Coolier - 新生・東方創想話

誰がために乳は出る

2011/03/21 22:15:38
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 それはまさしく風物詩のようなもので、年々によって多少のズレはあるものの、この時分になるとチルノは決まってぐずりだすのだ。
 彼女なりにふと変化に気づく瞬間があるのか、ある日をさかいに突然それまでのおてんばな調子がなりをひそめて、つねに拗ねたようなふくれっ面をするようになる。レティの服のすそを握って片時も離さず、どこへ行くにも後をついてまわるのだ。おかげでレティは四六時中チルノを抱っこするはめになるのだけれど、迷惑そうな様子は一切見せなかった。それどころかむしろチルノの駄々を愛らしく思っているように見える。
 冬の終りは、もうそこまできていた。
 最後まで白かった山々にもいよいよ雪どけが始まって、地上に目覚めた緑の息吹が日ごとに山を昇っていく。

「私が消えた後、チルノの事をお願いね」

 大妖精は頷いた。それは、冬が終りを迎えるたび何度となく繰り返されてきたやりとり。

「チルノ。我侭を言って大妖精を困らせちゃだめよ」

 高山の山頂に追いやられた残りわずかな雪原。三人はそこで、最後の冬風と共に、幻想郷を展望する。大地を覆い尽くしていた白銀はすでに天に還った。今は、晴れ渡る透明な青空の下に深い緑が地平まで続き、静けさをたたえている。その眺めも悪くは無いけれど、やはり、青空に輝く雪の世界こそ、もっとも幻想的で心を奪われる。その眺めを次の冬まで待たねばならないのが、大妖精には寂しかった。隣に座るレティも、その腰にしがみ付いているチルノも、きっと似たような気持ちなのだろう。
 レティは穏やかな笑みを浮かべながら、チルノの細い髪の毛をすくった。サラサラと枝垂れて落ちる。風に舞い散る粉雪のように陽にきらめいた。

「良い子にしてるのよ」

 チルノは不満そうに頬を擦り付けるだけで返事をしない。不機嫌そうな顔をして、何日も前からもうずっと口数を減らしていた。
 レティは大妖精と目を合わせて、二人してちょっと困った風に笑う。それからまた遠い眺望に瞳を向けた。

「あと二、三日かしらねぇ」

 その何気ないレティの呟きが、大妖精を焦らせる。
 大妖精は、今年こそレティに思いを打ち明けるのだと決心していた。そのはずなのに、気がついてみればもう時間が残っていない。
 思い切って今告白してしまおうか、と口をあけてみるけれど、二人の間にいるチルノがどうしても気になってしまう。それは単なる逃げ口実だ、と分かってはいるものの、結局、冬の間何度もそうしたようにまた口をつぐんでしまった。
 夜になってチルノが寝たら今度こそ。
 こっそり鼻息を荒くしながら、レティと一緒にチルノの髪を撫でる。






 魔法の森の奥に、それはそれは大きな木が鎮座している。村一つを飲み込むほど幹は太く、その樹齢を知る者はもはや存在しない。人がたどり着ける場所にはなく、多くの妖精たちの住みかになっていた。
 その木の枝の一本で、三人は一緒に眠った。チルノは相変わらずレティにしがみ付いていて、大妖精はチルノを間に挟んでレティと並んでいる。
 大妖精とレティはまだ起きていた。
 
「多分、明日でさよならね」

 緑の天蓋を見上げながらレティが呟いた。三人の頭上には多くの枝や葉があって、夜空は見えない。あたりを見回せば、そこここに生えたヒカリゴケのぼんやりとした灯りに照らされ、他の枝で眠る妖精たちの姿が見えた。
 大妖精はレティの呟きに胸をしめつけられた。
 雪山で伝えそびれた日から、なんのかんので2度目の夜を迎えてしまっている。もう、本当に時間が無い。

「妹をよろしくね」

 レティに抱かれて気持ち良さそう眠っているチルノが、大妖精はちょっぴり羨ましかった。

「妹?」
「私にとって、貴方達は娘姉妹みたいなものだから」

 柔らかい表情で、レティが微笑んだ。

「貴方がお姉さん。しっかりね」

 チルノの頭越しに大きな手が伸びてきて大妖精をゆっくりと撫でる。
 大妖精はその優しい愛撫に頬を緩ませた。が、同時にいくらかの落胆を感じていた。
 娘では嫌だ。
 その切なる思いと夜の静けさが大妖精の緊張を幾分ほぐしてくれたのか、大妖精は意外なほど素直に打ち明けることができた。

「娘じゃやだ……」
「え?」

 レティのきょとんとした雰囲気を感じながら、大妖精は口ごもった。
 今告白しなければきっともうチャンスはないぞ、と気張る。耳に響く鼓動が、早まっていく。
 大妖精は、チルノの背中を抱いているレティの手に、きゅっとしがみついた。そのまま全身を力ませ瞼をギュッと閉じ、とうとう告白した。

「お嫁さんがいい。お嫁さんにしてほしい」

 言えた! とうとう言えた! 達成感とも虚脱感とも知れない衝動が、体を駆け巡った。瞼の闇の中で、自分の鼓動とレティの手の冷たい体温が意識一杯に広がる。
 大妖精は恐る恐る目を開けて、レティの表情をうかがった。
 この冬一番の優しい笑みがあった。大妖精はその笑みに、喜びや驚きよりも、ただひたすらに安心を感じた。

「お嫁さんになりたかったの?」
「う、うん」
「そうなの。おいで」

 チルノを抱きとめていた腕を片方ほどいて、大妖精に手招きをする。
 大妖精はもとめられるままに体をあずけた。レティの大きくて優しい腕が、チルノと大妖精を一緒に抱きしめた。
 大妖精は日ごろチルノほど素直にはならない。だから、レティに抱いてもったことは数えるほどしかない。嬉しくて嬉しくて、レティの大きな胸に、ぎゅっと顔を埋めた。

「お嫁さんにしてくれる?」
「もちろん」

 はじけるような歓喜が大妖精の心にぱぁっと広がった。実のところお嫁さんがどういうものなのか、大妖精はあまり知らない。ただ人間は好きになった他人のお嫁さんになって、結婚をするんだと聞いた。その時からずっと、レティと結婚したいと願っていた。それが今ようやく叶ったのだ。

「じゃあ、私達の娘をよろしくね」
「え? 娘?」
「ふふ。チルノは私の娘みたいなもので、大妖精は私のお嫁さん。だから、大妖精もチルノのママでしょう?」
「え? え?」

 渡された不思議なパズルを頭の中でかちゃかちゃと組んでいく。ほどなくして、カチリとピースがはまった。
 大妖精は、にっこりと笑って大きく頷いた。

「うん!」
「明日から頑張ってね。小さなママ」

 レティの冷たく柔らかい唇が、大妖精のおでこにそっと触れた。その時の唇の感触は、ずっと大妖精の記憶に残っている。






 夕刻、レティはいなくなった。
 夕焼けが、高山に残った最後の雪を道連れにして、空の彼方へ去っていく頃。藍に変りつつある空の一角で、別れの儀式は行われた。
 ともすれば泣き出しそうなチルノを、大妖精は繋いだ手の平に力を込めて慰める。向い合ったレティはそんな二人を笑顔で照らした。

「じゃあね。また次の冬に」

 二度三度レティが二人に手を降った。その笑みが、一陣の風と共に最後の粉雪となった。小さな雪の結晶が、残り陽に反射して一瞬輝き、そして消えた。

「レティ」

 チルノが置き去りにされた子供のように呟き、そして冬が終った。






「ねぇチルノちゃん。これからは私の事、ママって呼んでみようか」
「……へ?」

 昨日は三人で寝た巨木の枝に、今日は二人で横たわる。
 レティの代わりなのか、自分の体におずおずとしがみついてきたチルノに告げた。

「な、なんで?」

 夜風が吹いて巨木の天蓋がさわさわと葉を擦り、チルノの戸惑いを飾った。
 お嫁になったと説明するのはちょっと恥ずかしい。だが、立派なママにならなきゃいけないという気概はある。自分はレティのお嫁さんなのだから。

「と、とにかく!」
「やだよ。恥ずかしいよ」
「じゃあ、もう添い寝してあげない!」

 ツンとした声で言い放って、寄り添っていた体を遠ざける。
 案の定、チルノは顔をくしゃりとして泣きべそ顔になった。レティがいなくなる前後、チルノはとても弱気な性格になる。だから冬が終ってしばらくは、毎年大妖精に抱かれて眠るのだ

「うぅ」

 チルノは困り果てた表情で、チラチラと大妖精の顔色をうかがう。いくらかは罪悪感があるけれど、顔には出さなかった。
 またどこか遠くでサワサワと木の葉がなる。

「わかったよぅ」

 チルノは顔を赤くして、ぎゅっと目を瞑った。小さな唇がおずおず開いた。

「ママ」

 恥ずかしさにみちみちて今にも消え入りそうな呟き。けれどその瞬間、大妖精の心にはふわりと暖かいそよ風が吹いていた。これまでに感じたこと無い、不思議な、けれど幸せな気持ちだった。

「……チルノちゃんっ」

 一回り小さいチルノの体を包みこむようにきゅっと抱きしめる。
 チルノはまだ何かをこらえるように、うーうー、とぐずっていたけれど、どこか安心したみたいにして大妖精の胸に頬を寄せた。

「皆の前では、ママって呼ばなくてもいいよね?」

 心配そうなチルノの声が大妖精のイタズラっ気を刺激した。

「だめ。皆の前でもママって呼ぶの。でなきゃ、一緒に寝てあげないから」
「そんなぁ……」

 情けない声でしょげるチルノが可愛くてしかたなかった。きゅーっと腕に力を込めて、チルノの柔い髪に頬擦りをした。鼻の奥に微細な氷が入ってきて、冷たい良い匂いがする。






 顔なじみの仲間にとってもチルノの赤ちゃんがえりは風物詩のようなものらしい。リグルもミスティアも橙も、大妖精の腰にしがみつきいて現れたチルノの姿を目にしても、大して驚きはしなかった。あぁ冬も終わりか、と感慨浅そうに述べるだけだった。
 けれども、チルノが大妖精に向かって、

「ママ」

 と呼びかけるのを聞くにいたって、さすがに目を丸くした。
 冬と春の合い間の、ある晴れた昼下がり。湖の畔に楽しげな笑い声が響いたのだった。

「あはは! ママって、何よそれ?」
「大ちゃんって、チルノちゃんのママだったの?」
「チルノは甘えんぼさんなんだ」

 大妖精もそうだが、三人ともこの時期のチルノをとても好いていた。いつものオテンバな調子がこの頃だけは見る影もなくなる。そのギャップがなんとも可愛らしいのだ。

「ううー!」

 チルノは恥ずかしさのあまりに顔を真っ赤にして、三人の好奇の視線から逃げるように、大妖精の背中に隠れた。その仕草がまた可愛くて三人ともはやし立てる。大妖精も止めたりはしない。少しの間、大妖精を壁にした鬼ごっこのような体になっていた。

「けど、何でママなの?」

 ミスティアが改めて聞くと、リグルも橙も、同じく答えを求めた。

「えっとね、レティと約束したの」
「約束?」
「ママになってチルノちゃんの面倒を見るって」

 お嫁さんになった事はやっぱり伏せておくことにした。今年の冬、レティが帰ってきたときに二人で一緒に宣言しようと。
 皆に結婚を祝福されながら、仲むつまじく手を取り合う二人――
 思い描いた光景にぽーっとしていると、リグルが水をさした。

「ふぅん。けど、ママって何をどうするの?」

 え、と大妖精の首がかたむいた。答えようとしたが、言葉が出てこなかった。正直なところよく分からない。子供と一緒に手を繋いで笑っている……、そんな曖昧なイメージはぼんやりと浮かぶけれど。
 チルノを含めたほかの皆も似たりよったりで、しばらくの間、あーだこーだとそれぞれのお母さん像を述べ合う。なんのかんので、いつもの気楽なお喋り。明るい午後の日差しを浴びながら、湖を渡る風に、ぺちゃくちゃと話し声を飛ばした。
 話が手詰まりになってきた頃、そうだ、と橙が手を叩いた。

「紫様なら知ってるかも」

 おお、と皆が橙に注目した。八雲紫と言えば幻想郷の大賢者。何でも知っているに違いないのだ。式の式たる立場を利用して、答えを授かってきてくれるのか、と期待した。

「聞きにいってみる?」
「え!?」

 リグルとミスティアが、ぎょっとした。橙にはさておき、並の妖怪にとって紫は雲の上の存在である。猫にとっての虎だとか、カピパラにとってのヒグマだとか、そういう相手なのだから気楽に会える相手ではない。というかできれば会いたくない。
 けれど大妖精の反応はだけ違った。

「私、いく!」
「えええ!?」

 またまたリグルとミスティアが、そして今度はチルノまでもが仰天する。

「紫さんなら絶対知ってるよ! どうやったら良いママになれるのか私知りたい!」

 良いママになる事はすなわち、良いレティのお嫁さんになる事なのだ! 熱にうかされた激しいその思いが、普段の控えめな性格を吹き飛ばして、橙にぐいぐいと詰め寄らせる。

「う、うん」

 その迫力にいささか腰を引きながら、橙が頷く。

「あ……でも勝手にマヨヒガに友達を連れて行ったら怒られちゃうかなぁ。ちょっと紫様にお話してくるから、待ってて」
「うん!」

 橙はぴょーんと跳ねて、どこかへ消えた。
 しばらくの間4人で遊んでいると、橙がどこからか帰ってきた。その顔には、良い知らせをたずさえていた。

「えっとね、博麗神社で待っててだって」

 それが紫からの伝言だった。
 大妖精の顔にパァっと花が咲いた。

「それって大ちゃんだけ?」
「どうだろ。それは何にも言われなかったけど。でもその方がいいかもね」

 リグルもミスティアも、できれば会いたくないと思っていたようで、それがいいそれがいい、とせわしなく頷いたのだった。
 ならば早速、と大妖精が神社に向かおうとする。
 するとチルノがその大妖精の服の裾を掴んだ。

「ママ……」

 心配してくれているのだろう。もしかすると、置いてかないでということなのかもしれないが。

「大丈夫だよチルノちゃん。皆と遊んでてね」

 チルノの手をそっと撫でてやる。
 3人にチルノを預けて、大妖精は飛び立った。
 大賢者たる八雲紫にお母さん指南を受けられるのだ。これ以上ありがたいことはない。
 興奮さえ感じながら、意気揚々と青い空を駆け抜けた。






「寄り合い所じゃないわよ、うちは」

 午後茶の時間だったらしく、霊夢は縁側に腰かけてボーっと空を眺めていた。大妖精の話を聞いてブチブチと文句は言うものの、いそいそと茶を用意してくれる。なんだかんだで世話好きな霊夢に、大妖精はどことなく親近感を覚えるのであった。

「おいなんだよ霊夢。私にも茶をくれ」

 側で寝転がっていた魔理沙が口を尖らせた。

「飲みたきゃ自分でついできなさい」
「なんで大妖精だけ」
「あんたは客でもなんでもないでしょ。勝手に忍び込んだネズミだわ。毎日毎日……」

 緑茶をすすりながら、仲良しだなぁ、と益体のない感想を抱く。喉に流れ込んだ暖かい茶が、胃に溜まっていた緊張を少しだけ癒してくれた。自分はこれから大妖怪八雲紫と対面するのだ……。

「しかしなぁ、私は止めたほうがいいと思うけどなぁ」

 急須と湯のみを取ってきた魔理沙が、縁側に尻を下ろしながらいった。

「ママになりたいのはいいとして。紫に教えてもらうってのはなぁ」

 どうやら霊夢も同じ意見らしく、茶をすすりながら、ううむと喉を鳴らした。

「紫は胡散臭い。人を煙にまいて悦に入るようなとこもあるし」
「適当におちょくられて泣きを見るだけかもしれないぜ」
「そ、そうでしょうか」

 世間一般の評判はさておき、橙の曰くでは、おっかないけど実は優しくて聡明な方、という事なのだが。二人のあんまりな辛口評に、大妖精はなんと答えていいやらわからない。

「そもそもお前、紫がお母さんってのもどうなんだ」

 手にもった湯のみに茶を注ぎながら、魔理沙がカカカと笑った。

「あいつのどこにそんなガラがある。そりゃま、年だけはママどころかオバアチャンかもしれんけど――」

 魔理沙の背後から、どこからともなく白い長手袋をした腕が伸びてきて、その首をキュッと絞めた。

「うひゃあ!? って熱! あっつ!」

 驚いた拍子に注いでいた茶が手にかかったらしい。危うく湯のみをおっことしそうになっていた。

「壁に耳あり障子に目あり、八雲紫はどこにあり?」

 どこからともなく、オドロオドロしい声が漂ってくる。
 大妖精がぎょっとしていると、魔理沙の首をしめていた腕がどこかにしゅるしゅると引っ込んでいった。不気味な光景だった。そして今度は、大妖精の前の空間がミョウンと奇妙な音をたてて裂ける。

「ごきげんよう」

 その隙間から、紫紺のドレスに身を包んだ金髪美人が現れて、すとんと庭に足をついたのだった。不思議な形の日傘を構えた、とても落ち着いた物腰の女性。身長は自分の倍ほどもあろうか。
 この人が八雲紫に違いないと、大妖精はすぐに分かった。体の内に秘められた大妖気が目には見えない波動となってありありと伝わってくる。

「は、初めまして!」

 大妖精は立ち上がって、ぺこりと頭をさげた。

「こちらこそ」

 丁寧な声が返ってくる。その柔らかい声の響きに、ふと、大妖精はレティと同じ香りを嗅いだような気がした。

「紫め。びっくりさせやがって」
「ふふ。お口に気をつけないと、焼けどするわよ?」

 ところが魔理沙に向けられた言葉には、今度は風見幽香のような圧力がある。その落差が大妖精を戸惑わせた。いったいどういう人なのだろう……。

「貴方が大妖精さん?」
「は、はい」

 紫の視線が、足の先から髪の毛の先までゆっくりと大妖精を撫でていた。直後に紫が可愛らしく微笑んだからか、それほどいやらしい感じはしなかった。

「随分と小さなママね」

 大妖精は照れ笑いを返した。

「いつも橙と遊んでくれてありがとう」
「こ、こちらこそ。橙ちゃんのおかげで紫さんに会うことができて……」

 紫が大妖精の隣に腰を下ろす。肩と肩が触れ合うほどの距離で、ふわりと甘い香りがした。大妖怪と隣り合っているわりにはそれほど恐怖心は無かった。やはりどこかにレティと似た雰囲気がある。どこか、母性を感じるのだ。霊夢や魔理沙が言っていた像とは、全く違う。ちなみにその二人は、茶をすすりながら事の成り行きを菓子にしている。

「それで、良いお母さんになりたいのですって?」
「はい!」

 てっきり、資格審査みたいなものがあってあれこれ聞かれるのかと思っていた。
 けれど、紫はただにっこりと笑って、

「偉いわね」

 と大妖精の頭を撫でてくれたのだった。それは優しい手つきで、大妖精はつい猫のように目を細めてしまった。

「絶対なんか企んでるぜ」

 なんていう魔理沙の言葉はもう耳には届いていない。八雲紫に教えを授かれるのだと思うと、胸がわくわくした。
 だが、

「でも、ごめんね」
「え?」
「貴方が目指すべきママは、私には教えて上げられないの」
「え……どういうことですか?」
「私は妖怪。貴方は妖精。それぞれに生き方と価値観がある。私が正しいと思う教育も、貴方達にとってはそうではない事もある。有用、という意味では、私よりもむしろ里の上白沢慧音を訪ねたほうがいいかもしれない。人との共存に視点を置いた考え方を、教えてくれるでしょう」

 大妖精には紫の言わんとする事が分からなかった。ただ、失望の影がだんだんと近づいてくるのだけは分かった。
 けれど、紫はかげりかけた大妖精の心に光をさしてくれた。

「せっかく私を頼ってくれたのにそれだけでは悪いものね。だから一つだけ、ママにとって一番大事なものを見せてあげましょう」
「は、はい! ありがとうございます! それは何ですか!?」

