大学とは何ぞや、と聞かれたら私――マエリベリー・ハーンは今現在ならは迷いなく断言する。
『出された課題を必死の形相で解いてそれを提出する機関である』と。
大学は遊ぶところだなんて戯言をぬかす輩がたまにいるが、それは幻想である。
もしくはその大学の講師陣がやる気がないだけだ、と私は確信している。
やる気ある講師陣に煮え湯を飲まされ続けている私が言うのだから間違いない。
(…ほんとにあの教授は毎度毎度頭が痛くなるようなレポートばっかり出すんだからっ!!)
我ながらこの悪態が表に出なかったのは褒めたいところだった。
馴染み喫茶店の一角を占領して早数時間。ストレスはピークに達している。
若干マスターの視線がこちらに突き刺さってきているような気もするがそこは華麗に無視。
代わりにこのレポートをやってくれるなら即刻立ち退いても良い。
「メリー、手が止まってるわよー」
「……はいはい」
ついつい止めていた手を再開させる。
テーブル席の向かい側から話しかけてくるのは宇佐見蓮子、一応私の親友ということになるだろう。
蓮子は現在持ち込んだ小説を読んでいるところだった。
ちなみに彼女とはそもそも学科自体が違うということもあり、同じレポートが課題としてあるわけでもない。
話によればレポートそのものがないらしい。
蓮子の学部の講師陣は一貫して『理解してるかなんて一発試験やれば一目瞭然』という持論の持ち主とのこと。
出席なんて何の関係もなく、純粋に点だけで見るのだそうだ。
羨ましいような羨ましくないような複雑な心境ではある。
そういう人だからこそ試験は劇難易度であり、さらに必修の講義だったりするのだから、試験前の阿鼻叫喚の図が容易に浮かんでくるというものだ。
噂によればそれらの講義のせいで留年する人が後を絶たないとか何とか。
幸いにして目の前のこの友人、宇佐見蓮子は奇跡的にも復習だけはちゃんとやっているようなので単位不可で留年という事態は避けれるのだろう。
つまるところ現在蓮子私の付き合いでこうしているだけなのだ。
だから現在彼女は小説を読んで暇つぶしをしている。
それにしても分厚い小説だ。ちょっとした辞書クラスの分厚さなんじゃないだろうかあの小説。
「ねぇ、メリー」
小説を読むのを止めた蓮子がこちらに話しかけてくる。
「……ん、何?」
対するレポートへの視線は外さず、私は声だけで返事をする。
あー、どこかにレポートの解答集とかないかしら。
「メリーの眼って結界以外のものも見えたりするものなの?」
「……はい?」
蓮子のその問いに私を動きを止める。
蓮子が指しているのはおそらく私が普段から視ている結界の境界のことだろう。
「…どうしたのよ急に」
「いやね、今読んでるこの小説の中の登場キャラの探偵がね、視た人の過去の記憶を視ることができるのよ。メリーもそういうのが視えてたりするのかなと思って」
突然そんな話題を振ってくるから何かと思ったらそういうことか。
というか探偵がそんな能力もってたら事件もなにもあったもんじゃないのではないだろうか。
推理とかの必要ないじゃないか。
まぁ、細かい話とかは後で蓮子に小説を借りて読んでみよう。
「その人にはそういう『世界』が視えてるんでしょうね」
「世界?ずいぶん話が大きくなったわね」
蓮子が興味深げにこちらを見つめてくる。
どうも私の言いまわしが彼女の持ち前の好奇心を刺激してしまったらしい。
仕方ないか、といった心境で私はレポートへの手を止める。
「初めに前提条件として言っておくけど、確かに私が今視ている風景は蓮子のものとは違っているわ。けどね、それは皆同じこと。誰一人として同じ光景を視ている人なんていないの」
境界線だらけの歪な光景。
この光景は私だけのもの。誰にも共有は出来ない。
「視ているものは皆同じはずなのに、見えてるものは皆違うってこと?」
