Coolier - 新生・東方創想話

境界を泳ぐ魚

2011/03/16 01:29:17
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 鳥は空中に舞い、魚は水中に躍り、土竜は地中を走る。純粋な自然は三つの空間で完全に構成され、それぞれの空間にはそれぞれの支配者が存在する。人間や妖怪は自分たちが世界を支配している感覚に囚われがちだが、実際のところ、彼らは地下に水上、地上に天上と、必ずどこかの空間の端にしか存在出来ない。空間と空間の境界に有る僅かな継ぎ目に掴まって、なんとかこの世界にしがみついているにすぎないのである。

 だから昨日、霊夢から里で話題になっているという魚の話を聞いた時には、僕は少し驚いた。





「今、里の人たちは皆この絵の魚について頭を捻っているのよ」

 霊夢は店に来るなり勝手にお茶を淹れ、袖からか懐からかよく分からないが一枚の絵を取り出して言った。



 魚とは、言うまでもなく水中の支配者である。だから、その存在は人間や妖怪のそれとは違い多少の事では揺るがない筈であった。
 ところが、霊夢が言うには、最近、ある魚の存在が人里から急激に消えつつあるという。

「でも、その魚というのはとてもたくさん獲れた事だって有るんだろう?少なくとも、ちょっと昔の話では」

「そうよ。でも、さっきも言ったかもしれないけど近頃は全く獲れていないし、それどころか、もともとこんな魚はいなかったとか、この絵自体が新しく描かれたものだなんて言う漁師さんも出てきているわ」

 僕はそれを不審に思い口をはさんだ。

「ちょっと待ってくれ。そりゃ魚だって生き物なんだから数の増減くらいは有るだろう。だから、最近獲れていないというのは単に今年が不漁の年だったからってだけで説明がつく。それに、獲れていないからって、どうして魚の存在そのものが疑われたりするんだい。大体、不漁というのはその魚が居る、という事と同義じゃないか。話が飛躍していて意味がわからないよ」

「いつもの霖之助さんもそうなんだけどね」

 霊夢が何か言っているようだったが、魚には関係無いと思って聞き流し、僕はそれまでの話を整理した。

 そもそも、海の無い幻想郷では魚と言えばすべて淡水魚である。それゆえ、魚の種類は外の世界よりはるかに少ない。また、水場そのものが限られているせいで、ある程度以上大きな漁場は片手で数えられるほどしか存在していない。ちなみに、その殆どは霧に覆われた湖の人里に近い深みである。いくら少ないと言えどもそれなりの人口を抱える幻想郷で、忘れられない程度に魚が食卓に上るのは、これらの漁場が規模の割に豊かであるからだ。
 当然、人里に住む漁師たちはその漁場に集中する事になる。というより、最近では漁師たちが自らその漁場に集まっていると言った方が良いだろう。仲間と離れて一人で漁をしては湖の妖怪に襲われやすいし、皆で寄り集まった方が共通のルールを運用しやすい。例えば、一度に複数の人間が同じ漁をすればお互いに不正をしていない事が確認出来るし、網を下ろす場所を月毎や週毎に交代するのも簡単だ。また、万が一事故や事件が起きても迅速に助ける事ができる。

 それゆえ、お互いがどんな魚を獲ろうとしているかは漁師たちの間では筒抜けである。漁の腕には個人差があっても、魚に関する基本的な知識は皆に平等に行き渡っているのだ。そのため、ある漁師は知っていて別の漁師は知らないなどという魚は幻想郷には存在しない筈である。

 だが、霊夢はそんな不安定な魚が現れたと言ったのだった。もっとも、煎餅をかじりながら話しているせいで(もちろん、これも店の物である)、それほどショッキングではないのだが。

「ところで、霖之助さんって案外人里の事に詳しいのね。漁師さんの事情なんて、私が教えてあげなきゃ駄目かと思ってたわ」

「さっきの話かい?あれは、昔僕が人里で働いていたときに仕入れたものさ。今もその通りかどうかは分からなかったよ」

 あの頃客として道具屋を訪れていた漁師たちの何人かは今も存命で、この魚の件に関わっているだろう。僕は、修行の当時を思い出し、里の様子を想像した。

 さて、本題に戻ろう。
 霊夢曰く、里の人間たちがこの異変に気付いたのはごく最近のことらしい。
 最初に気づいた、というより、最初に魚の存在を疑ったのは、たまたま漁師たちの寄合所を訪ねた百姓の一人だったのだそうである。寄合所の中で、壁に掛けられている魚の絵を眺めていたその男はある魚の前で立ち止まり、これはなんという魚かと尋ねた。
 当然、寄合所にいた漁師は百姓に魚の名前を教えようとしたが、なぜかどうしても魚の名前が思い出せない。仕方なく、その百姓は難しい顔をしながら寄合所を立ち去ったという。
 ここからは僕の想像だが、その百姓も魚の姿には見覚えが有ったのではないだろうか。ただ、その名前だけが分からなかった。そういう事は普通の人間なら良く有る話である。もちろん、それは漁師にだって言える事だ。この程度の事は、異変でもなんでもない。
 おかしな事が起きたのは、その次の日である。

