――不思議な夢を視た。
そこは、満開の桜に囲まれたお屋敷。
どの桜も綺麗に咲き誇っていて、とても素敵だった。
しかし、その中で一つだけ花が咲いていない大樹があった。
お屋敷の庭ある、枯れた大樹。
その大樹の下に、一人の少女がいた。
桜吹雪の中で、酷く曖昧な影を残して、彼女は一人佇んでいる。
声をかけようと思ったのだけど、私の体は動かなくて……
ただ呆然と、私はその少女を見つめていた……。
――☆――
暖かい春の風が、優しく頬を撫でる。それに私は、開いていた文庫本から視線を上げた。
休日の駅前は、大勢の行き交う人で溢れ返っている。耳を澄ませば、彼らの忙しない足音や発する言葉が渦のように混ざり合い、螺旋して、不安定なリズムを刻んでいた。
この音を心地良いと思える人は、おそらく多くないだろう。現に先程まで読書を嗜んでいた私にとっては、騒がしい街の雑踏よりも控えめなジャズの方がいい。
だったら他の場所で読めばいいのではないかという疑問はもっともだが、残念ながら今の私にはこの場を離れられない理由がある。
それは、毎度の事ながら時間にルーズな相棒だ。
本人は誰よりも時間を計ることに長けている癖に、今まで待ち合わせに時間通りにやって来たことは一度もない。もはや、わざと遅刻しているのではないだろうかと疑ってしまうほどだ。
「はぁ……」
ため息を付いて、私は開いていた文庫本へと視線を戻す。すると読んでいた頁の上に、大きな影がすぅっと落ちた。
「やっ、メリー。待たせちゃったかな?」
続いて聞こえた声に、私は顔を上げる。そこには、一人の少女がいた。
白いブラウスに、黒のスカート。トレードマークである黒い鍔付きの帽子の下から覗く瞳は、真っ直ぐにこちらを見つめていた。
「そうね、今日は二分三十秒の遅刻よ」
私は呆れた顔で、自分の腕に巻いてある時計を見ながら口を開く。
このやり取りは、私達のお約束だった。いつも遅刻する彼女への皮肉のつもりなのだが、当の本人は全く懲りていない。
しかし私は、言葉とは裏腹に、それでいいと思ってしまっている。
なぜならば、もしこのやり取りが変わってしまえば、私達の関係も変わってしまいそうで怖いから。
だから私は、いつも素直になれない。素直に彼女へ好意を向けられればきっと楽なのだろうが、それによって今の関係が崩れてしまうのが怖いのだ。
「うん、平均的な時間のズレね」
そんな私の気持ちなど全く知らない彼女は、納得するように頷く。その図々しさこそが、私の相棒――宇佐美 蓮子のなせる業だ。
「まったく……相変わらずね、蓮子は」
ため息と共に、私は開いてた本を閉じる。すると蓮子は、ニヤリと笑みを浮かべた。
「あらメリー、待たされるのは嫌いだっけ?」
「この世の中に、待たされるのが好きな人間なんているのかしら?」
「それは一般論よ。でもメリー、貴女はしっかりと待たされるのを楽しんでるわ。それは、貴女の右手に握られている物が証明してる」
言われて、自分の右手を見てみる。そこには、先程まで読んでいた文庫本があった。
「私から待たされるのを予想して、こうして暇潰し用の本を用意しているあたり、まんざらでもないんじゃない?」
なんてことを、蓮子は笑みを浮かべながら口にする。
それに私は、呆れた顔で答えた。
「全くもって、勝手な予想ね。光陰矢の如し。時間は限られているのだから、暇は少ない方が人生の為だと思わない?」
「あら、『人生とは死ぬまでの暇潰しだ』って、どこかの絵描きも言ってたじゃない?」
「残念だけど、私は漫画家でもイラストレーターでもないの」
