「フラン。お前クレヨンくさい」
紅茶にミルクを注ぎながら、挨拶をするかのようにレミリアは言った。
透き通った紅色に、乳白色が溶け込みながら落ち沈んでいく。スプーンがカップの内側を鳴らす音が、だだっ広い居間の四方に行き届いた。
二つの色が混ざり合ってミルクティーへと変化していく様を見届けてから、ようやく自分の妹へ向き直る。
ついさっき姿を表したばかりだというのに、フランドールはもう我が物顔でテーブルについて、ナプキンを首から下げていた。
「咲夜。私にも紅茶をお願い。ミルクもお砂糖も要らないわ」
「その必要はないぞ咲夜。あとケーキを追加で持ってこい。勿論、私の分だけな」
二人の命令に応じて、間髪入れず紅茶とケーキがそれぞれ表れた。
テーブルの傍らでは十六夜咲夜が変わらず瀟洒な立ち居振る舞いをしている。
忌々しげにその姿を見やるレミリアに、フランドールは紅茶を一口すすってから涼しげな様子で口を開いた。
「なぁにお姉様? 独り占めだなんて。お腹がぽっこり出るようになったら、みっともないわよ」
「どこぞの阿保が忌々しい臭いひっさげて出てこなかったら、カロリーを過剰摂取してまで口直しする必要もなかったんだがな」
「何を言っているのか分からないわ」
「お前の体臭が、三十色セットのクレヨンをひっくり返して粉々にした時みたいだって言ってるんだよ。……ああ、これじゃ紅茶の香りもケーキの味も分かったもんじゃない」
生クリームに飾られたイチゴを突き刺し口に運び、音を立てずに噛み潰し飲み込んでから。レミリアはしかめっ面でこれ見よがしに嘆息した。
甘酸っぱい匂いをした幸せは、しかし熱砂に垂らした露のようにかき消されていく。
レミリアの言葉は根も葉もない難癖ではなく、確かにその空間を酸素よりも多くの割合で、クレヨンに似た臭気が占めているように感じられるのだった。
「でも、お姉様。それは当然のことなのよ」
並々と注がれた紅茶が、息吹でしつこいぐらいに揺らされた。その間に咲夜が悪臭に耐え切れず時を止めてむせ込んだが、フランドールは当然それを知る由もなく、そのままに告げる。
「だって、私の羽がクレヨンになっちゃったんだから」
◇
「それで? 私は妹様と貴女 のどちらの頭をまともにするべきなのかしら」
事の始まりを聞き終えると、パチュリーは分厚い古書をそっと閉じた。それでもその音は、書架の隙間を縫って図書館全体に響いていく。
合図として受け取ったのか、小悪魔が二人分の紅茶を持ってきたが、どちらもそれには手をつけようとはしない。
「誠に遺憾ながら、どっちも正常だよ。……今回の件とは関係無しに、フランの頭をまともにしてほしいというのはあるかもな」
「ロボトミーだなんて随分と過激な事を要求するのね」
「何だそりゃ。河童が作った例のアドバルーンのミニチュアでも出来たのか? あの亡霊の屋敷の奴みたいに」
「あんな見掛け倒し、作ったって面白くも何ともないわよ」
パチュリーは二人分の砂糖を、それぞれカップに放り込んだ。
跳ね上がった紅茶の雫が漂わせる香りに、レミリアが恥ずかしげもなく鼻の頭を動かすのを見て、目を伏せ僅かに口角を上げる。
「随分と参ってるみたいね。それにしたって、今頃になって私を頼るだなんて薄情が過ぎるんじゃないかしら。一週間前にそんな事があっただなんて初耳よ」
「あいつの悪戯を一々真に受けるわけにもいかない。……と、思ったからな。まさか、その類じゃなかったとは」
「たとえ悪戯だとしても、そんな興味深い自体を私に黙っておくだなんて。今後はそういうの無しよ。それを条件に探してあげる」
「頼んだ」
その言葉に満足気に頷いてから、パチュリーは二度三度手を叩いた。軽快な音を聞きつけて小悪魔が表れる。
「さてと、小悪魔。吸血鬼に関する蔵書はそれなりにあったはずよね?」
「はい。お屋敷がお屋敷ですからね。ただ、それだけだと流石に多すぎるのでは」
「ああ、大丈夫。もう一つのキーワードが厄介だから。――クレヨン、あるいはそれに準ずる何か、でお願いね」
「はあ、クレヨンですか。かしこまりました」
言葉とは裏腹に小悪魔の頭には疑問符が見え隠れしていたが、そこは自分が考えてもしかないと割り切ったのだろう。すぐさま小走りで捜索へと向かっていった。
「期待はしないでちょうだいよ。見聞した記憶が一切ないんだから」
「私だって同じだよ。……少しでも、心当たりはないか?」
「そう言われたって、せめてヒントが無いと。そうね。羽がクレヨンになってから、妹様は何をしてるの?」
「そこかしこの壁に羽 で絵を描くようになった」
