上を見れば青い空、前を向けば鬱蒼とした森の中。
最近までひどかった冬の寒さは引っ込み、今では春に移ろうとしているこのごろ。太陽の光が差しにくいこんな魔法の森の中でも季節の変化はわりと感じることができる。例えば、地面から生えてくる植物だとかだ。
その森の中に一軒の道具屋がある。その名は香霖堂。
店主が偏屈で薀蓄家なことでそこそこ有名な道具屋である。外の世界の道具も扱っていることもあり、それなりに来客はある。
そんな道具屋に店主のほかにもう一人、即ちお客がいた。銀の髪とメイド姿が特徴の女性。
「取りあえず、これだけ頂くわ」
「毎度」
十六夜 咲夜は店主の森近 霖之助とカウンター越しで話していた。もちろん、内容は商品のことである。
木でつくられたカウンターの上には白い敷物が広げられている。そして敷物の上に広げられているのはおよそ100本ほどの銀製のナイフ。どれも形状は一緒で光にかざすと刃の部分が鏡のように眩しく反射する。まるで美術品のようであった。
「御代はこれぐらいになるけど」
「……少し高いわね。もう少し下がらないかしら」
「そうだね………君には色々とひいきしてもらっているから、これでどうかな」
そう言って霖之助はそろばんを弾く。
動かされる珠と彼の指を見ながら、眉をひそめる。二度目に出された金額も彼女にとってはまだ納得できるものではなかったからだ。
とは言え、最初のに比べれば2割近くは下がっている。もう少し下げてくれれば、妥協できるラインに到達できる。しかし、彼もこれ以上は下げないかもしれない。それくらい微妙なラインに設定された金額だろうと彼女は推測した。そこで、別の方向から値切りをしてみようと彼女は考えた。
値段を下げてでも店主にメリットがあり、なおかつこれからの店主と客としての関係がこじれないような妥協を図れる方法はないだろうか。
「あ」
「うん? なんだね?」
妙案が浮かんで、思わず口から言葉がもれた咲夜。それに反応した霖之助はそろばんから彼女の方に目を移した。
「霖之助さん、私から提案があるのだけれど」
「何だい、提案って?」
「もう少し値段を下げる代わりに、今度、紅魔館にいらっしゃらないかしら?」
りんの世界
「僕がそこに行くことでどんなメリットがあるのだい?」
霖之助は咲夜の言葉にあまり特典はなさそうな気がしながらも、とりあえず耳を傾けることにした。
「貴方ってここで一人暮らしなのよね? 炊事なんかはちゃんとできているの?」
「誇れるものではないが、一応長い生活でね。お陰である程度はそつなくこなせるつもりだよ」
「そう。ではそこにもう少しバリエーションを増やしてみたいと思わないかしら?」
「具体的には?」
咲夜の口元は少女らしい笑みを浮かべていた。えくぼを覗かせ、頬が柔らかく動く。
「洋風の料理を学んでみない? 決して難しくないし、覚えれば誰でもつくれるものよ」
「ふむ……確かに料理が増えれば生活に多少は華が出そうだね」
満更でもない霖之助の思案顔に咲夜はほっとする。興味が出てくれればいくらでも言いようがあるからだ。
興味を持ってもらえるまでが勝負だと感じていた彼女は安堵しながらも続けて言葉を紡いだ。
「もちろん、お出迎えや見送りもサービスしますよ。貴方はゲストですから」
「……まあ、そこまで言うのなら乗ってみるのも悪くないね」
そう言って霖之助は再度そろばんを弾いた。三度目の金額は元から2割5分カット。
咲夜はこくりと頷いた。お互いが一致した、妥協点であった。
霖之助にとって最初はただの暇つぶしで話を聞いていた。要するに乗り気ではなかったが、彼女の言葉に興味を持ってしまったときからのめり込んでいたのかもしれないと思った。
結果的には妥協できたが、これからもこんな提案が来るのだろうかと考えると用心しなければと首を横に振った。
青空がかすみ、やがて夕刻に移ろうとしていた。
春になり始めたとはいえ、まだ夜の時間の方が長い。
これからは妖怪たちの、そして主の時間だ。青と橙が混ざる空の中を飛んでいた咲夜は緑の芝生が広がる門前にゆっくりと降下した。
「美鈴、起きてる?」
「起きてますよ。今日はもう上がりですけど、何か?」
門の前に座っているは紅魔館の門番長、紅 美鈴。
両手を天にかざし、背伸びをしながら立ち上がる様を見ていると本当に起きていたのか疑わしい。
「ま、そう言うのなら信じてあげましょう。美鈴、明日お客が来るから迎えに行ってあげてちょうだい」
「やです。面倒なので」
「はぁ……また始まった。美鈴のその言葉」
咲夜は大きくため息をついた。美鈴は用事を頼むと何かと拒否する。しかも、たいした言い訳もつかないで、あっさりと思ったことを言うものだから咲夜としてはいっそう清々しく思えた。
「駄目よ。これはメイド長としての命令なのだから」
「……また、それですか。いい加減、聞き飽きますね。ボキャブラリーの増築を要求します」
「貴女がそう言うからでしょうが!」
咲夜は足のホルダーにストックされていた、今日買ったばかりの三本のナイフを美鈴めがけて放つ。絹のように白い指に挟まれて放たれたナイフはきれいにまっすぐ飛んでいったが、それを美鈴は難なく指で挟んでキャッチする。一本だけならまだしも放たれた数は三本。それらを見事にしかも刃の方で捕まえたのだ。
「おお、こわいこわい。もう少しで刺さるとこでした」
「嘘つけ。余裕だったくせに」
「はい! ホントは全然の余裕でした!」
楽しそうに笑う美鈴に咲夜はどんどんと怒りを溜めていく。
美鈴は何かと人を小ばかにする性質がある。決して嫌味でやっているのではなく一種の愛情表現と本人は言うが言われた者にとってはたまらない。被害者に回りやすい咲夜にとって彼女は天敵であった。
とはいえ、必ずしもいつもひどいということではない。
「あ~、笑わせてもらいました。これはいいお駄賃ですね。仕方ないから行ってきてあげますよ」
「……香霖堂よ。明日の10時着でお願いね」
「了解です」
心なしか、少し肩を落として門の中に入っていく咲夜。絡まれるだけ絡まれて、結局命令を聞く天邪鬼に疲れたのだろう。
対する美鈴は顔を明るくしている。彼女にとって咲夜を相手するのは自分へのご褒美だからだ。
こんな二人が紅魔館の内外の守護者であった。
翌日
霖之助は自分の店先に立っていた。
春の朝は肌寒く、指先が鋭敏に感じる。時折り息を吐きながら紅魔館からの迎えを待っていた。
すると、地面に黒いしみが現れ、それが徐々に広がっていく。霖之助は上を見上げると迎えの者が現れた。
「おはようございます。紅魔館の門番をしている紅 美鈴でございます。森近 霖之助様で宜しいですね」
「ああ、そうだよ。と言うか別に初対面ではないのだからそんな畏まらないでほしい。対応に困る」
「あ、そうですか? じゃあ、やめますね」
迎えに着た美鈴は最初こそは慇懃にしていたが霖之助に言われてあっさりといつもの口調に戻した。ゲストを迎えるのだから相応の対応としてわざと畏まった喋りをしたのだ。
霖之助は迎えの美鈴をちらりと見やる。温かみを象徴するような紅い髪とは対象に、深く切り込まれているスリットから現れる脚は見ている者には季節外れなのではと違和感を与える。その上、普段着の上に何も着込んでいないので彼女は寒くないのだろうかと尋ねてみた。
「これくらいは特に問題ありませんね。それに春ですから暖かいですよ」
「僕は寒いがね」
いいね若いって、そうぼそりと呟いて彼は手を彼女に差し出した。別に握手をしてほしいわけではない。彼は妖怪の血を半分引き継いでいるが飛行能力はなかった。ゆえに大概は徒歩で移動するのだがこうやってお迎えが来たときは手を引っ張って飛んでいってもらうのが常である。恥ずかしいことだが、仕方ないとも割り切っていた。
「せっかく私が迎えに来たので、お姫様抱っこでお連れしましょうか?」
「結構だ」
若いから寒さを感じないのではなく、頭の中が春だから寒さを感じないのだろうと霖之助は頭の中で彼女に対する印象を修正した。
「は~い、到着!」
青く塗られた寒空の中を美鈴と彼女に手を引っ張られてきた霖之助は紅魔館の門前に降り立った。緑の芝生で覆われた地面と面前の紅い屋敷との間にきっちり境界線があるように見えた。それくらい紅魔館はこの世界に際立っているように見えた。
「さて、私は今から本来の業務を行おうと思います。帰るときは声をかけてくださいね」
「了解した。それじゃお邪魔させてもらうよ」
「どうぞ、どうぞ」
両の掌を上にかざし指先を紅魔館に向けながら笑顔で彼女はゲストを迎え入れた。
霖之助は軽く会釈を入れるだけで特に表情を変えずに門内に入った。
門から玄関までの距離がその家のステータスを表す。誰が言ったか分からないがここは歩く距離がそれなりに長い。ここが幻想郷のパワーバランスの一角だと言うことを彼は改めて納得した。
ふと後ろを振り向く。先ほどまで笑顔で迎え入れた彼女はこちらに背を向け、何故かと言うかやはりと言うか地面に座っていた。門番は立って仕事をするものだろうに。
「あれでいいのか?」
そう呟くだけで霖之助は玄関の扉をノックした。
扉を開けると紅い絨毯で敷き詰められた玄関ホールで、両手を前に置き、軽くお辞儀をしながら迎えるメイド長が立っていた。
「おはようございます、霖之助様。ようこそ紅魔館へ」
「……畏まるのは止めてくれ。鳥肌が立つ」
「あら、失礼な人ですね。ま、そういうのであれば、止めますか」
館内に入り最初に迎え入れてくれたのは紅魔館に招いてくれた咲夜。
いつもと変わらないメイド服を着用し、白い髪の片方はみつあみで纏められている。普段自分の店か宴会場の博麗神社でしか見かけないこともあってこれだけ場に合っている彼女を見たのは久しぶりなような気がした。
「メイド服か…」
「は?」
「いや、なんでもない。それより、君たちはお客が来るなりこのような対応をしているのかい?」
「ええ、そうですよ。それがマナーですから」
「魔理沙相手でもかい?」
「魔理沙には魔理沙なりの特別な対応をしてますよ」
「例えば?」
霖之助は妹分の霧雨 魔理沙がここにしょっちゅう訪れているので気になり聞いてみた。すると咲夜は脚のホルダーにストックされているナイフを一本取り出し、玄関に向かって放った。
「おわっ!?」
すると外から女性の驚いた声が館内まで響いた。
「ちっ、逃したか」
「あ、玄関閉めるの忘れてた」
そこにきて自分が扉を閉めるのを初めて気づいた霖之助。
「全く。堂々とサボるなんていい度胸じゃない」
不満そうに呟きながら咲夜は開かれていた扉を閉じ、霖之助の前に戻ってくる。
「それが魔理沙への対応かい?」
「そうよ。加えるならサボリ魔もかしら」
「…………今度会った時にきつく言っておくよ」
「そうしてちょうだい」
魔理沙がこんな洗礼をくらってもいいような対応を受けていることに霖之助は内心ため息をつく。
咲夜は取りあえず外のサボリ魔は無視することにし、ゲストを案内することにした。