そう答えて、私は手にしていた文庫本をポケットの中へ戻す。ハードカバーと違って、文庫本はサイズが小さいので気楽に持ち運べるから便利だ。
「それで? わざわざ呼び出したからには、何か用があるんでしょ?」
私の言葉に、蓮子は思い出したかのようにポンっと手を叩く。
「そうそう、今日は素敵な廃墟にメリーをご招待しようと思ってるのよ」
「また廃墟?」
蓮子の言葉に、私は眉を顰める。この相棒は、廃墟やオカルトなスポットを巡るのが大好きなのだ。もっと若者らしい趣味を持てないのかと、常々思う。このままでは、将来嫁の貰い手もなくなってしまうのではなかろうか。
「いいじゃない、廃墟巡り。あの何とも言えない、ノスタルジックな雰囲気が堪らないのよね~」
そんな私の心配を他所に、蓮子はうっとりとした顔で今から向かう廃墟へ思いを馳せていた。
「ノスタルジック、ねぇ……」
個人的には、そういった場所に興味を引かれることはあまりない。それどころか、出来れば遠慮したいとさえ思う。
その理由に、私の瞳がある。
私の瞳は、普通ではない。物心ついた頃から、世界の綻びを見てしまうのだ。
綻びは私の瞳に映る風景の中に、時折歪みのように現れる。そこから覗くものは、こことは違う世界。現と幻、此岸と彼岸、あの世とこの世……それらを結ぶ境界のような
ものを、私の瞳は視てしまう。
そしてそういった境界の多くは、世間から忘れ去られてしまった場所――例えば、廃墟などに多く存在しているのだ。
もし何かの間違いで境界の向こう側に渡ってしまえば、戻ってこられる保障など無い。下手をすれば、神隠しに遭ってしまうのだ。
そんな危険な場所に、誰が望んで行きたがるというのだろうか?
「どうしたのよ、テンション低いわねメリー? 上手くいけば境界が見つかるのよ? もっと気合を入れなきゃ駄目じゃない!」
否、ここにいた。
私は蓮子の言葉に、深くため息を付く。この娘は私の力を知った上で、廃墟に行こうと提案しているのだ。
先程言ったとおり、相棒はオカルトが大好きなのだ。私の妙な瞳を知って、世界の境界を探す事を目的としたオカルトサークル――《秘封倶楽部》を作ってしまう程に。
そんな彼女が、あちらの世界に興味を示さない訳がない。私の心配を他所に、彼女はいつもこうして境界の存在しそうな場所に私を誘うのだ。
「ねぇ蓮子……何度も訊いてるけど、境界を見つけてどうするの?」
「そんなの決まってるじゃない! あっちの世界へ渡るのよ! そこにはきっと、私の知らない不思議がわんさか存在しているはずだわ!」
爛々と瞳を輝かせる蓮子を見て、私はもう呆れるしかない。この娘は、自分が神隠しに会うことを望んでいるのだ。
「危険だとかは思ったりしない訳?」
「考えてるだけじゃ、何も解決なんてしないわ。行動を起こして、ようやく物語りは先に進むものよ。それに……」
言葉を止めて、蓮子は空を仰ぐ。雲一つ無い青空を見上げて、彼女は目を細めた。
「私の瞳なら、帰ってこられる……何となく、そんな感じがするのよ」
そう語る蓮子の瞳を、私は見つめる。黒く染まった、いたって普通の瞳。しかし彼女のその瞳も、私と同じく特殊なものだった。
彼女の瞳の力は、月を見ただけで今の時間を、星を見ただけで現在地を把握できるのだ。
まるでGPSのような力だが、確かにそれを使えば戻ってこられるのかもしれない。
「だからって、私を巻き込まないでほしいわ」
ため息交じりに言うと、蓮子は空から視線を戻した。
「あはは、ごめんごめん。でもねメリー、これは貴女の為でもあるのよ?」