「は?」
咎めるような調子の声をお茶請け代わりに、程よい温かさになった紅茶をレミリアは飲み干した。
「咲夜がその度に拭き掃除してるのが大変そうだと、メイド妖精の間で同情票多数だ。全く、ブン屋にでも嗅ぎつけられてスッパ抜かれたらどうする。スカーレットの名折れだ」
「レミィは直接、その目で確かめたわけじゃないのね」
「優秀な掃除係が居るからな。私が見る限りじゃいつも通りだ。――全く、それにしても恥も外聞もなく、あんな臭いひっさげてふらつき回って。誤魔化すためにわざわざ香水をボトル丸ごと渡してやったのに、クレヨンのそれと混ざって酷いもんだ。まあ、少しはマシかもしれないが、わざわざ屋敷中歩きまわって醜態を晒すだなんて何を考えているんだか。そもそもあんな羽になって、吸血鬼としての能力は今まで通りなのか? 魔理沙辺りに普段どおり弾幕ごっこでも仕掛けて、まんまと敗北でも喫してみろ。いい笑いものになるだろうよ。なあ、そうだろ?」
「そう、ね」
ふうん。と、またもや魔女は繰り返した。膝下を見つめ、ぶつくさと羽虫がうごめくような声をつぶやいている。
視線を寄越すも、かち合う事はない。レミリアの足下で、不規則なタップの音が無意識にに鳴り始めた。
それがどれ程刻まれただろうか。ようやくパチュリーは瞑想にも似た思索を終えた。
「ねえ、もっと素直になったらどう?」
「……どういう意味だ」
「そのままの意味よ。さて、今日はこれにて閉館。またの機会は更に一週間後にでも」
「って、おい。パチェ!」
「閉館後であっても――」
席を立ち、パチュリーはその唇に人差し指を当てる。
「図書館ではお静かに」
書架から伸びる影へとその身を隠した親友の姿を、レミリアは膝の上に握り拳を作ったまま見届けることしか出来なかった。
その拳が震えをこらえきれず、テーブルに叩きつけられた。
願われた静寂は破られ、ささやかなお茶会を演じていた演者達 が慌てふためき悲鳴をあげる。
魔女に飲み残された紅茶が溢れて、真紅のクロスをより一層深い色合いたらしめた。
それを影から見届けて、呟く。
「本当に。素直じゃないわね、二人とも」
◇
「なあ、咲夜。もう一週間経ったよな」
「はい? 申し訳ございません。何の話をされているのやら」
「いや別に。こっちの話だった。忘れろ。……あの愚鈍で頭でっかちのカビた紫モヤシが」
せめて「見つからなかった。ごめん」ぐらいの報告はしろと、図書館であくせく蔵書をあさってくれたのを労う気持ちを微塵も含ませないままに、憤りの念が送られる。
元よりホコリっぽい場所のことだから、クシャミはほんの少しではとどまらないだろう。
意味深な事を言っておいて、あれきり図書館から誰も彼も見境なしに突っぱねた罰としては、それでも足りないぐらいだ。
少しばかり溜飲が下がり、これで存分に紅茶の味が楽しめるだろうとレミリアは顔を綻ばせた。
しかし、そうは問屋が卸さないとばかりに新たな厄介事は軽やかな足取りでやってくる。その小気味良い足音は廊下から聞こえてきた。
眉間にシワが寄せられ、膨らんだ鼻を腐った果実のような甘ったるい臭いが容赦なく責め立てる。
そして、厄介事 は意気揚々と扉を開き、表れた。
「咲夜―。お茶とケーキ! あ、今日はプティングの方がいいかも」
「フラン」
「挨拶は? でしょ。御機嫌ようお姉様」
「ちっとも機嫌は良くないがな。香水は、ほんの少しで良いと言ったろ」
「えー。そういうの面倒くさい」
幼い吸血鬼の耳には、念仏じみた繰り言は伝わらないらしかった。漂う臭い(どうせボトルのほとんどをひっくり返したのだろう)に、もう紅茶どころではないと、レミリアはそそくさとその場から離れようとした。
疎ましさを込めて、去り際に妹を一べつする。思うところは多々あれど決して忌避したことはないその姿を、今は彼方へ押しやりたくて仕方がない。
吸血鬼の目でも楽しめる木漏れ日と言うべき金髪も、その垂れた間で艶やかに白い光を添えている額も、躍動する血潮を感じさせる紅い瞳も、潤いなめらかにフォークをくわえる口も、小さな八重歯も。ただ一つ、背中で揺れる七色の羽がために。
否、その羽とて今も尚美しいのだ。しかし、それが携える悪臭のために。
クレヨンのようなと口に出せば馬鹿らしいかもしれないが、それに晒される身としてはたまったものではない。
レミリアは親の仇と相対したかのごとく、呪怨を込めてそれを睨みつけた。
そして、気付いた。
ようやくにして、気付いてしまった。
「フラン、お前」
――羽が小さくなってないか?