「そう言えば、ゲストの前で舌打ちするってマナー的にはどうなんだろうか」
「…………」
瀟洒なメイドは黙り込んでしまった。
咲夜に案内され霖之助がつれてこられた場所は当然キッチンであった。もともとの約束がここで料理を教えてもらうことだった彼は入るなり素で驚いた。
まず広さに驚いた。普段一人で自炊している彼は自分がうまく立ちまわれるだけの広さがあれば十分ということもあり、よくて2,3人が納まる感じだ。
それに対してここは明らかに10人以上は調理ができるぐらいの広さを誇っている。いやもっとだろうか。その判断ができないほど広かった。
そして、隣には食事ができる場所も隣接しているが、ここも規格外である。100人分の椅子は確認できる。どうやら、ここで働いている者は相当いるのだろうと改めて規模の大きさを認識した。
「気にいってもらえたようで何よりですわ」
「いや、気に入るとかじゃなくてまず、大きさに驚いたよ。これだけいると一人くらい混ざっていてもわからないんじゃないか?」
「そうでもありませんわ。前に霊夢が平然と座って美鈴と喋りながら食事していた時はすぐに見つけましたけど」
「……あの娘も何かとやるな」
感心しながら笑う霖之助に咲夜も苦笑する。
二人は入り口から少し入った一つの調理場の前に立つ。ステンレスの台に蛇口、まな板、調理器具など必要なものはすでに拵えられている。調理する者としてこれ以上ないくらい環境だ。
「さて、まずは教えたい料理なんだけど……貴方、オムライスって知っているかしら?」
「まぁ、名前くらいはね。一応食べたことはあるが、作ったことはないな」
「それは丁度良いわ。それにしましょう」
そう言って咲夜は保冷庫に向かう。それもまた規格外の大きさだ。人間10人は入れるんじゃないだろうか。
しかし、ここは吸血鬼の館だ。本当に人間が入っていそうで恐ろしい。まるで頭だけがない牛肉や豚肉のように天井から縄で吊るされている光景が生々しく思い浮かぶ。中を見てはいけないような気がした彼は思わず、保冷庫から目をそむけた。
「材料はこれぐらいね……ってどうしたの天井なんか見て?」
「……赤いシミがいっぱいあるなあと思ってね」
咲夜が材料を抱えて戻ってくるまで不自然に目をそむけていた霖之助。聞かれるだろうなと思いながらも理由を考えていなかった彼はひねりすらない見たままの事を口にした。
「そりゃ、そうでしょう。だって紅魔館は赤い館なのですから天井も赤くて当然ですわ」
「……それもそうか。勉強になった」
「?」
所々ではなく全体が赤い天井は彼女にとっては不思議ではない。でも、ここに住んでいない彼には変に思ったのだろうと結論付けて材料の話をした。
「まずはオムライスに欠かせないものとして卵、トマト、米ね。後はトッピングとして鶏肉、コーン、ピーマン。調味料にバターと塩、胡椒、砂糖。これぐらいあれば、十分ですわ」
「意外と材料を使うんだね」
「最初にあげた三つと調味料さえあれば十分ですわ。後はお好みで、と言う感じですね」
そう言って咲夜はまた離れた。入り口に掛けられてあるエプロンを持ってくるためだ。
「そういえば、これをつけてもらうのを忘れていましたね」
「これを、つけろと……」
霖之助は顔をしかめた。
「あら、エプロンをご存知でない?」
「それくらいは知ってるよ」
「じゃあ、自分はつけない主義だと。不衛生で困りますわ」
「僕も料理をするときくらいはするさ。ただ、これは」
要領がつかめない咲夜は首をかしげている。
「明らかに女性向けだろう。フリルがびっしりついているじゃないか。と言うか、君のと同じじゃないか」
「ああ、ああ。そこにぶつかりますか」
霖之助の言葉にやっと納得した咲夜。
彼は別のものにしてほしいと言うが彼女は首を横にふる。
「申し訳ありませんが、当館にはこれしかないもので。我慢して着用してください」
「ぐっ……」
唇をぎゅっと噛み、首をすくめる。とてもじゃないが、男として、自分はこれを着るには度胸が必要だ。自分には似合わない。魔理沙や霊夢のような少女が着るものだろうと悶々している霖之助。
その様子にじっと見ているだけの咲夜ではなかった。くすりと笑い金色の懐中時計を取り出す。
「申し訳ありません。時間が押していますので」
「え? ………………あ!?」
咲夜に何か言われたと思ったときにはすでに遅かった。
なんと自分の服の上に純白の大量のフリルのついたエプロンが装備されていた。それを見て愕然とした。
「咲夜……君は……」
「そのうちお昼の調理をしに来るメイドたちがやってきます。彼女たちに会いたいですか?」
それは暗にこれ以上愚図っているとメイドたちに見られても知らないぞ、ということを意味していた。
これ以上、押し問答していても埒が明かないと思った霖之助は頭を下げた。
「……よろしくお願いします」
「ええ、懇切丁寧に教えますのでじっくり作っていきましょうね」
「適度で妥当な時間で頼む」
瀟洒なメイドは満足そうに笑っていた。
「まずは卵をボールに落としましょう」
霖之助の隣で咲夜は二つの卵を一つずつ手に取り、器用に片手で割っていく。ボールの中に落とされた卵がふるんと揺れる。
霖之助も彼女に言われたとおり二つの卵をボールに落としていく。こちらは両手割りであった。
「からざを取ってから軽く塩と胡椒を混ぜて」
「わかった」
はしで割られた卵の白身についているからざを取り除き、塩と胡椒を振る。
「後で卵の上にトマトソースをかけるからホントに少なめでいいわよ。で、あとは卵を溶いてちょうだい。白身と黄身の区分がなくなるくらい」
「了解した」
少なめに入れられた塩と胡椒と卵をはしでかき混ぜる。ちゃっちゃっという音が広いキッチンに広がる。
「うん、これくらいで十分ね。じゃ、次はチキンライスよ。まずは鶏肉とピーマンを切りましょうか」
「どのぐらいの大きさにするんだい?」
「そうね。特に決まった大きさはないけど細切れでいいかしら」
そう言って咲夜はまな板を用意し、その上にまずはピーマンを置く。
中央を包丁で切り、中にある種を取る。そして、半分になったそれらをまた中央に包丁を入れる。四分割にされたピーマンは彼女の手により一つ一つ千切りにされていく。
隣の霖之助も彼女がするのを見てから切り始める。
猫の手の左手、包丁をもつ右手。どれも意識してではなく自然にしている辺り、彼の自炊力が計り取ることが出来た。
「慣れているのね、ホントに。貴方って結構生活はずぼらだと思っていたけど、見直すことにしたわ」
「そんなことないさ。君の言うとおり僕はずぼらだよ。読書が趣味でね、時には時間も忘れて徹夜するなんてのもよくあるさ」
「あら、うちの知識人と同じね。こちらのは大概次の日は体調不良で寝込んじゃうけど」
「同じだね。僕も眠くて仕方ないからその日はお店も臨時休業さ」
「……それは店主としてどうなのかしら」
「大有りさ。僕が休んだくらいで幻想郷に影響はないだろう。だから無理はしないように寝るのが一番さ」
話しながら二人は鶏肉の調理に掛かる。
こちらは指の第一関節ぐらいの大きさに細かく刻んでいく。たんたんたん、と包丁の音が鳴る。
ふと、咲夜は口を開いた。
「でも、ちょっとは困るかな」
「うん?」
「貴方がお店をしていないと買い物に来た意味がないじゃない。そこでしか手に入らないのだから少しは自分の節制に努めてほしいわね」
霖之助のほうを見ながら紡がれた言葉。口調はいつもと変わらないが、温かい目と柔らかな唇が動く彼女の表情に、彼は不意をくらったようにほうと言葉を洩らす。
あまりお客が来ないことで有名なお店にまさか、自分を当てにしてくれるお客がいるなんて露も思わなかった彼は少しだけ心が跳ねた。
少しだけ…
たんたんたん…………
「次はトマトソースを作りましょうか」
洋式の紅魔館は幻想郷で一般的なかまどではなく、コンロが設置されている。彼女はコンロに火をつけ、水が入った鍋を置く。
「沸騰したらトマトを投入ね。これからは私がやるから貴方は見ていてくださらない?」
「わかったよ」
霖之助が頷く。
やがて水は沸騰し、彼女はあらかじめヘタを取り除いた十個のトマトを入れていく。もちろん、お湯が跳ねないように静かに、である。
「そんなに入れるのかい?」
「まぁね。結構使うのよ、オムライスには」
そう言いながら彼女は鍋に入ったトマトを5分もしないうちに取り出す。
「湯剥きと言ってね。さっとお湯に通すだけでまわりの皮がはがれやすくなるのよ」
彼女の言うとおりトマトは形を残しながらも、少しふやけているように見えた。
ボールに移されたトマトを今度は冷水に浸しながら彼女はトマトを優しく撫でる。すると面白いように皮がはがれ始めた。
「まるでミカンを剥いているようだ」
「まさにそうね。覚えておいて損はないわよ」
皮むきが楽しいのか彼女はテンポよく剥していく。やがて十個全部をはがし終えるとそれをさいの目に刻んでいく。少しでも次の作業をしやすくするためだ。
次に彼女は彼にとって見慣れない器具を棚から出した。
「次は貴方の番よ。今度はこれを使って裏ごししてほしいの」
竹筒のようなものに片面にだけ網が張られた器具とへらを渡された霖之助。
「まずはこのボールの上に網のついた器具を置いてその上にトマトを置いてちょうだい」
「ああ、なるほど。それでこのへらですり潰すと網の上には硬いものだけが残って、それ以外が下の方に落ちるんだね」
「ええ、そうよ」
霖之助は言われた通りに器具を設置し、トマトを置いて潰してみた。するとあまり力を入れていないのにトマトがへこんでいき、下の方に液体となったそれが落ちていく。
なるほど、これは面白いと、彼は呟きながら二個、三個と続けていく。まるで子供が始めてみたおもちゃのような反応をする霖之助の行動に咲夜はクスリと笑いながら、つぶさに見つめていた。
やがて原形をとどめなくなった十個のトマト。網についたトマトは使わないらしくごみ箱に捨てられ、ボールに溜まったトマトの液体は咲夜がコンロのところに持っていく。
コンロにはすでに新しい鍋が置かれてあり熱も伴っていた。
「後はこれでソース作りね。塩と胡椒、砂糖も少しだけ加えておきましょうか。酸味が柔らかくなってほしいからね」
トマトのままの味だとどうも駄目らしく、彼女は潰されたトマトを鍋で煮込みながら調味料を加えていく。
そんな彼女の手順を彼は後ろから見ていた。
「……できれば隣に来てくださらないかしら。視線が刺ささって気になりますわ」
「ああ、すまない。気が散るかと思ってね」
「後ろの方が散ります」
ほおをぽりぽりと掻き、彼は言われたとおり彼女の隣に近づいた。
ぷっぷっと何度も泡を膨らませながらすぐに割れるトマトソース。咲夜は小さなスプーンでそれを一掬いし、口に含む。
「いい感じね。じゃあ、次に移りましょうか」
コンロの火を止めながら彼女は呟く。
「隣は隣でなんか照れるわね」
「何か言ったかい?」
「何も言ってませんわ」
「さて、ごはんは炊けているので、調理に移りましょうか」
