流れたものが涙だということくらい、こいしは分かっていた。閉じた瞳から溢れる涙ほど見ていて痛々しいものはないし、まして開いた瞳から流れてしまったら目も当てられない。
……きっと、今の自分は見ていられない状態なんだ。
そう思った。
***
涙を人に見せてはいけない、と昔、姉は言った。理由を訊いたことはなかったけれど、こいしはそれを信じて今まで生きてきたから、悲しいときも辛いときも、決して人前で泣いたことはないはずだった。もしかしたら泣いてしまったときもあったかも知れないけれど、それは覚えていない。少なくとも、自分は泣き虫ではなかったとこいしは思っていた。
そして当然ながら、姉が泣いた瞬間というものもこいしは見たことがなかった。
「怖くない?」
無意味な質問を、隣を歩く姉――古明地さとりに投げかける。もちろん、本当に怖くないか訊きたかったわけではない。沈黙が嫌だったわけでも、淀んだ空気に嫌気がさしたわけでもない。自分で意図したわけでなく言葉に出てしまうのは、きっと無意識とかいうものが原因なのだろう。こいしは無意識だった。
「怖くないですよ」
こいしの心を読むことは出来ないけれど、今の質問に意味がないことくらい彼女は分かっていただろう。それでも律儀にそう答える姉にこいしは小さく微笑んで、足音を高く響かせた。
……そう、微笑むなんて動作を自分はしないはずだ。無意識になってしまった妖怪だから……。
そういう考え方は、短絡的で、少しつまらないと思う。みんな、意識して笑っているわけではない。
音は一旦遠くまで飛んでいって、壁に当たって二人を包むように戻ってくる。横に狭く、縦に長い空間。廊下よりも遙かに暗い場所で、こいしとさとりは歩いていた。
「でも、少し臭くない? まるで地獄だよね」
「そうですね……」一瞬の間が空いた。「どこの世界でも地下は忌み嫌われるべきもの、という意味かも知れません。何にせよ私は余り上へ行きたくないので、こいしにはもう少し付き合ってもらうことになるのですが……」
「別に良いよ。私たちの地底と大差ないわ。上に行きたくないのは、まぁ、何となく分かるし」
マンホール、下水道、臭い、汚水、鼠……。五感で感じるのは、そういったものばかりだった。
何の前触れもなく外の世界に来てしまった二人は、地上を歩く数多の人々を見て、すぐに手近な穴から地下へと潜っていった。普段から人のいないところに住んでいるさとりには、あれだけの人数を一度に視てしまうのは精神的なダメージが多すぎたのだろう。似た理由で瞳を閉じたこいしにはそれがよく分かった。
入った穴からは想像も出来ないほど中の空洞は広くて、丁寧にも人が歩くための通路も脇に用意されている。ただし光はほとんどと言って良いほど入ってこない。地霊殿は文字通り無駄に明るかったから、地底に住むものとしてもこれは少し不便に感じるものがあった。
あとは、やはり臭いというのがあるだろう。生活排水やらを川に流しているのだろうか、刺激的かつ悪酔いしそうな匂いが充満している空間は、気持ちがいいとはお世辞にも言えない。
とにもかくにも、こいしはどうもこの空間が好きにはなれなかった。そりゃ臭い空間が好きな奴なんている訳がないだろうというのは一般論かも知れないけれど、その、つまり……、
「もうちょっとだけ、無意味な意味かなぁ」
「何が無意味?」
「意味が」
「分からない」
「私も、ちょっと分かんないかな」
暗いこの場所では、姉の表情は分からない。表情を見れば大抵の感情は分かるものだけれど、特別無表情な姉の顔は、見ることが出来ても、こいしには何を考えているのか理解できるはずもなかった。
それでも今二人しかいないこの場所で、唯一信頼出来る家族の表情が見れないということが、無駄に焦燥感を生んでしまう。きっと自分は暗い場所が苦手なのだ――そう思うことにして、先へと歩き続けるさとりの服の裾を指先で摘んだ。
「……こいし」
「ひゃい?」変な声が出た。「なぁに、お姉ちゃん」
「貴女、難しいこと考えているでしょう。別の言い方をすると、ややこしいこと」
「何で分かるの? もしかして覚り妖怪?」
冗談を言って笑うと、姉も小さく笑ったようだった。きっとこんな表情をしているんだろうなぁ、などと想像しながら上を見ていると、すぐに抑揚のない声に戻った彼女が先を続けた。
「何事も、中途半端はよくありません」
「何が?」
しかし彼女が言ったのはそれだけで、こいしの質問には答えてくれなかった。結局よく分からない沈黙が後に残るだけで、姉との会話はいつも難しいと、こいしは聞こえないように嘆息を漏らす。遺憾なことに、さとりに言わせれば自分との会話は骨が折れるらしい。単に普段から会話をしないからなんじゃないかとも思ったが、ペットたちとはよく話しているのも見るし……と、いまいち理解できない。
ペットたちとこいしとの知能の違いか、と冗談めかして言ってみたら「今度九尾でも飼ってみますか」と返してくるような姉なので、やはり会話は困難を極める、と一人納得する。