気楽に笑って、蓮子は言葉を続ける。
「もしひょんな事がきっかけであちらの世界に迷い込んだとしても、既に一度生還していれば、それ以降は楽に戻ってこれるはずだわ。その為にも、私と一緒に境界を見つけて欲しいの。二人一緒なら、私の力で必ず現実へ連れ戻してあげる」
自信満々に蓮子は語る。その笑顔に、私は恐る恐る問いを投げかけた。
「でも……もし、貴女の瞳を使っても帰れなかったらどうするの?」
それに蓮子は、さらに頬を吊り上げる。そして満面の笑みを浮かべながら、こちらの手をぎゅっと握った。
「その時は、仲良く二人で永住しましょ」
返事の代わりに、私はポケットに仕舞った文庫本を取り出して、蓮子の頭をバシっと叩いた。
――☆――
「ずいぶんと殺風景な場所ね……」
電車を乗り継ぎ、さらにバスに揺られてたどり着いた場所は、寂れた田舎町だった。辺りを見渡せば、瞳に映るのは畑、畑、畑……畑しかない。
「田舎には田舎の良さがあるもんよ? 高層ビルだらけの都会よりも、空気が澄んでて美味しいじゃない」
そう言うと、蓮子は隣で大きく深呼吸する。
「それは否定しないけど……でも、こんな状況だと廃墟っていうより廃村だわ」
「メリー、それはさすがに住んでる人に失礼よ」
そうは言うが、相方も否定は出来ないらしい。
「それで、問題の廃墟っていうのはどこにあるの?」
「ああ、それなら……」
蓮子は親指を立てて、くいっと背後を指す。
「ここよ」
言われて振り返る。そこには小高い山があって、その頂上へ向かうように長い石段が並んでいた。
「もしかして……上るの?」
げんなりする私に、蓮子は「当然」っと、楽しそうに答える。
「この山の上に、目的の廃墟があるわ。さ、頑張って上りましょ」
そう言って、蓮子は意気揚々と長い石段を登りだす。それに私は、深いため息をついて続いた。
――☆――
「これから行く廃墟は、別名《桜屋敷》と呼ばれているわ」
石段をリズミカルに登りつつ、蓮子は口を開く。
「元々は有名な武家のお屋敷だったらしいんだけど、その当主が自殺して以来、立て続けに家の者も後を追った。その後も屋敷を引き取る者が現われたが、残念ながら誰も長居はせず、結局廃墟として現在もこの山の上に存在しているらしいわ……ところでメリー?」
ステップを踏むかのように、蓮子は軽い足取りのまま石段の途中でくるりと反転してこちらへ振り向くと、満面の笑みを見せた。
「生きてる?」
「し……死にそう」
投げかけられた言葉に、私は肩で息をしながらも懸命に答える。この長い石段を共に歩いているというのに、なぜ蓮子はこうも元気なのだろうか?
「もう、体力無さ過ぎよ。普段から体を動かさないから、いざって時にこうなるんだからね」
そうは言うが、趣味でスポーツでもやっていない限り、体を動かす機会など中々ない。
そもそも、長距離を歩くことからして普段しないことだ。どこかに出掛けるにしても五分待てば電車が来るし、バスだってあちこち走っている。そんな状況で、体力を付けろという方が無理な話だ。
「もう駄目……ねぇ蓮子、ちょっと休憩しない?」
降参だと言わんばかりに、私は両手を上げる。石段を登り続けた足が、ズキズキと悲鳴を上げていた。
「しょうがないわねー」
呆れた顔でため息をつく蓮子の隣で、私は石段に腰掛ける。明日は、間違いなく筋肉痛に悩まされそうだ。
「ところで、どうして《桜屋敷》って名前なの?」
休憩がてら、先程の話の続きをする。話の内容は理解したが、名前の由来が分からない。亡くなった家主の名前が、桜だったのだろうか?
