導き出しました。犯人は身分を隠そうともせず、メイドたちをよからぬ方向へ誘導したそうです。そんな大胆不敵なヤツは、いったいどんな悪人面をしているのかしらと思いをはせていると、なんと食堂にてそいつと咲夜様が対峙していると言うではありませんか。私は水を拭きとるための手ぬぐいを投げて、食堂に直行いたしました。私と目指すところを同じくしたメイドがとっくに、指では数えられるほどたくさん食堂の中と外で盛り上がっておりました。同胞の隙間をぬってやっと中まで辿りつきました私は、犯人をみて驚きはしましたが、わずかに失望も感じました。
長卓子と椅子が並べられている食堂の中央に、咲夜様と妹様がそれぞれ椅子を借りてご対面なされています。場の空気をうけとるに妹様が犯人の立場であることは間違いありません。それに失望したのは、侵入者などという未知の相手を思い浮かべていたからです。見知った顔がそこにある衝撃のうすさといったら。
咲夜様の淡々とした事情聴取にこたえる妹様は、私に話かけてこられた時と変わっておりません。へらへらとして、飄々として。
「どうしてメイドたちを狂わせたのですか」
「ほら、私の力ってアレでしょう。ありとあらゆるものを云々。物を木っ端微塵にできることはご承知の通り。だけど物ではない、目に見えないモノは壊せるんだろうかって考えたのよ。幽霊とか、心とか。フフフフ。上出来なおつむを持った咲夜なら察しがついているでしょうけど、まわりの残念なメイドたちのために続けるわ。本当はね、はじめ幽霊から試すつもりだったんだけど、外に出るのが面倒くさくって。だから心から挑戦してみたの。心を壊すことはできるのか、また、心を壊せばどうなってしまうのか。その相手にはメイドが選ばれた。余るほどいるし妖精だから死んでもどこかで生き返るんだろうし。こういうのモルモットって言うらしいわね。
昨日の夜中にメイドをひとりつかまえた。なに、とっても簡単よ。面白いものがあるからついてきてって言えば、ひょこひょこ言う通りにしちゃって、あとは人気のないところへ。心を壊す方法なんだけど始めちっとも分からなかったわ。試行錯誤しているとメイドが怪しみだすし、ようやく鍵を見つけたときにはメイドが部屋を出る寸前だったわ。もうよろしいですかって言ってきて。よろしくない! って思ったわね。やっとメイドの心の眼を引っ張り出せたからすかさず握り潰した。するとバタンと倒れだすものだから、さすがに焦って、逃げ出しちゃった」
「他のメイドが妖精をみつけた時、彼女は立っており、意識もありました」
「それは私も確認しにいったわ。メイドが見つかってから、ヤジ馬に紛れながらだけど。とにかくこれで心を壊せることは分かったわけなんだけど、心が壊れてからのメイドが面白かったから、真夜中に眠っている彼女たちをこっそりと、適当にやって回ったの」
「でしょうね。真夜中に妹様を見たと言っているメイドが、複数おります」
「…………」
「どうかなさいましたか」
「咲夜はどう思う」
「いえ、べつに、そういうことなのだな、と」
お二人が話し終わったころになり、みけんを狭くなされたお嬢様がメイドたちに道を開けさせながらやってきました。妹様と目を合わせると息のながい溜息をつかれました。姉妹間での意思疎通のようなことはそれっきりにして、咲夜様と話だしました。
「メイドたちはどうするの」
「治す方法があればよいのですが、話を聞くと難しそうですね。ひとまず館から離しておきましょうか」
「つれていく場所があるとは思えないわね」
「このまま館におられても迷惑です。ちょうどよい場所を知っているんですよ。私に任せてください」
咲夜様はたいそう自信があるようでした。任せてください。冷静な顔とたしかな声色でそう言われたのなら、信頼せざるをえないでしょう。