「そう。視るものは同じでも見てる人によって全てはどうにでもなるものよ。例えば単純に自分の都合のいいものだけを視てるとかね」
「それは夢も希望もない」
ご尤もな意見だけど、人間大抵の場合そんなものである。
いくら真実があーだこーだ言ったところで結局のところ自分にとって都合のいい情報しか受け入れないものだ。
それはきっと護身なのだろう。
この世の中には見えない方が都合が良いことも多くある。
「――または、普通は視えないものが視えてしまっている、とかね」
「それはメリーみたいなってこと?」
「そういうことね」
あるいは、蓮子が言っている小説の中の登場人物のように。
視なくてもいいものを視てしまう者達がこの世には確かに存在している。
「……うーん、分からないわねぇ。同じ眼なのにそんなに認識が変わってしまうものなの?」
ああ、蓮子。あなたにはきっと
――こんなに歪んだ光景が確かに目の前には存在しているのに。
「――蓮子、あなたは何も視えないというけれど。本当は視えていないんじゃないの、視ようとしていないだけ。もしくは視る方法を忘れてしまっただけ。ただ、それだけのことなのよ」
そう私は締めくくる。
これ以上その話はしたくない、そう拒絶するように。
元々静かな喫茶店ではあるけれど、今は余計に沈黙して感じられた。
※
喫茶店からの帰り道、私と蓮子は一緒に歩いている。
夏という気候のおかげで日は長くなっているけれど、それでもさすがにこの時間帯は暗い夜道だ。
ちなみに、レポートの方は八割がたは完成しているので今日は切り上げたという次第である。
断じてさすがに馴染みの店といってもコーヒーだけで数時間粘りはさすがに居心地が悪かったとかではない。
「……」
そして、今気になっているのは先ほどずっと蓮子が無言のままということである。
その視線はどこか遠くを見つめているようにも見える。
視線の先には何か見えるのか。
「…おーい、レンコンさーん」
と、小声で呼びかけてみる。
「だ れ が レ ン コ ン だ」
見事に素早い突っ込みである。
「じゃあ、ウサミミさん」
「ウサミミなんて大嫌いじゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
見事に大絶叫。いささか直球ながらこのあだ名にはトラウマがあるのかもしれない。
うん、今後も活用していこう。
「で、さっきからだんまりで何考えてるの?」
「――ん、実はさっきメリーが言ってたことを考えていたのよ」
「私が?」
「そう。一体どこまでが普通でどこまでが普通じゃないのかな、って考えてたらよく分かんなくなっちゃった」
「……なんて言うか」
本当になんというか。
「相変わらず変なとこに拘るわねぇ…。いつもは拘るべきとこには拘らないくせに」
「うっへい」
と、何故か微妙に舌足らずな発音で抗議してくる蓮子さんである。
繊細、というわけではないだろう。
彼女の神経は繊細とは対極に位置している人間だ。彼女を繊細だと言っては全国の繊細さんに失礼だろう。
「らしくないわね。ぐだぐだ考える前に行動してるのが蓮子じゃない」
「…それ馬鹿にしてない?」
「気のせい気のせい」
冗談でも何でもなく、「考えるよりまず行動」というのは蓮子の何よりの長所だと思うのだ。
屁理屈を捏ね回すだけ捏ね回してあげくそのせいで実行できないような人間よりはずっといい。
その蓮子がこうして考えこんでしまっている、ということはそれはつまり『行動しようにも考える以外に出来る行為がない』ということでもあるのだろう。
原因が多少なりとも私にあるというのは確かなのだし、責任はとるべきだろう。
「このメリーお姉さんが悩める子羊の悩みを聞いてあげましょう」
「……何そのキャラ?」
「うん、実は言ってる自分でも良く分からない」
「……まぁ、いいわ。あのね」
と、そこまで言ったところで蓮子は口を止める。
どうにも言葉を選んでいるらしい。