「翌日になって、漁師さんは仲間に魚の名前を訊いたんですって。ところが、その仲間も魚の名前を言えなかった。それで二人で頑張って思い出そうとしてみたら、お互いにどの場所のどの深さで獲れるかまで言えたのに、なぜか名前だけが思い浮かばなかったみたいなのね。で、調べてみると、寄合所の他の漁師さんにも誰一人魚の名前を答えられる人がいなかったそうよ。
 それからはずっと、里で絵の魚が何か分かる人は見つかっていないわ」

 魚は、本当に消えてしまったのだろうか。

 無論、名前が分からなくなっても漁のための網は手元に残り、湖も今までと同じ場所に存在する。そしてもちろん、日々の生活の糧は稼ぎ続けなくてはならない。そのため、漁師たちが人里で賢者として知られる上白沢慧音を訪ねたのは、更に数日経ってからの事だった。不思議な事に、この相談の日まで件の魚を気にかけていた漁師は当初の半分で、残り半分の漁師たちは半ば諦めたように興味を失っていたらしい。

「でね、慧音の所では、その絵の魚が70年前に幻想郷で大量に獲れて、それ以来小規模な豊漁と不漁を繰り返している魚だ、という記録が見つかったそうなの。でもやっぱり、魚の名前と、それと今も湖に居るのかどうかは分からなかったんですって。慧音が言うには、最近の歴史書には特に記述は無い、だそうよ」

 この話から、少なくとも魚が幻想郷に実在していた事は分かった。
 一般に、この世に存在していた生き物が消える事は絶滅と呼ばれる。だが、この魚の場合は絶滅したと考えるのは不自然だろう。ある種の生き物が一匹残らず居なくなるには相応の原因と時間が必要だが、霊夢の話では、漁師たちにはそのどちらも思い当たる節が無いらしい。また、皮肉な事だが、絶滅は生き物の名前と姿を強く印象付けるものでもある。ところが、今回は全く逆に、魚の名前が人々の記憶からもハクタクの創っている歴史書からも消えてしまった。このような不自然な絶滅を僕は知らないし、外の世界の書物でもそんな話は読んだ事が無い。ひょっとすると、僕も知らないような昔に同じような事が起きているのかもしれないが、仮にそうだとすれば知っているのは僕よりもずっと長く生きている妖怪か、僕よりもずっと長く覚えている人間しかいない事になる。そういう妖怪を話題にしても嫌な顔をされるのは分かっていたので、僕は以前に会った事の有る求聞持の名前を挙げて霊夢に尋ねた。

「稗田家が在るじゃないか。あそこには大量の資料が有るし、幸いな事に今なら御阿礼の子が存命だ。彼女には訊けば大概の事は分かってしまうよ」

「ええ、だから今日にでも、漁師さん御一行は稗田に向かうって言ってたわ。でも、あそこなら別に妖怪が出るわけじゃないし、私がついていく必要は無いでしょ。だから、私は霖之助さんにこれを見てもらおうと思って来たというわけ」

 そこで霊夢はあらためて魚の絵と、それからこちらを指差して言った。僕の能力を使えば魚の名前も分かるだろう、というわけである。魔理沙もそうだが、そうやってすぐ誰かに訊こうとするところはあまり感心しない。

 ただ、残念ながらそれは不可能だった。というのも、僕に分かったのはあくまでこの紙切れが絵なのかどうか、そして、何のための絵なのかの二点だけだったからである。ちなみに、判明した用途とは、魚の名前を調べるというなんとも煮え切らないものであった。問題はその名前が分からない事なのだが……。

「ふむ。残念だけど、霊夢の思っているようにはいかないようだよ。僕の能力で分かるのは、これが魚の名前を調べるための絵だって事くらいだ」

 一応の成果を霊夢に伝えると、案の定怪訝な顔をされた。

「ふうん。でも、魚の名前を調べるための絵なのに肝心の名前が分からないって、なんか変じゃないの?まるで、誰かが名前を隠してるみたいな……ま、でもそうは言っても私が持ってたところで何も分からなそうだから、絵の方は霖之助さんに預けておくわね。何か進展が有ったら教えて頂戴」