咲夜様はお嬢様の合意を聞き届けると食堂から出ていかれました。その後、お嬢様は妹様に話があるからと、我々をみんな締め出して覗きもできなくさせました。しらけたので解散の運びとなりましたが、意地のわるい数人が扉に耳をあてたり、窓へ向かったりなどしておりました。私はその限りではございません。
しばらく経ってからの話によると、咲夜様は異常メイドたちを収容していた部屋を渡り渡り、彼女たちをいちいち引き連れて行列をお作りになりました。全員を連れ終わると外へ出ていかれました。そのいびつな蛇が陽の落ちかけた空を泳いでいったそうです。こんな時刻に、咲夜様が仰っていたちょうどよい場所へいく必要はあるのでしょうか。
咲夜様はとうとう、完全に陽が落ちてからも帰ってきませんでした。幻想郷はさほど広くはありません。咲夜様にはあの能力も備わっています。この場合、寄り道をしていると考えるのが妥当と思われました。まさか下賤な輩に絡まれていることはないとは思いますが。
そのことについて、帰り道で不意打ちを受けたと主張するメイドが六人。お嬢様に愛想を尽かした説に声を上げるのが一人。などなど、我々は行方を推察することを夜分の娯楽としました。私を含め、咲夜様の気まぐれ派は多数でもって優位についておりました。
食堂に再び集まって笑いあう我々の耳に、お嬢様の怒りの声が廊下を伝ってやってきます。高音まで持ち上げられたお声でも、文面だけ見ると心配なさっているような言葉を発しているのが、絶妙に咲夜様を叱っている味加減で、いけないとは分かっていても腹の底をくすぐられてしまいます。すると我々のげらげら音もお嬢様の耳に届いて、怒りの矛先を曲げてしまったようでした。
食堂に入ってきたお嬢様は、さすが吸血鬼といったお顔で群がる私たちを見回しました。思わずお叱りを受けるのかと硬直した我々でしたが、そうではありませんでした。
「いつも咲夜がかわいがってるっていう九人はどいつ。ちょっと前に出なさい」
今は七人しかいませんが、呼ばれた私たちはおずおずと集団から抜けだして、お嬢様の御前に肩を並べることとなりました。
「あと二人はどうした」
「狂ったほうに」
「まあいいわ。貴方たち、咲夜に変わってお菓子をつくってちょうだい」
私たちは顔を見合わせました。
お嬢様がお口になるお菓子、料理といえば、もちろんただのソレではございません。赤い調味料が含まれているために、少々特殊な工程とレシピがありまして、お作りになるのは基本的に咲夜様だけです。ですが私たちも手伝ってみたり挑戦してみた経験はあったので、二の足を踏む粗相をお嬢様へ見せることはありませんでした。
私は内心、いやな仕事がまわってきたとは思いましたけども。なぜって、匂いがつくとナカナカとれませんからね。
私たちは食堂を出るとすぐそばのキッチンへ向かいました。キッチンのとある戸棚にしまわれている、お嬢様御用達の料理が書かれたメモ帳を取り出すと、七人そろって袖をまくりました。
然るべき時間をかけて、クッキーを焼きあげ紅茶の用意をしたら、私がそれらをワゴンに載せてお嬢様がいらっしゃる寝室まで運びます。
車輪をうめかせながら廊下を渡り、寝室の前にきたら扉を二回たたきます。入れというお声がしてからはじめて扉を開き、扉の縁に車輪をひっかけてしまわないよう注意しながらお邪魔します。
大きな天蓋とベッドが右の壁側にどっしりと。小さな丸卓子と籐椅子は部屋の左側に配置されています。小奇麗な棚が左端のほうにあり、入って正面の窓には桃色のカーテンがかけてあります。私は窓のそばにお立ちになっているお嬢様の表情を、みてみぬフリをしながら紅茶を淹れる準備にとりかかりました。
「なにあれ」
ぽつりと、窓の外にむかって投げ出されたであろうお嬢様の声が、私の動きを止めました。どうかなさいましたか、と、半ば決まりの言葉を返してみると、お嬢様が興味深そうに窓を覗きこんでいるので気になって歩みよってみました。本当はこのようなことはいけませんが、咲夜様のお姿でもご覧になられたのかと思い、つい足が。