「ああ、メリーは気付いてなかったのね。まぁ、しょうがないか」
そう言うと、蓮子は石段の両端に並んで生えている木々の一つに手を当てる。
「これ、枯れてるけど全部桜の木なの。きっと当時は、春になったら綺麗な桜の花が見れたんでしょうね」
「これ全部? ……相当な数ね」
一定の間隔で石段を挟むようにずらっと並ぶ桜の木々を眺めて、私は感嘆の声を上げた。
なるほど、それなら名前の由来となるのも理解できる。
しかし残念ながら、その桜の木々は全て枯れてしまっている。丁度今が桜のシーズン真っ只中なのにも関わらず枯れているということは、この桜達は全て死んでしまっているということだろう。
もったいないな、と思った所で……
「あれ……?」
不意に、何かが頭の中で引っかかる。
桜が並ぶ、長い石段……。
それを私は、どこかで見たような記憶がある。
「どうしたの、メリー?」
「いや、ちょっと……」
こんなに立派な桜並木なんて、そうそうあるものではない。どこで見たのか、懸命に思い出そうと瞳を閉じて頭を抱える。
すると……
「思い出した……夢だ」
一瞬、瞼の裏で一つの景色がフラッシュバックした。
満開に咲き誇る桜並木。それに挟まれるように続く、長い石段……。
それは、先日夢の中で見た光景だった。
「夢って……ここ最近視るっていう、不思議な夢?」
蓮子の言葉に、私は頷く。
「そう、不思議な土地を歩く夢。その中で、ここによく似た場所があったの」
最近、私はよく不思議な夢を視る。自分で見たことのないような土地を、さ迷い歩く夢だ。
夢の中で私は、薄暗い竹林を歩き、向日葵が咲き誇る畑を通り、そして……
「桜の咲き誇る、古いお屋敷に辿り着いた……」
そこに向かう途中にある長い石段が、こことよく似ていた。
しかし……
「でも夢の中じゃ、桜は満開だったのよね?」
蓮子の言葉に、私は頷く。夢の中で見た景色とこの場所は確かによく似ているが、決定的に違う部分がある。
それは、満開に咲き誇る桜。
夢の中で、ここの桜は見事に咲き誇っていた。しかし現実では、一本も咲いてなどいない。全ての桜は、死んでしまっているのだ。
「不思議な話ね……これも一種の、デジャヴってやつかしら」
顎に手を当てて考える蓮子の横で、私は枯れてしまった桜並木を見上げる。春の暖かい風に吹かれて揺れる痩せた枝は、どこか物悲しい雰囲気を醸し出していた。
「桜屋敷、か……」
呟いて、今度は長い石段の先へと視線を向ける。
目的地である頂上までは、あと少しの所まで来ているようだ。
「……蓮子、そろそろ行きましょ」
私は腰を下ろしていた石段から立ち上がり、足早に石段を上り出す。
「ん? もう大丈夫なのメリー?」
慌てて私の後を追うように、蓮子も石段を上り始める。しかし私は、彼女の言葉よりも気になることがあった。
それは、この長い石段を上った先にあるモノ。
夢の中では、確か……
「一本の、枯れた大樹……」
小さく呟いて、私は石段を踏む足に力を込めた。
――☆――
長い石段を上ると、視界が開けた。山の上に空いた、広々とした土地。
足元に敷かれた石畳はひび割れており、その隙間からは雑草がぴょこんと生えている。その石畳の先には、朽ちた大きなお屋敷がひっそりと佇んでいた。
しかし、そんなお屋敷よりも圧倒的な存在感を放つものがある。それは……
「やっぱり、あった……」
その屋敷の庭にある、一本の枯れた大樹。それが、まるでこちらを威圧するかのように存在していた。
「これまた、立派な大樹ね~。これも桜なのかしら?」
隣に立つ蓮子から、感嘆の声が上がる。
確かに、ここまで立派な大樹には早々お目にかかれないだろう。しかし私の心は、そんなことよりも戸惑いが支配していた。
今まで、確かに夢で見た光景とこの桜屋敷は似ていたが、決定的に違う所が一つだけあった。
それは、桜の花。
夢の中で桜は満開に花を咲かせていても、現実では全て枯れ果ててしまっていた。
しかしこの大樹は、夢の世界でも枯れていたのだ。
初めて、夢と全く同じ光景が目の前に現れた。それが私には、酷く不気味に思えてしまう。
「…………」
枯れた大樹を、私はただじっと見つめる。
何か、嫌な予感がする。まるでモヤモヤとした闇が、胸の中を支配しているようだった。
「どうしたの、メリー?」
私の異常を察知したのか、心配そうに蓮子はこちらを窺う。
「たぶん……大丈夫」
答えるが、嫌な感じは未だに拭えない。心なしか、息苦しさも感じる。
私は短く息を吐いて、服の袖で額を拭う。気付かぬうちに、私の額は大粒の汗を溜めていた。
その時、
「はいっ」
蓮子は突然、自分の右手をこちらに差し出す。それに私は、訳も分からず瞳を丸くした。
「……何、この手?」
尋ねると、相棒はニコっと笑って
「繋いであげる」
と、答えた。
「……どうして?」
まったくもって、意味不明だ。なぜこの状況で、私は蓮子と手を繋がなければならないのだろうか?
