Coolier - 新生・東方創想話

古明地アタラクシア論考

2011/03/27 20:29:53
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 世界は滅びました。
 このだだ広い世界に、古明地こいしは一人きり。












 まぶたを開く。
 闇色の世界、闇色の部屋。
 ベッドの天蓋から頬に滴り落ちた蜜を、そっと、右薬指で拭う。
 べちょっとスライムのように体に張り付く布団を、隅に押して寄せる。
 何故世界が滅びたのかと問われても、わけがわからないとしか言いようがない。
 広々とした青い空はいつの間にか深すぎる闇をたたえ、光り輝いていた太陽は儚いダイヤモンドリングに成り下がる。雨は一滴たりとも降らず、ごく稀に降るのは血の混じった紅い雪。温かい地にふらふらと舞い降りる雪は、地面にたどり着くか着かないかの場所で、とろりと赤みをのこして溶けるのだ。
 そしてなによりも特筆するべきこととして。

「今日も人の気配は無し、ねー!」

 この世界には、彼女以外の人格という人格が一切存在しないのだ。
 動物――この奇妙な世界においては文字通りウゴくモノ、だが――はいる。だがちゃんとした人格を持ち、会話のできる人間はいない。
 少なくともこいしの主観にはそう映らない。
 敬愛していたはずの姉も、陰も形もなく消えてしまった。
 その息遣いも形見も、それどころか彼女と過ごした場所の手がかりすらなくなってしまった。
 ……だって、今のこいしには、ここがどこだかすらも、分からないのだから。

 普通の人間ならば、この寂寥たる世界を知覚させられたら、三日と立たずに狂うであろう。
 しかし、そこは元々精神に特化した妖怪たる彼女、音を上げるどころかこの状況、この世界を楽しんですらいた。
 もはや、まるで何かから解放されたかのようですらあった。

「今日はどこへ行こうかしら?」

 鼻歌を歌いながら、いつもと同じ黄色い服、黒い帽子を身につける。
 どろどろに溶けた部屋の中でなお、なんとか機能だけは保っている鏡に、自分の姿を映し出す。
 とめどなく極彩色にうつろいゆく世界の中でも、自分だけは変容していないことを確かめたかったのかもしれない。

 壊れた世界に放り出されたこいしにとって、この世界の探索は日課だった。
 探検をしているとわくわくして面白いし、ひょっとすれば世界の果てを観測すれば、世界がもとに戻ったり、はたまた元の世界に戻ったりできるのではないか。
 ……そうすれば、あの優しかった姉に会えるかもしれない!

 しかし彼女はこうも考える。
 世界の限界を観測できるなら、そしてそれが私の限界だとしたら。
 世界の限界と私の限界は等しく、つまり――――――

「よし! 今日も上の階層に行こう!」

 思考という高尚な概念は、文脈なんかには囚われない。
 十秒にも渡る長考の末彼女が結論づけたのは、今日はどこへ行こうかという問いの答だった。


 現在こいしの主観では、世界は二階層でできている。
 こいしが寝泊まりしている巨大な廃墟がある世界と、それとは全く様相の異なる上の世界。
 下の世界の方はそれなりに探検しきり大体の法則は掴みきった手応えがあったが、しかし上の世界を探検するとなれば難しい。
 最悪、思いも掛けないことが起きて、命すら容易に落とすかもしれない。

「れっつ、ごー! ずんたかたったーずんたかたー、ずんたかたったーずんたかたーっ」

 しかし軽やかな号令を発して愉快な行進曲を口ずさむその表情からは、その恐怖を読み取れない。
 恐怖が読み取れない理由として、世界の限界を観測して、姉に会いたいという一心もある程度はあるだろうが。
 どちらかといえば彼女は、まるで胎児の収まる子宮のような優しさを、この世界から無意識的に受け取っていると言う方が正しいかもしれない。

 要するに、この世界は。

 こいしにとって、あるいは誰にとっても、おぞましく美しいのだ。


 静かに扉を開けて、どろどろと溶けかけた部屋を脱出し、どろどろと溶けかけた廃墟の外へ出る。
 次の瞬間、その廃墟は一つ、ぐちょりという音を立てて潰れた後、とろとろと蒸発していった。

「ずんつ、ずずずんちゃっ……よし、まずはダンジョン、『街』ね!」

 廃墟のすぐ外には、「街」が広がっていた。
 こいしがそれを街と形容している理由は、吸い込むような黒色の平べったい屋根付きの円柱が、道のようになっている直線の周りを囲んでいて
 それは色彩さえ正しければ街なのではないか、あるいは街だったのかもしれないとくらいは思わせてくれるような風景だったからだ。
 こいしはその黒き街の中を、ぬうようにふらりふらりと歩きまわっていく。
 黒い「街」全体を覆う黒い影。その中、特に通りには、明暗がくっきりと人の形を取っている箇所がある。

 それに触れると、死ぬ。

 そのことを心得ているこいしは、すでに「影」の動く法則を完全に見抜ききった。
 最初のうちは恐怖に震えたものだったが、今なら目をつむりながらでも「道」を駆け抜けられるだろう。
 本当の街並みのように、影が集まっている場所、影がよりつかないような小さな路地が、鮮明に見える。
 そして踊るようにステップを刻みながら、姉のことを想起する。

 態度には表さなかったけれど、いつもこいしのことを案じていた姉。
 もうここにはいない、姉。
 それは、今からでも、取り戻せる物なのだろうか。
 あるいは、もう、この滅びてしまった世界の中で、一人孤独に死んでいるのだろうか。
 もし死んでいるのなら、姉は、きっと泣き叫んでる。
 私を助けて、私を助けて、って、いつまでも、いつまでも。
 その事に考えが至った直後、嫌な考えを誤魔化すように曲調が変わる。
 ついつい足が動き出す愉快な行進曲から、悲愴でおどろおどろしい、まるで鎮魂歌に。

「かいだんのっいちばんうっえっにっ」

 それと同時に、どうやら上の階層へと通ずる大穴の麓に達したらしく、それを見上げた。
 底抜けに明るい声が、穴に響き渡る。

「あっかっりっがついたよっ……」






















 世界は滅びました。それはあなたに既にご理解して頂いている通りです。

 ……おっと。
 申し遅れました。私は古明地さとり。
 こいしの姉です。

 あらあら、何を驚かれることがありますか。
安心して下さい。私はこれといって貴方に何かを期待しているわけではありませんよ。
 これは単なる独白。そう。つまらない独り言です。貴方はただそんな場に居合わせただけ。それ以上の意味など無い、中空を漂う趣味の悪い音の連なり。暇潰しにもなれない私の思念の具現物。そして、事実。
 しかし、もし貴方が私の話に興味をお持ちになっているのであれば、
“なぜ世界が滅びたのか。”
 その原因と、そして少しの過程を私の視点からではありますが語らせて頂きたいと思います。
 ご承知のとおり、ソレは楽しいお話からは程遠い内容です。そういった類いのストーリーが苦手であるのならばご無理をなさらずに引き返されるのが賢明でしょう。退廃とは無理をして受け入れるものなどではありませんから。さぁ、ご自身の心に目を向けて。