「あれ、人かしら」
「きっと咲夜様ですよ」
私がお嬢様の髪の毛へ触れるほど近づいたときです。後ろでガシャンと物音がしまして、二人で振り返ってみると何十人というメイドたちが部屋にぞろぞろなだれこんでくるではありませんか。ぎょっとしてお嬢様の肩をつかんでしまいました。それだけでもう驚くには充分でしたが、彼女たちはしかも、咲夜様が連れだしたはずの壊れたメイドたちで、手には包丁やら箒やらが握られているし、何かの冗談かと思わずにはいられませんでした。
メイドの一人がこちらへ迫ってこようとすると、お嬢様が弾幕をわざとデタラメな方向へ放って威嚇なさりました。ですがそんなものには見向きもせず、むしろさらに何人かが足並み仲良くけしかける構えをとってきました。
私は襲われるのを覚悟していよいよ硬くなりましたが、どうでしょう、お嬢様が私の服をおつまみになり引っ張りあげたかと思うと、視界が激しくブレて、何が起こったのか分かりませんでした。気がつくと館の外にいて、私はお嬢様の手ひとつで宙吊りにさせられていて。ああ、これは空を飛んでいるんだなと。
メイドの襲撃をまぬがれて飛行に至ったお嬢様に、申し訳なくも助けていただけました。中空で放り投げられたのには冷やりとさせられましたが、お嬢様は器用に私を掴み直すと肩に担ぎなおしました。
今は派手に割れてしまっている窓にメイドたちが集まって、みんなでこちらを見上げてきている不気味さといったら。
すると彼女たちが立ち退いて、ひとつの白い影が窓から飛び出してきました。咲夜様でした。安心するのも束の間、恐ろしい速さでたちまち距離を詰めてきました。私とお嬢様の神経は、全て咲夜様の手元に光る短刀に注がれることになりました。闇夜のなかでぎらつく刀身を、私でさえ見逃さなかったのだから、お嬢様は油断なく目に焼き付けたに違いありません。
右手は私を支えてくれているのに使われていた。なので左手が、短刀を直に受け止めなされました。力が並大抵でないことは、咲夜様がピッタリ止まりきったことから伺えます。その咲夜様はというとご乱心に言葉を吐きつけてきました。
「スカーレット、死ね! 悪魔めッ、くたばれ! 死ね! 死ね!」
そのような罵詈雑言を惜しげなく唾といっしょにまき散らして。この乱れきった姿はどう見てもメイドたちと相違のない、妹様に心を壊されたものです。
お嬢様は私に撃てと仰いました。
命令された私は反射するよう弾幕を生成しておりました。狙いをつける必要はなく散らばりきる前のひとまとめになった弾幕が、目前の咲夜様を包みこむと落下させていきました。地面に降りてみると、咲夜様は植えこみの草花を尻に敷いてのびておりました。当分はもどらないであろう意識を見届けたお嬢様は、担いでいた私を取り払いまして、根本原因の元へ急がれました。私だって結末まで目を離したくありませんから、お嬢様の俊足にどうにかすがりついていきました。
改めて館内に入ると、メイドたちが非常に右往左往としております。混乱の種は言うまでもなくお嬢様を襲撃なさった発狂メイドたちですが、目標を見失った彼女たちがそれぞれ好き勝手にうごきだしたというわけです。慌てふためくメイドに我を失ったメイドに、こうなるとドレがドレだから見当もつきませんから、お嬢様は近づいた者は殴り飛ばすか蹴り飛ばすかしながら向かわれました。
妹様が館の西側廊下をゆうゆう歩いておられたところを、ついに発見いたしました。お嬢様は見つけた途端に跳びかかって、噛みつくばかりの勢いです。
「フラン! あなた咲夜まであんなにして……おかげで殺されるところだったわよ。なんとかしなさいよ」
「それは無理よ。だって私は心を壊しただけで、謀反を企てろとは言ってないし」