首を傾げる私に、彼女は笑顔のまま答える。
「ほら、はぐれちゃマズイでしょ? だからね、はいっ」
コイツは、私のことを子供か何かだと思っているのだろうか? それにお祭りや遊園地じゃあるまいし、はぐれるも何も無いだろうに。
「大丈夫よ」
私は差し出された手を払うように、一人で歩みを進める。それに蓮子は、慌てて後を追うように駆け出した。
「もう、遠慮しなくたっていいのに」
「別に遠慮してる訳じゃないわ。だいたい、こんな所でどうやってはぐれるって言うのよ?」
「いやー、メリーが表情を固まらしてたからね。もしかして、怖いのかなーって」
「ご愁傷様、私はこれくらいで怖気づく程ヤワじゃないの」
「そう? 私の予想では、メリーは結構怖がりだと思ったんだけどなー」
「勝手な想像で、人に変なキャラを付けないで。それに怖がりなのは蓮子、貴方の方じゃないの?」
「…………」
適当に返した所で、突然蓮子の歩みが止まる。
どうしたのかと思って振り返ってみると、
「うん……そうだね」
彼女は、寂しそうに笑っていた。
まるで今にも泣いてしまいそうな顔を、無理矢理笑顔に変えているみたいだ。
「その通り……私は怖がりだよ」
蓮子のこんな顔、初めて見た。彼女はいつもあっけらかんとしていて、こんな寂しそうな顔をすることなんて、一度もなかったのに……。
「蓮、子……?」
どうしたの? っと言葉を続けようとしたところで、不意に蓮子の表情が変わる。
「ぷっ…………あはははは!」
「ッ?!」
突然鈴を鳴らしたように笑い出した彼女に、私は思わずたじろぐ。
目を白黒させて固まっていると、彼女は腹を抱えながら口を開いた。
「あははっ……メリーったら、騙されすぎ。この宇佐美 蓮子様に、怖い物なんてある訳ないじゃない?」
こちらを指差して笑う蓮子。それに私は、ようやく理解した。ようするに、騙されていたのだ。
「れ~ん~こ~?」
ふつふつと、私の心に怒りの炎が点る。一瞬でもコイツを心配した自分が馬鹿のようだ。
「あれ? ちょ、メリー? ちょっとした冗談なんだから、そんなに怒らなくても……」
「問答無用!」
私は強く握り締めた拳を蓮子に向かって振り下ろす。しかしそれは直前で蓮子が身を翻した為に空を切った。
「待ちなさい! 人の気持ちも知らないで、よくも騙してくれたわね?!」
「きゃー、メリーがご乱心~!」
逃げるように蓮子は駆け出す。その後を、私は拳を振り回しながら追う。
しかし彼女は枯れた大樹の前まで逃げると、突然ピタっと立ち止まった。
「ようやく観念したようね……?」
追い付いた私は、肩で息をしながらも口を開く。すると蓮子は、こちらへくるりと振り返った。
「どう、メリー? 少しは嫌な気分が吹き飛んだ?」
そう言って、蓮子はこちらへ笑顔を見せる。それに私は、思わず固まってしまった。
枯れた大樹の前で笑う彼女は、とても幸せそうだった。
それを見ただけで、先程まで私の心を覆っていた嫌な気配は吹き飛んでしまう。
「心配しなくたって大丈夫。もしはぐれてしまっても、私がすぐに、メリーを見つけてみせる。私が、必ず幻想から連れ戻してあげるから」
その笑顔は、どこから生まれたのか分からない程に自信に満ち溢れていて……
根拠も無ければ、理屈も無いのだけれど……
それでも、不思議と私の心を楽にしてくれた。
「……ええ、頼りにしてるわ」
彼女の言葉に、私も笑顔で返す。
そこで私はふと、もったいないなと思った。
もしこの枯れた大樹に、花が咲いていたら……
そう、例えば――
――満開の桜の花が咲いていたら、彼女の笑顔は、もっと栄えたに違いないのに……。
「はいっ」
蓮子は、改めてこちらへ右手を差し出す。
それに私は、おずおずと自らの左手を差し出して――
――そこで、ひらりと……
目の前で、一枚の桜の花弁が舞った。
「ッ?!」