彼女は二つのコンロに火をつけ、その上にフライパンを乗せ熱していく。
フライパンが適度に温まった状態でバターを投入。取っ手を右に左に傾けながら一面にバターを滑らせるとそれのいい匂いがふわりと広がった。
「ごはんを炒める前に少しだけ鶏肉を軽く炒めましょうか」
「適当にかい?」
「適度で妥当によ」
そう言って咲夜は鶏肉をフライパンに乗せる。じゅわっという音が鳴り、焦げないようにはしで動かす。
霖之助も彼女を手本にしながら同様にしていく。
「そろそろかな。じゃあ、ご飯を入れるわね。その後はトマトソースを入れて、いい具合に炒めてからピーマンとコーンを入れるのよ」
「分かったよ」
そう言って彼はごはんをフライパンに入れた。鶏肉を入れたときより大きな音がなる。二人はすぐにトマトソースを投入した。
焦げがつかないように遅すぎず、早すぎず丁度いい具合に炒めていく。
「トマトソースが結構残ったけど、いいのかい?」
「それは後でもう一度使うから大丈夫よ」
鍋にはまだトマトソースが残っていたが、彼女がそういうのだから気にしても仕方ないだろうと彼はフライパンで炒めているご飯に集中した。
少しして彼はごはんの感じが、いつも自分が食べるものと違うことに気づいた。
「変わったごはんだね。炒めても全然べちゃつかないよ」
「そのごはんはオムライス用のごはんなのよ。あらかじめ水分少なめで炊いてあるから炒めてもあまり水分は出ないわ」
「なるほど、参考になる」
喋りながらも二人はかき混ぜる手を止めない。手を止めてしまえば、トマトソースが焦げ付き苦味が出るからだ。
やがて、炒めていたごはんが全体的に赤くなってきたところで最後のトッピングである。ピーマンとコーンをフライパンの中に入れた。
「確かに見た目がいいな。この具材の組み合わせは最良だと思うよ」
「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいわ」
この組み合わせを選んだ咲夜は嬉しそうな声をあげる。褒められて喜ばない者なんていない。彼女の気持ちを代弁するように炒められるチキンライスは何度も弾けていた。
やがて大きな皿の上にチキンライスを盛り付ける二人。中央が盛り上がるようなラグビー型の形に整える。わざわざこんな形にする意味があるのかと霖之助は問う。
「ええ、大有りよ。最後にこの上に卵を乗せるのよ。この形の方が乗せやすいのよね、経験上」
ここにきて最初の方に下ごしらえした卵がやっと登場した。
「後は卵を乗せれば完成なんだけれど、これが一番重要なところよ。これによってはオムライスがオムライスじゃなくなるわ」
「で、どうすればいいんだい?」
「まずは私がつくるのを見ていてちょうだい」
そう言って咲夜は新しいフライパンをコンロに乗せる。チキンライスを作ったときと同じように熱してから、彼女は卵の入ったボールを左手で持つ。
「卵をフライパンに入れたらすぐにかき混ぜてちょうだい。素早くよ」
言うや、彼女は卵をフライパンに入れ、黒い面が黄色に変わる。そして持っていたはしで彼女は高速で卵をかき混ぜ始めた。
「こうすることで空気が卵に混ざり、ふんわりとした卵ができるのよ」
喋りながらも彼女の手は止まらない。真剣な目つきはかき混ぜられる卵だけに焦点が当てられていた。
表面の卵がとろとろでふわふわでなんとも食欲がそそりそうな感じになる。
そういう状態になると、彼女はかき混ぜる手をとめ、卵の周りをはしで軽くつつく。まるで紙が裂けるような剥がれ方を確認すると彼女はコンロの火を止め、フライパンをそこから盛り付けられたチキンライスのところへ向かう。
何をするのか分からない霖之助は口を閉じたまま、彼女の後ろをついていくだけである。
咲夜は左手で取っ手を持ちながらお皿のある左の方に傾け、取っ手の部分を軽く握った状態の右手で器用にノックする。するとずるずると地滑りをするかのように卵がズレ落ちてきた。
「見ていてね」
咲夜はくるんとフライパンをひっくり返し、膜になった卵がオムライスの上にふわりと着地した。
霖之助は驚いた。さっきまでフライパンに接していた卵の面の方がチキンライスの外側に来ていたのだ。逆に言えば、一度もフライパンに接していないとろとろでふわふわな面の方がチキンライスに触れているのだ。
「驚いた。時間でもとめたのかい?」
「まさか。そんなことするはずがありませんわ」
だとしたら彼女のあのひっくり返しはなんと見事なものか。
彼女の言うとおり、しっかりと見ていたつもりだが一瞬過ぎてよく把握できなかった。
「ま、最初なのだから失敗して当然。そういう気持ちで取り組んでみてはいかがですか?」
「……それもそうか」
でも、せっかくだから上手くいきたいな、そういう気持ちも秘めながら霖之助はコンロのところに向かい、火をつけた。
「こんなものかな」
フライパンは程よく熱せられバターも溶けた。彼は卵の入ったボールを掴みつつっと流し込む。本日何度目かの大きな音が鳴り、勢いよくはしをかき混ぜる。力強く回しているせいか、彼の体も前後に弾む。彼の顔はいたって真剣なものなので、体の動きとのギャップにおかしく感じてしまう咲夜。思わずクスリと笑ってしまうが彼の耳には届いていない。
暫くして、彼女がやっていたことと同じように熱せられた卵の周りをはしでつつく。いい具合に焼けているようなので、コンロの火を止め、チキンライスが盛られている皿に近づく。ここからが本当の勝負どころだ。
傾けたフライパンの取っ手をノックし、卵をゆっくりとずらす。地滑りのように勢いよくいくところだったが、そこは自炊暦うん十年。見事な反射で事なきを得た。
再度慎重にトントンと揺らす。卵がふるふると震えながら徐々に皿に近づいたところで彼はフライパンをひっくり返した。
「はっ!」
掛け声と共にひっくり返されたフライパン。ゆっくりと持ち上げると、きれいにチキンライスの上にかぶさっていた。まるで寒さを和らげるようにつくられた、かまくらのような卵の屋根。それはどこにも焦げ目がなく鮮やかな黄色の絨毯が広がっていた。
「……上手くいったか。どうだい咲夜。……咲夜?」
咲夜の感想をもらおうと後ろを振り向くと彼女はおなかを抱えながら体を震わせていた。何があったのかわからない彼は彼女の方に近づき耳をそばだてる。
「くすくす……『はっ』て……『はっ』て言った! この人『はっ』て言ったわ……くすくす……」
「…………」
どうやら彼女は彼がフライパンをひっくり返したときの言葉がツボにはまったらしい。大声でも笑うでもなく、かといって止めることもなく体を震わす彼女に彼は頭を掻いた。顔も赤い。
大きなキッチンで彼女のくぐもった笑い声だけが空間に広がっていく。
「あ~…ごめんなさいね。ちょっと笑わせてもらったわ」
「笑うなら豪快に笑ってくれ。そっちの方がまだましだ」
やっとツボの影響から解放された咲夜と霖之助の二人は食堂に腰掛けている。出来上がったオムライスをテーブルの中央におき、対面同士で二人は座っていた。
「まぁまぁ、済んだことは仕方ないってことで。早速食べましょう」
「……分かったよ」
そう言って咲夜は余っていたトマトソースを二人のオムライスに掛けていく。因みにソースは鍋から別の皿に移しかえられていた。
「オムライスにはこのトマトソースかデミグラスソースをかけて食べるのが一般的なんだけど今回はこれってことで」
「だから余ってもよかったのか」
彼女の手によってオムライスに赤い天の川が掛けられる。鮮やかな赤色はこの屋敷を表しているみたいであった。
「それじゃあ、食べましょうか。いただきます」
「いただきます」
霖之助はスプーンでオムライスを掬う。弾力のある卵と程よくほどけるチキンライス。スプーン越しでも伝わるこの感じ。口に入れたらもっと気持ちがいいのだろう。そんな感想を抱きながら口に運んだ。
「うん、上手いな」
「それは良かったわね」
霖之助が美味しそうに食べるのを見届けてから彼女もそれを口に運んだ。
「美味しいわね」
「ああ、初めて食べるからね。自分でつくったのはだけど」
「以前食べたことあるの?」
「アリスの家でご馳走になったことがある。あの娘も料理上手だからね。僕のつくったのより美味しかったと思うよ」
「……へぇ」
そう言って咲夜は少し考え込む。まだ一口二口しか手をつけられないオムライス。徐々に熱が逃げていく。
「どうしたんだい? 冷めたら美味しくなくなると思うけど」
「ちょっと考え事を……アリスは結構貴方を招待するのかしら?」
「うん? そうだね、週一回あるかないかぐらいかな」
そう答えて彼はオムライスを食べ始める。
咲夜もやっと手を付け出したが、再び手が止まる。そして、彼女はスプーンにのったオムライスを持ちながら彼に話しかけた。
「ねぇ、私のとアリスのどっちが美味しいか比べてくれないかしら?」
「は? 何でまた…」
「単なる興味よ。ほらどうぞ」
そう言って咲夜はスプーンを霖之助の口に近づける。
別に断る必要もないかと思いながら彼は口を開いた。
「どう?」
「美味しいな。ただどっちの方が美味しいかとはいえないね。アリスのものはだいぶ前にご馳走になったものだからちょっと忘れてしまったな」
「……貴方、自分の作ったものとはさっき比べていたと思うけど」
「それはそれ、これはこれさ。何なら逆に君も僕の作ったものを食べてみるかい? 君のものと比べたら普通過ぎると思うけど」
「へ?」
霖之助はスプーンでオムライスを掬い、咲夜の口に近づける。え、え、と言いながら彼女の目は泳いだまま視点が定まらない。単純に恥ずかしいからだ。
「ほら、あ~ん、だ」
「う、うぁ……」
尚もスプーンを差し出したままでいる霖之助。
顔をほんのりと赤く染めながら、ついに彼女は観念したように口を開く。
ゆっくりとスプーンが入れられ口の中に彼の作ったオムライスの味が広がった。
「美味しい、わよ」
「そりゃよかった」
少し口元を緩ませながら霖之助はオムライスに手をつけていく。手を緩めることなく口に放り込んでいく。
咲夜にはまるで今までの話題から逃げたかの様に見える。
「ずるい」
彼の耳に入らないようにぼそりと呟いた。
「今日は勉強になったよ」
「……どういたしまして。こっちは顔が熱くてかなわなかったわ」
「ははは、確かに厨房にあったコンロの火は強かったからね」
玄関ホールにやってきた二人はお互いの今日の感想を喋る。朝からしていたこともあり、今の時間はまだお昼ごろなのだが、薄暗いこの屋敷はもっと時間が進んでいたかのように感じた。
咲夜は思わず嘆息する。彼の行動に少し振り回されたように感じたからだ。そもそもアリスの話が出た時点で何故自分は彼に自分のものを食べさせたのか。自分で思ったことなのに思い出せないでいる彼女。
しかも、今ここで話している言葉も彼は見当違いなことを言っている。私が熱かったと言ったのはそういう意味ではないのに。
「勘違い男。ここに誕生か」
「何か言ったかい?」