「だいたい、お姉ちゃんが会話してくれないから私がややこしいことに頭を悩ませるんだよ」理不尽ではあると思いながらもこいしは口を開いた。こっちから話しかければ答えてくれるのだから。
「退屈ですか」囁いているかのような小さい声でさとりは言った。「地上に出てみたいですか」
「幻想郷で? 此処で?」
「此処で、です。幻想郷では私に構わず出ていってしまうじゃないですか。当然、今出ていこうとしても私には止める術はありませんよ」
「お姉ちゃんは出たくないの?」
「質問しているのは私です」
さとりが表情の変化に乏しいのは昔から変わらない。偶に珍しい人間が来ると――家のペットが地上を巻き込んだ異変を起こしたときのことだが――不適な笑みを浮かべて相手をすることはあれど、普段一緒に暮らしていてその顔の変化を拝めることなんてひと月に一度あるかないか、といった具合だ。
糸か何かでぴんと張りつめているんじゃないか、と思う。
だから、その糸を鋏で切ることが出来たら、どんな表情が待っているのか、いつか見てみたい。
単なる好奇心。
万が一これが残酷な好奇心だとしても、こいしは心を閉じた無意識の妖怪だから、その後など気にしなくてもいいのだ。
「私は、出てみたいなぁ」素直に答える。
「それじゃあ、出ましょうか」
「えっ?」余りにもあっさりとした返事に、慌てて足を止める。「いや、無理しないで良いよ、お姉ちゃん。何があるか分からないんだしさ」
「私が、出てみたいんです」
「……うそつき」
さとりは答えなかった。
暗い空洞の中で、そんな嘘を言った彼女がいったいどんな表情をしているのか……そして、何を考えているのか。
知りたい。
けれど、それは覚り妖怪としての願望ではなかった。
強いていうなら……愛情だろうか。そんなことを一瞬だけ考えて、無意識の自分から愛情なんて言葉が出ること自体おかしいことに気づいた。誰も見ていないのに口を尖らして、そこにあるであろう姉の陰を見つめる。
外へ出て何がしたいかなんて、こいしは考えていなかった。第一、外に何があるか自体知らない。地上の妖怪はある程度外の世界についての情報を知っているらしいけれど、普段は一応地霊殿に住んでいるから、それについての知識はほとんどない。さすがに姉よりは知っているつもりだったけれど、もしかしたら巫女や魔女の思考を見ている彼女の方が詳しいのかも知れない。そう思った。
こいしが外に出たい理由なら、単なる好奇心だと断言できる。対して姉が出たい理由はあるはずがない。好奇心などとうの昔に捨てたようなひとなのだ。どう転んでも人間にはなれないだろう。
だから、さとりが外へ出てみたいなんて言うのは嘘に決まっている。おおかたこいしがこの臭い中にいるのを心配でもしたのだろう。いや、彼女はそこまで他人の心配の出来る人ではないはずだ。心を読めさえすれば、何を考えているか分かるから対処のしようもあるけれど、逆にそれに慣れてしまえば、相手の望みなど分からなくなってしまう……のだろう。
「また、ややこしいことを考えていますね」
「……お姉ちゃん、どうして分かるの?」
「貴女、考えごとを始めると周りが見えなくなる癖が、昔からあるんです。そうして、無意識に立ち止まる。気づいていましたか?」
「私、止まってたんだ」
「そう、そうです……」さとりはゆらゆらと頭を振った。「貴女は考えながら進む術を知らない。何かに躓くことを知らない。とても、幸せなことだと思いますよ」
「ふぅ、ん……」
先ほどの言葉はこのことだったのか、とこいしは一人納得した。中途半端ではいけない、というのは、彼女が口にしたとおりの意味であるならば、こいしにも何となく理解できた。
けれど、そう、
「じゃあ、お姉ちゃんは中途半端なの?」
「私はそんなことは言っていません」
「違うの?」
「どう思いますか?」
「訊いているのはこっちだよ」
さとりは立ち止まって、黙った。その気配が、急に萎んでしまったかのような印象を受けた。弱くなってしまったような――そんな感覚。
しばらくの沈黙の後、彼女はこいしの手を引いて歩きだした。為す術もなく連れていかれて、若干困惑しながらも、こいしは彼女の答えを待った。さとりが質問に最後まで答えてくれなかったことなんて、過去に一度しかない。先程の質問程度なら、繰り返せばきっと答えてくれる。
本当に一度しか、ない。
「人の心って、分かるものなの?」
そう訊いた幼いあの頃を、こいしは静かに思い出していた。自分が心を読めると知って、間もない頃。妖怪としてのアイデンティティが形成されるほんの少し前の出来事だった。
今こうして、外の世界の地下で腕を引かれている状況でも、その答えは分からない。姉は一瞬怒ったような顔をして、黙ってしまって……。結局答えを聞くことはなく、地球は太陽の周りを何周もしてしまった。
「私は……」
出口だった。
地下世界からの出口を真上にして、幽かに差し込んでくる光にその顔を照らされながらさとりは口を開いた。
「私自身は、非常に、この上なく、明らかに、どうしても、中途半端だと、思いますよ」