「あれ、もう帰るのかい?」

「そうよ。だってもうお茶は十分飲んだし、淹れ直すのは面倒くさいもの」

 そういう事か。
 霊夢はちょうど急須からお茶が無くなるタイミングで店を出ていった。やって来た時に比べて妙にあっさりしているのが気になったが、それでも勝手にくつろいで勝手に帰っていくのだから大体いつも通りである。もちろん、お茶代と煎餅代、それに絵の調査料がツケになるのもいつも通りだ。

 結局、店には一枚の魚の絵だけが残された。





 さて、それが今、僕の目の前に有る。能力で分かるのが絵の形式的側面だけである以上、内容についてはこれまでに仕入れた知識を使って考察するしかない。僕はあらためて絵を手にとり、正午過ぎの陽光にかざすようにして眺めていた。

 細部まで丁寧に描かれた魚の絵だ。魚部分の長さは一尺三寸くらいだろうか。墨だけで描かれているので色は分からないが、一部を残して全体に薄く黒を被せてあるところを見ると、元の魚はかなり暗い模様をしていたようである。また、頭や鰭の形はどことなく岩魚や山女を思わせる。魚は、どうやら鱒の一種のようだった。

 これを霊夢に伝えても良いかもしれないが、霊夢がその気なら今朝にも里で結果を訊いているだろう。少し悔しいが、いくら考察を巡らせたところで、明確な知識との差は埋めがたいものが有る。それは推測と真実を分ける境界であり、知識欲を満たすためにはどうしても越えなければならない壁である。ちなみに、今の僕にとって、その壁とは昨日まで読んでいた本の続きを読むという大切な作業を諦め、里へ赴く事でもあった。
 ただし、僕が知りたい事は魚の名前などでは既に無い。この一日、絵の中の魚についてあれこれ考えた結果、僕の知識欲は別の、より本質的なところに移っていた。それは、なぜ漁師たちの間で魚の記憶が消えていったのか、という事である。

 そもそも、漁師たちも霊夢も、初めに知りたかったのは魚の名前ではなく、その正体であった筈である。ただ正体という曖昧な総体では調べるのが難しかった。加えて、漁師たちの記憶に断片的にではあるが魚の記憶が残されていた事も、名前が分からない状況を際立たせた。実際には、分からないのは名前だけではなかったにも関わらず、だ。また、この事は名前を調べるのにおいてもマイナスに働いてしまったと言えるだろう。何故なら、結果として霊夢たちは名前しか知ろうとしなくなってしまったからである。
 大抵の場合、情報の一つ一つは物事の一面しか写しておらず、多種多様な断片を組み合わせなければ考察が形を成す事は無い。名前はあくまでもその一つであり、名前という一面からしか見る事が出来なければ魚の正体が分からないのも当然である。そして、魚の正体がなかなか浮かび上がらなければ名前もずっと判然としない。つまり、霊夢たちは名前だけが分からないという思い込みによって、名前すらも分からない状態に陥っていたのである。
 そこで僕は、理解出来ない事はそれ以上考えないという特技を使う事にした。言い換えれば、名前について考えるのをすっぱりと止めた。その代わり、魚に関する情報が皆の記憶から薄れつつあるという現象に注目する事にしたのだ。

 記憶。
 普通、自分が気に掛けている記憶というのは数日で消え去ったりはしない。漁師にとっての魚のように、日々思い返している記憶であれば体に染みつき、忘れるほうがよほど難しい筈である。しかも、今回はそれまで目にしていた魚が突然消えるという異常事態だ。霊夢にも言ったが、絶滅のような変化というのは殆どの場合濃密な記憶を植え付けるように作用するから、もしも漁師たちが普通の状態であれば、魚の記憶が消える事などは考えられない。
 ところが、実際には、逆に魚に関する記憶が急激に薄れていったという。なぜ漁師たちは魚の記憶を失ったのか。それが分かれば、魚の名前も自ずと分かってくるであろう。

 名前が分からないからとはいえ、知っている者に直接尋ねるのではやはりあまりにも高尚さに欠ける。真に自分の知識としたいのであれば、少しは自分の頭で考えなくてはならない。
 僕は、人里一の賢者が住む屋敷に向かうため、外出する身支度を整えていた。



 ――カランカラ
 店を出ようとした時、背後に異様な気配を感じた。

「折角ですけれど、里へ行っても御阿礼の子には会えませんわよ」

 振り向くと、さっきまで僕が座っていた場所に少女が一人腰掛けて居る。その妖怪、八雲紫は、たまに会うときと同じように、不吉な笑みを満面に浮かべていた。

「あの娘は、ここ三日ほど寝込んでいるので人に会う事ができませんの」

「なんだって?それは本当かい?」

 御阿礼の子は体が弱いと決まっているから、事実であれば大変な筈だ。漁師たちが訪ねてきたところで、魚の話など出来ないだろう。僕は、見舞いと称して話を聞きに行く事を一瞬考えたが、流石にそれでこじらせでもしたら不味いと思い、訪問を諦める事にした。
 一方、紫はしばらくの間こちらを見ていたようだったが、僕が外出を諦めると更に笑顔を深くして言った。