 大妖精は胸もとにぎゅっと拳を握って、紫に迫った。
 その真摯な態度が、紫には好ましく思えたようだった。機嫌良さそうにピンと指をたてた。

「それはね。お乳よ」
「お乳、ですか?」

 聞きなれない単語だった。なんとなくおっぱいが連想されて、自分の平らな胸を見下ろす。

「見せてあげる」

 紫はおもむろにドレスの上着をたくし上げ、片方の乳房をむき出しにした。豊かな肌色が拍子にぽよんと一度弾む。

「ぶぅぅぅっ!!」

 魔理沙と霊夢が茶を噴出した。

「ちょ、ちょっと何汚いもの放り出してんのよ! さっさとしまいなさいよソレ!」
「痴女だ、痴女がでたぜ」

 顔を引きつらせながら、けれどそのくせ二人とも紫のおっぱいに釘付けになっていた。大妖精もまた、

「ほわぁ」

 と、見惚れていた。さざ波のような己の胸とはまったく比べ物にならない膨らみだった。まるで幻想郷がそこに詰まっているかのような、大きくて、そして柔らかそうなおっぱい。ドレスの上からでもその大きさは目についていたけれど、生でみると段違いの迫力であった。ちょぴんと起立した、色の薄い小さな乳首がなんとも可愛らしい。

「静かにしなさいな。別にふざけてるわけじゃないのよ」
「いきなりそんなもの取り出しておいて何が」

 圧倒されているような、霊夢のうわずった声。魔理沙は有り得ないものを見てしまったように目を真ん丸くしている。

「まぁちょっと大人しく見てなさい。よいしょ」

 紫は、己の手で乳房の両脇を挟むようにして、ピンク色の乳首を突き出させた。
 そのまま何度か、くっくっと手の平で乳房を押す。そのたびに、もにゃんもにゃんと乳がうねる。
 誰かがごくりと唾を飲んだ、その時である。
 にゅるん、と、紫色のゲル状の液体が乳首の先端に染み出した。数ミリほど盛り上がっているにも関わらずそれは滴り落ちることもなく、そこそこの粘性を備えているようだ。

「うあ……」

 魔理沙が引きつった声を上げた。

「紫汁だ……」

 霊夢もまた、禍々しいものを見るように、顔を強張らせている。
 
「これがお乳ですか?」

 と、一人平然として大妖精。紫に好印象を抱いている大妖精には二人の反応が不思議だった。

「そう。人間の母親が赤ちゃんにおっぱいをあげるのは知っているでしょう。あれと似たようなものよ。ただしこれは、私の妖気を凝縮したもの。もっと言えば、妖力そのものと言ってもいい。妖怪としての私の情報すべてが含まれているの」
 
 細かい話は理解しきれなかったけれど、大妖精は紫のおっぱいに顔を近づけて、紫色の粘液をまじまじと見つめた。控えめなピンクの乳頭からちゅるりと湧き出たその液は、深く澄んだ紫をしていて、小さな宝石のようにも見える。素肌の甘い香りはいっそう強くなったけれど、液の匂いはしなかった。美味しそうだな、と思った。

「あのう……飲んでもいいですか?」

 うげぇ、と外野の二人が餌付いた。
 紫は少し申し訳なさそうに首を降った。

「ごめんね。私はおっぱいをあげる相手を一人に決めているの。おっぱいをあげるって言うのはね、これは特別なことのなのよ」
「特別……?」
「お乳には私の妖怪としての情報すべてがつまっているのよ。これを飲む相手は、私の妖力だけじゃなく、潜在的な力や知識、その全てを受け継ぐ事になる。そっくりそのまますべてがコピーされるわけではなくてそのあたりは少し曖昧なのだけれど……。とにかく授乳した相手の中に、自分の分身が宿ると思っていい。人間達が子孫を残すために行う事を、私達妖怪はこの授乳によっても行えるの」

 大妖精は紫の言っている事を精一杯理解しようとした。紫はその様子をみてくすくすと笑った後、パチンと指を鳴らして、呼んだ。

「いらっしゃい。藍」

 中空に隙間が開いて、藍が落ちてきた。危なげに縁側に着地する。所帯じみた割烹着を着込んでいて、家事の最中だったのだろう。

「もう紫様ったら。いきなり隙間に吸い込むのは止めてくださ――って、うわぁっ、何をしているのですかハレンチな!!」

 紫の乳房を目にして仰天する。またそれを覗き込んでいる大妖精達を見やって、いったいどういう状況なのか、理解しかねているようだった。

「騒がないの。さぁおっぱいを吸いなさい」

 言われて藍は、また仰天する。

「へ!?」
「しばらくお乳をあげてなかったわねぇ」
「いやいやいや! ここで、ですか!?」
「博麗神社なら多少無防備になってもそれほど危険じゃない。霊夢もいるし、ね?」

 目配せをされて複雑な顔をする霊夢。待ち合わせをここに指定したのは、そういう意図があったのか、と大妖精は感心していた。

「あの、そういう事ではなく……」

 チラリチラリとギャラリーに視線をやる。当たり前だが、見られるのが恥ずかしいのだろう。けれど紫は容赦しなかった。

「遊びでやってるんじゃないのよ? 橙のお友達に、お母さんのあり方を示すためにやるんだからね。私の顔に泥を塗るつもり?」
「そんなぁ」
「さぁ、いつまで私にこんな恰好をさせておくの」

 強引なもの言いにまけて、藍は耳をぺたんとしおれさせながら、しぶしぶ膝をついた。橙がへこたれた時の様子にそっくりで、大妖精は笑ってしまいそうになっていた。藍だって大妖怪なのに。

「えと、私はどうしたら」

 藍が姿勢に困る。紫はぽんぽんと膝を叩いて、藍を抱きとめるように腕を構えた。
 藍は紫よりも体が大きいのだ。大丈夫なのかな、と大妖精が首をかしげる。けれど紫は、母親が赤ん坊を抱くような形で、片手で軽々と藍の体を抱きとめた。すごいなぁ、とそんな所に感動してしまう。
 藍は目の前に迫った紫のおっぱいに、頬を染めていた。
 紫はどこか嬉しそうに、笑いかける。

「さぁ、久しぶりでしょう。ゆっくりお吸い」
「うぅ」

 藍の表情はぐずっている時のチルノによく似ていた。
 小さく呻いて、口を開く。ゆっくりとその唇が紫の乳首に近づいていく。そうして、乳首の先端が藍の口の中に消えていく。淡い乳輪にかっぷりとかぶりついた。紫のおっぱいと藍の口が繋がった。
 周囲の注目を忘れようとしているのか、藍はきゅっと目を瞑っている。紫はそんな藍の横顔を見守るように見つめている。
 藍のほっぺたが、くむくむと、凹んだり元に戻ったりを繰り返し始めた。今まさに、紫のお乳が藍の体内に流れ込んでいるのだ。大妖精には、神秘的な行為を目の当たりにしているような、そんな心もちだった。

「ごめんなさいね。ちょっとの間だけ、静かにしておいてね」

 その紫の言葉が自分達へ向けてのものなのだと、少し遅れて三人は気がついた。それぞれに顔を見合わせる。
 霊夢と魔理沙はどことなく居心地悪そうな表情で茶をすすり、黙って明後日の方向を向いた。大妖精だけは、じっと紫の授乳を見つめている。
 少しずつ藍の体が弛緩し始めていた。強張っていた四肢が脱力して、紫の腕や膝に身を任せていく。表情からも羞恥の色が無くなって、心地よい夢をみているかのよう。口元と喉だけがせわしなく動いていた。紫は藍のそんな変化に微笑み、お乳を飲みやすいようにか、少し体を前に傾けて、またぎゅっと藍を抱きしめる。いつのまにか、紫の口から子守唄のような囁きが流れていた。
 大妖精はそんな二人に見惚れた。紫と藍がまるで一つの生命になっているような、これこそが母と子の姿なのか。ほぅと溜め息をついて、空を見上げる。自分もこんな風になりたい。そう心から思った。
 ふと横目に気がつく。霊夢は明後日の方を眺めているけれど、魔理沙は少し違っているようだ。時々チラチラと紫と藍に視線を向けている。見ていたいけどちょっと恥ずかしいというか。まるで羨ましがっているようだ。大妖精はそう感じた。チルノ以上にオテンバな魔理沙の、隠れた一面を垣間見たようで、可笑しかった。






 霊夢が3度目のお茶のおかわりをする頃、授乳は終った。魔理沙は結局、1度もおかわりをしなかった。空を見上げたり紫のおっぱいをチラ見したり、始終もぞもぞとしていた。

「もうお腹いっぱい?」

 体を起こした藍はどこかぽわわんとした顔でこくりと頷いた。紫はなれた手つきで、藍の唇の周りを拭いてやっていた。唾液で濡れていたようだ。

「あの、家事が残っていますので……」
「ええ。先にお帰り」

 藍はどことなく名残惜しそうなそぶりを見せながら、中空に開いた隙間に飲まれていった。もっと甘えていたかったのかな、と大妖精は想像する。普段橙に聞かされる凛々しい藍の姿とは、まるで違う。お母さんにはそういう力があるのかもしれない。大妖精はなんだか素敵な気持ちになっていた。

「紫さん。私、感動しました」
「ふふふ。それはよかった」

 紫は自分の乳房についた藍の唾液をぬぐって、ドレスを直しておっぱいをしまった。

「妙なものを見せられたわ」

 霊夢が、茶のみから昇る湯気を追いながら、呻く。

「あ、ああ。まったくだな」

 とってつけたような調子で、魔理沙が口をそろえた。
 紫は特に気を悪くした様子もなく、姿勢をくずしてリラックスしていた。軽々と藍を抱いていたように見えても、それなりに疲労はあったのかもしれない。

「けど、私……」

 大妖精は己のささやかな胸に手をあてた。手の平に返ってくる弾力も微々たるものだ。

「おっぱい出るかなぁ」

 しょんぼりとした大妖精の姿に、紫がクスクスと笑った。

「大丈夫。胸の大きさは関係ないのよ。妖力が源なのだから、要は出し方をしっているかどうか」
「教えてもらえますか?」
「もちろん。けれど出るかどうかは貴方しだい。愛情や、他人を思う気持ちがなければ出せないもの」
「愛情、ですか」

 愛情とは何なのか大妖精には良く分からない。けれど、チルノやレティを考える時、心にほっこりとわいてくる暖かさがある事は知っている。これがきっと他人を思う気持ちなのだと、大妖精は信じた。

「大丈夫です!」
「よろしい」

 紫は頷いて、立ち上がった。

「貴方も立って」
「はい」

 そして向かいあう。
 
「ちょっと恥ずかしいかもしれないけれど、服を捲り上げてくれる? 私がやったみたいに、おっぱいを見せて」
「わ、分かりました」

 ぺろりん、とおっぱいを露出させる。小さな丘に桜の蕾がなっていた。コンプレックスがあるわけではないけれど、紫の大玉を見せられた後では少しばかり恥ずかしさがある。
 ちなみに霊夢と魔理沙は、先ほど紫が愛情がどうのと口にした時からまた胡散臭げなしかめツラをしていたが、もう何も言うまいと思ったらしい。縁側に座ったまま、お茶を片手に事の成り行きを眺めていた。






「さぁ、いよいよ仕上げよ」

 という段階にようやく達した頃には、もう空が赤らんでいた。霊夢は我かんせずで境内の箒がけを始めて、それももう終ってまた縁側に座っていた。魔理沙は持ち合えの好奇心を発揮して、二人の訓練にずぅっと付き合っていた。

「いいかしら? 貴方は丹田からおっぱいまでの霊脈を一つなぎの道として感じられるようになった。あとは、丹田にある妖力をおっぱいに向けて一気に押し出すの」
「わかりましたっ」

 長時間の特訓で疲労は溜まっていたが、気合は十分。いよいよお乳を出せるかもしれないのだ。

「がんばれー」

 と、霊夢の気が抜けた応援。
 魔理沙と紫は、大妖精を囲んで見守っている。

「いきます」

 おへその下に手をあてて、じっと目を瞑る。深呼吸を繰り返す。息を吸う度に、少しずつ全身の妖力を丹田と呼ばれる部位に集中させていく。だんだんと暖かくなってくるそれを、大妖精ははっきりと感じ取れるようになっていた。今までは意識していなかった、自分の霊的な中枢部位である。そうして次は、霊脈を開いてゆく。丹田を出発点として、脊柱をなぞるようにして胸の高さまで
経路を作る。背面から胸骨部に体内を貫通させ、そこで『溜まり』を作ってあとは乳房へたどらせる。乳首の先端まで道が開いた。

「今、霊脈を開いたと思います」
「では丹田の妖力を、できるだけ一気にながしこんで」
「はいっ」

 寄せて返す波のタイミングを計るように、大妖精は押し出す瞬間を探る。波が引いたその時を見計らって一気に後押しをするのだ。そうすれは波はより大きくなる。

「そういや妖怪の母乳の色ってのは、みんな紫色なのか?」
「個人個人色は異なるわ。その人が最も身近に感じる色が現れる。イメージカラーみたいなものね」
「それで紫色か。お前にぴったりだな」
「この娘は、緑か水色かしら」

 緑だといいな、と思う。大妖精は自分の髪の色が好きだった。草木と同じ、気持ちのいい色。雪の白も好きではあるけれど。
 レティとチルノの顔が脳裏に浮かんだ、その瞬間であった。
 ――今だ!
 体の奥にぐっと力を込める。丹田から妖力が吹き上がるのが分かった。それは体を駆け巡り、しだいに乳房に集まっていく。胸の辺りがほわんと暖かくなった。両手の指でわっかをつくり、胸に当てる。そして、乳首の先端から弾幕を放つイメージを描きながら、えいっ、と胸をしぼった。
 ――出ちゃう!
 放出感の確かな高ぶりを感じた、その直後である。
 ぴゅるっ。
 液体が放出される感覚が、乳頭に奔った。

「おお! 出た!」

 魔理沙のはずんだ声。何時の間にか目を閉じていたらしい。ゆっくりと瞼を開くと、魔理沙と紫が自分の胸をジッと見やっていた。

「あら。予想とは違う色ね」
「え?」

 胸元を見下ろす。すると乳頭からたしかにお乳が湧き出している。けれどその色に、大妖精は少しだけ驚いた。

「紫色……」

 正確には、紫に白を濁した柔らかい感じの白紫色である。

「ちょっと意外ね」

 紫が首をかしげる。

「そうかわかったぞ。紫に汚染されたんだ……」

 魔理沙の頭を紫がこつんと小突いた。

「いてっ」
「大妖精が私のお乳を飲んでいたのなら色が染まる事もある。私の強い妖力に影響されてね。けれどそんな覚えはないわ」

 不思議な色の自分のお乳を見つめて、大妖精はふとレティの顔を思い浮かべていた。レティの色と、どことなく近しいようにも思える。

「まぁそれはさておき」

 紫の声に思考を中断させられる。にっこりと笑いかけて、頭を撫でてくれた。

「やったわね。お乳」
「は、はい!」

 藍にお乳を上げていた紫は母性を体現したような姿だった。自分もそうなれるのだと思うと心から嬉しい。これで一歩、立派なママに近づいたのだ。

「えっと、どうしようかなこれ」

 おっぱいから湧き出た白紫の液体。自分が始めて出した母乳である。ふき取ってしまうのはもったいなかった。

「あの、魔理沙さん」
「ん?」
「……飲みます?」
「はぁぁぁ!?」

 魔理沙は大口をあけながら後ずさりした。紫が藍にお乳をあげていたとき、魔理沙は羨ましそうにそれをみていた気がしたのだが。

「の、飲まないよ! バカ!」

 照れているようにも見えるが、ともかくきっぱりと断られてしまった。
 紫がちょっと顔をしかめながら、言った。

「誰にかれもにあげるのはよくないわ」
「そうなんですか?」
「お乳をあげるっていうのはね、愛情を伝える以外に、もう一つの意味があるの。大切な事だからよく聞いて」

 紫はとても真剣な顔をしていた。魔理沙までもが、かしこまって耳を傾ける。

「命を差し出す、という事でもあるのよ」
「命を?」
「お乳はね、妖力を染みださせただけの液体ではないの。これは妖力そのもの。つまりね、おっぱいから出ているこの液体は霊脈をつうじて丹田にある貴方の霊的中枢と直結している。言い換えれば、大事な部分がそのまま体外に露出しているの。分かる?」
「え、ええと……」
「おっぱいをもらっている子は、お乳を通じてお母さんの中枢に直接触れる事ができるの。つまりね、もし悪意を持っておっぱいに吸い付いたなら……容易に相手を殺す事もできるのよ。おっぱいの主がたとえ私だったとしてもね」

 大妖精は息を飲んだ。そんな危険があったとは。

「だからこそ純粋に相手を思いやる奉仕の気持ちがなければできないの。うがった見方をするのなら服従とも取れる。もらうほうは相手の力を受け取ってより強くなれるけれど、あげるほうはただ命を危険にさらすだけ」
「いろんな妖怪の乳を吸いまくったら、めちゃくちゃ強くなれるのか?」

 魔理沙が聞いた。

「理屈ではそうよ。けれど一度の授乳で全てが伝わるわけじゃないし、無理やり奪われるような状態ではお乳はでないわ」
「ふぅん」
「けれど昔……外の世界の話だけれど、それを成しえた恐ろしい妖怪がいたわね」
「ほう」
「乙女妖怪を捕えては妖術で意識を操ってお乳をださせたのよ。狡猾なやつだった。自分が勝てる相手だけを選りすぐって、少しずつ力をつけていったの。このままではまずいと思って、私は急ぎ戦いを挑んだ。それでもすでに危ういところまできていたわ。けれど最後には奴自身に妖術を反転させて、私が全部乳を吸い取ってやったけどね」
「それって……お前の一人勝ちなんじゃないのか? そいつが集めたのを全部横取りしちまったんだろ」
「命をかけた戦いに勝ったのよ? そのくらいの得がないと。ま、たしかにあのおかげで私の妖力はかなり強まったけれどね。手ごわい相手だったわ、乳輪大納言」
「にゅうりんだいなごん……」

 一つ牡丹のおっぱいお化けの姿が、大妖精の頭に浮かんだ。

「お乳をあげるのが特別な事だって、よく分かりました」

 大妖精は気をとりなおして言った。

「よかったら紫さん。飲んでくれませんか」
「え……?」
「大切なことを教わったお礼です。それに私、紫さんを尊敬してます。紫さんみたいに優しいお母さんになりたいです。信頼してますし、信じてます。上手くいえないけど……飲んでほしいです。私みたいな弱っちい妖精のおっぱいなんか飲んでも、紫さんの力にかき消されちゃうかもしれませんけど……」
「ううん。上書きされるとか、かき消されるとか、そういう性質のものではないの。純粋な足し算よ。相手には差し出した者の一部が宿る。お母さんにとってはその絆の深まりこそが最大のメリットね」
「愛情、ですね」
「ふふふ、その通り。それを絆ととらえるか奪われたととられるかは様々だけど。けれど、そうまで言ってくるのなら、いただこうかしらね」
「は、はい!」

 大妖精は嬉しかった。紫ほどの妖怪の体の中にほんの少しであれ自分が宿る。そうすれば自分もまた紫のような立派な者になれるかもしれないと思う。あるいは紫のお乳を飲みたいなという気持ちの代替行為かもしれなかった。
 二人は向い合って、紫が膝をついた。それで丁度大妖精のおっぱいと紫の顔の高さが同じになる。

「ではいただくわね」
 
 大妖精にとて初めての授乳。己の乳首に近づいてゆく紫の唇から目が離せない。大妖精の小さな乳輪は、かぶりつくまでもなく小さなおちょぼ口で吸い付くだけで唇に覆われてしまった。初めて他人に触れられる乳首。背筋にぴりりとした電気が走った。喉を鳴らさないように耐える。紫がちゅうちゅうと吸いはじめた。思ったよりも強い力。乳首が取れてしまいそうにも感じる。思わず大妖精は紫の頭を抱きしめていた。