「別に。魔理沙やアリスやその他諸々が大変ねと言ったのよ」
「そんな風に聞こえはしなかったが」
ま、いいかといいながら彼は玄関の扉を開けた。まぶしい光が入ってくる。吸血鬼の嫌いな太陽の光だ。
朝に比べて気温が温かみを帯びているがまだまだ上着は欠かせない。
「お世話になった。そのうちまた家に来てほしい」
「必要になったら行かせてもらうわ。あ、そうそう。貴方に渡したいものがあったのよ」
咲夜は手に持っていた袋包みを霖之助に手渡した。
その場で開けてみると赤い液体が入ったボトルであった。
「これは?」
「ケチャップと言ってね、まぁ、トマトソースを煮詰めたみたいなものよ。オムライスやサラダなんかにも付けて食べてみて」
「わざわざありがたい」
そう言って袋にしまうと彼女は続けて言葉を紡いだ。
「実はそのボトル、口のところがチューブの形になっていてね、それで遊べることが出来るわ。是非、楽しんでみてちょうだい」
どうやら咲夜は玄関までの見送りのようで手を振ってお別れをする。霖之助もそれに習って扉を閉じた。
「今日はお楽しみでしたね」
突然声をかけられたので彼は後ろを振り向く。すると美鈴がにこにことしながら立っていた。
「君も楽しんでいたようだね」
「うん?」
「痕、頬のあたりについているよ」
「おや」
美鈴は指摘されたところを触ってみる。自分では分からないようでいたが、彼の目にはくっきりと見えた。
「大方、肘でもついて寝ていたんじゃないかね」
「全く持ってその通りです。いやいや、消えているだろうと思っていましたがまだ残っているとは」
「舟こぎは楽しかったかい?」
「もちろんですよ」
二人はお喋りをしながら門までの道をゆっくりと歩く。
他愛もない喋りが心地よかった。
「さて、では手につかまってくださいね。早く家に帰って私もお昼にしたいんでね」
「適当に頼むよ」
「適当って『適当』って意味ですよね」
霖之助の言葉は美鈴に聞き届けられなかった。
数日後
咲夜にオムライスを教えてもらって以来、霖之助はそれを作ることがマイブームになっていた。どうすれば美味しくなるか、どうすればふんわりした卵になるか。それの試行錯誤をする日々が何日も続いた。
今ではお店をほったらかしにするほどの夢中ぶりであった。
「うん、やっぱり食生活が豊かになると心も躍るものだ」
身の入った生活を彼は満喫していた。
そんなある日であった。
3月の半ば、具体的には14日。彼はかねてから考えていた計画に移すことにした。
日頃から世話になったり、また『先月のお返し』と言う意味も込めて今日は二人のゲストに手料理をご馳走することである。
午前中から仕込みに入り昼食に間に合うように三人分のオムライスの用意に掛かる霖之助。前回の紅魔館とは違い、手狭なので三人分をつくるのになかなか困難を極めていた。
チキンライスを作り終えたところで店の玄関が開く音が聞こえた。
「おーっす、香霖。お呼ばれに来てやったぞ」
「こんにちは霖之助さん」
同じ魔法の森に住む住人の魔理沙とアリスの来店であった。
二人は何度もここに入り浸っているので勝手知ったるや、のれんで隔てられた彼のプライベートスペースに入ってくる。
「お邪魔するぜ」
「ああ、二人ともよく来てくれた。悪いが今手放せなくてね、そこで待っていてくれ」
「霖之助さん、何か手伝いましょうか?」
「いや、大丈夫だ。今日は君たちは僕の大切なゲストなんだ。手伝わせるわけにはいかないよ。もう少しだから待っていてほしい」
そう言って霖之助の言葉が台所に引っ込んでしまったので、二人はちゃぶ台のある居間で待つことにした。
「大切なゲストだって。なんか照れるぜ」
「そうね…そういわれると嬉しいわよね」
二人は頬をほんのりと赤く染めながら嬉しそうに話す。
次に二人はちゃぶ台の上に置かれている食器用具に目が奪われた。
「スプーンにテーブルクロス、ナプキンがあるわね」
「中央には花の入った花瓶と。純和風の空間にはいささかギャップを感じるぜ」
二人は何度かここで食事を取ったこともあるのだが、今日のセッティングは今までにないパターンであった。こんな用意も出来るのだなと感心しながらも魔理沙の言うとおり、ギャップがあるので苦笑するのであった。
「おまたせ。ほら、これが君たちへのお返しだ」
「おお? これはオムライスか?」
「へぇ、霖之助さん作れたんだね」
順番に置かれていくオムライスを食い入るように見つめる四つの瞳。
「アリスは食べなれているかもしれないけど、これで満足してもらえたら幸いなんだが」
「そんな。私、霖之助さんが作ってもらえただけでも嬉しいですよ」
「私もだぜ。それで香霖、もう食べてもいいのか?」
はにかみながら笑みを浮かべるアリス、楽しそうに待つ魔理沙。これを見れただけで咲夜に教えてもらった甲斐があったものだと彼は心の中で感謝した。
「あ、ちょっと待てくれ、魔理沙。実はケチャップをかけないといけないんだ」
オムライスが載っていたお盆には彼が言ったケチャップがまだ乗っていた。
それを取った彼は二人に質問を投げかけた。
「さて、二人には聞きたいことがあるんだが。これでオムライスの上に何を書いてほしい?」
「え、書く? それって書けるものなの?」
アリスは珍しそうに霖之助が手に持っているケチャップをじっと見た。
意外にも彼女がこれを知らないことに驚きながらも彼は自分のオムライスに試し書きをして見せた。
「見ていてごらん。これは口のところがチュ-ブになっていて、トマトソースが出るようになっているんだ。例えば、こんな風にね」
オムライスの上に描かれたのは彼のトレードマーク、メガネの絵であった。
丸い円が二つに耳や鼻にかけるところまで表している。陳腐で安易な案とはいえ、見本には丁度良い。
黄色の世界に描かれた赤いメガネを感嘆の言葉を洩らしながら二人はくいついていた。
「とまあ、こういうわけだ。もちろん、絵だけでなく文字も書ける。これで楽しみながら食事にしようじゃないか」
咲夜の言っていた楽しさを彼は実践していたのであった。
「リクエストはあるかい?」
二人に尋ねる霖之助。しかし、反応が悪く黙ったまま俯いている魔理沙とアリス。どうしたのかと訝りながら待つこと数十秒。先に口を開いたのは魔理沙であった。
「あ、じゃあ……その……………りん、で…」
「え? ごめん、よく聞こえなかった。もう一度言ってくれるかい?」
魔理沙は俯きながら喋ったので彼の耳には最後の方しか届かなかった。耳を彼女の方にそばだてながらもう一度聞くと彼女のすぅっと息を吸い込む音が聞こえた。
「ま、『まりりん』でお願い……するぜ」
やっと聞こえた声は大きかったが、徐々に尻すぼみをした。そんな魔理沙の声。それでも彼の耳にはしっかりと届いたのだが、聞きなれない言葉だったので霖之助は彼女に再確認した。
「『まりりん』? ホントにそれで良いのかい?」
魔理沙はこくりと小さく頷く。
「できれば、ひらがなで……」
「? 分かった」
そう言って魔理沙の前に置かれているオムライスに『まりりん』と書いたのであった。
すると、魔理沙の隣に座っていたアリスが勢いよく挙手をする。こちらも魔理沙と同様になぜか顔が赤かった。
「は、はいっ! はいっ!」
「お、どうしたんだい、アリス?」
「わ、私は『アリりん』で、お願い……します」
こちらも訳の分からない言葉であった。二人の名前を書くなら分かるが何故最後に『りん』をつけるのか。
考えていても分からないことはどうしようもないと感じた霖之助はアリスの分もケチャップで文字を作っていく。
「ひらがなで良いのかい?」
「あ、『アリ』はカタカナで『りん』はひらがなで」
「了解した」
魔理沙と違って注文が細かかったものの見事に黄色の世界に文字が創られた。二人の顔には満足そうな笑顔が浮かんでいるが、同時にまるでどこか遠くを見ているようにも見えた。夢現の二人に霖之助は暫く放っておくかと思いながら、自分のオムライスをじっと見た。
「やっぱり、もう少し凝った方がよかったかな」
3月に起きた香霖堂での楽しい一幕であった。
おまけ
「はい、今日の夕食はオムライスですよ」
咲夜の手に運ばれてきた白い皿の上を陣取る大きなオムライス。黄色い卵の部分が太陽のように輝いているように見えた。
「ご馳走ね」
「オムライス♪ オムライス♪」
自分たちの前に置かれていくオムライスを喜々としながら待つのはレミリアとフランドール。よほど嬉しいのかフランドールに至ってはスプーンを持って歌い始める。
「ほら、フラン。行儀が悪いから静かにしなさい」
「は~い、お姉さま」
フランは姉の言葉に素直に頷き、スプーンを手元に置く。
「はい、妹様。今日はケチャップで何を書きましょうか?」
「えっとね……『フラン』って書いて」
「承知しました」
そう言って咲夜はケチャップを黄色のキャンパスに文字を描く。丁寧に書かれた自分の名前に彼女は大きく喜んだ。
「ありがとう、咲夜!」
「どういたしまして。さて、お嬢様は何を書きましょうか?」
「無論、『レミリア』に決まっているわ。星も忘れないように書きなさいよ」
「承知しました」
レミリアの要望にも咲夜は一文字一文字丁寧に仕上げていく。最後に星を付けて彼女は主の隣から一歩下がった。
「じゃあ、いただこうかしら」
「うん。いただきます」
二人はスプーンを手にとってオムライスを食べ始める。彼女が作ったものは他のメイドたちが作ったものよりも卵がまろやかに仕上がるので人気であった。
「美味しいよ、咲夜」
「ありがとうございます、妹様」
明るい笑顔で話しかけるフランドールに咲夜も笑顔で返す。
主のほうの反応も気になりそちらの方に目を移すと、
「ええ、見事だわ。流石咲夜といったところね」
「恐れ入ります」
こちらも満足そうに答えた。毎度毎度、彼女たちに作るのは自分とはいえ、こう言ってもらえると嬉しいものである。咲夜は満足そうに胸をなでおろした。
すると、レミリアからひょんな質問が彼女に向けられた。
「そういえば、咲夜も今日の夕食はオムライスだったのかしら?」
「ええ、そうですよ」
業務の都合上、主たちよりも先に咲夜は夕食をとっていたのだ。もちろん自分の手製である。
「貴女は何を書いたのかしら?」
ほんの一瞬、咲夜は主から目を逸らした。興味深そうにレミリアは彼女の顔をじっと見つめる。いつの間にかフランドールも参戦しており四つの瞳が彼女に向けられた。
「秘密です」
「却下」
「…………」
「ねぇ~、なんて書いたの?」
レミリアに却下され、フランドールも食いつき咲夜はどう答えようか迷っていた。何故二人にいえないのか。それは、単純に恥ずかしいからだ。
(言えるはずがないわ。『さくりん』だなんて……)
頬を赤く染め、どうやって言い訳しようか戸惑う咲夜がそこにいた。
End
最近までひどかった冬の寒さは引っ込み、今では春に移ろうとしているこのごろ。太陽の光が差しにくいこんな魔法の森の中でも季節の変化はわりと感じることができる。例えば、地面から生えてくる植物だとかだ。