 ――ふふ、そうですか。





 分かりました。貴方の好奇心を無下にするのは私としても気持ちの良いことではありませんからね。

 それでは紡がせて頂きましょう。

 どうして世界がこうなってしまったのか。

 その顛末を。










 始まりなどは無かったのかもしれません。

 ずっとずっと繰り返してきたこと。振り返っても、もう出発地点なんて霞んで見えないような、そんな位置。
 私と、そしてこいしがその日に立っていたのは、きっとそんな場所だったのでしょう。

 天気は悪いわけではありませんでした。
 よく終末の日というのは、天を暗雲が支配したり、はたまた血で染めたような紅色に染まったりするなどとモノの本には書かれていたりしますが、実際はそういったことはないのですね。終わりとは唐突に降ってくるもの。ゆえに悲しいものなのだと私は今では考えています。
 青い空に少しの雲が浮かんでいた寒くも暖かくもないその日、私とこいしは少しばかり規模の大きな集落に身を寄せていました。
 そこに住んでいるのは人間ばかりでしたが、心を読みながら動くことでこちらの尻尾を掴まれることなどはありませんでした。私達さとりと言えば人妖に関係無く迫害される正真正銘の嫌われ者。正体を知られた際には即座に石が飛んできます。しかし、そもそも私達はそのような状況の数多を渡り歩いてきた。危険に晒されたことは幾度とありましたが、その経験もあって、下手を踏むようなことは既に無くなっていた。灰色の旅路の中で身に着けたさとりとしての処世術には少しもヒビなどは見受けられなかった。そのように、強く信じていました。そんな日々の中で、私達はきっと疲れてしまっていたのでしょう。その集落には私達と似た背丈の子供が多く、純粋な言葉を投げかけられる機会があり、とても、とても嬉しかった。人間に花かんむりを作ってもらった記憶など私達には全く存在しないものでした。「これ、あげるよ」。小さな女の子にそう言われてレンゲの花の輪を差し出された時のこいしの涙は今でも鮮明に思い出せます。かく言う私もあの心は本当に眩しく感じた。今でも少し胸が締め付けられます。

 実を言えばその日は丁度その集落を発とうと考えていた日でもありました。
 余談になってしまいますが、私はどうも物事が上手く運び過ぎていると皮膚の下に虫が蔓延るような、そんなどうしようもない不安感に苛まれてしまう性質なのです。
子供達から花を貰った以外にもその集落は中々に居心地が良かった。嫌疑の念が無いわけではありませんでしたがそれも来訪した最初の数日だけでして、その後は拍子抜けする程に誰もが私達に関心を払わなくなったのです。視界に入っていない、という表現が正しいでしょうね。それがどれほど有難かったかは、そうですね、貴方には理解ができないかと思います。当時の私にとって意識がこちらに向けられないということは刃をこちらに向けられないということと同義でしたから。一言で言えば、楽、だったのです。衣食住が手に届く範囲に在りながら雑多な思念が飛んで来ない。あの時は思わず半日も睡眠を摂ったりしてしまったものですよ。当時の私は一度眠りにつけたとしても半刻毎に目が覚めてしまったものでしたが。まぁ、それ程に楽だったということを分かって頂ければ幸いです。
 けれどこいしは違った。
 あの子は本当にどうしようもない子でした。人とさとりが分かりあえると心の底から信じていたのです。私は何度も彼女を説得しました。「こいし、生き延びたいのならばそんな甘い考えは捨てなさい」と。その度に彼女は言うのです。「お姉ちゃん、恋の無い生なんて死んでるのと変わらないよ」と。
 ふむ。貴方はあの子がロマンチストであるとお考えですか。
 優しい方ですね。
 私は率直にこう思いましたよ。
 狂っている、と。

 でも、そんな心を持っていたからこそ、あの子は誰よりも強いさとりとなったのです。

 想像できますか? 煉獄の中心に宝石があったとして、それを手に入れる為に何度も何度も業火の中に身を投じる少女の姿を。

 私はそんなこと、何度生まれ変わったって絶対にしたくありません。
 でもあの子は自ら望んでそんなことを行い続けた。
 行い続けたのです。
 何度身体が焼け爛れようと。
 行い続けたのです。

 あの子以上に他者の心に意識を傾ける者など、さとりの歴史の上でひとりとして存在しなかった。
 最強のさとり、古明地こいし。
 誰よりも強い力を持った、誰よりも恋に焦がれた、私のたったひとりの家族。

 そんな彼女がその日に集落を発つのを嫌がったのは当然のことだったでしょう。
 意識を向けられることの無かった毎日。私はそれを好ましく受け取っていましたが、こいしにしてみればそれは悲しみと苦しみでしかありませんでした。
 だからこそ、彼女は贈られた花かんむりに涙を落とした。
 贈り物をしてくれた子達と一緒にいたいと懇願した。
 離れたくないと心が叫んでいたのです。
 そんなこいしに対して子供たちは本当に好意的に接してくれました。「どうして泣いているのだろう?」「不思議な奴だ、嫌いじゃない」「お姉ちゃん、なんで涙流してるの?」「ど、どうすればいいのか分からない、けど……」「泣き止んでほしいな、笑って、ほしいな」。
 どれもが本当に眩しい綺羅星のような意思ばかりで。
「あ、明日、お前に見せたいものがあるんだ!」
 花かんむりなんてまるで似合わない小さな猪のような男の子が大声を上げました。
「日が昇る前に、西の一番大きな柳の木の所に、集合な!」
 心を読むに、丘の上から見える朝陽に包まれた集落の光景をこいしに見せたいようです。
 馬鹿ですよね。
 こいしは今泣いているというのに、明日の朝に贈り物をするだなんて。
 こいしも当然見透かしていました。
 どうすればこいしを元気づけられるかという、これは彼なりの最高の答えなのだということを。
 だから満面の笑みで「うん!」と答えたのでしょう。
 私ですか?
 私に朝陽なんて似合う筈がないでしょう。私に向けての誘いは丁重にお断りしましたよ。
 けど、こいしの笑顔には朝陽が似合うことは誰の目にも明らかでしたからね。
 だから彼女が行くのを止めることはしなかったのです。





 あらあら?
 どうしたのです、そんなに退屈そうな顔をして。
 私の話はつまらないですか?
 それとも、こんな話のペースで、本当に世界が滅びるのか、ご不安にでも?