「あ……ご、ごめんなさい、つい」
「あむ。いいのよ」

 そう言って、紫もまた大妖精の腰を抱いた。
 ドキドキする。少し形は違うけれど、先ほどの紫と藍のような姿に、自分もなれたのだ。
 自分の妖力が流れ出していくのが分かる。奪われる、という表現もわからなくはない。けれど、大妖精はむしろ恍惚としていた。流れだした妖力は紫の体にしみ込んで、その体の一部となる。己の体を分け与えたのだ。紫が自分の半身となったような、深い情を抱いた。大妖精の目が、とろんと惚ける。これが母として子にお乳をあげるという事なのだろう。紫は本当にありがたい事を教えてくれた。畏怖の尊敬と近しい愛情の間で揺れながら、抱きしめた紫に頬擦りをしてしまっていた。

「ほんと、おかしな日だわ」

 ひたすら黙って茶を飲んでいた霊夢が、ぽつりと呟く。
 魔理沙はやっぱりどこか羨ましそうな顔をしていた。






 授乳が済むと、霊夢はやっと終ったかとうんざりした顔で、

「さぁさぁ用事がすんだならいいかげん帰ってよ。うちは寄り合い所じゃないんだからね!」

 と、ハタキで蹴散らすように言いつけたのだった。

「ああん。余韻に浸っていたかったのに」
 
 大妖精も同じ気持ちだった。乳首にはまだ吸われた感触が残っていて、頭もぼんやりしている。できればもう少しの間、紫と抱きしめあっていたかった。紫が代弁してくれたことが、なんだか嬉しい。

「けれど私、お乳をもらったのだから大妖精の娘になっちゃったのね」

 ふざけた調子で紫が笑う。

「え、いや、私はお礼のつもりで」
「ふふふ。お乳には色んな意味があるからね。さて、また何かあったら呼びなさい。頑張って良いお母さんになるのよ」

 現れた時も唐突だったが、去り際も唐突らしい。紫は隙間を開いて、その中に足を踏み入れた。消え際、隙間まら突き出た手だけを降って紫の声が響いた。

「じゃあね。ママ」
「は、はい!」

 大妖精の返事を吸い込んで、隙間は跡形もなく消えた。






「けれど大妖精。お前はすごいんじゃないのか。あの八雲紫に乳を飲ませたんだぜ」

 博麗神社から一緒に追い立てられて、魔理沙と大妖精の帰路。二人とも魔法の森に帰るのだから道中の空を共にした。

「飲ませただなんて。紫さんが私のお礼を受け取ってくれただけですよ」
「そうだろうけど、見かたによってはお前さんは紫のママになったんだぜ」

 幻想郷の夕焼け空に、魔理沙の可笑しげな笑い声が響く。一迅の夕風がその声を運んで、カラスが返事をよこした。見下ろす先には、はてまで広がる魔法の森が不気味な深い緑を敷いている。

「ところで、あの、さぁ」

 風にたなびく金髪を押さえながら、魔理沙がぼそぼそと言った。

「はい?」
「いや、研究してみたいっつーか。体験してみたいというか。……ほら、私って探求心旺盛だろ?」
「……何の話ですか?」

 要領を得ない。魔理沙は夕陽が眩しいのか、顔をしかめている。赤い光をあびて顔が真っ赤だ。
 しばらく風の音に耳を澄ませた後、妙にぴんとした姿勢で箒にまたがりながら、言った。

「お、おっぱい。飲ませてくんないか?」

 大妖精の目が点になった。
 魔理沙はそっけなさの中に照れがにじみ出しているような、そんな様子で

「や、けっこう危険もあるみたいだし、嫌ならいいんだぜ。ただちょっと、興味があるっつーか、私ってほら、一応魔女のはしくれだし……」

 妙にカクカクとした身振り手振りをつけながら、あれやこれやと口にする。
 大妖精は吹きだしてしまった。

「な、なんだよ!」
「いえ……」

 博麗神社で魔理沙が羨ましそうにしていると感じたのはやはり当たっていたに違いない。
 魔理沙という人物の隠れた一面を知れるように思えて、大妖精は胸がときめいた。

「いいですよ」
「じゃ、じゃあ私の家にきてくれるか。そこで」
「わかりました」

 それから家に着くまでの間、これで魔力がパワーアップするかもしれない、新しい魔力の使い方を発見できるかもしれない、などと、またあれこれやと自分が乳を吸う理由をまくしたてていた。






 魔理沙は大妖精を寝室に招き入れた。ほかの部屋は、家というよりむしろ全体が物置で、あまりの物の多さに大妖精を驚かせた。寝室だけは比較的かたずいているようだった。聞くと、普段あんまり使わない部屋だから、という事らしい。寝るときはたいてい研究途中に机につっぷし、あとはソファーで寝る。勉強熱心だなと大妖精は感心した。お乳を吸うのも案外本当に探求心なのかもしれない。

「天狗のやつに覗かれたりしてないだろうな……」

 寝室に入った魔理沙は、まず窓際に駆け寄った。外の様子を注意深く探った後、シャッとカーテンをしめる。

「よし。これでこの部屋は外からは見えない」

 窓はそれ一つだけだ。魔理沙はさらに用心して、部屋の入り口の鍵まで閉めた。
 大妖精はベットに座って、せわしなく動く魔理沙を眺めていた。

「さ、さて」
 
 帽子を置いて、エプロンをはずす。白黒魔法使いから、黒の魔法使いになった。金髪が映えて、恥ずかしげな表情とあいまって淑女な雰囲気。
 
「じゃあどうしよう。えと、抱きかかえるには私は重いよなぁ」
「うん。紫さんと藍さんみたいにはちょっと」
「ベッドに寝っころがるか」

 二人で横になり、そして向い合う。魔理沙が芋虫みたいにずりずりと足元の方向に下がって、口元の高さを大妖精の胸のあたりに合わせた。

「このまま私が魔理沙さんの頭を抱きますね」
「お、おう。頼むぜ」

 大妖精はぺろんと上着をめくった。小さなおっぱいが、魔理沙の目の前にさらされる。
 先ほどと同じ要領で、丹田に妖気を集中させていく。今度は魔理沙の事を考えながら、えいっと妖気を押し出した。
 ぴゅるっ!
 少し慣れてきたのか、あっさりとお乳は出た。大妖精の小さな乳首に、玉を作る。やはり白紫色だった。

「この色が好きなのか?」
「うーん、自分では緑色が好きなつもりなのですけど」
「ふぅん。まぁそれじゃ、いくぜ?」

 上目遣いでチラリと大妖精にうかがった。大妖精は微笑んで頷いた。
 魔理沙の顔が、大妖精の胸に吸い込まれていく。かぷり、と大妖精のおっぱいを魔理沙がはむはむした。遠慮しているのか、吸う力が弱い。これでは乳が流れない。

「もっと強く吸わないと」
「ん……」

 頬が凹むくらいに吸引を強めた。敏感な乳首が、吸われる感触をつぶさに伝えてくる。妖力が流れ出しはじめた。
 魔理沙も分かったようで、さらにおっぱいに吸いつく。
 静かな部屋に、ち、ち、ち、と授乳の音が響いた。時折、森の木々が風にざわめいて、その音が窓の隙間から忍び込んでくる。それ以外は、静かな部屋だった。
 魔理沙の匂いのする部屋で、二人きり。ランプに灯した火が、天井や壁に虚ろな影を作っている。壁掛け時計の秒針の音が、かすかに聞こえた。
 大妖精は胸元の魔理沙を見下ろす。少し汗ばんだ髪の匂い。魔理沙は目を瞑って、一心不乱に乳を吸い続けていた。ふと愛おしさを感じて、その顔を抱きしめる。魔理沙も答えて、大妖精の小さな体を抱きしめた。
 大妖精も目を瞑った。きゅうきゅうと吸われる乳首の感覚以外もう何も感じなかった。






 壁掛け時計の長針が90度近く角度を変えるころ、魔理沙は授乳を終えた。

「お腹いっぱいですか?」

 微笑んで、紫のまねをする。魔理沙はぽわんとした表情で、小さくコクンと頷いた。
 大妖精もどこか頭が惚けていた。妖力を吸われる影響なのかもしれないが、授乳をしているとだんだんと頭がぼーっとしてくる。お乳を吸っている相手の事だけが心一杯に広がるのだ。ただただ愛しい。
 今、余韻を邪魔する者はいない。
 魔理沙の顔を抱きしめて静かな呼吸に身を任せた。魔理沙も何も言わずにそれを受け入れた。
 互いの体の温かさと、チクタクと鳴る壁掛け時計の音だけが、二人を満たした。
 二人の意識が溶け合って混ざるような、曖昧で心地よい感覚だった。

「私さぁ。家出したんだよ」

 しばらくして突然、魔理沙が告白を始めた。夢を見ているようなそんな声。大妖精は驚く事なくそれを受け入れた。
 答える代わりに、魔理沙の頭に優しく頬擦りをした。

「それである人に弟子入りして、育ててもらったんだ。私に魔法を教えてくれた人でもある。まぁ人間じゃないんだけどな。それで……その人にたくさんお乳をもらったんだ。私がこんなに魔法を使えるようになったのも、そのおかげだ。あの人の力をわけてもらったんだ」
「じゃあその人が、魔理沙さんのママなんですね」
「まぁ、そうだなぁ。里に行きゃ生みの親はいるんだけどな」
「魔理沙さんにお乳をくれたその人は、今は?」
「さぁ。どこかで元気にしてるだろ。案外近いところにいたりしてな。……その人も、髪の色が緑なんだよ」
「え?」
「それで、お前さんが紫におっぱいをあげてるんのをみて……なんだか懐かしくて」
「ふふ、紫さんが藍さんにおっぱいをあげてるときから、羨ましそうにしてましたよ」
「む……」
「じゃあ、魔理沙さんはその人が恋しくて代わりに私のおっぱいを吸ったんですね?」
「いや、まぁ……怒ったか?」
「ううん。ちょっと妬けるけど。魔理沙さんは本当はまだまだ甘えん坊なんですね。可愛い」
「う、うるさいっ」

 耳を赤くする魔理沙。大妖精はもう一度きゅーっと魔理沙を抱きしめた。






「べ、別に泊まっていってもいいんだぜ?」

 戸口で見送りながら、魔理沙はどこまでも名残惜しそうだった。そっぽを向いてそんな事を言う。

「ごめんね。チルノちゃんが待ってるから」

 いじらしい姿を愛らしく思う。そういえばいつのまにか敬語が消えかかっていた。お乳をあげたことで、新しい絆が芽生えたのだろうか。

「そっか。……あのっ、この事は誰にも言わないでくれな。ちょっと恥ずかしいぜ」
「うん。でも、またほしくなったらいつでも言ってね」
「ばっ」

 バカ、と言おうとしたのだろうか。けれど魔理沙は睨もうとして睨みきれなかったらしい。またそっぽを向いて、

「うん」

 と小さく頷いた。一瞬、魔理沙が本当の娘になったような、そんな気がした。

「チルノちゃんをあんまりいじめないでね。魔理沙さんはお姉さんなんだから」

 魔理沙は一瞬きょとんとした後、その冗談の意味に気づいたらしい。

「じゃあなんだ。私は紫の妹か? 止めてくれよ」

 なんともおぞましいというような身振りをして、笑った。

「またな、ママ」






 夜が更けてくると、あちらこちらから聞こえてくる妖精たちの囁き声もしだいに静かになってくる。いつもの寝床。チルノは眠そうに目を擦り、大妖精にしがみつこうとした。
 眠気に乗じてチルノにお乳をあげようとした。けれどチルノは思ったよりも激しく抵抗したのだった。

「チルノちゃん! ママのおっぱいを飲んで!」
「やだやだやだー!」

 一時的に赤ちゃん帰りしているチルノだが、本来は大妖精と同輩。それを思えば当然の反応ではある。その点では、自分から進んで飲んだ魔理沙のほうがよほど幼いのかもしれない。

「皆が見てるのに恥ずかしい!」

 騒ぎを聞きつけた妖精達が大勢集まってきていた。皆が寝静まろうとしていた時に言い争ったものだから、あたりの枝の妖精達に丸聞こえだったのだ。誰であってもこれでは恥ずかしがるだろう。

「もう! いいからさっさと吸うの!」

 そんな大勢の注目の中、大妖精は服をめくって乳を放り出している。ママとして、なんとしてもお乳を吸わせなければならないのだ。チルノは顔を真っ赤にして、大妖精のおっぱいから逃げまわった。
 だが最後には折れた。

「おっぱい吸わないともう一緒に寝てあげないから!」

 依然チルノはその言葉には逆らえなかったのだ。
 
「わ、わかったよう」

 チルノは顔から火を噴きながらしぶしぶ頷いた。
 さすがに少し悪い気はしたけれど、吸わせてしまえばこちらのもの。抱き寄せて、チルノの唇を自分のおっぱいに寄せる。ゆっくりと唇が乳房に吸い付いた。妖精たちに小さなどよめきが走る。チルノが恥ずかしがってはいけないと思い、人差し指を自分の口にあて、皆に向けた。妖精たちは息を飲みながら、こくこくと頷いた。
 初めこそ羞恥に顔をゆがめながらぎこちなくお乳を吸っていたチルノだが、次第にリラックスして大妖精に身を任せるようになっていく。

「……ママ」

 チルノが乳飲みの合い間に小さく呟いて、大妖精はぎゅっとその体を抱きしめた。やはりまた深い情がわいてくる。
 妖精達はそんな二人の姿に見惚れていたようだ。静まり返って、ただじっと二人を取り囲んでいる。繋がりあったまま、二人は穏やかな眠りに落ちていった。
 その翌日である。

「え? 皆も私のおっぱいを飲みたいの?」

 目の前に集った大小様々な妖精達に、大妖精は目を白黒させた。授乳行動は妖精の文化にはない。けれど、昨晩のチルノの気持ち良さそうな姿が皆を羨ましがらせたようだ。あたりの妖精が集まってきたのではないかと想うほど、行列ができていた。
 大妖精が戸惑っていると、気の早い妖精がふよふよと近づいてきた。手のひらサイズのその妖精は、服の上から胸にしがみついて、大妖精の顔を見上げて、『ダメ?』とうかがうように首をかしげた。なんとも可愛らしい仕草。

「うーん。紫さんに、危ないから誰もかれもにあげちゃだめって言われたんだけど……」

 けれど、同じ仲間である妖精たちが自分に危害を加えるとは思えなかった。そもそも集まった妖精たちの大半は、体の大きさも心も子猫のような無邪気な者達ばかりである。言葉さえ話せない。
 大妖精は覚悟を決めた。

「よぉし! これも立派なお母さんになるためよね! 皆にも私のお乳を分けてあげる!」

 大妖精が声高に宣言するやいなや、妖精達がいっぺんい飛びついてきた。それからしばらく間、大妖精は巨木の寝床で、母猫のようにもみくちゃにされながら、皆にお乳を与えていった。
 
「ダメー! ママは私のママなんだからー! 私のお乳なんだからね!」

 授乳の余韻に始終ぽわわんとしている大妖精の側で、チルノが地団駄をふんだ。初めて授乳をするときは随分と手間取ったものだが、一度してしまえば、あとは二度三度と自分から求めてくるようになっていた。

「だめよ~。みんなチルノちゃんの妹なんだからね。仲良くしなきゃいけないよ」
「い、妹?」
「チルノちゃんは力も強いしみんなのお姉ちゃんなんだから」
「へ? へ?」
「さぁ、チルノちゃんもいらっしゃい」

 妖精達と一緒にチルノを抱き寄せる。ワケが分からないという顔をしていたけれど、大妖精に抱かれると大人しくなった。






 何日か経ってひとまず授乳ラッシュは収束した。
 けれど、しだいに妖精たちの間で噂が広まって、お乳をもとめてくる者は絶えなかった。その噂は森全体に伝わりつつあるという。大妖精はてんてこまいになりながら、お乳をしぼり続けた。休む暇もないけれど、大妖精は幸せだった。一人におっぱいをあげるたび、絆が広がっていく。
  ――魔法の森には、妖精たちをたばねるひときわ大きな妖精がいる
 幻想郷が夏を迎える頃、人里ではそんな噂がまことしやかに囁かれるようになっていた。大妖精は母親指南を授かるためにたびたび慧音の元を訪れていたから、出所はそのあたりかもしれない。
 大妖精の小さな胸には、いつも何人かの妖精達が寄り添っている。






 紫の手ほどきを受けた大妖精によって、妖精の世界に初めて授乳という文化が広められた。
 一方で、他の妖怪達にとっては、授乳はそれほど珍しい行動ではない。親子の絆として、または親愛の表現して、そして時には服従や降伏の証しとして。おおっぴらにする事でもないのであまり人目にはつかないけれど、幻想郷のあちらこちらで妖達の授乳は日常的に行われているのだ。
 ここ紅魔館でも――






「フラン! 歯をたてないで。痛いじゃない」
「ごめんなひゃい。おねーひゃま」

 わざとだったに違いない。フランドールはレミリアの乳首をくわえたまま、可笑しそうな声で薄っぺらい謝罪を述べた。
 レミリアはそんなフランドールがたまらなく可愛いのだ。
 ほの暗い紅魔館の地下室。邪魔者はどこにもいない。スカーレット姉妹二人きりの部屋。
 
「ゆっくり飲めばいいんだから」

 上着をたくし上げてむき出しになったレミリアの幼い乳房。嬉々とした顔のフランドールが唇を埋めている。ベッドで妹に乳をしゃぶらせる姉。見方によっては倒錯した眺めなのかもしれない。
 薄い暗い魔法の灯り、埃のまじった匂い。んくっんくっ、とフランドールの喉が鳴った。どこまでも静かで、レミリアがぎゅっとフランドールを抱きしめれば、衣擦れの音が部屋に広がった。

「私のフラン……」

 額にキスしたささやかなその声には、あらゆる感情が篭っている。
 かつて欧州の一地方を支配したスカーレット家が、産業革命以降の急激な時勢の変化から脱落した後、フランドールはレミリアに残された全てだった。
 妹は生まれるのが早すぎた。かつて、暗い森の中、近代兵器とたいまつに追い立てられながら、レミリアは母に手を引かれて逃げ惑った。苦い記憶。母はフランドールを身ごもっていた。しかしもはや逃げきれぬと悟った母は、とっさに己の腹を裂き、まだ胎児であったフランドールを取り出した。紅にまみれたその小さな体は、手のひらで抱けるほどしかない。そしてその未成熟な命を長女レミリアに託し、自らは追っ手とともに果てた。
 レミリアはからくも落ち延び、母の代わりとなって全ての愛を注いだ。フランドールをあらゆるモノから差別した。幻想郷にたどり着いてからも、まだひどく弱々しかった妹を外に出すことが恐ろしくて、籠の中に閉じ込めた。自分の愛は狂気じみている、と自覚している。
 乳で育てたフランドールは、長い歳月の間に妖力の全てを受け継いでくれた。未成熟だった体も成長し、もともとの潜在能力に、姉の力が加わって、今や末恐ろしいくらいだ。
 けれどどうやら、姉の狂気も受け継いでしまったらしい。気が触れている、などと揶揄される事もある。自分のせいだ。困ったことではある。しかしそれはフランドールに自分の魂が宿っている証明。

「おいしい?」
「うん。お姉さまのおっぱい、おいしい」
「そう」

 姉は微笑んで、妹の全てを愛した。






「――とは言え、このままではいけない」

 と、レミリアは愚痴った。
 咲夜は主の突然の発言にも顔色一つ変えず、滑らかな手つきでカップに紅茶を注いでいる。
 フランのお乳を済ませて、今しがた私室に戻ってきた。咲夜が迎えて、お茶とお菓子を用意してくれた。できたメイドである。