いつもの一息もつかせぬ早さで答えを導いていく彼女からすればその様子もまた珍しいといえる。
「19時12分36秒」
と、突然蓮子は時間を呟く。
もしやと思って私の腕時計の現在時刻を確認してみると、やはり時計の針は蓮子が言ったものと一致した地点を指している。
といっても、日本標準時にしか対応していないのが珠に傷。
この宇佐見蓮子もまた一風変わった能力を持っている。
星を見ただけで時間を知り、月を見ただけで己の正確な位置を掴む。
「相変わらずの正確さで。それで、これがどうかしたの?」
「うん、今まで私はこのことを私だけが持ってる特殊ものだと思ってたのよ」
私としては計算してるようにしか感じなくて能力というよりは特技に近いものだと思うが、それでも特殊なことには違いないだろう。
電波時計というものが当たり前のように蔓延しているこの現代社会の中で、その存在を無視しきったその姿はある種のカッコよさすらあると言える。
「……でもね、この力は特殊なものでもなんでもなく、昔の人が皆持っていたものを私がたまたま思い出しただけなんじゃないかと思ってね」
「昔は何時何分何秒なんて考え方はなかったと思うけど」
「それは私自身が時間というのをその『何時何分何秒』と頭の中で定義してしまってるからよ。言葉が違えばまた違う言葉で時を認識しただけと思う」
そういえば、日本は数百年ほど昔は時間の単位も違っていたという話を聞いたことがある。
もしかすると蓮子の言うとおりなのかもしれない。
「ほら、先祖返りってのがあるじゃない。あれと同じで気が遠くなるほどの長い時の中で忘れ去られたものが不意に何かの拍子に思い出しただけなのかもしね。メリーの目もそういった類のことかも」
この境界だらけの歪な光景が全ての人にも見えていた時期があったのだろうか。
だとしたらそれには一体どんな意味が。
「――もしかしたら、私たちも記憶していないずっと昔には人間も空を飛んでいたのかもしれないわね」
そんな荒唐無稽としか思えない蓮子の話に、私は何も答えることができない。
眼下に広がるのは白黒の服装の如何にも魔法使いといった感じの少女が箒に跨って飛んでいる姿と、紅白の巫女が何の道具もなく空を飛んでいる姿。
私がよく夢に見る光景。
だから、蓮子の言葉はやけに現実的な情報として私の脳裏に再生されていた。
「……ま、人間が生身で空を飛べるわけないか。」
蓮子の言葉はとても「常識」的なものと言えた。
でも私はこう感じてしまう。
人間が生身で空を飛べないなんて考えこそ「幻想」なのだと。
人間が生身で空を飛べるわけないという「常識」に捉われてしまったから、私たちはその「幻想」を見失ってしまったのだ。
「常識」という名の檻の中で私たちは生きている。
そして、私たちはこの檻から外へ出ることができない。
檻の外に出たければこの『幻想』と『現実』の境界を――
「どうしたの、メリー。今度はあなたのほうがだんまり?」
蓮子の声に急に意識を何処庫から引き戻される。
気がつけば私は足を止めており、蓮子が私の顔を覗き込んだ形になっている。
……どうにも物思いに耽ってしまっていたらしい。
「いや、檻の中と外どっちが幸せなのかしら、と思ってね」
怪訝そうな表情になる蓮子。
当然だろう、いきなりそんなことを言われたら逆の立場だったら私だって呆気にとられる。
「変なことを考えるのねメリー。そんなこと決まってるじゃない」
「……決まってる?」
けれど、そんな状況からも蓮子はあっさりと解答を導きだす。
それがまるで自明の理であり、世界が存続しうる限り変わることのない摂理だと言わんばかりに。
「どちらも幸せではないし、不幸ですらないのよ。――だって誰一人として自分が本当の意味で檻の中にいるか外にいるかなんて知らないんだから」
「……」
檻の中にいる者は己が檻の中にいることを知らず、檻の外にいる者は己が檻の外にいることを知らない。
