「ハッ! セイ! ヤッ!」
気力に満ち溢れた私の声と共に刀が振り下ろされる。
全身に力が満ちるが、それは単純な力みを意味するものではない。
ある所では力みが、ある所では脱力が必要に応じて使い分けられていた
「精が出るわね、妖夢」
「はい! 幽々子様!」
最近の私の稽古は近年に無く充実していた。
失って久しい目標ができたからだ。
「決戦は明日だったかしら、妖夢」
「はい、幽々子様。敵は歴戦の猛者です。もしかしたら私は帰ってこないかも知れませんが、
どうぞ止めないでください」
「ええ、何と戦うのかは知らないけど、それは貴方にとって引けない戦いなのでしょう。
私には何もできないけど、ここで貴方の勝利を信じて待っているわ。
勝利を祈って、今日の夕飯は精の付くものにしましょう」
※※※
事の始まりはこうだった。
幽々子様はたまに妙な食材を持ってきては調理をせがむ。
夜雀を連れてきた時はどうしようかと思った。
私達白玉楼の使用人はこれに辟易していたが、
瞳を潤ませた幽々子様にやや上目使いに見つめられて頼まれると、断れる者はいなかった。
この日は大きな蟹を持ってきた。しかもまだ元気に動き回っている。
調理担当の幽霊達はそれを捌こうとしたが、中々どうして手強い。
誰も蟹に傷一つ負わせることができない。
そこで私にお鉢が回ってきた。
剣士である私に蟹如きを斬れというのは屈辱なのだが、
幽々子様の純粋な瞳に見つめられると断ることができなかった。
手早く終わらせようと、私は手頃な包丁を持つと無造作に蟹に振り下ろす。
が、ガキィッという音と共に、包丁は蟹のハサミに受け止められていた。
「なん……だと……」
妙な台詞が思わず口から零れ出る。
得物が包丁とはいえ、気合の入ってない一撃だったとはいえ、
私の一撃が蟹如きに受け止められた……?
何かの間違いだったのだと自分に言い聞かせながら、
包丁をハサミから引き抜き、今度はやや気合を入れて振り下ろす。
ガキィッの音。
私は平静を失った。何度も何度も包丁を振り下ろし、
ガキィッガキィッの音をひたすら厨房に響かせる。
いつしか私は刀を抜いていた。
蟹相手に刀を抜くことは少なからず私のプライドを傷付けるのだが、
それでもこの蟹の存在を許すことができなかった。
プライドを捨ててでもこの蟹を抹殺したかった。
もう蟹だと思って舐めない。
刀を構えると、丹田に気合を込め、鋭い呼気と共に刀を振り下ろす。
だが、
ガキィッ。
私はもう泣きそうだった
次に試すのは奇襲技。中段を襲うと見せかけて上段に派生する技だ。
まず初見ではこの太刀筋を見切ることはできない。
もう正攻法では貴方に勝てませんと蟹に白旗をあげているようなものであったが、
それでも――私は――
またしても、
ガキィッ。
太刀筋どころか、勝負を焦って奇襲技に頼る私の心を見切られていた。
私は蟹に完全敗北した。
蟹は茫然自失して崩れ落ちる私の横を蟹歩きで悠々と去っていった。
私は泣いた。人目もはばからず泣いた。
胸を貸してくれた幽々子様の胸で泣くしかできなかった。
幽々子様の胸は大きくて、柔らかくて、暖かくて、良い匂いがした。
※※※
しばらく泣くと、さっきのことを冷静に見返す余裕ができてきた。
わたしの敗因は様々だが、やはり慢心していたのだろうと思う。
昔の私は恥知らずにも幻想郷一の剣士を自称していた。
その自信は数多の強者との死闘を経て得たものではない。
単に弾幕ごっこ全盛の幻想郷では剣を志す者自体が殆どいなかったのだ。
競い合う者、乗り越えるべき者の無い私の剣術はただ金属の棒を振り回す運動にまで堕し、
私の傲慢を正す師はもう幻想郷を去っていた。
恐らくあの蟹に出会うことがなければ、私は一生金属の棒を振り回しているだけで、
剣術の極意に至ることなど無理だっただろう。
私は憎かったはずの蟹に感謝する気持ちすら生まれてきた。
※※※
私は基礎から鍛え直すことにした。
剣術を始めたばかりの者がやるような、ごく初歩的な鍛錬からやり直す。
何万回と繰り返してきた基礎動作なのに、
今になって初めて隠された意味を発見する事もざらだった。
私は己が流派こそが至高と思い省みることも無かった他の流派についても紐解く。
腕力で押し切る流派があった。脱力を重視する流派があった。
守りを考えない流派があった。守りを優先する流派があった。
活人剣があった。殺人剣があった。
私は剣術の奥深さを改めて認識した。
己が流派だけが至高などと考えていた私の視野はなんと狭かったのだろう。
稽古の充実は私の生活面にも良い影響を与えていた。
昔の私は仕事上のミスをよくやらかしては半人前の謗りを受けていたが、
最近ではそれも殆ど無くなった。
幽々子様からは、
「最近の妖夢ったらなんだかキリッとしてるわね、イケメンだわー」