「もし場所と時代が違えば、フランは今のままでも最高の吸血鬼だった。咲夜もそう思うでしょう?」
「はい」
「比類なき狂気と暴力で人間どもを恐怖のどん底に叩き落したでしょうに。やれやれ、今のご時世、切り捨て御免はまかり通らなくなってしまったわ」
「残念です」
「気が触れているわけじゃない。あれはスカーレット家の娘として正しい気性だ。たんに他者との上手な付き合い方を知らないだけなのよ。ま、地下に閉じ込めた私のせいなんだけど」
「愛ゆえに、です」
「私のほうがよっぽど気が触れているわよねぇ」


 湯気の昇るティーを口元に運び、しばしその芳醇な香りを堪能した後、口に含む。甘く乾いた味が舌の上を流れる。それから暖かさが喉を滑り落ちて、口腔には甘い舌触りとほのかな香りが残った。

「美味しい」
「ありがとうございます」

 こうやってのんびりと紅茶を楽しめるのだから、平和なこの幻想郷もけっして悪くはないのだが。両手を血と狂気で濡らし暴虐の限りを尽くす立派なフランの雄姿を望めない事は、無念だった。

「そうだ。今度フランと一緒に外へ散歩にいくから」

  レミリアが今サラッと口にしたその言葉には、天地をひっくり返すほどの威力がある。
 それを伝えた時、パチュリーは本を読むのを止めあまつさえ栞も挟まず机の上に閉じた。美鈴にいたっては半日ほどシエスタを止めるしまつ。フランドールの幽閉は数百年間にわたる紅魔館絶対の掟だ。
 もっとも当のフランドールは、姉からその予定を聞かされても驚きもしなかったが。フランドールにとっては、姉が側にいてくれるなら、外に出れようが出れまいがどちらでもいいのだ。そんな風に育てられている。
 さておき、一体この瀟洒なメイドがどんなおもしろい反応を見せてくれるのか、それが楽しみで今まで伝えずにとっておいたのだ。
 ワクワクしながら咲夜の顔色をうかがう……。
 が、

「かしこまりました」
「……あら、驚かないの?」

 咲夜は眉一つ動かさず、ごく自然にティーのお代わりを注いでいる。

「私は忠実なるメイドです。お嬢様のお考えなされたことにしたがうのみです」
「そうかい。ふん。犬め」

 言い捨てる。なんだつまらない。だが、こんな事にまで素直に従ってくれる咲夜が嬉しくもあった。
 気持ちと口が軽くなったのは隠せなかった。

「ねぇ咲夜。私には夢があるの」
「はい」
「最初の500年で未熟だったフランの体を育てあげ、次の500年で今度は心を育てる。そうして1000年がたったら、スカーレット家の家督と紅魔館をフランに譲るの」
「お嬢様はどうされるのですか」
「館に離れを作って隠居するわ。そこからフランが治める紅魔館を眺めて暮らすのよ」
「素晴らしいですわ」

 この瀟洒なメイドは、ほとんどどんな時でも耳触りの良い返事をくれる。レミリアは、そんな咲夜をまた試した。

「すでに夢半ばまできている。もちろん咲夜は、これからもずっと夢に付き合ってくれるわよね?」

 暗に、人間をやめて吸血鬼になれとせまっているのだ。
 再びティーを口に運びつつ、ジッとみつめて瀟洒のほころびを探る。
 結局そんなものは見つからなかった。
 けれど、微笑と共に返ってきた返事は、レミリアにとって良い意味で意外なものだった。

「もちろん。私もお嬢様の夢にお供をさせていただきますわ」
「ほう?」

 これまで咲夜は何度せまっても人間をやめようとはしなかったのだが……。淡い期待を抱く。

「お嬢様の夢をかなえるために、私は私の役目をしっかりと果たします」

 あからさまに含んだ言い方。いだいた期待に早くもほころびが生じる。

「どういう意味よ」
「私の役目は、身近な者の死、という悲しみをこの身をもってお嬢様方にお教えする事ですわ」

 と、一切付け入る隙のない微笑みで、咲夜は言ったのだった。

「……ふんっ」

 また今回も上手く言い逃れられてしまった。
 悔し紛れにからかってやる。睨みつけて、犬歯をむきながら、吼えた。

「ウゥ~、ワンッ」

 どこまでも犬だなお前は、というような意味を込めたのだ。
 が、あろうことか咲夜は、

「わんっ♪」

 ふりふりと揺れる耳や尻尾を幻視しかねないほどの犬っこい笑みで、レミリアの戯れに逆襲した。

「ブフゥっ!」

 瀟洒なメイドのあまりに意外なその所作に、心底仰天させられる。もしお茶を口に含んでいたら間違いなくテーブルシーツを汚していた。

「こんにゃろ……」

 醜態をひっぱりだされて、いくらか腹立たしい。八つ当たり半分に突っかかった。

「馬鹿者。そんな役目は咲夜でなくとも勤まるだろう。霊夢や魔理沙だっていつか死ぬ。そうだろう? お前はずっと私の側にいて、お前にしかできない事を果たすべきだ。違うか? それでこそ私の犬だろう?」

 だが咲夜は、どうやら本当にうろたえるという事を知らないようだった。

「お言葉ですがお嬢様」
「何よ」
「お嬢様にとって、魔理沙や霊夢の死と、私の死は、絶対に同じではありません。身の程を知れとお叱りを受けるかもしれませんが、私はそう信じています」

 まっすぐにレミリアの瞳を見つめて、堂々と口にしたのだ。レミリアはしばしぽかぁんとした後、あきれて、諸手をあげてしまった。

「降参だよ、この減らず口め。もういい。おかわり」

 ついでくれたお茶は、やっぱりとびきりに美味しいのであった。自然と浮かんだ口元の笑みを、レミリアはもう隠そうとはしなかった。

「フランの話だけど」
「はい」
「まずは野良妖精達にでも会わせてみようと思うの」
「妖精達ですか」
「今のフランは幼い子供と同じよ。頭の軽い妖精ぐらいが、丁度いい相手でしょう。それに……これが一番の理由なのだけど」

 いささかレミリアは声色を落とした。冷静な当主の顔が、チラリと覗いた。

「妖精どもなら、間違いがあっても大して問題にはならいない」

 死なせたところで問題はない。
 仮に相手が人間だとしたら、そうはいかない。親族やつながりのある連中から、はては人間全体から激しい恨みを買うやもしれないし、最悪幻想郷の管理人を気取っている連中を敵に回す恐れがある。
 妖精たちならば個々のつながりの弱い連中だ。目撃者は脅してやれば、原始的な恐怖の本能に犯されて、復讐など考えもしない。その想像は、かつて人間達を震え上がらせたスカーレット家の末裔にとって、心地よい。

「けれど、妖精でしたら館の中にも多数おりますが」
「身内ではだめなんだよ。フランの心に必要なのは、フランを知らないような完全な他人との触れ合いさ。昔のヨーロッパだったらなぁ。適当に人間を血祭りにあげてれば、強敵やら商売敵やらが勝手に接触してきて自然と心が刺激をうけるんだけど。私もそうやって育ったものよ。時代が変ってしまって、フランは不憫な子だ」
「代わりに妖精を血祭りにあげるのですね」
「馬鹿。できるかぎり揉め事は避ける」

 一笑とともに会話を終えて、咲夜はティーカップとポットを手に、部屋を後にしようとした。

「待って。咲夜」
「はい?」

 なるべく目を合わせないようにして、努めてさりげなく言った。

「その通りだよ」

 咲夜が、

「何のことですか?」

 と、首をかしげた。
 レミリアは舌打ちをした。分かっているくせに、気づかないふりをしているのだ、この瀟洒なメイドは。

「主にそこまで言わせるな。察しろ」

 視界の隅に浮かんだ咲夜の笑顔は、これまでの瀟洒な笑みとくらべて、少しだけ少女だった。
 フランが紅魔館の主になった時、その隣に咲夜がいてくれたら。そう望まずにはいられなかった。






 いつのまにか夏が通り過ぎて、昼間の風は涼しさを得るようになっていた。

「今日を紅魔館の記念日にするわ」

 出発前にそう伝えると、咲夜は快く頷いてくれた。
 いつかは妹と一緒に外をお散歩したい、それはレミリアの昔からの夢だった。高揚と不安を交互に感じながら、レミリアは地下室へ続く階段をおりた。
 フランドールもまた、この日をそれなりに楽しみにしていたようだ。部屋からでて、廊下に響くその足音が時折はずんでいる。繋いだ手の平から躍動するフランドールの気持ちが伝わってきて、レミリアを喜ばせた。
 館の正面扉の左右を、二人はタイミングを合わせて一緒に押し開けた。眩しい光がだんだんと広がって、二人を飲み込んだ。

「すごい……」

 日ごろ地下室の天井しか知らないフランドールは、久方ぶりの空に声を震わせた。見上げる先には終わりの無い広がりがどこまでも続いている。
 雲が一面を覆っていて、灰色を時折濃くしながら、上手い具合に日光を遮ってくれていた。

「白い! 空が全部白いよお姉様! それになんだか暗いわ」

 フランドールは『天気』を知らない。二人で庭を歩きながら、曇りについて語る。興味深そうに耳を傾ける妹の姿が、少し痛ましい。
 正門にたどり着くと、心底顔をほころばせた美鈴が待ちまかえていた。彼女は以前から、フランの幽閉を哀れに感じていて、今日を心待ちにしていたのだ。

「雨の匂いはしませんから、まだしばらく天気はくずれませんよ。日傘も雨傘もいらない良い散歩日和です」
「へぇ、雨の匂いを嗅げるの? 家の犬は皆優秀ね」
「あはは。ありがとうございます」

 それから美鈴は鉄格子の門を開け放ち、いつもより何倍も明るい声で二人を送り出した。

「行ってらっしゃいませ! お気をつけて」
「ええ」

 と優雅に片腕をあげながら、そのじつレミリアの内心は不安で一杯だった。数百年間己の腕の中だけで大切に育ててきた妹を初めて外に連れ出すのだから。けれどだからこそ、笑顔でいよう。思い出に残るこの時を、暗い顔ですごしたくは無い。

「行ってくるね美鈴!」

 フランドールのはしゃいだ姿だけが心を慰めてくれた。

「行きましょう」
「うん!」

 門の外へ向けて一歩を踏み出す。二人で一緒に片足を上げて、もう片足で地面を後ろに蹴る。
 空気の流れを僅かに頬に感じ、外壁のアーチが視界の端で後ろに流れていく。トン、と足が土を踏んだ。その足はもう紅魔館の外にある。
 前を見やると、館の外と内を隔てていた壁はもうそこにはない。開けた緑がしばらく続いた先には湖が大地を呑んでいる。遠くに対岸の木々がかすかに見えて、そのさらに背後では霞の向こうに山々が肩をそびえさせている。
 繋いだ手のひらに力がこめられて、レミリアはフランの興奮を感じ取った。
 フランは目の前に広がる新しい世界に心を奪われている。自分を守っていてくれた檻がなくなった事には、まだ気がついていない。
 何事も無ければいいけど――
 そう願おうとして、首をふる。
 自分が何も起こさせない。妹を守るのは自分だ。






「鳥! 空を飛んでいるあれが鳥ね!」

 フランドールにはまるで自分が本の世界に飛び込んだように思えるのだろう。瞳に映るあらゆる物が彼女を喜ばせた。
 レミリアはその側からけして離れず、フランドールの興奮を受け止めてやった。

「あ、お姉さま。あそこ……」
「ん?」

 湖岸道の先に何匹かの妖精がいた。湖の畔で遊んでいるのだろう。ヒラヒラと無秩序に舞っている。ほとんどは手のひらサイズの小さな妖精だったが、一人は人間の子供くらい身長がある。水色の髪に青い服、円柱の水晶を思わせる三対の羽を生やしていた。

「季節はずれの氷精ね」

 氷精チルノ。近場にあらわれる妖怪については事前に美鈴から話があった。少しやんちゃだが危険はない妖精、と聞いている。フランの相手をさせるには丁度よい。
 だがまだ早すぎるだろうか。今日が初めての外出なのだ。しばし迷う。とは言えフランは子供ではないのだし、そもそもそのために館を出たのだ。それにチルノと交友関係のある妖怪に危険な連中はいないはず。チルノの身に何か起ったとしても、脅せば事は収まるだろう。頭の冷徹な部分はゴーサインを発していた。、

「フラン。一緒に遊んでくる?」
「え……? い、いいの?」
「貴方がそうしたければね。散歩のほうがよければ、このまま続けましょう」

 ほんの少しのささやかな自由を与える。ゆっくりと時間をかけてフランをつなぎとめている鎖を少しずつといていくのだ。今日はその初めの一日。
 フランは少しためらったが、

「遊んでくる、ね」

 姉を一人にすることに申し訳なさがあったのかもしれない。おずおずと言った。

「そのあたりに座っているから、いってらっしゃい」

 憂いを感じさせない笑顔でレミリアは答えた。けれど釘はさしておく。

「乱暴はしちゃだめよ。高貴な者はみだりに剣をぬかないの」
「はい。お姉さま」

 フランはどこかぎこちなさを感じさせる慎重な歩き方で、道の先の妖精達に近づいていった。レミリアはつい、置いてきぼりにされたような寂しさにも似た感情を得て、そんな自分を鼻で笑った。けれど、この時はなぜだかその感情を愛しく思ってしまって、感慨のまま、凡百の母親と変らない瞳でフランの背中を見送った。夜の王レミリア・スカーレットも、このたった一人の妹の前ではただの凡人にさせられてしまう。
 しかし、淡い感情に浸りながらも、レミリアは油断はしない。有事にそなえて注意深く様子を伺う。
 妖精達は近づいてくるフランに気がついて目を向けた。館の妖精のように逃げはしないが、見知らぬ者の姿にいくらかは警戒しているようだ。
 フランは少し言葉をつまらせながら挨拶をした。基本的礼儀作法はきちんと教えてある。湖岸の風にのってフラン達の距離の定まらないやりとりがレミリアにも届いた。

「こ、こんにちわ」
「……誰?」
「フランドールだよ。初めまして。貴方は?」
「チルノ」
「こんにちわチルノ。貴方達はなんてお名前なの?」
「この娘達は、喋れないし名前はないの」
「そうなの。えと、こんにちわ。小さな妖精さん達」
「で……あたい達に何か用?」

 フランドールは口よどんだ。レミリアはつい拳に力を込めてしまっていた。
 頑張るのよフラン!

「わ……私も一緒に遊んでいい?」

 よし! 
 と、レミリアは息を噴射した。
 妖精達がどうしようかと目でうかがい合っている。けれど、一旦決まってしまえば後は早かった。チルノが頷いて、フランドールは輪に加わった。子供は素直で順応が早い。チルノとフランドールはすぐに笑顔を共有するようになった。
 しばらくするとフラン達は湖の空に飛び立った。どうやら弾幕ごっこ遊びをするつもりらしい。
 妖精達とチルノが転でばらばらに弾幕を広げていく。バトルロイヤルだろうか。とるにたらない貧弱な弾幕だ。フランドールが破壊的な弾幕を激射しないか心配だったが、どうやら適度に手をぬいているようだった。そして楽しそうに笑っている。
 レミリアはその様子に頬を緩ませながら、手ごろな岩を見つけてその上にシーツを敷き、お尻を下ろした。
 半刻ほどたっても、フラン達は飽きもせずまだ湖の上で遊んでいる。
 フランドールの遊んでいる姿を眺めていると、レミリアは一切退屈を感じなかった。いつまでも見ていたいと思った。 
 弾幕ごっこはいつのまにかチルノとレミリアの一騎打ちになっていた。けれどそこに苛烈さはまったくない。まるでキャッチボールだ。チルノが攻撃してフランが避け、次は攻守交替。相手の弾幕を避けつつこちらも弾幕を放つだとか、熾烈なフェイント合戦などとは無縁な、ノンビリしたやりとり。フランドールの放つ炎弾とチルノの放つ氷弾が交互にレミリアの目を照らした。
 あるいは振り子時計のようなその緩慢なやり取りが、レミリアをぼんやりとさせていたのかもしれない。

「炎と氷、か」

 いつのまにかレミリアは、夢想の世界に瞳を向けてしまっていた。
 長い金髪をたなびかせながら、すらりと伸びた四肢をあやつり妖艶に舞うフランドール。その弾幕は太陽のごとく激しく輝く。そしてその炎輝の傍らに肩を並べるのは、三対の鋭い氷の翼を纏い、青く輝く髪をダイヤモンドダストのように煌かせる氷精。その絶対零度の弾幕は、時に激しすぎるフランドールの炎を鎮める鞘となる。

「ふふふ」

 かつてレミリアがパチュリーと出合ったように、いつかフランドールもその傍らにかけがえのない友を得るのだろう。
 レミリアはつい、運命を探る事に夢中になってしまっていた。

――その油断が、フランへの警戒を怠らせた。フランの一挙一動をとらえていた瞳はいつのまにかにごった湖面に落ちていた。いつでも飛び出せるようにと全身に充実させていた妖力は、弛緩した意識の中で知らぬ間に霧散していた――

 うたた寝から覚めるようにふと空を見上げ――そしてレミリアの表情は凍りついた。

「え、フラン!?」

 フランの手にはレーヴァテインの業火があって、振りかぶる先にはチルノ。意気揚々と氷の剣を構えて、それがあまりにも貧弱な剣だったから、レーヴァテインを受け止めるための剣なのだと気づくまでに、コンマ何秒かを無駄にした。

「馬鹿っ!」

 果たしてその怒号は、言いつけをやぶった妹へのものか。それともつらら程度の氷の剣でレーヴァテインを受け止めようとしている愚かな妖精への罵声だったのか。
 瞬間、自分の声を追い越してレミリアがフランドールを止めるべく高速飛翔する。 
 ――もしレミリアが十分に注意をはらっていたら、レーヴァテインを阻止しチルノを守れただろう。
 だがこの時にはもう、何もかもが遅すぎた。
 奇妙にゆっくりと進む時間の中で、燃え盛るレーヴァテインの切っ先が、チルノに迫ってゆく。構えた氷の剣は触れるか触れないかに一瞬で気化した。もはや遮るものはなく、炎はチルノに襲い掛かる。
 チルノの呆然とした顔をレミリアが認識して、それからまばたきする暇もないくらい一瞬の後。
 突然広がった閃光がチルノを飲み込んだ。直後、圧縮された大気がレミリアの鼓膜と肌を叩く。レーヴァテインのエネルギーが光と爆炎に変ったのだ。眩しさに直視できず顔を背ける。
 光は一秒とせずに消滅したが、広がる衝撃波が大気に低いうめき声をあげさせて、あたりには吹き上がる真紅の炎が残った。曇り空に透けてみえるそれは不気味な昇龍だった。
 チルノは完全に気を失って、放物線をえがいて湖に落下していく。
 その影は人の形としては何かが不足していた。四肢のどこかを失ったのだ。レミリアはそのことにぞっとしながら、チルノを受け止めんと湖面を駆ける。
 空中で受け止めたチルノの体にはまだ熱が残っていた。脱力したチルノの体を確認して、レミリアは顔をしかめた。右肩から先が消失している。断面は不気味に白く輝いて、苦しげな呼吸のたびに雪の結晶のような塵が漏れでていた。
 岸に下りて、チルノを草むらに寝かせる。

「ふふん、口ほどにもないじゃない!」

 その側に得意げな顔をしたフランが降り立った。場違いなその明るい顔は、たしかに見る者の印象に狂気の二文字を与える。

「フラン……」
「お、お姉様……?」

 きっと妹を見つめる瞳の色に苦々しい物が混じっていたのだろう。フランはそれが何故なのか理解できなくて、たじろいだ。

「乱暴をしちゃいけないと言ったはずでしょう。この妖精の力量は貴方も分かっていたはずよ?」
「だ、だって……チルノが自分は最強だって。あのでっかい館に住んでる吸血鬼なんかへでもないって、お姉様のことを馬鹿にするから……。それで私、ちょっと本気をだしてやろうって思って……」

 たどたどしい弁解。レミリアは歯を食いしばって悔やんだ。フランドールのそういう無邪気さを食い止めるために自分がついていたのに、空想に浮かれてなんという様だ。妹に罪はなかった。

「フランは私の名誉を守ろうとしてくれたのね」
「そ、そうだよ」
「ありがとう」

 無理に口を笑わせる。悪いのは自分だ。姉の笑みをうけて、フランドールは迷い道でようやく出口を見つけたかのように、顔をほっとさせた。

「でもね。私は私の名誉が傷つくよりも、フランが軽々しく誰かを傷つけるほうが悲しい」
「え……?」

 もしここがかつての世界だったなら、間違っているのはレミリアだ。フランの行動が暴君として正しい。だがここは幻想郷だ。

「その事はまたゆっくりとお話しましょう」

 ともかく、妖精相手でよかった。
 自然現象に近い妖精は、どんな傷であれほって置けばそのうちに治癒する。
 チルノと一緒にいた妖精は、恐れおののいて遠巻きにおろおろとしている。大きな騒ぎにはならないだろう。今のところ他に目撃者もいないはず。
 けれどチルノをこのまま野ざらしにしておくのは罰が悪い。回復するまで紅魔館で寝かせてやるか。
 レミリアがチルノを抱き上げ、紅魔館へ帰ろうとしたその時だった――

「チルノちゃん!」

 突然頭上から稲妻のような怒声が叩きつけられた。
 他にも仲間がいたか、と舌打しながら空を仰ぎ見る。
 そして目の前の光景に、レミリアはわが目を疑った。

「お、お姉様……!?」

 フランドールもまた声を呆然とさせながら、怯えてレミリアの腕にしがみついた。
 妖精が、百を超える数の妖精達が扇状に展開して、上空からこちらに突撃してくる。まるでその一部だけ空が切り取られているかのよう。普段は感情の見えにくい妖精達の瞳は、今や怒りに燃えて、その全てが二人に向けられている。
 そして何より、その妖精達の群れの中心にいる一際大きな妖精の、その力強い眼差しが、僅かな時間とはいえレミリアを金縛りにさえした――






「妖精は大きな群れを作らないの。せいぜいが小さな集団で、それも常にまとまっているわけじゃない」
「群れを統率するようなボスはいないわ。それぞれの曖昧な集団がてんでばらばらに動き回るの」
「とても臆病だし、妹様の生贄には丁度良いと思うわね」
 
 ――パチェの嘘つき!!