己の手から零れ落ちたものは誰もそれが何か分からないし、そもそも存在したものとすら認識していない。
ただそこにある現実だけを享受している。
「そう、かしら……?例えば動物園の動物たちは檻の中にいる。そして、それを私たちは檻の中にいると認識しているわ。それは檻の中と外というものがしっかり認識出来るからこそ出来ることなのではないの?」
「メリーが言ってるのはそれは私たちの狭い認識の中での『檻』でしかない。所詮それは物理的なものではかないんだから。本当の『檻』というモノはね、囚われてることそのもに誰も気づかないの。いえ、気付けないのよ。気付けないからその状態が日常になる。日常になれば知らぬ間にそれは『常識』になる」
『檻』は『檻』として認識されてしまった時点でその価値を失ってしまう。
だって、『檻』の中にある者が持つのは反骨心だけなのだから。
「――そういう概念そのものを『檻』というのよ」
「……」
そして、それは蓮子も私だって例外ではないのだ。
たまたま私たちは他の人が忘れてしまった能力を持っているのかもしれないけれど、それが私たちが檻の外にいるかいないかを証明するものではない。
私たちだってきっと『何か』を忘れてしまっているのだろうから。
「む、我ながら今のはかっこいいセリフだった気がするわっ」
蓮子のいつもの調子の声に、固まっていた空気が弛緩する。
何か云い様のない安心感を感じてしまう。
「……ええ、自分で言わなきゃ巧い言いまわしだったと思うわよ。ぶっちゃけていうといろんな意味で台無し」
「なんだとぅっ!」
そんな抗議の声を上げている蓮子を無視して私は空を見上げる。
満天の星空――、とはお世辞にも言えない。
街の光にかき消されて、弱りきった星の光は私の目には届かない。
あの空の上にあるのは檻の外の風景なのか、それとも別の何かなのか。
そもそもここは彼方なのか、此方なのか。
――その答えは今も広がる境界線の向こうにこそあるのかもしれない。
つい、そんなことを考えてしまった。
『出された課題を必死の形相で解いてそれを提出する機関である』と。
大学は遊ぶところだなんて戯言をぬかす輩がたまにいるが、それは幻想である。
もしくはその大学の講師陣がやる気がないだけだ、と私は確信している。
やる気ある講師陣に煮え湯を飲まされ続けている私が言うのだから間違いない。
(…ほんとにあの教授は毎度毎度頭が痛くなるようなレポートばっかり出すんだからっ!!)
我ながらこの悪態が表に出なかったのは褒めたいところだった。
馴染み喫茶店の一角を占領して早数時間。ストレスはピークに達している。
若干マスターの視線がこちらに突き刺さってきているような気もするがそこは華麗に無視。
代わりにこのレポートをやってくれるなら即刻立ち退いても良い。
「メリー、手が止まってるわよー」
「……はいはい」
ついつい止めていた手を再開させる。
テーブル席の向かい側から話しかけてくるのは宇佐見蓮子、一応私の親友ということになるだろう。
蓮子は現在持ち込んだ小説を読んでいるところだった。
ちなみに彼女とはそもそも学科自体が違うということもあり、同じレポートが課題としてあるわけでもない。
話によればレポートそのものがないらしい。
蓮子の学部の講師陣は一貫して『理解してるかなんて一発試験やれば一目瞭然』という持論の持ち主とのこと。
出席なんて何の関係もなく、純粋に点だけで見るのだそうだ。
羨ましいような羨ましくないような複雑な心境ではある。
そういう人だからこそ試験は劇難易度であり、さらに必修の講義だったりするのだから、試験前の阿鼻叫喚の図が容易に浮かんでくるというものだ。
噂によればそれらの講義のせいで留年する人が後を絶たないとか何とか。
幸いにして目の前のこの友人、宇佐見蓮子は奇跡的にも復習だけはちゃんとやっているようなので単位不可で留年という事態は避けれるのだろう。