その森の中に一軒の道具屋がある。その名は香霖堂。
店主が偏屈で薀蓄家なことでそこそこ有名な道具屋である。外の世界の道具も扱っていることもあり、それなりに来客はある。
そんな道具屋に店主のほかにもう一人、即ちお客がいた。銀の髪とメイド姿が特徴の女性。
「取りあえず、これだけ頂くわ」
「毎度」
十六夜 咲夜は店主の森近 霖之助とカウンター越しで話していた。もちろん、内容は商品のことである。
木でつくられたカウンターの上には白い敷物が広げられている。そして敷物の上に広げられているのはおよそ100本ほどの銀製のナイフ。どれも形状は一緒で光にかざすと刃の部分が鏡のように眩しく反射する。まるで美術品のようであった。
「御代はこれぐらいになるけど」
「……少し高いわね。もう少し下がらないかしら」
「そうだね………君には色々とひいきしてもらっているから、これでどうかな」
そう言って霖之助はそろばんを弾く。
動かされる珠と彼の指を見ながら、眉をひそめる。二度目に出された金額も彼女にとってはまだ納得できるものではなかったからだ。
とは言え、最初のに比べれば2割近くは下がっている。もう少し下げてくれれば、妥協できるラインに到達できる。しかし、彼もこれ以上は下げないかもしれない。それくらい微妙なラインに設定された金額だろうと彼女は推測した。そこで、別の方向から値切りをしてみようと彼女は考えた。
値段を下げてでも店主にメリットがあり、なおかつこれからの店主と客としての関係がこじれないような妥協を図れる方法はないだろうか。
「あ」
「うん? なんだね?」
妙案が浮かんで、思わず口から言葉がもれた咲夜。それに反応した霖之助はそろばんから彼女の方に目を移した。
「霖之助さん、私から提案があるのだけれど」
「何だい、提案って?」
「もう少し値段を下げる代わりに、今度、紅魔館にいらっしゃらないかしら?」
りんの世界
「僕がそこに行くことでどんなメリットがあるのだい?」
霖之助は咲夜の言葉にあまり特典はなさそうな気がしながらも、とりあえず耳を傾けることにした。
「貴方ってここで一人暮らしなのよね? 炊事なんかはちゃんとできているの?」
「誇れるものではないが、一応長い生活でね。お陰である程度はそつなくこなせるつもりだよ」
「そう。ではそこにもう少しバリエーションを増やしてみたいと思わないかしら?」
「具体的には?」
咲夜の口元は少女らしい笑みを浮かべていた。えくぼを覗かせ、頬が柔らかく動く。
「洋風の料理を学んでみない? 決して難しくないし、覚えれば誰でもつくれるものよ」
「ふむ……確かに料理が増えれば生活に多少は華が出そうだね」
満更でもない霖之助の思案顔に咲夜はほっとする。興味が出てくれればいくらでも言いようがあるからだ。
興味を持ってもらえるまでが勝負だと感じていた彼女は安堵しながらも続けて言葉を紡いだ。
「もちろん、お出迎えや見送りもサービスしますよ。貴方はゲストですから」
「……まあ、そこまで言うのなら乗ってみるのも悪くないね」
そう言って霖之助は再度そろばんを弾いた。三度目の金額は元から2割5分カット。
咲夜はこくりと頷いた。お互いが一致した、妥協点であった。
霖之助にとって最初はただの暇つぶしで話を聞いていた。要するに乗り気ではなかったが、彼女の言葉に興味を持ってしまったときからのめり込んでいたのかもしれないと思った。
結果的には妥協できたが、これからもこんな提案が来るのだろうかと考えると用心しなければと首を横に振った。
青空がかすみ、やがて夕刻に移ろうとしていた。
春になり始めたとはいえ、まだ夜の時間の方が長い。
これからは妖怪たちの、そして主の時間だ。青と橙が混ざる空の中を飛んでいた咲夜は緑の芝生が広がる門前にゆっくりと降下した。
「美鈴、起きてる?」
「起きてますよ。今日はもう上がりですけど、何か?」
門の前に座っているは紅魔館の門番長、紅 美鈴。
両手を天にかざし、背伸びをしながら立ち上がる様を見ていると本当に起きていたのか疑わしい。
「ま、そう言うのなら信じてあげましょう。美鈴、明日お客が来るから迎えに行ってあげてちょうだい」
「やです。面倒なので」
「はぁ……また始まった。美鈴のその言葉」
咲夜は大きくため息をついた。美鈴は用事を頼むと何かと拒否する。しかも、たいした言い訳もつかないで、あっさりと思ったことを言うものだから咲夜としてはいっそう清々しく思えた。
「駄目よ。これはメイド長としての命令なのだから」
「……また、それですか。いい加減、聞き飽きますね。ボキャブラリーの増築を要求します」
「貴女がそう言うからでしょうが!」
咲夜は足のホルダーにストックされていた、今日買ったばかりの三本のナイフを美鈴めがけて放つ。絹のように白い指に挟まれて放たれたナイフはきれいにまっすぐ飛んでいったが、それを美鈴は難なく指で挟んでキャッチする。一本だけならまだしも放たれた数は三本。それらを見事にしかも刃の方で捕まえたのだ。
「おお、こわいこわい。もう少しで刺さるとこでした」
「嘘つけ。余裕だったくせに」
「はい! ホントは全然の余裕でした!」
楽しそうに笑う美鈴に咲夜はどんどんと怒りを溜めていく。
美鈴は何かと人を小ばかにする性質がある。決して嫌味でやっているのではなく一種の愛情表現と本人は言うが言われた者にとってはたまらない。被害者に回りやすい咲夜にとって彼女は天敵であった。
とはいえ、必ずしもいつもひどいということではない。
「あ~、笑わせてもらいました。これはいいお駄賃ですね。仕方ないから行ってきてあげますよ」
「……香霖堂よ。明日の10時着でお願いね」
「了解です」
心なしか、少し肩を落として門の中に入っていく咲夜。絡まれるだけ絡まれて、結局命令を聞く天邪鬼に疲れたのだろう。
対する美鈴は顔を明るくしている。彼女にとって咲夜を相手するのは自分へのご褒美だからだ。
こんな二人が紅魔館の内外の守護者であった。
翌日
霖之助は自分の店先に立っていた。
春の朝は肌寒く、指先が鋭敏に感じる。時折り息を吐きながら紅魔館からの迎えを待っていた。
すると、地面に黒いしみが現れ、それが徐々に広がっていく。霖之助は上を見上げると迎えの者が現れた。
「おはようございます。紅魔館の門番をしている紅 美鈴でございます。森近 霖之助様で宜しいですね」
「ああ、そうだよ。と言うか別に初対面ではないのだからそんな畏まらないでほしい。対応に困る」
「あ、そうですか? じゃあ、やめますね」
迎えに着た美鈴は最初こそは慇懃にしていたが霖之助に言われてあっさりといつもの口調に戻した。ゲストを迎えるのだから相応の対応としてわざと畏まった喋りをしたのだ。
霖之助は迎えの美鈴をちらりと見やる。温かみを象徴するような紅い髪とは対象に、深く切り込まれているスリットから現れる脚は見ている者には季節外れなのではと違和感を与える。その上、普段着の上に何も着込んでいないので彼女は寒くないのだろうかと尋ねてみた。
「これくらいは特に問題ありませんね。それに春ですから暖かいですよ」
「僕は寒いがね」
いいね若いって、そうぼそりと呟いて彼は手を彼女に差し出した。別に握手をしてほしいわけではない。彼は妖怪の血を半分引き継いでいるが飛行能力はなかった。ゆえに大概は徒歩で移動するのだがこうやってお迎えが来たときは手を引っ張って飛んでいってもらうのが常である。恥ずかしいことだが、仕方ないとも割り切っていた。
「せっかく私が迎えに来たので、お姫様抱っこでお連れしましょうか?」
「結構だ」
若いから寒さを感じないのではなく、頭の中が春だから寒さを感じないのだろうと霖之助は頭の中で彼女に対する印象を修正した。
「は~い、到着!」
青く塗られた寒空の中を美鈴と彼女に手を引っ張られてきた霖之助は紅魔館の門前に降り立った。緑の芝生で覆われた地面と面前の紅い屋敷との間にきっちり境界線があるように見えた。それくらい紅魔館はこの世界に際立っているように見えた。
「さて、私は今から本来の業務を行おうと思います。帰るときは声をかけてくださいね」
「了解した。それじゃお邪魔させてもらうよ」
「どうぞ、どうぞ」
両の掌を上にかざし指先を紅魔館に向けながら笑顔で彼女はゲストを迎え入れた。
霖之助は軽く会釈を入れるだけで特に表情を変えずに門内に入った。
門から玄関までの距離がその家のステータスを表す。誰が言ったか分からないがここは歩く距離がそれなりに長い。ここが幻想郷のパワーバランスの一角だと言うことを彼は改めて納得した。
ふと後ろを振り向く。先ほどまで笑顔で迎え入れた彼女はこちらに背を向け、何故かと言うかやはりと言うか地面に座っていた。門番は立って仕事をするものだろうに。
「あれでいいのか?」
そう呟くだけで霖之助は玄関の扉をノックした。
扉を開けると紅い絨毯で敷き詰められた玄関ホールで、両手を前に置き、軽くお辞儀をしながら迎えるメイド長が立っていた。
「おはようございます、霖之助様。ようこそ紅魔館へ」
「……畏まるのは止めてくれ。鳥肌が立つ」
「あら、失礼な人ですね。ま、そういうのであれば、止めますか」
館内に入り最初に迎え入れてくれたのは紅魔館に招いてくれた咲夜。
いつもと変わらないメイド服を着用し、白い髪の片方はみつあみで纏められている。普段自分の店か宴会場の博麗神社でしか見かけないこともあってこれだけ場に合っている彼女を見たのは久しぶりなような気がした。
「メイド服か…」
「は?」
「いや、なんでもない。それより、君たちはお客が来るなりこのような対応をしているのかい?」
「ええ、そうですよ。それがマナーですから」
「魔理沙相手でもかい?」
「魔理沙には魔理沙なりの特別な対応をしてますよ」
「例えば?」
霖之助は妹分の霧雨 魔理沙がここにしょっちゅう訪れているので気になり聞いてみた。すると咲夜は脚のホルダーにストックされているナイフを一本取り出し、玄関に向かって放った。
「おわっ!?」
すると外から女性の驚いた声が館内まで響いた。
「ちっ、逃したか」
「あ、玄関閉めるの忘れてた」
そこにきて自分が扉を閉めるのを初めて気づいた霖之助。
「全く。堂々とサボるなんていい度胸じゃない」
不満そうに呟きながら咲夜は開かれていた扉を閉じ、霖之助の前に戻ってくる。
「それが魔理沙への対応かい?」
「そうよ。加えるならサボリ魔もかしら」
「…………今度会った時にきつく言っておくよ」
「そうしてちょうだい」
魔理沙がこんな洗礼をくらってもいいような対応を受けていることに霖之助は内心ため息をつく。
咲夜は取りあえず外のサボリ魔は無視することにし、ゲストを案内することにした。
「そう言えば、ゲストの前で舌打ちするってマナー的にはどうなんだろうか」
「…………」
瀟洒なメイドは黙り込んでしまった。
咲夜に案内され霖之助がつれてこられた場所は当然キッチンであった。もともとの約束がここで料理を教えてもらうことだった彼は入るなり素で驚いた。