どくんっと、私の中で何かが脈打つ。
まさかと思いながら、身を硬くする。
そして次の瞬間、私は目を見開いた。
こちらへ手を差し出す、蓮子の背後……
彼女の背後にある枯れたはずの大樹が、ピンク色の花を咲かせていたのだ。
それは満開に咲き誇る、桜の大樹。
その花弁が、風に揺られてひらひらと舞う。
続いて、私の世界がぐにゃりと歪む。
それは、世界の綻び。
空間の歪み。
現と幻を繋ぐ境界。
それに気付いた時には、既に遅かった。
私の伸ばした左手は虚しく空を切り、世界は黒く闇に染まっていった……。
――☆――
――まるで、夢を視ているようだった……。
私の目の前には、満開に花を咲かせた桜の大樹があった。
まるで狂う程満開に咲き誇った、桜の大樹……。
しかし私は、どうしてもこの桜を綺麗だとは思えない。
それどころか、憎らしいとさえ思えてしまう。
なぜそんな風に感じるのかは分からない。
しかし、きっとそれは……
――その大樹の下で倒れている、一人の少女が関係しているのだろう。
「間に合わなかった……」
私の口が、言葉を紡ぐ。まるで誰かに操られているかのように、私の意志とは無関係に体が動く。
「掴むことが、出来なかった……」
ふらふらと、おぼつかない足取りで私は、桜の下で倒れている少女へと近づいていく。
そして、震える手で彼女の頬に触れた。
彼女の体は、酷く冷め切っている。
そこからは、生命の息吹を感じない。
彼女の温もりを、感じられなかった。
「貴女は、こんなにも苦しんでいたのに……」
私は少女の冷えた体を抱きかかえ、涙を流す。
――これは、懺悔だ。
「貴女は、こんなにも助けを求めていたのに……」
どうしようもない、悲しみに染まった懺悔。
「貴女は、こんなにも手を伸ばしていたのに……」
きっと、亡くなってしまった少女への懺悔。
「それなのに、私はッ!!」
強く、少女の亡骸を抱きしめる。
魂一つ分抜けたそれは、酷く軽く感じて……
「私は……貴女の手を、取ってあげることが出来なかった」
私は、ただ叫ぶことしか出来なかった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
響き渡る私の懺悔に、返す声などありはしない。
だってここには、死しか存在しないのだから。
愛する少女の亡骸を抱きしめ、許しを請う私を嘲笑うかのように……
桜の大樹は、ただ優雅に咲き誇っていた……。
――☆――
「メリー?」
聞き慣れた声が、私の意識を現へと引き戻す。
ここは、桜屋敷だ。目の前にある桜の大樹も、まるで先程までのことが幻であったかのように、再び枯れてしまっている。
その前には、こちらへ右手を差し出す蓮子の姿がった。
「どうしたの、メリー?」
不思議そうに首を傾げる彼女に、私は体を震わせた。
「あ……あ、」
震える手を伸ばし、恐る恐る連子の手を取る。
彼女の手は暖かく、あまりに確かで……
私は不意に、泣きたくなった。
「ん? 何かあった?」
相棒の声に、私の足は地を蹴る。そして、勢い良く彼女の体に抱き付いた。
「うおっとと」
突然のことに、彼女は驚きの声を上げた。
「もう、いきなりどうしたっていうのよ? 何か、怖い物でもいた?」
耳元で、愛する者の声が響く。
宇佐美 連子は、確かにここにいる。
私の大切な人は、確かにここにいる。
それが、どんなに嬉しいことか……。
「まったくもう……」
困ったような声を上げて、連子は私の頭を優しく撫でた。
「やっぱり、メリーは怖がり屋さんだね」
その言葉に、私は返す余裕もない。
ただ今は、この温もりを確かめたかった。
これが現であることを、確かめていたかった。
愛する者が生きている喜びを、かみ締めていたかった。
「ごめんなさい……ごめんなさい、幽々子」
私は、小さく呟くように言葉を発する。
それは、誰の名だろうか?