つまるところ現在蓮子私の付き合いでこうしているだけなのだ。
だから現在彼女は小説を読んで暇つぶしをしている。
それにしても分厚い小説だ。ちょっとした辞書クラスの分厚さなんじゃないだろうかあの小説。
「ねぇ、メリー」
小説を読むのを止めた蓮子がこちらに話しかけてくる。
「……ん、何?」
対するレポートへの視線は外さず、私は声だけで返事をする。
あー、どこかにレポートの解答集とかないかしら。
「メリーの眼って結界以外のものも見えたりするものなの?」
「……はい?」
蓮子のその問いに私を動きを止める。
蓮子が指しているのはおそらく私が普段から視ている結界の境界のことだろう。
「…どうしたのよ急に」
「いやね、今読んでるこの小説の中の登場キャラの探偵がね、視た人の過去の記憶を視ることができるのよ。メリーもそういうのが視えてたりするのかなと思って」
突然そんな話題を振ってくるから何かと思ったらそういうことか。
というか探偵がそんな能力もってたら事件もなにもあったもんじゃないのではないだろうか。
推理とかの必要ないじゃないか。
まぁ、細かい話とかは後で蓮子に小説を借りて読んでみよう。
「その人にはそういう『世界』が視えてるんでしょうね」
「世界?ずいぶん話が大きくなったわね」
蓮子が興味深げにこちらを見つめてくる。
どうも私の言いまわしが彼女の持ち前の好奇心を刺激してしまったらしい。
仕方ないか、といった心境で私はレポートへの手を止める。
「初めに前提条件として言っておくけど、確かに私が今視ている風景は蓮子のものとは違っているわ。けどね、それは皆同じこと。誰一人として同じ光景を視ている人なんていないの」
境界線だらけの歪な光景。
この光景は私だけのもの。誰にも共有は出来ない。
「視ているものは皆同じはずなのに、見えてるものは皆違うってこと?」
「そう。視るものは同じでも見てる人によって全てはどうにでもなるものよ。例えば単純に自分の都合のいいものだけを視てるとかね」
「それは夢も希望もない」
ご尤もな意見だけど、人間大抵の場合そんなものである。
いくら真実があーだこーだ言ったところで結局のところ自分にとって都合のいい情報しか受け入れないものだ。
それはきっと護身なのだろう。
この世の中には見えない方が都合が良いことも多くある。
「――または、普通は視えないものが視えてしまっている、とかね」
「それはメリーみたいなってこと?」
「そういうことね」
あるいは、蓮子が言っている小説の中の登場人物のように。
視なくてもいいものを視てしまう者達がこの世には確かに存在している。
「……うーん、分からないわねぇ。同じ眼なのにそんなに認識が変わってしまうものなの?」
ああ、蓮子。あなたにはきっと
――こんなに歪んだ光景が確かに目の前には存在しているのに。
「――蓮子、あなたは何も視えないというけれど。本当は視えていないんじゃないの、視ようとしていないだけ。もしくは視る方法を忘れてしまっただけ。ただ、それだけのことなのよ」
そう私は締めくくる。
これ以上その話はしたくない、そう拒絶するように。
元々静かな喫茶店ではあるけれど、今は余計に沈黙して感じられた。
※
喫茶店からの帰り道、私と蓮子は一緒に歩いている。
夏という気候のおかげで日は長くなっているけれど、それでもさすがにこの時間帯は暗い夜道だ。
ちなみに、レポートの方は八割がたは完成しているので今日は切り上げたという次第である。
断じてさすがに馴染みの店といってもコーヒーだけで数時間粘りはさすがに居心地が悪かったとかではない。
「……」
そして、今気になっているのは先ほどずっと蓮子が無言のままということである。
その視線はどこか遠くを見つめているようにも見える。
視線の先には何か見えるのか。
「…おーい、レンコンさーん」
と、小声で呼びかけてみる。
「だ れ が レ ン コ ン だ」
見事に素早い突っ込みである。