まず広さに驚いた。普段一人で自炊している彼は自分がうまく立ちまわれるだけの広さがあれば十分ということもあり、よくて2,3人が納まる感じだ。
それに対してここは明らかに10人以上は調理ができるぐらいの広さを誇っている。いやもっとだろうか。その判断ができないほど広かった。
そして、隣には食事ができる場所も隣接しているが、ここも規格外である。100人分の椅子は確認できる。どうやら、ここで働いている者は相当いるのだろうと改めて規模の大きさを認識した。
「気にいってもらえたようで何よりですわ」
「いや、気に入るとかじゃなくてまず、大きさに驚いたよ。これだけいると一人くらい混ざっていてもわからないんじゃないか?」
「そうでもありませんわ。前に霊夢が平然と座って美鈴と喋りながら食事していた時はすぐに見つけましたけど」
「……あの娘も何かとやるな」
感心しながら笑う霖之助に咲夜も苦笑する。
二人は入り口から少し入った一つの調理場の前に立つ。ステンレスの台に蛇口、まな板、調理器具など必要なものはすでに拵えられている。調理する者としてこれ以上ないくらい環境だ。
「さて、まずは教えたい料理なんだけど……貴方、オムライスって知っているかしら?」
「まぁ、名前くらいはね。一応食べたことはあるが、作ったことはないな」
「それは丁度良いわ。それにしましょう」
そう言って咲夜は保冷庫に向かう。それもまた規格外の大きさだ。人間10人は入れるんじゃないだろうか。
しかし、ここは吸血鬼の館だ。本当に人間が入っていそうで恐ろしい。まるで頭だけがない牛肉や豚肉のように天井から縄で吊るされている光景が生々しく思い浮かぶ。中を見てはいけないような気がした彼は思わず、保冷庫から目をそむけた。
「材料はこれぐらいね……ってどうしたの天井なんか見て?」
「……赤いシミがいっぱいあるなあと思ってね」
咲夜が材料を抱えて戻ってくるまで不自然に目をそむけていた霖之助。聞かれるだろうなと思いながらも理由を考えていなかった彼はひねりすらない見たままの事を口にした。
「そりゃ、そうでしょう。だって紅魔館は赤い館なのですから天井も赤くて当然ですわ」
「……それもそうか。勉強になった」
「?」
所々ではなく全体が赤い天井は彼女にとっては不思議ではない。でも、ここに住んでいない彼には変に思ったのだろうと結論付けて材料の話をした。
「まずはオムライスに欠かせないものとして卵、トマト、米ね。後はトッピングとして鶏肉、コーン、ピーマン。調味料にバターと塩、胡椒、砂糖。これぐらいあれば、十分ですわ」
「意外と材料を使うんだね」
「最初にあげた三つと調味料さえあれば十分ですわ。後はお好みで、と言う感じですね」
そう言って咲夜はまた離れた。入り口に掛けられてあるエプロンを持ってくるためだ。
「そういえば、これをつけてもらうのを忘れていましたね」
「これを、つけろと……」
霖之助は顔をしかめた。
「あら、エプロンをご存知でない?」
「それくらいは知ってるよ」
「じゃあ、自分はつけない主義だと。不衛生で困りますわ」
「僕も料理をするときくらいはするさ。ただ、これは」
要領がつかめない咲夜は首をかしげている。
「明らかに女性向けだろう。フリルがびっしりついているじゃないか。と言うか、君のと同じじゃないか」
「ああ、ああ。そこにぶつかりますか」
霖之助の言葉にやっと納得した咲夜。
彼は別のものにしてほしいと言うが彼女は首を横にふる。
「申し訳ありませんが、当館にはこれしかないもので。我慢して着用してください」
「ぐっ……」
唇をぎゅっと噛み、首をすくめる。とてもじゃないが、男として、自分はこれを着るには度胸が必要だ。自分には似合わない。魔理沙や霊夢のような少女が着るものだろうと悶々している霖之助。
その様子にじっと見ているだけの咲夜ではなかった。くすりと笑い金色の懐中時計を取り出す。
「申し訳ありません。時間が押していますので」
「え? ………………あ!?」
咲夜に何か言われたと思ったときにはすでに遅かった。
なんと自分の服の上に純白の大量のフリルのついたエプロンが装備されていた。それを見て愕然とした。
「咲夜……君は……」
「そのうちお昼の調理をしに来るメイドたちがやってきます。彼女たちに会いたいですか?」
それは暗にこれ以上愚図っているとメイドたちに見られても知らないぞ、ということを意味していた。
これ以上、押し問答していても埒が明かないと思った霖之助は頭を下げた。
「……よろしくお願いします」
「ええ、懇切丁寧に教えますのでじっくり作っていきましょうね」
「適度で妥当な時間で頼む」
瀟洒なメイドは満足そうに笑っていた。
「まずは卵をボールに落としましょう」
霖之助の隣で咲夜は二つの卵を一つずつ手に取り、器用に片手で割っていく。ボールの中に落とされた卵がふるんと揺れる。
霖之助も彼女に言われたとおり二つの卵をボールに落としていく。こちらは両手割りであった。
「からざを取ってから軽く塩と胡椒を混ぜて」
「わかった」
はしで割られた卵の白身についているからざを取り除き、塩と胡椒を振る。
「後で卵の上にトマトソースをかけるからホントに少なめでいいわよ。で、あとは卵を溶いてちょうだい。白身と黄身の区分がなくなるくらい」
「了解した」
少なめに入れられた塩と胡椒と卵をはしでかき混ぜる。ちゃっちゃっという音が広いキッチンに広がる。
「うん、これくらいで十分ね。じゃ、次はチキンライスよ。まずは鶏肉とピーマンを切りましょうか」
「どのぐらいの大きさにするんだい?」
「そうね。特に決まった大きさはないけど細切れでいいかしら」
そう言って咲夜はまな板を用意し、その上にまずはピーマンを置く。
中央を包丁で切り、中にある種を取る。そして、半分になったそれらをまた中央に包丁を入れる。四分割にされたピーマンは彼女の手により一つ一つ千切りにされていく。
隣の霖之助も彼女がするのを見てから切り始める。
猫の手の左手、包丁をもつ右手。どれも意識してではなく自然にしている辺り、彼の自炊力が計り取ることが出来た。
「慣れているのね、ホントに。貴方って結構生活はずぼらだと思っていたけど、見直すことにしたわ」
「そんなことないさ。君の言うとおり僕はずぼらだよ。読書が趣味でね、時には時間も忘れて徹夜するなんてのもよくあるさ」
「あら、うちの知識人と同じね。こちらのは大概次の日は体調不良で寝込んじゃうけど」
「同じだね。僕も眠くて仕方ないからその日はお店も臨時休業さ」
「……それは店主としてどうなのかしら」
「大有りさ。僕が休んだくらいで幻想郷に影響はないだろう。だから無理はしないように寝るのが一番さ」
話しながら二人は鶏肉の調理に掛かる。
こちらは指の第一関節ぐらいの大きさに細かく刻んでいく。たんたんたん、と包丁の音が鳴る。
ふと、咲夜は口を開いた。
「でも、ちょっとは困るかな」
「うん?」
「貴方がお店をしていないと買い物に来た意味がないじゃない。そこでしか手に入らないのだから少しは自分の節制に努めてほしいわね」
霖之助のほうを見ながら紡がれた言葉。口調はいつもと変わらないが、温かい目と柔らかな唇が動く彼女の表情に、彼は不意をくらったようにほうと言葉を洩らす。
あまりお客が来ないことで有名なお店にまさか、自分を当てにしてくれるお客がいるなんて露も思わなかった彼は少しだけ心が跳ねた。
少しだけ…
たんたんたん…………
「次はトマトソースを作りましょうか」
洋式の紅魔館は幻想郷で一般的なかまどではなく、コンロが設置されている。彼女はコンロに火をつけ、水が入った鍋を置く。
「沸騰したらトマトを投入ね。これからは私がやるから貴方は見ていてくださらない?」
「わかったよ」
霖之助が頷く。
やがて水は沸騰し、彼女はあらかじめヘタを取り除いた十個のトマトを入れていく。もちろん、お湯が跳ねないように静かに、である。
「そんなに入れるのかい?」
「まぁね。結構使うのよ、オムライスには」
そう言いながら彼女は鍋に入ったトマトを5分もしないうちに取り出す。
「湯剥きと言ってね。さっとお湯に通すだけでまわりの皮がはがれやすくなるのよ」
彼女の言うとおりトマトは形を残しながらも、少しふやけているように見えた。
ボールに移されたトマトを今度は冷水に浸しながら彼女はトマトを優しく撫でる。すると面白いように皮がはがれ始めた。
「まるでミカンを剥いているようだ」
「まさにそうね。覚えておいて損はないわよ」
皮むきが楽しいのか彼女はテンポよく剥していく。やがて十個全部をはがし終えるとそれをさいの目に刻んでいく。少しでも次の作業をしやすくするためだ。
次に彼女は彼にとって見慣れない器具を棚から出した。
「次は貴方の番よ。今度はこれを使って裏ごししてほしいの」
竹筒のようなものに片面にだけ網が張られた器具とへらを渡された霖之助。
「まずはこのボールの上に網のついた器具を置いてその上にトマトを置いてちょうだい」
「ああ、なるほど。それでこのへらですり潰すと網の上には硬いものだけが残って、それ以外が下の方に落ちるんだね」
「ええ、そうよ」
霖之助は言われた通りに器具を設置し、トマトを置いて潰してみた。するとあまり力を入れていないのにトマトがへこんでいき、下の方に液体となったそれが落ちていく。
なるほど、これは面白いと、彼は呟きながら二個、三個と続けていく。まるで子供が始めてみたおもちゃのような反応をする霖之助の行動に咲夜はクスリと笑いながら、つぶさに見つめていた。
やがて原形をとどめなくなった十個のトマト。網についたトマトは使わないらしくごみ箱に捨てられ、ボールに溜まったトマトの液体は咲夜がコンロのところに持っていく。
コンロにはすでに新しい鍋が置かれてあり熱も伴っていた。
「後はこれでソース作りね。塩と胡椒、砂糖も少しだけ加えておきましょうか。酸味が柔らかくなってほしいからね」
トマトのままの味だとどうも駄目らしく、彼女は潰されたトマトを鍋で煮込みながら調味料を加えていく。
そんな彼女の手順を彼は後ろから見ていた。
「……できれば隣に来てくださらないかしら。視線が刺ささって気になりますわ」
「ああ、すまない。気が散るかと思ってね」
「後ろの方が散ります」
ほおをぽりぽりと掻き、彼は言われたとおり彼女の隣に近づいた。
ぷっぷっと何度も泡を膨らませながらすぐに割れるトマトソース。咲夜は小さなスプーンでそれを一掬いし、口に含む。
「いい感じね。じゃあ、次に移りましょうか」
コンロの火を止めながら彼女は呟く。
「隣は隣でなんか照れるわね」
「何か言ったかい?」
「何も言ってませんわ」
「さて、ごはんは炊けているので、調理に移りましょうか」
彼女は二つのコンロに火をつけ、その上にフライパンを乗せ熱していく。
フライパンが適度に温まった状態でバターを投入。取っ手を右に左に傾けながら一面にバターを滑らせるとそれのいい匂いがふわりと広がった。
「ごはんを炒める前に少しだけ鶏肉を軽く炒めましょうか」