「む、謀反。そう謀反よ。メイドを引き連れる知恵はあった癖に、時間は止めようともしなかった。そこまで重症になってしまったのよ。フランのせいなんだからフランが治しなさい」
お二人のぶつかり合いに進展は望めそうにありません。しかし、止めようにもお二人のもつれはやいばが剥き出しで、近づくのもためらわれます。
いつ介入するべきかとドキドキしていたら、一人のメイドが大声をあげながら走ってきました。その内容というのが、ここに来てお客様がおいでになられたというので、さすがに御姉妹を停止させました。
お嬢様は妹様をうごくなと一喝なさりました。そして走っているとも飛んでいるともつかぬ速度で玄関ホールへ向かわれたのです。
玄関ホールの中央にいきますと二人のお客様がおりました。メイドたちに混じっていながら明瞭に区別がつく立ち姿は立派という他ございません。とくに右側の銀色のケースを持った背の高い女性は凛々しくあって、私は目があうと思わずそらしてしまったほどでございます。
二人は竹林から参られた藥師とその助手でした。こんな大事態のなか、医学に精通した者がやってきたということは、恐らくそういうことなのでしょう。貴重な助っ人でした。お嬢様もそれは理解なさっているはずでしたが、どうしてか口調をとげとげしくなされて接するのです。
「呼んだ覚えはないわよ。見ての通り、今は忙しいのよ。大変なのよ」
藥師の方が上品な微笑をうかべながら、お嬢様のお言葉にこくりこくりとうなづきます。
「そうね。私も呼ばれた覚えはないわ。私は紅魔館が危ないという話を聞いて、自分の判断でここまでやってきたのだから。三妖精たちが言いふらしていたわよ」
三妖精と聞いてアッと声を漏らしかけたのは、どうやら私だけでした。今思えばあの逃げ出していった三人組こそ彼女たちではありませんか。あれほど仲良く会話をしておきながら、彼女たちが余所者だと気づかなかったなんて。ですが、紅魔館にいるメイドたちはしょっちゅう入れ替わります。咲夜様ならともかく、顔を覚えている暇はありません。仕方ありませんよね。
「事情は一切承知しているつもりよ。対処法もあるわ。取り引きという形にはなるけれど、わるい相談ではないはずよ」
「何が目的よ。何と取り引きしろって言うのよ」
「目的なんてないわ。私が欲しいものはあなたか、妹さんの血。研究のために。あとお金になるものがほしい。例えばアノ絵とか」
藥師が指さした先の壁には、人間の大人なら寝台にできそうなほど巨大な絵が飾ってあります。白ひげをたくわえた、なにか威厳ある男の肖像画です。人間の里に持っていって好事家にでも見せれば、それなりの値段で買い取ってくれるでしょう。
「アンタ、取り引きだけが目的なのね」
「あら、そうに決まっているじゃない」
「こんな目になったのも、もしかして、本当はアンタのせいじゃ」
「邪推するのは結構だけど、はやめに決めたほうがよろしいのでは」
お嬢様はいかなるプライドに邪魔されて歯をくいしばっておられるのでしょうか。こんなものは選択のしようがない取り引きです。早く決めないと館は荒れる一方ですし。咲夜様がお目覚めになると再び襲いにくる。
私はお嬢様に決心していただくよう、口を挟むことにいたしました。私のような一メイドの言うことです。割りこんだ瞬間はじろりと睨まれましたが、ひるむわけにはいきません。私なりの言葉で説得を行いました。
何度か噛み付かれましたがお嬢様は思いのほか素直でした。しぶしぶ折れてくださると、藥師へすべて任せると言いました。
藥師はお持ちになっていたケースを床に置くと開きました。中から缶のようなものを取り出してお嬢様と私と、となりの助手へ配りました。説明によるとこれはスプレーという品で、頭の出っ張った部分を押しこむと噴射口から薬が噴霧されるそうです。薬を多量に吸いこんだ者は眠りについて、次に目覚めたときは不安定になった心も元通り。ただしスプレーは計六つしか用意していないので失わないようにとのこと。