「じゃあ、ウサミミさん」
「ウサミミなんて大嫌いじゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
見事に大絶叫。いささか直球ながらこのあだ名にはトラウマがあるのかもしれない。
うん、今後も活用していこう。
「で、さっきからだんまりで何考えてるの?」
「――ん、実はさっきメリーが言ってたことを考えていたのよ」
「私が?」
「そう。一体どこまでが普通でどこまでが普通じゃないのかな、って考えてたらよく分かんなくなっちゃった」
「……なんて言うか」
本当になんというか。
「相変わらず変なとこに拘るわねぇ…。いつもは拘るべきとこには拘らないくせに」
「うっへい」
と、何故か微妙に舌足らずな発音で抗議してくる蓮子さんである。
繊細、というわけではないだろう。
彼女の神経は繊細とは対極に位置している人間だ。彼女を繊細だと言っては全国の繊細さんに失礼だろう。
「らしくないわね。ぐだぐだ考える前に行動してるのが蓮子じゃない」
「…それ馬鹿にしてない?」
「気のせい気のせい」
冗談でも何でもなく、「考えるよりまず行動」というのは蓮子の何よりの長所だと思うのだ。
屁理屈を捏ね回すだけ捏ね回してあげくそのせいで実行できないような人間よりはずっといい。
その蓮子がこうして考えこんでしまっている、ということはそれはつまり『行動しようにも考える以外に出来る行為がない』ということでもあるのだろう。
原因が多少なりとも私にあるというのは確かなのだし、責任はとるべきだろう。
「このメリーお姉さんが悩める子羊の悩みを聞いてあげましょう」
「……何そのキャラ?」
「うん、実は言ってる自分でも良く分からない」
「……まぁ、いいわ。あのね」
と、そこまで言ったところで蓮子は口を止める。
どうにも言葉を選んでいるらしい。
いつもの一息もつかせぬ早さで答えを導いていく彼女からすればその様子もまた珍しいといえる。
「19時12分36秒」
と、突然蓮子は時間を呟く。
もしやと思って私の腕時計の現在時刻を確認してみると、やはり時計の針は蓮子が言ったものと一致した地点を指している。
といっても、日本標準時にしか対応していないのが珠に傷。
この宇佐見蓮子もまた一風変わった能力を持っている。
星を見ただけで時間を知り、月を見ただけで己の正確な位置を掴む。
「相変わらずの正確さで。それで、これがどうかしたの?」
「うん、今まで私はこのことを私だけが持ってる特殊ものだと思ってたのよ」
私としては計算してるようにしか感じなくて能力というよりは特技に近いものだと思うが、それでも特殊なことには違いないだろう。
電波時計というものが当たり前のように蔓延しているこの現代社会の中で、その存在を無視しきったその姿はある種のカッコよさすらあると言える。
「……でもね、この力は特殊なものでもなんでもなく、昔の人が皆持っていたものを私がたまたま思い出しただけなんじゃないかと思ってね」
「昔は何時何分何秒なんて考え方はなかったと思うけど」
「それは私自身が時間というのをその『何時何分何秒』と頭の中で定義してしまってるからよ。言葉が違えばまた違う言葉で時を認識しただけと思う」
そういえば、日本は数百年ほど昔は時間の単位も違っていたという話を聞いたことがある。
もしかすると蓮子の言うとおりなのかもしれない。
「ほら、先祖返りってのがあるじゃない。あれと同じで気が遠くなるほどの長い時の中で忘れ去られたものが不意に何かの拍子に思い出しただけなのかもしね。メリーの目もそういった類のことかも」
この境界だらけの歪な光景が全ての人にも見えていた時期があったのだろうか。
だとしたらそれには一体どんな意味が。
「――もしかしたら、私たちも記憶していないずっと昔には人間も空を飛んでいたのかもしれないわね」
そんな荒唐無稽としか思えない蓮子の話に、私は何も答えることができない。