夢の世界から抜け出した私には、分からない。
しかしそれでも、私は構わないと思った。
これが現なら、そんなことはどうでもよかった。
愛する者を亡くした夢の世界には、戻りたくは無いと……
愛する者がいない夢の世界には、二度と戻りたくはないと……
蓮子の体を強く抱きしめながら、私はそんなことを思った。
――☆――
「夢を、視てたの」
帰りの電車に揺られながら、私は桜の下で視た夢の内容を連子へ話す。外はもう暗く、電車の窓からは丸い月が顔を覗かしている。
普通ならば仕事帰りのサラリーマンなどで混む時間帯だが、田舎のローカル線だからか、この車両には私達の他に乗客はいなかった。
「大切な友達が、満開の桜の下で命を絶つ夢。私は夢の中で、彼女の亡骸を抱きしめて、ずっと謝ってた。ごめんなさい、ごめんなさいって……ずっと、ずっと」
今思い出しても、涙が溢れそうになってくる。それ程に夢の中の私は、少女の死を悲しんでいたということだろうか?
「普段視る夢とは、かなり違う感じね……」
私の隣に腰掛けて、蓮子は呟く。彼女の右手は、私の左手を優しく握っている。
もう平気だと言ったのだが、桜屋敷を後にした今でも、手を離してくれない。
理由を尋ねると、「さすがに公衆の面前で、急に抱き付かれて泣かれては堪らない」との答えを頂いた。
それに私の顔は真っ赤に染まったのだが、結局反論できずに、私の左手は彼女の右手と繋がったままという訳だ。
「ねぇメリー、その亡くなったお友達に何か心当たりはなかった? 例えば、誰かに似てたとか」
問われて、私は夢で視た少女の顔を思い浮かべる。肩まで伸びた、ウェーブがかったピンク色の髪。まるで眠っているかのような、安らかな死に顔。
と、そこまで脳裏に浮かべたところで……
「あ……」
私の頬を、一筋の涙が伝う。
「あ~……ごめん、ストップ! メリー、もういいわ」
慌てて相棒は私に思考を止めるように言うが、私の意志とは無関係だと言わんばかりに涙は次々に溢れてゆき、ぽろぽろと瞳から零れ落ちた。
「うぅ……ごめんなさい、ちょっと今は無理みたい」
流れる涙を服の袖で拭いながら、私は口を開く。
どうやら私は、夢の中の少女が亡くなった事にかなりの悲しみを感じているらしい。
今まで全く接点の無かった人物相手に、なぜこんなにも胸が苦しむのか自分でも不思議だ。
「それにしても、何か悔しいわね」
苦笑しながら、蓮子は私の頬へと空いている左手を伸ばす。そして流れる涙を指で拭うと、再び口を開いた。
「メリーをこんなに悲しませちゃうような娘が、私以外にいるなんてね」
「なッ?!」
その言葉に、私の顔が熱を持つ。慌てて私は、顔を伏せた。
「な、何言ってるのよ蓮子?!」
「あら、違った?」
愉快そうに笑って、蓮子は言葉を続ける。
「それじゃあメリー、一つ質問するわ。もし夢の中で亡くなったお友達の姿が私とそっくりだったら、貴女は今みたいに悲しんでくれた? 涙を流してくれたかしら?」
「それは……その、」
その問いかけに対する答えを、私はすぐに口に出せなかった。
もしあの少女が蓮子だったら、私はどうなっていただろうか?