「それと、幻想郷は来る者を拒みませんが、だからと言って帰る者を引き留める事もない」

「なんだい、突然に」

「どちらも、そういう事になっているのですよ」



 気がつくと扉は閉まり、店内の不吉さは薄まっていた。机に戻ると、あの絵ではなく「これはいただいていきます。代わりにストーブは満タンにしておきましたから、今シーズンは大丈夫でしょう」と書かれた紙が有った。傍らに僕の筆が置かれているのを見ると、彼女はここで書いていったようである。どうやら僕は、自分で思っていたよりもずっと長い時間、店の玄関に立ちつくしていたらしい。そして、その間に、僕は事の次第を悟っていた。

 幻想郷の妖怪には、自分たちの歴史を自分に都合良く変える力を持っている者が居る。そういう妖怪の手にかかると、たとえ書物に編まれた歴史であっても容易く消え去り、あるいは別の事柄に置き換えられて涼しい顔で姿を現す。人々に記憶が有ればそこで混乱が生じるが、やがて記憶が無くなれば、新しい歴史はまったく自然に溶け込んでゆく。日記と言う形で後世の歴史書を作っている僕としては、その力を発揮されてしまうのは正直に言って好ましく無い。
 だが、今回は彼女の作為が無ければ、魚の名前は幻想郷で復活していたかもしれなかった。
 名前はもちろん物事の一側面でしかないが、同時に一度名付けられた存在にとっては欠かす事の出来ない要素である。名前と、それが表す実体とは切っても切れない関係にあり、一度復活した名前は確実に実体を求めるようになる筈である。外の世界で新しく名付けられた概念が次々と実体を得ていくように、かつて定められた名前が幻想郷で実体を取り戻すのは間違いの無い事なのだ。

 だが、幻想郷で魚の名前が実体を得たとき、外の世界では一体何が起こるのか。彼女、八雲紫はそれを知っていた。というより、これは彼女達妖怪、それに僕も含めた幻想の生き物が、かつて辿った道でもある。

「帰る者を引き留める事もない、か」

 僕は、来るものを拒まず、去る者は商品を買うまで帰さない事を理想とする店の主であるが、この異変については紫の判断に賛成したい。あの魚は、実に70年もの間、幻想と現実の境界を泳ぎ続けてきた。願わくば、もう二度とこちら側に現れないでもらいたいものである。
 事前に某フリー百科事典の国鱒の項にリンクされた記事を読んでいたせいで、先日(と言うには結構前ですが)の再発見報道の際には熱いものを感じてしまったのでした。放流が原因で生き残っていたというのが複雑なところですが、こちら側に帰ってきた魚は温かく迎えてやりたいものです。
 それにしても自然が豊かだという幻想郷、食糧事情はどうなっているんでしょうね。ちょっと霖之助さん教えて!

 ご読了有り難うございました。
han_a
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コメント



0.1870簡易評価
4.100名前が無い程度の能力削除
うまく言えないのですが、読んでいていろいろと考えさせられるお話でした。

ちょうどいい長さで読みやすかったです。
5.10名前が無い程度の能力削除
う~ん、正直くどくて読み辛かった
10.90名前が無い程度の能力削除
霖之助らしい考察で楽しめました。
12.80名前が無い程度の能力削除
面白かったけど、読み辛かった。終盤は読みやすい
16.90リペヤー削除
さかなクンが見つけたあの魚ですね?
大学でレポートにしましたよー
絶滅したと思われていた種が見つかるというのはなんともロマンのある話

面白かったです
21.90名前が無い程度の能力削除
SSには関係ありませんが
幻想郷でも忘れられた存在ってどこにいくんでしょうね
27.90名前が無い程度の能力削除
霖之助うんちくが楽しい。
うまく時事ネタが織り込まれてますね。
33.60名前が無い程度の能力削除
幻想郷にいる朱鷺の説明ができないですよ。まだいるし……
36.100名前が無い程度の能力削除
>>33
日本に住んでた種が滅んだからその種が幻想郷行きしただけ


この魚ってやっぱあいつか。もう幻想の存在じゃなくなったから…
40.100名前が無い程度の能力削除
文章量は控えめだからスラスラ読めたよ
45.100名前が無い程度の能力削除
読み易くて面白い原作に忠実、良いですね