「チルノちゃんから離れなさい!」

 いからせた肩も鋭い瞳も怒声も、全てがレミリアに立ち向かってくる。片おさげの緑の髪が風になびいて燃え上がる意思を表した。
 美鈴の話にあった、大妖精と呼ばれる妖精だろう。
 ――大人しくて妖精にしては真面目で、ちょっと気が弱いけど優しい娘。

「……どこがっ」

 
 レミリアはフランドールを背中に庇い、その場から飛び退いた。伝わってくるありったけの敵意は、レミリアが久しく感じたことのないほどのもの。
 もちろん、妖精が百や千集まったところでレミリアの敵ではない。だが、経験した事のないこの状況の異様さが、警戒させる。なによりも今はフランドールを守らねばならない。あるいは、フランドールから妖精達を。
 大妖精は横たわるチルノの側に降り立ち、無残なその姿に顔を歪ませ、そっと体を抱き上げた。その二人を守るようにしておびただしい数の妖精達が左右を固めている。フランと遊んでいた妖精達も、それに加わっているようだ。
 しかしながら、チルノを攻撃したのがフランドールだとばれていなければ、なんとか言い逃れられるかもしれない。

「なぜこんな酷い事をするんですか!」

 が、その生真面目な罵声は明らかにフランドールに向けられていた。チルノがやられる瞬間を目撃していたらしい。

「だってチルノが……」

 言い返しかけたフランドールをレミリアが制する。

「すまない事をしたわね。はずみで起こった事故なのよ」
「お姉さまっ!?」

 フランドールはこれっぽっちも自分が悪いとは思っていない。話をさせてもこじれるだけだ。この場はさっさ退散したほうがいい。

「あれが、はずみでするような攻撃ですか」

 よくよく大妖精を観察すると、睨みつけるその視線には恐怖が見え隠れしている。怒らせた肩や強張った顔は、心を奮い立たせるためなのかもしれない。
 どうやら大妖精は二人の素性を知らないようだが、並の妖怪ではないことは先ほどのレーヴァテインで理解しているのだろう。
 不覚にも警戒させられてしまったが、この様子なら脅せば事はすむのかもしれない。
 レミリアが目つきを鋭くする。
 と、それまで気を失っていたチルノが、わずかに瞼を開いた。虚ろに空に向けられていた瞳は、ほどなくして光を取り戻し大妖精をとらえた。思ったよりは力のある声で、

「ママ……」

 ――ママですって?
 レミリアの視線が大妖精とチルノの間を何度も泳いだ。妖精が子供を生むなんて話は一度も聞いたことがないし、二人はどう贔屓目にみえても母娘には見えない。姉妹というならまだ納得できるが。

「チルノちゃん 」

 しかし涙を浮かべながら呼びかける大妖精のその姿は、たしかに「母親」という姿に妙にしっくりとくる。こんな小さな妖精の姿になぜそう感じるのか。
 レミリアはハッとした。大妖精のその姿は、かつて生まれたばかりのフランドールを人間達から守ろうとした自分の気迫にそっくりなのだ。自分自身の姿を眺めていたわけではないけれど、そう思えた。見開いた目、普通よりすこし踏ん張った足、気張った肩、硬く握られた拳……かつての自分もそうだったに違いない。いや、あるいは、今この瞬間もそうなのかも……。
 レミリアは軽い眩暈に襲われた。
 まったくワケが分からない、ちょっと散歩にでただけのハズが、こんな事になるなんて――
 
「おいおい、いったいこれはどうしたんだ?」

 聞き覚えのある声がいくらか緊張を伴って空から降ってきた時、レミリアは本当に癇癪を起こしそうになった。
 ――勘弁してくれ! 今度は誰だ!? 
 睨み殺すような視線を声のしたほうへ射撃する。

『魔理沙』

 と、呼びかけたその声は、レミリアとフランドールだけではなかった。大妖精の声も混じっている。
 魔理沙を知っているのか、と目をやると、大妖精も似たような表情でレミリアを見ていた。共通の知り合いがいるというのは、こういう場面では悪くないのかもしれないが……。
 魔理沙は、対峙する大妖精達とレミリア達の間に降り立った。チルノの惨状と、そしてフランドールが館の外にいることに驚いているようだった。

「えへへ、魔理沙……」
「よぉフラン。お散歩かい」

 フランドールは少し居心地悪そうにではあるがチャーミングに微笑んだ。時々遊びにきてくれる魔理沙を、フランドールは好いている。
 一応は口元を上げる魔理沙だが、それでも表情には雲がかかっていた。
 片腕の無いチルノの姿にしばし眉をひそめ、それから一瞬フランドールに目をやり、そしてレミリアに目線を送った。

「何があった? ……もしかして……」

 魔理沙はフランドールのオテンバを理解している。おもしろくはないが、レミリアは認めるしかなかった。

「フランがね、やりすぎてしまったの」
「そっか……」

 三人のその心得たやり取りに、大妖精が戸惑い混じりにたずねる。

「魔理沙はこの人達を知ってるの?」

 魔理沙は、まぁな、と歯切れの悪い返事を返して、またレミリアを伺った。

「もしかして、自己紹介はまだだったか?」

 魔理沙なりに気をつかってくれたらしかった。
 レミリアは自ら名乗った。

「私はレミリア・スカーレット。そして妹のフランドールよ」

 大妖精はその名前を聞いてハッとしたようだ。

「『レミリア』って、たしか紅魔館の」
「大妖精は二人の顔を知らないものな」
「貴方が……レミリア・スカーレット」

 大妖精はいくらか警戒の色を強くしてレミリアを凝視した。どうやら紅魔館の主についてはなかなか望ましい風評が流れているらしい。けれど今は、それが悪い方向に作用しなければ良いのだが。
 レミリアはあらためて頭を下げた。屈辱的な行為だが、さっさとこの場を収めてしまいたかった。

「ほんとうにすまない事をしたと思っている。けれど信じてほしい。事故なの。悪意は無い。お前さえよければ、チルノの治療は紅魔館が責任を持って行うわ」
 
 名前の効果もあったのか、最初に比べれば激しかった敵意は随分となりを潜めている。けれど、大妖精の瞳にはまだまだレミリアとフランドールを非難する色が残っていた。
 無理もないとは思う。何せ娘――本当に大妖精は母親なのか?――の片腕を吹き飛ばしたのだから。もしレミリアが大妖精の立場なら今頃相手の腕をもいでいたかもしれない。どうせ治るんだからいいだろう、とはとても言えなかった。
 と、魔理沙が助け舟をだしてくれた。

「なぁ大妖精。レミリアを信用してやってくれないか。それにフランも悪いやつじゃないんだ。ただちょっと……まだ不器用なんだよ」
「けどその娘はチルノちゃんにこんな酷い事を……」

 大妖精が怒りに淀んだ目を向けると、フランはそれから逃げるようにレミリアの背中に隠れた。
 ちなみにチルノは先ほど大妖精の姿を認めた後、また気を失っている。

「なぁ、頼むよ。娘の私の顔に免じてさ……ほら、フラン。お前もあやまんな」

 ――まてまて、まってちょうだい。魔理沙が娘? ああもうさっぱりわけが分からない――。
 聞きたい事は山ほどあるけれど、その一切合切を飲み込んだ。今はとにかくこの場を離れたかった。妹との初めてのお出かけはもっとスマートに終るはずだったのに。
 この上ややこしい連中――例えば天狗や隙間妖怪――に嗅ぎつけられてはたまらない。
 魔理沙はフランに歩みより肩をそっと抱いて、やんわりと謝罪をすすめた。
 が、フランドールにはまだ社交辞令は備わっていないのだ。

「やだ! 私は悪い事してないもん。チルノがお姉さまを馬鹿にしたんだから、悪いのはチルノだ!」
「フラン!」

 心苦しいけれど、レミリアは叱責せざるを得なかった。
 魔理沙も困った表情で、フランの肩を抱いている。

「……もうその娘をチルノちゃんに、妖精達に近づけないでください」

 フランの言葉が大妖精の幼い顔を酷くゆがめてしまった。

「大妖精……」

 魔理沙の悲しそうな声は、レミリアにとっては救いだった。今日はこんな結果になってしまったけれど、間違いを起こさなければフランドールにだって友人は得られる。
 もし自分が油断せずにチルノを守れていれば、あるいはこの奇妙な大妖精と良い知り合いになれていたのかもしれない。脆弱な体に似合わぬ妙に気高いその母性で、妹に教えをほどこしてくれたかもしれない。
 折角のチャンスを、何もかも自分が台無しにしてしまったのだ。
 申し訳なさと後悔が諦めをよび、レミリアは大妖精の言葉にただ頷くしかなかった。

「フラン、帰りましょう――」

 力なく振り向いた瞬間――レミリアの体がまさしく凍りついた。
 腕。白いドレスグローブを着けた細い腕。その腕だけが妹の背後から生えている。あるべきはずの胴体や顔はどこにもない。異様な光景だった。その腕の先の指がうごめいて、フランドールの首に絡みつこうとしていた。

「フラン!!」

 悲鳴を上げながら、フランドールの腕を引っ張る。そのままギュッと抱きしめて、護った。

「お、お姉さま?」
「どうしたんだよレミリア?」

 魔理沙が困惑しながら、獰猛に歪んでいるレミリアの視線を追った。
 腕は、まだそこに浮いていた。魔理沙のすぐ隣である。

「うわ! 気持ちわりい」

 中空に隙間が開いて、そこから腕だけが伸びているのだ。

「最悪だっ……!」

 レミリアの食いしばった歯の隙間から、忌々しさが溢れる。

「ごきげんよう、皆様」
 
 耳の奥に嫌な粘り気を残していくその声が、隙間の奥から這いでてきた。






 そう遠くない未来、フランドールは幻想郷にその名前を轟かせるだろう。かつてレミリアが引き起こしたような大きな異変を、紅魔館の新たな主としてもたらすに違いない。スカーレット家の当主としてはむしろ、それくらいの事は実行してくれなければいけない。
 けれど今はまだ早すぎる。
 他の幻想郷勢と戦う準備も理由も、フランドールには備わっていない。
 だというのにこの状況はなんだ。次から次へと役者が集まってくる。早く妹を逃がさなければ――。

「紫さん」

 大妖精がそう親しげに呼びかけるのを、レミリアは歯軋りしながら耳にしていた。
 ――八雲紫とも顔見知りか!
 こいつは本当に妖精なのか、という疑念すらが浮かび始めていた。大妖精は何もかもが妖精の規格外にあるように思える。
 パチュリーも美鈴も、なぜこの事を教えてくれなかったのか。
 責任転化をしかけている自分に気づいて、レミリアは顔をしかめた。

「ごめんなさい。おフザケが過ぎたわね。まぁ、そう怒らないでちょうだい」

 羽化する昆虫を連想させる挙動で隙間から上半身を抜き出す。ついで足も現れて、草地に降り立った。レミリアとフランのすぐ側である。あえて誇示しているのか、禍々しい妖気を肌に感じる。

「お姉さま、これ誰?」

 レミリアに抱かれながら、無邪気に顔を向けるフラン。紫の妖気の大きさは肌で感じているであろうに、怯えた様子がないのは頼もしい。ただあまり興味をもってほしくはないが。

「館の外にはねフラン、危ない奴が大勢いるの。こいつはその一人」
「ふぅん」
「心外ですわ。私は貴方達を助けにきたのに」

 紫は洋扇を取り出し、レースの付いた装飾過多なそれで口を隠した。口元はいやらしく笑っているはずだ。
 
「こいつの話は一切信じちゃいけないのよ。何もかもが嘘なんだから」
「見方によっては真実が嘘となり、嘘が真実となる、それだけの事ですわ。私の心は常に一つの方向を向いている」
「ほらね。いつもこんな事ばかり言ってるのよ」

 紫は目元を歪めたまま、レミリアの睨みをかいくぐって、フランドールを値踏みするように小さなお尻から金色のツムジまでを撫で見てまわした。

「可愛らしいお嬢さんね。貴方が大切にする気持ちもわかるわ」

 レミリアは背中を向けて、フランドールが紫の視線に穢されないようにした。

「それ以上近寄るな。今の私は容赦しないぞ」

 放出させた妖気に大妖精や妖精達がひきつった悲鳴を上げた。魔理沙ですらが一瞬ギョッとしたが、紫は呑気にしている。

「恐いわね。けど、私は本当に貴方達の味方なのよ」

 言いながら、レミリアの威嚇に堂々と背を向けて、今度は大妖精に近づいていく。膝をついて、大妖精の腕のなかにいるチルノを観察している。

「かわいそうに。酷い事するわね」
「おい、紫。お前何しにきたんだ」

 いくらか声を苛立たせながら問いかけたのは魔理沙だった。皆の感情をかき乱す紫の言動が目に余ったのだろう。魔理沙はフランドールに同情的だ。

「私はお願いをしにきたの」
「お願い? 何を、誰にだよ」
「大妖精」
「え、はい」

 紫は大妖精の手を握った。レミリアにはそれがわざとらしい仕草に見えて、しかたがない。

「貴方の気持ちは良くわかるわ。けれど……あの娘を許してあげてほしいの」
「え……!?」

 大妖精と魔理沙の顔に、それぞれの驚きが表れた。レミリアは一瞬眉をひそめたが、それ以上の感情は無かった。紫は必ず何がしかの思惑にのっとって行動する奴だ。表面上の言動に注目しても、しかたがない。自分もそうだから、レミリアには分かる。

「あの娘はね、理由があって何百年もずっと地下に閉じ込められていたの。そして今日初めて外にでた。あの娘はまだこの世界の善悪をきちんと理解していないの。今回の事は多めに見てもらえないかしら。……ね、娘のお願いよ」

 他人の家庭の事情にまで随分耳ざとい事だ、と鼻で笑いながら聞いていたレミリアも、最後の言葉は聞き逃せなかった。
 娘だと? 
 もしかして何かのスラングなのだろうか。レミリアは細かく切り刻むように大妖精の凝視した。そんな大妖怪には見えないが……。大妖精は今にも泣き出してしまいそうな顔をしていた。

「なんで皆その娘を庇うの? チルノちゃんにこんな酷い事して、その上自分は悪くないなんて言って」
「大妖精……」
「私はその娘が恐い!」

 抱きしめたチルノの体に顔を埋めて、大妖精は紫の言葉をはねつけてしまった。
 紫はそれ以上は何も言えなくなってしまって、大妖精の触れていた手の平は、力なく地に落ちた。その手に引きずり落とされるようにして僅かに肩も落ちる。
 
「ごめんね」

 いやに優しく呟いて、ゆっくりと立ち上がり、振り向いた。無機質な、数式にのっとられたような顔をしていた。

「ねぇ、貴方の妹さん、もう少し籠の中の鳥でいてもらえないかしら」

 ほらきた、とレミリアは犬歯をむき出しにした。こいつは言う事がころころ変る。

「ほう。フランに外にでるなと?」
「こんな事になってしまったのだし、もうしばらくの間はお姉さんの手だけで躾をしてくださらない?」
「スカーレット家の教育方針について、お前が口出しをする必要はない」

 紫の気配が僅かに鋭くなった。

「貴方が妹さんを大切に思うように、私はこの幻想郷が大切なの。お互いに事情はあるのだから、話し合いで解決しましょう。私はそのために来たのよ」
「話し合いなどするものか。お前が何を言おうが私はもうフランを閉じ込めるつもりはない」
「その娘は癇癪一つで山一つを吹き飛ばす娘。私の子供達を危険にさらすわけには――」

 その時だった。

「おい!」

 魔理沙が強引に、紫とレミリアの睨み合いに立ちふさがった。その瞳には、チルノを守ろうとする大妖精の瞳と、同じ力強さがある。

「――そういう話を、子供の前でするなっ」

 レミリアはハッとして、抱きしめていたフランドールを顔、そっと体を離して覗き込んだ。
 不安そうに揺れる瞳を姉に投げかけていた。自分が姉と紫の言い争いの渦中にいると理解して、とまどっているのだろう。その様子はレミリアを息苦しくした。

「話し合いだかなんだか知らんが、それはフランがいないところでやってくれ。……フラン、私と紅魔館に帰らないか? 部屋で一緒に遊ぼう」
「え? えっと……お姉様……」

 魔理沙と姉の間で、フランドールはふらふらと視線をさ迷わせた。
 レミリアは魔理沙に心から感謝の念を抱いた。優しく笑って、フランの柔らかい髪の毛をなでた。

「先に戻って、魔理沙と遊んでなさい」
「う、うん……」
「かまわないかしら?」

 レミリアが問いかけたのは、大妖精だ。それが礼儀だと思ったのだ。
 大妖精は本当は納得していないのだろうが、かといって、フランドールをこの場に留めてどうするのか、考えがあるわけでもないのだろう。しぶしぶという感じで頷いた。

「大妖精。貴方はどうする? チルノちゃんを連れて帰る?」

 と、紫。
 大妖精はしばらくの思考の後、首を横にふった。

「私にも、お二人の話を聞く権利、ありますよね。怪我をしたのは私のチルノちゃんなんです。だから私も残ります」

 大妖精は傷ついたチルノを妖精達に預けた。お願いね、と大妖精が伝えると小さな妖精達はそれぞれに頷いた。百近い数の頭が一斉にうなずいた。大妖精のはなった吐息が草原をなでたよう。妖精達は大妖精を核にして完全にまとまっている。

「さぁ帰ろうぜ」
「う、うん……」

 フランを連れて、魔理沙も飛び立った。フランは気を引かれて、何度も何度もレミリアを振り返っていたが、ほどなくして、木々の向こうに見えなくなった。

「さて」

 曇り空の下、湖岸の色の暗い原っぱには、レミリアと紫と大妖精が、心持ち距離を保ちながら対峙した。サァと風が吹いて、館内とは違う緑臭い匂いがレミリアの鼻に忍び込んだ。
 レミリアはふと、随分と気持ちが落ち着いている事に気が付いた。周りの匂いなんて今まで意識していなかったのに。きっとフランが紅魔館に戻ったからだろう。あそこなら、妹を害する者はいない。安心して心に余裕がうまれる。
 今度魔理沙に茶でもご馳走してやろうか、フランと三人で。楽しげな想像をして、そして大きく伸びをした。それとともに不要な緊張がほぐれて、レミリアは好戦的な笑みを紫に向けた。楽しい弾幕合戦に臨むような心地よい高揚があった。