と、お褒めの言葉を頂いた
※※※
そしてある日、ついに蟹と再会する。
蟹は二百由旬の庭にある沢に悠然とその身を横たえていた。
それはまさに王者の風格だった。いずれ名のある蟹なのだろう。
蟹は私を見る。
昔の私ならば狂ったように刀を抜いて切り掛かり、また無様な敗北を喫していたのだろうが、
今の私は違った。口惜しいが、彼我の実力差は心得ている。
私は蟹にいずれ勝利するという決意を込めて強い視線を送る。
蟹はその視線を受け止め、ぶくぶくと不敵に泡を吐いた。
私はあの蟹に一泡吹かせてやるぞと決意を新たにした。
※※※
それからはますます稽古に身が入った。
あの蟹ならどう動くだろう、どう攻めるだろう、どう受けるだろうと、
ひたすら蟹のことを考え、ひたすら蟹の幻影と戦う。
最初の方の私は蟹を前にすると満足に動けなかった。それでも何度でも戦いを挑む。
大抵の場合私は蟹に打ちのめされたが、何十何百何千と戦いを繰り返すうちに、
私の勝てる割合は段々と上がっていった。
※※※
決戦の日は明日と決めて、幽々子様にもそう伝えていた。
あの蟹は強い。正直恐ろしい相手だ。
期日を決めなければ、ずるずると延びて行って、ついには戦う機を逸しそうだった。
そして今から決戦前の最後の夕飯を迎える。
もしかしたら最後の晩餐となるかもしれない。
「妖夢、今日は蟹鍋よ」
嫌な予感がした。
私は急いで厨房に行くと鍋の蓋を開ける。
そこでは例の蟹が茹でられて真っ赤になっていた。
蟹は悠然とその体を鍋に横たえていた。彼は死んで尚、王者だった。
私は泣いた。
でも美味しかった。
あと、毛蟹の甲羅に日本酒注ぐのが至高
ぶっ飛んだ出だしだけに、もっとぶっ飛んだ展開を期待してしまいました。
こんなぶっ飛んだ発想好きです。
いじられ役といじり役のゴールデンパターンだ
爆笑した。すげえ
私はあの蟹に一泡吹かせてやるぞと決意を新たにした。
もう既に吹いているぞと突っ込みを入れた私は負けなのでしょう。
笑わせてもらいました。
>私はあの蟹に一泡吹かせてやるぞと決意を新たにした。
やられたわ、これはやられたわw
だから色々考えずに100点入れたくなりました
数日後、栗と臼と蜂を引き連れた更なる強敵が……みたいな続編に期待。
死を操る程度の能力を持つ彼女なのか・・・
蟹を倒した猛者とは一体……
白玉楼の主が望みは、蟹を食べること。決して、従者がそれに打ち勝つことではないのだ。
やはり本筋を違えない幽々子様と、自己研鑽に励むおちゃめな妖夢に100点を。
あっさりとした出汁のような笑いを、ありがとうございました。
蟹が食いたくなったwww
にしても妖夢! この未熟者メガロパ!
蟹如きに敗北を喫するとは、草葉の陰で妖忌も大笑いしているゾエア!
初投稿作品、そして本作品を拝読して作者様が持つセンスの良さは胸に刻まれました。
すぐになんて贅沢は申しません。そのセンスを活かした会話文の妙が楽しめる作品をいつか読むことができれば嬉しいです。
私の負けだ
でも、読みやすくていいギャグでした
妖夢ぅぅぅぅわぁぁぁぁぁぁ
いずれ名のある蟹
ってのがなんのシャレなんだかわかんねえ
惜しい奴を失くした・・・しかしそれは無駄死にではない・・・ッ!!
>蟹はその視線を受け止め、ぶくぶくと不敵に泡を吐いた。
>私はあの蟹に一泡吹かせてやるぞと決意を新たにした。
この流れ卑怯だwwwwwww
もう堪忍してください。蟹だけに。
しかし、吹いた。
だが、面白いから許す
いや全然関係ないんだけど。
無理を通せば道理が引っ込むと言ってた人がいたけど、正にその通りだった。
蟹やべぇ…
もう泡吹いてるだろって突っ込みを入れた自分の負けです
新作楽しみにしてます
しかし幽々子様の食欲はそんな妖夢をも超えてる…
後はもうオーバーキルww
読んで納得したww
腕?の割にあっさり2回もとっつかまってるところから、
剣術系の防御特化で他は並みなのかなぁとか考えたり。
幻想郷ではなくて白玉楼にしといた方がいいんじゃないかな
駄目だww想像したら駄目だww
以前別の方が投稿された『魂魄流お刺身調理法』といい、どうして食材と格闘する姿が似合うんでしょうこの剣士は。
いやあこれは良い蟹でしたwwwwww
落ちの切れ味もグッド!
なんで防ぐ・・・
蟹が格好よく見える不思議w
まさか蟹に惚れる日が来るとは思いもしなかった。蟹……惜しい奴を亡くした……
しかし、もし……戦っていたとしても蟹は攻撃してこないだろうから壮絶な妖夢の一人芝居になってたんじゃないのか?
いや、何度読んでも面白い。何度読んでも「一泡吹かせてやるぞ」のくだりで笑ってしまいます。
切れ味抜群の作品でした。
ここで、やられたww
(´・ω・`)!!??
大好きです。