 ふふ、そう急かさないで下さい。大丈夫ですよ。
 もう……止まらないところまで来てしまっているのですから。


























 それは、上の出口が遠すぎて、ただの光の粒に見えるほどの距離。
 遠すぎる出口への道筋を想像し、一つ、溜息をつく。
 壁はたまにぴくんぴくんと痙攣するピンクの肉だ。
 向こうの方には、障害物を弾きだすためにうねうねと動く粘膜の細毛が見える。
 この竪穴は、まるで、とてつもなく巨大な化け物の咽頭のよう。

「近づいて、よく見てご、ら、ん……えーっと……のーぼおっていこおー、らーせんかいだん、じゃなくて……なんだっけ? えーっと、えーっと……」

 歌詞や構成を忘れたので、歌い続けていた曲のテンポが揺れる。
 しばらく思い出そうと苦心したのちに、うがーっと叫びながら一つ地団駄を踏んで。
 ふわり、体を浮き上がらせた。
 ゆっくり、ゆっくり、子どもが歩くほどのゆっくりした速度で。
 階段の一番の上の灯りに、向かっていく。
 飛ぶのはたしかに面倒だけれど。
 飛翔することによって感じられるこのそよそよした風は、嫌いじゃなかった。
 昇っていく。どこまでも、昇ってゆく。
 このかすかな風は、いつか見たあの最後の風景を、取り戻してくれるような気すらした。
 そして。

「わぁー! いつ見ても、キレイね!」

 彼女は大穴を登り切るたびに見上げる、まるで朝日のようなこの太陽が、好きだった。
 この太陽らしきものは、太陽というには暗すぎて、それどころかまるで眼球のように見える陰影すらついていたけれど、それでもこいしは、この朝日の太陽が、好きだったのだ。
 地面があかい。まるでライトアップのような、限りなく透明に近い美しいピンク。
 ただでさえ綺麗なそれが、見渡す限りに広がっている。
 遠くにかすかに何かが見える程度、遮るものは何も無い。
 地上全てが、艶やかな水晶に包まれている。
 別に、上の階層世界に来るのは、これがはじめてというわけではない。
 しかし、やはり鬱屈とした下の階層を脱出した直後にこれを見せられれば、新鮮で心おどるに決まっているわけで。

「わーい!」

 全身でその眼球太陽の光を受け、喜びを表現するこいし。
 両手をあげて、ばんざーい。
 地面にころがって、ごろごろごろ。
 二、三時間ほどそうしていたあと、このまま遊んでいるわけにもいかないと思い直し、立ち上がる。

「ようし! 上世界の探検だー!」

 大体の地理は、前回ここに来たとき、高く空から俯瞰したことで把握出来ている。
 遥か彼方にあるどこまでも届きそうなほど高い山、限りなく透明に透き通った白い湖、船がたくさん浮かぶ海の水平線。
 そのどれもが同じくらい、こいしにとって危険そのもので、だからこそ魅力的だ。
 ならば彼女は、どうやって行き先を決めるのだろうか?

「よし湖だ! ガンガン行こうぜ!」

 「湖」に向かう方角へ、歩きながら飛び立っていく。
 たぶんおそらく、明確に彼女の思考を文章にしてみれば、より上層の世界を追い求めるために、湖という場所や水という物のオカルト的価値を思い出し、結果湖の選択を選びとった、ということになるだろう。
 だが、こいしがそんなことを考えるわけがない。
 ならば、彼女の思考は語りえぬものだ。
 そう、語りえぬものには沈黙せねばならない。


 しばらく飛ぶと、湖を取り囲む森が見えてきた。
 地面と同じく、ライトアップのような淡さを持つ土色と緑色。それはもはや木々でなく、プラスチックの発光体のようだった。
 こいしは降り立って、その中をふらりふらりと歩き出す。直接湖のほとりに降り立てばいいだろうという指摘は、好奇心という猫殺しの前には無粋であろう。
 木々は最初の印象に違わず、きらきらと輝く電飾が取り付けられているらしく、なんとてっぺんには星がついている。
 これじゃあまるで本物のクリスマスツリーじゃないか、そう思えばなおさらその印象が加速していき、ふわふわの綿の飾り付け、金のファーの飾り付けが、一面の木々にまとわりついていく。
 滅びた世界は主観を盲目的に映しだす。それはさながらスクリーンのように。
 足元の淡い紅の地面を見れば、うねうねと巨大なミミズが出たり入ったりを繰り返している。
 それはなんだかアーチのようだ。
 そう思った瞬間に、それはこいしを迎えることができるほど巨大なアーチとなった。
 滅びた世界は主観を盲目的に映しだす。それはさながらスクリーンのように。

「私を歓迎しているのね」

 ぷちっと踏み抜いて、いつの間にか元の大きさに戻ったミミズは絶命した。
 もちろんもともと命があるかなんて、分からないのであるが。


 意気揚々と歩いているのに、歩けど歩けど代わり映えのない景色。
 こいしはだんだん退屈してきた。
 歌を口ずさもう。
 新たな場所に登るためのハシゴは、登り切ったら捨てなければいけない。
 でも、歌を歌うという記憶だけは、捨てなくてもいいのだ。
 さて、困った時には元気の出る歌を歌うと良いと、教えてくれたのは誰であったか。

「だーけーどー、歩いていこおーっ!」

 手のひらを握り締め、握り直し、テンポをつけながら歌って歩く。
 気分はコロンブスご一行。だけど現実は世界崩壊。
 だから、どこか切ない、それでいて元気の出る歌を歌おう。

「転びー、ながら歩こうっ!」

 後ろでかすかに流れるぴこぴことしたピアノの明るさがこの曲の特徴。
 しかし、一緒に歌いながらピアノを弾いてくれる少女は、ここにはいない。
 そんなことはどうでもいいから、今はただ、サビの旋律を全力で歌い切った。

「やさしー、かぜのふく場所っ、君に会えるーかーらー!」

 すると同時に気付く。
 水の気配が近い。
 すぐ側に大量の水がある。
 それを風で感じた。
 ……湖は近い。
 そう思った瞬間にはすでに、足を速めて、木々の間を一気に駆け抜けていた。






