途切れ途切れの言葉。
苦しげな言葉。
知らずの内に彼女を傷つけているということが、何となく分かった。
同時に、何が傷を抉っているのか、自分には分からないということが、分かった。
話さなければ分かるはずもないし、意識しなければ、同情も出来ない。
「徹底的に、思いやりのない関係なんだね、私たちって」ふと漏れた言葉に、さとりは過敏に反応した。
「いいえ、そうではありません」首を振る。
「どうして?」首を捻る。
「例え口にしなくても、意識せずとも、伝わる思いはあります」
「でも、お姉ちゃんの思いは私に伝わらなかったよ」
「…………っ、」
姉の、呼吸が乱れた。線のように差し込む光が、揺れる瞳孔を露わにする。こいしはそれをじっと見つめた。両の眼で、その動きを見逃すまいと、見つめた。
「私の考えは伝わっているのかな? 私の思った通りのことをお姉ちゃんが言うのは、私のことを理解してくれているから?」
「そ、そう――」
「うそつき」右手を伸ばして、姉の第三の目を塞ぐ。「お姉ちゃんは、前に私と同じように考えたんだ。私はお姉ちゃんの追思考をしているに過ぎない、それが分かったから……いや、そうと分からないでも、お姉ちゃんも過去と同じように、自分を追思考しているんだね?」
……だから、私のことが分かったように思えるんだ。
そう付け加えて、右手に力を込めた。さとりは両の眼さえも瞑ってしまって、大きく胸を上下させていた。
慌てている。
焦っている。
自分の弱点を、妹に見透かされているかのように、さとりの姿は小さかった。こいしは、何も感じなかった。けれどそう、一つ思うことがあったとするならば、それは糸が張りつめていて、今にもちぎれてしまいそうな状態であるということだった。
もう少しで切れるんじゃないか。
誰か、メスを、鋏を。
「お姉ちゃんは、最後にどんな結論を導き出したの? 私が昔訊いた質問の答えは、何だった?」
「こいし、やめてください」
「答えなんて、見つからなかったんでしょ? 覚り妖怪には、絶対に分かるはずないものね。私が何を考えているか分かってる? 私の言っている、昔の質問が、どんな内容だったか覚えているでしょう? 今、お姉ちゃんはきっと私と同じ思考をしているはずなんだから」
「こいし、やめて」
「そうやって――心が読めない私のことを理解しようとしてきてくれたんでしょう? 私、今やっと分かったよ」
「……やめて、もうやめて……」
耳を塞いで、さとりはしゃがみ込んでしまった。きっと自分の荒れた呼吸が良く聞こえることだろう。でも、今聞いて欲しいのはそんなものじゃない。
その張りつめた糸に、鋏を入れる音を聞いて欲しい。
人間的な好奇心と、妖怪的な嗜虐心?
無意識にあちらこちらで飛び回る思考を無理矢理押さえつける。こいしはそっと屈み込んで、姉の耳に口を寄せた。
「……っ」
今や姉という役職はどこかに置き去ってしまったかのように、さとりは眼をきつく閉じて、怯えたように震えていた。本音を知られることが、いつからこんなに怖くなったのだろう? 昔は、分かり合えていた。少なくとも、互いは互いに、全く別のベクトルで、分かり合えていると信じていた。
こいしは顔を寄せたまま、しばらく黙った。やがてさとりは薄く目を開いて、怯えた小動物が捕食者を見るように、こいしの方を見上げた。
何と言えば良いのか、急に分からなくなってしまった。
「お姉ちゃん」
「…………」
「何か、言って?」
無表情、というのは嘘だった。嘘になってしまった。これほどまでに悲しそうな表情を、こいしは見たことがなかった。
拍子抜けしたと言うよりも、もっと残虐な意味かも知れなかった。好奇心ではない、彼女を、心の底から、傷つけたかった。完璧な銅像を壊したくなるように、優しくて、いつも自分の事を想ってくれている姉を、壊したく、なってしまった。外部の意志による、東大寺の理論だ。
少なくとも、こいしにとって――、
「こいしは……」さとりは、聞き取れないほどにか細い声で、「こいしは、イレギュラーでした。唯一……心が読めない。本来読めるはずの心が、読めない。だから……、」
「ああ、そう!」
こいしは姉の手を取って立ち上がった。
真上にある外への丸い扉を衝撃で吹き飛ばして、一挙動で地上へと躍り出る。引っ張られて外へと連れ出されたさとりの身体を支えて、道路のど真ん中で二人は地面に足をつけた。
通りを歩く人、
変な形の乗り物に乗っている人、
ベンチに座って談笑している人……、
誰もが、この環境においてのイレギュラーの登場に、注目した。
幻想郷では感じることのないほどに多い、気持ちの悪い視線を感じて、こいしは一瞬だけ吐きそうになった。なんとか踏みとどまって、目を見開いたまま黙っているさとりの、第三の眼を再び塞ぐ。
眩い光の中、こいしは叫んだ。
「ご覧、お姉ちゃん! いったい、誰の心が読める? 誰の思いが分かる?」
「……こいし、その手を」