「適当にかい?」
「適度で妥当によ」
そう言って咲夜は鶏肉をフライパンに乗せる。じゅわっという音が鳴り、焦げないようにはしで動かす。
霖之助も彼女を手本にしながら同様にしていく。
「そろそろかな。じゃあ、ご飯を入れるわね。その後はトマトソースを入れて、いい具合に炒めてからピーマンとコーンを入れるのよ」
「分かったよ」
そう言って彼はごはんをフライパンに入れた。鶏肉を入れたときより大きな音がなる。二人はすぐにトマトソースを投入した。
焦げがつかないように遅すぎず、早すぎず丁度いい具合に炒めていく。
「トマトソースが結構残ったけど、いいのかい?」
「それは後でもう一度使うから大丈夫よ」
鍋にはまだトマトソースが残っていたが、彼女がそういうのだから気にしても仕方ないだろうと彼はフライパンで炒めているご飯に集中した。
少しして彼はごはんの感じが、いつも自分が食べるものと違うことに気づいた。
「変わったごはんだね。炒めても全然べちゃつかないよ」
「そのごはんはオムライス用のごはんなのよ。あらかじめ水分少なめで炊いてあるから炒めてもあまり水分は出ないわ」
「なるほど、参考になる」
喋りながらも二人はかき混ぜる手を止めない。手を止めてしまえば、トマトソースが焦げ付き苦味が出るからだ。
やがて、炒めていたごはんが全体的に赤くなってきたところで最後のトッピングである。ピーマンとコーンをフライパンの中に入れた。
「確かに見た目がいいな。この具材の組み合わせは最良だと思うよ」
「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいわ」
この組み合わせを選んだ咲夜は嬉しそうな声をあげる。褒められて喜ばない者なんていない。彼女の気持ちを代弁するように炒められるチキンライスは何度も弾けていた。
やがて大きな皿の上にチキンライスを盛り付ける二人。中央が盛り上がるようなラグビー型の形に整える。わざわざこんな形にする意味があるのかと霖之助は問う。
「ええ、大有りよ。最後にこの上に卵を乗せるのよ。この形の方が乗せやすいのよね、経験上」
ここにきて最初の方に下ごしらえした卵がやっと登場した。
「後は卵を乗せれば完成なんだけれど、これが一番重要なところよ。これによってはオムライスがオムライスじゃなくなるわ」
「で、どうすればいいんだい?」
「まずは私がつくるのを見ていてちょうだい」
そう言って咲夜は新しいフライパンをコンロに乗せる。チキンライスを作ったときと同じように熱してから、彼女は卵の入ったボールを左手で持つ。
「卵をフライパンに入れたらすぐにかき混ぜてちょうだい。素早くよ」
言うや、彼女は卵をフライパンに入れ、黒い面が黄色に変わる。そして持っていたはしで彼女は高速で卵をかき混ぜ始めた。
「こうすることで空気が卵に混ざり、ふんわりとした卵ができるのよ」
喋りながらも彼女の手は止まらない。真剣な目つきはかき混ぜられる卵だけに焦点が当てられていた。
表面の卵がとろとろでふわふわでなんとも食欲がそそりそうな感じになる。
そういう状態になると、彼女はかき混ぜる手をとめ、卵の周りをはしで軽くつつく。まるで紙が裂けるような剥がれ方を確認すると彼女はコンロの火を止め、フライパンをそこから盛り付けられたチキンライスのところへ向かう。
何をするのか分からない霖之助は口を閉じたまま、彼女の後ろをついていくだけである。
咲夜は左手で取っ手を持ちながらお皿のある左の方に傾け、取っ手の部分を軽く握った状態の右手で器用にノックする。するとずるずると地滑りをするかのように卵がズレ落ちてきた。
「見ていてね」
咲夜はくるんとフライパンをひっくり返し、膜になった卵がオムライスの上にふわりと着地した。
霖之助は驚いた。さっきまでフライパンに接していた卵の面の方がチキンライスの外側に来ていたのだ。逆に言えば、一度もフライパンに接していないとろとろでふわふわな面の方がチキンライスに触れているのだ。
「驚いた。時間でもとめたのかい?」
「まさか。そんなことするはずがありませんわ」
だとしたら彼女のあのひっくり返しはなんと見事なものか。
彼女の言うとおり、しっかりと見ていたつもりだが一瞬過ぎてよく把握できなかった。
「ま、最初なのだから失敗して当然。そういう気持ちで取り組んでみてはいかがですか?」
「……それもそうか」
でも、せっかくだから上手くいきたいな、そういう気持ちも秘めながら霖之助はコンロのところに向かい、火をつけた。
「こんなものかな」
フライパンは程よく熱せられバターも溶けた。彼は卵の入ったボールを掴みつつっと流し込む。本日何度目かの大きな音が鳴り、勢いよくはしをかき混ぜる。力強く回しているせいか、彼の体も前後に弾む。彼の顔はいたって真剣なものなので、体の動きとのギャップにおかしく感じてしまう咲夜。思わずクスリと笑ってしまうが彼の耳には届いていない。
暫くして、彼女がやっていたことと同じように熱せられた卵の周りをはしでつつく。いい具合に焼けているようなので、コンロの火を止め、チキンライスが盛られている皿に近づく。ここからが本当の勝負どころだ。
傾けたフライパンの取っ手をノックし、卵をゆっくりとずらす。地滑りのように勢いよくいくところだったが、そこは自炊暦うん十年。見事な反射で事なきを得た。
再度慎重にトントンと揺らす。卵がふるふると震えながら徐々に皿に近づいたところで彼はフライパンをひっくり返した。
「はっ!」
掛け声と共にひっくり返されたフライパン。ゆっくりと持ち上げると、きれいにチキンライスの上にかぶさっていた。まるで寒さを和らげるようにつくられた、かまくらのような卵の屋根。それはどこにも焦げ目がなく鮮やかな黄色の絨毯が広がっていた。
「……上手くいったか。どうだい咲夜。……咲夜?」
咲夜の感想をもらおうと後ろを振り向くと彼女はおなかを抱えながら体を震わせていた。何があったのかわからない彼は彼女の方に近づき耳をそばだてる。
「くすくす……『はっ』て……『はっ』て言った! この人『はっ』て言ったわ……くすくす……」
「…………」
どうやら彼女は彼がフライパンをひっくり返したときの言葉がツボにはまったらしい。大声でも笑うでもなく、かといって止めることもなく体を震わす彼女に彼は頭を掻いた。顔も赤い。
大きなキッチンで彼女のくぐもった笑い声だけが空間に広がっていく。
「あ~…ごめんなさいね。ちょっと笑わせてもらったわ」
「笑うなら豪快に笑ってくれ。そっちの方がまだましだ」
やっとツボの影響から解放された咲夜と霖之助の二人は食堂に腰掛けている。出来上がったオムライスをテーブルの中央におき、対面同士で二人は座っていた。
「まぁまぁ、済んだことは仕方ないってことで。早速食べましょう」
「……分かったよ」
そう言って咲夜は余っていたトマトソースを二人のオムライスに掛けていく。因みにソースは鍋から別の皿に移しかえられていた。
「オムライスにはこのトマトソースかデミグラスソースをかけて食べるのが一般的なんだけど今回はこれってことで」
「だから余ってもよかったのか」
彼女の手によってオムライスに赤い天の川が掛けられる。鮮やかな赤色はこの屋敷を表しているみたいであった。
「それじゃあ、食べましょうか。いただきます」
「いただきます」
霖之助はスプーンでオムライスを掬う。弾力のある卵と程よくほどけるチキンライス。スプーン越しでも伝わるこの感じ。口に入れたらもっと気持ちがいいのだろう。そんな感想を抱きながら口に運んだ。
「うん、上手いな」
「それは良かったわね」
霖之助が美味しそうに食べるのを見届けてから彼女もそれを口に運んだ。
「美味しいわね」
「ああ、初めて食べるからね。自分でつくったのはだけど」
「以前食べたことあるの?」
「アリスの家でご馳走になったことがある。あの娘も料理上手だからね。僕のつくったのより美味しかったと思うよ」
「……へぇ」
そう言って咲夜は少し考え込む。まだ一口二口しか手をつけられないオムライス。徐々に熱が逃げていく。
「どうしたんだい? 冷めたら美味しくなくなると思うけど」
「ちょっと考え事を……アリスは結構貴方を招待するのかしら?」
「うん? そうだね、週一回あるかないかぐらいかな」
そう答えて彼はオムライスを食べ始める。
咲夜もやっと手を付け出したが、再び手が止まる。そして、彼女はスプーンにのったオムライスを持ちながら彼に話しかけた。
「ねぇ、私のとアリスのどっちが美味しいか比べてくれないかしら?」
「は? 何でまた…」
「単なる興味よ。ほらどうぞ」
そう言って咲夜はスプーンを霖之助の口に近づける。
別に断る必要もないかと思いながら彼は口を開いた。
「どう?」
「美味しいな。ただどっちの方が美味しいかとはいえないね。アリスのものはだいぶ前にご馳走になったものだからちょっと忘れてしまったな」
「……貴方、自分の作ったものとはさっき比べていたと思うけど」
「それはそれ、これはこれさ。何なら逆に君も僕の作ったものを食べてみるかい? 君のものと比べたら普通過ぎると思うけど」
「へ?」
霖之助はスプーンでオムライスを掬い、咲夜の口に近づける。え、え、と言いながら彼女の目は泳いだまま視点が定まらない。単純に恥ずかしいからだ。
「ほら、あ~ん、だ」
「う、うぁ……」
尚もスプーンを差し出したままでいる霖之助。
顔をほんのりと赤く染めながら、ついに彼女は観念したように口を開く。
ゆっくりとスプーンが入れられ口の中に彼の作ったオムライスの味が広がった。
「美味しい、わよ」
「そりゃよかった」
少し口元を緩ませながら霖之助はオムライスに手をつけていく。手を緩めることなく口に放り込んでいく。
咲夜にはまるで今までの話題から逃げたかの様に見える。
「ずるい」
彼の耳に入らないようにぼそりと呟いた。
「今日は勉強になったよ」
「……どういたしまして。こっちは顔が熱くてかなわなかったわ」
「ははは、確かに厨房にあったコンロの火は強かったからね」
玄関ホールにやってきた二人はお互いの今日の感想を喋る。朝からしていたこともあり、今の時間はまだお昼ごろなのだが、薄暗いこの屋敷はもっと時間が進んでいたかのように感じた。
咲夜は思わず嘆息する。彼の行動に少し振り回されたように感じたからだ。そもそもアリスの話が出た時点で何故自分は彼に自分のものを食べさせたのか。自分で思ったことなのに思い出せないでいる彼女。
しかも、今ここで話している言葉も彼は見当違いなことを言っている。私が熱かったと言ったのはそういう意味ではないのに。
「勘違い男。ここに誕生か」
「何か言ったかい?」
「別に。魔理沙やアリスやその他諸々が大変ねと言ったのよ」
「そんな風に聞こえはしなかったが」
ま、いいかといいながら彼は玄関の扉を開けた。まぶしい光が入ってくる。吸血鬼の嫌いな太陽の光だ。
朝に比べて気温が温かみを帯びているがまだまだ上着は欠かせない。