 私達が捕えられたのはその日の夕方のことでした。
“対さとり用の術符”なるものの存在を知ったのもその時です。
 なんでもそれは、さとり妖怪に対しての考えが読まれないよう意図的に“さとり妖怪への意識を消す”ものなのだとか。数多ある妖怪への対抗策の一つだそうですね。えぇ、もちろん寝耳に水でしたよ。そんな対象範囲の狭い術具まで用意しているなんて流石に想像すらしていませんでしたので。人間とは真に恐ろしい。か細い身でありながら、しかしその内部では強者を殺す為の策を次々と生み出していくのですから。
 本当は、それを用いて私達を無視し、私達が去ってくれるまでそのままでいてくれる予定だったらしいのです。
 ただ、子供たちに優しくされて、私達がその里に本格的に住みつくことを恐れたんでしょうね。
 子供たちと別れた一刻後に私とこいしは後ろからクワで斬り付けられました。
 重い一撃でした。精一杯力を込めて降り下ろしたんでしょうね。そんな攻撃を受けるのは私もこいしも初めてで、何が起きたのか分からなくて、ただ痛いだけで、地面に倒れ伏すしかなくて、そこに続けて何度も何度も殴打とも斬撃とも分類し難い力任せの暴力が降り下ろされ続けたのです。
 その時になってようやく頭が動き出し、全力で読心を行ったことにより私は事の全容を知ることができました。でもその時にはもう遅くて、周囲には殺意を宿した人間達の輪が出来ていました。
 サードアイに石を捻じ込まれたのはそのすぐ後のこと。私が術符を破ったことを見抜いた訳ではなく、純粋にそこがさとりの弱点だと考えていたようです。それ以降は何も読み取れなくなってしまいました。眼球が突き破られてそこで砂利が硝子体をズタズタに荒らすんです。……あぁ、硝子体がどういったものか、ご存知ではありませんか。そうですねぇ。魚を煮て食べる際に目玉も食べたりしますよね? プルプルとしたゼリーのようなアレです。そう、アレが硝子体なんですよ。そこに、その辺で拾った石を突き刺せばどうなるかを考えてみて下さい。簡単にグチャグチャになってしまうということは想像に難くないでしょう? ご理解頂けたようで良かったです。私が受けた暴力はソレだったのですよ。はい。もちろんとても痛かったです。
 けれどそのおかげで私はそれ以上心を読まずに済んだ、とも言えますね。
 灼け切れそうな意識を必死の思いで繋いで私はこいしを見ました。優しいあの子が俯き、そして泣いていない筈がなかったから。
 しかし意外にも彼女は涙を浮かべていませんでした。それどころか、魂を失ったかのように呆然とした表情で遠くを見ているんです。どうしたんだろう。何を見ているんだろう。視線の先を追いました。そこでは子供たちが殺されていました。
 はい、そうです。私達に声をかけてくれたあの子たちです。
 私が目を向けた時には、眼に狂気を宿した男が最後の一人の首に向けて刃が降り下ろされようとしていまして、そしてその子が「お前達がいなければ皆は死なずに済んだのに」といった内容の叫びを私達に向けて放っているところでもありました。
 憶測でしかありませんが、たぶんあの子たちに対して術符は使われていなかったんでしょうね。大人達がケチを働いた。それだけのことだと思います。対さとり妖怪用の術符などというレアな術具がそう簡単に手に入るとは思えませんから。どうしてあの子たちが死ななければいけなかったのかは私には分かりません。大方、私達と接触したことにより汚れてしまった、だから処分する、それが集落の未来の為だ。そんな理論だったのではないでしょうか。反吐が出ますね。
 子供の首が一つ転がりました。
 私の意識が残っていたのはそこまでです。

 気が付いた時には、私はこいしにおぶられていました。

 夕日が稜線の彼方へと沈む中。獣道にふたり。
 意識を取り戻したことに気付いたこいしは私を木の根元に下ろして、そして静かに抱きついてきました。「どうやってあの集落から脱出したのか」だなんて、聞ける筈がありませんでした。私を抱きしめる血濡れた手に力が入りました。



「もう、こんな眼、やだよ……」



 夕影の中に、ポツリと。
 こいしが零したその言葉に、私は涙を堪えることができませんでした。

 ずっと。
 本当に長い間ずっと。
 こいしは弱音を吐いたことなんて無かったんです。
 どれだけの嫌悪を浴びせられようと、その結果どれだけの涙を流そうと、それでもこいしは弱音を吐いたことなんて無かったんです。どれだけ傷付いたって、どれだけ倒れたって、その度に前を向いて恋に焦がれる。分かり合うことを夢に見る。
 狂っていると思っていました。でもそれ以上に、優しい子だと思っていました。
 そんな彼女が漏らした一つの弱音を、誰が責めることなどできましょうか。
 彼女を救いたかった。それだけしか考えることができなくて、

「こいし。もう、頑張らなくていいの」

 私は言ったのです。

「眼を閉じなさい」

 私達は常に読心ができるわけではありません。サードアイが開いている時のみ、他者の心を視ることができるのです。
 実際にその時、傷付き、閉ざされていたサードアイを有していた私はこいしの心を視ることができていませんでした。
 私自身は治癒した暁にまた読心を行うつもりでした。虚弱な身ではありますが一応は妖怪たる身。死ななければ傷は治り、そして力は戻ります。
 でも、こいしは、こいしには、これ以上さとり妖怪として生きろだなんて、言える筈がありません。
 瞳を閉じ、さとり妖怪として生きる私から離れ、どこかの集落で人間に混じって生きた方が幸せなのでは。
 ……はい。もちろんそれは誤った考えです。瞳を閉じて人間の傍で暮らすなんて、いつまた襲われるか分かりません。でも、その時の私はそれが一番こいしの為になると考えていました。
 幼かった、なんて、言い訳にもなりません。

 その夜です。

 山の中腹にて私たちは睡眠をとることにしました。
 ただ、負った傷が痛く、どうにも私は寝付くことができませんでした。
 ボンヤリと霞がかった意識で夜空を見ていました。
 隣からゴソリと音が聞こえました。
 あぁ、こいしも眠れないんだな。と思い、私の胸は締め付けられ、少しずつ脳の働きがクリアになっていくのを感じて、軽く身体を起こして、そしてこいしの姿を目で追いました。
 そこに在ったのは木の枝。
 こいしは虚ろな目でそれの先端を調べます。硬さと鋭さを指の腹で確認をする姿が月に照らされていて、その深い陰影のついた横顔はゾッとするほど綺麗で。きっと圧倒されてしまったんでしょう。私は金縛りにあったように指も目も口も動かすことができませんでした。
 そしてこいしはゆっくりと木の枝をサードアイに飲み込ませていきました。
 身体はガクガクと震え、声が喉の奥から溢れだし、それでもこいしはズブズブと木の枝をサードアイに沈めていきました。