「…………」
「…………」
一切合切の音が消える。
消えたことによってレミリアはやっと、自分が今まで全てを気にせず、食い入るようにフランドールを見つめていたのを知った。
それを変えないままに。しばらくして、視界の中で観念するように両手があがった。
向き合った顔は、相も変わらずひょうひょうとしていた。
「そんな怖い顔しちゃって。そんなに重要な事?」
「いつからだ」
「いつからって。……分からないけど、結構前から。でも考えてもみてよ。私の羽はクレヨンになっちゃったのよ? 使えばその分、減るのは当たり前じゃない」
「だったらどうして!」
「別に。お姉様には関係ないでしょ?」
「……いい加減にしろ」
「え?」
紅い霧が部屋中に立ち込める。
それは硫酸のように、触れた者の肌を焦がす程の熱を持っていた。
すぐさま駆けつけ自らをかばう従者の向こうに、姉が見える。
「いい加減にしろよ! フランドール・スカーレット!」
そして、紅い霧がその姿を包み隠し。
後には誰もいなくなった。
◇
「そんな事があったんですか?」
「ええ。貴女が午睡を楽しんでいる間にね」
「酷いなあ咲夜さん。今日はちゃんと気分爽快で働いてますよ。夢見が良かったものですから」
咲夜の嘆息で赤髪を揺らしながら、美鈴は悪びれずはにかんだ。
二人の姿は、妖怪の山をかすめて届く夕焼けに包まれていた。レミリアとフランドールが一悶着起こしたのは、まだ日も高々と輝いていた頃だったというのに。
まだ、レミリアは帰ってきていない。
「それにしても、もっと早くに教えてくれればよかったのに。お嬢様が出て行った事どころか、妹様のクレヨンどうこうだって初耳ですよ」
「教えられてどうするつもり? ……どちらの件も、それどころじゃなかったわ。お嬢様から、妹様の事を色々と頼まれていたことだし。ついさっきまで、なだめすかすのが大変だったのよ。それにあんなお嬢様、とてもじゃないけれど私がどうにか出来るものじゃないし、邪魔するつもりもない」
「お疲れ様でした」
「どうも。ありがとう」
他人から労われて、咲夜はどっと肩の力が抜けていくのを感じた。思い出された重力が、身体だけでなく今日あった出来事をすら頭から引っ張っていくようだった。
足下にこぼれ落ちた記憶 を、咲夜はじっと見つめる。
レミリアが去って、フランドールは呆然と、咲夜に抱かれるがままにしていた。
その時、どんな表情をしていたか。それは抱いていた身には預かり知れない。
ただ覚えているのは――否、忘れらないのは――その後の事だった。
何を思ったのか。咲夜を突然に振り解くと、フランドールは覚束ない足取りで壁際へと歩み寄った。熱に浮かされたかのような。悪霊に導かれたかのような。そんな様子だった。
そして、一心不乱に彼女は絵を描いた。
いつも通りに。いつもとは違う形相で。目を見開き、歯を食い縛り、肩を怒らせて。
一瞬の内に絵は出来上がった。それもまた、いつもと全く同じもの。
そこまでを思い出して、咲夜は一つの事に思い当たった。
ああ、あの絵はまるで――
「もしもし? 聞いてます?」
「え、ああ、ごめん。何かしら」
記憶に没頭して、美鈴の話を聞き流していたらしい。
不満げな顔に、軽く頭を下げてから仕切り直しとなった。軽い咳払いが一つ、冷えてきた風に溶けこんでいく。
「いやだから、私の夢の話ですよ」
「……他人の夢の話ほど、どうでもいい話はないって言うわよ」
「それが、ひょっとしたら夢じゃないかもしれないんです」
「意味が分からないんだけれど」
「最初の方が、どうもおかしかったんですよ。それさえ除けば、私が悪しき侵入者を拳一つで撃退するアクションストーリー! なんですけど。どうも、お嬢様が出てきたような――」
噂をすれば影、と言うべきだろう。
遠方より来るレミリアの影を、二人がほぼ同時に捉えた。
しかし、その姿は普段の威風堂々たるものとはかけ離れたものだった。
日傘も持たずに夕焼けを一身に浴びて、身体のあちこちから白い煙が昇っている。服は焼け焦げ、白い肌は赤らんで、頭を垂れ一部しか見えない表情からでも苦痛を耐え忍んでいるのがうかがえる。
居ても立っても居られずに、二人はレミリアに駆け寄った。
「……お帰りなさいませ、お嬢様」
「大丈夫ですか!? そんなに傷だらけで――」
「ご苦労、咲夜。美鈴は少し黙れ、耳障りだ。……私はもう戻る」
「戻るって、そんな身体じゃ」
「お嬢様」
美鈴の言葉をさえぎり、咲夜は門をくぐろうとするレミリアを呼び止めた。
そして一瞬の内に傍らへと姿を表し、懐を探り何やら取り出す。
光を反射するそれは、一枚の写真だった。
「先程、烏天狗が影で妹様の絵を撮影していたところを撃退し、ついでに押収したものです。ご覧になってみてください」
「……こんなものが、どうした」
写真を通して初めて見たフランドールの絵は、子供の落書き以外の何者でもなかった。
羽の通りの七色が伸びて曲がって渦巻いて、ゴチャ混ぜに塗りたくられているだけ。咲夜は果たしてこんなものを見せて何がしたかったというのか。
「それ、私達に見えませんか?」
「……何?」
「ほら、使われている色が。よく見たら輪郭だって」
言われて、もう一度。今度はまじまじと写真を見つめる。