「離したら、読めるっていうの?」もしかしたら、感情的になっているのかも知れない、と思った。思って、変だと思った。「読めるかもね! でもね、お姉ちゃん、そんな空っぽの眼で心が読めても、その人の思いなんてこれっぽっちも分かるはずがないんだから!」
騒ぎが広まっているのか、道路に突然現れた謎の少女二人を囲む人々は多くなっていった。そこにあるのはただの好奇心と軽蔑だけで、感情も何もない空間だった。
さとりは何も言わなかった。
ただ、目尻に、涙を浮かべていた。
溢れそうになるのを必死にこらえて、それでもこぼれてしまいそうで、どうすれば良いのか分からなくて、とても、悲しそうだった。茫然自失とか、いろんな言葉が思いついたけれど、どんな言葉も適切でないような気がしてならない。せめて言えることがあるとすれば、悲しそう、と。それだけしか、こいしの語彙からは出てきてはくれなかった。
そんな眼で、虚空を見つめていた。睨んでいた。
その瞳に、こいしはようやく鋏を入れた。
「人の心って、分からないものだったんだよ」
切られた糸を伝って、涙が落ちる音が、聞こえた気がした。
***
流れたものが涙だということくらい、こいしは分かっていた。閉じた瞳から溢れる涙ほど見ていて痛々しいものはないし、まして開いた瞳から流れてしまったら目も当てられない。
……きっと、今の自分は見ていられない状態なんだ。
そう思った。
必死になって守ってきた矛盾を露わにされてしまって、きっと姉は傷ついたのだ。アイデンティティを根こそぎ奪われてしまって、涙を流した。彼女が第三の眼を閉ざさずにいる理由さえも、全部、あの瞬間に妹が奪ってしまったからだ。
もともと妖怪なんてものは人間を怖がらせるために存在するものであって、妖怪側には救いなんてなかったのだ。怖がらせることが生き甲斐でない以上――他人との触れ合いに身を沈めてしまった以上――覚り妖怪なんていう種族は、最初から必要のないものになってしまった。
姉は、それに気づいていた。
それでも、眼を開いて、心を見ていた。
自身に対する弁解か、
こいしに対する弁護か、
もっと別の何かの為か……。
「お姉ちゃん」
「……何ですか」
結局、再び地下世界に戻ってきてしまって、幻想郷への帰り道を探すために二人は歩きだしていた。暗くて、何も見えない関係に、逆戻り。時折姉の嗚咽が聞こえてきて、その度にこいしの第三の眼は居心地悪そうに疼いていた。
口にしたものが真実であったかどうかなんて、どうでもいい。
傷つけてみようと思って、傷つけた結果、自分がこんなに悲しくなるなんて、思っていなかったのだ。こんなに後悔するなんて……泣いている姉の姿を見るのがこんなにつらいなんて、思っていなかったのだ。
後悔していた。
取り返しのつかないことをしてしまった、と、後悔していた。
「あのね……」
「貴女の心配しているようなことは、ありません」
「本当に?」
「本当です」
「また、私の追思考してるの?」
「いいえ、していません。できません」
「じゃあ、どうして?」
ふいに、前方から光が差し込んだ。
どこから来たのかな、と考えるよりも先に、照らし出された姉の姿を見て、驚愕した。
「――貴女の心が、読めてしまうからです」
悲しそうな、微笑みだった。
どれだけの仕打ちを受けても、何度鋏を入れられても決して閉じることのなかった第三の瞳が、視線を逸らしているこいしの胸の眼を、凝視していた。
矛盾している。
矛盾しているのに、姉は強いな、と。意味もなく、そう思った。
――ごめんなさい。
そう思った。自分の無意識の罪と、さとりが護ってくれていた檻を自ら破壊したことの、罪について。二つの思いを込めて、心の中で謝罪した。
伝われば良いと、思った。
そっと、胸の瞳を、彼女に向ける。
分からなかった。
読むことは出来た。
――ごめんなさい。
そう読めた。彼女の矛盾の罪と、こいしの閉じこもっていた檻を壊させてしまった罪についてなのだと読めた。二つの思いを込めているんだろうなと感じた。
伝わったか分からないけれど、今は、読めたことが、幸せだった。
「こいし、悲しいですか」
「うん」
「私も、とても悲しいです」
「どれくらい?」
「泣きたいくらい」
晴れた闇は、ギラギラとした光を取り戻させた。瞳も身体も突き刺して、内側から融かしてしまいそうな程に、強い光だ。
これから矛盾の中で生きていかなければいけないのかと思うと本当に辛くて、
けれど二人なら何とかやれそうな気がして――、
こいしは何だか、ちょっとだけ幽鬱になった。
……きっと、今の自分は見ていられない状態なんだ。
そう思った。
***
涙を人に見せてはいけない、と昔、姉は言った。理由を訊いたことはなかったけれど、こいしはそれを信じて今まで生きてきたから、悲しいときも辛いときも、決して人前で泣いたことはないはずだった。もしかしたら泣いてしまったときもあったかも知れないけれど、それは覚えていない。少なくとも、自分は泣き虫ではなかったとこいしは思っていた。
そして当然ながら、姉が泣いた瞬間というものもこいしは見たことがなかった。