「これで私は、もう」

 そう呟いたと同時に彼女の頬に流れた涙が、嬉しさからのものなのか、それとも悲しさからのものなのか、私には今でも分かりません。
 ただ一つ確かなことは、その涙を見た瞬間、私の身体が金縛りから解放され、こいしの元に駆け寄ることができたということ。
 それ程にまでに、あの涙は凄惨に感じられたということ。
 慎重に木の枝を引き抜きました。抑えきれない苦痛の声がこいしの口から漏れます。
 けれど、こいしは笑っていました。
 笑っていたのです。
 私は何も言えませんでした。
 そうして木の枝を全て抜くと、サードアイからはとめどなく血が溢れ出ました。
 憔悴した表情で、それでもこいしは笑顔を絶やすことなくこちらを見て、フッと笑って、
 そして糸の切れた人形のように、私の腕の中に崩れ落ちました。
 その時にはもうサードアイは閉じていました。


































「わぁ……!」

 木々に囲まれた一面の、どこまでも透明な湖は、あたりの木々の電飾の光を盛大に受け綺麗に反射していた。
 それはさながらチカチカとした世界の明滅。
 あまりに綺麗で強烈な明滅で、くらくらと眩暈を感じるほどだ。
 くるくると歩み寄り、巨大な湖の前にぽふんと膝をつく。
 湖の向こうは、大穴からは観測できなかったはずの強烈な霧のせいで、全く何も見えない。

「どうしたんだい、そこのあんた。自殺衝動?」

 ふと膝元を見れば、蓮に乗った蛙が話しかけてきていた。
 それでも構わず足を踏み出そうとすると、びたーんと顔に飛びついてくる。

「おっとお断りだよ、私たちがイタズラするまでその命……とっときな!」

 一人称が私の蛙。
 この大きさなら、トノサマガエルだろうか。
 くすくすと笑ってしまう。

「……何笑ってんのよあんた」
「ううん、おかしくて」
「なんか腹立つ」
「カエルさんカエルさん、何か特技はないですか?」

 蛙は少し沈黙した後、こんな特技はどうじゃろねとつぶやいた。
 次の瞬間、蛙は一瞬で凍結していた。
 氷の立方体の中に閉じ込められている蛙。
 まわりの電飾の光を反射して、さながら蛙だけのファッションショーのようだ。

「どう……だい……綺麗だ……ろ……」

 中の蛙さんが、息も絶え絶えに話しかけてくる。
 その氷をつかみとって湖に放り込んだ。
 氷の中から話しかけてくる蛙が、気持ち悪かったのだ。
 とぷん、大きな水柱を立てて、蛙は湖の中に沈んでいった。

「あー、ぜいぜい……なんてことするのよっ! あたいの全力込めた最高傑作ぅ……!」

 まだ蛙の声が聞こえたけど、もうそんなことどうだってよかった。
 お腹がすいたので、釣りをして、魚を焼いて食べようと思った。
 あるいは、釣りがしたい、そう思った。
 思った時にはすでに遅く、もう思いは変わらない。
 そもそも人格における精神とは、理性や後悔では抑えつけられるような物ではないのだ。
 ゆったりとしたペースで白く濁ったり透明に戻ったりしている湖。
 もちろん、その中には一匹の魚の影どころか、生命の存在する気配すらない。
 でも、思いは変わらない。
 人格が一度決定した運命は、覆るはずもないのだ。それが、多ければ多いほど。
 要するにとにかくお腹がすいたのだ。だから、釣りがしたい。

「釣りに必要なものと言えば……なんだろう?」
「は? いきなり何よ、あんた」

 なんだろう。
 首をかしげて放たれたその言葉に、答えてくれる者は誰もいない。
 しかし、こいしの中には答えてくれるものがあったようだ。

「つりざお!」
「なんだこいつ……こわっ」

 叫んで、きょろきょろとあたりを見回す。
 釣りには、釣竿が必要だ。
 必要なのは釣竿なのだから、つりざおでなければいけない。
 枝をもぎとって作ったりしてしまってはまずいわけだ。
 それでは断然釣竿なのだが、釣竿の場合釣竿はどうすればいいのか?
 ならば釣竿は、どこから探してくればいいのか?

「蛙さん蛙さん、あなたは釣竿、持ってない?」

 蛙はもう何も答えなかった。
 難問だった。
 その思考に三十分ほど費やしたのち、やがて湖の向こうに小さな小屋を発見する。
 白く濁る湖の上では真っ赤に染まっていてとても目立つが、とてもとても小さな小屋だった。
 そしてそれを見つけた瞬間に、さあっと霧が晴れ、その下に広がるピンクの地面、小島がすぅっと顕現する。
 それはまるで、外の世界の物に例えるならば、米倉のようだった。

「あそこにはきっとある気がする」

 こいしはそう言って、ふよふよと湖の上を飛び、その小さな小さな小島に降り立った。
 人が住めるのかも分からないような、小さな小さな小屋だった。
 何故かどす黒い血の色で染め上げられている。そう、紅いのは血だったらしい。
 もっとも、どうでもいいことではあった。
 この中に、求める物がここにあるかもしれないのだから。

 何故そんなことが分かるかって?
 単純な経験則としか言いようがない。
 ただ単に、いつだって彼女の欲しい物は、求めて手を伸ばせば手に入ってきただけなのだ。
 そう、例えばお姉ちゃんの手のひらとか。

「ひょっとしてここは、上の世界に至る魔方陣なのかしらん?」

 こいしがボロ小屋の扉を軽く叩いたが、返事は返ってこない。
 何度叩いても何も反応がなく、とうとうそのことに焦れて、扉を勝手に開けようとする。
 固く閉じられているはずの扉が、大きな破裂音と共に開いた。
 すると、壁にたたきつけられたとびらが、いたた、痛いなぁと小さくうめいた。
 ちらと見えた扉の向こうにはさまざまな色の花に囲まれた美しい庭園が広がっていたのに、また、すぐに閉じてしまった。

「なんでしまっちゃうの、扉さん。中は、あんなにも素敵な場所なのに」

 駄々をこねるように言うと、ぎしぎしと音がしたぼろっちい扉は、まるで頭をかきながら言うような口調で

「通すわけにはいかないよ。私はこの館の門番だからね」

 と優しく諭した。
 こいしは首をかしげる。

「これが、館?」

 扉の言葉は、とても不思議だった。
 見れば見るほど、館と呼ばれたそれは、ほんの少しの嵐でも吹き飛んでしまいそうなほど脆弱で、仮初の住処にもできそうにないほどのボロ小屋だ。
 館なんて、片腹痛い。

「ええ、館、紅魔館ですよ」

 ふぅん、とこいしはあいづちを打った。
 よくよく考えれば、さっきちらと中に見えた虹色の景色は、とても美しかった。
 それは真の世界があの景色と言われても、納得が行きそうなほどに。
 きっと、この世界の風さんは吹き飛ばすことに悦びを得る以上に、いつまでも優しく愛でていたいと思うだろう。
 ならば、あのボロ小屋は、いつまでも館として、どこまでも紅い館として、存在し続けられるのだろう。
 要するに、とても優しい門番扉の声色で、ついつい納得してしまったのだ。