その原理不明な品を渡されたことでお嬢様がもういちど沸騰なされたとき、玄関口がけたたましく開け放たれました。何事かと思うと、咲夜様が柄の折れた箒を振り回して、支離滅裂に叫び通しながら突撃しなすってきました。すると藥師がお嬢様の正面に立ち、あと数歩といったところまで迫った咲夜様のお顔へスプレーを使います。たちまち霧のかたまりが咲夜様の上半身をおおい隠して、それが晴れる前に意識を奪い去っていきました。床に倒れこんだ咲夜様へ見向きもせず、藥師は私たちへ振り返るとこう言いました。
「これで使い方がわかったでしょう。見た通り、噴霧される量はとても多いから、自分にかからないように」
私たち四人に加えあと二人の正常なメイドを捕まえると、スプレーを持たせて散らばることにしました。おかしなメイドを見つけたのなら手当たりしだいに眠らせる、危険行為のような医療活動は日を跨ぐ直前まで続けられました。時間のかかった理由は、メイドのなかには隠れ潜む者もいるせいで発見が遅れてしまうところがあったからです。
一段落はしても、眠ったメイドたちを放置するわけにもいきませんから、共同寝室などへ運んでいきます。この作業は純粋な力仕事のぶん、妖精にとっては辛いところです。働ける者を総動員して取り掛かりました。図書館でのんきに埃をかぶってらっしゃるパチュリー様や小悪魔は当然ですが、人知れず夢のなかにいらっしゃった美鈴さんも連れ戻します。妹様は元凶であるため、さすがにこの間は個室に閉じこめられてしまいました。
空が白む前にすべてを片付け終わることができると、私たちはひとまず睡眠をとることにしました。時刻が時刻でしたので、お客様も宿泊なさりました。
すっかり明るくなった頃に、私は咲夜様から起こされました。
まどろむ目で咲夜様の顔を確認したときには昨日の出来事がよみがえってきて、身構えてしまいましたが、すっかり元通りでいらっしゃいます。ソファーの上で跳ね起きた私は、おかしく見えたことでしょう。
二人で食堂にむかいますと、藥師がそこにおりました。咲夜様は既に事情を教えられたそうです。お嬢様へ立ち向かわれた記憶はないそうですが、あったら困ると仰いました。正気を失ったのは、妹様と話していた時ではないかと疑っております。あのあたりから記憶が定かでないそうです。
咲夜様は私同様に八人のメイドも起こして食堂に集めました。まだ目をこすっている彼女たちに、これからみんなで朝食を作ると仰いました。館の住人全員で大朝食会を開くので、一人だけではとても手が足りないのだと。
みんなで集まってご飯を食べることは、紅魔館では特別な日以外ではあまり行われることがありません。それに久しぶりでした。朝食会となると、メイドたちはまず全員参加と考えるべきですが、他の方はどうなのかと、私は尋ねずにおれなくなりました。
「メイド全員で食べるのですか」
「そうよ」
「お嬢様もご参加なさるのですか」
「そのつもりだけど」
「妹様は」
「お嬢様からの許しが必要だと思うけど、できれば」
「美鈴さんやパチュリー様、小悪魔もですか」
「パチュリー様は辞退なさるかもしれないわね。……それと、お客様は参加してくれるって。なんだか嬉しそうじゃない」
「それはもちろん」
咲夜様は私の質問攻めに、愚直にも答えてくださりました。
今日はとても楽しい一日になりそうです。それを確実なものとするために朝食の準備をしなければなりませんが、もう一つ、咲夜様も準備をなさらないと。