そもそもが、見てから落書きと判断したのではない。どうせ落書きだろうと決めつけてかかっていた。
心を改めて見てみたそれは、紛れもない集合写真に見えた。
端っこで紫の塊 が座り込んで、茶色い革表紙の本を読んでいる。その傍らには白黒の塊 が中腰で、本を覗き込んでいる姿があった。
そこから少し離れて、とりどりの色が小さく丸を描き列をなしている所に、手を差し伸べる緑の塊 の姿。これは花壇に水やりをしているところだろうか。
右の方に居るそれとは反対側、左には青の塊 が優雅に一礼している。
その礼が向けられた先に、紅い塊 が居た。
それは、こじつけに過ぎないのかもしれなかった。けれども、咲夜はそう言ったのだし、レミリアもそう信じて疑わなかった。
何故なら、片方 は黒い羽を誇らしげに、胸を張っているように見えるのに。
もう片方 には羽が無く。そして、その顔と思しき箇所には水色が、涙がほんの少しだけ混ざっていたから。
「今まで私が掃除 してきた絵も、今にして思えばこれと同じように私達を表したものでした」
レミリアが面を上げる。
写真の上に、雫が一つ。こぼれ落ち弾けた。
「ですが、その中の妹様は綺麗な羽を輝かせていて。泣いてはいませんでしたよ」
「――行ってくる!」
そして、レミリア・スカーレットは飛び立った。
地上で最速を自称するその羽をはためかせ、紅い矢となり館へと突き刺さる。
その後ろ姿にかけられた激励の言葉も聞こえはしない。
ただ思うのは、たった一人の妹の事。
館を隅々まで巡ろうとした矢先に、その姿は見つかった。
「フラン!」
「――お姉、様?」
「一緒に」
姉は妹に抱きつき、耳元でささやく。
「一緒に、絵を描こう」
◇
「ねえ、お姉様。今までどこに行ってたの?」
「……さあ、どこだったかな。何せ色々行ったから、覚えていない」
「ふうん」
「ああ、最初に竹林の医者の所に行ったんだった。今後何かあってもアイツのところはやめとけ。羽がクレヨンになった吸血鬼を元に戻す薬を寄越せといったら、頭を診ましょうかだと? 全く、とんだヤブ医者だ」
「そりゃそうよ。そんな患者 、普通居ないわ」
「次は確か……。花の妖怪のところに行ったんだったか。随分探しまわってな。ようやく見つけたと思ったら、ロクに話も聞かずに弾幕と来たもんだ。フラワーマスターというからには、何かしら良く効く花の一つや二つ見繕えばいいものを。良い香りがする花とかでも構わないが」
「溺れる者はワラをも掴む、だったっけ」
「私達は溺れる前に流水で死ぬよ。なあ、フラン。フランはどうして絵を?」
「羽がクレヨンになっちゃったから。……そんな顔しないでよ。半分本気なんだから。せっかくだし、試してみたかったの」
「だからって壁に描いてくれるなよ」
「ごめんなさい、それは腹いせ。最初はちゃんと見せようと思ったんだけれど。ほら、お姉様って変わった事が好きでしょ? 毎日退屈だからーって。だから、この羽の事だって喜んでくれると思ったの」
「悪かった。あまりに臭いが酷かったもんだから」
「いいの。私だって最初に気付かなかったし。自分の臭いだからかな。ともかく、そうしてれば、いつかは見てくれると思ったんだ」
「文字通り身を粉にしてまで、やることじゃないだろ」
「だって、どうでもよくなっちゃんだもの。お姉様が見てくれない私なんて」
「なあ、フラン。色々考えたんだけどさ。やっぱりお前は大事な家族なんだよ」
「……ふーん」
「クレヨン臭くなろうが、羽が無くなろうが。たとえヨボヨボのお婆ちゃんになったって。私はフランドール・スカーレットの事が大好きだ」
「……私も。臭いって言われても。どんなに無視されても。どっかに行ったまま帰ってこなくたって。レミリア・スカーレットの事が大好きだわ」
「あのなあ。そんな駄目なお姉ちゃんは、ひっぱいたってやっていいんだよ」
「ぎゅっとしてドカーンしても?」
「ああ」
「じゃあ、良いお姉ちゃんで居てね」
「約束するよ。その運命を」
「ふふっ。……これでよし、と」
「完成か?」
「うん。ありがとう」
「どういたしまして」
◇
一つの絵が出来上がって。
二対の羽がなくなって。
そして、一日が過ぎた。
◇
「おはよう、お姉様」
朝食の時間から半刻過ぎて、ようやくフランドールは食卓に姿を表した。
頭から爪先まで、いつもと変わらない様子で、お嬢様らしく整っている。
ただ一つ、今まで左右で虹色に煌めいていた羽が無いことを除けば。
レミリアの視線をちらと追ってから、フランドールは何か物言いたげに笑ってみせた。
それを受けて、思わず目が潤んだのを口元をナプキンで拭う振りで誤魔化しながら。レミリアもまた慈愛に満ちた笑顔を浮かべる。
「おはようフラン。ちょっと、こっちにおいで」
小首を傾げてから、手招きされるままにフランドールは歩み寄った。
手で触れられる距離になって、すかさずレミリアがその身体を抱きしめた。
背中を両腕で囲って、その存在を確かめるように胸と胸が合わせられる。二人の鼓動が互い違いに響きあい、小さな身体を揺らしていった。
「駄目じゃないか、時間に遅れたら。何かあったのかって心配するだろ」
「……ごめんなさい」
「分かればいんだ。これから気を付けろ」
そして、フランドールの背中を優しく撫でる。