「怖くない?」
無意味な質問を、隣を歩く姉――古明地さとりに投げかける。もちろん、本当に怖くないか訊きたかったわけではない。沈黙が嫌だったわけでも、淀んだ空気に嫌気がさしたわけでもない。自分で意図したわけでなく言葉に出てしまうのは、きっと無意識とかいうものが原因なのだろう。こいしは無意識だった。
「怖くないですよ」
こいしの心を読むことは出来ないけれど、今の質問に意味がないことくらい彼女は分かっていただろう。それでも律儀にそう答える姉にこいしは小さく微笑んで、足音を高く響かせた。
……そう、微笑むなんて動作を自分はしないはずだ。無意識になってしまった妖怪だから……。
そういう考え方は、短絡的で、少しつまらないと思う。みんな、意識して笑っているわけではない。
音は一旦遠くまで飛んでいって、壁に当たって二人を包むように戻ってくる。横に狭く、縦に長い空間。廊下よりも遙かに暗い場所で、こいしとさとりは歩いていた。
「でも、少し臭くない? まるで地獄だよね」
「そうですね……」一瞬の間が空いた。「どこの世界でも地下は忌み嫌われるべきもの、という意味かも知れません。何にせよ私は余り上へ行きたくないので、こいしにはもう少し付き合ってもらうことになるのですが……」
「別に良いよ。私たちの地底と大差ないわ。上に行きたくないのは、まぁ、何となく分かるし」
マンホール、下水道、臭い、汚水、鼠……。五感で感じるのは、そういったものばかりだった。
何の前触れもなく外の世界に来てしまった二人は、地上を歩く数多の人々を見て、すぐに手近な穴から地下へと潜っていった。普段から人のいないところに住んでいるさとりには、あれだけの人数を一度に視てしまうのは精神的なダメージが多すぎたのだろう。似た理由で瞳を閉じたこいしにはそれがよく分かった。
入った穴からは想像も出来ないほど中の空洞は広くて、丁寧にも人が歩くための通路も脇に用意されている。ただし光はほとんどと言って良いほど入ってこない。地霊殿は文字通り無駄に明るかったから、地底に住むものとしてもこれは少し不便に感じるものがあった。
あとは、やはり臭いというのがあるだろう。生活排水やらを川に流しているのだろうか、刺激的かつ悪酔いしそうな匂いが充満している空間は、気持ちがいいとはお世辞にも言えない。
とにもかくにも、こいしはどうもこの空間が好きにはなれなかった。そりゃ臭い空間が好きな奴なんている訳がないだろうというのは一般論かも知れないけれど、その、つまり……、
「もうちょっとだけ、無意味な意味かなぁ」
「何が無意味?」
「意味が」
「分からない」
「私も、ちょっと分かんないかな」
暗いこの場所では、姉の表情は分からない。表情を見れば大抵の感情は分かるものだけれど、特別無表情な姉の顔は、見ることが出来ても、こいしには何を考えているのか理解できるはずもなかった。
それでも今二人しかいないこの場所で、唯一信頼出来る家族の表情が見れないということが、無駄に焦燥感を生んでしまう。きっと自分は暗い場所が苦手なのだ――そう思うことにして、先へと歩き続けるさとりの服の裾を指先で摘んだ。
「……こいし」
「ひゃい?」変な声が出た。「なぁに、お姉ちゃん」
「貴女、難しいこと考えているでしょう。別の言い方をすると、ややこしいこと」
「何で分かるの? もしかして覚り妖怪?」
冗談を言って笑うと、姉も小さく笑ったようだった。きっとこんな表情をしているんだろうなぁ、などと想像しながら上を見ていると、すぐに抑揚のない声に戻った彼女が先を続けた。
「何事も、中途半端はよくありません」
「何が?」
しかし彼女が言ったのはそれだけで、こいしの質問には答えてくれなかった。結局よく分からない沈黙が後に残るだけで、姉との会話はいつも難しいと、こいしは聞こえないように嘆息を漏らす。遺憾なことに、さとりに言わせれば自分との会話は骨が折れるらしい。単に普段から会話をしないからなんじゃないかとも思ったが、ペットたちとはよく話しているのも見るし……と、いまいち理解できない。
ペットたちとこいしとの知能の違いか、と冗談めかして言ってみたら「今度九尾でも飼ってみますか」と返してくるような姉なので、やはり会話は困難を極める、と一人納得する。
「だいたい、お姉ちゃんが会話してくれないから私がややこしいことに頭を悩ませるんだよ」理不尽ではあると思いながらもこいしは口を開いた。こっちから話しかければ答えてくれるのだから。
「退屈ですか」囁いているかのような小さい声でさとりは言った。「地上に出てみたいですか」
「幻想郷で? 此処で?」
「此処で、です。幻想郷では私に構わず出ていってしまうじゃないですか。当然、今出ていこうとしても私には止める術はありませんよ」
「お姉ちゃんは出たくないの?」
「質問しているのは私です」