「紫。幻想郷はお前の子供か」
「ええ。大切に育んできた愛しい子供達ですわ」

 大げさに両手を広げて、紫は世界を仰いだ。
 レミリアも負けじと腕組をして口元をゆがめ、カリスマを放射する。大妖精は、その大妖怪達のやりとりをこわごわと伺っている。

「愛する者は、何にも変えて守りたくなるものね」
「貴方と価値観を共有できて、嬉しいかぎりですわ」
「うむ。ならお前にも理解してもらえるだろうが、私はフランが何よりも愛しい。フランは私の子供も同然だ」
「子供を健やかに育てるためには、親の教育が大切ですわ」
「まったく同意見だ。しかし愛情と言うのは厄介だな。一見美しいもののよに思えるが、その実、人を救いがたいほど我侭にする。紫よ、お前は幻想郷の管理者を気取っているが、そんなのは大義名分だ。自分の愛した者を、私と同じに差別しているだけだ」
「貴方や貴方の妹さんだって幻想郷の一部なのよ。私は全てを平等に受け入れて愛しますわ。だからこそ一人の駄々っ子が他の子に迷惑をかけていたら、叱らなきゃね」

 レミリアと紫の瞳はがっぷりと喰らいつきあって、言葉の代わりに互いの意見を押し付けあった。二人の間には見えない弾幕が手当たりしだいに展開されている。
 その弾幕に、すっかり萎縮して肩を小さくした大妖精が、申し訳なさそうにわりこんできた。

「あ、あのう……」
 
 牙を向きかけていたところに水をさされて、レミリアはつい大妖精を睨みつけてしまった。
 大妖精はちょっと怖気づきはしたけど、しっかりその場に留まった。

「私にもちゃんと説明してください。フランドールさんがどういう娘なのか、紫さんとレミリアさんがどういう立場なのか……」

 及び腰になっているくせに、しっかりと言う。紫の表情が少し緩んで、つられてレミリアも少しばかり体の力を抜いた。

「私もお前に聞きたい事があるな。 さっきから聞いてると、お前は魔理沙と紫のなんだ? まさか……母親なの?」

 レミリアの真剣な問いに、大妖精と紫は互いに顔を見合わせた。きょとんとした笑みを浮かべながら、紫が言う。

「お互い、説明しなきゃならないことがあるわね」

 妹の生い立ちを他人に聞かせるきはないのだが、大妖精にはまぁ仕方ないか、という思いがある。
 フランドールの相手をさせるのはやはり妖精が最適だ。可能性があるなら、それを確かめたい。そう考えられる余裕が今はある。

「マヨヒガに行きましょうか。お茶くらいは用意しましょう」
「妖しいな。自分のねぐらに誘い込んむつもり?」
「私達が3人でいるところをもし天狗あたりに見つかったら、きっと根掘り葉掘り探りをいれてくれるわよ? 面倒でしょう」
「む……」

 レミリアが納得すると、紫はさっそく隙間を開いた。中にはこげ茶色の澱んだ空間が広がっていて、それがどこに繋がっているのか、外からでは全くわからない。けれど大妖精は何を疑う事もなく、ひょいと隙間に飛び込んでいった。
 一度足踏みをしてから、レミリアも追って飛び込んだ。






 隙間を抜けるとそこは応接間だった。その佇まいに奇妙なところはなく、霊夢が暮らしている和室と似た、ごく普通の部屋に見えた。そこにいた狐の式神は突然現れた客人に少し驚きつつも、主に命に従って茶を汲みにいった。
 三人はちゃぶ台を囲んだ。デンとした居住まいの大八雲、大スカーレットに挟まれて、居心地悪そうに肩を小さくしている大妖精。この場には不釣合いな小物にしか見えないのだがチルノを守ろうとしてレミリアに突きたてた敵意には、まぎれも無い本物の力があった。
 式神が茶を運んでくるのを待ってから、話を始めた。

「チルノに怪我をさせたのはすまないと思ってるわ。まず、フランの事を聞かせましょう」

 フランの生い立ちをかいつまんで聞かせる間、大妖精は時折視線をちゃぶ台の上に落としたまま、静かに耳を傾けていた。

「妖精達は裏表がなくて素直。心が幼いフランの友達には、ぴったりだと思ったの」

 フランドールの情操教育のために、妖精を生贄にしようとしたことはさすがに伏せた。不利にしかならない事をわざわざ明かす必要はない。レミリアが偽ると、茶をすすっていた紫が思いついたように口を挟んだ。

「私もそう思うの。貴方達は個々の力は弱いけど、種族全体としてのの生命力はとっても強い。やんちゃな妹さんの相手をしてあげるにはぴったりなのよね」

 思いがけず、紫がレミリアの真意の一端を伝えた。レミリアの口から語られるよりは、随分とましな印象だったろう。
 だがもちろんそれらはレミリアと紫の一方的な都合だ。大妖精は顔に皺を寄せて、俯いた。

「チルノとは良い友達になれると思ったんだがな……油断した」

 その言葉に篭った後悔と悔しさは本物だ。大妖精にもそれが伝わったのか、苦い表情の中に、何かを思案するような色が僅かに隠れ見えた。

「私の話は以上。次は貴方の話を聞かせてくれる?」
「はい。えと、どこから話せばいいかな……」

 大妖精の話は、紫におっぱいの出し方を教わる場面から始まった。

「話を遮って悪いけれど、なんでママになりたいだなんて思ったの?」
「いや、まぁ、それは……あはは」

 頬を染められてもレミリアは困るのだが、まぁ、特別重要な部分ではないようなので、とりあえず捨て置いた。
 話を聞いて、

「あぁ、娘って、そういうことね」

 馬鹿馬鹿しい気分になってレミリアは投げやりにいった。
 紫や魔理沙に乳を飲ませたことは驚きだが、要は自分がフランドールに母性愛を抱くのと同じ事だ。そしてまた同時に、チルノを守ろうとする大妖精に感じたシンパシーにも、納得がいった。あれは、わが子を守ろうとする母親の強さだったのだ。
 ちなみに魔理沙への授乳については、紫もこの時初めて知ったらしかった。

「ふふ、あの娘も可愛いところがあるのね」
「秘密にしろって言われてたんですけどね」
「魔理沙が自分を『娘』と表現したのが悪いのよ」

 だが話を聞くうちに、やはり八雲紫が余計な事をしてくれたんだな、という暗い考えがレミリアの頭に湧き出ていた。
 紫が大妖精に授乳法を仕込まなければ、大妖精が妖精達のボスになることも、チルノを助けるために大勢の妖精を連れて立ち向かってくる事もなかったのだ。こじつけがあるのは認めつつも、そう思わずにはいられなかった。
 そんなわだかまりもあって、レミリアと紫の、フランの処遇についての話合いは、初めからこじれてしまっていた。

「妹さんの件については私も手助けしたいの」
「何度も言うけど、フランの教育に干渉させる気はない」
「干渉する気は無いわ。何ごとも起こらないように協力させてほしいだけよ。せめて、妹さんを外出させる時は私に知らせがほしい」
「知らせる? それでどうする」
「危険な事態にならないように、その間は私も見守る」
「フランを監視するということか。そんな必要は無いわ。必ず私がついている」
「貴方がついていて、今回のような事になったんでしょう」
「その通りだよ。油断した私が愚かだった。だが二度とこんなことはしない」
「その言葉だけで信じられるわけないでしょう」
「信じようが信じまいが関係ない。だいたいそれについては私と大妖精の問題だ。お前がしゃしゃり出てくるのがおかしい」
「貴方の妹はとても強い力を持っているのよ。それが野放図に幻想郷を歩きまわるのをほおっては置けないわ」
「管理者気取りをするな!」

 紫は、煮詰まった鍋を前にしたように目を伏せて、重い溜め息をはいた。

「大妖精はどう思う?」

 自分の意見が有利になるように突然大妖精に話をふったのだ。レミリアはそれを苦々しくは思うが、迷惑をかけた以上、淑女の礼儀として大妖精の意見に耳を傾けなければならない。何でも思うがままだった外の世界がふと懐かしかった。
 所在なさげに大妖怪二人の口論を眺めていた大妖精は、意見をもとめられて、少し及び腰になりながら答えた。

「紫さんが見ていてくれるほうが、やっぱり安心ですけど……」

 大妖精の立場ならそう言うに決まっている。

「今回だってもし紫さんが一緒にいてくれたら、こんな事にはならなかったんじゃないですか?」
「……それについては否定はしない」

 もしレミリアが湯のみを手に持っていたら、おそらく砕け散って位いただろう。レミリアはそれくらいに癇癪を耐えた。

「だがフランドールの教育はスカーレット家の問題。それによって起こったあらゆる出来事には私が責任を持つ。だから他人には干渉されたくない」
「やれやれ。頭の固い姉を持って、妹さんもさぞ苦労してるでしょうね」
「貴様!」

 レミリアの拳がちゃぶ台を叩いて、湯飲みと大妖精の肩が跳ねた。

「ねぇ大妖精」

 と、紫。

「は、はい?」
「勝手なお願いだとは思うけれど、もし仮に、レミリアが私の協力を受け入れたとしたら、また妖精達とフランドールを遊ばせてくれる?」
「それは……」

 本当にずるがしこいやつだ。レミリアの苦い顔は、奇しくも大妖精と同じだった。レミリアとしても妖精達にフランドールの相手をしてほしいと思っている。大妖精が紫の案にYESと答えれば、それは紫にとってもレミリアにとってもある部分では好都合なのだ。

「でも、私達じゃなくても、フランちゃんのお友達にはなれるんじゃないですか。魔理沙はフランちゃんととても仲良しに見えましたよ?」

 レミリアが答えた。

「あれは稀有な例だよ。変わり者の魔理沙だからこそだ」
「そうですか……」
「人間や弱い妖怪ではフランの相手はできない。ちょっとした間違いで殺されてしまうかもしれない。そうして悪評が広まれば、フランは外にでられなくなってしまう。かといって力の強い連中はひねくれ者ばかりだしフランの教育によろしくないわ。何かの拍子に弾幕合戦を超えた争いになるかもしれないし。その点妖精達なら、と思っていたんだがな」
「たしかに私達はなかなか死んだりしませんけど、恐いものは恐いんですよ?」
「まぁ、それは、ね」

 妖精達を束ねる存在が出現してしまった事が、大きな誤算であった。紫め、という気持ちがどうしてもある。

「もし私がやっぱりフランちゃんと妖精達を遊ばせるのはいやだと言ったら、フランちゃんはどうなるんでしょう」
「……蓬莱人達ならば遊び相手にはなるかもしれない。死なないしな。とは言え幻想郷になじませるという点ではあまりタメにならないのよね……」

 紫が即座に口を挟んだ。

「竹林まで出かけるの? それは危険だわ。紅魔館から距離があるし、道中妖怪や人間に出会う可能性が高い。間違いが起こるかもしれないわ」
「ちっ! イチイチうるさいな。私が送り届ける」
「だからそれでは安心できないの。蓬莱人達を館に招待してみてはどう?」
「それだと今の状況と変らないだろう。フランには外の世界を見せてやりたいんだ」
「じゃあ、出かけるときは私に言いなさい。隙間で送り届けてあげる」
「スカーレット家の問題にいちいちお前の指図を受ける気は無い!」
「貴方ねぇ家柄ばかりにこだわって、いいかげんにしなさいよ。妹さんを幻想郷になじませたいのならまず姉の貴方がそうすべきでしょう!」
「幻想郷になじむ事とお前に指図を受けるのとは全く関係ないわ!」
「大有りよ! ここは私の幻想郷なの! 貴方達姉妹の勝手で危険にさらすわけにはいかないわ!」
「ふ、二人とも……」

 大妖精のおろおろとした声にハッとして、無様にヒートアップしてしまった事に少し恥じ入る。気づけば拳に妖気が溜まり始めていた。

「む……失礼。つい」
「私としたことが。落ち着いて話し合うつもりが」

 湯のみを取り上げて、一口すする。紅茶とは違うほのかな苦味が口内を暖めた。フランは魔理沙と楽しく遊んでいるだろうか。
 見ると、紫も似たように茶をすすっていた。

「どうあれ、協力を拒むつもり?」
「そうよ。気持ちだけ受け取っておくわ」
「なら、もし貴方の妹が事件を起こしたとき、私は敵になるわよ」
「聞くが紫。もしお前がフランの過ちを防ぎきれなかったとしても、お前はフランになんらかの罰をあたえるのではないか?」
「それは場合によりけりですわね」
「ふん。だったらお前が協力しようがしまいが一緒よ」

 紫は乾いた溜め息を小さく一つ吐いた。

「そう。話し合いは決裂ね」

 レミリアにとってはそれで満足だった。フランドールの外出でどのような事件が起ころうとも、全て自分の責任だ。それでよい。妹の事には自分一人で責任を負いたかった。
 最後に大妖精に謝って、この場を去ろうとした。
 が、

「ちょ、ちょっとまってくださいよ」

 と大妖精。
 思考のうねりがそのまま表情にあらわれたような難しい顔で、レミリアと紫を上目遣いで交互に見やった。そしてためらいがちに、けれどはっきりと告げた。

「二人とも……我侭すぎです」

 レミリアはとくに怒りを感じることもなく、一呼吸して答えた。

「生まれつきでね」

 茶化したわけじゃない。紫も静かな無言で肯定しているように、大妖怪はすべからく良くも悪くも自分勝手だ。我侭を貫き通して生き残れたものが大妖怪になる、とすら思う。
 だが、その次に大妖精が述べた言葉には、冷静ではいられなかった。

「二人ともフランドールさんのことを全然考えてないじゃないですか」

 それははっきりと、レミリアの脳髄の弦を強くはじいた。小刻みな弦の振動が感情を揺さぶる。声色がはっきりと鋭くなった。

「なんだと?」

 肩を縮ませながら、大妖精はそれでも言った。

「レミリアさんは自分の意地を優先してるみたい……」
「貴様。私はすべてをフランのために考えている。思い違いもいい加減にしろ」

 紫が、ほれみたことか、と口元をゆがめている。だが、大妖精は紫に向けても告げた。

「紫さんも、自分の都合ばかり考えて……もっとフランドールさんに親身になってあげてもいいんじゃないですか」

 紫はレミリアほど息を荒げはしなかったが、僅かに表情がくずれた。

「あら。私は幻想郷とフランドール双方を守るために公平な方策を探っているつもりですけれど」
「口先だけです」
「……心外だわ」
「紫さんは、フランドールさんの事を降ってきた災いみたいにとらえてませんか。それではだめですよ。もっと寄り添って考えてあげないと……」

 レミリアはもう我慢ならなかった。紫が止める間もないほどの瞬足で、大妖精に掴みかかり、床に体を押し付けた。
「きゃ!」
「レミリア!?」

 馬乗りになり、手刀を振りかぶって、怯えた大妖精に牙を向く。

「分かったような口を聞くな! 妹の事は私の問題だ! 他人のお前が偉そうにぺらぺらと喋るな! お前だってフランを恐いと思うんだろ! 妖精達には近づけたくないと思うくせに!」

 大妖精は恐怖に顔を染め、レミリアの凶暴な打突に怯えたのか、ギュッと目を瞑って、そして泣き叫ぶように言った。

「そりゃそうですよ! だって他人の家庭の事情で私の子供達が怪我するなんて、嫌ですもん!!」

 それは当然な言い分で、レミリアはかっとなってしまった自分に唾棄しながら、それでも激しい口調は止まらなかった。

「私だってそんなことは望んでいない。お前にはもう迷惑をかけないようにする。申し訳なかったよ! だからもう黙っててくれ!」
「だから、それがダメなんですってば!」
「はぁ!?」

 大妖精の言いたい事がさっぱり分からない。レミリアは馬乗りになったまま、目じりに涙の浮かんだ大妖精の大きな瞳を、眉毛を果てしなくしかめながら凝視した。

「レミリア、落ち着きなさい」
「うぐっ、は、離せ!」

 首筋をひょいと掴まれて、子猫みたいに引っ張りあげられる。ドレスで首が絞まった。大妖精の側に落とされて、後ろをみると紫の右手が隙間に消えるところだった。本体はちゃぶ台に片肘をついたまま。右手の肘から先を隙間につっこんでいた。
 紫はいぶかしげな顔を大妖精に向けた。

「何が言いたいの?」
「え、ええとですね……」

 服を調えながら、起き上がる大妖精。おっかなびっくりにレミリアを一瞥する。悪いとは思ったが、謝らずに睨んでしまった。

「私も紫さんも、フランドールさんの事を他人の問題だと思ってます。それじゃだめなんです」
「なぜ、ダメなのかしら?」
「レミリアさんの話を聞いて、フランドールさんにもいろいろ事情があるのはわかりました。だから協力してあげたいって、紫さんも思うでしょ? 私も思いました。でも今のままじゃ、自分の子供をだって守らなきゃだめなんだから、それは難しいです」
「要点を言え要点を」
 
 レミリアがイラついた声でうながすと、大妖精は一大決心を告げる様子で顔と拳に力を込めて、紫に対して呼びかけた。

「私と紫さんのおっぱいを、フランドールさんにあげましょう!」

 何かを聞き間違えたかと思った。が、大妖精の言葉は明瞭だった。
 八雲紫の仰天した顔などはそうそう見れるものではないが、レミリアもそれ以上に目をひん剥いていた。

「な、なんですって?」
「そうしたら、フランドールさんも私の娘です。もう他人事じゃなくなります」

 出口の無い迷路に横穴を貫通させたようなしたり顔の大妖精。紫は目をあちらこちらに泳がせながら、たどたどしく言った。

「いや……そ、それで何か問題が解決するの? 根本的な問題は何もかわらない……」
「私達の接し方は変りますよ! それはきっと良い結果に結びつきます。それに私、もしフランドールさんが娘になってくれたなら、妖精達とだって一緒に遊んでもらいたいですし」
「妖精達に怪我をさせるかもしれないのに……?」
「その時は、しかります。姉妹なんだから仲良くしなさいっ、って」

 レミリアと紫は、お互いに目を見合わせて、そしてそろって呆然とした。大妖精の言っている事が理解できなかったのだ。まったくもって論理的ではない。なぜ姉妹になれば、それでいいという結論になるのか……。

「私はママですから!」

 意味不明な大妖精の笑顔が、唖然とした二人を明るく照らした。不覚にもこの時レミリアは、その理解不能な笑みになんだか輝かしさを感じてしまったのだった。
 



 

 ぺっ、と隙間から吐き出されるようにして、レミリアと大妖精は元いた曇り空の湖畔へと戻ってきた。そういえばマヨヒガは晴れていて暖かかった。急激な環境の変化に一瞬違和感を得る。隙間はそのまま閉じた。少し肌寒い湖畔の風に吹かれて、二人の髪がさらさらとなびいた。

「じゃ、フランの所へいきましょうか」
「はい」

 結局――

 自分でも以外だったが、レミリアは大妖精の意見を受け入れた。一つには、これでまたフランドールが妖精達と遊べるようになるというのもあるし、また、この不思議な妖精と縁を通じておけば、芋づる式にフランドールの人脈が広がるのではと思った面もある。けれど、あれほどスカーレット家の一元教育にこだわった自分が、なぜ他人の乳をフランドールに混ぜさせる気になれたのかは、どうも理屈では語れなかった。チルノを守ろうとした大妖精に感じた共感が理由なのかもしれないし、大妖精のもつ母性をフランドールにも備えてほしいと思ったのかもしれない。
 好都合な事に、紫は授乳を拒んだ。