そんなこと、考えたくも無い。
しかし、
「あぅ……」
私の瞳は馬鹿正直に、再び大粒の涙を流し出した。
答えなど、すぐに分かっていたのだ。
悲しくない訳がない。
私にとって一番大切な友人が死んで、悲しまない訳がないのだ。
「ああ、ごめんごめん。ちょっといじめ過ぎちゃったみたいね」
涙を流す私を見て、蓮子は慌てて謝る。それに私は、真っ赤になった瞳で彼女を睨んだ。
「変なこと訊かないでよ……馬鹿蓮子」
「ごめんって。でもおかげで、メリーの気持ちはよぉく理解できたわ」
どこか嬉しそうに、蓮子は笑う。それに私は、顔を伏せるしかなかった。
全くもって、この相棒には困ったものだ。暇さえあれば、すぐにこうやってこちらを困らせる発言ばかりしてくる。
それにいつも振り回される、こちらの身にもなって欲しい。
「でもねメリー、安心して」
蓮子の言葉に、私は伏せていた顔を上げる。そこには、彼女の面々の笑みがあった。
「私は、死んだりなんかしない。私はいつも、メリーの隣にいる。メリーを置いて、どこか行っちゃったりなんかしないわ」
その笑顔は、どこから生まれてきたのか分からない自信が満ち溢れていて。
根拠も無ければ、理屈も無いのだけれど……
それでも、いつも私の心を安らかにしてくれる。
「……うん」
小さく頷いて、私は繋いだ右手をぎゅっと握る。それに蓮子は、同じくぎゅっと握り返してくれる。
繋がれた手の温もりが心地よくて、私は瞼を閉じた。
「眠いの、メリー?」
隣から聞こえた声に、小さく頷く。
沢山涙を流したからだろうか?
私の瞼は、ひどく重たかった。
「今日は色々あって疲れちゃったのね。駅に着いたら起こしてあげるから、安心して眠って」
優しい蓮子の声。それを受けて、私の意識は徐々に闇の中へと沈んでいく。
繋いだ手の温もりを感じながら、ゆっくりと……
「おやすみ……メリー」
私は、夢の世界へと落ちていった……。
――☆――
隣から、規則正しい寝息が聞こえる。視線を向ければ、そこには私に寄りかかって眠っているメリーの姿があった。
「……うん、大丈夫みたいね」
寝顔を見る限り、どうやらあちらへ行く夢は視ていないようだ。安らかな寝顔で、気持ち良さそうに寝ている。
「今日は、色々と大変だったもんね……」
呟いて、私は頭の中で先程メリーから聞いた話を整理する。
桜屋敷で視た、普段とは違う夢。
満開の大きな桜の下で、友人の死と対面する夢。
それに彼女は、深い悲しみを受け、涙を流した。
それが、どれほど危険なことかも知らずに……。
「最近の、あちら側の夢を視る頻度……そして、今回の夢」
メリーの中で、あちら側との境界が曖昧になり始めているのは、間違いない。
このままだと、いつかメリーの存在は……
「……ううん、大丈夫」
そうはさせない。境界の向こうにある世界がメリーを攫おうとするのならば、私は全 力でそれを阻止してみせる。
メリーをあちら側の世界へ連れていかせはしない。その前に私が、境界の秘密を暴いてみせる。
その為にも、境界を探らなければならない。危険だとは分かっていても、それしか方法がないのだ。
「……ッ?!」
不意に、恐怖が私の体を震わせた。
境界に近くのが危険だということは理解しているつもりだ。
それでも、私は引くことが出来ない。怖くても、立ち向かわなければならない。
でなければ、もっと大切なものを失ってしまうから。
「ねぇ、メリー……私、本当はすごく怖がりなんだよ?」
――最近、メリーの存在を確かめることが多くなった。
「本当は、いつも逃げ出したいくらいに怖いの」
気が付いたら、いつも彼女は私の隣に居てくれた。
「もう境界探しなんて辞めようかって、いつも思ってる」
けれども最近は、それが少しずつ変わってきている。
「でも……このままじゃ、いつか貴女は境界に飲まれてしまう」
だから私は、こうして彼女の手を握るのだ。
「それだけは、絶対に嫌」
そうでもしないと、メリーが何処かへ行ってしまいそうで怖くて……。
「だから、私は……」
私は、メリーと繋いだ手を見つめる。
そこには、確かに彼女の温もりがあって。
確かに、彼女はそこにいて。
それを感じながら、私は……
「私は、必ず貴女を守って見せる」
決して離れてしまわぬように、強くその手を握り締めた……。
――Fin――
ただ宇佐美→宇佐見
心理描写が分かりやすくていいなと
でも雰囲気は良かったです。
ついでに言うならば、夢の方も話を展開して欲しかったです。