さとりが表情の変化に乏しいのは昔から変わらない。偶に珍しい人間が来ると――家のペットが地上を巻き込んだ異変を起こしたときのことだが――不適な笑みを浮かべて相手をすることはあれど、普段一緒に暮らしていてその顔の変化を拝めることなんてひと月に一度あるかないか、といった具合だ。
糸か何かでぴんと張りつめているんじゃないか、と思う。
だから、その糸を鋏で切ることが出来たら、どんな表情が待っているのか、いつか見てみたい。
単なる好奇心。
万が一これが残酷な好奇心だとしても、こいしは心を閉じた無意識の妖怪だから、その後など気にしなくてもいいのだ。
「私は、出てみたいなぁ」素直に答える。
「それじゃあ、出ましょうか」
「えっ?」余りにもあっさりとした返事に、慌てて足を止める。「いや、無理しないで良いよ、お姉ちゃん。何があるか分からないんだしさ」
「私が、出てみたいんです」
「……うそつき」
さとりは答えなかった。
暗い空洞の中で、そんな嘘を言った彼女がいったいどんな表情をしているのか……そして、何を考えているのか。
知りたい。
けれど、それは覚り妖怪としての願望ではなかった。
強いていうなら……愛情だろうか。そんなことを一瞬だけ考えて、無意識の自分から愛情なんて言葉が出ること自体おかしいことに気づいた。誰も見ていないのに口を尖らして、そこにあるであろう姉の陰を見つめる。
外へ出て何がしたいかなんて、こいしは考えていなかった。第一、外に何があるか自体知らない。地上の妖怪はある程度外の世界についての情報を知っているらしいけれど、普段は一応地霊殿に住んでいるから、それについての知識はほとんどない。さすがに姉よりは知っているつもりだったけれど、もしかしたら巫女や魔女の思考を見ている彼女の方が詳しいのかも知れない。そう思った。
こいしが外に出たい理由なら、単なる好奇心だと断言できる。対して姉が出たい理由はあるはずがない。好奇心などとうの昔に捨てたようなひとなのだ。どう転んでも人間にはなれないだろう。
だから、さとりが外へ出てみたいなんて言うのは嘘に決まっている。おおかたこいしがこの臭い中にいるのを心配でもしたのだろう。いや、彼女はそこまで他人の心配の出来る人ではないはずだ。心を読めさえすれば、何を考えているか分かるから対処のしようもあるけれど、逆にそれに慣れてしまえば、相手の望みなど分からなくなってしまう……のだろう。
「また、ややこしいことを考えていますね」
「……お姉ちゃん、どうして分かるの?」
「貴女、考えごとを始めると周りが見えなくなる癖が、昔からあるんです。そうして、無意識に立ち止まる。気づいていましたか?」
「私、止まってたんだ」
「そう、そうです……」さとりはゆらゆらと頭を振った。「貴女は考えながら進む術を知らない。何かに躓くことを知らない。とても、幸せなことだと思いますよ」
「ふぅ、ん……」
先ほどの言葉はこのことだったのか、とこいしは一人納得した。中途半端ではいけない、というのは、彼女が口にしたとおりの意味であるならば、こいしにも何となく理解できた。
けれど、そう、
「じゃあ、お姉ちゃんは中途半端なの?」
「私はそんなことは言っていません」
「違うの?」
「どう思いますか?」
「訊いているのはこっちだよ」
さとりは立ち止まって、黙った。その気配が、急に萎んでしまったかのような印象を受けた。弱くなってしまったような――そんな感覚。
しばらくの沈黙の後、彼女はこいしの手を引いて歩きだした。為す術もなく連れていかれて、若干困惑しながらも、こいしは彼女の答えを待った。さとりが質問に最後まで答えてくれなかったことなんて、過去に一度しかない。先程の質問程度なら、繰り返せばきっと答えてくれる。
本当に一度しか、ない。
「人の心って、分かるものなの?」
そう訊いた幼いあの頃を、こいしは静かに思い出していた。自分が心を読めると知って、間もない頃。妖怪としてのアイデンティティが形成されるほんの少し前の出来事だった。
今こうして、外の世界の地下で腕を引かれている状況でも、その答えは分からない。姉は一瞬怒ったような顔をして、黙ってしまって……。結局答えを聞くことはなく、地球は太陽の周りを何周もしてしまった。
「私は……」
出口だった。
地下世界からの出口を真上にして、幽かに差し込んでくる光にその顔を照らされながらさとりは口を開いた。
「私自身は、非常に、この上なく、明らかに、どうしても、中途半端だと、思いますよ」
途切れ途切れの言葉。
苦しげな言葉。
知らずの内に彼女を傷つけているということが、何となく分かった。
同時に、何が傷を抉っているのか、自分には分からないということが、分かった。
話さなければ分かるはずもないし、意識しなければ、同情も出来ない。
「徹底的に、思いやりのない関係なんだね、私たちって」ふと漏れた言葉に、さとりは過敏に反応した。
「いいえ、そうではありません」首を振る。
「どうして?」首を捻る。
「例え口にしなくても、意識せずとも、伝わる思いはあります」
「でも、お姉ちゃんの思いは私に伝わらなかったよ」
「…………っ、」