――その指先に、固い何かが当たった。
「……ん? フラン、これ――」
問い質そうとするよりも先に、全てが起こり、そして終わった。
フランドールの背中から、それは音も無く出現した。まるで種が芽を出すかのように。そして茎が伸びていき、枝分かれし、花が咲くよりも早くに実っていく。
そして、虹色の実がフランドールの左右に対を為した。
「フ、フラン。お前、羽が」
「や、」
「や?」
「やったー! 元通り、元通りよ、お姉様! こんなの信じられない! 夢みたいよ!」
今の今まで抱きつかれていたフランドールが、お返しとばかりに勢い三割増し程度でレミリアに飛びついた。あまりの勢いにレミリアは椅子ごとひっくり返り、押し倒される形になる。そんな事お構いなしに妹は姉に頬ずりした。
「奇跡、ううん、運命ね! こういうのを運命って言うんだわ!」
「いや、私はなにもしてな、ふごっ、お、おい、フラン。離してくれ」
「大好き! 大好きよ、お姉様!」
「私もだからっ。頼むから息を吸わせてくれっ」
そんなやり取りを飽くまで繰り返して、やっとのことでレミリアは自由を勝ちとった。
腰を打ち付け、肋骨を圧迫されて、あちこちを噛まれたり吸い付かれたりで痛し痒しの身体を起こして、胸いっぱいにホコリの舞う空気を吸い込む。
そして、レミリアは再びフランドールの羽に目を向けた。
そこには変わらず、煌々とした虹色の輝き。
――ああ、成程。つまりそういうことなんだろうなあ。
「なあ、フラン」
「なあに、お姉様?」
何があっても愛すると誓った妹に、姉は告げる。
「お前、トイレの消臭剤くさい」
紅茶にミルクを注ぎながら、挨拶をするかのようにレミリアは言った。
透き通った紅色に、乳白色が溶け込みながら落ち沈んでいく。スプーンがカップの内側を鳴らす音が、だだっ広い居間の四方に行き届いた。
二つの色が混ざり合ってミルクティーへと変化していく様を見届けてから、ようやく自分の妹へ向き直る。
ついさっき姿を表したばかりだというのに、フランドールはもう我が物顔でテーブルについて、ナプキンを首から下げていた。
「咲夜。私にも紅茶をお願い。ミルクもお砂糖も要らないわ」
「その必要はないぞ咲夜。あとケーキを追加で持ってこい。勿論、私の分だけな」
二人の命令に応じて、間髪入れず紅茶とケーキがそれぞれ表れた。
テーブルの傍らでは十六夜咲夜が変わらず瀟洒な立ち居振る舞いをしている。
忌々しげにその姿を見やるレミリアに、フランドールは紅茶を一口すすってから涼しげな様子で口を開いた。
「なぁにお姉様? 独り占めだなんて。お腹がぽっこり出るようになったら、みっともないわよ」
「どこぞの阿保が忌々しい臭いひっさげて出てこなかったら、カロリーを過剰摂取してまで口直しする必要もなかったんだがな」
「何を言っているのか分からないわ」
「お前の体臭が、三十色セットのクレヨンをひっくり返して粉々にした時みたいだって言ってるんだよ。……ああ、これじゃ紅茶の香りもケーキの味も分かったもんじゃない」
生クリームに飾られたイチゴを突き刺し口に運び、音を立てずに噛み潰し飲み込んでから。レミリアはしかめっ面でこれ見よがしに嘆息した。
甘酸っぱい匂いをした幸せは、しかし熱砂に垂らした露のようにかき消されていく。
レミリアの言葉は根も葉もない難癖ではなく、確かにその空間を酸素よりも多くの割合で、クレヨンに似た臭気が占めているように感じられるのだった。
「でも、お姉様。それは当然のことなのよ」
並々と注がれた紅茶が、息吹でしつこいぐらいに揺らされた。その間に咲夜が悪臭に耐え切れず時を止めてむせ込んだが、フランドールは当然それを知る由もなく、そのままに告げる。
「だって、私の羽がクレヨンになっちゃったんだから」
◇
「それで? 私は妹様と
事の始まりを聞き終えると、パチュリーは分厚い古書をそっと閉じた。それでもその音は、書架の隙間を縫って図書館全体に響いていく。
合図として受け取ったのか、小悪魔が二人分の紅茶を持ってきたが、どちらもそれには手をつけようとはしない。
「誠に遺憾ながら、どっちも正常だよ。……今回の件とは関係無しに、フランの頭をまともにしてほしいというのはあるかもな」
「ロボトミーだなんて随分と過激な事を要求するのね」
「何だそりゃ。河童が作った例のアドバルーンのミニチュアでも出来たのか? あの亡霊の屋敷の奴みたいに」
「あんな見掛け倒し、作ったって面白くも何ともないわよ」
パチュリーは二人分の砂糖を、それぞれカップに放り込んだ。
跳ね上がった紅茶の雫が漂わせる香りに、レミリアが恥ずかしげもなく鼻の頭を動かすのを見て、目を伏せ僅かに口角を上げる。
「随分と参ってるみたいね。それにしたって、今頃になって私を頼るだなんて薄情が過ぎるんじゃないかしら。一週間前にそんな事があっただなんて初耳よ」
「あいつの悪戯を一々真に受けるわけにもいかない。……と、思ったからな。まさか、その類じゃなかったとは」
「たとえ悪戯だとしても、そんな興味深い自体を私に黙っておくだなんて。今後はそういうの無しよ。それを条件に探してあげる」
「頼んだ」
その言葉に満足気に頷いてから、パチュリーは二度三度手を叩いた。軽快な音を聞きつけて小悪魔が表れる。