眼下に広がるのは白黒の服装の如何にも魔法使いといった感じの少女が箒に跨って飛んでいる姿と、紅白の巫女が何の道具もなく空を飛んでいる姿。
私がよく夢に見る光景。
だから、蓮子の言葉はやけに現実的な情報として私の脳裏に再生されていた。
「……ま、人間が生身で空を飛べるわけないか。」
蓮子の言葉はとても「常識」的なものと言えた。
でも私はこう感じてしまう。
人間が生身で空を飛べないなんて考えこそ「幻想」なのだと。
人間が生身で空を飛べるわけないという「常識」に捉われてしまったから、私たちはその「幻想」を見失ってしまったのだ。
「常識」という名の檻の中で私たちは生きている。
そして、私たちはこの檻から外へ出ることができない。
檻の外に出たければこの『幻想』と『現実』の境界を――
「どうしたの、メリー。今度はあなたのほうがだんまり?」
蓮子の声に急に意識を何処庫から引き戻される。
気がつけば私は足を止めており、蓮子が私の顔を覗き込んだ形になっている。
……どうにも物思いに耽ってしまっていたらしい。
「いや、檻の中と外どっちが幸せなのかしら、と思ってね」
怪訝そうな表情になる蓮子。
当然だろう、いきなりそんなことを言われたら逆の立場だったら私だって呆気にとられる。
「変なことを考えるのねメリー。そんなこと決まってるじゃない」
「……決まってる?」
けれど、そんな状況からも蓮子はあっさりと解答を導きだす。
それがまるで自明の理であり、世界が存続しうる限り変わることのない摂理だと言わんばかりに。
「どちらも幸せではないし、不幸ですらないのよ。――だって誰一人として自分が本当の意味で檻の中にいるか外にいるかなんて知らないんだから」
「……」
檻の中にいる者は己が檻の中にいることを知らず、檻の外にいる者は己が檻の外にいることを知らない。
己の手から零れ落ちたものは誰もそれが何か分からないし、そもそも存在したものとすら認識していない。
ただそこにある現実だけを享受している。
「そう、かしら……?例えば動物園の動物たちは檻の中にいる。そして、それを私たちは檻の中にいると認識しているわ。それは檻の中と外というものがしっかり認識出来るからこそ出来ることなのではないの?」
「メリーが言ってるのはそれは私たちの狭い認識の中での『檻』でしかない。所詮それは物理的なものではかないんだから。本当の『檻』というモノはね、囚われてることそのもに誰も気づかないの。いえ、気付けないのよ。気付けないからその状態が日常になる。日常になれば知らぬ間にそれは『常識』になる」
『檻』は『檻』として認識されてしまった時点でその価値を失ってしまう。
だって、『檻』の中にある者が持つのは反骨心だけなのだから。
「――そういう概念そのものを『檻』というのよ」
「……」
そして、それは蓮子も私だって例外ではないのだ。
たまたま私たちは他の人が忘れてしまった能力を持っているのかもしれないけれど、それが私たちが檻の外にいるかいないかを証明するものではない。
私たちだってきっと『何か』を忘れてしまっているのだろうから。
「む、我ながら今のはかっこいいセリフだった気がするわっ」
蓮子のいつもの調子の声に、固まっていた空気が弛緩する。
何か云い様のない安心感を感じてしまう。
「……ええ、自分で言わなきゃ巧い言いまわしだったと思うわよ。ぶっちゃけていうといろんな意味で台無し」
「なんだとぅっ!」
そんな抗議の声を上げている蓮子を無視して私は空を見上げる。
満天の星空――、とはお世辞にも言えない。
街の光にかき消されて、弱りきった星の光は私の目には届かない。
あの空の上にあるのは檻の外の風景なのか、それとも別の何かなのか。
そもそもここは彼方なのか、此方なのか。
――その答えは今も広がる境界線の向こうにこそあるのかもしれない。
つい、そんなことを考えてしまった。