姉の、呼吸が乱れた。線のように差し込む光が、揺れる瞳孔を露わにする。こいしはそれをじっと見つめた。両の眼で、その動きを見逃すまいと、見つめた。
「私の考えは伝わっているのかな? 私の思った通りのことをお姉ちゃんが言うのは、私のことを理解してくれているから?」
「そ、そう――」
「うそつき」右手を伸ばして、姉の第三の目を塞ぐ。「お姉ちゃんは、前に私と同じように考えたんだ。私はお姉ちゃんの追思考をしているに過ぎない、それが分かったから……いや、そうと分からないでも、お姉ちゃんも過去と同じように、自分を追思考しているんだね?」
……だから、私のことが分かったように思えるんだ。
そう付け加えて、右手に力を込めた。さとりは両の眼さえも瞑ってしまって、大きく胸を上下させていた。
慌てている。
焦っている。
自分の弱点を、妹に見透かされているかのように、さとりの姿は小さかった。こいしは、何も感じなかった。けれどそう、一つ思うことがあったとするならば、それは糸が張りつめていて、今にもちぎれてしまいそうな状態であるということだった。
もう少しで切れるんじゃないか。
誰か、メスを、鋏を。
「お姉ちゃんは、最後にどんな結論を導き出したの? 私が昔訊いた質問の答えは、何だった?」
「こいし、やめてください」
「答えなんて、見つからなかったんでしょ? 覚り妖怪には、絶対に分かるはずないものね。私が何を考えているか分かってる? 私の言っている、昔の質問が、どんな内容だったか覚えているでしょう? 今、お姉ちゃんはきっと私と同じ思考をしているはずなんだから」
「こいし、やめて」
「そうやって――心が読めない私のことを理解しようとしてきてくれたんでしょう? 私、今やっと分かったよ」
「……やめて、もうやめて……」
耳を塞いで、さとりはしゃがみ込んでしまった。きっと自分の荒れた呼吸が良く聞こえることだろう。でも、今聞いて欲しいのはそんなものじゃない。
その張りつめた糸に、鋏を入れる音を聞いて欲しい。
人間的な好奇心と、妖怪的な嗜虐心?
無意識にあちらこちらで飛び回る思考を無理矢理押さえつける。こいしはそっと屈み込んで、姉の耳に口を寄せた。
「……っ」
今や姉という役職はどこかに置き去ってしまったかのように、さとりは眼をきつく閉じて、怯えたように震えていた。本音を知られることが、いつからこんなに怖くなったのだろう? 昔は、分かり合えていた。少なくとも、互いは互いに、全く別のベクトルで、分かり合えていると信じていた。
こいしは顔を寄せたまま、しばらく黙った。やがてさとりは薄く目を開いて、怯えた小動物が捕食者を見るように、こいしの方を見上げた。
何と言えば良いのか、急に分からなくなってしまった。
「お姉ちゃん」
「…………」
「何か、言って?」
無表情、というのは嘘だった。嘘になってしまった。これほどまでに悲しそうな表情を、こいしは見たことがなかった。
拍子抜けしたと言うよりも、もっと残虐な意味かも知れなかった。好奇心ではない、彼女を、心の底から、傷つけたかった。完璧な銅像を壊したくなるように、優しくて、いつも自分の事を想ってくれている姉を、壊したく、なってしまった。外部の意志による、東大寺の理論だ。
少なくとも、こいしにとって――、
「こいしは……」さとりは、聞き取れないほどにか細い声で、「こいしは、イレギュラーでした。唯一……心が読めない。本来読めるはずの心が、読めない。だから……、」
「ああ、そう!」
こいしは姉の手を取って立ち上がった。
真上にある外への丸い扉を衝撃で吹き飛ばして、一挙動で地上へと躍り出る。引っ張られて外へと連れ出されたさとりの身体を支えて、道路のど真ん中で二人は地面に足をつけた。
通りを歩く人、
変な形の乗り物に乗っている人、
ベンチに座って談笑している人……、
誰もが、この環境においてのイレギュラーの登場に、注目した。
幻想郷では感じることのないほどに多い、気持ちの悪い視線を感じて、こいしは一瞬だけ吐きそうになった。なんとか踏みとどまって、目を見開いたまま黙っているさとりの、第三の眼を再び塞ぐ。
眩い光の中、こいしは叫んだ。
「ご覧、お姉ちゃん! いったい、誰の心が読める? 誰の思いが分かる?」
「……こいし、その手を」
「離したら、読めるっていうの?」もしかしたら、感情的になっているのかも知れない、と思った。思って、変だと思った。「読めるかもね! でもね、お姉ちゃん、そんな空っぽの眼で心が読めても、その人の思いなんてこれっぽっちも分かるはずがないんだから!」
騒ぎが広まっているのか、道路に突然現れた謎の少女二人を囲む人々は多くなっていった。そこにあるのはただの好奇心と軽蔑だけで、感情も何もない空間だった。
さとりは何も言わなかった。
ただ、目尻に、涙を浮かべていた。
溢れそうになるのを必死にこらえて、それでもこぼれてしまいそうで、どうすれば良いのか分からなくて、とても、悲しそうだった。茫然自失とか、いろんな言葉が思いついたけれど、どんな言葉も適切でないような気がしてならない。せめて言えることがあるとすれば、悲しそう、と。それだけしか、こいしの語彙からは出てきてはくれなかった。