咲夜様はしかるべきご覚悟をなさっているのでしょうか。私としては万全を期した上で、咲夜様ご自身のきらめくナイフを突き立てるべきだと思っております。咲夜様の張りあるお肌は確実にナイフの侵入にこたえて、ぷっつりと断ち切れるであろうことは想像に難くなく、その柔らかさについては貴方が自ら約束してくれましたよね。特に十二指腸のあたり。太ももに巻かれているナイフホルダーよりぴったり収まるであろうことを保証してくださいましたよね。そういった準備をなさらないといけません。みんなの御前で披露するのです。私は咲夜様に言われた通りに実行すればよいと心得ており、ナイフさばきだって相応の自信を持っているのですよ。
さあ咲夜様、さあ、ナイフをお渡しください。どうしたのですか。さあ、さあ早く。忘れてしまっているというのなら、私が今すぐ取りましょう。咲夜様はナイフをいつも、太もものホルダーか腰回りに隠し持っておりますよね。私がそれを取りましょう。
何かよく分からないまま終っちゃった感が…
フランが心を破壊して回るっていう話は面白いけど、それだったらそれ相応のしっぺ返しを食らうべき。出来なかったとしても周りはそうさせるように努めるべきだと思う。
元凶総スルーじゃないか…。おかげでフランは反省してない。実際またやってるし。
妖精メイドがモルモット並の扱いなら別かもしれないけどそういう訳じゃないし…。
あとがきは、語り手が徐々におかしくなってるように描写しようとしたが止めた、と言う意味でしょうか。
雰囲気が出ていて良かったと思います。
できれば、もっとするどい驚きがほしかった。
例えとしてはあれですけど、有名所では『マリア様が見てる』などがそうですし。
しかし、この姉妹はダメですねぇ。
お姉さんは妹を甘やかし過ぎだし、妹は姉に甘え過ぎてます。
まあ、外は遠そうですね。
ただ、犯人が中盤であっさり自供してしまって、タイトルとその後の流れから
予想通りのラストになってしまったのがちょっと残念でした。(ミスリードが欲しかった
あと、個人的に事件解決にえーりん登場もちょっと強引すぎかな~と思います。
それならむしろ館の全員が狂気に包まれて、どこから誰が狂気だったのかすら分からない
ような内容の方がホラー推理っぽいかもしれません(ならオマエが書け、って話ですが;
是非次回もがんばって下さい~
それとも、これといった罰則など何もならないからしないだけなのか。
語り部のメイドはフランと接触したときに壊されたの?
それなら随分強い心をお持ちで。咲夜よりもったことになる。実際はいつですかね。
不思議な雰囲気の話で楽しめました。あんまりこういうのないし。
次回作も期待しています。
こういう、狂気に犯されていくホラーが書きたいなら、彼の作品は参考になるかもしれない。
次にメイドと妹様による永遠亭巻き込んだ狂言、エイプリルフールネタかと思ったがそうでもなかった
クトゥルフ的ななにかしらを感じたが、さて彼女はいつからおかしかったのか
おろそか、ではないでしょうか。
いい狂気でした。
やや軽めではありましたが、二段落ちで楽しめました。
当事者でありながら極めて第三者的な「傍から見ている」妖精メイドの視点が
露骨な狂気を淡々としたいい味に仕上げていました。
結構な文章量でもさらりと読んでいける、「らしい」軽妙さがたまらないですね。
ただ全体的にあっさりと仕上げられているためか、
最後の段落の落ちが少々しつこく感じられたかもしれません。
あの落ちであれば一行程度でさらりと収めたほうが短編として気持ちがいいですし、
「え?」という感覚が得られたかもしれません。
例えば、ナイフを取って笑った云々、といったような簡単な描写ですとか。
あくまで私個人の感想ですので、参考までに。
と、思っていたら、上の方の意見にも納得。一行でサクッとオチがついていたなら、もっと面白かったのかも。
なんにしろ、もうちょい鋭いオチがあれば良かったと感じるのです。
しかしまあ、作品全体から感じられるホラーな雰囲気が良かったのでこの点数で。
最後にびっくらかして締めるのはホラーの黄金律ですが、他の方がおっしゃるようによりコンパクトに纏まってた方がインパクト強そうですね。