「さてと、小悪魔。吸血鬼に関する蔵書はそれなりにあったはずよね?」
「はい。お屋敷がお屋敷ですからね。ただ、それだけだと流石に多すぎるのでは」
「ああ、大丈夫。もう一つのキーワードが厄介だから。――クレヨン、あるいはそれに準ずる何か、でお願いね」
「はあ、クレヨンですか。かしこまりました」
言葉とは裏腹に小悪魔の頭には疑問符が見え隠れしていたが、そこは自分が考えてもしかないと割り切ったのだろう。すぐさま小走りで捜索へと向かっていった。
「期待はしないでちょうだいよ。見聞した記憶が一切ないんだから」
「私だって同じだよ。……少しでも、心当たりはないか?」
「そう言われたって、せめてヒントが無いと。そうね。羽がクレヨンになってから、妹様は何をしてるの?」
「そこかしこの壁に
「は?」
咎めるような調子の声をお茶請け代わりに、程よい温かさになった紅茶をレミリアは飲み干した。
「咲夜がその度に拭き掃除してるのが大変そうだと、メイド妖精の間で同情票多数だ。全く、ブン屋にでも嗅ぎつけられてスッパ抜かれたらどうする。スカーレットの名折れだ」
「レミィは直接、その目で確かめたわけじゃないのね」
「優秀な掃除係が居るからな。私が見る限りじゃいつも通りだ。――全く、それにしても恥も外聞もなく、あんな臭いひっさげてふらつき回って。誤魔化すためにわざわざ香水をボトル丸ごと渡してやったのに、クレヨンのそれと混ざって酷いもんだ。まあ、少しはマシかもしれないが、わざわざ屋敷中歩きまわって醜態を晒すだなんて何を考えているんだか。そもそもあんな羽になって、吸血鬼としての能力は今まで通りなのか? 魔理沙辺りに普段どおり弾幕ごっこでも仕掛けて、まんまと敗北でも喫してみろ。いい笑いものになるだろうよ。なあ、そうだろ?」
「そう、ね」
ふうん。と、またもや魔女は繰り返した。膝下を見つめ、ぶつくさと羽虫がうごめくような声をつぶやいている。
視線を寄越すも、かち合う事はない。レミリアの足下で、不規則なタップの音が無意識にに鳴り始めた。
それがどれ程刻まれただろうか。ようやくパチュリーは瞑想にも似た思索を終えた。
「ねえ、もっと素直になったらどう?」
「……どういう意味だ」
「そのままの意味よ。さて、今日はこれにて閉館。またの機会は更に一週間後にでも」
「って、おい。パチェ!」
「閉館後であっても――」
席を立ち、パチュリーはその唇に人差し指を当てる。
「図書館ではお静かに」
書架から伸びる影へとその身を隠した親友の姿を、レミリアは膝の上に握り拳を作ったまま見届けることしか出来なかった。
その拳が震えをこらえきれず、テーブルに叩きつけられた。
願われた静寂は破られ、ささやかなお茶会を演じていた
魔女に飲み残された紅茶が溢れて、真紅のクロスをより一層深い色合いたらしめた。
それを影から見届けて、呟く。
「本当に。素直じゃないわね、二人とも」
◇
「なあ、咲夜。もう一週間経ったよな」
「はい? 申し訳ございません。何の話をされているのやら」
「いや別に。こっちの話だった。忘れろ。……あの愚鈍で頭でっかちのカビた紫モヤシが」
せめて「見つからなかった。ごめん」ぐらいの報告はしろと、図書館であくせく蔵書をあさってくれたのを労う気持ちを微塵も含ませないままに、憤りの念が送られる。
元よりホコリっぽい場所のことだから、クシャミはほんの少しではとどまらないだろう。
意味深な事を言っておいて、あれきり図書館から誰も彼も見境なしに突っぱねた罰としては、それでも足りないぐらいだ。
少しばかり溜飲が下がり、これで存分に紅茶の味が楽しめるだろうとレミリアは顔を綻ばせた。
しかし、そうは問屋が卸さないとばかりに新たな厄介事は軽やかな足取りでやってくる。その小気味良い足音は廊下から聞こえてきた。
眉間にシワが寄せられ、膨らんだ鼻を腐った果実のような甘ったるい臭いが容赦なく責め立てる。
そして、
「咲夜―。お茶とケーキ! あ、今日はプティングの方がいいかも」
「フラン」
「挨拶は? でしょ。御機嫌ようお姉様」
「ちっとも機嫌は良くないがな。香水は、ほんの少しで良いと言ったろ」
「えー。そういうの面倒くさい」
幼い吸血鬼の耳には、念仏じみた繰り言は伝わらないらしかった。漂う臭い(どうせボトルのほとんどをひっくり返したのだろう)に、もう紅茶どころではないと、レミリアはそそくさとその場から離れようとした。
疎ましさを込めて、去り際に妹を一べつする。思うところは多々あれど決して忌避したことはないその姿を、今は彼方へ押しやりたくて仕方がない。
吸血鬼の目でも楽しめる木漏れ日と言うべき金髪も、その垂れた間で艶やかに白い光を添えている額も、躍動する血潮を感じさせる紅い瞳も、潤いなめらかにフォークをくわえる口も、小さな八重歯も。ただ一つ、背中で揺れる七色の羽がために。
否、その羽とて今も尚美しいのだ。しかし、それが携える悪臭のために。
クレヨンのようなと口に出せば馬鹿らしいかもしれないが、それに晒される身としてはたまったものではない。
レミリアは親の仇と相対したかのごとく、呪怨を込めてそれを睨みつけた。
そして、気付いた。
ようやくにして、気付いてしまった。
「フラン、お前」
――羽が小さくなってないか?