「なるほど。じゃあ。門番さん、お願いします」
「はい、こいしちゃん、私に出来ることならば、なんでも言ってください」
「釣竿が欲しいの」
「つりざお、ですか。ちょっと待っていてくださいね」

 ぼそぼそと彼女が何かをつぶやくと、ぽんっと音を立てて釣竿が出現した。
 しばしあっけに取られていたこいしは、ややあって、すごーい、と声を上げる。

「ただの、タネのない手品ですわ」

 釣竿の美しく響き通るような声に、すっかり気分がよくなってしまった。

「ありがとねー」

 と大きな声で後ろに向かって呟きながら、小島を一気に飛び立つ。
 あとには、とてもきれいなボロ小屋が一つ、悠然とそびえ立っていたのであった。


 何も釣れなくたっていい。
 それはこいしの本心だったのだろう。
 カエルさんに元気づけられた場所に戻り、何度も何度もエサを変えて、時には自分の指をエサに放りこんでみたりして、それでも全く魚からの音沙汰、あるいは上の階層の手がかりは得られそうになかった。
 でも、それでもこいしは本当に良かった。

「てーつのーあーめー……さーけーるねーこー……! そーのーつーぶーはー……にーくーをさーくー……!」

 ゆったりとしたスローテンポの曲。バラードだろうか。
 上機嫌に、竿なんて放っておいて、歌う。

「あーまーやーどーりー……いーのーちーがーけー……! さーびーいーろーの! 雨よ! どーおーせーならー」

 ぴくん、ぴくん、竿とウキが動いていることにも目をくれない。
 こいしが欲しい物は、魚なんかじゃなく、釣りによって手に入る、この平静なセカイだったのだから。

「せかいー、しーずーめーてー、にぶいー、ひーかーりーのーなーかー、とわにーそーらーかーらーみーえない、ひつぎー」

 空は晴れやかに、どこまでも青い。
 すずやかな風が、森の中を駆け抜ける。こいしはそれを感じ、さらり、座ったまま髪をかきあげた。

「さびいいいいろにそめーてー!」

 そして彼女は陽が傾き始めるまで、いつまでも上機嫌に歌い続けたとさ。

「あああー、あー! さいはーてーのーそーらー! ぼーひーめーいーなーき、いーのぉおち、のむれーにー
 かーがーやー、けるそーらーのしー、たー! ひーとーとせーんりつー、いだいーてーねーむー……れーっ!」




































「お姉ちゃん、恋の無い生なんて死んでるのと変わらないよ」

 それはただの口癖などではなく、きっと真実だったのでしょうね。
 サードアイを傷付けた後、こいしの意識が戻ることはありませんでした。
 植物状態という表現が近いと思います。
 彼女をおぶり、そして日に三度妖力を供給してあげる。
 そんな毎日が始まりました。
 心中を考えたことは何度だってありました。
 でも、私はまたこいしの声が聞きたい。
 こいしの笑顔が見たい。
 その気持ちだけを支えに生きました。
 いつのまにか私のサードアイは完治していました。
 下衆の如き悪行にも幾度と無く手を染めました。
 こいしの意識が戻ることはありませんでした。
 地底世界における管理者の立場を得ました。
 古明地さとりの悪名を知らないのは言葉を解せない動物の類いだけでした。
 こいしの意識が戻ることはありませんでした。
 地霊殿を建造しました。
 ペットの数匹が人型に変化できるようになりました。

 こいしが起き上がりました。

「こいし!!」

 なんでもない日でした。悲劇がなんでもない日に降るのであれば歓喜だってなんでもない日に生まれるんだろう。そんなことを考えていた私に対してこいしは何も言ってきませんでした。そしてベッドから降り、スタスタとドアに向かって歩き出しました。

「こいし?」

 慌てて彼女の手を掴むも反応は虚ろで。その時には、もはや彼女の異常は疑いないものと感じました。長い年月を眠りながら過ごしていたのだから惚けるのだって当然だ。なんて、自分に言い聞かせ、彼女の具合を確かめようと心を覗き込もうとしたのですがどうしても心が読めません。こいしの方のサードアイが閉じ続けていることに気付いたのはその時でした。そして、私がこいしのサードアイに触れた刹那、

 どぷり、と。

 膿の塊が流れ落ちたのです。

「え?」

 ずっと閉じたままの瞼から流れ落ちたそれは涙のように見えました。

 何度肩をゆすってみても、こいしはどこか遠い世界の話をするばかり。



「世界が壊れちゃったんだね。なんだか体が揺れているような感じがするよ」



 ようやく発した言葉がそれでした。
 どれだけ呼びかけても、抱きしめても、こいしが私を見てくれることはありませんでした。
 何度も叫び声を上げ、喉が嗄れてしまっても、こいしはどこか遠くを見るだけ。
 ……こいしの言うとおりです。
 こいしの世界はもう壊れてしまった。
 心が理解をしたがらなくても、理性がそれを認めてしまって、
 私は精一杯の力でこいしを抱き締めました。
 私の腕を振りほどいてこいしは外に出て行ってしまいました。

























 見ればあれだけ愛おしかった空の眼球は、一寸先すら見通せそうにない闇にはばまれ、見えなくなっていた。
 まっしろで、すべての真実を覆い隠してしまう霧が、どんどん濃くなっていく。
 ピンク色の地面も、透き通った湖も。
 自分の足ですら、霧にかき消されて、どこまでも見えなくなっていく。

「もう夜か……この辺りは、夜になったら霧が出るのね」

 つぶやきこいしは、飛び立った。
 霧なんて関係ない。
 ただ、歩いているだけで、目的地を目指し歩いているだけでいいのだから。
 次に意識が揺れたとき、こいしは、最初に目を覚ました廃墟の中にいた。
 体のよごれをべちょべちょとしたお湯で拭い取り、裸のまま寝室で天井を仰ぎ、乾かす。
 綺麗になるどころか、体がぐちょぐちょして気持ち悪いくらいだ。
 しかし、これ以外に、体を洗う方法を知らないのだから仕方ない。
 知ろうとする気も起きなかった。
 ある程度乾いたら、そのままスライムの中にくるまる。
 服は、普段着ているものを数十着以外持っていないが、あれは寝ているときに着るためのものじゃない。
 だから、生まれたままの姿で、布団という子宮に包まれた。

