私に発情期などない。犬とは違うからだ。
冬の終わりと春の始まりの微妙な合間。
厳しかった寒さが緩み、生暖かい風が吹きはじめるそのとき。
そのほんのわずかの数日間だけ、いつもより少しだけ人肌恋しくなったりするだけだ。
私の理性がそれに屈したりだとか、色情が暴走したりだとかは一度も無い。
狼のプライドにかけて、そんな安っぽいあやまちは決してしない。
「あやややや、やっぱり家で寝込んでましたか」
「……ちっ」
安直な売名行為のような口癖が私の癇に障る。
大嫌いなカラスが私の神聖な寝室に入り込んだようだ。
「ちょっと犬ぅ、風邪で休んでるって聞いたからわざわざ目上の者が見舞いに来てあげたんですよ?」
「……」
私の五感は千里眼を誇る視覚だけでなく聴覚その他もとても優れているが、
常日頃から憎く思っていた声が今日は一段とキンキンと耳に響くような気がする。
本当に耳障りだ。
「舌打ちはないんじゃないですか?まったくしつけがなってませんね、この犬コロは」
「……うざっ。なんで勝手に家にあがってんですか、この不躾なカラスが」
普段は抑えてるイライラが止まらない。
やはり感情が高ぶっているのだろうか。
「なんかぁ、下っ端の犬コロがぁ、カ・ゼ・で・休んでるって聞いたから見舞いに来てあげました、犬」
「犬じゃないですっ、狼ですっ、何度言っても覚えられないあたりやっぱり鳥頭なんですねバカガラス」
犬コロ呼ばわりされた怒りと屈辱で頭がグラグラして、息も荒くなる。
同時に不快感があたりにまとわりついていることに気づく。
「……なんかにおいます、鳥くさいですっ、不快です、風呂も入ってないんですかドブガラス」
「犬コロの風邪の話聞いてから風呂も入らず飛んできたんだからその優しさに泣いて感謝しなさい」
私の神聖な寝室が、大嫌いなカラスのにおいにけがされていく。
イライラが限界に達し、布団から飛び出て怒りのままに刀をつかんで切りかかる。
「おっと、危ない危ない」
「ちっ……はぁ、はぁ、はぁ……」
振り下ろした刀はすばやい動きで避けられて、刀身が壁に突き刺さる。
身体が思うように動かない。憎い。本当に憎憎しいカラスだ。
「今すぐ帰ってください、というか死んでください、憎くてたまらない、切り刻みたい」
「ふん、すぐ興奮しちゃって。やっぱり風邪じゃあないんじゃないの?」
嫌味タップリに憎いカラスが鳴きわめく。切り伏せてやりたいが、しかし身体が重い。
息が激しくなる。いやだ、こいつのにおいのする空気なんて吸い込みたくないのに。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
「そんなに息切らしちゃって。ブザマですねぇ、下っ端といえど、とても他の天狗には見せられない」
言うことを聞かない体にムチを打って無理やり刀を振りかざす。
しかし私が必死で放つ斬撃もこいつには軽々と避けられてしまう。
「……発情期なんかじゃないですっ、全然違いますっ。ちょっと熱っぽいだけですっ」
「あれ?あれあれ、別に誰も発情期の話なんてしてませんよぉ?」
憎憎しい顔と言葉に頭がぷちんと切れた。自分でもわからない声を叫びながら刀をブンブン振り回す。
だけど次第に身体の力が抜けていって、しばらく立ちすくんだあと、ひざが折れてしまった。
「くっ……はぁ、はぁ、はぁ」
「あやや、もうおしまいですか。だらしない犬」
だれが、と言いかけるも力が入らず、手に握っていた刀もぽろりと床に落としてしまう。
肺が汚れる。大嫌いなこいつのにおい。ただでさえ鋭い嗅覚が、熱で過敏になっている。
「からかいに……来たなら……もう満足でしょう……帰れ……バカガラス」
ぐったりと床にすわりこむ。身体に力が入らなくても、せめて眼光だけでも威嚇してやる。
ありったけの敵意を込めて目の前のこいつを睨み付ける。
しかしこいつはにやにやといやらしい笑みを顔に浮かべるだけだ。
床に座り込んだまま動けない私に、こいつは笑みを浮かべたままあろうことか近づいてきた。
「なっ! 来るなっ、近づくなっ! これ以上近寄ったら本気で斬るっ!」
「さっきまでも本気だったでしょ?それにもう刀を握る力もないくせに。もう、無理」
くすくす、とこいつがやさしく笑う。
しかし不思議なことに私にはそれが――――
――――みとれてしまうほど、ひどく魅力的に見えて……
「わふぅ……こ、こないでくださいっ、ひぅっ……」
こいつのにおいが私の脳と思考を甘く溶かしてゆく。
なんだかあたまがほわほわする。
細くて白い指が、すっと私の腰あたりを指さした。
理解できない頭でそのきれいな指を眺めていると、笑うように言葉がかけられた。
「――――尻尾……そんなに元気よく振っちゃって。何を期待してるんだか」
「~っ!?」
違う。ちがう。これは違う、絶対違う……
「ち、ちがっ、これは尻尾が勝手にっ……私の意志じゃなくてっ……」
「そっか、身体は正直なんだ……ちょっと嬉しいな」
キツく睨み付けてやるつもりが、ちっとも目に力が入らない。
そのうえ視界がにじみだす。私は悔しくて、悔しくて涙がでてきたのだ。
「か、かえってよ……なにしに私の家まできたっ……」
「自分の本能を憎みながらも発情期になってしまったかわいそうな犬をからかいにきたのよ」
五本のきれいな指が、私の頭にむかって伸びてきた。
思わず身を震わせてすくみあがってしまう。
「ひっ、わふぅ……」
顔を合わせば喧嘩ばかりしているこいつのにおい。
そのにおいに包まれて、私は今あたまをやさしく撫でられている。
「ふふ、どうして泣いているんですか?」
気づくと私のふたつの目からポタポタと大粒の涙がこぼれていた。
無論悔しいからだ。
「……大ッ嫌いです、あんたなんて」
「嬉しい、同じこと考えてた」
こんな関係で続けてほしい!
二人の関係が理想的