「…………」
「…………」
一切合切の音が消える。
消えたことによってレミリアはやっと、自分が今まで全てを気にせず、食い入るようにフランドールを見つめていたのを知った。
それを変えないままに。しばらくして、視界の中で観念するように両手があがった。
向き合った顔は、相も変わらずひょうひょうとしていた。
「そんな怖い顔しちゃって。そんなに重要な事?」
「いつからだ」
「いつからって。……分からないけど、結構前から。でも考えてもみてよ。私の羽はクレヨンになっちゃったのよ? 使えばその分、減るのは当たり前じゃない」
「だったらどうして!」
「別に。お姉様には関係ないでしょ?」
「……いい加減にしろ」
「え?」
紅い霧が部屋中に立ち込める。
それは硫酸のように、触れた者の肌を焦がす程の熱を持っていた。
すぐさま駆けつけ自らをかばう従者の向こうに、姉が見える。
「いい加減にしろよ! フランドール・スカーレット!」
そして、紅い霧がその姿を包み隠し。
後には誰もいなくなった。
◇
「そんな事があったんですか?」
「ええ。貴女が午睡を楽しんでいる間にね」
「酷いなあ咲夜さん。今日はちゃんと気分爽快で働いてますよ。夢見が良かったものですから」
咲夜の嘆息で赤髪を揺らしながら、美鈴は悪びれずはにかんだ。
二人の姿は、妖怪の山をかすめて届く夕焼けに包まれていた。レミリアとフランドールが一悶着起こしたのは、まだ日も高々と輝いていた頃だったというのに。
まだ、レミリアは帰ってきていない。
「それにしても、もっと早くに教えてくれればよかったのに。お嬢様が出て行った事どころか、妹様のクレヨンどうこうだって初耳ですよ」
「教えられてどうするつもり? ……どちらの件も、それどころじゃなかったわ。お嬢様から、妹様の事を色々と頼まれていたことだし。ついさっきまで、なだめすかすのが大変だったのよ。それにあんなお嬢様、とてもじゃないけれど私がどうにか出来るものじゃないし、邪魔するつもりもない」
「お疲れ様でした」
「どうも。ありがとう」
他人から労われて、咲夜はどっと肩の力が抜けていくのを感じた。思い出された重力が、身体だけでなく今日あった出来事をすら頭から引っ張っていくようだった。
足下にこぼれ落ちた
レミリアが去って、フランドールは呆然と、咲夜に抱かれるがままにしていた。
その時、どんな表情をしていたか。それは抱いていた身には預かり知れない。
ただ覚えているのは――否、忘れらないのは――その後の事だった。
何を思ったのか。咲夜を突然に振り解くと、フランドールは覚束ない足取りで壁際へと歩み寄った。熱に浮かされたかのような。悪霊に導かれたかのような。そんな様子だった。
そして、一心不乱に彼女は絵を描いた。
いつも通りに。いつもとは違う形相で。目を見開き、歯を食い縛り、肩を怒らせて。
一瞬の内に絵は出来上がった。それもまた、いつもと全く同じもの。
そこまでを思い出して、咲夜は一つの事に思い当たった。
ああ、あの絵はまるで――
「もしもし? 聞いてます?」
「え、ああ、ごめん。何かしら」
記憶に没頭して、美鈴の話を聞き流していたらしい。
不満げな顔に、軽く頭を下げてから仕切り直しとなった。軽い咳払いが一つ、冷えてきた風に溶けこんでいく。
「いやだから、私の夢の話ですよ」
「……他人の夢の話ほど、どうでもいい話はないって言うわよ」
「それが、ひょっとしたら夢じゃないかもしれないんです」
「意味が分からないんだけれど」
「最初の方が、どうもおかしかったんですよ。それさえ除けば、私が悪しき侵入者を拳一つで撃退するアクションストーリー! なんですけど。どうも、お嬢様が出てきたような――」
噂をすれば影、と言うべきだろう。
遠方より来るレミリアの影を、二人がほぼ同時に捉えた。
しかし、その姿は普段の威風堂々たるものとはかけ離れたものだった。
日傘も持たずに夕焼けを一身に浴びて、身体のあちこちから白い煙が昇っている。服は焼け焦げ、白い肌は赤らんで、頭を垂れ一部しか見えない表情からでも苦痛を耐え忍んでいるのがうかがえる。
居ても立っても居られずに、二人はレミリアに駆け寄った。
「……お帰りなさいませ、お嬢様」
「大丈夫ですか!? そんなに傷だらけで――」
「ご苦労、咲夜。美鈴は少し黙れ、耳障りだ。……私はもう戻る」
「戻るって、そんな身体じゃ」
「お嬢様」
美鈴の言葉をさえぎり、咲夜は門をくぐろうとするレミリアを呼び止めた。
そして一瞬の内に傍らへと姿を表し、懐を探り何やら取り出す。
光を反射するそれは、一枚の写真だった。
「先程、烏天狗が影で妹様の絵を撮影していたところを撃退し、ついでに押収したものです。ご覧になってみてください」
「……こんなものが、どうした」
写真を通して初めて見たフランドールの絵は、子供の落書き以外の何者でもなかった。
羽の通りの七色が伸びて曲がって渦巻いて、ゴチャ混ぜに塗りたくられているだけ。咲夜は果たしてこんなものを見せて何がしたかったというのか。
「それ、私達に見えませんか?」
「……何?」
「ほら、使われている色が。よく見たら輪郭だって」
言われて、もう一度。今度はまじまじと写真を見つめる。
そもそもが、見てから落書きと判断したのではない。どうせ落書きだろうと決めつけてかかっていた。
心を改めて見てみたそれは、紛れもない集合写真に見えた。
端っこで
そこから少し離れて、とりどりの色が小さく丸を描き列をなしている所に、手を差し伸べる
右の方に居るそれとは反対側、左には
その礼が向けられた先に、
それは、こじつけに過ぎないのかもしれなかった。けれども、咲夜はそう言ったのだし、レミリアもそう信じて疑わなかった。
何故なら、
「今まで私が
レミリアが面を上げる。
写真の上に、雫が一つ。こぼれ落ち弾けた。
「ですが、その中の妹様は綺麗な羽を輝かせていて。泣いてはいませんでしたよ」