「ねんねん……ころりーよ……こいしは……いいこ……ねんねしな……」

 静かに自らへの子守唄を歌い出すと、その声がだんだん辺りに反響していく。
 夜の闇の中にきれいな歌声が反射し、乱反射する。
 その調和は、もはやきんきんとうるさいほどだ。
 あるいはこれは夢なのだろうか。
 こいしは、もう、自分が起きているのか寝ているのかすら区別がつかない。
 やがてまたふと意識を揺らすと、一つの美しい階段が、自らのすぐ横に、その美しい歌声によって、創り上げられていた。
 その上には、お姉ちゃん、古明地さとりがいた。
 両手を伸ばし、飛び込めば抱きしめてくれるようなポーズのまま、じっとこいしを見つめていた。
 その表情は、こいしを求めるような、こいしに甘えさせるような、こいしに何かを切望するような、見るものの息を詰まらせる、悲哀轟々とした、瞳にぐるぐると明暗を灯した……とにかく、表情だった。
 ただ、この世界の景色に比べると、少し美しさにかけるなぁ、とぼんやり思う。
 また、なにか音がして、こいしが階段とは反対側に目を向けると、美しいどころか、とても醜いけど、どこか懐かしいようななだらかな坂が見えた。
 それはまるで、どこにでもある里山の山道。
 そう、こいしが元々いたはずの世界だ。
 もちろんそこにはさとりがいるのは言うまでもなく、懐かしい人間の子どもの遊び相手達もいた。
 どこまでも醜い世界だけど、きっとこの階段を登るだけで、ずうっと、彼らと遊んでいられるのだろう。
 ……バカバカしい。

「やーめた」

 呟くと、二つの上の階層への階段が一瞬にして消滅したと同時に、こいしを呼ぶ悲痛な声と、こいしを哀れむようなシニカルな声が、同時に世界にサラウンドした。
 女の声だ。
 やかましくてとても聞けたものじゃない。
 うるさい。すごくうるさい。

「うるさいよ……お姉ちゃん……」

 その哀願は、しかし「お姉ちゃん」に届くことはなかったらしい。
 こいしは耳をふさぎ、まぶたを絞めつけてその声から逃げる。
 最後にはとうとう頭を抱え子宮に閉じこもり始めた。
 部屋の中に鳴り響くその声々は、やがて世界全てを覆い隠す。

 こいしを必死に呼ぶ声。こいしを哀れむ声。
 こいしに突き飛ばされて悲鳴を上げる声。自らを後悔する声。
 こいしに切願し、こいしを切望する声。シニカルな自嘲。
 返事を望む声。眠りの挨拶。

 やがてその声達は、彼女の声をたった一度だけ描いて、こわばる。















「「こいし」」




















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 以上です。
 ふふ、それにしても、すみませんね。
 なんだか貴方を前にすると、妙に会話が進んでしまうようです。
 最後には、話しているこっちが楽しくなってしまいましたよ。

 あなたはきっと、聞き上手というやつなのでしょうね。
 それとも、このとてもおいしい珈琲の魔力なのでしょうか、なぁんて。









 ……え?



 「世界は別に壊れてない、ただ、残酷な事件があっただけじゃないか」……ですって?





 うふふ、いやですね。
 世界なんてとてつもなく巨大なものが、そう簡単に壊れるわけないじゃないですか。
 壊れたのは彼女……その彼女の世界。





 もし世界に限りがあったとして、その限界の地点をあなたが観測できたとき、世界とあなたは同一。





 ふふ、いきなり何を言うのか、という感じですね。
 無理も無いと思います。
 これは、外の世界の……哲学者の言論ですから。
 とてつもなく難解な物を書く人間をもってなお、とてつもなく難解に仕上げた、と自称している本の言論ですから。




 でも、少し考えてみてください。




 あなたが世界を見つめて、世界を探し求めて、仮に世界の果てにたどり着いたとき、きっとあなたは果ての世界を見るでしょう。
 こいしもまた、世界を見つめて、愛を探し求めて、その果てにたどり着いたとき、果ての世界を見れるようになったのです。
 ならば、あなたと世界……そしてこいしと世界は、等しいのです。




 なんて。
 この館に篭るようになってから、少し書物を読む機会が増えまして、哲学にかぶれてしまったようです。
 気にしないでくださいね。


 最近はこいしも丸くなったようで、なんと、以前よりさらに人と会話が自然に繋がるようになったのですよ。
 しかも、スペルカードという遊びまで、行えるようになったらしいです。
 ついこの前、カードと呼んでいる小石を、誇らしげに振り回しながら歩いておりましたよ。
 確か、スペルカード自体には、なんの魔力もなくてよかったのでしたね。

 まあ、もっとも彼女が見ている世界は、已然同じままのようですから、きっと自然に繋がっているように見えるそれは会話なんかではなく、一人芝居の延長上のようなもののままでしょう。
 完全に人格を形成しているように見えるが、そう見えるよう反応しているだけで本人は全く会話する気がない。
 このことを知っているのは、私だけです。
 誰もが彼女をちょっとずれているだけの妖怪と信じていますがね。
 私だけが、これを知っているのです。



 ……今では、あなたも、ですね。


 うふふ、何故彼女がまだ彼女の世界にいることが分かるか、と。
 良い質問ですね。
 きっと、これを聞いたらびっくりしますよ。
 こいしは……こいしはですね?
 自分が観ている物を、なんというか、そうですね、たとえるならば、常に三人称の小説のように呟いているのですよ。

「大体の地理は、前回ここに来たとき、高く空から俯瞰したことで把握出来ている。
 遥か彼方にあるどこまでも届きそうなほど高い山、限りなく透明に透き通った白い湖、船がたくさん浮かぶ海の水平線。
 そのどれもが同じくらい、こいしにとって危険そのもので、だからこそ魅力的だ」

 とか。

「次に意識が揺れたとき、こいしは、最初に目を覚ました廃墟の中にいた。
 体のよごれをべちょべちょとしたお湯で拭い取り、裸のまま寝室で天井を仰ぎ、乾かす」

 とかね。
 ふふ、そして自分で口に出すと同時に行動する。
 とても可愛らしかった。
 そして、何よりも、私でもこいしの世界を視ることができると気付いたときは、とても嬉しかったです。





 彼女の主観。
 彼女の世界。
 私も、氷精も、門番も、誰一人として、あるいは彼女ですら存在しないかもしれない世界……。

 よければ、その話もいずれしましょう。

 別に今でも良いですよ。
 さきほどの言葉は、一度、一日分の記録を取ってみたときの、原文そのままです。
 なにせ私古明地さとり、古明地こいしのあの一日くらいならば、全てそらで言えますからね。