「私は、藍一人に全てを受け継がせる。そう決めているのよ。この隙間を操る能力は、一つの時代に二人以上が持っていてはいけない」

 結界の安定のためにどうのと、少し罰が悪そうに理屈をこねていたが、どうでもよかった。そもそも八雲紫みたいな怪しいやつの乳を妹に飲ませたくはなかったのだ。

「じゃあその代わり、フランドールさんの事はそっとしておいてください。私とレミリアさんがついていますし、何かあったら、必ず私が紫さんに相談しますから」

 大妖精はきっぱりと紫に言いつけた。レミリアにはそれが心地よかった。紫は、しばらく渋っていたものの、

「藍にいつも、母親のいう事には黙って従えと言いつけてあるし……今回だけは、大妖精ママのいう事を聞いてあげる」

 じゃっかんの負け惜しみみたいなものを含めながら、紫はしかたなく頷いた。
 ただ、

「私の幻想郷への想いは、親子の縁よりも重い。一人の妖怪と多数の妖怪を天秤にかけるのなら、私は迷いなく一人の妖怪を切るからね。それが誰であっても」

 と、今度は負け惜しみでもなんでもなく、そう忠告を残した。
 いつでも来い、とレミリアは不適に笑う。その時は、妹と一緒に、幻想郷の全てを敵にして暴れてやる。
 ――けれど今は。
 林の角を曲がると、木々に隠れていた紅魔館が視界に現れる。門の前には美鈴が、主の帰りを待っていた。
 
「わぁ。紅魔館に入るのは初めてです。ドキドキするなぁ」

 今は、このおかしな妖精に未来をあずけてみよう。






 妖精の森の奥深くには、誰もみたことのない巨大な木があるという。人間にはもちろん、天狗や妖怪達にもその在り処を知る者は無い。城を飲み込むほどのその巨大な木は、古文書にのみその存在の跡を伺うことができる。
 『ホームツリー』
 精霊達の住みかとなった大樹が、かつて存在し呼ばれていたらしい。出発前、パチュリーがそう教えてくれた。ついでにこうも言われた。

「枝を一本、折ってもって帰ってきてくれない?」

 レミリアは足元を見下ろして、一人愚痴った。

「悪いけど無理だよパチェ。とても館に入らない」

 レミリアは今、紅魔館の中庭の幅よりも太い一本の巨大な枝の上に立っていた。

「すごいな……」

 あたりを見回すと、同じような太い枝が、少し霞むの距離を置いて何本も何本も生えて視界を遮っている。その間から見える先には、今度は数え切れないほどの巨大な葉が多い茂っていて、空を覆い隠していた。けれど暗闇ではない。枝にこびりついた帯ただし数のヒカリゴケが、あたりをぼんやりと光らせている。枝のふちからそっと下を見下ろすと。枝の間にはるかかなたの地上がぼやけて見えた。上昇気流が、緑の匂いを含んで吹き上がってくる。と、その風にのって小さな妖精達が上昇してきた。妖精達はレミリアに手をふり、そのままさらに上に昇っていく。後を追うように見上げて、そしてレミリアは広がる光景に目を奪われた。そこには、おびただしい数の妖精達が、枝から枝へ、また枝の間の中空を、舞っている。1000か、2000か、数多の光点が、薄暗い緑の天蓋に星空のように瞬いた。まさしく妖精達の楽園。
 
「これがホームツリーか」

 伝説の場所に、レミリアは今たっている。
 どうやら今いる場所は妖精達の住まいよりは下の階層らしく、あたりは静かだった。
 右手には、木をくりぬいてつくった粗末な杯を持っている。その中には、琥珀色の液体が満たされていた。少しためらいながら、一口飲む。ハチミツを少し薄めたような甘いどろっとした液体が、舌の上を流れた。ホームツリーの幹から染み出る蜜だという。少し甘すぎるが、まずくはなかった。

「けど、咲夜の紅茶を持ってくるべきだったかしら」

 今日は、お茶会なのだ。
 大妖精がフランのためにひらいた交流会。
 当初は紅魔館で行う予定だったけれど、沢山の妖精達にフランドールをあわせたいという事で、この秘密の場所を使う事になった。だが簡単にはたどり着けない場所にあるため、今回ばかりはしかたなくレミリアも紫の協力を許した。というよりそもそも今回の題目が、『姉妹交流会』という事なので、紫も参加者の一人なのだ。紅魔館に全員集合したのち、紫の隙間で移動した。レミリアはフランのお目付け役だ。

「あら、一人で休憩中?」

 背後から呼びかけられた声にした打ちしながら、レミリアは振り返った。

「そうだよ。だから邪魔するな」
「つれないわねぇ」

 紫を連想させる、人を嘲るようなその口調。そういえば紫も、わりと傘を持っていることが多い。

「幽香。お前がいるとは思わなかった」
「うふふ」

 風見幽香。間違いなく風見幽香である。開いたパラソルを肩にかけて、怪しげに笑っていた。

「お前本当に大妖精の乳を飲んだのか?」
「本当よ。恐怖に顔を歪めたあの娘のおっぱいは、とてもおいしかったわ」

 加虐的な笑みを浮かべながら、手にした杯をレミリアに掲げ、乾杯の仕草をした。くぃっと杯を口元に傾ける幽香を、レミリアは忌々しく思いながら睨む。

「貴様がフランの姉妹になるとは……」

 聞いた話、大妖精はチルノの身代わりになって幽香に母乳を差し出したらしい。
 チルノと何匹かの妖精が幽香の花畑を荒し、怒り狂った幽香がチルノを折檻しにきたのだが、大妖精は自分が盾になって、乳をさしだしたという。母乳にはたしかに服従の意味があるが……。

「噛み千切ってやろうかしら?」

 そんな言葉をちらつかせながら、大妖精の乳首を吸ったらしい。もちろんわざと歯を立てたりなんてイジワルもしたのだろう。チルノや、一緒にいたずらをした妖精達は、泣きながらどうすることもできず立ちすくんでいたという。

「ほんの軽いお仕置きのつもりだったんだけど、可愛らしい反応だったわぁ」
「サディストめ」
「けれど私、あの子の事は好きよ。必死にチルノ達を守ろうとしたあの姿勢は、そそるわ」
「お前の『好き』はなんか歪んでいる気がするよ。頼むから、うちのフランにはあまり近づかないでくれ」
「そうそう初めて会ったけれど可愛い子ねフランドール。あんな子が私の妹だなんて、うふふ」
「ということはフランの姉である私はお前の姉でもあるわけだ。妹なら言うことを聞け」
「あら、私は乳縁関係をもってしてフランドールと姉妹になったのだから、貴方とは何も関係ないわよ」
「こんにゃろう……」

 俄かに妖気を纏いはじめたレミリアに対して、幽香は可笑しそうに笑いかける。

「まぁまぁ、折角のお茶会を台無しにしてはいけないわ。そうだ、そろそろ上に戻ってわ? そろそろフランドールのおっぱいも終るわよ」
「む……」
「私はもう少しここで休んでる」

 レミリアは矛を収め、枝の間を上昇していった。今のところフランは大妖精と二人きりでいるからいいが、授乳が終ってお茶会に戻ってきたら、側についやらなければならない。
 幽香のほかにも、フランに近寄らせてはいけない連中がいるのだ。

「まったく……いらぬ縁まで引き寄せてしまった」

 妖精達がもっとも濃く密集している場所を目指して、ホームツリーの巨大な植物圏内を上昇していった。

 
 

 

「がっははは! 上手い! この蜜は酒と混ぜると本当に上手いな!」
「瓢箪にいれたら混ざるかな! この微妙な甘さがたまらないねぇー!」
「早苗と諏訪子にも味わわせてやろう! 竹筒か水筒はないか!?」

 茶会の場になっている枝に近づくにつれ、そんな馬鹿騒ぎが聞こえてくる。レミリアは眉間皺をよせて嘆いた。

「なんで茶会で酒を飲むのかしらね」

 勇儀に萃香に神奈子の三人だ。この三人は博麗神社の宴会の折に、酔っ払って無理やりに大妖精の乳を奪ったという。レミリアはその場にはいなかったが、霊夢の話ではほとんどレイプまがいだったそうな。

「止めてやりなさいよ」

 レミリアがジト目で言っても、霊夢はひょいと肩をすくめただけだった。勝手に神社を使われてるんだから、そこで何が起ころうがしっちゃこっちゃいない、ということらしい。無情。
 一応三人とも反省して、わびとして時々チルノや妖精達と遊んでやっているらしい。よくよく、ろくな姉妹がいない。
 神や鬼とよしみを通じておくのは決して悪くは無いのだが、あのおやじくささがフランドールに伝染しないか、はなはだ心配だった。。
 三人につかまると面倒なので、遠巻きの騒ぎを眺めながら、レミリアは魔理沙と紫のところへ向かった。
 木のでっぱりに腰掛けている二人に近づくにつれ、もう一人、その場にいるのに気づいた。はてと首をかしげる。紅魔館から出発するときより、メンバーが一人増えているような……。

「おーレミリア。散歩は終わりか?」

 側に降り立ったレミリアに、魔理沙が声をかける。

「幽香に邪魔されてね」
「そりゃ災難」
「で……そちらはどなたかしら?」
「え?」

 魔理沙は、何のことだ? という風にきょとんとしてレミリアの顔をみた。見ると、紫も似たような顔をしている。まるで他には誰もいないぞといわんばかり。そんな顔をされても、こちらが余計にきょとんとさせられてしまう。

「そこに、ほら。いるじゃない。あんた達の間に……」
「へ……?」

 とレミリアのさすほうに首を向けた魔理沙と紫は、

「うわ!?」

 と、そろって驚きの声を上げた。

「こ、こいし! いつの間に!」

 と、魔理沙が指を指していった。

「やっほー」

 淵の長い帽子に銀髪を垂らした少女が、呑気そうな笑顔で手を降った。

「こいし?」

 レミリアには聞き覚えのない名前だった。

「地霊殿に住む妖怪よ。けれど驚いた」

 と、紫。

「ああ、地下にあるというあの。けど、どうやってここまで」
「紅魔館から皆と一緒にきたよ?」
「何? 見覚えが無いが……」
「あー、こいしは無意識を操るんだよ。だから、その場にいても誰も気づかなかったんだ」

 これはまたおかしな奴が現れたものだ、と思いつつ、聞いた事のない珍しい能力に、しげしげとこいしを覗き込む。まともそうな顔つきではあったが、なんとなくふぬけている感があって、ルーミアを連想させるものがあった。

「けど、こいしなんでここにいるんだ? 今日は姉妹のお茶会だぜ。大妖精のおっぱいを飲んだことがある連中だけの集まりなんだ」
「うん。私も大ちゃんのおっぱい飲んだよ」
「なに!?」

 と、今度はレミリアも一緒になって三人とも驚きの声を上げた。

「そ、そうなのか?」
「うん。無意識にいつのまにか飲んじゃってて。気がついて謝ったんだけど、どうせだからあなたも娘になったらって、大ちゃんが」

 あのお気楽ママめ、とレミリアは大妖精を歯で摩り下ろした。どうも大妖精は「娘」を「普通よりちょっと親密なお友達」ぐらいにとらえているふしがある。
 大妖精が乳をあげた連中はすべからくフランドールの姉妹になるのだ。もっと相手を選んで授乳してほしいものだ。今のところ碌なやつがほとんどいない。まぁ、腕っ節だけは頼もしいメンバーだが……。

「可愛らしい妹が増えて、嬉しいわねぇ」

 と、紫はこいしに軽く抱きついた。

「まぁ、そうだな。ははは。お前も仲間だ」

 と気楽に笑う魔理沙。こいしも楽しげに笑っている。
 呑気なやつらだ、とレミリアは溜め息をはいた。

「ところで、フランと大妖精はまだ上?」
「そうみたいね。もうしばらくで、おっぱいも終ると思うけど」
「そうか。ちょっと様子を見に行ってくる」

 そう言って、レミリアはまた飛び立った。見下ろすと、一本の太い枝の上で、数多の大妖精がヒラヒラと舞い踊り、その間にできた気泡のような隙間で、神奈子達が、そして魔理沙達が楽しく騒いでいる。これが皆、フランドールの姉妹達なのだ。もちろん本当に血が繋がっているわけではないし、冗談まじりの表現ではあるけれど、その縁を元にこうして皆が集まっている。その輪の中にフランドールも属しているのだと思うと、むず痒いような何かにキュッと抱きしめられるような、不思議な高揚感がレミリアの体を満たすのだ。
 今ならば、大妖精と、そして紫にも、心から感謝できる。 






 ホームツリーの幹の先端に大妖精の新しいねぐらがある。先端といっても、幹が巨大なため家が何件も納まるほどの広さの平坦な場所だ。この樹に住む妖精達にとっては何か特別な場所らしいが、そこに大妖精が住むようになったということは、やはり一方ならぬ存在になったということなのだろう。
 空を遮る巨葉がもっとも薄い場所で、僅かに太陽光が届いている。
 シンとして、ときおり風に擦れる葉が音をたてる以外は、静かな空間。
 その中央に、大妖精はいた。
 ぺたんと座り込んで、木のコブに背中を預けている。その胸に抱かれているのはフランドール。大妖精のあらわになった乳房に、吸い付いていた。
 頂上にやってきたレミリアは、その二人の姿を認め、近づいていった。ふと、透きとおる大気を通して大妖精の鼻歌のようなものが聞こえてくる。ゆっくりとした子守唄のようなメロディ。フランドールは安心しきった様子で大妖精のおっぱいを吸っている。僅かに嫉妬を覚える。一月ほど前までは、あれは自分だけの役目だったのだ。
 レミリアは授乳の邪魔にならないように、そっと音をたてずに二人のすぐ側に着地した。
 大妖精はチラリと目を向けて、軽く微笑んで挨拶をした。レミリアも、同じく返す。
ときおり、ちゅっ、ちっ、ちっ、とフランドールの唇から聞きなれた音がもれてくる。
 ほどなくして、フランドールの授乳は終ったようだ。
 大妖精の乳首が、唇から介抱される。

「もういいの?」

 優しい声で大妖精が囁きかける。

「うん。おいしかった。えへへ、ママぁ」

 その妹の柔らかな声色も、やはりかつては姉一人だけのものだったのだが。

「……うおっほん」

 レミリアはつい我慢できずに、自己をアピールしてしまった。

「あ、お姉さま」
「フラン。お腹一杯になった?」

 笑顔が引きつっていないだろうか、なんて事を考えてしまう自分が情けない。

「下で皆お茶を飲んでるわよ。フランも一緒にお喋りしない?」
「うん、そうする」
「私は大妖精と少しお話をしていくから、先にいってて」
「そう? じゃあ早くね!」

 言うが早いか、フランドールは飛んでいってしまった。この一月のところ、フランドールは誰かを傷つけるような事はしていない。かと言って目を離すのは危ないが、下には紫がいる。しっかり監視してくれるだろう。いつのまにか紫をあてにしてしまっている自分に、少し戸惑う。これが慣れというものなのだろうか。

「ご苦労様、大妖精」

 大妖精は乳首と乳輪についたフランの唾液を木の葉でふき取っている。

「フランちゃんは吸う力が強いから、乳首がとれちゃいそう」
「分かるわ」

 あははは、と二人で笑う。大妖精と感情を共有することに、もはや抵抗はない。
 思えば不思議な運命だ。最初に大妖精が現れたときは、やっかいな事態になってしまったとほぞを噛んだものだが、今となっては、出会えた事に感謝している。そして今の状況は成り行きによるものではなく、間違いなく、大妖精の意思があったからこそだ。

「なぁ大妖精」
「はい?」
「私はお前に嘘をついていた事がある」

 告白というものは何かしら胸が躍るものだと聞くが、レミリアの心は今、ひどく落ち着いていた。大妖精は衣服をなおし、少し首をかしげてレミリアの言葉を待った。

「フランの遊び相手にお前達を選んだのは、お前達が素直で無害だからじゃないんだよ」

 一拍おいて、懺悔を続ける。

「お前達なら、死なせてしまっても大丈夫だろうと考えたんだ。非力で、臆病で、たいした騒ぎにもならないだろう。フランの生贄には丁度いい、ってね」

 努めてそうしているのか、大妖精の表情に感情は浮かんでいない。ただ黙って耳を傾けている。

「けれどそれは私の間違いだったよ。すまなかった」

 そう謝って、最後に小さく頭を下げた。
 大妖精は腕を組んで、レミリアを叱った。

「まったく。吸血鬼は皆そういう偉そうな考え方をしているんですか?」
「強気な考え方ができない連中は、皆滅んでいったさ」
「野蛮な方たち」
「そういう種族なのよ。けど……フランは違う。あの娘の心はまだ真っ白」

 何を言わんとしているのか、大妖精にもおぼろげに分かったのだろう。大妖精は少し遠い目をして、その瞳は無邪気な幼い吸血鬼を見つめているに違いない。フランドールの教育について、二人の意見は一致しあっている。

「私のもつ伝統的な吸血鬼観と、お前の平和ボケした幻想郷的な価値観が合わさって、あの娘はきっとこの世界に適した吸血鬼になってくれる」
「またそうやって人を小馬鹿にする。フランちゃんは、レミリアさんみたいな性格にならないように、しっかり育てないといけませんね」

 二人が粗野な微笑みを交し合った。
 ひとしきり笑ったあと、大妖精はコホンと咳払いをして、居住まいを正して言った。

「ねぇ、レミリアさん」
「うん? どうした改まって」
「私……良いママになれるかな」

 何かの冗談かと思って大妖精の顔を伺う。けれど、いたって真面目な質問らしい。
 レミリアはありのままを告げた。

「分からないけど、なってもらわなきゃ困るわね」
「……そうだね。頑張る」

 少しの不安と沢山の決意がブレンドされたそんな笑顔を大妖精が浮かべた、その時だった。
 突然、大きな爆発音がなり響いた。音波はわずかに間延びしていたが、発信源はそう遠くないように思える。そして一瞬おくれて、今度はまるで大地震が起こったかのように、二人の足元がぐらぐらと揺れ始めた。地のそこから響いてくるようなくぐもった悲鳴と共に、幹が軋む。

「何!?」

 大妖精の悲鳴と、何万枚もの葉が擦れあう何重にもおしよせる波の音にうたれながら、レミリアは恐ろしい一つの可能性を思い浮かべていた。

「ま、まさかフランが」

 顔色を青くしながらレミリアが大妖精に語りかけると、すぐにその色が大妖精にも伝染した。

「い、いきましょう!」
「ええ!」

 二人して慌てて駆け出す。地面が揺れるので、飛んでいく。振動は伝わってこなくなったが、まだあたりの葉がざわざわと揺れていた。

「ああもう! やっぱり目を離すんじゃなかった! 私は救いがたい愚か者だわ!」
「お、落ち着いてレミリアさん、まだフランちゃんだと決まったわけじゃ……」
「例えそうにしても何かが起こったのよ! ああ、フラン!」

 この一月近く何もなかったとはいえ油断しすぎたのだろうか。おりしもお茶会で沢山の妖精や妖怪が集まっているのに、そんなところでフランが暴れたらどれだけの負傷者がでるだろうか。負傷ですめばまだいいが、それ以上の重症を負うものだっているかもしれない。まして幽香や紫や危ない連中がいるのだ。そんなところでフランは――。

「ああもう!! ちくしょおっ!!」

 癇癪とともに漏れでた妖気がレミリアの体を紅色に発光させる。
 と、並走飛行していた大妖精がいきなりレミリアの腕を掴んでその場に急停止した。

「な、何よ!」
 
 食ってかかると、大妖精はレミリアのデコに指でピンをした。

「痛っ!?」
「もう! 落ち着いてください! レミリアさんはフランちゃんの事になるとすぐ取り乱すんだから! そんな様でフランちゃんを守れると思ってるんですか!」

 火山の噴火のような大声だった。耳なりがキーンとして、レミリアは呆然と、大妖精の大きくみ開かれた瞳に吸い込まれる。かつてチルノを守ろうとした時のあの目だ。有無を言わさぬ意思の強さがある。
 