「――行ってくる!」
そして、レミリア・スカーレットは飛び立った。
地上で最速を自称するその羽をはためかせ、紅い矢となり館へと突き刺さる。
その後ろ姿にかけられた激励の言葉も聞こえはしない。
ただ思うのは、たった一人の妹の事。
館を隅々まで巡ろうとした矢先に、その姿は見つかった。
「フラン!」
「――お姉、様?」
「一緒に」
姉は妹に抱きつき、耳元でささやく。
「一緒に、絵を描こう」
◇
「ねえ、お姉様。今までどこに行ってたの?」
「……さあ、どこだったかな。何せ色々行ったから、覚えていない」
「ふうん」
「ああ、最初に竹林の医者の所に行ったんだった。今後何かあってもアイツのところはやめとけ。羽がクレヨンになった吸血鬼を元に戻す薬を寄越せといったら、頭を診ましょうかだと? 全く、とんだヤブ医者だ」
「そりゃそうよ。そんな
「次は確か……。花の妖怪のところに行ったんだったか。随分探しまわってな。ようやく見つけたと思ったら、ロクに話も聞かずに弾幕と来たもんだ。フラワーマスターというからには、何かしら良く効く花の一つや二つ見繕えばいいものを。良い香りがする花とかでも構わないが」
「溺れる者はワラをも掴む、だったっけ」
「私達は溺れる前に流水で死ぬよ。なあ、フラン。フランはどうして絵を?」
「羽がクレヨンになっちゃったから。……そんな顔しないでよ。半分本気なんだから。せっかくだし、試してみたかったの」
「だからって壁に描いてくれるなよ」
「ごめんなさい、それは腹いせ。最初はちゃんと見せようと思ったんだけれど。ほら、お姉様って変わった事が好きでしょ? 毎日退屈だからーって。だから、この羽の事だって喜んでくれると思ったの」
「悪かった。あまりに臭いが酷かったもんだから」
「いいの。私だって最初に気付かなかったし。自分の臭いだからかな。ともかく、そうしてれば、いつかは見てくれると思ったんだ」
「文字通り身を粉にしてまで、やることじゃないだろ」
「だって、どうでもよくなっちゃんだもの。お姉様が見てくれない私なんて」
「なあ、フラン。色々考えたんだけどさ。やっぱりお前は大事な家族なんだよ」
「……ふーん」
「クレヨン臭くなろうが、羽が無くなろうが。たとえヨボヨボのお婆ちゃんになったって。私はフランドール・スカーレットの事が大好きだ」
「……私も。臭いって言われても。どんなに無視されても。どっかに行ったまま帰ってこなくたって。レミリア・スカーレットの事が大好きだわ」
「あのなあ。そんな駄目なお姉ちゃんは、ひっぱいたってやっていいんだよ」
「ぎゅっとしてドカーンしても?」
「ああ」
「じゃあ、良いお姉ちゃんで居てね」
「約束するよ。その運命を」
「ふふっ。……これでよし、と」
「完成か?」
「うん。ありがとう」
「どういたしまして」
◇
一つの絵が出来上がって。
二対の羽がなくなって。
そして、一日が過ぎた。
◇
「おはよう、お姉様」
朝食の時間から半刻過ぎて、ようやくフランドールは食卓に姿を表した。
頭から爪先まで、いつもと変わらない様子で、お嬢様らしく整っている。
ただ一つ、今まで左右で虹色に煌めいていた羽が無いことを除けば。
レミリアの視線をちらと追ってから、フランドールは何か物言いたげに笑ってみせた。
それを受けて、思わず目が潤んだのを口元をナプキンで拭う振りで誤魔化しながら。レミリアもまた慈愛に満ちた笑顔を浮かべる。
「おはようフラン。ちょっと、こっちにおいで」
小首を傾げてから、手招きされるままにフランドールは歩み寄った。
手で触れられる距離になって、すかさずレミリアがその身体を抱きしめた。
背中を両腕で囲って、その存在を確かめるように胸と胸が合わせられる。二人の鼓動が互い違いに響きあい、小さな身体を揺らしていった。
「駄目じゃないか、時間に遅れたら。何かあったのかって心配するだろ」
「……ごめんなさい」
「分かればいんだ。これから気を付けろ」
そして、フランドールの背中を優しく撫でる。
――その指先に、固い何かが当たった。
「……ん? フラン、これ――」
問い質そうとするよりも先に、全てが起こり、そして終わった。
フランドールの背中から、それは音も無く出現した。まるで種が芽を出すかのように。そして茎が伸びていき、枝分かれし、花が咲くよりも早くに実っていく。
そして、虹色の実がフランドールの左右に対を為した。
「フ、フラン。お前、羽が」
「や、」
「や?」
「やったー! 元通り、元通りよ、お姉様! こんなの信じられない! 夢みたいよ!」
今の今まで抱きつかれていたフランドールが、お返しとばかりに勢い三割増し程度でレミリアに飛びついた。あまりの勢いにレミリアは椅子ごとひっくり返り、押し倒される形になる。そんな事お構いなしに妹は姉に頬ずりした。
「奇跡、ううん、運命ね! こういうのを運命って言うんだわ!」
「いや、私はなにもしてな、ふごっ、お、おい、フラン。離してくれ」
「大好き! 大好きよ、お姉様!」
「私もだからっ。頼むから息を吸わせてくれっ」
そんなやり取りを飽くまで繰り返して、やっとのことでレミリアは自由を勝ちとった。
腰を打ち付け、肋骨を圧迫されて、あちこちを噛まれたり吸い付かれたりで痛し痒しの身体を起こして、胸いっぱいにホコリの舞う空気を吸い込む。
そして、レミリアは再びフランドールの羽に目を向けた。
そこには変わらず、煌々とした虹色の輝き。
――ああ、成程。つまりそういうことなんだろうなあ。
「なあ、フラン」
「なあに、お姉様?」
何があっても愛すると誓った妹に、姉は告げる。
「お前、トイレの消臭剤くさい」
もうね、砕けろ。
落ちは落ちでいいんだけど。
面白かっただけに少しもったいない。
羽根のクレヨンで、姉に見てもらいたくて絵を描く。
その理由に気付いた時は、思わずうるっと来ました。健気やなあ、フラン。