 ふふ、こいしの世界、素敵な世界……。











 ……ああ、もう、こんな時間です。
 時が経つのは、早いものですね。


 最後に、一つ、聞いて欲しい物があります。
 いえ、物というより、し……詩ですかね。
 外の世界になのですが、私のとても好きな詩があるのですよ。

 是非、聞いて欲しいです。
 聞けば、貴方もきっと気にいるでしょう。
 そしてきっと、こいしもきっと気にいるでしょうから。




 ……聞いてくださりますか。
 ありがとうございます。
 少し恥ずかしいですが……すぅぅ……







 脳は空よりも広い。
 ほら、二つを並べてごらん?
 脳は空をやすやすと容れてしまう。
 そして、あなたまでも。

 脳は海よりも深い。
 ほら、二つの青と青を重ねてごらん?
 脳は海をも吸い取るでしょう。
 スポンジが、バケツの水を吸うように。

 脳の重さは、世界と同じ。
 ほら、二つをたしかに測ってごらん?
 もしちがうとすればそれは……
 言葉と音のちがいだけ。









 ふぅ。


 ふふ、ありがとうございました。
 なんというか、気恥ずかしいものですね、詩の朗読というのは。
 私は、この詩を、とても、とても気に入っているのですよ。
 なんだか、繰り返し口の中で唱えていると、世界と私が同一であるという言論と、こいしの世界と私の世界が繋がっていくような気がするのです。
 本当は、こいしに聞かせてあげたいくらいですよ。
 彼女はきっと、この歌を気に入ってくれるでしょうからね。




 皮肉ですよね。
 私の妹、古明地こいしは、心が壊れて初めて、高度な哲学に通ずる境地に達したのですよ。
 世界と人は同一、という境地に。









 ……ああ、なるほど。










 いえ、今気付きました。
 ふふ、なるほど、という感じです。
 くすくす、たったいま気付きましたよ。
 こんなくだらないことにすら気付けないなんて、私はバカですね。
 妹のことなら、なんでも知っていると思っていたのに。


 こいしは、私の自慢の、とても優秀な妹です。
 心を壊し、哲学を手に入れた。
 そしてきっと、彼女もそれを自覚している。

 分かりませんか?
 ならば教えます。


 これこそが。




 この哲学こそが……。





 きっと。






 こいしが使っていたスペル――





 嫌われ者のフィロソフィのことなのです。






















チルノ「こいしちゃん、こいしちゃん」
こいし「んー何ー? 蛙さん?」
チルノ「おはよ」
こいし「おはよ」



さとりサイドの執筆を担当しました即奏です。
今作では少しハードな文章を心掛けてみました。
そういったものをお読み頂き、あまつさえこのようなところにまで目を通して頂いてありがとうございました。
絹さんのアイデア、文章に自分の言葉がどのように反応したのか、実は自分でも把握しきれていないというのが本音のところです。
ただ、何らかが読んだ方の心の中に残れば良いなぁと、ぼんやりと思うだけ。
それが、当作品を読まれた時間に見合うものであれば幸いです。
改めまして、ここまでお読み頂きましてありがとうございました。
また、僕のラブコールを受けて下さった絹さんにもこの場を借りて感謝を。本当にありがとうございました。
絹×即奏
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コメント



0.730簡易評価
1.100奇声を発する程度の能力削除
凄すぎてもう何て言えばいいのやら…
2.100名前が無い程度の能力削除
ずっしりと来ました。

気づけば読みふけってました、文章がきれいで、表現が自分好みでした。
3.100名前が無い程度の能力削除
不気味で歪で気持ち悪い。そのくせ、決して不快ではない。すごい物語を読ませて頂きました。
5.100名前が無い程度の能力削除
これは深イイ話。
哲学って凄く難しいけどなのに全く理解できなくもない不思議な学問ですね。
7.50名前が無い程度の能力削除
真実は主観の中にうんたらかんたらって結構マジなのかもしれない。
9.無評価名前が無い程度の能力削除
間違いなく元ネタであろうものは全て目を通している身としては、これはちょっと厳しいなあと言わざるを得ません
正直なところ合作が思いきり裏目に出てしまっていると言いますか、アイディアと元ネタがパーツのまま物語の中に放り込んであるだけと言う印象を受けました
それは元ネタの解釈上の問題かもしれませんが、作者お二人の「世界」に対する認知の違いがもろに不協和音のようにかみ合ってないように思えます
率直に言ってしまえば、某論考が試みたことと同じように――古明地アタラクシア論考と言うものは果たしてどんな哲学だったのか
SSと言う形として明確に語って欲しかったと言うのが本音です。元ネタとして丸々使われてる部分そのものが答えのようになってしまっているし
物語として読んだ場合にもこいしの哲学については、ほぼ全て歌詞の引用と言う形で示されているのはちょっと評価のしようがありません
いきなり世界は何の脈絡もなく滅びました、と言う『前提』で古明地姉妹が想う結論として導き出された答えの過程があまりにも曖昧過ぎて
元ネタを知っているとうーんと首を傾げる他ない部分が多すぎると言うのが正直なところです

大変偉そうなことを言ってしまい恐縮ですが、この物語で絹さんと即奏さんの伝えたかったことや想いが借り物みたいな気がしてなりません
繰り返しになりますが、お二人の考える「古明地アタラクシア論考」が読みたいのであって、この物語にはその核が欠けているのが致命的だと思います
仮に全てが元ネタのパロであってもオリジナリティは存在してあって欲しいし、到底それらと同様に並べられる出来だとも感じませんでした
サティのように不協和が美しく聞こえる訳でもなく、かの人が言ったように「語りえないことについては、沈黙するほかない」ですね
11.60名前が無い程度の能力削除
こいしちゃんは可愛かった。
ただ過去の悲劇パートがね、完全な悪者がいないと成立しない悲劇は二流だと個人的に思ってるんで減点対象。
哲学部分に関して、哲学ってのは丸呑みにしてそのまま自分の中に入れちゃうもんじゃなくて
咀嚼して自分の言葉で再構築しなきゃならんと思ってまして、どうもそのまんまの印象が強かった。
あとこいしちゃんの行動部分のプロットがどっかで見たこと有りすぎました。
さとりがちょっと気取りすぎてた感があるのもマイナス。
こいしの世界の情景は考えてると楽しいんですが、そういう感じに見えることに対する説得力が微妙だったり。
まあ、面白かったです。
15.80名前が無い程度の能力削除
こいしの世界は、手塚治虫先生の『火の鳥』のある話や、話に聞く『沙耶の唄』を感じました。
面白かったのですが、引用の多さで若干薄味でした。
16.100名前が無い程度の能力削除
哲学が分からん俺はただ圧倒されて飲み込まれたよ…凄かった
こいしちゃんって面白いキャラだよね、本当
19.100名前が無い程度の能力削除
これを何回も読み返したら、なんだか幻想に嵌まれる気がする。

そしてさりげなくDQネタがw