「はい! 深呼吸して!」
「う、うん」

 二度三度、深呼吸をする。その間ずっと、大妖精はレミリアの手を握っていた。そ小さな手がまた、レミリアを落ち着かせてくれる。
 ふと遥か下方から、風にのってざわめき声のようなものが聞こえてくる。吸血鬼の鋭敏な聴覚はそれをとらえた。魔理沙や神奈子達の声だ。悲鳴や、罵声ではない。どちらかというと湧き立っているような……?
 周囲の情報に気を配るのは当然の所作なのに、それを見失うほど自分は動転していたのか。

「落ち着きました?」

 恥じ入りながら頷くと、大妖精はにっこり笑って、レミリアの手を握ったまま、また下降し始めた。
 いったい大妖精の頼もしさはどこから来るのだろう。握られた手の力強さを感じながら苦笑する。非力で頭もそれほど良いわけでもなく、妖精達のボスと表現すれば聞こえは良いが、妖精を集めたところで何ができるわけでもない。
 なのに大妖精は時々レミリアを圧倒する。
 これから何百年か、フランドールの教育にはそれほどの長い時間が必要だ。その間に、何度間違いや事件が起こるだろう。けれど、大妖精がいてくれるなら、かならずフランドールを正しい方向に導いてやれるような気がするのだ。

「大妖精」
「はい?」
「フランドールを頼んだわよ」

 脈絡もなく言ってしまった。けれどこういう時にドサクサ紛れに伝えておかねば、天邪鬼な自分には中々言い出せないのだから。
 大妖精は髪をたなびかせながら、レミリアの方を向いて、にっこりと笑った。

「もちろん、ママですから!」

 レミリアはそっぽを向いた。

「前を向いて飛べ。危ないだろ」

 願わくば、妹は姉に似ず素直な娘に育ちますように。






 にぎやかしさはつかの間の事、妖精の樹はまたすぐに、時間が止まったような静けさに包まれた。大樹が呼吸しているかのような上昇気流の低い唸りと、風にゆれる葉のささめき。それらは全ての妖精達にとっての子守唄だった。
 ある夜、大妖精は大きなウロの中で、妖精にお乳をあげていた。そのウロは天然のものではない。一月か二月か前のお茶会の折に、勇儀とフランが戯れに力比べをして、大きなウロが二つ、拳の一撃によって生まれた。どちらも家一軒がすっぽり収まるほどの空洞で、妖精達の新しい溜まり場になっていた。授乳の邪魔はしない決まりになっているので、今はウロの中に二人だけだ。
 きゅむきゅむと、小さな妖精が大妖精のおっぱいを一生懸命に吸い続ける。大妖精の乳首はとても小さな牡丹粒だけれど、それでも体の小さな妖精にとっては大きな大きな桃にしゃぶりつくようなもの。大口を開けて、体いっぱい大妖精の乳房にしがみつく。その一心不乱な仕草がまた、愛らしくてならなかった。
 気がつけば鼻歌を口ずさんでいた。どこで覚えたのかは分からない。ただ、自然と体がメロディを紡ぐのだ。
 乳を吸っていた妖精が、ぷはっ、と愛くるしい息を吐きながら口を離して、顔をあげた。お乳を吸う間にずぅっと息を止めてしまう不器用な子だった。

「ママー」
「うん?」

 まだたどたどしくてか細い声だけれど、それは間違いなく言葉を成している。
 このごろ言葉を話すことができる妖精がだんだんと増えてきていた。もしかすると大妖精のお乳のおかげなのかもしれない。

「スキー」

 そう言いながら、妖精は大妖精のなだらかなおっぱいにすりすりと頬擦りをした。無条件の好意ほど心に届くものはない。大妖精は優しく両手でくるんで

「私も好きよ」

 と告げると、妖精は

「オッキク、ナッタラ、ママノオヨメサンニナルー」
「うふふ。そうなの。嬉しい」

 大妖精はふとその小さな妖精の笑顔の奥に懐かしさを得ていた。かつての自分が、そこにいる。誰しもの心にあって、親から子へと受け継がれていく思い。己の心の奥で、忘れていた何かが、はっきりとつながっていくのを感じた。それが一体なんなのか探り寄せようと、心のうちを探る。
 けれどふいに強い風が吹き込んで、無想は中断させられた。

「サムイー」

 妖精は体を震わせながら、大妖精の服の中にもぐりこんだ。首筋からピョコンと顔を出して、大妖精は人指し指でその小さなあたまをなでてやる。
 大妖精はそうでもないが、妖精達は皆気温の変化に弱い。
 そういえば、妖精の樹の枝の葉も随分と少なくなった。今では天蓋に隙間が開いて、星明りが覗き込んでいる。

「そっか。もうそんな時期か」
 
 今年もまた冬がやってくる――






「おかえりレティ!」
「おかえりなさい」

 ――ただいま!






 チルノは、冬終りのそれとはまた違う意味でレティから離れなかった。一日中レティと一緒にあそんで、また年ごろにあった様々な出来事を嬉しそうに話続ける。レティは一つ一つ丁寧に頷きながら、ニコニコと耳を傾ける。
 あまりのはしゃぎっぷりにちょっと嫉妬してしまうくらいだったけれど、大妖精だってレティの帰還を心待ちにしていたのだ。チルノほどではないにせよ、いつになく気持ちがはずんでいた。






「偉いわ。よく頑張ったわね」

 大きな手で頭をなでられて、大妖精が喉をなでられる猫のように緩んだ。大妖精がこの一年の奮闘を語り始めると、さすがにレティも驚きを隠せないようであったが、大妖精が語り終えるまで、じっと話を聞いてくれていた。
 チルノは二人の側で眠りこけている。朝から夜までずぅっとレティと遊んで、つかれきっているのだろう。
 輝く月が空を深い藍に照らし、夜の底では白銀に染まった幻想郷の大地がぼんやりと月灯りを反射している。
 ある雪山の山頂に、三人は寝そべっていた。

「フランちゃんはちょっとヤンチャだけど、良い子なの。レティも遊んであげてほしいなぁ」
「もちろん。大妖精のおっぱいを飲んだ子なら、私の家族のようなものだもの。けれど本当に驚いた。貴方が妖精達のお母さんになってるなんて」
「えへへ……私、頑張ったよ。良いママになりたくて、一生賢明に頑張った」

 ちなみに今は、三人の周りには妖精達の姿はない。妖精はこんな寒い雪山には入ることができないのだ。ならばなぜ、自分は大丈夫なのだろう? 大妖精は何度か不思議に思った事がある。その時は適当に、チルノやレティと一緒にいる時間が長かったから自然と寒さに強くなったのかな、なんて考えていたのだが。

「大妖精」

 レティは甘い声で囁きながら、ごろんと横になって、大妖精の体を優しくだいた。レティの大きな胸に顔が埋もれる。レティの匂いが鼻にも口にもいっぱいに広がって頭がぽわんとする。

「立派なお嫁さんになったね」

 トクン、と大妖精の胸がときめいた。
 けれどどうしても一つ、気になっている事があった。

「ねぇレティ」
「ん?」
「もしかして……レティは私におっぱいをくれたことがある?」

 そう言って顔をあげると、レティの深い瞳が大妖精を捕えた。それは、まるで自身の過去を大妖精の瞳の中に眺めているような、遠い目をしていた。大妖精はただドキドキして、じっと見つめることしかできなかった。
 少しして、レティが大妖精の額に軽くキスをした。そうしてそのまま、子守唄のような調子でゆっくりと語り始めた。

「昔々――」

 ――いつも私の後を追いかけてくる可愛い妖精がいたの。手のひらほどの小さな妖精さん。私の体はその子にとってはつめたすぎるはずなのに、いつもくっついてくるの。それがいじらしくて、可愛くて、私もそこ娘が大好きだった。冬が来るたびに、いつも遊んであげたわ。私が残雪を追いかけて雪山に閉じこもる頃が近づくと、その娘は泣きべそをかいてた。さすがに雪山には寒すぎて追いかけてこれなかったね。けれどある冬の終わり……私を追いかけて、その娘は雪山に入ってしまったの。それまでになかったことだから、私はなかなか気づかなかった。気がついた時、その娘の体は冷えきっていて、もう意識もなくて、空に還ってしまう寸前だった。私はなんとかその娘を助けたいと思ったわ。それで、一か八か、お乳を上げたの。もう吸い込む力も残っていなかったから、苦労しながらなんとか口移しでね。そして最後の力をふりしぼって、山の麓まで運んだわ。けれどそこで私の力が尽きてしまった。一人原っぱに置き去りにしたまま、私は消えてしまった。次の冬がきて、私は必死の思いで彼女を探し回ったわ。すると、一人のとても大きな妖精が、まるで去年までその娘みたいに私に抱きついてきた。そうして嬉しそうにいうの。「おかえり!」ってね。びっくりしたけど、私はすぐに気づいたわ。だってあの娘もその大きな妖精も、とても綺麗な緑の髪をしていたんですもの。私のおっぱいがその娘に力を与えたんだと思う。気を失っていたせいで、その娘はお乳の事を覚えてないみたいだったけれどね。チルノと出会う、ずっと前の話よ――

 語り終えて、レティはまた大妖精を抱きしめた。
 大妖精は唖然として言葉がなかった。己の頭がジンジンと脈打っているのを感じた。まるでフランドールの炎を間近にした時のように、脳髄が火照っている。またある一方では、冷たさのような鋭さのような、何か鋭角な衝撃が、心の中を席巻している。けっして不快な感覚ではないが、それまでの世界が切り刻まれていくような、経験した事のない虚脱感があった。まるで体が動かない。
 けれど――全てがつながった。お乳が不思議な色をしているのも、とてもに寒さに強いのも、自分の体がこんなに大きいのも、レティをこんなに大好きなのも――。

「黙っててごめんね。隠していたわけじゃないんだけれど、なんとなく話す機会もなくて」
「う、うん……」

 レティは静かに大妖精を抱いて、落ち着く時間を与えてくれた。
 長い時間がたった。
 火照っていた顔はなんとか落ち着いて、体中の脱力感も今は消えた。そうして最後に残ったものは……喜びだった。
 レティと自分の間には深い絆がある。それを理解したとき、大妖精の心はとても暖かいものに満たされていた。

「レティ……」
「なぁに?」
 
 一瞬口ごもって、大妖精はレティの胸に口元を押し付けて、言った。

「おっぱい、ほしい」
「……立派なママになったと思ったら、まだまだ甘えんぼさん」

 レティの声はふわりと笑っていた。

「いいわよ」

 そう言ってレティは、寝転んだまま、上着をたくし上げた。

「……ふわぁ……」

 大妖精の目の前に、自分の顔ほどもある大きなおっぱいがあらわになった。なだらかで小さな自分のおっぱいとはまるで違う。その乳房は、お月さまのようにまるく、ふっくらとその身をそびえさせている。その先端には、胸の大きさからすると少し小さめに感じる乳輪と乳首が桜を咲かせている。ミントとオレンジを甘くしたようなレティの匂いが、よりいっそう強くなった。

「久しぶりね。たんと飲みなさい」

 レティが力んで、おっぱいが少し揺れる。すると乳首の先から、にゅるんとお乳が湧き出た。その色は、大妖精と同じ紫白色だった。
 大妖精の唇が僅かに震えた。それから乳頭に近づけて、そっと口をつける。乳首の柔らかさと暖かさが、唇に伝わる。

「い、いただきます」

 レティはこくんと頷いた。
 大妖精は口をあけた。恐る恐る、おっぱいにかぶりついていく。
 思えば、何百という相手におっぱいをあげてきたのに、自分が誰かのお乳を吸った事はなかった。かつて一度はレティのお乳を吸ったのだろうけど、その直接の記憶はない。
 鼻があたって、レティのおっぱいがもにゃんと形を変えた。例えようがないくらいに柔らかい。大妖精はおもいきって、顔をおっぱいに埋めた。乳房はその顔を優しく受け止めた。柔らかくて気持ちいい。口を閉じる。レティの乳頭のこりこりとした感触が、舌の上にある。大妖精は思うがまま、レティに抱きついて、そして力いっぱいに口を窄めた。
 ちゅるん、と、不思議な暖かさの液体が、口に入ってくる。風味は何もなかった。けれど、美味しい。これがお乳なんだ。奇妙な感動を得ながら、大妖精は何もかもを忘れてお乳を飲んだ。
 いつの間にか、レティが子守唄を口ずさんでいた。それは、大妖精が妖精達におっぱいをあげながら口ずさむ、あのメロディだった。

 ああ、自分は何もかもをこの人から受け継いだんだ……

 幸福感が体を満たし、大妖精はおっぱいに吸い付いたまま、舌ったらずに呟いていた。

「ママ――」





~ 終わり ~
紫「コンニチワおばあちゃん♪」
レティ「うぎぎ」



お読みになってただきありがとうございます。
長いSSなってしまいましたが、お楽しみいただければ恐悦至極……。

タイトル候補

大妖精はぽよぽよザウルスがお好き
私がママになったわけ
幻想郷乳姉妹
今度こそ黒幕

お目汚し

3/22.誤字修正 ご指摘いたみいります。
3/23.誤字修正 私のほうこそグウタラ童子ですorz ありがとうございます。
KASA
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コメント



0.2620簡易評価
1.100変わらないゆで卵(ウメハラ)削除
良の一言
2.100名前が無い程度の能力削除
ちょっと授乳して来る
5.100名前が無い程度の能力削除
なんだろう…ささやかなカオスとほんのり感
すばらしいです
6.100愚迂多良童子削除
話の構成が上手いと思いました。
最初、魔理沙が授乳するところに違和感を覚えたんですが、それはフランとチルノの一件で魔理沙を絡ませるためだったんですね。
しかし、授乳ですか・・・
雲山はどうするんだろうか。

誤字報告的な
>>この場には不釣合いな小物にしか見えないの。だがチルノを守ろうとして
間の句点が余計かと。
>>迷いの森
直前に蓬莱人云々といっているので迷いの竹林じゃないですか。
>>蓬莱人達を館に正体してみてはどう
招待
>>「レミリアさんは自分の意地を優勢してるみたい……」
優先のほうがあってると思います。
>>っ風にゆれる葉のささめき。
最初の「っ」が消し忘れ?
>>けして不快な感覚ではないが
けっして
>>そ乳房は、お月さまのようにまるく
その?
7.100名前が無い程度の能力削除
色々なことがぶっとび過ぎだけど面白かったからいいや
授乳はいやらしい行為じゃないんです!愛です!
8.100名前が無い程度の能力削除
素晴らしいの一言
14.100名前が無い程度の能力削除
大ちゃんでした。
とっても大ちゃんでした。
最初に紫が脱ぎだした時はどうしようかと思ったけど、ホンワカしていて大変良かったです。
大ちゃん可愛い。
甘えん坊達可愛い。

ところで……誰かが言う前にこれだけ置いておきますね。
っ【>301 ドゴォ!】
15.100名前が無い程度の能力削除
本当にいい迷作を作るな貴方はwww
とてもいい設定だったしなんだか心があったかいよ
18.100名前が無い程度の能力削除
今年一番恐ろしい話だ。
22.100名前が無い程度の能力削除
氏には是非とも我が道を進んで欲しい
これからも期待させて頂きます
25.無評価名前が無い程度の能力削除
なんと優しい幻想郷なんだろう。ハラショー!
26.100名前が無い程度の能力削除
↑点数を忘れました。楽しい作品をありがとう。
28.100名前が無い程度の能力削除
三国志時代とかやくざの親子の杯のようなものだなと思った
最初はカオスだと思ったけどすごく良かったです
31.100名前が無い程度の能力削除
俺も大ちゃんの乳飲みたい
33.100名前が無い程度の能力削除
つまり…おっぱいは世界でありおっぱいこそが真理であるということか!!
えっちぃのにえっちぃくない。ふしぎ!!
34.100名前が無い程度の能力削除
このイマジネーションはどこから来るのか…
超設定なのに不快に感じないのは、作品に対する愛が溢れているからなのかな。
表現も素敵で、光景が目に浮かびました。
ただ、怒濤のように繰り出される誤字だけが惜しい。
あと、
>カピバラにとってのヒグマだとか、そういう…

この例えは余計分かり辛いですww
35.100名前が無い程度の能力削除
超展開をニヤニヤしながら見てた筈なのに気づけばのめりこんでました。すげえ。
36.無評価愚迂多良童子削除
すみませんもう一個。
>>大妖精と感情を共有することに、も抵抗はない。
間に読点が入っています。
40.100名前が無い程度の能力削除
おっぱい
41.70名前が無い程度の能力削除
面白かった。
スカーレット姉妹は大好きだけど、その部分は蛇足に感じた。
43.80名前が無い程度の能力削除
くだらないギャグ物を求めて開いたつもりが、予想外にちゃんとした話でした。まともかどうかはさておき。

ちょっと魅魔さまのお乳飲んで魔理沙と兄弟になってくる!!
45.70名前が無い程度の能力削除
一番心配なのは大妖精の乳首が黒ずんでしまわないかということだ
何はともあれアイディアが面白かった
48.60名前が無い程度の能力削除
アイディアも良いし、話もテンポがよくて読みやすかった。
大いに楽しませてもらいました!
ただ、大妖精の解決法にはなんだかわだかまりと言うか、疑問が。
直接的な繋がり(授乳をさせ娘にする)がなければフランドールと妖精は共存は出来ない。
無理繰りだと思いました。
娘ならば、争いや問題は何とかする→娘じゃなければダメ!
結局身内以外とは、全くの他人とは共存出来ないのか。
それは、人を受け容れる事でも許す事でもないじゃないか。
ちょっとアンニュイになりました。
55.80名前が無い程度の能力削除
少し人を選ぶ話かなぁ。
授乳中の描写が妙に生々しくそれが少し苦手だった。
56.100名前が無い程度の能力削除
愛を感じました
59.90名前が無い程度の能力削除
長かったけど、読んだ甲斐がありました!
そこかしこに散りばめられた誤字脱字の類が無ければ文句なしです。
61.80名前が無い程度の能力削除
出オチだと思ったら普通にいい話や!母親とはいいものだな。

しかし上でも指摘されていますが誤字脱字が多いですね…。書こうと思ったけど多すぎるので断念、ご自分でもう一度読みなおすことをお勧めします。内容はいいのに勿体ないです。
62.100名前が無い程度の能力削除
ギャグ物かと思ったらほのぼの&シリアスだった。
ちょっと誤字が気になったけど、文句無しで良作だと思います。
64.100名前が無い程度の能力削除
百点入れます
65.100名前が無い程度の能力削除
 ふと気になった点が一つ…
あれ、咲夜さんてたまに人里に現れませんでしたっけ? 大妖精(妖精たちを束ねる妖精)のウワサ、耳にしたことなかったのかな?
もし知っていたなら、どうして認識の誤りを正さなかったんだろ。
まあ多分あそこまでの大集団を形成してるなんてさすがに予想してなかったんでしょうね。
66.100名前が無い程度の能力削除
おっぱいがゲシュタルト崩壊した
でも魅魔様の搾乳ならちょっと見たいかも
67.100名前が無い程度の能力削除
面白かった
68.100名前が無い程度の能力削除
タイトルで予想できないお話でした。
搾乳というひとつのコミュニケーションが作った時代・文化を感じます。

幽華さん、あんたって人は…
74.100名前が無い程度の能力削除
これは傑作。
生々しい乳の描写が読む人を選びそうだけど、それが話の説得力を強めていると思います。
本当に面白かったです!
75.90名前が無い程度の能力削除
こいつぁひでえw
76.100名前が無い程度の能力削除
これぞ私が求めていた話ですよ!こんなにおっぱいなのに!こんなにおっぱいなのに!まったく卑猥さや汚らしさを感じさせない!「乳」がKASAさんの巧みな文章でオトナで怪しい雰囲気から切り離され、さわやかで愛に満ち溢れたものになっています。こんなにおっぱいなのに、こんなに清々しい気持ちになったのははじめてです!ルネサンスのミロのヴィーナスですよこれは!
91.100名前が無い程度の能力削除
なんなんこの話wwwww

前半部よみおわっただんかいで圧倒的分量に気づくと共にただの授乳の話じゃないだとと困惑

そこからの展開
いやぁ~見事ですわぁ…