「お世話になった。そのうちまた家に来てほしい」
「必要になったら行かせてもらうわ。あ、そうそう。貴方に渡したいものがあったのよ」
咲夜は手に持っていた袋包みを霖之助に手渡した。
その場で開けてみると赤い液体が入ったボトルであった。
「これは?」
「ケチャップと言ってね、まぁ、トマトソースを煮詰めたみたいなものよ。オムライスやサラダなんかにも付けて食べてみて」
「わざわざありがたい」
そう言って袋にしまうと彼女は続けて言葉を紡いだ。
「実はそのボトル、口のところがチューブの形になっていてね、それで遊べることが出来るわ。是非、楽しんでみてちょうだい」
どうやら咲夜は玄関までの見送りのようで手を振ってお別れをする。霖之助もそれに習って扉を閉じた。
「今日はお楽しみでしたね」
突然声をかけられたので彼は後ろを振り向く。すると美鈴がにこにことしながら立っていた。
「君も楽しんでいたようだね」
「うん?」
「痕、頬のあたりについているよ」
「おや」
美鈴は指摘されたところを触ってみる。自分では分からないようでいたが、彼の目にはくっきりと見えた。
「大方、肘でもついて寝ていたんじゃないかね」
「全く持ってその通りです。いやいや、消えているだろうと思っていましたがまだ残っているとは」
「舟こぎは楽しかったかい?」
「もちろんですよ」
二人はお喋りをしながら門までの道をゆっくりと歩く。
他愛もない喋りが心地よかった。
「さて、では手につかまってくださいね。早く家に帰って私もお昼にしたいんでね」
「適当に頼むよ」
「適当って『適当』って意味ですよね」
霖之助の言葉は美鈴に聞き届けられなかった。
数日後
咲夜にオムライスを教えてもらって以来、霖之助はそれを作ることがマイブームになっていた。どうすれば美味しくなるか、どうすればふんわりした卵になるか。それの試行錯誤をする日々が何日も続いた。
今ではお店をほったらかしにするほどの夢中ぶりであった。
「うん、やっぱり食生活が豊かになると心も躍るものだ」
身の入った生活を彼は満喫していた。
そんなある日であった。
3月の半ば、具体的には14日。彼はかねてから考えていた計画に移すことにした。
日頃から世話になったり、また『先月のお返し』と言う意味も込めて今日は二人のゲストに手料理をご馳走することである。
午前中から仕込みに入り昼食に間に合うように三人分のオムライスの用意に掛かる霖之助。前回の紅魔館とは違い、手狭なので三人分をつくるのになかなか困難を極めていた。
チキンライスを作り終えたところで店の玄関が開く音が聞こえた。
「おーっす、香霖。お呼ばれに来てやったぞ」
「こんにちは霖之助さん」
同じ魔法の森に住む住人の魔理沙とアリスの来店であった。
二人は何度もここに入り浸っているので勝手知ったるや、のれんで隔てられた彼のプライベートスペースに入ってくる。
「お邪魔するぜ」
「ああ、二人ともよく来てくれた。悪いが今手放せなくてね、そこで待っていてくれ」
「霖之助さん、何か手伝いましょうか?」
「いや、大丈夫だ。今日は君たちは僕の大切なゲストなんだ。手伝わせるわけにはいかないよ。もう少しだから待っていてほしい」
そう言って霖之助の言葉が台所に引っ込んでしまったので、二人はちゃぶ台のある居間で待つことにした。
「大切なゲストだって。なんか照れるぜ」
「そうね…そういわれると嬉しいわよね」
二人は頬をほんのりと赤く染めながら嬉しそうに話す。
次に二人はちゃぶ台の上に置かれている食器用具に目が奪われた。
「スプーンにテーブルクロス、ナプキンがあるわね」
「中央には花の入った花瓶と。純和風の空間にはいささかギャップを感じるぜ」
二人は何度かここで食事を取ったこともあるのだが、今日のセッティングは今までにないパターンであった。こんな用意も出来るのだなと感心しながらも魔理沙の言うとおり、ギャップがあるので苦笑するのであった。
「おまたせ。ほら、これが君たちへのお返しだ」
「おお? これはオムライスか?」
「へぇ、霖之助さん作れたんだね」
順番に置かれていくオムライスを食い入るように見つめる四つの瞳。
「アリスは食べなれているかもしれないけど、これで満足してもらえたら幸いなんだが」
「そんな。私、霖之助さんが作ってもらえただけでも嬉しいですよ」
「私もだぜ。それで香霖、もう食べてもいいのか?」
はにかみながら笑みを浮かべるアリス、楽しそうに待つ魔理沙。これを見れただけで咲夜に教えてもらった甲斐があったものだと彼は心の中で感謝した。
「あ、ちょっと待てくれ、魔理沙。実はケチャップをかけないといけないんだ」
オムライスが載っていたお盆には彼が言ったケチャップがまだ乗っていた。
それを取った彼は二人に質問を投げかけた。
「さて、二人には聞きたいことがあるんだが。これでオムライスの上に何を書いてほしい?」
「え、書く? それって書けるものなの?」
アリスは珍しそうに霖之助が手に持っているケチャップをじっと見た。
意外にも彼女がこれを知らないことに驚きながらも彼は自分のオムライスに試し書きをして見せた。
「見ていてごらん。これは口のところがチュ-ブになっていて、トマトソースが出るようになっているんだ。例えば、こんな風にね」
オムライスの上に描かれたのは彼のトレードマーク、メガネの絵であった。
丸い円が二つに耳や鼻にかけるところまで表している。陳腐で安易な案とはいえ、見本には丁度良い。
黄色の世界に描かれた赤いメガネを感嘆の言葉を洩らしながら二人はくいついていた。
「とまあ、こういうわけだ。もちろん、絵だけでなく文字も書ける。これで楽しみながら食事にしようじゃないか」
咲夜の言っていた楽しさを彼は実践していたのであった。
「リクエストはあるかい?」
二人に尋ねる霖之助。しかし、反応が悪く黙ったまま俯いている魔理沙とアリス。どうしたのかと訝りながら待つこと数十秒。先に口を開いたのは魔理沙であった。
「あ、じゃあ……その……………りん、で…」
「え? ごめん、よく聞こえなかった。もう一度言ってくれるかい?」
魔理沙は俯きながら喋ったので彼の耳には最後の方しか届かなかった。耳を彼女の方にそばだてながらもう一度聞くと彼女のすぅっと息を吸い込む音が聞こえた。
「ま、『まりりん』でお願い……するぜ」
やっと聞こえた声は大きかったが、徐々に尻すぼみをした。そんな魔理沙の声。それでも彼の耳にはしっかりと届いたのだが、聞きなれない言葉だったので霖之助は彼女に再確認した。
「『まりりん』? ホントにそれで良いのかい?」
魔理沙はこくりと小さく頷く。
「できれば、ひらがなで……」
「? 分かった」
そう言って魔理沙の前に置かれているオムライスに『まりりん』と書いたのであった。
すると、魔理沙の隣に座っていたアリスが勢いよく挙手をする。こちらも魔理沙と同様になぜか顔が赤かった。
「は、はいっ! はいっ!」
「お、どうしたんだい、アリス?」
「わ、私は『アリりん』で、お願い……します」
こちらも訳の分からない言葉であった。二人の名前を書くなら分かるが何故最後に『りん』をつけるのか。
考えていても分からないことはどうしようもないと感じた霖之助はアリスの分もケチャップで文字を作っていく。
「ひらがなで良いのかい?」
「あ、『アリ』はカタカナで『りん』はひらがなで」
「了解した」
魔理沙と違って注文が細かかったものの見事に黄色の世界に文字が創られた。二人の顔には満足そうな笑顔が浮かんでいるが、同時にまるでどこか遠くを見ているようにも見えた。夢現の二人に霖之助は暫く放っておくかと思いながら、自分のオムライスをじっと見た。
「やっぱり、もう少し凝った方がよかったかな」
3月に起きた香霖堂での楽しい一幕であった。
おまけ
「はい、今日の夕食はオムライスですよ」
咲夜の手に運ばれてきた白い皿の上を陣取る大きなオムライス。黄色い卵の部分が太陽のように輝いているように見えた。
「ご馳走ね」
「オムライス♪ オムライス♪」
自分たちの前に置かれていくオムライスを喜々としながら待つのはレミリアとフランドール。よほど嬉しいのかフランドールに至ってはスプーンを持って歌い始める。
「ほら、フラン。行儀が悪いから静かにしなさい」
「は~い、お姉さま」
フランは姉の言葉に素直に頷き、スプーンを手元に置く。
「はい、妹様。今日はケチャップで何を書きましょうか?」
「えっとね……『フラン』って書いて」
「承知しました」
そう言って咲夜はケチャップを黄色のキャンパスに文字を描く。丁寧に書かれた自分の名前に彼女は大きく喜んだ。
「ありがとう、咲夜!」
「どういたしまして。さて、お嬢様は何を書きましょうか?」
「無論、『レミリア』に決まっているわ。星も忘れないように書きなさいよ」
「承知しました」
レミリアの要望にも咲夜は一文字一文字丁寧に仕上げていく。最後に星を付けて彼女は主の隣から一歩下がった。
「じゃあ、いただこうかしら」
「うん。いただきます」
二人はスプーンを手にとってオムライスを食べ始める。彼女が作ったものは他のメイドたちが作ったものよりも卵がまろやかに仕上がるので人気であった。
「美味しいよ、咲夜」
「ありがとうございます、妹様」
明るい笑顔で話しかけるフランドールに咲夜も笑顔で返す。
主のほうの反応も気になりそちらの方に目を移すと、
「ええ、見事だわ。流石咲夜といったところね」
「恐れ入ります」
こちらも満足そうに答えた。毎度毎度、彼女たちに作るのは自分とはいえ、こう言ってもらえると嬉しいものである。咲夜は満足そうに胸をなでおろした。
すると、レミリアからひょんな質問が彼女に向けられた。
「そういえば、咲夜も今日の夕食はオムライスだったのかしら?」
「ええ、そうですよ」
業務の都合上、主たちよりも先に咲夜は夕食をとっていたのだ。もちろん自分の手製である。
「貴女は何を書いたのかしら?」
ほんの一瞬、咲夜は主から目を逸らした。興味深そうにレミリアは彼女の顔をじっと見つめる。いつの間にかフランドールも参戦しており四つの瞳が彼女に向けられた。
「秘密です」
「却下」
「…………」
「ねぇ~、なんて書いたの?」
レミリアに却下され、フランドールも食いつき咲夜はどう答えようか迷っていた。何故二人にいえないのか。それは、単純に恥ずかしいからだ。
(言えるはずがないわ。『さくりん』だなんて……)
頬を赤く染め、どうやって言い訳しようか戸惑う咲夜がそこにいた。
End
せっかくだから 料理 タグも欲しいかも
ちなみに卵に牛乳を入れるとふわふわ感が増しますよー。
ここの分量だと大さじ1くらいでしょうか。
ということでちょっとオムライス作ってくる。
モテモテやないかい!
口から激甘ケチャップが出るところだった
ここ反則。
素晴らしかった!
あとナイフを受け止めるめーりんにちょっとびっくりした
~りんとか砂糖吐きそうですw
もげろ
機会があったら実践してみようか
だがこれは良い作品だな。
本当に良い作品です