そんな眼で、虚空を見つめていた。睨んでいた。
その瞳に、こいしはようやく鋏を入れた。
「人の心って、分からないものだったんだよ」
切られた糸を伝って、涙が落ちる音が、聞こえた気がした。
***
流れたものが涙だということくらい、こいしは分かっていた。閉じた瞳から溢れる涙ほど見ていて痛々しいものはないし、まして開いた瞳から流れてしまったら目も当てられない。
……きっと、今の自分は見ていられない状態なんだ。
そう思った。
必死になって守ってきた矛盾を露わにされてしまって、きっと姉は傷ついたのだ。アイデンティティを根こそぎ奪われてしまって、涙を流した。彼女が第三の眼を閉ざさずにいる理由さえも、全部、あの瞬間に妹が奪ってしまったからだ。
もともと妖怪なんてものは人間を怖がらせるために存在するものであって、妖怪側には救いなんてなかったのだ。怖がらせることが生き甲斐でない以上――他人との触れ合いに身を沈めてしまった以上――覚り妖怪なんていう種族は、最初から必要のないものになってしまった。
姉は、それに気づいていた。
それでも、眼を開いて、心を見ていた。
自身に対する弁解か、
こいしに対する弁護か、
もっと別の何かの為か……。
「お姉ちゃん」
「……何ですか」
結局、再び地下世界に戻ってきてしまって、幻想郷への帰り道を探すために二人は歩きだしていた。暗くて、何も見えない関係に、逆戻り。時折姉の嗚咽が聞こえてきて、その度にこいしの第三の眼は居心地悪そうに疼いていた。
口にしたものが真実であったかどうかなんて、どうでもいい。
傷つけてみようと思って、傷つけた結果、自分がこんなに悲しくなるなんて、思っていなかったのだ。こんなに後悔するなんて……泣いている姉の姿を見るのがこんなにつらいなんて、思っていなかったのだ。
後悔していた。
取り返しのつかないことをしてしまった、と、後悔していた。
「あのね……」
「貴女の心配しているようなことは、ありません」
「本当に?」
「本当です」
「また、私の追思考してるの?」
「いいえ、していません。できません」
「じゃあ、どうして?」
ふいに、前方から光が差し込んだ。
どこから来たのかな、と考えるよりも先に、照らし出された姉の姿を見て、驚愕した。
「――貴女の心が、読めてしまうからです」
悲しそうな、微笑みだった。
どれだけの仕打ちを受けても、何度鋏を入れられても決して閉じることのなかった第三の瞳が、視線を逸らしているこいしの胸の眼を、凝視していた。
矛盾している。
矛盾しているのに、姉は強いな、と。意味もなく、そう思った。
――ごめんなさい。
そう思った。自分の無意識の罪と、さとりが護ってくれていた檻を自ら破壊したことの、罪について。二つの思いを込めて、心の中で謝罪した。
伝われば良いと、思った。
そっと、胸の瞳を、彼女に向ける。
分からなかった。
読むことは出来た。
――ごめんなさい。
そう読めた。彼女の矛盾の罪と、こいしの閉じこもっていた檻を壊させてしまった罪についてなのだと読めた。二つの思いを込めているんだろうなと感じた。
伝わったか分からないけれど、今は、読めたことが、幸せだった。
「こいし、悲しいですか」
「うん」
「私も、とても悲しいです」
「どれくらい?」
「泣きたいくらい」
晴れた闇は、ギラギラとした光を取り戻させた。瞳も身体も突き刺して、内側から融かしてしまいそうな程に、強い光だ。
これから矛盾の中で生きていかなければいけないのかと思うと本当に辛くて、
けれど二人なら何とかやれそうな気がして――、
こいしは何だか、ちょっとだけ幽鬱になった。
いやまさかぜろしきさんの古明地が見られるとは……。
相変わらず言葉運びや会話の掛け合いが実にすてきですね。それに、世界観もとても好みです。
冒頭の文を最後にまたもってくる演出とかもう、ね。
さとりは読むことが出来ないこいしの心を、自分と照らし合わせることでしか想像出来なかったのですねぇ。
お互いギリギリのラインに踏み込むことを避けてきたようですが、ついにそのラインを切ってしまったことで、姉妹の間柄はどのように変化していくのやら…気になります。
良かった
この作品の世界観もあいまって強烈な余韻となって残りました。
素晴らしかったです。
けれども逆に、矛盾に気付いてしまったこいしが、幽かに気がふさぐ程度ですんだのは、
きっと二人が優しいからなのだろうな、と思いました。
細やかな心の動きが素晴らしかったです。
だというのに、二人を切らなかった作者さんにこの百点を。
「心を読む妖怪」の心に入っていって、姉妹の絆を手探りで求めつつ、
もっと普遍的な人と人との触れ合いを心という観点から透明に描き出されていく過程。
とても素晴らしかったです。
それを古明地姉妹で描き出したところが嬉しいです。
もっと大きな物語で読みたい、と思える作品でした。